北肥戦誌【1574年】その3

平井経治は如何にしても旧領へ復帰せんと、伯父・新 宗吟と頃合いを量り、
同年10月、須古・白石の地下人らを率い、数百人で須古へ打ち出て直秀の高岳城を囲んだ。

直秀は防戦虚しく敗れて横辺田へ退かんとするが、経治がこれを察して小通りの橋を焼くと、直秀はその煙を見て宝蔵寺へ立て籠もる。

そこを経治に攻められ、直秀は抗し難く自害した。隔して経治は高岳城へ帰還する。

これはすぐさま白石の福富(後に上野)讃岐守から佐嘉へ注進され、隆信は経治を退治すべく、
11月10日過ぎに10,000余騎を率いて横辺田へ着陣、福母山に本陣を置いた。


この頃、隆信の弟・龍造寺信周は下松浦征伐の為に西肥前に在陣していたのであるが、隆信の出陣を聞き、松浦党と共に佐嘉勢に加わった。

隆信が須古攻めへ動くと、福母大町を領する龍造寺家晴が先陣となり、上野讃岐守の一族47人らが出迎えて案内を務める。

早速に分担が決められ、鍋島信生・広橋一祐軒信了・小河信貫の併せて2,300余騎に、
旗本勢から百武賢兼・成松信勝・横尾内蔵允・田中源右衛門が加わって、城の北側・一間堀口へ向かう。

また龍造寺信周と松浦党は2,000余騎、これに前田家定・井元上野介を案内者として城の東側・白河口から男島の方へ押し寄せる。

次に、納富信景に田代因幡守・その子の田代治部少輔・田代左馬助らが加わった1,800余騎は城の南へ廻り、湯崎・川津口へ向かう。

他に納富信理(後に能登守家理)に副島式部少輔・木下四郎兵衛・杉町藤右衛門・木下左近允・石井大隅守らが加わって小塚口へ、龍造寺長信は搦め手へ其々向かった。

だが高岳城は小城ながら、北は岩石が聳えて細道、西は「百町牟田」と呼ばれる程の広い深泥で、
東は男島に砦が構えられ、南には二重の堀に塀を高くした上、所々に櫓を並べており、大変な要害であった。

平井勢も其々の口を差し固め、龍造寺勢が来るのを待ち構えた。

隔して11月26日、城攻めが開始されたが、一間堀攻めの先手・広橋一祐軒は追い立てられ引き退いた為、鍋島勢がこれに代わる。

広橋勢も立て直してこれに再度挑み、双方激しく鬩ぎ合い死傷者が多数出た上に日暮れが近付いてきた。

鍋島は広橋へ使者を派し、
「御辺、真先に駆けるともその槍先鈍きが為、我らが陣が進む上で差し障りとなっている。速やかに掛かられよ」と述べた。

広橋はこれに立腹、
「案内知らぬ攻め口で有る上に、日暮れも近いと申すに無理にも合戦を急ぐ軍法などあろうか! ・・・よし判った。この一祐軒に死ねとの申し出であるな・・・心得たり!」
と、この攻め口に骸を晒さんと士卒を下知して、自ら真先に進み遮二無二戦う。

これに平井家臣・川津近江守は敵の大将と見て、一祐軒を討ってその首を掻いた。

これに一祐軒の家臣二人が、主の仇逃すまじと近江守を討ち取った。

隔して日暮れとなり、両勢は互いの陣へ戻った。

12月20日、再び一斉に城を攻め始める。

信生は白石の郷長・秀伊勢守を案内者とし一間堀口を攻める。

鍋島勢は多数討ち死にするも、奮戦により遂に攻め口を破った。

更に深泥の方も城兵の油断により城内へ攻め入った。

東の信周勢も男島口から攻め入り、多数を討ち取ると共に男島の砦も打ち崩して平井刑部少輔を討ち取った。

双方に多数の討ち死にが生じたが、龍造寺勢は遂に高岳の本城へ迫った。

これに新宗吟が打って出たが、中島信》と太刀を合わせ、斬り合いの末に信連に討たれた。

信連も13ヶ所を切られ、半死半生となった。

平井経治はこれまでと腹を切ろうとするも、平井兵庫頭より「有馬・後藤を頼まれよ」と諌められて、西の百町牟田を桶に乗って越えて、山中へ忍び込んだ。

城内は大将が逃れた上は打って出るべしと、南の口より湯崎へ出た。

納富信景は一人も討ち漏らすなと下知すると、殆どを討ち取るに至った。

信生は本丸に至り残党を滅していく。

納富は、経治が既に落去したものと推測し、西の山に兵を差遣すると寺や民家を悉く焼き払わせた。

しかしながら、経治は見付からなかった。

経治は後藤貴明を頼り、二年後に上戸城へ入っている。




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【決戦前夜】江上表・八院合戦編7栞90

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薦野成家(こもの しげいえ)~生年月日が不明のため年齢は分らない。

上席家老・薦野増時(こもの ますとき)の嫡男で弟が3人いる。

成家は主君・立花宗茂の実妹を妻に迎えているが、それは親の七光りではなく彼自身の功績です。

成家の武勇が広く諸国の大名に知られるようになったのは「朝鮮の役」だ。

立花宗茂の朝鮮での活躍を支えた手柄で、宗茂は咄嗟の褒美として成家に金軍扇を与えている。

成家の諱も、正成(まさしげ)と名乗っていた宗茂から、一字拝領(偏諱)したものだ。

朝鮮で左ヒザに矢傷を負い、その後遺症で左足をひきづるようになったのだが、
指揮官として馬上で采配を振るう分には、問題無かったらしい。

さらに関が原~大津城攻撃では、先鋒として西軍の中では大津城一番乗りを果たしている。

大津での手柄に対し、宗茂は立花の与力で縁戚の筑紫広門から貰った名馬二頭を成家に与えた。



薦野成家は「江上表八院の戦い」では、後方守備に配置された。

さきの大津攻撃で先鋒だったため、兵士の損耗が激しかったから、今回は後方に回されたんです。

1600年10月19日、親子合流した鍋島軍が城島城を落城させる!

支城、城島城の城主は薦野増時。

くどいようだが本城の柳川城の守備に入ってるんで城島城は捨て城です。

にわかに動員した大軍の鍋島だが、14日出陣から1週間で立花の支城を2つ落としているから実戦経験がつくかと云うと、なかなかそうは行かないんだなぁ~~

しいて云うなら、初心者が鉄砲を撃つには良い訓練ではあるが、
捨て城だから反撃が殆んど無いし、動かない城に向けて撃つのと、向かって来る敵に撃つのとでは恐怖がまるで違う。

軍の作戦や配置も城攻めと野戦では動きが全く違うから、江上表八院がぶっつけ本番なのには変わらないんです(トホホ


さて話戻って薦野成家ですが、酒見城(福岡県大川市)と筑後川沿岸警備をしていたところに、城島城ピンチの報告を聞く。

落ちるのが前提の支城だが、黙って見ているのもシャクだ。

「一当てすべし」と300ほどを率いて城島へ向かった((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~ 

そして榎津(えのつ~ここも同じ大川市)まで来たところで、鍋島軍の隊列3000ほどに遭遇する。

成家の度胸が凄いのは、僅か10分の1の兵力で未だ無傷の鍋島を攻撃したことだ。

鉄砲を撃ちかけ軽卒を放った!

これに驚いた鍋島軍が簡単に崩れて、アレヨアレヨと20数名が討たれてしまう。


鍋島家紋

鍋島側の記録が曖昧なのは、立花に突かれるたびに隊伍が乱れてしまうのが恥ずかしかったからみたい。

鍋島軍は現役兵12000で普段は後方控えの予備役20000の合計32000。
(通説に見合うように、強引シオ的解釈^^;)

予備役を如何ほど集めても、出来上がる軍隊は2流でしかない。

彼らが現役兵と肩を並べるには、あくまでも実戦経験を積むしかないんです。

ふだん後方守備でも武士ならマシだが、農民や水夫なんかも非常時動員をされているはずだ。

農民は、武士のように鍋島に対する忠義心(代わるものとしては功名心)には疑問符あるし、
何より「江上表八院合戦」は領外遠征で、自分の生活が脅かされるような国土防衛戦でもない。

だから彼らの士気は不安定、勝ちに乗じているときは集団心理の勢いで何とかなるが、
自軍が不利、となると恐怖が先に立ち逃げてしまい、持ち場を守るという事が出来ない。

指揮官(鍋島家臣の誰か検索しても出ない~)が声を枯らし、
必死で崩れた隊伍をまとめた時には、戦果を手にした薦野成家の隊は退いてました( ̄ω ̄A;アセアセ

城島落城の報告で、鍋島が城島方面から来ていることが明確になった。

現代地図を参考にしているので書かれていないのだが、1600年当時は江上表と八院の間に川があったらしい。

宗茂が天正15年(1587年)から灌漑工事を初め、関ヶ原後に柳川に入った田中吉政が引継ぎ完成させた。

そのため現代では地形が変わり、川の痕跡が分らない(古地図も無さそう)

立花宗茂「この方向から来るなら、鍋島の本陣は五反田あたりになるな」
(大軍が布陣するとなると、自ずと場所は限定される)

野戦軍総大将・小野鎮幸「はい、江上表から押し出して来ると思うので、我らは川の反対側、八院に陣を敷きます」

さらに別の報告で如水軍が水田口(現在の筑後市付近)を目指して進軍していることを知った。
(加藤清正も同じく水田口を目指していたのだが、如水の方が先に来ると思っていたらしい)

如水への牽制として、薦野成家が兵300を率いて水田に向かうことになった。

ちなみに水田の地名は現在も残ってます^-^

10月20日早朝~両軍が対峙し決戦の火蓋が切って落とされる

それは・またの話 by^-^sio

北肥戦誌【1574年】その2

松浦・草野を従えた隆信は、龍造寺家秀・高木胤清・石井忠家・神代家利・武藤左近将監らを、鏡・天河・大河野の城へ残し置き、
自らはまず多久城まで馬を入れ、しばし逗留の後に、女山一揆の棟梁・鶴先源太左衛門の残党を残らず退治する。


この年の夏、西肥前は塚崎の後藤貴明と、その養子(実父は松浦隆信)である後藤惟明との戦いがあった。

貴明は惟明を養子とした後に、実子の甫子丸(後に後藤清明)が誕生し、先祖代々惣領に伝えるべき太刀などを貴明が甫子丸へ渡した事から生じた確執であった。

6月22日に惟明が、塚崎の二の丸にて謀叛の意志を皆に伝えるが、たまたまそれを盗み聞いた者により貴明に露呈、隔して翌日より惟明は二の丸へ籠り戦となったものである。

7月初旬、惟明は龍造寺家に支援を乞うた。一方、貴明も龍造寺家へ支援を求めた。

その頃、隆信は、須古の平井家が尚も異心あるを覗かせ、これを退治すべく杵島郡へ出馬していたのだが、
双方からの支援要請を取り次ぎの勝屋勝一軒から同時に聞く事となった。

隆信は何れに味方すべきか思案に暮れ、評定の末に貴明に味方すると決した。

小河信貫・納富信理(後に能登守家理)・執行種兼に2,000余騎を率いさせ、貴明への合力として宮野へ差遣した。

その後、惟明は一戦に及べども打ち負け、先非を悔いて貴明に降参した。

宮野での評定では、不孝の者の見せしめと捕えて処するべきだとの声が上がるが、一度は父子となった者なれば努々殺すべからずとして、貴明は惟明を平戸領の早岐へ送った。

惟明に与した者は、或る者は惟明に従い、或る者らは鍋島を頼って佐嘉へ住し、或る者らは浪人となった。

貴明は隆信へ加勢を謝して、以後別心あるべからざると堅く約束した。

さて平井攻めであるが、隆信は既に7月27日に佐嘉・小城の士卒を派し、白仁田山に陣を布かせていた。

平井経治はこれに、不意を突いて隆信の陣を打ち崩さんと、8月2日に弟の平井直秀・川津経忠ら多勢を率いて、龍造寺の陣近くへ進む。

龍造寺の陣場は岩が高く聳え、急に降る事が叶わず自由に動けない場所であった。

平井兄弟はこれを見量り、佐嘉勢を一人も残さず討ち取るべしと所々に備えを設け、正に切り掛からんとしていたが、夕刻が近付いた為に進軍出来なかった。

これを龍造寺先鋒の信生が察し、隆信へ使者を遣わすと、
「敵は間近まで押し寄せておりますが、日暮れに及び明日の戦まで待機して居る様子。ならば此方からすぐさま打って出るべきでしょう」と述べた。

隆信は同意し、使者が帰る間を惜しんで貝を鳴らさせる。

信生はこれを聞くと、すぐさま采配を掲げて、十丈程の岩石を一斉に押し下させると、平井の陣へと切り掛かった。

平井も軍兵を励まして戦うが、後陣の佐嘉勢が先陣へと続き、平井は川津経忠を討ち死にさせるほどの敗軍を喫して、悉く須古へと退いて行った。

ただ唯一、残兵一列が久津句の山上にあって退かなかった。

信生は、「この敵を追い払わねば、始終の勝利はない」と8月8日に久津句へ鬨を発しながら進軍、これを敗走せしめて小塚口まで追い掛けた。

これに平井勢は取って返して戦う。

これに龍造寺家晴が加勢に加わると、平井勢は打ち負けて高岳城へと逃れた。

隆信は久津句へ陣を移すが、周辺豪族らがこれに参じて、軍勢は次々と膨れ上がった。

猪熊へ出陣していた後藤勢はこれに恐れを為して、塚崎へと退いて行った。


その翌日、隆信は高岳城を攻めよと命じる。

だが、宿老らがこれを諌め、「長陣に御座れば士卒は皆疲れて、領民も働き通しに御座います。まず御馬を佐嘉へ帰され、平井征伐は又今度と致しませぬか」と述べる。

これに信生は「いやいや、この機に乗じて西側の敵を悉く退治されるべきでしょう。国家静謐の為なれば、士卒や領民とて労を厭いますまい」と反論する。

隆信は信生の申す通りと、横辺田に陣を布いた。

だが、平井の高岳城は要害であり、平井経治も音に聞こえた勇将である為、容易には落とせないだろうと思われた。

これに信生は、経治の弟・直秀を自陣へ招き囁くと、
「御辺は経治の兄弟では御座るが、先年の和平の折、龍造寺家の婿となり、既に一子が生まれておりますれば、正しく龍造寺の親族に御座います。・・・経治殿を殺されよ。その上は須古領を残らず御辺へ進ぜ、高岳城へ安堵致しましょう。只今の様に隆信へ背き続けるならば、御辺の命を奪い、平井が家をも滅ぼすまでに御座いますぞ」と謀略を仕掛けた。

直秀は信生へ反論もせず、急ぎ高岳の向かい男島へ帰ると、密かに平井家臣を集めて、件の陰謀を述べて皆への加増を約すれば、殆どが直秀に同意した。

直秀は信生へ起請文を提出、一味と共に経治を討たんとした。

経治は無念に思いつつも力及ばず、川津近江守ら以下男女180余人を連れて高岳城を去り、藤津の吉田へと落ちて行った。

隆信は大いに悦び、須古・高岳の城を直秀に与え、納富信景を横辺田へ残して、自らは佐嘉へ帰陣した。




松浦にも隆信がいるから、解りづらい~~

【考察・動員のファジー】江上表・八院合戦編6栞89


鍋島軍の江上表八院における動員兵力32,000は諸説ある。

(『葉隠』聞書第六によると1万2千、『太宰管内誌』は2万余、『立斎旧聞記』は1万余)

ネット上で検索しても、鍋島軍の武将の○○が何人率いた、という具体的な記述は出て来ない。

したがって、図々しくも素人が想像で書いちゃうわけで、ゆるい目で見てね(^ -)---☆Wink




1590年に秀吉が天下統一を果たして以来~関が原まで10年、国内で戦は無くなった(話の都合上一揆は除外)

この間に「戦争を知らない世代」が出現する。

が、1592年~1598年の足掛け7年、朝鮮への海外出兵がある。

朝鮮で初陣だとしても、慣れない異国での戦は新兵を一人前にするには充分だ。

実際「朝鮮の役」では、高齢・怪我・病などで世代交代する武家は多かった。
(前回出た竜造寺茂綱もパパンが朝鮮の役でダウンし当主交代)

つまり「朝鮮の役」での動員兵力が、そのまま精鋭であり、現役兵ということになる

立花軍であれば、朝鮮動員が約3000、大津攻め動員が2500、江上表八院動員が3700、これが柳川13万石の精鋭であり現役兵だ

したがって柳川城に集結した13000のうち、残り9000は「予備役=後方支援・守備が任務」で通常動員では最前線に出無い兵力。

もともと立花では「関が原で西軍が負けた上は恭順すべし」の意見でまとまっていた。

ところが手柄が欲しい鍋島が果し合いを申し込んだので「武士の面目」のため出陣することになったのだ。

立花の武勇を見せるためだ。予備役を出陣させたりしない。バリバリの精鋭3700で、1~3陣を選抜した。


立花家紋

だが鍋島の事情は違う。立花を倒すことに御家存続の是非が掛かっている。

立花の精鋭を野戦で粉砕し、さらに本城の柳川城を降伏開城するところまでもっていかなきゃならない。

城を囲むとなれば攻撃側兵力は、籠城側の数倍を要する。 

攻城となれば、加藤清正や如水も出てくるだろう(てか立花が粘ったら鍋島だけじゃ手が足りん)

その場合、柳川城攻撃での主導権を握り、鍋島の手柄にするためには【鍋島軍>如水+加藤軍】の状態がベスト。

だから32000は、動員出来るかどうかではなく、何としても集めなければならない数だ

鍋島が「朝鮮の役」で動員したのは12000、これが経験豊富な現役兵かつ精鋭で、残り2万は今日で言うところの予備役になる

(予備役=通常動員では戦場に出ない守備兵、動員数字マジックの源)

13万石の立花が、全ての支城を空にして9000の予備役を集めたのだ。35万石の鍋島なら現役兵+2万の動員は可能だろう

1600年10月後半~北九州で降伏していない西軍は立花だけで、鍋島は自国が攻撃される心配は(ほぼ)ない。

支城の兵士だけで足りなければ水軍の水夫だっている。(頭数揃えるだけなら~ってこと)

この頃の九州の制海権は、豊後沖~関門海峡までが黒田軍、反対側の肥後~日向までは清正の水軍が制圧済みだ。

鍋島が水軍を動かす可能性は限りなく低いので、水夫たちは遊んでる状態だもん。

さすがに長崎には守備兵を残さないと不味いが、甲冑を着て鉄砲・槍を持たせるだけの留守番なら女性でも構わない。

てかマジで江上表八院にも女鉄砲隊が出陣したかもしれない。

近年の古戦場跡の遺骨発掘では、女兵士が多く発見され研究者を驚かせているそうだ。

え?そんな無理しなくても傭兵のほうが楽に集まるだろう~ですって?

だめだめ~そんな金があるなら鉄砲を買うべし!

