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龍造寺家兼_5【水ケ江竜造寺家誕生】


肥前千葉氏の家督に介入したのを契機に、亡命生活にピリオドを打った少弐政資。

1487年には大宰府に復活した。

ちなみに肥後の相良家は御家騒動の真っ最中です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

7月20日に文明から長享(ちょうきょう)に改元したが、少弐が行動を起こしたのは改元後らしい。

長享元年?月?日~渋川萬寿丸25歳が、筑前亀尾城で家臣の足助森戸に殺された

この事は少弐の画策ではなく、渋川内部で何か揉めたらしい。

なぜ家臣が生害を働いたか、詳細は解っていない。おまけに家督を継いでいたであろう萬寿丸の諱も解ってない^^;

渋川の揉め事を聞きつけた少弐政資は、亀尾城を攻撃し落とす

綾部城には萬寿丸の弟・刀禰丸がいたのだが、これも少弐が攻撃

刀禰丸は未だ幼少だったために、城を捨て筑後へと亡命した



1489年(長享3年)1月23日~少弐政資と渋川刀禰丸が、肥前養父の城山で激突


ちなみに東千葉の興常が、渋川へ加勢してます。

残念ながら渋川方が敗れ、渋川刀禰丸は筑後犬塚城へ逃げ込む。

1490年(延徳2年)?月?日~少弐は西肥前・東肥前を制圧し筑後へ進軍

(前年の8月21日に延徳へ改元)




(-ω-:)ウーン~西肥前ってありますが、松浦党は未だ配下じゃないです。

ちなみに、1490年は鍋島清久(直茂の祖父)が産まれ、肥後では上村頼興(相良義陽の祖父)が産まれています。

一般的に知名度のある戦国武将たちの、祖父世代が誕生しはじめた頃です^-^

少弐が筑後へ進軍・・・と書きましたが、筑後は大友家が支配しています。

そこへ少弐が兵を入れたのは、大友政親の協力があったればこそです。

大友は北九州を巡って、少弐のライバルである大内家と何度か交戦しています。

敵の敵は味方。

大友は大内と対抗するために少弐とファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!
てな感じで度々タッグを組んでいる実績?があるんです^^b

哀れ渋川刀禰丸クンは、大友+少弐の攻撃に筑後・犬塚城からも追い出された・゜・(PД`q。)・゜・アンマリダ


逃げ出した渋川は、この流れですから大内の庇護下に入る。

で、落城させた犬塚城へは大友配下・蒲池城主蒲池繁久の弟・家久が入る。

以後の蒲池家久は「犬塚氏」を称した・・・筑後・犬塚氏の誕生です(=^・ω・^=)v ブイ

この状態を指を咥えて眺めている大内家ではない。

1491年(延徳3)?月?日~東千葉の興常が、大内のバックアップで西千葉の胤資(少弐の実弟)と戦う

西千葉に勝利した千葉興常が牛頭城をゲッツ(=^・ω・^=)v ブイ


牛頭城は肥前千葉氏の居城です。

肥前千葉が招聘した祇園社もあります。

西千葉氏は、肥前千葉家の嫡流でありながら、その象徴たる居城を東千葉氏に奪われたんです。

これ以降、東千葉氏は祇園千葉氏とも呼ばれ、あたかもこちらが本家のように振る舞います。
(おかげで最初、どっちが本家か混乱した^^;)

西千葉の後ろ盾である少弐は、再び勢いを取り戻そうとしていましたが、
東千葉に敗北したことで西千葉氏そのものは求心力を失って行くのです。

これでは少弐が肥前全てを制圧したことにはなりません。

肥前は以前として、少弐と大内の綱引き状態が続いたままです。

1492年?月?日~竜造寺家兼、40歳にして水ケ江に分家を立てる



竜造寺家紋

知名度の割に知ってる人は少ない竜造寺の本家と分家。

その歴史は意外に浅く、水ケ江初代は家兼ジーちゃんなんです^^

本家は村中城の竜造寺家^-^

ゲームなんかの地図だと水ケ江城は、村中城の御近所すぎてデータ表示されません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

や、ほんと近所、小一時間あれば余裕で往復できる( ̄ω ̄A;アセアセ

水ケ江城は、もともとは家兼の父・康家の隠居城でした。

父の没年は不明ですが、その死後に家兼が城を相続し城主となってたんです。

家兼が別家をたてたのは、肥前千葉の東西分裂と無関係ではないと思います。

少弐と大内の駆け引きは、ますますヒートアップするだろうから、竜造寺が無関係でいることは出来ません。

竜造寺が配下になってる西千葉当主は、少弐政資の実弟だからです。

一方で肥前国主とまで尊崇された肥前千葉が、東西に分裂したことで勢威が衰えた。

その分、肥前における竜造寺家の地位が重きを置かれるようになったのではないでしょうか。

大内の脅威や東千葉に対抗するためとはいえ、
竜造寺家は分家を立てられるまで地盤や勢力がシッカリしてきたということでしょう。

この時は少弐にとって竜造寺は「使える配下」でしたが、
竜造寺の勢力が増すにつれ「脅威になった配下」へと変化していきます。


少弐家紋

1493年(明応2年)少弐は伊万里氏と渋川旧臣を討つために上松浦へ出陣。

北肥戦誌だと西千葉の胤資と竜造寺康家と高木家益が従軍したことになってるんだが、
竜造寺家兼か胤家か家和の間違いじゃないかなぁ~

いくらなんでも康家トーちゃんは死んでるんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

それとも地味に存命してて、分家は康家トーちゃんの決定だったとか~
このあたり没年不明なんで何とも言えません。

少弐は翌年1月になると、今度は下松浦に攻め入る。

波多氏・鶴田氏・相知氏・有浦氏は戦う前に降伏。

青山城を一日で落城させると、今度は筑前・高祖城の原田興常を攻撃。

4月になると平戸城が少弐に降伏。

大内氏だが、義興が父の病気により家督を継ぎ当主となった

当主となった大内義興は早速行動~
足利将軍家から「少弐退治」の上意を賜るのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_4【肥前千葉氏・東西分裂】

書庫を変更しました。連続した内容は1~9の書庫。相互関連する書庫は☆★マークの書庫です。
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1486年(文明18)北肥戦誌によると、この年の5月17、18日に洪水が発生している。

地域は豊後・筑後・肥後で人民牛馬が数多死亡してるとのこと。

豊後は解らないけど、肥後筑後なら菊池川が氾濫したのかな?

飢饉の記述はないが、この年の農作物は不作だったんじゃないだろうか。

さて、月日は不明だが後に西千葉(本家)の二代目となる千葉胤治が生まれている。

ハッキリとはしていないのだが、西千葉二代目は初代夫婦の実子ではなく、養子の可能性が高いらしい。

というのも、西千葉初代夫婦が結婚したのは、二代目が生まれた年の12月だからだ。

結婚前に仕込んだんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)家臣ニ囲マレテル子女ニデキルワケナイダロ!

これだけじゃ年表片手のシオと違って、解んないよね。順番に話しますね^-^


肥前千葉家紋

各地の洪水も水が引き、その年の夏も終わって秋の気配が近づいた頃のこと。

11代目千葉胤朝の弟。胤将が蜂起した

家臣同士が揉めた時に、一方の旗頭として担ぎ出されたのが胤将だった。

僧侶だった彼は還俗したことで、俗世の権力欲に目覚めてしまったのだろう。

一度目の戦いで兄に敗れ、数年の潜伏後に再び謀反を起こしたんです。

証拠となる典拠がないので、個人的な想像なんだけど、千葉家内部で謀反側・胤将に内通した者がいたんじゃないかと感じます。

謀反側は国府(肥前千葉の首都)を夜襲。

10月3日~肥前千葉11代目当主・胤朝が謀反側に討たれて死亡


やけにアッサリ討たれちゃうんで、千葉内部で手引きした人がいたんじゃないか?って思うんです。

かといって胤朝は大内のバックアップで当主になった人物なので、大内サイドの画策ではないだろう。

少弐は通算?回目の亡命中なぅ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

胤将の背景は今となっては解らない。

なぜなら勝った胤将は当主になることなく逐電~そのまま歴史からフェイドアウトしたからです。

「少弐政資が胤将の勝手な行動に怒り、攻撃しようとしている」と噂が出た為に胤将が遁走した^^;

肥前千葉編でも書いたが、亡き胤朝には男子がおらず娘(尼日光)がいるだけだった。

肥前国主とまで仰がれた肥前千葉家が断絶のピンチ。

このチャンスに少弐は肥前千葉家の家督に介入する



少弐家紋

12月3日~少弐政資の弟・胤資が、胤朝の娘・尼日光と結婚して肥前千葉の家督を継いだ


足利義政の勘気に触れて肥前からも亡命していた少弐氏。

どうやら、この肥前千葉への家督介入を取っ掛かりに復帰したらしい。

翌年にはチャッカリ大宰府に戻ってたりする^^;

胤将の謀反騒ぎ・・・・案外、少弐が裏で動いてたかもです。

一度目の謀反の時、胤将に対し少弐は援軍を出しているから、胤将を唆す事は可能なはずです。

弟を婿養子として送り込んで家督を乗っ取り、さらに自分が大宰府に復活するタイミング・・・
怪しいですな ( ゚Д゚)y─┛~~

養子っぽいと最初に言った西千葉二代目ですが、どうも少弐一門・横岳一族からの養子のようだ。
(千葉一族HP参照)

千葉胤朝の娘・尼日光は、千葉一族の総領的立場だったらしい。

彼女は少弐氏と肥前千葉氏が、実質一つの家になることを選択した。

それしか方法がなかったからです(;;)

尼日光の従兄弟で、肥前千葉で残った男子である千葉興常が、亡き父・胤朝を憎んでいたため尼日光と協力なんて無理。

それどころか従兄弟・興常は、大内のバックアップで東千葉氏として別家を立てた ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

千葉興常から肥前千葉総領の座を守るためには、少弐を後ろ盾にするしかない。


竜造寺家紋

竜造寺家は肥前千葉の被官として仕えていた。

当主の諱も家督を継ぐときに、亡き胤朝から一文字拝領し改名したものです。

そういう経緯があるので、西と東に別れた千葉のうち、竜造寺家は胤朝の系統で本家の西千葉に仕えた。

西千葉に仕えたことにより、竜造寺と少弐の結びつきが濃くなり、少弐と大内の争いに巻き込まれて行く。

この時に東千葉を竜造寺が選んでいたら、後年の悲劇が回避できたのだろうか?

後の竜造寺一族抹殺が肥前の歴史からなければ、
肥前戦国史は全く違ったかもだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_3【少弐~?回目の亡命】


家兼ジーちゃんが19歳になった1473年(文明5)

兄で嫡男の家弘14代目当主として家督を継いだ。

ちなみに「応仁の乱」が終わるのは1477年です。

兄弟の父・13代目康家は生没年不明なのだが、もしかしたら亡くなったのは、この前後かもしれない。

兄は肥前千葉11代目当主・胤朝の偏諱(へんき)を受けて、家弘から胤家を改名した。

1476年~1477年の間に千葉胤朝は藤津の大村氏を攻撃し、大村領を併合する。

ちなみに大村領は文明年間に有馬氏にも、併合された事になってるwww

大村さんってば人気者,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

どっちも史実なら先に肥前千葉が大村領をゲッツし、後から有馬氏がゲッツしたことになる。

というのも、9年後の文明18年に胤朝が討死するからです


肥前国主の突然の死に、竜造寺家が影響を受けるのは言うまでもない。

1478年に、その胤朝の弟・胤盛が急死した。

歴史的には影が薄い弟だったが、東千葉氏初代・興常には重要なことだった。

なぜなら胤盛は興常の実父だったからです。

詳細は不明だが、11代目胤朝と弟・胤盛は家督の事で揉めていたらしい。

胤朝が男子に恵まれていなかったからだろう。

父の突然の死に興常は叔父である胤朝を疑い、深く恨んだ。

興常は肥前千葉家に残らず、大内家で養育される事になり、後々西千葉と東千葉の確執と争いに発展していく。


肥前千葉家紋

1479年(文明11) 九州探題・渋川教直が58歳で死亡。

教直は地味な渋川における最盛期の当主で、彼の死で名実ともにガチで地味な存在に・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

1480年(文明12)、北肥戦誌曰く

1月15日の酉の刻、流星が出て西方に渡る。

その長き事敷丈(?)、色赤くして火の如く、その音は水の漲るのに似て虚空に暫く鳴動し、
消滅すると忽ち白雲となった。

稀代の珍事である。

不思議なる事は、禍の前触れか、流れる星は少弐か大内か、はたまた肥前千葉か。

占星術師は何と占ったのだろう。

1481年に一休さんが死んでるけどね(*´pq`)

少弐のプチ御家再興に成功した少弐政資は、ちょっと勘違いしはじめた

もともと対馬・宗氏の援助のお蔭で復活できたのに、
「五州太守」様と持ち上げられている内に、自分の権勢が永遠のものと錯覚したらしい。

少弐政資は筑前・宗像家代々の宝物「金の猫」の話を耳にすると、
無体にも宗像に対し「献上せよ」と要求した。

宗像氏は泣く泣く先祖代々から伝わるニャンコ像を少弐に献上した。

シオの発想が俗っぽいのか「招き猫」しかイメージ出来なイ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

すっかり天狗になった少弐政資は宗像に対し「もう一匹あるはず。出し惜しみせずに寄越せ」

どこでそんな噂を聞いたか知らないが、二つとないから宝なのだ。

理不尽な要求にブチ切れた宗像は、いかにも神社の大宮司らしい切れ方をした^^;

宗像は神前で小指を噛みきり、流れる己の血で少弐を呪詛する歌を社殿の扉に書き付けた


少弐の末路を考えると、効き目あった?(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

驕り高ぶる少弐政資は、さらにやらかした。


新入荷~少弐家紋

少弐は青山城主・留守左衛門大夫を微罪で所領没収してしまう。

だが青山は宗像と違い呪詛なんて回りくどい事はしなかった。

その代わりにストレートアクティブ~青山は大内政弘に少弐の非道を訴えた。

大内にすれば邪魔な少弐を潰すチャンス~即効で室町将軍・足利義政に訴え出た。

1482年(文明14)春~少弐政資は足利義政の勘気を蒙り大宰府から肥前へと移る事になった


同年秋~大内への意趣返しに、少弐は大内サイドの渋川萬寿丸の綾部城を攻撃して落とす


ちなみに萬寿丸クンは教直の子で、まだ九州探題にすらなってない~~カワイソ~~~(゜-Å) ホロリ

怒った大内は再び公儀(室町幕府)へ申し立て~~


え~~少弐が軍事行動したのも、大内政弘が公儀へ抗議と言う回りくどい事をしたにも、訳がありまして( ̄ω ̄A;アセアセ

実は5月下旬に大内家臣同士が大ゲンカの果てに、両人共に刺し違えて死ぬという刃傷があったんです。

しかも喧嘩した家臣と被官ってのが大物同士でして( ̄ω ̄A;アセアセ

一人が陶弘護~筑前・周防の守護代にして陶晴賢の祖父。

一人が石見の有力国人~吉見信頼 川* ̄д ̄*川ポッ←国人オタ


大内家紋

もともと不仲で敵対関係だった二人ですが、宴の席で「先祖の地位は、どっちが上か」で揉めて( ̄ω ̄A;アセアセ

酒が入ってたのもあってエスカレートして刀抜いちゃって・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

しかも吉見の家臣18人が主君の仇討と討ち入って、即斬り死にと宴の夜は大騒ぎ。

この収拾で アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ 少弐に対し兵を起こすって余裕がなかった。

上手くヤッタと少弐が笑ったのも束の間。

大内からの申し立てにより、自分の勘気を無視されメンツを潰されたと知った将軍・義政が切れた。

足利義政【御行書】公布⇒近隣の御家人よ!(少弐に攻撃された)渋川に合力せよ(`・ω・´)キリッ


ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! 

