【to竜造寺? or not to竜造寺?】佐賀藩初代藩主編1栞65

竜造寺家~早わかり超カンタン系図
19代・隆信⇒20代・政家⇒21代・高房/弟がいます⇒高房Jr

竜造寺分家⇒諫早、多久、須古、武雄(分家は龍造寺姓)
にほんブログ村 地方・郷土史

1584年「沖田畷の戦い」で19代当主・竜造寺隆信が討死するのが、不幸の始まりだった

息子の20代・政家は病弱で凡庸~~到底、国を保つことができない。

と親族会議の結果、鍋島直茂に政務を預ける事に決定した。

あとあと揉めそうな申し出を直茂は何度も固辞したので、親族代表が直茂を佐賀城に迎え入れた。

が、案の定「鍋島が主家を乗っ取るのでは?」と中傷されて、キレた直茂が自邸に引き上げ蟄居しようとした。

そこで1588年:20代目政家が起請文を書いて、鍋島直茂に正式に政権を移譲しました

起請文は各分家も出し、直茂の命令に従がうことを誓ったんです。

と、なんとか治まった家中が 豊臣秀吉の介入でややこしくなる^^;;

1590年:豊臣秀吉が竜造寺政家(35歳)に対し、まだ5歳の嫡男・高房に家督を譲るように命令したのです

肥前・佐賀31万石は高房が継ぎ、4万石強が鍋島直茂へ、9千石が直茂の嫡男・勝茂へ、鍋島親子は大名及び世子と同じ官位を与えられました

秀吉は自分の前でキョドって応対できない竜造寺政家に見切りをつけた。

竜造寺の名跡は残したものの、佐賀の実質支配者として鍋島家の地位を大名待遇にアップしたんです。

この時点で鍋島親子の領地は、竜造寺宗家の蔵入地(個人領有地)を超えてしまい、それが分家には面白くなかったらしい( ̄ω ̄A;アセアセ

直茂に反抗的な態度をとって、直茂を悩ませました。

が、親族の反発も「朝鮮の役」まででした。

1592年「朝鮮の役」における肥前への動員命令は、竜造寺ではなく鍋島に下ったからです


竜造寺家紋

竜造寺は名護屋で留守番ですらない!完全スルーされたΣ(´Д`;)ガーン

秀吉も認めた直茂の圧倒的な実力を前に、分家&家臣団は鍋島に心からの忠誠を(一応・以前よりは)持つようになった。

実は直茂は1588年の政権移譲のとき、21代・高房が15歳になったら政権を返上する起請文を書いていた。

1600年:約束の高房15歳の時に「関が原の戦い」が起きてしまう!ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

高房も初陣(ういじん=戦場デヴュー)で従軍してたが、もちろん飾りで役に立つはずも無い。

鍋島の関が原は次回に書くとして、とにかく利用価値の無い竜造寺宗家の事は徳川家康もスルー。

高房クンは、徳川家康に拝謁すら出来なかった il||li _| ̄|○ il||l~激しく凹む高房クン

慌てたのは直茂だ。なんとか竜造寺宗家をアピールしようと家康に (-人-)☆彡オネガイ~~~

1604年:21代・高房に官位を与えて大名格にしてもらい、更に2代将軍・秀忠の近習として仕えるよう手配した

直茂は自分の孫娘を養女として高房と結婚させ、二人の間にはJrも誕生。

もしかしたら直茂は、このJr(直茂にとって曾孫)を佐賀藩主に~と考えた時期もあったかもしれない。

なにしろ直茂は60をとうに超え、成人した息子・勝茂がいるのに未だ家督を譲ってなかったんです。

武家の男子は通常、二十歳前後で家督を継ぐ(実権はパパン)ので、これは異例なの。

高房夫妻の江戸藩邸は、もちろん直茂が用意。

20代・政家の隠居料5200石の他に、高房に8000石を与え、そのうち2000石を殿中での交際費に~って直接、お小遣いとして渡してた。

この待遇に高房も満足し直茂に「叔父か兄のように思います___φ(.. )」と感謝の手紙を送っている。

このまま穏便に行くかと思われたのだが、事態が変わる。

1605年:直茂の嫡男・勝茂が、家康の養女と結婚したからです~~ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!


鍋島家紋

いや、江戸で殿中勤めしてるから、その情報は耳に入るよ。凹んだのはソッチじゃない。

鍋島と徳川の絆が強くなったのを機に、竜造寺分家たちと家臣たちが、 自ら進んで鍋島に対する忠誠を誓った起請文を出したんです

この話が回り回って高房の耳に入り、分家や家臣が自分を無視したと、将来に絶望しちゃったの。

( ̄ko ̄)<殿中で他の小姓たちから、鍋島に全て御膳立てされたのを冷やかされたそうでつよ~

1607年:楽しい3月3日ひな祭り~~~高房は奥方を殺し、自殺(切腹)未遂した

幸い発見が早く高房は一命を取り留めたのだが、幕府の役人が調査に来てもダンマリ^^;

心臓が飛び出るほどビックリしたのは、父の20代・政家と鍋島直茂だ。

名目だけとはいえ竜造寺は主君!それが江戸城勤めを無断欠勤して自殺騒ぎ!下手すりゃ佐賀藩取り潰し!

直茂が四方八方手を尽くし「佐賀藩と高房には、お咎めなし。高房は本国で養生せよ」と寛大な処置が下った。

1607年:7月26日~鍋島直茂は、佐賀の竜造寺政家に手紙を出した

今まで誠心誠意仕え・竜造寺のために良かれと計らってきましたのに、こたびの高房様の為されようは一体、どなた様に対するあてつけでしょう?
本国に戻られたら、お父君の政家様から高房様にお尋ねください(涙目)~
これが後の世に云う「お恨み状」です。

高房は本国に戻ることは無かった・・・ 

彼は、自分が殺した奥方の亡霊が見える~~と完全にノイローゼ。

1607年:9月6日~高房死去~当時食用を禁止された毒魚・フグを食べ、さらに馬を走らせるという無茶をして、再び腹の傷が開いて失血死したんです

同年:10月2日~政家が病死~息子の訃報のショックに、もともと病弱な彼は耐えられなかった

この間、鍋島が陰謀したとか暗殺とかは、まずありえません。

「主家乗っ取り」とウワサされるのを最も恐れたのは鍋島家だからです。

竜造寺宗家の家名が穏便に続くことが直茂の願いで、そのために様々世話をしていたのです。

事態を重く見た江戸幕府は、佐賀から竜造寺分家4家のうち、実力者3家を江戸に呼んで下問した。

to 竜造寺?or not to 竜造寺?~佐賀藩の家督は竜造寺か?否か?

冒頭にあげてるように、高房には実弟とJr4歳がいたからです。

竜造寺の分家達の回答は「鍋島は傍流とはいえ竜造寺の血を引いております。またすでに1588年に政権移譲しています。更にその後の実績などなど~~~

竜造寺分家らの結論「家督=佐賀藩の藩主は鍋島直茂が順当であるが、すでに高齢なので息子・勝茂を藩主に」と言上した。

徳川家は佐賀藩が鍋島家を中心に結束してるだけでなく、息子への継承も完成していることに満足した。

肥前・佐賀藩は藩祖が鍋島直茂!初代藩主は勝茂で決着する!

初代藩主・勝茂は知名度がイマイチだが、藩祖・直茂の路線を継承し佐賀の基礎を立派に作りました。
(偉大な藩祖を持って苦悩する初代藩主萌えなので批判は聞こえなーーーい)

他藩は家臣を粛清し殺しているが、勝茂は無血で領内統治を完成させている。

ちと藩主の直轄領(無血だと家臣の領地が多くなるから)が少ないんで、地味に上知(あげち=家臣に領地の一部を返上させること)して支藩を作ったりしてるの^^b

「竜造寺の分家」は竜造寺姓を改姓「鍋島家の親族」として生き残り栄えて行きます。

明治後に分家たちは再び龍造寺に戻りますが、鍋島家では昭和初めまで分家たち&関係者に仕送りをしていたそうです(ほんとに気を使い続けて・・゜・(PД`q。)・゜・)




さて鍋島家が主家・竜造寺を乗っ取っていないことを、ご理解いただけましたでしょうか?

ことの本質は、そもそも竜造寺本家に国を保つだけの人材がいなかったとことにあります。

親族たちは無能な君主と共倒れしたくなくて、鍋島の庇護の下で生き残る選択をしただけです。

家名を残すことが絶対の正義である武家にあって、この選択は完璧に正しい。

道徳云々は、泰平の世だから言える事なんです。

分家を残すか、はたまた分家が犠牲になって宗家を残すか。 

関が原では、この究極の選択を迫られる家が多々あったことでしょう。

次回、佐賀藩初代藩主編2~父が東で息子が西で?!それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;
スポンサーサイト

北肥戦誌【1554年】信生クン出陣~(=^・ω・^=)v ブイ

●天文23年(1554年)

この年の3月、隆信は高木鑑房を征伐すべしと軍兵を起こした。

鑑房は天文17年に理由あって浪人となり、近年帰国すると縁故の地・東高木を知行されていた。

また、この鑑房、勇力万人に優れ、早業は江都公主の素早さをも超越し、打物は樊噲・長良にも恥じず、その上に魔法を習得しており、或る時は闇夜に日月を現し、或る時は酷暑に雪を降らせ、大空に立って大海を飛び、断じて凡夫ではなかった。

だが、昨年8月に精町での戦いに打ち負け、今は高木城へ退いていた。

鑑房は龍造寺勢が押し寄せると聞き及び、急ぎ軍勢800を出して三溝口で打ち合った。

そのとき、龍造寺勢より齢16-7の若武者が討ち出て、鍋島信昌(後の直茂)と名乗り、唯一騎で前に進み出ると、千変万化の活躍を見せた。

鑑房は士卒を励まし龍造寺勢に挑んだものの、討ち負けて高木城へ引き退くと、子を質に差し出して和を請うた。西高木城主の高木胤季も降参した。

その後、鑑房は杵島郡・佐留志の前田家定を頼ったが、鑑房の後の行状に不安を感じた隆信は、前田家定を籠絡し鑑房を討ち取らせる。

鑑房は因果左衛門と不動左衛門という大剛の者二人を常に傍に置いていたが、因果左衛門に秘蔵の笛を取りに旧領へ遣わし、不動左衛門のみを連れて鷹野に出た。

朝方、前田の家へと帰り、縁に腰かけて不動左衛門に足を洗わせていた処を、前田家定は密かに背後に廻って長刀で鑑房の首を打ち落とした。

だが、その骸は俄かに立ち上がると、小鳥という銘刀を引き抜き、不動左衛門を斬り殺した。

そして広間へと駆け上って奥へと切って入る。

この珍事に近付く者はなかったが、前田の家来数十人が槍・刀で四方から刺し貫き組み伏せたという。

鑑房には二人の子があったが、父の旧領の一部を与えられ、長男・左馬大輔盛房は天正10年の冬に筑後の戸原で討ち死に、次男・大栄入道も同12年の「沖田畷の戦い」にて戦死している。




魔法を習得___φ(.. ) メモメモ

因果左衛門に不動左衛門・・・・・仏像の「阿吽」みたいなネーミング,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

北肥戦誌【1553年】肥前へ帰還~

●天文22年(1553年)

★隆信は蟄居先に老臣を集め、「斯様に月日重ね既に三ヶ年に及び、他国にありて恥を晒したるも甲斐なし。ここは是非とも当家恩顧の者共を語らい、肥前に討ち入りて敵と雌雄決し、敵わざれば腹を切らんと思い定めた。御主らは如何思うや?」と問うた。

これに石井兼清は、「斯様流浪の身と罷りなりて年月を送らん事、まことに口惜しき次第にて候。されば、興賀郷、川副郷の者共は予てより当家に二心無き者らにて候。中でも古賀民部丞は、その父・越後の頃より剛忠公の御計らいにて鹿子村の庄官なれば、その御恩忘れず、昨年も忠心を現しましたれば、御帰国の偽は彼の者に御下しなさるべきやと・・・」と述べた。

これに皆が同意し、隆信より吉岡蔵人が、隆信の弟・長信からは早田次郎左衛門が、肥前の古賀民部の元へ遣わされた。

両人は、川副郷は鹿子木天満宮での連歌の会に事寄せ、古賀民部の他、村岡興三左衛門、徳久主馬允、久米長門守、副島右兵衛門允と対面し、隆信帰国の首尾に関して談合し帰った。

肥前の5人は、周辺の百姓らへ相語らい、且つ興賀、川副の志ある武士を募った。

★隔して7月25日、鹿江兼明、その子・南里左衛門大夫、鹿江久明、南里左馬大夫、南里治部少輔の1000余人、
石井和泉守、弟・三河守、同石見守、内田美作守、久布白又右衛門、横尾刑部少輔、立河讃岐守、堀江筑前守、堀江右衛門大夫、副島民部少輔、飯盛備前守、石丸備後守ら、併せて都合3000余人が兵船を揃えて、筑後の隆信を迎えに参じた。

宿主である原野十郎もこれに従い、三人の子の内、次男・左馬介、三男・権兵衛を隆信へ付属させる。

また、蒲池鑑盛もこれを喜び、見舞にと渡辺上総守、横田大膳亮、萩原志摩守に200余騎を付けて、隆信勢へと付属させた。

隆信は鹿江崎に着船、乾堂を過ぎ27日に威徳寺に入り旗を掲げた。

福地長門が先達て興賀船津に上がり、村岡藤七兵衛の居宅に篝火を立てれば、古賀民部ら5人が率いた者共が此れに馳せ集まる。

隆信勢は4-5000余騎にまで膨れ上がり、隆信は実久村の潮音寺に陣を布いた。

そこで軍議を行ったが結論が出ず、付近の若宮八幡宮で神託を仰ぐと、「戦は速やか用いよ」とあった為、軍勢は実久村を発って西小路へ打ち入る。

このとき高木鑑房が攻めてくるとの風聞があり、隆信は軍勢の半分を佐嘉・蓮池へ廻し、残りで高木勢を攻め崩す様に命じる。

佐嘉の城は小田政光が守り、神代勝利、高木能登守鑑房が交替で飯盛城を守っていたのだが、そこを隆信勢は息もつかせず攻め立てる。

そこへ風聞通りに高木勢1,300が現れるが、討ち負けて若村へ退散した。

八戸宗暘も若村へ出陣したが、これを討ち負かし、高木勢は精町へ追い詰められ自領へ退散、八戸も八戸城へ退いた。

そして飯盛の神代勢も討ち負けて八戸宗暘の八戸城へ逃れた。

隆信は梅林庵に陣を移し評定を開き、まずは八戸城を攻める結論に至る。

★8月8日、小河武純、納富信景、福地信重らが攻め進んだ。

逃れた神代は本丸を守り、二の丸は伊東・諸熊・光岡ら数百騎を向かわせてこれを防ぐ。

城兵多く討ち死にし、城戸口が破られんとしたとき、神代より和を請うて来た。

八戸・神代は隆信へ面褐し、城を開け渡して山内へ退いて行った。

宗暘は龍造寺家より奪った領地を返還し、八戸城へと戻された。

隆信は敵の瑞城7つを攻めると、佐嘉の城を守っていた小田政光は蓮池城へ退いた為、隆信は即座に佐嘉の城へと入った。

次は城原(勢福寺城)の江上を攻めるか、蓮池の小田を退治すべきかと評議する矢先、9月26日に江上は降参を申し出る。

なればと10月8日、蓮池城攻めへと取り掛かった。

隆信は井尾を本陣と定め、そこで評定するに、

「小田政光は必ずや城を打って出るであろう。故に政光が城より出てきたならば、龍造寺左馬頭信周の備えの一つは北の方より廻って政光の跡を取り切り、また兵庫頭長信は南の方より城の大手駕興丁口へ廻り、短兵急に攻めるべし」とした。

8日の東雲に南北二手に分かれ、隆信の旗本衆は井尾の陣から静かに進軍する。

総勢3,700余である。敵は2,300(本告勢を入れれば2,600)である。

旗本先手である馬渡栄信は、先の戦いで功を上げられなかったのを悔み、頻りに旗を進める。

城からも一陣・江口源世入道、二陣・深町理忠入道が打って出る。

また夜も明けようとする頃、北方より神埼の本告義景の勢300が、小田に加勢して隆信本陣目掛けて切り掛かる。

此れを見て北方に控えていた左馬頭信周が本告勢と戦う。

また、本告義景には馬渡栄信が組み敷いた。

本告義景は馬渡の右の小指を食い千切ったが、馬渡はその首級を見事討ち取った為、大将を失った本告勢は総崩れとなって退いて行った。

だが、江口・深町勢は退かずに左馬頭勢と戦う。

この隙に兵庫頭長信は南に廻り、駕興丁口へ攻め入った。

崎村の犬塚左近大夫鑑直、蒲田江の犬塚民部大夫尚重、直鳥の犬塚鎮尚らが馳せ来て、小田に加勢し防戦に努める。

城主・小田政光は押され気味であるのを悟ると、小田利光、小田掃部助を始め、山田河内守、原河内守、薗田三河守、内田治部大輔、吉島新七郎、末次興七郎、横山、大隈以下、一族郎党200余人を左右に従え、旗本勢に討って掛かる。

