【北肥戦誌・1579年】その1

2月10日に、昨年起請文を提出した田尻山城入道宗達(旧名:山城守鑑乗)へ、鍋島信生も起請文を提出、同月26日に現当主・龍造寺鎮賢(後に政家)も提出した。

これに伴い、宗達の甥・田尻鑑種も、宗達と甥の蒲池鎮並に勧められ龍造寺家に通じた。

3月、隆信は大軍を催し、再び筑後へ攻め込む。

この折り、田尻鑑種も隆信の陣へ参じた。

隆信は大いに悦び、田尻鑑種・蒲池鎮並の両名を案内役に、瀬高庄を通って竹井村に着陣、先ずは古賀城主・三池鎮実を攻めるべしと、3月20日に佐嘉勢は古賀城攻めの為に尾嶺に陣を布く。

これに三池鎮実は隆信へ降伏する旨を表した。

田尻鑑種は三池の妻女の兄弟である為、この仲介に奔走、田尻の舅である肥後は筒岳城主・小代伊勢入道宗禅とも話合った結果、三池に対し降参するならば人質を出すよう申し述べた。

だが、三池はこれを承服しない。

田尻は筒岳城に赴き、小代を伴った上で改めて三池を説得するも、やはり応じなかった。

小代は三池に、
「田尻とは義理の親子であるが、今は龍造寺に味方し敵であるから、打ち果たすべきか」と内談する。
もはや田尻も打つ手がなかった。

そんな折、小代入道の妻が田尻の陣へ現れ、
「此度夫の宗禅、三池と同心し、龍造寺と弓箭に及ぶならば、忽ち家名を失う事となりましょう。
そこで、子孫を絶やさぬ為と思い、宗禅へも申さず自ら人質となり、隆信公の陣へと連れて行って頂きたく参じました」と述べた。

田尻はその意を汲んで、その女中を同道して隆信の陣へ連れて行き、小代入道に別心なき旨を伝えた。

隆信はその首尾を認め、小代入道の妻が姑という事で田尻の鷹尾城で預かるようにした。

結局、三池は人質を出さなかった為、佐嘉勢は三池領へ討ち入り、青麦を悉く薙ぎ払う。

三池は本城にあって、まずは龍造寺勢を引き取らせようと評定している最中に、小代入道は自らの妻が人質となった事を聞き憤慨した。

そこで芥田神という処へ小勢を出して佐嘉勢に矢を射掛けんとする。

鍋島信生勢がこれに馳せ向かい、追い崩して樫野まで焼き払う。

隔して田尻は、三池勢を打ち崩すと申し出て、これに佐嘉勢が少し加わり三池勢へ打ち掛かると、負傷者を多く出しながらも打ち崩した。

隆信は竹井に陣を布き、三池本城を攻めるべく軍勢を差し向ける。

後藤家信を大将に、先陣は田尻鑑種、二陣は蒲池鎮並、三陣は鍋島信生、四陣は神代長良の名代・神代家利と千布家利、五陣は横岳頼続、他に筑紫広門・安武家教・豊饒鎮連・堤貞之以下、三潴・山門・三根・養父・佐嘉・神埼らの軍兵を従え三池へ討ち入った。

まず先方の田尻・蒲池の軍勢に堤家の下田勢が加わり一の城戸を打ち破る。

これに佐嘉勢・養父勢・山内勢が加わり城内へ攻め入らんとするも、城兵は二の城戸で奮戦する。

武藤貞清が火矢を以って城外の櫓を焼失させる事に成功するも、城戸を破る事叶わず、朝から日没まで敵味方入り乱れての戦いに決着が着く様が見えなかった。

その上、酉の刻に至り大雨が降り始めた為に、双方退くしかなかった。

だがその夜、三池は風に紛れて城を退去し行方知れずとなっていた。

隔して労せずして城を落とした寄せ手は、勝ち鬨を上げて引き退いた。

次に隆信は小代入道を攻めるべく芥田神へ進み出た。

先手・蒲池鎮並は小路口へ攻め入り奮戦する。

時に又米山に小代家臣・荒尾家経の2,000が打って出る。これに鍋島信生3,000が相対せんと動いた。

だが、荒尾は何を思ったか、一戦に及ばず引き退く。

鍋島勢はそれを追い掛け、町小路に火を放って、小代入道の梅尾の館を焼き破り、喚きながら戦う。

小代入道並びに嫡子・小代親傅はもはや防戦ならず、筒岳の本城へ登って木下四郎兵衛まで懇望を以って降参する旨を述べれば、鍋島信生はこれを許して合戦を止めた。

このとき筑後国八院の鐘ヶ江長門守・菅原家続が龍造寺家へ起請文を提出する。

また、肥後国隈本城主・城親冬も龍造寺家に人質を出した
(※城氏は島津氏へ起請文を提出した筈なので、この記述は俄かには信じられない)。




蒲池氏抹殺のカウントダウンが始まるでつ ショボーン..._φ(・ω・` )

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肥前千葉氏_5【全盛期】


以前、史料集めしてた時にザックリ一話でまとめた【肥前千葉氏】がある。
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/3427806.html

その後、自分の中で肥前千葉の存在が大きくなり、今の連載に至っている。

結論から言うと、肥前千葉氏は西と東に別れ、鍋島家臣として残る。

東も西も「朝鮮の役」に出陣し、別シリーズ連載「江上・八院合戦」にも出陣した。




素人考えだが自分は肥前の戦国時代は、肥前千葉氏が西と東に分裂したのが本格スタートだと感じている。

なぜならそれは北九州の覇権を巡る、少弐と大内の代理戦争だからだ。

むろん肥前千葉がいきなり東西に分裂したわけではなく、幾度となく大内の介入を受けたからです。

最初に介入されたのが室町時代で6代将軍・義教の頃で、その時の大内当主は大内持世。

大内持世はライバル少弐を滅亡寸前まで追い詰める事には成功したものの、肥前千葉への介入には失敗した。

7代目胤鎮は、大内が擁立した8代目胤紹(胤鎮弟)と、その嫡子・政胤を殺し、大内の画策によって奪われた家督を取り戻す。

8代目胤紹は、大内のバックアップで室町幕府から正式に当主と認められているため、系譜上8代目とカウントされている。

つまり、この最初の介入で肥前千葉は、嫡流・胤鎮系譜と大内擁立の胤紹系譜の二つに分かれたんです

胤鎮の追捕を逃れた胤朝が大内の庇護下に入った。

肥前千葉にとってラッキーだったのは、大内持世が「嘉吉の乱」の巻き添えで死亡したことです。

家督のことで大内は混乱し、その間に肥前千葉⑦胤鎮は独自の勢力として力を付けていった。



かちがらす様より拝借した千葉城跡&須賀神社の写真
http://blogs.yahoo.co.jp/katigarasu8/9471290.html

いつ見ても気が遠くなりそうな階段だ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

「国主様」と崇められた⑦胤鎮は1455年に56歳で波乱の生涯を閉じた。

家督を継いだのは次男で18歳の元鎮(嫡男は12歳で早世)だ。

家督簒奪者である胤紹が幕府の正式承認を受けた8代目なので、元鎮は9代目になる。

肥前千葉の最盛期というと一般的には10代目教胤とあるのが多いが、実際は胤鎮~元鎮が最盛期を迎えた当主のようだ。

このころは天変地異が非常に多く、そのために改元も多い。

地震、落雷、洪水⇒浸水、台風⇒作物被害で飢饉、太陽が二つに割れて見える幻日現象も発生している。

にも関わらず肥前千葉の台所が裕福だったのは、朝鮮との交易によるものが大きい。

9代目元胤は牛頭城下で犬追物を開催している。

動物愛護の観点から現代では作法が伝わるのみで開催はされていないが、
鷹狩より、犬追物の方がステータスな武家貴族スポーツで、金もかかるでつ( ̄ω ̄A;アセアセ

更に元胤は猿楽を好み、舞台を作って京都から観世太夫を招いた。

元胤は居城の牛頭城下を国府と称し

もともとの国府を府中と呼ばせて区別するほど勢力を誇った

国府(牛頭城下)の繁栄ぶりは肥前の小京都を呼ばれるに至る


北肥戦誌には「千葉家全盛期とぞ見えし」と記されている


この間にも太陽が3つ並んで、しかも二年続けて出現(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

疫病で地下人が多数死亡したため、諸国の国人たちが動揺した。

1464年(寛正5)10月29日~9代目千葉元胤が28歳の若さで急死する


元胤は男子がいなかったので、亡き7代目胤鎮の三男・教胤が家督を継いだ。

教胤は未だ14歳。

この状況を大内氏が指を咥えて観ているはずがない。

大内は肥前千葉の縁戚で親しい同盟関係である肥前今川家に目をつけるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【漢(おとこ)には行かねばならぬ訳がある!】江上・八院合戦編13栞96

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鍋島軍陣容(参照:千葉氏HP、出典:勝茂公譜)

  先陣:鍋島茂里(&全軍指揮官)、鍋島茂忠
 第二陣:竜造寺茂綱←関ヶ原遅参の汚名回復のためハッスル中
 第三陣:須古信昭
 第四陣:諫早家晴、諫早直孝、竜造寺安順
 第五陣:多久家久
 第六陣:鍋島勝茂(直茂の嫡男・後の初代佐賀藩主)
 第七陣:本陣右脇に展開
 第八陣:本陣左脇に展開
 第九陣:鍋島直茂
 第十陣:直茂の右脇に展開
第十一陣:直茂の左脇に展開
第十二陣:小川直房、馬場茂員、千葉胤信、神代家良、内田茂堅、成冨茂安、出雲茂通、
     犬塚茂虎、鍋島道泉、倉町家秀、鍋島種巻、久納茂俊、田尻房種
 留守居:鍋島房茂

遅ればせながら、鍋島軍陣容データ入手出来ました( ̄O ̄A;アセアセ

馬場に神代に千葉と・・・因縁のある家が見事に揃ってるなぁ^^;
さすがに後方配置だけど~~~
これじゃ、鍋島直茂は家中のバランスとるのに苦労しただろうなぁ (゜-Å) ホロリ

最初、各将の当時の石高調べて換算すれば、兵数解るじゃん(=^・ω・^=)v (=^・ω・^=)v ブイ
と思ったが、そんなコアデータを県外在住者には入手困難だし、
解ったとしても第七、八、十、十一陣の兵数(旗本衆か?)が解らないから、やっぱ謎です^^;

参照サイト&出典元によると、立花軍大将・小野鎮幸は、この戦で死ぬつもりだったらしい





話は開戦前に遡る。

とにかく家康の御機嫌を損ねないようにするには「短期決戦」が絶対条件の鍋島家。

鍋島家では立花軍を柳川城から引っ張り出すために、成冨茂安を使わして果たし状を出したりしてたんだが、
( ̄ko ̄)<他にも画策してたんでつよ・・・


画策というのは離間工作で、罠にハメられたのが立花家次席家老・小野鎮幸です

鍋島家は小野と親しく交流があった鍋島茂里と石井茂賢の名前で、小野あての書状を捕虜に託して放したんです。

ワンパターンというか、よくある離間工作なんだが、これに立花家中が釣られた~~~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