ヤベ~と思っても後の祭り、将軍の公式発表という大義名分のお蔭で少弐の四海は敵だらけ。

少弐政資は、自業自得で肥前からも逃亡する羽目になる( ̄ω ̄A;アセアセ」

肥前千葉の被官(家臣よりはユルい関係)だった竜造寺家にとって、
肥前千葉が厳然とある限り、その去就に従えば波風は無いはずだった。

ところが、その肥前千葉が大内と少弐の争いに巻き込まれてしまうのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【ママンの言いつけ守りなさぁ~い】葉隠・聞書第三の四

葉隠をシオ流に超意訳(^ -)---☆Wink
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陽泰院(彦鶴姫)が勝茂公に仰せられ候は

石井一門(陽泰院の実家と一族)の者に、以後迄雑務役を申し付けらるまじく候。

この儀深々頼み申し候由、----中略----

役を仕らず候はば、ほしき念も起らず、盗み致すべき様これなく候。

我等身の切れの者共にて候へば、不憫にて断り申し候。

勝茂クン(初代佐賀藩主で陽泰院の子)「・・・・・・・・・・・・・・」


彦鶴姫様イメージ画像
母が頭を下げてるというのに・・・言う事を聞きなさ~~~~いバキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!

というのは冗談で、葉隠にも母の言葉に初代佐賀藩主が、何と答えたかは記されていない。
(葉隠って、そういうパターン多い)

ちなみにウィキペディアより抜粋

(石井党は)戦国時代から江戸時代初期にかけて≪隆盛を極め≫、
ことに藩政時代は≪藩主鍋島氏の血縁として殊遇≫を受けた。

,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

陽泰院の言葉は、簡単に言うと「縁戚・血族だからといって情実人事をするな」ってことです。

権門の家として特別扱いされてるうちに、その地位に溺れ不正を働く者が出ないとも限らないから。

という、いかにも苦労人・鍋島直茂公の正室らしい、ためになる諫言・忠言でした。

とはいえ、あれだけ功績ある一門を「取り立てるな」っていうのは無理な話^^;

煩い竜造寺一門と渡り合うには、石井一門の力は藩内政治上でも必要でした^^;

まぁ現実は現実、忠言は忠言として、勝茂クンは神妙に拝聴したんでしょうね(*´pq`)クスッ


この葉隠エピを知ってたシオは、石井党の記事を書いててwwwニヤニヤ(・∀・)してました。

「偉大な父を持ったせいで苦労する息子萌え」なんで、勝茂クン 好キ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

やっぱ肥前は面白いな~~(*´pq`)プププ
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追記
先日案内した「お試し予告」ですが、同時進行連載するには年代にズレがあった^^;
てことで微調整のため、とうぶんは肥前戦国史に邁進します(-人-)☆彡

相良晴広_1【多良木】まさかの嫡流?!【人吉】


せっかくストックがあるんで、どうせなら色々やってみることにしました^^/
基本、マイペース不定期更新なんで、またーり御付き合い下さいませ (* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪

先日、資料用データとして大内氏をアップしたら、ブログ友から質問されました。

「相良武任は相良氏全体の中でどういう出自なのですか?」

あ、秋月種実本編で登場させようと思ってたから、シオ的武家家伝・大内では飛ばしたんだっけ^^

てことで質問には既に答えてるけど、どうせなら相良氏と絡めて記事にしちゃえ~とネタにしました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!



さて、シオは基本素人なんで、研究家のように相良家概論を述べるつもりは毛頭なく、
何時もの如く「ザックリ説明」で行きます(*´pq`)クスッ゙

相良家には「上(多良木)相良」と「下(人吉)相良」の二系統がありました。

どこで分れたか~~って細かい話は飛ばして、とにかく嫡流は多良木の方です。

両家の運命が別れるのは「南北朝の争乱」です。

最初は両家とも南朝でしたが、人吉相良の方が寝返り北朝方になった。

でもって多良木相良には「まさかの北朝勝利」で南北朝の争乱が幕を閉じる。

新政権「室町幕府」が認めたのは、当然「自分たちに与した人吉相良」の方。

多良木相良は総領家の座を失ってしまった ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!



人吉城二の丸跡

多良木相良は往時の勢威を取り戻すべく、リベンジしようと人吉相良に挑んだのが文安5年。

文安5年・・・1448年で室町時代、翌年に足利義政(銀閣寺の人)が将軍に就任します。

当時の人吉相良当主は10代目で15歳の若さでした(漢字難しいから名前パス)

でもってリベンジを挑んだ多良木が、相良頼観・・・相良武任の祖父(=^・ω・^=)v ブイ

15歳の10代目は多良木・相良頼観に一度は敗れてしまいます。

多良木・相良頼観を撃退し討ち果たしたのが、後に11代目となる庶流・永留相良長続。

10代目は、長続が帰還を進めたのに固辞して戻らず、そうこうしているうちに不慮の事故で怪我をして、それが悪化して死亡する。

このあたり非常に怪しい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

庶流の永留相良氏が、家督を乗っ取ッテ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

まぁ、そのへんはさておき11代目となった相良長続は非常に優秀で、彼は戦国相良家の土台を作った人物です。

人吉相良に吸収された多良木相良ですが、何というか~やはり人吉勢に対するライバル意識は残ってたみたいです(==;


相良家紋

で、死んだ相良頼観の息子・正任(=武任パパン)が生き残って山口に亡命し、大内政弘に仕えたと言われています。

相良の家系図見ると武任祖父の相良頼観は長男なんです。

ただ嫡男なのか庶長子かが、シオペディアじゃ解らない(-ω-:)ウーン

祖父の官位が左衛門尉で、一緒に挙兵し11代目に討たれた祖父弟・頼仙が摂津守。

どっちの官位が多良木当主の継ぐ官位なのかなぁ^^;

通字は頼なんだが、祖父兄弟ともに頼の文字が前についてるから、諱でも区別つかないし(-ω-:)ウーン

祖父が庶長子としても祖父弟・頼仙に男子がいない(or殺された?)ので、
相続者としては武任パパ・正任が相続第一位だった?( ゚д゚)ンマッ!!

てことで大内義隆の佞臣として、陶謀反のキッカケを作った相良武任の血筋は、
世が世なら総領家~まさかの嫡子?!・・って感じです^^/

系譜が、どこまでホントかは解んないですけどね~~

まぁ毛並は宜しかったかと・・・(*´pq`)クスッ

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お試し予告

思いつきの試みとして、

龍造寺編は土日更新。
平日は秋月、相良の不定期更新の豪華?連載三本立てで逝ってみます。

つまり、北九州と南九州の戦国記事を交差させてみようかなぁ~
と考えた次第です。(^ ^)

六年に及ぶストックがあるからこそ、
可能な事なんですが、一つ難点(汗)
読む人が混乱しないかなぁ~って懸念あり。

いやまてよ。
雑誌だって複数の連載が常にあるじゃないか。
てか、思いついたら試したくてウズウズ~爆

無理しない程度に、遊び心満載(^ ^)
それでは、よろしくお願いします。

肥前千葉氏・番外編【鎌倉以来】石井党【頼れる味方】


さて流れをぶったぎり、竜造寺・・続いて鍋島の覇業を支えた、とある一門を紹介したい。

その名も「石井一門」または「石井党」

何で書庫が肥前千葉氏かというと、そもそも石井氏は千葉氏に仕えていたからです。

それも肥前ではなく、関東は下総の頃から仕えた譜代家臣(=^・ω・^=)v ブイ

鎌倉中期、石井氏は下総国猿島郡石井郷に居を定めた事から「石井姓」を名乗った。

てことで再び登場の「イザコザ鎌倉~千葉氏系図」↓




何度みてもクラクラするなぁ~鏡写し諱,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

石井氏が仕えたのは「肥前千葉」の・・・えっと宗胤⇒胤貞親子の方。

肥前千葉氏は「奪われた総領の座」を奪還するため、下総千葉と度々交戦している。

その肥前千葉の下総における領地「千田庄」の警固を任されていた。

肥前千葉にとって「千田庄領地」は、千葉家嫡流の証。

肥前千葉総領のみが継承する「特別な領地」で、その警護を任されていのだから石井氏は、相当の信任を受けていたようだ。

だが下総千葉氏からの圧迫が強くなり、遂に石井氏は支えきれなくなり敗れて当主が自刃した。

以前記事にしているが、肥前千葉氏は5代目胤泰の時に「総領・千田千葉氏」「庶流・肥前千葉氏」の分かれている。

ちょうど南北朝争乱の時で、離れた領地をキープするのがキツくなって分家したんです。

千田庄の警固役ということは、厳密にいうと石井氏は千田千葉氏に仕えていたのだろう。

千田千葉氏は戦には勝ったが、処世上手の下総千葉氏は「北朝に総領家は下総千葉」とチャッカリ承認されたんです ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

千田千葉は頑張ったけど、下総千葉の勢いに押され戦国時代になると完全に配下状態でした ショボーン..._φ(・ω・` )

千田千葉氏は、いずれ滅ぶか下総千葉に吸収されるであろう。
そんな歴史の流れの中で石井家は「下総千葉に仕えるのを潔良しとしない道」をとった。

父が戦死し残った嫡男は肥前千葉氏を頼り、はるばる九州へと下向~7代目胤鎮に仕えた


てことで「室町~戦国初期の肥前千葉系図」頑張って作ってて良かった (人´∀`).☆.。.:*・




で、7代目胤鎮の代に家督争いが起きて、大内のバックアップ受けた胤紹が家督簒奪8代目となる。

で、石井氏は胤鎮から、あっさり胤紹に鞍替えした ヽ(。_゜)ノ へっ?

ち・・・忠義のイメージが・・・アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

何しろ下総から肥前に引っ越して10数年たったかどうかって時期なんで、
中国地方のドン大内がバックの胤紹に靡くしか処世出来なかったんでしょう( ̄ω ̄A;アセアセ

その後、胤鎮はリベンジに成功し当主に復活すると、石井氏も胤鎮に降伏。

胤鎮は石井氏を受け入れ帰参を許した。
(最盛期を作り上げるだけの器があるなぁ)

途中経過すっとばして、肥前千葉が西と東に別れるのは・・・解ってるよね。覚えてるよね(願!!

ゴホゲホ・・・とにかく石井氏は西千葉に方に仕えた。

んで、その流れで竜造寺&鍋島との関わりが深くなるんです。

ちなみに石井氏の領地・飯盛村と鍋島氏の本庄村は、お隣さんです^^b

さて、戦国時代の当主、石井忠義には5人の男子がいた

石井嫡男家/石井和泉守家(家祖:石井忠清)

石井二男家/石井石見守家(家祖:石井忠繁)

石井三男家/石井三河守家(家祖:石井義昌)

石井四男家/石井駿河守家(家祖:石井忠本)

石井五男家/石井尾張守家(家祖:石井兼清)

兄弟喧嘩・家督争いが多い戦国時代で、この「石井党or石井一門」は非常に結束が固く、
それは明治に佐賀藩が無くなるまで続いた。

竜造寺隆信が当主になるときに、大いに尽力したのが石井五男・兼清^-^

江上・八院合戦編の鍋島軍で活躍した鍋島茂里、茂賢兄弟は、石井二男家の出です^-^

さらに鍋島直茂の夫人となる彦鶴姫は、嫡男家の姫君 川* ̄д ̄*川ポッ 

熱烈な恋愛結婚と言われる直茂と彦鶴姫。

ほのぼのエピソードは葉隠に残っており、二人が仲睦まじいのは事実だっただろう。

だが直茂にとり、彦鶴姫の背景にある「石井党」の力が魅力だったのは否めない。



彦鶴姫「ホントは父や叔父たちの力が欲しいだけなんでしょ~

信生「いや違う!あっ助力は欲しいけど、じゃなくて、初めて会ったときは石井家の姫君だなんて知らなかったよ~

彦鶴姫「ほんと?ほんとに?

信生「だって台所で働いてたから、家中の誰かの娘かと・・・

彦鶴姫「イヤン 川* ̄д ̄*川ポッ


ラブラブ逢引き中に、、、てな会話でもしてたんですかな~~( ゚Д゚)y─┛~~

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龍造寺家兼_2【少弐】得なのはどっちだ?!【肥前千葉】


残虐といわれる竜造寺隆信だが、生来の気性は別にして彼に影響を与えた人物の一人は、竜造寺家兼だろう。

その家兼の兄弟のうち、当主と早世を除く二人は、早々に僧侶となっている。

むろん家督争い回避のためだろうが、そんな中で家兼が出家させられなかったのは、武将としての資質ゆえであろう。

おそらく家兼は「支族」として「本家」を支える役割を期待されていたに違いない。
(万が一の跡継ぎスペアとしてなら五男ではちと無理)

そんな竜造寺家兼を理解するには、当時の肥前で全盛期だった肥前千葉と、北九州全てに影響を与えた少弐の動向チェックが欠かせない。

前回出てきた少弐一門の馬場は肥前が本拠地の武将だ。

そして大内との争いで徐々に衰退した少弐は、本貫地である筑前から肥前へとフィールドワークが狭められていく。

大内との対抗上、少弐には肥前土着の勢力との連携が必要で、少弐は先に肥前千葉の家督に介入した。

当時の竜造寺は肥前千葉の被官だったので、少弐とダイレクトの関わりは少ない。
(※元寇や南北朝では、竜造寺は少弐の指揮下に入ってます)

肥前千葉が東西に別れ衰退すると、少弐は直に竜造寺とパイプを繋げるのを望んだ。

少弐と肥前千葉のどっちが上だろう・・・となると、国司にあたる少弐の方が上だ。

「鮭は、ほっちゃれ(腐りかけ一歩手前)が美味」と道産子は言うが、
衰退したとはいえ、少弐の被官になるということは、ある意味クラスチェンジageとも言える。

だが名誉で家は保てないので、竜造寺内部で対外政策方針で軋轢が起きて、
どうやらマイナー家督争いがあったようだが、そのあたりの表現が曖昧。

とにかく本来の嫡男で当主(家兼兄)が、当主の座から滑り落ち弟(やっぱり家兼兄)が当主になるという逆転現象が起きている。

ただし北肥戦誌では、長男は家督を継いでいないことになってる。

だが諱の偏諱の経緯から見て「長男は家督を継いでいた」と見るのが妥当なようだ。

さて前置きが長くなったが、竜造寺に影響を与えた少弐当主は誰からだろう。

それは15代目少弐政資です

え?その後じゃ・・・と思った方、まぁ話を聞いてくださいませ。

肥前千葉が絡むと15代目少弐当主の話になるんです。

                     
竜造寺家紋イメージ画像

少弐の当主が討死するのは毎度のことで(苦笑)、
リベンジしては大内に敗れてスロー地盤沈下も九州戦国アルアル,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