これに隆信の旗本勢は我先にと小田勢に打ち掛かった。

南里左衛門大夫国有、南里治部大輔胤有、南里左馬大夫信有、南里宮内少輔ら父子4人の手勢が小田掃部と渡り合う。

彼等は小田掃部を討ち取るが、左馬大夫は深手を負い、残る3名と手勢30名が討ち死にした。

福地長門守信重も一族を率いて戦い、膝口を槍で突かれ、肱肩を三ヶ所射抜かれた。

秀島主計允も鉄砲に当たる。

一進一退の攻防に隆信は退屈して見ていた。

これに倉町帯刀信家が濁り酒を隆信に勧める。

隆信はその一杯に気を漲らせ、頻りに采配を振るい始める。

これに佐嘉勢は奮起、小田勢は次々と討ち取られていった。

更に、遅れて来た鍋島勢が兵庫頭の勢に加わり、犬塚左近大夫、犬塚左衛門大夫以下300余人を討ち取った。

小田政光は悉く敗れて城内に戻ると、隆信への降伏を申し出た。

隆信は信じ難いと述べ、更に「小田は龍家を傾けし家なり、城中へ攻め入り首を刎ねよ」と命じたが、老臣らが「これは征伐の初めなれば、和平に応じ給わねば国中の者共は、以後降参しようと致しませぬ」と諭した為、隆信も和に応じて佐嘉の城へと戻った。

★さて、水ヶ江の左衛門大夫鑑兼は小城へ蟄居を命じられたが、元より一族であり、まだ齢12の幼少ゆえ全ては土橋の叛意の為した事で、土橋の叛意は知らなかったとし先非を悔いた為、後にその罪を許され帰国している。

此度の元凶たる土橋加賀守栄益は捕縛されて首を刎ねられ、土橋の相談人・西村美濃守は罪を許された。

以後、隆信は納富道周(栄房)、小河武純、江副久吉を執権と定め、水ヶ江を隆信の弟・長信の所有とし、その与力には石井兼清を尾張守に任じて、福地蔵人助、吉岡蔵人と共に付属させた。





【処断】人吉藩初代藩主編10栞64

はじめに・・・快く史料提供して下さった監修様に心より御礼申し上げます。
相良関連記事のクォリティは、監修様なしには成立しませんでした。
本当にありがとうございましたm(__)m

寛永17年(1640年)犬童頼兄は6月21日に人吉を発ち、7月11日に大坂、翌日に伏見、7月21日に主従60余人と箱根の関所へ着いた。

すると関所側から「陪臣の身で多数召し連れる事は出来ない」と指摘された。

そのため頼兄は多数を残し8人を連れたのみで箱根を越え、小田原へ着くと稲葉美濃預かりとなり、更には刀の大小も取られ罪人扱いとなった。

そして同時期に人吉領内で「御下の乱」が起きる
首謀者は犬童(田代)半兵衛で、頼兄の養子です
ザックリとウィキペディア~

江戸屋敷より国許への使者として神瀬外記、深水惣左衛門が遣わされた。

使いの内容は、頼兄の養子である田代半兵衛頼昌(犬童半兵衛とも)を引き続き藩士として取り立てる、というものであった。

しかし、半兵衛は既に頼兄の処分を知っており、「お下屋敷」と呼ばれる頼兄の屋敷に呼ばれた外記と惣左衛門は半兵衛らに襲われる。

惣左衛門は無事に逃げのびるも、外記は捕えられ全ての指を切られた上で殺害された。

そして頼兄の一族はお下屋敷に立て籠もり、藩兵がこれを取り囲み戦闘となった。
結局、頼兄の一族全員が討ち死に又は自害により121名が死亡した。


実は、この「御下の乱(or田代半兵衛の反)」にも不可解な点がある

話は犬童半兵衛の実父の死に関わることです。

頼兄は家臣・蓑田甚兵衛の妻に横恋慕した。

夫婦を引き離す為、蓑田甚兵衛を京都御屋敷永詰とし、その上で甚兵衛の妻と密会した。( ゚д゚)ンマッ!!

不倫ネー(*´・д・)(・д・`*)不義ネー

だが、これを聞き知った蓑田甚兵衛はすぐさま帰宅します。

頼兄は、この無断帰宅を落ち度とし、討ち手を差し向け蓑田甚兵衛を殺害。

頼兄は蓑田甚兵衛の妻を自らの妻とし、その子・田代半兵衛には400石を与え養子とした。

あ、姓が違うのは田代の地頭になってから、地名の田代を姓としてたからです^^b


この話が事実なら、田代半兵衛は実父の仇のために、主家に対し弓を引いたことになります。ヽ(。_゜)ノ へっ?

変でしょう?

養父・頼兄と連座させず、引き続き相良藩士でいられるって寛大な処置をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と断ったのよ。
藩政を牛耳る頼兄が処断されたら、田代半兵衛は亡父の蓑田姓に復し御家再興だって出来るかもなんだよ。

ふと大友宗麟の人妻略奪を思い出した・・・この話も不自然でした。
だって夫を殺され操を奪われたはずの人妻の嫡男が、謀反に加担せずに宗麟サイドで戦ってるからです。
これは想像なんですけど、田代半兵衛の実父が殺されたのは「相良家の意向」だったんじゃないでしょうか
当主を失い零落した母子を、犬童頼兄が不憫に思い身内として保護してたのでは?
田代半兵衛は使者の指を全て切り落とした上で殺す、という残酷なことをしている。
まるで相良家に恨みでもあるかのようではないか。

繰り返すが「相良家には黒歴史が多い」そして初代藩主・相良長毎の意向で、犬童頼兄は黒歴史の部分に深く関わっていたはずだ。
その過程で「主家から理不尽な仕打ち」を受けた犠牲者が、相良家中にいても不思議ではない。

だが田代半兵衛含め、頼兄の妻となった田代ママンも、田代の妻子も一族全てが討ち死に又は自害したので、真相は全て歴史の闇の中だ。

ちなみに死亡時の田代半兵衛の年齢は57歳。
田代ママン横恋慕の話って事実なら数十年前?不自然でしょう?^^;
それと犠牲者121名のための供養塔が残ってます。

一方、頼兄は幕命により津軽へ流刑に処された。

頼兄の取り調べが行われ、下すべき判決を評議中である寛永17年9月4日。
幕府目付である阿部・渡辺が共に酒井讃岐守宅にて諸氏が列座する中で、
「頼兄は津軽土佐守預けとし、頼章(頼兄の孫)は御尋ねに有りの儘を申したので頼寛(二代藩主)がそのまま召し使ってもよい」と申し渡した。


頼兄は米300俵30人扶持を与えられ、従者6人(7人とも)と共に弘前城の西方の高屋村に置かれた。
が、そこで火災が起こったために鏡ヶ池の畔に移り住み、88歳(明暦元年)で亡くなりました。

現在の青森県弘前市相良町は頼兄の流刑地でして、町名は屋敷があったことに由来しています。
頼兄は学問に優れていたので、弘前藩士が多く訪ね来ては頼兄から詩歌の指南など受けいたようです。

先ほど一族全てが討ち死に又は自害、と書きましたが頼兄嫡孫・頼章は残りました。
頼章は1643年に生母(島津家久三女)のツテを頼って鹿児島に移住し、薩摩藩士として残りました。

移住の時、頼章は相良家へ暇乞いの挨拶をキチンとしてます。
ただし頼章に男子はおらず、養子(東郷氏・豊久甥)を迎えているので、犬童家嫡流は絶えています。

他に頼兄の子と言われている従者(犬童九郎左衛門)が、4代将軍に宣下による恩赦で罪を許され、球磨へ一時帰国を果たしています。


犬童一族を排除することで、藩主の権限を強化し藩政をコントロールしようとした相良家の目論見は、結果として失敗でした。
その後も人吉藩では「家老VS相良一門」の争いが収まらず、藩主が知らないままにコトが進んでたり終わったり。

果ては時の藩主が射殺される事件すら起きてます ( ̄ω ̄A;アセアセ
まったくもって、よく改易にならなかったものだと思います( ̄ω ̄A;アセアセ

やはりそれは、人吉藩初代藩主・相良長毎と犬童頼兄の築いた礎が、それだけ確かなものだったからではないでしょうか。

さて、相良家「初代藩主編」は、これにて終幕。
相良家の16代義滋から20代目頼房までの「相良5代記」は、また別章で語りたいと思います。

次は「初代藩主編シリーズ/肥前佐賀」それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【嫡男死す】人吉藩初代藩主編9栞63

にほんブログ村 地方・郷土史

スーパー官僚:土井利勝には「徳川家康隠し子伝説」があるのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

噂に悩んだ土井が「ソーダ!ヒゲを剃れば印象変わるんじゃネ?」と即実行

今を時めく大老の姿に「我も我も」と追随してヒゲを剃ったのが、ヒゲ無し侍の始まり・・・という俗説がある^^/



[家康 隠し子]で検索すると出るわ出るわ~4コマで収まりきれませ~ん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

冗談はさておき、初代藩主から[犬童一族排斥]の遺言を託された幕府目付の阿部四郎五郎と渡辺図書助。
実は二人は既に徳川家大老・土井利勝に頼兄処断の話をしていた。
だが土井利勝は「清兵衛父子を呼び寄せ仕置くことに、私曲のないよう」と歯切れの悪い返事だった。

どうも、土井にしてみれば頼兄が本当に「専横の臣」なのか訝っていたようだ。

頼兄の岡本の隠居所にしても「古城に隠居所を構え」たのが真実なら、頼兄処断以前に「一国一城令」に引っかかって人吉藩そのものヤバイはずなんです。

だが頼寛(よりひろ/二代藩主)は「(犬童頼兄を)呼寄せ(自分が)意見することは御断り申し上げる。」
さらに「彼の者(犬童頼兄)罷り在る間は、(公儀への)御奉公のことも通り申しまじくと案じ奉る」
「急度、隠密に仰せ付け下さる様に希望し奉る」

と、どこまでも幕府の裁定による処断を求めた。
理由として

一つには「人吉領内で内々に処理するには犬童一族の力が大きすぎ、一揆や謀反などされては困る」

いま一つは「頼兄は【お目見得格(将軍に拝謁する有資格者】だったので、相良家独断で処断した後で幕府にイチャモン付けられたら困る」
どこまでも「幕府からの裁定」という形をとる。「公儀の仕置き」となれば、頼兄本人は従わざるを得ない。

犬童一族で抵抗する者があったとしても、頼兄本人を江戸で拘束しておけば、損害は最低限で済むはずだ。
そしてこれらの話は、初代藩主・相良長毎の存命中に打ち合わせ済みだったに違いない。


1639年(寛永16)12月に二代藩主・頼寛は、上記の阿部・渡辺の同行で江戸から人吉へと戻った
明けて1640年(寛永17)3月18日、戻ったばかりの頼寛が参勤の為に人吉を発つという動きがあった
トンボ返りの慌ただしさにに城下では「Σ(´Д`;) まさかの国替え?」と緊張が走る。
同年4月28日~頼兄の嫡男・犬童頼安が急死する(享年50歳もともと頼安は3月から藩主・頼寛に従い江戸に参府するはずでした。

それが出立の朝に俄かに頭痛となり、後日に出立し追い付きますが、4月の中旬より重篤と成り、同月28日に急死したんです。
(ちなみにその年に2名、三回忌に6名の殉死者有り)
50歳という年齢ですので、卒中とかありえる話なんですが、このタイミングは・・・さては一服盛られたでござるな( ゚Д゚)y─┛~~

頼兄本人は「専横の仕」の名目で処断できても、その子・頼安がいるかぎり犬童一族は息を吹き返すだろう。
完全に排除するには、嫡流を絶やさねばならない。これ基本です^^/
逆に嫡孫・頼章が無事だったのは、彼の生母が島津家久三女だったからでしょう。

犬童頼章は初代薩摩藩主の従妹で養女の息子です。
初代薩摩藩主は既に亡くなっていますが、頼章が二代薩摩藩主の血縁であることは変わりません。
頼章が不審死を遂げたら、島津家との友好関係にヒビが入るかもしれない。だから頼章には穏便に人吉の地から去ってもらうのがベスト。
島津氏と気まずくならずに犬童頼兄を処断するためにも「裁定は公儀の仕置き」である必要があるんです

同年6月~頼兄が人吉を発ち江戸へ上がる
4月に嫡男を失ったばかりで喪中なのに?「ぇえ?!(゚ロ゚屮)屮」
一連の出来事からの緊張か、慶長12年から続いていた人吉城普請が、一時中止になってます。

この急な召し寄せに、頼兄は孫・頼章へ手紙(5月29日付)を認めた
頼兄手紙:(上記の渡辺)図書様御指図次第(領地役目など)召上げらる可く候事、御家(相良家)の為たる可しと存じ奉り候

惣領息子の突然の死に、既に何事か覚悟を定めていたのであろう。
同年6月21日・・・頼兄は人吉を出立したのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【弾劾】人吉藩初代藩主編8栞62

初代藩主は既に亡くなってますが、犬童頼兄排斥は初代藩主の意思だと推察しているので、書庫タイトルはこのままで行きます^-^
初代藩主・長毎(初名は頼房)と二代藩主・頼寛(よりひろ)が、犬童一族排除を決めた理由に、家督のことも絡むんじゃないかと推測してました。
父・長毎の死亡時で頼寛は既に数えで37歳でしたが、未だ嫡男に恵まれてなかったんです。

1618年(元和4)12月13日に頼寛(後の二代藩主)と、犬童頼兄の娘・亀鶴が結婚した。
頼寛は19歳で亀鶴は2つ年上。

後に産まれる頼寛嫡子の生母は、側室・片岡正秀の娘で、頼寛と亀鶴の間に男子は産まれてなかったんです。
初代藩主死亡時で頼寛室・亀鶴は39歳・・・・・この時代では難しいんじゃ・・・

「床入りは35歳済んだら遠慮する」大奥ものなんかで出てくる仕来りが、いつごろから始まったかは知りません。
ですが10年以上にわたり妊娠の気配もないとなると、さすがに側室を考えなきゃならないはずです。
養子を迎えるには頼寛は、まだまだ若いんですから。

城・人吉城、二の丸御殿の長塀跡
人吉城二の丸跡

呑気に構えてた?初代藩主も、嫡孫の顔を見ないまま死ぬのは不安でたまらなかったでしょう。
舅の犬童頼兄が健在なうちは、側室を迎えられる雰囲気じゃなかったかもです。

以前に犬童と相良はコインの裏表のようだ・・・と書きました。
激動の時代を共に乗り越えた犬童頼兄にとって、主家・相良家は運命共同体の気持ちだったかもしれません。

自分の娘に子供が出来なければ、養子を迎えればいい。
むろん迎える養子は、犬童一族の子弟をイメージしてたことでしょう。

だが、それは相良家にとって「家督に犬童の子弟を押し込むとは、家臣の分際を超えている」ことです。
かつて相良家では御家騒動のピンチを乗り越えるために、上村家から養子を迎えたことがあります。
その上村家だって、相良家の支族で全く赤の他人ではなかったんです。
この「不安」は、あくまでもシオの推測です。

が「犬童一族の藩独占状態と嫡男いない状態」が続けば、いずれ家督問題が浮上した時に、犬童家が相良の家督を左右することになります。
(相良家にとって)最悪の場合、犬童一族に家督を乗っ取られるかもしれない。
御家騒動が多い相良家では「何としても回避したい未来予想図」で、そのためには犬童一族を排斥する必要がある

家紋・相良 相良家紋ロゴ

二代藩主・相良頼寛は、亡き初代藩主・長毎の遺言(頼兄一族排斥)を託された幕府目付、阿部四郎五郎・渡辺図書助の両名に書面を出した。

一、清兵衛(←犬童頼兄)は父・長毎の時より気隨我儘で、江戸に呼寄せて御意見仰せ開かれても、一時は従っても、内には拙者(頼寛)や家中の者共に仇を申すべく、役者幼少から家老をしてきたので、家中の者・町人・召使までも身内の者ばかりで、たとえ意見仰せ聞けられても、拙者へ隔心を存じ、如何様の悪事をするかも知れず、呼寄せ意見することは御断り申し上げる。

