FC2ブログ

【名将の弟】柳川藩初代藩主編7栞78


立花直次(たちばな なおつぐ)~名将・立花宗茂の実弟にして三池藩、藩祖。
(藩祖・はんそ⇒一般的には初代藩主のダディ)

上記の名前は2代将軍秀忠の勧めで改名したもので、元々の名前は高橋統増(たかはし むねます)

彼の逸話は兄に比べて極端に少なく、もっとも知られているのが岩屋城前篇で紹介した、妻との結婚エピソードだ。

この夫妻はラブラブ・ハッピーエンドが通説なのだが、異説として離婚説がある。

                     


兄・宗茂と弟・統増は5歳違い。 

宗茂は生まれながらの大名ではなく、大友の家臣・高橋家に生まれたので、弟とは同じ屋敷で育った。

宗茂は、この弟が可愛くて堪らなかったらしい。

自分のすることを何でも真似しようとし、どこへでも付いて行こうとする小さな可愛い弟・・・

兄・宗茂が立花家へ養子となった晴れの日、まだ子供の統増は涙を堪えて見送ったに違いない。

1586年(天正14)7月27日~父・紹運が岩屋城で戦死した時、統増は15歳だった

彼は、この年の2月に結婚したばかりの妻(加弥姫)と共に、宝満山城を守っていた。

統増は北上してきた敵・島津軍による降伏勧告とともに、岩屋城の玉砕を知らされる。




岩屋城で紹運が籠城すると聞いた時から覚悟はしていたが、実際に島津の大軍が押し寄せ、しかも敵から岩屋落城を聞いた宝満山城内は動揺した。

特に妻の実家・筑紫家の家臣がパニックを起こす。

妻の父~つまりは舅の筑紫広門(つくし ひろかど)は、岩屋城で奮戦してたのだが力及ばず降伏~島津軍の人質となっていたのです。

帰るべき城と領地を失い、さらに主は人質~筑紫家臣に落ち着けと言っても無理だろう。

高橋家臣たちは「筑紫の者が裏切り、島津軍を手引きするではないか?」

と疑ったそうだから、その混乱ぶりが想像できる。 

内部で揉めはじめたら籠城戦なんて無理!15歳の統増には荷が重すぎた(_´Д`)アイーン


一方の島津軍も「城攻めは岩屋城でチト懲りたぉ~降伏してくれるとマジ助かる」状態だった。

そこで「城内に乱暴しないよ~全員助命するよ~」と悪くない条件を提示。

宝満山城側は「城主夫妻(統増と妻・加弥姫)を立花城へ退去させる」を、付帯条件に降伏することにした。

ところが条件を了解したはずの島津軍が、城から出た統増夫妻を捕らえてしまう!Σ(´Д`;) うあ゙

1586年8月6日~高橋統増夫妻が、島津軍の人質となる!

残った宝満山城の家臣たちは茫然~どうしようもなく降伏するほかなかった。

島津の行動には「島津上層部と家臣間の連絡ミス」と「戦だ!空請文は当然でごわす!と開き直った」の2説あります。

卑怯にも騙し討ちした島津軍だが、彼らは彼らで本当にに急いでいて焦っていたんです。

さらに北上した島津軍は、統増の兄・宗茂が守る立花城に迫りました。

何度も言ってるが宗茂はムコ殿!「実弟を助けたい」という個人的感情を出すことはできない。

それに立花城は主君・大友氏の筑前における重要な拠点。ここで敗北するわけには行かない(`・ω・´)キリッ

宗茂の籠城戦は20日間に及んだ。


立花宗茂

島津軍・総大将の忠長は、宗茂が優れているとはいえ、所詮・20の若造と舐めていた。

宗茂は単に城に籠もるだけでなく、奇襲をかけて島津本陣にまで肉薄したり、「降伏します」と嘘を言って時間を稼いだり~

と、島津軍を巧みに翻弄した。

そして遂に島津軍の元に関白・秀吉の「援軍が来る」という報告が届き、タイムアウト!

島津軍は撤退を余技なくされる。そう紹運に二週間粘られたタイムロスが最後まで影響したんです。

秀吉が徳川家康を臣従させることに成功し、やっと身軽になって九州征伐に来るのは翌年の4月。

その間、ず~~~~~~~~~~~~っと!弟・統増夫妻は島津の人質のままだった^^;

宗茂は愛する弟を助けたい気持ちを押し殺し黙々と戦い続け、奪われた岩屋・宝満山城を奪い返す。

1587年4月1日~宗茂は筑前の戦況報告のために、重臣・薦野増時(こものますとき)を秀吉のいる豊前へ派遣する

関白・秀吉は、自分の援軍が遅れたせいで宗茂の実父が死に、さらに弟夫妻が捕虜になったままなのを不憫に思っていた。

やってきた薦野増時に島津との交渉を命じる。

この交渉が見事成功!統増夫妻は10ケ月に渡る人質生活から解放される。

ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ←小躍りする名将~宗茂の喜びは大変なもので、薦野に立花姓を与えたのです。


立花家紋

弟夫妻の離婚説は、兄弟の父が戦死した岩屋城にからんでます

舅の筑紫広門が島津の人質になった時に、岩屋城の秘密を島津へ洩らした・・・このことを知った統増と妻の仲に亀裂が走って離婚したのだ・・・という異説

岩屋城は単独で戦う城ではなく、宝満山城と防衛シフトを組んで戦う城だ。

だから「岩屋城を捨てて宝満山城へ引き上げて~」と宗茂らが紹運の籠城を止めようとしてたの。

従って「岩屋⇔宝満山城」間には、連絡用の秘密の間道があったはずなんです。

筑紫が漏らす秘密となったら、その間道か、もしくは城の水脈の位置のいずれかだろう。

とはいえ「そのヒミツを筑紫が洩らしたのか?」となると、そこが疑問なんです^^;


人質になってた筑紫は、島津撤退で隙が出たのを幸いと、幽閉先の寺から自力脱出。

島津に奪われた城と領地を自力で奪還し、秀吉から大名に取り立てられてます。

その後は、ずっと立花家の与力大名として側にいて、関が原でも一緒(もち統増も一緒)

弟夫妻はポンポコ5人の子宝に恵まれて、いつ揉めてるんだ???(-ω-;)ウーン

てな感じで、夫妻が本当に離婚したかどうかも判らない異説なんです。

できれば弟夫妻には通説とおりのラブラブでいて欲しいし、筑紫裏切り云々の噂が実際に出たのだとしても、そのピンチを乗り越えて夫妻は絆を強めたと思いたいです。


統増「父は忠義を貫き城を枕に死に、兄は父に恥じぬ活躍してるのに~~~~~・゜・(PД`q。)・゜・(激ウツの人質生活10ケ月」

不可抗力とはいえ、人質になったことは統増にとって大きなトラウマになった。

統増は、父の応援ができず死に遅れたことを悔やみ続け、殉死も考えるほど思いつめたようです。

やがて立ち直った彼は、父が死を持って教えた「忠義」と「本気で戦う」ことを継承しました。

統増は「二度と後悔しないために」常に激戦地・最前線で戦い、兄・宗茂を助けます。

やがて名将・宗茂が「我が弟ほど大剛のものはいない^-^ニコニコ」と、手放しで自慢するほど優れた武将に成長しました。

弟は亡き父に勝るとも劣らない、名将の兄・宗茂を生涯、師父に接するがごとく敬っていたそうです。

さて、名将・宗茂の人となりを御理解いただくために、彼の家族・周辺の人物を長々紹介させて頂きました。

いよいよ宗茂の関が原に戻ります「次回、蛍の光・大津の意地」それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^

北肥戦誌【1566年】

●永禄9年(1566年)

この年は春から雨が一滴も降らず、5月に至って苗が枯れる始末であった。

長良は昨年4月に納富但馬守に謀られた恨みを忘れておらず、古川新四郎を川窪へ遣わし、納富領は上佐賀の内千布村・和泉村へ流れる川窪の水道を切り埋め、水を別筋へ流させた。

納富但馬は立腹し、同月9日に義弟・納富信純(信澄とも。西村伊予守家秀の弟で、納富石見入道道周の養子。彦鶴の夫)に兵を与えて、水筋を切り流す様に命じた。

信純が水筋を巡見していると川窪に伝わると、神代家臣の白水讃岐守・山口周防守・古川新四郎・篠木薩摩守・竹下主水允らが集まり、白髪明神にて評定の後、300余人を3手に分けて伏せさせ、足軽14~5人に農具を持たせて地元民に仕立てると、川窪・八溝より徳永へ流れる水筋を堰き止める振りをさせた。

信純はあの奴原を切って捨てよと馳せ来る。

足軽は北へと逃げる体を装い、信純らを伏せ勢の元へ誘い込む。

そして南原の築地の内まで来たところを三方から伏兵が襲い掛かった。

信純は槍を突きまくり、一段高い小土手へと馳せ登る。

古川新四郎が名乗りを上げて槍で突き合う。

信純は槍裁きを誤ったか、左の脇下から右の肩先まで刺し貫かれた。

それでも怯まず新四郎の右腕を刺し貫くが、新四郎が体を翻した為に信純は落馬する。

すかさず新四郎は信純の首を取りに行くが、右腕の傷でうまくいかず、弟の蔵人が取った。

更に長良は後に、高木・五領・北村、東南の淵・藤木などへ攻め込んだ為、以後、中佐嘉と上巨勢の大半が神代領に帰す。

また10月24日、神代勢は上松浦の天河城へ攻め入り、龍造寺家から差遣されていた加茂左衛門大夫一家を打ち取った。




手持ちのマイ年表と見比べて (゚∀゚ゞ)ニヤニヤしてる今日この頃~~

北肥戦誌【1565年】

●永禄8年(1565年)

神代勝利は昨年、嫡子・神代長良に家督を譲り、畑瀬の山中に城を築いて隠居、長良は上佐嘉の内千布の高橋土生島の城へ移っていたのであるが、

3月15日、勝利は膈の病を得て、隠居先の畑瀬城にて享年55にして身罷った。


また、長良の妻は鹿江兼明の息女で、長良との間に1男1女を儲けていたのであるが、その嫡男・長寿丸11歳と、嫡女・初菊(隆信三男へ嫁ぐ予定であった)10歳も、4月に疱瘡を患い三瀬の古弓の館にて病死してしまった。

長良夫妻の悲嘆は大きかったのであるが、隆信は此れに喜悦し、納富信景・龍造寺信明へ密かに
「此の時を伺い、計略を以って神代を討ち果たすべし。両人急ぎ千布へ赴き斯く斯くの事を言い聞かせ、長良を謀るべし」と述べ、二人を長良の居城・土生島の千布城へ差遣させた。

4月23日、二人は長良に対面し、
「勝利公が御隠れになられ、今また二人の御子を亡くされ涙に暮れられるとの由、主・隆信も御気持ちを察して悔まれておられます。姫君が御早世され鶴仁王との縁が無くなったとて、今後も将来に至るまで別心在るべからずと、改めて起請文を送られました」
と述べ、神文一通を長良へと差し出した。

そして、「我らはこれより所用にて江上が城原へ赴かねばなりませぬゆえ、御返事は明後日に賜りたし」。として、千布城を辞して佐嘉へと戻った。

隔してその夜、納富但馬守を先手とし、龍造寺信明、高木盛房、副島光家ら600余騎にて、鬨の声を発して千布城へ攻め掛かる。

また城原の江上武種にも加勢を請うてあり、江上勢は土生島の北方の横道を一面に遮った。

思いも寄らぬ攻撃に城内の者全員が周章狼狽する。

長良は拳を握り口惜しさを滲ませながら、腹を切るべく片肌を脱いだところを妻や島田入道鶴栖、大塚隠岐守らに制止され、素早く御落ちあれとの勧めで、主従20人と共に北小門より出た。

寄せ手は気付きこれを追うが、神代家臣が前後左右を斬り払った為、長良は無事に落去が叶った。

長良の妻が城内で茫然と残されていたが、これも長良の従者が戻って川窪村藤村の山伏の坊まで無事に落去させた。

城で奮戦した神代左馬助ら24人も長良の後を追ったが、左馬助の甲冑が朝日に光り、佐嘉勢はこれを長良と思い定めて追い縋る。24人は取って帰して討ち死にした。

佐嘉勢は長良を討ち取ったと思い勝ち鬨を上げたが、当の長良は金立山の雲上寺で休息していた。

島田入道ら従者3人が名尾山の名尾式部少輔の元へ参じ事の次第を告げると、名尾は驚き、急ぎ鎧を纏って主従67人と長良を出迎えた。

長良はこれらと共に畑瀬の城へ落ち延びた。

一方、長良の妻は実家の鹿江へ戻る。家人は隆信の耳に入るのを恐れ、大堂へ妻を隠し匿う事とした。

さて隆信は、長良の逃れた畑瀬の城を攻めるべく小河武蔵守、納富但馬守、広橋一祐軒、副島民部大輔に軍兵を与え出陣させた。

これは山内にも伝わったが、長良らは成す術を講じえず、ならばと城を去り、折を見て再起を果たすべしと、男女従者200余人と共に、筑前の飯場城主・曲渕房助を頼って落ち延びる。

しかし対面した曲渕は、
「斯様に落人の身に窶され、某を御頼りになられた上、難儀を申すは武士の本意に御座らぬゆえ憚られますれど、御存知の如くここは領内狭く、その上、我が微力にては上下200名を扶持なさしむ事、叶い難く御座います。ここは是非とも然るべき大身の方を御頼りになられますよう」

と述べれば、長良も尤もと思い、今度は飯盛城の小田部紹叱入道を頼ったが、此方も曲渕と同じ返答であった。

長良は、次に那珂郡岩門の鷲岳城主・大鶴山城入道宗周(大友家臣)を頼ると、大鶴は長良ら200名を自領の筑後国・戸板へと受け入れた。

そして、大友家臣戸次鑑連も長良の難儀を聞きつけ、長良を大友宗麟へ紹介すると共に、時折便宜を図る様になった。

また、大鶴入道は長良が妻と離れ離れとなったのを痛ましく思い、長良の文に自身の手の者50余人を添えて、大堂へ妻を迎えに赴かせた。


長良らは8月の半ばまで岩門の内戸板にて、時節を待ちながら蟄居していた。

神代旧臣らは、如何に長良を帰城させるか話合い、数百人で三瀬城に置かれた龍造寺の代官を急襲し討った。

これを聞きつけた他の旧臣は、急ぎこれに馳せ集まると、これを一つにまとめ、早速に岩門に使いを出し長良の帰城を請うた。

しかしながら、長良はあまりに無勢であった為、原田越前入道了栄へ加勢を請い、且つ小田部・大鶴からも加勢があり、300余騎に至ってから、8月20日に戸板を出て山内への帰還を果たした。

{神埼・三根・養父の者らは少弐政興を主将に大友を引き入れて隆信討伐を企てる。
そこで大友は吉岡長増・田北鑑生・吉弘鑑理を肥前に派して、江上・神代を援けんとしたと云う。9月4日、三将は連署し、小田鎮光・犬塚刑部大輔・犬塚尚茂・横岳資誠へ書状を与えた(現在、横岳氏が書状を所持)。但し、永禄2年の間違いではなかろうか。}