そんな少弐の御家再興を成功させたのが15代目政資だ。

父の14代目教頼が大内に敗れて戦死(1468年・応仁2年)したため、
息子の政資は、11代目宗貞国(47歳)に保護されて対馬に亡命していた。

宗氏は元々は少弐の守護代だったが、既に朝鮮との貿易は宗氏の独占状態にあった。

交易ルートが確立しているのだから「官僚:大宰少弐としての少弐」は不要なようにも思うが、
朝鮮は中国に負けず劣らずの先例主義なので「少弐家という家が存在する事」が貿易上の信用度だったかもしれない。

とにかく宗氏は親鳥が雛を育むかのごとく大内から少弐を守り、さらには御家再興運動の世話までした。

1469年・・・年号でいうと応仁から文明に改元した年。

肥前千葉でいうと嫡流断絶のため、庶流で大内サイドの胤朝が当主となった年の事だ。
(肥前千葉編7「家督にときめけ!庶流よきらめけ!」トラックバック記事参照)

11代目宗貞国が室町将軍・足利義政から御行書(公式文書)を貰い、少弐の御家再興に成功する

大宰府を安堵された少弐政資は「五州太守様(筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬)」と仰がれた

少弐の執権は宗一族から選出~功績を考えれば当然だろう


少弐にとって幸いしたのは、大内当主・政弘の叔父(教幸/ノリユキ)が謀反を起こしたことだ(1470年2月)

謀反自体は留守居の陶弘護が鎮圧し叔父も亡命先で自害(1471年12月)したが、やはり国内安定が優先になるので肥前は後回しになる。

大内にしてみれば長年、支援していた胤朝が肥前千葉の当主になった、という安心感もあったに違いない。

大内政弘(ゆくゆくは肥前千葉も我が山口へ出仕させよう (人´∀`)ウフフ.☆.。.:*・)

ところが大内の想定外の出来事が肥前で起きる。

肝心の千葉胤朝が家臣同士の争いを治める事が出来ず、それが家督争いにまで発展なぅ。

よりにもよって「ライバル少弐が肥前千葉の家督争いに介入する」という前例を作ってしまった。
大内政弘(ナニヤッテンダil||li _| ̄|○ il||lナンノタメニ胤朝ヲ支援シテタト・・・)
(肥前千葉編8「揉める門に不幸がある」トラックバック記事参照)

身内の揉め事を取りあえず治めた肥前千葉は、リベンジしようとした肥前今川嫡男、義秋を討った。

さらに残った今川庶流を「持永」と改姓させて、肥前千葉の家臣化に成功。

肥前今川の御家再興の芽を摘み、肥前今川家嫡流を完全に断絶させた。

家臣同士の争いでは下手を打った千葉胤朝だが、肥前今川に対する後始末の上手さを見ると、そこそこ有能だったかもしれない。

嫡流が断絶し一時はヤバい?と思われた肥前千葉だが、ますます充実~(=^・ω・^=)v ブイ

勢威が回復した肥前千葉家は、大内が指先一つで動かせる配下の国人とは違う、肥前に影響力のある地方勢力に戻った。(-ω-:)ウーン

そんな肥前千葉氏を見て、竜造寺家では当主で家兼の兄が偏諱を受けるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_1【時代は室町・五男坊】

史料整理できた分を連載開始~マイペースヽ(*´∀`)ノヨロシクなぅ
見切り発車とも言ウ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
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竜造寺が大河ドラマになったとして、第一部のクライマックスは何と言っても「一族抹殺のピンチ」だろう。

生き残った竜造寺家兼が、90という齢を過ぎてのリベンジ成功。

もしかしてリベンジ戦史・世界最高齢記録登録も夢じゃない?(そんなのがあったとしてだが)

ジーちゃん・・・自前の歯は残ってたんか?髷は残ってたんか?
等々~アフォな考えが脳裏を過ぎる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

掴み?の冗談はさておき、一族抹殺のキッカケは「竜造寺が大内へ寝返った~と疑われたから」

なのだが、では本当に寝返ってたのか?となるとハッキリしていない。

では「何故に竜造寺は疑われたのか?」(-ω-:)ウーン

竜造寺の「裏切り」を少弐に讒言したのは、少弐一門の馬場頼周だ。

ジーちゃんのリベンジ力の余りの迫力に、馬場はババを引かされ悪役・小物イメージが染み付いてしまった。

だが、器量や方向性はさておき、馬場の少弐への忠義は真正ガチ。

その忠義者の鋭い嗅覚が、竜造寺から異質なものを嗅ぎ取ったのだろう。

馬場が感じた竜造寺の中にある異質なもの・・・それは即ち、管理人が最初に抱いた素朴な疑問・・・

疑問というのは「そもそも竜造寺は少弐の家臣だったのだろうか?」という基本的な事です


                    
竜造寺家紋

てことで、いつものごとく「遡ってリサーチしよう~」ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

遡ってるうちに肥前千葉にハマった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

でもお蔭で知ったのですが、竜造寺当主は肥前千葉家から何度か偏諱(へんき=名前の一字拝領)受けています。

さらに肥前千葉の要請で、竜造寺当主自らが出陣しています。( ゚д゚)ンマッ!!

主持ちの者が、他家から偏諱を受けたり、勝手な軍行動をとるなど有りえません

少弐が勢威あれば少弐に従い、肥前千葉が隆盛なれば肥前千葉と行動を共にする

ちなみ大内に便乗した過去もあり,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

竜造寺家は少弐の純然たる家臣ではなく、室町体制における被官(ひかん・緩やかな支配関係)なんです

歴史ファンが増えた現在、ウィキペディアでも「竜造寺は少弐の被官」とキッチリ紹介されているが、
一昔前までは竜造寺は「少弐の家臣」で括られてた説明が多かった^^;

初めからウィキペディア見れば早かったんだが(爆)「自分で調べないと納得できない」のでアレコレとネットサーフィンしてました^^;

余談はさておき、
本音はともかく建て前では、主君と運命を共にする家臣とは違い、
被官は相手(この場合は少弐)が弱体化すれば、新たに興った者の被官となる「選択の自由」がある。

被官の立ち位置としては江戸時代における外様大名みたいな感じで、
被官が累代仕えていても「譜代家臣にはなれないし」「身内とは思われないし」「配下(子分)は、どこまで行っても配下」です。

少弐一門の馬場は「譜代でもなく、家臣でもなく、ましてや身内でもない」から「竜造寺を疑った」

「ただの配下」であるべき竜造寺の力が大きくなりすぎたから、恐れたんです。

                    


竜造寺は鎌倉期には活動しており、肥前国小城郡竜造寺村の地頭に任ぜられた事から「竜造寺姓」を名乗った。

祖は大宰大弐の高木氏と言われているが、高木氏の詳しい事は解ってない。

これが事実なら、祖先の役職だけだと「竜造寺は少弐の上司」になる( ゚д゚)ンマッ!!

国人オタのシオとしては「竜造寺村の地頭」
という言葉の響きに「とてつもなく国人臭」を感じる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

「地頭の竜造寺」・・・出自は別にしても地域密着・土着勢力であった竜造寺家の本質は国人といっても差し支えないだろう。

結論を言うと竜造寺家も、筑前の秋月や大隅の肝属のように「国人が戦国大名化した武家」なんです

国人は自分が生き残るのが最優先!力あるものに従属はしても、心を預けることはない

逆に召し使う方から見れば、裏切りの危険性を常に孕む抜き身の刃のようなものだ


国人の竜造寺は、肥前千葉から少弐の被官になるのだが、単純に右から左へ切り替えられるものではない。

肥前千葉が東西に分裂したことで、竜造寺家における対外政策にも影響したんです。

それは、おいおい語るとして、肝心の家兼だ。

1454年(享徳3)?月?日~家兼は13代目竜造寺康家の五男坊として生を受ける

五男と書いたが、実は第二子が女子なので、生まれた順番だと第六子になります。

もちろん家督に縁なんて~~考えなくてよーーーい。って位置。

肥前千葉家でいうと7代目胤鎮の代で、肥前千葉家は「国主様」と仰がれる全盛期を迎えていた。

応仁の乱が始まった時には、家兼は13歳で元服してたかは微妙な年齢^^

多感な年頃の家兼クンは、同盟関係だった肥前千葉と肥前今川が争うのを見て育つ。(勝つのは肥前千葉)

一方の少弐はライバル大内に水を開けられ、徐々に衰退して行くのだが、それは・またの話 by^-^sio

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ホラー怪奇系【6人女の祟り・宗像氏】シオ的武家家伝

え~お盆も終わりましたが、まだまだ暑いので納涼感をお届けします~爆
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筑前・宗像氏は宗像神社の(辺津宮・中津宮・沖津宮の三宮からなる)大宮司の家系でして、
源平の争乱期に武士化し、平家の家人として勢力を拡大した。

源頼朝が旗揚げすると源氏側になり、宗像神社が鎌倉幕府の「関東御祈祷所」となった事で権威age~

蒙古襲来で九州に「鎮西探題」が設置されると、北条執権の支配体制に組み込まれた。

後醍醐天皇が鎌倉幕府に対し挙兵した時点では北条側だったけど、
南北朝の争乱に入ると足利尊氏に味方した。

北九州が大内VS少弐のガチになると大内側で、
大友氏が台頭してきても基本は大内側で山口に出仕していた。

ただ大宮司の地位を巡ってお家騒動が何度かあった為、宗像を出て大内の敵側になった庶流もいます。

概ね世渡り上手だった宗像家の、滅亡を招いた御家騒動が起きたのが76代目正氏の時。

                    


76代目正氏の正室は山田局~二人の間には娘・菊姫しかいなかった


当主の跡継ぎを巡って、弟である77代目氏続と揉めた為、宗像家は大内義隆に裁定を求めた。

結果、76代目正氏の娘・菊姫と77代目氏続の息子・氏男(または氏雄)が、
「従兄妹同士で結婚し相続する」という無難な話でまとまった。

これで落ち着くはずだったのに「歴史的大事件&宗像家的大事件」が起きる。

歴史的大事件⇒⇒1551年9月1日「大寧寺の変」で陶晴賢に大内義隆が討たれる

宗像的大事件⇒⇒菊姫の夫・78代目氏男が大内義隆に殉じて討ち死する



二人の間には千代松丸(78代目氏男の弟説も有)という嫡男がいたので、彼を当主にしようとした所へ陶が介入~( ゚д゚)ンマッ!!

なんと、死んだ時期に諸説ある76代目正氏に【隠し子と隠妻】がいたというのだ!~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

隠し妻・・・側室として公認されていない彼女は、昭和っぽく言うなら二号で、名前は照葉。

照葉は陶晴賢の妹だと言われているが、よく判らない。とにかく陶家の血縁だったと言われている。

ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! と驚いたのは76代目正妻の山田局だ!

しかも隠し子は鍋寿丸と色姫と、二人もいると云うではないか ガガ━━━(゚ロ゚;)━━ンン!!

たちまち宗像家は「千代松丸派」と「鍋寿丸派」に分かれ御家騒動となってしまった。

1552年2月~鍋寿丸(隠し子)が陶のバックアップで家督を継ぐ (=^・ω・^=)v ブイ←二号・照葉

陶軍がやってきて反対派の家臣を皆殺し、もちろん千代松丸も殺された。

哀れ山田局&未亡人となった娘・菊姫(千代松丸の生母)は、宗像氏の居城・白山城を追い出され、
城から少し離れた小さな屋敷で侍女4人と供に寂しく暮らすことになった。

                    


一方、76代目の隠し妻で二号で愛人だった照葉は気が気でなかった。

76代目の正妻だった山田局が大嫌いというのもあるが、山田局の娘である78代目の未亡人・菊姫様は春秋に富む身で十分に若い。

宗像家の家督を狙う者が、菊姫を担ぎ出し利用しないとも限らない。

照葉は我が子の安泰のため「後顧の憂いを断つ」決断をした(`・ω・´)キリッ

1552年3月23日~山田局、菊姫、侍女4人が惨殺された(山田事件)

侍女4人は主を守ろうと健気に刀を取って戦ったが、抵抗の甲斐無く照葉の放った刺客たちに全員が殺される。

6人の死体は人知れず掘られた穴に、ドサっと無造作に埋められた。

照葉は家臣に固く口止めし、無論まだ幼い子供たちには一切何も知らせなかった。

それから数年たって、照葉は娘・色姫と双六をして遊んでいたら、突然に色姫の様子が変わった。

「我は山田局なるぞ!我ばかりか娘・菊姫まで殺したのは許せぬ!我が怨みを受けよ!」


色姫は叫ぶやいなや、いきなり母親・照葉の喉笛に噛み付いた!