3千が1万に匹敵すると恐れられた立花軍の精鋭の足を留めるには、銃火器しかない。

やっぱりネットでは検索できなかったけどシオ推測では、鍋島は相当数の鉄砲を集めたと思う。


鍋島家紋

前回紹介した竜造寺茂綱だけで、300丁の鉄砲を所持していたそうだ。彼の領地は当時2万石。

【鍋島35万石÷茂綱2万石×300丁=5250丁】単純計算で、これだけの数の鉄砲があった計算になる。

戦国時代、日本は世界でも有数の鉄砲保有国だった。

優秀な日本の鉄砲は商人の手によって、はるかオスマントルコ帝国まで輸出されていたほどだ。

何もゼロから集めるわけじゃない。端数切り上げ6000丁としても、もともと所持している銃の他に購入するのだ。

長崎を領する鍋島家なら急場でも集められるだろう。てか、御家存亡の危機です。財政が破綻しても集めなければならない。

現役12000+予備役20000に豊富な鉄砲~これで楽勝かと言えば、そう簡単に行かないの戦争だ

なぜなら予備役が現役兵士より劣るのは、万国共通の常識

予備役は「朝鮮の役」に出兵してなければ、最前線から離れて10年のブランクがあり、若年者なら江上表八院が戦場デヴューの初陣だ

主家存亡のピンチ、普段は守備ばっかだけど最前線に出るのは出世のチャンス!(=^・ω・^=)v ブイ

ヤル気は満々でも、指揮官の命令に一歩も二歩も反応が遅れるのが予備役で、その遅れが戦場では命とりになる。

軍の中身が心配といえば、初期の如水混成軍も同じだった。

如水が8月に金で集めた一般公募者は、商人だの職人だの、甲冑を着けるとこからスタートのド素人だったからです。

それが9月9日出陣で豊後(大分)から筑前(福岡)まで転戦を重ねて、足掛け2ヶ月。

途中からは投降した西軍も混成軍に入って、戦力スキルアップ。

8月の初期応募者で、10月の今まで生き残った者は、一人前の「兵士」になっているだろう。

だが鍋島は10月初めに動員かけて14日出陣から戦まで僅か1週間!にわか編成の大軍は江上表八院がブッツケ本番だ!~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

「大軍に兵法無し」というけれど、果たして立花の歴戦猛者精鋭を、数で圧倒する事が出来るのか?!

それは・またの話 by^-^sio
ちと話の展開としては推測が多いので強引になりました。

実際のとこ2万が妥当かなぁ~という気がしないでもないです。
(葉隠と立花側の記録が、もろ朝鮮での鍋島軍の動員数だしネー(*´・д・)(・д・`*)ネー、プラスアルファで2万ってとこじゃね?)

ただ鍋島は、長期戦ではなく短期決戦のつもりでいたはずなんです。

佐賀を空にする不安や軍事費のやりくりの心配だけでなく、何よりも家康の機嫌を恐れてました。

長引けば東軍・家康の威信に傷が付くので、短期間でケリをつけなきゃならないんです。

だから常識的な数値を度外視し、無理に無理をして大動員したはず・・・と判断しました^-^
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北肥戦誌【1574年】その1

大雪に足止めを食らっていた秀島家周は、1月1日に三瀬城へ入り神代長良と対面、長良はこれに応じ、まず軍兵を差し向けた後、自らも後から出陣する(病の為)とし、
神代周利(勝利三男? or 家利の間違い?)・三瀬大蔵・畑瀬右馬助らに兵を与えて差遣する。

一方、波多鎮(後の三河守親)より援軍を請われた隆信は、1月2日のまだ空が明けやらぬ内に佐嘉より出馬した。

上松浦の内池原へ着陣すると、八竝武蔵守が出迎えて案内する。

そして草野の五段田に着陣したとき、神代長良も五段田へ着陣した。

隆信は非常に喜び、軍勢をその日の内に平原まで押し進める。

先陣は鍋島信生、二陣は小河信貫・内田信堅、三陣は神代の山内勢と江上の城原勢で、
旗本勢は納富信理(後に能登守家理)・副島家光・百武賢兼・成松信勝ほか安住・石井・円城寺ら10,000余人であった。

これに草野家臣の草野元幸・青木良珍・吉井右近允らは、城より平井峠へ打って出て、信生の陣へ突き掛かる。

鍋島勢は乱戦の中、しばし戦うが打ち負けて20余人が討ち死にし敗走する。

二陣の内田勢はすぐさま敵に斬り込み、敵を切り崩して城戸を開き攻め入る。

だが日暮れとなった為、両軍共に合戦を止めて陣へと退いた。

隆信はこのとき狂歌を詠んだ。「正月の一日二日の事なれば 草野を焼きて鏡餅かな」。


明けて1月3日、千葉家から来た仁戸田・鑰尼・野辺田・金原・小出・巨勢・堀江・平田・田中・陣内・井手・濱野の12名は鍋島の家臣に加わり、先陣の信生勢に加わって城戸口を攻める。

これに龍造寺長信・龍造寺信周・勝屋勝一軒・田代因幡守らが鍋島に続く。

城中からは矢・石・鉄砲が雨の如くに放たれるが、寄せ手は奮戦し城戸を破って素早く二の丸へ火を掛けた。

草野鎮永は防ぎかねて城を去り二重岳へ落ち、実父である原田越前入道了栄の高祖城へ落ちて行った。


草野を追い落すと、隆信は神代長良と初めて対面する。

双方床几に掛かり一礼した。

長良は用人の為、伊集院阿含坊と杠太郎右衛門という大剛の者に大長刀を持たせ、自らの左右に配した。

また隆信の近くにも百武志摩守・成松遠江守ら屈強の輩を置いている。

長良は「先達ての御約束通り、鎮永の領地のうち草野七山(馬野・仁部川・刈川・瀧川・荒川・藤川・厳木川)は我らが知行致す儀にて間違い御座いませぬな?」と問うと、

隆信は「左様、仔細に及ばず。但し、その内の仁部川のみは仔細あって鴨打陸奥守に渡す約定を交わしておる。その代え地は佐嘉郡に用意致そう」と返し会釈した。

その後、長良は三瀬へ帰城した。


隆信は草野鎮永と父・原田入道を打つべく筑前国へ打ち入り、怡土郡に至り高祖の大島井まで放火する。

これに原田入道は孫の冠者(この場合、元服前の若者の意)を連れて、和を請うべく隆信の陣へ参じた。

隆信は大いに悦び、その冠者に加冠し原田信種と名乗らせた。

この信種は草野鎮永の子で、原田入道の家督を継いでいた原田親種が先年に死去した為に、次の後継者と目されていた。

此の更に後、鴨打左馬大夫の娘を隆信の養女として、信種に嫁がせている。

また、原田入道は草野鎮永の赦免も願い、隆信はこれを許して鎮永は本領へと帰るに至ると、佐嘉の倉町信俊の次男・太郎三郎を養子としている。

隆信が原田と和融に至ると、飯場の《曲渕河内守》が降参した。

隆信は再び上松浦へ馬を向けると、波多鎮はすぐさま八竝武蔵守・福井山城守を差遣し、
龍造寺先鋒の信生を天河で出迎えさせ、自らも案内の為に法師良へ陣を布いた。

隆信が烏巣に着陣すると、大河野の鶴山勝、厳木の鶴山進・河原豊前守ら松浦党は、旗頭たる波多家が従属するならばと、皆が降伏するに至った。




さすが北肥戦誌。

原田信種の妻(隆信養女)が誰の娘か解んなかったのよね~φ(.. ) メモメモ

この年に元服したのか~信種クン





松浦・草野を従えた隆信は、龍造寺家秀・高木胤清・石井忠家・神代家利・武藤左近将監らを、鏡・天河・大河野の城へ残し置き、自らはまず多久城まで馬を入れ、しばし逗留の後に、女山一揆の棟梁・鶴先源太左衛門の残党を残らず退治する。

【公方栗毛】江上表・八院合戦編5栞88


竜造寺4家

肥前鍋島家の名目上の主君・竜造寺家の親族で、勢力のある4つの家を指す

諫早(いさはや)⇒竜造寺家晴
竜造寺親族のなかで最も切れ者、諫早の領地は鍋島の頭越しに家晴が秀吉に直接交渉し手に入れた。
竜造寺の分家、水ケ江の家督に関し、鍋島直茂と確執があったと言われている。

多久(たく)⇒竜造寺長信(隆信・末弟)
竜造寺分家の水ケ江を継いだので、鍋島氏が遠慮し佐賀の筆頭家老に据えた。
関が原のころは、息子・安順(やすとし)が当主。

須古(すこ)⇒竜造寺信周(隆信・異母弟)
年齢は多久より年長だったのだが、異母弟だったので家格は多久の下だったそうです。

武雄(たけお)⇒竜造寺(後藤)家信(隆信・息子)
文禄年間に病のため、息子・茂綱に後事を託した。

今回紹介するのは、武雄の21代目当主・竜造寺(後藤)茂綱29歳です^^/

茂綱は鍋島軍が西軍として出陣したとき、病で同行できなかった。

なんとか行こうとしたけど、ままならず家臣の日高を代理として270騎で出陣させる。

だが出発が遅れたために、着いた頃には関が原本戦が終ってしまっていた(_´Д`)アイーン

仕方ないので鍋島軍に合流しようと移動中に、美濃から大坂へ向かう家康とバッタリ出会う。

家康「どこの家中の隊ぞ?

日高「佐賀・竜造寺茂綱の家臣 日高と申します、主の病で遅参いたしました(`・ω・´)キリッ

家康「おお それは大儀。ワシの栗毛の馬を与えよう


家康は[日高の隊を東軍に参戦するために来たと勘違いし日高に馬を与えた]と逸話にある。

シオは逸話にある家康の「勘違い」は、わざとしたんじゃないかと思う。

なぜなら徳川家康という人物は、その手のウッカリや勘違いをするタイプではない。

それに東軍の伏見城を攻撃した西軍の中に、佐賀兵がいたことは家康に報告されているはずです。


竜造寺家紋

何度か触れているが、佐賀の統治を誰にするかで、実力の鍋島と名目の竜造寺の間で揺れていた。

戦国時代なんで実力優先~実権は鍋島氏にあったのだが、関が原では西軍で頑張ってしまった。

だから確率としては低いが「鍋島を西軍参加の罪で改易、再び竜造寺を復活させる」と言う選択肢が無い訳ではない(竜造寺嫡子は御年15歳)

遅刻した竜造寺親族の家臣を褒めて馬まで与えるのは、鍋島への痛烈な皮肉であり牽制だろう。

ちなみに、お馬さんは後に「公方栗毛」と呼ばれ大切に飼育されました^-^

日高が馬を拝領したことに、鍋島家臣も竜造寺親族も憤慨した。

「西軍で頑張った」黒歴史は、鍋島&竜造寺共通。 

彼らは、今後の新しい政局の中での生き残りのために必死だったからだ。


戦に遅参するなど言語道断!もってのほか!論外!
武士にあるまじき不心得で、本来なら切腹仰せつかっても文句は言えない。
遅刻で自分の経歴だけは綺麗な上に馬まで貰う?「ざけんじゃねぇ!」と家中から総スカン。

家中の皆々様「やぁ これこそ怪我の功名ですなぁ(魚のような目でセリフ棒読み

と皮肉たっぷりの祝儀の言葉を、日高は会う人ごとに声をかけられたil||li _| ̄|○ il||l

馬を拝領した日高はいたたまれなくなり、後日になるが隠遁を余儀なくされる。

ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! と、家中の反応に日高の主君、竜造寺茂綱も驚いた。

日高が遅刻したのは、元はと言えば自分の病本復をギリギリまで待ってたせいなのだ。

なんという不面目!焦る茂綱に[立花軍との決戦のため大動員をかけられている]と知らせが入る。

茂綱は、主家親族であるというプライドをかなぐり捨て、鍋島直茂に自分の出兵を懇願した。

家康からの動員命令は鍋島家に下っているのです。

鍋島家の当主・直茂からの命令が無ければ茂綱は従軍できない。

命令無しで勝手に出る「陣借り」って方法もあるが、この時の茂綱に自分の持ち場に入る事を許す武将などいない。

茂綱「お願いでござる!立花との戦いで我が隊に是が非でも先鋒を御申し付け下され!なにとぞ!なにとぞ御願い仕ります!!・゜・(PД`q。)・゜・

何としても何としても手柄を立てなければ・・・それが出来なければ切腹した方がマシだ

このままでは鍋島家中からも竜造寺親族からもハブられて肥前で生きていけなくなる!



鍋島家紋

歴史は時に[最後まで諦めない者]にスポットライトを当てることがある。

家中から白い眼で見られていた竜造寺茂綱だが、
はるか後年に筆頭家老の多久竜造寺家が不始末で失脚したため、佐賀の藩政の全てを預かることになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

北肥戦誌【1573年】

●元亀4年・天正元年(1573年)

この冬、上松浦草野の鏡城主・草野鎮永が小城へ使者を派して、千葉胤誠の旧臣を扇動して一揆を企てた。

これはすぐさま、持永治部丞・陣内蔵人・宮崎伊予守らより村中城へ注進され、隆信は小城へと出馬、一揆勢を追い払った。

そして警戒の為に松尾山に布陣していたが、草野をそのままにしておくわけにもいかず、隆信は12月下旬、神代長良にも加勢を頼むべく秀島家周を遣わした。

但し、このときに大雪に見舞われ、秀島は止む無く清流寺に宿を取った。


また、隆信は同時に、上松浦は岸岳(鬼子岳)城主・波多鎮(後の三河守親)にも支援を求めており、同意した鎮より老臣・八竝武蔵守を草野攻めの案内者として差遣した。

草野は波多が龍造寺の先導をすると聞き、ならば波多を攻めんと岸岳城へ攻め掛かった。

鎮は佐嘉へ急使を派して援兵を乞うた。




【立花軍団、配置決定】江上表・八院合戦編4栞87


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参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^
八院合戦(筑後郷土史研究会誌 第16号より)
http://www.snk.or.jp/cda/tanbou/ooki/hatiingassen/hatiinsen.htm#hatiin

現代では知名度の低い「江上・八院合戦」ですが、さすがネット社会。

郷土史を紹介しているHPを見つけるのは簡単でした。問題は、その後^^;

HPに出てくる武将たちは、功績によって主君・宗茂の名字を与えられた「量産型立花姓」で一杯,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

例えば何回か登場している薦野増時は、当時は「立花三河」って呼ばれてました^^;

あくまで気楽に楽しんで戴くのが当ブログの主旨(`・ω・´)キリッ

記事においては混乱を避けるため、全員の史実上で名乗っている「立花姓」をスルーして、
改姓前の元々の名字で紹介するのを御了承下さいm(_ _)m


1600年10月16日、鍋島軍(東軍)から果し合いを申し込まれた立花(西軍)は、軍議の結果、配置決定!


守備部隊~9000名

 本城・柳川城の守備⇒上席家老・薦野増時を中心に4000名。

   榎津舟手の守備⇒4000名
(榎津には城があったらしいのですが、位置・外郭・城番など詳細は現在も不明)

その他偵察・警備など⇒1000名

野戦決戦部隊~3700名

第一陣・総大将、小野鎮幸(おのしげゆき)率いる1000名。

第二陣・戸次鎮実(べっき しげざね)率いる700名。

第三陣・矢島石助他1000名+安東伊之助他1000名。

合計~約13000!柳川13万石の大名、立花家全軍の内訳です(=^・ω・^=)v ブイ



立花宗茂イメージ画像

第三陣の安東伊之助は馬廻衆、今風に云うと宗茂の親衛隊です^-^

第二陣の戸次鎮実は、宗茂の亡き養父・立花道雪の親族。

道雪は主君の命令で立花の名跡を継いだので、元々は戸次(べっき)家の人間なんです。

だからムコ養子に入った宗茂と、道雪の親族の鎮実は、親戚ではあるけど血縁関係はありません。

でも宗茂の実家、道雪の実家は共に大友家支族なので、系図を遡れば同族ではあります^^;;

ちなみに第二陣大将の鎮実は、息子で次男の善次郎17歳を供に従軍させていました^^

さて、総大将の小野鎮幸は、何回か触れたようにオノヨーコの先祖で、この時55歳。

元々は立花家の主君の大友氏の家臣で、軍目付(ぐんめつけ=監視役)として立花へ派遣されてたのです。

小野の将才に最初に気づいたのは、立花の重臣・由布惟信(ゆふこれのぶ)です。

由布は宗茂の教育係りで、宗茂は由布を「ジィ」と呼んで慕っていました^-^


立花家紋

由布は主君・立花道雪に「小野を是非、スカウトして下さい!」と熱心に勧めた。

主君の道雪「小野の才能はワシも欲しいが、いかんせん今は分け与える領地が無い・・(-ω-;)トホホ」

由布「では拙者の領地を削って小野に分け与えて下さい!彼の才能は必ず立花の武勇を栄えさせます!」

いきさつを聞いた小野は感激し、主君の大友氏の了解を貰って立花家の直臣となったのだ、

由布の見込み通り小野は数々の戦で手柄を立てた。

小野が大友・道雪・宗茂と3人の主君から貰った「感状(功績が書かれた書状)」は通算で68!

もちろん立花軍ではダントツのトップ!

雷神・道雪と武神・宗茂の誉れ高い武勇を支えた功労者だ。

同年10月17日・軍を二手に分けて進撃していた鍋島直茂と勝茂親子が、大善寺(福岡県久留米市)で合流する!