良かった・・・奥方、あのまま置いてけぼりになるかと・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

【壮烈・岩屋城~後篇】柳川藩初代藩主編6栞77


天正6年(1578)に起きた「耳川の戦い」で大友氏は島津家に大敗した。

第一線の前線指揮官が悉く討たれ、大友氏は軍としては壊滅的な打撃を受ける。

各家で当主を失った後を継いだのは、下は4・5歳~上は18・9の少年たちだ。

それから8年~子供だった彼らは若武者へと成長した。

紹運からみればヒヨッコだが、島津本軍という大嵐が来た以上、迷っている時間はない。

紹運は主君・大友氏の未来を、息子たち若い世代に託した。

天正14年(1586)7月27日~島津全軍による岩屋城・総攻撃が開始される

紹運の息子・立花宗茂の元から、志願して岩屋城へ援軍に入った吉田右京はじめ20数人。

彼らは岩屋城の砦の一つを任されていた。

通常、他家から援軍が入ると守りのリズムが崩れ、そこが攻撃側の狙い目になる。
(野球とかで交代したばかりの野手が狙われるみないな感じ)

生きて戻れないのを承知で志願しただけあって、吉田隊は崩れることなく砦を守り抜いていた。

だが、この総攻撃の日、流石に力尽きて全員討ち死にする。戦後、宗茂は吉田の遺族を厚遇しています。



一話完結希望の方は写真拝借した鳳山様の記事をどうぞ~(*´pq`)
http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B4%E4%B2%B0%BE%EB&sk=0#28160685

さて岩屋城兵のなかに屋山太郎次郎という、まだ13歳の少年がいた。 

女子供は退去~の命令が出ていたのだが、少年は父に無理を言って城に残り、まだ子供の息子が残ったので母親も城に残った。
(父が家老だったので無理が通ったらしい)

総攻撃の日、父が戦死したことを知った太郎次郎少年は、母親が止めるのを聞かずに、単身で島津軍の中へと斬り込んで行った。

島津軍も、向かって来たのが子供だと気づき、さすがに殺すのは可哀相だと、捕虜にしようとしたのだが少年は拒み激しく抵抗。

島津兵は「ならばせめて苦しまぬようにいたそう」と一太刀で太郎次郎少年を絶命させた。

様子を遠望していた母親は、息子の死を目の当たりにして、その場で失神。

母親の手には、太郎次郎少年が母の手を振り払ったときに引き千切れた片袖が、しっかり握られていたそうだ。

ちなみにこの片袖は今でも子孫に伝わっているそうです。

岩屋城跡の石碑に刻まれた戦没者名には、父と共に太郎次郎少年の名も刻まれています・゜・(PД`q。)・゜・


籠城戦というと、一般的には城側から脱走兵や裏切りが出て、内部崩壊し落城するのが常。

だが岩屋城では、それらが全く無く、城主以下一丸となって抵抗を続けたため、凄まじい激戦となったのです。

紹運は数珠を片手に亡くなった家臣のために読経をしつつ、自らも刀を振るって戦った。
(城主自らが最前線で戦う時点で、籠城側としては詰まれた状態、通常なら降伏してるレベル)

が、圧倒的兵力差は根性では埋められない。砦が一つ、また一つと落とされ、遂に水の手を断たれた!

「水の手を断つ」とは、飲料水などに使う井戸のある場所を制圧されるということです。

水が無ければ人は生きていられない。

ましてや残暑の時期だ・・・籠城側の体力は一日と持たないだろう。もはや戦闘続行は不可能。

そして遂に大手門が破られ、どっと本丸へ島津軍が雪崩れ込むに及んで、紹運は矢止め(やどめ=停戦)を島津軍に申し入れた。

降伏するためではない・・・自害のための猶予が欲しかったからです。

高橋紹運~切腹・享年39歳

紹運の介錯をした家臣も、主君の首を落とした刀で自害

岩屋城兵763名~ほぼ討死。生き残った僅かな家臣も捕虜になるのを拒み、その場で自害し全員が玉砕した


島津家紋

島津軍6万~死者3000名!重軽傷者1500名以上!

わずか763人しか守備していない岩屋城に、2週間も足止めされたあげくの大損害。

これでは勝った喜びより、籠城戦が終った安堵感の方が遥かに上回っただろう。

総大将の島津忠長は「宿敵・大友の重臣を討ったのだ。このあとは直ぐ終るだろう・・・」

と自らを慰めるしかなかった。

岩屋城の周辺は死体の山で、文字通りの死山血河状態だったが、とにかく作法通り首実検が行われた。

その時、紹運の遺体を改めていたら、総大将・島津忠長あての手紙があった。

紹運の手紙「忠義のためにしたことです。どうか御理解いただきたい


(´;ω;`)ブワッ・・・・手紙を読むと島津忠長は、その場で崩れ落ち号泣した。

忠長「あぁ!なんと惜しい武将を失くしてしまったのだ!友であったならば、どれほど楽しく酒を酌み交わすことができただろう!弓矢を取る身であることが恨めしい!・゜・(PД`q。)・゜・


島津軍は、紹運の遺骸を丁重に弔ったそうだ。



負けた岩屋城と勝った島津軍、双方にとって熱く長い2週間が終った・・・

だがこれで島津軍の北上が止まったわけではない。

関白・秀吉は(まだ)徳川家康と外交交渉中で、大友に対する援軍の目途が立たないままだ。

若き名将・立花宗茂には、実父の壮絶な死の上に更なる試練が待っていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^

【壮烈・岩屋城~中篇】柳川藩初代藩主編5栞73

この岩屋城編はハンケチ・テッシュ無しでアップできません・゜・(PД`q。)・゜・
時々、目から滝汗が出てPCの文字が霞むぉ・゜・(PД`q。)・゜・
にほんブログ村 地方・郷土史

前回、書き洩らしましたが、秀吉の要請で黒田官兵衛も城を捨てて退去することを勧めていました。

ですが、その申し出も断り紹運は籠城を決意したのです。



籠城した岩屋城は、島津軍6万を足止めするための囮となりました。

とはいえ岩屋城そのものは小規模な(ほんとに小さい)山城だ。

島津軍にスルーされずに引き付けるには、彼らが飛びつくエサが必要。

それが大友氏の有力家臣・高橋紹運(たかはしじょううん)と、島津から寝返り紹運と同盟した筑紫広門(つくしひろかど)だった。

天正14年(1586)7月14日~島津軍の岩屋城に対する攻撃が開始された

筑紫は岩屋城の出城を守り5日間粘ったのだが、岩屋城との連携を断たれ孤立。

さらに激しい戦闘で息子(兄弟説あり)が戦死してしまう。

大友氏という主君持ちの紹運と違い、筑紫は小なりと言えども独立した勢力だ。

息子が死に、自分まで死んだら筑紫家の嫡流が絶えてしまう。やむなく島津軍に降伏し人質となった。

一方、岩屋城に籠城した763名(立花家からの応援20数名含む)は、はなから死ぬつもりで残った男たちだった。

彼らの目的は惟一つ!囮となって一人でも多くの島津兵を倒すこと!

関白・豊臣秀吉は徳川家康と外交の駆け引きから抜けることができないので、岩屋城への応援は(近々は)来ない。

だが九州の大名のなかで、早くから秀吉に帰順していた大友氏を助けず滅びるようなことがあれば、成立して間もない豊臣政権の権威・信頼は失墜してしまうだろう。

だから自分たちが粘り時間を稼げば、主君・大友氏を助けるために(いつか)必ず秀吉の援軍が来る。

援軍さえ来れば、宝満山城へ逃した岩屋城兵の妻子・一族の命は助かるのだ。
(紹運、彼の妻も次男が守る宝満山城へ避難していた)



一話完結希望の方は写真拝借した鳳山様の記事をどうぞ~(*´pq`)
http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B4%E4%B2%B0%BE%EB&sk=0#28160685

一日でも一刻でも、とにかく長く戦い続けること。 

「主君・大友氏への忠義と、宝満山城の妻子・眷属の命を救う!」その一念だけが、籠城する人々を支えた。

大軍の島津は次々新手を投入し、昼夜交代で間断なく攻め続けることができるが、岩屋城兵に交代はいない。

島津の攻撃が止んでも、城の補修・補強や矢玉の補充作業のため働きづめだ。

籠城側の彼らは、睡眠どころか満足な休憩もとっていなかっただろう。 

体力の限界は遥かに超えて、気力と執念だけで戦い続けていた。


一方、攻撃側の島津軍も士気(しき=テンション)が落ちて来た。

筑紫のいた出城を占拠し捕獲~外郭まで攻めることが出来たのだが、そこから先に進まない(_´Д`)アイーン

攻撃しては防御され~の繰り返しでキリがないのだ。

攻撃は旧暦の7月で残暑厳しきおり~って季節。

うだるような暑さと、むせかえるような血の匂い。  

激しい戦闘で片付け切れない死体から凄まじい腐敗臭が漂い、さしもの島津兵も気が滅入ってくる。

かといって今さら攻撃を止めるわけにもいかない。

6万の大軍で、山城一つ落とせなかったら、島津軍は物笑いの種だ。

軍事力で押さえ込んでた国人たちも反抗してくるだろう。

このころ島津軍の中で若干20歳の名将・立花宗茂の実力を知るものはおらず、紹運さえ倒せば雷神道雪亡き後の大友氏攻略は簡単に終ると考えていた。
(それは大きな誤解で島津は、後に宗茂の強さを思い知ることになる)


島津家紋

7月26日~島津の使者・新納蔵人(ニーロ クロウド/カタカナで振り仮名入れると帰化した外人みたいだが日本人です)が岩屋城へ降伏勧告をした

ちなみに親指武蔵の新納さんと同族です^^/

新納「大友は耳川など無用な戦を起こし、さらに家臣の多くも離反しているではないか。わが主・島津義久は信義を持って人に接し、民百姓は安んじて暮らしています。ここまで戦い紹運殿の武士の面目は果たされたことでしょう~~領地安堵・城兵の助命を条件に降伏しませんか?

紹運の返答「大友は衰えたと言えど未だ健在です!島津は以前は一国の統治もままならなかったではないですか。今でこそ勢いあるが関白の援軍が来たらどうなるか判りませんよ。使者殿は主君の強いときだけ忠義を尽くし、主君が衰えたら見捨てて逃げるのですか?武士たるもの恩義を忘れたら畜生にも劣るでしょう(`・ω・´)キリッ

この紹運の堂々たる返事に、使者・新納は言い返すことが出来ず、引き上げるしかなかった。

報告を洩れ聞いた島津軍の間からも、紹運に対する賞賛の惜しみない声があがったそうだ。

同日夕方~今度は僧侶・快心和尚が使者として岩屋城へ来た

快心和尚「もはや降伏しろとは言いません。和睦しましょう~~岩屋城・立花城・宝満山城の領地は安堵します。実子のどちらかを人質として出すだけでOKです~~(-人-)☆彡願~

紹運の返答「NO!いまさら息子を人質にして自分が助かるなど、武士の面目を失います。大友に余力はないので主君からの援軍は来ません。だから関白の援軍が来るまで粘るのみです。島津は心置きなく攻めて来られよ(`・ω・´)キリッ

強圧的だった降伏勧告から、かなり譲歩。

妥協した和睦案も断られ、島津は紹運の説得を諦めざるをえなかった。

7月27日~最後の決着をつけるため島津の全軍総攻撃が始るのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^

北肥戦誌【1564年】

●永禄7年(1564年)

2月、隆信は平井経治を攻めんと、居城である須古の高岳城へ攻め掛かる。

これに経治は隆信勢恐るるに足らずと福母村の外れに伏兵を置き、佐嘉勢の先陣へと切り掛からせた。

佐嘉勢はこれに浮足立つも、二陣の鍋島信房、鍋島信昌、倉町信俊らが味方を援けて先に進んだ為、平井勢は驚き須古方面へ退却していった。

佐嘉勢は勝ちに乗り、逃げる敵を追い掛け高岳の城際まで追い詰める。

鍋島勢は城の大手北の畷で敵の馬廻りらしき勢を城中へ押し込む。

これに負けじと、先陣の成富甲斐守、成富式部少輔、木下伊予守、石井新右衛門が鍋島に続き、敵を大城戸まで追い詰めた。

他の者共も高岳城へ攻め登らんとする。

だが隆信は城攻めの難儀を悟り、広橋一祐軒信了に命じて士卒を引き揚げさせ、平井との和談に及んだ。

経治は納得し、弟の平井直秀を隆信の婿とし、高岳城の大溝や土手を崩す事となった。

但し、このとき隆信に息女がなかった為、龍造寺信純の娘を養女として送るとした。


3月下旬、今度は三根郡西島城主・横岳鎮貞を攻めるべく出陣する。

これに少弐の旧臣が集い防戦に努めるが、隆信は討ち散らして三根郡へと入り、城下まで押し詰めた。

だが、鎮貞の家臣らが悉く討って出て先陣と争った結果、佐嘉勢には討ち死にが相次いだ。

西島城下は南から東西にかけて海に面し、筑後・肥後へ海で続いており、横岳は予てから大友と通じていた。

城の防備も大友の下知に従い、堀切に逆茂木が隙間なく打たれ、城の周辺には兵船が浮かび、北の方から乾に掛けて米田村の境までその口々の江筋に12の大橋を掛けるなど防備を堅固とし、且つ大友からの手火矢(石火矢)を大量に備えつつ兵糧も潤沢であった。

隆信は要害を攻める不利を悟り、士卒を佐嘉へと帰陣させた。




【壮烈・岩屋城~前篇】柳川藩初代藩主編4栞72

にほんブログ村 地方・郷土史
後の島津討伐の時にも、島津軍が大友家の筑前領に侵攻した時の事を、島津家は関白・豊臣秀吉に対し、
「当家で不都合あった者を討つためで豊薩同盟は破っていません(`・ω・´)キリッ」と、言い張った。
島津の「当家で不都合あった者」とは、筑後の有力国人の筑紫広門(つくしひろかど)のことである。

国人領主オタの管理人にとり、筑紫氏は「お気に入り国人枠」の一つ~~(人´∀`).☆.。.:*・
通字の「門」がカッコいいと思いません?
え?それ以前に知らない?・・・・・・ですよね~~il||li _| ̄|○ il||l

どこでキャッチしたのか、大友氏が関白・豊臣秀吉のバックアップを受けたことを知った筑紫は、
それまで島津傘下だったが大友傘下に鞍替えした。

天正14年(1586)2月吉日~大友氏の有力家臣・高橋紹運の次男と筑紫広門の娘が同盟による結婚をする



とまぁ、筑紫広門の娘・加弥姫は自ら乗り込んで結婚を申し込んだ逸話がある。

ちなみに加弥姫は、広門が常日頃から自慢する愛娘で、大変な美少女だったそうな^^

もともとは高橋家(というより主家・大友)の敵だった、秋月家息女と高橋家の和睦結婚話が浮上してたらしい。

それを知った筑紫が両家が組まれたらウチがヤバい~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

筑紫家のピンチを救う策として、広門の娘・加弥姫の結婚案が浮上したのです。

だから大友が関白の後ろ盾を得たのを、筑紫が知ったのは結婚後だったかもしれない。

花婿の父・高橋紹運(たかはしじょううん)は、名将:立花宗茂の実父です。

紹運の妻と広門の妻は姉妹なので、花嫁・花婿は従姉弟(姫の方がふ2つ年上)同士です^-^

ちなみに二人が結婚したのと同月に、大友氏と毛利氏は関白・豊臣秀吉の命令で正式和解をした。

このおめでたい婚儀話は速攻で島津にバレタらしい( ̄ω ̄A;アセアセ

同年3月23日~島津当主・義久は弟の義弘に「筑紫を討つため兵を出すので準備するように」と命じる



島津家紋

同年4月10日~関白・豊臣秀吉は島津討伐のために、小早川家・吉川家・大友家へ出陣準備の命令を出す

島津が大動員をかけていることは、大友から悲鳴のような情報が秀吉の元へ届いていた。

だが肝心の秀吉が京都・大坂から動かないために、上記の準備命令も準備のままで終り、公式の動員命令は未だかけられていなかった。

秀吉が上方を動けなかった理由は、徳川家康だ

東海の覇者・徳川家康は、独立した勢力として超然と構え、豊臣秀吉に未だ臣下の礼をとらなかった。

すでに九州では導火線に火が点いてる状態で、家康と戦をするわけにはいかない。

何より関東の仕置は、家康抜きでは出来ない・・・それほどの実績を家康は既に積み上げて来たんです。

秀吉の得意の外交戦で服従させようとしたのだが、なかなか家康は上洛しない。

同年5月吉日~徳川家康45歳と秀吉の妹・旭姫44歳が政略結婚をする


旭姫は実は人妻だったが、仲睦まじい夫婦を強制離婚させて嫌がる妹を無理矢理、嫁がせたのだ。

秀吉と義理の兄弟となった家康だが、にもかかわらず上洛しない。

家康は自分が外交的優位に立つために粘ってたんです。

家康を従がわせてからでないと背後が不安なので、京都を留守にして九州に出兵できない(_´Д`)アイーン


徳川家紋

同年7月~ついに島津軍が10万の大軍で出兵する!!