あたりは吹き出た鮮血が飛び散る凄惨な状態となる。

怨霊に憑依された色姫は子供なのに凄い怪力で、家臣が数人がかりで何とか照葉から引き離した。

照葉は一命を取り留めたものの、二度と自力では起き上がることの出来ない身体となってしまう。




驚いたのは初めて山田事件を知った鍋寿丸改め、79代目氏貞だ。

大宮司職を継いだものの心霊パワーがあるわけじゃない。

妹・色姫に憑いた怨霊を払うため、比叡山から名僧~プロのエクソシストを呼ぶ。

事情を聞いた名僧「そ・・それほどの怨みでは調伏は不可能です!大甕を3つ用意して下さい!そこに怨霊を封印します」

名僧が祈りが始ると、たちまち空に黒雲が出始め凄まじい雷が何個も落ちる。

そして雷の一つが名僧を直撃!彼は焼死した。

死んだ名僧の祈祷で色姫は怨霊が離れて正気に戻ったのだが、封印そのものには失敗してしまったらしい( ̄ω ̄A;アセアセ

その後の宗像領では飢饉や天変地異が相次いだので、山田事件で死んだ6人を鎮めるために山田地蔵堂が建てられた。

だが荒れ狂う怨霊は地蔵堂の作業を手伝った山伏30人を呪い、彼らは盗賊に襲われ全員死亡する。

さらに79代目氏貞は嫡男が幼くして死亡、氏貞も風邪が万病重症化で41歳という働き盛りで死亡し宗像氏は滅亡した。

宗像氏は女系(氏貞の娘)が残っているのだが、子孫は今でも呪いを受けて男子が若死にすると伝えられている。

一方、怨霊が取り憑かれた過去を持つ色姫だが、彼女は家中でさえ結婚相手を見つけることが出来ず婚期を逃した。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

もしかしたら神女として宗像神社に仕えていたかもしれない(霊感強そうだし)

そんな色姫の遅い結婚が宗像氏の衰退に拍車をかけるのだが、それは・またの話 by^-^sio

色姫様は、これから始まる秋月編の中で再登場します(^ -)---☆Wink

(-人-)☆彡オネガイ:ホラー系・怪奇系記事のトラックバックは固く遠慮します(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

【大友家~キングオブ九州】シオ的武家家伝

九州戦国史において、大友氏の影響・存在は(以下略
前回の【大友氏の筑後支配】でも書き切れなかった大友のアレコレです~
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まず代表的な地位から【加判衆】かばんしゅう~

大友家・家臣団のトップ閣僚~命令を執行する書面に署名・加判することからこう呼ばれた。

基本構成メンバーは同紋衆・他姓衆(下記の語句説明参照)3人づつの合計6名。

だが、この構成比率が守られたことは無く、常に同紋衆が圧倒的多数だった為に他姓衆には不満があった。

加判衆メンバーは永代役職ではないため入れ替えが多く、全てを掌握するのは断念 il||li _| ̄|○ il||l

立花道雪も加判衆だったが、立花城の城督(じょうとく=軍司令官)になった時に、
加判衆の位置を降りているので、軍役職と加判衆の兼任は不可だったようだ。

おそらく家臣に権力が集中しすぎるのを恐れたからだろう。

【方分】~ほうぶんorかたわけ~

大友家独自の呼称で、室町体制で言うところの守護代にあたる。

家老級から選抜され、豊後国内は郡単位・他国は国単位で各一人任命される。

権限は行政・司法・警察権だが、細かい職能に関しては研究者の間でも定説はない


大友家紋


【同紋衆】~どうもんしゅう~大友の家紋の使用を許可された家臣(分家・譜代)たち~

★印⇒一門、☆印⇒支族・親族、●印⇒譜代家臣

★田原氏
宗家を凌ぐ実力を持ち「8代に渡り謀叛を企む」とウワサされる。
嫡流は病死、養子は天正8年に大友に討たれ、家督は宗麟息子の親家が入る。

大友氏改易後⇒立花家臣⇒立花改易で浪人⇒熊本細川藩士

★志賀氏
耳川以降一族は島津に内通するも親次(北志賀)のみは島津(新納)の攻撃から豊後の城を死守する。

志賀親次~大友改易後⇒福島正則家臣⇒小早川秀秋家臣⇒小早川改易⇒熊本細川藩士


★託摩氏
大友氏が耳川の戦いで衰退以後は、いつのころからか帰農し武家であることを辞めた。

☆吉弘氏
最期当主は統幸~大友改易後⇒従兄弟の宗茂に仕えるが義統が西軍に加担したので参加。 
別れ際 宗茂は統幸に正宗の刀を与えている。
石垣原の戦いで黒田家臣井上との一騎討ちで壮絶な戦死。
吉弘家嫡流は絶えるが、紹運の息子である直次の血統が残る。

☆立花氏
もともとの立花氏は謀叛を起こし大友に討たれる。
家督を道雪が継いで~以下⇒立花編・秋月編に続く^^b

☆一万田氏
高橋謀叛の時は嫡流の鑑実は大友側。
鑑実の息子の鎮実が耳川の後に島津に内通。
結果、親子共々切腹となり一万田の嫡流は絶える。

生き残る鎮実の弟⇒大友改易後⇒黒田長政家臣⇒熊本細川藩士

☆戸次氏
嫡流が道雪の家で他にニ家あるも大友衰退とともに没落。
生き残った者は立花家臣として吸収される。

☆臼杵氏(戸次家の支族)
嫡流は耳川で戦死、庶流も大友改易後に上洛すると出て行方不明。

●田北(たぎた)氏
紹鉄の謀叛後、一門は許されて大友に仕えたが、大友改易後は改姓して熊本細川藩士として残る。

●三池氏
大友没落⇒竜造寺に降伏⇒九州征伐後は立花与力⇒大津と江上八院で一族が戦死。
生き残りが柳川藩士・熊本細川藩士になる。

●門司(もじ)氏
大友家臣⇒大内配下⇒毛利配下~庶流はバラバラ他家に仕えた。
門司は位置が気の毒で、争乱の的の場所だった為に一勢力として生き残ることが出来なかった。

【他姓衆】~たじょうしゅう(他紋衆とも云うが正式名は他姓衆

大友の家紋使用を許されていないので、同紋衆より身分が低い新参の家臣や配下の国人たち

高橋氏(大蔵系~通字は「種」)

一万田系高橋~高橋元種改易⇒男系が二本松藩士と薩摩藩士。
 吉弘系高橋~直次が将軍の命令で立花に改姓したため高橋という名前は残らないが、
       高橋の家である意識はあり歴代藩主の殆んどは「種」の通字を用いている。

佐伯氏
土持氏の縁戚・耳川で当主が戦死し、佐伯統幸が西軍加担~石垣原で戦死。
佐伯惟重~藤堂家津藩士として残る。

問註所(もんちゅうじょ)氏
耳川後に一族が次々離反するなかで、統景のみ筑後の城を死守し功績で同紋を許される。
ちなみに道雪の再婚相手(つまりギン千代の生母)は問註所氏出身^^b

佐伯統景~大友改易後⇒立花家臣⇒立花改易⇒柳川藩士で復活。

蒲池(かまち)氏
嫡流・下蒲池~竜造寺に滅ぼされる。
庶流・上蒲池~関が原は西軍で没落~一族子孫は立花家臣や黒田家臣と色々で、黒田家臣の子孫が松田聖子。

阿南(あなん)氏
大友没落後は中川家に仕える。

同紋でなければ、他姓衆のくくりになります。

大友家臣団の呼び方には、他にも色々あるが覚えきれ無い^^; 

とりあえず同紋と他姓の把握は必須でして、それが出来ていれば素人が記事にする分には不便無しです~(*´pq`)クスッ

あと、ここにあげたのは秋月編で必要な部分をピックアップしただけでして、
他は省略しちゃってるので大友家臣団はもっといます^^;役職もまだある^^;;

あっと、もう一つ~【水軍衆】これも若林氏と佐伯氏です


大蔵系氏族・秋月種実編用の基礎データです~竜造寺編とも被りますな( ゚Д゚)y─┛~~

【秋月編用】


秋月家紋



高橋家紋



毛利家紋



大友家紋



大友宗麟銅像
写真提供は馳ぽん^^/



秋月種実イメージ画像~提供先:橘朝臣幸麿さま




【大内氏と大内義隆】シオ的武家家伝


九州戦国史において、大内氏の影響・存在は極めて大きい。

必然的に触り程度でも基礎知識が必要になる( ̄ω ̄A;アセアセ

記録に出て来るのは平安時代末期からで、周防(すおう=山口県)で大きな勢力だったらしい。

鎌倉時代に鎌倉幕府の御家人になったのだが、正確な時期は判っていない。

「南北朝の争乱」で、最初は南朝(=宮方)として働き、1358年に周防と長門を統一する。

慌てたのは北朝(=武家方)の足利尊氏だ。北九州と接する要地が南朝方では困る。

そこで周防・長門の守護職をエサに大内氏を北朝側にシフトチェンジさせた。

九州における南朝方討伐で大きく貢献したのが大内義弘だ。

家督を継いで相続した周防・長門の守護職の他に功績として石見・豊前・和泉・紀伊の守護職になり、
さらに日明貿易で莫大な富を得る。

が、1399年義弘は室町幕府に対して謀叛(応永の乱)を起こし討たれる。

これは大内氏が強大になりすぎたのを警戒した足利義満(3代目将軍)の陰謀により、
挑発に乗ってしまったのだとも言われている。

                  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7f/%C5%8Cuchi_Yoshitaka.jpg/200px-%C5%8Cuchi_Yoshitaka.jpg
ウィキペディアより大内義隆画像

義弘の死後、大内では代替わりのたびに揉めてます( ̄ω ̄A;アセアセ

北九州では少弐氏・大友氏と争い、身内の謀反もあり、
明国(=中国)との貿易の利権を巡って細川氏と争い、
さらに尼子氏が台頭してくる。

とはいえ歴代当主に失政はなく、むしろ優秀。

歴代当主の蓄積した実績を活かし、大内氏の最盛期を迎えるのが大内義隆です

1528年・大内義隆は周防・長門・石見・豊前・筑前・備後・安芸の七カ国の守護職になる。

明国との貿易を復活させ巨万の富を得た義隆は、その財力で朝廷と室町幕府に多額の献金をしたんです。

1536年・竜造寺氏が少弐から離反し、大内の傘下となって少弐氏を滅ぼす。

さらに大友氏(宗麟の父)と和睦し、北九州の覇権は大内義隆のものとなる。

だが大内氏の最盛期は長く続かなかった。

1542年・尼子氏との戦いで敗北し期待の養子(甥)が初陣で死んでしまう

これでガックリ _| ̄|○  義隆は武将として戦場に出る事もなくなり、雅趣味に走った。

義隆は40近くなっても子宝に恵まれず養子を迎えたの。

とっても期待してて元服の時には足利将軍家から名前を一字「晴」、拝領してる。

それが初陣で戦死じゃなくて、溺死したんです。

敗北して退却する時に、養子が乗船した小船に「我も我も」と鎧兜の武者達が乗り込んだ為に重みで沈没 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
という、プチタイタニックな死に方でした( ̄ω ̄A;アセアセ

一説によると水を吐き出させて、一度は息を吹き返したけど死亡したらしい。

歎き悲しんだ義隆は、養子の菩提を弔うために再び足利将軍家から名前を一字拝領し、
死んだ養子の名前を「晴持⇒義房」に改名してるほどです。

  


数年後に実子が産まれているけれど、失った英気・覇気は戻らなかった。

戦乱を避けて山口に来た公家たちを次々側近に取り立てたため、家臣たちの不満が溜まるし、
さらに義隆の困る所は衆道(しゅうどう)にハマッタことです( ̄ω ̄A;アセアセ

義隆が子宝に恵まれなかったのは、おそらく衆道趣味に走っていたからだろうし、正室とも離縁している。

愛人(男の子)との逢引に、5時間もかけて待ち合わせしてたんじゃ子作り出来ないぉ( ̄ω ̄A;アセアセ

その5時間かけて逢瀬をした相手が「大寧寺の変」で謀叛を起こした陶晴賢(すえはるかた)だ。

だから後世「謀叛は男色のもつれ」などと揶揄されたが、それだけが理由では無いだろう。

義隆は周易という儒教を元にした占いに凝りだし、
易で家臣たちの風水火土を占い、それに基づき強制引越しや役職を決めたり、
果ては生まれた子供の里子先まで占いで決めて家臣を混乱させた。

家臣たちは、義隆に愛想が尽きてしまったんです。

義隆は義隆で、すっかり退嬰的になり、陶の不穏な動きを報告されても具体的な対抗手段は講じていない。

やったのは「陶の怒りが治まるように~と祈祷」したのだけれど、
肝心の陶に呪詛と誤解されて怒りを倍増させた,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

1551・天文20年9月1日に大内義隆は「大寧寺の乱」で陶晴賢が起こした謀叛により自害します

【大寧寺の井戸】

謀叛が起きて義隆ら一行は、山口から長門まで落ち延びたが海が荒れて船を出すことが出来ない。

仕方なく陸路を15kmほど引き返し大寧寺に籠もった。

大内義隆は喉の渇きを覚え、何気なく水を飲もうと参道脇の井戸を覗き込んだ。

「・・・わしの首が・・・・・・・無い・・・・・ ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!」

そこに当然あるはずの義隆の首が、井戸の水面に写っていなかったのだ!!

命運が尽きたのを覚った義隆は静かに自害したという。

その後、井戸は参道の改修で潰されたが、
大内義隆が兜を脱いで置いたという「兜掛けの岩」が残り「姿見の池」が再現されている。

お盆向けの逸話でした^^b

最初、陶は義隆の息子を立てようと考えたのだが、後難を恐れて殺したので大内家の嫡流は絶えた。

義隆次男は未だ10歳にも満たず、女の子に変装して脱出し潜伏してたが、翌年に見つけられて殺された。

女の子に変装していたせいだろうか、次男は死後に性器を切り落とされ首と供に山口へ運ばれた。

少年を哀れんだ村人が次男のために社を作ったそうだ。

陶晴賢が選んだ傀儡当主は大友義鎮の異母弟で、そのために北九州の政情は目まぐるしく変化するのだが、それは・またの話 by^-^sio

肥前千葉氏_9【もの言いは、西と東に捻じ込まれ?!】

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某末弟:夢を見ました・・・自分が当主になる夢を・・・兄さえいなければ・・と思ってしまったんです

良い夢なのか、悪い夢だったのか、その答えは誰にも出せない。。。。




1471年7月19日・・・謀反が終わったゴタゴタを狙って、今川義秋が一揆を企てた。

残念ながらリベンジは失敗し、今川義秋は佐賀植木で討死する。

これにより南北朝時代・肥前守護代だった駿河の名門・今川仲秋の落とし胤・肥前今川嫡流が断絶する。

11代目当主・千葉胤朝は、戦死した今川義秋の叔父・秀秋(どっかで見た名前・爆)を召し出し「持永」と改姓させ家臣とした。

結局、肥前今川家の歴史って100年ないのよね^^;知名度無いはずだ^^;;

「持永家」は後に竜造寺家に仕え、さらに鍋島家に仕えて、家名は続く(=^・ω・^=)v ブイ


大内関連ですと、応仁の乱で東軍(当主は西軍)となって家督を狙った大内教幸が敗れ、亡命先の豊前で自害しました。



千葉胤朝は肥前での領土拡大を着々と進めて行きました。

1476年には大村家親を藤津郡で破り、大村領の殆どを併合します。

で、大村氏は余力があったらしく、千葉胤朝は翌1477年2月に大村の蟻尾城を攻撃しています。

大村氏は、この時一度没落(文明年間に有馬氏からも攻撃されてた)するんですが、記録が少なくて系譜上の繋がりも解らないです(==;)

最終的には大村藩として江戸期に残るんですが、
どうも都合の悪い部分を後世、φ(.. ) イロイロ消し&改変 してるらしい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

そのため戦国初期の大村氏のことは不明な点が多く、研究者泣かせです^^;

                  
千葉家紋イメージ

1486年10月?日~胤朝の弟・胤将が蜂起!