確実に柳川城を目指して近付く鍋島軍は32000の大軍で、
迎え撃つ立花野戦軍は10分の1強の3700だ。

江上表・八院合戦まで残すところ後3日!それは・またの話 by^-^sio

北肥戦誌【1572年】

3月下旬、隆信は再び裏切り者を退治すべく、
(昨年末より三根・養父の者らが少弐政興を擁立せんとの動きを見せると共に、大友へ援兵を乞う動きを見せた)、
嫡子・龍造寺鎮賢(後に政家)と共にまずは神埼郡へ出陣する。

これに参集したのは神代長良の名代・神代家利・江上武種の名代・執行種兼、他に本告頼景・綾部賢幸(鎮幸とも)ら沢山の者達が参陣する。


隆信はまず筑紫貞治(鎮恒・昭門とも)の朝日山城を、案内者でもある執行を大将として攻めさせた。

執行は不意に一手の者に
「昨年、我らの城原城を鍋島信生に攻め砕かれ、和を乞うて龍家に仕えた今、此度の従軍にてその鍋島が下知を受ける事は非常に口惜しい。せめてこの朝日山の城を我が城原勢のみにて攻め落とし、昨年の恥辱を雪ぎたく存ずる。此の事、構えて佐嘉勢に知らするな」囁くと、松明を数百用意させ、4月1日の夜、松明を人足数百に燃やさせ、朝日山の三方に振り分けて猟師らの使う細道を登らせる。

城兵はこれを見降ろし、さては三方より夜討ちを掛けるかと見て、急ぎ人数を三方へ配して差し固めた。

執行は頃合いを見て、城原勢300余を一方の口より攻めた。

思った通りに此方側は無勢であった為、執行は喜悦し大音声を上げて、城戸を破れ、塀を打ち破り城中へ攻め入れと、頻りに下知を飛ばす。

城原勢は次々と塀を打ち破って我先にと城へ雪崩れ込み、城内へ火を掛け、鬨の声を上げた。

三方に分かれた城兵は動揺し、戦意を失って勝尾へと皆落ちて行く。

執行が凱歌を上げたのは4月2日の辰の上刻(AM 8:00頃)であった。

隆信は本陣より遠くこれを見て鍋島信生を招き寄せ、
「あれを見よ。城原の執行が他の勢力の援け無く城を攻め落とす様の、何と面白き事か。世に言う如く、敵として強き者は味方となっても強しとは彼の者の事である」と大いにこれを賞賛した。

執行は功により200町を加増されている。

ちなみに朝日山城には城主・貞治は居なかった。子息の筑紫栄門と共に、綾部の本城へ居たともいわれる。


隆信は勝尾城下へ陣を進め、城主・筑紫広門の元へ使者を派して、
「我は此度、三根・養父の輩を退治致すべく出陣し、既に朝日山の城は攻め落とした。只今より其処許の城へ取り掛からんとしておる。されど、其処許が和を請うのであらば、戦には及ぶまい」と申し送った。

これに広門は、親類家人を集めて評定の上で和平と決し、その印として、筑紫栄門の綾部城を始め、その左右の持ち分である三ヶ城を龍造寺家に割譲した。


隆信は養父の陣を払い、次に三根郡へ打ち入る。

横岳鎮貞の西島城を攻めるも利を得られず、龍造寺家晴・龍造寺家就らは引き退く。

止む無く隆信は、西島城を差し置いて帰陣あるべきと、崎村領人・犬塚家広を崎村から中津隈へ移し、姉川城主・姉川信安を姉川から米田へ移して米田村の横岳領100町を奪って信安に与え、土肥家実を加えて三根・養父両郡を守らせた。

隆信は帰城に及ぶが、このとき坊所尾張守の仲介により、筑後国は貝津城主・安武鎮教(後に隆信と同じ山城守を遠慮し、式部大輔家教)も隆信へ和を請い、起請文を提出した(但し再び裏切る)。




筑紫広門も苦労してるな (゜-Å) ホロリ

【予告】肥前千葉氏編

言霊キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

鍋島さま(を紹介した逸話)に出会って、はや5年。

九州戦国史・・・とりわけマイナー郷土史・国人領主にドップリはまってマニアック街道驀進中(爆

構想・データ収集に足掛け5年。最終データ調整に半年

ストックした記事を元に、連載のかたわら記事クオリティを磨いて精進・精進~~~

北九州戦国史集大成「肥前戦国史100年!」の公開が、遂に近づいてまいりました


恋焦がれた鍋島さま・・・からの連載ではありません。

鍋島だけであれば、既に「佐賀藩初代藩主編」アップ完了、「江上表八院合戦編」が現在連載中です。



シオの歴史の調べ方は「最後に勝ち組になった武家」ではなく「最初にカオスになった時点」を探すところから始めます。

肥前戦国史におけるキーマンは誰なのか。

戦国カオスの分岐点になった武家は何処なのか。

それを探すところから始めます。

ですから「戦国総仕上げ間近の元亀・天正年間」は後回し~~~ガンガン年代を遡ります。

書庫2「薩州島津氏編」では下調査に室町時代まで遡りましたが、「肥前戦国史」では鎌倉時代まで遡りました。

そして見つけたのが、日本最大のマンモス氏族・千葉氏から派生した肥前千葉氏

肥前千葉氏こそが、肥前戦国史における扇の要!

肥前千葉氏を語らずして、肥前戦国史の真の姿は見えて来ません


さらに南北朝争乱の落としだね、肥前今川氏

マイナー九州探題、渋川氏

地盤沈下しつつ粘る名門、武藤少弐氏


肥前千葉氏と三つの家が複雑に絡み合い、肥前は戦国時代へと突入する。

さらに肥前千葉氏の家督に介入し、余計に拗らすのが中国地方のドン・大内氏

肥前千葉氏の家督を綱引きに、北九州の覇権を巡って争う大内と少弐

戦国初期・・・竜造寺も鍋島も、大内と少弐という巨竜の争いから起きる嵐に翻弄される、小動物でしかなかった



肥前戦国史100年・第一部「肥前千葉氏編」7月中旬より連載開始します

ストック分と違うので、連載は不定期になると思いますが、宜しくお願い致します^-^

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【鍋島からの挑戦】江上表・八院合戦編3栞86


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八院合戦(筑後郷土史研究会誌 第16号より)
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佐賀城・鯱の門

1600年10月13日、加藤清正~肥後宇土城を落とす

数日後、清正は抑えの兵を残し柳川へ向けて進軍する


同年10月14日、黒田如水~兵5000を柳川へ派兵、自身は久留米城へ向かう


同じく10月14日、鍋島軍~佐賀城を出陣!

兵32000を二手に分けて、鍋島直茂(父)と勝茂(嫡男)がそれぞれ率いて進軍


佐賀軍の兵力に関しては諸説ありますが、それに関しては別記事で語りたいと思います^-^

「筑後郷土史研究会」では、佐賀軍が二手に分かれたのは、
「筑後川沿いに柳川・立花軍が備えをしているはず、だから用心のため軍を分けた」とある。
(実際には心配するほどの大軍や伏兵は無かった)

シオとしては、それだけじゃなく「黒田如水と連携をとるため」だったと思う。

「いろいろ企んでたんじゃないの?」と疑われている黒田如水だが、行動そのものは東軍でブレは無い。

石田三成からの誘いも「七カ国くれたら考えても(・∀・)イイ!」って返事して、如水らしく断ってる(*´艸`)

息子・長政は吉川広家と小早川秀秋を西軍から東軍へ寝返らせ、さらに前哨戦・本戦と武功もある。

父・如水は九州の関が原「石垣原の戦い」で西軍の大友氏を倒す。

と親子それぞれで、徳川家康が黒田家を疎略にできない手柄を立て、さらに長政は家康の養女と再婚し縁戚にもなっている。

鍋島直茂は、九州における東軍・黒田如水に徳川家康への取り成しを頼んだと思うし、実際に戦後、黒田家は「鍋島家存続のため」に徳川家に働きかけている。

関が原本戦後、西軍で頑張ってしまった鍋島家は家康に必死に謝罪し、表面上は許してもらった形になっている。

だが西軍掃討戦である立花家との戦の趨勢しだいでは、鍋島存続の口約束はチャラになりかねない。

苦労人の鍋島直茂は、念には念を入れただろう。


鍋島直茂イメージ画像

同年10月15日、別々に進軍している鍋島親子は、それぞれ戦勝祈願をしている

自分の家督相続もピンチの勝茂⇒「戦に勝ちますように!でもって徳川殿と上手くやっていけますように!」(-人-)☆彡オネガイ~


翌日10月16日、久留米城(福岡県久留米市)を、合流した鍋島直茂と黒田如水が落とす

久留米城の城主は、毛利秀包(もうり ひでかね・元就庶子)だ。

彼は立花宗茂とともに大津城攻めに参加していたが、九州に戻った宗茂とは別れ大坂に残っていた。

久留米城には奥方と家老の桂と僅かな留守兵しかおらず、多勢に無勢~一日で落城してしまう。

実は毛利秀包は立花宗茂の大親友で、義兄弟の契りを交わしていた(友情です、衆道ではない)

留守番だけとはいえ、宗茂の柳川城と連携とられたら厄介だ。先に落としやすい方から攻めたのだろう。

一方、別コースをとった勝茂は、筑後川を渡河して柳川・立花領地に侵攻!

同日の10月16日、柳川の支城・梅津城を落とす

梅津城の城主は薦野成家(こもの しげいえ・薦野増時の嫡男)なのだが、
宗茂とともに大津攻めに参加し、帰国後は柳川城に入ったので梅津城は殆ど空^^;

本城・柳川城に全員集合してるんで、支城は捨て城状態なんです^^;;

同日、鍋島(勝茂)軍の成富茂安が、立花宗茂に対し決戦の果し合いを申し込む!

この果たし状の具体的な中身がネット検索ではHITしなかった。。。il||li _| ̄|○ il||l

成富茂安(なるとみ しげやす)は、土木、水利の神様として佐賀では尊崇され、
佐賀の土木研究家は「成富の実績を基礎として勉強」しなければならないほどだ。
(( ̄ko ̄)<それほど事績だらけなんでつ)

彼は土木治水工事だけでなく、交渉・外交面でも異能を発揮しており、
立花軍を柳川城から戦場へと引っ張り出すための口上を述べる使者として、うってつけの人材だ。


鍋島家紋

難攻不落と言われた柳川城に、名将・立花宗茂が(本気で)籠城したら攻略に何年かかるか見当もつかない。

何としても野戦決戦で決着をつけなければならないのだ。

一方、果たし状を受けた立花宗茂は、侵攻してきた鍋島軍と雌雄を決すべく軍議を開く。

宗茂自身が戦場に出るのは、上席家老の薦野増時(こものますとき)に止められたから、
前回紹介したオノヨーコの先祖(すごい紹介だな^^;)小野鎮幸(おのしげゆき)が総大将~(=^・ω・^=)v ブイ

次回、迎え撃つ立花軍の猛者たち~それは・またの話 by^-^sio

【1571年】於安の悲劇

隆信は小田鎮光とは元々相容れぬのだろうと、謀り寄せて誅殺すべしと思い立つ。

4月初旬、隆信は鎮光夫人であった於安に対し、
「御主の夫・鎮光は、昨年多久より退きて流浪し、今は筑後に在ると聞く。されど、我らに敵対しようとも、一度は婿に取り親と子の立場になりし上は、このまま諍い続けるのは如何であろうかと存ずる。鎮光が心を翻し、すぐさま我が前に来りて先非を謝するならば、早速に旧領・蓮池を返し、御身と共に暮らさせるよう計らう所存である。もしこれを嬉しく思うならば、急ぎ鎮光の居所へ文を送りて、その旨を伝えてはくれぬか?」と嘆く様に述べた。

於安はこれを殊の外喜び、自身の乳母に
「さても父上の志の嬉しさよ。自らは胤栄が一子にて父上には儘子。・・・男なれば家を継ぐべき者なれど、女子の身なれば左様な望みなどありはしない。唯々悔しきは鎮光様が他国に居られる事・・・それを父上は御赦免になられ、夫婦一所に居させてくれると申された。急ぎ文を認め、筑後へ遣わすべし」そう語った。


さて、於安よりの文を受け取った鎮光は、間違う事無き於安の筆跡に大いに悦び、弟の小田朝光に、久池井三郎左衛門・山崎主水允ら主従12~13人を連れて、4月9日に筑後の仮屋を発って佐嘉へと赴いた。

翌10日、鎮光らまず納富信景の館へ入り、弟・朝光は鍋島信房の屋敷へ入る。

隆信は此れを聞き、すぐさま納富信景を招くと、今夜鎮光を汝の館にて討ち果たせと命じた。

納富信景は急ぎ帰宅して家人らを集めて話すに、
「鎮光の剣術はその父・政光より師事し尋常ではない。それを心得て討ち漏らしてはならぬ。わしが組み付いて刺し違える。もし仕損じたならば、各々宜しく頼む」と述べる。

これに伯父・納富信門は
「御辺が申すは尤もなれど、御辺は納富が惣領である。幸いにわしは御辺が歳若きゆえに後見であった身・・・刺し違えるは我らがなす。御辺を敵の家人などの手に掛けたとあっては武士の本意に非ず」と信景を制して、鎮光討ち取りの準備を始めた。

隔して信門は時刻を量って座敷へ入り、鎮光へ会釈すると刀を抜き様に斬り付ける。

鎮光は即座に信門を斬り伏せ、続く4人も矢庭に斬り倒す。

後方に控えていた水町左京允は仕損じまいと槍を持って突き掛かる。

鎮光は力み刀を折るが、後ろに立ててあった刀を取って渡り合う。

これに水町も危うくなった頃、その子息・水町彌太右衛門(16歳)が駆け付けて鎮光を斬り伏せた。

鎮光家臣の久池井は彌太右衛門に討たれ、山崎は主の仇と彌太右衛門に切り掛かる。

しばしの斬り合いの末、彌太右衛門は手傷を負わされるも、父・左京が駆けよって山崎を討ち取った。

また、鎮光の弟・朝光は、寝所で寝ている処を、鍋島信房・信生兄弟に討たれた。

鎮光は「おのれ、敵が娘に謀られた」と、於安への恨み事を発して死んだという

それを聞いた於安は、胸が塞がる程に嘆き悲しみ、「父上、なんと恨めしきか。私を謀り夫・鎮光を殺そうとは・・・本意に在らざる我が心底、死してあの世の鎮光殿へ語らん」と、守刀を抜いて自害を図るが、母や女中らが刀に縋り付いて止めさせる

隆信は、於安が再び自害せぬよう、嫡子・龍造寺鎮賢(後に民部大輔政家)を日夜付け置き守らせた。

また隆信は、同じく約を変じて大友に与した江上武種も征伐すべしと、鍋島信生を先鋒に、龍造寺信種・龍造寺家就ら2,000余騎を城原へ差し向ける。

武種は覚悟していた事であったので、家臣の執行種兼に下知し、枝吉種次・直塚純英・服部種家・米倉種益らを伴って南の大手門を差し固め、執行は自ら6~700名を率いて大手門より南へ押し出して川土手を影に取って伏兵した。

そこへ鬨を上げて信生らが攻め掛かって来る。

執行の伏せ勢がこれに襲い掛かると、信生勢は討ち負け南へ引き退く。

これに後陣の龍造寺信種らが敗軍の味方を援けて戦うも、城原の軍兵が執行勢に合流、龍造寺勢は討ち負ける。

城原勢は阿祢村まで追い掛け、矢を少々射掛けてから鬨を上げて帰陣、龍造寺勢は退却した。

隆信は大いに腹を立て、ならばと自ら3,000を率いて城原へ攻め掛かる。先方は再び信生が務めた。

江上家では評定が持たれ、枝吉は「先の戦いで鍋島が打ち負け、今度は隆信自ら出陣とあらば、難儀な戦となりましょう」と述べる。

が、執行は「いや、左に非ず。今度の先手も、先の戦いで城原武者の手並みに苦戦した鍋島である。再びこれを切り崩し、隆信の旗本へ打ち掛かりて奮戦致さば勝ちを得られよう」と反論、士卒2,000人を率いて南の横大路にて待ち構えた。信生は弓鉄砲を射掛け戦う。

勝敗が着かないうち、信生は軍兵を分けて西の方へ廻すと、藪陰から執行勢へ鉄砲数十挺にて釣る瓶打ちに打ち掛けた。

執行勢は大いに動揺して打ち負け、城内へ逃れ行く。

信生は勝ちに乗じて追い掛け、町小路に火を掛けた。

執行は一転、「先の戦いにて佐嘉勢を追い崩し、もはや思い残す事は御座いません。ここは龍造寺へ和睦を求めましょう。某、只今より鍋島の陣所へ参りて、その旨申して参ります」。と述べた。武種も止む無しと同意する。

隔して執行は信生の陣所へ赴き、和平を申し込む。

隆信は執行へ「以前、武種より、城原に事あらば狼煙揚げるゆえ援兵を頼むと依頼された事がある。されど、わしは大友より城原が攻められし際、狼煙が挙がったにも拘らず援兵を出さなかった。武種の心底が判らなかったからだ。果たして武種は大友へ与した。斯様、常に変心せし者と和平など許す事かなわぬ」と突き離す。

信生がしきりに「重ねて武種が変心する様な事あらば、私が許しませぬ。何よりその約定として、殿が御次男を養子と願って居るのでこれを御容赦されますよう」と、穏便にと隆信へ伝えると、和融に決し合戦は止まった。

同年の夏、隆信は江上勢を率いて少弐・大友に就いた者共を退治すべく東肥前へ進軍、執行種兼が城原から出て先陣を務めたが、
このとき三根郡の土肥家実・坊所尾張守らが大慌てでこれを出迎えて、龍造寺家へ従属した。

だがその頃、神代長良が山内から千布へ出て、隆信の留守を狙わんとしているとの注進が佐嘉よりあり、隆信はすぐに帰城した。


その頃、有馬・平井の抑えとして杵島郡にあった納富信景は神代来襲を聞くと、龍造寺信周へ杵島口を任せ、佐嘉へ帰って先陣を請い、千布にて神代勢と戦う。

そのうち両勢の間に和談がなり、神代家は龍造寺家に従属した。




江上氏が降伏しちゃったぁ・゜・(PД`q。)・゜・←大蔵系オタ
隆信は裏切りを許さない・・・なんとなく織田信長に似てる?