この10万は島津軍だけではなく、肥後・筑後・筑前などの島津配下国人たちの兵力を含めた連合軍です。

そのうち2万の兵力で筑後の筑紫広門の本城・勝尾(かつのお)城を攻撃。

島津軍大将は、義久・義弘の弟で「野戦の天才」と言われた島津家久です。

この大軍の前では為す術もなく、筑紫はお手上げ状態で勝尾城を捨てざるをえませんでした。

筑紫は同盟した高橋紹運の城・岩屋城へ逃げた。



一話完結希望の方は写真拝借した鳳山様の記事をどうぞ~(*´pq`)
http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B4%E4%B2%B0%BE%EB&sk=0#28160685

筑紫を追って(というか口実にして)大友氏の筑前領に侵攻した島津連合軍が・・・・ここで、ちと足止めになる。

国人たちが城攻めを嫌がったからだ。勿論、あからさまにイヤ~と言ったわけでない。

「大友氏の援軍を牽制するために抑えの兵が必要じゃね?」と言い出したのだ。

空気読んだ島津家は、筑前侵攻の兵を島津本軍メインに切り替え6万に編成しなおした。

島津軍6万の大将が島津忠長~義久・義弘ら4兄弟の従兄にあたる人物

一方、このとき弱冠・20歳の若き名将・立花宗茂~彼は立花城を守っていた

宗茂が秀吉の事情を何処まで知らされていたかは判らないが、援軍が今すぐは間に合わないだろうことは承知していた。

実父・紹運の岩屋城の防備では幾日も持たないだろう・・・心配した彼は実父に

「岩屋城を退去し、弟(広門の娘と結婚したばかり)の守る宝満山城へ入って下さい」と勧めた。

が、紹運の返事はNO。

紹運「思うところがあるので岩屋城へ残ります。女子供を退去させるので、彼らを宝満山城で収容してください


宗茂は実父が6万の大軍相手に籠城しようとしているのを知った!Σ(´Д`;) うあ゙

知らせを聞いた弟も父・紹運に退去を進めたのだが、丁重な断りの返事が来る。

緊迫するクソ忙しい情勢の中で、7月10日~関白・豊臣秀吉から~ガン( ゜д゜)ガレ~と籠城の励ましの言葉(だけ)届く。

宗茂のカッコイイとこは、グチや怨みごとを一切言わないことで、このときも秀吉に文句を言わず、とにかく援軍が間に合わないなら自分たちで頑張るしかないと気持ちチェンジ。

だが立花城を守るという任務があるため、彼は実父の岩屋城へ入れない(_´Д`)アイーン

なまじムコ養子なので、立花家臣たちに応援の兵を送りたいとは言い出しかねたショボーン..._φ(・ω・` )

宗茂の苦しい胸のうちを察した立花家臣の吉田右京が、自ら岩屋城へ援軍に入ることを申し出た。

吉田の発言をキッカケに、立花家臣(吉田個人の家臣も含む)20数名が名乗り出て援軍に行くことになる。

後年宗茂は「あのおりは右京の言葉が涙が出るほど嬉しかった」と話している。

籠城の決意を固めた岩屋城の高橋紹運は、城内に触れを出した

一・籠城に反対のものは城を去ること
二・子供が二人いる家は、家名存続のため一人を退去させること
三・上二つに反対の者も 城を去ること
6万の大軍で岩屋城を囲んだ島津忠長は 降伏勧告を紹運に出すも 紹運、これを拒否!

決戦に火蓋が切って落とされるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;

北肥戦誌【1563年】

●永禄6年(1563年)
4月1日、空は闇の様な曇天となり、雷電夥しく、拳大の雹が降り、人馬が数多殺された。

同月2日、九重の塔が炎上する。

6月22日、隆信は少弐政興を退治する為に弟・信周・納富但馬守・福地長門守らを従い東肥前に出馬、まずは馬場鑑周の在所である三根郡の中野城を攻撃する。
だが、馬場家臣の手田・川波・薬王寺らが城戸を防ぎ、激しい抵抗を見せた為に、寄せ手は沢山の戦死者が出た。
合戦も半ばとなった頃、福地長門守が城中に入り鑑周と対面、和平の談合に及ぶと、鑑周は弟の馬場周鎮を人質に出して軍門に降った。
これにより、同じ郡内の少弐方である宗 尚夏、横岳頼続、防所尾張守も龍造寺家に降る。
続いて隆信は、横岳鎮貞の西島の城を攻めた。
だが、容易く落ちそうになかった為、降人となった馬場鑑周と横岳頼続を鎮貞の城の抑えとし、6月下旬に佐嘉へ帰陣した。

永禄6年、肥前国杵島郡長島庄盬見城主を《渋江橘公師》という。
この頃、塚崎の《後藤貴明》と一味同心し、有馬に従わなくなり居城の盬見に引き籠った。

然るにこのとき、有馬仙岩の猶子《有馬義直》が高来より渡海し藤津にあったのであるが、ならば盬見を攻めるべしと永禄6年10月20日、西右京亮を大将として藤津・杵島両群の輩を盬見へ差し向ける。

そして20日の未明には城に取り掛かり、馬渡兵庫助以下の者どもは鬨の声を上げて攻め口に押し詰めて戦う。
しかし、城主の公師が士卒を下知して城戸を守ったために破られることはなかった。
何よりこの城には、近年薩摩の種子島へ渡った鉄砲が多く配備されていた。
有馬方は予てよりこれを知っており、どうしてもこの鉄砲を除くべきであると談合、謀を企てる。
それは、近辺に堤子川という川があり、そこに盬見大明神の神子が居たのであるが、その者に金銀を与えて計略の旨を話し合い、前廉より城内へと入れ置いた。

この神子、財宝に迷いながらも有馬衆に言い含められたように俄かに物憑きの真似をし始めた。
手足を空に躍らせ青稲を噛んで狂い狂い述べるのは、
「我は盬見大明神なり。当城、只今敵に攻められし故、武具を以てこれを防ぐ。甚だ愚かなる事なり。我、和光の塵に交じってこの山に跡を垂れ渋江氏を守護すること既に数百余歳に及ぶ。然るに刀を以て人を斬り、鉄砲を飛ばせて人を殺すこと、当山の穢れに他ならぬ。そのようにしなくとも、神力を以て敵を千里の外に蹴散らすべきである。急ぎ鉄砲などの兵具を城外へ運び出すべし」
と汗だくになって口走った。

公師を初め城中の者共、これを信用しなかった。
しかし、公師の父《渋江公親》は強か正直な男で、祖神の託宣疑うべきに非ずと、鉄砲・槍・長刀の悉くを城外へ運び遣った。
有馬衆はこれを聞くと、謀り得たりと悦んで先を争って攻め戦う。
公師を初め城中の者共、大明神の信託は大きな間違いであった。
これは如何すべきかとつぶやきながら、城戸を固めて防戦した。
隔して三日三晩続いた合戦により城兵は悉く討ち死にする。

三岳兎源左衛門・白石道長・彼杵何某・波佐見何某が討たれ、城主の公師は七箇所の手傷を負い、もはや堪え難しと皆散り散りに落ちて行く。
公師は塚崎の方へ逃げ去り、弟の三郎公重は討ち死にして10月23日に城は落ちた。
その後、公師は肥後国山鹿へ赴き、赤星重行を頼って暫し蟄居したという。

永禄6年のこの頃、豊後の屋形・大友義鎮は国政甚だ暴悪にして、諸人が疎み嘲ること大概であった。
その上、不意に入道し、また南蛮西洋国の耶蘇教に傾倒して仏神を蔑ろにして堂塔を破却した。
その根元を尋ね聞くに、義鎮は近年、専ら女色に溺れ、国中の上下を問わず、若く麗しい女を幾らともなく府内の城中に招き集め、あるときは庭上の花の下に踊りを興行し、あるときは深閨の月の前に酒宴を催し、日夜不行儀に過ぎる有様であった。
簾中はこのことを大いに嫉み、ある修験者を賺して金銀を与え、夫の義鎮を呪詛するよう密かに頼んだ。
これより義鎮は忽ち乱心し茫然として、ある時、府内の城中を迷い出て、更に行方も知れなくなった。
奉行を初め豊府の侍は大いに驚き、これは何とした事かと諸方を探し回ると、臼杵の丹生島の辺りにて見つけ出す。
これはどうした有様ですかと問えば、
「さればよと紅葉の影に誇らして」
と答えたため、これは乱心であると思い、すぐさま丹生島の城へと入れた。

その後、義鎮は正気に返り、簾中の呪詛を伝え聞くと大いに立腹、所詮は世の中に仏神があるから呪詛もあるのだと、仏神を疎むようになった。
その後、義鎮が34歳のとき、大徳寺の長老に請い、剃髪して法名《三非斎瑞峯宗麟》と号し、家督を嫡子の義統に譲って、自らは臼杵の別邸に居住した。
そんな折、元は禅僧である如露法師・因果居士という二人の南蛮西洋国の邪宗の者が、臼杵の丹生島に現れ上下老若共に邪宗を説き聞かせる。
府内六奉行の一人である《田原親賢入道紹忍》はこれに帰依して主の宗麟へも勧めると、宗麟は元より仏神を疎んでおり、その上、賢しらからは遠く、愚には近い大将であるからすぐさまこの耶蘇教に傾き、偏に泥鳥を尊び仏神を敬わず、これより国中の神社・仏閣を悉く打ち破り、仏像・神体を一つ一つ焼き捨てる浅ましさであった。
その間、府内の大老奉行らは大いにこれを悔み、中でも《戸次鑑連》は時々諫言したものだが宗麟は許容せず、近習・外様の輩は、大友家の滅亡は近いと眉を顰めぬ者はなかった。

永禄6年8月13日、肥前国塚崎の城主《後藤貴明》が、須古の《平井経治》を討つべく軍兵を率いて取り掛かる。
貴明の先手である中野一門は樺島・蘆原へと討ち入る。
これに、平井一味の輩である白石左近大夫・馬渡兵庫助・林田左馬助以下は討ち出て散々に戦う。
これに後藤の将らは利を失い、中野重明・その子である大和守・嫡孫の三郎・同じく新七郎・中野忠明・舎弟の蓮成・同じく弟の東何某ら以上七名が樺島にて一所に討たれ、敗れて引き退く。そのときに武雄兵部大輔も討ち死にした。
平井方の野田掃部允は、武雄右馬大夫が放った矢に当たり死に、そのほか白石弥三郎・馬渡左馬允も討たれた。
また、有馬の侍である南肥後守・筑後介兄弟は、双方和融の談合のために須古に来てこの陣中にあったのであるが、已む無く平井方として戦い、兄は傷を被り、弟は討ち死にした。

同年12月28日、高来の《有馬義純》は伊佐早の《西郷純堯》を征伐するため伊佐早表に参じ梅津にて戦う。
この戦いで、有馬勢の安徳直治の手の者、安徳九郎右衛門・安徳新五郎・安徳興三右衛門・安徳三郎兵衛・安徳太郎次郎・石橋助次郎・中間の弥六が討ち死にした。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【信長の野望/幻の豊薩同盟】柳川藩初代藩主編3栞71

にほんブログ村 地方・郷土史

大友からは名馬を貰ったので島津からは鷹を贈りなさぁい~鷹は日向産限定ネ

薩摩の島津義久の元へ、織田信長から上目線の手紙が来たのは、天正7年(1579年)のことだった


前年の11月「耳川の戦い」で島津に大敗し衰退した大友氏が、織田信長のバックアップを求めたのが始まりだった。

面識のない島津と織田の仲介をしたのは公家で、関白の近衛前久(このえ さきひさ)。

近衛は織田信長の鷹狩り仲間である同時に、島津義久の和歌~古今伝授の師匠だったの。

ちなみに身分の低い豊臣秀吉が関白になるときに、近衛の養子になるという手続きをしています。

でもって島津義久は織田信長を華麗にスルー~

さらに室町幕府・最後の将軍、足利義昭が日向鷹を献上を所望した。

(この時期は信長に京都を追い出され ポニョで有名になった鞆(とも)に仮住まい中~)
(なのに織田と島津の接触を、どこでキャッチしたんだろう?)

ちなみに義昭の仲介したのは、義久の雅の友・細川幽斎。

細川は既に室町幕府に見切りつけて、織田信長に息子・忠興を仕官させていたのだが、足利義昭と完全に切れた訳では無かったらしい。

足利義昭が亡くなった時も、幽斎が葬儀の手配りなどしている。


織田家紋

すぐ調子にのる足利義昭。

信長のシンパ・大友は室町将軍の敵!大友を討て!!