同年10月3日~胤将は国府を襲撃し、11代目千葉胤朝が討死。享年51歳


前回の謀反から16年の歳月がたっていました。

胤将が諦めきれなかった一番の理由は「胤朝に跡継ぎの男子がいなかったから」でしょう。

兄がいなければ自分が・・・と夢見ちゃう気持ちは解ります( ̄ω ̄A;アセアセ

これは大内は何もしてません。だって11代目胤朝は大内サイドの当主だからです。

じゃ少弐が唆したのか?っていうと、それも違うみたいです。

胤将の独断で事を起こしたらしく「少弐が胤将を討伐に来る」という噂が流れると、胤将はトンズラしちゃった( ̄ω ̄A;アセアセ

ちなみに少弐はホントに怒ってました^^;

少弐にしてみれば自分の望まないタイミングで、肥前のパワーバランスが崩れては困るからです。

それほど肥前千葉家の勢力は大きかったとも言えます。

でもって、思い切った事をしたわりには後先を考えていなかったらしく、逐電した胤将は歴史からフェイドアウトしてしまい、彼の最期は誰にも解りません。

元の僧侶に戻ったか。。。自害したか・・・この顛末だと「武将らしい最期」じゃなさそうだなぁ(-ω-:)ウーン

とにかく討死した胤朝には男子がおらず、肥前千葉家断絶のピンチ~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

が、娘が一人おりました~~~~家系図にある尼日光明胤です。

肥前への勢力拡大を目論んでた少弐は、このチャンスに早速介入。

前回の胤将・謀反の時に少弐も介入してたから、今回も介入する権利あるんだ~~と乗り込んだ^^;

1486年12月3日~少弐政資弟が千葉胤朝娘と結婚~入り婿は千葉胤資と名乗り12代目当主となった





この事態を指を咥えて眺めている大内ではない。

大内は対抗馬として亡き胤朝の甥・千葉興常を担ぎ出した


千葉興常の父・胤盛は、胤朝と家督を争ったことがあったらしい。(胤朝には男子いなかったしぃ)

だが1468年10月27日に胤盛は、突然急死する(没年齢不明)

どうも興常は父の急死を胤朝のせいと思ってたらしく、叔父である胤朝のことを激嫌ってた。

そういう訳で若年だった事もあり、興常は大内家に引き取られて養育されたんです。

くどいようだが胤朝には男子がいなかったので、万が一の時のスペアですな( ゚Д゚)y─┛~~

少弐がムコ入りで家督ゲット!って手段を用いたのも、
庶流とはいえ肥前千葉の血を引く唯一の男子・興常が、既に大内の手中にあったからなんです^^;

興常の名前は大内義興からの偏諱で、元服の時も大内義興が加冠役を務めました。

初め千葉興常は小城郡赤目城にいました。

1491年に大内の支援で千葉胤資と合戦し、牛頭城をゲッツ。

城を追われた千葉胤資は目と鼻の先にある晴気城に入ります~地図参照~( ̄ω ̄A;アセアセ

見たままですが牛頭城が東側にあるので、千葉興常が東千葉初代

これまた見たままですが晴気城が西側にあるので、千葉胤資が西千葉初代


え~~~っと牛頭城にいるしシンボルの祇園社はあるし胤朝の実甥だし~で、誤解されそうだが

( -。-)スゥーーー・・・ (o>ロ<)本家は晴気城の西千葉アアアアアアアア

亡き胤朝の娘を娶った入り婿・千葉胤資が本家当主12代目です(=^・ω・^=)v ブイ


戦国初期・・・肥前を巡る少弐と大内の争いは、肥前千葉氏を西と東に分けた。

一時的に少弐氏を再興した少弐政資は、大内からの圧迫に対抗するために肥前へと勢力を伸ばしたんです。

ぶっちゃけ本貫地の筑前から、だんだん締め出されテ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

加熱する大内と少弐の争いは、否応なしに北九州全ての国人を巻き込むのだが、それは・またの話 by^-^sio

                   
竜造寺家紋イメージ

さて、ザックリ鎌倉期からスタートした肥前千葉氏編ですが、東西に分かれたところで最終回とさせて頂きます^-^

城下は「肥前の小京都・国府」と勢力を誇り、当主は「肥前国主」とまで仰がれた肥前千葉家は、東西に分かれて主役の座から滑り落ちました。

次に肥前で綺羅星の如く頭角を現すのは、皆様御存知の竜造寺家!

次回からは章を新たに「竜造寺・黎明編」として連載します^-^

史料整理に若干かかりますので、しばし御猶予下さいませm(__)m

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肥前千葉氏_8【揉める門には不幸がある?!】


苦節23年・・・千葉胤朝は34歳の男盛りで肥前千葉の家督をゲットした





11代目千葉胤朝は10代目教胤(暴風雨による船水没で溺死・享年19歳)の従兄にあたる。

胤朝の父と兄は家督を巡る争いで7代目胤鎮(10代目教胤パパン)に殺されていた。

わずか23年前の出来事なので、当時の胤鎮家臣は存命だったはずだが、胤朝は報復人事は行ってはいなかったようだ。

短い期間に当主が若くしてパタパタ急死し、肝心の肥前千葉家が衰退しかけたので、建てなおす方が急務だったからかもです。

胤朝の器量への評価はシオ的には微妙です( ̄ω ̄A;アセアセ

新生・肥前千葉氏を支える執権は岩部常楽と中村胤明・・・この二人が不仲だった( ̄ω ̄A;アセアセ

というか、中村胤明が岩部の器量に嫉妬したんでつ ( ̄ko ̄)

1469年(文明元年)7月・・岩部が佐賀府中に赴き留守の間の事です。

中村は主君・胤朝へ岩部のアル事ナイ事讒言した。

主君・胤朝が不明だったのは、この讒言を頭から信じ岩部を殺そうとした事です。。ぇえ!(゚ロ゚屮)屮


中村は__φ(.. )カキカキと神文を認め申し開きしたのだが、胤朝は信じようとしなかった(;;)

困った&憤慨した岩部は、大宰府の少弐政資に己の無実を訴えた。

少弐政資が千葉胤朝を宥めて一時的に和解したのだが、そのせいで岩部は主君・胤朝の新たな怒りを買う。

もともと千葉胤朝は、父・胤紹の頃から大内家のバックアップを受けていたんです。

それなのに少弐へ内輪の揉め事を持ち込んだ岩部を憎んだ。

岩部は岩部で、胤朝への意趣返しに少弐へ仲裁を求めたのでしょう^^;

まぁ大内に話を持ち込んでも、他家を巻き込んだ時点で恨まれたでしょうな( ゚Д゚)y─┛~~

                  
肥前千葉家紋イメージ

同年9月9日、胤朝は岩部を成敗するために家臣・仁戸田を大将に、岩部のいる府中へと派兵した。

ところが、この年に岩部に年貢を免除された百姓・山伏ら1万人が恩返しとばかりに岩部へ合力。

なにせ1万ですよ~あまりの加勢の多さに仁戸田はビックリ!一戦もしないで国府へ逃げ帰った。

岩部は、千葉胤朝が少弐の取り成しを無碍にしたことを(少弐へ)訴えた。

一方、ライバルを蹴落としたい中村は小智慧を回し、岩部に合力した百姓らを懐柔。

結果として岩部は追放されてしまった。・゜・(PД`q。)・゜・ヒドイヒドイワ

このまま不忠の烙印押されて黙ってはいられない。

1470年10月19日に岩部常楽が少弐政資の加勢を受けてリベンジ挙兵

岩部は妙法院で出家していた胤朝弟を還俗させ、胤将と名乗らせ担ぎ出した

家系図を見て頂けますか?
亡き8代目胤紹は地味に子沢山でして。。。胤将は彼の4男なんです( ̄ω ̄A;アセアセ

11月14日~岩部を讒言した中村胤明が討死

千葉胤将勢が国府へ侵入し城下を焼き払った。

11月28日~少弐政資が千葉胤将&岩部に更に千騎を加勢し、牛頭城を攻撃させる

約20日後12月?日~足利義政より和睦の使僧が派遣されたため、双方が引く事となった


少弐は一度没落したのを(対馬宗氏の尽力で)足利義政に御家再興を認めて貰った義理があるんで、無視できない。

胤将+岩部は少弐の加勢が無きゃ、千葉胤朝の兵力には及ばないしね^^b

これで収まるはずがハプニングが起きた

土一揆が発生したんです!!( ゚д゚)ンマッ!!


                   


ネットもテレビも新聞もラヂオも無い時代。

さらに、この時代は下々の庶民に、上層部の動きなんて一々説明なんてしません。

家や田畑を胤将&岩部らに焼き払われた郷民は、とうぜん彼らを恨んでいました。

和議となったので胤将+岩部+加勢の少弐勢は、撤収のために不要になった陣屋に火をかけ府中を引き払って行く。

ところが経過を知らされていない郷民は「敵が国主様(肥前千葉当主のこと)に敗れて撤退するんだ」と勘違い。

家・田畑を踏み荒らされた恨みを晴らすべく「行くどぉ!!!(# ゚Д゚)・;'.落ち武者狩りだぁぁ」
と手に手に獲物を持って一斉攻撃(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

不意をつかれた岩部ら400余人が討死 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

彼らが遺体から身ぐるみ剥がされたのは言うまでもない。。。(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

時に文明2年12月23日~民衆のリベンジは後に「土一揆合戦」と呼ばれた


ビビった少弐勢は即効で大宰府へ引き上げ、亡き岩部が擁立した千葉胤将は金立へと逃亡した。



戦い終わって日も年も暮れた。

大騒ぎを起こした当の本人(中村と岩部)は、それぞれ討死してしまい、これで騒動は終わったかのように見えました。

が、一生を僧侶で終わるはずだった胤将には「自分だって家督を継ぐチャンスがあったぉ」という暗く哀しく遣りきれない思いが燻った。。ショボーン..._φ(・ω・` )

さらに少弐にも影響を及ぼす。

長年、少弐をバックアップし支え続けた対馬宗氏が、肥前千葉の争いに首を突っ込む少弐と距離をとりはじめたのだ


宗氏は肥前千葉への不介入を主張していました。何故なら、11代目胤朝のバックには大内家がいるからです。

肥前千葉に深入りすれば、肥前千葉だけで収まらないのは目に見えてます。

が、少弐政資にすれば、頼られたら政治的に無視は出来ません。

うまく諍いを仲裁して少弐が北九州の盟主であることをアピールしなければ、国人たちが大内に靡いてしまうからです。

肥前千葉の家督争いが大内と少弐を巻き込み、少弐衰退への序章となるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【大友氏の筑後支配】


大友家の筑後支配は応永23年(1416年)大友親著(11代目ちかつぐ)が足利義持(4代将軍)より筑後守護職を安堵されてからのことです。

途中で菊池持朝が筑後守護職となったが大友氏と戦って敗れたので、
再び大友親繁(15代目・親著の子)が守護職となり代々つづいた。


筑後は肥後と似て有力国人領主が支配し、一般に「筑後十五城」と呼ばれています

上蒲池(上妻郡)・下蒲池(山門)・問註所(生葉郡)・星野(生葉郡、竹野郡)・黒木(上妻郡)・河崎(上妻郡)・草野(山本郡)・丹波(高艮山座主)・高橋(御原郡)・江上(三瀦郡)・西牟田(三瀦郡)・田尻(山門郡)・五条(上妻郡)・溝口(下妻郡)・三池(三池郡)の大身一五家。

このうち大蔵系高橋が筑前へ、同じく大蔵系江上が肥前へと移動したので、実質は十三氏になります。


蒲池氏が上と下に別れたのは、蒲池氏の勢力が大きくなるのを恐れた大友親治(18代目・宗麟のひぃジーちゃん)が分家を立てたことから始まります。

嫡男が下蒲池(山門)←こっちが嫡流になります。

次男を上蒲池(下蒲池本領から600町割いて上妻郡に置いた)

大友家では蒲池氏を懐柔するために気配りバリバリでした。

自分の名前の一字をプレゼン(偏諱・へんき)したり、朝廷へ官位任官の手続きしたり・・・

つまり蒲池氏の官位である●●守とか●●輔ってのは、他所の戦国武将が自称したものとは違い、大友推薦による本物の朝廷ブランドです(=^・ω・^=)v ブイ

ただし天文年間に蒲池一族(系譜上の当主ではない)で、豊後参り(下記緑枠参照)を怠り成敗された者がいたということで、締めるとこは締め上げテ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ


え~~~それとですが大友って家は家格・格式に非常に喧しい所でして( ̄ω ̄A;アセアセ

配下の国人は、あくまでも何処までも外様(他姓衆)!
政治面への参入は一切認めず軍事面でのみこき使っッテ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

軍役も経費は自腹ですから、大友衰退で恩賞ゼロが続くと、筑後国人たちはR家やS家からの軍事的圧迫もさることながら、経済的にも逼迫しちゃんですよ~( ̄ω ̄A;アセアセ


筑後における大友直参衆

上妻・三原・安武・町野・小河・菅・麦生・酒見・津村・江島・酒井田・坂田・甘木・辺春・谷川・行徳・古賀・高三潴・林田・木室・荒木・水田・隈・稲員・諸富などです。

彼らは大友家では「高一揆衆」または「一揆合衆」、別名で「二四頭」あるいは「三三頭」と呼ばれた。

大友家が守護職になったころは、前時代の荘園制度は完全に破たんし、地頭職も有耶無耶状態でした。

大友家では、この「高一揆衆」に地頭的役割を与え、さらに官位も与えて権威づけしてました。
(筑後十五城で蒲池氏だけが特別扱い、大友推薦で官位をもらってた)

つまり筑後十五城の面々と、大友直参「高一揆衆」に待遇や役割面で格差をつけて、
互いに牽制させることによって筑後支配のパワーバランスをとってたんです。




「耳川の戦い」で大友が島津に敗れて衰退。

さらに有力国人で大友への忠義が厚かった蒲池宗雪が、耳川で戦死したことで大友の筑後支配が大きく崩れました。

島津も勢力拡大してますが、初手の段階では肥後でもたついてるんで(相良と阿蘇に粘られた)、
その僅かな間に竜造寺が筑後へ勢力拡大します。

筑後十五城は同族や婚姻関係で繋がった縁戚が多く、竜造寺の草刈り場となった為に同族・縁戚同士による争いで悲惨なことに。。。。・゜・(PД`q。)・゜・

いずれ記事にする予定ですが、あまりにもアレで涙なくして語れない感じでつ。。。ショボーン..._φ(・ω・` )


八朔太刀馬の儀式/豊後参り

大友領国内にある大小名が毎年八朔(旧暦の8月1日)に、良馬一頭を柞原(ゆずはら)八幡宮に奉納するため従者をつれて府内に上り、時の大友家当主の検閲を受ける儀式です。

1)杭に、それぞれの家名、氏姓を記した立札を立て、知行の大小、官位の上下順に整列した後、
順次点検を受けていきます。

2)点検が終わったら柞原の森を出た神輿が、正装をした大宮司はじめ供奉者がつき従い、生石(大分市生石)の祭場へ向かう。

その行列は別府湾を左に見ながら、高崎山の麓を延々と長蛇の列をなしていたそうです。

当然、この儀式には本拠地・豊後以外の領国から参府した配下の国人らも参加します^^b

3)大友当主は生石の祭場まで動座して屋形桟敷の正面に着座。

左右の上座にお歴々が並び、さらの各国の使者はじめ、名ある武将が序列にしたがってズラーーーーーっと並ぶ壮観でつ^^

4)参府した諸侯らは大友家の威風にひれ伏し、忠誠を誓わされる。

5)不参加者は「大友に対し異心ある者」として成敗される。

全盛期の大友~~~まさにキングオブ九州です( ̄ω ̄A;アセアセ

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肥前千葉氏_7【家督にときめけ!庶流よきらめけ!】


出典:北肥戦誌

1445年・・・父で8代目千葉胤紹が兄で嫡男の政胤と共に、7代目胤鎮に殺された時、生き残った胤朝は11歳の少年だった・・・





兄(7代目・胤鎮)と弟(8代目・胤紹)による家督争い・・・兄弟・一族の相克は千葉氏の宿命ともいえる。

だが肥前千葉氏で言えば、大内の介入が争いの原因です^^;

