【北肥戦誌・1585年】雷神死す

天正13年(1585)1月、道雪・紹運は高良山で越年すると、龍造寺方の西牟田家親が守る城島の砦を攻める。

家親は援兵を乞うてこれを防ぐと、大友勢は道雪の弟・右衛門大夫以下が討ち死にするなど討ち負け、高良山へ退いて行った。

が、2月に今度は島津方・問註所鑑景の井上城を攻めるべく生葉郡へ打ち入る。

鑑景はこれを聞き、多勢を防ぎ難く思い、城を去って草野鑑員を頼るべく発心岳へ登り共に籠城する。

豊後勢は志賀・朽綱を加えて鑑員を攻めるが、城は落ちず上から下へ追い落とされた。

やむなく道を塞ぎ遠矢を放って四月半に渡り攻囲に徹する。

そして道雪は、城中に居る草野の親類ら9人を寝返らせる事に成功、城に火を点けさせる計略となったが、草野家臣・灰塚三河守がこれを聞きつけ、9人全員を捕えて首を刎ねたため失敗に終わる。

政家・信生は急ぎ草野を援けるべく自ら出陣、柳川の家晴勢を含めた総勢20,000余騎で筑後へ討ち入った。

これに豊後勢はまず草野を差し置いて高良山へ帰陣、敵に先んじて不意を突くべく中途へ進出し、10,000余騎で待ち構える。

隔して4月18日に矢玉で応酬、初戦は高橋紹運の一手を家晴勢が敗走させた。

これに道雪の一手が攻め掛かり、逆に家晴勢は100余人を討たれて二陣に崩れかかる。

更に龍造寺勢の脇備えを担っていた上松浦勢が朽綱勢に負けた為、龍造寺勢は悉く久留米城へ退き、豊後勢は勝利ながらも高良山へ帰陣する。

9月、筑後国山門郡は堀切の地下人が龍造寺に背き、大友勢を引き入れるとすぐさま、豊後勢の平井鎮経は堀切の城へ籠った。

田尻鑑種は、堀切の者から預かっていた人質二人を処した後、鷹尾城を出て地下人誅伐を開始した。

これに豊後勢が堀切勢に加勢、田尻勢にも家晴の柳川勢が加勢すると、家晴は堀切城を押さえ鑑種は豊後勢を追い払った。

その後、家晴と鑑種は三池親基の領地へ入り諸所を放火すると、山下の蒲池家恒が三池の加勢として濱田村へ陣を布く。

これに田尻勢は、領民の振りをして農具に太刀・長刀を包み隠して、古賀の渡しを渡って山下勢に近付いて攻撃、更に鑑種・家晴も加わると、敵は悉く退いて行った。

その後、鑑種・家晴も鷹尾城へ戻った。

この頃、島津勢は合志氏・隈部氏を従えさせ、島津に背く肥後国人はいなくなっていた。

ならば筑後を征すべしと9月下旬、島津家臣の伊集院肥前守・山田越前守らが筑後へ討ち入る。

これに三池親基が従うと、大友方・平井鎮経が籠る堀切城を攻めた。

城兵はこれを防ぎ得ず、平井は江の浦の城へ逃れ中野兵庫助に合流、平井はその後、島津勢に懇望し豊後へ帰国した。

同じく9月、戸次道雪は春から高良山へ在陣し、病にかかったのであるが、いつまでも他国に遠征していられないと、
鍋島信生を引っ張り出し十死一生の戦いをして運を天に任せんと9月中旬、一騎当千の者700名を選び出し瀬高口へ進み出る。

そして柳川城へ戻っていた信生へ使いを出し、
「大友と龍造寺は武威を争わせて長いが、兵革の費えと万民の嘆き、それに過ぎたるものはない。
ならば其方と我の二人で槍を合わせ、雌雄を決して諸人の苦しみを援けようではないか。
すぐさま瀬高口へ出馬あるべし」と伝えさせた。

信生は道雪の心底を推し量っていたが恐れるに足らずと、まず斥候に敵陣を調べさせた上で城を出て井手の橋に着陣する。

家臣は道雪の考えを察して、今回の一戦は延期するよう述べるが、信生は応じなかった。

だが不意に、佐嘉勢の中から倉町信吉と水町信定が大喧嘩を始めた為、前後の備えが混乱し始めた。

信生は今日の一戦は力及ぶまいと城へ引き返した。

道雪は憤激するも、止む無く高良山の本陣へ引き返した。

この喧嘩であるが、倉町と水町が雌雄を止める為に企んだ事であった。

10月20日、道雪は北野の陣中にて没した(高良山の陣から北野へ陣を移動した模様)。

そんな折、いまだ高良山に陣を布いていた高橋紹運であるが、居城の宝満城が秋月種実の謀の為に焼き立てられ、伏兵に攻められた末に紹運の子・統増が下城した。

その煙が高良山から見えたのであるが、これに紹運は驚き、早速士卒を率いて同月23日、筑前へと帰陣した。

これに志賀・朽綱も同日に悉く帰陣する。

紹運が戻った時には既に宝満城は、秋月の一味である筑紫広門の一族・興門が入城しており、紹運は力無く岩屋城へ入った。

大友勢の退去に、龍造寺勢は高良山へ登って凱歌を上げた。そして皆が在所へ戻って行った。

この年、羽柴秀吉は諸国の争いを停止させる。

中でも鎮西の件は、11月上旬に小早川隆景が上洛し秀吉に訴えた為、秀吉は龍造寺・大友・島津の三家へ(既に龍造寺は島津へ人質を出しているのに?)争いを止めるよう申し送った。

三家ともこれに背き難く、其々神文を交わして九州は静謐となった(??)。

そこへ島津側が鎌田政弘を大坂へ差遣し関白へ、
「義久は既に九州の過半を切り取っている為、今に於いては九ヶ国を賜りたく。
然れば高麗・南蛮・唐国まで御成敗の折には、御先を仕り忠節に励む由」と金銀を捧げ言上したが(???)、関白は承諾しなかった。

(『上井覚兼日記』天正14年1月23日の日記では、惣無事令について・・・島津は頼朝以来の名門で、羽柴を関白と仰ぐなど笑止との意見もあり、細川藤孝への附状にて答えるとし、
「先年(天正8年)信長公の才覚を以って大御所様(近衛前久)豊薩和平の為に罷り来られ、これに従ったものの、大友勢が日向及び肥後境を侵した為、防戦を余儀なく致しました。
故に当方には改易されるような非はなく、その旨、御伝え下さい。 1月11日 義久加判 細川兵部入道殿」(以上ざっくり意訳)との書状を鎌田政弘に託して差遣させたと記述されている)

これを聞いた大友宗麟は、我らも上洛して関白を頼み、島津に対し年来の遺恨を晴らすべしと、上下一千余にて船で堺へ上がって大坂へ登城し、正宗の太刀一振・無双の駿馬一疋・虎の皮100枚・その他に和漢の茶の湯の器などを積み並べて、関白に拝褐した。

宗麟は加勢を乞い、筑後国を進上すると府内へ帰城した。

また、立花統虎・高橋紹運を直参として立花・岩屋両城へ入れた。

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龍造寺家兼_9【兄と弟~チェンジ!当主の座】

戦国世紀末の1499年、この年から九州は飢饉が続き、餓死者が多数出るようになる。

さて渋川刀禰丸クンの話です。

彼は(大内にコテンパンにされる前の)少弐に、筑後・犬塚城を追い出され、大内氏の庇護下に入ってました。

それが大内義興の働きかけで、元服後に九州探題(渋川家累代の官職)に任命されると内示されます~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

そして1500年(多分)吉日~渋川刀禰丸クンは、大内義興のバックアップで正式に「九州探題職」に任命
刀禰丸クンは前将軍足利義尹(コッチも大内の保護下)に拝謁し、偏諱を受けて「渋川尹繁」と改名します

もはや名ばかりの九州探題とはいえ、九州統治のために設置された役職が大内の意向・威光で決定したんです。

北九州は大内の支配下となった

家紋・大内 大内家紋

前年から飢饉と冒頭で書いたが、1500年は3月~5月にかけて降雨が無く、8月2日に台風が来るという状態でして飢饉に拍車をかけた( ̄ω ̄A;アセアセ

そんな中、竜造寺家では後に17代目当主となる胤久が産まれる

胤久は竜造寺家次男・家和の子です。

大内義興が北九州を支配下に治めた事で、竜造寺内部が対外政策で揉めました^^;

弟・家和の猛反対を押し切り、少弐&西千葉に加勢した当主・竜造寺胤家。

西千葉のリベンジは失敗し戦には負け、少弐も滅亡寸前、
竜造寺家では「このまま胤家当主じゃ、ヤバくね?」という空気になった。

竜造寺胤家は当主でありながら出奔し、行方不明となる (゚ロ゚屮)屮ぇえっ!

弟・家和がo( ̄Д ̄θ★ケリッ!追い出したのか、
兄・胤家が((((((((((っ´▽`)っ自主的に出たのか、
はたまた竜造寺総意として「ほとぼり冷めるまで消えてくんない?」となったのか、
そのあたりは微妙で解らない。

とにかく胤家は筑前に逃亡し、現地の外戚に匿われた。

そして竜造寺の家督は弟・家和が継ぎ、15代目当主となる
これ以降は弟・家和の系統が竜造寺当主となり、本来の嫡男である胤家の系統が当主に復活する事はなかった

次男・家和が家督を継いだ正式な時期は解らない。

なんとなく竜造寺一族・家臣の総意の気がするなぁ~

だって胤家は少弐政資や息子が自害してからの、西千葉(少弐の縁戚)のリベンジに肩入れしたんだよ?

胤家は当主としての資質に問題アリ(半分以上は大内への遠慮)となるのは当然だろう。

北肥戦誌に至っては、胤家は家督を継いでないことになってる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

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【北肥戦誌・1584年】肥前の熊死後

高来島深江城主・安富純泰の処へも有馬・薩摩勢が押し寄せ、隆信討ち死にを矢文にて知らせてきた。

深江城兵はこれを信じなかったが後に真実と知れて、「ならばこの城に居ても甲斐がない」
と、ちょうど深江番に入っていた神代貴茂と相談の上、父と弟が島原に在るのを振り棄て、城中の老若男女全員を連れ立ち、深江城から神代の城へ入ると、船で藤津へ渡った。

純泰の父と弟は、島原式部少輔の城にあったが、ここへも有馬・島津勢が押し寄せた為、島原と安富父子は有馬へ降った。

だが、安富父子は尚も龍造寺に志を通じ、5月15日に佐嘉へ赴かんとしている処を討ち果たされた。

島原式部少輔は薩摩に引き立てられ、その後は一家共々薩摩へ赴き伊集院家に従ったが、時節を伺い忍び出て、肥後の南まで逃げ伸びたのを追われ、一人残らず討ち果たされた。


龍造寺政家は帰城すると、納富道俊入道・龍造寺家就・龍造寺信周らが馳せ参じ、国家静謐の談合に及んだが、鍋島信生は何やら思慮があるようで、柳川へ遣いを立てても参上しなかった。

これに信周自身が長福寺まで来て、信生へ度々使いを出すと、ようやく信生は長福寺へ参じ少し密談した後に、信周は佐嘉へ帰った。

その後、信生は龍造寺家晴を柳川の城へ南の関より招き入れ、自身は蓮池城へ入った。

昼夜油断なく方々に注意し、色々と才覚を以って行った結果、龍造寺城下は少しも騒動なく、近国の者たちにも異心は現れなかった。

4月5日に肥後の小代親傅が、5月20日に大村純忠が、6月2日に肥後の隈部親永・親泰父子が、6月24日に筑後の黒木家永が、龍造寺に対して神文を送っている。


龍造寺家は評議の末、隆信の仇とは共に天を頂かずとして、弔いの軍を上げようとしたが、
秋月種実よりの使いが現れ、「いまだ花洛(京の都)の騒動すら鎮まらざるに、九州が大乱に及ぶのは天下の妨げ・災いであり、国民の苦しみです。まずは私的な憤りを静められ、少しの間でも島津と和平致されませ」
と述べた為、薩摩への派兵は留めた。


そして島津と龍造寺家は和融に至り、佐嘉より薩摩へ人質として小林播磨守・土肥相左衛門・副島長門守が出され、何れも5~6ヶ月薩摩にあって、天正14年6月中旬からは秀島家周が薩摩へ入り、その翌年の夏に帰った。


この夏、鍋島信生は、田尻鑑種を旧領の田尻・亀尻・海津の三ヶ所の返還を条件に、国境の警備として筑後の海津へ差遣した。


そして6月、隆信死去を聞いた大友勢が、志賀安房入道道輝・朽綱三河入道宗歴らに多勢を率いさせ肥後・筑後の間に派兵してきた。

大友勢はまず8月上旬に黒木氏の猫尾城・高群城を攻めようとする。

黒木氏の援軍要請により政家は、猫尾城へは《倉町信光》らと海津の田尻勢を、高群城へは土肥信安らを派兵、大友勢は猫尾城を攻めたが、落とせずに退いた。

しかし8月18日、戸次道雪・高橋紹運がその加勢として10,000余騎を率いて、筑紫・秋月領を次々と討ち通ると耳納山へ着陣した。

島津方・龍造寺方の草野・星野・問註所の家臣らはこれを遮ったが、戸次・高橋勢はこれを容易く蹴散らし、険峻な十余里の山道をたった一日で抜けて龍造寺方・蒲池家恒の山下城を攻めんとする。

家恒はこれを防ぎ難く降参すれば、戸次・高橋勢は次に黒木氏の高群城を攻めると決した。

これを聞いた土肥信安は佐嘉へ援軍を乞う。

政家は8月22日、猫尾城の加勢にいた田尻勢へ高群城の加勢に行くよう申し伝えた。

だが既に遅く、その二日後の24日に高群城は落とされ、土肥らは佐嘉へ帰還、城兵は大友方へ降伏していた為、田尻勢は海津へ戻った。

戸次・高橋勢は更に翌25日に西牟田鎮豊の領地を焼き払う。

その結果、筑後の龍造寺方の多くが大友方へ降伏した。

政家・信生は龍造寺家晴を柳川城へ入れるなど、大友と戦う準備を始めるが、そのころ島津勢も肥後平定に動き出していた。


9月1日、戸次道雪は黒木氏の猫尾城を攻める。

城は堪え得ず落城、道雪は9日に瀬高周辺の村々を焼き払った。

これに信生は、田尻鑑種を海津から垂水村へ陣替えして、これを防ぎ追い帰させた。

道雪は山門郡で暴れた後に高橋勢と合流、田原親家とも参会しての談合の末、まず西牟田村・酒見村・榎木津の在家数百件を焼き払って後、家晴の居る柳川城を攻めんとする。

しかし柳川城が要害で、且つ家晴が柳川城の周辺およそ50町の間にある北の酒見城・乾の榎木津城・東の蒲船津城・南の蒲池の要害と、更に垂見の要害といった5つの端城の防備も固めさせた為、
大友勢はすぐには柳川城へ取り掛からず、軽卒らに榎木津城を攻めさせる。

だがこちらも要害で破り得ず、次に東の蒲船津城を攻める。

ここには亡き百武信兼の妻・円久比丘尼がいたのであるが、この円久は女ながら剛の者で、大長刀を振るいながら士卒を励まし城戸口にて防戦、榎木津よりの援軍も加わった為、大友勢はまたも落とし得なかった。

だが一方、三池親基の古賀城と中野兵庫助の江浦城は降参させた。


筑後勢が大友へ攻められ次々と下城に及ぶに付け、政家・信生はこれでは敵うまいと、田尻鑑種が垂見へ在村しているのを田尻旧領の鷹尾の城へ籠らせた。

10月4日、戸次・高橋は草野鑑員の城(嫡子・草野家清が柳川城へ家臣の殆どを連れており無勢)を攻め抜き、更に島津方・星野鎮種の妙見城(弟と筑前国警衛に出ており留守)を落として近隣を焼き払い、次に問註所鑑景の井上城を攻めんとした。

が、このとき田原親家は生葉にあって家臣らに、
「此度、義統公より敵征伐に差遣され、軍労は莫大であるが、あの道雪・紹運め、何の下知も無い処に筑前を留守にしてここへ参って我らに加わり、諸所の城を攻め落とした。此度の戦功は悉くあの両入道の名に現れ、この親家が武名は一切ないかの如くに隠れよう。他人の功を立てる為に命を掛けて敵に陣を晒すより、急ぎ豊後へ帰って席を温めた方がよい」
と述べ、ちょうど士卒も長陣に困窮していた事もあってこれに同意すれば、親家は弟と共に府内へ帰ってしまった。


道雪・紹運は呆れ果て、ならば問註所攻めを延期して陣へ戻るべしと、高良山へ引き返してしばらく在陣した。

さてその頃、足利義昭は京都を追われ中国の毛利家を頼っていたが、再び上洛を果たすべくこの8月に九州諸将へ御内書を出した。義昭よりの三人の使者は其々、大友・龍造寺・島津へ向かったが、三家は係争中であるため今は受けられないと延引した。

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田原親家・・・・宗麟の子供たちが残念すぎるil||li _| ̄|○ il||l

【北肥戦誌・1584年】沖田畷の戦い

薩州太守・島津義久は去年の夏に高来深江の戦で新納刑部・蓑田平右衛門が敢え無く打たれた事に大いに腹を立て、
急ぎ高来へ加勢を差し送り、有馬・安徳と合力して龍造寺方を退治するよう八代に在陣する弟の忠平へ下知した。

1月、忠平は新納忠元が御船に在陣していたのを、軍兵を与えて有馬の加勢として高来島へ渡らせる。

忠元は有馬鎮貴(前名:義純)に会すと、安徳純俊の城へ入った。

これを聞いた隆信と政家は話合い、ならば高来の味方へ力添えせよと下知し、
2月に先ず神代貴茂を安富純泰の加勢とし深江城へ入れ、その他に藤津郡の輩原・嬉野・吉田・永田らを有馬の抑えとし、大村信純を三城へ差し置き、海上には田雑大隅守を船大将として番船を附け、数日の間、有馬・島津の者と相戦う。


隔して高来での戦に島津・有馬の者共は龍造寺方が動けば討ち負けると聞こえ、義久は評議を重ね、常の如くに戦えば利を得られないと、
弟の島津家久に対し「万死一生の覚悟で龍造寺方を悉く討ち取るべし」と言えば、家久は了承しすぐさま薩摩・大隅・日向三国の中から健兵3,000を選りすぐり、
鹿児島の鎮守の神前にて3,000の者共と神水を飲み、此度高来の戦に討ち勝たざれば、生きて二度と帰るまじと誓って、十文字の白旗と采配を頂戴し、家久は薩州を打ち立って海陸を押して、3月13日、高来の島へ着船し、安徳城へ入った。

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(※但し『上井覚兼日記』では上記の様な事実は認められず。2月26日、合志親為の城へ龍造寺勢が攻め込んだとある。
2月11日に龍造寺勢が出国、13日に合志城を攻めている。

また、忠元もこのときはまだ八代に居るため、北肥戦誌の内容は矛盾してくる。

そして、合志救援に島津義久も来月2日に出征するよう皆に命じ、同時に中断していた有馬への加勢も行う事となったようである。
ちなみに、合志救援は間に合わず、親為は龍造寺に降っている。

また、島津勢3,000としているが、島津側の記録では総勢1,500(有馬勢は3,000)。
家久着船の報を義久は、16日に水俣から佐敷へ着いた際に聞いている。
また、家久の後続として21日には島津彰久・上原尚近が高来へ渡海、須川湊より上陸している。)

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このとき高来島の深江城には、神代貴茂の番兵が入っており、また島原城には安富純治とその次男・新七郎が入っていたが、島津勢が続々と高来へ押し寄せる為、これを防ぐ自信が持てず注進すると、ならばと須古の隆信自ら出馬し、蹴散らした上で鹿児島へ討ち入らんと気勢を上げた。

隆信は政家にも出陣を促し、皆に「わしと政家が高来へ出陣せし後の儀は、鍋島剛意入道(清房)を留守居とし、龍造寺家就・納富信景は城内に在って諸事を示し合わせて国営を司り、鍋島信生は柳川城にて筑後を押さえ、龍造寺家晴は南の関にてこれまで通り肥後を護れ。
龍造寺信周は一昨年より在城の一之岳城に在って、内野・安楽・平・飯盛ら番の者と共に筑前・豊前を守護すべし。
大村・松浦勢は船より肥前は神代の湊へ出征し、佐嘉・神埼・三根・養父・小城の者共は皆、わしと政家の旗本たるべし」。として3月下旬に高来へ出馬すると決した。

{二次史料に依る別説:隆信は有馬攻めが遅々として進まないのは政家が有馬の婿だからで、かくなる上は自ら出馬するとし、政家は村中城を守り、龍造寺信周・龍造寺家就・納富信景は城にあって政家を守護し、鍋島剛意入道(清房)はその後見となるよう命じた。}

信生は心中に忌み思う事が色々あり
(3月24日の『上井覚兼日記』に、龍造寺勢は肥後表へ出陣しようとしたが、肥前の畑地2~3反に蛇が大量に死んでいるのが見つかり、肥後出兵を中止したとの風聞があったとの記述があるが、この事か? また、フロイス『日本史』では、この2月に長崎に於いて夜の8時に、三、四度に渡って火柱が空に現れ、暫く続いてから消えたとあり、また陰陽師(おそらく勝屋勝一軒を指す)らが隆信が高来へ向かうと一命に関して恐るべき労苦と危難を覚悟せねばならないと予言したとある。)、
叶わぬまでも隆信へ今回の出馬を取り止めるよう須古へ赴き、隆信へ3カ条の凶を上げて諌めんとしたが、隆信は承諾せず、「此度、高来へ赴き軍勢を差配致すは、弓懸(ゆがけ)をはめて痒い処を掻くのと変わらぬ」と取り合う色も無かった。


隔して3月18日、隆信・政家は江上・後藤・神代を始め、小河・納富らのみならず、隣国の者共を合わせた都合57,000余騎で高来へと渡海する。

中でも隆信・政家勢は龍王崎より出船し、20日に神代湊へ着船、その他は22日・23日の間に三会の津に現れた。

また信生も柳川の城へ父・剛意入道を招き入れ、隆信・政家と同じく神代湊へ着船した。

(※『フロイス日本史』によると、信生は兵船50、5,000人で島原城へ入らんとしたが、有馬・島津の為に上陸できず、三会城へ入った。
着船当日に何らかの手柄を立てんと動いたが、それを見付けた島津勢が城門まで追い散らしたとしている。
また、多数が千々石城へ入っているとし、沖田畷の戦いそのものに参加したのは二次史料に在るように25,000で、他は千々石城・島原城などの別の場所に詰めていたのかも知れない。)