という命令を、信長にバレないように( ̄ko ̄)<チイサナコエ⇒御内書を島津に出してたりする。

その後も織田信長から「大友と和睦しろ」とか「日向鷹まだ?」などと変わりばんこに催促されていたが、島津義久は無視し続けた。

天正8年(1580)8月~遂に仲介なしで織田信長から直接島津義久の元へ手紙が届く。
信長からの手紙(大意)
1)大友との争いを止める事
2)本願寺が信長と和睦(実質の敗北)し、石山(大坂)を明け渡し紀伊(和歌山県)へ退去した事
3)毛利成敗のための兵を出し天下(この場合信長)のために忠義を尽くす事

翌月の9月にも信長から和睦勧告が来るので・・・・・遂に根負けして日向鷹を贈った島津だった( ̄ω ̄A;アセアセ

島津が信長の介入により大友と和睦した正確な年月日は調べきれなかった。

なにせ国境を決めたりとか・人質の交換とか・同盟結婚とか・・・など交渉してた風がなく「口だけ同盟」だったのだ。

とにかく翌年の天正9年(1581)の8月には「島津から大友へ」同盟を祝してと、太刀と馬が贈られている。

この同盟は、大友の領地が豊後(ぶんご)と、島津の領地が薩摩(さつま)なので「豊薩(ぶんさつ)同盟」と呼ばれた



島津家紋

織田信長の天下統一構想のスコープゾーンに、遂に九州が入ったのだ


信長の「九州仕置」の最終構想は、今となっては解らない。

だが関東を例にとると、信長は「反北条サイド」を糾合することにより「関東惣無事」を完成させている。
(信長が本能寺で倒れるまでの僅か3か月間だが「完成した」という実績は残った)

だから九州の場合も「反島津サイド」を吸い上げることで「九州惣無事」を仕上げようとしたのではないだろうか。

天正10年(1582)の[「本能寺の変」で織田信長は殺されるのだが同盟は継続されていた。

大友を庇護するという織田信長路線を、豊臣秀吉も継承したからだ。

もちろん大友氏の方でも上洛し、豊臣秀吉に礼を尽くしているのは云うまでもない。

天正12年(1584)3月に起きた「沖田畷の戦い」で竜造寺に勝利した島津に対し、大友氏は「同盟国」として戦勝祝いを同年・5月に贈っている。

贈ったのは「定家真筆の古今和歌集」和歌好きの島津にピッタリ~贈り物に大友の気合を感じる( ̄ω ̄A;アセアセ

同盟など島津も大友も守ってなどいない。

島津は秋月氏と組んで大友の筑前における領地を攻撃しているし、大友は筑前を拠点として立花道雪などが島津の筑後勢力圏内に侵攻している。

さらに島津配下の日向国人が、大友軍と激突しています。

新たな天下人・豊臣秀吉は自分に従がう大友を残し、九州支配に邪魔な島津を「豊薩同盟を破った罪」によって島津討伐の口実にしようとした。


豊臣家紋

天正13年(1585)10月~秀吉は島津へ九州停戦令を出した


翌年の1月~島津義久は雅の友人・細川幽斎に手紙を書く。

島津「私は豊薩同盟を守ってます。成敗される覚えはありません。どうか貴方から関白殿下に取り成してください」φ(.. ) メモメモ

秀吉の島津討伐は、もはや既定の方針で一個人の外交力でどうにかなるレベルではなくなっていた。

だが細川氏は島津存続のために、この後にも起きる島津の問題に対し仲介の労を取る事になる。
(細川幽斎は一時期、九州の取次だった)

実態がなく外交上の駆け引きのみで存在した豊薩同盟


このまま手をこまねいていれば、全てを失い滅びてしまう・・・島津には戦うしか道は残されていなかった。

「私は同盟を守ってます」そう手紙を書いた同年の7月。

島津は6万の大軍をもって、筑前の大友領に侵攻を開始した。

時間は多くは残されていない、秀吉軍が来る前にカタをつけなければならない。

名将・立花宗茂の実父・高橋紹運は、大友に忠義を尽くす家臣だった。

常に最前線で戦ってきた彼は島津の大軍を引きうけ死闘することになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

※今回の記事は「豊臣政権による惣無事令は存在しない」という竹井英文氏の新説を元に構成しました。
資料にした出典:島津家文書、竹井英文氏著『織豊政権と東国社会』

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^; 

北肥戦誌【1562年】

●永禄5年(1562年)

豊後の大友義鎮は少弐再興の為に資元の三男・政興を立てんと図った。
大友は政興を筑後へ呼び寄せた上で、上松浦の波多 鎮(親)、その実父である高来の有馬越前入道仙巌(晴純)へ少弐再興を相談する。
父子は同意し、波多家は松浦党に加え、田代因幡守、馬渡甲斐守らに準備させ、仙巌は嫡子・有馬義直(義貞)に人数を与えて、大村純忠の士卒と共に多久へ向かい、多久宗利を味方に付けて龍造寺攻略を企てた。

これに西肥前の者達が与する。
彼杵郡の西郷純堯、矢上幸治ら、下松浦の松浦 親、山代 清、伊万里 直ら、杵島郡の平井経治を始め、白石・永田・吉田・嬉野(宇禮志野)・原・上瀧が、高来には安徳・安富・神代・島原・多比良・千々石らが打ち出て、先陣は3月17日に杵島の横辺田まで攻め来る。

隆信はこれを聞き、急ぎ老臣らを集め評定を行い、一族の他に鍋島信房、鍋島信昌を始め、小河・納富・福地らを横辺田へ差し向け、小城郡の高田村に陣取った。
これに千葉胤連も家人を催し、蘆刈の鴨打胤忠、徳島土佐入道道可、徳島長房、徳島信盛を始め、今川の持永盛秀以下、空閑・粟飯原・桃崎・橋本も龍造寺に加勢の軍を出し、丹坂口へ打ちだした。
これに有馬は横辺田に陣を張ったまま動かず、6月も半ばとなった。


そんな中、有馬に所縁のある馬渡俊光という者が、隆信に対して忠を為さんと、一族の野田右近允と密談し有馬へ、隆信を討つから兵を出してくれと使いを出した。

有馬勢はこれを策と知らず、島原彌七郎に人数を与えて船で砥川まで差遣させた。
この兵船が柳津留に入ると、馬渡俊光は牛尾山に合図の火を上げる。
これに東から鴨打・徳島数百人、西から野田・乙成勢が出陣、兵船を取り囲み、雨の降る如くに矢を射掛けた。
謀られたと気付いた有馬勢は船を漕ぎ戻そうとするも叶わず、船底に隠れたり、干潟に飛び込んだりと為す術無かった。
佐嘉の地下人らはこれに手を叩き、声を上げて、雄叫びながら武槍で突いて回ると有馬勢数百人が討たれた。
島原は攻撃を払いながら牛津江の大戸ヶ里まで船で逃れながら鴨打勢と戦ったが、有馬勢40余人が討たれた。
但し鴨打勢も50余人が討ち死にした。

これを隆信へ注進すると、隆信は大いに喜び馬渡へ100町を与え、馬渡信光と改名させた。
また鴨打ちへは小城の右原80町を加増し、徳島らにも其々恩賞を与えた。


これに佐留志の前田志摩守、その息子・前田家定も有馬と手切れすべく、有馬の佐留志代官・高場新右衛門を切って、加瀬の館へ居た隆信へその首級を持参した。
隆信はこれに喜悦し、佐留志の新田60町と砥川にある5町を前田に下賜した。

更に上松浦の鶴田因幡守、鶴田越前守、田代因幡守も大友方である波多鎮と手切れして龍造寺に加担した。
中でも田代は上松浦の居館を立退いて、佐嘉領である小城の内納所村に移住している。
その引き払いの際に波多勢と戦い、嫡子・左京亮、田代主殿助、田代彌三郎、田代源五左衛門、田代新左衛門、田代藤次兵衛らが討ち死に、次男・越後守が負傷している。
更に、前田家定の手引きで、杵島郡・横辺田の郷士である土井・井元・田中らも龍造寺家に従った。


一方、馬渡に謀られた有馬勢は大いに立腹し、7月2日に島原弥助を大将に、安富貞直と安徳直治の家臣、高来・杵島の軍勢が、須古の平井経治の勢と共に砥川村へ攻め込むべく大橋を越えんとしていた。
これに佐留志の前田志摩守、別府の相浦河内守、砥川の泉市之介・森田越前守・江口慶林らは急ぎ居宅より出陣し、大橋口で敵勢を防ぐ。
前田勢は進み過ぎて主従18人が討ち死にするが、有馬勢は大橋口を破れず、北側へ進み両子山の北に在る由利岳に陣を構えた。
ここへ、多久に陣を布いていた大村勢も集まり、近いうちに小城に攻め入らんとしていた。


これらに千葉胤連の家臣らが打ち掛かるが、寡兵の為に打ち負け引き退いた。

隆信はそれを聞き、弟・信周、従弟・鑑兼、鍋島信房、納富信景、その弟の納富治部大輔信純(彦鶴の夫)に人数を与えて丹坂口へ先行させると、自らもそれに続いた。
隆信には鍋島信昌、小河信友、百武兼通が随身する。


7月25日、有馬勢が、由利岳から小城を捕るべく丹坂へと攻め入った。
これに今川の持永盛秀、持永長門守、持永清兵衛、栗原甚助、大曲彦三郎、岡の大塚盛家、板屋九郎太郎、平井の粟飯原宮内少輔、粟飯原新七郎、鳥巣大蔵允、西郷の空閑刑部左衛門、江頭主計允、津野の橋本兵部少輔、橋本左近允、橋本右近允 他、近辺の豪族らが集まり、江頭筑後守を先陣にして丹坂口を守る為、東西の郷へ陣を布く。また、丹坂の北・姫御前塚を峯村の千葉家旧臣・峯 吉家、その弟・峯民部少輔、峯甚左衛門、峯次郎兵衛ら主従83人で固め、西の谷を越えて右原境に陣を布いた。

有馬勢の一手がこれに対する。
峯一族はこれを防ぐべく奮戦するも、大将の峯吉家は7ヶ所の傷を被り引き退く。
だが、これを見て逆に奮闘、峯甚左衛門は無双の剛の者で、石の狭間から矢を射掛け、有馬勢23人を射殺した。
有馬勢は疲労夥しくなり引き退いた。


丹坂口では乱戦となり、有馬勢が競り勝ち西郷まで攻め入るが、佐嘉勢と小城勢に打ち負けて潰走していった。
佐嘉・小城勢は余勢を駆って、丹坂峠を越えて右原へと有馬勢を追い詰める。
有馬勢は慌てて川に飛び込み、次々と溺死していった。
有馬勢は、安徳直治の勢から安徳直徳、安徳彌左衛門、安徳日向守、安徳兵部左衛門、安徳八郎次郎、安徳太郎左衛門、大窪金右衛門、長野土佐守、長野四郎左衛門、長野三郎左衛門、大塚次郎兵衛、菅太郎兵衛、河口忠兵衛、小瀬八郎左衛門、池副孫三郎ら18名、安富但馬守勢から数十人など、有馬勢から沢山の討ち死にが出た。
隆信は時を置かず、同日の7月25日に多久宗利の下多久の梶峰城を攻める。
このとき宗利は丹坂へ出陣中で留守であり、城はあっさりと落ちた。


鍋島信昌は堤尾山に備えを固めて陣を布いた。
更に隆信は返す刀で、急ぎ長尾口を塞ぎに掛かる。
これは、逃げ帰って来る大村・多久勢を逃走させない為である。
逃げ場を塞がれた敵勢は、山林へと散り散り逃げ惑って行った。
その中に居た案内者・長尾村の倉富米満、波佐間村の田中掃部助は留まって討ち死にした。


隆信は多久城へ入り兵馬を休める。
有馬の敗残兵は杵島の横辺田へ退却、楠久津に籠って、須古の平井経治と塚崎・武雄の後藤貴明へ加勢を請うた。

隆信が多久の城を落として以後、龍造寺家に降参する者が相次ぐ。
一方、梶峰城を失った多久宗利は直に須古へ出向いて、平井経治を頼った。

7月26日、隆信は後藤貴明へ使いを出し、
「これより多久より横辺田へ陣を移し、有馬の残党を残らず討ち果たす心算である。このとき我らと敵対しないで頂きたい。もしまた有馬へ加勢されるならば、御辺と一戦に及ぶのみである」と申し送る。
隆信はその返答を待たず杵島へ陣替えした。
貴明はいまだ返答をしなかった。

然る処に隆信の後方より有馬・大村の残兵が、鬨を上げて切り掛かった。
隆信は元来より機微万化の大将であり、これにも全く動じず、先備を即座に後方へ繰り出して有馬勢に対した。
敵は所詮敗残兵であり、再び打ち負けて敗走した。

隆信が北方という場所へ陣を移す。
後藤貴明は猪熊半助を使者に、隆信勝利の祝儀を述べさせると、隆信は北方の陣を払い横辺田へ引き、福母山に陣を布いた。


7月28日、龍造寺勢は前田家定、井元上野介を案内者に、納富信景を先陣として2000騎をもって、高岳城主・平井経治を攻めるべく福母の南大橋口へ押し寄せる。
平井経治は当代無双の勇将で、佐嘉勢来襲を聞き出陣、一族の川津経忠、平井刑部大輔を始め、本田純秀、本田純親、白石純通、湯河・川崎・永池・村田らが大橋口にて出向き、互いに弓・鉄砲を打ち掛ける。

やがて両陣太刀打ちとなって干戈交えるが、龍造寺勢が打ち負けて引き退いた。
平井勢は勝ちに乗り追い縋る。
鍋島信昌は退く味方を援けて槍を振るうが、畔(あぜ)に躓き倒れる。
これに、敵が良い敵と見定めて左右から信昌を討たんとするが、小河大炊助、百武志摩守、副島右近允が馳せ付けて信昌を救った。


龍造寺勢は退却に難儀し、鴨打左馬大夫、副島式部少輔、野辺田左衛門尉の3人は軍勢の中程から返して、追い縋る敵を追い散らす。
このとき殿軍は龍造寺鑑兼・納富但馬守であったが、信昌もこれに加わり敵をどうにか諦めさせた。


だが、近辺の野伏らが落人狩りを目論見、小田に陣を布き、龍造寺勢を待ち構えた。
龍造寺勢はこれを風聞に聞き、今日は日暮れなれば明日に通るべし、或いは別の道を通るべしと述べるが、
信昌は「野伏如き何程の事も御座いませぬ。只今より私一人で駆け散らして通りますものを」。と述べると、隆信は尤もと頷き、鍋島が真前に立ち小田村を真一文字に駆け抜ける。
その威に呑まれ、野伏は悉く山中へと退いた。
龍造寺勢は無事に佐嘉へと帰還を果たす。別説に、隆信は横辺田へ退却した後、後藤貴明と語らい平井との再戦を企図するも、大友騎下の者共が隆信の留守を伺っているため、まず帰城あるべしとの佐嘉からの注進を聞き、梶峰城へ弟・長信を置いて、佐嘉へ帰還したとも云われる。
また、この戦いは永禄6年(1563年)との説もある。


前年の神代勝利復帰に、隆信は手をこまねく。
止む無く隆信は策を巡らし、勝利に叛意を抱く者を求めてこれを討たしめんとする。
すると、山内に西川伊予守という力量ある者があったが、隆信の求めを承諾した。
西川は、密かに友人の三瀬又兵衛へ協力を求める。
しかしながら又兵衛はこれに同心せず、父の長門守へこれを告げる。
長門はこれに驚き、勝利に此れを告げると、勝利は三瀬又兵衛と中野新十郎に西川伊予が重陽の禮に出かけた処を討ち果たさせた。隆信は以後、計略を思い留まる。

そしてこの冬、納富信景の仲介で隆信と勝利は和談に至り、勝利の嫡男・神代長良の娘・初菊を、隆信の三男・鶴仁王丸(後の後藤家信)に嫁がせる旨の約定と、両家ともに害心あるまじき由を神文として取り交わした。以後は山(山内)と里(佐嘉)の間は平安となった。

北肥戦誌【1561年】

●永禄4年(1561年)

9月上旬、隆信は山内の神代勝利へ使いを出し、
「御辺に対し鬱憤は片時も止む事が無い。ここは両家の行く末を掛け一戦に及び、今月13日、山里の境たる河上へ出張られ勝敗を決しようではないか」。と伝えさせた。

勝利も龍家を追い出し、肥前を平定せんとの野心があり、これに河浪駿河守を送り出し、応じる旨を伝えさせた。

隔して9月13日、勝利は熊川の城で勢を整え7000余騎で河上に出張った。

勝利は三瀬武家、三瀬安家、古河佐渡守、古河新四郎ら2000余騎を引き分け、淀姫大明神の西の総門を本陣とし、

大手宮原口には嫡子・神代長良を大将として神代蕃元、神代豊後守、神代兵衛尉、福島勝高、福島利高、中島鑑連、千布家利ら3000余騎を、

大明神の前・南大門には勝利の次男・神代種良を大将に、松瀬宗奕、松瀬能登守利宗、杠種満ら1300余騎を、

川の東・都渡岐口を三男の神代周利には八戸宗暘を付け、西川伊予守らの他、千葉胤誠の家臣らを合わせて1500余騎を布陣させた。

(勝利は平地では自軍が不利であると、山内へ誘い入れようと考えていたらしい。)