一、この様にして、彼の者に在所仕置仰せ付けられても、万事拙者によき様にはしまじく、我儘は長毎時代からで、拙者の代になっては、島原乱後は、岡本の古城に隠居所を構え何たる悪事もしまじく、拙者が江戸にある時に徒党を企てるかもわからない。

一、此度、右様の事申し上げた事を彼の者が少しでも承付候えば、数年の我儘の悪事をしており、覚悟身構えることは必定で、隣国の騒ぎを仕出し申すべく、彼の者罷り在る間は、御奉公のことも通り申しまじくと案じ奉る。彼の者へ偽り申し掛かる儀は毛頭なく誓言申し上げる。急度、隠密に仰せ付け下さる様に希望し奉る。
(寛永16年12月14日)「人吉市史より抜粋」


頼兄を江戸に呼び寄せ弾劾するための段取りだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【隠れキリシタン大名疑惑?】人吉藩初代藩主編7栞61

1位と2位を行ったり来たり~^^/
にほんブログ村 地方・郷土史

前回で犬童頼兄のキリシタン疑惑をチラリン書いたら、なんか受け?が良かったんでキリシタンネタ投下~~

といっても文献的な裏付けがないので、あくまで「異説の段階」なのを御了承ください^-^

てことで本日の本題~キリシタン疑惑なんでつが

( ̄ko ̄)<実は、頼兄だけでなく、主家の相良家そのものに「"隠れ"キリシタン疑惑」があるんでつ~

この話の出所は、地元史家で人吉市文化財保護委員をされている原田正史氏の『ひとよし歴史研究第9号』です。
原田氏によると、日本在住の宣教師が本国に送っていた報告書に「相良氏がキリシタンであると明記していた」らしい(ただし上記寄稿文には記載してない)
さらに人吉城の地下遺構から十字架が後刻された宝塔も見つかっているようなんです~~~
人吉の願成寺には「相良燈篭」という、他の地域の石燈篭には見られない三ツ星状の穴が開けられ、ダイヤ型火袋を持つ燈篭があるとか。
で、三ツ星はキリスト教教義の真髄である三位一体を示すもので、隠れキリシタンの証しではないか~~ってことなんです。
ちなみに三ツ星ダイヤ型は藩主、及び藩主格の人物の燈篭だそうです。
灯篭は当主死後に供養のため造成されるとかで、21代・頼寛から始まり34代まであるそうな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・すごい微妙・・・・

まず宣教師の書いた「相良氏」が、人吉藩主の相良氏を指すかどうかがハッキリしてない。

便宜上、犬童~~って書いてるけど、頼兄は主君・頼房から「相良姓」を拝領してて名乗ってたの。

宣教師は報告あるから筆まめなんだけど、勘違いが多いから「相良」が「頼兄」を指す可能性も無きにしもあらず。

禁教令が全国発布されるのは1613年で、21代・頼寛は数えで14歳。

産まれる前に秀吉が伴天連追放令を出しているから、頼寛が宣教師と接触する可能性は低い。

じゃ宣教師と接触できる世代で、頼兄以外の相良関係者・・・というと該当者がいます。

それは頼寛の曾祖母(義陽ママン)内城です。

内城(洗礼名ゴアン?)ではないか・・・といわれる十字架の後刻された宝塔があるそうな。

その内城は1605年に亡くなってる・・・頼寛クン数え6歳・・・この年齢で信仰を刷り込み?(-ω-;)ウーン


高橋家紋

え~と、ですね、実は縁戚の高橋元種にもキリシタン疑惑があるんでつ~~

さらに頼寛ママンの秋月竜子には、高橋元種娘説があるんでつ~~~

出典:相良家の「御當家日記」に「高橋元種の縁辺者」との記載あり

(嫁ぐ時に秋月家養女になったって寸法)

改易後の預かり先である棚倉に高橋元種の墓があるんですが、これは明治になって秋月家、立花家、相良家が建立したものなんです。

さらに元種の墓石(こっちは子孫が建立だったはず)には、十字架の後刻があるんです。

大蔵系高橋家に所縁がある立花宗茂は、元種の高橋家御家再興を幕府に願い出てるんですが、叶いませんでした。

子孫様は「元種がキリシタンだからダメ」だったのでは?と推測してます。

竜子が元種の娘で、元種がキリシタンだったと仮定して、竜子もキリシタン教義に慣れ親しんでいたと仮定する。

そうしたら曾祖母・生母からキリシタンの教えを頼寛クンが受け継いでも不自然じゃない。

って仮定だらけですがな~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

とにかく文献が少なすぎる、てか無い~~~~~~~~~~~~

もともと相良家は御家騒動が多い・・・それだけ秘密・黒歴史が多い家。

よしんば本当にキリシタンだったとしても、やばそうな文書は始末してるか、そもそも記さず口伝のみだったかも。

その口伝(そういうのがあったとして)も、途切れてると思う~~~

なぜなら相良家は血統が途絶えて養子(ちなみに秋月家)が継いでるからなんです。

「相良燈篭」には(キリシタンorそれ以外の)由来があったかもしれないが、代を重ねて行くうちに単なる慣習として造成することが続いていたのではないだろうか。

では、犬童頼兄が「島原の乱」で出陣を渋った・・というのはキリシタンだからなのか?


相良家紋

それも飛躍しすぎな気もする。

戦国時代って、キリシタンでなくても南蛮風の甲冑や意匠を凝らしたり、ローマ字の刻印作ったり。

現代人が十字架ネックレス・ピアスするみたいな、ファンションとしての南蛮コーデもあったからなぁ。

文献的資料が無い・・・となると、トンデモ説にしかないらないのよね^^;

頼兄は性格的に、戦となると慎重になるタイプなんじゃないだろうか?

官僚としては非常に優秀だが、それだけに戦場という不確定要素の多いところでも「確実さ」を求めるあまり、ある意味臆病になるかもしれない


かつて「朝鮮の役」で明軍の大軍が来る・・・ということで、犬童頼兄はじめ家老たちは、守備していた城を放棄し撤退を進言した。

それに対し主君・相良頼房は「敵は兵糧は携帯用のみで長期対陣する気はない」「こちらから討って出るべし(`・ω・´)キリッ」と決断。

相良勢は頼房の指揮の元、見事に明軍を撃退し、城を守りとおしたんです。

この鮮やかな采配ぶりに家臣たちは口ぐちに「まれに見る大剛の将」と主君を褒めたたえた。

武将としての能力は、頼兄より主君である相良頼房の方が、おそらく上だろう

頼兄の異能は、惣領として家中を束ねる頼房のリーダーシップ力とは別種のものです

相良頼房は感覚として、そのあたりの違いを解ってて、自分の力量に対しても自負・自信があったはずだ

だから犬童家に大きな権限を与えても畏れなかった・・・なぜなら「犬童の行動は自分の掌中にある」という自信があるからです


だが、嫡男の頼寛では、そうはいかない

頼兄は、かつて上司だった深水に「頭を出させず」と言われたほどの切れ者(仕事モードに入ると妥協無しのキツイ性格そう)だ

頼寛では、犬童頼兄に性格的にもキャリアでも、とうてい太刀打ちできないだろう

何より犬童頼兄は、頼寛の正室・亀鶴姫の父・・・つまり舅なんです( ̄ω ̄A;アセアセ


頼兄の建てた隠居所に、住民の一部が移住し市が立つ。

老いの坂を迎えた頼房は、この時に「自分の死後」を懼れた。

そして嫡男に犬童一族排除の方法を授けたに違いない。

「島原の乱」勃発ででタイミングがズレたが、それは実行された。

清兵衛頼兄よ・・・犬童の栄華を赦すのはワシ一代のみだ。。。相良家に忠義を尽くすなら、引き際を違えるな・・・・by地獄にて頼房

それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)(球磨の部屋)(田舎暮らし/古文書館)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;

【遺言】人吉藩初代藩主編6栞60

(-ω-;)ウーン、と悩んでも言霊降りて来そうにないので、ぽつらぽつら~と考え入力しつつ、まとめてみます^-^

1620年(元和6)6月20日~相良義陽の正室・千代菊が死亡

相良16代義滋の娘・千代菊・・・相良家の全盛期から江戸期を、どんな思いで生きて来たのか・・

1628年(寛永5)10月28日~人吉藩初代藩主・相良頼房長女、於鶴が伯耆左近との結婚準備中の26歳で病没

うぅ・・・気の毒だなぁ~~

同年11月13日~犬童頼章(頼兄孫)と於万姫(頼房次女24歳)が結婚

( ̄ω ̄A;アセアセ・・・藩主の長女が亡くなって一月も経ってないのに・・・変更しないんだ・・・

「飛ぶ鳥を落とす勢い」とは、この頃の犬童頼兄のことを言うのだろう。

主家である相良家と家老である犬童家は、まるでコインの裏表のようだ。

1629年(寛永6)7月11日~頼房実母・了心尼が死亡

同年9月22日~犬童頼安の妻で、島津家久三女が死亡

家久三女の死亡時期には、寛永5年9月22日説がある(出典:垂水島津家家譜)

でもそれだと、頼章は母親の死亡直後に結婚したことになる。

家久三女は初代薩摩藩主・島津忠恒の養女ということも考えると、彼女の喪中に結婚は考えずらい。

やはり南藤蔓綿録(相良側の記録)の年月日が妥当だと思う。

1630年(寛永7)4月8日~犬童頼章と相良於万の間に長女・万徳誕生^^/

1634年(寛永11)1月18日~相良頼房正室・秋月竜子(63歳)で死亡


1635年(寛永12)?月?日~犬童頼兄が岡本に隠居所を建てる

頼兄は、ここに翌年移り住み、その時に人吉の住人を一部移住させ町を形成。

3月13日に市が立ち、中球磨の者達が参集したらしい。

頼兄が隠居所を建てたのは、主君の頼房も隠居を考えてたからじゃなかろうか。

正室が亡くなって、ショボーン..._φ(・ω・` ) と弱気になったかもです。(あくまで想像ネ)

1636年(寛永13)5月4日~犬童頼章の妻・相良於万が32歳の若さで死亡

同年6月13日~人吉藩初代藩主・相良長毎(頼房)が63歳で死亡



相良家紋ロゴ

相良頼房(改名して長毎ですが、便宜上このままで行きます)は、死に際し遺言を託した。

★頼房の遺言

一、清兵衛(頼兄)、内蔵助(頼安)、喜平次(頼章)、三人之者共之儀ハ、兼而貴所と内談申置候通題目ニ候、時分を以、分別専一に候事

遺言を託されたのは阿部四郎五郎・渡辺図書助の両名

ですが、実は両名は相良藩士ではなく、幕府から派遣された目付です


自分は頼房が「犬童一族の排除」を考えたのは、頼兄が隠居所を建てた前後くらいじゃないかと考えてます。

激動の時代・・・相良家が生き残るためには、犬童一族の力が必要だった。

だが、自分の代以降も犬童一族をそのままにすれば、将来必ず相良家にとって禍根になると考えたのだろう。

幸いにして犬童頼章と相良於万の間には娘しかない。

さらに、その於万も死亡し、縁戚としての直の関わりは無くなる。

「自分の死」がチャンスだと、息子・頼寛に指示したに違いない。

ところが実際は「頼房の死」直後には何も起きなかった

起きたのは「島原の乱」~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮~


これでは犬童排除どころではなく、むしろ犬童が必要~~( ̄ω ̄A;アセアセ


犬童頼兄には「キリシタン疑惑」があり、根拠の一つとして「頼兄は島原への出陣を渋った」と言われているそうだ。

が、実際の相良家は乱に出陣しており、相良勢を率いていたのは頼兄の子の頼安、並びに孫の頼章でした。

この時期には頼兄の隠居所は完成しているので、頼兄本人は既に隠居状態だったと思います。

「渋った・拒んだ」ウンヌンは、頼兄の預け先となった弘前藩で言われていた頼兄の罪状。

でも史実の相良家&頼兄一族は、ちゃんと出陣してるので、頼兄に罪状らしい罪状というのは実際には無かったのではないでしょうか。


1639年12月14日・・・相良頼寛は、父・頼房から遺言を託された二人に書面を出したのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

秋月種長

秋月種長に関しまして、『高鍋藩史話』の記述で、まだ記述してなかった分を上げます。

初陣は天正7年(1579)11月のまだ13歳のときで、種実の名代として大友方の小野和泉と鷲ヶ岳にて戦ったときだそうです。

父の種実はこの初陣を成功させようと、譜代の歴戦の勇士である、坂田蔵之助・坂田蔵人・内田善兵衛・内田四郎右衛門・恵利内蔵助・隈江越中・芥田悪六兵衛を付け、8,700余を率いさせたとあります。

その勇壮振りは『秋月家軍功日記』という史書に依ると、
「秋月種長命も惜しまず、面もふらず戦ひ候。この勢に敵将小野和泉、由布雪荷戦死仕り候(中略)大友方両大将戦死候故、尽く敗軍して豊州に退散仕り候」と記述されているようです。

ただ家庭に恵まれなかったとも『高鍋藩史話』には記述され、
「夫人とは別居の日が多く(人質に出してますからそれはそうですね)、子女の数少なく四女があるだけであった。

長女・昌千代は外祖父・舜有の養女となり養子・忠有と結婚し長寿を保って89歳で彦山に逝き、

次女・チョウは采女(種貞)の妻となり、

三女・サイは人質となって江戸に在ったが、後に平松宰相に嫁ぎ47歳で京都に卒し、墓は寺町通り今出川の十念寺に夫婦同石である。

四女・タネは本願寺坊官・下間大弐に嫁し、墓は鳥辺野の西本願寺惣墓所にある」。
と記述されています。

【後篇・椎葉山事件】人吉藩初代藩主編5栞59

にほんブログ村 地方・郷土史

相良家老は犬童頼兄♪(*´○`)o¶~~♪一人目の妻は椎葉の露袈裟ちゃん~

椎葉に残る記録は「椎葉山根元記」と「椎葉山の由来」の二つ。

どちらも原史料を元に江戸中期頃編纂されたらしい、おそらく人吉藩相良家支配になった直後くらいに成立したのではないか?と、推測されている。

「根元記」が村役場に伝存したせいか固い漢文調に対し「椎葉山の由来」は十根川神社の社宝で物語風になっている。

平家落人伝説から始り、相良の獺野原(うそのばる)の戦いも載ってる~~( ゚д゚)ンマッ!!

頑張って検索したけど、ネット上ではどちらの記録もPDFにアップ公開されてなかったil||li _| ̄|○ il||l


相良頼房イメージ画像

シオは椎葉で起きた最初の騒動は、相良家が扇動したと推測してます(実行犯?は犬童頼兄)

この妻うんぬんですが、詳細は不明です。

とにかく椎葉が欲しかった相良家は、その手始めとして椎葉衆代表である那須弾正の娘・露袈裟姫を犬童の妻に迎えた。

もしかしたら「相良頼房の室」と偽って誘い出したかもです。記録詳細が判らないので推測~~

ところが露袈裟姫は「不義の罪を犯した」と犬童頼兄から離縁され、椎葉に追い返されたんです

草深い山奥リアルもののけワールド・椎葉。

純朴な山人たちにはアンビリバボーなスキャンダルでした。

もともと那須弾正に不満あった椎葉衆たちは「そんな破廉恥な家に従えるかぁ!」と大騒ぎになった

その騒ぎを、まぁまぁ~と宥めたのが高橋元種だった~

高橋元種は「九州の役」で、若年ながら黒田如水・小早川隆景を敵に回して10日以上も籠城した。

その器量を豊臣秀吉に見込まれ(&秋月一族勢力の分割)、国人領主から5万石の大名になった男だ。

元種は、やかまし屋連中を上手く宥めすかすことに成功する。

高橋元種がいる限り、椎葉は相良の思い通りにはならない・・・・

高橋元種改易が相良の陰謀・・・というほど、シオも妄想するつもりはない。

だが幕府が有馬家のために、はなから高橋元種を改易させる腹積もりだったとすれば話は別だ。

幕府の内偵調査要請に積極的に協力した・・・くらいの想像は許されるのではないだろうか。

高橋元種改易後に入ったのが、前篇で話した有馬氏(妻は徳川家康が溺愛する曾孫・国姫)

高橋元種というフタを無くした椎葉衆は、少し煽れば即一揆騒ぎになっただろう。

何せ椎葉代表の那須弾正は、物なりが少ない山奥なのに重税を課していたんです。


高橋家紋

常ならば、一揆扇動は重罪で許されることではない、だが椎葉の場合は毛色が違った

那須弾正は御朱印衆で、ことは幕府の権威に関わることだったからです

那須弾正は豊臣秀吉から「御朱印」をもらったのだが、その権限は江戸幕府においても継続して認められていた。

理由いかんに関わらず、御朱印衆に対し歯向かうことは、それ自体が幕府に対し不埒なことになる

当時の領地支配で、自分の見栄とか諸役を果たすために、ほいほい増税するのは普通だった。

一揆の理由が弾正が課した重税が原因でも「重税」そのもので弾正が処断されることは、おそらくなかっただろう。

それは弾正を「御朱印衆」とした幕府の専任ミスを認めることになるからです。
(罰するとしても、名目・罪状は違うものにするってこと)

揉め事だらけの椎葉を新当主・有馬氏が治めることは、かなりキツイ。

椎葉一揆は有馬氏(くどいようだが妻は家康溺愛の曾孫)が統治しやくするためのガス抜きとして、仕組まれたものではないだろうか?

