【北肥戦誌・1585年】雷神死す
天正13年(1585)1月、道雪・紹運は高良山で越年すると、龍造寺方の西牟田家親が守る城島の砦を攻める。
家親は援兵を乞うてこれを防ぐと、大友勢は道雪の弟・右衛門大夫以下が討ち死にするなど討ち負け、高良山へ退いて行った。
が、2月に今度は島津方・問註所鑑景の井上城を攻めるべく生葉郡へ打ち入る。
鑑景はこれを聞き、多勢を防ぎ難く思い、城を去って草野鑑員を頼るべく発心岳へ登り共に籠城する。
豊後勢は志賀・朽綱を加えて鑑員を攻めるが、城は落ちず上から下へ追い落とされた。
やむなく道を塞ぎ遠矢を放って四月半に渡り攻囲に徹する。
そして道雪は、城中に居る草野の親類ら9人を寝返らせる事に成功、城に火を点けさせる計略となったが、草野家臣・灰塚三河守がこれを聞きつけ、9人全員を捕えて首を刎ねたため失敗に終わる。
政家・信生は急ぎ草野を援けるべく自ら出陣、柳川の家晴勢を含めた総勢20,000余騎で筑後へ討ち入った。
これに豊後勢はまず草野を差し置いて高良山へ帰陣、敵に先んじて不意を突くべく中途へ進出し、10,000余騎で待ち構える。
隔して4月18日に矢玉で応酬、初戦は高橋紹運の一手を家晴勢が敗走させた。
これに道雪の一手が攻め掛かり、逆に家晴勢は100余人を討たれて二陣に崩れかかる。
更に龍造寺勢の脇備えを担っていた上松浦勢が朽綱勢に負けた為、龍造寺勢は悉く久留米城へ退き、豊後勢は勝利ながらも高良山へ帰陣する。
9月、筑後国山門郡は堀切の地下人が龍造寺に背き、大友勢を引き入れるとすぐさま、豊後勢の平井鎮経は堀切の城へ籠った。
田尻鑑種は、堀切の者から預かっていた人質二人を処した後、鷹尾城を出て地下人誅伐を開始した。
これに豊後勢が堀切勢に加勢、田尻勢にも家晴の柳川勢が加勢すると、家晴は堀切城を押さえ鑑種は豊後勢を追い払った。
その後、家晴と鑑種は三池親基の領地へ入り諸所を放火すると、山下の蒲池家恒が三池の加勢として濱田村へ陣を布く。
これに田尻勢は、領民の振りをして農具に太刀・長刀を包み隠して、古賀の渡しを渡って山下勢に近付いて攻撃、更に鑑種・家晴も加わると、敵は悉く退いて行った。
その後、鑑種・家晴も鷹尾城へ戻った。
この頃、島津勢は合志氏・隈部氏を従えさせ、島津に背く肥後国人はいなくなっていた。
ならば筑後を征すべしと9月下旬、島津家臣の伊集院肥前守・山田越前守らが筑後へ討ち入る。
これに三池親基が従うと、大友方・平井鎮経が籠る堀切城を攻めた。
城兵はこれを防ぎ得ず、平井は江の浦の城へ逃れ中野兵庫助に合流、平井はその後、島津勢に懇望し豊後へ帰国した。
同じく9月、戸次道雪は春から高良山へ在陣し、病にかかったのであるが、いつまでも他国に遠征していられないと、
鍋島信生を引っ張り出し十死一生の戦いをして運を天に任せんと9月中旬、一騎当千の者700名を選び出し瀬高口へ進み出る。
そして柳川城へ戻っていた信生へ使いを出し、
「大友と龍造寺は武威を争わせて長いが、兵革の費えと万民の嘆き、それに過ぎたるものはない。
ならば其方と我の二人で槍を合わせ、雌雄を決して諸人の苦しみを援けようではないか。
すぐさま瀬高口へ出馬あるべし」と伝えさせた。
信生は道雪の心底を推し量っていたが恐れるに足らずと、まず斥候に敵陣を調べさせた上で城を出て井手の橋に着陣する。
家臣は道雪の考えを察して、今回の一戦は延期するよう述べるが、信生は応じなかった。
だが不意に、佐嘉勢の中から倉町信吉と水町信定が大喧嘩を始めた為、前後の備えが混乱し始めた。
信生は今日の一戦は力及ぶまいと城へ引き返した。
道雪は憤激するも、止む無く高良山の本陣へ引き返した。
この喧嘩であるが、倉町と水町が雌雄を止める為に企んだ事であった。
10月20日、道雪は北野の陣中にて没した(高良山の陣から北野へ陣を移動した模様)。
そんな折、いまだ高良山に陣を布いていた高橋紹運であるが、居城の宝満城が秋月種実の謀の為に焼き立てられ、伏兵に攻められた末に紹運の子・統増が下城した。