龍造寺の大軍が押し寄せると高来に聞こえると、島津家久・有馬鎮貴は評定を極め、其々に軍勢を配置する。

まず有馬の原城・日之江城には堀・志岐・本田・林田・白石ら有馬家臣を入れ、有馬勢5,000(二次史料では3,000)は島原へ出て森岳城に陣を布く。

家久勢3,000(島津側史料では1,500)は3月15日に安徳城を出て、これも島原へ着陣すると、新納忠元勢と左右に分かれ要害を前に充てる。

両側は牟田で中央に一筋しかない細道に対し、垂直に城戸を構え柴垣を以って塀と為すと、その影に弓・鉄砲数百人置き、矢先を揃えて陣を布いた。

また、これに赤星統家主従50余人が加わり、隆信に殺された二人の子の仇を討たんと先陣を申し出る。

これにより赤星勢は城戸へ配置された。


20日に隆信は神代へ陣を布き評定、先ずは高来の味方を援けんと諸所へ軍勢を入れて防戦させる。

24日、有馬・島津の本陣である島原森岳城を攻めるべしと決し軍勢を分ける。

一手は政家に信生を副えて大手中道へ向かう。

これに神代家良の名代・神代家利(家良はまだ若年の為)が加わる。

また一手は、江上家種・後藤家信の城原・塚崎勢を浜の手へ向かわせる。

一手は隆信の旗本勢にて山の手へ押し詰める。

その旗本の先手は信生の弟・小河信俊と納富家理、二陣は龍造寺康秀(前名:信種)と多久・上松浦勢、三陣に倉町信俊、他に龍造寺一族ならびに土肥・百武・福地・江副・安住・副島・鴨打・徳島・鹿江・西岡・渋谷・馬渡・前田・田代・重松・石井・諸岡・秀島・西村などを段々に備えさせる。

殿軍は藤津衆の嬉野尚道・原尚家・原氏家らである。軍奉行は成松信勝・百武信兼・円城寺信胤・高木太栄入道、軍監は勝屋勝一軒と定める。


別説として、このとき殿の頭は鍋島信房ともされる。また信房は藤津郡を守り、このとき参陣せず、犬塚・永田らと共に隆信の留守を守ったともされる。

3月24日の朝、隆信勢57,000余騎はそれぞれの割り当てへ向かうよう下知するが、礑とこれが変更となり、隆信自らが中道へ向い、中道の筈であった政家・信生・神代は山の手へ向かう事となった。


(辰の刻)隆信勢は法螺貝・鉦を鳴らして進軍、敵の構えた陣城の城戸近くまで押し寄せる。

だが、敵は静まり返って音を立てなかったが、頃合いと見たか、柴垣の間より弓・鉄砲を雨の如くに放った。

そこへ一様に赤装束に身を包んだ赤星勢50余人が、城戸を開いて遮二無二突いて掛かる。

その迫力に先手は討ち負けて色めき立った。

これを救わんと味方が進み出るが、道の両端が沼で中央は僅かの細道である為、矢面に立つ者は5人から7人と敵に当たり、後続も援けようがなく一方的に射伏せられ、退かんとしても、後陣が閊えて退こうにも退けず、旗本勢も一歩も進めなかった。

これに隆信は気を揉み、馬廻りの吉田清内へ先方を見てくるよう命じる。

清内は先陣の者らに大声で、「先陣の面々臆して進まざる故に、二陣・三陣、御旗本までも差し支えて進めて居らぬ。命を惜しまず即座に掛かれとの大将よりの御下知なり」

と触れれば、先陣の者達は憤激し、ならば死を一挙に定めんと、小河・納富勢は左右の沼に続々と駆け入って進もうとする。

これを見た二陣・三陣・旗本勢に至るまでが、負けじと牟田に飛び降りたが、草摺・上帯・胸板まで見えなくなる程に泥にはまって身動きが取れなくなった。


赤星・島津勢はこれを見て「得たり」と、良き首を見定めて矢を射掛ける。

佐嘉勢は逃げる事も出来ず、真先に進んだ小河信俊・納富家理・龍造寺康秀・倉町信俊ら数百人は算を乱して討ち死にし、その他の士卒も右往左往し敗北する。

(※二次史料には、沼はあったが、進軍出来ない程に広大ではなかったとの説が解かれているものがある。
つまりは敵を侮り、江上・後藤が砲撃に乱され、籠るのみだろうと思っていた島津・赤星が、真一文字に隆信目指して駆けたのに意表を突かれ、二の足を踏んだのではないかとしている。)


隆信は大肥満の大将で、馬から山駕籠に移り、小高い所で床几に腰掛け、味方が分捕りし、或いは討ち死にする様をしばし見ていた。

島津勢は勝ちに乗じて突撃、龍造寺勢を屠っていく。


(※『フロイス日本史』によると、沿岸の江上・後藤隊へは、有馬勢の船から半筒砲二門が討ち掛けられたとある。
砲手が無く、止む無く一人のアフリカのカフル人(エジプト北部の民族)が弾を込め、一人のマラバル人(インド南西部の海岸地方の民族)が点火していたが、大軍ゆえに当り損ねがなく、一発で十人を倒した砲弾もあったという。
敵の兜が断片となって空中に舞い上がるのが見え、船内では砲弾が当たる度に跪いて両手を合わせ、「パアテル・ノステル・クイ・エス・イン・チェリス・サンクチフィチェツル、ノーメン、ツウム」の祈りを声高に唱え、そして再び砲撃を開始した。江上・後藤勢は、一部が潰走し、一部が中央に合流していったようである。)


「龍造寺四天王」たる木下昌直は鍋島に属して山の手に在り、江里口信常は敗戦の中で行方知れず
(その後に隆信討ち死にを聞くと、討ち死にの者の首を切って島津の味方を装い、家久に近づいて切り付けたが、家久の馬廻りに取り囲まれて斬り殺される。
家久は「それは無双の者なれば援けよ、援けよ!」と命じ江里口を生かそうとしたが、もはや遅かった)、

成松信勝は主従16~7人と共に、味方が次々に討たれるのを見て、「我が死に時は今なり。なれば御大将の御目が前にて討ち死に致し、兼ねてよりの君恩を生前に報い奉らん」
と、金に日の出が書かれた扇を開き、「我は先年、豊後が大友八郎を討ち取りたる成松遠江と申せし者ぞ。相手に取って不足あるまい。この首取って手柄と致せ」と呼ばわった。

これに敵勢が殺到する中、長刀を以って渡り合い、主従が次々討たれる中、自らは敵7人を倒し、8人目に掛かる際に遂に力尽きた。その嫡子である又兵衛も同じく討ち死にした。

百武信兼は主従40余人と共に、隆信を逃がすべく敵前に塞がり、主従共々討たれた。円城寺信胤は隆信と同じ毛の甲冑を着ていたのであるが、「我こそが龍造寺隆信なり」と名乗りを上げ、敵の只中へと駆け入って討ち死にした。


高木太栄入道は隆信の元を離れなかったが、敵に向かう様を隆信に見つかると、太郎(太栄の俗名)はここに残れとの命を振り切って、敵に駆け入って討ち死にを遂げた。

隆信は小姓の鴨打新九郎(16歳)を召して、「汝はまだ若年なれば人の嘲りもあるまい。早くこの場より落ち延びよ」と述べるが、
新九郎は笑って、「弓取り致す者が主の先途を見捨て逃げ去る法が御座ろうや。予てよりの御厚恩には、せめて御目が前にて討ち死に仕るを御覧候え」
と、群がり来る敵へ、主従6人と共に駆け入り14~5人を切り捨てて、自らも討たれた。

これを見て別の小姓・田中善九郎は、「公が御腹召されるならば、御介錯致さんと御前に居りましたれど、敵あまりに間近く襲い来る程にて、某は死出の山へ御先仕る」
と、他の小姓・福地千(隆信は戯れに「のな」と呼んでいたという)と共に、敵に挑んで討ち死にする。

隆信は近習が討ち死にする様を見て、もはやこれまでと、大音声を発して名を名乗った。

これに島津家臣・川上忠堅が進み出て、遂に隆信は討ち取られた。

天正12年2月24日、未の刻(PM2:00頃)、享年56。

(※『フロイス日本史』には、隆信の駕籠の後方で争いが起こり、隆信はこれを部下同士の争いと思いこんで「今は汝ら互いに争うべき時に非ず。汝らはここに隆信が在るを存ぜぬか」と怒鳴ると、それは島津勢であった為、隆信の所在が判明したとある。
また、隆信は槍を受けると合掌し念仏を唱えたとし、隆信の遺骸に十四、五歳の一人の少年(隆信は男色を専らとしており、この少年は男色相手だと記されている)が抱きついたが、それも討たれたと記述している)


※隆信の辞世に関しては『北肥戦誌』には記述がなく、『肥陽軍記』にのみ記述がある。
但し、『肥陽軍記』の現代語訳をされた原田種真氏自身、そんな暇はなかったろうと、辞世は後の創作とするような見解を示されている。)

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また他の史書に曰く、隆信は切腹しようとの気持ちを翻して逃亡する道を選ぶ、田中らが隆信の駕籠を担いで高所へ運ぶが、敵から逃げおうせず、隆信と聞いた川上らが近付くと、気付かなかった小姓らは逃げ散り、隆信は討たれたともある。

江上家種は城原勢を率いて後藤家信と共に浜の手で戦っていたが、隆信討ち死にを聞き、自身も父と同じく討ち死にすべしと、真先に立って戦う。

家種は当世無双の大力で、鎧を二領重ねて着流し、三間半の槍を二三本まとめて一つに掴んで敵勢に割って入った。

これを見て家種の命に代らんと、執行種兼を始めとしてその嫡子・種直、次男・新九郎、同族の執行式部少輔・執行興三右衛門・執行内蔵助・執行四郎左衛門・執行又兵衛・諸岡安芸守・諸岡対馬守・諸岡次兵衛・諸岡内蔵允・江上澄種・江上隆種・江上太郎次郎・江上彦四郎・枝吉三郎右衛門・島治部大輔・島上野介・島興五郎・島彌次郎・生野孫左衛門・江副中務允・西筑前守・畑地主馬允・牟田口進士允・古賀右衛門允・石橋三郎兵衛以下、執行一組30余人、諸岡一組20余人が我先にと駆け入り、一人残らず同じ場所にて討ち死にする。

その中でも鍋島種房・枝吉清兵衛・諸岡清左衛門・江藤助右衛門・青柳九郎左衛門・小柳清右衛門は家種の前後を離れず、命を捨てて戦い、枝吉は敵の首を取り手傷三ヶ所を蒙り、小柳も敵二人を討ち取って、その身に四ヶ所の槍傷を負い、青柳も同じく首を取った。家種も敵数十人を打ち倒した。

その後、生き残った者を連れ三会にまで出た。

道中で様々な難儀があったが、鍋島種房・江藤助右衛門らが働き、小舟を求めて筑後へ渡ると城原の城へ帰った。

後藤家信も塚崎の兵を率いて、江上家種と同様に浜の手に向ったが、戦いの最中に隆信討ち死にを聞くと大いに嘆き、諸共討ち死にすべきと敵に7-8度当り、大長刀にて薙ぎ伏せた。

これを見て、弓奉行・執行三郎兵衛は主の家信の前に駆け出て、敵二人を斬り伏せたが三人に当たって討ち死にする。

その他、八並信明(家信の異弟)・馬場隼人佐・古賀紀伊守・鬼石周防守・古川和泉守・千綿一平・畑地了信・畑地七兵衛らは家信を討たせまいと近付く敵に馳せ合わせ、我も我もと討ち死にする。

家信ももはや討ち死にというところで成松新左衛門が駆け付け、敵二人を斬り倒し家信を援けて一所になる。

そのうち久池井彌五左衛門ら2-30人が加わって、家信の馬の前後に立ち塞がり、馬の轡を取って渚に沿って引き退くと、神代の湊に着いて遅れた味方と待ち合わせ、心静かに船で塚崎城へ帰った。


鍋島信生は龍造寺政家の副将とした山の手へ向った
(※ちなみに二次史料には、政家が出陣していたとするものはない)。

神代家良の家臣や陣代の神代家利らがこれに加わる。

隔して合戦が未だに乱れる前、馬渡賢斎・矢作純俊が先駆けし、島津勢の陣場より艮(うしと:北東)の方である丸尾より乗り入る。

ここは猿渡信光とその子・彌次郎(※猿渡信光の子に、彌次郎という人物は島津側の史料では確認できない)が固めていた。

敵味方入り乱れて火を散らして戦い、佐嘉勢は大いに利を得て薩摩陣を切り崩すと、猿渡彌次郎を討ち取り、勇み進む所で、中の手を攻めていた勢の敗軍と隆信討ち死にを聞き、忽ち力を失い悉く敗走する。

このとき神代長良の陣代・神代家利を初め、神代中務少輔・福島加兵衛・三瀬大蔵・梅野大膳・国分左馬助・千住左助・古川蔵人・大江相五郎・神代相右衛門・藤原主水允らが留まって戦い討ち死にする。

鍋島勢からは、加々良大学・小森伊豆守らが討ち死にした。

政家は父の戦死を聞き、生きて如何で帰れようかと、数度引き返したが、水町彌太右衛門・犬塚新四郎らが立ち塞がり無礼に引き立て退却した。

信生も討ち死にせんと6-7度取って返して戦ったが、中野式部少輔が袖に縋って三会の方へ退去させた。

信生に従うのは、鍋島家俊・鍋島信清・綾部新五郎・南里太郎三郎・小森甚五・中野式部少輔、他に槍持ちの増岡軍右衛門、草履取りの笠原興兵衛、並びに家俊の従者・小宮三之允ら合わせて9人であった。

敵はこれを見て間違いなく大将であろうと思い、50人ばかりが追い掛けて来る。

これに綾部は引き返すと、敵を組み敷いて首を取り、中野式部は敵二人を打ち、信生も自ら敵を打った。

恐れを為した敵は引き返していった。

しばらくすると今度は敵300ばかりが鳥毛の指物を指して追い駆けては川越しに矢を散々に射掛ける。

これに再び取って返し、南里は矢に当たって臥し、家俊は敵を組み敷いて首を取り、中野式部は槍を突いて掛かる。この敵も引き返したが、これは島津家久であった(これは流石に嘘くさい・・・)。


隔して信生は、24日の夜に三会の船場へ出ると、主従10余人で田雑大隅守の船に乗って三会の津へ出る。

このとき、江上家臣・小柳清右衛門が此度の戦で手負いとなり歩行が困難となったのを、江上家種の許しを得て、信生の船に乗った。

信生は三会から(或いは神代湊、或いは多比良湊とも)出船すると、岳崎へ船を寄せてしばし休息、そこで密書を数通認めて小早で筑後の者らへ送った後、筑後から榎木津へ渡海して柳川へ帰った。


3月24日、政家は佐嘉へ帰城し、信生は柳川へ帰陣した。

その由が聞こえれば、このとき山門郡蒲池の城を警護していた重松範幸が、信生を迎え入れようと急いで榎木津まで出迎え、これを守護して柳川城へ入れると、武具・馬具を修理して中野式部へ引き渡し、自らは蒲池へ帰った。

信生の帰還に上下喜ぶこと際限なし。

中でも父・鍋島清房は嬉しさのあまり落涙止まらず、「御辺が此度生き残ったのは、偏に龍造寺八幡の御加護であり、国家長久の基である」と喜んだ。


龍造寺勢の討ち死には230人、別の史書では雑兵併せて800余人とある。手負いは数知れず。

また、吉田清内は敗軍後に逐電していたのを、探し出されて生害されたともいう。

【不審死or病死?】飫肥藩初代藩主編7

1589年6月13日・・・伊東祐兵(いとう すけたけ)の嫡男・祐慶(すけよし)が誕生したことから伊東家の家督がややこしくなる。

伊東家嫡流で家督を継いだ伊東義賢(いとう よしかた~祐兵の甥にあたる)が厳然といたからだ。

だが天下人・豊臣秀吉が戦功を認め、領地2万8千石を与えて大名に取り立てたのは祐兵だ。

没落した伊東家が大名として復活したのを機に、旧家臣が帰参しはじめ、
(小大名だから領地に限りがあるので早く帰参した者勝ち^^;)

本来であれば主君の義賢が、家臣として祐兵に仕えるという逆転現象が起きる。

それでも祐兵に子供がいなければ、義賢を養子に・・・って流れになった可能性が高いのだが、
幸か不幸か、祐兵に待望の嫡男が産まれてしまう。

そうなったら祐兵も、苦労して手に入れた領地を、何としても我が子に譲りたい。

祐兵の現代目線から見れば「若い晩年の苦悩」が始まる。

そして1592年天正20年=文禄元年・・・朝鮮の役が始まった。

城・飫肥大手門
(現在の飫肥城・大手門~飫肥藩・伊東家の城です)

戦国オールスターズというえば北条征伐の小田原の陣も当てはまるが、やはり最大規模は朝鮮の役だろう。

北は北海道・松前氏から南は九州まで、全国通津浦々の戦国大名が名護屋城に集った。

現在では城跡しかないので忘れられがちだが、名護屋城は佐賀県にありました。



この朝鮮の役で祐兵は、島津豊久(しまづ とよひさ)と親しくなったそうだ。

島津豊久は1570年産まれで、朝鮮の役当時は23歳。祐兵より11歳年下です。

戦国感覚だと親子に近い世代差の二人が友情を育んだ。。。ということに多少違和感を覚えるが、
どうも島津豊久は年上に可愛がられるタイプだったようだ^^;

実は、島津豊久は島津家中でも「美少年長じて美青年」として鳴り響いていたんです(/▽*\)

なにせ武家の風習「衆道(しゅうどう~男同士のアレです)」華やかりし頃です。

島津家中でも「豊久サァの想い人はオイだ」なんて勘違いする猛者(複数)もいて、
彼ら「勘違い猛者たち」は豊久のために「朝鮮の役」でハイテンション・ハッスルしたそうな。
(逸話なんで帰国後揉めたかは知らない)

とにかく美青年が側にいることは、何も無くても川* ̄д ̄*川ポッ と何となく嬉しい(らしい)。

(真面目に)島津豊久は、高名な島津四兄弟の末弟・家久の嫡男として産まれる。

初陣は「沖田畷の戦い」で、妻は三歳年下~父の従兄の長女(つまり又従姉妹)です。

父・家久が死んだ時は「九州の役・島津征伐」の最中だったために、
現在でも暗殺説が飛び交うが、通説ではあくまで病死。

豊久の家督相続に関して紆余曲折あったものの、家久が死去したのが羽柴秀長軍に降伏した後だったので、
関白直裁により豊久の家督相続と父の領地である日向・佐土原城の相続を認められた。

父・亡き後の豊久は叔父にあたる義弘が後見人となり、我が子同然に可愛がったと言われているが、
オジサマキラー?の豊久は秀吉の受けも良かったらしく、小田原の陣にも秀吉に呼ばれて従軍している。

そのあとすぐに「朝鮮の役」だから夫婦生活は短かったと思われる。

ちなみに豊久の妻は夫の死後、島津家老の町田氏に再嫁し40になる前に死亡した。

関ヶ原で豊久が戦死した時には、娘(ウイキペディアでは姪だなぁ)しかいなくて、
ムコ養子をとるものの、無嗣断絶(むしだんぜつ~相続する男子がいない)として、佐土原の領地は徳川幕府に一度没収された。
(豊久の弟は東郷家へ養子入りしてて、本人も佐土原へ戻るのを遠慮して辞退)

だが後に亡き豊久の大叔父・以久(ゆきひさ~つまり島津4兄弟の叔父にあたる)が入って、薩摩支藩・佐土原藩として復活する。

家紋・島津
島津家紋

で、またまた祐兵に話が戻るが、伊東家嫡流である義賢と、その弟の祐勝が朝鮮の役の最中に急死してしまう。

1593年6月14日・・・伊東祐勝(伊東家嫡流・次男)が24歳で病死。

彼は朝鮮で病となって帰国途中暴風雨で名護屋(佐賀県)に行けず、石見に行き現地で病没。

同じく1593年7月21日に伊東家正統当主・義賢も27歳の若さで朝鮮で病死する。

嫡流の兄弟が相次いで病死したために、現在でも「伊東家の家督を狙った祐兵が暗殺したのでは?」と囁かれている。

だが「朝鮮の役」では現地で武将の病死が相次いでおり、50代の島津義弘がピンシャンしてるのに、
嫡男が20代の若さで病死したりしてるので、どうも一種のインフルエンザのようなものが蔓延してたようだ。
(免疫のある世代が生き残る)

だから本当に病死した可能性も否定しきれないが、とにかく嫡流男子が死に絶えたことで祐兵がホッとしたのは言うまでもない。

以前も触れたが、義賢・祐勝兄弟は年少のころ預けられた大友宗麟の影響で、ガチ・キリシタンだったの^^;

秀吉の伴天連追放令(実質の禁教令)が出ても、棄教せず信仰を持ち続けたので、
晩年気まぐれだった秀吉が、いつキリシタン弾圧を始めるとも知れないので、祐兵はハラハラでした。

故意か偶然か・・・二人の若者の突然の「病死」で伊東家の家督は祐兵のものとなったのである
あとは、まだ幼い我が子・祐慶に確実・無事に家督を譲るだけ・・・・

ところが時代は激しく動き「太閤秀吉の死去」「関ヶ原の戦い」がやって来る!(゚ロ゚屮)屮ぇえっ

小大名である伊東家は「祐兵の舵取り如何に?!」という状態なのに、当の祐兵が病に倒れた(_´Д`)アイーン

嫡男・祐慶は数えで13歳の若さ、複雑な政情など解らない~~~果たして伊東家は如何に関ヶ原を乗り越え生き残ったのか?

それは・またの話 by^-^sio

【逆転現象~上座は庶流で下座が嫡流】飫肥藩初代藩主編6

話を少し戻して「裸の王様・伊東義祐」を語りたい。

実は伊東義祐自身も嫡男ではなく次男でして、御家騒動の果てに当主になった苦い過去がある。

義祐の兄が男子の無いまま若くして急死し、本来であれば同腹弟の義祐が家督を継ぐはずだった。

ところが義祐の叔父が、義祐の生母の実家・福永家と対立し、叔父は伊東家の家督を奪うべく謀反を起こした。

義祐と弟は亡命一歩手前まで行ったのだが、叔父の反対派に擁立され戦うこととなり、叔父を倒したんです。

通常なら、これで目出度し目出度しのはずが、義祐を嫌った重臣が次男の義祐を差し置いて、三男を当主にしてしまった(゚ロ゚屮)屮ええっ!