【難攻不落・柳川城】江上表・八院合戦編2栞85

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参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^

1600年10月2日~名将・立花宗茂が13000の兵とともに柳川城へ入る

ヽ(。_゜)ノ へっ?
ウィキペディアの記述でシオは、初手から躓いた☆

10月1日に処刑された石田三成が、7月の挙兵時に宗茂に依頼した兵力は、100石につき一人。

柳川だと13万石だからして、単純計算だと1300人だった。

それを宗茂は「秀頼君に馳走し奉らん」と、ほぼ倍の2500人で出陣したのだ。

行きは2500で、帰りが13000って、どういうこと???(@@)

違う西軍の落ち武者が混じったにしても多すぎる。

感動的な島津と立花の偶然の出会い・・・島津が数十名にまで減ってるのは書かれているが、
立花側が何人率いていたか書いてる資料が見付からない~~(_´Д`)アイーン


立花家紋

徳川幕府の一国一城令が発布されるまで、各領地には本城の他に軍事拠点である支城が沢山あった。

立花家の場合も、本城が柳川城で支城が幾つかあり、支城の守備兵殆んどが柳川城に入ったのが13000の正体という訳だった。

各支城の城主のうち、何人かは宗茂が西軍として参加するために従軍しているが、
それ以外の城主も本城・柳川城に入っているので、宗茂が帰還した10月2日に、いきなり全部が入ったわけではないと思う。

支城・・・つまり持ち場を離れるには、主君である宗茂が正式に軍令を出しているはずだが、
残念ながらネット検索では個々に発令した軍令までは分らなかったです^^;



立花家の本城・柳川城~難攻不落の堅城と謳われ、軍事的攻撃で開城したことは一度も無い。

熊本城が出来るまでは、この柳川城が「九州一の名城」と言われていた。

これは宗茂が築城した城ではなく、蒲池(かまち)氏が築城したものだ。

蒲池氏は、鍋島の名目だけの主君・竜造寺氏が活発な頃に、柳川城から誘い出されて謀殺された。
(ちなみに 生き残った蒲池氏の現在の当主は 歌手・松田聖子の兄上です^^)

蒲池氏の後に、鍋島直茂が竜造寺氏の命令で柳川城に入り、雷神・立花道雪が何度か攻撃したが落とせず悔しがってます。

でもって豊臣政権が誕生し、大名となった立花宗茂が秀吉の命令で、鍋島に変わって(途中省略)柳川城主となったのです。


鍋島家紋

柳川城の堀には謎の浮島がある。

「ただの景観用だ」「いや軍事用だ」「倉庫代わりじゃね?」

と、何のために作られたのか、未だにハッキリしていない。

とにかく「凡将が籠城しても1年、名将が籠城したら3年は落ちない」とまで言われたほどの名城なので、
兵力を支城に分散するよりこの堅城に全員入り、臨機応変に対応することを選択したのだ。

鍋島軍が柳川の領内に侵攻してきたのを知った宗茂は、自ら出陣しようとしたが、
上席家老の薦野増時(こものますとき)が宗茂を止めた。

薦野
「関が原の戦いの結果で、もはや大勢は決まっております。これ以上は徳川殿を怒らせてはなりません。
ですが、国に攻め込まれ黙って見ているのは武士ではありません。
ここは我ら家臣にお任せください」

薦野の言葉に従い、宗茂は自分が直接指揮を取るのを諦め、次席家老を総大将にすることにした。

立花家次席家老は小野鎮幸(おの しげゆき)。

立花四天王の一人で、宗茂の両翼とまで言われた武将だ。

ちなみに小野はジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコの先祖なのだが、それは・またの話 by^-^sio

【1570年】その4

さて、鍋島・納富の帰城により、龍造寺家中は勝利に沸いたのであるが、
隆信のみは、自身に背いた小田鎮光の居城に住まう於安と、自身の三男・鶴仁王丸を思い、喜悦するには至らなかった。

信生はその気持ちを慮り、甲冑を脱ぎもせず兵糧を取り、太陽が西の山に掛かった頃に村中城を出陣、多久城攻めに出陣する。

これに信生の弟・小河信貫(後の武蔵守信俊)・龍造寺信重(後に上総介家晴)・鴨打胤忠・その嫡子である鴨打胤泰・牛尾別当琳信ら600余人が、宿所に帰らぬまま先陣を請うた琳信を先頭にして信生に従った。

また、納富信景も前田家定を先陣に、南の横辺田口から攻めるべく出陣する。


信生はまず別府に陣を寄せると、ここの地侍・相浦右衛門允を味方に誘う。

相浦は、鍋島より受けた情け今更に忘れるべからずと、伯父・甥など家人を伴って参陣した。

果たして相浦を案内役とし、21日の未明に多久城攻めに着陣する。

信生は鍋島淡路守に公文相模守を副えて使者とし、多久城番の鎮光老臣・江口右馬助・内田治部少輔へ二人を引き渡すよう申し述べさせるが、江口らは了承しなかった。

ならば、大城戸を打ち破って攻め入るべしと、鍋島勢は城戸口へと攻め掛かった。

だが、城中の者らの守りは固く、且つ江口は櫓に登り、寄せ手の先陣である相浦右衛門を睨み付け、
「近年、当家この地を領有してより、彼の相浦ヶ一族共が食いはぐれることはなかった。だが只今、あの右衛門允、佐嘉勢の案内として真先に進み出るなど腹立たしき限り。ならば彼奴等の質人たる妻女をば城戸口へ引き立て、その処するを眼前にて晒してくれん」と述べた。

しかし於安は妻女の命を憐れみ、江口を頻りに押し留めた為、実現はしなかった。


鍋島勢は多数の犠牲を払いながらも、遂に大城戸を打ち破り、すぐさま本城を攻め落としに掛かる。

鴨打陸奥守も父子・主従50余人で城の背後に廻り、亀甲という難所から攻め掛かる。

嫡子・左馬大輔が深手を負い半死半生となるも、鴨打勢は遂にここより攻め入り本城へ入らんとする。

一方、信生は水の手の堀口に就き、七曲の上から三番目の木陰を盾にして下知を飛ばしていた。

そこへ城兵が打って出て切り掛かる。

そのとき、共に堀に居た龍造寺長信の家臣・成富興六左衛門が馳せ来て、信生に襲い掛かった二人をすかさず足下に突き伏せた。

信生はこれを「天晴れ、早業かな」と賞賛、「軍神の血祭りによく仕りたり」と尚も賛美した。

成富は塀に就いて、塀越しに敵と突き合うが、城兵に槍を圧し折られた為、信生に御手持ちの得物を乞うた。

信生はこの働きを賞し手槍を与える。成富は大いに悦び、脇差を以って塀を破り城内へ乗り込んだ。

鍋島勢は次々と城内に入って戦うと、鎮光が留守の城内は無勢であり、防戦虚しく次々と討ち取られていった。


信生は於安と鶴仁王丸を探させる。

すると、鶴仁王丸を江島左近の妻(水町丹後守の妹で、隆信が鶴仁王丸に附けた乳母)が抱きかかえて逃げていく。

それを鴨打家臣・菰原大膳が追い掛けて一刀の元に斬り伏せ、鶴仁王丸を取り返した。

於安も無事に保護すると、鍋島勢は二人を連れて帰陣した。

また、搦め手を攻めていた納富勢も帰還する。

この際、前田家定は、昨年に有馬勢に奪われていた佐留志の城を取り返すに至った。


さて、今山での敗戦と大友八郎討ち死にの報は、22日に田尻より宗麟に伝えられた。

大友本陣は狼狽するも、いまだ東の阿祢境原の豊後勢は退かなかった。

しかしながら、高峰口の臼杵式部少輔の勢は5000余騎であった筈が、今はその数を減らし2000に足らぬほどになっていると城中に聞こえ、ならばこれを討ち果たすべしと決した。

隔して8月23日、隆信自ら出陣し、納富信景を先手として高峯山で臼杵勢と戦った。

鍋島信生と龍造寺家晴は牛島より敵の背後に廻り鉄砲を打ち掛けると、臼杵勢は大慌てとなり東へ退き始めた。

山辺・高山以下宗徒の者達が数多討ち死に、臼杵式部も、一本松の南で納富家臣の辻左馬允に討ち取られ、敗残兵は東へ逃げ散った。

だが、それでも阿祢境原の豊後勢は退かず、9月に入り城中は再びこれを討ち払うと決し、再び隆信自ら出馬にて巨勢若宮に陣を布いた豊後勢に打ち掛かった。

これに豊後勢は支えようとせず、阿祢の味方と合流を図る。

隆信は此れを追うも日暮れとなった為、明朝に空が明けると共に攻め掛かるべしと述べるが、
これに倉町信吉が「差し出がましかれど、阿祢境原の在陣の敵が分限を量りまするに、今だ我らの十倍の多勢に御座いますれば、迂闊に攻めるべきでは御座いません。今夜は御帰城されるべきでしょう。但し、もし退却が敵に悟られれば大事となりますゆえ、此方より今夜鬨を上げながら退き上げましょう。敵は今山での夜討ちを思い出し、動揺し警戒致しましょう。その隙に御退きあるべきかと」と述べる。

隆信は同意し、夜半に鯨波を発しながら帰城するに至った。


阿祢境原の豊後勢はいまだ大軍であったが、戸次鑑連・臼杵鑑速は筑後の田尻鑑種を介し、9月下旬に和睦を申し出て来た。

隆信、宗麟共に承服し、佐嘉からは祝儀として岩部常久が派遣され、戸次・臼杵・吉弘の三老へ面褐、大友からは古庄左京允が差遣された。


10月1日、吉岡入道宗観は高良山の本陣へ赴き、戸次・臼杵両人は阿祢の陣所へ至る。

そこへ龍造寺鎮家・小河信実(後に武蔵守信貫)・秀島家周が二人と会見する。

同月3日、宗麟は高良山から開陣し府内へ帰り始めると、諸勢も帰陣に至った。

仲介した田尻鑑種は宗麟に良首尾を褒められ、鑑種が所望した幕の紋を許された上、太刀一腰を与えられた。

3月より退去していた龍造寺の妻子らは、和平を聞いて急ぎ帰城した。

同月、隆信は、大友に与した者達を誅伐すべしと下知し、まずは蒲田江の犬塚鎮家を攻めた。

鎮家は城を去って筑後に落ち延びる。

更に隆信は、東高木の高木胤秀(直茂前室の父)を攻めんとするが、高木兄弟は舅の臼杵氏に通じて養父郡の筑紫鎮恒を頼って落ち延びる。

しかし、隆信が筑紫へ向かう間に、鎮恒は高木兄弟を騙して朝日山にて討ち取ると、その首級を佐嘉へと送った。

次に隆信は、杵島郡の有馬方を征伐すべしと、弟の龍造寺信周を差遣する。

先陣を納富但馬とし、鴨打・徳島・前田・井元らを従えて小田大町へ陣を布いた。

これに有馬勢は悉く杵島郡から去り藤津へ入ると、殆どが横造の城へ立て籠った。

隆信は弟・龍造寺長信に人数を付けて多久城へ入れて、西の松浦・後藤の抑えとし、信周を杵島郡小田に留め置いて有馬・平井の抑えとし、従弟の龍造寺家晴を蓮池城へ移して、東の筑後への守りとした。

【はじめに】江上表・八院合戦編1栞84


先日のヒストリア・立花千代では、華麗に全スルーされた鎮西無双・立花宗茂の活躍

そのなかで白眉ともいえる「江上表・八院合戦」を章を新たにスタートします

立花VS鍋島~果たして生き残るのはどっちだ?

黒田如水・加藤清正も登場する豪華ラインナップお送り致します^^/


さて、天下分け目の大戦・美濃「関が原の戦い」は、1600年9月15日に東軍・徳川家康の勝利で終わりました。

ですが西軍が挙兵したのは7月17日ですので、約2ヶ月の間、全国各地で前哨戦が起きています。

北陸戦線~前田軍(東軍)VS丹羽軍(西軍)

伊勢戦線~あちこちで西軍と東軍が激突

伊予戦線~というほどかな?地味に水軍が動いてます

田辺城(東軍)攻防戦~西軍が攻撃して、あしかけ二ヶ月に渡る籠城戦

でもって管理人が記事にしたのが、立花軍が参加した大津城攻防戦と九州各地での戦闘です。

九州でも記事にしたのは豊後(石垣原の戦い)と筑前(如水混成軍)と肥後(宇土城攻略)です。 
あと残る一つ、日向(宮崎県)での戦闘は、別章でアップの予定です。


で、9月15日の本戦以降は、東軍による西軍の残党狩り、掃討戦になるのです。

これも日本各地であって、落ち着くまで大体二ヶ月ほど要しています。

西軍の総大将・毛利輝元は早々と白旗を掲げ、9月24日には武装解除して大坂城を明け渡してます(早っ!)

ですが西軍の立花宗茂は臨戦態勢のまま、柳川(福岡県)に帰還し、正式に降伏開城していなかったために九州における東軍との戦いが起きます。

それが「江上表・八院(両軍が激突した地名)合戦」です。

戦ったのは西軍の立花宗茂と、東軍の鍋島直茂と勝茂親子で、それに更に東軍の黒田如水軍と加藤清正が絡みます。

各軍、様々な思惑が去来するため「初代藩主編」のカテゴリに治まりきれず、別章とあいなりました^-^


鍋島家紋

鍋島家と名目だけの主君・竜造寺家との関係は、佐賀藩初代藩主編で記事にしましたが、それ以外でも鍋島家自体の家督相続が迷走してました。

というのは、当主の直茂に子供が出来なかったからです。

そのために一度離婚し再婚してるのですが、ラブラブの二度目の妻とも子供が出来ない。

さすがに諦めかけて親族から養子を迎えたのが、茂里(しげさと~茂の字は直茂から)です。

この茂里、鍋島直茂が一時跡取りにしただけあって、すんごい優秀。

どれくらい優秀かというと、鍋島軍全ての作戦・陣立てをし、さらに先鋒軍も担当していた程です。

やっと嫡男の勝茂が生まれ、養子から家臣に戻る茂里ですが、多年の功績によって「鍋島姓」を与えられます。

つ~ことで、この江上表・八院合戦でも、鍋島茂里が鍋島軍の作戦と陣立て全てを決めています^^

偉大な父・直茂と、自分より遥かに優秀な元養子~上からのプレッシャーで、いつも必死だった嫡男の勝茂。

関が原の戦い以後、これに更に優秀な弟による、下からのプレッシャーが加わる^^;;

佐賀藩初代藩主編で詳細は記事にしたけど、要するに鍋島は「本音は東軍」で、そのために家康にも事前に接触してたの。

でも色々あって、なりゆきで勝茂クンは西軍で頑張ってしまった _| ̄|○ がく

「関が原の戦い」のあと、すぐに徳川家康に必死で謝罪し、許してもらうかわりに「忠義の証として」西軍掃討戦で手柄を立てることを要求されたのです。

勝茂は、亡き「豊臣秀吉の養女」を妻に迎えていたが、関ヶ原の数年後に離婚し「徳川家康の養女と再婚」している。

だが「関が原の戦い」以降に、伊達家や細川家が豊臣に縁が深い嫡男を相続から外し、次男や三男を相続者に変えていることから、

我が鍋島家でも関が原で西軍の勝茂様より、江戸へ人質として出して、徳川に縁が深い次男・忠茂(忠の字は2代将軍秀忠から)様に跡目を譲った方が良いのではないか?ヒソ(*´・д・)(・д・`*)ヒソ


という声が、鍋島家中で何度か上がる。

1613年~勝茂に江戸幕府から正式に「領地宛行状(りょうちあてがいじょう)」が公布されて、やっと跡目問題にケリが付くのです。

鍋島家と竜造寺家にとって、不本意ながら西軍として頑張った過去は、蒸し返して話題にするなど、以ての外の黒歴史で、出来るものなら葬り去りたかった過去なのだ。

鍋島家の存続+嫡男・勝茂の無事な家督相続のために、
ぜっ~~~~~~~~~たっ~~~~~~~~~~~いに!立花宗茂に勝たなければならなかった鍋島軍。

さて次回は迎え撃つ立花軍だ!それは・またの話 by^-^sio

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【1570年】その3~大友軍まさかの敗北

隔して夜半、信生は「もし仕損じれば、再び帰城せず」と決心を述べ、17名を率いて出陣、城門を出る際に畳を二太刀切って出た。

道祖元(さやのもと)へ至ったときに百武賢兼の10人ほどが追い付く。

そして新庄村の勝楽寺で味方が集まるのを待った。

信生は堤治部左衛門に命じ、寺の竹を刈り取って旗竿を作らせる。

そこへ伊東家秀が信生の陣へ兵糧を届けた。

信生らはこれを食して新庄を発つと、納富信安・成松信勝・秀島信純・諸岡信良・成富信種・安住家能・西村家秀・倉町信吉・倉町信光・円城寺信胤、その他に江頭村の者ら200余人が鉄砲100余挺を携えて駆け付け、軍勢は700ほどにまで膨れ上がった。

そして藤折村へ着陣すると、西の山に沿いながら旗を差した100人ばかりが進み来る。

信生はこれを怪しみ、永松相五郎(19歳)を斥候に出すと、その軍勢は鴨打忠胤の率いたものであった。

鴨打は信生へ加勢すべく参上したのであった。

信生はこれを加え、大友本陣へ静かに進軍する。

更に牛尾別当の琳信が、宗徒を率いて鍋島勢へ加わった。


軍勢は徒歩で今山の中腹にまで登るが、途中で深い谷に出くわす。

上下ともに如何すべきか案じていると、信生は「斯様なときは難所といえども遅々とせぬものだ」と、槍を突き立てて自ら一番に飛び込めば、これに皆が続き高みへと駆け上がった。

さて信生が成松大膳・柄永左馬允ら7人を斥候に立てて敵本陣を調べさせると、
金屏風を立て並べ、燭台の火を掲げて明々とし、年の頃30余の大兵肥満の色白い者が正面の床几に座していた。

そして豊後勢は、明日の城攻めを前に皆が酒宴に及んでおり、夜襲あるなど思ってもいない様子であり、軍勢を急がせるべしと述べた。

斥候は成松刑部とも秀島源兵衛の家臣ともされる。


軍勢を伏せさせた信生は、八郎の陣幕の紋を見て、「あの紋を見よ。美しい紋ではないか。この陣を切り崩した折は、吉例としてあれを我が紋に致そう」と百武・諸岡に囁く。

頃合いとなり、鍋島勢は鬨を上げて攻め掛かる。

また中山掃部助に「我は神代長良なり。裏切り致すぞ」と呼ばわらせ本陣へと切り掛からせると、八郎の陣は動揺しきりとなった。

同士討ちを始める者まで現れる。

但し、八郎の馬廻り300は落ち着き払い、鍋島勢を防ぐ。八郎も自ら長刀を振るって戦う。

そこへ鴨打勢300が、西の山から鬨を作りつつ敵本陣へ打ち掛かった。

更に、今市へ陣を布いていた持永盛秀などの小城一揆らおよそ1000余人が、火縄を多く切って火を付け、竹に挟んで今市の東西に立て並べ、爆発音と鬨を発しながら攻め掛かった為、遂に大友勢は敗色となった。

信生は「端武者などに目を掛けるな」と下知し八郎を探させる。

八郎は主従10人程と山伝いに山越えせんと逃れ行く処を、その先の茨に伏せていた成松刑部と主従7名が八郎を取り囲み、遂には八郎を討ち取った。

その家臣も成松勢に討ち取られる。


やがて朝となるが、大友勢は散り散りに逃げ去り、大願寺野に陣を布いた敵勢も、八郎討ち死にの報に色めき立つ。

納富信景の率いた500余騎は、宵の内に川を越えていたのであるが、於保の黒土原の大友勢へ切り掛かった。

納富勢は二度打ち負けるも三度目で敵を切り崩し、敵を追いつつ大願寺野へ追い立てる。

そこへ敵本陣を追い散らした鍋島勢も大願寺野の西より攻め掛かり、更に広橋信了・副島光家・倉町信俊・鹿江信明・石井忠清も納富勢に加わった為、豊後勢は敗走する。

龍造寺勢はこれを追い掛け、数多を討ち取って行く。

中でも納富信景の勢に加わっていた前田家定は、家臣50名と敵を追い詰め、自ら首級5つを取っている。



吉弘大蔵允・林式部大輔は討ち取られ、城親冬・隈部親永は隆信へ降参、柄長左馬允・菅鎮定は虜となる。

19日夜半から20日の朝までに、大友勢2000余人が討ち死に、国侍では神代長良の家臣にして軍奉行の古川佐渡入道真清らも討たれた。

八戸宗暘も主従4~5人と山内へ引き退く最中に、川原忠右衛門に追い付かれて切り掛かられ、川原の左手を切って追い払うも、自身も深手を負っており、同月24日に逃れた杠山にて身罷った。

上松浦の草野鎮永も大友に加勢して家臣を大願寺に出していたが、敗軍し上松浦に帰る処を山内の落人狩りに逢い討たれる(鎮永本人は存命)。

小田鎮光は水上に陣を布いていたが、敗戦を聞くと陣所より逐電し、何故か多久城へは帰らず、旧領の蓮池から筑後へと落ち延びた。

また、西の丹波口に陣を布いていた有馬勢も撤退する。

信生は勝ち鬨を三度上げ、討ち取った敵の首級を大願寺野に悉く埋めて首塚とした。

納富信景も首級を於保原に埋めた。


隆信は、信生の小勢のみでは心許ないとして、その実弟・小河信貫(後の武蔵守信俊)を先陣に西高木の辺りまで馬を出していたが、今山での勝利を聞き帰城していた。

また隆信の出馬のときの話、愛敬島村の北の道を進んでいた際に、馬廻りの者の甲に竿が当たってガタガタと鳴っていた。

この者、極めて臆病者であった。これに隆信は立腹し「甲をよく仕れ!」と述べた。

が、馬廻りの者は「何故左様に腹を立てられます? 此度の戦は武運が決して居ります。

甲が「かつたり(勝ったり)、かつたり」と申して居るのが証拠」と返した。

隆信は一笑し、「左様な吉事を申すなら、本当に勝利した際には、この近辺の知行を取らす」とした。

果たして本当に勝利した為、この馬廻りには約束通り、この村の辺りに少地が与えられ、その田は「かつたり免」と呼ばれる様になった。

更にこのとき、斥候を追々発していたのであるが、ある斥候が走り来て大息を吐きながら、「豊後の者は皆キリシタンと聞いていたが、真言に魔法を使うようだ。大根に火を付け燈しておった!」と述べた。・・・この者、ロウソクを知らなかった。




蝋燭が、まだ珍しかったのね・・・川* ̄д ̄*川ポッ なんか可愛い~

【新たなる戦い】柳川藩初代藩主編12栞83

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大津攻めで勝利しながら「関が原の戦い」で西軍が負けたために、大坂城を出て帰国することになった立花軍。

途中に防衛の為、京の要衝である瀬田の唐橋を焼き落とそうとする兵に対し、
宗茂は「古来より京を守るために、この橋を落とした軍が勝利した事は無い。 
     民達の通行を妨げるだけ無益であろう。」と止めさせた。
 
後日、この話を聞いた家康を感心させたという。

1600年9月26日~安芸日向泊で立花軍と島津勢が偶然出会う!