その煙が高良山から見えたのであるが、これに紹運は驚き、早速士卒を率いて同月23日、筑前へと帰陣した。
これに志賀・朽綱も同日に悉く帰陣する。
紹運が戻った時には既に宝満城は、秋月の一味である筑紫広門の一族・興門が入城しており、紹運は力無く岩屋城へ入った。
大友勢の退去に、龍造寺勢は高良山へ登って凱歌を上げた。そして皆が在所へ戻って行った。
この年、羽柴秀吉は諸国の争いを停止させる。
中でも鎮西の件は、11月上旬に小早川隆景が上洛し秀吉に訴えた為、秀吉は龍造寺・大友・島津の三家へ(既に龍造寺は島津へ人質を出しているのに?)争いを止めるよう申し送った。
三家ともこれに背き難く、其々神文を交わして九州は静謐となった(??)。
そこへ島津側が鎌田政弘を大坂へ差遣し関白へ、
「義久は既に九州の過半を切り取っている為、今に於いては九ヶ国を賜りたく。
然れば高麗・南蛮・唐国まで御成敗の折には、御先を仕り忠節に励む由」と金銀を捧げ言上したが(???)、関白は承諾しなかった。
(『上井覚兼日記』天正14年1月23日の日記では、惣無事令について・・・島津は頼朝以来の名門で、羽柴を関白と仰ぐなど笑止との意見もあり、細川藤孝への附状にて答えるとし、
「先年(天正8年)信長公の才覚を以って大御所様(近衛前久)豊薩和平の為に罷り来られ、これに従ったものの、大友勢が日向及び肥後境を侵した為、防戦を余儀なく致しました。
故に当方には改易されるような非はなく、その旨、御伝え下さい。 1月11日 義久加判 細川兵部入道殿」(以上ざっくり意訳)との書状を鎌田政弘に託して差遣させたと記述されている)
これを聞いた大友宗麟は、我らも上洛して関白を頼み、島津に対し年来の遺恨を晴らすべしと、上下一千余にて船で堺へ上がって大坂へ登城し、正宗の太刀一振・無双の駿馬一疋・虎の皮100枚・その他に和漢の茶の湯の器などを積み並べて、関白に拝褐した。
宗麟は加勢を乞い、筑後国を進上すると府内へ帰城した。
また、立花統虎・高橋紹運を直参として立花・岩屋両城へ入れた。
家親は援兵を乞うてこれを防ぐと、大友勢は道雪の弟・右衛門大夫以下が討ち死にするなど討ち負け、高良山へ退いて行った。
が、2月に今度は島津方・問註所鑑景の井上城を攻めるべく生葉郡へ打ち入る。
鑑景はこれを聞き、多勢を防ぎ難く思い、城を去って草野鑑員を頼るべく発心岳へ登り共に籠城する。
豊後勢は志賀・朽綱を加えて鑑員を攻めるが、城は落ちず上から下へ追い落とされた。
やむなく道を塞ぎ遠矢を放って四月半に渡り攻囲に徹する。
そして道雪は、城中に居る草野の親類ら9人を寝返らせる事に成功、城に火を点けさせる計略となったが、草野家臣・灰塚三河守がこれを聞きつけ、9人全員を捕えて首を刎ねたため失敗に終わる。
政家・信生は急ぎ草野を援けるべく自ら出陣、柳川の家晴勢を含めた総勢20,000余騎で筑後へ討ち入った。
これに豊後勢はまず草野を差し置いて高良山へ帰陣、敵に先んじて不意を突くべく中途へ進出し、10,000余騎で待ち構える。
隔して4月18日に矢玉で応酬、初戦は高橋紹運の一手を家晴勢が敗走させた。
これに道雪の一手が攻め掛かり、逆に家晴勢は100余人を討たれて二陣に崩れかかる。
更に龍造寺勢の脇備えを担っていた上松浦勢が朽綱勢に負けた為、龍造寺勢は悉く久留米城へ退き、豊後勢は勝利ながらも高良山へ帰陣する。
9月、筑後国山門郡は堀切の地下人が龍造寺に背き、大友勢を引き入れるとすぐさま、豊後勢の平井鎮経は堀切の城へ籠った。
田尻鑑種は、堀切の者から預かっていた人質二人を処した後、鷹尾城を出て地下人誅伐を開始した。
これに豊後勢が堀切勢に加勢、田尻勢にも家晴の柳川勢が加勢すると、家晴は堀切城を押さえ鑑種は豊後勢を追い払った。
その後、家晴と鑑種は三池親基の領地へ入り諸所を放火すると、山下の蒲池家恒が三池の加勢として濱田村へ陣を布く。
これに田尻勢は、領民の振りをして農具に太刀・長刀を包み隠して、古賀の渡しを渡って山下勢に近付いて攻撃、更に鑑種・家晴も加わると、敵は悉く退いて行った。