伊東家内部で孤立した義祐は、やむなく出家。。ショボーン..._φ(・ω・` )

ところが運命は二転三転。

家督を継いだ三男が、わずか三年で病死ししたため、急遽、義祐が還俗して当主となったのだ。

伊東家が無事だったのは、グダグダでも武威が衰えてなかったのと、島津の方も分家と本家がギクシャクしてたから^^
(一応、島津もドサクサを狙ったけど撃退されてます)

城・飫肥大手門
(馳ぽんより拝借~伊東家の飫肥城・大手門~城は大手門萌えの管理人)

時代下がって義祐の期待の嫡男が病死した時、嫡孫・義賢は2歳。

1575年(1577年説もある)義賢・8歳の時に、義祐は家督を譲ったが実権は勿論、義祐が握ってる。

自分の眼が黒いうちはいい・・・

だが、かつての自分のように、息子・祐兵と嫡孫・義賢が、叔父・甥の間柄で家督争いにならないとも限らない。

そこで義祐は、義賢の(たぶん)姉・阿虎を、実叔父にあたる祐兵に嫁がせ、将来の軋轢を少しでも防ごうとしたのだ。

伊東家の栄枯盛衰を作った義祐の晩年は、三男(庶子)の祐兵の働きで誠に穏やかなものだった。

1582年・秀吉VS明智光秀の「山崎の合戦」での功績で、祐兵が河内500石の加増を拝領したのを見届けると、
祐兵が付けた従者・黒木を連れて、中国地方を水戸黄門よろしく気ままに漫遊~~♪ヽ(*´∀`)ノ

その後、山口の旧家臣宅で往時の贅沢には及ばないものの、ノンビリ隠居生活を楽しんだ。

さらに羽柴秀吉の好意で、義祐個人にも扶持米(ふちまい・一種の生活費)が支給された。

従者・黒木は「羽柴殿に拝謁して御礼言上、申し上げては如何でしょうか?」と声をかけたのだが、
「拝謁」という二文字がカンに触ったらしい(祐兵の主君なんで言葉としては間違ってない)。

義祐「はぁ?!従三位のワシが何で頭を下げなきゃならないんだ!絶対ヤダ!」と断固拒否。

伊東義祐と羽柴秀吉は、ついに対面することは無かった。

鎌倉以来の名門武家のプライドと、家臣の諫言聞かずに贅沢三昧した裸の王様だから、基本が我儘なんですよ~( ̄ω ̄A;アセアセ




伊東の我がままぶりは困ったもので、気ままに旅に出るのはともかくとして、
従者の黒木を撒いて一人旅しちゃう∴・…,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
(助さん格さんから離れてプラプラする水戸の御隠居で脳内イメージ再生~爆)

しかも途中で病になったので、堺にいた祐兵を訪ねようとした。

ところが船に乗ってる時に病が悪化、人事不省になってしまう。

一人なんで伊東義祐の身元を知る者はなく、困った船頭が意識混濁の伊東義祐を堺港に放置。

あやうく路上死するとことを、伊東義祐を必死で探してた従者(祐兵夫人・阿虎の説あり)が発見し、
堺の伊東家邸で孫娘に看取られ病死した。

1585年8月5日・・・伊東義祐74歳で堺で客死する

戦国大名の晩年には色々あるが、一人ぼっちで危うく野垂れ死に寸前になったのは伊東義祐くらいだろう。

城・飫肥虎口
同じく飫肥城の虎口(こぐち)~飫肥の場合は大手門より、こっちが好き(*´艸`)

さて義祐の杞憂は、彼の死後起きた。

祐兵が「九州の役」の活躍により日向で2万8千石の大名となったからです。
(憎い仇敵・島津への遺恨を晴らすチャンスだったので張り切ったのもある)

ちなみに日向国は大友・島津・伊東・土持が入り乱れた係争の地だったせいか、
秀吉は大きな大名を置かず細かく分けた。
(伊東家が既に没落してたから、恩賞として分散するのに都合も良い)

ざっとで言うと秋月家・高橋家・伊東家・一部が島津分家。

とにかく祐兵の元に旧伊東家臣が戻りはじめ、義祐の嫡孫・義賢と、その弟の祐勝も帰参した。




それは、奇妙な光景だった・・・・

先々代・義祐から正式に家督を譲られた伊東家当主が、
本来は家臣である祐兵に対して、家臣として下座にいるのだ。

だが天下人・秀吉が働きを認め「領地宛行状(りょうちあてがいじょう)」を与えたのは祐兵なのだ。

家督の正統性を主張するには義賢には武功が無い。

義賢は少年時代を過ごした大友家での影響で、敬虔なキリシタンだったせいか、
いまの位置に異議を申し出るつもりは無かったようで、揉めた話は残ってない。

だが庶子という身分で、思いがけなく大名になった祐兵に方が気を揉んだ。

さらに1589年6月13日に嫡男・祐慶(よしのり)が産まれると、増々気を揉んだ。

自分が苦労して手に入れた全てを、何としても我が子に譲りたい・・・・!

甥で本当の伊東家当主の義賢が武功の無いままなら、まだ大丈夫・・・

だが、この先、目覚ましい活躍をし、万が一関白・秀吉の目に留まるようになったら・・・

伊東家の家督は大名となった「自分のもの」となるべきなのだ!

それが実力相応というものではないか。

そして義賢にとってチャンスが訪れる・・・秀吉が「朝鮮の役」を始めたからだ。

我が子の家督安泰ため祐兵は非情の決断をするのだが、それは・またの話 by^-^sio

【旧領復活(=^・ω・^=)v ブイ】飫肥藩初代藩主編5

四国は伊予に亡命した伊東祐兵(いとう すけたけ)。

彼は身を寄せた河野家に仕官するでもなく、四国一番成長株の長宗我部氏にも見向きもしない。

祐兵の目標は、あくまでも「没落した伊東家の御家再興と旧領復活」だった。



最初に亡命していたのは豊後・・・6か国守護の大友家だ。
(VIP大友宗麟が祐兵の亡き兄嫁の叔父・・・縁戚コネで頼った)

有力大名である大友家は人の出入りが多い。

各地の国人領主が「配下になる証」として人質が送られていたし、
大友家臣の子弟も行儀見習いとして大友館に伺候している。

その他に博多や堺の商人に、宗麟がキリシタンだった関係で宣教師や南蛮人もいる。

大友家で耳をダンボにしていれば、いやでも彼らが持ち込む「織田信長」のウワサが耳に入る。

九州は日向で武運つたなく島津に敗れ、家臣たちにも見限られ裏切られた。
(祐兵の父・義祐が贅沢三昧して家臣の諫言を蔑ろにしたツケが回った)

祐兵が失ったものを取り戻すには、島津より強い力を持つ中央政界の実力者。。。。

すなわち、織田信長のバックアップが必要だったのだ。

大友家が「耳川の戦い(1578年)」で島津軍に敗れ、伊東家に対する風向きが悪くなったのを好機として、
義祐・祐兵親子は祐兵祖父と従者20数名を伴い四国へ亡命した。

なかなか中央へのパイプが見つからないまま、窮乏生活していたところに伊東家所縁の山伏を通じて、

羽柴秀吉の黄母衣衆(かなり遠いけど伊東家の一族)との接触に成功し、ツテのツテを頼って祐兵は織田家に仕官した。

家紋・織田
(織田家紋ロゴ)

この時期の大きな出来事といえば上杉謙信の死去と、織田信長が石山本願寺と和睦(実質は本願寺の敗北)したことで、
織田信長は八面六臂の忙しさの中で、九州「大友VS島津」の争いに政治介入を始めていた。

これは大友宗麟が、島津からの圧迫を得意の外交で乗り切ろうとして、織田信長に「和睦の調停」を依頼したからです。

九州の大名に接点の無かった織田信長は、島津の古今和歌集の師匠である「関白・近衛前久(このえ さきひさ)」を仲介にして接触開始(1579年)

物見遊山気分の公家の仲介じゃ埒が明かないので、途中から直接交渉で島津にプッシュ。

信長からの外圧に根負けした島津が、大友家と和睦したのが1581年のことだ(豊薩同盟)。

祐兵が仕官したのは、ちょうど、この島津との交渉の数年間に該当し、九州に関心が高かった信長に「将来役立つだろう」と拾われた。

仕官といっても、織田家から知行を拝領したわけではないので、厳密には家臣とも言えない状態だ。

とにかく織田家臣で、祐兵が最初に接触した羽柴秀吉に身柄を預けられた。(一種の与力になるのだろうか)

この時期の祐兵は、さしたる働きはしていない。(だって上方風の習慣に慣れてないもん)

何となく秀吉の側でウロウロしてたのだろう∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

家紋・豊臣
(豊臣家紋ロゴ)

豊薩同盟に関して、祐兵や織田家中の者が、どの程度知っていたかは定かではない。

だが目端の利いたものなら、信長が天下統一の過程で、既に九州が視野に入っている事に気づいていただろう。

1574年の段階で秀吉は「筑前守(いまの福岡県)ちくぜんのかみ」という官位を私称し始めている。(中国・毛利攻め開始が1577年)

そしてライバルである明智光秀が「日向守(いまの宮崎県)ひゅうがのかみ」に任官したのが1575年だ。

近い将来あるであろう「織田家の九州の役・・・島津(島津としては仮想敵想定は超迷惑)征伐」

島津の薩摩に進軍するコースは「肥後(熊本県)路」と「日向路」。

その日向路での先導役が、かつて日向の覇者であった伊東家の出身である「伊東祐兵の期待された役割」なのだ。

織田家内部のライバルたちを出し抜くために、九州の情報が欲しい秀吉は、
最初に接触したのを是幸いと、祐兵を自らの側に置くことを信長に望んで、了解を得たのではないだろうか。

祐兵の「現地情報」は、伊東家主観補正がタップリ入っているが、むろん承知の上。

秀吉の近々の敵は毛利家なので、耳に入れる程度の話であれば、それで十分なのだ。

とにかく羽柴秀吉という、上昇志向の極めて強い男の側にいたことが祐兵の運命を決めた。

1582年6月2日~本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれる

膨張する織田家に期待してた祐兵・・・お先真っ暗かと思いきや急転直下で事態が変化する。

羽柴秀吉が「中国大返し」を敢行!祐兵も走る!!
6月13日~山崎の合戦で羽柴秀吉が明智光秀を倒す
山崎の合戦に祐兵も出陣~働きにより「くりから竜の槍」と河内国500石を領地として拝領する

何しろ伊東家は最盛期36万石だった領地と48もあった城を全て失ったのだ。

伊東祐兵の人生リベンジの飛躍は、小さな一歩であっても「伊東家の希望」

後世、伊東祐兵は「伊東家・中興の祖」とまで呼ばれるようになる。

そしてアレヨアレヨというまに世の中は目まぐるしく代わり、秀吉が関白に就任。

1587年~九州の国人領主にとっては悪夢、祐兵にとっては待ち焦がれた、「天下人の九州の役」が始まる

織田軍から羽柴軍へ・・・人は変われど、やることは同じ。

祐兵は日向路を進軍する羽柴秀長(関白・秀吉の異父弟)軍の先導役を務めた。

伊東祐兵29歳~九州の役の働きにより旧領の清武・曾井・飫肥に2万8千石を拝領し、大名として復活する
さらに喜びは続く・・・1589年6月13日・・・嫡男・祐慶(すけよし)が誕生~

祐兵は自らの運命を切り開いた「山崎の合戦」と、奇しくも同じ日に産まれた嫡男に、並々ならぬ期待をした。

何より30を超えて設けた(当時としては遅い)嫡男が愛しかった。

大悪来れば、大善来る・・・逆もまた然り。

伊東家内部に、家督を巡る不和の種が芽生えようとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

【目指せ御家再興!】~飫肥藩初代藩主編4

伊東義祐が、家臣たちの寝返り(伊東崩れ)により、日向(宮崎県)を捨てる決意をしたのが、
1577年天正5年12月9日のことだ。

嫡男を失った悲しみを癒すためとはいえ、仏教&公家文化にハマり、享楽にふけって政治を省みなかったツケが回ってきた。

亡き嫡男の未亡人・阿喜多の叔父である大友宗麟を頼り、豊後(大分県)へ亡命(豊後落ち)することにした。

だが、贅沢三昧した悪王として「国を石以て追われる身」となった今、まともに領内を通過することが出来ない。

恩賞目当てに伊東一族の首を獲ろうとする追手から逃れるために、高千穂山中を抜けることになった。


家紋・伊東
伊東家紋

その高千穂だが、実は伊東家の領地ではない。

マイナーすぎて知られてないが、高千穂神社系氏族嫡流(長っ)三田井氏の領地です^-^

山暮らしで鍛えた足腰で、戦となると寡兵ながらメチャクチャ強い三田井氏は、
「日本神話の地」である高千穂を領地に持つせいか、素朴で親切な一面を持っていた。

三田井氏は伊東一族の領内通過を快く了承しただけでなく、猛吹雪の中を先導の道案内まで付けてくれたんです。

この山越えは伊東家の一族や侍女・家臣など、150名いたのが80人にまで減るほど難所の連続だった。

三田井氏の好意が無ければ、伊東一族は無事に豊後へ辿り着くことは出来なかっただろう。



さて、その三田井さんに困ったことが起きた。

困って大友家に「(  ̄▽)ゞ<help me please~」と頼んだことから、島津VS大友の「耳川の戦い」が勃発する。


この飫肥藩初代藩主編の最初で、日向がプチ三国志状態だったことは説明した。。。。つもり(爆

で、伊東家のライバルの一つ「縣(あがた/現・延岡市)土持(つちもち)氏」です。

最盛期の伊東家に押されて衰微してたが、島津と同盟関係になることにより息を吹き返した。

1577年に伊東家領地に北部から侵攻開始⇒同年に島津も南部と北西部から侵攻開始⇒伊東家臣が島津へ寝返り⇒伊東崩れ

と、いう流れ。

その縣土持氏・・・島津と同盟関係なのに、素知らぬ態で大友家にも「ヨロシクネヾ( ̄・ ̄*)))チュ♪」っと愛想を振りまいていた。

そして伊東が「豊後落ち」したことに調子づいて、三田井氏の領地を圧迫しはじめたのです。

だんだん強くなる土持からの圧力に困りはて、三田井は大友に助けを求めたんです。

三田井の訴えにより、土持家が大友と島津を両天秤にかけてたことがバレた,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

当然それは、キングオブ大友宗麟の逆鱗に触れた
1578年4月10日~大友宗麟の攻撃により700年続いた縣・土持家が滅亡する
(庶流の生き残りは島津家臣となった)

人物・大友宗麟
(キリシタン大名~大友家21代目当主・大友宗麟・おおとも そうりん)

小癪な土持を始末した宗麟が、念願だった「神の国」建設に乗り出し「日向侵攻」を開始。

それが「耳川の戦い」で島津軍に大敗し、そのために大友館に居候してた伊東一族に対する風当りが強くなる^^;;

最初は「伊東家御家再興」を「日向侵攻の大義名分」として捉えてたので【歓迎来々・伊東家御一行様】だったのが、

「あいつらが来たせいで、御屋形様が変な気を起こしたんだ~o( ̄Д ̄θ★ケリッ!」と手のひら返して疫病神扱い。

さらに「好色な大友義統(宗麟の嫡男)が伊東祐兵(本編主役・伊東義祐3男)の妻を狙ってる」という風評が立ち、
伊東義祐+伊東祐兵と妻+親族+従者20余人」が、四国・伊予(愛媛県)は道後の河野氏の元に身を寄せた。

河野氏は湯築城が築城700年を迎えて、数年前に県がプッシュしてたのよね~(*´艸`)♪
(秀吉の天下統一後に生き残れなかったので知名度低いです)


大友義統が祐兵妻をウンヌン・・・これは俄かに信じがたい。

一つは大友家は関ヶ原リベンジに失敗し大名として残れなかったが、
伊東家は関ヶ原を乗り切り小なりとも大名として残った・・・という点です。

大友家のことは後世、面白おかしく脚色・書きたてられているので、
伊東家の方でも便乗して「自分達に非が無い」ように脚色してる可能性があります。

伊東家の内情は複雑で、最終的には「本来の嫡流」ではなく「庶流の祐兵の血統」が伊東家の家督を継承しました。

だから飫肥藩初代藩主(実質は藩祖)である祐兵をヨイショするための脚色は、有って然るべしなんです。

でもって祐兵の妻って義祐の亡き嫡男の娘・・・つまり祐兵の実姪でして推定年齢11歳くらい。

幼な妻だから、祐兵とも実質的な夫婦生活は未だじゃないかなぁ~と考えてるの。

大友義統がロリータ趣味だったか、となると実際のところは解らない。

さらに伊東義祐豊後を離れるときに、一族の中で元服前の少年たちを大友家にそのまま預けてるんです。

その中には伊東義祐の最愛の嫡孫・義賢12歳がいる。

この少年こそ、伊東家の正統な跡取りでして、大友家と本当にトラブルあったなら、
伊東義祐が義賢少年を置いて行くなど考えられない。



伊東義祐自身が居づらくなったのは自業自得の事実だと思うが、
伊東祐兵が伊予へ向かったのは彼自身の出自が遠因だと考えてます。

( ̄ko ̄)<三男・三男と簡単に書いてましたが、祐兵の生母は側室なんでつ

生母が正室であっても嫡男以下は庶流と言われ、一門待遇の家臣コースか他家へ養子コースしか人生の選択がない。

あ、そうだ。後世からみて微妙な選択・・・出家して菩提寺住職コースもあります(O ̄∀ ̄)ノ

伊東家では飫肥城の城主だったけど、島津の攻撃で失い伊東家も没落した。

「寄らば大樹」で大友家へ行ったら「大友も没落した_| ̄|○ il||li がくぅ」

このままタイタニック状態の大友家に残り頑張ったところで、伊東祐兵の人生の明日がどっちか見えない。

まだ21歳の祐兵が、チャンスを求めて新天地に行くことは不自然ではないだろう。




一方、伊東義祐は「御家再興のために保険」を掛けたんだと思う。

嫡孫は未だ若年で自力で御家再興は出来ない・・・でも数年たてば戦場に立てる若武者になる。

その数年の間に祐兵が、御家再興の道筋を作ることが出来れば、伊東家の将来は安泰だ。

そして祐兵と嫡孫・義賢が揉めることがないように、義賢の妹・阿虎を祐兵に嫁がせたのではないだろうか?

これにより祐兵は義賢の「叔父」である前に「義理の弟」になるからだ。

まぁ、少し飛躍したかもだが、とりあえず結果から言うと、少年たちを大友館に残したのは失敗だったと思う^^;

伊東家の没落・・・・辛く悲しい真冬の山越え・・・さらに少年たちには衝撃のカルチャーショックが待っていた。

伊東家の少年たちは「仏教にハマってた御祖父ちゃんの城」から「キリシタンにハマった親戚の大叔父様の館」に転居したからです^^;;
嫡孫と、その弟、その従兄弟たち・・・み~んな宗麟大叔父様の影響でキリシタンの洗礼受けちゃった

天正遣欧少年使節として伊東マンショ(義祐の孫)が突出して有名だけど、
そもそも使節として行くのは、伊東祐勝(嫡孫・義賢の弟)が行くはずだった。

でも安土に留学中で間に合わないってことで、伊東マンショが選ばれたの。
大友宗麟の代理だから、血縁の濃い祐勝が推薦されていた)

嫡孫・義賢と弟・祐勝の信仰心は、少年期に受洗したせいか純粋で、禁教令が出ても棄教しなかった。

それが彼らの運命に関わったのではないか・・・と考えられなくもない。



話を伊予に行った伊東義祐と祐兵に戻そう。

新天地での生活は思うようにならなかった。

なかなかチャンスは訪れず、祐兵の祖父(生母の実父・河崎氏)が酒造りなどして生活を支えていたほどだ。

そんな時・・ツテの、そのまたツテ・・・[山伏]スッ≡( ̄ー『+』ゝ見っけ~~~

かつて伊東家に世話になった山伏(修行のため全国歩く)が、
羽柴秀吉の黄母衣衆のメンバーの中の伊東一族の者(といっても先祖が一緒なだけで限りなく遠い)
と、知遇を得たのだ。

日向にいた祐兵は羽柴秀吉のことまで知ってたか解らないが、織田信長なら大友館で耳にしていたはずだ。

ツテのツテを頼って「織田家へ転職~~((((((((((っ´▽`)っレッツゴー」

御家再興の足掛かり・・・・だが天正10年に「本能寺の変」勃発!!! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
またまた明日が見えない伊東祐兵!・・・それは・またの話 by^-^sio

【北肥戦誌・1583年】

1月13日、島津勢300余、乗船を以って筑後へ渡り鷹尾に着船、田尻鑑種勢に兵糧を運び入れるなどの助勢を行った。

田尻は昨年の冬、最初は大友家へ加勢を頼んでいたのだが、只今の当主・大友義統は準備に滞り、中々加勢を出さなかった。

その為、島津家へも加勢を頼んでいたのである。

島津の合力を聞いた隆信は、又も柳川へ出陣する。

隆信は田尻征伐の最中、蒲池鎮並の舅であった赤星統家が、鎮並謀殺後に恨みを含んでいると風聞があり、疑念を抱いた。

隆信は赤星へ使いを出し、柳川へ来るよう伝えさせる。

赤星には異心がなく、畏まり申すと返答するが、何故か滞り二~三日延引した。
(鎮並謀殺に憤った、ともされる)

隆信の疑念は更に深まり、成松信勝・木下昌直を急使とし赤星を呼ばんとしたが、赤星は丁度近隣の山へ猪狩りに出ており逢う事が叶わなかった。

妻が両人と対面し、帰宅次第柳川へ向かわせると伝え、両人も柳川へ帰ってそう伝えたが、
隆信は激昂し、その妻女を連れて来いと両人に命じる。

両人は戸惑いながらも再び赤星の元へ急いだ。

まだ赤星は戻って居らず、両人は妻へ配慮し、代わりに8歳になる娘を連れて柳川へと帰った。

しかし隆信の怒りは治まらず、先に人質としていた今年14歳の太郎とその娘を、
筑後と肥後の境にある竹ノ原へと引っ立て磔としてしまった。

これを見る者は皆、涙を流さずにはいられなかった。

赤星夫妻の嘆きは量り知れず、島津家に対し事の次第を述べて、恨みを晴らさせて欲しいと懇願した。

島津側も同情の涙を流し、その願いを聞き届けるとした。

また、高良山の大祝部鏡山安実も龍造寺に背くと聞こえ、隆信はこの人質である妻女も磔とした。
(場所は、高良山の麓と岩井川の辺り or 佐嘉の水ヶ江)