そのとき宗茂の近習が囁いた「殿!島津義弘です。あちらは小勢、亡き実父・紹運様の仇をとる好機ですぞ」

宗茂は「バカを申すな!お前は相手が少数だからと討って、それを手柄にすると云うのか。それに島津は同じ西軍、お味方ではないか!」

そう近習を叱責すると、馬首を廻らし僅かな供回りのみ連れて島津勢に近付いた。

近付く宗茂の真意を測りかね、島津勢に緊張が走る。

宗茂「そう固くならず義弘殿にお伝えください。かつて我が実父と島津が戦い、父が討たれたことは遺恨には思っておりません。それより見たところ島津勢の御人数では、この先心もとないと存じる。よろしければ我が手勢で護衛申し上げたい」

宗茂の思いがけない好意に、島津の当主の義弘が進み出た「立花殿・・・かたじけない・・」

頭を下げようとする義弘に対し「ともに互いの本国目指して力を合わせましょう^-^ニコッ」

と、爽やかな笑顔で答えた宗茂だった。


立花宗茂イメージ画像

あぁぁ~めちゃくちゃカッコいいです!笑ったらマンガか歯磨き粉CMみたいに、白い歯がキラーンと光りそうだ!

同行することになった立花&島津と夫人たち。 

宗茂は、この安芸日向泊で、実弟・高橋統増と与力大名の筑紫広門(弟の舅でもある)を別船で帰国させたらしい。

らしい、というのは、そういう記述を幾つかのサイトで見たのだが、それらには元ソースが記載されてないためイマイチ確証が持てないんです ( ̄ω ̄A;アセアセ

だが ここで二人を返したのが本当なら、この時点で宗茂は東軍と戦う意思が無かったことになる。

翌日の9月27日~海峡を警備していた黒田水軍の砲撃を受ける!島津船籍三艘が撃沈!(焼き沈めた

水夫たちに力の限り漕がせて何とか振り切った^^;;まさに行きは良い良い帰りは恐いだ。

島津勢(夫人たち込み)&秋月夫人の帰国コースは、またいずれ改めて語ります。

10月2日~立花宗茂は無事、本国の柳川城(福岡県)に帰還する

主君の帰国に喜ぶ立花家中だが、帰国した宗茂のもとへ訃報がもたらされた



話は少し戻って、立花宗茂がムコ養子として実家の高橋家から立花家へ行く時のことだ。

つねに冷静沈着・動揺という言葉に縁が無い宗茂だったが、
嫡男でありながら相続を外され、他家に嫁・・もといムコ養子というのは流石に凹んだらしいショボーン..._φ(・ω・` )

宗茂出発の門出を祝うの宴の席で、実父・紹運は一人の家臣を呼び寄せた。

紹運「そなたに我が短刀を与える。養父となられる道雪様は、大変に厳しい方だ。宗茂が跡継ぎとして恥ずかしくないよう、そなたが薫育せよ。宗茂に不始末があらば、そなたがこの短刀で腹を切って道雪殿にお詫びするとともに、死をもって宗茂に諫言するのだ。
今日より我が名前、紹運の紹の文字を与える。これよりは紹兵衛(じょうべい)と名乗るが良い」

家臣の名前は世戸口紹兵衛(それまでは十兵衛だった)

彼は高橋家から立花家へ行き、宗茂付きの家臣として仕えた(500石)

世戸口は実家を離れて寂しい宗茂の胸中を察し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紹運の申付け通り)厳しく接した ( ̄ω ̄A;アセアセ
(実家も養子先もスパルタ教育)

さらに紹運が選んだだけあって、世戸口は水練と弓の名手。

先の大津城の戦いで、世戸口は宗茂直筆の降伏勧告の矢文を放った。

その矢は数町離れた大津城壁にある京極の旗に描かれた馬印に、見事クリーンヒット!

これには西軍・東軍の双方が「源平の那須与一の扇の的も、かくの如し。さすがは立花家臣だ」

と、しばし歓声と喝采が鳴り止まず、立花の武名を一段と上げる手柄を立てた。

ちなみに矢文は14日の出来事で、京極高次が本当に降伏を決意したのは、宗茂直筆の降伏勧告を見たためらしい。


その世戸口も西軍の敗北で柳川に帰還となり、
上記に書いた安芸日向泊で弓隊30数名を乗せ、宗茂と別船で旅立った。

ところが長門・壇ノ浦で暴風に遭い、世戸口の船が難破してしまう。

無事に岸まで泳ぎついたのは、水練の名人である世戸口と彼の従者だけだった。

世戸口「あぁ!主君から預かった弓隊の兵士を無駄死にさせてしまった!これでは申し訳が立たぬ!お詫びにワシは切腹する!従者のお前は生きて柳川の殿に事の次第を知らせてくれ!」

と本当に切腹して死んでしまった(_´Д`)アイーン

亡き紹運から預かった短刀を使ったんだろうなぁ・・・責任感も忠義も熱過ぎるが故の自害です。

宗茂「世戸口~~生きておれば挽回できるでは無いか!ワシを置いて先に死ぬとは!・゜・(PД`q。)・゜・~

年少のころから自分を支えてくれた家臣の死は、宗茂を悲しませた。

だが何時までも歎いている時間は無い。

西軍である宗茂を討つために、東軍の鍋島軍、加藤清正軍、黒田如水軍が、立花領へ侵攻してくる!

国境から次々と入る各軍の動きは、決戦が近付いているのを否応なしに知らせていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回より新章「江上表・八院合戦編」

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【1570年】その2~がばいカァチャン慶尼

5月中旬、大友勢として下筑後の田尻親種が東の高峯まで攻め込んでくる。

城兵はこれを追い払うべく打って出て戦うと、親種が深手を負ったために退却。

親種は居城へ戻ったが、6月23日に死去する。

6月13日、北の長瀬村にて城兵と神代長良の手の者が戦うも、城兵が討ち負け、多数が討ち死にする。

7月6日、大友・田尻らの兵船数十艘が、南の船手「端津村」へ動き出し
(二次史料ではこれは間違いで、正しくは東の「浮盃津」だとする)、
興賀・川副の城兵が戦うと、筑後勢に討ち死にが多く出て兵船は退いて行った。

7月18日、肥後の城親冬・隈部親永も宗麟の命に従い、肥前へ入ると河上口へ陣を布いた。

7月27日と28日、8月6日と、下筑後の大友勢が浮盃口(浮盃津)へ押し寄せるも、城兵が追い払い、田尻勢に負傷者が多発する。


8月7日、村中城にて評定が行われ、東の口へ打って出て、戸次勢に決死の戦いを挑む事に決する。

先陣は鍋島信生、二陣は小河信友、殿は旗本勢で戸次勢へ打ち掛かる。

最初の交戦では打ち負けるも、二度目は戸次勢を押し、巨勢野へ退かせた。

隆信は、勝ちに乗じて巨勢野の戸次を蹴散らし、高良山の宗麟の本陣へ押し寄せて打ち崩すよう申し述べるが、信生を始めとした皆が無謀と同意せず、
城へ引き退かんとする処へ、神代勢に加わっていた八戸宗暘の勢が兵站を遮る様に攻め掛かって来た。

城兵は疲労の為に打ち負けそうになるも、旗本の納富信安・百武賢兼・安住家能の奮戦により、敵を高峯江の南方へ退けて、無事に城へと帰還を果たした。

この敗戦を耳にした宗麟は、軍兵を差し替えるよう命じて、実弟・大友八郎親秀を大将に、
玖珠越前守・森蔵人大夫・恵良左京允・恵良兵庫助・恵良右京大夫・恵良中務少輔・平井宮内大輔・平井隼人介・豊饒弾正少弼・山下右近大夫・小田左馬助・田籠大蔵允・森式部大輔・その子である森中務大輔・吉弘大蔵允を肥前に差し向ける。

軍勢が横大路を西へ打ち通り、金立山へ登って休息した処へ神代長良よりの案内者である白水讃岐守・篠木薩摩守が現れ、
二人を先に立たせて8月16日、都渡岐の渡りを越えて、軍勢は大願寺野に陣を取った。


翌17日、大友八郎は主従300余騎にて、今山の北の嶺に陣を移した。

八郎が率いた軍勢は30000余騎とも言われ、春日・河上・真手・今山・大願寺の山野に陣を布き、先手は於保村の黒土原に押し出し、軍勢は周辺に満ち満ちた。

隔して城攻めは20日と決する。

17日、又も田尻勢が兵船を以って攻めてくるが、又も多数の手負いを出して引き退く。

18日(19日とも)、納富信景が家臣を率いて、於保村は黒土原に陣を布いていた豊饒弾正少弼・吉弘大蔵允・林式部大輔・城親冬・隈部親永らと戦った。

納富勢はしばし戦うも打ち負けて引き退く。

代わりに新庄の伊東家秀が戦うと、納富勢は気力を戻して共に戦う。

これに大友勢は打ち負け四散、納富・伊東勢は城へと退いた。


19日の早朝、鍋島信生は敵陣を見るべく手勢数人を伴い、城の北側の中野村へ乗り出して北方を見れば、
東は神埼・茶臼隈・火隈山から、西は河上・真手・小城の今山まで、その行程である5~6里の間は敵方の旗幟の翻らない場所は見えなかった。


※(『肥陽軍記』にはこの様を、「その山風に翻る様は、肥後・立田山の秋の夕べや、奈良・吉野山の春の花の朝もこの様であろうかと思われ目もくらむ程で、焚き続けた篝火は沢辺の蛍よりも繁く、朝餉・夕餉の煙は立ち上り、月も光を失ったようである」と記しています)


信生は馬廻りの者へ
「敵勢は日々集まり、なんと夥しい大軍であろうか。当家の浮沈は正にこのときであろう。
だが、戦いの帰趨は兵の多寡に非ず。時の運と不運の二つあるものだ。故に御主らも気を揉む必要はない」。と述べる。

さて信生が帰城すると、城内では明日の大友勢10万余騎が決戦に及ぶと聞こえ、
龍造寺鑑兼は豊後に親しい者が居り、これに一子を質に出し一旦降参致すべしか、或いは城を枕に討ち死に致すか・・・など様々詮議する。


そんな中、信生が
「某、今朝方に敵陣を量りまするに、北の山や谷に至るまで余す所無く敵勢で埋め尽くされております。
然るに明日は四方の寄せ手が一斉に当城へ攻め掛かるとの由、この小勢では万に一つも勝てますまい。
ならば某、今宵今山の大友八郎が陣へ夜討ち致し、十死に一生の戦を挑みたく存じますれば、何卒御命令下さいませ」と頻りに求める。だが、隆信を始め一同はこれに同意しなかった。

そこへ隆信の母・慶尼が評定の場へ現れ、歯をむき出して云った(原文:牙を噛みて申されけるは・

[只今左近大夫が申した事、ここに至っては尤もでしょう。・・・城中の者らは皆、敵の猛威に呑まれ猫に逢うたる鼠の如しではありませんか。ここは敵陣へ打ち掛かり勝負を決するべきです]


と述べた。これに隆信も夜討ちを承諾した。




・・・・・・・・・歯をむき出して・・・いや直訳だと「牙を噛んで述べる」か? ・・・・

慶尼が某芸人の「がばいかぁちゃん」で脳内再生されました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

北肥戦誌【1570年】その1~今山合戦・大友軍8万VS竜造寺

この年、反抗から7ヶ年近くに及んだ高橋鑑種を降すべく、大友の三老率いる軍勢が岩屋城へ攻め掛かる。

鑑種は降伏、下城に及んだ。それと聞いた宗麟も、先非を許した。

但し、高橋の家督は吉弘鑑理の弟・吉弘鑑盛(後の高橋紹運)が継ぎ、鑑種は豊前の岩借(岩石)城へ隠居した。

鑑種の降伏に続き、古処山の秋月種実・高祖の原田越前入道了栄・五箇山の筑紫右馬入道も大友へ降った。

唯一、妙見の星野親忠のみが、いまだ籠城の構えを見せていた。


さて、龍造寺家は昨年に大友家と一旦の和睦をしていたが、人質であった秀島孫五郎賢周はこの年の春に、府内より忍び出て佐嘉へ帰還していた。

これにより大友は再び、龍造寺家を攻めんと大軍を出兵させる。

大友勢は3月10日に日田へ着陣、
それから筑後へ討ち入り、昨年の如く、高良山を本陣として三老に豊後・豊前・筑後・筑前による多勢を率いさせ佐嘉へと派した。

軍勢は3月27日に肥前へ入ると、
戸次鑑連は龍造寺領の東側の阿祢境原へ、
臼杵鑑速・吉弘鑑理は北側の春日原・河上表へ、
下筑後勢は兵船を用意し、南の榎木津に陣を布く。


高来の有馬義純も大友へ合力し、高来・藤津・杵島などの士卒を率いて、西の砥川・丹波・牛尾まで出陣した。

山内の神代長良も川窪へ出陣、昨年と同様に神代兵庫頭を頭に河上に陣を布かせた。

この他に、高木胤秀(直茂正室の父)・江上武種・犬塚鎮家・横岳鎮貞・馬場鑑周・筑紫鎮恒・綾部賢幸・藤崎盛義・本告頼景・姉川惟安を始め、東肥前の皆が大友方となり、千布・金立・春日表へ出陣した。

また、小田鎮光も多久城を出て水上山へ陣を布いた。これにて大友方は80,000余騎にも及んだ。


大友勢は、昨年焼き残した神社・仏閣・森林に至るまでを悉く焼き払い、古跡の伽藍・仏像・経典など残らず灰塵に帰した。

対する龍造寺勢は5,000である。

隆信は、東の大手を鍋島信房・鍋島信生・小河信友らを、南の船手を蓮池城の龍造寺長信へ下知して龍造寺信種を、西の砥川・丹波・牛尾を龍造寺信周・納富信景・広橋一祐軒信了をそれぞれ割り当てて守らせた。

大友勢は不用意に攻め掛かろうとはせず余裕を見せ、城を取り囲んだまま4月下旬に至る。


4月23日、村中城で評定が開かれ、不意に打って出て敵の分際を量るべしと決した。

所謂、威力偵察である。

先陣を鍋島信生・小河信友、二陣を納富信景、殿を隆信の旗本らが務め、東の戸次鑑連の陣へ切り掛かった。

鑑連は取り乱す事無く、2000名ばかりを中田町へ繰り出す。

双方、鬨の声を発して矢を射掛け合う。

戦いの半ば、鑑連は兵を分けて、自身は千住村の堂の前へと廻ると、隆信の旗本勢目掛けて打ち掛かった。

旗本勢が押されると、信生は先陣を納富に預け、自身は手勢を率いて倉町信吉を誘いつつ、鬨を上げながら戸次勢へ切り掛かった。

これにより旗本衆は備えを立て直し、数刻戸次勢と戦った。

戸次勢は千変万化に戦うも、打ち負けて敗走、僅か500名程で空き屋敷に籠った。

隆信は勝ちに乗じて攻めさせんとするも、俄かに大雨となり、また日暮れとなった為、止む無く帰城するに至った。

鑑連は翌日、横大路の茶臼山へ陣を移した。




【島津義弘~敵中突破・・・の後なぅ】柳川藩初代藩主編11栞82

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島津家編で何度か述べたが、関ヶ原当時の島津宗家相続権は、義久(16代)の末娘・亀寿(かめひさ・30歳)に あった。
亀寿の席次は 義弘(17代)と同格で「御上(おかみ)様」と呼ばれ家中の尊崇を受けていた。

また、島津家には宗家当主の証として「御重物」と呼ばれる重宝が存在する。
戦国は勿論のこと、太平洋戦争~幕末の薩英戦争と歴代宗主が命がけで守ってきた重宝。 

天下分け目の「関が原の戦い」の時には、宗家正統相続者として亀寿が所持していた。
古文書に記された「御重物」とは、現在国宝指定を受けている「島津家文書」のことである。

1600年(慶長5年)7月14日~島津義弘(17代目)と仲良しの甥・豊久は、御上様(亀寿のこと)の脱出の方法を相談していた

話はチト前に遡る。

亀寿と義弘夫人は人質として大坂にいたのだが、
前年の夏ころから本国で起きた戦(庄内の乱)を案ずる心労で、二人共ダウンしていた。

亀寿は祈祷も効果ないし、義弘夫人は食事が喉を通らず~10月ごろは一時、重態に陥った。

今年になって反乱が収束し安心したのか、二人は5月ごろになると、やっと起き上がれるほど回復した。

まだ無茶はされられないから、どこぞの大名みたいな奇抜な方法が出来ない(-ω-;)ウーン

同年7月17日~石田三成が挙兵!大坂は西軍に制圧され戒厳令が布かれる!

あぁ!悩んでいたら戦が始まった!脱出できなくなった亀寿と義弘夫人!(_´Д`)アイーン

同年8月~本国は薩摩にいた義久(16代目)が、自分が西上し娘の亀寿と人質役を交換しようと相談していた

ところが既に関が原前哨戦が各地で勃発。

とても義久が大坂に行けるような状態じゃなく、上洛を諦めざるを得なかった。

同年9月15日~関が原で西軍が敗れる!

混乱し情報が錯綜するなかで、宇喜多秀家も死亡説が出ていたのだが、島津義弘も戦死の誤報が大坂に舞い込んだ!