龍造寺勢も8000余騎を率い鶏鳴に出陣、軍勢を三つに分け、東の都渡岐口へは実弟・信周、従弟・鑑兼、小河信友ら2000余騎、西の南大門には納富信景を大将に2500余騎、隆信は3500余騎で宮原口へ押しかかる。

まず大手宮原口から戦が始まり、旗本勢の先陣・広橋一祐軒信了は士卒を励まし、
「一歩も退くな、掛かれ!」と下知するも、神代勢の勢いに南の方へ瓦解し広橋も討たれんとした折、二陣の者らは大いに憤激し自ら采配を上げて馬廻り衆を急いで先陣と入れ替え、二陣の大将・福地長門守信重も500余騎で入れ替わる。

隆信は予てより「先陣の敗は二陣の不覚、先陣の勝は二陣の手柄」と定めていた。

それ故の二陣の奮起であった。

これに神代勢より武藤左近将監という者が名乗りを上げて福地と突き合うも、福地の槍に胸板を貫かれ討ち死にした。

大庭石見守は神代中務丞を、納富越中守・北島河内守や、空閑光家も軍功を得た。

また戦いの半ば、神代の都渡岐の陣から裏切り者が出て、大将の勝利三男・周利が刺殺された。

その為、ここの神代勢は瓦解、八戸宗暘も手傷を負って退いた。

信周の勢はこれらを打ち捨て、川を渡り納富が攻める南大門に加勢に加わり、勝利次男・種良の横合いに攻め掛かる。

種良は「一足も退くな! 駆け入りて皆討ち死にせよ! これを破られらば、勝利を得るはより難儀となる、進め、進めぃ!」と叱咤する。

これに家臣・松瀬能登守、馬場四郎左衛門らは佐嘉勢に討ち入り悉く討ち死に、種良も御手洗橋の辺りで組み伏せられ討ち死に、南大門の神代勢も瓦解した。

龍造寺勢はこれも討ち捨て、勝利本陣の後方を取らんとする。

勝利は支え兼ねて八反原の方へ引き退いて行った。

唯一、宮原口の長良のみ健在で、旗本勢と叩き続ける。

これに竹藪を隔てて戦う箇所があったのだが、佐嘉勢の馬渡信喜がこれを見て堀の岸を伝え寄り、藪越しに突き出された槍を6 、7本奪い取った。

更に龍造寺家臣・水町信秀らも奮戦により、長良は遂に討ち負けて山内へ退き始めた。

龍造寺勢はこれに追い縋る。

長良は血塗りの長身の槍を振り回し、敵を振り切るが逃れ難く見え榎木の下にて腹を切らんとする。

が、福島周防守、福島伊賀守、福島弾正忠、福島新三郎、神代兵衛尉、梅野源太左衛門、中島上総介らが長良を逃すべく敵に打ち掛かる。

そして次々と討ち死にし、江原石見守は生け捕りとなった。

その隙に神代備後守は長良に走り寄って自害を押し留めると、藪の茂みに長良を隠すと自らは敵に打ち掛かる。

備後は福地長門の家人三名を討ち取ったが、福地勢に討ち取られた。勝利らは、落人と見て群がり来る野武士らを追い払いながら熊川の城へと戻った。

長良もその夜に熊川へと辿り着く。

隆信は鉄布の無念を晴らせたと大いに喜悦し、勝ち鬨を上げると、下於保村にて生け捕りとした者らを処した上で佐嘉へ帰陣した。

一説に勝利次男・種良は生け捕りとなって処されたとも、江原石見守は処される際に、不意に立ち上がると太刀取りを蹴り倒して、その喉笛を食い千切ったとも謂われる。

隆信は神代領を悉く没収し、山内の処々に代官を置き、空閑光家を山内の抑えにと朽井村へ移した。

一方、神代勝利は長良と話合い、山内から逃れて本意を達すべしと、妻子を伴い大村の波佐美へ逃れて大村純忠を頼った。

純忠はこれを迎え入れ、家臣の朝長純利(後に?大村氏主席家老)を付けて、これを守らせた。

勝利の家臣・中村壱岐守は山内に残っていたのであるが、勝利を帰城させたく思い、16歳の嫡子・外記と共に山内・摩那子山の代官・田中兵庫助の屋敷に忍び入り、兵庫助を斬り殺し屋敷に火を掛けた。

これに近辺の領民が驚き馳せ集まると、中村父子は闇に紛れながら、不意に現れては領民を斬り殺しては隠れ、また現れては斬り殺して隠れ、また声を上げては手を叩くなどした為に、辺りは騒乱に至った。

他の代官らもこれに騒ぎ始める。

中村父子は山内を駆け回り、仲間を募ってこの代官らを追い出した。

これを勝利らに告げると大いに喜び、12月中旬に三瀬城へと帰還した。

100日も掛からず帰還した勝利に、山内の領民らは大いに喜んだ。


またこの年(永禄5年かも)、隆信は小田鎮光、江上武種、犬塚尚重と和睦した。

鎮光には正室の連れ子・於安を嫁がせ婿とし、武種には次男を養子とする約定を交わした。

尚重は元々妹婿である。昨年、隆信の為に本領・蒲田江を去り他国にあったが、和融により戻るに至った。
(但し小田鎮光のみは、永禄2年1月11日に領地に復帰し5,000町を有して隆信へ和を申し出たとの説もある。江上も少弐冬尚自害の前年の起請文の際とも。)




【雷神の墓守】柳川藩初代藩主編2栞70

にほんブログ村 地方・郷土史
国人とは、それぞれの地方に土着している豪族(ある程度の勢力を持つ武士団)のことです。
例えば「太閤記」に出てくる蜂須賀小六は、川並衆(川並という土地の豪族)です。
彼らは本貫地と呼ばれる先祖発祥の土地に地盤を置き、先祖代々の領地を守り続けていました。
生き残る為、配下になることはあっても、家臣になることはない・・・それが国人です。
そんな国人が誰かの家臣になると、時に累代の譜代家臣以上の忠誠心を発揮することがある

立花家の家老・薦野増時(こもの ますとき)は筑前の国人でした。

だから立花の譜代家臣ではなく、道雪に増時の代から仕えた新参者でした。

それを養子にと道雪が考えたのだから、相当に優秀な人物だったようです。

養子の話は増時が「自分は新参なので・・」と遠慮し、そのかわり道雪と二人で選んだムコ養子が宗茂でした。

増時は大恩ある道雪に死後も仕えることを願い、道雪に対し「自分が死んだら(道雪と)同じ菩提寺に眠りたい」と願い出、道雪も悦んでそれを許しました。

道雪の死後、増時は後を継いだ宗茂に良く仕えた。

宗茂の最愛の実弟・直次が敵の島津に人質になったときも、交渉の末に無事取り戻すことに成功した。

感謝した宗茂は薦野に「立花姓」を名乗ることを許可し、増時の息子に実妹を嫁がせます。


増時が最初に仕えた立花道雪

天正15年(1587年)6月~立花宗茂が大友家臣から独立~柳川13万石の大名となります。

増時は、先祖代々守った領地と道雪の菩提寺(梅岳寺)を、後ろ髪を引かれる思いで離れることになるのです。

柳川時代の増時の待遇は城島城の城代家老5000石で、立花四天王に匹敵する厚遇でした。

立花のムコは「道雪と二人で選んだ」という自負のある増時は、しばしば宗茂に諫言しました。

増時はムコ養子の宗茂に、道雪のように・・・いえ道雪そのものになることを望んだのです


若いながら人格者の宗茂でしたが諫言が度重なり、さすがにドン引き~増時を遠ざけます。

もしかしたらギン千代の不仲になる時期と、増時を遠ざける時期は、重なっているかもです。

増時は年齢も50近くなり、日に日に望郷の念が抑え難くなっていった。

カエリタイ・・コキョウへ・・・ドウセツサマノモトヘ・・カエリタイ・・・


1600年「関が原の戦い」の時、増時とギン千代は徳川へつくことを主張しますが宗茂は却下。

宗茂は西軍に味方したので、増時は立花家中で孤立しました ポツーーン..._φ(・ω・` )

宗茂が西軍を選ぶメイン理由は「豊臣の恩義+旧主大友が西軍」だからなんだけど「増時(諫言するウザイ家臣)&ギン千代(不仲の妻)が徳川」と言ったのも多少は影響したかも^^;;

とはいえ宗茂の増時の武勇に対する信頼は揺らいではおらず、増時に本城・柳川城の留守を預けた。
(婚儀の時から縁のある増時が留守なら、ギン千代を宮永村から柳川城に呼び寄せたはず)

結局、西軍が負けたことで柳川13万石は取り潰しとなるのだが、柳川城明け渡しの後始末は増時が行っています。
(つまるところ やっぱり増時を頼りにしてた)


道雪のムコ養子・立花宗茂

増時の故郷・筑前には、福岡藩が立藩され黒田家が50万石で入る。

大藩になった黒田家では人手不足で人材を物色~~浪人となった増時に仕官の誘いをかけた。

増時は黒田家の申し出を受け、吸い寄せられるように嘗ての旧領だった筑前に入る。

ただし直接は仕官せず息子を仕官させた。待遇は中老(管理職)で領地は4000石。

そのほかに増時の故郷だった薦野(こもの)城付近を代官として預けるという超厚遇~~~

増時が道雪の菩提寺の世話をしたいと願い出ると、黒田家では了承。

黒田家は増時に隠居料の名目で、道雪菩提寺の維持費として200人扶持を与えた。

立花宗茂が浪人から大名として(最初は奥州・棚倉藩)復帰すると旧家臣が続々戻る。

だが増時と、その家族は戻らず、宗茂も声をかけてはいない。

亡き主・道雪の墓を誠実に守り続ける増時に、遠い東北に来いとは・・・とてもじゃないが言えない・・・ショボーン..._φ(・ω・` )


立花家紋

1612年10月20日に息子と結婚してた宗茂の妹が病死。

1620年6月には息子も病死。

息子夫婦の子供(つまり増時の嫡孫)も24歳の若さで病死。

領地の4000石は、増時の他の息子たちに分知(ぶんち=財産分与)され福岡藩士として続きます。

身内の不幸は勿論、一通りでない悲しみだ。

だが道雪の菩提寺を守ることに専念している増時にとって、宗茂との個人的な縁が切れる事は多少でも肩の荷を降ろせただろう。

1623年・・・増時は家族に看取られ81歳の大往生を遂げる。

増時の墓は亡き道雪の生前の許しの元で、念願通りに道雪の菩提寺・梅岳寺に埋葬された。

道雪の墓石の脇書には、家臣・増時の名前が刻まれた。

http://blogs.yahoo.co.jp/prizep1800/22749712.html
こちら、ZRX1200S秀さんの記事~梅岳寺・道雪と薦野の墓。

非の打ち所の無い名将・立花宗茂ですら、先代を慕い続ける増時の心を掌握できなかったのだ。

偉大な創業者のいる家の世代交代は、実に難しいと言わざるを得ない。

増時の祈りが籠められた梅岳寺は、柳川に移設されることなく今も福岡県にある。

次回はノブヤボ~~それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;

北肥戦誌【1560年】

永禄3年(1560)

犬塚尚重が隆信により、領地・蒲田江から追われる(詳細不明(翌年かも)

**********************************************

犬塚尚重は少弐氏家臣・肥前十九城将の一人です。

北肥戦誌では、犬塚尚重室は竜造寺隆信の娘となっていますが、よく解りません。




前年に秋月種実&筑紫惟門コンビが大友に降伏したので、北九州では 大きな動き はありません。

宗像さんの宗像領奪還と、↑くらいかなぁ。

大友義鎮が左衛門督に任官(畠山しか就けなかった官位)されます。

阿蘇惟前(惟長息子)が肥後小国へ侵攻するが撃退され、以後歴史からフェイドアウト。

一方、肥後では菱刈から相良へ、水俣城が返還。

あと相良義陽と千代菊が結婚(=^・ω・^=)v ブイ

島津義弘がVS伊東対策のために、豊州家へ養子入り~

ざっと、こんな感じ~~嵐の前の静けさですな( ゚Д゚)y─┛~~

【女城主・立花千代】柳川藩初代藩主編1栞69


(ぎん)という漢字の意味は“慎み人の話を聞く”

・・・なのですが、当の本人は言いたいこと言ってたみたいです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

男勝りで武勇に優れ、女鉄砲隊を率いていたという立花ギン千代は、記録が大変少なくそのため さまざまな伝説が生まれた。

ギン千代は1568年生まれで九州は筑前(福岡県)出身。

父は大友家の家臣で、雷神と讃えられた名将:立花道雪(たちばな どうせつ)です。

ギン千代は1575年5月28日・わずか7歳で家督相続をします。

相続は主君・大友の許可を貰い、居城である立花城の備品・武具の「ゆずり状」を渡される正式なものでした。

戦国とはいえ珍しい女当主の相続には、当然、紆余曲折がありました。

ギン千代には政千代(母親の連れ子説アリ)という姉がいて、姉のムコ候補に立花家の家老・薦野増時(こもの ますとき)がいました。

が、この姉は12歳で早逝し、ムコ養子の件は白紙になりました。


立花道雪

男の子がいない道雪に主君の大友宗麟が「道雪の甥っ子を養子にしては?」と言われたのですが、道雪は自身の実家・戸次家の家督が、空位になるのを恐れて主君の申し出を拒否。

再び家老の薦野を養子に・・・と薦野に打診した。 

薦野「相続は重要ですので家臣を養子になどせずに、しかるべき家の若者をお選び下さい」

と、薦野本人が断ったので、道雪は一旦、娘のギン千代に相続させた。

そして道雪と薦野が選んだのが、のちの名将・立花宗茂(たちばな むねしげ)です。

1581年2月吉日~薦野が手配し宗茂15歳とギン千代13歳が結婚^^/

不仲と言われたギン千代夫妻ですが、二人は年少のころから立花城で育った幼馴染の関係。

女当主だったギン千代は、宗茂に言いたいことが言える立場でした^^;

宗茂が当主になってからもギン千代は領内の政治に口出しして宗茂を困らせた・・と言われる。

ですがギン千代は男子同様に家督を継いだ、いわば宗茂の「先代」な訳で口出しできる有資格者でもある( ̄ω ̄A;アセアセ

二人の運命が大きく変わり、立場が逆転するのは1587年~天正15年~6月のこと。

夫・宗茂が、大友家臣から独立し、柳川13万石の大名となってからです。



立花宗茂

ギン千代「いやぁぁぁ!筑前・立花城(現・福岡県)を出たくない~~筑後・柳川城(こっちも福岡県内)なんて行きたくなぃいいいいいいいいい!!!

女の足で移動しても二日ほどの旅程なのだが、なにせ戦国時代の上に関白・豊臣秀吉の命令による領地変更だ。

おそらく生まれ育った故郷、立花の地は二度と踏めないだろう。

抵抗するギン千代を家老の薦野が説得した。彼女が柳川入りするのは夫に遅れること1日~6月18日です。

( ̄ko ̄)<実は、夫・宗茂には庶子伝説があるんでつ~

1590年「小田原の陣の時」~夫・宗茂は陣中見舞いをして8月に柳川へ帰還する。

同年10月「妻子」を伴い大坂へ暫く滞在 ・・・と記録があるからだヽ(。_゜)ノ へっ?