こういった事が続いた為、隆信を疎む者が多くなっていった。

その頃、柳川近くの蒲船津城に蒲池益種と云う者があった。

本姓は黒木で、黒木鎮連の弟であるが、ある経緯があって今は蒲池を名乗っていた。

これも元々蒲池鎮並・田尻鑑種の親類であった為、同じく城へ籠った。

これに鍋島信生勢700余騎が攻め掛かる。

城兵は奮戦し防いだが力及ばず、益種は討ち取られて落城に至った。

その後には百武賢兼が番に入り城を守った。


有馬鎮貴(前名:義純)は、龍造寺家が田尻やその他が背き、柳川へ留まっているのを見計らい、
再び龍造寺家に背くと、(3月23日に)島津家へ同心すべく使者を送ると共に、
(島津側史料に依ると、有馬は「手火矢(火縄銃)衆百挺程御合力頼存之由也」と、鉄砲隊の派遣を要請している。)
龍造寺家との手切れの証しと、布津村・深江村を放火、安富純泰が城主を務める高来島深江城の際まで攻め寄せた。

このとき純泰は横島へ赴き、父の安富純治は、島原純豊の島原城の入り番と、共に留守となっていたが、
純泰の妻が、領地にある3つの村々の男女・牛馬の悉くを城へ入れ、
妻と留守居の城兵、並びに百姓らが防戦に努めた為、城は持ち堪えた。

このとき、純泰の年老いた祖父・安富貞直(入道正佐)が有馬勢に心を寄せ、これに通じようと謀るが、
純泰の妻はこれを押し籠め、妻の下知に依り城は防戦に徹した。

これを横島で聞いた純泰は、4月11日に深江に馳せ帰って有馬勢から城を守る。

だが4月28日、深江一党で純泰の伯父である安徳純俊が気持ちを変じて有馬に通じ、
居城・安徳城へ島津勢を招き入れた上で、佐嘉へと通じる道を塞いだのである。

島津勢は伊集院元巣・新納忠元・新納忠堯・樺山播磨守・福崎新兵衛・川上忠堅並びに蓑田平右馬助ら7,000余騎で高来へ押し渡り、安徳城へ入った。

有馬勢・島津勢・深江勢は火矢を射掛け、鉄砲を放って城を攻めたが落とせずに退いた。

注進を受けた隆信は、急ぎ加勢として筑後の安武家教・三根郡の横岳家実を高来へ派遣し深江城へ入れた。

更に藤津・彼杵勢も加わり、更に兵糧の用にと多比良村50町の田地が渡された。

6月13日、深江城へ入っていた百姓らが、薪を取る為に外へ出た所、安徳領の百姓と出合い戦いとなって、安徳の者を2~3人殺害した。

これが安徳城へ聞こえ、入り番となっていた新納忠堯・川上忠堅・蓑田平右馬助ら数十人は城を駆け出て、この百姓を深江の城の外溝口まで追い立てる。

これに城から安富三介らが打って出て、これに横岳・安武勢も加わって激しく遣り合う。

うち新納忠堯は、安富家臣・村吉雅楽助と戦い突き伏せられ討ち死にする。

だが、村吉も深手を負っており首級を取る事は叶わず、横岳家臣・古館播磨守がこれを取った。

また蓑田も討ち取られ、上下8~9人が討たれた。

また、安富三介と川上忠堅が切り合いとなり、三介は忠堅に討ち取られ、忠堅も三介に手負いとされ引き退く。

これに乗じて安富勢は町下堂まで追撃した。

双方に多大な犠牲が出、三介らもその場で討ち死にしている為、新納・蓑田の首級も誰の首であるものか判らなかった。

圓宗掃部が見知っていた為、この首を隆信へ送り首実検に入れようとしたが、敵方より矢文にて首級の返還を求められ、純泰は弓箭の作法を無視出来ずこれを敵方へ返した。


その頃、隆信はいまだ田尻の鷹尾城を攻めんと柳川に在ったが、
昨年の冬からの長陣による士卒の心労を慮り、信生と話合い、
まずは田尻但馬入道了哲の江之浦城を攻め落とすべしと、信生ら佐嘉勢に肥後・筑後勢を加えて差し向ける。

竹木・蘆萱・土俵などを積んで仕寄り(塹壕)を作って城の切岸まで詰め寄ると、仕寄りより日夜鉄砲を撃ち掛けた。

そんな折の7月中旬、田尻と同じ「大藏姓」である秋月種実が家臣・恵利内蔵助を鷹尾城へ遣わし、龍造寺との和平に努めた。

結果、7月21日に双方応諾し起請文を取り交わした。

しかしながら、和談の際の入組(領地替え)の6箇所の内の1箇所が合意に至らず、結局和睦は破談となった。

本能寺の変により死んだ織田信長の、その弔い合戦に挑んだ羽柴秀吉から鍋島信生へ、昨年の書状に対する7月2日付けの返書が届いた。

(『北肥戦誌』に文面の写しあり)

「仰る如く去年の頃 示し預かり候。
それに就いては只今両人を差し越し被り、書中ならびに口上の趣き承り届け候。
従って今度、備中表に於いて敵城数ヶ所を攻め崩し、毛利陣中へ切り掛かり相果てるべき時、京都の不慮に付き、毛利が抱える国の五ヶ国をこちらへ渡すべく、懇望の筋目を以って和睦し馬を納め、すぐさま都へ切り上がり一戦に及んで、即時に切り崩して、三千余を討ち取り、明智の一類共を残らず首を刎ね、その身の事は機物(はたもの)に掛け置き候。
然る者に、御国々の先々まで静謐にするよう申し付け、先月の二十九日に上洛し、近いうちに播州姫路に帰城すべく候。
仰る旨は任せられ(←これも間違いかも)申し通せし上の者、疎意にあるべからざり候。
将また南京帽子送り給わり候。祝着の至りに候。(後略)

恐々謹言。 七月二日 羽柴筑前守秀吉(判) 鍋島飛騨守殿」


8月1日、安富純泰は龍造寺勢の合力を得て、安徳城へ攻め掛かる。

城兵はこれを防ぎ得ず、加勢の島津勢も船で肥後へと帰った。

このとき、龍造寺家へ人質となっていた肥後・隈部氏の子(隈部親房?)が肥後へ帰っていたのであるが、島津勢に攻められて討ち死にしている。


10月(おそらく9月か更に前)、島津忠平は肥後に在陣して、その諸所をも掌中へ治めんと活発に動き、龍造寺に与した者たちも島津へと降って行く。

その頃、隆信は須古に帰って居り、鍋島信生と話し合って龍造寺政家自身が肥後へ出馬すると決め、田尻への押さえを多勢残しつつ、筑前の筑紫・秋月、筑後の蒲池・草野・黒木・西牟田・高良山座主らが合力、併せて37,000余騎を以って柳川を出馬、瀬高通りに竹の井を過ぎて肥後へ打ち入ると、南の関に陣を布いて、先手を玉名・合志へ至らせ、高瀬・山鹿へと出征させた。

これを聞いた八代守護代・島津忠平(後の義弘)はこの頃 御船に陣を布いていたが(実際は八代城の筈)、ならば出迎えて一戦すべしと肥後の味方共(相良・名和・城・合志などと思われ)を催し、伊集院・新納・樺山・喜入・川上・福崎ら手勢を併せて御船を発って、龍造寺勢と(高瀬川(現:菊池川の高瀬大橋付近)を挟んで)対陣に及んだ。

大きな合戦になるものと思われたが、このとき秋月種実が龍造寺勢に参陣していたのであるが、
「両家の大軍が争い合えば、争乱は何年にも及び、民の難儀は増すばかりに御座れば」と、両家の和平に努めた。

龍造寺も島津も秋月に同意し、肥後を半国に分けて領すると定まり、忠平は八代へ、政家は柳川へ帰陣する。

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(※『上井覚兼日記』には、9月27日、秋月種実の使者が島津陣へ現れ、龍造寺との和睦を周旋したとある。
秋月曰く、「両家の大軍が争い合えば、争乱は何年にも及び、民の難儀は増すばかりに御座れば」と、両家の説得に当たった。
その際、「和平之儀・肥後傍示之儀・有馬表之儀、此三ヶ条也」と、和睦及び有馬との事に加え、肥後の領地配分に関する話合いが出された。
また使者は島津家に対し、「然者龍・秋御下知に参候て、大友御退治肝要候、左候て、嶋津殿を九州之守護と可奉仰候」と、「共に大友義統を討つならば、龍造寺・秋月は島津義久殿を九州守護と仰ぎ奉る」と述べたとしている。

そして10月9日、島津義久は秋月の和睦斡旋に応じる意向を固め、忠平は八代へ、政家は柳川へ帰陣する。そして同月22日に両家の和融の為に秋月の使者が八代へ来訪したとある)

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これより高瀬川より巽(たつみ:東南)方面を島津領、乾(いぬい:北西)方面を龍造寺領と定めた。

島津側は御船へ新納忠元を留め(島津側史書では八代城)、龍造寺側は龍造寺家晴を南の関へ、太田家豊・内田肥後の入道である栄節を大野別府へ、横岳頼続・姉川信秀を横島城へ入れて、それぞれ境を警衛させた。

またこのとき、肥後の栗栖正重が龍造寺家に属し起請文を出している。


11月、政家は肥後より柳川へ帰陣すると、またも田尻攻めを再開する。

同じく先ずは田尻了哲の江之浦城を、又も同じく竹木・蘆萱・土俵などを積んで仕寄り(塹壕)を作って城の切岸まで詰め寄り鉄砲を撃ち掛けた。

また、今度は釣勢楼(勢楼:偵察用の櫓)を用意、集めた鍬でその周囲固めて鉄の装甲と成し、内側は綿で拵えた。

これを釣り上げて城内を伺わせると、城内の堀を芥草(シキミ)を投げ入れて埋めさせ、更にその右の勢楼からは鉄砲を撃ち掛けさせる。

城兵はこれを防ぐべく大鉄砲を放って釣勢楼を撃ち落とし、夜は松明を投げて仕寄りを焼き崩し、堀の芥草は鑰(鉤)を以って引き上げた。


結局勝敗は着かず、田尻の籠城は500ヶ日に及んだ。

信生は了哲と親友であるという百武賢兼を召して、田尻鑑種との和睦を進めるべく、了哲を説くよう百武を使者として派した。

百武と対面した了哲はこれを応諾、了哲は鷹尾城へ入って田尻へ和睦を勧めると、田尻もこれに応じる。

そして同意に至っての11月27日、隆信・政家より起請文が出され、
12月1日に田尻一門9人の連判による起請文が提出され、
同月10日に鷹尾城を明け渡して自らは法体となり、嫡子・長松丸を代表として堪忍分の新地200町を差し出すよう約束させた。

信生は長松丸へ起請文を出し、龍造寺3宿老の小河信貫・納富家理・土肥家実から連署による起請文を提出すると、
同月下旬、鑑種は城を明け渡して、自らは堀切城へと移った。

12月25日に約定通り新地200町が渡されると、
翌年の2月2日に田尻は所替えにより、船で佐嘉へと移った。

龍造寺家兼_8【少弐氏・・滅びのエチュード・後篇】

1497年1月、大内義興は室町幕府から「少弐追討令」を受けて山口を出陣。

義興は、陶、熊谷、吉見、小早川などの豪華コンプ武将、2万余騎を自ら率いて筑前入りした。

少弐氏は一門の筑紫家、東家が寝返り(降伏とあるが、戦後の処遇を見ると実質寝返りだろう)、
配下の国人たちも大内軍に靡く。

そんなこんなで大内軍は5万にまで膨れ上がる。

少弐は大軍に為すすべもなく、大内に本拠地・大宰府を制圧され、一族の者も討たれ城も次々落ちた。

少弐政資と息子たちは、政資の実弟・千葉胤資のいる晴気城へと落ち延びる(筑前から肥前へって事)

だが春頃には、大内軍が肥前への侵攻開始。

「晴気城では支えきることが無理!」と判断した千葉胤資によって、少弐親子は夜陰に紛れ二手に分かれて脱出したのだった。

家紋・少弐 少弐家紋

同年4月19日
千葉胤資・・・城から討って出て戦死、西千葉氏の晴気城が落城
少弐頼高(政資の子)・・・東千葉の興常勢に討たれる
当主・少弐政資・・・逃亡先の多久宗時(側室パパン)が変心~自害を勧められて切腹、享年57歳
同21日
少弐高経(嫡男)・・市ノ川で敵に追いつかれ山中で自害、享年36歳

勝敗は大内義興の圧倒的勝利に終わった

千葉興常⇒肥前守護代に任ぜられる(正式じゃなかったかもです)
寝返り組~東尚盛⇒佐賀郡の一部を与えられる
寝返り組~筑紫満門⇒三根群と神崎郡を与えられる
陶弾正忠⇒博多に駐留させる


大内義興は戦後処理を終えると意気揚々と山口へ帰国。

さらに少弐氏累代の官職である「太宰少弐」の地位までゲッツする。

ここまで来ると大内の全盛期は義興の代なんじゃね?と思いたくなってくる。

が、そう話は上手く運ばなかった。

なぜなら、ここまでやられたにも関わらず、少弐が完全滅亡までには至らなかったからです

当主・嫡男・他男子・一族多数と死亡した少弐氏でしたが、
自害した政資には、もう一人・男子がいた~~~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

生き残った男子は、少弐資元。(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ

でも未だ数え8歳 il||li _| ̄|○ il||l

少弐一門の横岳氏が匿い保護しました。( ̄ω ̄A;アセアセ

家紋・大内 大内家紋

西千葉氏と少弐氏が実質=イコールだ、、、という事は、この竜造寺「起」の巻で何度か言いました。

直系男子が絶えた西千葉氏は、初めは少弐政資の実弟を婿養子に迎えたのですが、その婿養子は前述したように大内に敗れて戦死。

その後の西千葉の家督は、少弐一門・横岳氏から迎えた養子が継いでいるんです。

「腐っても鯛」とは、よく言われる言葉ですが、「肥前国主様」とまで仰がれた肥前千葉嫡流家の威光は、
肥前国人たちに未だ影響力がありました。

てか竜造寺家が少弐被官になった、そもそものキッカケが肥前千葉氏の被官だったからです。

西千葉の女総領・尼日光(11代目娘で12代目未亡人)は、肥前国人(竜造寺含む)たちに加勢を依頼しています。

彼女は養子の実家である横岳氏と連携を組み、少弐氏を盛り立てる事によって、家運を盛り返そうとしたのです。

肥前千葉家の象徴たる牛頭城は、大内義興の支援を受けた千葉興常(尼日光従兄弟)により、
1491年に奪われたままです。

肥前千葉の嫡流はウチよ(西千葉)!
何としても本領の小城郡を取り戻すのよ~~ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!


家紋・肥前千葉 肥前千葉家紋

1498年・・・大内氏滅亡のキーマンとなる相良武任が産まれた年に、西千葉のリベンジが始まった。

少弐から寝返った一門の東尚盛・・・調べたが、彼の一族の事はシオペディアでは解らなかったです^^;

とにかく彼は、大内の命令で豊後に出兵してた。

大内と大友がガチンコになったんです~
( ̄ko ̄)<明応の政変で対立したりとか、大友の家督に大内が口出ししたとか色々積もったでつ

が、前年に少弐を倒したばかりで北九州統治が不安定だったのか、大内は大友に敗れちゃった^^;

この辺り、大内義興が全盛期の土台で終わった感が・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

その隙を突いて、千葉胤繁が挙兵し、一時は本領の小城郡に復活。

大内義興~~筑紫満門と東尚盛を鎮圧に向かわせる
千葉興常~~相手が西千葉なら黙ってられない、筑紫と東に加勢する


2月24日「川副の戦い」で激突

家紋・竜造寺 竜造寺家紋

この戦いで肥前国人たちが西千葉に加勢している。

いちいち上げるのもアレなんで割愛するが、とにかく竜造寺家当主・胤家も西千葉に加勢した。

この加勢に胤家の弟・家和は猛反対した。

たとえ局地戦に勝ったところで、いまさら少弐と西千葉の劣勢は覆らない。

先の少弐のように、四方八方囲まれて降伏する羽目になるのが落ちだ。

だが、胤家は弟の制止を振り切り出陣。

でもって戦は西千葉が敗れた・・・il||li _| ̄|○ il||l

もはや肥前に留まる事は出来ない。

千葉胤繁と胤治(どっちも横岳からの養子)・・・そして竜造寺胤家も共に筑前山中に隠れ棲んだ。

この少弐+西千葉VS大内+東千葉の争いが、竜造寺家督にも影響を及ぼすのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【伊東家の没落】~飫肥藩初代藩主編3

1568年永禄11年・・・伊東祐兵(すけたけ)は数え10歳で伊東家48支城の一つ、飫肥城の城主となる。

まだ若年だが、一城の主になったのだから彼の元服は、この頃だろう。

ちなみに伊東家で高名な48支城の成立年度は、伊東が日向・北原氏の領地を奪った(1564年)以降。

むろん支城の下地となるものはあり、ゼロからの築城ではない。

北原没落以降は、猛将・島津義弘が日向入り(木崎原の戦いの前です)しており、
伊東としても飫肥城ゲットのために、島津に対する備えを万全にしておきたかったのではないか。

そして祐兵の初陣(戦場デヴュー)は、島津軍との戦いであるのは容易に想像できる。

祐兵と島津家との所縁は、伊東家という日向の覇者の家に産まれたことに起因している。

城・飫肥大手門
飫肥城大手門

日向(ひゅうが・現宮崎県)の覇者一歩手前の伊東義祐(よしすけ)。

彼の期待の嫡男、名前は義益(よします)と言った。

温厚な人柄で領民も家臣も義祐でなく義益を慕っていた。

それもそうだろう。父・義祐は公家・仏教文化にハマって散財しているので、否応なしに次世代に期待する。

伊東家、期待の若殿・義益には側室がいた。

当時なら普通だが、義益の場合は若干・・・事情があった( ̄ω ̄A;アセアセ

側室は名は福園。48支城の一つ、内山城主・野村家当主の妹です。

彼女は大層な寵愛を受けていたのだが、若殿・義益が名門の姫君と結婚することになった。

鎌倉以来の伊東家の嫡男と、一城主の妹では所詮家格が釣り合わぬ縁。
福園は正室に遠慮して実家に帰ることとなった。

若殿・義益の正室になったのは一条家の姫君で名前は阿喜多、
大友宗麟(全盛期のキングオブ九州)の姪にあたる。

阿喜多は嫉妬深い性質だったらしく、義益の結婚前の側室・福園を殺害してしまった。
若殿・義益が、側室殺害が自分の正室の命令だと知っていたのか、知らなかったのか、
彼の反応は伝わってはいない。

大友家との外交関係を慮れば、当然何も言えなかったに違いない。

若殿・義益が仏道修行に励んだのも、無体に儚く散った側室の事も関連あるかも・・・と想像できる。

身を引いたにも関わらず、妹を殺された内山城主は伊東家を深く恨み、
このことが後の禍根になったのは言うまでもない。

伊東家が飫肥院を手に入れた時期は、ウィキペディアでも記述が別れているのだが、

飫肥城を手に入れたのは1567年、翌年1568年に祐兵を城主に配置し、飫肥院を完全に掌握したのが1569年のことだ。
得意の絶頂を迎えた伊東家だが、期待の若殿・義益が同年に病死する。

義益と正室・阿喜多の間には2男1女がいた。

と、いっても次男は、まだ阿喜多の胎内にいて、翌年に誕生する。

とにかく阿喜多と義益の忘れ形見たちは、父・義祐が引き取り手元で育てたのである。

期待の嫡男を失い、戦国大名としての覇気を失った伊東義祐は哀しみを紛らすために、ますます仏教文化にはまった。
(法会などの勤行三昧や、僧を招いての説法会などなど・・・もちろん多額の布施をする)

嫡孫に無事家督を継がせる・・・そのことに腐心した伊東義祐は、自身の三男・祐兵の妻を決めた。

なんと祐兵の妻に、祐兵の兄・義益の娘(つまり祐兵の実姪)としたのだ

ただ、祐兵が伊東家の家督を狙って自ら望んだのか、父・義祐が孫可愛さで決めたのか、その辺が微妙すぎて解らない^^;

いずれにせよ、このころ阿虎は幼女なので、実際の結婚生活スタートは「九州の役」の後になる。

現代からみればアブノーマルな血族婚だが、古い名族では決して珍しいことではない。

近い例でいうと、島津義久の最初の妻は実の叔母だし、長宗我部さんとこも叔父・姪カップル。

相良義陽も義理だけど叔母が正室。・・・・なぜか南国に多いなぁ( ̄ω ̄A;アセアセ


家紋・伊東
伊東家紋

1572年元亀3年・5月4日~木崎原の戦いで島津義弘軍300と伊東軍3000が激突、伊東家は大敗北する

もともとは伊東と同盟関係だった相良家と、島津軍を挟み撃ちする予定だったのだが、
島津義弘の計略で連携に失敗したと言われている。(詳細は相良編にて)

とにかく伊東家は将領級・指揮官クラス・・・つまり各家の当主や嫡男を失い大打撃を受ける。

伊東家の打撃の大きさは「耳川の戦い」後に、武威と家運が衰えた大友家と似ている。

ただ大友家と伊東家の違いは、大友宗麟が天賦の外交能力で難局を乗り切ったのに対し、
伊東義祐は現実から目を背け、耳を塞いで「裸の王様」になったしまったことだ。

1575年~伊東義祐は家中の雰囲気を一新するために、最愛の孫・義賢(若殿・義益の嫡男)に家督を譲る

嫡孫・義賢は、わずか8歳・・・とうぜん何もできず、実権は祖父の伊東義祐が握ってる。

そうこうしてるうちに、島津の攻略の手が入り、伊東義祐に見切りを付けて寝返る城主が出始める。

だが伊東義祐が真実を知ることは無かった・・・彼の周囲にいるイエスマンたちは叱責を懼れて義祐に報告しなかったからです。

1577年~北部から長年のライバル・土持氏が、南部と北西部から島津軍が伊東領地へ侵攻を開始する

祐兵の飫肥城も島津軍に包囲されてしまい、義祐のいる佐土原城へと脱出した。

そして伊東家の縁戚である福永家までが、伊東家を見限り島津に寝返る。

福永は何度も享楽に興じる義祐を諌めたのだが、義祐が周囲を寵臣で固めて聞く耳を持たなかった、その結果の裏切りだった。

福永氏の裏切りが、伊東家に仕えてきた氏族たちに衝撃を与えた。

そして伊東家の怨霊を祓う大宮司という、重要な役目を担う家だった米良家が「義祐に遺恨あり」と裏切った。
(米良家庶流です・もっとも米良家は後日に改心して、伊東祐兵に仕えている)