大内の保護下に入った胤朝は「自分こそが肥前千葉の当主になるべき立場」と信じて疑っていなかっただろう。

もちろん大内家では11歳の少年に、そのように刷り込んだに違いない。

普通なら弟(庶流)だった父・胤紹に家督相続権は無く、大内のバックアップがなければ「ただの地位詐称・家督簒奪者」で終わったはずだ。

大内家では肥前支配の正当性を箔づけするために裏で手を回し「胤紹の8代目相続を室町幕府に正式認可」させたんです


「幕府の認めた当主が総領たる資格を有する」鎌倉だろうが室町だろうが、それは江戸時代だって変わらない。

領地境や相続権・・・それを裁決するからこその幕府だ。

嫡流や正当性の有無は度外視であっても、御公儀が認めた者が総領・・・が建前。

だから胤朝が「兄が死んだので次は自分ダヨネ(・∀・)」って思うのは、丸っきり間違いではない^^;

本来の嫡流である胤鎮が家督を奪い返したが、その後の肥前千葉家と室町幕府との関係はシオレベルでは解らなかったです( ̄ω ̄A;アセアセ

胤朝は家督を奪還(?)し、己が当主になる日を渇望しながら雌伏の日々を過ごした。

縁戚で同盟関係の肥前今川と肥前千葉が揉めた原因は、大内が流した嘘が原因だったのだが、
嘘を流したルートは胤朝の人脈ルートを使った。

胤朝と、その周囲にしてみれば、胤鎮系譜の当主が続く限り、自分たちが日の当たる場所には出られないんです。

                    
肥前千葉家紋イメージ

だが胤朝の期待は大きく外れた。
1)室町幕府の権威衰退と大内の介入を嫌われ、地元では胤朝派が支持されなかった。

2)肥前千葉と肥前今川を争わせて「漁夫の利(人´∀`)ウフフ」のはずが、
  肥前今川の方が敗れて肥前千葉が増々強くなった・・・il||li _| ̄|○ il||l

3)後ろ盾の大内が「応仁の乱」で出陣し不在で、胤朝どころじゃなくなった(;;)あぅ~
1468年~「応仁の乱」で東軍として挙兵した少弐教頼が、西軍の大内に敗れ戦死。

息子の政資が少弐の家督を継いで15代目となる。

一方、同年に少弐の庇護者&同盟関係だった宗氏でも、当主が亡くなり弟の貞国が家督を継いだ。

宗氏の当主交代が少弐の運命に少なからず影響する。

大内が肥前千葉の家督にチョッカイ出すので、
対抗上&立場上(だって博多・太宰少弐だもん)少弐も肥前千葉の家督に関わらないわけに行かなかった。

だが対馬・宗氏では「肥前千葉の家督に対し不介入を主張」し続け、蜜月だった少弐と宗氏との関係が崩れていきます。

それは、もう少し将来の話で、政資が継いだばかりの頃の宗氏は、少弐を対馬に亡命させて保護していました。

1469年~宗貞国は、足利義政(銀閣寺の人)より御行書を貰い少弐氏を御家再興~少弐は大宰府を安堵された

貿易で儲けたのを足利義政に献金したんでしょうな( ゚Д゚)y─┛~~

ちなみに新生・少弐の執権は宗盛見と宗貞房と、宗一族から選ばれた。

御家再興した少弐政資は筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬の「五州太守」様と仰がれた

この五州太守ってクマも呼ばれてたなぁ~テンプレ呼称みたいなものか?

にしても少弐のリベンジ力が半端なさすぎで、それだけ外野勢力である大内の介入を地元民が忌避してたかもです。

少弐も鎌倉以来~って家柄で、根っからの土着勢力じゃないんだけど、本拠地を九州に置いてたから地元との密着度が大内とは違うんでしょう。

                    


少弐が御家再興した年の6月15日・・・胤朝の祈りが通じたのか、肥前千葉当主・教胤が急死する


この時、肥前千葉氏は藤津の大村氏を攻撃するために浜松に着陣してました。

( ̄ko ̄)<肥前千葉では以前から大村氏の藤津領を狙ってまして。。。。

大村氏の有(蟻)尾城も1466年に肥前千葉へ対抗するために築城されたものなんです。

ちょうど祇園会の真っ最中で、そこを狙って肥前千葉勢は乱入し神事を妨げました。

すると俄かに晴天が曇り暗闇となって、さらに雷鳴に暴風雨のフルコンポ。

肥前千葉勢は「神雷?神罰キタァ━━━━ヽ(´▲` *)ノ━━━━ッ!!」とパニックになった。

アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ と船で帰陣しようとしたんですが、凄い暴風雨で全て水没。

当主・千葉教胤、以下家臣100余人が全員水死(-人-)☆彡~

千葉教胤は19歳の若さで、まだ子供もいなかったため肥前千葉家嫡流が断絶した


亡くなり方がドラマチックというか余りにも突然だったため、一族がメンタル的に激しく凹んだ。。ショボーン..._φ(・ω・` )

教胤の先代で兄の元胤も、子供のないまま若くして亡くなってるので、相次ぐ当主の急死に虚しくなったらしい^^;

菩提を弔うため入道出家するだけならまだしも、諸行無常で行脚の旅路に出ちゃった~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

空き家同然の千葉氏は瞬く間に衰退。

残った家臣が困り果てて、やむなく大内のヒモ付胤朝を当主に迎える事になる。

時に千葉胤朝、34歳。父と兄が殺されてから23年の歳月が流れていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【終わりよければ全てカッコ(・∀・)イイ!】江上・八院合戦編17栞100


西軍も東軍も表看板は「豊臣家への忠義」だった。

勝った東軍が、西軍に【不忠】の烙印を押したにすぎない。

激動の戦国期を生き抜いた宗茂には、その辺の政治上のカラクリは良く判っている。

だが彼は西軍を選んで戦ったことを、一切(おそらく)後悔していない。

グチを言わない宗茂は、自分の出処進退に対しても手練手管を使おうとしなかった。

1600年12月12日~立花宗茂は黒田長政と面談した


関が原の戦後処理が片付くまでの一時期、黒田長政は西国大名の取次役だったんです^^b

徳川家康との拝謁は適わず、立花宗茂の柳川13万石は「西軍に加担した罪」で取り潰しとなり、
正式に肥後の加藤清正に身柄を預けられた。


加藤清正イメージ画像

宗茂の武勇と人柄に惚れ込んでいる加藤清正は、
預かり先の肥後・高瀬に宗茂と家臣たちのために屋敷を建て、預かり料も1万石とVIP待遇だった。

・・・のだが、不都合が起きた^^;

宗茂とギン千代が同居を拒否したんです~( ̄ω ̄A;アセアセ

二人の夫婦関係は完全に破綻していて、男性としての宗茂の愛情は側室の矢島氏に注がれていた。

ギン千代と生母(つまり道雪の未亡人)は、肥後・腹赤(はらか)村の庄屋屋敷を増改築して移り住んだ。

二人の世話をしたのは立花家臣である米多比鎮久(ねたび しげひさ)さん^^b

彼は二人の面倒を見るために、そのまま加藤清正の家臣となる。

それで治まるかと思いきや、うまく行かなかった。

加藤清正の家臣が、宗茂と立花の家臣をバカにし始めたんです(_´Д`)アイーン

勝った者の奢りというのは恐ろしい。

最初、抱いたいた宗茂への敬意は何処へやら~~

月日がたつにつれ、清正の本国留守中に加藤家臣たちと立花家臣たちに軋轢が出る。

そんな状況を憂いた宗茂は決心し、大名復活を目指して江戸に出ることになる。
(清正が進めたとか、いろいろ説があるようです)

江上・八院合戦の総大将だった小野鎮幸(おのしげゆき)は、加藤清正の家臣となって肥後に残った。

浪人がイヤで心変わりをしたのではない。宗茂を経済的に援助するためです(`・ω・´)キリッ

守銭奴・・・もとい小野は貯金に励み、江戸の宗茂に送金を続け、更には他国に散った立花家臣団の中継&まとめ役をした。


説明不要家紋

ちなみに徳川家康だが、実は立花宗茂の武勇と人柄をメチャクチャ評価していた。

宗茂ほどの武将が、天下に大乱を望む連中に利用されては大変だ。

ほとぼりが醒めた頃に、何らかの形で宗茂を復活させるつもりで動向を監視していたらしい。

はじめは幕臣となるのを辞退していた宗茂だが、度重なる要請に断りきれず、
まず慶長8年(1603年)に幕臣・書院番頭となり御家再興^^

さらに1606年奥州は棚倉2万石で大名として復活する^^

大坂の陣では、余裕で豊臣方を打ち払って2代将軍秀忠を守る活躍をし、
1616年には2代将軍の御伽衆(話し相手・相談相手)になる。

宗茂の旧領地・柳川は田中吉政が入っていたのだが、子供が絶えて絶家が確定となった。

1619年~立花宗茂は、柳川11万石の初代藩主として失った旧領地復活が決定する(=^・ω・^=)v ブイ

西軍で改易になった大名で、御家再興(大名・幕臣問わず)が成った家はあっても、
失った旧領地に復活したのは、立花宗茂ただ一人(`・ω・´)キリッ

これは、もう人徳としか言いようがありません~(人´∀`).☆.。.:*・

頑張れば報われる・・・そんな暖かい言葉が浮かびます^^

さらに1621年1月10日~宗茂弟・立花直次の息子、種次が三池藩大名となることが決定


三池藩は柳川藩の支藩ではなく独立した大名でして、兄弟で大名復活は珍しいです^^/

1621年2月28日~宗茂は柳川城を受け取りお国入り~バンザーイ♪ヽ(*´∀`)ノ~

旧立花家臣たちが、ぞくぞく柳川藩へ戻る・゜・(PД`q。)・゜・←嬉し泣き


お洒落な立花家紋

加藤清正に仕えた小野さんは、残念ながら柳川復活を見ることなく65才で亡くなるのだが、
子孫は宗茂に呼ばれ、小野家は家老職で復活(=^・ω・^=)v ブイ

千代と道雪未亡人の世話のため加藤清正家臣になった米多比さんも、1000石大番頭で柳川藩士で復活(=^・ω・^=)v ブイ

旧主だった大友家の家臣たちも、復活・柳川藩に仕えた者が多い^^



戦国時代は、みんな野心や生き残りのためにギラギラしてて、それが魅力でもあるが、
そんな中で高潔な立花宗茂&宗茂を慕う家臣は別段の異彩を放っている。

宗茂には、戦国武将にありがちな自己中な大言壮語や大袈裟な自慢話がなく、
いつも謙虚で己が勤めに一意専心。

安心・安定の名将クオリティの逸話の数々は、見ていて本当に爽やかでホッとします(*´艸`)

立花編と江上・八院合戦編でも、宗茂と家臣たちの逸話は全て紹介しきれませんでしたが、
ハッピーエンドの余韻とともに、ひとまず最終回とさせて頂きます^-^


さて次は肥前千葉氏編に集中しまして、その後に新章「打倒・大友!秋月編」スタートします。

己が野心と生き残りのためなら何でもします~キャラとしてはアンチヒーロー&ダークサイドな秋月種実(*´pq`)

敵からみた立花道雪と紹運とは? 

秋月のせいで巻き込まれ、超迷惑を受ける呪われた宗像氏。さらに大友VS毛利の10年戦争^^/

それは・またの話 by^-^sio

【仮想・島津討伐軍】江上・八院合戦編16栞99


さて、話を少し戻って島津の薩摩までの帰還ルートです^^

1600年9月26日安芸日向泊(広島県)で偶然出会った立花軍と島津軍80騎~~

実父の仇である島津を宗茂が許し、立花の船に同船させて貰う。この日は船泊り~~~

9月27日⇒出航~~豊後沖で黒田軍の砲撃を何とかかわす(三隻が焼かれる被害有り)

9月29日⇒九州は日向(宮崎県)に辿り着く。

はっきりした記述が見付からなかったが、島津と立花は日向で別れたらしい。

9月30日⇒島津一行は日向財部(たからべ=現・高鍋)に到着。

ここまで一緒だった秋月種長夫人を秋月側に引き渡した(財部は秋月領^^)

同日⇒財部から佐土原まで移動。

ここで家久夫人(関ヶ原で討死した豊久ママン)を引き渡す(佐土原は島津豊久領)

10月1日⇒佐土原から八代へ移動。

逸話によると家久夫人は
「あなた(義弘)様という方は・・・息子・豊久を上方に置き捨てて、今度は佐土原を見捨てる気ですか?」・゜・(PД`q。)・゜・
と、義弘の袖に縋り付き泣訴したらしい。義弘が何と答えたかは不明。

10月2日⇒宗茂は本国・柳川城に到着~島津は八代から大隈へ移動

10月4日⇒大隈から薩摩本国に到着~~~バンザーイ\(≧▽≦)ノ生きて戻れた~~

もう移動移動の強行軍だったぉ~~と浸っている場合じゃない。

九州・東軍の動向を集めていたら、鍋島の大軍が立花を討つべく行動している情報が入る。

島津は「恩人の宗茂救援のために」兵1万を出兵させたとあるが、

実は1万は朝鮮の役で出兵した兵数と同じ、つまり島津軍の現有兵力なんです



島津家紋

援軍に全軍出して本国をカラにするなんて、どう考えても多すぎる。

西軍の立花が討たれたら、東軍の次なる標的は同じく西軍の島津になる。

島津は単なる恩返しでなく、島津自身の生き残りのために立花と連携して東軍と戦おうとしたのだろう。

が、鹿児島県と福岡県では情報入手から軍行動までタイムログがあり、
島津が国境まで来た時には宗茂が降伏して3日後だったと言われている(10月24日降伏だから27日?)


1599年6月から1600年3月まで、島津領内で勃発した「庄内の乱」

乱の後「国内が不穏だから」と義弘の出兵要請に応じなかった義久と忠恒。

何の事は無い。

島津TOPの3人が本気を出して協力すれば、短期間で全軍1万、耳を揃えて用意出来たんです。

降伏した立花軍は東軍の指揮下に入り、今度は島津討伐の先鋒としてやって来る!(_´Д`)アイーン

関ヶ原前の立花と島津だが、実は結構交流があったらしい。

作家の桐野氏のコラムによると宗茂は「先輩武将としての島津義弘に敬意を感じていた」そうな。

宗茂の性格ならアルアルって話だなぁ^^

その島津討伐の先手になる・・・・まぁ宗茂は戦が始まったら、戦の事以外は考えてなさそうだけど,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


立花家紋

一方、島津も手を拱いていたわけではない。言い訳・・もとい謝罪の使者を上方に派遣したんだけど~~~

11月4日⇒徳川家康は、やって来た島津の使者を門前払いにするo( ̄Д ̄θ★ケリッ!