全ての大名は首都・大坂に人質を置くのだが、ギン千代は上洛を拒否!大坂には一度も行ってない。

「妻子」の記述は、これっきりで出て来ない・・・宗茂は誰を連れて行ったのだろう・・・??
ギン千代伝説・その1

朝鮮の役(1592~1598年)の時、肥前名護屋城にいる豊臣秀吉が、高名な女城主・ギン千代に興味を持ち、彼女を柳川から呼び寄せた。

ギン千代は「戦の前線基地への呼び出しだ」と侍女軍団・女鉄砲隊を率い完全武装してきたので、ドン引きした秀吉は彼女を下がらせ会わなかった。

だが帰国した夫・宗茂は妻の貞操を疑い、怒ったギン千代が離婚した。
この伝説は後世の創作だろうと言われています^^b

そもそもギン千代は柳川時代は一度も領地を出たことがなく、秀吉とも面識なしなんです。

ギン千代と宗茂の別居時期は年代が確定していませんが、大名となってから子供がいない宗茂は側室(愛人)を作りました。

それも家臣の娘や親族でもない。細川幽斎の紹介の矢島氏。

しかもこの矢島氏は、最後の室町将軍・足利義昭の隠し子とウワサのある女性。

ギン千代は、めんどくさい背景のある側室との同居を嫌い、別居してしまうんです。

柳川城から南~一日日帰りコースくらいの距離にある宮永村に屋敷を建てて住んだので「宮永殿」と呼ばれます。

でも別居って言ってもギン千代は夫の留守のときは、城を守るために戻ってたそうです。
ギン千代伝説・その2

1600年~関が原の戦い・九州編~加藤清正が柳川攻撃のために進軍したときです。

家臣に宮永という村に「あの立花ギン千代がいる」と報告を受けた。

ギン千代の武勇を恐れた清正は「女相手に不覚をとっては恥だ」と宮永を迂回し進軍コースを変えた。
これも後世の創作です( ̄ω ̄A;アセアセ

清正のいる肥後から筑後に進軍したとき、そもそも柳川城へ直進しておらず、柳川からみて北東にあたる水田(現・筑後市)に向かってます。

宮永村(柳川から見て南)は、元から清正の進軍コースに入っていないんです^^;;

現在の立花家公式発表では「ギン千代は宮永にはおらず柳川城に入って守りを固めていた」としています。

「関が原の戦い」のとき、ギン千代と家老の薦野は「徳川に付くべきだ」と主張したんです。

が、真面目な宗茂は二人の意見を却下「豊臣に恩義がある」といって西軍についた。

宗茂自身は局地戦で勝利したものの、石田三成が本戦で負けてアボン~~

敗軍の将となり柳川に戻った・・国境までギン千代が出迎えたというが、それもハッキリはしていない。

結局・柳川13万石は改易~立花家臣はチリヂリバラバラになる。

ギン千代の身柄は、肥後の加藤清正が預かるが、預かり先は城ではなく腹赤(はらか)村~

家臣数名を連れて、村の庄屋の一遇を借りての寂しい節約生活だった。

女城主・女武者と言っても、基本は生活の苦労をしたことのない姫様育ちだ。

ギン千代は慣れない生活に体調を崩すようになった。
ギン千代伝説その3~腹赤村にのこる伝承

彼女は夫・宗茂に捨てられたことを怨み、ついに発狂~村の井戸に身を投げ自殺した。
立花家では稲荷信仰に熱心で、彼女は夫の再起を毎日神社に祈願していたというから、最近話題の高〇夫妻ほど不仲じゃないと思う。

彼女を打ちのめしたのは、故郷の立花城が1601年に黒田家によって破却されたことだろう。

黒田家も別に立花が、どうこうというわけでなく、福岡城建築のために立花城の石垣をリサイクルしたんです。

故郷に戻れないばかりか、かつては自分のものだった城が壊された・゜・(PД`q。)・゜・

思い出の中の山野ですら、石垣を運び出すために、おそらく形を変えられているに違いない。

夫の再起をひたすら待つ辛い日々の中、この知らせが彼女の希望を打ち砕き1602年10月17日・・・まだ34歳の若さで病死する・・・あと数年待てば、夫・宗茂は大名に復帰できたのに・・・
ギン千代伝説その4~柳川に残る忌憚~ホラーな話

ギン千代の死後、側室だった矢島氏は正室に格上げされるが、1624年4月4日に亡くなる。

二人の菩提寺はモチ別々~^^b

が、法要の利便さのためか、二人の寺は道路1本挟んだ向かいどうしに建てられた。

毎年・お盆の時期になると丑三つ時に、二つの寺からギン千代と矢島~二人の青い人魂が出て、空中で激しくブツかり合いガチンコするそうな。
ギン千代の伝説に尾ひれがつくのは、完璧武将の宗茂が何故か子宝に恵まれなかったからです。

二人目の矢島氏も妊娠しないので、じゃぁ3人目と再々婚して励むのだが、3人目も妊娠しない。

男性として欠けてる面があるとは思えない宗茂なので「これはギン千代の祟り」と尾ひれがついたらしい。


実は立花家の家系図は初代が道雪で2代目が宗茂~ギン千代の相続はカウントされてないの。

でも不仲だったからイジワルしたわけでは無いんです。

ギン千代が継いだのは旧体制の「大友家臣の立花家」

宗茂の立花家は【立花】って看板は同じだけど、江戸幕府が宗茂を大名にした「新生・立花家」です。

だから他家と同じく「立花の男系の血統が優先」されてるんです。

二人は波乱万丈の戦国を力を合わせて乗り切った、戦友のような関係だったと思います。

でも女城主のギン千代はプライドが高いから、素直になることができなかったのだろう。

武将として完璧すぎる宗茂の方も、女性が甘えられるような隙が無かったのかもしれません。

歴史ファンとしては、雷神・道雪と女武者・ギン千代~鎮西無双で武神再来と言われた宗茂の血を継ぐ「サラブレッド若武者」が見たかったです~~

ちなみにシオのギン千代イメージは、ギリシャ神話の「月の女神 アルテミス」です^-^

次回~宗茂をムコにと道雪とともに選んだ薦野増時です~それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;

立花用


雷神様



鎮西無双




立花家紋




江上表・八院



北肥戦誌【1559年】秋月種実(大友に)1回目の降伏

●永禄2年(1559年)

1月上旬、隆信は再び勢福寺城を取り囲む。昨年の和議は偽りであった。

油断していた城兵は取り乱し、江上武種は降伏し、城を出て筑後へ逃れた。

残された冬尚は成す術無く、同月11日に自害した。享年33。

一説には江上は隆信と内通していたとも言う。

また、冬尚も江上と共に城を忍び出て、有馬仙岩父子を頼み藤津へ逃れ、七浦にて病死したとも言われている。

さて、冬尚落居を知り千葉胤連は、不仲である冬尚の実弟・千葉胤頼の晴気城を攻めるべく龍造寺家に助勢を頼み、差し向けられた1,500と共に牛尾城を出陣する。

これに胤頼は、城を出て東の山路で戦うも、家人12人、又者(陪臣)4人と共に討ち取られた。享年28。

尚、胤頼には男子が一人あり、胤頼討ち死にの後に、上佐嘉川窪へ赴き神代家を頼った。後に千葉(屋形)胤誠と名乗る。

千葉胤連は以後、龍造寺に属し小城一郡を領した。

この年、五箇山領主・筑紫惟門が再び大友に背き、今度は豊後勢が討ち負けた。

これに、中国に逃れていた秋月文種の次男・秋月種実が筑紫と申し合わせ、父の仇を奉じんと古処山城に立て籠った。

これに豊後から《田北大和守鑑生》らを出陣させる。

だが、古処山城はあまりに要害であり、要領を得ぬまま季節は秋に至り士卒は大いに困窮した。

田尻親種の提案で山隈に陣替する。これに筑紫勢が田代に出て豊後勢と遣り合うも、此方も要領を得ずに五箇山に引き退く。

豊後勢は古処山を開き、佐嘉まで攻め入らんと欲し、8月28日に畠山まで陣を寄せた。

これを聞いた小田鎮光と江上武種は、このとき龍造寺の為に浪人していたが、大友に合力せんと動く。

鎮光はまず私領の三潴に至り従者600余人を集めた。

龍造寺家中では大友を如何に防ぐかを談合した結果、一旦和を請うべきと決し、9月15日、隆信の代理として左衛門佐鑑兼を畠山の豊後陣にて和議を求め、これを容れられた。

また、小田鎮光に旧領5000余町を安堵し蓮池城へ帰還させ、江上武種にも2500町を返し勢福寺城へ帰らせると、大友勢は陣を返して筑前若宮庄の河底という場所へ陣を移し、古処山を伺い続けた。

古処山城では、長い籠城に遂に力尽き、種実は田尻伯耆守の仲介で和を請うた。

田北はこれを容れ、種実は城を出る。

筑紫惟門は秋月降参を聞き落胆、止む無くこれも田尻伯耆の仲介で赦免を請うに至った。

以後、佐嘉周辺は一時的に平穏となる。




ほ~~~~~~北肥戦誌では筑紫より秋月が先に降伏したことになってるのか___φ(.. ) メモメモ

この年、肥後の相良家では「獺野原(うそのばる)の戦い」がありました^^b

【再び九州へ】佐賀藩初代藩主編4栞68


もともと「九州の関ヶ原」で加藤清正と黒田如水は、連携とって軍行動していました

そこへ9月下旬から10月上旬にかけて肥前で留守番の鍋島直茂が、西軍加担の息子・勝茂の後始末のため如水に接触した

いよいよ加藤軍・如水混成軍・鍋島軍(竜造寺軍含む)が、タッグを組んで多面作戦行動に入ります~~Σ(´Д`;) うあ゙



鍋島直茂イメージ画像

1600年10月1日~関が原で敗れた石田三成・小西行長・安国寺 恵瓊が京都で処刑!大勢は決しました!

まずは一番分り易い加藤清正の動き

9月関が原本戦前から如水と連携とって九州の本国出陣。

如水の豊後戦線は助力不要ということで、隣の小西行長の本城・宇土城を攻撃
(小西本人は関が原です)

10月13日に宇土城が降伏~城攻めに手間取り、この日まで加藤清正は肥後に釘付け。

宇土城降伏後・城の接収など後始末~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

本城・宇土城を落としたものの、まだ小西の領地全域は完全制圧してません。

そこで支城(八代城など)と宇土城の守備のため、一部兵力を肥後に残し筑後・柳川の立花領へGO!

如水・混成軍の動き

9月~10月初旬まで豊後戦線で軍行動。

9月13日~石垣原の戦い(VS大友軍)で勝利!同月15日に大友軍降伏。

10月2日~富来城~徹底抗戦で10日粘るも、関ヶ原主戦場で西軍敗北を知り如水に降伏。

10月4日~太田一吉~降伏するなら恩人の如水でなきゃイヤと抵抗してたが、如水が来たので やっと降伏。

豊後の後始末(城の接収・大友軍の残党を吸収・太田にやられてボロボロの中川軍の収容などなど)終了。

筑前方面へGO!~毛利勝永(本人は関が原)の小倉城(豊前の小倉城とは別)や秋月城を落とす。

鍋島家紋

10月14日~鍋島直茂と連携とった如水は、混成軍のうち5000を筑後・柳川の立花領へGO

10月14日~鍋島直茂が佐賀城を出陣!如水と合流すべく進軍する!

10月14日~鍋島勝茂が大坂での謹慎解除で佐賀に戻り同じく出陣~筑後・柳川の立花領へGO!


10月15日~鍋島親子は寺で戦勝祈願をします^^b
あ、進軍コースは親子別々なので、日にちは同じだけど祈願した寺は別々です。

父・直茂(-人-)☆彡祈願~戦に勝ちますように~

子・勝茂(-人-)☆彡祈願~戦に(絶対)勝ちますように~そして徳川と上手く行きまうように~

西軍だった息子の勝茂です・・・祈願に受験生のような必死さが滲み出てます^^;;

10月16日~筑後・久留米城が落ちる

こちらは如水と合流した鍋島直茂が攻撃。

久留米城は毛利元就の庶子・9男の毛利秀包(もうりひでかね)の城です。

本人は本家に従がい西軍へ~大津城攻めに参加~そのまま在大坂城でした。

そのため久留米城には、秀包の奥方と留守を預かった家老の桂以下数百名の兵士しかいませんでした。

如水&鍋島の大軍に為す術もなく降伏し、落城です。

10月16日・梅津城が落城~これは立花の支城で既に柳川入りしてた息子・勝茂が攻撃です

10月17日・久留米城の後始末は如水に任せ、柳川入りした直茂と勝茂の親子が合流!

10月19日・城島城が落城!~領地の支城が次々落とされ、柳川城の立花が将棋のように詰まれて行く!



立花家紋ロゴ

さて、ここで西軍に入って活躍しちゃった勝茂の過ちを、徳川家康に謝罪した重臣・成富茂安が登場する。

成富茂安(なるとみ しげやす)~このとき仕事がノッテル40歳(=^・ω・^=)v ブイ

茂の一字は、もちろん主君・直茂から拝領したものです^^b

彼の佐賀における功績は大きすぎて語りきれないので_φ(.. )カキカキ=(φ ̄∀ ̄)ノペタ【ウィキペディア】どぞ~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%AF%8C%E8%8C%82%E5%AE%89

全国的な知名度は・・・多分低い^^;知ってても「佐賀の水神~治水・築城の名手」の方だと思う。

鍋島親子が彼を重用したのは、たんに築城・治水の匠だけでなく武勇も優れ、何より交渉名人だったことだ。

ただし成富の家柄は、いわゆる門閥ではなかったらしい(ちなみに大蔵系江上氏庶流)

そのため多大な功績がありながら、最終役職は家老ではなく着座(家老の次の役職)です。

竜造寺との絡みもあって、成冨を家老には出来なかったのでしょう( ̄ω ̄A;アセアセ

後年の話だが、加藤清正が1万石で成富をヘッドハンティングしようとした。

成富「たとえ何万石積まれようとも、佐賀藩以外に仕えるつもりはない(`・ω・´)キリッ


と即答で断り、加藤清正をして「そういう男だから欲しかったのだ」と感動させた。

10月16日~交渉名人の成富茂安が、柳川城の立花宗茂を引っ張り出すために「鍋島VS立花の決戦の果たし合い」を申し込む!


武勇で名高い立花家!そして道理(どうり=正論)の男・宗茂は、ガチ決戦の申し出を無視できないからです!