さらに前述の妹を殺された野村氏(内村城主)が裏切ったため、義祐の本城・佐土原城の西の守りはガラ空きとなった。

さすがに事態は伊東義祐の知るとこところとなったが、全ては手遅れだ。

1577年12月9日・・・「伊東崩れ(家臣・配下の大量離反)」により、伊東義祐は「豊後落ち」を決意する

つまり亡き義益の未亡人・阿喜多の叔父・大友宗麟を頼って、豊後へ亡命することになった。

豊後へ向かう途上に、譜代の重臣筆頭格・落合氏が守る財部城があったのだが、そこも伊東義祐を見限り島津へ寝返ったいた。

というのも義祐の寵臣の専横のために、落合氏の息子が殺されていたからだ。

伊東義祐は没落の原因の全てが、享楽に溺れた自分にあることを自覚し自害しようとしたが、周囲が必死に説得し思いとどまらせた

こんな土壇場で、本人だけトットと死なれたら、家臣たち路頭に迷うでしょ~困ります(O ̄∀ ̄)ノ

とにかく財部に入ることが出来ないので、急遽、高千穂経由の山越え強行軍となった(_´Д`)アイーン

旧暦12月は今の1月真冬にあたる・・・当時の日本は小寒期で今の日本より寒かった(らしい)・・・

150人いた家臣・侍女たちは、あるものは猛吹雪ではぐれて遭難し、あるものは崖から落ちたりと、一向は80人にまで減ってしまったという。

8歳だった伊東マンショ坊ちゃまも、家臣に背負われて豊後落ちを経験した一人です。
(また木崎原を生き残ったマンショ父も、この時に亡くなったと言われてます)
(マンショの母は義祐の娘なので、伊東マンショは伊東義祐の孫です)

伊東祐兵19歳・・・没落する家の惨めさをイヤというほど味わったのだが、それは・またの話 by^-^sio

【島津・華麗なる一族】飫肥藩初代藩主編2

戦国・九州は日向(現・宮崎県)の覇者・伊東義祐(いとう よしすけ)。

日向三国志の決着は、ライバル土持を追い詰め、豊州島津(分家)から領地を奪った伊東家の一人勝ちとなった。

ところが、その得意の絶頂期1569年に、伊東義祐は期待の嫡男が病死してしまう。

既に家督を譲り、政治体制も父と息子のツートップで機能していたので、伊東家は少なからず混乱した。

嫡男の遺児を伊東義祐が引き取り、跡取りとして養育しはじめたのだが、
絶頂期に悲しみの奈落に突き落とされたので、伊東義祐は戦国大名としての英気・覇気を失ってしまった。

伊東義祐は政務に関心を失い、以前から傾倒していた仏教・公家文化にのめり込む。

彼は家臣の諫言に耳を貸さず、周囲にイエスマンしか近づけないようにしてしまう。

伊東義祐の変化は、もう一人の息子・三男・祐兵(すけたけ)など眼中にないかのようだ。

もっとも祐兵は、この時数えで12歳で、よほどの神童・名将でない限り、その器量は未だ海のものとも山のものとも判断がつかない。

周囲の家臣たちも、祐兵少年の強かで逞しく、時に大胆な本性に気づいておらず、
後年、この12歳に祐兵少年に、自分たちが家臣として額づくとは想像してもいなかった。

鎌倉以来の名門・伊東家の嫡流は、あくまでも伊東義祐の嫡男の遺児が、家督を継ぐことだったからである。

家紋・伊東
伊東家紋

一方、伊東家のライバル・薩摩の島津家でも訃報が舞い込んだ。

1571年・元亀2年6月23日~15代当主、島津貴久が58歳で死亡したのである。

ちなみに同年同月に毛利元就が75歳で没している。

貴久の死去により家督は4兄弟の長兄・義久が39歳で島津16代当主となる。

伊東義祐は当主貴久の死去により、島津は再び内訌(内輪もめ)により弱体化すると判断し(そのくせ英気ないから何も対応しない)油断した。

もっとも伊東義祐の判断は消極的判断ながら、全くの的外れではない。

長兄・義久は年齢・能力に不足は無いのだが、病弱で度々体調を崩して寝込んでは祈祷騒ぎする^^;

さらには未だ嫡男に恵まれず、2年前に産まれたのも女子(末娘・亀寿のこと)だったんです。

何度か触れたが、この当時は島津家では「当主の絶対的権威」が確立しておらず、分家と宗家の実力は拮抗していた。

貴久の先代・14代勝久がヘタレ当主だったため「テコ入れ」のため、
島津日新斎(しまづ じっしんさい・伊作島津当主)の嫡男・貴久が15代として家督を継いだのだった。

だが他の分家にしてみれば、分家から入った当主に頭を下げるのが何としても面白く無い。

それでも貴久が奮闘し何とかバランスをとり「大隅統一」を成し遂げたのだが、
その貴久が熟年期に死去し、病弱な義久が家督を継いだため、再び分家が反抗的態度になる。

家紋・島津
島津家紋

特に鼻息が荒かったのが分家・薩州家5代目・実久だ。

薩摩州家5代目は死んだ貴久も手こずらせたのだが、義久をも悩ませた。

そこで義久は自らの長女・御平(おひら)を薩州家6代目義虎に嫁がせ、薩州家を分家筆頭の待遇にすることで漸く宥めたんです。

薩州家6代目・義虎(ちなみに「義」は足利義輝から拝領)は父の5代目と違い宗家に(一応)従順で、
御平とも仲睦まじく子宝に恵まれた。

惜しむらくは薩州家6代目義虎が50歳という若さで亡くなることだが、それは未だ先の話だ。


父・貴久亡きあとに、再び不安定になった国内をまとめつつ、
念願の「三州統一(薩摩・大隅・日向)」に向けて、その牙と爪を研ぐ島津四兄弟。

一方、絶頂期だった伊東家は嫡男の死により、静かに没落の坂道に向かいつつあったのだが、
それは・またの話 by^-^sio

「次回~伊東家の没落」

【日向三国志?!】飫肥藩初代藩主編1

九州は日向限定の小大名の関ヶ原~新章スタート!!(=^・ω・^=)v ブイ

さて日向の名門・伊東家を語るには父、スケキヨ・息子、スケタケは避けて通れない。

これで同時代にスケトモがいれば「犬神家の一族(横溝の金田一シリーズ)ごっこ」が出来るのだが、残念ながらいない。
(実はネタに出来ないと、マジで探した∴・…,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)

おまけに父、スケキヨは、足利将軍家から「義」の文字を拝領して「義祐(よしすけ)」に改名しちゃう(* ̄* ̄*)ツマンナイノ~

冗談はさておき、現在の日向(ひゅうが=宮崎県)というと、
島津家の「三州統一」のイメージが強すぎて、
「その前は?」と聞かれると、咄嗟に出てこない人が殆どだと思う。

島津がゲットする前の日向は、
土持家(700年来の地元)・伊東家(鎌倉時代から土着)・島津(隣国からの外圧)
の三者が覇権を争うプチ三国志状態でした

でもって土持・伊東・島津は日向守護職の地位を巡って争っていた(南北朝の頃)のだが、
最終的に日向守護職の地位は島津のものとなった。

島津による日向侵攻は後年になるのだが、
日向守護職の地位を盾に「日向も島津の本貫地(先祖伝来の地」と言い張り、
島津は侵攻の大義名分にしたんです。

日向で一番古い(700年以上)のは土持氏で、宇佐八幡宮の神官から枝分かれした、いわゆる神社系氏族の一つ。
(九州には神社系氏族がワンサカいる)

室町期初期の土持は、大隅と日向の守護代であり日向の地頭職の家系です。

実は伊東家も日向の地頭職をゲット(年代は鎌倉期)してるので、
家格的に土持と伊東と、どっちが上か~というと、かなり微妙^^;ヨクワカラン

そんな伊東家は、伊豆の伊東家から兄弟が別れて日向に土着したのが始まりで、
「いわゆる鎌倉以来の名門」と呼ばれる家柄となる。

だが日向に来た早々は地縁も人脈も無いので、
地元有力国人の土持氏と婚姻して縁戚関係をテコに少しずつ勢力を伸ばすところからスタート。

でもって南北朝のカオスに台頭しはじめ、
土持とはハッキリと敵対関係になり、前述したように「日向守護職」の地位を争うまでになる。

土持宗家は縣(あがた)土持氏で、一族が6家あったのだが、
そのうちの4家までが伊東家との戦いで没落する。

没落~といっても完全に消滅したわけではなく、土持の一族は「島津家臣」として生き残るんです。

土持は伊東家との対抗上、島津家と同盟関係を結ぶようになります。

家紋・伊東
伊東家紋


島津家と伊東家の本格抗争は1397年からです。

日向の勢力分布としては、北部が土持、中央部が伊東、南部が島津です。

土持と島津が同盟関係だから、本来なら南北で中央の伊東を挟撃できたはずなのですが、
土持にとってアテが外れたのは、島津で内輪揉めが始まった(_´Д`)アイーン

当時の島津は宗家より分家の力が強く、従って兵の動員能力も分家が宗家を凌いでいたんです。

島津のピンチを救う、日新斎(じっしんさい・伊作島津当主)が登場する前のことで、島津グダグダ~~~

ヘタレ島津14代当主は、城を追い出されママンの実家(大友)に逃げる始末で、
島津は日向どころではなく、御膝元の大隅統一に手こずっちゃうんです( ̄ω ̄A;アセアセ

家紋・島津
島津家紋

この時が「伊東家の日向統一」のチャンスでしたが、伊東家でも内輪もめが起き始め、
領内の安定に追われてしまう。アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

1512年(永正9年)~祐清(すけきよ~後の義祐)が伊東家に誕生する。

翌年にベッキー・・・じゃなかった戸次道雪(べっき どうせつ)が産まれてます(O ̄∀ ̄)ノ

道雪の翌年に「島津四兄弟の父・島津貴久」が産まれてます(O ̄∀ ̄)ノ

大友宗麟は1530年産まれですから、当時なら親子ほどの世代差があるのです(O ̄∀ ̄)ノ

1537年(天文6年)~祐清は足利将軍家に3万疋の献金をして将軍・足利義晴から「義」の文字を拝領し、「伊東義祐・いとうよしすけ」と改名します(=^・ω・^=)v ブイ
1547年(天文16年)~今度は朝廷に献金して「従三位(じゅさんみ)」に任官する
(義祐は生涯、自慢とした)

島津が大隅統一にモタついている間に、伊東義祐は着実に日向で勢力を広げ、土持涙目。

かろうじて生き残ってた土持の庶流は、僅か二家。

宮崎土持氏は伊東家と婚姻という形をとりつつも、伊東家の家臣化なぅ
財部土持氏は伊東家に敗れて滅亡。

残った宗家の縣土持が必死で踏ん張り続けている状態だった。

伊東義祐は伊東家の最盛期と最没落期を作った人物で、
そういう意味では大友宗麟とキャラがかぶります(O ̄∀ ̄)ノ

大友宗麟はキリシタンにハマったのだが、伊東義祐は公家文化にハマり仏教に凝りだした
1551年天文20年~伊東義祐は大和より仏師を招き大仏を建立
1552年天文21年~今度は金閣寺をパクって金柏寺(きんぱくじ)を建立

奢る伊東義祐は公家文化を取り入れることに夢中になり、莫大な金品を浪費し始める。

この時も更に「銀閣寺をパクって銀柏寺」まで建立しようとしたけど、さすがに財政が続かず諦めた^^;

1558年永禄元年4月~島津貴久(15代目)が遂に大隅統一~まだ不完全ながら足元を固めることに成功です(* ̄・ ̄*)Vブイ
1559年1月15日~伊東義祐の三男・祐兵(すけたけ)が誕生~(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪

故郷を追われた秋月種実が毛利の支援で古処山を奪回した年で、同時に大友家も全盛期を迎えます。

1569年永禄12年~伊東義祐は5か月の攻略の後に飫肥(おび)城をゲット~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

同時に豊州島津家の領地の一部と肥沃な穀倉地帯・真幸院(伊東の縁戚・北原家の領地)もゲット。

伊東家のものとなった佐土原は「九州の小京都」と呼ばれるまで栄華を極め、伊東家絶頂期を迎える。

このころは、島津より伊東家の勢いが勝っていた^-^

画像・砂時計


伊東義祐は長男が幼くして亡くなり、次男・義益(よします)が期待の嫡男だった。

次男は性格・器量ともに申し分無しで、家中の信頼も厚く領民も「若殿様」と懐いていた。

義祐が公家趣味・仏寺建立に浪費しても家臣や領民がついていったのは、
この次男に家督を譲り伊東家は義祐と次男の二頭体制にしてたからです。

「義祐の公家趣味は困るけどぉ~戦には今のトコ勝ってるしぃ~跡継ぎが安泰だからOK~~」
と、それなりにバランスがとれてたのです(* ̄・ ̄*)b

ところが絶頂期の1569年に期待の次男が病死してしまう ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

祠に籠って仏道修行してたんだけど無理しすぎたらしいショボーン..._φ(・ω・` )

あ、いや三男の祐兵は数えで11歳ですから、兄を毒殺とか無いです( ̄ω ̄A;アセアセ

伊東義祐の落胆は激しく「全てヤル気を無くしてしまう

家臣も「浪費・義祐の後の若殿に超・期待してたからil||li _| ̄|○ il||l」

領民も「颯爽とした若殿に信頼を寄せていたからil||li _| ̄|○ il||l」

城下の民は嘆きのあまり進んで剃髪(丸坊主)し、喪に服したほどだ。

次男は幼い男子を残しており、伊東義祐が手元に引き取り育てた。

孫の中に、亡き次男の面影を見ては(@@)ウルウル~~

で、最初は単なる自分の力誇示のためだった公家雅趣味が、哀しみを忘れるためにガチでのめりこむようになる。

家臣の諫言にも耳を傾けようとせず、周囲をイエスマンで固め始めるという、ヤバい状態になってきた。

そんな家中の空気の中で多感な少年~青年期を迎えた3男・祐兵。

彼の胸中に「伊東家の家督」に対する野心が膨らみ始めるのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回~島津・華麗なる一族

龍造寺家兼_7 【少弐氏・・滅びのエチュード・中篇】

1496年12月~大内義興は、幕府より「少弐追討令」を受けて山口を出陣
1497年1月~吉見正頼・熊谷膳直・小早川詮平・陶一族ら計2万余騎を、義興自ら率いての筑前入り

家紋・大内
大内家紋

少弐高経(政資嫡男)~大内先陣・杉興正の布陣前の隙を突いて、これを討ち取る(=^・ω・^=)v ブイ
大内第二陣・陶興房&熊谷膳直が少弐に反撃 バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!
少弐高経は敗れて大宰府へ退く((((((((((っ´0`)っキャイ~ン
大内勢は勝に乗じ、兵5万騎(人?)に膨れ上がり箱崎へ攻め入る

北肥戦誌には詳細はないが、おそらく筑前・豊前の国人らが大内軍に靡いたんだと思う^^;

「ヤバい」と感じた少弐は親子で相談し、二手に別れて逃げることにした。

少弐さんってば、何回も御家存亡⇒御家再興を繰り返してるんで、
落ち延びる手際が慣れてる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

当主・少弐政資⇒⇒岩門城に籠る
嫡男・少弐高経⇒⇒勝野尾城へ入る


大内勢は大宰府を制圧し、これを本陣とする(`・ω・´)キリッ
高経の勝野尾城へ、陶興房&陶安房守の2万が攻撃
政資の岩門城へ、陶弾正忠が同じく2万で攻撃

岩門城、落城!!!! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
少弐一族10余人討死!岩門城の雑兵たちも殆どが討たれる


大内義興は、ガチで、完全に、少弐を滅ぼすつもりだったようだ。

通常の城攻めでは、わざと攻撃の一角を開けて、敵城兵の脱出ルートを作る。

そうすれば敵側は、抵抗するよりは逃げる方を選ぶ(特に城兵として徴募された雑兵たちが脱出)

そうなったら籠城を維持できなくなるので、敵も諦め降伏する。

結果として、攻撃側も損耗を抑えつつ早期に城を落とせるからです。

城の雑兵たちが殆ど討たれる・・・って事は、
大内は少弐の降伏助命を視野に入れない殲滅作戦をとったって事です。

G並みにしぶとい少弐が、今度こそ二度とリベンジ出来ないように、徹底的に潰すであります!o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

少弐政資は岩門城を脱出し、実弟・千葉胤資の晴気城へと逃げた

地図・筑後
晴気城は地図から見切れちゃった(*´pq`)勝野尾城は、地図にある勝尾城のことかなぁ

陶興房と陶安房守が勝野尾城を攻撃~バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!
少弐一門の筑紫満門、東尚頼が大内に降伏し、嫡男の少弐高経は勢福寺城へ逃げる

つまり少弐は本貫地である筑前を追われ、肥前へと逃げたんです。

ちなみに、この年の3月14日~毛利元就が誕生なぅ~

3月下旬~大内勢が肥前へ侵攻開始~勢福寺城を攻撃
4月8日~少弐高経は勢福寺城から父のいる晴気城へ逃げる
4月13日~大内勢が晴気城(西千葉居城)を攻撃

この攻撃には東千葉の千葉興常も参加してます。

地図・晴気と牛頭

だって、こーんな目と鼻の先にあるんですもん^^;右端にあるのが東千葉の牛頭城ね

千葉胤資~~「兄上(少弐政資のこと)これ以上は無理~~支えきれない~~晴気城も危険でつ~兄上の側室の父・多久宗時殿を頼って下さい~・゜・(PД`q。)・゜・スマヌ

ちょっと秀吉の弟を思い出した・・・己は出しゃばらず、兄を補佐し続ける忠良な実弟。

少弐が肥前へ勢力を伸ばしたのは、この実弟と、その妻・尼日光(肥前千葉11代目娘)の功績が大きい。

尼日光は敵対する東千葉への対抗上、少弐と手を組んだのだが、夫婦仲が良好でなければスムーズな連携は難しかったはずです。

尼日光は肥前国人たちに対し、衰退する少弐への助力を依頼している。
(実質的には東千葉との戦い)

西千葉家に頼まれたからこそ、竜造寺も少弐へ加勢したんです。

話戻って4月18日夜半・・・千葉胤資は、実兄・少弐政資を城から逃がしたさらに時間帯をズラして別ルートで少弐の息子・高経、頼高を逃がす

やっぱ落ち延びる手際が慣れ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

ここまでコテンパンにやられても、未だ滅びない少弐の武運?が凄すぎるんだが、
それは・またの話 by^-^sio

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ジャンル : 学問・文化・芸術

龍造寺家兼_6 【少弐氏・・滅びのエチュード・前篇】

少弐氏の被官(配下)と言われる竜造寺家だが、それは郷土史の流れを端折った雑駁な表現です。

竜造寺家は千葉家嫡流・千田千葉家庶流である名門・肥前千葉家の被官です。

「肥前国主」と勢威を誇った肥前千葉氏だったが、
謀反により11代目当主が討死したことで家運の歯車が狂い始める。

11代目には娘(尼日光)しかおらず、少弐政資は実弟を11代目娘に婿入りさせて家督をゲッツした
それが肥前千葉氏12代目当主・千葉胤資です


話は先になるが、この夫妻は子宝に恵まれなかったらしく、その後の千葉当主も少弐一門(横岳氏)から迎えている。

大内は少弐に対抗するために、肥前千葉庶流である千葉興常(尼日光従兄弟)を当主として、
東千葉氏を立てた。

その東千葉氏に敗れ、正統嫡流である西千葉(尼日光の方)が居城である牛頭城を奪われてしまう。

以降、東千葉は祇園千葉氏とも呼ばれ、こちらが嫡流であるかのように振る舞う。
(牛頭城には肥前千葉家が招聘した祇園社があったから・いわば肥前千葉のシンボル)

東千葉と西千葉の争いは、そもそも11代目当主の座を巡る兄弟間の家督争いから端を発する・・

という根深いもので、それに少弐と大内が介入したので、両家の和解は絶望的な状況でした。

西千葉家の総領的立場だった尼日光(11代目娘)は、肥前千葉嫡流の地位を守る為の後ろ盾として少弐氏との繋がりを持ち続けた
亡き父11代目を仇と憎む千葉興常が、大内のバックアップを受けているので、彼女に選択の余地はない(;;)
「西千葉=少弐氏」となった事により、西千葉の被官だった竜造寺家は「最大公約数・少弐被官」で括られることになる


ぶっちゃけ竜造寺にしてみれば「うちは少弐の被官になるぉ」と積極的に選んだ訳ではない。

少弐と大内の争い+αで肥前千葉家督争い、がMIXマーブル。

気づいたら自分の立ち位置が少弐配下な件~~Σ(´Д`;)あれ?

なりゆきなだけに、少弐か大内かの選択に竜造寺内部は煩悶することになるんです^^;

竜造寺家紋

竜造寺家紋

さて、一時衰退した少弐氏の御家再興に成功した少弐政資。

だが彼は調子に乗って、色々暴慢な態度をとるようになり、足利将軍家から叱責を受ける。
(大内が少弐の所業をチクった)

が、少弐のリベンジ力は侮れない。

再び挙兵すると筑後守護職の大友家から助力を受けて、
筑後にいた九州探題・渋川を追い出すo( ̄Д ̄θ★ケリッ!