「名将なら3年、凡将でも1年は持ちこたえる」と謳われた名城・柳川城。

だがこれは「援軍が来る見込み」が前提の話だったのだろう。

この時期の柳川は、敵に囲まれ支城も次々落とされた「孤城」の状態なんです。
(島津は同じ西軍だが、この段階ではアテにならない)

固い結束を誇る立花家中ですら書状一つで動揺したのだから、
籠城における心理状態は、普段の戦よりも超デリケート&超神経過敏になるんでしょう。

実際、もし自分だったら籠城一日目で疲労困憊(精神的に)しそうだ( ̄ω ̄A;アセアセ

あ、もちろん主君の宗茂は「この程度の離間工作」ではビクともしません。

だから大丈夫だったんです^-^

が、内通?(*´・д・)ヒソヒソ(・д・`*)裏切? と一度は家中で噂された事で小野が逆切れした。

小野(# ゚Д゚)・;'.「サラハ討死シテ見スベシ」

と、出陣し壊滅状態の先陣を救おうと(無謀とも言える)突入し~自軍が壊滅して本人も品詞・・・もとい瀕死の重傷です( ̄ω ̄A;アセアセ

このまま討死した方が本望だッタンジャ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ


立花家紋

小野さんって立花家中では中途採用者で「生え抜きの家臣」って出自じゃないんです。

実力で次席家老に出世した小野さんを、快く思ってない譜代衆がいても不思議じゃない。

あと小野さん本人も誤解を受けるタイプ(守銭奴)です( ̄ω ̄A;アセアセ

守銭奴って言っても、集めた金は全て主君に献上しており、忠義からの発露なんですが、
ガメツく集めすぎて批判されたでつ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


それはさておき、その小野さんを救うために牽制部隊として別行動してた薦野成家隊が突入。

小野を包囲する鍋島隊を蹴散らし、生き残りの味方を自隊に回収したところまでは良かった。

だが鍋島からの発砲で被弾した薦野が裂傷を負い、一度落馬してしまう。

怪我にめげず即復活した薦野だが、動きが乱れたところを鍋島の追撃にあい、薦野隊も包囲されるのは時間の問題という大ピンチ!!!

もうダメポ・・・と思った、その時。

なぜか突然に鍋島軍が撤退しはじめた・・・ヽ(。_゜)ノ へっ?


薦野は「勝ってるのに何で大将首を取らずに撤退??ヽ(。_゜)ノ へっ?」とワケワカメ。

「上層部で和睦の動きでもあったか?」とも思ったが、主君からは特別の指示はない。

とにかく柳川へ撤退するのが先決と、重傷の小野を抱えて引き上げた。

戦後、生き残った小野の報告を聞いた立花宗茂は、
「薦野成家が「江上・八院」における一番の働きである。」と、感状(かんじょう=戦の手柄の内容を賞した書面)を出した。

薦野は被弾で左頬に残った傷跡を誇りとし「これがワシの江上・八院の戦だ」と語っていたそうだ。


鍋島家紋

この「江上・八院の戦」は、先の大津城攻めの活躍とあいまって、立花の武勇に対する評価は倍増。

名将・武神・鎮西無双などなどの立花宗茂の名声を不動のものにした。

一方、勝ったはずの鍋島軍の評判は冴えなかった。。。。il||li _| ̄|○ il||l

鍋島32000VS立花3700~
ジャイアンとのび太ほどの勝って当然の兵力差で、鍋島側から撤退&大将を討ち洩らしたからです。

これで小野の首を討ち取った後の撤退なら格好がついたんだが (-ω-:)ウーン

おまけに立花家臣の口から鍋島軍が何度も崩れたのが洩れて、カッコ悪さ倍増^^;

それとなんですが、兵力差から見て立花側が壊滅状態なのは当然として、
その壊滅状態の中ですら、立花の精鋭たちは鍋島軍から200以上の犠牲者を出しているんです。

犠牲者200は雑兵ばかりですが、それは鍋島軍の層が厚すぎて兜首に肉薄出来なかっただけのこと。

立花軍は、鍋島の約11%の兵数で、鍋島から0・6%の損害を叩き出してます。

対比計算でいくと「IF兵数が同じ=立花は鍋島の半分を討ち取れた」事になる。

そうなれば圧勝したのは立花のはずだ。と誰もが思うでしょう。

世間がどう評価するか、鍋島直茂は重々承知の上で、それでもなお「引かねばならない理由」があったのだが、それは・またの話 by^-^sio

【北肥戦誌・1578年】その2

隆信は大友が日向に在って島津と戦う隙に、大友騎下の者共を切り従えんと、柳川の蒲池鎮並と共に11月19日に筑後国へ討ち出る。

先陣は鍋島信生、二陣は納富家景、三陣は龍造寺家晴・四陣は松浦党、五陣は後藤家信、六陣は龍造寺長信、七陣は江上家種、八陣は馬場鑑周、九陣は神代長良の名代・神代家利と千布家利、殿軍は隆信の旗本と、以上都合20,000余騎が筑後国三瀦郡酒見村に至って陣を布いた。

これに久留米の豊饒鎮連、草野の草野鑑員、下田の堤貞之、西牟田の西牟田鎮豊を始め、酒見・城島の者達が続々と隆信の陣へ馳せ参じて、帰属を申し出た。

隆信は大いに喜んだが、戸原河内城主・戸原薩摩入道紹真、山下城主・蒲池鑑広、古賀城主・三池鎮実らは隆信に従おうとせず、自らの居城へ引き籠った。

隆信はまず戸原入道を攻めんと、龍造寺信家・龍造寺信門・内田美作入道卜菴・姉川信安・副島光家・鹿江信明を率いて戸原河内へ向かうも、そこへ伊駒野城主・河崎鎮堯が多勢にて戸原を救うべく来援した為に、龍造寺勢は敵わず退いた。

隔して11月下旬となり、隆信は先ず筑後を差し置き、筑前に討ち入って敵地を巡見すべしと、
12月1日に酒見の陣を払い、そのまま筑前国へ向かった。

これに秋月種実・筑紫広門が急ぎ参陣し、他に早良郡の者達が駆け付ければ、
隆信は彼等を案内役に、大友方の戸次・高橋の居城である立花・岩屋・宝満の城を攻めるべきと評議するも、
秋月・筑紫らは皆、以上何れも堅城で容易には落とせまいと述べる。

隆信は止む無く、まずは馬を返すべしと、佐嘉へ帰陣した。

このとき、筑紫広門の弟・筑紫晴門が11歳となったのであるが、鍋島信生の養子となり佐嘉へ同道して行った。

また秋月種実は、大友宗麟の暴悪「十ヶ条」を掲げて、筑前一国のみならず諸国へ触れ廻すと、諸将はこれに同意し、宗麟に背く者達は連判を為した。

大友宗麟は耳川の敗戦以後、国政に乱れが生じ、老臣・大和入道紹徹を誅伐する。

これは紹徹の嫡子・鎮周が耳川の戦いで一番に討ち死にし、味方に弱みを造作ったと宗麟が大いに誹謗し、更にその功を立てられず、紹徹が恨みに思ったからである。

また、府内の侍である古庄左京允兄弟・朽綱市祐・雄城惟周は理由なく勘気を蒙り出国する。

これにより大友家臣には主を恨む者が多くなり、宗麟は威勢を失った。

また隆信は、田原尚明を備後へ差遣し、小早川隆景の元へ出向き、足利義昭への御礼を遂げさせた。

更に、諫早に人質として送っていた秀島家周を、今度は蒲池家の人質として柳川へ置いた。

更に、筑後は山門郡の鷹尾城主・田尻鑑種の伯父に田尻山城入道宗達(旧名:山城守鑑乗)という者があったが、
隆信は龍造寺家臣に宗達の知己である岩楯という者があると知り、この岩楯を使いに従属するよう述べると宗達は承諾、
12月22日に隠居・隆信と現当主・龍造寺鎮賢(後に政家)に起請文を提出、大友と手切れした。




最近、必要に迫られて筑後郷土史も同時進行で調査中でつ( ̄ω ̄A;アセアセ

文中にある戸原氏とは辺春氏の事で、辺春氏は筑後における大友直参衆(三三頭)です。

筑後には有力国人15氏の他に、大友直参衆が24氏あって・・・複雑(涙)です。

ま、負けるもんか~~~~(`・ω・´)キリッ

話変わって筑紫晴門~~北肥戦誌では広門の弟説なんですね~~

いや逆か、晴門弟説の出典が北肥戦誌かもです^^

【北肥戦誌・1578年】その1

1月、隆信は再び有馬征伐の軍を起こして、大軍を以って高来の島へ押し渡った。

このとき、この島の安富純治・その子の安富純泰・安徳純俊を始め、力武対馬守・松薗伊勢守らが龍造寺に降り帰属した。

元来、安富伯耆守純治は此の国の者ではなく、
先祖である民部入道心空が 正応5年(1292年)11月6日に鎌倉殿(源家)より下文を賜りこの地へ下向、有馬と縁を結んでいたのであるが、
伯耆守は些かの怨恨があり、此度、島原純豊を通じて有馬に背いたのであった。

だが隆信は、昨年降参した神代貴茂は問題ないが、島原純豊からは人質を取るべしと、成松信勝・成富信種を遣わした。

両人は島原へ行きその旨を伝えるが、純豊は難渋して即答しなかった。

二人が力及ばず帰陣すると、鍋島信生が主従100余人に水町信定を連れて、島原城へ赴いた。

そのとき純豊は大幕を打たせ、一族・家臣ら2、300人を左右に置いていた。

信生は唯一人で幕内へ入り、人質を出すよう述べる。

純豊は尚も承服せず、あからさまに不機嫌を顔へ表した。

水町は危険を察知し、大幕を掴んで座敷へ押し入り、眼を剥いて拳を握り、勃然と気を発しながら座した。

それに他の鍋島家臣も続き列座すると、純豊は一転して顔を和らげて、嫡男・島原木工左衛門を鍋島に引き渡した。

高来の城持ちが悉く龍造寺へ靡き、領地が狭まり無勢となった有馬鎮貴(前名:義純)は、
もはやこれまでと、先非を悔いて隆信へ和を乞うべく、3月23日に安富純生を納富の陣へ遣わした。

隆信はこれを承諾し、嫡子・龍造寺鎮賢(後に政家)を有馬鎮貴の妹婿とする約定を交わし、有馬一族の島原大学・土黒備中守を人質として取った。

また、安富純泰の人質は嫡子の助四郎である。

(※『フロイス日本史』によると、隆信は有馬から千々石城を接収したらしく、小浜城という千々石城から南へ直線距離にして6.5kmの貧弱かつ防塁設備のない城のみ残された状況だったとする。但し、居城は日野江城だとするから、防波堤たる城が小浜城しかなかったという意味か? また小浜城の南西7.5kmに在る串山城も有馬の城らしいが・・・)

