【to竜造寺? or not to竜造寺?】佐賀藩初代藩主編1栞65
と親族会議の結果、鍋島直茂に政務を預ける事に決定した。
あとあと揉めそうな申し出を直茂は何度も固辞したので、親族代表が直茂を佐賀城に迎え入れた。
が、案の定「鍋島が主家を乗っ取るのでは?」と中傷されて、キレた直茂が自邸に引き上げ蟄居しようとした。
そこで1588年:20代目政家が起請文を書いて、鍋島直茂に正式に政権を移譲しました
起請文は各分家も出し、直茂の命令に従がうことを誓ったんです。と、なんとか治まった家中が 豊臣秀吉の介入でややこしくなる^^;;
1590年:豊臣秀吉が竜造寺政家(35歳)に対し、まだ5歳の嫡男・高房に家督を譲るように命令したのです
肥前・佐賀31万石は高房が継ぎ、4万石強が鍋島直茂へ、9千石が直茂の嫡男・勝茂へ、鍋島親子は大名及び世子と同じ官位を与えられました
秀吉は自分の前でキョドって応対できない竜造寺政家に見切りをつけた。竜造寺の名跡は残したものの、佐賀の実質支配者として鍋島家の地位を大名待遇にアップしたんです。
この時点で鍋島親子の領地は、竜造寺宗家の蔵入地(個人領有地)を超えてしまい、それが分家には面白くなかったらしい( ̄ω ̄A;アセアセ
直茂に反抗的な態度をとって、直茂を悩ませました。
竜造寺は名護屋で留守番ですらない!完全スルーされたΣ(´Д`;)ガーン
秀吉も認めた直茂の圧倒的な実力を前に、分家&家臣団は鍋島に心からの忠誠を(一応・以前よりは)持つようになった。
実は直茂は1588年の政権移譲のとき、21代・高房が15歳になったら政権を返上する起請文を書いていた。
鍋島の関が原は次回に書くとして、とにかく利用価値の無い竜造寺宗家の事は徳川家康もスルー。
高房クンは、徳川家康に拝謁すら出来なかった il||li _| ̄|○ il||l~激しく凹む高房クン
慌てたのは直茂だ。なんとか竜造寺宗家をアピールしようと家康に (-人-)☆彡オネガイ~~~
もしかしたら直茂は、このJr(直茂にとって曾孫)を佐賀藩主に~と考えた時期もあったかもしれない。
なにしろ直茂は60をとうに超え、成人した息子・勝茂がいるのに未だ家督を譲ってなかったんです。
武家の男子は通常、二十歳前後で家督を継ぐ(実権はパパン)ので、これは異例なの。
高房夫妻の江戸藩邸は、もちろん直茂が用意。
20代・政家の隠居料5200石の他に、高房に8000石を与え、そのうち2000石を殿中での交際費に~って直接、お小遣いとして渡してた。
この待遇に高房も満足し直茂に「叔父か兄のように思います___φ(.. )」と感謝の手紙を送っている。
このまま穏便に行くかと思われたのだが、事態が変わる。
いや、江戸で殿中勤めしてるから、その情報は耳に入るよ。凹んだのはソッチじゃない。
鍋島と徳川の絆が強くなったのを機に、竜造寺分家たちと家臣たちが、 自ら進んで鍋島に対する忠誠を誓った起請文を出したんです
この話が回り回って高房の耳に入り、分家や家臣が自分を無視したと、将来に絶望しちゃったの。
( ̄ko ̄)<殿中で他の小姓たちから、鍋島に全て御膳立てされたのを冷やかされたそうでつよ~
心臓が飛び出るほどビックリしたのは、父の20代・政家と鍋島直茂だ。
名目だけとはいえ竜造寺は主君!それが江戸城勤めを無断欠勤して自殺騒ぎ!下手すりゃ佐賀藩取り潰し!
直茂が四方八方手を尽くし「佐賀藩と高房には、お咎めなし。高房は本国で養生せよ」と寛大な処置が下った。
1607年:7月26日~鍋島直茂は、佐賀の竜造寺政家に手紙を出した
今まで誠心誠意仕え・竜造寺のために良かれと計らってきましたのに、こたびの高房様の為されようは一体、どなた様に対するあてつけでしょう?これが後の世に云う「お恨み状」です。
本国に戻られたら、お父君の政家様から高房様にお尋ねください(涙目)~
高房は本国に戻ることは無かった・・・
彼は、自分が殺した奥方の亡霊が見える~~と完全にノイローゼ。
1607年:9月6日~高房死去~当時食用を禁止された毒魚・フグを食べ、さらに馬を走らせるという無茶をして、再び腹の傷が開いて失血死したんです
同年:10月2日~政家が病死~息子の訃報のショックに、もともと病弱な彼は耐えられなかった
この間、鍋島が陰謀したとか暗殺とかは、まずありえません。「主家乗っ取り」とウワサされるのを最も恐れたのは鍋島家だからです。
竜造寺宗家の家名が穏便に続くことが直茂の願いで、そのために様々世話をしていたのです。
事態を重く見た江戸幕府は、佐賀から竜造寺分家4家のうち、実力者3家を江戸に呼んで下問した。
to 竜造寺?or not to 竜造寺?~佐賀藩の家督は竜造寺か?否か?
冒頭にあげてるように、高房には実弟とJr4歳がいたからです。竜造寺の分家達の回答は「鍋島は傍流とはいえ竜造寺の血を引いております。またすでに1588年に政権移譲しています。更にその後の実績などなど~~~
竜造寺分家らの結論「家督=佐賀藩の藩主は鍋島直茂が順当であるが、すでに高齢なので息子・勝茂を藩主に」と言上した。
徳川家は佐賀藩が鍋島家を中心に結束してるだけでなく、息子への継承も完成していることに満足した。
肥前・佐賀藩は藩祖が鍋島直茂!初代藩主は勝茂で決着する!
初代藩主・勝茂は知名度がイマイチだが、藩祖・直茂の路線を継承し佐賀の基礎を立派に作りました。(偉大な藩祖を持って苦悩する初代藩主萌えなので批判は聞こえなーーーい)
他藩は家臣を粛清し殺しているが、勝茂は無血で領内統治を完成させている。
ちと藩主の直轄領(無血だと家臣の領地が多くなるから)が少ないんで、地味に上知(あげち=家臣に領地の一部を返上させること)して支藩を作ったりしてるの^^b
「竜造寺の分家」は竜造寺姓を改姓「鍋島家の親族」として生き残り栄えて行きます。
明治後に分家たちは再び龍造寺に戻りますが、鍋島家では昭和初めまで分家たち&関係者に仕送りをしていたそうです(ほんとに気を使い続けて・・゜・(PД`q。)・゜・)
さて鍋島家が主家・竜造寺を乗っ取っていないことを、ご理解いただけましたでしょうか?
ことの本質は、そもそも竜造寺本家に国を保つだけの人材がいなかったとことにあります。
親族たちは無能な君主と共倒れしたくなくて、鍋島の庇護の下で生き残る選択をしただけです。
家名を残すことが絶対の正義である武家にあって、この選択は完璧に正しい。
道徳云々は、泰平の世だから言える事なんです。
分家を残すか、はたまた分家が犠牲になって宗家を残すか。
関が原では、この究極の選択を迫られる家が多々あったことでしょう。
次回、佐賀藩初代藩主編2~父が東で息子が西で?!それは・またの話 by^-^sio
ブログ用画像~南洲さま
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相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
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参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;
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