さらに西千葉家・竜造寺康家・高木家重など肥前国人らの助力を受けて、西肥前・東肥前を制圧。

1494年には松浦党を降伏させた。

一方。大内家は病の当主に代わり、大内義興が家督を継ぐ
同年8月18日・・・対馬・11代目宗貞国が死亡した


宗貞国は亡命していた少弐政資を匿い、少弐御家再興に尽力した人物です。

肥前千葉の家督介入に反対し、少弐と距離を取り始めていましたが、
それでも敵対するには至らず「大内と少弐どちらも加担せず中立」をキープしてたんです。

大内義興はデキる子wwwパワーバランスが変化するチャンスを見逃さない(`・ω・´)キリッ

大内義興は淡路島に下向(実は亡命)していた足利義材に申し出て「少弐退治」の上位賜る

少弐は(将軍から)勘気の身であるのに公儀を軽んじ、私に弓箭を為す意味を心得ていない。

急ぎ吉木御所に言上し、少弐一族を悉く誅殺すべし(`・ω・´)キリッ


上意を賜ったが、大内義興は即行動を起こしてない。

このあたりの大内サイドの事情は調べきれてないです( ̄ω ̄A;アセアセ

中央政界も半将軍・細川家の活躍?などなど、ちとシオの手に余る( ̄ω ̄A;アセアセ

将軍が京都を追い出されて淡路に亡命してるんで、政局カオスを察して下さい( ̄ω ̄A;アセアセ

解る範囲だと、翌年に大内義興パパン政弘が病没してます。

亡くなる前に家督を譲ってるから、家督で揉めたってことは無さそうです。

さらに次の年1496年6月~7月にかけて、大内義興は大友家の家督に介入してます。

とにかく親子で争っていた前々大友当主が大内によって処刑され、大友の家督は宗麟の曽祖父・政親が継ぎました。

若年の前大友当主は突然死亡してて、前々当主・・つまり実父による暗殺説あるほどでして、
当時の大友の御家騒動は泥沼だったでつ( ̄ω ̄A;アセアセ

少弐と大友は、VS大内に関しては協力関係でした。

大内義興は、少弐と大友の協力関係を切り離すのが目的で、大友の御家騒動に介入したかもです。
(ちなみに大内と大友は縁戚関係)


とにかく大友の家督は宗麟の曽祖父・政親が継ぎました。

同年12月・・・大内義興は幕府より「少弐追討令」を受けて山口を出陣!
吉見正頼・熊谷膳直・小早川詮平・陶一族らを大内義興自ら率いて筑前入り
動員兵力は2万余騎


ちなみに「騎」ですから騎馬武者なわけで、彼らが率いる雑兵・郎党は2万の中にカウントされてません。

少弐一族必滅の構えで堂々な威容の大内軍~~家臣団豪華フルコンプ~(人´∀`).☆.。.:*・

これで滅びない少弐って・・・しぶとさが凄すぎるんだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【プロローグ】飫肥藩初代藩主編

食卓ではない伊東家です(O ̄∀ ̄)ノ

祖先~藤原南家為憲の流れ~

藤原さんとこの「誰か」が、木工助(正六位)という官位をもらい、
工と藤の文字を足して「工藤」と改名しました。

その工藤さんが、伊豆の伊東に引っ越したので「伊東」と改名し、
子供が兄弟分かれて、一人が日向国に入り、「日向・伊東家」の祖となりました。

これが鎌倉より、ちょい前の話で、伊東氏は1190年に日向の地頭職に任命されます。

南北朝の戦いでは、武家側(足利尊氏)となって勢力を付けて行きます。

日向国支配を巡って争っていたのが島津・伊東・土持の三家でしたが、
日向守護職の座を島津がゲットして、いったんは治まります。

1397年~伊東家VS島津家の本格抗争が始まる。

日向の覇権を巡って争ってた土持は島津と手を組むも、
とうの島津は内輪もめ、さらに伊東も内輪揉めで、両家の決着がつくのは「木崎原の戦い」です。

知ってる人はコアな地方史ファン~~土持氏^^/

宇佐八幡宮の神官・田部氏から分かれ、約700年続いた神社系氏族。

日向の荘園を守っているうちに武士化して実質支配する。

日向北部 ⇒土持氏が支配
日向中央部⇒伊東氏が支配
日向南部 ⇒島津氏が支配

土持氏は七家あったが最終的に残ったのは三家。

アガタ・ミヤザキ・タカラベ・・・
全部カタカナ表記にするとギリシャ神話のようですな ( ゚Д゚)y─┛~~

嫡流⇒縣(あがた)土持家~最後まで伊東家と戦う。

庶流⇒宮崎(みやざき)土持家~伊東家と婚姻を結び家臣となる。

庶流⇒財部(たからべ)土持家~伊東家に敗れて滅ぶ。

他にも日向には忘れちゃならない、北原氏や島津分家の北郷氏などがいます。

が、初代藩主シリーズは、天正~慶長年間のストック放出シリーズでもあります^^b

てことで両家の出番は相良氏シリーズに譲りたいと思います^-^

やぁほら、普段は明応とか永正年間とか思いっ切り室町とか、ばっかりじゃない?

マニアックながらも、皆様の馴染みのある名前が出る時代を、シオも無性に書きたくなるんでつ(*´pq`)クスッ

で、今回の主役は、飫肥藩の初代藩主は伊東祐兵ネ(^ -)---☆Wink

三男だった彼が関ヶ原を生き残り、飫肥藩初代藩主となるのだが、それは・またの話 by^-^sio

【北肥戦誌・1582年】

この年、筑後・柳川在陣中の龍造寺久家が政家と改める。
また、鍋島信生も、実はこのときまで信昌であり、この年から信生と改めている。


2月、筑後国上妻郡猫尾城主・黒木兵庫入道宗英と、その子・黒木家永が龍造寺家に背いて籠城する。

これを攻めるべく政家は、小河信貫に5,000余騎を率いさせ猫尾へと向かわせる。

しかし草野長門守鎮永(筑後草野氏)が仲裁に入った為、黒木は嫡孫《黒木四郎》を人質として再び恭順の意を示した。


8月2日、政家と信生は柳川城から鵜川を逍遥し、瀬高上ノ庄へ鵜飼見物に出たのであるが、これがどういった理由か、
「政家・信生は田尻鑑種・蒲池家恒が叛意を抱いていると聞き、鵜飼の川刈りに事寄せて二人を招き、その場で討ち果たす企みである」との世上の風聞が立ったのである。

蒲池は驚愕し、田尻に対して自身は龍造寺家に異心はないと伝えたが、田尻は敢えて無実との申し開きをしなかった。

また、この風聞に隆信・政家・信生も大いに驚き、風説は根も葉もないものとして、隆信・政家、信生、小河、納富ら数通の起請文を田尻へと送った。

だが、これでも田尻は信用せず、遂に10月4日に手切れを意味する様に、柳川に置いた人質・田尻千代松丸(田尻内記丞鎮清の子)を見捨て所々を放火し、居城の鷹尾城へ立て籠もった。

その他の4ヶ城である江ノ浦城へは、田尻但馬入道(大友の史料には常陸入道)了哲を、
濱田城へは田尻鎮富を、津留城へは田尻鎮直を、堀切城へは田尻鎮永(福山将監とも)を入れ、
兵糧・馬秣・弓鉄砲・玉薬に至るまで不足なく用意し、龍造寺勢を待ち構えた。


政家は自ら肥前勢20,000を率い、信生・後藤家信を伴って田尻の本城・鷹尾を攻めるべく出陣、これを三方から取り囲み、海の方へは杭を打って通用を断った。

諸口にて合戦が始まり、鉄砲が止む事無く発せられる。

5ヶ城からの援軍を断つ為に、城の廻り三里の間に堤を掘り続け、所々へ向い城を築き、船手には田雑大隅守を頭に番船を付けて海上を封鎖する。

それでも城はビクともしなかった。

攻め手は止む無く攻めるのを中断し、ただ囲み続けるに徹した。

そして評定の結果、先ずは江ノ浦城を攻めてみるべしと、鷹尾城を多勢で囲み続けたまま、信生・後藤の両将にて江ノ浦を攻める。

寄せ手は激しく攻め掛かるも、負傷者のみ無為に増やしたのみで、落城させるには及ばなかった。

止む無く二人は江ノ浦城攻めを諦め、再び鷹尾城攻めへと戻った。

だが、此方も攻め口に及んだ寄せ手へ雨の如く鉄砲を撃ち掛け、小河・鍋島・後藤勢は攻め口より退くしかなかった。

あまりの進展のなさに須古の隆信は立腹、ならば自ら出馬せんと、
成松信勝・高木太栄らを伴い、龍王崎から兵船を以って筑後の榎木津へ上がり、
肥・筑・豊の分国へ触れを出し大軍を催すと、小河信貫を軍奉行として鷹尾城を攻めた。

しかし、それでも城は落ちず、そればかりか却って負傷者を増やすに至り、隆信は虚しく須古へ帰った。

その後は向い陣を取り固めて城の四方を囲んだまま遠攻めとすると、政家・信生は柳川へと退いて行った。

昨年背いた戸原河内城主・戸原薩摩入道紹真が、再び背いた(或いは昨年の造反はこの年の記述か?)。

10月に田尻に与して居城へ立て籠もると、府内に通じて大友勢を引き入れようとした。

これを聞いた柳川の政家・信生は、ならばまず田尻攻めを後にして此方を攻めんと、10月14日に戸原河内へ三手に分かれて攻め込む。

先陣は小河信貫、二陣は蒲池家恒・西牟田家親を擁した鍋島信生とし、搦め手は後藤家信、山の手の先陣は高良山座主・良寛、二陣は納富家理である。

三方より一斉に鬨の声を上げて鉄砲を放つ。

これに城兵も鉄砲で応戦、まるで百千の雷鳴のようであった。

鍋島勢には神代名代の神代家利・内田美作入道卜菴も一つになり、頻りに攻め立てる。

だが、どの攻め口も死傷者を多数出したのみで、止む無く引き退いた。

16日、改めて戸原の城を攻める。

寄せ手は塀を破って城内へ侵入、城兵を薙ぎ払う。

そして信生手下の武藤貞清が又も火矢を放って城中を焼く。

更に中野清明も火を掛けると、戸原は防戦叶い難く、何れともなく落ち延びて行った。

政家・信生は柳川へと戻る。

但し、落城は8月だったとも、昨年だったとも、翌11年10月14日、或いは17日ともあり、判然としていない。


この頃、島津忠平・伊集院忠棟は肥後に在陣し、龍造寺方(阿蘇氏・甲斐氏、或いは合志氏の事か?)と戦う。

今年10月、龍造寺より肥後に於ける境界の城々へ番人を差し加えられる。

中でも横島の城番には高来衆を任じるよう隆信から下知が下り、
有馬鎮貴は安富徳円を差し出し、その他に安富純泰ら高来島の者達を10月9日より肥後へ渡海させ、
横島の城へ入れた。

佐嘉からの検使は下村生運である。


12月中旬、田尻は島津家に対し、従属する旨を申し出ると共に加勢を乞うた。島津側はこれを了承する。


またこの年、鍋島信生は背振山の僧・水上坊仁秀を介して、毛利攻めの為に中国へ在陣中の羽柴秀吉と初めて誼を通じた。

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竜造寺・少弐・鍋島関連のみ抜粋。

信生クンは天正10年から秀吉に接触してたのか φ(.. ) メモメモ

【北肥戦誌・1581年】蒲池氏謀殺

龍造寺鎮賢(後に民部大輔政家)が政家の前に、「久家」と号す。


蒲池鎮並が密かに島津側に通じている事が、この夏に発覚する。

鎮並は、同国の西牟田鎮豊へ使者を送り、島津家老・伊集院忠棟よりの誓紙への返書を見せ、島津へ味方するよう勧めた。

しかし西牟田はこれに同意せず、家臣・向井左京亮を派し、伊集院よりの書簡を携えて龍造寺当主・久家へ報告した。

須古城に居る隆信が、ならば鎮並を討つべしと考えた矢先、
鎮並は筑後へ置いた目付・田原伊勢守へも叛意を促していると判り、急を要する事態となった。

とはいえ、堅城たる柳川城を攻撃しても又も手間取ると考え、今回は一計を案じた。

5月20日頃、龍造寺家は田原伊勢守・秀島源兵衛を使者として柳川へ送り、
鎮並に対し「昨年の冬の和平より以後、いまだ逢って居らぬ。されば、近いうちに佐嘉へ来られたし。その際には須古の新館にて猿楽を催すゆえ、其処許よりも猿楽の役者共を召し連れて参られよ」と述べさせた。

だが鎮並は、病と称してこれに返答しなかった。

田原は賢い者で、これでは叶わないと思い、鎮並の母・貞口院と、伯父(別腹の兄とも)の蒲池鎮久へ、隆信父子よりの何らやましい事がないと起請文を以って申す・・・など様々に謀る。

(『フロイス日本史』によると、隆信は鎮並を信用させる為、大村純忠一行500人を佐嘉へ呼び、これを歓待したという。)

母も鎮久もこれを信用し鎮並を説得すれば、鎮並もようやく田原・秀島と対面、承諾の上、佐嘉での守備を頼むと、両人に黄金一枚ずつを下賜した。

隔して5月25日、伯父・左馬大夫を始め、親類・家人ら200余騎、役者を入れると300余の人数で柳川城を出立した。


それを聞き付けた鎮並の縁戚で、田尻5ヶ城の城主の一人である大木統光は、その道中にある鎮並の元へ向かうと、
「御辺は気でも違えたか。うかうかと出向くなど、石を抱いて淵に入る様なものである。ここは思い留まられよ」と述べるが、

鎮並は「もはや斯様出立致した上は、阿容阿容(オメオメ)と引き返すなど見苦しかろう。その上、天運統べからば、縦令(たとい)剣戟刀杖の中たりとも豈(あに:決しての意)恐るるに足らず」と発し
馬脚を早めて寺井江を渡り、夕方に村中城下へ着いた。

そして久家へ、和平の挨拶を述べる。

その夜は鍋島信生同席の上で酒宴となった。

それが終わると鎮並らは、城外の北側にある本行寺に宿を取り、翌26日は逗留する。

須古の隆信は土肥信安を使わし、鎮並に酒肴を贈った。

鎮並は悦び、その酒肴で出雲守を饗応する。

鎮並は猿楽の上手で、出雲守を前に猿楽を踊って見せた。

出雲守は明日の運命を思い不意に落涙するが、鎮並はこれを自身の芸を面白がってのものと思った。

そして27日未明、本行寺を発って須古を目指す途上の、興賀の馬場を通ったときである、
龍造寺の伏兵である小河信貫・徳島長房・水町彌太右衛門・秀島源兵衛・石井の一族らが、四方より一斉に鬨を上げて襲い掛かった。

鎮並は歯噛みして伯父・左馬大夫へ
「口惜しき次第かな、我が柳川にて懸念致した通りであった。これも天運やも知れぬが、偏に御辺の勧めに依りて計略にはまったのであるぞ」と憤激する。

左馬大夫はこれに何も答えず、謀られた怒りに血が上り、「我らに二心在らざる事、只今見給うべし」と言い捨て様、
興賀大明神の鳥居の前まで馬を駆け、「汚き龍造寺が仕業かな。おのれ、七生が間は恨み続けてくれる」と発する。

そして矢を二筋三筋放つと家の上に駆け登って散々に矢を射掛け、屋根の上から飛び降りざま烈火の如く戦うが、堤左馬允と渡り合い、遂に討ち取られた。

龍造寺勢は多大な被害を出しながらも173人を討ち取った。

鎮並は一族・家臣が討ち死にする隙に、小さな家に立ち入って沐浴した後、腹掻き切って息絶えた。

隆信は鎮並の残党を退治するよう、田尻鑑種に下知する。

鑑種の姉が鎮並の母である為、鑑種は正しく鎮並の伯父であるが、これを了承する。

このとき柳川城に居た鎮並の弟・蒲池統春は田尻と談合し、
「我らは龍造寺に対して別心はない。もし城に籠って残党に与すれば、没落は必定である。ゆえに我らは龍造寺への忠義を示し、城を退去する」と述べた。

田尻はそれを龍造寺に伝えると、その許諾を得て、統春一党100余人は田尻の領内・佐留垣村へ引き退いた。

さて柳川に残った残党・豊饒鎮連・蒲池統康ら男女500余人は全て、柳川城より一里ほど巽(東南)の方角にある塩塚城に籠った。

鎮並の母は、田尻の誼で田尻の館へ迎え、鎮並の幼い娘は乳母が田尻の元へ連れて来た為、それを受け取った。

だが鎮並の今年6歳になる男子・統虎丸らは塩塚村に立て籠る。

そして6月1日卯の刻、田尻は龍造寺の命で塩塚城へ攻め掛かる。

その数は2,700余騎。そこへ鍋島信生ら佐嘉勢600余騎も加わった。

隔して蒲池勢は午の刻、我先にと切って出る。

鎮並の家人は、田尻の家人とは伯父・甥・兄弟の間柄であったが、他人よりもなお激しく戦い、乱戦となった。

昨日まで親しかった親類縁者が、只今は敵味方に分かれて、思いも寄らぬ修羅の励みを為す事に、涙せぬ者はなかった。

さて柳川勢500余人は、老若男女問わず唯一人の生き残りもいなかった。

(※その中には、隆信の娘・玉鶴姫もあったようだが、『北肥戦誌』には玉鶴姫に関する記述は一切ない。)

寄せ手の田尻側にも戦死・深手が続出(討ち死に108人、手負い836人)、水無月初旬の頃に青田も堀も死体で埋まり平地となっていた。

田尻は討ち取った首を船二艘に乗せて肥前へ送り、隆信の首実検に入れた。

そんな折、鎮並の子・統虎丸が胡仙という山伏と主従3人に伴われ、田尻の居城・鷹尾城へ現れた。

幼子である為、田尻もこれを助けたかったが、男児ともなればそうもいかず、
これを高来へ送ると偽って船に乗せ、上妻刑部丞ら3名程を警固と称して入れ、これを殺害するよう命じた。

だが胡仙はこれを悟り、上妻刑部を斬り伏せる。

しかし結局は、他の者に胡仙統と統虎丸は斬り殺された。

次いで龍造寺家は、佐留垣村の統春らの討伐を田尻に命じる。

田尻はこれを容赦するよう願い出るが、隆信は承諾しなかった。

隔して6月3日、佐嘉より筑後衆へ下知が飛び、佐留垣の城を攻める。

肥後衆の小代伊勢入道宗禅、肥前衆の納富家理・田原伊勢守・秀島源兵衛らが加わり、一斉に諸口より攻め掛かる。

統春一党100余人は一人も残らず斬り殺され、その首は統虎丸の物を加えて船一艘で肥前へと運ばれた。

諸人は龍造寺のこの仕打ちに、「恐ろしや」と眉を顰めた。

鎮並の死後、鎮並を止めた大木統光は肥前木原村へ来て、

伝手を頼って鍋島信生・小河信貫へ「此度鎮並が供を致さず残念の仕合にて、その追善が為、切腹致したく候」と述べた。

それを隆信へ報告すると、義ある武士なりとこれを賞し、切腹を思い留まらせ筑後へ帰した。

大木は以後に浪人となり、後に宗繁入道と称する。

その数年の後、小河の取りなしで鍋島家臣となっている。

また、この乱により筑後国は、残党討伐を果たしても不穏な状況となり、
止む無く当主・久家と信生は柳川城へ住まい、その鎮静化に努めた。

その一環として、6月22日に豊饒鑑連と塩塚城へ籠った、その子・豊饒新介を誅伐、
同月下旬、筑後は戸原河内城主・戸原薩摩入道紹真が、居城を補修の上で籠城、佐嘉への通路を塞いだ。

実は戸原は鎮並に近しい縁戚で、鎮並の不慮の死に対し隆信の不徳を憤っていた。

久家は実弟・後藤家信の6,000余騎に、これに参じた草野鑑員・西牟田鎮豊・高良山座主・麟圭らでこれを攻めさせた。

戸原は暫し堪えたが、結局敵わずに降参した(落城はこのときではないとも)。

7月、今度は、田尻も龍造寺に異心を抱いており佐嘉勢が討たんとしている、との風聞が立った。

田尻がこれにより疑いを抱いた為、隆信父子はその様な事はないと田尻へ起請文を提出、田尻も起請文を返した。

結局、田尻には鎮並討伐の功に依り約束通り、9月初旬に久家より千町のうち先ず680町が下賜された。

9月下旬、薩摩の太守・島津義久の弟・島津忠平は肥後の八代へ攻め入り、
大友・龍造寺方の城々を攻めるべく大町杉島まで出陣した。

これは、この頃に島津に属していた宇土の伯耆顕孝・隈本の城親賢が差し招いたためである。

これに甲斐宗運は人数を率い、龍造寺方と評定してこれを防ごうとする。

しかし忠平は急には軍を動かそうとしなかった。

球磨の相良義陽・阿蘇惟種ら龍造寺方は甲斐と談合して、隆信より南の関に差し置かれていた龍造寺家晴まで援兵を乞うた。

これに依って家晴は、早速に軍兵を催して甲斐の本城・御船まで進軍する。

これに依って島津勢は八代へ引き退く。

(※この年の9月頃は、島津勢は相良家の水俣城攻囲の最中、或いは相良家が降伏・恭順した直後であり、相良領である八代に攻め入る理由が無く、上記は事実無根も甚だしい。
また、この頃はまだ、甲斐家・阿蘇家は大友から龍造寺に転じてない筈である)

龍造寺へ出された人質は柳川城へ置かれる。

有馬鎮貴(前名:義純)の質である島原大学助・石黒備中守、島原純豊の質である嫡子・島原木工左衛門、安富純泰(後に深江姓)の質である嫡子・深江助四郎、赤星統家の質である嫡子・赤星太郎(新六とも)、草野長門守鎮永(筑後草野氏。もう一人の草野鎮永(肥前草野氏)とは別人:前の名は家清)の質である嫡孫・草野幡千代、隈部親永の質であるその次男、祝部の質であるその妻など多数。

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記事本文は北肥戦誌の中で竜造寺・鍋島・少弐関連のみ抜粋したものです。

北肥戦誌は肥前の貴重な郷土資料ではあるものの、
江戸期に書かれたものなので、肥前以外に関しては結構間違ってる( ̄ω ̄A;アセアセ

戸原とあるのは、筑後大友直参衆の一人・辺春氏のことです。

一応だけど、島津義久の弟・忠平は島津義弘のことです^-^

【北肥戦誌・1580年】蒲池氏籠城300日

さて、隆信と嫡子・龍造寺鎮賢(後に民部大輔政家)は、田尻鑑種と共に、蒲池鎮並誅伐について密談を重ねる。

そんな折の2月10日、遂に鎮並が居城・柳川城へ立て籠もったと田尻より注進があった。

須古城の隆信は、早速に討ち手を出すべしと下知し、現当主たる嫡子・鎮賢を大将に、13,000を柳川に差し向けた。

先手は内田兼能(入道栄節)である。

鍋島信生(直茂)は三潴の者達を伴い酒見より、田尻は三池山門の家人らを催し鷹尾城より馳せ参じた。

他に山下の蒲池鑑広、西牟田の西牟田鎮豊、肥前衆は龍造寺家晴・安住家能・横岳家実・横岳頼続らを、段々に備えを立てて2月13日(3月13日、3月18日説あり)より柳川城を取り囲む。

更に集まり、寄せ手は20,000余騎に達した。

寄せ手は各々攻め口を打ち破らんとするも、城兵はこれを事ともせず、各々陣を固めて城を囲みながら、唯々時間を費やした。

3月下旬、鎮賢は柳川城を囲みながらも、いまだ肥後国の従わぬ者らを征伐すべしとした。

そして柳川に多勢を据え置きつつ、4月9日に筑後から肥後へ、先陣・鍋島信生、二陣・龍造寺信周ら、他に江上・後藤・神代・松浦などなど錚々たる面々を催し、海路と陸路の両面より討ち入る。