こうして高来が静謐に至り肥前統一を果たすと、隆信は3月下旬に帰陣した。

肥前国中は既に東西共に統べており、次は他国を従わせるべしと思い立ち、先ずは筑前国を攻めんとすぐさま大軍を催し、東肥前へ打ち出した。

そもそも筑前は少弐の分国で、その後に大内支配となり、近年は豊後の大友より知行して、西筑前の内の5ヶ所の城に豊後からの差遣した将を、中国の毛利への抑えとして置いていた。

立花城へは戸次(立花)伯耆入道道雪、岩屋城へは高橋主膳入道紹運、荒平城へは小田部入道紹叱、鷲岳城へは大津留山城入道宗周、柑子岳城へは臼杵新助鎮富が其々居た。

隔して隆信は神崎に着陣、先手には城原勢が努めるよう下知し、隆信実子・江上家種を大将に、執行種兼・諸岡安芸守・鍋島種房を軍奉行にて背振山を越えて、筑前の内の早良郡へ討ち入った。

これに、大友の暴政を不満とする脇山の住人・重松対馬守・大教坊圓信坊を始め63人(25人とも)が龍造寺家へ降参して、江上の陣へ参上した。

城原勢はこの者達を案内者とし、所々を焼き払いながら進軍する。

隆信は敵地は脇山の内野という要害を見付けると、その砦へ江上勢を執行種兼を頭に各番にして大友の抑えとして在陣するよう命じ、自らは一先ず佐嘉へ帰陣した。

~「耳川の戦い」の記述は省略~




肥前千葉氏_4【中興の祖・後編】




肥前千葉の家督に最初に介入した大内当主は、12代目大内持世(もちよ)

ライバルを蹴散らし大内の全てをゲッツし、少弐を滅亡寸前まで追い詰めた人物


1437年(永享9)~肥前千葉の家老・中村胤宣が大内持世に内通し謀反を起こす。

中村は肥前千葉⑦胤鎮の弟・胤紹を神輿として担ぎ出した。

そして胤紹は大内持世のバックアップで肥前千葉の家督を簒奪し当主となる。

城を追われた⑦胤鎮は、僅かな供で落ち延びたのだった。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

翌1438年(永享10)12月29日~室町幕府から胤紹と中村胤宣へ通達を出した。

幕府「大内持世と諸事相談し、幕府に忠義を尽くしなさい」年末に慌ただしいですな( ゚Д゚)y─┛~~
裏で大内が色々手を回して・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

1439年(永享11)年明け1月21日~~再び幕府から胤紹へ命令が下る

幕府:千葉家の混乱は⑦胤鎮が原因だから必ず探して厳密に沙汰せよ


追い出された元当主・胤鎮「被害者はコッチ!」・゜・(PД`q。)・゜・ヒドイヒドイワ

同年6月~再び幕府から「早く⑦胤鎮を探せ!」と催促


正当な当主・⑦胤鎮が生きている限り、胤紹は家督簒奪者の誹りを免れる事は出来ない。

⑦胤鎮を始末するために幕府の威光を利用する大内持世。

さすが中国地方のドンは容赦ないですな( ゚Д゚)y─┛~~




大内持世のバックアップで胤紹がウホウホ♪かというと、そうでもなかったらしい。

冒頭で大内持世を「少弐を滅亡寸前まで・・・」と紹介したが、言葉通り「寸前」で留めを刺さなかった。

どういうわけか仏心を出して、室町将軍・足利義教を通じて少弐と和睦し、少弐を存続させたんです(1440年)

少弐と同盟してる対馬・宗氏との関係悪化を恐れたかもです(貿易で困るからかな?)

胤紹は、その短い当主期間に、VS少弐のため大内の先陣に駆り出され、戦に奔走する日々だったらしい。

大内「ただで当主になれるとでも?地位には義務が付き纏うのだよ」

このまま大内持世無敵状態が続くかと思われたが、天下を揺るがす大事件が起きる。

1441年(嘉吉元年)に「嘉吉の乱(将軍暗殺事件)が起き、宴に相伴していた大内持世も巻き添えで重傷⇒⇒怪我が元で死亡!


当主交代がリベンジのチャンス~~少弐⑭教頼、大友⑫持直、大内教幸(庶子)が挙兵。

潜んでいた千葉胤鎮も同調し挙兵・・・・・・・・・・・・・

したんだが負けたでござる  il||li _| ̄|○ il||l 再び逃亡。

胤鎮の敗北⇒逃亡を受けて、室町幕府が正式に胤紹を当主として認定~公式に8代目当主となった。


肥前千葉家紋

⑧胤紹の喜びは長く続かなかった。

1445年(文安2)~逃亡していた胤鎮がリベンジ挙兵!

同年8月17日~⑧胤紹は、兄の胤鎮に殺害される。

⑧胤紹の嫡男・政胤も、胤鎮に殺されたが、11歳だった次男・胤朝は城を脱出した。

胤朝が大内家の庇護下に入ったのは言うまでもない。

⑦胤鎮は当主に復活し、千葉氏領地(小城郡、杵島郡、佐賀郡一部)を取り戻す。

1450年(宝徳2)に、⑦胤鎮は三男・教胤を授かる。

ちなみに竜造寺家兼ジーちゃんは1454年生まれでつ ( ̄ω ̄A;アセアセ

1452年から1455年の間に7代目・千葉鎮胤は「肥前国主」と尊崇された


波乱万丈の人生だった胤鎮は、1455年6月25日に54歳で没するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【立花も】ネバギバ!【鍋島も】江上・八院合戦編12栞95


1600年10月20日~柳川(福岡県)において九州西軍の掃討戦「江上・八院合戦」が起きた。

東軍~鍋島軍32000(元は西軍だが 東軍に寝返り手柄を焦っている状態)

西軍~立花軍3700(これ以上、徳川家康を怒らせたくないが 鍋島に挑戦され止むを得ず応戦)

立花軍総大将・小野鎮幸(おのしげゆき)柳川城の支城・蒲池城主にして次席家老。

領地は5000石~石高・実績ともに立花軍エース級。

主君から頂いた感状は通算68枚。戦場で受けた傷の跡は67で、うち上半身が44ヶ所。

14年前の高鳥居城攻めの時には、小野は両足に銃弾を受け倒れたのだが、
地面に両膝を付き立ち膝の姿勢で戦の指揮を取り続け、立花軍を鼓舞し戦を勝利に導いた。

そんな豪傑も江上・八院では55歳。

鍋島軍に左乳下を撃たれ、さらに足に矢傷を負い、ついに起き上がることが出来なくなった。




話は数時間前に遡る

立花軍・薦野成家(こものしげいえ)率いる300騎は、黒田如水を牽制するために水田口(筑後市)へと向かっていた。

そこに偵察からの報告で「味方の先鋒が鍋島軍に包囲され壊滅状態のピンチ」と聞く Σ(´Д`;
)

柳川城にいる主君・立花宗茂に了解をとっていたのでは間に合わない。独断で江上方面へ引き返した。

この判断が大正解!

薦野が江上方面に到着した時は、立花の先鋒も第二陣も既に全滅。 

第一陣も14~5名になるまで倒され、重症を負った大将の小野が鍋島軍に包囲され討たれる寸前!

「ダダァーン」

薦野は配下の鉄砲隊に発砲させると同時に、わずか300騎で小野たちを包囲する鍋島軍の隊に横合いから突っ込んだ!

ちなみに立花軍は「早合/はやごう」という特別な工夫のお陰で、火縄銃の発砲速度は他家の3倍速だ(当社比)

一方、もう勝ったと油断していた鍋島隊(一隊は約3000名)は、突然の攻撃にパニックになった


アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ と、またまた崩れてしまったのです^^;;


鍋島家紋

19日の緒戦といい、20日の崩れっぷりといい、ちと弱腰すぎるだろ~~

資料にしてるのは筑後郷土史なんで、立花を身贔屓でオーバーな記述かなぁ~とも思った。

だが鍋島側の数字的な資料が曖昧模糊のところを見ると、派手に陣列が崩れたのは事実らしい^^;

通常の動員能力(朝鮮の役参照)である12000の2倍以上の32000を動員した鍋島軍だが、
野盗崩れとか商人とか山伏とか水軍の水夫とかとか~~こんな感じの人たちを無理矢理に集めたんだろう。

かなりの割合で、正規の武士でない者が混じっていたんだと思う。

そういう人たちが立花の猛攻に耐えられるはずが無く、攻撃と受けるたびに逃げようするから崩れるのだ。

鍋島が崩れた隙に、薦野は大将の小野や生き残り十数名を素早く自隊に回収した。

「まだ近すぎる・・・このまま退却しても追いつかれる。もう一押しだ!」(`・ω・´)キリッ

薦野は馬上から視線を廻らせ、とっさに状況を判断すると鍋島隊に果敢に攻撃を仕掛けた。

すでに腰が引けている鍋島の隊は、10分の1以下の薦野隊に更に数百メートル押し戻される。

「ズガーン!」

頃合良し!と退却しようとした薦野を狙って鍋島の鉄砲隊が発砲!

弾が薦野の顔面に当った! ぇえ!(゚ロ゚屮)屮


立花家紋

顔をガードしている頬当てが吹き飛び、薦野は左頬に裂傷を負う。

「ドサッ」

直撃は免れたものの弾が左顔面に当った衝撃は大きく、さすがの薦野も脳震盪を起こして落馬した。

薦野の従者が彼を抱き起こし、再び乗馬させた。

だが、敵指揮官が一度落馬したのを見て、鍋島の隊が気力を取り戻し攻撃に転じた。

急いで退却を始める薦野隊。

元々が大軍の鍋島だ・・・まだ余力がある。

せっかく稼いだ距離が、みるみる追いつかれ、囲まれるのは時間の問題!

一難去って、また一難!