11月16日⇒徳川家康~島津討伐令を発布。

11月初旬⇒立花宗茂は東軍の先鋒として肥後と薩摩の国境に軍を駐留させる。

この時の東軍の総兵力は3万とか5万とか、はっきりしない。なぜかというと↓↓↓

11月22日⇒九州の東軍全てに徳川家康が撤退命令を出したからだ。不発に終った島津討伐軍の全容は今となっては判らなくなった^^;


島津が本気で抵抗し領民がゲリラ化したら、どれほどの犠牲と日数を要するか予測が付かない。

家康は西軍の掃討戦・残党狩りが長引くのを嫌った。

10月15日には既に東軍の諸将に対して恩賞を与えている。

まだ豊臣政権は機能しており、家康が五大老筆頭の地位であることに変化は無い。

家康は自分の虚像を天下に対し、より大きく見せるため関が原以降の大戦を避けたんです。

でもって色んな意味で諦めの悪い如水が、撤退命令を無視して豊前に帰らなかったので、
家康の機嫌を損ねて、如水個人への恩賞がチャラにされました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


説明不要家紋

宗茂の城だった柳川城は東軍に接収されていて、もはや彼には帰還する城は無かった(;;)

12月2日⇒宗茂ら立花軍は肥後・高瀬に入り駐留した。

でもって宗茂は、この日に江上・八院合戦の感状を出しているんです。

主君たる者の務めとはいえ、自分の帰る城も無いという不安定な状態なのに、
何と云うか律儀というか真面目というか・・・ほんとに職務に誠実なんだなぁ( ̄ω ̄A;アセアセ

家臣たちの労をねぎらうと、宗茂は大坂へ向けて出発した。

家康へ「西軍に加担した罪」を謝罪し、立花家存続を願い出るためなのだが、それは・またの話 by^-^sio

【武神落涙】江上・八院合戦編15栞98


1600年10月23日深夜・・・宗茂は数名の供を連れて 降伏のため加藤清正の本陣を訪れる

宗茂は、自身が出兵した戦では負けたことがない。

関が原のように主戦場が負けたりなど、諸事情で撤退したことはあっても敗軍であったことは無い。

「西軍」として「東軍」に降伏したのが、宗茂唯一の黒星だ。

土地勘が無いので加藤清正の本陣の位置がいまいち判りませんが、柳川城の三の丸から遠望できたそうです。

清正は降伏に来た宗茂を客人として丁重に迎い入れると、こう言った。

清正「此度のことは毛利輝元と宇喜多秀家に謀られたのでしょう(総大将と副大将だから名前を挙げただけで他意は無し)豊臣への忠義と信じての行動で、宗茂殿が徳川殿に含むところが無いのは判っています。徳川殿へは自分が取り成すので、この先は東軍の先手として尽して頂けませんか?

名将・立花宗茂は、清正の言葉に涙を流したと伝えられている。


立花宗茂イメージ画像

宗茂タイプの武将は、実は生き残るのが難しい。

武勇を同僚や主君に嫉妬されて途中で粛清されたり、
その忠義ゆえに実父の紹運のように主家のために玉砕してしまうから・・ネ^^;;

領土的野心が皆無の宗茂には下克上なんて無縁の話。

秀吉と出会わなければ大友家の一家臣で生涯を終えるだろうし、それで満足の根っからの武人なんです。

宗茂は、自分の武勇を満天下に推奨し大名に取り立ててくれた秀吉に対し、本気で恩義を感じていた(らしい)


譜代家臣と呼べる部下が少ない秀吉は、宗茂の一種無垢な性格に目をつけ、
彼を股肱の臣とすべく何かにつけてエコヒイキした。

柳川に入る時も大名として統治に不便な旧法を秀吉の命令で撤廃し、宗茂が遣り易いように配慮している。

官位の任官スピードも清正どころか旧主・大友氏より早くした(これは多少迷惑かも)

「朝鮮の役」では軍役の一部(博多警固)を免除している。

真面目な宗茂は、それらのことに真っ直ぐに感謝していたんです。


豊臣家の御為にと参加した西軍の内容はグダグダだったが、そんな事には動じない。

誰が裏切ろうと関係無し!人は人・自分は自分の宗茂です^^b

宗茂が落胆したのは西軍総大将の毛利輝元~~~o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

輝元が大坂城に籠城すると決意してくれれば、宗茂は命に従い城を枕に討ち死にしただろう。

どんな時でも誠心誠意に忠義を尽くす宗茂タイプの武将にとって、
それを受け止めてくれる主君or大将の器が残念でアレなほど辛いことはない。

大切な家臣を大勢死なせ、何のために西軍になったのか、そのやるせなさは言葉に出来ない。

それらを察した上での清正の言葉が胸に沁み、思わず感涙してしまったのだろう。

宗茂は清正に謝意を述べると、今後は東軍として働くことを約束した。

一件落着~のはずが トラブル発生Σ(´Д`;) うあ゙~



立花家紋

清正の本陣で繋いでいた馬一頭が、なぜか興奮し突然暴れ出したんです。

馬は引き綱を千切って本陣内を駆け回り、それを押さえようとして加藤家中が騒然となった。

柳川城では主君・宗茂の帰りを今か今かと待っていた。

三の丸の兵士が加藤本陣の騒ぎを見て「さては主君・宗茂を謀って殺したのか!」と勘違い!

緊迫した状況なのだ無理はない。 

柳川城内は大騒ぎになり、加藤本陣の様子を見ようと三の丸に家臣達が集まり出した。

清正は自陣の騒ぎの報告を聞くと直ちに柳川城へ使者を派遣した。

清正の使者は柳川城兵に向かって叫んだ。
「ただいまの騒ぎは暴れ馬の為です!和睦は無事整ったので、貴殿らの主君・宗茂公は間もなく戻られる故、落ち着きあれ!!」

疑心暗鬼の立花勢だったが、留守を預かる薦野増時(こものますとき)が城内を駆けずり回って何とか抑えた( ̄ω ̄A;アセアセ

そして「ただいまぁ^-^ニコリ」と無事帰った宗茂を見て、
家臣一同~(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォっと歓声が上がったそうです。

                   


1600年10月24日~柳川城は正式に降伏した

鍋島と立花・・・生き残りと武門の意地をかけた、どちらも譲れない戦「江上・八院の合戦」は終った・・・

11月3日~薦野増時が全ての後始末をして、柳川城は東軍・黒田如水に接収された。

この時の薦野増時の手際に惚れ込み、如水が薦野増時をスカウトする。

薦野は望郷の念が抑えがたく如水の申し出を受け、
父の気持ちを汲んだ息子・薦野成家も、福岡藩黒田家に仕えて生涯を終えた(そのまま子孫も黒田藩士)

そして宗茂はというと、今度は「東軍」として島津征伐の先鋒軍に選ばれた。

11月初旬に立花軍は柳川城を出発したのだが、次に柳川へ戻るのには19年の歳月を要するのである。

それは・またの話 by^-^sio

肥前千葉氏_6【肥前今川ボッシュート!】


肥前千葉氏の系譜は嫡流・胤鎮系譜と、大内擁立・胤紹(胤鎮弟)系譜の二つに分かれた。

だが大内擁立の胤紹は、兄胤鎮によって嫡男(政胤)と共に討たれてしまい、肥前支配を目論む大内の思惑は外れた。

胤鎮⇒元胤と肥前千葉家は隆盛を誇ったが9代目元胤が男子のないまま急死。

胤鎮三男の教胤が14歳の若さで家督を継ぐ。

むろん、このチャンスを大内は見逃さない・・・大内は先ず肥前千葉の縁戚で同盟関係の肥前今川に目を付けた





1465年(寛正6)?月?日~今川胤秋(家系図参照)様がヒソヒソ(*´・д・)(・д・`*)ヒソヒソ なんと千葉教胤を討とうとしているそうな~と噂が出る


むろんオムロン(古っ)噂は大内が流した風聞だ。

だが千葉教胤15歳の補佐をする執権・中村胤頼は器量がイマイチっぽ~( ̄ω ̄A;アセアセ

同年5月20日~千葉家執権・中村は噂を鵜呑みにして今川の城を三日間攻撃する

5月24日~今川胤秋がリベンジ~中村胤頼の陣へ攻撃


日没となり双方引き上げ~~~いったん和睦しました。

この年は災害が多く、まず6月18日から雨が一滴も降らなくなったんです。

7月29日に今度は大風で、さらの大潮となって肥前の田畑が浸水。

南海より三里(約12km)内陸まで浸水し、船で往還するほとの被害が発生しました。

今川と千葉が和睦したのは、災害が起きて戦どころじゃなかったからだと思います。

9月3日~画策した大内教弘が46歳という壮齢で死去

9月23日~大内政弘が父の死で家督を継ぎます


大内が代替わりしても、一度肥前に撒かれた「不和の種」が消えるわけではありません。

翌年1566年(文正元年)に今川と千葉は再び合戦し、両家の遺恨は深まるばかりでした。。ショボーン..._φ(・ω・` )



肥前千葉家紋

1467年1月17日~応仁の乱始まる


戦国がいつから始まるかは今でも揉めてるし、いつで終わったかも研究者によってバラバラです^^;

地方は中央の動きに関係なく家督で揉めてグダグダしてますから。

ですがハッキリ言えるのは「応仁の乱」の頃には、室町幕府の力は既に衰えている。ということです。

なぜなら各地である家督や領地境界を巡る揉め事は、本来なら室町幕府の裁定に従い治まるべき種類の事柄だからです。

現に千葉も今川も「この争いを幕府に訴状して裁決してもらおう」なんてチラっとも考えてません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

特に肥前千葉は室町幕府に遺恨があります。

大内擁立の胤紹に家督を簒奪された時(胤鎮当主時代)、
あろうことか室町幕府が大内の働きかけに迎合して、嫡流より家督簒奪者を正統と相続を認めたんです。

数度のリベンジの結果、家督を取り戻した肥前千葉家の心は室町幕府から離れてしまっています。

室町幕府はアテにならない。しょせん自分を守るのは自分しかないのだ・・・と。

大内は肥前今川と肥前千葉が争うのを「高みの見物」と洒落込みたかったが、あんまりノンビリもしてられなかったようです( ̄ω ̄A;アセアセ

大内は中央に近く、なまじ力もあるだけに「応仁の乱」に巻き込まれた^^;

大内にとって引くわけにいかないのは、家督を狙う大内教幸(政弘の叔父)が東軍に加担してることです。
(当主・政弘は西軍)

中央は中央で揉めてるので、お蔭で肥前は他所から介入を受ける事なく、伸び伸び(?)揉めることが出来た^^;

                  


同年の6月、肥前今川は(一応)九州探題・渋川に援軍を乞い、佐賀領民も味方につけた。

6月20日~今川勢が千葉小城境の民家を放火。

6月21日~肥前千葉勢のリベンジに敗れ、今川胤秋が討死!!~~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮


援軍に来てた渋川勢も散り散りに逃げちゃった(使えない九州探題)

肥前今川領は全て、肥前千葉がボッシュート!~肥前千葉の権勢は増々高まった


応仁の乱が無ければ大内が介入してただろう。

大内の計算は狂った。

今川と千葉を争わせ「漁夫の利」を得るはずが、画策した本人は死亡し代替わり。

それはともかく「応仁の乱」で身動きとれなくなったのが不味かった( ̄ω ̄A;アセアセ

さらに大内にとって面倒なのは、復権を狙う少弐が東軍に通じて挙兵したことだ。

一度は滅亡寸前まで少弐を追い詰めた大内だったが、仏心を出して和睦したのが今になって裏目に出たんです。

大内家督を狙う叔父・Gのように叩き潰しても何処からともなく復活するシツコイ少弐。

一つ一つは大内の屋台骨を揺るがすほどの出来事ではないが、煩わしいったらありゃしない!!

戦国の女神が微笑むのは大内か、少弐か、肥前千葉か?それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【清正】水田の会見【如水】江上・八院合戦編14栞97


加藤清正は出会った当初、立花宗茂に対抗意識があったらしい。

豊臣秀吉が宗茂を可愛がり、徳川四天王の本多忠勝と並び称して「鎮西無双」と褒めたのが負けず嫌いの清正には面白くなかった。

天正18年(1590年)に立花家と加藤家が揉めた時に、前後の事情を調べずに立花家へクレームを捻じ込んだのは、
そもそも清正が宗茂に好意を抱いていなかったからではないだろうか?

秀吉が申請して朝廷から任官される官位も清正より宗茂が先でして。。( ̄ω ̄A;アセアセ

とある真夏の行事で宗茂は身分上、許された朱傘を差していたが、
まだ清正はその身分ではなく、炎天下のなか大汗を掻いていた。

見かねた宗茂が「こちらの朱傘の日陰に入りませんか?^-^ニッコリ」と勧めた。

清正は「お気遣い無用でござる。拙者には肥後という傘がござる!(`・ω・´)キリッ」と突っぱねた。

まぁ、あれだ。清正も若かったんですね^^


清正イメージ画像

そんな状態の清正だったが「朝鮮の役」でピンチになった時に宗茂に助けてもらう。という大きな借りができてしまった。

この頃になると宗茂の人柄も判っているので、心から敬意を払うようになっていたのです。

1600年10月20日~水田口(現・筑後市付近)で東軍の加藤清正と黒田如水が合流した。

この時に二人が率いていた兵数は、シオペディアでは判りませんでした^^;;

黒田如水は、10月14日に自分の混成軍から5000名を割いて柳川へ先行させていました。

立花軍が清正より如水が先に来ると思い、けん制の兵を出していた(薦野成家隊)のは、
この5000名の情報を先にキャッチしていたからでしょう。

如水混成軍は降伏した西軍の兵力を吸収して増えていってるので、一体全体何万になっていたのやら~(@@;)コンガラガル

とにかく清正軍+如水軍なんで1万以下ということは無いでしょう^^;

合流すると清正は如水に「宗茂の助命に協力して欲しい」と懇願した。


如水イメージ画像

清正「恩人の宗茂と戦いたくない!彼ほどの武将を鍋島の手柄稼ぎの戦で死なせたくありません!説得するから宗茂のことは自分に任せて下さい!」(-人-)☆彡オネガイ

9月15日に関が原で東軍が勝利を収めているので、その後の西軍掃討戦に時間をかけるのは家康の機嫌を損ねる。

VS島津が念頭にある如水~~宗茂相手の長期籠城戦は出来れば避けたい(-ω-;)ウーン

でもって32000の鍋島の大軍をVS島津戦に使いたいから、立花戦で兵力を損耗して欲しくない。

ここは清正の顔を立てて戦を避けよう~如水「OK~任せるよ」となった。

これが後の世(郷土史ワールド界)に云う清正と如水の「水田の会見」です


如水との話が決まると、ただちに清正は五反田の鍋島軍本陣に使者を出した。

清正(の使者)「もはや勝敗は決した!これ以上の戦闘は無意味であるゆえ鍋島軍は兵を収めよ!」(`・ω・´)キリッ

鍋島直茂ベテラン63歳(なにを若造が(清正39歳)!朝鮮で貴様のピンチを救った援軍は立花だけじゃないぞ!ワシにも恩があるだろう!)(# ゚Д゚)


突っぱねようと思ったが、直茂にとって不味いのは如水も宗茂助命に協力している事だ。

元・西軍の鍋島家は、徳川家康への取り成しを如水に頼むつもりだったので、
今の如水に逆らえないという弱みがあった。


鍋島イメージ画像

勝ち戦に調子に乗った鍋島家臣の中には「このまま柳川城を攻撃しちゃいましょ~♪」と言い出す始末。

直茂(アホか!立花宗茂相手に籠城戦なんて始めたら攻撃するワシらが地獄を見るだろぉ!)