激戦だったから無理もない。島津家は誤報を利用!葬儀のための帰国を豊臣家に願い出る。

豊臣家も「尤も」と義弘夫人の帰国を許可したが、VIPな人質・亀寿には許可が下りない。

島津家老平田(義久派)は「御上様を侍女に変装させて逃がそう」と、時代劇定番のベタな方法を思いつく。

そこに「わたしが御上様の身代わりになります!」名乗り出たのが侍女の於松だ

於松(おまつ)このとき22歳。大田家の息女で慶長年間より亀寿付きの侍女となる。

ちなみに於松の大田家は、秀吉に改易された島津分家筆頭・薩州家の分家、大田氏庶流の家柄だ。

彼女は後に身代わりの功績で、女ながら300石の知行地を拝領している。
(但し、於松は生涯独身だったので、彼女亡き後の遺領は弟が継いでいる)


島津家紋

9月19日~義弘夫人・侍女に変装した亀寿・秋月夫人・家久夫人が大坂を出発~

(秋月家と島津家は親しく、日頃から交流ありました)

9月22日~身代わりの大役を無事務めた於松が、大坂を自力脱出~亀寿たちに追いつき合流!

同日・摂津西宮に何とか辿りついた義弘以下、数十名の島津家臣が、夫人たちと合流~

さぁ、九州は薩摩へ帰るには船をゲッチュしなくちゃならない

9月26日~安芸(あき=広島)日向泊で、立花宗茂とバッタリ出会った!(゚ロ゚屮)屮

どっちも九州を目指しているから、どうしてもコースがかぶる( ̄ω ̄A;アセアセ

だが、ここで出会うのはドラマチックすぎる!

島津家と立花家と、さらに地味に一緒に同行してる秋月家の奥方(と家久夫人)

この4つの家は共に西軍だったが、歴史の大きな流れの中で幾度となく槍を合わせた因縁の家!

ややこしいことに秋月家は西軍から東軍に寝返っていたのだが、居合わせたメンバーで主戦場以外の最新情報を知る者はいない。

同じ西軍だったとはいえ、負けた今となっては互いの去就は予測不能!

島津義弘の脳内は過去の因縁が走馬灯状態~~~~ヽ(。_゜)ノ

もはやこれまでと島津家臣に緊張が走るのだが、それは・またの話 by^-^sio

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北肥戦誌【1569年】その3~大友VS毛利「多々良浜の戦い」

豊後三老は急ぎ秀島孫五郎を伴って肥前陣を引き払うと、秀島を本陣へ引き渡してから、
5月始め、三老はすぐさま56,000騎を率いて、敵の高橋の城下である宝満・岩屋の麓を駆け通り臼井崎に着陣、杉山に一両日野陣し、谷一つを隔てて毛利と対陣、数度の攻め合いがあったが優劣が付かなかった。


隔して5月6日、戸次鑑連が率いて筑後衆と共に長尾という敵陣へ取り掛かった。

しかし敵の陣構えは堅固で事はならなかった。

然れども、切岸にて合戦し鑑連自身が槍を取って敵に尽く打ち掛かり陣屋へ追い込み、そのまま異議なく引き取った。

このとき、筑後衆のうち田尻鑑種は軍功を果たすべく戦い、家人ら8人が傷を蒙る。

これにより宗麟より鑑種へ感状が送られる。


同月18日、豊後衆・筑後衆は共に、再び芸州陣に攻め掛かり切岸にて合戦に及ぶ。

このときも田尻勢のうち、金栗織部助・楠原勘解由左衛門・三嶺兵部左衛門・森出雲守・中島刑部左衛門・中間の弥太郎、合わせて6人傷を蒙り、東三郎太郎・原口善助が討ち死にした。


今回、筑後国立花表には、中国芸州衆の吉川元春・小早川隆景の両大将に宍戸隆家・吉見正頼を副将とし、
その他、桂新五左衛門・熊谷小次郎・浦兵部少輔・赤川能登守をはじめ、福原・川野・小笠原・高瀬・三澤・米原以下、山陽・山陰・南海など十余州の兵50,000余騎を以って渡海し、総大将・毛利輝元は長府まで出張して下知した。

まず立花山城を取り囲み、そのほか山野に陣取って豊後勢と対し数日戦ったが、未だ勝負がつかなかった。

隔して5月を過ぎ 閏5月初めの頃、宗像氏貞が芸州陣と往還していると聞こえると、
豊後衆の三老はその通用を断つべしと下知し、肥後衆そのほかを率い芸州陣の前を通って宗像表へ入り、人畜らを捕って本陣へ連れ帰る処へ、
同3日に芸州勢が立花山城を攻め落として、城番の田北民部少輔・田北刑部少輔・鶴原兵部少輔の3人を虜とし、船で姪浜へ差し送った。

芸州衆のやり方は情けがあると評判が立った。


然るに高橋三河守・秋月長門守の両勢を並べ水木に城を構えて、大友勢の豊後・肥後・筑後らの通路を塞いだ。

これによって立花に陣を布く豊後衆は、只でさえ往来が容易くない為に迷惑し、長陣に依り困窮していった。

これに閏5月下旬、豊後の三老は相談の上、宗麟からの下知を以って、南郡衆に筑後衆を加えて博多表の気古という野山に中陣を構え、通路を差し搦めて、立花に対陣したがそのまま既に10月に及んだ。

5月から10月に至って都合18度の合戦となったがも勝負は決しない。


然る処に宗麟は弟の大内輝弘に軍勢を付けて中国へ渡海させ、芸州衆の留守を討たせようとする。

その情報が中国から立花の芸州衆に急ぎ注進が届くと、立花山城へ浦兵部少輔・桂新五左衛門・赤川能登の3人を残し置き、10月15日の夜半に立花表を悉く忍び出た。

豊後衆は勝ちに乗り、許斐表まで追い縋ったが、然したる敵は討ち取れなかった。


然るに宗像氏貞は中国方として居城・鳶岳に立て籠もった。しかし、臼杵鑑速の工作で降参する。

隔して豊後衆は西郷という処に陣を移し、立花山城に残った3人を虜として筑後衆一人ずつを付けて帰した。

これは閏5月の、田北ら3人を虜とした際の返礼と言われた。

また、中国で戦った大内輝弘は討ち死した。

今回、中国より大勢が渡海した根源の一つは、龍造寺以下の味方を援ける為と聞こえたが、一番は高橋の勧めで九州を手に入れる事であった。

然るに豊後の諸軍は三笠郡へ陣を返し、宝満へ取り掛かり高橋を攻めて日を重ね、今年は宰府にて越年するが、宗麟はこの年の内に高良山を立って府内へ帰った。




【天然素材~TERUMOTO】柳川藩初代藩主編10栞81


大津城を落城させたものの、関が原本戦で西軍が敗れたのを知った立花宗茂は、ひとまず大坂城へと帰還した。

大津攻めの軍は士気が高く、主戦論が殆んどのメンバーだ。

宗茂も西軍・総大将の毛利輝元に、大坂城に籠城して戦闘の続行を~と、訴えた。

だがどれほど宗茂が熱弁を奮っても、輝元の態度は煮え切らない・・・それもそのはず。

1600年9月17日~毛利輝元は黒田長政と福島正則の連署で「徳川家康が領地安堵を約束した」旨を認めた書状を受け取っていたからです

常識で考えて、負けた西軍の総大将が無傷であるはずがない。

だが外交オンチの輝元は、書状を素直に信じた(バカボンボン)

そもそも件の書状は、輝元がヤケになって籠城させないための「表向きの約定」だったらしい。

実際は吉川広家が裏交渉済で「120万石のうち半分を所領として残す」ってことで、ほぼ話がまとまっていた。

が、それには「但し」書きがあった。 

「毛利輝元が飾り・傀儡の総大将で、何も企んでいないコト」という付帯条件付きだったんです。


毛利家紋

9月24日~毛利輝元は大坂城を東軍に明け渡す

いざ東軍が大坂城に入ったら、毛利輝元が総大将として積極的に活動していた証拠になる文書がワンサカ出てきた。

石田三成に頼まれてホイホイ__φ(.. )~と、ただサインしただけのものなら、まだしも。

自分が扇動した九州大友軍&伊予水軍に関する下書きまで、そのまん~ま残ってて城を接収した徳川を呆れさせた。

て~~る~~~も~~と~~ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.アホの子ですか?!城を出るってお出かけじゃないのよ!

城を明け渡すってことの意味が解ってる?解ってないから、そんなんなんだよね!??
バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!

吉川広家の裏交渉は、すべて帳消し&台無し。

広家は徳川家に対し、畳に額を擦り付けるようにして「毛利輝元の助命を懇願」しなければならなくなった。

結果、広家は自分が恩賞として貰うはずだった防長二カ国を毛利家に譲って、毛利家は存続を許される。

おっかしいなぁ~~父亡きあと両川の伯父たちに鉄拳のスパルタ教育受けているはずなのに~~

外交オンチというのは、教育では矯正できないらしい。。。( ̄ω ̄A;アセアセ

この前後に毛利輝元は、人質として預かっていた小西行長の息子を殺害している。

まだ12歳の少年で、しかも「安全なところへ移動しましょう」と嘘を言って連れ出し殺したのだ。

さすがの徳川家康も毛利輝元の現金さにドン引きし、送り届けられた子供の首を見るに忍びず首実検を拒否したそうだ。

御人好し・ボンボン・お坊ちゃまのイメージが固定キャラの毛利輝元だが、実は意外と家臣の粛清は多い。

ボンボンであるがゆえに、政治的な失敗をしても自分が腹を切ることはない。

身代わりとなって犠牲になるのは常に「家臣」と「他家の誰か」なのだ。


立花家紋

9月17日の時点で、冒頭の手紙の件に関し輝元はダンマリ(* ̄* ̄*)を決め込んだ。

主戦派の・・・特に立花宗茂にバレたら立花軍が騒ぐに違いないから危険だ~と吉川広家に固く固く口止めされたからだ。

宗茂は煮え切らない輝元に不審を抱きつつも、説得を諦めざるを得なかった。

このように性根の座らぬ男が大将で戦に勝てるはずもない!豊臣への忠義と思い奮戦したのに何ということだ!戦わないのであれば大坂城に用はない急ぎ退去すべし!

ぐずぐすできない。

一刻も早く大坂を離れなければ、押し寄せる東軍に全ての街道を制圧されて、九州の本国・柳川へ帰ることができなくなる!!

考えてみれば大津城の落城が1~2日遅ければ、宗茂は本国どころか、大坂城に戻る前に東軍に囲まれ退路を断たれていた可能性がある。

9月26日~関が原から命がけで脱出し、同じく九州の薩摩を目指していた島津軍と宗茂が偶然出会った!!


亡き養父・立花道雪の宿敵の島津。

亡き実父・紹運を岩屋城で玉砕、戦死させた島津。

愛弟の統増をワナで捕らえて10ヶ月も人質にした島津。

この偶然の出会いの結果・・・それは・またの話 by^-^sio


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北肥戦誌【1569年】その2~毛利軍4万、九州へ侵攻す!

この頃、筑前の秋月・高橋が、中国の毛利へ大友勢乱入を伝えており、毛利勢が九州へ上陸し3月下旬より大友と交戦状態に至っていたのである。

その上、近いうちに毛利勢が雲霞の如く龍造寺以下の加勢として押し寄せるとの聞こえ、大友は止む無く和を望んだのである。

4月4日、蒲池鑑盛も大友の督促に応じ、榎木津より肥前へ討ち入り蒲田江に陣を取る。

隔して4月6日、龍造寺を攻めるべしと評定を決し、戸次・吉弘を大将に、神代を案内者として、その道々を放火しつつ長瀬の蠣久へ打ち掛かる。

神代勢は既に城近くの神野・三溝・大財村まで討ち入って放火する。

これに城兵の副島式部少輔・百武志摩守・田中上総介・秀島源兵衛が出撃して大財村にて交戦、神代勢の多数を討ち取り追い払った。

しかし、豊後勢もこれに続いており、これと交戦する。

豊後勢は鉄砲を放った為、城兵は堪らず城内へ引き退く。

豊後勢はこれに付け入らんと城へ攻め掛かるが、龍造寺へ天が味方したものか吉弘鑑理が俄かに患いはじめ、進軍が思うに任せず、攻め口を引き退くと其々の口々を差し固めさせた。

このときに攻め手に手負いが多数出ている。


村中城へは龍造寺一族に鍋島父子、その他に小河・納富・福地・江副・安住・百武・西村・副島・馬渡・土肥・成松・内田・小林・鴨打・徳島・野田・高岸・石井らの一族以下、譜代の家来たちが集まり立て籠もる。

その数は僅か3000余騎であった。

また、佐留志城主の前田家定は新参ではあったが、龍造寺の滅亡近かしと聞きつつも、この期に及んで兼ねての約定を違え見離すべきに非ずと、居城を捨てて一家の男女150人を従えて村中城へ入っていた。


隆信は皆を集め、
「軍兵僅かに3000で大軍を防ぐなど、千に一つも勝利など叶うまい。
毛利よりの援兵を頼みとする他はない。
だが、もし援兵の来援が遅れるようならば十死一生に決して、城を打って出て一人も残らず討ち死にを遂げるべし。
さもなくば城に火を掛け、腹を切るべし。この二つの何れかしかあるまい」と述べる。

これに一座の面々は、
「確かに城中は無勢にて頼りなく見えまする。
されど、毛利の援兵待たずして十死一生に決し、切って出るのも如何に御座いましょうや。
されば、此度は大友に御降参あられるか、或いは先年の如く筑後の方へ御逃げあられるべきでは?」と発する。

これらに対し鍋島信生は、
「大友への降参で御座るが、先達て堤・安武より和談を持ち掛けられし折、これに応じて居らぬと申しまするに、今更こちらより阿容阿容(オメオメ)と降参致すなどとは中々申し難きものに御座います。
また、筑後へ逃れる方に御座るが、先年とは違い、彼の国人共は悉く敵方に与しておりますれば、その只中へ逃れるなど、飢えたる虎へ近付くが如し。
まず某がつくづく思案致しまするに、只今当城へ籠りしは、骨肉を分けたる親族、或いは譜代恩顧が家臣に御座いますれば、城中より叛意を抱く者があろうとは思われませぬ。
然らば、城中に野心の輩さえ生まれざれば、例え無勢なりとも俄かには落城など致しますまい。
そのうちに毛利よりの援兵が参りますれば、それを待たれるべきかと存じまする。
毛利よりの援兵なくば、そのときに評定あるべきでは御座いませぬや如何?」
と述べると、隆信始め一同は尤もとこれに同意した。


隔して、臼杵鎮富を大将に、豊後勢が田布施口へ取り掛かるとの注進があった。

ならばこれを追い払うべしと、鍋島信生、龍造寺信種、小河信友、鍋島信定、鍋島賢秀、成松信勝、安住信能、倉町信光、納富信安、秀島賢同、百武賢兼、円城寺信胤、於保賢守、他に石井・合満・野田・高岸ら300余騎が田布施口へ馳せ向かい、弓・鉄砲を撃ち掛ける。

これに豊後勢は打ち負けて、北へと退却する。

城兵はこれを追い掛け、植木村にて取って返した豊後勢と戦う。

この戦いの半ば、龍造寺勢から家士頭・百武志摩守が、陣頭に馬を乗り出し大音声で名乗りを上げ、敵方へ「尋常に槍を参ろう」と呼ばわる。

これに豊後勢から武者一騎が馳せ出て、志摩守へ突いて掛かる。

勝負は中々付かなかったが、志摩守の槍先が少し上がったと見えた瞬間、その者は馬より逆さに落ちた。

これに後ろに控えていた豊後の士卒は一斉に馳せ寄ると、落ちた者を馬へ乗せて引いて行った。

後にあれは誰であったのかを問うと、大将の臼杵鎮富であるという。

隔して豊後勢は長瀬村へ引き退く。

城兵は勝ちに乗りこれを討たんとするが、戸次鑑連の軍兵が三溝口へ攻め掛からんとしていると聞こえ、先ずは此方を追い払うべしと、鍋島信生を始め300余騎は城内へ引き退いた。

さて、豊後の三老のうち戸次鑑連・吉弘鑑理は長瀬の蠣久に陣を張り、臼杵鑑速は阿祢村に在陣し、近辺の村々を放火して、神社・仏閣を焼き払い、仏像の玉眼を抜き取り、更に寺院の経巻を奪い取るなどした。

これは豊後の士卒が耶蘇教徒ゆえである。

そんな中、4月17日に肥後国の城親冬が和平の仲介に現れ、双方の陣へ入った。

隆信がこれを受け入れると、戸次も吉弘も納得して蠣久から陣を払い、春日原河上表で将兵を休めた。

そこへ隆信は、納富信安を戸次鑑連の陣所へ派して有馬一足を送るが、信安の弟・秀島河内守の嫡子秀島孫五郎賢周(後の四郎左衛門家周)を人質として送ることに決する。

その答えの往還の為に、三老はしばらく肥前に在陣する。

ところがそこへ大鶴山城入道宗周の元から飛脚が現れ、立花表へ毛利勢が夥しく着陣したと急を告げた。

これを聞き、吉弘勢に属していた城親冬は帳幕を捨てて肥後へ帰った。

宗麟本陣にもその報が届き、肥前に在陣中の三老へ、龍造寺と和平を為して急ぎ立花表へ向かい毛利勢を追い払うべしと申し送った。




1569年4月15日・・・毛利軍4万が筑前・立花城を攻撃します

ちなみに戸次道雪が城を死守しました(=^・ω・^=)v ブイ

毛利VS大友のガチ激突が始まり、大友家は竜造寺どころじゃなくなるんです。

竜造寺VS大友「今山の戦い」の一年前の出来事でした。

大河【清盛】キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★【原田】

キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

大蔵嫡流!!!が出た~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

原田種直が大河にキタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★


やっぱ御贔屓が出ると嬉しいもんだなぁ~(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

下積み長い演歌歌手が、紅白に出たのを喜ぶ田舎の親戚気分,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!



戦国時代の原田了栄は、立花宗茂か鍋島直茂が大河にでもならない限り、出番皆無なだけに感慨深い (゜-Å) ホロリ

出番シーンが少ないのは、寧ろ(・∀・)イイ!

今の大河じゃ、端役は主役age要員だから、これで十分なの ウットリ(人´∀`).☆.。.:*・

なんか清盛にカマされてたけど、気にしなくてヨーーーーイ(阿部信西風)

あぁ~国人領主(先祖だけど)を大河で見れて超嬉しい~~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ



自分のハードルも、下がったもんだ il||li _| ̄|○ il||l

内容へのツッコミ?