そして幕府の意を受けて動いたのが相良頼房と家老・犬童頼兄ではないだろうか?


一揆鎮圧のため、相良家は幕命で動員されている(用心のため、加藤家・有馬家にも動員かかるが、主体はあくまで相良家)

通常であれば、一揆鎮圧の功績で椎葉は相良支配になったはずです。

相良家でも「それ」を期待し、一揆側のみを捕え処断した。

何より高橋改易前の騒動が相良家の企みであれば、口封じのため首謀者たちを何としても始末しなければならない。


相良家紋

「椎葉山根元記」と「椎葉山の由来」の他に、椎葉には「仙千代踊歌」という民謡が残っている。
 西の障子に笛吹くは、仙千代殿かよ、音のよさや。
 仙千代殿かと、出て見れば、憎い法師が陰をさす。
 青糸千がら、二千がら。赤糸千がら二千がら。
 四千揃えて、編みすいて、憎い法師を、
 さまわけて、かけて取ろうや仙千代を。
宮崎銀行HP内「日向民話集/中村地平著」http://www.miyagin.co.jp/pleasure/index.html
仙千代は15歳の美少年で横笛の名手。那須弾正の甥だが優しい気性を領民に愛されていた。

一揆勃発の日、仙千代は叔父・弾正所蔵の本を読むために、たまたま弾正の向井山城を訪問してたらしい。

中村氏の民話集によると、那須弾正は命惜しさに、椎葉衆が愛する仙千代を楯にしたそうだ。

仙千代を認めて一瞬怯んだ一揆側だが、その見苦しさに逆上~弾正は仙千代もろとも殺された。

幕府に一揆を訴え出たのは、弾正の弟(仙千代パパン)主膳ということになっている。

一揆鎮圧後に主膳は出奔・・・残る妻・上嬢は「息子の死&夫の出奔」ショックで程なく死んだそうだ。

最初にあげた露袈裟(つゆけさ)姫の足跡は判らない。
だが自分の離縁が元で騒動になったのなら、、、、自害か、出家のどちらか、いずれにせよ悲劇だったに違いない。


で、肝心の椎葉だが、「虎の狸さんで相良のモノにはならず阿蘇氏預かりな件」

有馬「キリシタンで懲りたから、うちは面倒はイヤなの」
阿蘇「うちだって迷惑だ ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」

統治が上手くいかず、明暦二年(1656年)からは幕府天領となり、その支配を人吉藩相良氏に命じます。

有馬家に伝わる相良関連資料だと、初め相良では「お手柄ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ」と喜んだらしい。

が、冒頭にあげた「犬童の妻は~」と、伝承されてるところを見ると、椎葉では相良家に含むとことがあったっぽい( ̄ω ̄A;アセアセ

何せ一揆鎮圧は相良がメイン~~~150数人が処刑され、それらの妻子が20数人自害してるんです。

結局揉め事が絶えず、相良としても持て余し、お荷物状態になったそうだ( ̄ω ̄A;アセアセ



残る伝承が「一揆鎮圧の処置を恨んだ」ものなのか「相良が何事か仕組んだことへの怨嗟」だったのか。

いまも焼畑が続く、平和で静かな山里・椎葉・・・真実は霧の奥深く、いまも靄の中です。

次回、構想練るため間空きます~~それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)(球磨の部屋)(田舎暮らし/古文書館)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;

【前篇・椎葉山事件】人吉藩初代藩主編4栞58

日向は宮崎県椎葉~~N〇Kで焼畑を紹介してました~~平家落人伝説の方で知られてます^^/
にほんブログ村 地方・郷土史

1612年(慶長17)2月~岡本大八事件が起きる

周り廻って相良にも関わるのだが、ザックリとウィキペディアです
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

賄賂を貰った岡本大八は火刑、賄賂を渡した有馬も切腹を命じられた。

(ただしキリシタンだったので切腹を拒み、家臣に首を落とさせた)

だが死んだ有馬の嫡男・正室が、徳川家康が溺愛する曾孫・国姫だった。

実は国姫の生母・熊姫も家康のお気に入りで、目に入れても・・・というデレデレぶり。

というのも熊姫(孫)国姫(曾孫)母娘は、非業に死んだ家康長男・信康の血を引く姫君だったからです。

ということで嫡男が一度家督を継ぐ、有馬嫡男は幕命でキリシタンを迫害した。

だが領民を迫害することに良心が咎め(←これが普通の感覚です)キリシタンと関わりない場所への転封を願うようになった。

国姫を妻に持てば怖いものなし~~

幕府は、有馬家が入るに適当な地を選定しはじめる。

1613年5月17日~大久保長安事件~

またまたウィキペディア~スルー可
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

この大久保長安事件で、連座として処分されたものは多いのだが、その中に日向・縣5万石の高橋元種がいる。

表向きの理由は、坂崎出羽守の訴状により改易となった。

坂崎は・・・なんというか、そのお騒がせ男です( ̄ω ̄A;アセアセ

有能なんだけど、性格がヤバい男で・・・危ない逸話があるけど、ここでは割愛。別の機会にやります。

有馬氏(の妻の可愛い曾孫国姫のための)新天地を物色してた幕府にとって、坂崎の訴訟は渡りに船。

高橋元種は「初めに改易ありき」で、裁定といいつつ坂崎とも対決することなく処断された。


相良家紋

高橋家の後に(予定?通り)有馬氏が入るのだが、相良家と米良山・椎葉山を巡る国境問題も持ちこされてしまったらしい^^;

有馬家によると「相良は米良・椎葉に執着してた」と勘繰っています。

このあたりは微妙です、結果だけみて言うのはカンタンですから^^;

ただ、有馬家所蔵の古文書の中に相良関連のものがあるんです。

専門研究家の裏付けがあるわけでなので、これは「子孫補正・年代の読み間違いがない」ものとしての話です


その古文書のなかに「高橋改易前の4か月前に、相良家で高橋改易に触れている文書がある」というのです。

(古文書の解読に間違いないものとして)考えられる理由は[幕府からの高橋家内定調査依頼が隣国で縁戚の相良家に来てた]です


幕府の隠密が、江戸初期から活躍してたとは、ちと考えずらい。

第一、余所者が来たら方言・習俗の違いで即バレるだろう。

その点、相良なら隣で、日向とは長年「草の根レベル」の交流があるので、内定調査にはもってこい。

相良頼房は国境問題を自分に有利とするために、幕府からのスパイ依頼を引き受けたのでは?

子孫HPでは「相良家には表と裏の顔がある」と記しています。

これはシオも感じているところです。

とはいえ、発想に飛躍がありすぎるような・・・・面白ければ面白いほど、うかつに飛びついたらイカーーンと己を戒めておりました( ̄ω ̄A;アセアセ

ところが、その後に起きる「椎葉山事件」を調べているうちに「やはり相良家では高橋家を潜入捜査してたのでは?」という疑念が再び起きたんです。

歯切れの悪い記事で申し訳ない( ̄ω ̄A;アセアセ

史料が少なく、想像で補う部分が、いつも以上の多いので慎重になってました。


高橋家紋

椎葉は那須十三人衆という国人たちが支配していました。

その中で代表格である那須弾正が、秀吉から御朱印状を貰ったことを良いことに、驕慢の振る舞い甚だしく年貢の取り立ても過酷だったそうなんです。

そのため不穏な状態になり、それを高橋元種が宥め慰撫し、とりあえずは治まった。

「相良は椎葉山・米良山が欲しかった」

リアルもののけ姫の世界で山ばっかの土地なんだが、両方合わせれば1万5千石くらい(無理矢理捻くり出して)か?

1603年の訴訟裁定では「米良山は相良預かり」と提案されている。残るは椎葉山のみ。

高橋元種の慰撫で椎葉が平穏無事のままでは、相良が食い込む余地がない。

幕府からの内偵依頼があったとすれば、相良にとって椎葉を手に入れるチャンスなんです。

高橋領内だけでなく、椎葉周辺も調査したかもしれません。

1619年・・・日向・椎葉で一揆が起きるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)(球磨の部屋)(田舎暮らし/古文書館)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;

【哀しき未亡人】人吉藩初代藩主編3栞57

シオ地方は部分日蝕~既に始業中でしたのでチラリンと見ましたよ~^^/
にほんブログ村 地方・郷土史

1608年(慶長13)10月4日

島津家久(四兄弟末弟)三女と相良頼兄嫡男・頼安が結婚した

家久三女は薩摩藩主・島津忠恒の養女、頼兄嫡男は人吉藩主・相良頼房の弟分という扱いだった

もちろんこれは政略結婚。相良と島津の関係強化のためです。

それぞれ自分の子供じゃないのは、この時点で忠恒に子供がいないのと、頼房のほうも子女は幼い。

双方、釣り合いとれるカップリングを引っ張り出しての結婚だった。

家久三女は再婚で、推定だが頼兄嫡男より6つほど姉さん女房だったらしい。

1609年?月?日~愛があれば歳の差なんて~二人の間に頼章(頼兄嫡孫)が産まれる

政略結婚のためとはいえ、相良家側が頼兄嫡男というのは、主君・頼房がいかに頼兄を重用していたかが解る。

で、その翌年には前回話した頼房の弟が寂しく病没。

1612年3月9日~薩摩藩主・島津忠恒が200人随行し人吉訪問((((((((((っ´▽`)っヤポー~

ちなみに200人は少ない方なんだって~~相良は2万石だからなぁ~人数制限したんだろなぁ

忠恒は相良頼安の屋敷に逗留~家老衆は新造の客屋に宿泊。

忠恒は青井阿蘇神社にて能を振舞われ、忠恒も自ら連れて来た中西出羽という能大夫に舞わせた。

また頼房嫡男・長寿丸も「三輪」という能を舞い、忠恒はご機嫌~

11日に願成寺へ参詣し、忠恒は琉球から取り寄せた芭蕉布20巻・砂糖1壺、上州綾並に燭台1対、仏前に金子500疋、他に白銀・樽・菓子などを寄進したそうです。

10日ほど滞在し、頼兄・頼安父子が案内役として終日饗応、最後は主君・相良頼房が赤池まで見送り、頼安はその先の大畑まで見送ったそうです。

すごい大接待( ̄ω ̄A;アセアセ~そうとう金がかかっただろうなぁ

華麗なる一族?隆盛を誇る犬童一族の陰で、一人の姫君が死んだ

1617年(元和3)10月~相良義陽の異母妹・亀徳姫が死去

噂ですが( ̄ko ̄)<亀徳姫は、犬童頼兄に蔑ろにされたあげく餓死したそうでつ・・・



相良家紋

シオは、この噂?も不自然だと感じるんです。

犬童一人が「悪」にされているが、「亀徳姫を蔑ろ」にしたのは「犬童一人ではなく相良家中示し合わせてのこと」だと思うんです。

( ̄ko ̄)<実は亀徳姫は、かつて島津義弘の妻だった女性なんです

島津義弘が2回政略結婚してたことを、知ってる人は「プチ島津オタ」に入ると思う。

そのうちの一人が、亀徳姫で無論、相良義陽存命中のことだ。

記録が少なくて二人が結婚・離婚した時期もハッキリしてない。

それどころか加治木に残る伝説では、亀徳姫は義弘との離縁を嘆いて入水したことになっており、彼女を祀る神社まである。
( ̄ko ̄)<そこの泉を〇〇すると、美人になれるそうでつよ~~~呑むか洗うか度忘れ・爆

結婚破綻の理由はズバリ「義陽が島津を裏切って、日向伊東と手を組んだから^^;」

どうも義陽は、異母妹の結婚破綻で政略結婚に懲りたっぽい。

自分の娘たちを政略の駒として使わず、中には病弱だからと手元に置き続けた娘もいるほどだ。

政略結婚に破れた姫様の再婚先テンプレ⇒⇒⇒身内(従兄弟率高し)

てことで亀徳姫は従兄弟・上村長陸と再婚する。

上村家と相良家の関係を話すと20話以上鉄板なので、結論から言うと「夫・長陸は謀反を企て討ち取られた」

ザックリ慶長年間と伝わるのみで没年不明 il||li _| ̄|○ il||l 

未亡人となった亀徳姫は尼となる。さらに息子も早逝 il||li _| ̄|○ il||l

不幸のドン底亀徳姫だが、それだけに世俗の喧騒とは無縁の静かな祈りの日々だったに違いない。

彼女の身辺が騒がしくなるのは「冒頭の家久三女の嫁入り」だろう。



人吉城二の丸

相良家にとって、義陽が何度も島津との同盟を反故・裏切りしたことは、いまさら蒸し返したくない黒歴史。

過去は忘れ、忠恒養女を人吉の地に迎え、島津との関係を新たに構築しなければならないからだ。

亀徳姫が住んだ「原城の下原」というところが、人吉からどのくらい離れているかは土地勘無しのシオには解らない。

だが「かつて島津義弘の妻だった姫様がいる」という事実そのものを隠したかったはず。

もしかしたら相良家は島津家に対し「亀徳姫は死んだ」ことにしてたかも。

島津家縁戚となった犬童一族への遠慮から、人々は亀徳姫に対し距離を置く。

人間の心理とは面白いものだ。

自分から距離を置き粗略にしたくせに、その後ろめたさから今度は「粗略にした事実」そのものを隠したくなる。

ふと「イジメっ子がイジメるのを、見て見ぬふりする周囲の子たちlを連想した。

「自分たちは悪くない」「悪いのは犬童」まるで免罪符代わりの呪文のようだ。



亀徳姫が死んだ年、家久三女と頼安の子・頼章が加治木で元服する。

「元服の儀」を差配したのは島津義弘だ。

弥栄の犬童に比べ、世を捨てた尼とはいえ、誰からも省みられることなく孤独に死んだ亀徳姫の胸中はいかばかりだっただろう。

政略結婚は戦国の世の常と、諦めて胸の奥にしまい、固く蓋してた恨み辛みが逆流しそうだ。

「亀徳姫は死後祟りをなした」らしいのだが、それも何があったのかハッキリしていない。

ただ「当家近代の怨霊と申すはこの良意(亀徳の法名)にて御座るべく候」と伝承が残った

猫が治まったと思ったら、今度は尼か・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

[粗略にしたのが犬童]であったとしても、それを見て見ぬふりして亀徳姫を死においやったのは相良家中全体がしたことだ


ふつう祟り云々という話があると、やれ祈祷だ、やれ地蔵堂だ~と大騒ぎするのが、この時代。

だが亀徳姫に関し「人々は沈黙」した。

伝承も伝説も、あるのは加治木で人吉には無い。

亀徳姫の墓は草の下に埋もれていた状態で、場所を示す印もなかったらしく、それを尋ね見付けだしたのが頼兄の孫の頼章だったそうな。

加治木に亀徳姫にまつわる神社があるから、そっちで慰められてるかなぁ^^;

さて、相良の外を見渡すと、天下では大きな事件が起きており、それは相良家にも関わってくるのだが、それは・またの話 by^-^sio゙

次回:椎葉山事件・・・たぶん前篇,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)(球磨の部屋)(田舎暮らし/古文書館)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;

【当主の弟】人吉藩初代藩主編2栞56

にほんブログ村 地方・郷土史

専横か忠臣か、しょせん受け止める主君の胸一つ


1603年3月9日~相良頼房長女・於鶴姫が誕生^^/
1605年7月1日~相良頼房次女・於万姫が誕生^^/

1605年11月7日~相良義陽生母・内城が死亡 ショボーン..._φ(・ω・` )
1606年11月7日~犬童頼兄の父・犬童頼安が死亡 ショボーン..._φ(・ω・` )

産まれ出ずる命あれば、逝く命あり。

父の死で犬童頼兄の専横に対するストッパーがいなくなった・・・というのが大方の観察だろう

だが、それは頼兄の主君・頼房にも言えることではないだろうか


1605年に死んだ内城は、20代目頼房からみて祖母にあたる。

彼女は、ただの老女ではない。

亡き父・義陽が若年当主となった時に、後見を務めた女性です。

「朝鮮の役」でも出陣した頼房に代わり、国許家臣らと協力し留守を守ってます。

おそらく彼女は相良家の内外に関し、一家言も二家言もあったはずで、頼房は頭が上がらなかったのではないだろうか。
(偉大すぎるグランマ)

犬童頼安に至っては大大大大功臣ですっ!!!