このまま薦野隊まで殲滅され、鍋島が完璧な勝利を収めるのか?それは・またの話 by^-^sio

肥前千葉氏_3【中興の祖・前編】

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鎌倉終わって南北朝から室町だよん~


下総の家督を諦めきれない肥前2代目胤貞は、肥前小城領と下総千田庄を切り離し別々に家督を継がせました。

下総(千葉県)と肥前(佐賀県)を戦のために行ったり来たりしてた肥前千葉当主が、ドッカリ肥前に腰を据えるのは5代目胤泰からです。

1362年(元号パス)胤泰の嫡男・胤基が誕生。

胤基の青春は南北朝の争乱一色^^;

1390年明徳元年に、胤基は父から家督を譲られ6代目となります。

九州探題・今川了俊が南朝討伐に出陣した時は、⑥胤基も従軍~肥前千葉家は小城領を安堵。

この前後には胤基の姉(or妹)は、今川了俊の弟・仲秋と結婚し、肥前千葉と肥前今川家は縁戚となりました。

1392年閏10月・・・明徳の和約が結ばれ、南朝は実質降伏。

ぶっちゃけた話、南朝側は室町3代将軍・義満の手腕に上手くダマかされ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ




金閣寺と昭和産まれにはアニメ一休さんのイメージが強烈な室町3代将軍・義満。

シオは義満の能力・基本スペックは、おそらく戦国三傑(信長・秀吉・家康)以上だと思ってます。

南北朝の争いを治めた義満が次にしたのは「功績によって力を付け過ぎた者の排除」です

非情ですが、戦が無くなり不要になった功臣の排除は、政権長期安定には必須。

今川了俊が九州探題を解任されたように、中国地方で義満のターゲットになったのが大内義弘でした。

1399年10月13日・・大内義弘が挙兵し「応永の乱」が起きる

大内義弘の挙兵動機はイマイチ不明で「義満の挑発に乗った」とも言われています。

戦の影響の大きさを一言で語るとすれば、
シオが中国地方の郷土史を扱った場合 応永の乱は必ず調べ、予備知識として記事アップ必須なレベル です(_´Д`)アイーン

同年12月21日に大内義弘は討死し、そのあと義満の期待通りに大内では家督争いが起きて、一時衰退。

大内は内部固めと同時に少弐や大友と筑前を巡るガチンコで忙しく、肥前までは直接には手が回らない状態でした。

大内家が少弐を叩き潰すまでの30数年間=(イコール)肥前が大内の介入を受けなかった期間でもあります。

同年、胤基に次男が誕生しました。嫡男が早世したので次男が嫡子となる

この胤基次男こそ「肥前千葉家、中興の祖」と言われた7代目・胤鎮、その人です(=^・ω・^=)v ブイ



肥前千葉家紋

1404年(応永11)4月12日~肥前千葉⑥胤基は、肥前にちょっかい出してきた少弐⑩貞頼を撃退o( ̄Д ̄θ★ケリッ!します。

肥前千葉家臣(名前難しくてパス)が少弐に寝返ったのが発端でして、
千葉胤基は(腐っても九州探題の)渋川満頼と(胤基甥の)今川国秋と連合し「佐賀郡川上の戦い」で勝利を治めたんです。

1417年(応永24)10月24日~6代目胤基が54歳で死亡。大内は静かだし、少弐は撃退したし、肥前千葉家にとり一番平和な時期でした。

1419年(応永16)~7代目胤鎮に嫡男・俊胤が生まれる。

ちなみに島津は奥州家と総州家が宗家の座を巡って内輪もめ中~^^;

7代目となった若き当主胤鎮は、二十歳で嫡男を授かり千葉家の前途は明るいものに見えた。

雲行きが怪しくなるのは1430年のこと・・・胤鎮の嫡男が12歳の若さで病死してからです

7代目胤鎮は31歳・・・この時点で亡くなった俊胤以外に男子がいなかった ( ̄ω ̄A;アセアセ

嫡男は残念だが、当主胤鎮は男盛り~次があるさ~と思いきや、その後も男子が授かる気配が無い( ̄ω ̄A;アセアセ( ̄ω ̄A;アセアセ




( ̄ko ̄)<7代目胤鎮には弟がいたんでつ・・・家系図にある胤紹でつ

胤鎮の弟・胤紹は生年が不明なので、このとき何歳だったか解らない。

その胤紹には既に長男・政胤が生まれていた・・・( ̄ω ̄A;アセアセ( ̄ω ̄A;アセアセ( ̄ω ̄A;アセアセ

このまま胤鎮様に男子が生まれなければ、家督は弟君・胤紹様?・・・ヒソヒソ(*´・д・)(・д・`*)マダハヤクネ?


1535年(永享7)~兄に男子がないなか、弟・胤紹のとこにはコウノトリ来々で次男・胤朝が誕生。

このまま胤鎮様に男子(以下略)、胤紹様長男・政胤様を養子に?・・・ヒソヒソ(*´・д・)(・д・`*)家督アルアルナノネ

胤紹本音(ワシの時代は近い・・( ´,_ゝ`)クックック・・・( ´∀`)フハハハハ・・・( ゚∀゚)ハァーハッハッハッハ)

1437年(永享9)~男子キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★胤鎮38歳にして待望の男子・元胤誕生~

胤紹本音(今更ヒドイ期待シチャッタノネ。。。。。il||li _| ̄|○ il||l)

一度夢見ちゃうと「諦める」ってマイナス思考に陥り、気持ちを切り替えるのは難しい。

何より周囲が放っておいてくれない。

肥前千葉家の小さな歪みに、大内家の影が忍び寄るのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【1577年】2次史料より

1577年の『北肥戦誌』では、伊万里氏は簡単に恭順した様になっていますが、どうやらそうではないようです。

天正4年(1576)の事、伊万里治(又は家治)、吉志見城主・波多鎮(しずむ or しげし)、有田唐船城主・有田盛(さこう or さかる)の三名は、以前に龍造寺家に誼を通じていたものの有馬に唆され反旗を翻し、龍造寺方・鶴田前(すすむ)の守る獅子ヶ城を攻撃、6.28に鶴田を討ち死にさせたようです。


この造反に隆信の弟・長信が多久から出撃、伊万里治は多久原(二次史料では多久原ではなく、莇原・小侍(共に北多久)あたりではないかとしている)で臣下の福井山城守にこれを迎撃させるも打ち負けています。

続いて長信が吉志見城を囲むと、波多鎮は先非を悔いて再び帰順、有田盛はこの月に死去、その嫡子はまだ幼少であったため、
盛の後室が家臣・池田武蔵守を遣わし和を乞うたので、隆信は弟・信周の次男を自らの養子とし、
松浦太郎と称させて有田家の養嗣子とした(太郎は後に、朝鮮出兵で兄の家利が病没した為、実家に戻り家督を継いでいる)。

隆信は同年9月に二度目の伊万里攻めに臨んだものの、大村家が助勢した為に落ちなかったため、天正5年の6月に信昌が一計を案じて城を攻め伊万里治は下城、後藤貴明に講和を依頼し、信昌の兄・信房の三男・茂成を治の娘に娶せ養子としたようです。

これに連なり、山代城主・山代清も隆信へ和を乞うた。・・・つまり、伊万里攻めは三度行われていたことになる模様。

『北肥戦誌』と結果こそ同じですが、プロセスが端折られてますね。

また、北肥戦誌には天正3年に西島城の横岳鎮貞が敗北した事になってますが、二次史料では天正6年3月23日としていました。
どうやら『横岳文書』という史料に、天正5年12月28日付けの島原城主・島原鎮豊から横岳鎮貞宛の書状が残っているようで、
「隆信が来春、当郡に至り渡海すると聞いている。事実ならば一戦に及ぶ覚悟である」と申し送っており、

また、有馬鎮貞からも横岳家へ文書が送られており、
「隆信が旧冬に攻めて来たが、然したる事もなかったとし、一戦を遂げて尽くを討ち果たすのは訳もない事であるから、我らに呼応して佐嘉表に至って放火するよう」求めています。

北肥戦誌では、鎮貞は城を退去後、財部村にあったとありますから、そのときに書簡を遣り取りしていたのか、との考え方もできますが。




今夜はヒストリー見てたんだが、九州がほとんど出ないんで飽きて・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

冒頭の島津貴久の「九州、次は天下を狙う」・・・にブッ飛んだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

まだ三州統一どころか、肝属とも伊東ともケリついてないんですけど~

まぁ番組的リップサービスですな( ゚Д゚)y─┛~~

でも義久じゃなくて、貴久ってとこが渋いチョイスだなぁ~

時々出るVIP記者会見が笑える~あれくらいやってくれれば、いっそ清々しい~

【地名に纏わるエトセトラ】江上・八院合戦編11栞94

現在、立花軍大将の小野鎮幸が重傷ですが、ちょっと地名に関するアレコレ挟みたいと思います^^
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戦場になった江上は、大蔵系氏族の一つ、江上氏が治めていた土地でした。

江上氏は中国地方の王者・大内氏のライバル、少弐氏に仕えていました。

その少弐氏が肥前・竜造寺家に滅ぼされ、江上氏も敗れて降伏。

竜造寺隆信の息子に家督を譲ることで、家名存続を許された(早い話、乗っ取られた(;;)

その後、竜造寺VS島津の激突「沖田畷の戦い」に江上衆も出陣。

竜造寺軍が島津軍に大敗北し、江上衆も玉砕してしまいますil||li _| ̄|○ il||l

佐賀・治水の神様・成富茂安ですが、実は江上氏庶流なんです。

江上嫡流・一族は滅びたのですが、成冨の系統が残りました^-^
**********ちょっと司馬遼太郎風に解説*********************

八院・・・九州には●●院といった具合に院とつく地名が多い。

戦国より遥か昔、献上米を収める垣の中に囲まれた倉庫を「院」と呼んでいた。

たとえば真幸院なら、真幸にある倉庫(院)という意味で、いつしかそのまま地名になった。

八院の場合そのようではなく、奈良時代に八院という名の公家が下向した事に由来する。

時代が下り武家が力を持つようになると、時の地頭が租税を怠るようになった。

訴訟となり、八院は浄土寺と地頭とが分割統治することになり、上八院と下八院に分かれ、更に中八院へと分れたらしい。

だがその後も地頭の横暴は収まらず、国人領主・西牟田氏へ討伐の命が下り鎮圧された。

鍋島軍が落とした城島城は、元は西牟田氏の城であった。

天正14年の島津軍北上で城島城は落城、西牟田氏は没落し、その後はハキとしない。

いずれにせよ「院」という言葉には「豊かな穀倉地帯」という響きがあり、八院もまた物成りの豊かな土地であった。

********************************************


立花家紋

さて立花家の家臣、十時(ととき)一族の一人に、十時惟久(ととき これひさ)という少年がいた。

まだ16歳の少年だったが、戦国時代なら立派な成人男子、合戦に出陣することとなった。

惟久少年は、一匹の黒猫を、たいそう可愛がって飼っていた(ネコの年齢・性別は不明)。

だが今回の戦は、鍋島は32000の大軍、対する立花軍は3000と、立花に勝ち目は無く、

生きて帰ることは出来ないだろう・・・と惟久少年は決意した(`・ω・´)キリッ。


惟久少年「さようなら。。。お前は元気で長生きしておくれ。。。」

可愛がっていた黒猫に最期の別れを告げると、泣く泣く裏山の竹藪に捨てたのだった。

1600年10月20日、江上・八院で両軍が激突した。

出陣した惟久少年も奮戦したが、橋の上に差し掛かったところを銃で狙い撃たれ落馬し、鍋島兵に討たれた。

まだ若いが、惟久少年は武勇優れた十時一族の一人として、郎党を率いた騎馬武者だった(今風に言うと「将校」ね^^b)

鍋島兵は兜首を自分の手柄にしようと、惟久少年の首を切り落とし持ち去ろうとした。


「フゥーーーーー!!」

すると突然、どこからともなく一匹の黒猫が現れ、鍋島兵の喉笛を噛み切り、惟久少年の首が入った布袋を加えると、駆け出した。

「ダダァーーン」

慌てた他の鍋島兵が、黒猫を狙撃。

撃たれた黒猫は橋の上から川に落水。

鍋島兵が探したが、黒猫も惟久少年も見つからず、手柄を諦めることとなった。



戦が終わり、村人たちが戦死者を供養しようと川岸に訪れると、そこには惟久少年の遺体と、無数の銃弾に撃たれた黒猫の遺骸が・・・。

その傍らには、黒猫が命と引き換えに守った惟久少年の首があったそうだ。

佐賀県三養基郡みやき町(合併で旧名は三根町)に伝わる伝説で、惟久少年が命を落とした橋は「猫橋」と呼ばれ、橋の名は現在も残っている。

十時惟久少年の供養塔は大木町にあります。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/11/Koteczekdzika.JPG/300px-Koteczekdzika.JPG
(ウィキペディアより黒猫画像)