隔して翌10日、鎮賢は肥後大津山へ着陣する。

都合50,000余騎である。

翌11日に山鹿へ着陣、この日より筒岳城主の小代伊勢入道宗禅・関山城主の大津山河内守・隈部城主の隈部親永・迎春城主の辺春親運が参陣する。

この頃、隈部城に在る赤星統家が、龍造寺に従わない為に攻めると決し、鍋島が軍勢20,000を引き分けて隈部城へ攻め掛かる。

当然ながら赤星側にも用意があり、町小路の詰まりを差し固め激しく防戦する。

それでも鍋島勢が外郭を打ち崩して敵を300余人討ち取ると、赤星は妻子を伴い詰めの城へ籠った。

15日、御船城主・甲斐宗運、合志城主・合志親為、隈本城主・城親賢、八代城主・赤星統家、球磨の城主・相良義陽、その他に阿蘇惟種・志岐鎮経ら肥後国人が山鹿へ参じた。

(↑:この頃、城は島津に誼を通じており疑問が残る。
赤星も正しくは隈部城主であり、相良は赤星攻めへの協力は求められているが断っているとの記述が『人吉市史』にある。
何よりこの年の3月は、甲斐宗運 vs 城・名和・合志・隈部・川尻・鹿子木の戦いが白川亘で行われており、この記述はかなり信憑性に欠ける。)

21日、赤星は自ら本丸に火を掛け、その煙に紛れて合志の山中へ落ち隠れる。

城中の女子供は煙に巻かれ、深溝に落ちて命を失う者もあった。

或いは、下村生運に人質を渡して下城したとも・・・以上は天正7年の出来事であるとも、或いは赤星統家ではなく、赤星入道道繁であるともあり判然としない。

何はともあれ、信生は隈部城を攻め落とすが、
隈部が「この城は元々我が旧城に御座れば、深く所望致したく存ずる」と述べたので、信生は隈部に城を授けた。


翌22日、内古閑鎮房を攻めんとすると、鎮房は内古閑城を開城し降参した。

隔して高瀬・山鹿・南の関へ宗徒の一族を残し置き、龍造寺勢は皆筑後へと帰陣した。


さて、昨年に大友方・小田部入道紹叱・大鶴入道宗周が執行に討たれた事に宗麟父子は憤激し、
この夏に臼杵鎮富・小佐井鑑直に軍勢を与えて龍造寺討伐へと差し向けた。

両人は府内からまず筑前へ赴き、戸次入道道雪・高橋入道紹運に参会する。

評定の末、大鶴入道の荒平城を修理し、臼杵・小佐井共にこの城へ入って、龍造寺方の内野・飯場・飯盛らを攻めんと準備を始めた。

その注進を受けた隆信は、ならば自ら出馬し追い落とさんと、筑紫・秋月・原田・波多・草野へ回状を回し、急ぎ荒平城へ出陣するよう要請した。

5月下旬に先手を小河信貫・納富信理(前名:家理)とし、佐嘉の城を出馬、
三瀬峠を越えると神代長良・曲渕房資が参会、この二人を案内者に立て筑前の内本名村に着陣した。

弟の龍造寺信周は下松浦・杵島の両軍勢を率いて、隆信に先立ち筑前へ入ると早良郡に陣を布いた。

その兄・龍造寺長信と、龍造寺康房は多久城から上松浦を通って、波多親・草野中務大輔鎮永の勢を加えると、怡土・志摩の間に出て、原田信種と共に陣を布く。

江上家種は三根・神埼の士卒を連れ、北山を越えて内野の要害へ加わる。

鍋島信生は筑後勢を率いて柳川から筑前へ入り岩門に着陣、これに秋月種実勢が合流する。

総勢43,000である。

隆信は秋月・筑紫と評定、戸次・高橋の居城である岩屋・宝満、立花と荒平との通路を分断し、
士卒20,000を引き分けて、龍造寺信周を大将に任じて小河・納富を以って荒平城を攻めさせる。

これに臼杵・小佐井は、小河・納富勢を坂落としに攻める。

荒平は東西南北すべてが屏風の如くに険阻で、櫓・掻楯(垣根の様に楯を並べる事)は隙間が無く構えて、そこから弓・鉄砲を激しく打ち掛けてくる。

寄せ手20,000は為す術無く、隆信は先ず兵を退かせて遠攻めを命じた。


6月下旬、小河・納富の陣へ執行種兼が現れ、
三人は内談、「左様程度の小城を二万に余りし多勢にて攻め倦み、斯様月日を送るとは世上・傍輩に嘲られ、これに過ぎたる瑕瑾(かきん:恥辱)は御座いますまい。もはや大将の下知なくとも我らが手勢のみにて一攻め致し、敵わずば討ち死にを遂げん。これ、他には知らせず、努々他の士卒加えるべからず」と、密かに陣屋を打って出て執行は自ら真先に進み、荒平の坂を一息に駆け登ると、大城戸に混々(ひたひた)と近付いて城内へ乗り込まんとする。

城兵は不意をつかれ慌てて矢・石を飛ばし、鉄砲を撃ち掛けるが、三人は事も無げに大城戸を破り、城中へ攻め入る。

これに気付いた龍造寺の他の軍勢も、味方に続けと我先に攻め登る。

やがて空閑三河入道可清が進んで城中に入り、大将の小佐井を生け捕った。

副島・神代・曲渕らも城内へ入り火を掛けた為、城兵は煙に巻かれて防ぎ得ず、もう一人の敵大将である臼杵は、信生に和を乞うた。

ここに和が成ると、臼杵は城を退去、荒平城には龍造寺より番人を差し置いた。


7月半ば、隆信は次に糟谷郡立花城の戸次道雪を攻めんとするが、これに筑紫惟門が双方の和睦を進めた。

双方共に承諾し、筑前国15郡を二つに分け、東北6郡は大友領、西南9郡は龍造寺領と定めた。
(或いは立花・岩屋・宝満などの大友の城周辺を除いた一円が龍造寺領とも)。

隆信は生の松原へ逍遥し終日酒宴に興じた。

そこへ高祖城主・原田越前入道了栄が孫の原田信種を伴い、鏡の草野中務大輔鎮永と同道して、酒肴などを持たせて参じると、隆信は大変喜悦、信生も会釈し大いに興じた。


次に隆信は豊前征伐の為、50,000余騎を率いて龍造寺信周を監軍として博多まで動く。

このとき戸次道雪が家臣・麻生主水助を使いに、太刀・馬・酒肴を隆信の旅陣へ贈って来た。

隆信はちょうど饗膳の最中で、麻生と対面し道雪への礼を述べると、飯椀に酒を三盃酌み、
「此度の和平が印に、此の盃を道雪殿に差し上げん」と、盃を主水の前に投げた。

主水はその奇行に肝を潰すが、何食わぬ体で畏まりその盃を受け取ると退出していった。

さてその後、隆信は博多に留まり、信周を大将に出馬する。
(筑後・肥後の用人の為、50,000から分けた人数:人数の詳細は不明)

秋月の弟・高橋元種が自身の居城・馬ヶ岳城へ信周を入れると、
豊前の城持ち城井鎮房・長野鎮辰、ほか規矩・田河・仲津らの郡士らは、一戦に及ぶ事無く龍造寺に従った。

信周は戦わずして豊前を治め、しばらく滞在して政務を執り行った後に帰陣した。

隆信は石田信能を代官として博多に置き、自身は佐嘉へ帰陣する。

一方、鍋島信生は蒲池鎮並攻めの最中であり、再び柳川へと赴いた。

また、虜となっていた小佐井鑑直は、9月22日に豊後へ送り返された。

さて、蒲池鎮並は柳川城に籠り、叛乱は既に300余日に及んだ。

田尻鑑種は様々働き、ようやく11月28日、鎮並が龍造寺鎮賢(後に民部大輔政家)の陣へ現れ、双方の和が成った。

このとき、鎮並を龍造寺の婿とする約定を交わす。

************************************************

秋月種実の次男・高橋元種には種実弟説があります。

このカテゴリ「北肥戦誌」は全文ではなく、鍋島・竜造寺・少弐関連を抽出したものですので、
予めご了承ください^-^

【大宮司の野望】相良氏、戦国名君編3

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肥後が「難治の国」になった原因は、甲斐氏の主君・阿蘇氏にあると前回記したが、
そもそもは肥後の守護職・菊池氏が家督争いなどで家運衰退したことが始りで、
菊池家の地盤沈下は年代でいうと関ヶ原の100年以上前(管理人涙目)に遡る。

でもって阿蘇氏は阿蘇神社の大宮司なんですが、
現代なら初詣や結婚式の時に世話になる神主の白いイメージしかないだろう。

だが戦国時代までは武家が神職を兼任するのは珍しいことでは無く、神社系武家は全国に山ほどいる。

だから大宮司と言っても中身はバリバリ武家なので、その内面には野心や欲望が普通に腹黒く渦巻いている。

1505年(永正2年)~阿蘇惟長が肥後の守護職が欲しくなり、菊池家の家督を狙った。
(もともとは天正~慶長年間を扱うはずが、今じゃ明応だの永正とか戦国期前半に夢中な件) 

で惟長は、そのために豊後の大友家のバックアップを得る。

時の大友当主は大友義長~~~高名なキリシタン大名・大友宗麟のおじぃちゃま(* ̄・ ̄*)b

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大友家紋

話戻すと阿蘇惟長と大友義長の接点は?というと義兄弟なんです。

大友義長(宗麟グランパ)の正室が、阿蘇惟長の妹(or姉)なんです。

阿蘇惟長は大友のバックアップを背景に、菊池家三家老(赤星・隈部・城)に揺さぶりをかけると、
三家老+家臣22名が惟長を主君とする旨を認めた誓詞を差し出した。

このあたり菊池家内部でも色々あって「惟長を迎えよう」となったみたいです( ̄ω ̄A;アセアセ

で結果、菊池当主は o( ̄Д ̄θ★ケリッ! っと菊池家を追い出された。

とはいえ追い出された旧主を支持する家臣もいて、菊池家は旧主派と惟長派に分裂しちゃう。

念願の菊池当主になった阿蘇惟長は、ウキウキ(0 ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワク~
早々と当主の座+阿蘇大宮司職を弟の惟豊に譲っちゃう。

阿蘇惟長(菊池の家督継いで改名してるけど、ややこしくなるからこのままで)は、野心はあるが器量はイマイチだった( ̄ω ̄A;アセアセ

さらに不幸なことに「自分が大友の傀儡当主である」と気づく程度の知恵があった。(-ω-:)ウーン

いっそ気づかなければ脳内花畑・名門当主として、無難に人生を終えられたかもしれない。

1511年(永正8年)~傀儡当主でいるのがイヤンになり菊池家から矢部へと退去する。
矢部とは阿蘇氏の本拠地で、つまり惟長は「アタシ実家に帰ります」をやらかしたんです(爆

実家に帰ったものの、家督は既に弟に譲ってて居場所がない(出戻り小姑化・爆)

てことで薩摩・島津家を頼った。
(※大友の傀儡がイヤで飛び出してるから縁戚の大友を頼れない( ̄ω ̄A;アセアセ)

阿蘇(菊池から出戻り)惟長は、実に身勝手な兄だった。

自分の都合で家督を弟・惟豊に譲ったのに、今度は阿蘇の家督を取り戻そうと目論んだのだ。
(黒いんだが、どうにも小物臭がする,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)

1513年(永正10年)~阿蘇(菊池出戻り)惟長が、島津の援助で矢部を攻撃~
惟長は、弟・惟豊を o( ̄Д ̄θ★ケリッ!すると、己の嫡男・惟前を大宮司に据えて、自分が実権を握った。
敗れた弟・阿蘇惟豊は日向へ亡命した。

なんていうか・・・日向は高千穂とか秘境チックなとこあるから隠れやすいんだろうなぁ^^;

一方、高千穂の三田井氏の客将として、着実に力を付けていたのが菊池の庶流・甲斐氏です。

リアル・インディジョーンズごっこが出来そうな高千穂の未開地を開拓するうちに、
甲斐氏は統制のとれた組織を作り上げる術を身に着けていた。

甲斐氏は亡命した阿蘇惟豊を保護し、彼を支援することによって自らも肥後の地に戻ることを考えた。

時の甲斐氏当主が甲斐親宣(かい ちかのぶ)・・・肥後の人気武将・甲斐宗運の父です^-^

1517年(永正14年)~阿蘇惟豊が甲斐親宣の支援でリベンジ!
出戻り惟長と息子・惟前は八代へと亡命する。

出戻り惟長は、そのまま復活することなく、1537年58歳で(色んな意味で)残念な生涯を終える。

ちなみに1537年は豊臣秀吉が産まれた年です・・・てことは申年になるのか?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

復活した阿蘇惟豊は、身勝手な兄に協力した者たちを容赦なく処罰し、甲斐親宣を中心とした体制・組織作りを固める。

甲斐親宣に対する譜代家臣以上の厚遇に、阿蘇家臣の中で一時は不満・嫉妬もあったのだが、
甲斐親宣の功績が群を抜いているのは否定できず、
また甲斐親宣の優れた人品骨柄を知ると、やがて周囲は自然と納得した。


とまぁ、人騒がせな阿蘇家の内輪揉めは一応の治まりを迎えたのだが、
阿蘇氏が引っ掻き回したせいで菊池家が治まらない(_´Д`)アイーン

惟長が「実家に帰る!べ、べつに追い出された訳じゃないからね!」の後、空位になった菊池家当主。

菊池家臣たちは、一族から新当主を迎えて大過なく終わろうとしたが、
なんていうか、一回揉めて庶流から当主を迎えたりと「負のスパイラル」に陥ると、
「誰が当主になっても不満が出る」んです。

そこへ介入するのが大友当主!

大友義長は1518年に亡くなり、大友義鑑(宗麟ダディ)が数え17歳で家督を継いだ。

まだ若すぎるってことで祖父の補佐を受けていたのだが、その義鑑が積極的な領土拡大策をとった。

1520年~菊池家臣団の不満に付けこみ、大友義鑑が弟・義武を菊池当主にと送りこむ。

さぁこれで治まるなら肥後は「難治の国化」になったりしない。

さらに揉めて、その渦中に相良家も巻き込まれるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【阿蘇氏~筆頭家老甲斐氏】相良氏、戦国名君編2

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さて、江戸期人吉(ひとよし)藩2万2千石~鎌倉以来の名門として続いたのに、
相良家は知名度が低い( ̄ω ̄A;アセアセ

現在の人吉市でもプッシュしてるんだけどなぁ^^;

さらに肥後(熊本県)の戦国時代は国人領主が乱立していて、何が何だかヨクワカランという人が多い。

肥後で抜群の知名度は、細川家(DV被害者?ガラシャと元首相効果もあり)加藤家(清正公の人気はガチ)で、
それ以外~~~となるとかろうじて出てくるのは甲斐氏と相良氏。

とはいえ人気も知名度も相良氏は食われていて、
「前後は知らないけれど、相良は(甲斐家と絡む部分だけ)知ってるよ」といった具合だ。
(相良ファン様ゴメンなさいm(_ _)m)

相良氏で知名度があるのは18代目当主・相良義陽。

相良編のもう一人の主役・頼房(義陽の息子)にいたっては知名度皆無だろうなぁ( ̄ω ̄A;アセアセ

甲斐家の主君である阿蘇氏の(武家としての)末路もイマイチ知られてはいない。

てことで相良氏と肥後を語るには、まず甲斐氏の話から入るのが初心者の窓口としては入りやすいだろう。

なぜなら肥後が「国人領主の乱立する難治の国」になった大きな原因が、甲斐家の主家・阿蘇家にあるからだ。



甲斐氏~~余り知られてないのだが、実は肥後の守護職・菊池氏の庶流にあたる。

遡ること鎌倉時代~叔父(甲斐氏の祖)と甥(菊池家当主)が当主の座を巡って争った。

争いは鎌倉幕府の評定所でケリがつき、普通に叔父(甲斐氏の祖)が敗訴。

戦にはならなかった代わりに、敗訴した叔父がキレて甥を殺し自分も自害して果てる。

叔父(甲斐氏の祖)には男子がいたが、こんな騒ぎの後なので菊池家に居ることが出来なくなって甲斐国に隠れ棲んだ。

騒ぎを起こした叔父の孫の代になって鎌倉幕府が滅亡する。

孫は足利尊氏に従い九州へ下向~~~そこで菊池姓を名乗らず、生まれ育った土地「甲斐国」を姓として名乗った。

遠慮っていうより、菊池の家督ゲッツまでの仮称のつもりだったかも^^;



南北朝の騒乱の中で、甲斐氏は豊後の大友氏の支援を受けて菊池氏と戦をするが、リベンジならず敗れるil||li _| ̄|○ il||l

逃げた甲斐氏は日向(宮崎県)の土持(つちもち)氏を頼る。

土持の知名度も現代じゃオタくらいしか知らないが、
往年は日向の覇権を巡り伊東と激突してたた神社系武家です^-^

でもって甲斐氏は土持氏のツテで高千穂へ移住し、三田井氏の客分となった。

三田井は、後に高橋元種に滅ぼされる高千穂神社嫡流武家。

んで、三田井氏は高千穂の未開地を甲斐氏に開拓させたんです。






・・・・・・・・( ̄∀ ̄*)・・・・・・「高千穂の“未開地”の開拓・・・・」








ウィキペディアより拝借~秘境ちっくな高千穂峡

重機無いから人力+馬・・・土木灌漑技術も未発達・・・過労で死人が出ても不思議じゃないハードワーク。

大変だっただろうなぁ。。 (゜-Å) ホロリ 

あ、でも開拓ってやり方は三田井氏の好意だと思う。

山岳地帯の高千穂では有効活用(田畑)できる土地が限られてるから、
他郷から来た新参者に領地を割くのは難しいでしょ?

おそらく開拓した部分を甲斐氏の封土として与えたんじゃないかな?



甲斐氏と日向・三田井氏の関わりは、これがスタート。

だから高千穂周辺には今でも甲斐姓の人が多いそうです。

後に三田井氏は甲斐氏の主君である阿蘇氏の配下になり、
甲斐氏から家老として宗摂(甲斐宗運の庶子)が送りこまれる。

肥後の甲斐氏が滅んだ後は、宗摂も三田井の殿さまと祭りの生贄のことで不仲になって、
三田井を裏切り高橋元種に内通するけど、
結局は裏切り者として高橋元種に殺され甲斐氏庶流も断絶する。

国人好きのシオとしては、伊東家の豊後落ちの世話したりと、
何となく面倒見が良い三田井さんが好きなので、この最期は寂しい 。。ショボーン..._φ(・ω・` )


さて、日向で着々と力を付けた甲斐氏が、
愛しの主家・阿蘇氏と運命の出会いをするのは、甲斐親宣(宗運の父)の代なのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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【魔女】マダム奈多WHY?【イザベル】秋月種実「序」の巻3

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奥方の名前は伝わってなくて、奈多氏から嫁いだので「奈多夫人」と呼ばれています。

生年月日も不明ですが、夫・大友義鎮(おおともよししげ=宗麟)より何歳か年上だったそうです。

夫人の父は奈多八幡社の大宮司で大友家の寺社奉行でしたが神官というより、したたかな戦国武将でした。

夫人の兄は大友家親族の中で最大の勢力である田原氏の分家当主(養子となって継いだ)です。

御家騒動「二階崩れの変」で家督を継いだばかりの義鎮は、夫人の実家の力を必要としたんです。

「大友記」より抜粋・意訳

大友宗麟(出家後の名前)の側室は7人おり、京から遊芸者を呼んでの乱痴気騒ぎを繰り返し、
美女と聞けば身分を問わず召し出して女出入り遊びの激しさは目に余るものだった。

嫉妬した夫人は、国中の山伏に夫の浮気を辞めさせるため呪詛を依頼する。

呪いに怯えた宗麟は突然、家出をして行方不明になり、
数日後、城下町の外れで一人悄然と佇む宗麟を家臣が発見した。

宗麟は「夫人が恐いから大友館に戻りたくない」と言い、丹生島城へ引き篭もった。


「大友記」は江戸時代に書かれた書物で、既に滅んでいる大友家の事を書きたい放題。

宗麟(そうりん=義鎮)や夫人の私生活をスキャンダルに書いており、信憑性は極めて怪しい。

宗麟遊興説は同時代の一次、一級資料には存在しておらず、この「大友記」からの引用が多い。

(ただし戦国の名門らしく書画・茶器などを集めているので趣味人なのは事実)

義鎮の子供の生母は正室である奈多夫人が殆んどで、女遊びが本当なら庶子が複数いるはずです。

1558年に長男・1561年に次男・1567年に3男を出産、合間に娘を4人と合計7人の子供を設けている。

この出産ペースだと夫妻は結構、ラブラブだったと思います。

夫婦仲が怪しくなるのは義鎮がキリシタンにハマリ出してからでしょう。

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初め宗麟は禅宗に凝ってて、1562年に剃髪・法体姿になって義鎮から宗麟になった。

禅宗に夢中な頃は「アニメ一休さん」みたいに、突然「そもさん(問い側)・せっぱ(返答する側)」とやって、
家臣を時々困らせてたんだけど、まぁ実害は無かった^^;;(ただし、これもウワサで真偽不明)

もともと英雄・英邁な資質がある宗麟だから、基本が凝り性で徹底するタイプなんだろうなぁ。

一方の夫人は奈多八幡社の大宮司の家柄出身、ガチガチの神道で仏教に対しても敬虔な女性です。

そんな夫人にはキリシタンの教義は生理的にダメだった^^;

1575年(天正3)11月~次男がキリシタンの洗礼を受けてしまう ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

日頃粗暴だった次男を心配した宗麟が宣教師を紹介し、説法に感激した次男が受洗したんです。

領主の次男がキリシタンになったことで、武士階級へのキリシタンの布教は一気に拡大しました。

夫人は衝撃を受けたのでしょう。その後の行動が反応過激になって行きます。

1577年(天正5)4月~兄の養子で娘の婚約者だった若者が、キリシタンへの入信を希望します。

兄というのは冒頭で紹介した田原分家当主です。奈多家の出身なので当然、大のキリシタン嫌い。

キリシタンにならなければ、青年には「親族当主の座」と「主君の娘との結婚」という輝かしい未来が待っていたのです

夫人と夫人の兄が、どれほど言っても青年の信仰心は変えられませんでした。

兄は怒って養子縁組を解除し青年を廃嫡、怒った奈多夫人も娘との婚約を破棄させました。

夫人の怒りを更に加速させたのは、次男が青年を庇ったことです。

怒りのあまり興奮した夫人は、次男と「親子の縁を切る」と宣言し、次男との面談を拒否した。

怒りが納まらない夫人兄はキリシタンへの弾圧を始め、義鎮と夫人との仲も急激に悪化しました。



さらに「エステバン事件」が起きる。

時期がハッキリ調べきれなかったのだけど、宗麟が長男に家督を譲ってからだから1574年(天正2)以降・・・
兄の養子廃嫡騒ぎや次男の洗礼の前後になると思います。

とにかく夫人は久我家(公家・家格は中納言)に嫁いだ娘に有り難い護符を渡そうと、
エステバンという洗礼名の少年に使いを命じた。

ところが少年は異教の護符に触れるのを嫌がり、夫人の使いを拒否。

怒った夫人が少年に棄教を迫るが、少年は当然、拒否。

激高した夫人は長男(義統)に「エステバンを殺せ」と命じたが、宗麟の取成しで少年は処罰を免れた。

宣教師たちは奈多夫人のことを、
「怒れる牝獅子(確かに怒ってばかりいる・汗)」「イザベル(預言者エリアを追放した異教徒の女性)」
と呼んで迫害者として彼女を憎んだ。