島津軍を相手にした水俣城攻防戦、義陽死後に若年の頼房を支えつつ各地へ転戦。

頼房の初陣前に父・義陽が死んでいるので「弓矢の駆け引き」を頼房へ指南したのは頼安かもです。

関ヶ原以降だと、頼安の戦歴は半ば伝説化してたんじゃないでしょうか。

この二人が存命中は、頼房も頼兄も「自分の思い通り」に事を進めるのは、難しかったと思います。


相良家紋

1610年6月23日に頼房の弟・相良長誠が死亡する


闘病生活の末、不遇の死でした。

相良長誠の不遇は、頼兄に起因してるんですが、兄で藩主の頼房が容認してたのでは?と勘繰ってました。

話は遡って「九州の役」の時、相良家は島津サイドから一転して豊臣政権に臣従します。

重臣・深水長智の功績です。

その時に深水は長誠を同行してて、当主である頼房より先に、弟の方を秀吉に拝謁させてるんです。

「相良家の誠意」として人質を差し出したのは、秀吉を喜ばせたのですが、一つ問題なのは拝謁が深水の独断だったことです。

当時、頼房は日向におり無事に生還できるか不明でした。

たとえ無事でも「島津加担の罪」で処断される可能性もあった。

深水は万が一の場合は弟・長誠を擁立する事態も想定し「保険として」秀吉にお目見得させたのでは?

というのがシオ推測なんです。

長誠は、相良家中で隆盛を誇る深水一族のいわば「手駒」

成長した長誠は、中城に居室を構えて移り住み、深水長智の養子・深水頼蔵の娘と結婚しました。



家督を巡る御家騒動が多い相良家・・・・頼房にとって深水一族の懐に入った長誠は「危険な弟」です。

長誠は「兄の家臣の列」に連なってはいない。

犬童一族と深水一族のパワーバランスの狭間で、危うい立ち位置にいる。

「朝鮮の役」の頃に、ついに深水一族VS犬童頼兄となり、犬童が勝利を治める。

さしもの深水一族も大きく勢力を削がれ、相良家中に犬童家に歯向かう者はいなくなった。

仕事キッチリの頼兄は、相良長誠に圧力かけて「深水頼蔵の娘」と強制離縁させてるんです。

仲睦まじい夫婦だったらしく、長誠はショックで病に倒れてしまう。

当時、頼房は二十歳前後なので、どこまで関わったか微妙だが、深水一族排除に関し頼兄に味方したのは事実です。

若年の頼房が当主としての基盤を確たるものにするためには「誰かが担ぎ出す可能性がある弟」を排除する必要があります。

ようやく立ち直った長誠は再婚するんですが、病気再発を理由に、再び頼兄が圧力かけて強制離婚。

失意の日々で病の床につき33歳の若さで亡くなった。

この頃になると頼房には嫡男がおり、当主スペアとしての長誠の存在は必要ない。

藩屏(はんぺい・徳川御三家みたいなもの)は、当主・頼房の直系から作るべきで余計な傍系は不要。

離婚させたのは、長誠の血統を残したくなかったからでは?

そして、それを願うなら犬童頼兄ではなく、地位を脅かされる可能性のある当主・頼房の方だろう。

頼房の嫡男が産まれた時点で、長誠が城を出て家臣(支族)になっていれば、違う最期だった?

相良頼房は、頼兄を巧みに使うことで、自分にとって不用・邪魔・危険な人物を排除したかもです。

シオ頼房はダークな件~~~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

次回・御姫様の話・・・それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)(球磨の部屋)(田舎暮らし/古文書館)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;

【プロローグ】人吉藩初代藩主編1栞55

シオブロ書庫に「〇〇初代藩主編」が多いのには、実は訳がある

それはシオが「偉大な父を持ったために苦労した息子」萌え 川* ̄д ̄*川ポッ だから

まぁ初代藩主限定・・・というわけでなく、年代によっては初代藩主じゃない場合もあります^^b

てことで、相良家だと高名な義陽より、その息子・頼房ファンなんですぅ(マニア杉

武将としての能力なら、頼房は父を凌ぐ(`・ω・´)キリッ と思いたい・思わせたい~オタクのシャウト

初代藩主編第三弾?~~新章・人吉藩初代藩主編スタート^^/

にほんブログ村 地方・郷土史


相良家紋

さて、関ヶ原/大垣城編にある西軍から東軍への寝返りと軍功で、相良家は人吉2万2千石を安堵された。

義陽の全盛期時代と比べると、かなり目減りしたが 小なりといえども本貫地を死守 したんですから立派なものです^-^

活躍した相良家老・犬童頼兄(いんどう よりえ)は、主君・相良頼房と共に徳川家康に拝謁。

これにより頼兄は、陪臣の身ながら「御目見得」格となりました。

陪臣が将軍家に拝謁するには、初回は主君の同席or推薦状必携なんです。

が、二度目以降は「御目見得」資格保持者として、単独での拝謁が可能になります。

つまり、頼兄は「相良家に何事か生じた時」は「将軍家(幕閣)と直接交渉することが出来る」スーパー重臣となったの。

「御目見得」の家臣がいることは、相良家にとってステータスになると同時に諸刃の剣でもあります。

「将軍家見知りおき家臣」は、たとえ主君といえども軽々に身柄をどうこうすることが出来ないからです。
(勝手にやると将軍家の威信を傷つけることになる)

むろん、豊臣政権五大老筆頭の徳川家康に拝謁した時点では、そこまで相良頼房も計算してなかったでしょう。

「御目見得」云々は、徳川将軍家・江戸幕府の権威が強くなるにつれ、やかましくなってきたんです^^;
さて相良家の周辺は・・・といいますと、まず寝返り仲間の秋月家・高橋家が領地安堵。
相良以前に寝返り済の伊東家も領地安堵・・・だったが高橋家と揉めた^^;
1601年に高橋と伊東が揉めた原因である城が、伊東家から高橋家に返還で解決。
(詳細は別章で扱う予定)
1602年に島津家が領地安堵決定。
同年に伊東家で「稲津の乱」が起きるが飛び火することなく終息。
天下分け目の関ヶ原の余燼は、おさまりつつありました。

1602年11月28日~相良家は青井阿蘇神社の両脇に祠を建て慈悲権現を鎮座。
相良家に祟りをなしたという老婆と飼猫・玉垂チャンの御霊を安んじたそうな。

この祟りの真偽は別にして、相良家では領内の人心を宥める効果を期待したことだろう。



人吉城二の丸跡

大垣城では義理と実と兄弟同士で協力してた相良家と高橋家。

だが関ヶ原以降に両家は国境問題で揉めてたらしい。

揉めた土地が米良と椎葉~~現地に住む国人たちをガン無視なのは毎度のことですな( ゚Д゚)y─┛~~~


言われてみれば解らないでもない。

父・秋月種実に似て策謀上手の高橋元種は、関ヶ原前に高千穂・三田井家を滅ぼし領地ゲッツしてるんです。

さらに米良領も我が物にしようとするんですが、こっちは失敗。

この高橋元種の動きを、米良・椎葉を挟んで隣にある人吉・相良家が快く思うはずがない。

「関ヶ原の戦い」で一時中断してたが、1603年に椎葉山と米良山の所属をめぐって訴訟に発展した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・豊臣家と江戸幕府のドッチに訴え出たんだろう( ̄ω ̄A;アセアセ

仲介役が片桐且元と黒田長政なんで、どっちとも判断つかないなぁ~(参照先に記載なし)

とにかく仲介二人は「相良氏は米良山を、高橋氏は椎葉山をあずかってはどうか」と提案したそうだ。

肝心の提案後が判らないのだが、結果からみると受け入れたようにも思う。



「専横があった」として後に失脚する犬童頼兄。

だがシオは「頼兄の専横」には、主君・相良頼房が一枚噛んでる(`・ω・´)キリッ と推測している。

相良家臣は主君・頼房を「まれにみる大剛の将」と褒め称えている。

朝鮮の役での頼房の奮闘ぶりを見ると、決してお世辞ではない。

相良頼房は家臣の専横に・゜・(PД`q。)・゜・メソメソ悩むようなヘタレ当主ではないはずです


そもそも犬童頼兄に大きな権限を与えたのは、頼房の方だろう。

そして、そのキッカケとなるのが、この国境問題ではないだろうか?

頼房には頼兄の辣腕が必要で、そのために彼を意図的に引き立てた・・・というのは穿ちすぎだろうか。

元より史料的な裏付けがとれる推測ではないので、頼房ファンのシャウトと軽く読んでお付き合い頂ければ幸甚です^-^

頼兄の専横や椎葉とのからみ、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)(球磨の部屋)(田舎暮らし/古文書館)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;

相良用


人吉城二の丸

人吉城三の丸から見た球磨川と人吉市内

頼蔵と頼兄


相良家紋
家紋作成元
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen


相良頼房(長毎)

相良義陽
画像作成元
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676


参照先「球磨の部屋」
http://kuma.atukan.com/

北肥戦誌【1552年】 帰りたいのに帰れない~

天文21年(1552)

飢饉が発生し、10人に8人の領民が餓死する有り様であった。

一ツ木村に逗留中の隆信らも次第に窮乏していった。

これに福地信重は、福地太郎左衛門と小林播磨守を召して肥前へ渡海し、船津の郷長・村岡藤七兵衛の屋敷に出向き兵糧の加勢を願い出た。

村岡はこれを承諾、兵糧を積んだ船を商売船に仕立てて、世間には天草へ行くと申したてながら、一ツ木村へと送り届けたのである。

またこの年に、旧臣・鴨打胤忠が自らの領地である蘆刈へ隆信を迎えんとの動きを見せた。

胤忠が一ツ木へ船を差し向けると、隆信は大いに喜悦し、家中の男女連れ乗船し渡海した。

だが天運未だ至らず、俄かに暴風に見舞われて、船は柳津留(小城市牛津町砥川)の入り江に迷い込んだ。

そこは杵島郡の有馬領である。

胤忠の別腹の兄・胤賢は弟と不仲であるが、隆信漂着を知ってこれを討ち取らんと迫る。

隆信らの船は、何とか柳川へ漕ぎ返し事無きを得た。

7月9日の夜半、有馬勢が小城へ乱入し千葉領を犯した。

千葉勢はこれを追い帰すも、仁戸田刑部大輔が波佐間村で討ち死にした。


なかなか思うように行かない肥前の熊さま __φ(.. ) メモメモ

北肥戦誌【1549~1551年】

天文19年(1550)

7.1、大内義隆の偏諱を受けて《隆胤》とし、7.19には《隆信》と改めた。

天文20年(1551)

9月1日、大内義隆が老臣・陶隆房(後の晴賢)に弑逆された。

これを聞いた土橋栄益は大いに喜び、密かに鑑兼擁立を同族と内談、大友・少弐の元へその旨伝えると、
反隆信の神代勝利、小田政光、八戸(やえ)宗暘(隆信の姉婿(妹婿とも))、江上武種、筑紫惟門ら19将、他に有馬・後藤・多久の者と語らい佐嘉城を囲む。

城中には龍造寺一族、鍋島、納富、小河、福地、江副、安住ら譜代の者らが居たが、防戦の手立てはなかった。

10月25日の夕刻、小田政光の老臣・深町理忠入道が城の大手門へ参上し、納富信景・福地信重を呼び出し対面し、
「隆信公の此度の御籠城、至極難儀の事と愚老見出し、今日は敵となるも明日は味方となるが侍の習いなれば御労しく存じ、主・政光へ談合し、寄せ手の面々へ隆信公の御安穏を取り付け候。どうぞ心安く今宵に城を開かれ、急ぎ何方にでも御退きあれ」と述べた。
伝え聞いた隆信は、これを信用しない。

隆信は「これは我らを易々と討ち取る計略に如かず。先年、剛忠公が水ヶ江城にあり一門悉く討たれた。それに懲りもせず騙され、この首を野に晒すよりは、城にて潔く腹を切る」と返した。

理忠は、「弓前の神に誓いて、全くの偽りに候わず。御嫌疑あるなれば、この愚老人質となりて当城へ入り申す」と発し、太刀・刀を渡して城へ入った。

これに感じ入った隆信は申し出を信じて、その日の夜半に上下老若男女200余人は佐嘉の城を忍び出、幼女に至るまでの皆が槍の柄を短く切って携え、敵の只中を押し通る。

このとき、佐嘉の侍の中には国元に残った者や、他国へ浪人する者もあった。

ただ、隆信は強かな人物であった故か、悔しがる風を見せなかった。

一行は南方の井尾村へ至ったが行く宛が無かった。

これを伝え聞いた筑後柳川城主・蒲池鑑盛は急ぎ堤津へ遣いを出して、弓取りは皆同じであると、隆信一行100余人(80余人とも)を柳川領の三瀦郡(みずまぐん)に迎えた。

隆信は鑑盛の援けにより、先年に剛忠が住んだ一ツ木村へ移り、原恵俊(原野兼俊とも)の屋敷に住まった。

また、鍋島清房の次男・法師丸(後の直茂)は千葉胤連の養子となっていたが、14歳となっていた今年、養父胤連の元を辞して、本庄の館に入った。

一方、同月26日、佐嘉城には土橋加賀の望み通り鑑兼を城主とし、自らはその後見となると、小田政光・八戸宗暘・高木鑑房・神代勝利の家人を交替の番とした。

にほんブログ村 地方・郷土史


蒲池さん・・・ショボーン..._φ(・ω・` )
神代・・・・橘朝臣幸麿さまに肖像画頼もう~φ(.. ) メモメモ

橘朝臣幸麿さまーo(* ̄○ ̄)ゝー後で原画送りまつねぇ~

北肥戦誌【1548年】

天文17年(1548)

この年の3月22日、村中龍造寺の正統・豊前守胤栄が卒去した。

胤栄には世継ぎが無く、娘が一人いただけである。

老臣らは龍造寺の正統が潰えるのを懸念し、老臣・小河武純(後に信安)、納富道周(栄房)、江副久吉、そして龍造寺家直らの詮議を受け、

鍋島清房と談合して、水ヶ江の当主・胤信に胤栄の室を娶せて、村中家と水ヶ江家を一つにするとの衆議が決定、胤信は佐嘉城に入る。

しかし、村中家の中には胤信相続を快く思わない者も居た。

村中老臣・土橋栄益は、家門の後継となった鑑兼を正統に立てようと謀り、鑑兼の烏帽子親である豊後の大友義鑑と内談した。

その頃、大友は大内との緊張が高まりつつあり、大内に与する胤信を失脚させんとしていた。


また胤栄の簾中(=妻)は胤栄を忘れられず、胤信と和親しなかった。

これを憂いた老臣・小河武純は簾中にまみえ、胤栄との間に生まれていた娘:於安(数えで7歳)を乳母から受け取ると脇差を抜き、
「村中・水ヶ江両家和親すべきを、御簾中が胤信公と御親しみにならぬ故に、御家は二つに割れ、近国の諸公が佐嘉に攻め込まんとの風聞あり。
味方は防ぎようがなく、この姫君も敵の虜となりましょう。斯様な恥は耐えきれませぬ。ならば旧恩に報いて、某が刺殺して進ぜましょう」
と、抜刀し掛ける。

簾中は仰天し「以後は心を改める」と述べて、「娘を放してくれ」と泣いて手を合わせた。

武純も涙ながらに喜悦し、於安を乳母に返すと退出していった。

以後は、胤信と簾中の仲は睦まじくなった。

於安は後に、蓮池城主・小田鎮光に嫁ぎ、鎮光切害の後は、唐津城主・波多親に嫁ぎ、親が遠流になると尼となり「妙安」と名乗った。

同年8月11日、鍋島清房の内室(鍋島直茂の母)が卒去した。



この頃、少弐冬尚が勢福寺城へ復帰する。

冬尚は、胤栄死去で佐嘉の人心が揺れる間にと帰国を思い立ち、伯母の婿である宗讃岐守義調(入道一鷗)へ加勢を請い、兵300を貸した。

冬尚は東肥前に討ち入って勢福寺城を目指すも、元少弐家臣ながら今は大内により城番に任じられていた江上隆種の兵が居た。

冬尚は夜に城へと忍び入らんとするも、この日の番将・光安忠三郎の奮戦により防がれる。

しかしながら、隆種自身が城から兵を退き、冬尚に城を明け渡した。





於安は・・・・・気の毒な女性です・・・・゜・(PД`q。)