訊かないで・・・il||li _| ̄|○ il||l 

自分の源平知識は教科書年表レベルだが、それでもゴニョゴニョ・・・正統派詳しい系の人は怒り心頭だろうなぁ( ̄ω ̄A;アセアセ

個人的には、後白河帝は面白く観てます(母の萌えポイント高いです)

塚地とは・・・まさかいくらなんでもアレなシーンはないよね( ̄ω ̄A;アセアセ←レキジョなんで、そういう知識はある

大宰大弐かぁ~大内義隆が一寸だけゲッチュした地位。

あの家が、南北朝はアッチで、戦国はアーなってコーなって、と辿るのは面白い。



鎮西地図・・・・すごいアバウトだった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

もう出る事ないだろうなぁ。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。








土曜日に録画しよう~【大蔵氏大河出演記念】___φ(.. ) メモメモ

【ホタルノヒカリ・後篇~大津落城】柳川藩初代藩主編9栞80

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大津城~この城は長期籠城に耐えられる城ではなく、そもそも本来が軍事用ではない。 
琵琶湖の側にある水城で、琵琶湖の水運を利用し運ばれる船荷・物資保管用の城です。

それが籠城戦を頑張れたのは、京極高次の奮戦もさることながら、
淀君&北政所からの和議(わぎ=調停)が入るということで、
攻撃側は重火器の使用を手控えていたらしい。

根っからの軍人である宗茂は、この生ぬるい状態に軽くイライラ(--怒)していた。

とはいえ高次たち京極勢は、奮闘しました。

9月11日~京極側が西軍に対し夜襲を行い戦果をあげる(=^・ω・^=)v ブイ

9月12日~だがジリジリと追い詰められ、この日には大津城周辺の堀が埋められた(_´Д`)アイーン

ここで西軍は軍議を開き、大津城までの障害が無くなったので「明日、総攻撃しよう」

「それじゃ体力をつけなきゃ~」ってことで休息を取ることになった。

嵐の前の静けさ・・・敵味方、双方に生じた弛緩した時間帯・・・ハプニングとは、こんな時に起きる。


大津城には京極側が雇ったフリーランス忍者たちがいた。

諜報専門の彼らは、戦が始まると仕事がなくてヒマしてたらしい。

休憩中の西軍の陣営に忍び込むと、軍旗を2本盗み出し大津城へ持ち帰った。

ニンニン'z「西軍の奴らダラしね~な♪軍旗が盗まれたのに未だ気づいてね~ぜ♪バァ~カ」

と「城壁の上で」軍旗を振り回し、ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ□ヽ(*´∀`)ノゎーィ♪ と、遊んでいたが場所が不味かった( ̄ω ̄A;アセアセ

ニンニン'zが遊んでいた城壁は、立花軍の陣地の真ん前だったからだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

( ̄ko ̄)<ちなみに盗まれたのは毛利秀包の軍旗でつ


立花宗茂イメージ画像

大津城の城壁で翻る味方の [軍旗]スッ≡( ̄ー『+』ゝ宗茂が発見!!

宗茂「おお!あれは毛利殿(秀包のこと)の軍旗ではないか!さては抜け駆けされたか!それっ立花軍も攻撃だ!遅れを取るな!((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~

9月13日早朝~大津城総攻撃は、このハプニングから始った

立花軍・先鋒は薦野増時(このもますとき~2話目「雷神の墓守」参照)の嫡男・成家だ!

彼らは阿修羅のごとき勢いで大津の城壁をよじ登り、大津城一番乗りを果たす。

3千が1万に匹敵するといわれた強兵・立花軍(by小早川隆景調べ)

それが火の玉のように攻めてくるのだから、腰がぬけるほどマジで恐い(;;)ノ

立花軍に遅れるな~~~と他の西軍も一気に総攻撃に掛かる。


どうも・・・その・・・宗茂、ほんとは軍旗がヒラヒラ~は、ハプニングだって気づいてたみたい。

でも、この生ぬるい状況に早くケリをつけたくて、わざと勘違いしたフリしたっぽい(*´pq`)クスッ

一方、西軍総攻撃に京極側は慌てた~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

まさか自分たちが雇ったニンニンが、おバカなイタズラしてるとは夢にも思わない~~突然の攻撃で初動の対応が遅れた。

西軍の本気モードの攻撃は凄まじく、二の丸・三の丸がアッという間に制圧される。

京極家臣たちは、主君・高次に和睦開城を申し出るのだが、高次は意地を見せて拒否(`・ω・´)キリッ

14日も抵抗を続け、高次自身も槍キズを二ヶ所負う。

この状況に、高次の正室・初姫が悲鳴を上げた。 

過去、落城で何度も身内を失っている彼女には耐えられなかったのだ。
(賢婦人と称えられる彼女は、途中まで甲斐甲斐しく城兵たちを鼓舞してたが、夫の負傷に動転したらしい)

再び淀&北政所の使者(前回とメンバー同じ)が入り、和睦を申し出る。

大津城は本丸を残すのみの裸城となり、落城は時間の問題だった。

妻だけでなく、家臣団も開城を願う状態では戦い続けるのは無理です。

9月14日夜~大津城は降伏

9月15日~京極高次は城を明け渡し、自身は高野山で謹慎することになった

だが時すでに遅く、関が原では本戦で西軍が敗れていた・・・

あ~~~~~~~~惜しい!あと二日粘ればなぁ~~~蛍大名の汚名は完全返上できたのに~~

関が原本戦前で高次は、要所・要所で家康に自分の行動をアピールしている。

妻の人脈を上手く利用し和睦をチラつかせ、本来軍事用ではない大津城の籠城を長引かせることにも成功。

加増は大津6万石⇒若狭8万石と微増だが、これは本戦に参加していないので止むを得ない。

ニックネーム(蛍大名)が有名すぎて、知名度も軍功に対する評価もイマイチ低い。

だが一度、没落した京極家を大名として復活させたのだから、基本スペックは高い人物なのだろう。

家康の信頼もあつく、直筆の手紙をもらっている。

まぁ妻の妹が2代将軍・秀忠の正室だから人間関係に恵まれてますしね(*´艸`)

ただ、もっと頑張っても近江一国は無理だったと思います。

何故なら近江は守護職だった京極の本貫地。家康は近江に京極を留めることはしないでしょう。

他の元守護職の武家も、本貫地からは引き離してますからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー



とにかく、この戦闘意欲抜群・元気な17000の猛者たちを、関が原本戦に投入できたなら間違いなく西軍勝利は確実だった。
(勝つだけならね~大津攻め兵力あれば勝てるだろうけど~~~でも戦後処理で西軍は揉めるだろうなぁ^^;)

鎮西無双・立花宗茂は戦の勝利者でありながら、主戦場が敗れたために敗軍の将となったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
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参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^

北肥戦誌【1569年】その1 ( ̄ω ̄A;アセアセ

1月11日、大友宗麟は、筑後・肥前の高橋・秋月・星野、更には龍造寺征伐の為に府内城を出馬する。
先陣は戸次鑑連・臼杵鑑速・吉弘鑑理であった(この三将は、昨年12月に出陣。宗麟が1月11日)

2月16日、宗麟は筑後国へ着陣する。

高良山の吉見岳を本陣と定め、士卒およそ6万余兵が集った。

うち田原親永は本隊より分かれて、3月中旬より生葉は妙見城の星野親忠討伐に向かう。

しかし妙見城は堅城で、親永は成果を出せぬまま、無為に日数を送らざるを得なかった。

一方、豊後勢が攻め来るとの風聞に、龍造寺家中では評定が行われる。

村中城にて引き受けたとて大友の大軍には敵うまいと、まずは一旦和を請うべしと、隆信は筑後の田尻鑑種へ仲裁を頼む書状を出した。

田尻は3月11日に書状を受け取ると、すぐさま戸次鑑連に見せる。

だが、鑑連はこれを信じなかった。鑑連は近いうちに龍造寺攻めに及ぶとの噂が立った。

しかしながら大友宗麟は、2月の着陣より既に4月に入ったというのに征伐を急がず、唯々酒宴乱舞に興じ日々を過ごしていた。

これに戸次鑑連、眉を顰めて申し上げるに、
「舞能猿楽と申すは、治安遊民の頃に当たりて平日温席の和楽に候なり。
然りに公は此度、逆徒御退治の為に、民草の費・国家存亡をも顧みたまわず七ヶ国の士卒を召され、遥々他国へ御出馬致されて既に100ヶ日に及び御在陣にあられます。
にも拘らず、武備を御忘れあられて、何ぞ揚々と遊興に日々を費やされて居られるや。
彼の龍造寺隆信と申すは元辺郢の狐に御座れども、その天性優れて武辺の勇士に候。
その者を退治すべく御出馬致されたと申すに、斯様虚しく御在陣あらば諸軍は困窮致し、却って龍造寺より当陣に謀られかねませぬ。
その上、もうすぐ梅雨時なれば、此れまた軍旅の煩いとなりまする。曲げて御遊興を思し召し止められ、急ぎ軍議にて御決定され、逆徒の内にもまず龍造寺を御成敗あられますよう」と諫言した。


宗麟はこれに応じ評定を決すると、筑後国の敵には先立って下筑後の田尻らを、その検使に真光寺の寿元法印ならびに浦上左京入道宗鉄を差し向け、生葉の星野には西原六郎を、肥前の龍造寺には戸次鑑連・臼杵鑑速・吉弘鑑理に士卒3万を預けて差し向けた。

これらは神埼勢福寺城へ取り掛かり、江上武種を味方に引き込もうとする。

龍造寺家では、評議を重ねるもやはり防ぎかねると、まずは妻子を安全な場所へ忍ばせ、その上で十死一生の決定をすべきとした。

これに小城郡蘆刈の鴨打胤忠と徳島長房が
「我らの知行所は片田舎と呼ばれ、また船の便も良う御座います故、龍家・鍋島家ら御一同の御妻子、皆々預かり申す」と述べた為、女子供、老人は悉く蘆刈に逃れた。
一説に、《長法師丸(後の政家)》ら隆信の男児達は、上松浦の《鶴田越前守》の獅子城に招かれたともいう。

さて、大友勢に内応を迫られた江上武種であるが、先年に隆信の三男を養子に入れる事で和を結んでいた為、大友に内応していなかった。

江上は龍造寺家に
「此度大友、多勢を以って佐嘉へ取りかけ申すとの由。
然るに我が居城は東の口一番に御座れば、初めに攻め掛かられるは必定、城原勢のみでは支えきれませぬ。敵勢来襲の折には、南の“日ノ熊山”へ狼煙を上げ申す故、その節に於いて早速に援兵賜りたく」と申し送っていた。

隔して大友勢が現れ、狼煙を打ち上げたのであるが、援けは一人も現れず、憤激した江上はならばと、大友に与すべく豊後の三老の元へ参じ、自らの臣・執行種兼の嫡男・執行武直(後に種直)、牧吉種次の次男・牧吉大蔵大輔(後に清兵衛)を宗麟の本陣・高良山へ人質に出した
(実は、昨年来より田尻親種を介して大友に通じていたとする史書もある)。


江上武種のこの行動に、弟の江上定種は、
「武人として生まれた上は、時に至りて命を惜しみ、また事に臨んで身を捨てざれば、忽ち先祖の名を貶め、子孫の面目を恥ずかしめます。
されば兄上は先年、起請文を以って龍家と和睦し、今また豊後に従うなど侍の道に反しますぞ。
急ぎ大友と手切れ致され、隆信公と死を一所になさるべし」
と興奮に顔を赤くしながら諫言する。だが、武種は応じなかった。

定種は腹に据え兼ね、
「我は不義の輩に与して、浮世に恥は晒せませぬ」と、腰の刀を引き抜き様、自らの左脇に突き立てた。

これに万座の者は驚き、慌てて定種に取り付き刀を奪った。

定種は自害に及べず、その傷は程なく癒えて回復していく。

後にこれを聞いた龍造寺・鍋島は定種を賞し、その子孫を家人に列している
(定種の長男・澄種が沖田畷の戦いで戦死した為、次男が継ぎ川瀬氏を称す)。

大友へ降ったのは江上のみではない。

他に神代長良・八戸宗暘・横岳鎮貞・筑紫鎮恒・犬塚鎮家が、また小田鎮光・犬塚尚重・馬場鑑周・本告頼景・姉川惟安・高木胤秀(直茂正室の父)が龍造寺家より離反し、悉く大友方に参陣していった。

3月22日、大友方は豊後衆を戸次鑑連・吉弘鑑理・臼杵鑑速の三手に分ける。

戸次鑑連は龍造寺の城より北へ廻り、行程二里を隔てて春日塚原へ陣を取る。

吉弘鑑理は、これも北側の水上山へ陣を取る。

臼杵鑑速は、村中城の東の大手より僅か一里を隔てて姉村へ押し詰めた。

またこの三将より神代長良は案内役に任じられ、長良は三瀬城より出て、川窪の竹下という場所へ陣を布くと、陣代兵庫頭を大将、古川佐渡入道を軍奉行として1000余騎を差し向けた。

大友軍は諸所へ放火し、村里民屋に満ち満ちた。

その頃、龍造寺の婿であるにも拘らず大友へ通じた神埼郡蒲田江の犬塚尚重は、同族で龍造寺と所縁なくも龍造寺方である崎村城主・犬塚鎮直を討ち取らんと思い立ち、3月27日に豊後参陣に就いて相談ありとして、田江崎村の道手という地まで来るよう求めた。

鎮直は参じるとの返答を返すが、鎮直家臣・上瀧石見守の姉が尚重の元に仕えているのであるが、尚重の謀略を聞きつけて、その夜半に城の堀を泳ぎ渡って崎村へ出向いて陰謀有りと知らせた。

鎮直は「やはりそうか」と、40余人を引き連れて道手へと出向く。

一方の尚重も家臣を選別して道手に出向いて面談に及んだ。

話合いの半ば、尚重の傍らに居たその家臣・中野宗明が突然抜刀し、鎮直へ一太刀斬り付ける。鎮直は斬られながらも中野には目もくれず、尚重を刺し貫いた。

尚重は「獅子王」と呼ばれる程の勇将であるが、刀を抜くも深手の為に何も出来ず事切れた。

また中野は栗野左馬允・野口蔵人に討たれる。

これにて双方の家臣の斬り合いが始まり、上瀧石見守も討たれた。

だが、崎村衆は主人の手を引いて崎村へと引き返す。

これに蒲田江衆が追い縋ると、鎮直は歩行もままならない状態ゆえに居館まで逃げきれまいと、家臣らが敵を防ぐ間に龍雲寺へ入って腹を切り自害した。

隔して崎村衆は兵を集めて、すぐさま蒲田江へ押し寄せ、尚重の城を破って城に火を付けて城兵と戦った。

城兵は防ぎきれず、尚重の妻子は蓮池へ逃れて龍造寺長信を頼った。
(尚重の妻は隆信には妹、長信には姉である為。この後は、横岳下野守頼続へ再嫁する)

尚重には二人の子があり、隆信の妹との間に生まれた次男・太郎は母共々佐嘉へ送られ、成長して龍造寺信尚、更に犬塚茂続と名乗った。

だが、長男・三郎は前室との子であり、野心の者の子なれば援け置くべきにあらずと、鍋島信生自ら切害に及んでいる。

隆信は鎮直の忠死を憐れみ、4月2日に鎮直の一子・百十丸へ父の知行の内、肥前国・黒津野300町を与え、更に8月25日に内曾我部ヶ里を加増した。

さて、筑後国柳川領の三瀦郡下田城主は堤貞元と言うのであるが、その妻は龍造寺家門の娘で、隆信とは義兄弟となる(隆信の正室が家門の娘)。

貞元は予てより大友に通じていたのであるが、上記三将より隆信への使者として派されて来た。

貞元は、
「此度宗麟公が高良山に御在陣あるは、一つは龍造寺征伐の為なり。
すぐさま軍門に降りて、高良山の御本陣へ罷り出られるべし。
某予てより大友の騎下なれど、貴方とは縁ありて義兄弟に御座る。
故に心底を余さず申しまするが、まず此度の弓箭、大友方の大軍と龍造寺の一勢を比べ例うるなれば、誠に九牛が一毛と申すべし。
然るに戦を挑まれたところで如何にして勝利される御心算に御座ろうや。
唯々三将より申し送らるる如く、早々に降参され高良山に御出頭あり、宗麟公へ詫びを申されますよう。
それは、一には国家の治平、二には龍造寺が相続、三には諸国の安泰が為なり」と頻りに述べ立てる。

これに隆信は、
「御辺の申す事、尤もである。
されど以前、我らより吉弘・戸次の両老へ和を請うべく色々申したるも、その折はその甲斐なく、既に当城を囲みたる事、腑に落ちぬ処である。
斯様された以上、豊後の多勢を速やかに当城へと引き受け、討ち死に致す儀より他になし」
と返答した。貞元は返す言葉も無く、城より去って行った。

また、同じ筑後は貝津城主・安武鎮教からも、亀山一竿入道が使者となり同じ事を述べたが、隆信は承諾しなかった。




正直に云うと、この時期の肥前側の動きはノーチェックでした・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
(筑前だけで手一杯なほど動きが激しい)

ついに一年だけで文字制限5000文字を超えちゃいました^^;

何せ、この後毛利VS大友の「多々良川の戦い」が控えてます( ̄ω ̄A;アセアセ

毛利が九州へ派兵したのは、大友が肥前に意識が傾いてたのもあったんですね。

北肥戦誌【1568年】

●永禄11年(1568年)


翌永禄11年、豊後の三老は上筑後へ引き退くと、山隈の城へ筑後の三池鎮実と田尻鑑種を在番させたのであるが、そこへ秋月勢が攻めて来るとの風聞が立った。
しかし、これが本当であるかわからかったのであるが、近辺の三原左馬大輔の一族に三原右馬助という者があり、これが秋月に与して俄かに在所を焼き払った。
これにより、三原親種が在所を立ち退いたために、三池・田尻も山隈では支え難く思い、城を開けて石崎村へと引き退いた。

三原の騒動を聞いた戸次鑑連は、「三池と田尻が山隈を開け退きしこと甚だ不覚の至りなり」と、彼の両人をなお敵口近くの馬渡村へと押し出し在番申しつけた。

両人は是非無く思いつつも為す術なく、数日のあいだ馬渡村で差し固めていたところ、立花城番の奴留湯主水允へ、高橋三河守の手引きにより安芸より毛利衆が少々到来した。
その折、豊後・筑後の軍士らは上筑後に在番していたのを幸いと、奴留湯を救うべく早速立花表へと駆け付ける。

臼杵鎮富が先駆けして芸衆を打ち散らし、そのうえ高橋三河守の加勢である衛藤尾張守・米蔵兵部少輔ら多数を討ち取ると、戸次・臼杵・吉弘の三老へその首級を見せた。

かくして立花表は平穏となり、奴留湯の後任として田北民部少輔・田北刑部少輔・鶴原兵部少輔の三人を立花城へ入れ置いた。

豊府三老を始め諸勢は皆、岩門の陣へ入った。
筑後の諸将追々岩門の陣に加わる。
その後、秋月種実も打って出ず、豊後の諸軍はこれよりは肥前へ乱入して龍造寺隆信の佐嘉の城を攻めると議決した.。

小田鎮光は隆信の婿(於安の夫)となっていたが、旧主・少弐家が衰微している事を痛ましく思い、少弐政興を許してほしい旨を述べていた。

しかし、政興は未だ綾部城にあって反抗の意志を違えず、大友と通じている事から隆信はこれを容れなかった。

そればかりか、鎮光に異心ありとの嫌疑が掛けられる様になる。

鎮光はこの疑いを晴らすべく、隆信の三男・鶴仁王丸(後の後藤家信)を養子に貰い受け、異心無き旨を申し開いた。

隆信は了承するも尚の用心と鎮光に、父祖伝来の地である蓮池から、多久の城への所領替えを命じたのである。

多久の城に在った龍造寺長信との領地交換という形であった。

鎮光はこれに憤慨し、翌年の冬より大友に通じて龍造寺に抗うようになる。

また6月5日、少弐政興は大友の使者・森越前入道宗智より筑後国へ来られるよう勧められこれに応じた。

*********************************************

9月17日~大友義鎮は筑紫広門だけでなく、今度は行弘弾正に隆信を攻撃させています。

そのとき毛利元就は、吉川元春・小早川隆景・福原貞俊へ9月20日に、
「龍造寺氏が当方に応援を求めているから合力したいが、龍造寺氏としては筑紫氏を攻め滅ぼすつもりらしい。
しかし、筑紫氏には大友氏が援助している為、龍造寺氏は急に攻める事が出来ない。
また、龍造寺に同心している千手以下の諸将も旗色が悪くなれば離反するであろう。
そうなると九州の事態は複雑となり、九州に於ける毛利の地位も不利となる。
それゆえ、龍造寺氏より救援を求めてきても、軽軽に援助を与えてはならない」と申し送っている(出典は『佐藤保介氏所蔵文書』)。




>福原貞俊

諱ループの人かぁ~~~~~~~この時は何代目かなぁ忘れなかったら調べようφ(.. ) メモメモ

>龍造寺に同心している千手以下の諸将

ふ~ん、やっぱ竜造寺にもコンタクトとってたのね~

>旗色が悪くなれば離反するであろう

というより既に8月の時点で秋月が降伏してまして~( ̄ω ̄A;アセアセ
城井・長野・千手・宗像が、続々と降伏し始めてるんだが~( ̄ω ̄A;アセアセ
9月20日だと降伏したのは秋月だけだったのかな?