それにしても・・・鍋島家・・やっぱ基本、ネコと相性が悪いんじゃ・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

さて、大軍の鍋島に包囲され壊滅寸前の立花軍~~それは・またの話 by^-^sio

肥前千葉氏_2【南と北で生き残れ!!】


肥前千葉氏は途中から下総・千田千葉氏と肥前千葉氏に分かれます

下総・千田庄は肥前千葉氏の本貫地

千田庄を受け継ぐものこそが、肥前千葉の総領家なのです


南北朝の動乱期に、肥前小城と下総千田の両方を一人の当主が維持するのは困難でした。

さらに肥前3代目、4代目は2代目胤貞の嫡男、次男でしたが、みな若くして亡くなります。
(記録が少ないので詳しいことは解らなかったです)

そして肥前2代目胤貞の悲願は、下総千葉(胤貞からみて従兄弟)に奪われた宗家の地位奪還でした。

そこで胤貞は、自分の三男に総領の証である千田庄を継がせ、実弟で養子の胤泰を5代目として肥前小城の領地を継がせたのです

胤貞三男は千田千葉氏初代となり、父・胤貞の悲願を受け継ぎます





南北朝の争いは、そのまま千葉宗家の座を巡る争いとなり、それは忽ち下総一円に広がりカオスとなりました。

・・・どうも、その、なんだ下総千葉家は世渡り上手だったらしい( ̄ω ̄A;アセアセ

戦では千田千葉に降伏したのだが、ちゃっかり北朝へ寝返り、下総千葉は室町幕府から安堵を受けて宗家の座をゲッツしちゃうんです。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

千田千葉氏は戦に勝って政治で負けた・・・il||li _| ̄|○ il||l

お約束通り千田千葉氏は衰退し、戦国期には完全に下総千葉の下風に立たされます。

風向きが変わるのは秀吉の北条征伐です。

下総千葉は北条が敗れると共に領地没収で浪人となり、一族は散り散りバラバラになる。

一方の千田千葉は徳川家康の関東入府で召し出された(名家大好きっ子・家康)

旗本直参・・・とは行かなかったが、千田千葉は徳川家臣成瀬家に仕え、犬山藩(藩主が成瀬氏)が立藩されると家老となり幕末・明治へと続く。


肥前千葉家紋

一方、宗家の座を巡る争いの柵から解放された肥前千葉氏は、独自の勢力として成長していく。

後年ですが肥前千葉は対馬・宗氏を通じて朝鮮国とも貿易し、城下は国府と呼ばれるほど繁栄します。


さて、5代目となった胤泰は初代・宗胤の子だが、父が亡くなった時には2歳(別説あり)だったと言われている。

そのため兄で2代目の胤貞に養育されたんです。

九州における南北朝の争いでは、はじめは南朝が優勢だったので、胤泰は南朝方でした。

が、途中で北朝へクラスチェンジします。

理由は北朝が鎮西鎮圧のために「稀代の名将」と謳われた今川了俊を九州探題に任じたからです。

今川了俊は期待と違わず南朝を駆逐し、北朝を勝利へと導きます。

了俊は肥前千葉家との関係を強くするために 自分の弟・仲秋と胤泰の娘を結婚 させました^^

今川仲秋と胤泰娘との間に生まれたのが、今川国秋・・・肥前今川家(江戸期:持永家)です


優秀すぎた了俊は、室町幕府の不興を買い九州探題職を解任。

了俊とともに、弟の仲秋も駿河へと帰っちゃいます^^;

仲秋の妻だった胤泰娘が駿河へ同行したかは不明ですが、息子が肥前に残ってるところみると胤泰娘も肥前に残ったんじゃないでしょうか。

叔父さんとお父さんが駿河に帰っちゃった肥前今川家にとって、縁者は肥前千葉家だけです。

仲睦まじく協力関係にあった肥前今川氏と肥前千葉氏。

それが西国大名のドン・大内家の陰謀により両家は敵同士となるのですが、それは・またの話 by^-^sio

※南北朝~戦国初期の肥前千葉家系図を作るので、次回まで少し間あきます~

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肥前千葉氏_1【いざ(こざ)鎌倉!】

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【はじめに】
肥前戦国史は、肥前千葉氏の家督争いから幕を開ける(とシオは考えてます)
そして肥前千葉氏の家督が迷走した諸悪の根源は、悪の帝国・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
じゃなくて中国地方の大内家です。

そして大内の北九州侵攻を阻む都合上、大宰府の武藤少弐氏も肥前千葉氏の家督に首を突っ込む。
結果、肥前千葉氏は西と東に分かれてしまうのです。

少弐氏と同盟関係だった対馬・宗氏は、肥前千葉の家督に介入することに反対で、忠告しても介入を止めない少弐を見限り袂を分かちます。

大内の勢いに押されジワジワと衰退する名門・武藤少弐氏。
その間隙を縫って、一代で戦国大名へと飛躍するのが竜造寺氏です。

肥前戦国史100年を語るには、その入口である肥前千葉氏を省くことは出来ません。
北九州戦国史の集大成・肥前戦国史第一弾・始まりの肥前千葉氏をお楽しみください^-^

てことで声を大にして言いたいのは、肥前千葉氏こそが下総千葉氏嫡流だ~~~ってことです




諱ループよりクラクラする文字逆転系図。
これしか無いのに、前に地名つけないと絶対間違う罠のような諱でつil||li _| ̄|○ il||l

下総が本拠地の千葉氏が、なぜ肥前千葉へと別れたか?

話は鎌倉時代に遡ります。

下総千葉氏が鎌倉へ行った理由は「元寇」です


元が攻めて来る~~~ってことで、鎌倉幕府では九州に領地を持つ御家人に動員をかけました。

下総千葉氏も肥前小城地頭だった関係で、当主の頼胤が九州の地へ赴いたのです。

ところが頼胤は戦で矢に当たり戦死。享年34歳。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

そこで今度は僅か12歳の嫡男・宗胤が九州へ赴くことになったんです。

兄・宗胤が九州へ行く間、留守を預かったのが2歳下の弟・胤宗です。



あ、念のため~千葉氏の通字(必ず入れる文字)胤です。

で兄弟の共通する宗の文字は、北条時宗から偏諱(へんき=名前の文字を拝領する事)です。

で、この時なんですが、どうやら兄・宗胤は元服はしたけど正式に家督を継がないまま九州へ行ったみたいなんです。( ̄ω ̄A;アセアセ

まさか九州で骨を埋めることになるとは想像してなかったんでしょう( ̄ω ̄A;アセアセ

肥前が気に入って~~~というわけではなく、兄・宗胤は帰りたくとも帰れませんでした。

なぜなら元寇が一段落しても、警戒した鎌倉幕府は「鎮西御家人は(中略)鎌倉へ参向すべからず」と帰還を認めなかったからです。

そのまま肥前の地で兄・宗胤は30歳の若さで亡くなります。

慣れない地で苦労したのでしょう・・・長命してたら下総へ帰れたかもです。 (゜-Å) ホロリ


肥前千葉家紋

細かい経緯は解らなかったんですが、鎌倉幕府では兄・宗胤の方を庶流(肥前千葉)とし、弟・胤宗の方を下総宗家として扱ってました。

兄弟それぞれの息子が、それぞれの家督を継ぎましたが、肥前・胤貞は「自分が正当嫡流」という思いがありました。

無理のない話です。ショボーン..._φ(・ω・` )ダッテホントニソウナンダモン

鎌倉へ出仕すると従兄弟で下総・貞胤の下座に着くのは愉快な事ではありません。

国土防衛の礎として頑張ったのに、宗家の座から滑り落ちるなんて、こんな理不尽な話はないでしょう。

肥前・胤貞自身は、活動拠点の殆どは下総でした。

亡き父・宗胤の遺領があり、そこを拠点としてます。

足利尊氏の打倒鎌倉~建武の新政になると、肥前・胤貞は新政府に仕え、鎌倉方だった下総・貞胤と交戦しています。

とはいえ南北朝の動乱期に、肥前の領地と下総にある領地、両方統治するのは物理的に無理な話です^^;

肥前千葉の小城領地は宗胤の子・胤泰(胤貞養子)が継ぎ、
(肥前・胤貞の実子(3代目と4代目)が早世したので実弟を養子にした)

肥前千葉の下総領地は胤貞の子・千田氏が継ぎ。両家は分れます。
兄・宗胤系と弟・胤宗系の争いは、千田家と下総千葉家の争いと引き継がれるのです。

さて、肥前千葉の初代は肥前で没しましたが、2代~4代までは基本として下総の人。

戦で九州に行くことはあっても、帰る場所は下総なんです。

2代目胤貞も下総へ帰還途中の三河で没してます。

名実ともに「肥前千葉氏」としてのスタートは、5代目胤泰からとなるのですが、それは・またの話 by^-^sio

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北肥戦誌【1577年】

6月、隆信は平戸の松浦鎮信ら下松浦郡の敵対勢力征伐へ出馬する。

龍造寺勢が伊万里に着陣すると、当地の地主・伊万里 治が真先に和を乞うてきた。

続いて松浦鎮信も和を乞い、大曲対馬守を差遣し起請文を差し出す。この為、隆信は平戸まで行く必要がなくなった。

更に山代城主・山代虎王丸が降伏、有田唐船城主にして松浦48党の総領・松浦 盛も家臣・池田武蔵守を派して和を求め、大木の庄山 高も軍門に降って、下松浦はあっさりと龍造寺家に帰した。

隆信は弟・龍造寺信周を有田に置くと、自らは彼杵郡へ討ち入り大村純忠を攻めんと決する。

後藤貴明と松浦鎮信にも兵を出すよう申し送り、伊万里らを催して彼杵郡へ向かった。

先陣は鍋島信生・勝屋勝一軒、二陣は納富家貞・小河信貫、三陣は執行種兼・神代家利、四陣は鍋島信房・龍造寺長信、その他に小城の千葉衆が続き、後陣は隆信の旗本衆であった。