しかし少弐はしぶといですな ( ゚Д゚)y─┛~~

【竹林へおいでよ♪】関ヶ原/大垣城6栞54

にほんブログ村 地方・郷土史

メイン出典元「南藤蔓綿録」^^/


家康より西尾光教・水野勝成・中村一栄らの勢が差遣され大垣城を攻囲。

相良頼房は義兄弟である秋月・高橋と密談。

それを奉じて犬童頼兄(相良家老)が、三の丸の垣見らの陣屋へ出向いて口上を伝えた。
犬童「三の丸(大垣城)の外回りに竹林があるが、これが寄せ手の強みとなり、宮方(味方?)の弱みとなっている為、これを切り払って平地にしたく存ずる。
まずは御自身で御覧になられ、その上で如何に普請すべきかを仰っていただきたい。
多人数では寄せ手に目立ちますから御手周りに一両人ずつ召し連れられるのが良いでしょう。
二の丸よりは三人の名代として拙者が出向きます」

すると、「ならば、明日の良き時分に御主が我らに注進せよ」と三名(垣見・熊谷・木村)が応じます。

(※ちなみに「南藤蔓綿録」には、筧和泉守となっているのですが、これは垣見家純のことなので補正してます)

1600年(慶長5)9月18日、犬童頼兄は十名程を引き連れて三の丸へ行くと数人を留め置いた。

そして手廻り一両人を連れ垣見の元へ行くと、豊永五助という者に竿を担がせて垣見を呼びに行かせます。

すると垣見が鎧を着ようとした為、五助が「左様に物々しくされるとは笑止千万。何の恐ろしきが御座いましょう」

と述べると垣見はそのまま外へ出て、熊谷・木村も垣見が呼び寄せます。

約束通り垣見らは手廻りの一人に槍を持たせたのみで現れた。

企みと知らぬ垣見らは、竹林の所で竿を渡して普請の話合いをしている。

頃合を見て、留め置いていた者が静かに現れ、側にいた犬童頼兄が目配せて声を掛けると抜刀!

三名に切り掛かります。

異変に気付いた垣見ら三名も抜刀しますが、垣見・熊谷・木村、その子・伝蔵はその場で討ち取られました。



(馳ぽん提供~大垣城画像~)

「城を枕に討死します(`・ω・´)キリッ」と決意を家臣に認めた垣見家純・・・

そんな彼の最期は騙し討ちによる死・・・せめて甲冑を身に着けていたら、まだしも抵抗のしようがあったかもしれない。

なんともやりきれない話だが、グズグズしてたら相良・秋月・高橋が「西軍加担の罪」で処断されてしまいます。

西軍・東軍どちらも「大義名分=豊臣家のため」なのだから、とっとと勝ち馬に乗り換えなきゃです。

彼らは豊臣秀吉から領地安堵を受けたのであって、石田三成に義理立てしなければならない理由は無いんです。

犬童頼兄は寄せ手の水野の陣へ参じて、四名を討ち取った事、本丸の福原も自分達で攻め落とすと伝えます


ところが大垣城の本丸は四方が水堀で大手門にしか橋がなく、二の丸を眼下に置く縄張りであった。

そのため高櫓からの鉄砲攻撃に苦しみ、更に、材木で作った仕寄(いわゆる塹壕)に鉄砲避けの竹束を付けた場所へ火矢が射掛けられる。

仕寄の消火作業に追われ アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ している処へ、鉄砲が討ち掛けられる (゚ロ゚屮)屮ぅをっ!

てな感じで苦戦しまして( ̄ω ̄A;アセアセ

寝返りMEN'Zの攻撃では、結局落とせませんでした。

が、水野が本丸へ使僧を遣わし、23日に福原が本丸を明け渡した事で合戦が終了したんです。




そもそも水野が大垣城攻撃((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~ としたのは、亡き父を殺した加賀井重望(かがのい しげもち)。

・・・の息子が大垣城に西軍として入城してたからでした(加賀井本人は既に成敗されてます)

自分の手で「父の仇を取りたかった」水野は、加賀井の代わりに彼の息子を始末することで(自分の中で)ケリをつけたかった。

自ら槍を振るってハッスルしたそうな^^

石田三成の縁戚で朝鮮の役の軍監ってことで、武断派に憎まれていた福原長堯。

水野は降伏してきた福原の助命を願い出た・・・ともあるが、福原の降伏時の条件そのものに助命があった・・・とも言われている。

いずれにせよ福原は石田派官僚として、あまりにも東軍諸将の憎しみを買っていたので、助命は叶わず自害することになる。

相良・秋月・高橋は、この「功績」により領地安堵された。


とまぁ物語なら「めでたしめでたし」で終われるのだが、本物の戦となると、そうは問屋が卸さない。

大坂にいる秋月の妻女は、夫に寝返りを知らないまま島津義弘らと危険な逃避行に同行しちゃうし~~~

高橋の寝返りを知らない日向本国の伊東家(本戦前に西軍から東軍へ寝返り)が、高橋の領地を攻撃しちゃうし~~~~

とまぁ~上方から離れた九州においては、本戦後もしばらくスッタモンダする。

すったもんだ~~~つまり西軍残党掃討戦の最大のものが「江上表・八院合戦」になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回は大垣城の寝返りMEN'Zで、いわば手を汚した犬童頼兄の栄光から暗転人生~

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

北肥戦誌【1547年】

天文16年(1547)

龍造寺胤栄(村中宗家当主)は自ら中国へ赴き、大内義隆へ少弐の暴虐を訴え、義隆はこれを将軍・義晴に訴えると、少弐誅伐の命が降りた。

隔して6月、義隆は胤栄を豊前守とし、肥前の守護代として少弐退治を命じた。

7月下旬、胤栄は肥前の本領へ入り、胤信(後の龍造寺隆信)と話合い、少弐追罰の為に東肥前へ出陣した。

少弐勢の郎党は各所でこれを防ぎ、冬尚実弟の千葉胤頼も牛尾の城にて防戦に努めた。

胤栄は、閏7月に杉隆満(大内配下・筑前守護代)へこれを訴え、大内の筑紫勢を加えて冬尚の勢福寺城へ押し寄せる。

少弐勢は老臣・江上元種、宗本盛(少弐家老)、馬場周詮ら、三根・神埼で防戦すれども討ち負け、

8月5日「米田原の戦い」で、宗本盛は苔野口にて討ち死にすると少弐方の意気は消沈、

10月16日、ついに冬尚は勢福寺城を落ち延びた。

三根・神埼などの少弐領は大内に没収され、龍造寺家がその境の番となった。





・・・・・・もし胤栄が長命してたら、竜造寺の歴史はどうなっていたんだろう・・・

【相良氏の場合】関ヶ原/大垣城5栞53

2位と3位を行ったり来たり~
にほんブログ村 地方・郷土史

メイン出典元「南藤蔓綿録」^^/


「関ヶ原の戦い」・・・そもそもの始まりは「上杉征伐」だった。

東軍の諸将は「上杉征伐」のために、徳川家康の元へ馳せ参じたんです。

そんな中・・・西国大名にとって困るのは、上方で石田三成が挙兵したことです。

なぜなら「上杉征伐」のために北上したはずなのに、上方まで来たところで石田三成に足止めをくらうから( ̄ω ̄A;アセアセ


立花宗茂のように「秀頼公(西軍)に馳走仕らん」と旗幟鮮明な方なら問題はない。

だが鍋島家のように「上杉征伐」に参加するつもりだった人には、非情に迷惑。

まぁ鍋島家の場合は、諸事情で出陣が遅れて、上方到着が「三成挙兵後」という半ば自己責任でもある^^;

九州は肥後の相良氏も、石田三成に引き留められ「不本意ながら」西軍入りした家の一つだった


ということに「南藤蔓綿録」ではなっているのだが、なにせ成立年月日が江戸期。

後だしジャンケンの如く、何とでも言い繕うことは可・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

てことで、1~4話までの大垣城編とでは、時系列の出来事で若干相違が生じるのが、そのへんは生ぬるい目で見て下さいませ(*´pq`)クスッ



(馳ぽん提供~大垣城画像~銅像は関ヶ原の後に初代藩主となった戸田様~)

1600年(慶長5)6月~家康が上杉征伐の為に奥州へ下向し、伏見城へは鳥居元忠を置いた。

その報告を聞き、真偽を確かめるべく相良頼房(20代目当主)は犬童頼兄(いんどう よりえ/家老)らを連れて上洛した。

ところが既に家康が出陣していた為、帰国しようとしていた処へ石田三成より使者が来た。

石田家使者:近いうちに伏見城を攻撃するから加勢してくれ


当初これ(西軍)に与する気はなかったものの、使者が再三現れる。

使者:石田自らが屋敷に出向いてでも頼む!


とまで言われ、ならばとこれに同意し出陣した。

(( ̄ko ̄)<小大名の相良氏に石田三成が幾度も懇望するか?と突っ込んではなりませぬ)

それでも本意ではない事を家康に伝えるべく、恒松吉助を家康の奉行所と井伊直政の元へ差遣した。
1)上洛の意図は家康に逢う為であったが既に家康がいなかった事。
2)虚しく大坂から帰国する処に石田方に押し留められた為、止む無く事に及んだ事。
3)もし上方筋(三成ら)が出馬に及んだ際にはそちらに味方する事。
この3点を伝えさせた。

恒松吉助は中間・赤川源三郎を伴い関東へ下り、既に江戸を発っていた家康を追いかけて、下野国の古川で追い付いた。(一日で何km移動してるんだぉ~(゚ロ゚屮)屮)

吉助が井伊直政へ書状を渡し口上を伝えると、すぐさま直政が家康に伝えたとの事。


相良家紋

話に誇張があるような気がしないでもないが、犬童頼兄の器量なら西軍加担の前に「保険として」井伊直政にコンタクトとるくらいはしてそうだ。

同年7月18日~相良勢は伏見城攻撃に参加。

8月1日未の刻(13時~)に伏見が落城。

頼房ら大名はそれぞれの屋敷に戻ったようだ。

その後、石田方から秋月種長・高橋元種・相良頼房の三名へ「近い内に家康の大軍が上洛するから勢田橋を固めてくれ」と使者が来る。

頼房は「これが不本意な合戦で、家康に弓引く気はなく、これを承諾しかねる」と述べる。

すると石田は「今回の事が自らの私心によるものではない証拠」として垣見家純と熊谷直盛を差遣してきた為、是非無く5人(秋月・高橋・相良・垣見・熊谷)で在番に及んだ。

(秋月(兄)・相良(義弟)・高橋(実弟)は、前回話したように縁戚・兄弟)
(さらに領地が日向と肥後と隣接しているので「朝鮮の役」でも同じ陣に所属してます)

その後、石田方が大垣城へ入ると、勢田の番衆5人もすぐさま大垣城へ来るよう伝達があった。

( ̄ko ̄)<あっち行け~こっち行け~と何だかなぁ~でつ

8月25日に勢田を発って佐保山を、二日目には伊勢路の白瀬越というところを越えていた。

その最中、雨が降りそれが晴れて風が吹き始めた。

ふと高所から見える十町(1km)ばかりの場所に2~300程の輝きが見える。

もしや「敵の伏兵か」と思い足の早い者に物見をさせると、芋の葉に雨の滴があり、それが風に揺れているだけと判った為、すぐさまそこを通り大垣城すぐさまそこを通り大垣城へ入った。

「1k先」の「葉っぱについた雨の滴が光った」のが見えるって、凄い視力だ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

おそらく「家康西上してくる」ということで、行軍中もピリピリ緊張していたんでしょう。


大垣城本丸には福原長堯、二の丸には秋月種長・高橋元種・相良頼房、三の丸には垣見家純・熊谷直盛・木村由信とその子・伝蔵がそれぞれ在番となった。

で、井伊直政への使者となった恒松吉助と中間・源三郎は、家康からの返書を深田の泥の中へ隠した上で大垣へ入城。
(石田方が美濃の山中で往来する者を改めていたので手紙を隠した)

すぐさま犬童頼兄に伝え、秋月・高橋とも(寝返りの)密談に及んだ。

9月14日に井伊直政が勝野五兵衛という者を大垣城へ差遣し、福原・垣見・熊谷らを誅伐し、忠節を尽くすよう伝えさせよう~~~~

とした所へ、相良からの使者である宮原新助・犬童三郎兵衛が井伊直政の元へ現れた。

宮原と犬童は、以前に直政に述べたのと同じ事を伝え、且つ「垣見・熊谷らを討ち果たすので検視役を一人遣わしてほしい」と伝えた。

井伊直政は宮原新助に(元々派遣するつもりだった)勝野五兵衛を付けて15日の晩に大垣へ戻した。

南藤蔓綿録には関ヶ原・西軍敗北が(相良頼房や秋月・高橋へは伝わったとして)他の城将が知っていたものかなどの記述はありません。

ただ書庫「九州の関ヶ原」で紹介した「垣見家純・最期の手紙」によると、西軍敗北の事実を既に知っています。

大垣城攻撃側・水野サイドを検索すると「西軍敗北」の情報を知らせるために「大垣城の囲みを一度解いた」(主戦場から逃げた兵が大垣城へ逃げ込むから)

とあるので「西軍敗北」は一部上層部のヒ・ミ・ツではなく、雑兵のはしばしまで知ってたのではないでしょうか。

さらに「福原・垣見・熊谷らを誅伐し~云々」の裏切り誘いの密書は、水野から友・秋月へも届いていたらしい。

寝返り誘いルートは、複数あったと見るべきでしょう。

裏切ることに迷いはない。主戦場で敗北した以上は大垣城の籠城に戦略的な意味はないのだ


猛将タイプ・相良頼房+武闘派タイプ・秋月種長+画策得意・高橋元種+切れ者相良家老・犬童頼兄。

ベテラン勢の具体的な作戦会議は、早々とまとまったのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

【持つべきものは友と弟】関ヶ原/大垣城4栞52


1600年9月15日・・・関ヶ原本戦にて西軍が東軍に敗れる!