とはいえ既に西軍は敗北している(-ω-:)ウーン・・・宗茂、さすがに即答しかねた。

すぐに反応しなかった宗茂に対し、返答を迫るが如く上記に記した城島城が、19日に攻撃され落城した。

もはや決戦は不可避!鍋島VS立花の決戦の火蓋が切って落とされるのだが、それは・またの話 by^-^sio

決戦の前に柳川藩初代藩主編~立花家の皆さま紹介~^^/

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;

北肥戦誌【1558年】一年が濃くなってきた(@@)

●弘治4年・永禄元年(1558年)

1月1日、昨年末の夜中に打ち出ていた神代勢は、雪を踏み分けて熊川へ出て、東雲と共に熊川の代官を攻撃した。

動揺した代官所の者らは一人残らず討ち取られた。勝利はそのまま熊川に陣を布く。

時節的に大雪が谷を埋め、身動きが取り辛い中での在陣であったが、河上の小野式部が粥を煮て持参した。

それに気力を満たした神代勢は龍造寺の代官らを追い出し、山内へと戻った。山内の者らはこれを喜び、再びの従属を表した。

神代の動きに、龍造寺家中では八戸城へ戻っていた八戸宗暘が、大友勢を城へ入れて背くのではないかとの風聞が立った。
隆信は同日、八戸城へ兵を差し向けた。城兵は青天の霹靂に右往左往する。
(神代勝利は杠主水を救援に向かわせ夜襲を仕掛けたが、龍造寺家就に撃退される。)

しばらくして風が出てくると、鍋島信昌は城内の森へ火を吹きつけて焼き立てた。

それでも宗暘は、城の裏門から忍び出て、神代を頼って山内へと逃れて行った。

宗暘の室は隆信の姉で、宗暘との間に2人の女児と1人の男児があったのだが、宗暘退去の際に龍造寺家に囚われの身となり佐嘉へ送られた。

隆信は、怨敵の子であるから男児は殺すべしとしたが、隆信の母・慶尼はこれを憐れみ、隆信を諭してこれを押し留めた。

この男児は後に八戸(山本)宗春と称し、女児は鴨打胤泰、犬塚真盛の妻となる。

隔して隆信は、宗暘の領地である八戸・新庄・津留・諸隈・益田・木角・成道寺などを悉く奪い、また八戸城を破却した。

宗暘は神代家を頼り、隆信への恨みを奉じる機会を計る。

神代は早速に宗暘と共に駄市川原に出陣する。注進を受けた隆信は急ぎ長瀬に陣を張る。

龍造寺勢から小河筑後守、小河但馬守、納富左馬助、納富越中守、納富治部大輔、内田美作守、鹿江宮内大輔、福島民部大輔、倉町上総介、倉町大隅守ら駄市川原の敵陣へ押し寄せて鬨の声を上げる。

山内勢はこれに足軽を出して矢を射かけ、勝利と宗暘は春日山へ登った。

龍造寺勢は続いて春日山へ陣を寄せ、成富信種が高城寺を焼き払って敵を炙り出さんとすると、勝利と宗暘は夜陰に紛れて山内へと退いた。隆信も程なく佐嘉へ帰陣する。

隆信はその後、山内を攻める布石として、春日山城の修理普請を命じた。

城には9月より、水町左京助信秀を入れたが、兵数が心許なく、小河筑後守信安の一族である小河但馬守・小河石見守・小河次郎大輔・小河左近大夫を置いた。

その頃、神代勝利は、龍造寺勢へ決死の戦いを挑まんと城原の江上武種と談合して同月に北山の峰に陣を布き、中旬に神代家臣の梅野帯刀、松瀬又三郎に兵を与えて春日山城へ差し向けた。

城兵はこれを聞き、ならば城を出て北側の峰に登り、敵を見下ろす高地より岩を投げ落とし、矢を射かけるべしと提案する者があった。

小河左京大夫を始め、皆が我先にと打って出ると、そこへ若武者ただ一騎が一息に登る。

それは先陣として進み出た梅野帯刀であった。

城兵は此れを見て、「天晴れなる敵、組み打ちにすべし」と犇めくが、帯刀は険しい場所を踏み外して真っ逆さまに落ちた。

小河の家臣2騎が駆け寄ったが、帯刀は立てずそのまま討ち取られた。

そこへ松瀬も現れ、両勢入り乱れての戦いとなった。

城兵は数で打ち負け、小河左近大夫も手傷を負った為に城内へ退いた。

山内勢は城攻めに移行、小河左近大夫、小河治部少輔らが討ち死に、城も落ちるに至った。

佐嘉城でこれを聞いた小河信安は、神代が首を討ち取り、討ち死にした者らへの手向けとすると息巻き、10月15日に手勢を率いて出陣、隆信も信安を討たせてはならぬと、弟・兵庫頭長信らを率いて自らも出陣した。

信安は春日山へ駆け付けたが、神代勢は既に無く、討ち死にした者達の亡骸のみが横たわっていた。

信安は歯噛みし、ならば山内へ打ち入らんと発するが、敵地不案内であるとして従者ら制され、止む無くその夜は春日山に陣を布いた。

これを聞いた山内勢はすぐさま集まり、高野寺の大鐘を鳴らすと、小城の千葉胤頼が加勢に駆け付けて尾形山に陣を張り、近隣の者は小副川の寄合原に集まった。

神代勢は3000を二つに分け、勝利が率いた1700は熊野峰に陣を布き、勝利の嫡子・神代長良が率いる1300は名尾口へ向かう。

そこへ斥候が戻り、佐嘉勢が攻め来ており、その中に葦毛の馬に乗った老武者の真ん前に進み、頻りに鞭を上げる者があると伝えた。勝利は、それが小河信安と悟る。

勝利は佐嘉勢を待ち受けるよう命じると、夜明けを待った。

明けた16日、勝利は河浪駿河守に槍を持たせ、自ら斥候に出る。

一方、小河信安も下人に槍を持たせて斥候に出ていた。

二人は脇道より登った険しい山の細道で行きあう。

互いにそれよと見れば、勝利は駿河守に預けていた槍を押っ取り、力足を踏み込んで
「やれ、筑後守か、勝利なり。いざ勝負を決せん」と述べる。

信安は笑い、「心得たり。勝利物々しや、元より願う処。此度の合戦の雌雄は、汝と我、ただ二人が勝負に在るぞ。いざ、参り候」と言うや否や、槍を取り直し突き合った。

大力共の踏む足に砂混じりの岩石微塵に砕け、左右の谷へ落ちる事雨の如し。

双方の家臣は援けようとするが、道が一騎分しかなく、脇は石壁数十丈が聳えたち、中々駆け寄り難かった。

勝利の従者・駿河守はあまりに堪えかね、砂を掴んで勝利の草摺の下から打った。

信安は長身ゆえに勝利を見降ろし突き合うと、勝利は一の腕を突かれて無念と悲鳴を上げ突き返すが、信安は受けきれずに己の頬先より右の小髷の際に甲の鉢を槍先深く貫かれた(股を突かれたとも)。

信安は「ええ口惜しい口惜しい」と二言三言言う処へ駿河守が走り寄って首を取られた。

信安不在に気付いた小河勢がやってくるが、信安討ち死にを知ると、信安の嫡子・豊前守を先頭に次々と山内勢に駆け入り討ち死にしていった。

そのうち後陣の佐嘉勢も続き鉄布峠に馳せ登る。

勝利はこれに打ち掛かり、佐嘉勢も鬨を上げ乱戦となる。

勝利の近習に、薩摩出身の伊集院阿含坊なる身の丈七尺の者がいたのだが、鉄砲を用いて龍造寺勢を攻撃する。龍造寺勢は混乱し、敗走し始めた。

龍造寺勢は石井兼清、中元寺新左衛門、副島左馬允、水町右馬助、江副新八郎、土橋孫七郎、大塚七左衛門、久保九郎兵衛、大石四郎兵衛が討ち死に、雑兵の死は数知れず。

このとき、河上の鳥居の前に山内勢の何者かに依る、嘲笑の狂歌が立てられる。

『春日山 若武者先に落とされて 又清恥を かくぞ鉄布(かなしき)』

隆信は信安らが討たれたと聞き激怒、山内へ打ち入らんと発するが、納富左馬助に諭され、佐嘉の城へと帰還した。

勝利は三瀬城へ帰還すると、小河信安の首級を懇ろに弔った。

隆信も小河の妻女・従者らに深い哀悼を伝え、信安の菩提を弔った。

また信安の唯一の息子である豊前守も討ち死にしており後継がなくなったのを知り、隆信は鍋島清房の三男を信安の娘に娶せて跡を継がせた。

この者は後に小河信友と称し、更に武蔵守信貫から信俊と改名し、天正12年の「沖田畷の戦い」で戦死する。

11月上旬、隆信は重臣らを集め、江上・神代の威を挫く為にも少弐を攻め潰すべく、勢福寺城攻めの用意をすべしと述べた。

隔して隆信は佐嘉の城を出陣、姉川弾正忠の城を本陣とした。

蓮池の小田政光、蒲田・崎村の犬塚鎮家・犬塚左馬大夫も出陣する。

これに江上武種は神代に援軍を乞うと、同月9日の夜に、勝利は軍勢を率いて勢福寺城へ入った。

城兵は二手に分かれ、山内・城原勢3000は牟田を、もう一手の2000余騎は神埼口を固める。

10日の朝、小田勢3000余騎に神埼の本告頼景が先陣として加わった軍勢は西の牟田口より、犬塚の一族は蒲田・崎村勢1500余騎で東の神埼口より攻めた。

が、小田の先陣は討ち負け崩れかかる。政光は隆信へ救援を求め使者を派したが、隆信は姉川城から一切動かない。

政光は憤慨し、ならば討ち死にすべしと死に物狂いで敵を攻め立てる。

政光は打物(刀剣・槍など)の達者で、神代・江上の勢は政光一人に翻弄されていく。

ここは遠矢にて討ち取るべしと、敵は四方から矢を射掛け、政光は矢に当たり馬から逆さに落ちる。

政光の首は、これを見て走り寄った服部常陸介に打たれたが、政光家臣・原河内守が服部を突き伏せて逆にその首を取った。

蓮池勢は政光の死を知り、敵陣へ駆け入り政光家臣60余人が討ち死にを遂げる。犬塚勢も敗戦し退却した。

これを聞き、ようやく隆信が動く。

姉川家臣・堺石見守と堀江蔵人らを先手とし、福地信重、三浦純就、納富信景ら大軍を率い、太鼓を早めながら城へと押し寄せた。

これには敵うまじと、江上は田手の日吉城へ引き籠り、神代は横大路を西へ、川窪へ廻って山内に帰還した。

隆信勢は勢福寺城を取り囲むが、残る城兵らの防戦により、数日城を囲み続けた。

隆信は城を囲みつつ軍勢を分けて、15日に蓮池城を攻めさせた。

政光を捨て殺しにされ小田の家人が隆信を恨んでおり、後々の禍根となるとの見解からであった。

不意を突かれた城兵は取り乱すが、政光家臣・深町入道理忠が防戦に努め、その間に政光の子小田鎮光・小田朝光・小田増光、その他の者達は城を脱出し筑後国は三瀦郡へ逃れる。

理忠は奮戦の末に討ち死にする。

而して隆信、嘗て恩を受けた理忠が討たれたと聞き、大いに悔んだ。

だが、生け捕られた者の中に8、9歳ほどの理忠の子がいると知ると、隆信は後にこの子に100町を与え、《深町理》と名乗らせた。ちなみにこの子は、沖田畷の戦いで死去している。

政光の父・覚泒(資光)は蓮池城とは別の場所に居り、軍勢が去った後に政光父子の顛末を聞き、大いに憤激・悔恨したが、主従二人となり力及ばず、城の西にある蔵屋敷にて自害した。

一人従った従者は遺体を隠すと、その屋敷に火を掛けてから自害した。

さて、龍造寺勢は勢福寺城を囲み続け12月1日に至ったが、同月3日、河上実相院の座主・増純法印の仲介により、千葉・少弐・龍造寺・江上・神代による和議が調い、
起請文には「龍造寺山城守藤原隆信」・「神代大和守武辺勝利」・「江上左馬大輔大蔵武種」と3人の名を記し神名に誓うと、隆信は佐嘉の城へ帰還した。




成富茂安のパパンがいる~~ウットリ(人´∀`).☆.。.:*・

【謝罪の条件】佐賀藩初代藩主編3栞67

にほんブログ村 地方・郷土史
病のため出発が遅れ、西軍の道路封鎖にひっかかった鍋島勝茂(なべしま かつしげ)。

軍事制圧下での道路封鎖~つまり今さら佐賀に引き返すこともままならない。

当初の予定だった東軍・徳川家康のもとへ辿りつけず、鍋島軍(竜造寺軍込み)は不本意ながらの西軍入り。

西軍が勝ちゃぁ問題ね~だろ!と言わんばかりに伏見城攻め~伊勢侵攻と奮戦した。

だが伊勢(三重県)侵攻のあたりから、だんだん勝茂も不安になってきた。

強力なリーダーシップを発揮するTOPがいない西軍は、いつまでたっても寄せ集め感が抜けないまま。

さらに「誰それが裏切ってる。いやぁ、あそこもヤバイ」とウワサが耳に入ってくるからだ。

勝茂:だ・・ダディ~このまま西軍に所属してて(・∀・)イイ!かな??

佐賀で留守番中の直茂(・A・)イクナイ!!止まれ!伊勢でストップ!


父・直茂は、勝茂のもとへ使者を派遣し進軍をストップさせた。

もっとも使者が来る前に勝茂本人が自主的に止まったと言う説もある。

とにかく行軍が止まる言い訳に「伊勢・長島城を牽制しますから~」と石田三成に報告した。




伊勢・長島城(1万石)~城主は福島高晴(ふくしまたかはる)猛将・福島正則の実弟です

兄の正則とは12歳違いで天正元年産まれ、ただいま27歳と若い~~

若いといっても初陣(ういじん=戦場デビュー)は「小牧・長久手の戦い(1584年)というから、意外に戦歴は長い。

武将スタートは兄・正則の家臣~兄に似て武勇の持ち主で順調に加増(かぞう=ベースアップ)してた。

文禄3年(1594年)になると、秀吉が高晴を大名にした。

それが伊勢・長島城1万石で、さらに尾張知多郡10万石の代官に任命する。

代官とは、天下人or主君の直轄領の行政を代行する役目だ。

預かった代官地を、万が一にも赤字経営にしちゃったら切腹もの~

能力もさることながら、不正を行わないように信頼のおける人物が配置される。

兄・正則は尾張・清洲24万石だから、この兄弟の配置には徳川家康対策が入っていただろう。




だが高晴は、兄と同様にガチ東軍でした。

当然、高晴も上杉征伐に従軍していた~~ところに、三成挙兵の情報が東軍にもたらされる。

家康<高晴殿~おことの領地の伊勢は要衝で、必ず西軍が侵攻してくるだろうから、帰国して守備に当って欲しい(-人-)☆彡オネガイ

と、家康に頭を下げられたので、福島弟・高晴は伊勢・長島城に戻った。

けっこう有能な高晴は、大人しく留守番はしてなかったんです。

同じく伊勢にある西軍の桑名城を攻撃し落とし、さらに自身の長島城も数百の兵力で防衛・死守に成功。

活発に動くことによって、西軍の兵力を引きとめる役割を果たし、戦後、1万石から3万石(大和・宇陀)に出世する。

だが「大坂の陣(1614~1615年)」で豊臣に内通(真偽不明)した罪により取り潰し。

不遇のまま61歳で生涯を終える。

晩年は道牛と名乗り、前田慶次の風流仲間として人々の記憶に残った。


鍋島家紋

この福島高晴の抑えに「伊勢に残ります」と鍋島軍が居座ったのだ。

家康が来るということで、一刻も早く伊勢方面の軍に戻って来て欲しい三成が、どれほどホゾを噛んだか想像に難くない。

父・直茂は、家臣に命じて名古屋周辺の米を全て買い占めて待機させていた

1600年9月15日~直茂の予想通りに、関が原本戦で三成が敗れる~

ここまでは予想できたが、さすがに一日で決着つくとこまでは予測不能~~直茂は慌てた。

一刻も早く家康に頭を下げて許しを得ないと、鍋島軍が落ち武者狩りのエジキになってしまうアタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

父・直茂は謝罪のために、後に「治水の神」と祀られた重臣・成富茂安(なるとみ しげやす)を派遣した

勝茂:認めたくないものだな・・・若さゆえの(以下略)

息子・勝茂は大坂の鍋島屋敷に引き篭もり・・もとい自主的に謹慎( ̄ω ̄A;アセアセ

鍋島家臣の成富は、買い占めた米を兵糧として家康に献上し、勝茂の未熟さ故の過ちを謝罪した。

家康は早くから自分に接触してた直茂に好意を持っており、兵糧献上というベテランらしい気遣いにも満足し鍋島を許した。

許した・・・が、条件をつけた。

家康<大坂から筑後・柳川に帰国した立花宗茂(たちばな むねしげ)を討て!