・・・・・佐藤保介氏所蔵・・・書写したのが昭和なんで二次史料でつ~( ̄ω ̄A;アセアセ
原書の方は、よく解りませんが、萩藩閥閲録に納められてる佐藤文書がソースのようです。

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【ホタルノヒカリ・前篇】柳川藩初代藩主編8栞79

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京極高次(きょうごく たかつぐ)6万石大津城主~1563年産まれの満37歳~近江の名門・京極氏出身。

彼は「本能寺の変」の後に明智光秀に味方し、光秀が羽柴秀吉に倒されると柴田勝家に保護される。

という、ちとフォローに困る人生を送っている。

だが高次の妹(姉説あり)竜子が、秀吉の側室になったお陰で処分を免れた。

さらに秀吉の命令で浅井姉妹の次女お初と結婚すると、妻の姉・茶々が秀吉の側室となり、更に秀吉の子供を産む。

高次が大名に返り咲いた時、それなりにある高次の軍歴を誰も評価しない。

代わりに、女の尻の光(閨閥)で大名になった「蛍大名」と、あだ名を付けて哂った。

慶長5年(1600年)6月18日~徳川家康は会津征伐の途上で高次の大津城へ宿泊した

このとき高次は、家康に従がうことを約定したと伝えられている。

高次は名門・京極氏を存続させるため、今度こそ勝つほうへ味方しよう!と張り切っていた。

同年7月17日~石田三成が徳川家康を討つ為、大坂で挙兵

ふたを開けて戦となったら、大津城の高次の周囲は石田三成の味方~西軍だらけだったΣ(´Д`;) うあ゙

(※大津城は琵琶湖のそばの水城です)

これではどうしようもない~とにかく弟・高知を東軍に参加させ、自分は西軍に参加することにした。

同年7月22日~石田三成が大津城の高次を訪問~高次は歓待し、三成を安心させる

本心では東軍の高次は、三成から聞いた西軍の顔ぶれなどを、全て家康に報告していたそうな。

三成が挙兵して以降というもの、

家康から⇒大津城を「東軍の拠点」として堅守するように~~と たびたび書状が来るし、

石田三成からも⇒「西軍に味方」してね~と再三、言って来る。

このまま中途半端でいると、どっちからも敵認定されてしまう~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

高次は三成の命令で、大谷吉継の与力として軍行動することになった。

同年9月1日~京極高次は、大谷軍と合流するために大津城を出発~

翌日9月2日~越前に入っていたのだが突然Uターン。またまた大津城に引き返してしまう(船を利用したので早い

この時に越前まで入ったのは、大谷吉継の動きを家康に報告するための下見だったらしい。

8月中は関が原本戦の前哨戦が各地で勃発~ 

石田三成と徳川家康は美濃へ移動しつつあり、本軍が移動する・・・ということは「決戦が近いな」って想像がつくのでUターンしたんです^^b

9月3日~石田三成が大垣城を出陣した日に、京極高次は大津城へ帰還・籠城を始める!





京極高次は徳川家康の家臣・井伊直政に「西軍を足止めするために籠城します!頑張ります!(`・ω・´)キリッ」と手紙を書くφ(.. )カキカキ~

妹夫妻が籠城すると聞いて、姉の淀君は驚いた。

なんとか助けたいと思っても、お姫様育ちの彼女には政治的手腕はない。

淀君は北政所(秀吉の正室)に助けを求めた。

北政所は、自分の秘書№1で諸大名にも顔が利く孝蔵主(こうぞうす)を派遣した。

が、ここが踏ん張りどころの京極高次は、和睦案を拒否!

彼は籠城準備に余念がなく、使者は虚しく引き上げざるをえなかった。


この大津城の裏切り(西軍から見て)を、一番に発見し報告したのが立花宗茂だった。

大谷と合流してるはずの京極の裏切りに、石田三成は死ぬほどビックリ!~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

7月に会った時、あんなにニコヤカに接待してくれたのは何だったんだ~~

本戦に向けて兵力が一兵でも多く欲しいというのに、三成は大津へ兵力を割く羽目になる。

9月7日~大津城を西軍17000が囲み攻撃が始った!

大津城攻撃~
大将は末次元康(毛利元就の庶子で毛利輝元の伯父・毛利家の補佐役の一人)
武将たちは 立花宗茂(弟の統増も一緒よ)筑紫広門、毛利秀包(同じく毛利元就の庶子)など西国の生きのいい精鋭揃いだった。
さぁ、関が原本戦まで残りわずか!

蛍大名とバカにれてた京極高次が男の意地を見せるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
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兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
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家紋画像~ロンさま
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相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^

北肥戦誌【1567年】 秋月が筑前騒乱を引き起こす

●永禄10年(1567年)

去る弘治の頃、筑前の筑紫・秋月両人が大友へ叛意を示した後に、その警衛のため同国の岩屋城へ豊府よりの下知にて高橋鑑種が居住していた。

この高橋であるが豊後の一万田弾正の弟で、前三河守親種の家督を継いでいた。
鑑種は或る日、重代の主君である大友に叛き、岩屋・宝満の両城に聢と籠城に及んだ。

その理由を訊ねると、

先ず一つには・・・豊後太守である宗麟入道、近年その作法は甚だ不行儀で、ひたすら女色に溺れていたのであるが、高橋の兄である一万田の妻女が美しい事に迷走し、割り切りもせずこれを所望したのであるが弾正はこれを許さなかった。
そこで宗麟は様々工夫を凝らし、弾正を易々と毒殺し忽ち彼の女房を犯し取ると、十二人の妾の第一に据えて深閨(奥のねや)に隠し置いた。
高橋はこの事を伝え聞くと大いに疎み憤った。

二つは・・・去る永禄四年、大友家は豊前国を手に入れるべしと兵を差し向け、先ず香春岳の城を攻めたのであるが、高山であったため容易に事が成らなかった。
その然る処に、筑前は山鹿の麻生鎮貞の依頼により原田遠江守・同備前守が下城、豊後衆は宮古郡へ陣替えし、三尾原へ陣を寄せ所々へ分けて遣わした上で文司城へ取り掛かっていたのであるが、文司城主の仁保右衛門大夫は堅固に城を守ったため度々攻め寄せたが勝利を得られなかった。
更に文司城へ関口より船を以って加勢する衆があり、また毛利家の人数も関口に着陣すれば豊後衆は敵い難く、霜月五日亥の刻、闇夜の中を尽く敗走し立つ足もなかった。
これより大友家の武力は散々手弱く見える様になり、世上の沙汰もよろしく無くなった。

これらから鑑種は心中で大いに豊府を疎んだが、先ず一両年はおくびにも出さずに仕えていた。
その後、豊後衆が松山の城で長陣をした後、鑑種は遂に大友家に背いて中国の毛利元就に属すと、すぐに岩屋・宝満の両城に取り籠った。

かくして、この事が府内に聞こえれば宗麟入道は大いに立腹、早速に鑑種を誅伐せよと筑前の秋月種実・筑紫惟門へ下知した。
また、府内よりの検使として、生善寺・田尻三河守を差し向けた。
両使はすぐに筑前へ赴き、秋月・筑紫に参会して評定を極めた後、宝満表へと進軍したのであるが、宝満城は険阻な高山で攻め戦うのは中々難しかった。

これにより更に、府内より斎藤鑑賢・夏足宗誉入道も遣わされたが、これまた同じ様に日数を重ねるだけであった。
その2-3箇年の間に他の検使が交代し来陣したが、ついに高橋退治は果たせぬまま虚しく月日を送り数カ年に及んだ。
間もなく、高橋に与する者が次第に増え、肥前には龍造寺、筑前には原田・立花、筑後には草野・星野・黒木・問註所ら、各々が城に立て籠った。

筑前国糟谷郡は立花勢棲山城主の立花鑑載も、永禄八年の春頃より高橋と同意し、毛利元就に属して大友に逆心を挟んだ。
この立花は元来大友の一家で、西大友と称して先祖の右近将監貞載以来、数代筑前の立花に在城していた。
この鑑載、然したる遺恨はなかったのであるが、豊府の政務を鑑みるに日増しに暴悪となっていくこと、其の上、宗麟入道が南蛮の邪宗を崇敬し、女色に浸り挙句に一万田の妻女を犯し取り、更には伯父・菊池重治の妻をも奪い取ったことなどに大友の滅亡は近いとみて反逆に及んだのである。

かくしてこの事が府内に聞こえれば、同年夏に鑑載誅伐として戸次伯耆守・臼杵越中守・志賀安房守・朽綱三河守以下大軍を以って立花山に取り掛かった。

5月17日、辰の一点に矢合わせが始まり、7月に及ぶまで攻め戦った。
城主の鑑載は懸命に防戦したが遂に自害して果てた。
間もなく城は落ち、寄せ手は勝ち鬨を上げ、当城の番には奴留湯主水允を入れ置いた。

このとき、高祖城主の原田了栄とその息子の親種も大友に叛いており、豊後勢はこれを攻めたが原田父子は防戦敵わず、了栄は行方知れず、親種は高良山に落ちて衆徒を頼っていたが、或る朝、手水を使っていた処を最愛の寵童が心変わりしたため敢え無く斬殺された。

さて、高橋鑑種であるが、検使が打ち変わって攻め戦っても、無双の要害は事も無げであった。
しかして永禄十年、豊後より戸次鑑連・臼杵鑑速・吉弘鑑理に肥後衆が加わって大挙出陣し、筑後からも蒲池・田尻・三池・溝口らが参陣、宝満の麓の堂尾観世音寺表に着陣した。
これに秋月種実も名代を立てて出張し、色々と計略を廻らせて高橋を攻めたが、岩屋・宝満の両城は尚も堅固で然したる結果は得られなかった。

その後、寄せ手を二つに分け、臼杵鑑速は多田越というところに陣を移し野陣したのであるが、このとき秋月種実が高橋に一味するとの風聞が流れた。
鑑速は秋月名代を陣中にて討ち果たし、ならば高橋を差し置き秋月を攻めるべしと、同8月15日の夜中に秋月表に取り掛かり、同16日の午の刻に休松に着陣した。

種実はすぐさま居館を出て古処山の本城へと上る。
その間、豊後勢は評定を極め、臼杵鑑速と吉弘鑑理は肥後衆を率いて八町というところに陣替えし、戸次鑑連は南部衆・筑後上下の衆を従えてそのまま元の休松に在陣した。
しかし秋月勢は出陣してこない。

その後、戸次鑑連は徒軍と共に彌永表へ陣を移し、向い城を取り付けるべしと定めて、同9月3日、休松の陣を引き取ったところへ秋月勢が城を出て打ち掛かり、戸次鑑連は休松の山中で必死に防戦した。
が、豊後勢は散々に討ち負けて這う這うの体で敗走、数がわからないほど諸手の歴々が討ち死した。
中でも、鑑連の弟である戸次中務大輔や戸次兵部少輔・戸次刑部少輔、筑後衆では溝口鎮生・三池鑑連の弟の三池親冬・蒲池近江入道・蒲池九郎兵衛らもが討ち死にした。
その敗走の際、筑後の田尻鑑種はその場を退かず、戸次鑑連の傍にあって自ら打ち戦い、敵の首級15を討ち取った。

田尻勢にも討ち死に・手負いが多く、先ず鑑種の弟である田尻式部少輔、田尻刑部少輔・田尻大和守・田尻常陸介・田尻左京允・田尻三郎左衛門・田尻三郎四郎・田尻右衛門尉・兼行佐渡守・鳥町対馬守ら侍20人、又者35人、疵を被る者29人なり。

この外にも諸家の者が尽く討ち死にして豊後勢は難儀に見えたが、大将の戸次鑑連は少しも屈せず、その夜に敵の近所である三桑木一本原に切り入ったため、諸勢は皆足を止めずに筑後川辺りまで引き退けた。
このとき豊後衆の朽綱入道宗歴・清田入道紹喜・一万田入道宗慶は足場を退かず、また筑後衆の三池鎮実・田尻鑑種もその場を去らずに戸次の傍に居た。
戸次鑑連は大いにこれを感じ入り、先ず三池鎮実へは、その父・鑑連が忠節を尽くして討ち死にした報償として具足一領を与え、田尻鑑種へは秘蔵の太刀一腰を与えると、両人共に少し休息せよと、明くる4日に在所へと帰らせた。

隔して9月4日、豊後衆は山隈原に向かい城を取り付け、戸次鑑連を始め南部衆が皆籠った。
一方、八町に在陣した臼杵鑑速並びに肥後衆は古処山を攻めあぐね、また引き退く事も叶わず、先ずは様子を見る事とした。
すると大雨が降りだしたので、その風雨に紛れて八町の陣を退いてこれも山隈へ入り在番した。
かくして次第に冬が深くなり、豊後の三将は山隈の城を去って皆が筑後へ打ち入り、戸次は富本村へ、臼杵は八町島へ、吉弘は吹上村へ在陣してここで年を越した。

10月頃?原田入道了栄(隆種)が隆信へ遣いを出し親交を求める。これを知った宗麟は、筑紫広門に隆信を攻撃させた。



≪筑前サイドから拾ったタイムスケジュール≫

この年1月、筑前の国人・秋月種実19歳が再び大友氏に対し挙兵します。
6月に秋月に呼応し、大友家臣・高橋(一万田)鑑種が謀反を起こします。

激怒した宗麟は「秋月討伐令」を関係各所に発布。
7月に筑紫惟門が大友家臣(斉藤鎮実)の攻撃を受けて自害し、筑紫家は降伏したんです。

9月「筑前の騒乱」が勃発
秋月に呼応した宗像氏が、大友家臣(戸次道雪)に制圧されていた支城(許斐城)を奪い返す。
同じく秋月に呼応した原田入道了栄(隆種)の「4男・親種」が大友に対し徹底抗戦。
1565年に国境で揉めた原田と竜造寺は和睦し、原田家から竜造寺へ人質が差し出されています。

これらの動きが大友宗麟の怒りスイッチに触れたのでしょう。
降伏して間もない筑紫家に対し竜造寺攻撃を命じたようです。
時に筑紫広門・・・12歳の少年当主でした。

ただ筑紫VS竜造寺が、どこまでガチだったか判然としません。
というのも隣の筑前が争乱((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~大友に叛旗フィーバーしてたからです。


宗像・原田だけでなく、秋月に呼応した国人は、城井氏、長野氏、千手氏。
謀反を起こした大友家臣は、高橋鑑種、立花(前立花氏)鑑載、
プラス毛利から援軍付です。
逆を言えば「筑前が騒乱している」ので、肥前の戦国の海原は凪いでいたとも言えます。


というのも、秋月の努力が報われて?1569年に「毛利VS大友」が実現するからです。
肥前・・・ひいては竜造寺家へ大友という嵐が来るのは、その後になります。



筑前と肥前とでは、違う表現になってる・・・Σ(´Д`;) うあ゙
擦り合わせに苦労しそうですが、ゆっくり調べます( ̄ω ̄A;アセアセ

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

歴史ヒストリア~ツンデレってil||li _| ̄|○ il||l


ただいま柳川藩初代藩主編を連載中~
書庫
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/folder/472335.html
立花千代
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/5216942.html

サブタイトルの時点で内容には「一切」期待してません。

お楽しみは、色んな文書や武具を放映してくれること(*´pq`)ウフ


●千代だけで放映時間一杯を使うわけでなく、第一部・15分ほどでコンパクトにまとめてました。

だからメチャクチャ端折ってます( ̄ω ̄A;アセアセ

ハッキリ言って筑前戦国史としては、スッカスッカの内容です( ̄ω ̄A;アセアセ

秋月が出ないのは想定内でした。ショボーン..._φ(・ω・` )

まさか島津北上を扱って、岩屋城を完全スルーするとは思わなかったΣ(´Д`;) うあ゙


いくら、千代メインとはいえ・・・il||li _| ̄|○ il||l

立花城籠城も名将:宗茂の活躍が1ミリもない・・・il||li _| ̄|○ il||l

千代が秀吉を振ったなどという、俗説が出るってどうなの?


●第弐部・妙林尼のハニートラップに10分弱,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


●第参部・関ヶ原のところと夫婦不和

薦野増時が出ないかなぁ・・・・・・無理ですね。いいんです。諦めてましたショボーン..._φ(・ω・` )

しかし名将:立花宗茂の武功を一瞬も紹介しないとは逆に凄い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

関ヶ原出陣の時の立花家紋~~大友から拝領の方を使ってた~~

N●Kって、そういう細かいディティールは、ちゃんとやるのよね~~

千代の活躍で鍋島が撤退ね~~~~

本軍を上方に動員してる鍋島が、難攻不落と称えられた柳川ガチ攻撃なんてあるわけないじゃん。

もともと単なる威力偵察ですな ( ゚Д゚)y─┛~~

てか江上表・八院合戦も全スルーですがな~・゜・(PД`q。)・゜・
やはり自分で連載するしかないな(`・ω・´)キリッ



まぁいいや、もともと鎮西無双が空気になるのは覚悟してたから。


三柱神社が出たし~なんか夫婦復縁がどうとか・・・深く突っ込むのは野暮だな。
腹赤村の千代の墓が出たし。
千代の現存肖像画を紹介してたんで、(映像的に)視聴の甲斐はありました^^/
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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