大垣城を14日から攻撃していた水野勝成(みずのかつなり・36歳)は三の丸を占拠し、続けてニの丸に火をかけた。

これが意外な相乗効果をもたらした。

まず、南宮山にいた毛利秀元軍~南宮山からは関ヶ原は見えないが大垣城の方角は遠望できる。

火の手が上がったのを見て、大坂まで撤退する判断材料となった。

また敵中突破した島津義弘~大垣城で上がった火を見て「もぉ落城でごわす」と早とちり。

大垣城で籠城する予定を変更して「薩摩へ帰るでごわんど」と摂津方面へ(奥方たちと合流するため)道を変えた。

一方、関ヶ原の結果を知った水野は、いったん大垣城の包囲を解いた。

すると関ヶ原を命からがら脱出した西軍の雑兵たちが、ドッと大垣城に逃げ込んだ。

水野が包囲を解いたのは「西軍敗北」の情報を大垣城内に知らせるためだったのだ。

盟主だった石田三成が行方不明で西軍は四散分裂・・・主戦場に近すぎる大垣城は孤城になったんです。

援軍など期待できるはずもない、大垣城内は恐怖でパニックになった。



(馳ぽん提供~大垣城画像~銅像は関ヶ原の後に初代藩主となった戸田様~)

この大垣城の攻防は九州の関ヶ原編でチラっと語った。

城内で「城を枕に討死する」と決意した垣見さんと、その留守を守る富来城代の話だ。
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/4671273.html

討死を覚悟する者がいる一方で、西軍として大垣城の守備にあたっていた秋月種長の元へは、水野勝成から密かに裏切りを誘う使者が来た。

「ろ・・・六左衛門(水野のこと)?何?アイツ生きてたの?って昔と名字違うし、どうなっているんだ?」秋月は驚いた。

無理もない、種長と知り合った西国放浪時代の水野は、出自を隠し偽名だったからです。

使者は証として二人しか知らない思い出を語り、何より携えた文は紛れもなく六左衛門の筆跡だ。

水野曰く「内通の証として城将の首を差し出せば、領地安堵の周旋を約束しよう」という内容だった。

アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ「も・・・元種~~~弟よ~~~こんなん来たぉ!」

種長は実弟の高橋元種に相談した。

「裏切るかor裏切らないか」の相談ではない。

種長「元種、城将の首といっても本丸へ攻め込むには我ら兄弟の手勢では足りぬぞ。如何する?」

西軍の大将は大老の毛利輝元。

対する東軍の大将は大老筆頭の徳川家康。

表面上は派閥争いの様相を呈していたので、どっちについても「豊臣へ不忠」になるわけじゃないんです。

元種「兄上、お忘れですか?我らの兄弟なら今一人いるではありませぬか(* ̄ー ̄*)ニヤリ」

種長「もう一人・・・おお!そうであった(* ̄▽ ̄*)」

そう彼ら兄弟の妹(元種から見れば姉)秋月竜子。


彼女は最初に秋月家の同盟相手、城井氏に嫁いでいた。

「九州の役」後・・・・いろいろあって嫁ぎ先の城井氏は、黒田如水・長政親子に抹殺されてしまった。

残された竜子は、城井の遺児を産み落とすと実家の秋月家で保護されていた。

彼女は、その後に相良家当主・相良頼房に再嫁していたんです。

秋月・高橋の義兄弟にあたる相良頼房もまた、西軍として大垣城の守備にあたっていたのだ。

二人は早速、相良にも裏切りの誘いをかけたのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回より相良氏を中心に関ヶ原・大垣城編を語りたいと思います^-^

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

北肥戦誌【1546年】~肥前の熊キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

天文15年(1546)

3月10日、剛忠(=竜造寺家兼)は93歳で身罷った。

(剛忠は)水ヶ江の家門の跡は子の左衛門大夫鑑兼に与え、

家純の跡と我が隠居分は周家の次男・慶法師に与え、

慶法師の兄・中納言円月(後の竜造寺隆信)を、折を見て還俗させ水ヶ江の総領と入れよと遺言していた。
剛忠の遺言ではあったものの一族・老臣がこれを話し合うと、意見が割れ、ならば神意を問うべく八幡宮でクジを引いて決すると決まる。
が、一同揃って参拝し、三度クジを引くと三度とも隆信となったので、水ヶ江城主に決まった。
鍋島清房は、隆信が家督と決してもまだ難色を示したが、嫡流の龍造寺家宗により宥められた。

中納言円月は、まず石井忠房の家へ入れられ、

その子息・大隅守が寝間を休所へ取構えて、先ず鰹を進め、加瀬町から彦寿という女を宿直に召し置いて還俗させてから、水ヶ江城へ入れた。

そして龍造寺胤信と名乗り水ヶ江龍造寺家の総領となった

胤信は、大胆にして剛強、度量抜群の為に人の下に就くのを喜ばず、秀でて威勢がある者を見るとこれを嫌い、また物の数ともせず、酒を好む者を愛し、酒に酔う者を嫌った。
しかし、文を好み、武を重んじ、山林に狩しては走り、その行動は常に人の意表をついた。


緑枠内は北肥戦誌ではなく、二次史料からの引用です^-^

【読了】宇喜多直家・秀家 渡邊大門著

実は購入したのは一年前 ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!


逸話関連だと、サイト上で拾えるもの以上は無いです^^

それよりも、まだまだ不明な点が多い、宇喜多氏の考察が興味深かった。

毛利元就・尼子などとともに「三大謀聖」などと華麗に呼ばれている宇喜多直家。

だが彼の謀略の数々は、後世の脚色や誇張がかなりあるらしい。

どれが、どう・・・という具体的な指摘は避けているような・・・・・

そもそも一次史料が少ないので、まだまだ検証していかなかればならない・・・といったところだ。



で・・・ここらあたりまでが本の半分くらいでして、忙しくて残りを読むのに挫折il||li _| ̄|○ il||l

そのままになってたのを、先日一気読み~~やれば出来るものですな ( ゚Д゚)y─┛~~

後半部分が宇喜多秀家公なんだが、個人的に非常に参考になったのが文禄年間に行った検地について

文禄年間の検地は「太閤検地」と呼べる代物じゃなかった

検地の実態は、昔ながらの指出(さしだし)検地で、宇喜多領では兵農分離がなされてなかった


指出検地は・・・・ザックリ説明すると「自己申告」です。

「太閤検地」を進めることで、農民の身分を固定化し、土地所有者を明確にし、全国統一度量衡により納税額が定められ、それにより軍役諸役が確定する。

父・直家の代で戦国大名となり、秀家の代で豊臣政権中枢の一端を担った宇喜多家。

その膨張スピードに、内容がついていけなかった・・・・中小領主連合体のままだったということです。

もちろん、検地は文禄検地以後も行われてて、それに伴い家臣の所領も増えてる。

だが加増(ベースアップ)ペースが半端なくて、表高に対し実収が伴っていたのか疑問が残る。

家臣にすれば加増は嬉しいが、軍役も増える・・・増えた分は農民から租税として徴収するしかない。

検地による増税負担に耐えかね、宇喜多領では農民の逃亡が相次ぎ、荒田が多かったそうなのだ。

その状態を改善すべく秀家公も努力し、古い体質からの転換をしようとして、父の代から仕える家臣団と対立。

「宇喜多騒動」は起こるべくして起きたものだろう。



九州戦国史にハマる前は宇喜多オタだった(てか宇喜多ファンなのは今も変わってない)管理人。

素人が調べる範囲内でも「検地」で揉めたところまでは解った。

だから、てっきり「太閤検地をした為に」揉めたと思ってた。

まさか、それ以前の問題だとは目からウロコ・・・・なるほどね~揉めるはずだわ~

宇喜多家臣の一人・・・戸川が加増された時に貰った朱印状には、主君である秀家公の他に秀吉の朱印がある。

これは秀家公の領内における政治基盤の弱さの現れ・・・とされていた。

ところが渡邊氏の検証だと[書式から判断して][いったん主君から受け取った朱印状に対し]


戸川が後から(個人的に)秀吉の朱印を貰ったものらしい


il||li _| ̄|○ il||l うわぁ・・・・キツイっす・・・・

宇喜多家における戸川の地位なら、秀吉に対し個人的に要請するのは可能だったろう。

重臣たちとの関係に、若い秀家公が苦労したであろうことは想像に難くない。



最近、ずっと九州戦国史オンリーだったので、読んでて新鮮でした。

脳内の切り替えのために読後感想を記事にして、また九州戦国史・郷土史に戻ります(*´pq`)クスッ

あぁ~でも、いつか中国戦国史をやれたらなぁ~吉川広家と宇喜多秀家メインで~ 川* ̄д ̄*川ポッ

とはいえ、九州でやりたい国人がまだいるんで、中国地方ネタは引き出しに仕舞います^^

北肥戦誌【1545年】~老人力発動!

天文14年(1545年)

1月初旬、有馬勢は龍造寺一族・鶴田越前守の獅子城を攻めて、7日に攻め落とし、すぐさま城警固の為に馬渡主殿助俊信を入れ置いた。

鶴田の兵は12日に急ぎ俊信と戦う。

俊信は手の者を下知して防戦し、鶴田勢を悉く坂下に追い落とした。

打ち負けた鶴田勢はその夜、城の後ろの方へ廻り険阻な場所を登って、密かに城中へ近付くと鯨波を上げて夜討ちを仕掛ける。

馬渡勢は利を失い、俊信主従60余人が討ち死にした。

鶴田は居城を取り返した。

龍造寺豊後守家純らは、昨年の冬より多久城を攻めて遂に18日に落とした。

だが、その搦め手に向った龍造寺新五郎・於保備前入道・副島五郎左衛門尉・副島右馬助猶房らは、14日に志久峠で、平井・前田・井元に討ち負けて悉く討たれ、

また、長島表に向った龍造寺勢も、15日に藤津冬野原の戦で有馬勢に討ち負け、龍造寺右京亮胤直が討ち死にした。

18日追い縋る敵と戦いながらようやく佐嘉へ戻った。隔して、有馬・松浦勢に加えて少弐19勢は水ヶ江城を囲んだ。

その勢およそ2~3万と見えた。

1月18日(『北肥戦誌』には天文15年とあるが不自然)、龍造寺宗家・胤栄の居城・村中城と、千葉胤勝の小城城を少弐・有馬勢が攻撃、千葉家は降伏、胤栄は大内家の筑前守護代・杉十郎隆光を頼って落ち延びる。

馬場肥前守頼周は、剛忠の一門を処々にて大半を討ち取り、その上、城を取り囲んだことで心中では大いに喜びながらも、外面は眉を潜めて水ヶ江城へ現れると、剛忠入道に対面、小声にて述べる。

「此度の西肥前退治は有馬討伐の為に非ず。龍造寺が大内に通じて居ると讒言する者ありて、冬尚公御立腹され貴家を絶やさんとしておるのです。ここは冬尚公へ参じられ咎なき由を申し開かれれば、この頼周も御辺に対し悪し様には申しますまい」と述べた。

龍造寺家中では、「なまじ下城されて憂き目に遭うよりは、当城に残るべきです」としたが、

剛忠は「野心の名を得て死するは弓取りの本意に非ず」と、

22日に水ヶ江城を明け渡し、23日に一門を諸所へ分散させた。

家純(隆信祖父)・家門・澄家は筑前へ落ち、河上の宿へ一泊した。

(馬場)頼周は神代勝利と示し合わせ、500余騎で河上を囲み鬨を上げた。

家門は謀られたと知り、打って出るも全員が討ち死にした。

周家(隆信の父)・家泰・頼純は24日、冬尚への申し開きの為にと祇園原に至った時、頼周の伏せ勢により討ち取られた。

頼周は計略により容易く討ち取れた事に喜悦し、6人の首級を踏み付けるという不敬を行う。

剛忠は筑後国・柳川の蒲池家を頼っていた

その地で一族が討たれたと聞き、悲嘆に暮れ憤激すると、「100ヶ日を過ぎぬうちに頼周の首を見なければ、この老命を縮めて再び本国には帰れない」と三日間断食した


(少弐)冬尚は水ヶ江城へ馬場・神代・小田の家人を交替の番として入れる。

3月、剛忠は龍造寺に誼ある者を集い、水ヶ江城へ向かうと、城番であった小田政光の家人らは一戦にも及ばず城を明け渡した。

その頃、頼周は冬尚を牛頭城へ移すべく、普請の為に子息・政員と共に祇園山にあった。

そこへ4月2日、千葉胤勝(或いは胤連)の軍勢が剛忠へ同心し襲い掛かる。

頼周が防戦する中、千葉家臣・矢作左近将監、江原石見守(神代勝利に夢を売った人物)は水の手から城内へ忍び入り、城へと火を放った。

馬場の手下らはこれを討ち取らんとするも、城の普請をしていた者らは皆が小城郡の者らで在り、千葉勢に同心して鍬・鎌などの農具を持って城方へ敵対した為、馬場勢は防戦しきれず、裏道から自らの居城・綾部を目指した。

馬場家臣の半田平右衛門が木の枝を折って道標を作っていたのだが、頼周は黒岩という処からそれを見失い、大願寺野へ迷い出た。

その地の川上山へ逃れ入ると、ここに住まう寺家・社家の者らは「此人は以前、不義の行いを致し、社内で数多の人を討ち、血を流せし神敵である」と、頼周らに襲い掛かる。

頼周はそこも逃れ出て川へ入った頃、千葉の軍勢に追い付かれ、政員は野田家俊に討ち取られる。

頼周は社家に走り込み、土民の用意した芋釜の穴に隠れたが、加茂弾正という者から穴より引き摺り出されて討ち取られた。

剛忠は、頼周と政員の首級を北佐嘉へ向かう途上の坪上という地で検分した。

野田石見守は剛忠へ、「頼周は御一門の首を踏み付けたので、我らも彼奴等の首を水ヶ江の城門の下に埋め、出入りの者に踏ませるべし」と述べたが、

剛忠は、「それは狂人を真似る不狂人であり、左様な情けなき事は努々あるべからず」と返し、二人の首を懇ろに弔わせた。

同月、更に大内勢の助勢を得て、宗家・胤栄も村中城を取り戻した。

剛忠は、「近年不運にして子孫悉く不慮の害に遭う。是に於いて善根を以って万部に満たせたし」

といい、天文7年より行わせていた法華経万部の修読が九千部あったのが、この年千部を修業し、合計一万部成就となったのを期に、

天文14年11月に城内に造らせた仮道場にて、毎日自ら焼香礼拝すると共に、

布施も長老には貨幣50貫ずつ、平僧には10貫ずつとし、大衆の為に休息所100間・饗応所30間を設け、

かねてより蓄えていた財物を悉く蔵から出し、町の辻々に高札を立てて貧民に施し、領民に貸していた金や米を悉く免除し徳政を行った。


「武家は下は三歳児から上は90過ぎのジー様まで油断してはならぬのだ」by東海の覇王

後篇【でんでん♪ぶゆぅでん♪水野伝】関ヶ原/大垣城3栞51

皆様のご支援で郷土史カテ4位まで浮上しました^^/
にほんブログ村 地方・郷土史
とある戦で一人の少年が大泣きした「アーン!アーン!ワァァァン・゜・(PД`q。)・゜・」

「どうした坊主?戦は終わったぞ。安心して気が抜けたか?」と側にいた先輩兵が尋ねた。

少年曰く「違います!わたしは此度が初陣(ういじん=戦場デヴュー)なんです。なのに一つも手柄がたてられなかったのが悔し・・ぃ・・ワァァァン!!・゜・(PД`q。)・゜・。」

周囲の大人は呆れた。何故なら彼らの敵は武田軍団(勝頼の代)だったからだ。

「武田相手に豪胆な小僧だ、末頼もしいぞ」と嗤い合った。

時に天正7年(1579年)、水野勝成(みずのかつなり)初陣の逸話です(=^・ω・^=)v ブイ
(※逸話は「戦国ちょっといい話悪い話まとめ」から拝借しました)
最終戦歴は「島原の乱」で息子・孫の三世代で出陣した豪傑な水野。

しかし晩年丸くなって大人しくなったのと、国民的作家の司馬遼太郎氏が「城塞」という作品で、水野をヘタレ扱いしたので、イマイチメジャーになり損ねている。

(城塞:大坂冬・夏の陣が舞台~主役は違う人なんだけど、敗者の豊臣方武将たちが華麗・勇壮・悲劇の群像劇として描写されてる・・・だから幕府方武将の扱いは・・察してください^^;)
(作品の話運びは凄い面白いです~影響でシオは大坂の陣に一時はまりました(*´pq`)クスッ)

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/56/Fukuyama_castle13n1800.jpg/250px-Fukuyama_castle13n1800.jpg
ウィキペディアより福山城内の水野勝成銅像

水野勝成は、徳川家康の年の離れた従弟で、二代将軍・秀忠とは乳兄弟にあたる。

家康は、このヤンチャすぎる従弟を放っておけなかったらしく、水野が父に勘当された時も暫く匿っていたそうだ。

水野の職歴?てか人生は複雑なんで簡略にまとめると以下の通り。
【家出前】
1)織田信長(父がヘッドハンティングされたので一緒に仕官)~信長から感状を貰う。
2)織田信雄(父が与力だったので一緒に従軍)~「小牧・長久手の戦い」にも出陣。
3)小牧・長久手で兜を被る被らないで親子ケンカ⇒兜無しで手柄を立ててオヤジにドヤ顔。
4)翌年「陣中」で自分の悪さを親爺にチクった(親爺の)家臣をヌッ殺した(汗
5)激怒したパパンは勝成を勘当し奉公構(再就職禁止措置)にした。
6)徳川家康が匿う⇒怒りが治まらないパパンの詮索が厳しくなり、西国へ放浪する~時に勝成21歳。

水野には(オヤジに見つからないように)偽名で西国をウロウロするから「家康の密偵説」がある。

だが、どこもトラブっては出奔する「お騒がせ男」では密偵にならないだろう,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

どこを転々としてたかというと簡略に以下の通り。
【家出後】
1)仙石秀久⇒四国征伐で活躍し秀吉から知行拝領(つまりヘッドハンティングされた)
2)豊臣秀吉⇒何かやらかしたらしく、秀吉を激怒させ出奔~刺客を放たれたそうな^^;
3)佐々成政⇒肥後国人一揆の責で佐々切腹で無職
4)小西行長⇒加藤清正⇒この二つは前歴(秀吉を怒らせたこと)がバレていれなくなった。
5)立花宗茂の相伴衆を経て黒田長政⇒長政を激怒させて刺客を放たれた。
6)備中の三村氏⇒(茶坊主斬って出奔)⇒寛大な三村さんとこに再就職