逸る家臣を宥め鍋島直茂は全軍に撤退命令を出すと、五反田の本陣を引き上げ城島方面へ引き上げた


あと一歩で完全な勝利を手にしたのに加藤清正が「待った」をかけたから、
鍋島の方が勝ったのに影が薄い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

てか、カッコいい場面は立花と清正に取られてるし ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

まぁ生まれ持ったスター性の差ですな( ゚Д゚)y─┛~~

ゴホン、え~~、とにかく直茂は「名より実」をとった。世間からの評価よりも御家存続を優先させたんです。

主家・竜造寺を立てつつ佐賀を実質支配していた鍋島「らしい」判断だと思います。


一方の立花側だが鍋島軍が撤退したから、これで安心というわけじゃない。

立花にしてみれば、清正も如水も東軍であることには変わり無い。

一難去って、またまた一難?

立花宗茂は、今度は「加藤清正+如水」に対し【柳川城で籠城するか】【降伏するか】の決断を迫られたのだが、それは・またの話 by^-^sio

【北肥戦誌・1579年】その3

さて同月の事、大友の持城5ヶ城の内、小田部入道紹叱の荒平城と大鶴入道宗周の鷲岳城が、
共に険阻な高山にあり人馬不自由な城ゆえに兵糧が乏しくなり、戸次入道道雪の立花城へ兵糧を乞うた。

道雪は兵糧を送れば内野に在番している肥前衆(執行種兼ら江上衆)が打って出ると見て、自ら数千騎を率いて警固の為に出兵した。

而して9月8日、立花城を出た荷駄隊は脇山へ至り、小田部・大鶴両勢がこれを迎える為に城を出て数百人が道々を警固する。

執行はこれを聞き付け、打ち出て駆け散らすべしとまだ未明の内に出陣する。

番署の者は僅か73人であったが執行は、
「敵に比すれば味方は「九牛が一毛」であろう。
常の様な戦い方では千に一つも勝ち目はない・・・十死一生の覚悟で戦う事である。
もし打ち勝たなければ分捕りなど無益であるから首級は皆討ち捨てとせよ」と命じた。

執行は古賀右衛門允を物見に出し、帰って来ると古賀は
「時分は宜しいかと。大鶴・小田部と見える軍勢、既に川を越え、その数5~600ばかりにて。
また、その後より立花勢と見える約3,000、遥かに後れて見えますれば、後続の続かぬ内に早一戦に及ぶべし」と述べる。

古賀の云う通り、道雪は遥か後方にあり、人夫数百人に兵糧を運ばせ、警固と併せて3,000ほどで移動していた。

大鶴・小田部は既にそれを迎えて早良川を越えていた。

執行は士卒を下知し、大いに勇んで敵に向かって行った。

見ると、二間ほど味方に先んじて馳せ来る法師武者がある。

古賀右衛門允はこれに走り掛かって、引き下ろしざま組み敷くと、その首を討った。

しかしながら今朝方、内野を出陣した際に、分捕りは打ち捨てと決められており、一応その首を田の畔の草の少し生えた中に差し入れて置いておく事にした。

また、大鶴入道の老臣・半田能登守が馳せ来ると、古賀右衛門の息子・古賀権右衛門がこれを引き摺り下ろして組み敷く。

権右衛門は16歳、半田は古兵である。

権右衛門が危なく見えて、他の者が加勢しようとすると、右衛門は頭を振って、
「いやいや、若き者の初勝負に加勢致さば、面々癖になり申す」
と、後ろに控えてこれを見ていたが、終に上になった権右衛門が半田の首を討った。

隔して両軍入り乱れて戦った結果、江上勢は散々敵勢を追い崩して、二時ばかりの戦いに難なく切り勝った。

味方の討ち死には11人程である。

江上勢は勝ち鬨を上げて内野へと退いて行った。

これを聞いた道雪が立花勢を率いて内野の近くへ来ると、執行は下知を加え鉄砲15挺ほどを撃ち掛けさせ、すぐさま内野へ退かせる。

立花勢も立花へ退いて行った。

さて内野へ帰陣し、生け捕った者らに話を聞くと、小田部・大鶴共に討ち取られたと述べた。

執行は不審に思いこれを調べさせたが、討ち捨てと決まっていた為に誰が討ち取ったとも判らない。

生け捕りの者が述べるには、ならば今朝討ち死にの者の諸道具を見ればよいと述べる。

そこで、古賀が討ち取った法師武者の太刀を見せると、疑いも無く小田部紹叱の物であるとした。

まさか大将が真先に駆けてこようとは思いも寄らず、古賀が隠し置いた首を生け捕りの者へ見せると、紛れも無く紹叱であった。

また、大鶴入道も首が見つかったが、こちらは誰が討ったかは判らなかった。

執行はこの首を桶へ入れ隆信へ送ると、隆信は大いに喜悦し、その首を蒲池鑑広の籠る山下城下に掲げさせた。

9月、秋月種実・原田越前入道了栄・草野鎮永・筑紫広門、各々が戸次道雪、高橋紹運と合戦に及ぶ。

同月、隆信は筑後に在陣中、肥後は八代(誤り。正しくは隈府)の赤星統家を味方に引き入れよと命ずる。

鍋島信生は赤星の知己である甲斐外記に下村生運という者を付けて、赤星の元へ差遣した。

赤星は了承しなかったが、甲斐も下村も弁の達者であり、遂に赤星を承服させて人質の事まで申し述べた。

赤星は今年10歳になる男子を両人に渡し、「この子を深く頼む」と下村に太刀一腰を渡した。

隆信は大いに悦び、甲斐に礼謝し、下村には忠賞として、後に肥後国並恵村を与えている。

赤星の男児は、鰡江の無量寺へ預けられ、後に柳川に置かれたともある。(天正8年に異説あり)


さて、蒲池鑑広であるが、隆信に数ヶ月居城を囲まれていても、
城が要害である事、また大友勢が筑後へ入り星野・草野・問注所と戦う為に生葉に陣を布いていた処へ後援を頼んでいた事とがあり、心強くしていたのであるが、
11月初旬に大友勢が豊後へ帰陣した為に気力を失い、遂に11月3日、鑑弘は隆信の陣へ参じ、弟の蒲池鎮行を人質に出すと共に起請文を提出、龍造寺の軍門に降った。

隔して隆信は28日に山下の囲みを解いて、陣を高良山へ移した。

そこへ秋月種実・筑紫広門が現れ隆信と対面、前後の軍事に関する話をした後に二人は帰って行った。

隔して隆信は筑後一国(十郡)、肥後半国を切り従え、龍造寺家晴・龍造寺信時を肥後の高瀬に、土肥家実を小代城へ置いて大友・島津の押さえとし、鍋島信生を筑後は酒見城へおいて当国を守らせると、自らは12月3日に村中城へ帰った。

またこの冬、肥後の辺春親運が龍造寺に逆心あるとして、隆信はこれを討つよう筑後の蒲池鎮並・田尻鑑種、肥後の小代伊勢入道宗禅・大津山河内守へ下知、肥前からも後藤家信・内田兼能(入道栄節)が出陣した。

辺春は防戦するも寄せ手の激しい攻めに耐えかね、遂に龍造寺家に降参した。

同じくこの年の冬、神代長良の老臣・三瀬大蔵が佐嘉へ参り隆信へ、
「長良に家を継ぐべき男子が無く、御一族より養子を貰い受け、娘に娶らせ家名を護らせたく存ずる。
但し御名字の中からは叶い難く思いますれば、鍋島飛騨守殿に御子息数多おわすれば、そちらの御一人を賜りたし」と述べた。

ただ信生にはまだ男児がなかった為、隆信は信生の弟・小河信貫(後の信俊)の三男・犬法師丸(7歳)を山内へ送った。

その供として武藤善兵衛・田中善右衛門・石井孫兵衛・太田源助・馬郡孫右衛門・木下小兵衛・久納八助・矢作小右衛門の八名が付けられる。

その後、犬法師丸は神代の家督を継ぐと神代喜平次と称し、更に後に神代家良と名乗るようになる。

隆信は、近いうちに上洛を果たし帝に朝し奉らんと心中深く思い、家臣の三浦入道可鷗・土肥信安(前名:家実)・田原尚明・背振山の僧である水上坊仁秀・西岳坊賢也(江上太郎兵衛)を代わる代わる使節とし、先ずは中国の毛利輝元を仲介に頼んだ。

そんな折、不意に田尻鑑種より、甥である蒲池鎮並が龍造寺家に対して叛意を抱いていると、勝屋宗機という大内浪人を使者として、隆信へと知らせて来た。

鎮並叛意の理由は、辺春攻めの際に鎮並は時折柳川へ戻っており、
これが「武士とは、その家を出る時は妻子を忘れるものぞ」、
「武士とは、その敵と相対したときは己が身命を忘れるものぞ」との諸人よりの悪口を生んだ。

鎮並はこれを龍造寺からの批判ではないかと取り憤慨したからとも、
また鎮並と蒲池鑑広は近しい親類ながら不仲であり、その鑑広を龍造寺家が許し味方にしたのを快く思わなかったからともする。

隆信は、ならば鎮並を誅伐せんと思い立ち、田尻と内密に話を進める。

田尻は甥ながらその行状を良く思わず、勝屋を間に挟んで数回遣り取りを交わした。

隆信父子は鍋島信生に対して書札神文を取り交わして、鎮並誅伐を密談する。

12月9日、相談の上、田尻を新恩の地から千町、他に田尻所望の在所 津留村・濱田村130町を宛がうと約する。




赤星さん・・・蒲池さん・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

【北肥戦誌・1579年】その2

小代を従わせた隆信は筑後へ陣を返すと、いまだ従わない山下城主・蒲池鑑広を攻めるべく、4月8日に20,000の兵で山下へ取り掛かった。

この蒲池鑑広、柳川の蒲池と同族で、筑後のうち8,600町を有する筑後では一二を争う規模の豪族である。

蒲池鑑広は龍造寺が攻め入ると、矢原・谷河・上妻・菖蒲尾木などの要害に数千の兵を入れ置き、山下の大河(矢部川)の前に逆茂木などを並べ鉄砲百挺を用意、
端の城に至るまで堅固に保つと共に、大友軍勢が星野常陸介親忠を攻めるべく生葉に在陣しているのを後援に頼むなど、佐嘉勢を盤石の態勢で待ち構えていた。

隆信は田尻の案内で山下城近くに陣を布いた。

そして田尻に先鋒を命じ、これに佐嘉勢も加わって菖蒲尾に攻め掛かった。

敵の防戦に味方は度々崩れかかるも、容易く菖蒲尾を攻め破ると、龍造寺勢は翌日、山下城の麓まで進軍、まずは水田に討ち入る。(その後の経過、記述ナシ)。


隆信は山下を差し置き、5月下旬に肥後へ討ち入り、和仁城主・和仁大膳允を攻めるべく、鍋島信生・小河信貫・田尻鑑種を差し向ける。

城兵の奮戦に城は容易く落ちないと思われたが、武藤貞清が火矢を以って城へ射掛け、計略を以って城を落とすよう田尻が信生に述べると、信生は合戦を止めて攻め口を拡げる。

すると和仁大膳は城をすぐさま明け渡した。

和仁城は田尻鎮貞に預けられた。

次に、鍋島信生・納富家理らは、肥後は木山城主・永野紀伊守を攻めるべく進軍する。

納富勢の果敢な攻めで永野は降伏する。

そんな折、御船城主・甲斐宗運とその子・甲斐親秀(或いは右京大夫鎮隆)など木山の者達の悉くが龍造寺に誼を通じてきた。

隔して鍋島勢らは隈府へ討ち入る。

だが、肥後国人の激しい抵抗に遭い、龍造寺勢は悉く敗走、だが奮戦の末に肥後豪族を退けると、八代の赤星統家(これは誤認識。八代は九州征伐後の赤星の領地のある場所で、このときの領地は隈府)を攻めるべしと評定するも、まずは帰陣すべきと決し、皆が筑後本陣へ引き返した。

隆信は筑後国の水田に在陣したままで、蒲池鑑広を攻めるべく6月下旬に戸原・兼松へ進軍する。

このとき高良山の大祝部、並びに座主の鎮興・麟圭・良寛が各々一山の衆徒を引き連れ来陣した。

また、紀親祐という者が起請文を出して従った。

隆信は鐘ヶ江将監を招いたが応じず、これは人数を差し向けて誅伐した。

隆信は蒲池鑑広を攻める前に、以前に戸原攻めを邪魔した伊駒野城主・河崎鎮堯を攻めるべく軍兵を差し向け、7月21日にこれを攻める。

先手は蒲池鎮並で、大手門を破って勇戦する。

寄せ手は城一面に拡がって攻め登り、我先にと功を争って城戸内へ討ち入った為、城兵はこれを防ぎかね、当の河崎出羽は城を落ちて行方知れずとなった。

それを逃す為に河崎方の数多の者が討ち死に、残った者も退去して、城は落ちるに至った。

8月上旬、筑後は猫尾城主・黒木実久(鎮運とも。入道して宗英)と高良山の新坊が龍造寺に従い、黒木は嫡孫の四郎を、新坊は親類をそれぞれ人質に出した。

ちなみにこの黒木と河崎及び星野は元々「調氏」である。

隆信が筑後・肥後へ出陣したと聞いた大友義統は、これを討つべく自ら出陣、8月22日に日田に陣を布いた。

隆信はこれを耳にし、7月24日に秋月種実を介して毛利輝元へ、筑後に出動するから援軍を頼むとした。

これに8月26日、吉川・小早川は連署にて、宝満城・古処山城へ援軍を送ると返書した。

隆信は筑後に在陣し続け、蒲池鑑広の籠る山下城を攻めるべく多勢を以って取り詰める。

すると9月1日、城兵が矢原口へ打って出て来た。

これに納富信理(前名:家理)が一列進んで相対する。

討ちつ討たれつ戦い、城兵を多数討ち取るも味方にも被害が出た。

そこへ横岳頼続・大塚伯耆守も進んで納富勢と一つになり、更に鍋島信生も加わって城兵を追い立て退かせた。

翌2日、隆信は水田から鶴田へ陣を移し、鍋島信生は三溝に在陣、蒲池鎮並は鶴田近くに陣を布き、田尻鑑種は長田に陣取った。

翌3日、城兵が三溝へ打って出て鍋島勢と激しく戦う。

これに鍋島の一列目が利を失い、信生の従弟・鍋島為俊が討ち死にする。

信生も自ら槍を取り、家臣らも奮戦すると、ようやく敵を退かせるに至った。

そんな折、山下勢が松延表へ刈田に出るとの風聞があり、田尻はすぐさまその近辺の堤村へ陣を変え、数日在陣する。




プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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