奈多夫人が心労のあまり病に倒れると「天罰下ったぁ♪ヽ(*´∀`)ノ」と報告書に書くほど嫌っていた。

人の不幸を喜ぶ宣教師ってエキセントリック・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

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奈多夫人の夫・大友宗麟

夫人は夫を愛していたんじゃないだろうか。

戦国時代の大名の妻は実家から派遣される外交官で、実家の利権を守る勤めがある。

通常であれば、宗麟がキリシタンにハマり夫婦仲に齟齬が生じれば、実家である奈多家(神社系武家)が危険になる。

だが宗麟の不思議ちゃんなところは、キリシタンに夢中で夫人とも絶望的な不仲なのに、奈多夫人の兄(奈多神社大宮司)を重用し続けた事だ。

奈多兄がキリシタンを迫害した事にも目を瞑って、家中から非難されるほど情実人事し続けた。
(それには諸事情があるのだが、ここでは文字制限の都合で割愛)

実家は安泰なのだから、夫人は夫が宗教にハマっても「知らんふりして仮面夫婦」することだって出来たはずです。

だが(おそらく)意思の強かった夫人は、妥協せずにキリシタンから夫と子供を取り戻すために戦う道を選んだように思う。

1578年(天正6)7月~遂に夫が受洗し「ドン・フランシスコ」になってしまう・゜・(PД`q。)・゜・

カトリックは離婚が出来ない上に一夫一婦制。

静かに祈りに専念したい宗麟は、家臣の反対を押し切り奈多夫人を受洗前に強制離婚。

洗礼名がジュリアという40過ぎの未亡人と再婚する。

ジュリアは家事が得意な穏やかな女性で、魂の安らぎが欲しい宗麟には理想的なパートナーだった。

だが不味いことにジュリアは次男の妻の生母・・・つまるところ縁戚 ( ̄ω ̄A;アセアセ

もっと不味いことにジュリアは奈多夫人に長年仕えた侍女頭だった ( ̄ω ̄A;アセアセ

縁戚として秘書として、信頼して召し使い、毎日接してきた女性に夫を奪われたのだ。

夫人の精神(こころ)とプライドはズタズタに引き裂かれた ・゜・(PД`q。)・゜・

脳乱した夫人は長男に「ジュリアが妊娠したら母子共々殺せ!」命じたというが、これもウワサで定かではない。

絶望した夫人は自殺しようとするが、娘や親戚が常に見張っていたので実行することが出来なかった。

1580年(天正8)には、三男と毛利秀包に嫁いだ娘が洗礼を受けるショボーン..._φ(・ω・` )

( ̄ko ̄)<毛利秀包がキリシタンなんでつ~娘夫婦は仲睦まじいラブラブカップルだったでつ

時期は調べられなかったけど長女も洗礼を受けています。

夫人は孤独だったでしょう・・・家族の中で彼女の味方は長男・義統だけでした。

お蔭で長男の人格形成に問題が・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

宗麟の洗礼の直後、「耳川の戦い」で大友が島津に大敗北して以来、大友は衰微していった。

衰退が加速したのは、長男の統治能力が父・宗麟に遠く及ばないことにも起因するのだが、
夫人は神社仏閣を破壊した仏罰だと思っていたでしょう。

夫人の実家、奈多氏は寺社奉行の地位を利用して利権を独占したり、
訴状で自分に有利な裁定を下したりして、大友家衰退の原因の一つになっている。

ですが奈多夫人は、それらを理解する資質、又は政治力には欠けていたかもしれません。

むしろ実家と兄が特別扱いなのは当然、と思ってたかもです( ̄ω ̄A;アセアセ
(そう夫人が思って無理ないほど、宗麟には様々な理由で奈多一族の力が必要だった)

1586年(天正14)年ころになると、キリシタンの侍女に「安息日は働かなくても良いわ」と言い、
ロザリオを忘れた侍女に教会まで届けさせたりと、態度が軟化してます。

これは新たに宣教師が赴任して、夫や息子に影響を与えた今までのエキセントリックな宣教師が去ったのもあると思います。

ですが夫人は、自分から夫と子供を奪ったキリシタンの洗礼を、最期まで拒み受洗する事はありませんでした。

翌天正15年2月15日、夫人は臼杵で夫に先立つこと数ヶ月前に病没します。


大友宗麟の暴君説が後世の粉飾ならば、
奈多夫人の悪妻・悪女説も後世の創作の可能性が高い。

宗麟の胸中には「理想の国家」があったけど、その夢を共有できるのは彼と同じキリシタンだけです。

雷神・忠義の家臣と讃えられる道雪はキリシタンでは無く、仏教観や思想は平均的な日本人。

だから道雪が宗麟の理想を何処まで理解し、許容していたかは不明です。

宗麟がキリシタンに傾倒すればするほど、大友の屋台骨に軋轢が生じるのだが、
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テーマ : 歴史
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【大友宗麟】夢追う人【ドン・フランシスコ】秋月種実「序」の巻2

さて知名度が低い主役・秋月種実(あきづき たねざね)を語る前に、
大友義鎮(おおとも よししげ)の事から入りたいと思います。

なぜなら、秋月種実の運命を大きく左右した人物だからです。


大友義鎮~豊後(現・大分県)の名門、大友氏の21代目当主~彼はは1530年・享禄3に産まれます。

ちなみに「三本の矢」で有名な毛利元就の次男と同い年です^^

義鎮は生来の病弱で実父から疎まれました。

父の愛情は弟(3男)に注がれたのです。

後年の大友義鎮の複雑な性格は、父との関係が原因と思われます。

父が溺愛するので、大友の家臣たちも義鎮派と弟派に割れてしまいました。

さらに不味いことに、父が嫡男の義鎮を廃嫡し、弟を後継者にしようと積極的だったのです。

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1550年・天文19年の2月10日~義鎮が21歳の時に事件は起きました。

父と弟派の家臣が、義鎮と彼を支持する家臣を排除し、弟を後継者にしようと動き出します。

父は体の弱い義鎮に「良い温泉があるから」と湯治を進め遠ざけ、事を進めようとしたのですが、
事前に察知した義鎮派の家臣に討たれてしまうのです。

これが大友家の「二階崩れの変」です。

二階が壊れたんじゃないです^^;

館の二階にいるところを襲われたの^^;;

弟は殺され、父も瀕死の重傷を負いました。

雷神・道雪は義鎮派でしたが、この襲撃には参加していません。

従来の説では、襲撃は一部過激派の暴走と言われていましたが、近年では息子の義鎮の指示ではないかとも言われています。

期待・寵愛の3男が殺され、自分もダメっぽいとなっては父も諦めるしかありません。

改めて嫡男の義鎮への相続を遺言し、二日後の2月12日に亡くなりました。

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大友家紋


大友氏21代目当主・大友義鎮の誕生です。
同年の3月に弟派だった家臣、入田親誠が殺されました。

彼は変事の後、阿蘇氏を頼り逃げていたのですが、阿蘇氏は大友家への臣従の証として入田を殺したんです。

更に殺された入田は「二階崩れの変」での襲撃犯の濡れ衣を着せられ、事件は処理されました。

これで治まるかと思いきや、同年5月に義鎮の叔父・菊池義武(きくち よしたけ)が謀叛を起こします。

菊池は亡き父の弟ですが、大友が肥後(現・熊本県)へ勢力を拡大するための布石として、
肥後の名門・菊池氏の養子となって家督を継いでいました。

ぶっちゃけ家督を乗っ取っテ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

叔父の菊池は内心それが不満で、大友の家督に未練があったのです。

「二階崩れの変」の直後で義鎮の支配体制が固まってないのをチャンスとし、蜂起したのでした。

菊池の謀叛に佐伯氏(大友家臣の他姓衆)・八代の相良氏が同調したため、鎮圧には3ヶ月要しました。

同年8月22日~道雪の活躍で敗れた叔父の菊池義武は八代の相良氏の元へ亡命します。



まさに嵐の船出と云うか、大友義鎮の生涯は家臣の離反・謀叛との戦いでした。

大友義鎮は「二階崩れの変」の後、それまでの正室(一色家)と離縁し再婚しました。

再婚した時期には諸説ありますが、シオは義鎮が家督相続をした年の天文19年説を採用したいと思います^-^

再婚相手の妻は実はバツ一で子持ちでしたが、義鎮は承知で強く結婚を要望します。

勿論、その相手の女性に惚れた腫れたでは無い。

義鎮の支配体制を固めるために、彼女の実家と縁戚の力が欲しかったからです。

その相手とは奈多氏・・奈多八幡神社の大宮司の娘です。

奈多夫人と呼ばれた彼女は、宣教師たちから魔女と罵られ、
後世からも悪女、悪妻として高名な女性で、夫の義鎮とは後に絶望的な不仲になるのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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人斬り兵部(趣味全開)

「では、福島家では何としても、伊奈図書の首を要求しているのですな」

そう念を押す井伊直政の容貌は、壮年となっても秀麗だった少年の頃の面影が残っている。

彼の主君、徳川家康は「うむ・・・」と、眉間にシワを寄せ、本当に困った表情をした。

「大事の前の小事。今かの者にへそを曲げられて国元へ兵を帰られては、
これまで積み上げたことが台無しになります。後はワシにお任せ下さい」

「うむ・・・」再び家康は同じ言葉を繰り返すと、敢えて多くは言わず有能なお気に入りの家臣に全てを委ねた。



「なに?井伊殿がお見えだと?書院へ御通ししろ」

伊奈図書(いな ずしょ・図書は官位名)は家臣の言葉に、澱みなく指示を出したものの、
内心(はて、何事であろう)と不審に思った。

慶長5年・・・上杉征伐のために会津へと向かう途上で、佐和山で隠居していた石田三成が大坂で挙兵した。

そのため急遽、兵を上方へ向かわせることになり、その準備で何処もテンテコ舞いだった。

官僚系家臣である伊奈も、関所の警備や駐屯する兵の宿の手配に物資運搬と、目の回るような忙しさだが、
武官であり徳川軍団・四天王の一人である井伊直政の忙しさは、伊奈以上のはずである。

書院へ入ると井伊は戦が目の前というのに、裃の正装で上座に座っていた。

「役目によって、こちらへ座るのをお許し願いたい」
穏やかな井伊の表情だが「役目」という言葉に伊奈に緊張が走った。

伊奈が下座し一礼すると、井伊は仔細を語った。

ことの起こりは福島家・家臣佐久間某が、伊奈の警備する関所を通過しようとし、揉めたことから始まった。

福島正則は家康から「伏見城警備」を託され、そのために伏見城へ使者として家臣を派遣したのだが、
どういう手違いか、福島正則が警備を託されたことが末端にまで伝達されていなかった。

メンドクサイ・融通の利かないことで定評のある三河武士(つまり伊奈の部下)が、関所通過を許可しなかったのだ。

徳川家康は「相手を喜ばせるためだけの口約束」を時に用いる場合があり、
福島正則へ「伏見城警備」を頼んだのもソレだったらしい。

だが直情径行の福島正則は本気で警備すべくハッスルし、家臣を派遣してしまったのである。

伊奈の部下に関所の通行を阻まれ面目を失った福島正則の家臣は、
主君へ用向きが不首尾に終わった事を報告すると自害してしまった。

これに激怒したのが福島正則である。

酒の上での失敗が多い彼だが、家臣を何よりも大事にすることでは余人に抜きんでており、
「ワシの家臣・佐久間の無念を晴らすために、馬鹿な部下を制御できなかった伊奈の首を寄越せ!!」
と、徳川家にクレームを捻じ込んだ。

「・・・そのことなれば、関所を直接担当していた家臣の首を送ることで決着したのでは?」

伊奈は脇の下に汗をビッショリと掻いていた。

気の毒だが家臣に責を負わせることでケリがついたと思い、
伊奈は福島家とのイザコザなど忙しさに紛れて既に忘れかけていたのだ。

「本来であれば、それで事が済むのだが、何しろ相手は福島家だ。」井伊は穏やかに話を続けた。

「主君が主君なら家臣も家臣。佐久間某とやらは自害するとき、よりにもよって指腹をしたのじゃ」

「さ・・・指腹!!」伊奈は事の重大さに愕然とした。

指腹(刺腹かも・汗)とは、ケンカなどで自害する時に意趣のある相手を指名してから切腹することで、
指名されたら、相手も言い逃れは許されず自害しなければならない。

指名された本人が拒絶しても、主君が主命でもって自害させて、相手方とのトラブルを回避するのである。

自分も自害する代わりに遺恨のある相手も殺すことが出来るという「究極の復讐方法」だった。

「で・・では彼奴が指名した相手というのは・・・ワシを・・ワシの・・・」
伊奈の最後の言葉は悲鳴に近かった。

「殿は何も仰せにはならぬ。だが役目の者が訪れた・・と、なれば察するのが奉公というものでござる」
井伊の穏やかな声音が、伊奈には地獄の番人のように冷たく聞こえた。

「お断り致す!!こんな理不尽が・・・ワシも先に切腹したワシの部下も、己が職分を守っただけでござる!!」

伊奈は興奮して声を荒げ「納得できぬ!理不尽!」と叫び続けた。

伊奈の醜態を黙って眺めていた井伊が口を開いたが、それは声を発してはおらず、口をパクパクと動かすのみだった。

井伊の不思議な行動に気づくと、伊奈も大人しくなったが先ほどまで喚いていたのでハァハァと肩で息をしている。

さらに井伊は俯きながら「・・・・・」ボソボソ・・・と呟いた。

「??・・・井伊殿?」我に返った伊奈は、井伊の様子に思わず腰を浮かせて近寄った。



ほんの一瞬の出来事だった。

井伊は伊奈から、彼の脇差を奪い取ると、後ろに回り込み伊奈の腹を、その脇差で刺した。

「ひ・・兵部(井伊の官位名)殿・・」「役目だと申しておる」井伊は何処までも穏やかな声音だ。

戦場で鍛えた井伊に後ろから羽交い絞めにされ、文官である伊奈は完全に抑え込まれていた。

(・・・人斬り兵部・・・)伊奈は途絶えがちな息の下で、井伊の部下が上司の余りの厳しさに付けた仇名を思い出した。



「伊奈・・騒がずに良く聞け。」井伊が伊奈の耳元で囁いた。

「脇差は急所を正確に刺した。臓腑に達しておるので血の色も真っ赤ではない。臓腑から出る黒い血だ。
故にそなたは間もなく死ぬ。良く考えろ。何か言い置くことは無いか?」

意識が遠のきかけていた伊奈だったが、井伊の言葉に正気を取り戻した。

次の間には井伊の家臣と伊奈の家臣が控えている。

おそらく書院の中での伊奈の怒鳴り声に耳を澄ませていただろう。

「い・・・井伊殿・・・伊奈の家督が・・・家督を・・・どうか・・」

井伊に抑え込まれて腹を刺された・・・この見苦しい有り様では、伊奈家が取り潰されてしまうかもしれない。

死を目前にした伊奈の言葉は悲痛な響きを伴った。

「案ずるな。殿には、そなたが立派に自害したと報告する。伊奈の家督は、そなたの本家が良きように計らう。安堵せよ」
「です・・が・・・こ・・の・・体たらく・・では・・・」
伊奈は虫の息一歩手前で、気力だけで持っている状態だ。

「大丈夫だ」井伊は、そういうと伊奈の右手を手に取り、彼の腹にある脇差の柄を握らせた。

伊奈が自ら自害したように偽装しようとしているのだ。

「か・・・た・・じけ・・ない」伊奈は、そういうと残る力を振り絞り、脇差の柄をぐっと握った。

伊奈が己が力で握るのを見ると、井伊はその伊奈の拳ごと更に奥深く脇差を刺した。

最初の井伊の一刺しは、伊奈に覚悟を促すために、わざと急所の手前で止めていたのだ。

最後の一突きで伊奈は絶命し、力なく膝から崩れ落ちた。

伊奈の残る左手も脇差に充てて、その身体を伏せると、まるで伊奈自身が切腹したかのようにしか見えなかった。

戦場で死線を潜るうちに、身に着いた技であろうか。

伊奈から離れた井伊の身体は、髪一本・息一つ乱れていないだけでなく、返り血一つ浴びてはいなかった。



井伊は次の間に控えている家臣を呼ぶと、後始末を託した。

家臣たちは伊奈の首を落とすと、手際良く用意していた首桶に入れた。

「それを持って福島家にお届けしろ。」

井伊が主君の元へ報告に戻ると、家康は疲れをほぐすため、夕餉の後すぐに寝所に下がっていた。

「全て片付きましてござる」井伊はそれだけを言った。

伊奈家の後のことは、家康が判断する。井伊の進言は無用だろう。

「あむ・・・御苦労。そちも休め。」寝所の奥の家康も声に安堵があった。

井伊は主君の言葉に満足すると同時に、このような騒ぎを起こす福島正則に対する不満が渦巻いた。

(伊奈一族は、譜代で良き文官ぞろいの一族だけでない)
(伊奈図書の家は4代に渡って当主が徳川の為に戦い戦死(姉川や小牧など)している良き家であった・・・)
(それをむざむざ福島ずれのために失ってしまった・・・このことは忘れぬぞ)
(石田と噛ませ合うために、福島は必要だ・・だがその後は・・・。)

福島正則の事は、また話し合うことになるだろう。

夜空に星が流れているのを一瞥すると、井伊は自分の陣所へと静かに下がった。

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趣味全開で短編小説風~
戦国にスイーツは無用!このくらいシビアで男臭い時代劇を観たいですね~~~(*´艸`)

秋月種実_1【プロローグ】

日本最大の氏族が「千葉氏」なら、九州最大の氏族が「大蔵氏」だ。
大蔵氏

始祖は後漢の霊帝って吹いてるが、まぁ常識で考えて渡来系帰化人の末裔。
つまり平安時代とか、その前くらいからいるんじゃね?って感じの古い氏族。

共通する通字は「種」~名前に必ず種の一文字を入れるのが大蔵系こだわりのテイスト。
だから他家から家督を継いで入った人も、改名して「種」有りの諱にします。

大蔵系3大氏族~大蔵氏から派生した一族は九州最大だけに多くて、全部は調べきれてません。
とりあえず秋月編に関連あるのが「3大氏族」と呼ばれる3つの一族です。


嫡流・原田氏家紋イメージ
嫡流・原田氏

秋月種実の頃~当主は隆種(隆は大内義隆より)~大友軍に攻められ死亡。

孫・信種(妻は肥前の熊の養女)~父が既に亡くなってたので、孫が家督を継いで竜造寺家配下になる。

「沖田畷の戦い」に出兵した武将の中にも、原田姓種有り名前の者がいます(詳しい血縁関係までは辿れず)

秀吉の九州征伐の時、遅参したということで改易(所領の過少申告ともあるが詳細は不明)

領地から引き離され、肥後で加藤清正の与力となるも、清正と合わなかったらしく出奔。

九州から、はるばる東北の会津氏に仕え、会津藩士として家名が残る。

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高橋氏(秋月編当時)~高橋氏は大友氏の他姓衆でした。

血統が絶えたので、大友宗麟の意向で家臣が名跡を継ぎます。

【一万田系】高橋(一万田)鑑種(いちまんた あきたね)

同紋衆一万田氏当主の弟~大友氏に離反し謀叛を起こすが、毛利の後ろ盾を失くし降伏。

一万田本家の助命嘆願を受けて、大友が豊前小倉へ追放後に病死する。

★逸話★

豊前小倉にいた縁で小倉城下の安全寺には彼の位牌があったそうなんです。

関が原の後に細川忠興が豊前に入り、小倉城の城下町の整備で安全寺も廃寺となった。

そうしたら細川忠興の夢枕に一万田鑑種が現れ訴えた。

「ワシの位牌がある寺を壊すなんて ヒドイ・ヒドイワ・゜・(PД`q。)・゜・」

忠興が調べてみると、確かに位牌を発見。

彼は安全寺を建て直し、位牌を元に戻したら亡霊も出なくなったそうな。

ちなみに鑑種の息子は、豊前小倉(忠興の後)の小笠原家に仕えてます^^

【吉弘系】高橋(吉弘)鎮種(よしひろ しげたね) 早い話が岩屋城の紹運。

一万田の鑑種さんが謀叛起こしたので、宗麟が高橋の家督を剥奪し、吉弘家(大友支族)の次男だった紹運が高橋の家督を継ぐ(詳細は立花編・秋月編で)

【高橋(秋月)元種~秋月種実の次男】

家督を剥奪された鑑種が、リベンジのために同じ大蔵系一族である秋月と同盟し養子をとった。

ただ当時、元種は9歳なんで父の秋月の手許にいたらしく、
鑑種には実子が3人(全員他家に仕えた)いたこともあり、実際は養子に入ってないのでは?という説もある。

つまりは同盟を組んで鑑種が病死のドサクサに乗っ取った?説です。

元種は、種実の息子だけあって有能~高千穂系三田井氏を滅ぼして領地を手に入れてる。

彼には種実の弟説があり、年齢にも諸説あるし、相良氏の嫁いだ竜子は元種の娘説(種実養女)説あり。

元種が最初に結婚したのは、大友氏分家筆頭田原氏出身の妻で、彼女との子供が残る。

妻と死別し再婚したのが、宇喜多秀家の従兄・宇喜多詮家の妹です。

ただ詮家の妹は存在がはっきりしない。

宣教師の記録(詮家はキリシタン)では、詮家には娘がいたそうなので、
元種が再婚したのは妹ではなく娘の可能性も有り。

さらに元種本人もキリシタンだった異説有り。

九州征伐・関が原と生き残る元種だが、宇喜多詮家と関わりがあったため巻き添えで改易。

子供が二本松藩士と薩摩藩士で残る。

大蔵系3大氏族~原田/高橋/で、残る一つが秋月氏で次編の主役(=^・ω・^=)v ブイ
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秋月氏~本城は古処山城。

秋月文種~大友氏に滅ぼされるパパン。

秋月種実~「めげない・諦めない・負けない」の根性と執念の主役~最盛期は36万石。

秋月種長~種実の長男~財部(高鍋)3万石の初代藩主として生き延びる。

竹千代~彦山座主舜有の養子になるけど、その後がわかんないなぁ。

竜子~城井室で波乱万丈な人生~相良頼房と再婚し嫡男を産む。

秋月元種~種実の次男で、県(延岡5万石)上記の高橋(一万田系)を継いだ。

秋月氏の家系図は一部不明~謎が多い一族で、妄想を駆り立てられます (人´∀`).☆.。.:*・

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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