とまぁ転々とする。5)黒田のとこでは、長政が(側にいたんで咄嗟に)水野へ水夫の仕事をやらせようとしたのでケンカして出奔。

とあるんだが、実は長政は一揆鎮圧の報告がてら、活躍した水野を秀吉に引き合わせようとしてたらしいんです。

それを知った水野が「ヤバイ」って遁走したのがホントらしい。( ̄ω ̄A;アセアセ

で最終的には備後福山藩の藩主となるので、様々な逸話や伝説が残った。

ただフリーダム水野DNAも泰平の世になると弱ったのか、5代で嫡流が絶えて改易(後に能登西谷1万石で水野宗家復活)になったのもイマイチマイナーな理由の一つだろう。

水野が36歳になると見かねた従兄・家康が、パパンとの仲を取り持ち和解したので、三村さんとこを去り実家へ戻る。

( ̄ko ̄)<ただね・・水野さん・・・この時は既に妻子がいたのだが・・・備中に置き去り・・

( ̄ko ̄)<しかも実家に戻った後に再婚しちゃったでつ

(女から見て)かなり身勝手な男・水野の結婚騒動をギャグにしたのがコチラ↓



この頃の水野には適当な男子がいなかったようで、過去の(ヤンチャな)記憶をたぐったらしい^^;

水野の面白いところは、過去の正室と現在の正室、どちらも同格に扱い大事にしたことです。
(引き取られた嫡男も同様に、生母・継母どちらにも孝養を尽くした)

とくだんイケメンでもないのに、何故かモテる男が世の中にはいるが、水野はドンピシャリそのタイプ。

こんなアバウトな感じにワイルドさを感じるのか、何処でもモテたらしく美味しい思いを・・ (._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

おかげで置き捨てられた妻と息子は、引き取られる(水野が思い出す)まで苦労したらしい。

その時の辛酸を忘れず息子は、下々を大切にする名君となったそうだ(結果、親子二代とも名君)

あ、そうだ世話になった三村さんですが、水野が福山藩主の頃には没落してたんです。

水野は恩返しに三村の息子を家老に迎え入れてます^-^

関ヶ原の時の水野は「毒気が抜けて」「程よく丸く」「下情に通じた名君」になる前。

36歳にもなろうと言うのに、まだまだ暴れたりなくて戦で弾けるエネルギーが有り余ってた。

で、前回話したように親爺が殺害されるという想定外のことで家督を継ぎ3万石の当主となった。

これが関ヶ原直前の7月のことで、アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ~~と実家に戻って当主となり、9月に再びトンボ返りで出陣する。

本戦直前の前哨戦・・1600年9月13日、島津義弘の軍が曽根城を攻撃した。

「徳川四天王の井伊直政と本多忠勝」が家康に「この戦は六左衛門(=水野)殿でなくては、手に合わないので、直ちに軍勢を差し向けて頂きたい」と懇願した


水野の武勇が如何ほどのものだったか察せられる話だ。

水野が援軍に向かうと、深入りするつもりの無かった島津軍は引き上げてしまい、直接対決は実現せず(チト残念)。

水野は家康に従軍の許可を求めるが、家康は許さず水野を後方支援に回した。




家康は「天下への野心」をひた隠して「五大老筆頭」の立場を崩していなかった。

そして石田三成と豊臣恩顧の大名と噛み合わせ「漁夫の利」を得ようとしていたのだ。

水野を先陣に置いたらハチャけて弾けて活躍しすぎてしまい、家康の思惑から逸れてしまうかもしれない。

家康は水野を(糧道を守るために)大垣城の「抑え」に配置した。

家康「六左衛門、糧道確保も大事な務めでぇよぉ、おみゃさぁも放浪してたころと違ぃ、3万石の当主なんでょぉ自重するだぎゃぁ

水野「(三河訛りが抜けたシティボーイ)委細承知仕った。大垣城から兵糧を狙って兵が出るやもしれぬので先手を打って攻撃いたす所存~((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~~

家康「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.~人の話を拡大解釈すなぁ~~~~!!


大垣城の「抑え」は「水野・松平康長・西尾・松下・津軽為信」の混成部隊。

その中で水野の隊が一番兵数が多く、家康の従弟ということもあり、主導権は水野が握っていたんです。

ちなみにウイキペディアでは津軽為信とあるけど、これは津軽兵のみの参加です。

津軽さんの嫡男は家康の側に、ご本人は京都待機~バラバラだから津軽為信さんの位置を特定するのに手間取った^^;

まぁ津軽に限らず関ヶ原で親子・兄弟が西と東に別れた大名は、かなりの数になると思う。

1600年9月14日・・・石田三成が出陣し留守部隊が守る大垣城を、水野らが攻撃

その日のうちに一気に三の丸まで占拠する


水野が攻撃に拘ったのは単に暴れたいだけでなく、大垣城には親爺を殺した男の息子が西軍として入城していたからです。

大垣城守備隊の秋月種長と高橋元種らは、そんな事情は露知らず必死に防戦していた。

秋月と水野・・・互いの存在に気付いたのは、おそらく水野が先だろう。

実は二人は水野が西国放浪時代に親しくなった友人同士だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

前篇【でんでん♪ぶゆぅでん♪水野伝】関ヶ原/大垣城2栞50

さて、前回末尾に「守備側のメンバー」をザッと一覧にて紹介したところで、今度は攻撃側を紹介しよう。

その前に、関ヶ原本戦直前の7月に起きた事件を、説明しなければならない。

その事件とは、徳川家康の叔父・水野忠重が加賀井 重望(かがのい しげもち)に酒宴の席で口論となって殺された殺人事件です


叔父というのは、家康の生母・於大の方の弟なの^^b

犯人の加賀井は酒宴に同席してた堀尾吉晴に成敗されたのだが、時期が時期だけに江戸では大騒ぎになった。

「徳川実記」によると「加賀井は石田三成に徳川家の重臣暗殺を依頼された」とある。

( ̄ko ̄)<加賀井の懐を改めたら、三成の密書が出て来たって・・・

そんな証拠の品を持ち歩くかなぁ~~なにせ「徳川実記」にしか無い記述なので俄かには信じがたい。

とにかく最初に事件が報告された時には「同席してた堀尾も徳川に異心を抱いており水野を殺害した」という誤報となって伝わった。

この時、宇都宮にいた徳川秀忠の側には人質として堀尾の息子・忠氏がおり、もし堀尾が真に「徳川に異心あり」となったら忠氏の身柄もどうなるか解らない。

顔面蒼白・万が一の覚悟を決めた堀尾忠氏クン。

そんな中で後に二代将軍となる秀忠が言った。

「堀尾吉晴親子は、我が家に背くような者たちではない。例え承った通りに堀尾吉晴が水野を殺害したのだとしても、忠氏に於いては、二心を持つような者ではない。彼をこの件で召しだしたり監禁するような真似は、一切不要である。」

後に水野殺害時の詳細が解り堀尾への疑いは晴れた。

人々は「中納言(秀忠のこと)様は人を良く知り使う」と褒めたたえ、この秀忠の言葉に感謝した堀尾忠氏クンは関ヶ原前哨戦でハッスルすることになる。


ちと前置きが長くなった。

この事件で当主が死亡したために、水野家の家督は息子の勝成が急遽継ぐこととなった。

で、水野勝成は・・・というと、


てな感じで、マッパで泥棒退治したという伝説?逸話?がある豪傑です^^;

水野家は元々は織田家の配下でした。ですが、讒言により当主が殺され縁戚である徳川配下になります。

殺された当主の弟が冒頭で殺された水野忠重です。

その後、水野忠重は信長から領地を拝領し、織田家与力となります。

だから息子である勝成も織田家の主だった戦に参加してます。



「小牧・長久手の戦い」で親子出陣した時のことです。

勝成は「兜を被って無い(眼病で兜を被るのが苦痛だったらしい)」のをパパン忠重に指摘されて大ゲンカしてます。

勝成は武勇優れているかわりに、大変な暴れはっちゃくでして、行状がチト・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

そのため父とは折り合いが悪かったらしいんです。

「小牧・長久手の戦い」の翌年に、違う戦でパパンの家臣をブッ殺して出奔~((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~
(オヤジの腰巾着野郎が、俺の悪さをオヤジに報告しやがったんで、大人しい俺もマジ切れさ!)

家出した息子に激怒したパパンは「勘当+奉公構(再就職の妨害)」処分にした。

徳川の息のかかったとこじゃ再就職できなくて、勝成は偽名使って西国大名に仕えるとこになる。
(武士以外に職種の選択肢は(性格的に)無かったらしい)

勝成は他家でもトラブル起こしては刃傷沙汰になり、職場放棄⇒出奔を繰り返してた札付きのヤンキーです( ̄ω ̄A;アセアセ

そんな彼ですが関ヶ原直前に徳川家康の仲介で、やっと親爺と和解したばかりのところに親爺が急死・・・しかも殺された~~(゚ロ゚屮)屮ぇえっ!

この手で犯人を~~~と思ったが犯人の加賀井は既に掘尾さんが成敗しちゃってる。

どうにも治まらない、スッキリしない、暴れたりない~~~水野勝成は大垣城に目を付けた。

[大垣城]スッ≡( ̄ー『+』ゝハッケン

大垣城には親爺の仇の加賀井の息子が西軍として入っていたのだ。

暴れはっちゃく水野勝成の「関ヶ原・大垣城攻撃」が始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

北肥戦誌【1544年(要旨抜粋)】

冬尚もこれ(讒言)を信じた。

天文13年(1544)

龍造寺討伐を企図する。

まず冬尚より有馬家に密使を送ると、有馬も此れに賛同し杵島郡は長島に派兵した。

更に(馬場)頼周は、諸豪族にも協力を求めた結果、多久上野守は梶峯城へ引き籠り、上松浦の者達は日鼓山へ出陣、

冬尚はこれらが有馬について少弐に背いたと偽り、剛忠(竜造寺家兼)に討伐する様命じる。

剛忠は計略と知らず11月21日、龍造寺盛家らを上松浦へ、龍造寺家純らを多久の梶峯城へ、

龍造寺家門らは有馬家を追い払うべく長崎家へと三方へ派兵させ、

まず梶峯城を落として、周家を城の守りに入れた。

上松浦攻めは、鶴田氏の獅子城を囲むが落とせず、23日に龍造寺盛家らが討ち死にする。


おにょれ~有馬め~~企みに加担しおって バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!

この時期の有馬を調べにゃならんな~~~φ(.. ) メモメモ

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【大垣城と(不)愉快な仲間(西軍)たち♪】関ヶ原/大垣城1栞49

(*´○`)o¶~~♪ ほら貝はなっぜ~~遠くまで聞こえるの♪
(*´○`)o¶~~♪ 狼煙はなっぜ~~~色をぉ変えてるの♪
(*´○`)o¶~~♪ 教えて内府様♪教えてぇ~佐渡守♪

おしえてぇ~~~美濃のもぉりのぉ~~キ・・・(._+ )☆\(-.-メ)イイカゲンニシナサイ!

昨日は疲れてPC前で沈没しましたが、ぐっすり寝て充電したらノリノリ~^(=^・ω・^=)v ブイ

新章「関ヶ原/大垣城編」スタート!



もともとは「(普通?の)関ヶ原の戦い」をやろうとして、裏工作した黒田長政を調べる「ついで」。

ってことで如水の九州関ヶ原をやるにあたり、関係各所を調べているうちにドップリ~九州郷土史オタに仕上がったブログ管理人(*´pq`)クスッ

大谷や真田から入ったら、どこの郷土史にハマったことやら,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

さて舞台を九州から美濃に戻って、アイシャルリターン関ヶ原・・・・ではなくて入るのは大垣城~

九州郷土史オタにとり、関ヶ原は大垣城が熱い!!



(馳ぽん提供~大垣城画像~銅像は関ヶ原の後に初代藩主となった戸田様~)

さて、その大垣城だが「WHO IS MEN」と、城主を尋ねられて即答できる人は少ないだろう。

1600年当時の大垣城主は伊藤盛正クン(推定年齢15以上20未満)3万4千石也~~

前年にダディ死去で家督を継いだ少年当主。

石高もアレだし、若年だし、つ~か美濃はALL西軍ばっかなんで伊藤盛正クンも西軍に属した。

ところが石田三成から「軍事拠点として大垣城を使いたいので城を明け渡してくんない?」と要請が来る。

盛正クンが拒絶したら、再三再四、再五再六ってくらい三成から再要請が来たので根負け・・・というより少年当主の身では抵抗できず、圧力に屈した。

西軍は大垣城を一か月前くらいに補強工事をしたらしいので、盛正クンが自分の城を接収されたのは7月中旬~下旬くらいだろう。

ふと、軍議で「我が城は差し上げます」発言の山内一豊を思い出した。

泣く泣く城を出た盛正クンと、己が家運をかけて城プレゼンツの山内・・・これが西軍と東軍の違いを如実に表している。

盛正クンは御近所の今村城に入ってたのだが、援軍の要請が来て出陣~松尾山城に布陣した。

ところが、その後に小早川軍が割り込んできた!Σ(´Д`;) うあ゙

花見と戦の共通点⇒⇒⇒場所取りは早い者勝ち!


後から来た小早川が伊藤をガン無視してレジャーシート広げ・・・もとい布陣し始める。

とうぜん盛正クンは使者を出して抗議。

だが1万5千の精鋭を率いる小早川秀秋は、兵を追い使い力づくで好位置キープしてくる。

盛正クン・・・今度は陣地まで移動する羽目に・・・仕方なく松尾山麓に布陣した。

また、ふと思い出したが、例の「家康が小早川軍に発砲した云々の話」

これが史実なら麓にいた盛正クンは思いきり巻き添えを食うんじゃ・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

関ヶ原の戦いの後・・・一時、盛正クンは記録から消えた。

戦死?出家?逃亡?と色々言われてたのだが、近年になって加賀前田藩士となっていた事が判明したんです。

さらに子孫が所持する由緒書(そういうのがあるって超羨ま~~)が確認され、関ヶ原以降の足取りが判った。

由緒書によると、戦後は京都で浪人(潜伏?)してたところを徳川家(京都所司代か?)に見つかり殺されそうになったそうな。

ピンチのところを助けてくれたのが福島正則。彼の助命嘆願のお蔭で処刑を免れた。

そのまま盛正クンは福島正則の保護を受けて、領地である広島で15年ほど住んでたそうな。

なんで15年かというと、福島正則が改易アボ~ンだから il||li _| ̄|○ il||l

もはや中年になった盛正は、亡き父が織田家臣時代に同僚(馬廻衆)だった・・・というツテを辿って、加賀の前田家を訪ねた。

でもって再就職に成功したのが1620年(福島正則の改易翌年)の事。その3年後の1623年に40に手が届くか(推定)という若さで没した。

きっと苦労したんだろうなぁ・・・(゜-Å) ホロリ 長命してたら重臣クラスだったかも。

せめてもの慰めは若い晩年に「安住の地」を得たことと、次世代に家名を存続させることが出来たことだ。

由緒書が伝わった子孫は、現在も加賀(石川県)にお住まいです。^-^


伊藤盛正クンの後に大垣城の守備に入ったのが以下の面々

福原 長堯・・・豊後国府内12万石(総大将)
熊谷 直盛・・・豊後国安岐1万8千石(副将)
垣見 家純・・・豊後国富来2万石
木村 由信・・・美濃国北方1万石
木村 豊統・・・木村由信の子
相良 頼房・・・肥後国人吉2万石
秋月 種長・・・日向国財部(高鍋)3万石
高橋 元種・・・日向国縣(延岡)5万石

この中で生粋の九州男児は誰かな?(*´pq`)クスッ

さて、その大垣城の前・・・本戦直前の7月に三河で一つの殺人事件が発生し、それが大垣城守備隊の運命と大きく関わることになる


それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

北肥戦誌【1543年】(要旨抜粋)

天文12年(1543)の春。

高来の有馬・筑後の星野伯耆守が、千葉氏が支配する上松浦の獅子城を攻め取るべく多久へ進軍し堂ノ原に布陣した。

徳島鑑家、今泉兵庫允らがこれを切り崩した。


馬場頼周は少弐譜代ながら、龍造寺家純の婿でもある。

だが龍造寺の威勢が強まる事を懸念し、剛忠が大内に通じていると冬尚に吹聴した。



ジーちゃんと馬場~イメージ画像

あぁ!竜造寺のピンチが近づいてる~~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

最近は、馬場頼周が嫌いじゃなくなってきた^^

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
426位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
77位
アクセスランキングを見る>>