【北肥戦誌・1579年】その1
2月10日に、昨年起請文を提出した田尻山城入道宗達(旧名:山城守鑑乗)へ、鍋島信生も起請文を提出、同月26日に現当主・龍造寺鎮賢(後に政家)も提出した。
これに伴い、宗達の甥・田尻鑑種も、宗達と甥の蒲池鎮並に勧められ龍造寺家に通じた。
3月、隆信は大軍を催し、再び筑後へ攻め込む。
この折り、田尻鑑種も隆信の陣へ参じた。
隆信は大いに悦び、田尻鑑種・蒲池鎮並の両名を案内役に、瀬高庄を通って竹井村に着陣、先ずは古賀城主・三池鎮実を攻めるべしと、3月20日に佐嘉勢は古賀城攻めの為に尾嶺に陣を布く。
これに三池鎮実は隆信へ降伏する旨を表した。
田尻鑑種は三池の妻女の兄弟である為、この仲介に奔走、田尻の舅である肥後は筒岳城主・小代伊勢入道宗禅とも話合った結果、三池に対し降参するならば人質を出すよう申し述べた。
だが、三池はこれを承服しない。
田尻は筒岳城に赴き、小代を伴った上で改めて三池を説得するも、やはり応じなかった。
小代は三池に、
「田尻とは義理の親子であるが、今は龍造寺に味方し敵であるから、打ち果たすべきか」と内談する。
もはや田尻も打つ手がなかった。
「田尻とは義理の親子であるが、今は龍造寺に味方し敵であるから、打ち果たすべきか」と内談する。
もはや田尻も打つ手がなかった。
そんな折、小代入道の妻が田尻の陣へ現れ、
「此度夫の宗禅、三池と同心し、龍造寺と弓箭に及ぶならば、忽ち家名を失う事となりましょう。
そこで、子孫を絶やさぬ為と思い、宗禅へも申さず自ら人質となり、隆信公の陣へと連れて行って頂きたく参じました」と述べた。
「此度夫の宗禅、三池と同心し、龍造寺と弓箭に及ぶならば、忽ち家名を失う事となりましょう。
そこで、子孫を絶やさぬ為と思い、宗禅へも申さず自ら人質となり、隆信公の陣へと連れて行って頂きたく参じました」と述べた。
田尻はその意を汲んで、その女中を同道して隆信の陣へ連れて行き、小代入道に別心なき旨を伝えた。
隆信はその首尾を認め、小代入道の妻が姑という事で田尻の鷹尾城で預かるようにした。
結局、三池は人質を出さなかった為、佐嘉勢は三池領へ討ち入り、青麦を悉く薙ぎ払う。
三池は本城にあって、まずは龍造寺勢を引き取らせようと評定している最中に、小代入道は自らの妻が人質となった事を聞き憤慨した。
そこで芥田神という処へ小勢を出して佐嘉勢に矢を射掛けんとする。
鍋島信生勢がこれに馳せ向かい、追い崩して樫野まで焼き払う。
隔して田尻は、三池勢を打ち崩すと申し出て、これに佐嘉勢が少し加わり三池勢へ打ち掛かると、負傷者を多く出しながらも打ち崩した。
隆信は竹井に陣を布き、三池本城を攻めるべく軍勢を差し向ける。
後藤家信を大将に、先陣は田尻鑑種、二陣は蒲池鎮並、三陣は鍋島信生、四陣は神代長良の名代・神代家利と千布家利、五陣は横岳頼続、他に筑紫広門・安武家教・豊饒鎮連・堤貞之以下、三潴・山門・三根・養父・佐嘉・神埼らの軍兵を従え三池へ討ち入った。
まず先方の田尻・蒲池の軍勢に堤家の下田勢が加わり一の城戸を打ち破る。
これに佐嘉勢・養父勢・山内勢が加わり城内へ攻め入らんとするも、城兵は二の城戸で奮戦する。
武藤貞清が火矢を以って城外の櫓を焼失させる事に成功するも、城戸を破る事叶わず、朝から日没まで敵味方入り乱れての戦いに決着が着く様が見えなかった。
その上、酉の刻に至り大雨が降り始めた為に、双方退くしかなかった。
だがその夜、三池は風に紛れて城を退去し行方知れずとなっていた。
隔して労せずして城を落とした寄せ手は、勝ち鬨を上げて引き退いた。
次に隆信は小代入道を攻めるべく芥田神へ進み出た。
先手・蒲池鎮並は小路口へ攻め入り奮戦する。
時に又米山に小代家臣・荒尾家経の2,000が打って出る。これに鍋島信生3,000が相対せんと動いた。
だが、荒尾は何を思ったか、一戦に及ばず引き退く。
鍋島勢はそれを追い掛け、町小路に火を放って、小代入道の梅尾の館を焼き破り、喚きながら戦う。
小代入道並びに嫡子・小代親傅はもはや防戦ならず、筒岳の本城へ登って木下四郎兵衛まで懇望を以って降参する旨を述べれば、鍋島信生はこれを許して合戦を止めた。
このとき筑後国八院の鐘ヶ江長門守・菅原家続が龍造寺家へ起請文を提出する。
また、肥後国隈本城主・城親冬も龍造寺家に人質を出した
(※城氏は島津氏へ起請文を提出した筈なので、この記述は俄かには信じられない)。
(※城氏は島津氏へ起請文を提出した筈なので、この記述は俄かには信じられない)。
蒲池氏抹殺のカウントダウンが始まるでつ ショボーン..._φ(・ω・` )
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