その後、鑑種・家晴も鷹尾城へ戻った。
この頃、島津勢は合志氏・隈部氏を従えさせ、島津に背く肥後国人はいなくなっていた。
ならば筑後を征すべしと9月下旬、島津家臣の伊集院肥前守・山田越前守らが筑後へ討ち入る。
これに三池親基が従うと、大友方・平井鎮経が籠る堀切城を攻めた。
城兵はこれを防ぎ得ず、平井は江の浦の城へ逃れ中野兵庫助に合流、平井はその後、島津勢に懇望し豊後へ帰国した。
同じく9月、戸次道雪は春から高良山へ在陣し、病にかかったのであるが、いつまでも他国に遠征していられないと、
鍋島信生を引っ張り出し十死一生の戦いをして運を天に任せんと9月中旬、一騎当千の者700名を選び出し瀬高口へ進み出る。
そして柳川城へ戻っていた信生へ使いを出し、
「大友と龍造寺は武威を争わせて長いが、兵革の費えと万民の嘆き、それに過ぎたるものはない。
ならば其方と我の二人で槍を合わせ、雌雄を決して諸人の苦しみを援けようではないか。
すぐさま瀬高口へ出馬あるべし」と伝えさせた。
信生は道雪の心底を推し量っていたが恐れるに足らずと、まず斥候に敵陣を調べさせた上で城を出て井手の橋に着陣する。
家臣は道雪の考えを察して、今回の一戦は延期するよう述べるが、信生は応じなかった。
だが不意に、佐嘉勢の中から倉町信吉と水町信定が大喧嘩を始めた為、前後の備えが混乱し始めた。
信生は今日の一戦は力及ぶまいと城へ引き返した。
道雪は憤激するも、止む無く高良山の本陣へ引き返した。
この喧嘩であるが、倉町と水町が雌雄を止める為に企んだ事であった。
10月20日、道雪は北野の陣中にて没した(高良山の陣から北野へ陣を移動した模様)。
そんな折、いまだ高良山に陣を布いていた高橋紹運であるが、居城の宝満城が秋月種実の謀の為に焼き立てられ、伏兵に攻められた末に紹運の子・統増が下城した。
その煙が高良山から見えたのであるが、これに紹運は驚き、早速士卒を率いて同月23日、筑前へと帰陣した。
これに志賀・朽綱も同日に悉く帰陣する。
紹運が戻った時には既に宝満城は、秋月の一味である筑紫広門の一族・興門が入城しており、紹運は力無く岩屋城へ入った。
大友勢の退去に、龍造寺勢は高良山へ登って凱歌を上げた。そして皆が在所へ戻って行った。
この年、羽柴秀吉は諸国の争いを停止させる。
中でも鎮西の件は、11月上旬に小早川隆景が上洛し秀吉に訴えた為、秀吉は龍造寺・大友・島津の三家へ(既に龍造寺は島津へ人質を出しているのに?)争いを止めるよう申し送った。
三家ともこれに背き難く、其々神文を交わして九州は静謐となった(??)。
そこへ島津側が鎌田政弘を大坂へ差遣し関白へ、
「義久は既に九州の過半を切り取っている為、今に於いては九ヶ国を賜りたく。
然れば高麗・南蛮・唐国まで御成敗の折には、御先を仕り忠節に励む由」と金銀を捧げ言上したが(???)、関白は承諾しなかった。
(『上井覚兼日記』天正14年1月23日の日記では、惣無事令について・・・島津は頼朝以来の名門で、羽柴を関白と仰ぐなど笑止との意見もあり、細川藤孝への附状にて答えるとし、
「先年(天正8年)信長公の才覚を以って大御所様(近衛前久)豊薩和平の為に罷り来られ、これに従ったものの、大友勢が日向及び肥後境を侵した為、防戦を余儀なく致しました。
故に当方には改易されるような非はなく、その旨、御伝え下さい。 1月11日 義久加判 細川兵部入道殿」(以上ざっくり意訳)との書状を鎌田政弘に託して差遣させたと記述されている)
これを聞いた大友宗麟は、我らも上洛して関白を頼み、島津に対し年来の遺恨を晴らすべしと、上下一千余にて船で堺へ上がって大坂へ登城し、正宗の太刀一振・無双の駿馬一疋・虎の皮100枚・その他に和漢の茶の湯の器などを積み並べて、関白に拝褐した。
宗麟は加勢を乞い、筑後国を進上すると府内へ帰城した。
また、立花統虎・高橋紹運を直参として立花・岩屋両城へ入れた。
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