また、平戸勢は軍船を催し大村へ着岸、後藤勢は郡村へ押し出す。

龍造寺の大軍来襲を聞き、大村勢は河内(或いは貝瀬)の要害に数千の兵で籠った。

龍造寺勢は河内に着陣すると、6月20日にまずは城周辺の青田を刈り取る。

城兵はこれを追い払うべく出陣、寄せ手はまんまと敵を誘き出し、一斉に此れを追い立てて城戸口へ押し寄せる。

城兵は城へ入れまいとこれを支える。

鍋島勢の江副兵部左衛門が一番に城へ掛かるも、城兵に鉄砲で撃たれて倒れる。

更に原口平次兵衛も城戸を越えんとし撃たれた。

これに勝屋勢が頻りに攻め立てるも、打ち負けて退く。

鍋島信生は敗退する様を静観していたが、隆信より派せられた《田原伊勢守》より急ぎ勝屋を援けるべしとの下知に、ようやく采配を掲げて共に攻め立てる。

信生は人数を分けて、屈強の者は搦め手へと差し向けた。

城兵は城戸に集中する余り油断しており、搦め手は無勢であった。

副島式部少輔は易々と城へ侵入し敵の首級を取ると、成松信勝・於保賢守も続く。

激戦が続き、双方に討ち死にが数多生じたが、小河但馬守の子・小河源右衛門が城の堀を泳ぎ越して塀を乗り越え、侵入した城内へ火を掛けた。

また、成富信種の次男・成富信安(後に茂安)も走り回って、城の巽の方へ火を付けた。

城兵はもはや支えきれず、悉く城から落ちて行った。

大村純忠は実家である高来の有馬勢からの援軍を頼んでいたのであるが、有馬・藤津の通路を龍造寺勢に塞がれており、止む無く長島の渋江公師へ書状を送って招き寄せ、話合いを持った上で公師を松浦勢の陣へ差遣、隆信との仲裁を頼んだ。

松浦鎮信は、隆信を平戸へ帰して和議を整え、6月26日に起請文を送り、大村(?)家秀を人質に出した。

隆信はこれを応諾、更に純忠の息女を隆信の次男・江上家種の室にするとの約定を交わした。

和睦した隆信は6月下旬、諫早・高城の城主・西郷純堯を攻めるべく諫早へ打ち入る。

先陣は龍造寺康房・小河信貫、二陣は鍋島信生・納富家景、三陣は倉町信俊・龍造寺信時・高木盛房、四陣は内田信堅・横岳家実・馬場鑑周、後陣は旗本衆という陣容で、
他に大村純忠名代・大村左近大夫、松浦栄の名代・松浦蔵人をはじめ、波多・鶴田・草野勢に、西郷純堯の実弟・深堀純賢も来陣し、まずは手始めに宇木城を攻める。

城は防戦し難く、すぐさま城主・西郷玄蕃允は降伏した。

これに西郷純堯は高来の有馬勢に加勢を頼まんとするが、深堀純賢が間に入り和平を勧めた為、純堯は降伏、隆信と対面し、純堯の子・西郷純尚(後に信尚)を隆信の婿とする約定を交わすと、自らは隠居し小野城へ入った。

そして10月14日、西郷一門26人の連署による起請文が提出される。

これに龍造寺側からも起請文が出され、秀島家周を人質として翌年まで諫早へ置いた。

隆信は更に11月、有馬領七浦へ打ち入る。

七浦の土豪・小野兵右衛門を始め、56人が味方に参陣し案内役を務める。

このとき、藤津の嬉野・徳島・上瀧・吉田・永田らが先手となって敵を追い払い、七浦は悉く龍造寺に降った。

次に攻めるは、有馬以下高来の者共であると、12月に島へと渡海する。その数は20,000余騎に及んだ。

まず神代(「くましろ」ではなく「こうじろ」)へ着船、この領主・神代貴茂が隆信に従い様々奔走する。

また島原純豊も隆信の陣に馳せ判じた。

佐嘉勢が大挙して襲来すると聞き、有馬鎮貴(前名:義純)は、急ぎ安富・安徳ら味方を催すと、多比良・三戸の湊へこれを迎えて戦う。

龍造寺勢の先手は打ち負け崩れかかるも、大塚勝右衛門の手の者30余人が必死に踏み止まると、味方はこれに力を得て、取って返して戦うと有馬勢を退けた。

隆信はそのままの勢いで、千々石城主にして有馬晴純の末子である千々石直員を攻めるが、これに有馬の加勢が加わっており、先陣は疎か旗本まで討ち負けそうになる。

このとき隆信の陣には佐嘉光照寺の住持・空圓が見舞っていたのであるが、味方の崩壊を見て、長袖を結んで肩に投げ掛け、長刀を取って、「我は龍造寺興賀・光照寺が寺僧・空圓。実は松永弾正(久秀)が弟なるぞ。出家とて侮るなかれ!」と敵へ切り掛かると、敵を四方八方に追い散らして討ち死にした。

この空圓であるが、近年肥前へ至り、興賀の蜜蔵寺へ仮初めに宿していた処を村中城へ招かれ、隆信夫妻がその法談を聞いてから深く帰依し、
頻りに城下へ留め置いて、隆信が内室の亡き母・光照尼菩提の為に蜜蔵寺を修造して光照寺と改めると、空圓をその住職に置いた。

空圓は生国と俗姓を話さなかったが、此度討ち死にする寸前に初めて名乗った。

隆信は此れを聞いて非常に嘆いた。

隔して隆信は、「今年も終わりが近づいておれば、まずは帰陣致そう」と佐嘉へと兵船を帰した。




松永弾正の弟が肥前に流れてたとは、戦国忌憚だなぁ~

二次資料が結構長いので、コメ欄は次回に開きます。

【リアルも】立花VS鍋島【応援】~江上・八院合戦編10栞93

はじめに、今回の水害で柳川市の堤防が決壊したとの事、心よりお見舞い申し上げます。
これ以上、被害が広がらないように~早期復興を祈念しつつ投稿~~
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これは戦国ゲームの対戦カードではない

九州の関ヶ原~西軍掃討戦において「最も華やかで」「最も過酷」それが江上・八院合戦だ

1600年10月20日早朝。 

鍋島軍32000、五反田本陣から江上方面へ押し出す。

立花軍先鋒1300、八院から江上方面へ押し出す。

互いの顔が視認できる距離までになり、どちらが先に仕掛けるか睨み合った。

対峙したのは時間にすれば僅かだっただろうが、それに焦れた者が立花側にいた。

立花軍総大将・小野鎮幸の与力で松隈少源だ。

松隈は小野の使者と偽り、先鋒5隊の将の一人・安東伊之助に呼びかけた。

松隈「早く合戦を始められよ!大敵に臆すのであれば後続の隊と先鋒を入れ替える!

この言葉を聞き、激した安東隊・石松隊の約500名が、鍋島軍先鋒3000に兵を入れた!

江上・八院合戦は、この突撃から始った




(現在は地形変わって無くなってますが、当時は両軍の間に川がありました)

前回,紹介した同じく立花先鋒の将である戸次統次(べっき むねつぐ)は、安東隊石松隊の突撃に驚いた。

彼らに先を越された!出遅れてなるものか!と突撃し、他の先鋒の将も続いた。

一説には統次の行動は「安東・石松隊が大軍の鍋島に包囲されたので助けようとした」

とあるのだが、途中からエキサイトして忘れてるとしか思えません~~^^;;

統次は、一隊を率いる将でありながら一騎駈けし、そのまま鍋島軍先鋒に突っ込んだんです。

ところが鍋島軍のほうは、たった一騎の戸次統次の想定外の行動に驚き、陣が崩れてしまうΣ(´Д`;) うあ゙

鍋島軍の指揮官・鍋島茂里(なべしま しげさと)の作戦では、立花軍先鋒が川を渡ったところで一斉に発砲するはずでした。

ところが混乱した鍋島軍が命令を無視して発砲を始めてしまいます!(作戦台無し)

この軍令違反は戦後不問にされました。どの隊が最初に発砲したか解らなかったからで、それほど混乱してました。

一騎駈けした統次は、長槍をブンブン振り回し鍋島本陣目指してまっしぐら!

その勢いを誰も止められない!まさに無双状態!

凄い!凄すぎる!味方の誰も追いつけないほどに!,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!



鍋島家紋

ウィキペディア記述だと「鍋島13段(媛記事では12陣)の備えのうち9段まで」統次は突き進んだとあり、五反田の鍋島本陣に肉薄する勢いでした。

鍋島の先鋒である鍋島茂賢(しげまさ=茂里の実弟)が「命危急のため」 

一度、本陣にまで下がったそうですから、鍋島軍12陣の隊列は一時的にしろ完全に崩れたと見て良いでしょう。

鍋島軍は前線の崩れに後続の隊が巻き込まれ、各隊それぞれの持ち場をキープすることが出来ない。

それどころか自分の隊列から逸れた迷子雑兵が続出し、何が何だか分らなくなった!

このカオスの状況から最初に立ち直ったのは、第二陣配置だった竜造寺茂綱(りゅうぞうじ しげつな)です!

( ̄ko ̄)<ほら、例の、関ヶ原遅参のくせに、偶然会った家康から馬を拝領したもんだから、怒った佐賀勢からハブられて名誉挽回に必死な、あの方でつ・・・

茂綱は、自分の鉄砲隊300丁に発砲を命令!立花軍先鋒が次々と倒れた!

一方、一人無双の戸次統次だが本陣近くまで駈け続けだったため、彼を乗せていた馬がバテてきた。

馬の息が上がり疲れが足に来て、ついに思うように動けなくなった。

そこを竜造寺茂綱の家臣・今泉軍助が鉄砲で撃ち、統次が落馬したところを軍助の従卒の衛藤が首を取った。
(一説には川を飛び越えようとしたが、それが出来ず川岸で体勢が崩れたところ・・・とも言われている)

戸次統次・戦死。享年25歳(但し討ち取った人物には諸説あり



立花家紋

最初の混乱が収まると、もともとが32000の大軍の鍋島だ。

立花の先鋒を包み込んで攻撃~豊富な鉄砲でもって、つるべ撃ちに撃ち掛けて立花兵を次々撃った。

その多さは、倒れる立花兵の数が数えられなかったほどだと言われている。

鉄砲の後は弓隊とセオリー通りに攻撃、なおも戦おうとする立花兵に対しては、数人がかりで切り伏せて首を取った。

多勢に不勢・・・もはや屠殺に近いショボーン..._φ(・ω・` ) 

だが確実に倒すには「これ」しかない。立花の主力精鋭を殲滅しなければ鍋島家が取り潰しになってしまうんです。

戦争なんです。生き残るためには、見た目のカッコ良さとか、手段なんて選んでいられない。

安東、石松、矢島、十時、三池(元・大友氏同紋衆)など、他家にも知られた武将たちや一族が次々討たれた。
鍋島軍では、戦後「功績あり」と選ばれた「柳川七騎」がいる。
七左衛門・牛島監物・相浦三兵衛・秀島四郎左衛門・田代猪之助・田代大右衛門・残り一名は名前不明。
竜造寺茂綱の隊だけで360の首級をあげ、「柳川七騎」牛島監物の所属する隊だけで600の首級を上げた。
立花軍第二陣の戸次鎮実(べっき しげざね)は、先鋒が鍋島軍に包囲されたのを見て、助けようと横合いから攻撃するも、大軍の鍋島軍に囲まれてしまい殲滅された。

戸次鎮実と息子善次郎17歳が討ち死。


立花軍総大将で第一陣を率いる小野鎮幸は、それまでは両軍の間にある川の一の橋・二の橋・三の橋を押さえ堅守していたが、
やはり先鋒を救おうと兵を進め、鍋島軍の横合いから攻撃をしかけた。

が、こちらもアッという間に鍋島軍に包囲され、次々討たれ1000名が10数名にまで減った。

小野自身も左の乳下に銃撃を受け、さらに足に矢傷を負い自力で立つことが出来なくなる。

このまま総大将討ち死?

立花は一矢報いることも出来ずに敗戦なのか?それは・またの話 by^-^sio

北肥戦誌【1576年】その2

隔して犬塚と徳島は藤津へ進軍し、森と云う場所へ要害を設けて、有馬勢と退陣する。

隆信は、両人からの度々の注進を受け、1月20日に10,000余騎にて須古を発つと、2月初旬に竜王峠に着陣した。

犬塚・徳島が出迎えると、隆信は両人を案内役に藤津へ進軍する。

隆信は2月6日に軍を二つに分け、自らの旗本衆3,500は浜付を押さえ、残る6,500に横造の城を攻めさせた。

先陣は犬塚・徳島、二陣は鍋島信房・鍋島信生、更に三陣・四陣と催して横造城攻めを開始する。

この城には有馬家臣の深町尾張守・原左近大夫・原十郎・原五郎・岩永和泉守が加わり、城兵2,000余騎が大手の江で龍造寺勢を抑えた。

先陣の犬塚・徳島は軽卒を進め、矢玉を放たせて敵数十人を打ち倒させると、城兵を押しこめて柵を作った。

これに原・深町らは喚きながら切り掛かり、柵を破って犬塚・徳島勢と戦う。犬塚・徳島勢は討ち死にが多数出て、あわや犬塚弾正も討ち死にかという瞬間、二陣の鍋島勢がこれを援けて続く。

だが、勝ちに乗る原・深町の攻撃に鍋島勢も打ち負ける。

これを見て、佐嘉勢の中から北島兵庫助・水町彌太右衛門・江里口九郎右衛門らが飛び出し、崩れた味方を引きたてて激しく戦う。

それでも城兵は尚も強力に防戦し、双方討っては討たれが続く消耗戦の様相であった。

そんな最中、有馬方に居た藤津は日守城主・宇禮志野(嬉野)直通が、どういうわけか防備を引き払って龍造寺側に寝返った。

この動きに、相備の原豊後守・永田備前守・吉田左衛門大夫も味方の陣から離れて、越後守と共に城兵と戦い始めた。

これに城兵は動揺し、陣が崩れた為に城内へ入らんとするが、永田・吉田・嬉野が後ろを遮った為に進めず、この機に左右に廻った龍造寺勢により、深町尾張守ら大将達が皆討ち取られた。

そして遂に城戸口を破った龍造寺勢は、城内所々へ火を掛けて城兵を焼き立てる。

城兵は煙たさのあまり防ぎかね、悉く討ち取られて城は落ちた。

有馬勢300余人が討ち死にした。

この勝利により、鷲ノ巣城と鳥附城は龍造寺勢が攻める前に城兵が立退いた為、隆信は鳥附(鹿島)へ陣を移した。

ここに於いて嬉野直通・嬉野通益・その子息嬉野興右衛門尉・嬉野大和守・原直家・吉田左衛門大夫・永田通清・久間薩摩守・上瀧盛貞らを始めとした者らが我先にと参陣して、龍造寺に従う。

隆信の軍勢は更に膨れ上がり、すぐさま浜の松丘城を攻める事になった。

有馬義純・義直はこれを聞くと、合戦を避けて松丘の陣を払い高来へ退いた。

隆信はしばし鹿島の陣へ留まる。

その間に、龍造寺家に属した藤津の嬉野・永田・原・上瀧・吉田らに本領の安堵を許した。

また、犬塚弾正を犬塚益家と改名させ、森岳城へ入れてこの郡の新領地200町を与えた。

徳島左馬助を筑後守とし、新しい領地を与え、松丘の城へ修理して入れると、徳島の与力に横岳家実を副えた上に、上瀧志摩守・辻甚七・永田左京らの手寄衆を各番に入れ置いた。

鷲ノ巣には嬉野興右衛門を入れ、鹿島の城へは鍋島信房を入れて、有馬への抑えを形成した後に、隆信は須古へと帰城した。

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二次資料より

嬉野直通は、『北肥戦誌』では横造城攻撃中に龍造寺家に寝返った様になっていますが、
『普聞集』では予てより隆信に誼を通じて鹿島城にあったとされ、
1576年に有馬家は、深町尾張守(または美濃守)と原左近大夫(または清十郎)に直通を攻撃させたとあり、
このときに直通は隆信へ援軍を求めたが、隆信が東肥前に出征中であったため叶わなかったとあるようです。

また、日守城主である筈が鹿島城主とある点ですが、嬉野家に『越後入道宗佐(直通)伝』という史書があるそうですが、
それには「日守城を僻地として自ら新城を鹿島の渡し口に構えて攻守三年」と記されている様で、この戦いのときには移転していたようです




余談ですが、文中の徳島氏は肥前千葉氏庶流です。

徳島氏の家祖は肥前千葉氏7代目・千葉胤鎮の孫です。

超絶レアだろうなぁ~徳島氏を知ってる人います?(==)

肥前千葉氏用



九曜に半月










自作家系図~鎌倉時代~南北朝


自作千葉系図~南北朝ー室町用

北肥戦誌【1576年】その1

●天正4年(1576年)

須古城へ移り住んだ隆信は、この年の正月、藤津の松丘に居る有馬義純、鷲巣城の有馬義直、その他 横造城・鳥附(鹿島)城にいる深町尾張守・岩永和泉守・原左近大夫を攻めるよう述べる。

しかしこれに鍋島信生は、
「案内知らぬ敵地へ、うかうかと馬を向けられるのは如何に御座いましょうや。先ず先立って人数を差し向けられ、敵と相対してその分限の程を量られてから、大将を任じて攻め掛かるべきかと」と述べる。

隆信は同意し、誰を差し向けるべきかと思案し、筑後へ浪人していた蒲田江の犬塚鎮家と蘆刈の徳島信盛は武勇の者であり、この二人を藤津へ差し向けるべしと評定は決した。

犬塚の居る筑後へは勝屋勝一軒が使いし、徳島へも使いが立った。

犬塚は、自らの小舅たる小田鎮光が隆信の謀計に陥り、佐嘉へ赴いた為に死した事を思い出し即答はしなかったが、
勝屋の説得に折れ、嫡子・掃部助、次男・平内、三男・九郎次郎、犬塚美作守、犬塚兵部少輔、栗山備後守、中田町石見守ら近しい者40余人、雑兵200余人を率いて、直に須古城へ赴いた。

隆信は
「年来の怨心を翻され、藤津への加勢を頼みたく思う」と述べ、
備前鍛冶の太刀一振りを犬塚弾正へ与え、同作の脇差を嫡子・掃部助へ下賜した。

犬塚は畏まって退出する。

犬塚家臣・栗山備後は大剛の者で、三日月の如くに反り返る三尺五寸の太刀を鷗尻(かもめじり:太刀の尻を上に反らせる)に横たえ、座敷の次まで押し入り、
もし犬塚弾正にもしもの事があれば隆信に一太刀浴びせようとの気配であったが、何事も無く退出する。

次に隆信に会した徳島も了承し座を立った。





【進軍コースなぅ】江上表・八院合戦編9栞92

【予告:栞100記事目で、肥前千葉氏編1話目アップします(ただいま92話目(*´pq`)クスッ】
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先日、某ふ●様から疑問難問質問あった~

疑念というのは「なぜ鍋島親子は、こんなに遠回りしたんだろう」です


・・・・・・・・・・・・Σ(´Д`;) うあ゙~記事で端折った部分ですわぁ~

ゲスブに言い訳・・・もとい返事してたんだけど、指疲れてきたんで(携帯からだった)記事にしちゃった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

直茂パパコース:14日出陣⇒16日久留米城(久留米市)落とす

勝茂クンコース14日出陣⇒筑後川渡河、柳川領侵攻⇒16日立花の梅津城落とす

17日に大善寺(久留米市)で合流~つまり一度柳川領に入った勝茂クンは引き返してるんです





ちなみに久留米市大善寺は、この地図に入りきれないほど遠い。

西鉄天神大牟田線でいうと真ん中上部にある犬塚駅の次の次が大善寺駅。

そこから城島方面(地図左上上部の城島中学あたり)へと、鍋島軍は遠回りしてます。

あぁ、確かに土地勘ある人なら「なんで?」と思うコースですわ~( ̄ω ̄A;アセアセ

キーは、黒田如水が久留米にいたことだと推測してます

16日に直茂パパンが久留米城を落とした時、これは単独ではなく黒田如水軍と合流してのことです


九州における東軍は如水が中心的役割を果たしていました。

息子・長政を通じて家康とのパイプもバッチリ(=^・ω・^=)v ブイ

史料の裏付けがとれなかったので、あくまで推測ですが、直茂パパンは立花軍と雌雄を決するために、如水と今後の打ち合わせをしてるはずです。
(てか、合流してて何も無い方が不自然)

直茂パパンが、息子・勝茂を久留米に呼び返し合流したのは、如水(または意を汲んだ家臣)を交えて最終打ち合わせする為。

そして鍋島の遠回り進軍コースは、如水&加藤清正の水田(筑後市)到着タイミングと合わせる為じゃないでしょうか?


久留米を落とした後の如水は、軍を割いて(兵数不明)如水自身が率い、清正と合流するために筑後市水田に向かっています。

単純に、西軍残党として立花を攻めるのだけが目的なら、柳川へ直行した方が速いです。

それを、鍋島親子と如水&清正・・・手間かけて別々に合流したのは、鍋島と立花との決戦を如水と清正が臨時軍目付として見届けるためでしょう。

元西軍だった鍋島の「東軍への忠義」が本心からなのかを、彼等は確認しなきゃいけないからです。

鍋島の方も、如水と清正に視てもらわなきゃ意味がない。

鍋島が生き残るため、元西軍の黒歴史を払拭する軍事的手柄・・・家康への馳走は必須だからです。

皆がタイミング良く、所定の位置に揃うためのタイムラグを調整した~というのが記事で端折った、進軍コースに対するシオ推測です。


鍋島家紋

さて、これまでが政治的な理由、ここからは軍事的な理由になります。

攻城戦の場合、守る側の立花と違い、攻撃する鍋島は時間と場所を選べます。

ところが野戦決戦となると、地の利は柳川の立花にある。

家康の機嫌損ねるから長期になる(かもしれない)攻城戦はダメ、野戦決戦で立花精鋭を撃破しなきゃならない。

主力軍さえ潰せば、いくらなんでも籠城なんてしないで開城降伏するはず、だって西軍そのものが関ヶ原で負けてるんですもん。

鍋島が勝利をより確実にする為には、挑発して引っ張り出した立花精鋭軍を、鍋島の望むバトルフィールドで待ち受ける事がベスト

そのための如水との別行動で、そのための遠回りなんです


どんなに秘匿しても大軍の行動は、戦場感優れた者の嗅覚を逃れることは出来ません。

その感覚が優れているからこそ、如水と鍋島が別行動した事に、立花では迷いました。

そこで如水への牽制として、薦野成家隊300を割くことにしたんです。

籠城か・・・野戦決戦か・・・鍋島から「果たし状」を突きつけられ「野戦決戦」と衆議が決した立花家中。

だが鍋島の進軍コースが遠回りなので、本当に野戦決戦になるか立花側では確証持てません。

鍋島が城島城を落とした事で、ようやく立花側にも鍋島軍が何処を目指しているかハッキリしたんです

筑後川を越え城島を抜けると、そこは雪国ならぬ江上方面五反田です

鍋島が先に五反田に陣を布いたので、立花は反対側の八院に陣を布いた・・・


他領に侵攻する場合、己の軍行動、その目的地を秘匿するのは、むしろ当然ではないでしょうか。

遠回りの進軍コースを見ても、鍋島全軍の指揮を執る鍋島茂里は非常に優秀だと思います。

立花に倍する兵力、猛者たちの足を止める豊富な銃火器、立花より先に陣を布いて有利に立つ

立花精鋭軍を押し包み潰してくれるであろう、茂里考案の立花シフト

まさにパーフェクトミッション

九州における西軍掃討戦で「最も華やかで」「最も過酷」それが「江上表・八院合戦」だ


次回「鍋島VS立花・両軍激突」それは・またの話 by^-^sio

【立花軍団・先鋒】江上表・八院合戦編8栞91


1600年10月20日早朝~朝もやの中、鍋島軍32000は五反田に本陣を置いた。

鍋島直茂から軍配を預かっている(=全軍の指揮権を与えられている)のは、直茂の親族・鍋島茂里だ。

彼は軍を12陣(ウィキペディアでは13段)に分けてシフトした。

遅刻の失点を挽回すべく必死の竜造寺茂綱は、第二陣に配置(=^・ω・^=)v ブイ

一方、対する立花側は川を挟んで反対側の八院に本陣を置いた。

両本陣の距離は約2・2km。



・鍋島軍は左上の城島中学校の方角から江上方面へ(五反田は、そのあたり)
・立花軍は真ん中の大木町役場から江上よりの八院へ(八院の地名は現代も残ってます)
・現在は地形が変化してますが、江上と八院の間に河川があったんです^-^

立花野戦軍・総大将の小野鎮幸は、この時に立花の第三陣2000名から1300名ほどを選抜。

それを5隊に分けて先鋒軍とし、残った700名は第二陣と第一陣に振り分けた。 

これが小野の常のやり方なのか、鍋島の大軍を前に改めて精鋭を先鋒に選んだのかは、分りませんでした^^;

先鋒5隊の隊長は、安東、石松、戸次(旧姓・森下)統次、他2名です。


突然、話は遡るのですが、
( ̄ko ̄)<実は立花宗茂と加藤清正は揉めたことがあるのでつ

それは天正18年(1590年)北条討伐と奥州仕置が終り、天下統一が果たされた年でした。

加藤清正の家臣で罪を犯し肥後を出奔した者がいました。

個人的にツテがあったのか、罪人は国境を越えて柳川へ逃亡し、宗茂の家臣に助けを求めた。

加藤家の罪人を匿ったのが、戸次統春(べっき むねはる)で、亡き立花道雪の実甥でした。



統春の実父は彼が2歳の時に戦死したので、彼は道雪の手許で育ちました。

性格は高潔にして仁者、武勇優れた若者で、道雪自慢の甥っ子だったのです。

当時、立花家の主君だった大友宗麟が「男子がいない立花の家督を(自慢の)甥に継がせたら?」と打診したんです。

道雪「(手塩にかけて育てた大事な)甥は、実家(戸次家)に残します」と断り、
高橋家の跡取りだった宗茂を立花のムコ養子に引き抜いたんです。

人様の嫡男をムコ養子に~・・・だなんて本来なら無理筋よ ネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

まぁ道雪にとっては、実弟が4人も戦死しているので、実家の戸次の家督がが非常に心残りだったんです。

宗茂も統春も道雪の薫陶が行き届いた人格者なんで、家督での確執はありません。

統春は叔父の道雪亡き後も宗茂に良く仕え、数々の手柄を立てて、宗茂も彼を頼もしく思い信頼していました。

立花が柳川13万石の大名となり、全て万々歳ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ になると思った矢先に起きたのが、先に挙げた加藤家罪人の逃亡騒ぎだったのです。


加藤清正イメージ画像

逃亡先が立花統春の所だと知った加藤家は、使者を遣わし罪人の引渡しを要求した。

罪人が「統春様に御迷惑はかけられません。ここまで匿ってくれただけで充分です。自首します(´・д・`)」

と言ったので、不憫に思った統春は、加藤家の使者に罪人を引き渡す代わりに条件を付けた。

統春「この通り罪人は逃亡の心配はありません。ですから捕縛して縄を打つような恥辱を与えないで下さい」

加藤家使者だが、清正の家臣にしては不心得な男だったらしい。

統春には調子良く返事をしながら、城を一歩出た途端に罪人を打ち据え縄で縛りあげてしまった。

その様子を見ていた統春は当然、怒った!「あの卑怯者め!懲らしめてくれる!」

狙い定めて弓を絞って矢を放つと、加藤家使者のチョンマゲにクリーンHIT!

髷(まげ)を結んでいる髻(もとどり)が切れ、バサッと髪が解けて落ちた!

その姿は、かわゆ~く云うと童ヘア・悪く云うと落ち武者ヘアだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

加藤家使者は狡い男で、主の清正に自分の卑怯な振舞は言わず「一目で分る自分の被害だけ」報告したのだ。

天正18年の頃の清正は、まだ肥後を拝領したばかりだったのと、
「九州の諸大名に舐められることが無いように」と秀吉から言い含められていた。

そのため九州の諸侯に何事につけて、わざと尊大で強調子な態度で接していた。

だから使者の報告を一切吟味せずに、統春の主である立花宗茂へクレームをねじ込んだのです。

まだ大名になったばかりで立場が弱い宗茂は窮して、清正を納得させるため統春へ切腹の処断を下した。

もちろん宗茂の本意ではない。 

宗茂は統春を助けようと、切腹の検分役に逃亡の手助けをするように言い含めていた。

だが統春は「自分のしたことで主の立場を苦しい物にしてしまった。」と自ら切腹したのです。

享年27歳。統春には子供はいなかったが、妻がいました。

統春の妻は
「窮鳥が懐に入ったら助けるのが武士ではありませんか!加藤家のやり方は、夫の名誉も主君・宗茂公の名誉も傷つけました!これでは武士の面目が立ちませぬ!」と言って夫の後を追い自害。

統春の家臣らも「このような高潔な主君には二度と仕え難し、お供仕らん」と次々自害。

合計11人の殉死者が出たΣ(´Д`;) うあ゙


立花家紋

天正18年・・・あの時は清正も宗茂も・・・そうする他は無かった・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

それから10年・・・何しろ父の仇の島津ですら許した宗茂だ。統春の死に関して清正へ遺恨は無い。

だが道雪の甥の家が絶えるのを歎き、立花家の家老・森下釣雲のから三男を貰いうけ、統春の家名を継がせた。

それが「江上表・八院の戦い」で先鋒に選ばれた戸次三大夫統次(べっき さんだゆう むねつぐ)です^-^

鍋島の先鋒にいる竜造寺茂綱が佐賀で生きるために懸命なように、
立花の先鋒に選ばれた戸次統次にも同じく背負うものがあったのだ。

家臣11人も殉死が出るほど立花家中の誰からも愛された戸次統春・・・・・

雷神と讃えられた名将・立花道雪の実甥という「特別な家」の家督を継いだ三大夫統次は、
戦場において誰よりも勇敢でなければならなかったのだが、それは・またの話 by^-^sio

北肥戦誌【1575年】於安が再婚・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

昨年、隆信へ異心を抱かないと約した後藤貴明であったが、どうにも対立する気持ちを捨てていなかった。

そんな中、貴明の一族・後藤貞明が佐嘉へ心を転じ、龍造寺勢を差し招いた。

3月中旬、隆信は塚崎を攻めるが城が堅固であった為、隆信は止む無く田原尚明を使者として貴明と和睦した。

両家は起請文を取り交わし、隆信の三男・善次郎家信(鶴仁王丸)を貴明の養子として貴明息女・槌市に娶らせ、貴明の実子・彌次郎清明を隆信の養子とした。

貴明は杵島郡蘆原に隠居し、天正11年8月2日に卒去している。


この年、隆信は20歳となった嫡子・龍造寺鎮賢(後に政家)へ家督を譲らんと思い立ち、須古の高岳城を隠居所とするべくその普請を命じた。

これに勝屋勝一軒・小林播磨守・成富信種が普請に当たった。

またこの年、上松浦の波多親へ於安を嫁がせている。


同年、隆信は、元亀3年(1572年)に攻城に失敗した、三根郡の横岳鎮貞の西島城を落とすべきと、弟の龍造寺信周・龍造寺家晴に兵を与えて、東肥前へ差し向けた。

城は堅固であったが、此度は少弐政興も、大友勢も加勢には来ず、
鎮貞は、既に龍造寺方にして隆信の義弟であった一族の横岳頼続の説得により、龍造寺家と和睦して西島城を退去、自らは男女悉くを連れ財部村へ入った。

鎮貞はその後、龍造寺家に属して名を「兵庫頭家実」と改める。


西島城が落ちると、龍造寺の諸勢は、次は筑後の貝津城主・安武家教を攻めるべしと、三根郡から貝津へ入った。

家教は元亀3年(1572年)に和を請い起請文を提出していたが、再び背いていたものである。

先手の横岳頼続・坊所尾張守ら2,000余騎が鬨を作って攻め入らんとすれば、城内は不意の事で大騒ぎとなり防戦に至らず、
家教は先非を悔いて再び和を請うと、妻子を連れて城を明け渡し豊後へと去った。

その後、家教は筑後へ戻ると、人質を出して龍造寺家に仕える。

隆信は貝津城へ横岳頼続を入れて護らせた。

また、この際と所領替えが行われ、三根は中の城主・馬場鑑周を杵島の小田へ移して有馬の防衛に当たらせ、綾部鎮守を横辺田へと移した。


須古城普請が12月(11月?)に完成し、隆信はここへ移り住む。この普請は隠居の為だけではなく、有馬勢たる彼杵・藤津の反抗勢力の征伐の為であった。

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二次史料より

『龍造寺文書』にあるようですが、松浦鎮信は父との連署で、1575年5月6日の時点で龍造寺隆信へ誓紙を提出していたそうです。
『北肥戦誌』では恭順は1577年で、その間に有馬領を侵してますから(恭順の時期により)多少意味合いが変わってきてしまいますね^^




武家の風習では、だいたい二十歳を目途に家督を継がせるんだそうです。

もち実権はパパンにあります^^b

ところで竜造寺政家なんだけど、どれだけ病弱だったか謎なんだよなぁ(-ω-:)ウーン

逸話にあるほどのダメな子なら、なぜ隆信が廃嫡しなかったかが不思議なんです(-ω-:)ウーン

もうちょい調べるか・・・φ(.. ) メモメモ

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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