家康が条件を[言った・言わない]のニ説あるが、いずれにせよ鍋島家は「東軍へ忠義の証」として九州における西軍大名の城を落とす義務が生じたのだ。

立花宗茂~鎮西無双・2ちゃんでは西のミスターパーフェクトと謳われ「立花兵3000は他家の1万に匹敵する(小早川隆景調べ)と言われた。個人戦では無敗の若き名将!

立花の本城~柳川城~攻撃されても「名将なら3年・凡将でも1年は耐えられる」と称賛された九州きっての難攻不落の城!!


(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ「鍋島VS立花」の決戦の日近し!

ウィキペディアを見れば結果はわかる。

だが、そこに至るには夥しい血が流れるのだが、それは・またの話 by^-^sio 

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;

北肥戦誌【1557年】古処山城落城・秋月氏滅亡

●弘治3年(1557年)

春、隆信は敵討伐の大軍を上げた。

3月11日に小田が討ち負ける(詳細不明:時系列の間違いかも)。

その頃、筑前の秋月文種と筑紫惟門は、元は大内に通じていたのであるが、大内義隆が陶に打たれて以後は大友に属しており、今回共に示し合わせて、大友義鎮(後の宗麟)に背き、毛利元就に通じた。

これを伝え聞いて義鎮は立腹、急ぎ両人を征伐すべしと

5月に戸次鑑連(後の立花道雪)、臼杵鑑速、吉岡長増、田北鑑生を始めとした軍勢が府内を発し日田へ着陣する。

大友騎下である筑後勢も合力せんと、蒲池鑑盛、田尻親種らも出陣する。

大友勢は、まず秋月の古処山城を攻め立てる。

文種は防ぎきれず城を落ち延びたが、7月13日に家臣の古野九郎右衛門が心変わりして文種を殺害(詰め腹を切らせた)、その首級を豊後陣へ持参した。

だが大友勢はこれを賞賛せず、むしろ憎んだ為に古野は流浪の身となり、程なく息絶えた。

同日、豊後勢は筑紫も討たんと山隈原に陣を布き攻撃、岩屋城・若杉城の両城が同日に落ち、筑紫は五箇山に入った。

この年、隆信も納富信景を毛利家へ派して誼を通じている。

7月24日、隆信は鹿江兼明の鹿江城へ攻め込む。

鹿江は大軍に防ぎきれず、父子3人は討ち死にした。

鹿江は大友と敵対していた人物で、隆信は鹿江の首級を豊後勢の陣に差し送り、大友と和融するに至った。

豊後勢は悉く勝利を治めると、宮尾城へ筑後衆を入れ、岩屋城へは三原和泉守紹忍、高橋三河守鑑種らを入れ、勢福寺城へは(龍造寺家が大友へ譲渡したか?)豊饒鑑栄を在番と置いた。

8月12日、隆信は上佐嘉へ進軍、神代衆を多数討ち取った。

9月3日に江上武種も没落、同5日に隆信は山内へ攻め入り、神代勝利の谷田城にも攻め掛かった。

勝利は僅かの兵で打ち出て佐嘉勢と戦った。

合戦中盤、隆信は兵を割いて東方へ差し回し、松瀬より仏坂を越え環尾に至らせ、谷田城の高所へ登らせ、城を前後から攻め立てた。

谷田城は要害で、南は大川、北は長山、東西は一騎のみが通る程の細道で、その左右は切り立った岩に囲まれていた。

だが、城内はあまりに無勢であった為に、勝利は城を出て筑前へと逃れると、高祖城主・原田入道了栄(隆種)を頼り長野の地へ蟄居した。

隆信は神代家の領地の山々へ代官を据え置いた。(弘治元年かも)

しかしながらその冬、勝利は家臣を呼び集め、年明けと共に油断しているであろう代官共を討ち払うべしと述べた。

かくて12月の晦日の夜、松明も持たず暗がりの中、長野を打ち出た。




秋月の家臣は「古野」となってますが、おそらく「小野」の誤記でしょう。

小野九郎右衛門は戸次道雪家臣・小野鎮幸の一族で、そのツテで裏切り交渉した。

小野九郎右衛門が古処山落城後にどうなったか解らなかったんですが、

北肥戦誌では「大友勢はこれを賞賛せず、むしろ憎んだ」とあるので、戸次家臣団からハブられたみたいですね。

秋月が古処山へ復活した時に「小野姓」の者を見せしめに殺したそうですが、裏切った本人が既に死んでいたからだったのかなぁ(-ω-:)ウーン

秋月編の時に参考にしよう___φ(.. ) メモメモ

肥陽軍記【1556年】慶尼の押しかけ婚活~~~

●弘治2年(1556年)

鍋島清房(直茂パパン)の室は、天文17年(1548年)8月11日に卒去していた。

或る日、登城してきた清房を(慶尼/けいぎんにが)局小侍従を以って御簾近くへ召し出し、
「御辺は妻女に先立たれ、悲嘆に暮れていると聞き及んでおります。私が御辺に仲立致しましょう。吉日を選びなされ」。と述べる。

清房は「仰せの趣は承りました。されど、後添い貰うなど思うても御座いませぬ」。と辞退し退出した。

それから幾日後、前触れ無く清房の屋敷の門前に花嫁行列が着いた。

訝る清房の眼前に、輿より現れ出でたのは慶尼本人であった。

慶尼は屋敷に入るが、清房は茫然としたままである。

慶尼は清房へ「今天下は一つに定まらず、諸侯は領地の壤奪の最中に御座います。隆信はその只中に出でて、常に他州の脅威と軍立てに心身をすり減らさん程に心を砕いております。されど国中の諸侍は、昨日は味方し今日は敵となりますれば、左様なる時分に、もし人を得ざれば大功を為し得ますまい。只今、一族の中を見渡すに、鍋島左衛門大夫信昌(=直茂)より優れたる器量人はなし。隆信と信昌に兄弟の縁をなさしめ、一族の長と為せば、例え不慮の変あろうともこれを守りきれましょう」と存念を述べる。

清房も御簾中の仰せとなればこれを拒み難く、二人は夫婦となった。


竜造寺家紋

簡単に説明すると↓になる~



さて、今回のタイトルが、何故「北肥戦誌」ではなく「肥陽軍記」かといいますと

北肥戦誌には、このビックリ再婚の記述が全く無いからなんです~


肥陽軍記の作成年度は江戸後期で作者不明。

江戸後期ってのがポイントだなぁ~~~

中村座が「鍋島化け猫騒動」の興業(嘉永年間・ペルリ来航~)を、やり始めた頃なのよ~~

最近では、このビックリ再婚は史実ではなく「鍋島家の正統性を強調するための創作ではないか?」とも言われてるとか・・・

ところでアマゾンで「肥陽軍記」現代版あるけど、作者が・・・( ̄ko ̄)<原田種真

福岡県福岡市出身・・・・出身地・名字・種~~~大蔵系嫡流子孫かぁぁぁ??!

最後の一文はオタのシャウトですな ( ゚Д゚)y─┛~~

【父が東で子が西で~】佐賀藩初代藩主編2栞66

にほんブログ村 地方・郷土史
佐賀の名ばかり主君・竜造寺家~1600年度の早わかり超カンタン系図

19代・隆信(死亡)⇒20代・政家(隠居した病弱な40代)⇒21代・高房(現当主15歳)

佐賀の実権を握る男~鍋島直茂63歳

彼は19代当主・隆信の従弟です。(義理弟説は怪しいらしい)
中央の政情に敏感な直茂は、豊臣秀吉が死ぬと早い時期から徳川家康に接触していたらしい。

1600年(慶長5年)5月に家康が上杉征伐の動員命令を出すと、直茂はさっそく~~

鍋島直茂「徳川殿~~ワシも会津に連れてって」(-人-)☆彡オネガイアピール~

徳川家康「だぁめ~~直茂は佐賀で留守番ね。息子の勝茂を出兵させなさい」

という返事だった。家康の本音として、不穏な九州にはベテラン直茂にいてもらいたかったのだろう。

家康が勝つ!と見込んでヤル気満々だった鍋島家が、フタを開けると所属は西軍・三成の味方。

もちろん、それには訳がある。

結論から言うと勝茂は、西軍の道路封鎖にひっかかってしまったのだ~~←おバカさん・爆


鍋島家紋

はるか九州は佐賀から東北の会津へ行くぞ~と兵士の大動員をかけたので、まず準備に手間取った。

さらに肝心の軍を率いる大将の勝茂が、病に倒れてしまったんです。

それも「腫れ物が痛くて馬に乗れない」という現代人からみるとカッコ悪い理由だ^^;

いやいや腫れ物と侮るなかれ~後年、直茂が死んだ時も腫れ物の悪化のせいだし。

徳川家康だって、伊達政宗だって、腫れ物で死にかけた逸話があるんです~~~

抗菌剤はもちろん、まともな消毒薬もなく、薬といえば薬草だし(薬効は一応ある)

名医という触れ込みで来る医者が、なぜか坊主で祈祷を始める~それがこの時代の医療(てか呪いレベル)


ちなみに冒頭であげた竜造寺21代目・高房も出陣する。

この時に高房が抜け駆けして、家康の元へ馳せ参じていたら・・・・

あるいは佐賀の藩主は竜造寺だったかもしれない。

だが竜造寺の親族は頼りない本家に見切りをつけて、宗家を完全に飾り当主へとに棚上げしていた。

だから高房を担いで抜け駆けしよう~~などとする者がいなかった。

まだ15歳の高房は、状況がわからないまま大人しく勝茂の回復待ちをしてしまった。



鍋島直茂は、どういう訳か子宝になかなか恵まれず、一度離縁し再婚している。

で直茂が40済んでから、やっと生まれたのが勝茂クン・ただいま20歳~高房と5つしか違わない。

後年に高房が自分の将来に絶望して自殺するのも、勝茂と自分の運命を比較してしまったのだろう。

名目だけの主君・高房と、実権を持つ鍋島の息子・勝茂の近すぎる年齢に、とうの直茂も気を使った^^;

嫡男の勝茂を一時期、江上(亡き隆信の実子)へ養子に出したことがある。

ただし、勝茂の養子に関しては「父の直茂のトコにいた説」と「養子に行ってた説」の二説ある。

もちろん関が原の時期には勝茂養子話は解消になってて、鍋島家嫡男に戻ってます。

「鍋島の嫡男として頑張れ!だが竜造寺には遠慮しろ!」って複雑なプレッシャーがかかっていた勝茂。

彼の病が癒えて出陣したのが7月中旬~三成挙兵の時期とバッチリ、かぶっちゃった~~~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

勝茂が大坂に着いた時~もはや周辺は完全に西軍制圧下~~( ̄ω ̄A;アセアセ


石田家紋

石田三成( ̄□ ̄)<勝茂クン。。。キミの奥方は亡き太閤殿下の養女だから、もちろん西軍についてくれるよね。。。

鍋島勝茂・゜・(PД`q。)・゜・だ・・ダディが(ホントは東軍で)頑張れって送り出してくれましたぁぁ~~~~~


え~~実は前回、1605年に勝茂が家康の養女と結婚~って記事にしたが、それは再婚なんです。

最初の奥方は、秀吉の養女(戸田勝隆の娘)です^^;;二人には子供はいません。

戸田勝隆は、関が原本戦で大谷とともに活躍する戸田勝成の兄です。

戸田勝隆自身は四国は伊予の大洲7万石でしたが「朝鮮の役」で陣中で病没~男子いなくて改易。

勝茂の最初の奥方は、関が原の時点で既に実家を失っているんです。

関が原のあと・・・肩身せまかったろうなぁ・・・この奥方の最期がどうしてもわかんなかった^^;;

とにかく右も左も西軍だらけで見動きがとれなくなった勝茂は、不本意ながら西軍になった。

そして勝茂が西軍だったために、鍋島家はとんでもない苦労をする羽目になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回~佐賀の神様~川* ̄д ̄*川ポッ 

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;

北肥戦誌【1555年】

●天文24年・弘治元年(1555年)

★隆信は、2月に神代勝利へ談合と饗応を申し出た。

神代は江原石見守・福島伊賀守阿含坊という大剛の者らを選りすぐり召し連れて、多布施に赴いた。

無事に談合と饗応は済み、神代は山内に帰城したが、このとき龍造寺家人は神代を毒殺すべきとしていた。

これにより両家は手切れに至った。

★3月、隆信は少弐冬尚の勢福寺城を攻めるべく打ち出た。

このとき冬尚は三根郡西島城に在り、勢福寺城には江上武種が在城していた。

神代勝利は江上に合力すべく山内を発し、勢福寺城の西・猿岳に布陣する。

隆信はまず姉川惟安を従え案内者とし(このとき姉川は400の兵で小河信安500と戦い、討ち負けて案内者となった)、先手は小河信安、納富信景、福地信重として勢福寺城へ取り掛かった。

福地長門は大手南の口へ押し寄せて少々戦ったが、城の地の利を見て、この場の攻めには手勢700名を残し、自らは小勢率いて東の水路から攻め入ると城内に火を掛けた。

江上はこれを防ぎきれず、城を出て仁比山へと退いた。

小河筑後、鍋島清泰、龍造寺家秀は、神代の猿岳を攻めようとするが、神代は一戦に及ばず山内へと退いた。

こうして勢福寺城は隆信勢の手に落ちた。

★3月下旬、神代勝利は山内を打ち出て龍造寺領の近辺へと打ち出て諸所を放火し、自身の出城である千布の土生島城(千布城)に入った。

隆信は近臣を集め「我ら弓前を執っては向かうところ敵なしなれど、神代勝利は我らの障壁である。奴を討ち取る計略はないものか」と述べる。

これに小河信安が、「彼の神代勝利と申すは機篇あくまで鋭く、前に在るかと見れば後ろに在り、左に現るるかと思わば右に隠れる。されど、私とて劣るべき点は御座いません。よって彼奴を易々と討ち取り、隆信公の御目に掛けましょう」と述べて席を発った。

その頃、神代は千布城に在り、風雨の強い夜に家人を集めて酒宴をしていた。

侍女の一人が勝利の湯殿へ行ったのだが、息を荒げて走り戻り、湯殿に大男が居ると述べた。

それは小河筑後守信安であった。

神代勝利は「誰ぞ湯殿へ行き、酒宴の半ばであるが筑後殿も参られ酒を呑まれませいと、述べよ」命じた。

筑後は宵に城内へ忍び入り、勝利暗殺を企図していたが本意を遂げられなかった。

筑後は口惜しく感じながらも、勝利の盃を受け勝利へも返杯し、そのまま龍造寺領へ帰った。

(勝利は、家臣・小副川教実を追放したように見せかけて龍造寺家臣とさせた。所領まで得た小副川は、隆信の計略を逐一、勝利に報告したと云う)

(以下、弘治3年かも)

12月、隆信は東方を攻めるとして出馬したが、突如馬首を北へ転じて、小副川教実の谷田城に攻め掛かった。

教実は不意をつかれ、且つ小勢であった。

勝利は僅かの兵で打ち出て佐嘉勢と戦った。

合戦中盤、隆信は兵を割いて東方へ差し回し、松瀬より仏坂を越え環尾に至らせ、谷田城の高所へ登らせ、城を前後から攻め立てた。

谷田城は要害で、南は大川、北は長山、東西は一騎のみが通る程の細道で、その左右は切り立った岩に囲まれていた。

だが、城内はあまりに無勢であった為に、勝利は城を出て筑前へと逃れると、高祖城主・原田入道了栄(隆種)を頼り長野の地へ蟄居した。

隆信は神代家の領地の山々へ代官を据え置いた。




やっと弘治年間~( ̄ω ̄A;アセアセ

神代はキャラが濃いなぁ~

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
822位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
120位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR