龍造寺家兼_23【名将・陶興房の反撃】

1532年、少弐との戦いは不意をつかれた陶興房の敗北となった。

だが陶興房も名将と呼ばれた男。このまま引き下がったりなどしない。

( ̄ko ̄)<戦のキッカケは大友に謀反した筑後・星野親忠~~~
( ̄ko ̄)<鎮圧側~大友の与力が少弐でつ
( ̄ko ̄)<謀反側~星野の援軍が大内義隆よりの派遣・陶興房でつ

1533年(天文2)1月、陶興房は兵を集めると、星野への後詰(援軍)を残し、
大友・少弐と戦うべく筑前から筑後へ侵攻。


三原を過ぎて各地を撹乱し、豊後に帰った大友サイドの城を攻めた。

まず久留米城・安武城が落城。

※補足
この記事は基本【北肥戦誌・1533年】がベースなんですが、
いかんせん肥前の郷土資料なんで、他国の事だと、ちょいちょい違うところがあるんです。
てことで、陶興房の進軍コースは、上記リンク先とは変化しますので、予め御了承下さい^-^

家紋・大内(大内花菱)

さらに陶興房は筑後から筑前へと転身。((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~

同年3月19日、柑子ヶ岳(こうじだけ)城(福岡市西区)を攻略する。
この柑子ヶ岳城なんですが、通説では一応《永禄年間・大友宗麟の命で築城≫となってるんですが、
郷土史家たちの間では「もっと前からあるよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー」と地味に囁かれてる城なんです。

ちなみに柑子ヶ岳城の城督が前回チラ出しした臼杵氏です。
むろん、未だ城督には任命されていません。

後年の話ですが臼杵氏は対大内への外交交渉担当で、
その実績と役割を鑑みれば永禄年間より前に築城してた可能性があります。
(いまのところ決め手になる傍証が出てない(-ω-;)ウーン)

んで、1532年に少弐への援軍として臼杵一族を駐留させています。
この駐留が、臼杵氏が北九州に関わるキッカケになったっぽい。

一定数の兵力を一定期間駐屯するために、
城とまではいかずとも、前身となる砦くらいはあったんじゃないかなぁ~

さてシオが妄想炸裂してる間に、陶さん今後は肥前へ転身~((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~

宗秀恒の鏡山城を落とした。

少弐サイドだった原田五郎は、中国の仁保加賀守とタッグを組んで、
怡土・志摩両郡の兵と上松浦衆を打ち従えて陶に同心。 
m(__)m<お味方の端っこに入れてちょ♪~って佐嘉・神埼に討ち入り、少弐一家退治しようとする。

このとき資元・冬尚親子は多久の梶峯城にあったが、
そこへ馬場氏・横岳氏・姉川氏・龍造寺氏らが協力して、資元親子を城原へと迎えると勢福寺城へ入れた。

江上石見守元種をこの守護とし、中野・西島・千葉・蓮池・崎村・直鳥らの城へ銘々立て籠もって、大内勢を待ち構える。

同年4月3日、陶興房は神埼郡三津村籾岳に陣を布き、少弐勢と戦う。
少弐の味方は、馬場・横岳・宗・出雲・小田・犬塚。

この時は、各々頑張って奮戦し何とか凌いだのだが、
なにせ勢いのある陶軍は兵力が続々増えていってるんです。( ̄ω ̄A;アセアセ

blog_import_5042c7bb98c81.jpeg(少弐氏:次は、もう無理かもしれない・涙目)

同年10月、陶軍は筑紫正門の武蔵城(筑紫氏の支城)を落とす。

この時期の陶軍は肥前・筑後・筑前とメチャクチャ転戦してます。

一応、各城データを元に月日を推定してるんですが、
あまりにも陶軍の動きが激しいので、これでも順番が間違ってるかもです( ̄ω ̄A;アセアセ

同年12月、陶軍が朝日山城(鳥栖市・これも筑紫の支城)を攻略。

鳥栖市を少し北上すると筑紫の居館&本城・勝尾城です!
「ひぃ~もぅ無理ポ」と判断した、筑紫惟門(少弐一門)が陶軍に降伏した。

少弐滅亡カウントダウンだったが、戦は何が起きるか解らないものです。

何と大友軍が大内と雌雄を決すべく北上なぅ!迎え撃つ陶軍~~戦場は肥前から一転して豊前!!

「次回・激突Ⅱ~大内VS大友」それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_22【激突1少弐+大友VS大内・後編】

1532年(享禄5)に入ると、大友・少弐・千葉の3家が合同して、杉興連の大宰府岩屋城を攻める。

ピンチに陥った杉は、大内義隆に援けを求めた。

驚いた義隆は、周防・長門の軍勢を陶興房に率いらせ、筑後国へ派遣する。

名将の誉れ高い陶興房がキタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル~~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ 

3家連合軍は一目散に逃げちゃったので、陶は戦わずして大宰府入りを果たす( ̄ω ̄A;アセアセ

家紋・大内(大内花菱)

陶勢は杉勢と共に少弐勢と多々良浜で激突。

敗色濃厚の少弐勢は撤退すると、立花城へニート引き籠った。

杉興連の子・杉隆連は少弐を追いつつ、博多・筥崎に陣を布いた。

すると、高祖の原田隆種、青山の留守氏、鏡の草野氏ら近隣の多数の武士が悉く杉隆連の陣に馳せ参じた。

大内勢は二手に分かれ、博多を発って那須郡に入ると、粥田庄の秋月をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!打ち通る。

秋月「少弐に味方したわけじゃないのに酷い(´;ω;`)ウッ」

大内勢「中立は敵認定(`・ω・´)キリッ」

この勢いに呑み込まれるかに見えた少弐が、反撃に転じる(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ

少弐勢から、宗・横岳・馬場・出雲・筑紫以下が、陶勢が通るのを待ち伏せし機を見て打ち掛かった。

陶「Σ(´Д`;)!?」

不意を突かれた陶勢は、仁保将監以下600余人が討死。。。。(´;ω;`)ウッ←仁保も好きww

陶ら敗兵は慌てて豊後方面へ退路を取り、童話の里がある玖珠郡にまで至ると、やっと息を継いだ。

家紋・少弐(少弐家紋ロゴ)

同年7月29日、享禄から天文へ改元。

結局、派遣された陶興房は大勢を立て直すことに追われ、
星野への加勢も出来ないまま、無為に一年を過ごすことになる。

少弐が大内勢に勝利したことに満足した大友義鑑は、
豊後に帰ったのだが「少弐への合力の為に」と、臼杵三郎右衛門と真光寺の両将を筑前に残した。

臼杵氏は道雪の戸次家庶流。

つまり大友家支族の一つなんでバリバリ同紋衆(大友の家紋使用を許されたエリート集団)(=^・ω・^=)v ブイ

さらに大友家の大臣にあたる加判衆を務めた家で、当主は豊後三家老の一人。

筑前・柑子岳城の城督(方面軍司令官)を務める家柄です。

戸次道雪が大友義鎮(宗麟)に命じられて筑前入りするより、ずっと前の事で本来の筑前担当は臼杵さん^^

道雪は臼杵救援もあって筑前・立花城に入ったんです^-^

臼杵三郎右衛門が、臼杵一族の誰あたるか諱が判んないので不明^^;

真光寺は寺の名前でもありますが、この場合は人名。

真光寺佐藤刑部丞本人か、その身内だと思います。

真光寺そのものも臼杵市にあり、大友家から所領安堵状が出てます。

真光寺僧は使僧として、大友家の使いを務めることもあったので、
住職の親族が大友家臣だったかもです。

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

この年、少弐資元には三男・胤頼が産まれる。

名将と近隣に恐れられていた陶興房に勝利し、幸先良いスタートの少弐だったが、
当然のごとく陶の反撃が始まる。

この陶興房が、少弐資元の命運を決定するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_21【激突・少弐+大友VS大内~前篇】

田手畷での鮮やかな勝利は、否が応にも龍造寺の武名を高めた。

西(千葉)でもなければ、東(千葉)でもない。

肥前における「第三の勢力」として、龍造寺は台頭したのだった。

家紋・竜造寺(龍造寺家紋ロゴ)

実兄・大友義鑑を嫌う肥後守護職・菊池義国が、筑後で謀反なぅの星野に同心し、
大内義隆に星野への加勢を依頼したのは、1531年春の事だった。

菊池義国が自分で動かなかったのは、まだ肥後における己の地盤が確かではなかったからだろう。

大内義隆は、大宰府駐在の杉興連(すぎ おきかず)を援軍として派兵した。

その頃、少弐資元は肥前・多久にいたのだが、
大内派兵の報告を聞くと大友へ与力する決意をする(`・ω・´)キリッ

資元は3月14日に多久を発って上筑前に入る頃になると、
龍造寺家兼、高木右京大夫、松浦の相知・広瀬らが駆けつけ合流し3,000騎に達した。

軍勢は筑前の岩門に着陣、小田部・重松・曲淵らも加わり兵力増強(=^・ω・^=)v ブイ

閏4月に岩門を発って三笠郡を打ち通り、上筑後の生葉に着陣した。

家紋・少弐(少弐家紋ロゴ)

事態を重く見た大友義鑑も本国・豊後から出陣し、筑後入りをしていた。

北九州の覇権を巡るライバルである大内の動きもさる事ながら、
これ以上、弟が勝手な事をしないように、兄ちゃん自ら牽制しに来たんじゃないだろうか( ̄ω ̄A;アセアセ

少弐資元は大友勢の陣所で義鑑と対面、敵征伐について評定した。

まず管領・細川高国、幕府引付方・大館晴光に、ご注進~緊急報告。

(ちなみに引付方って幕府の裁判担当の奉行のことです^^b)

「星野以下の逆徒追罰」を上意として賜れるよう将軍家に(-人-)☆彡オネガイ~訴えた結果、
めでたく御行書(公式文書)を賜った。

少弐&大友は「将軍が認めたんだぉ~こっちに大義があるぉ~!」
と周辺諸国に喧伝(アピール)した上で星野を攻囲した。

ちなみに少弐と大友が(-人-)☆彡オネガイした管領・細川高国は、
同年6月8日、赤松の裏切りにあい48歳で自害してます( ̄ω ̄A;アセアセ

中央政界はゴタゴタしてますが、先に発行された「御行書」は有効なんで問題なしですな( ゚Д゚)y─┛~~

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

で、この後の星野氏の細かい動向が、ちと解らなくなる( ̄ω ̄A;アセアセ

何せ大友・少弐(腐ってもナントカ)VS大内勢という大物同士の激突に記録の主眼が移っちゃうからです(困っ!

しかも星野には「大友に滅ぼされた説」と「大内に滅ぼされた説」と2パターンあるらしい( ̄ω ̄A;アセアセ

ちなみに、どっちの説も天文年間初期のことで、今現在1531年は享禄4年。

そう・・・星野は、大友勢&少弐勢に囲まれながら、
落城してなかったんです!(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ

当代星野当主は親忠。星野氏歴代当主の中で最も知名度のある、郷土の星!(`・ω・´)キリッ

彼は、よほどの名将だったらしく、大内・少弐・大友の中で揉まれながら、
なおも数年持ち堪え遂には力尽きて落城する。
(天文年間に謀反を起こしたとあるので、いったんは降伏したかもしれない)

星野親忠の最期は自害したとも、城を落ちた後は消息不明ともあり、ハッキリしていない。

大友では名族である星野氏を完全滅亡はさせず、星野一族から当主を選抜し家系を存続させている。

筑後は肥後同様に国人領主がひしめきあう土地なので、
星野を潰しちゃったら後の筑後統治がやりづらくなるからだろう。

家紋・肥前千葉(肥前千葉家紋ロゴ)

さて、星野が粘ったまま年越し明けて1532年(天文元年)

1524年に大内に寝返り、怒った少弐家臣・馬場にo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と肥前を追い出された西千葉胤勝。

彼は大内勢で馳せ参じてたが、田手畷で少弐方が勝利すると、
ちゃっかり少弐の陣営に潜り込み帰参し、元の鞘・・・晴気城に復活してたのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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【星野】謀反コラボレーション【菊池】相良氏、戦国名君編4

星野(*´○`)o¶~~♪3年目の謀反くらい大目に見てよ~
大友(*´○`)o¶~~♪開き直る、その態度が許せないのよ~
懐かしの昭和歌謡パロディ・・・年がバレて・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

1500年代初頭から1530年代に至るまで、大友家は断続的に筑後・星野氏の謀反に悩まされていた。

「謀反⇒鎮圧⇒謀反」の繰り返しが、大友義長・義鑑と親子二代に亘っている。

星野の本城・妙見城は天嶮で難攻不落と言われていたが、よほど地の利に恵まれていたのだろう。

星野氏の(今回の)謀反は3年目に突入していた( ̄ω ̄A;アセアセ

さて、いきなり話は肥後へ飛ぶ(だって相良編だもん(*´pq`)クスッ)

1520年(永正17)、大友義鑑は菊池家臣の不満に付けこみ、実弟・義国を菊池当主に送りこむ事に成功する
(①~⑥までスルー可・爆)
①大友の圧力に従い主君を追い出し
②大友推薦の阿蘇惟長を主君に迎え
③家臣が心服しない(大友の傀儡と軽く見られた)事にムカついた惟長が実家の阿蘇に出戻ると
④菊池の庶流から主君を選び
⑤でも庶流の主君が不満で、やっぱり追い出し
大友義鑑の弟を当主に迎えた・・・と二転三転する菊池家臣ですが、
⑦今度は大友の露骨な御家乗っ取りが不満で堪らなくなった
(菊池家臣団・・・貴方たち満足することってあるんですか?( ̄ー ̄A 汗フキフキ

1523年(大永3)、肥後の反乱ver1発生!(一度は追い出した)菊池家旧主を奉じた国人たちが挙兵した

なにやってんだか、もうグダグダの肥後守護職・菊池家です _| ̄|○ il||li

大友家は直ちに討伐軍を派兵、大友義鑑の叔父にあたる阿蘇惟豊と甲斐親宣(宗運ダディ)も大友側として出陣。

菊池旧主は敗れて肥前に亡命し、その地で没した。

これにより菊池家・一族出身の当主は絶えて、家督は完全に大友家に乗っ取られた。

この肥後の謀反だが、落ち着くまで時日を要したらしい。

1535年、戸次鑑連(後の道雪)が3000騎を率いて残党を鎮圧している(車返しの戦い)
 
ちなみに合志勢が内応してきたんだけど、o( ̄Д ̄θ★ケリッ!と断ってる。

忠義者として人気のベッキーさんは、実は(かなり)国人領主に手厳しいからなぁ(==;)

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

残党はさておき、ほどほど治まったので( ̄ω ̄A;やれやれ~のはずが上手く行かなかった。

大友義鑑(兄)と菊池義国(実弟)が、絶望的な不仲だったからだ。

てことで、ここから「石の上に謀反も三年」の冒頭・星野氏と繋がる。

なんと菊池義国は兄・義鑑を嫌うあまり、謀反側の星野に同心。 オオトモキライ!( °ロ°)乂(°ロ° )ナカーマ!

よりによって大内義隆に星野への加勢を依頼したんです!

大友義鑑: ガチョ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

大内が加勢するなら少弐も黙ってられない出陣なぅ~

筑後国人の謀反が大内・少弐・大友・菊池といった守護職に名を連ねる豪華メンバーを引き寄せる!

これだから国人領主オタが止められない~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ星野カッコいい~

平然と利敵行為を働く実弟・義国と兄・義鑑の不仲は、次世代・宗麟の代にも持ちこされ、
相良氏、戦国名君編・主役の相良晴広にも影響するのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回、竜造寺「承」の巻に戻ります~(^ -)---☆Wink

【北肥戦誌・1589年】

天正17年1月7日、いまだ在京中の鍋島信生が従五位下へ叙され、加賀守に任じられて「直茂」と改名、羽柴豊臣姓も賜った。

同年2月、龍造寺家の老臣・龍造寺家就が浪人する。

これは、昨年に病床の政家が出馬するのを止めた事が関白に気に障った為で、家就は小城の岩蔵へ引き籠り入道した「夢菴」と号した。

3月10日、唐津の波多鎮を従五位下が叙され、三河守に任じられた。

************************************************

天草国人一揆は別にします。

【北肥戦誌・1588年】城井一族抹殺

天正15年の夏、豊前の城井鎮房も累代の所領を召し上げられ、伊予国に僅かな新地を子息の城井朝房に給わった。

だが鎮房は愁訴し「某の領地は後鳥羽上皇の勅宣を以って、先祖の宇都宮彌三郎以来400余の歳月の間、今まで知行してきたものです。頼朝・尊氏・義満代々将軍家の證判を頂戴し、累祖相伝の所帯に御座います。願わくば豊前の旧領を拝領致したく」と述べたが、

関白は大いに腹を立て鎮房は勘気を被り、彌三郎(朝房)が給わる筈の新地も召し上げられ、父子共に浪人となった。

しかし、肥後一揆が発生し毛利・黒田が出陣し留守となると、旧領の城井谷へ帰り譜代の家臣を集め、旧城を補修して武備を構えて立て籠もった。

これに黒田長政が兵を率いて城井谷へ馳せ向かうも落とし得なかった。

毛利勝信も肥後一揆を差し置いて、小倉へ戻り黒田勢に加わった。

更に長政の父・黒田考高も肥後陣から中津へ帰りこれに加わるが、城が要害である為に鎮房は事も無げであった。

考高は考えを廻らし、翌天正16年(1588年)1月に偽りの和平を懇望し、城井の娘を長政と縁組し、考高の娘を人質として城井谷へ入れる事で和談に至り静謐となった。

その後、鎮房を中津の城へ招き、饗膳の後に酒宴となったが、酌を取った童野村氏に言い含め、敢え無く鎮房を惨殺、供の者50余人も悉く誅殺した。

考高はすぐさま家臣・栗山四郎右衛門・井上九郎右衛門に士卒数百人を与えて城井谷の城へ差し向ける。

両人は城中へ鎮房が討たれた事と、考高の娘を返せば城井の娘も返す事を伝えると、城中はこれを承諾し考高の娘を返した。

だが黒田勢は娘を受け取ると急ぎ帰陣、城井の娘は返さず、これを磔にした。

娘はこのとき一首の歌を詠んだ。
「中々にきいて果てなん唐衣 たがため(誰が為)織らん はたもののうへ(機物の上)」

鎮房退治を秀吉は悦び、考高に城井領20,000石余を加増した。

同年閏5月、関白秀吉は聚楽第へ加藤清正・小西行長を召し出し、清正へ隈本城と領地20万石、行長へは宇土城と19万石を下賜した。

また、清正は佐々家臣の内から300人を召し抱える。

更に両者には高麗出陣を前に5万石が加増され、肥後の代官とされた。

6月27日、清正・行長は肥後へ着くと、それぞれの城へ入った。

だが、伯耆(名和)顕孝の親類で、玉名郡小森城主・伊津野将監という者が清正に従わず、500余人で清正の代官・岡田将監を殺そうとした。

岡田がこれを清正へ注進すると、清正は騎馬200、鉄砲500を以って小森へ進軍、その日のうちに城を破って、伊津野将監共々城兵を悉く討ち取った。

同年7月初旬(5月8日とも)、龍造寺政家・嫡子の長法師丸・鍋島信生が上洛。

同年7月下旬、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家上洛。

秀吉は3人が一揆の際に九州を守り平治を齎したのを賞して、輝元を三位宰相、隆景・広家を四位侍従へ叙した上、桐菊紋を許した。

また、隆景は筑前守に任じられる。

同28日、島津義弘・龍造寺政家・立花統虎・毛利秀包らに四位侍従が叙され、桐菊紋が許される。

政家は肥前守に任じられた。

11月、龍造寺政家・鍋島信生は在京中であるが、政家が病を得た。

幼少の長法師丸では御奉公が難しい為、成人するまで国政は鍋島信生へ預け置くよう、政家は小早川隆景へ相談、隆景が関白へ上言し認められた。

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如水に娘なんていたっけ?ヽ(。_゜)ノ

龍造寺家兼_20【少弐の】田手畷の戦い・後編【勝利】

1530年8月15日、大内方は野路宿に打ち出した。

交戦後すぐに大内の先陣は敗れ、少弐サイドから寝返った朝日左近(頼貫)が討たれる。

ちなみに討たれた朝日氏は、これが最後の当主で以後の朝日氏領地は大内代官が治めた。

大内第二陣と戦いの最中、鍋島勢は手勢を3つに分け、
田手畷の南方に廻って身をひそめると、大内勢に打ち掛かるチャンスを待った。

大内方の筑紫・横岳・千葉(東西両方)が一戦に勝利を得ると、さらに少弐を追い立て野路宿の西の畷(田手畷)まで来た。

これを見て鍋島勢・野田清孝の赤熊武者2-300人(100騎)が南の方より横合いに大内勢に攻撃!

大内勢Σ(´Д`;)?!「なにあいつら?」「何かの祭礼だったっけ?!」「熊?━━ヽ(´ω` ;)ノ━━ッ」

赤熊武者は文字通り赤熊(ヤクの毛を染めた兜・母衣飾り)に漆黒の鬼面という異様な出で立ちだったんです。

不意を突かれて混乱した大内勢に竜造寺・馬場らが反撃!

大内勢は頼みの横岳資貞・筑紫尚門が討たれ、さらに千葉方も討死にし悉く敗北、奪われた首級は800余に及んだ。

総大将の杉興運は大勢を立て直すべく、大宰府への撤退を余儀なくされる。

少弐資元は龍造寺の軍功を賞し佐嘉郡川副荘千町を与えた。(*´∀`)ノ

龍造寺家兼も反撃のチャンスを作った鍋島清久を賞し、清久次男・清房に孫娘を嫁がせ、
さらに中佐嘉の本庄80町を引き出物とした。

この家兼孫娘と清久次男・清房との間に産まれたのが、鍋島直茂です。
竜造寺に仕えた鍋島氏は、与えられた本庄80町を本貫地とした。
この本庄の領地が、後に佐賀藩主一門として勢威を誇る石井氏の隣だったんです。
それは鍋島氏が、竜造寺準一門として遇される最初の足掛かりとなる重要な分岐点だった。
やっぱ少弐より鍋島の方が目立って・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
家紋・鍋島       家紋・竜造寺

直茂の祖父・鍋島清久という人物は、この田手畷の戦いくらいしか逸話がないが、
かなり優れた武将だったとシオは思います。

別の逸話(九州治乱記だっけ?)では、清久は家兼に自分を浪人と名乗っています。

何せ鍋島が被官してた西千葉氏が、馬場頼周ダークサイドに「裏切り者o( ̄Д ̄θ★ケリッ!」と肥前を追い出されたんで、主君不在という宙ぶらりん状態が数年続いてたんです。ショボーン..._φ(・ω・` )

一時的に東西両千葉氏が大内サイドになったわけだが、両家は相容れない仇敵同志。

少弐のリベンジが伸るか反るかの微妙な瀬戸際で、東西千葉家の呉越同舟なぅが何時まで続くか解らない。

そこで鍋島清久は、同じ肥前千葉被官同士で花丸急上昇の竜造寺に目をつけたのだろう。

いわば西千葉被官という下請け企業から、少弐&肥前千葉被官である竜造寺の、そのまた被官という孫請け企業に移行したんです。

一見、格下に落ちたように見えますが、決してそうではありません。

少弐の運命と一蓮托生・西千葉氏の衰退は、誰の目にも明らかです。

被官だった竜造寺の実力は主筋の西千葉を凌駕し、ダイレクトに少弐被官としての地位を築いています。

少弐と大内が激突する複雑な情勢で、西千葉か東千葉かの二者択一を選択するより、
竜造寺被官になった方が生き残る確率が高くなる。

竜造寺が、このまま少弐につくなら鍋島も倣うし、竜造寺が大内を選ぶなら鍋島は従うだけでいい。

そうなれば本来の主筋である西千葉を裏切るという、道義的な誹りを受けずにも済みます。

なにより小勢力である鍋島には、己の領地を安堵してくれる強いリーダーが絶対に必要なんです。

鍋島清久は竜造寺というワンクッションを置くことによって、東西千葉家の争いから上手く離れたのだった。


IFになるが、大友と少弐が即効で連携した軍事行動をとれたなら、それなりに少弐は生き残ったかもしれない。

打倒大内のために少弐と同盟関係だった大友は、実は身動きがとれなかったのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回~カテゴリ「相良氏・戦国名君編」で肥後の反乱バージョン1

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龍造寺家兼_19【いつも通り】田手畷の戦い・中篇【少弐のピンチ!】

---竜造寺「承」の巻7---

まず、いきなりですが訂正(-人-;)スマヌ

「1528年に15代目竜造寺家和が死んで、息子・胤和が家督を継いだ」

5話と6話に書いたんですが、胤和(嫡男)じゃなくて胤久(次男)の間違いでしたil||li _| ̄|○ il||l

胤和の生没年は不明なんですが、家督を継いでから若くして亡くなり、父・家和が隠居から現役に戻ってました( ̄ω ̄A;アセアセ

胤久は、嫡子として1513年に千葉(西)胤勝から偏諱を受けているので、
嫡男・胤和が死んだのは、その前ということになります。

前記事を修正するだけで済まそうかとも思ったんですが、
次男が継いだ経緯を書きたくて冒頭から(-人-:)スマヌで入りました。


シオだってすぐに田手畷に入りたいのは山々なんです(`・ω・´)キリッ

でも大内義隆の少弐退治の許可が、足利将軍家からすぐ降りなくって、1年待たされちゃったんだぃ!

でもって大内が待ちの一年だった1529年(享禄2)2月15日、竜造寺隆信が誕生する(=^・ω・^=)v ブイ

家紋・竜造寺(竜造寺家紋ロゴ)

そして1528年に父・資元から太宰少弐を譲られたはずの少弐冬尚が、なぜか1529年生まれ(爆

ウィキペディアの間違い・・・というより、冬尚の年齢には異説がありハッキリしてないんです。

滅びる寸前なんで記録が適当に・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

1529年は他にも宇喜多直家・益田藤兼などシオ萌えの方々が産まれてます(人´∀`).☆.。.:*・ 

あと地味に直茂の兄・鍋島信房も生まれてます^^/

1530年には上杉謙信・吉川元春・大友宗麟と有名どころの誕生ラッシュ^^/

そんな享禄3(1530年)の春から初夏あたりに、やっと「少弐退治OK」が幕府から大内義隆の元へ届く。

さっそく大内義隆は筑前守護代・杉興連(スギオキカズ)に命じ筑前で兵急募させる。

大宰府を奪還すべくうろうろ西筑前にいた少弐資元は、知らせを聞くとダッシュで勢福寺城(肥前)へと戻った。

4月下旬、大内勢が東の基肄郡、養父郡、三根郡へ討ち入る。

少弐はアテにならない・・・自分が真っ先に逃げてる( ̄ω ̄A;アセアセ

少弐サイドだった筑紫尚門・朝日頼貫・横岳資貞を始め東肥前の者達は悉く城を開いて大内に降伏した。

筑紫尚門は、馬場頼周ダークサイドに謀殺された筑紫満門の子です。

父が殺された後に家督を継いだんだけど、大内サイドのままだったはずなんだよなぁ~
表面上は少弐に従ってたのかな?

横岳資貞は少弐一門で息子は西千葉家当主・胤勝は彼の実子です。

三根郡代だったんだけど、そこに大内勢が攻めて来たから、どうしようもなかったんだろう。

あと西千葉の胤勝も大内サイドに走ってるから、息子である胤勝が父・横岳へ降伏を勧めたかもです。

家紋・鍋島(鍋島家紋ロゴ)

さて、鍋島さまだが元々は肥前千葉氏の配下だったらしい。

てか、肥前の土着勢力で肥前千葉配下じゃない方が変だろう。

肥前千葉氏は、室町中期から戦国初期まで「肥前国主様」と尊崇され栄華・勢威を誇った家なのだ。

その肥前千葉が衰退するとともに、鍋島さまは急成長の有望株・竜造寺家にシフトチェンジしたらしい。

その時期はハッキリしてないが、千葉胤勝が馬場頼周暗黒面に「おのれ大内に寝返りおって~o( ̄Д ̄θ★ケリッ!」と追い出された頃じゃないだろうか。

鍋島さまが配下したくとも、肝心の晴気城が落城し千葉胤勝が筑前で浪人なぅじゃ、見切りをつけるしかない。
(もっとも鍋島家と西千葉家の被官と主君の関係は、その後も微妙に続く)

鍋島さまのルーツに関して面白エピが幾つかあるのだが、先祖が千葉だったり少弐だったりするのは、元々の立ち位置にあるようだ(*´pq`)クスッ

東肥前の者たちが大内サイドに走ったのを知った少弐資元。

彼は「ならば討ち出て戦うべき」と軍兵を集め、
龍造寺家兼・蓮池政光・直鳥家清、他に馬場頼周・江上元種・宗秀恒・出雲頼通・姉川惟安・本告頼景・執行兼貞らと佐嘉郡・神埼郡の軍兵が参陣した。

馳せ参じた竜造寺家兼の手勢の中に鍋島勢がいたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_18【少弐が】田手畷の戦い・前篇【主役?】

鍋島さまが颯爽登場する「田手畷の戦い」の発端は、例によって少弐のリベンジだった。

この戦いは鍋島さまの、いわば社交界?デヴューみたいなもので、
竜造寺はもちろん石井家(直茂正室の実家)とも繋がる重要な分岐点。

そのせいか、そもそもの発端である少弐のことは、忘れられがち^^;

骨子が端折られるているか、書いてあっても少弐の事は読む人の脳内に残ってない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

てことで、シオがまた~り語りたいと思います(*´pq`)クスッ

家紋・少弐(少弐家紋ロゴ)

少弐資元は1517年(永正14)に太宰少弐に任官したものの、
大内のために本貫地である大宰府に戻ることは叶わず、藤津の山中に蟄居していた。

資元に従うのは宗一族庶流、氏茂のみ。

1528年になると少弐は室町幕府管領・細川高国を頼み、
嫡男の松法師丸を元服させると興信(のちの冬尚)と名乗らせ、
更に「太宰少弐」として屋形号を与え勢福寺城へ入れると、馬場と江上を息子の後見とした。

屋形号は国主に許される尊称で、(本来は)自称することは出来ず幕府の承認がいる。

守護職ではないが、それに準ずるということなのだろう。

ちなみに、この年に細川高国は失脚し近江に亡命しちゃうので、
少弐の(-人-)☆彡オネガイはギリギリセーフな時期・・・年頭~春にかけての事になる。


息子の後事を馬場らに託した少弐資元は、上松浦へ兵を進める。

獅子・日割の両城他、松浦党を従えると、本貫地である大宰府を取り戻すべく、西筑前へと出陣。

事態を知った大内義興 Σ(´Д`;) 、直ちに少弐退治を将軍・足利義晴に願い出るが、此度は許可が下りなかった。

中央政界が混乱してたのもあると思うが、義晴が大内義興に良い印象が無かったのかもしれない。

家紋・大内(大内花菱)

足利義晴は、大内義興が上洛した時に奉じた足利義尹を将軍に復職させるためにo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
っと追い出された足利義澄の子だったからです( ̄ω ̄A;アセアセ

だから大内義興の(-人-)☆彡オネガイに、すぐOKしないで意地悪したかも^^b
(大内の力は大きいので本気で敵対する気は無いと思う)

ちなみに足利義晴は、剣豪将軍・義輝と最期の将軍・義昭のパパンです^-^

同年の8月28日に大永から享禄へ改元。

15代目竜造寺家和が死んで、息子・胤和が家督を継いだのは前回書いた。

同年12月20日、大内義興が54歳で卒去。
22歳の大内義隆が家督を継ぎ、7か国(周防・長門・石見・豊前・筑後・備後・安芸)守護となる(=^・ω・^=)v ブイ

後年の姿からは想像出来ないほど英気溌剌だった、若き大内義隆。

彼は当主になると早速に「少弐退治」を将軍に願い出て、許可を頻りに催促する。

1年間・催促し続け、ついに1530年に将軍家から許可キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

鍋島勢・赤熊武者デヴューの「田手畷の戦い」が始まろうとしていたのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_17【筑後、星野氏分裂】

1525年(大永5)、大友義鑑が田北親員を大将にして討伐軍を筑後に入れた。

筑後の国人衆が謀反を起こしたんです。

この争いの中で星野氏は一族が敵味方に分かれた。

大友サイドの星野親忠は黒木氏、上妻氏らと先陣を賜った。

激戦の結果、草野・溝口・川崎氏らは降伏し、謀反側の星野正実は豊前に逃れて大内義興を頼った。

大友氏では断続的に筑後・・・特に星野氏の謀反に手こずっていたようだ。

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

1518年に亡くなった大友義長は「警戒すべき一族」として、
星野氏、阿蘇氏、相良氏、大友分家の田原氏を挙げている。

特に星野に関して義長は遺言で「星野九郎(重泰)の兄弟子孫は絶対許してはならぬ」と書いたそうだ。

九郎の兄弟子孫とは大内義興を頼った星野正実のことかもしれない。

とはいえ実は七回葬儀伝説の星野伯耆守重泰は、系図上では実在しない人物なんです。

ひょっとして星野伯耆守重泰は、大友に反旗を翻した複数の星野一族が一人の人物として伝わったのでは?などと妄想炸裂してます(*´pq`)クスッ

さて史実の星野正実を迎え入れた大内義興は、その後、豊前田川郡位登(糸)庄を正実に与えた。

位登(糸)庄はもともと星野氏の領地であったところで、義興はゆかりの地を正実に与えたらしい。

こうして星野氏は筑後と豊前に分裂し、豊前田川郡の星野氏は「糸の星野氏」と呼ばれ、
生葉郡の星野氏は「筑後の星野氏」と呼ばれた。

豊前「糸の星野氏」は大内から毛利配下となり、九州の役を生き残り小早川隆景配下となった。

だが御存知の通り、小早川家は関ヶ原の後で。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

その後の「糸の星野氏」がどうなったかは、シオペディアでは辿れませんでしたil||li _| ̄|○ il||l

家紋・大内(大内花菱ロゴ)

長々と星野氏を語ってますが、筑後の情勢は後に隆盛となる竜造寺家と密接な関係があるんです。

竜造寺と少弐氏の関係を語るには、まず「肥前千葉氏」を知らなければならず、
肥前戦国史を語るには、隣接する筑後と筑前の郷土史が、どうしても必要になるんです^^;

初めに肥前から入っても、結局は筑後と筑前を調べる羽目になるでしょうな( ゚Д゚)y─┛~~

1528年(享禄元年)、15代目当主・竜造寺家和が死亡。

息子・胤和が16代目当主となる。

少弐氏がリベンジのために再び動き出した年で、複雑な情勢のさなかに死んだ家和は、さぞ心残りだっただろう。

竜造寺家が新当主を迎えた年、大内家も義隆が22歳で当主となるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_16【馬場頼周・裏切り者は排除せよ】

少弐を支えた忠臣は、馬場の他に横岳氏がいる。

横岳氏は少弐氏の支流で、少弐貞頼(10代目)の二男頼房が家祖となる。

少弐氏は領国支配として守護代と郡代を配置していたのだが、横岳氏は横岳資貞の代で三根郡代となった。

少弐氏中興の祖・・・と言うと聞こえは良いが、
ぶっちゃけると「一度滅亡寸前から復活」した後に「調子こいて大内にメタメタにされて自害」した当主・政資の代の話。

横岳資貞は長男には少弐冬尚の娘が嫁ぎ(時期不明)、次男は肥前千葉氏嫡流・西千葉家へ養子に入り家督を継いだ。


家紋・肥前千葉(肥前千葉家紋)

馬場が少弐を裏切った舅・筑紫満門を成敗して気分爽快な1524年(大永4)の事だ。

横岳からの養子・千葉胤勝が大内に寝返った・・・という風聞が出た。

ここからはシオペディアからの推測になるのだが、
もしかしたら千葉胤勝の養母である尼日光が死亡したのかもしれない。

女性の記録というのは基本、少なく尼日光の生没年は不明で、尼姿になる前の名前も解らない。

彼女は肥前千葉家10代目当主・胤朝の一人娘だった。

東千葉氏初代当主・興常は、尼日光の従兄弟にあたる。

10代目胤朝が謀反で討たれた後に、この二人がカップリングすれば肥前千葉家が東西に分裂することはなかった。

ちなみに興常も生年不明で没年に異説あり( ̄ω ̄A;アセアセ

年齢はともかく、この二人は手を結ぶことが出来ない事情があったんです( ̄ko ̄)

10代目胤朝と興常パパンは肥前千葉の家督を巡って争い、そんな中で興常パパンは若くして死んだ。

興常(当時)少年は「ダディは10代目胤朝に殺された!!・゜・(PД`q。)・゜・」と固く信じてたらしい。

10代目胤朝が死んだ時に、尼日光は少弐政資の実弟と結婚し肥前千葉当主とした。
「父の仇・打倒西千葉」の興常は大内のバックアップを受けて「東千葉家」を興した。

大内の勢いを借りて千葉興常は肥前千葉代々の居城・牛頭城をゲッツ。
尼日光「ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!」

少弐と連携を組んで往時の勢威を取り戻そうとする「嫡流・西千葉氏」
大内と連携を組んで西千葉を倒し、肥前千葉家総領の座を狙う「東千葉氏」

西と東の争いは、そのまま少弐と大内の代理戦争となった。

肥前千葉嫡流の誇りと意地にかけて、尼日光が大内へ寝返るのを承知するとは考えづらい。

大内に寝返るということは、具体的に言うと東千葉の下座に着くことになるからだ。

だが西千葉家の総領的立場であった尼日光が死亡、もしくは重い病で倒れたとなれば、どうだろう。

少弐と西千葉を繋いでいた尼日光がいなくなれば、養子で当主の胤勝の自由裁量となる。

家紋・少弐(少弐家紋)

噂を聞いた馬場頼周は、これを諌めようと胤勝の長臣3人へ送り状を出した。

だが、大永4年(1524)の夏に、「胤勝は頼周の諌めを聞かず大内に通じた」と聞こえた。

諌めたのが逆効果だったんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

頼周は佐嘉の龍造寺・蓮池の小田と共に4月に小城へ出陣し晴気城を攻撃。
5月12日に城は落城、千葉胤勝は密かに落ち延び筑前で浪人したそうな( ̄ω ̄A;アセアセ

愛しの少弐のために、せっせと露払いする馬場頼周。

彼の苦心は報われるように見えたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_15【少弐のためなら】馬場頼周【女房を泣かす】

少弐氏を支えた忠臣の二大柱が馬場氏と横岳氏だろう(どっちも一門)

そして少弐氏再興に最も情熱を注いだのが馬場頼周(ばば よりちか)です。

少弐のためなら手段を問わない。

少弐を裏切る者は許さない。

たとえ、それが縁戚であっても・・・です。

この一途さは、肥後阿蘇氏の忠臣・甲斐宗運を彷彿とさせる(宗運の方が苛烈だけど^^;)



ただ今リベンジなぅの少弐氏が、滅亡寸前(当主と嫡男が自害)になった時に、
一門でありながら少弐氏を裏切った者がいる。

それが東尚盛と筑紫満門。

そのうち、筑紫満門が馬場頼周の岳父(妻の父=舅)だった。

馬場は舅の裏切りにブチ切れそうなのを堪え、
時折「以前みたいに少弐サイドに戻って(-人-)☆彡オネガイ」と説得の使者を出していた。

が、海千山千の満門は少弐に見切りをつけてたので拒否。

堪忍袋の緒が切れた馬場は、筑紫を誅殺すべく呼び出そうするが、
婿の気性を知ってる満門は馬場の呼びかけに応じない。

そんなこんなが続いて1524年(大永4)1月中旬。

馬場の子(=筑紫の孫)が疱瘡を患った。

馬場は妻女(=筑紫の娘)に向って云う。
「おことが父である満門は、我らに異心あるものと疑い、ずっと訪ねてこない。我らには些かも別心などない。
いま子供が疱瘡で痛がっているのを、おことより知らせて父を招き、孫らを見舞う様に誘ってくれぬか」


馬場の妻は、夫が血を分けた我が子の病を謀略の種に利用しようとしているなど夢にも思わない。

急ぎ文を認めると父へと送った。

さすがの筑紫も疑いようのない娘の筆跡に、謀略とは気づかなかった。

筑紫は1月18日に、息子二人と家臣らを召して馬場の綾部城へ赴いた。

人物・馬場頼周(馬場・悪画像)

孫の寝所を筑紫が見舞うと、後ろめたい気持ちがあったのか、馬場が挙動不審,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

その様子を見て夫の謀略に気付いた馬場の妻だが、この期に至ってはどうにもならず、ハラハラと涙を零した。

筑紫は孫の容体に気を取られ、色々不自然な娘夫婦の様子に気づかなかった。

ここから北肥戦誌の記述に「マジ?」って思った管理人。

( ̄ko ̄)<実は筑紫満門は陰形の術「木の葉隠れの妙法」を会得してたそうでつ・・・

そのため馬場は筑紫を討ち漏らす事がないようにキッチリ合図を決めてた。

そして広間に座ってた筑紫と息子たちに襲い掛かり討ち取った。

舅の裏切りに怒り心頭だった馬場は、鬱積を晴らして気分爽快ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

夫に父と兄弟を目の前で殺された馬場の妻の嘆きは計り知れず、後に夫へ暇を乞い髪を剃って仏門に入ってしまいました。ショボーン..._φ(・ω・` )



同行してた筑紫家臣の生き残りは、大急ぎで勝尾城へご注進~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

筑紫家臣らはリベンジのために綾部城へと向かったが、もとより準備万端の馬場にo( ̄Д ̄θ★ケリッ!一蹴されてしまう。

馬場が露骨に喜びすぎたせいだろうか・・・筑紫満門は死して怨霊となってしまったそうです。

現代(北肥戦誌が書かれた江戸時代)でも、月が曇り雨暗き夜は綾部城の旧跡に叫喚の声が聞こえ、人心を悩ませている。
或る時、ここの領民が草を刈りそれを馬に積んで乗馬していた際、満門の墓の辺りを通ると、忽ち逆さに落ちて悶絶した。
近くの者は驚き、山伏を呼んで祈祷させると、「我は筑満門という者なり」 と口走り始めた。
更に「昔ここで命を失い、多くの年月が過ぎたと雖も魂は尚も留まりて、折しも今朝卯の刻より猿楽を興行し自らも舞い遊んでいたところ、下々ながら馬に乗り、舞台の前を通るなど奇怪の至りである。だがこれを許し命は助けよう」 と発した。
領民は汗水流して寝入るかと見えていたが、また息をしだした。

200余年の星霜は送ると雖も、その魂は尚も青苔に残る事、不思議な次第である・・・と北肥戦誌は結んでいる。


馬場の忠義はガチです。本物です。

だが、裏切り者を決して許さず、相手を滅ぼすために謀を巡らすのが、果たして少弐のためになったのか?

相手にも言い分がある以上、馬場の行動は恨みしか残さない。

相手が返す復讐の刃は、馬場が何より大切な少弐に降りかかるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_14【太宰少弐】

大物は衰退してからの「余命」が意外と長い。

だが流石のゾンビ少弐も、ゆっくりとだが確実に滅びの時が(やっと)近づこうとしていた。

てことで肥前千葉も余命が長い・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

永正10年(1513年)は地方史的に誕生ラッシュの年でした。

煩雑さを避けるため紹介はしないが、北九州の覇権を巡ってガチンコになる大物たちの配下や家臣らが、
それぞれ「オギャァ」と産声を上げた(*´pq`)ププ

とりあえず大河に出る有名人だと、秀吉ママン・大政所が1513年生まれです^-^

この年の3月15日に竜造寺家次男(15代目家和の子)が西千葉の胤勝から偏諱を受けたのは前回紹介した。

4月に竜造寺胤家・盛家が東尚盛を攻撃。

繰り返すが少弐氏と西千葉氏はイコール=の関係です。

千葉胤勝は少弐一門の横岳氏からの養子です。

でもって竜造寺が攻撃した東尚盛も少弐一門でしたが、大内に寝返ってたんです。

そこで肥前千葉の被官である竜造寺(少弐の被官状態でもある)が攻撃~~となった。

家紋・竜造寺(竜造寺家紋ロゴ)

東を攻撃した竜造寺胤家は元・14代目当主でした。

少弐(と西千葉)が一時衰退した時に、少弐(と西千葉)に肩入れする胤家は政治的に失脚し亡命を余儀なくされたんです。

やがて何時もの如く少弐(と西千葉)が復活(`・ω・´)キリッ
てことで胤家が地元に戻った時には、既に家督は弟・家和のものになっており、家和当主路線で竜造寺内部は固まってたようです。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

少弐(と西千葉)が、このまま往時の栄華を取り戻す事が出来たなら、
再び胤家が当主として返り咲く事が出来たのか・・・今となっては(-ω-;)ウーン

とにかく元当主で本来の嫡流である胤家の、竜造寺における立ち位置は微妙だったように思います。

胤家と一緒に東を攻撃した盛家とは胤家の息子です。

が、系譜が少し変でして。( ̄ω ̄A;アセアセ( ̄ω ̄A;アセアセ( ̄ω ̄A;アセアセ

竜造寺盛家⇒⇒家弘の子・胤家の養子

となってるんですが、その家弘と胤家って実は同一人物,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

竜造寺そのものが既に鍋島に吸収されてしまったので、系譜が混乱してるだけかも。

盛家は生年も没年も不明で、まぁ胤家筑前亡命時代に色々あったんだろうなぁって感じ・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

で、肝心の攻撃ですが竜造寺胤家・盛家の勝利となったんですが、
5月に東にリベンジされちゃって、また戦前の状況に戻っちゃった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

家紋・少弐(少弐家紋ロゴ)

一方、少弐の後ろ盾である大友家は義鑑(宗麟パパン)が義長から家督を譲られた。

一歩進んで二歩下がる的な少弐の御家再興だが、
なんてったって大内義興が京都へ上洛なぅ~で鬼の居ぬ間にセッセと勢力拡大。

少弐と連携組んでる西千葉家も佐賀郡へと勢力を広げはじめた。

1517年、少弐資元は室町幕府に働きかけて「太宰少弐」に任命される。
1521年、竜造寺胤久が今度は西千葉胤勝の推挙で「民部大輔」に任ぜられる。

ちなみに大内義興は1518年に帰国してた。

北九州では少弐がジワジワ復活しはじめ、領内は尼子が台頭、中央政界も思うように行かず不完全燃焼による帰国^^;

大内を頼って下向した公家たちが、大内内部における不和の遠因ともなる。

でもって1523年4月~大内義興がバックアップしていた12代目足利義稙が、将軍職を追われ復権することなく阿波で没する。

日の出の勢いだった大内の動きが鈍った今が少弐のチャンス。

1524年、少弐命の馬場頼周が行動を開始するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【北肥戦誌・1588年】肥後国人一揆関連

2月、蜂須賀家政・戸田勝隆・生駒親正・福島正則・加藤清正・小西行長が肥後の検地の為に下向した。

このとき毛利輝元は博多へ在陣、小早川隆景は南関の陣に居り、吉川広家は内庄内に陣を寄せ、今回の一揆の本末を糾明する。


この頃、九州の諸将は一揆残党を征伐する様に命ぜられており、また残党も寄る辺なく方々へ逃れていた。

有働兼元の子・孫市は、肥前長崎に逃れていたのを龍造寺家臣に捕えられ切害、
名和顕孝は島津義弘に誅殺され(←名和と城は、上洛していた為に一揆に参加しておらず、転封になった筈なんで記述者の誤記っぽい)、草野宗清は蜂須賀家政に誅殺された。


また、鍋島信生に本山城主・永野左京亮討伐が命じられ、
信生が攻囲すると左京亮は防戦虚しく切腹、隔して一揆勢は山林に逃げ隠れ、或いは海辺に自害し滅亡、肥後は静謐となった。

さて、今回騒ぎの元となった佐々成政に対して、関白秀吉の腹立ちは激しく、成政に上洛を命じ切腹を申しつけた。


柳川城へ預けられていた隈部親永らには、立花統虎に誅殺するよう命が下ったのであるが、
統虎も命に背き難く、この囚人らを三の曲輪へ召し寄せ、12人の討ち手との立ち会いの形で悉く討ち果たした。

隈部親永は、その名も聞こえた勇士であったが、もはや老衰し、その上最近は痛みを発する部分もあって碌に動けず、無為に討たれる様は無惨であった。

統虎はこれを二の丸の櫓から見ていた。


また、この討たれた中に「隈部筑後入道良善」と云う者がいた。

この者は元々隈部姓ではなく新田義貞の子孫であるが、先祖が筑後へ没落し、やがて大友家に仕え、その子孫・新田掃部助が立花家臣となっていた。

良善はその弟で、筑後の善導寺へ出家していたが思う処あって還俗し、肥後へ赴いて隈部の縁者となり隈部筑後と改めていた。



統虎は良善を援けたく思い、兄・掃部助を通じて統虎へ従うよう申し聞かせたが良善は了承せず、親長共々三の曲輪へ入った。

果たして小野和泉守がこれを斬らんとすると、良善は敢えて手向かいせず、和泉守へ向って笑い四尺余の太刀を抜いて杖に着くと、
「和泉殿、この入道思いあって敵対申さぬ。静かに見物召されよ」と言い捨てると、自らの太刀を鍔元まで胸へ刺し貫き、立ち尽くして絶命した。

統虎を始め、これを見た者で良善を惜しまぬ者はなかった。

秀吉もそれを聞き、その死を惜しんだ。

なお、12人の討ち手の内、死者は一人である。



同年夏の事、関白の領地配分の際に龍造寺家晴の柳川城は、立花統虎へ与えられ、家晴は居所を失った。


家晴はこれに立腹、急ぎ家臣数百人を連れて関白を赤間ヶ関まで追い、浅野長政を仲介に柳川の代地を求め、
「咎も無いのに居所を失った上に、代地も給われなければ切腹致す」と言上すると、
秀吉は尤もであるとし、中肥前諫早は高城の西郷信尚(前名:純尚)が挨拶に来なかったので、
この領地を召し上げ家晴に与えるとの朱印状を即座に渡した。



この西郷信尚、龍造寺政家の妹婿で、病の為に秀吉に挨拶に出向けなかったのであるが、
今回諫早を召し上げられ七浦の内伊止岐へ浪人し、政家より80町を与えられて妻子家臣らを扶助していた。

だが、西郷累代の領地を召し上げられ無念に思っており、大坂の小西行長を頼って訴訟を行っていた。

だがそれが滞り裁定が降らぬときに肥後一揆が起こり、家晴が出陣すると聞くと、
計略の末に家晴が給わった朱印状を盗み取り、一揆勢と語らって、10月に七浦より打って出て諫早の城へ夜襲を仕掛けた。



家晴のいない無勢の城は落ち、西郷は次に荘林の端城(支城)を攻める。

家晴の家臣は防戦を続けながら肥後と佐嘉へ注進すれば、政家の命により、石井茂忠が率いた佐嘉勢が諫早に差し向けられる。

また肥後からも家晴が急行し荘林の砦へ入ると、西郷がいる本城を攻めた。

西郷は討ち負け、城を出て扇畑に至って陣を布く。

これに家晴は、梅津川を隔てて打ち掛かる。

戦いの半ば、家晴の家臣と佐嘉勢が西郷勢の横腹を突くと、西郷は備えを崩して島原へ退いた。

家晴は本城へ復帰、西郷は平戸へ赴き相浦へ居住したという。

またその弟・太郎は薩摩へ赴いた。

(薩摩の西郷氏は、建久年間に鎌倉御家人の西郷氏が桑西郡郡司として存在し、
建武年間にも伊作家臣がおり、以後も同姓の者が島津家に存在し続ける為、太郎は同族(?)を頼ったものか)

龍造寺家兼_13【西国のドン・大内軍上洛す】

これは戦国ゲームの話ではない。
史実、あった話です。
ただし、1508年だけどね(^ -)---☆Wink

大内義興が上洛の決意をしたのは、前年に中央政界が大きく変化する出来事があったからです。

それは1507年6月23日、半将軍・細川政元が暗殺されたことです。

実は魔界に還っただけとか・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

ちなみに大内義隆は、同じ年の11月15日産まれです^-^

とにかく細川政元に京都をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!された、10代目将軍・足利義尹が大内義興の力を借りて帰洛を決意。

1508年(永正5年)1月、足利義尹は大内の力を借りて帰洛しようとした。
情報をキャッチした九州の国人が我も我もと供を申し出る。


上洛参加メンバー一覧(出典元:北肥戦誌)
筑前~秋月種貞・原田興種・麻生元重・高橋親種・立花親載・宗像氏重、
筑後~星野親実・草野親永・蒲池治久・田尻種久、
肥前~渋川尹繁・少弐資元(名代・横岳資誠)・千葉介興常・龍造寺家和・龍造寺家兼、
唐津の波多治・草野永信、平戸の松浦興信、高木の有馬尚監、彼杵の大村純治、
肥後~菊池義国・相良義滋、
薩摩の島津忠昌(名代は子の勝久)、
日向~伊東祐秀
豊後~大友一族、
豊前~城井長門、
対馬~宗義盛

まさに九州戦国武将一覧!
(果たして何人判るかな?貴方の戦国コア知識をお試し下さい(*´pq`)クスッ)

敵も味方も過去の遺恨もどこへやら~手に手を取って「イザ!京都へ((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~」


なんだかんだと準備に手間取り、足利義尹が出発したのは同年の5月下旬のことで、6月8日に京都へ到着した。

11代将軍・義澄は追い出されo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
足利義尹(10代目)は、足利義稙と改名しデジャヴュ10代目室町将軍として再登板する。

家紋・大内(花菱・大内家紋ロゴ)

大内義興の活躍は凄かったらしいのだが、九州から離れちゃうのでシオの守備範囲外~

てか同行してた九州の国人らが、いつまで大内義興に従って行動してたかのほうが知りたい^^;

1509年には竜造寺家に慶誾尼が誕生^^/

1510年3月13日、千葉胤治(肥前千葉13代で西千葉2代目)が小城高田城で討死。

詳細は不明だが西千葉と東千葉の抗争は、相変わらず続いており千葉胤治は東千葉勢に討たれたらしい。

さらに翌年の1511年には千葉胤繁(肥前千葉14代で西千葉3代目)が18歳の若さで死んでいる。

同年、竜造寺隆信の前半生のライバルとなる神代勝利が誕生。

当主が次々死に「もうダメポ」と思われた西千葉氏だが、
千葉胤勝(肥前千葉15代で西千葉4代目)で地味に勢力回復なぅ~だったらしい。

ぶっちゃけ大内が畿内で活躍中のため、北九州に手が回らなかったからだろう。

1513年3月15日、竜造寺家嫡男・新次郎が、千葉胤勝からの偏諱を受けて胤久と名乗る。

新次郎胤久(のちの17代目竜造寺当主)クンは、この時が元服でつね^-^

偏諱で与えた文字は、千葉家代々の通字「胤」です。

西千葉は竜造寺との関係を再び強化する事に腐心していたのでしょう。

それだけ竜造寺が力を付けてきたのだとも言えます。

家紋・肥前千葉(肥前千葉家紋ロゴ)

西千葉と少弐は縁戚関係・・・というより実質=イコールの間柄です。

現当主・千葉胤勝は少弐一門・横岳氏からの養子です。

えっとちなみに大内の上洛で少弐代理で同行した横岳資誠の実弟にあたります。

西千葉と竜造寺の関係が強化されるという事は、少弐と竜造寺の関係が強化されるという事なのだが、
それは・またの話 by^-^sio

少弐が中々滅びないから飽き・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

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ジャンル : 学問・文化・芸術

【御案内】佐賀の戦国史 -龍造寺鍋島伝-

九歴会メンバーが講演会を行います。


■「✢ 佐賀の戦国史 -龍造寺鍋島伝- ✢」■

第一回の内容は、「世評における龍造寺氏・鍋島氏」について、2時間。真相を追います。

■日時: 平成25年 3月23日(土) 13:00 ― 15:00
■会場: 佐賀城本丸歴史館 外御書院二ノ間・三ノ間

■入場料: 500円予定  高校生以下無料 
 (非営利ですが、経費ペイのため)


■講師: 中西豪氏  
 ( 作家・歴史家 ・史伝鍋島直茂著者・学研関連執筆中)

■グラフイック&キャラクター:  しわす氏 
 (漫画家・九州雑録著者・イラストレーター)

■後援:佐賀県立佐賀城本丸歴史館

龍造寺家兼_12【筑後乱れる・後編】

1507年3月、大友義長(宗麟の祖父)に反旗を翻したのは筑後国人・星野重泰。

星野氏の本城は妙見城(現・福岡県うきは市)。

勢力範囲~筑後の生葉・竹野両郡を領し鷹取・妙見・白石・山中・福丸の城砦を持つ。

星野重泰は、大友と戦う前に自らの葬儀を七回執り行った。

それは、かつて星野氏が大友に対し「七代の間は謀反をしません」と誓詞を出していたからです。

星野は「葬儀七回!これで誓詞にある七代クリアしたどぉ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★」っと、
厳かで派手?なパフォーマンスを行う事により、城内の士気と結束を固めた。(伯耆守の七葬式)

大友義長は、おそらく他の筑後国人らへの見せしめもあるのだろう。

星野鎮圧に1万余騎という大軍を、自ら率いて筑後入りした。

この鎮圧軍に、少弐資元と少弐一門の横岳氏、馬場氏が加勢として入っている。

鳴り物入りで攻撃開始した大友軍だが、星野の妙見城が落とせない~~( ゚д゚)ンマッ!!

城知識が乏しいため詳細を紹介できず申し訳ないのだが、
とにかく前線指揮官としての星野は非常に優秀で、かつ妙見城も天嶮の要害だった。

星野は地の利を上手く使い巧みに大友軍を翻弄し、とてもではないが容易に落とせそうにない。

大友義長は焦った・・・!

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

たかが国人の謀反に時間を労するようでは。大友家の威信にかかわる。

それに豊前が大内の支配下の現在、筑後の星野に通せんぼされたのでは、
少弐と連携した軍事行動に齟齬が生じる。

力攻めがダメならと、大友は謀略(正確に言うと臼杵のアイデア)を用いた

大友家臣に竹尾という者がいたのだが、
彼が筑後に入り星野家臣となって妙見城に潜入する。

竹尾が自分の身元を何と言い繕ったかは不明だが、とにかく上手く星野重泰に近づく事に成功。

リラクゼーションなぅ~入浴中の星野重泰を殺した。

突然だが入浴中に殺された武将といえば、源義朝がインパクト大。

大河の玉木・義朝は入浴シーンじゃなかったけど^^

で大河で現在の帝は高倉帝なのだが、星野重泰の先祖は高倉帝に仕える調 助能という人物だった。

笛の名手だったので「調」という姓を帝から与えられたの^^b(星野先祖は助能の次男)

大友は調一族である星野家名跡を絶やすのは忍びない(自分で謀殺したくせに)。

てことで、星野一族から親実を引っ張り出して星野当主にした。

こんな事されて「はい、そうですか」と星野家中が納得できるはずがない。

実は星野氏の系譜は、じゃっかんカオスでして^^;

この謀反前後あたりは、とくに解りづらく、大友が引っ張り出した当主や、大内のバックアップ受けた分家とかとか( ̄ω ̄A;アセアセ

つまり大友は、それだけ星野の反抗的態度&謀反に(数年単位で)手こずってたらしい。

大友義長が自ら筑後入りしたのも、かなり星野に頭に来てたからなのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

義長は死ぬ間際ですら「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.星野はゼッテー許さねぇ」と遺言してたそうな^^;

なんだかんだと星野謀反を完全に鎮圧するのに、大友は1513年までかかってます。

星野カッコ(・∀・)イイ!(シオが筑後で一番好きな国人は星野なのだ~(人´∀`).☆.。.:*・)


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北九州の覇権争い・・・初めは「少弐VS大内」で、それから「少弐+大友VS大内」になり、
今は「大友(おまけで少弐)VS大内」になった。
(ちなみに大友は肥後国主である菊池家の家督にも介入している。)

そのたびに北九州各地では戦が起きて、大内からは毎度「少弐退治(-人-)☆彡オネガイ」の嘆願来るし、
大友からは「少弐赦免(-人-)☆彡オネガイ」が来る。

さすがに足利将軍家も「イラっ」と、切れてきたのか?。
はたまた、ここは一発「将軍の威光」を示そうと思ったのか?


1507年3月、将軍家より御行書キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
達「急ぎ宿意を忘れ鎮西の争いを止めよ!!(怒」
公布先は大友、少弐、菊池、伊東、島津、大内、渋川。

追い出された渋川は、どっちかというと被害者なんじゃ・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

「大内と少弐」「島津と伊東」「渋川と少弐+千葉」が、それぞれ手打ち和睦した。

てことで御手盛り人事~~^^/

大友義長~~~従四位
少弐資元~~~肥前守
菊池義国~~~肥後守
千葉興常~~~「屋形号」の呼称を許される(国主待遇)

これで落ち着くかに見えたが、戦国なんで落ち着くはずがない。

同年、細川政元が暗殺され、細川澄元が敗北して自害

室町幕府・管領家として権勢を振るい、半将軍とまで言われた細川政元が殺された!!

激しく動く中央政界の情勢に、大内義興は上洛の決意をするのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回より新章~竜造寺「承」の巻です^-^

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龍造寺家兼_11【筑後乱れる中篇】

大内(陶尾張守)と大友+少弐が激突した1503年。

この年、後に鍋島家の縁戚となる石井党嫡男家に石井常延(彦鶴姫パパン)が産まれる。

1504年になると少弐家臣で豪勇で知られた高木鑑房が産まれ、
同年に竜造寺ガバイ母ちゃん・慶誾尼のダーリンとなる竜造寺周家も生まれる。

色々あって影が薄い周家だが、父は家純で祖父は家兼ジーちゃんです^^

さて少弐資元です。

彼は大友家の根回しの甲斐あって、足利義高(11代目将軍)から赦免され、資元と名乗った。(資元以前に何と名乗っていたかは、シオペディアでは不明)
さらに大友親治&義親の援助で大内に反旗を翻す。
出奔していた竜造寺胤家もドサクサに紛れて肥前に帰国

だが既に竜造寺の家督は、胤家の弟・家和が当主となっていた。

元当主・胤家は弟に迎え入れられ、大財津城に入る。

胤家は少弐・西千葉に加担した為に政治的失脚し出奔してたんです。

それを再び一城に迎えるということは、
竜造寺家は「大内+東千葉押し」から、再び元の「少弐+西千葉押し」に戻ったということです。

家紋・竜造寺(竜造寺家紋ロゴ)

大内サイドだった渋川尹繁は、少弐によって筑後へ追放され、江上興種は勢福寺城を追い出された。

少弐資元は江上の後の勢福寺城に入り、西千葉の胤繁は小城郡高田城へ入る。

このまま黙ってる大内じゃありません。大内は筑紫と東に「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.お前ら、やっておしまい」と命令。

1506年10月17日に筑紫満門と東尚盛が小城郡高田城を攻撃~アッサリ翌日に落城した^^;

いや、この高田城って水壕に囲まれた平城で防御力が弱かったそうなんです( ̄ω ̄A;アセアセ

で、千葉胤繁(西千葉の方)は密かに高田城を脱出し、竜造寺を頼った。

竜造寺家は長年、肥前千葉氏の被官だった。

東と西に分裂した肥前千葉だが、直系男子の血筋は絶えているものの、系統としての嫡流は西千葉です。

そのため竜造寺は、西千葉の縁戚である少弐に対しても、被官同然の状態になっている。

少弐が滅亡寸前になったことで、一時期は「大内+東千葉寄り」だった竜造寺家。

だが大友の後ろ立てで少弐が復活した以上、これを無視するわけにはいかない。

前当主・・・てか、ぶっちゃけ実兄で嫡男も舞い戻って来てるんで、ここで短慮は禁物。

少弐が生き残るか否かを、よくよく見極めて行動しなければならない。

少弐が滅んでは復活するから傍迷惑・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

大友が支配する土地に筑後があり、その筑後の国人に星野氏がいる。

1478年に肥後の菊池氏が筑後にチョッカイ出した事があるが、
星野氏は大友配下として仕えた。

だが大友家という家は国人に対し冷たい家だった。

戦になると、大友は危険な最前線に国人たちを追い使い、自分の旗本を温存するという事を露骨にする。

星野氏も大友の態度が腹に据えかね、ついに謀反を決意。

1507年(永正4)大友義長は星野氏の妙見城を攻撃するため1万余騎で筑後入りする。

大軍に囲まれた星野氏・・・風前の灯と思いきや、天下の大友軍が落とせない?!( ゚д゚)ンマッ!!

一連の争いは将軍家の耳に達し「もう止めよ!!」と言われるまでになるのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_10【筑後乱れる・前篇】

1502年1月16日。

竜造寺家和は、千葉興常の推挙で足利義尹へ御礼を遂げる。

北肥戦誌では、この時の家和を「当主」と記している。

嫡男で当主だった兄・胤家が肥前を出奔後、次男である家和が竜造寺当主となったのだ。

早い話、竜造寺内部は「長年の付き合い・少弐+西千葉押し」と「現実路線・大内+東千葉押し」に分裂したのだろう。

少弐が(例によって)滅亡寸前になったので、「少弐+西千葉押し」の胤家が現役当主でありながら、
政治的に失脚したんです( ̄ω ̄A;アセアセ

ちなみに千葉興常とは大内がバックアップしている東(祇園)千葉氏当主。

ちなみのちなみに足利義尹は室町10代目将軍で、色々あって京都を追い出され大内の保護下にある。

ちなみのちなみのちなみに御礼の中身は「軍功により加増され大身となった事」への御礼m(__)m

北肥戦誌に詳細はないのだが、西千葉と東千葉は幾度か戦に及んでいたらしい。

東千葉が推挙するところを見ると、新当主・竜造寺家和は東千葉サイドとして働いたのだろう。

既に水ヶ江に分家していた竜造寺家兼も、この動きに倣ったと思われる。

家紋・竜造寺(竜造寺家紋ロゴ)

同年・大友義鑑(よしあき~宗麟パパン)が誕生^^/

同年・大友義長が筑後へ兵を進める

月日不明だが、どうも1502年後半っぽい。

さらに、大友に便乗して少弐残党が加担してたらしい。てか少弐と大友で打ち合わせ済だったかも。

そもそも大友と少弐は「打倒大内」のために、
ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!と累代タッグを組んでいる間柄なんです。

明けて1503年~大内義興が陶尾張守を派遣、大友+少弐と激突!

この戦いは決着がつかなかったようだが、
この後の大友は肥後・阿蘇氏の家督にチョッカイ出しているので、いったん筑後から兵を引いたようだ。

やはり少弐は滅びてはいなかった。

家紋・少弐(少弐家紋ロゴ)

少弐は大友と手を組むことによって、再び息を吹き返したんです。

大内が手駒として押さえているのが前の将軍(10代目)足利義尹

大友が押さえているのが、現将軍(11代目)足利義澄


北九州の覇権を巡る争いは、少弐と大内の争いから、大友と大内の争いへと質的に変化をし始めた。

少弐の役割は、大友が北九州へ食い込むための「大義名分」であり「地元橋頭堡」。

以前の御家再興の時は対馬・宗氏が全面的にバックアップ御膳立てしてくれました^-^オンブニダッコ

だが宗氏は落ち目の少弐から手を引き始め、当主も代替わりして縁遠くなってきている。

宗一族の一部のみ、少弐に助太刀しているが、少弐が復活した場合の保険っぽい感・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

大友の野心が何であれ、今の少弐が頼る相手は大友しかいないのだ。

1504年・・・少弐は大友の支援で、大内に反旗を翻すのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【北肥戦誌・1587年(肥後国人一揆、後編)】

翌16日、成政は甲斐の御船城を攻めるべく、家臣・松原五郎兵衛に軍勢を与えて差し向ける。

甲斐宗立は茶臼山の敗戦で痛手を負い、御船へ帰らず健軍社あたりに居たのだが、これを知って御船へ急行した処を松原勢に見つかった。

宗立は逃れ得ず、雑兵の手に掛かるよりはと、六ヶ所村の地蔵堂へ入り腹を切った。

家臣も共に腹を切ったか、或いは逃亡した為、御船はそのまま空地となった。


松原は勝利し隈本へ帰城したが、いまだ山鹿が籠城中であり、隣国にも関白に領地を削られ、没収された者がいる。

豊前の長野三郎左衛門、筑前の原田五郎右衛門・麻生筑前守・宗像氏景、筑後の三池河内守・蒲池兵庫頭・草野左衛門尉、肥前の草野中務大輔・西郷弾正忠、肥後の城久基・赤星統家・和仁宗傅(親実)・永野左京亮・伯耆(名和)顕孝・辺春紹心らは悉く隈部に同調し、既に鎮西の騒動となっていた。
(?城久基と名和顕孝はこのとき上洛していた筈なので記述者の勘違いのようです)

また、山鹿の付城の兵糧が尽きかけていたが、成政は兵糧を運びに動けず、柳川の立花統虎へ援けを頼み、更に関白へも一揆の蜂起を注進した。

立花は柳川に入部したばかりであるが、人数を集めて僅かに武士200、雑兵1,800で肥後境まで出陣した。


一方の関白は、急ぎ四国・中国・九州の諸将を一揆退治に差し向けるよう述べ、四国衆は浅野長政・安国寺恵瓊、九州宗は小早川隆景・久留米秀包・立花統虎・高橋統増その他近国の諸氏が肥後へ出陣する。

軍奉行は中津の黒田考高・小倉の毛利勝信である。

このとき龍造寺政家は病であり、名代として江上家清・龍造寺家晴が佐嘉勢を率いて出陣した。


8月、江上家清らは肥後に討ち入り山鹿へ着陣、まず付城を構えて兵を入れた。

その上で大智越前守500余人が籠る大田黒城を攻めんと陣中に兵糧を運ぶ。

しかしその半ば、城兵が急に打って出て鉄砲を撃ち掛けた。

これに江上家臣が戦うが、不意の攻撃であった為に討ち負けた。その死傷者は数知れず。


鍋島信生はこのとき大坂にあったのを、関白より暇を給わり急ぎ船で帰国したが、
途上の赤間ヶ関で政家が出陣していないと知り、直接肥後へ赴いて小早川・浅野・黒田・毛利・安国寺らと対面した。

その際、浅野より「政家殿、此度病と称し出陣無く名代出されるとは、何とも心得難い」と述べる。

これに対し信生は「主君・政家が命令を疎かにするなどありません。某、急ぎ国へ趣き、政家を伴って出陣致しましょう」と返した。

が、諸将は尚も信生を疑い、信生帰国に関して評議すると小早川隆景が、
「鍋島殿の予てよりの心底は私がよく存じております。嫌疑を持たれる必要はないでしょう」としたので、信生は佐嘉へ戻り、8月20日過ぎに政家を伴って20,000余騎を肥後へ差し向け山鹿へ着陣、江上勢らと併せて陣を構えた。


9月7日、立花統虎は佐々の付城へ兵糧を運び入れんとしたが、敵城より有働志摩守勢が討ち出て、永野原の道を通る立花勢を追い掛け、統虎へ襲い掛かる。

このとき立花勢は、内十但馬守らが統虎より先に進み過ぎ、小野和泉守が後ろ過ぎてまだ来ていなかったのであるが、内十但馬らが引き返し、小野和泉らが追い付くと、有働は前後より挟撃される形になり、討ち負けて逃散した。

統虎は手負いを援けながら、既に南の関にありながらも引き返したが、これに大田黒城の有働左近将監が城から打って出て矢を射掛ける。

統虎は油布上総守らに下知して300人でこれを追い払うと、そのまま城へ切り上がり、その日の酉の刻に城を攻め落とした。

城の大将・大知越前守は立花家臣・池辺龍右衛門に組み伏せられ討たれた。

立花勢は勝ち鬨を上げて北の関へ帰陣した。


このとき、山鹿の近く高挟城主の合志親為も隈部に同調して籠城していた為、龍造寺勢はこれも攻めるべしと9月初旬に奉行から命が下った。

親為は、政家・信生とは旧交ある者であるため、政家はまず降伏するよう使いを出した。

だが親為がこれを拒否した為、9月5日に政家・信生は山鹿から高挟へ陣替えした。

先手は江上家種とし、すぐさま城へ攻め掛かる。

すると城内より合志一門数千人が打って出て激しく攻め掛かる。

寄せ手も奮戦し、合志明存入道・合志対馬守という親為の親類にして一揆の首長二人を討ち取った。

これに城兵は気力を失い、城へと退いて行った。

そして城攻めに移行、鍋島家臣・武藤貞清が火矢を放って城の一方を焼き立てると、親為は防ぎ難く逃れて出奔した(和を乞うて下城したとも)。

信生はすぐさま城を検視に引き渡した。


11月下旬、一揆の棟梁・隈部親泰はなおも山鹿へ籠城していたが、浅野長政・安国寺恵瓊が
「怨敵の思いを翻して開城降参されれば、我らの計らいを以って上に取りなし、本領安堵させましょう」
と方便を述べると、親泰はすぐさま城を明け渡し、有働兼元・有働志摩守・北里三河守・北里式部少輔ら4人と降人となった。

そして主従80余人を従えて浅野・安国寺と共に上洛しようとするが、豊前の小倉にて明日出船という晩、当所の地主・毛利壱岐守の家臣らに取り囲まれ、一人残らず討ち果たされた。

また、隈部親永・内久賀鎮房・有働一族10余人は皆柳川城へ入れられ、立花統虎に預け置かれた。


12月下旬、和仁宗傅・辺春紹心兄弟が籠る和仁城を攻めるべく、小早川隆景・久留米(毛利)秀包・安国寺恵瓊・立花統虎・龍造寺政家らは彼城を取り囲む。

本丸は宗傅と嫡子・勘解由左衛門が、二の丸は紹心と弟の辺春宗胤が、三の丸は宗傅次男・弾正ら一族被官3,000余がそれぞれ立て籠って矢玉を討ち掛けていた。

小早川らは数日攻囲したがそれでも城は落ちない。

そこで信生は家臣・辻小左衛門を二の丸へ入れて辺春紹心を城外へ呼び寄せて対面する。


対面した紹心へ信生は、「御辺は天下を敵に回し、争って本懐を遂げられるのか? 数代の家名を失うことよりすぐさま心を翻して、和仁父子を討って降伏されよ。そして身命を全うされ、子孫はこの飛騨守(信生)が助命を訴えるので、本領安堵を嘆願されよ」と方便を述べた。

和仁はこれに応じて二の丸へ帰ると、弟と共に本丸へ忍び入り、和仁父子を斬り殺し、その他も打ち果たして三の丸へ押し詰める。

これに合図を定めていた鍋島勢も三の丸へ乗り込み奮戦、討ち死にを多数出すも、
鍋島家臣・南里助左衛門が城内を走り回って火を掛ければ、城兵は防戦叶わず逃げ散り、
和仁弾正は生け捕りとなって落城する。

信生は秀吉から12月27日に感状を賜った。

【北肥戦誌・1587年(肥後国人一揆、中篇)】

7月24日、ならば隈部を攻めんと、成政は6,000余騎を率いて親永の城を攻めるべく取り掛かる。

そのとき、親永の家臣に多久大和守という者があったが、理由は不明だが俄かに心を変じて、佐々勢を城内へ引き入れた。

このため城内は混乱し佐々勢に討ち負けて悉くが戦死した。

親永は法体となって城外へ逃れた。

親泰は佐々勢が父を攻めると聞き、親永の城の後方・玉正寺原まで出陣したが、既に落城しており一戦に及ばず、そのまま山鹿へ引き返す。

そして一族や浪人を集めて兵糧を用意の上で城へ立て籠もった。

それを知った成政は、急ぎこれも討つべしと、8月7日に隈本城を打ち出て山鹿へ着陣、
まずは斥候を日輪寺山へ上げて城内を量らせ、足軽に鉄砲を打ち掛けさせると、その日は取り敢えず隈本城へ戻った。

同月12日、成政は家臣の佐々興左衛門成能・佐々右馬助らに3,000を与え山鹿へ向かわせた。

興左衛門らは三方から城を攻める。

右馬助が谷を上がり攻め入ると、これに城兵は崩されかけたが、親泰自身が槍を縦横に突いて廻った為に城兵が気を立て直すと、状況は逆転し右馬助は討ち死に、寄せ手は200余人の犠牲を出して敗走する。

寄せ手が成政へ注進すると、成政はまた3,000を率いて山鹿へ向った。

これを知った有働兼元は、半途で成政と勝負致さんと、こちらも3,000を率いて成政陣へ打ち入る。

だが進み過ぎた為に打ち負け、山鹿へ引き退いた。

成政はこれを追い掛け城を攻めたが、守りが堅固な為にその日は山鹿で夜を明かした。

成政が隈部を攻めたと聞き知った地侍らは、明日は我が身と成政の治世を疎み不安に駆られた。

そのとき隈府の浪人・菊池香右衛門が、隈部の事を聞いて、急ぎ御船の甲斐宗立(親秀)に対面し、
「佐々殿は、関白の上意と偽って国中の所領を掠め取って横領しようと考えているのでしょう。ここに於いては一人も逃れられる侍はありますまい。唇亡びて歯寒しとはこの事です。これを関白へ訴える為にも、一揆を企て隈本城を攻めるべきです」と述べた。

宗立は同意し急ぎ近隣に呼び掛けると、玉名の小代親泰・阿蘇一族の下城摂津守・北里三河守ら、今回所領から離された者らは、鬱憤を晴らす時がきたと悦び、方々より馳せ参じて来た。

多勢となった一揆は同月12日、成政が留守の隈本城を三方から囲み鬨の声を上げた。

城内は思いも寄らず周章狼狽する。

寄せ手は鉄砲を打ち掛けながら攻め入り、二の丸を焼き落としたが、城兵も矢玉を雨の如くに浴びせたため、それ以上は破り得なかった。

これを知らされた成政は、まず興左衛門を隈本へ帰し、自らはそのまま山鹿の城の押さえとなった。

が、興左衛門は内久賀鎮房に途中で遮られて討ち死にする。

これに力を落とした成政は、ならば隈本へ帰って一揆共を討たんと、13日の暮れから山鹿の東西に付城を構えて、人数800を残した上で、自らは15日に陣を引き払う。

その際、本道を通れば内久賀勢に遭うと思い、迂回して茶臼山へ登って隈本城へ入ろうとした。

一揆勢はこれを幸いと、茶臼山でこれを迎撃し6~7度戦う。

これに佐々勢が敗れかけた時、一揆に味方していた小代親泰ら3名が佐々方へ内通しており、一揆を裏切って攻撃し始めた。

隈本城兵は小代合図と気付き、城戸を開いて打って出ると、敵を三方から挟み撃ちにしたため、一揆は敗走する。

成政はこれを追い立て、3,900人が討ち取られた。成政は勝ち鬨を上げて隈本城へ入った。

【北肥戦誌・1587年】肥後国人一揆、前篇

天正15年 (1587)関白の九州下向が決定すると、政家・信生は1月2日、20,000余騎で筑後へ入り、島津方・蒲池鎮運の山下城を攻めた。

田尻鑑種はこの周辺の集落を焼いたが、城は堅固で落ちなかった。

1月25日、関白の先手として秀長の70,000余騎が京都を進発する。

3月1日、関白が出京、25日に赤間ヶ関へ到着。鍋島信生は先達て上洛していたが、関白に供をして下向、
4月11日に政家と共に関白の本陣に参じて、薩摩への先手を申し出た。

4月、豊前の長野鎮展・城井鎮房・高橋元種が降参。秋月種実・問註所・黒木も降参。
政家・信生37,000余騎は先手として肥後へ討ち入る。

5月4日、関白勢150,000余騎が薩摩へ入り、川内川へ陣を布くと、義久兄弟ならびに家臣ら悉く降参、
関白は7月4日に赤間ヶ関より出船、18日に大坂に至り21日に帰城。

6月、佐々成政は関白秀吉が薩摩より御帰路の折に肥後国の守護職を賜り、同月に入部し隈本城へ入った。

このとき肥後の地侍共へも銘々御朱印を以って領地が下された。

然るに7月1日、成政は地侍らを隈本へ召集し、今回秀吉の代理として命を与える旨を申し渡すと共に、国中の仕置の事など談じれば、何れも異議無く了承した。

その集まりの中に隈部親永も出仕していたのだが、
成政は「御辺の領地は800町の御朱印である。これに検地を入れて引き渡そう」と述べた。

親永は不機嫌に「その儀は関白殿下の上意にも、菊池・山鹿・山本の三郡にての800町を所有する事に相違ないとされました。検地の儀は御免あれ」と返したが、成政は承諾しなかった。

隈部は腹を立て、「我らが領地は先規の如しであれば、成政の支配などとは心得難い。その上、国中の侍の中で我が領地だけ検地を受けるとは面目が立たぬ。まして持領を何故他人に手に依り検知されねばならぬのか」と言い捨てて席を立つと、直に居城へ帰り引き籠った。

これに成政は、親永と嫡子の親泰が不和であると聞き、親泰の元へ密使を送って、父を殺して味方に参じれば隈部本領を保証すると伝える。

これに親泰は弟の有働兼許・内久賀鎮房を招いて内談するに、如何に不和とはいえ親を討つ法はないと、
父子兄弟一所に討ち死にすべきと定めて、この上は佐々が隈部攻めに取り掛かる対策を用意し始めた。






【稲津の乱・悲劇の戦後処理後編】飫肥藩初代藩主編11


1602年8月18日~主君の切腹命令を不服とした稲津が清武城に立て籠もった!

後に言う「稲津の乱」である

実は稲津には結婚してほどない新妻がおり(稲津が朝鮮の役などで晩婚になった)名前を雪江という。

小さな藩のことだ、雪江のことは家中の誰もが顔を見知っている。

新婚の二人には、まだ子が授かっておらず、伊東家でも「雪江殿を巻き添えにするのは忍び無い」

と考え城を囲む前に使いを清武城に出した。

使者は「奥方の実家から参りました」「御母上が病で危篤です」とウソを言って雪江を城外へ連れ出した。

何も知らない雪江は実家へと向かう道すがらに、
「主家である伊東家の兵」が「夫の清武城を囲んだ」ことを知る。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

家中の空気に気づいてはいたものの、まさか突然に上意で城を囲まれるとは夢にも思っていなかった。

驚いた雪江は周囲の制止を振り切り、夫の元へと戻った。


稲津は「新妻は実家で保護されたのだ」と思い安堵していたのだ。

それが目の前に戻った雪江を見て驚いた。

稲津「愚か者!なぜ戻ったのだ!今すぐ離縁するゆえ実家へ帰るのだ!妻を道ずれにしたとワシが嗤われるわ!」

雪江「では私が夫に仕える覚悟が足りぬ不心得な妻と、家中で嗤われるのは構わないと、おおせになるのですか!?」「一度、嫁いだ以上は、冥途の果てまで御供いたします。」
「閻魔様が貴方様を主君への不忠で裁こうとするならば、私が貴方様の無実を訴える証人になりましょう!・・・どうか私をお連れ下さいませ!・゜・(PД`q。)・゜・」


言い終わると髪が振り乱れるのも構わず、泣き崩れる雪江の白いうなじを見て、

稲津は哀れを催し「あぃ解った・・・ともに死出の旅へ参ろう」と言った。

雪江が家臣の介錯で絶命したのを確認すると、稲津も自害し清武城は落城した。

稲津重政29歳・・・妻・雪江は未だ15歳の若さだった・・・

城・飫肥大手門(飫肥城大手門)

一説によると「稲津に全ての責任を押し付けて始末しろ」と、
祐慶少年にアドバイスしたのは、黒田如水だとも言われている。

そこで稲津が島津への挑発行為を止めなかったのは
「実は如水の指示だったのでは?」という疑惑が浮上するんです。

黒田如水が「九州の関ヶ原」で目指していたものの一端を、稲津重政は知っていたかもしれません。

だが如水と打ち合わせしてたであろう伊東祐兵が1600年に死に、そして稲津が1602年に死に、
さらに如水本人も1604年に病没したので、今となっては真相を知る者は誰もいません。

亡き祐兵は東軍・西軍のどちらが勝っても言い逃れ出来るように、祐慶少年に裏事情は一切教えていない。

「何があっても、そなたは若年ゆえ知らぬ存ぜぬ、で押し通すのだ」という秘策のみ授け、
祐慶少年は、その通りに実行して幕府の詮議を逃れたんです。(だってホントに知らないんだもん)

さすが「伊東家、中興の祖」です。死んでも伊東祐兵は只者ではない( ̄ω ̄A;アセアセ

稲津の死をもって「伊東家の関ヶ原」は終わりました( ̄  ̄)トオイメ。。 

稲津の才能を見出した祐兵が生きていたら、彼の晩年は違ったものになったかもしれません。




稲津の死後、生き残った家臣が清武城の側に「海が見えれば慰めになるだろう」と海側に向けて夫妻の墓を建てた。

ところが墓を建ててからというもの、船が日向灘を通過しようとすると、必ず難破するようになったそうだ。

地元の村人は「無念に死んだ稲津夫妻の恨みが祟りになった」と憐み、
墓を海とは反対側に向き直した後に、丁重に弔うと船の難破はピタリと治まったそうだ。

日向記は貴重な中世資料であるが、伊東家側の視点から描かれた記録でもあるので、
「稲津の粗暴」という罪自体が、実は仕組まれたものだったかもしれず、
それを地元の民は知っていたかもしれない・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

墓は村人たちが守り続け、伊東家もそれを咎めることなく、今も日向灘に背を向けて現存している。


※夫妻の会話は実際の会話ではなく、管理人が妄想アレンジしましたので、御了承下さい(^ -)---☆Wink

【稲津の乱・悲劇の戦後処理前篇】飫肥藩初代藩主編10

1601年・公儀(この場合は豊臣政権~でも決めてるのは5大老筆頭の徳川家康)の裁定で、
日向・宮崎城は伊東家から、元の持ち主の高橋元種に返却された。

徳川家の手前、伊東家と高橋家は和解したが、問題は島津家との関係だった(_´Д`)アイーン

家康が島津征伐してくれれば、伊東家が佐土原の島津と小競り合いになったのは、
単なる通過点で済むはずだったし、伊東の軍功になってた。

だが関ヶ原本戦が勝利した後の、地方の戦闘が長期化するのを嫌った家康は、
島津征伐を取りやめ撤退命令を出してしまうil||li _| ̄|○ il||l

当主である島津豊久が西軍として関ヶ原で戦死したため、彼の佐土原の領地は公儀に没収されたが、
それで島津宗家と伊東の気まずい空気が無くなるわけではない。(逆に増々悪く・・・汗)

このまま島津の御家存続が決まれば、薩摩・大隅の二か国の太守・島津宗家に、
わずか3万6千石の伊東家は |国境|_ ̄)じー と、睨まれ続けるのだ。

伊東家は何とかしようと焦り、
島津分家と小競り合いをした本人である稲津重政は、伊東家で政治的に孤立するのだった。

家紋・伊東(伊東家紋)

伊東家の焦りの一つに、父・祐兵(すけたけ)の死で当主となった嫡男・祐慶(すけのり)に対して、
幕府から「領知宛行状=領有を認める保証書のようなもの」が発行されていないことがある。

領知宛行状は一度貰えばOKではなく、有効期限は貰った当主一代限りで、
伊東家でいうと祐兵の死で消費期限が切れている。

新たに家督を継いだ祐慶クンは、改めて公儀から発行して貰わなければならないんです。

また大名当主の代替わりに関係なく、将軍の代替わりの時に再交付される事もあります。

これは新将軍の権威付けのためで、文書としての形式が整ったのは寛文年間(1667年)です。

徳川家康から新将軍・秀忠に代替わりしたが、諸大名への領知宛行状は出ていない。

発行されたのは1617年・・・つまり豊臣家が滅亡した後のことです。

徳川家では実質・領地宛行状と同様の裁定をしていながら、文書の発行そのものは豊臣家が滅ぶまで慎重でした。

ですが伊東家では、そこまでの高度な政治判断がなされているとは思いいたらず・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

いや気づいていたとしても、祐慶クンが宙ぶらりんの放置プレイにあっていることには変わりないわけでして・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

少しでも良い立ち位置に・・・公儀の覚え目出度く・・・と伊東家は涙ぐましい努力をします。

大坂の陣の前に「5万石以下の小大名の武功は単発でカウントされない」と知ると、
(小大名は与力大名(下世話に言うと金魚のフン)として、大藩の軍編成に組み込まれちゃう)

全ての土地を引きはがすかのようにして領内の強制検地を敢行し、
3万6千石から5万7千石という数字を叩き出して、幕府へ報告するんです。

もちろん「台所は火の車」なんて文学的表現を通り越して、決算書が大炎上~

そこで祐慶クンは、船の材料に適した飫肥杉の殖産事業に励んで収支トントンするのです。。(-人-)ガンバリマシタ


話戻って、1602年の稲津重政です。

日向記によると家中で孤立した稲津はヤケになって粗暴な態度が目立つようになったとあります。

宮崎城攻撃の時に、祐慶から借りた「秘蔵の愛馬」を何時までも返さない。

そこで家臣が派遣され「もういい加減に返しなさい」と言ったら「そのうち返すつもりだった」と稲津の答え。

稲津の不遜な返事に「それが主君の使者に対する態度か!」と使者が逆切れし、
脇差を抜いて稲津に斬りかかった。(使者の方も問題あると思うが

驚いた稲津が(主君の使者と会うので丸腰・まるごし=武器不携帯だった)部屋から逃げると、
次の間に控えていた稲津の家臣が「主君の使者を」「斬り殺してしまう」(゚ロ゚屮)屮ぇええっ!

これが伊東家で大問題になった(そりゃそうだ

報告を聞いた祐慶クンの生母・阿虎の方(この時は夫の菩提弔って尼姿)が、
ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.「稲津を殺せ!」と命じたと伝えられている。

さらに国家老・松浦までが「稲津に粗暴の過度あり」と大坂にいる祐慶に訴え出た。


祐慶クン15歳は、産まれたのは日向だけど、物心ついたときには大坂屋敷で(人質兼ねる)暮らしていたので、
国許の事情が皆目(かいもく)分からない~~

ましてや奇跡の御家再興を果たし「伊東家・中興の祖」と称えれる偉大な父・祐兵が、
42歳の働き盛りで病死したばかりで家中の動揺が治まってない。

さらに祐兵の晩年は関ヶ原を生き残ることで手一杯~~
嫡男に領地を統治する術など、伝えきることが出来なかった。

祐慶少年は、後年の飫肥藩の実質・初代藩主として、藩の基礎を築いただけあって聡明な少年だった。

だが「稲津の早すぎる出世に対する妬み」「島津との関係修復には稲津を排除すればいい」
という家中の空気」を覆すほどの政治力はまだ無かった。

・・・・・・稲津を庇いきれず、祐慶少年は稲津に対して【上意・切腹命令】を出す(T^T)


1602年8月18日~切腹命令を不服とした稲津が清武城に立て籠もった!
後に言う「稲津の乱」である

だが地元に伝わる話では、やや・・かなり事情が異なるのだが、それは・またの話 by^-^sio

【昨日の敵が】寝返り上等【今日の味方】飫肥藩初代藩主編9

伊東家の家臣に稲津家がある。

伊東家が日向に下向する時(鎌倉時代)から仕えている家で、いわば譜代家臣だ。

その一族の裔に稲津重政という家臣がいた。

実は省略してたが伊東家は「朝鮮の役」での働きで、2万8千石から3万6千石に加増されている。

でもって稲津は大変に武勇優れた若者でして、伊東軍の主力武将として「朝鮮の役」で活躍したそうだ。

1598年・・・太閤・豊臣秀吉が永眠

主君の伊東祐兵(いとう すけたけ)は、世情が不安定になるのを見越して、
稲津重政を清武城の城主に抜擢し、さらに家老としての待遇まで与えた。

この時に稲津は25歳の若さで、いくら譜代の家柄とはいえ、他の重臣を差し置いての出世を妬まれることになる。

1600年・・日本人全ての運命を変えた「関ヶ原の戦い」を迎えた

病の床にある祐兵は、初めは隣の島津に倣って西軍だったのだが、土壇場(本戦前)で東軍に寝返る決断をする。

そして初陣の嫡男・祐慶(すけのり)の代行として、稲津重政に軍配(ぐんばい=軍の指揮権)を授けたのだった。

城・飫肥虎口
(伊東家の飫肥城~虎口(こぐち)です~小藩ながら良い造作~このアングル大好き(*´艸`)

戦国最盛期36万石だった伊東家・・・

伊東祐兵は、島津に敗れ没落した伊東家を小領主ながらも御家再興に成功した苦労人だけに、慎重だった。

自分が不在の伊東軍の命令系統が、不測の事態で乱れることがないように、
単に軍配を授けるだけでなく、今回の大将である祐慶の秘蔵の愛馬も貸し与え、
稲津に指揮官としての権威付けして命令権者を(念を入れて)明確にした。

つまり13歳の祐慶少年は「飾りの大将」であり、戦の全責任は稲津にある、ということなんです。

海千山千の祐兵は、万が一を恐れた・・・だってもしかしたら東軍が負けるかもだもん^^b

もし西軍勝利となったら「祐慶は初陣で子供だぉワカンナイヨで押し通し、稲津に責任押し付けて~・・ゴニョゴニョ」の腹積もり・・・。

大坂から船で九州は日向(宮崎県)に戻った祐慶少年は稲津と合流。

そして稲津&祐慶少年の元に、黒田如水から使者・宮川某が派遣された。
九州における東軍の中心者は、中津の黒田如水です。
黒田から使者が派遣されるということは、事前に祐兵が如水に相談して根回ししているとシオは考えています
黒田⇒伊東への使者派遣を以て「伊東家は東軍に属す」と、後の公儀裁定で正式かつ公式に認定された。


海千山千度なら負けちゃいない黒田如水は、使者・宮川を通じて伊東家に作戦を授けた
伊東軍の攻撃目標~~~隣の西軍・高橋元種の支城・宮崎城!

ここで、さすがの如水も予測できなかったハプニングが起きた。

高橋元種は「関ヶ原本戦が東軍勝利」と知って、速攻で西軍から東軍に寝返っていたからです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

いかに如水の知謀を以てしても、ネットもテレビも無い時代の、情報のタイムログの差だけは埋められない。

1600年10月1日~高橋元種の寝返りを知らない祐慶&稲津軍は、上方に出陣してて高橋元種が不在の宮崎城を攻撃する
高橋元種が西軍から東軍に寝返り、領地安堵が決定したのが9月23日
わずか7日間の差で、この攻撃は東軍同士の同士討ち・・となってしまった・・・!

祐慶少年と稲津が出陣したのは9月28日のことで、兵力は3000名~ヽ(。_゜)ノ へっ?

最初、数字が間違いかと思って、何度も鬼検索・ネットサーフィンした^^;

だって石高が3万6千だよ、通常の動員能力より一桁多いんです。

江上・八院の鍋島様同様に国許を空にして、さらに身分・年齢に関係なく男子全てに召集をかけたのでしょう。

とにかく城を囲むには喩え「枯れ木に山の賑わい」でも、城側の数倍の兵力がいるんです( ̄ω ̄A;アセアセ

宮崎城の留守を守ったのは兵500とあるが、これも多すぎるようなぁ・・・(-ω-;)ウーン

だって高橋元種の石高は5万石でして、しかも上方に本軍を引き連れてるわけだから、
支城にそんなに残せる余力があるはずないんです( ̄ω ̄A;アセアセ

こっちも籠城だからぁ~って引き入れた城下の農民とかを「兵力」にカウントして・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

とにかく稲津の攻撃により、宮崎城は一日で陥落。

高橋元種の家臣の城代が討死し、攻撃側の伊東軍にも50人の死者が出た。

この同士討ちは、事前に如水と連携を取ってたおかげで「東軍としての行動」とされ、
「同士討ちになったのは、知らなかったからやむを得ない」と不問にされた。

だが城を奪われた高橋元種は怒ったままで、伊東家との関係悪化。

さらに伊東家でも同士討ちだから戦死者50人の死も、戦功としてカウントされず家中に不満が燻った。

1600年10月11日~伊東祐兵42歳の若さで大坂で病没

紆余曲折あったものの祐兵の博打は成功し、祐兵は病の床で領地安堵の報を受け取り、思い残すことなく死んだ。

祐兵に対して領地安堵がなされたので、数日で没しているのだが「飫肥藩の初代藩主は祐兵」となっている。(ほぼ藩祖ww)

昔話や一話完結の時代劇なら「これで、めでたし、めでたし」のはずが、話が拗れるんです( ̄ω ̄A;アセアセ

なぜなら稲津が軍行動を止めなかったからです~Σ(´Д`;)え~~

稲津はゲッツした宮崎城を維持するだけでなく、戦果を広げるべく島津軍との戦を始めちゃった(_´Д`)アイーン

10月18日~佐土原城(関ヶ原で戦死した島津豊久の領地)に迫り島津勢と小競り合いを始めた

佐土原城は分家の領地なので、島津本軍との本格攻勢というわけではありませんが、
ブチ切れた佐土原・島津軍が宮崎城に反撃したりと、小競り合いは都合20回にも及んだんです。

稲津が宮崎城を攻撃した10月1日は、関ヶ原を命がけで脱出した島津義弘一行が佐土原に到着した日です。

島津義弘が鹿児島についたのは10月4日・・・彼の元には稲津の動きが佐土原から入ってきており、
偶然の符号ですが、まるで自分の逃避行後を追って攻撃されているような錯覚を感じたでしょう。

島津軍が「次は東軍の本軍が来るのでは・・」と異常な緊張状態になって、国境付近を固めはじめるのです。


稲津が何故、軍行動を止めなかったのか・・・・

1・稲津の個人的野心説
2・亡き祐兵の授けた伊東家再興(島津から旧領奪還するぞ)作戦説
3・黒田如水が授けた作戦説
4・黒田如水と伊東祐兵の連携作戦説


とあり未だ定説がありません~~( ̄ω ̄A;アセアセ

さて島津家を思いっきり挑発した稲津の行動が、後の悲劇を招くのですが、それは・またの話 by^-^sio


【島津豊久】飫肥藩初代藩主編8

1600年6月13日~伊東祐慶(いとう すけのり)は13歳の誕生日を迎えた^-^カワユイ~

折も折「関ヶ原の戦い(この段階での名目は上杉征伐)」という大戦が始まろうとしている。

これを嫡男の初陣(ういじん=戦場デヴュー)と元服(げんぷく・武家男子の成人式)にしようと思ったのも束の間、
肝心の伊東祐兵(いとう すけたけ)が病に倒れる!

これを機に「弓矢の駆け引き」を自ら我が子に教えたいという願いも、もはや叶いそうもない・・・病床で祐兵は懊悩するのだった。

出典元:日向纂記
参照元:しいまんづ雑記旧録「日向纂記と島津豊久」

城・飫肥虎口
(伊東家・飫肥城の虎口(こぐち)~シオお気に入りのアングルです(*´艸`)ルンルン)

身は大坂にあれど、領地は日向(ひゅうが・現在の宮崎県)の伊東家です。

九州では東軍の旗印を明確にしてるのは、黒田家と加藤清正だけでして、後は中立か西軍。

伊東家の隣・島津家は西軍で、しかも本軍の殆どが(大人の事情で)本国・薩摩に留まってる状態だったので、
小領主ばかりの日向の大名たちは、島津に倣っての西軍入りでした。

重篤となった祐兵は大坂城に出仕もままならず、軍議も病のためと欠席が続いた。

だが時期が時期だけに「祐兵の病は詐病で東軍に寝返ったのでは?」と疑われたのです。

祐兵を疑ったのは、同じ日向の領主同士の秋月種長・高橋元種でして、二人は秋月種実の息子たち^-^

二人は島津義弘邸の島津豊久を訪れ、祐兵の話を持ちかけた。

「ワシと伊東殿は無二の親友(朝鮮の役で親しくなった設定らしい)ゆえ、ワシが見舞いとして何としても様子を見に行き、真偽を確かめてこよう」
「万が一詐病が事実で、東軍に寝返っていたのならば、刺殺するのは容易いことだ。」
「貴殿らはワシの帰りを待っていてくれ」

ということになって、豊久が単身で伊東家大坂屋敷を訪ねた。

家紋・島津(島津家紋ロゴ)

豊久が尋ねると、祐兵の重病は紛れもない事実だった。

顔色は蝋のように白く、唇は青紫色になり、息するのも苦しげで、見る影もなくやせ衰えている。

まだ42歳だというのに、褥から豊久に向かって差し出した手は老人のように枯れていた。

島津豊久は一時でも親友を疑ったことを恥じると同時に、あまりのやつれように言葉も咄嗟に浮かばず、

「六郎三郎(祐兵の通称)殿・・・」とだけ言うと絶句してしまった。

「このような有り様です・・・横になったままの見苦しき姿をお許しあれ・・・ゲホゴホ」

「あぁ!お構いなさるな、すぐに辞しますゆえ・・どうかゆるりと養生して本復を・・・」

言ったそばから本復などという言葉に、虚しい響きが混じるのを隠しようが無かった。

「いえ・・・これだけは言わねば・・・それなるに控えてるのは、我が嫡男・左京亮(祐慶)でござる・・・どうか見知りおきくだされ・・・」
「此度が初陣にて・・・甚だ心許のうござる・・・どうか、宜しくお引き回し願いたく・・なにとぞ・・・」

そう言うと祐兵は、やせ衰えた身体を必死に起こそうとしたので、

「あ、いや、どうか!そのまま!御嫡男のことは、この豊久がシカと承った安堵下され」
「あぁ・・忝い・・・左京亮(祐慶)・・・佐土原の領主・島津又七郎(豊久の通称)殿じゃ・・・御挨拶をいたせ」
「お初にお目にかかります。祐慶でございます。父から又七郎様の武勇のほどは伺っておりました。足手まといと思いますが宜しくお願い致しますm(_ _)m」
「おお、立派な挨拶じゃ、これなら諸侯の前でも申し分ない大丈夫ですぞ^-^」

「忝い・・・思えば貴公とも不思議な縁で親しく交わったが、、いよいよ今生の別れとあいなり、、、一足先に冥途へと参ること・・・お許し・・ゴホゲホ・・」

「六郎三郎殿・・!。゜゜(´□`。)°゜。」

もはや先が無いであろう親友の心中を思い、涙の別れをした豊久は、
義弘邸で彼の帰りを待っていた秋月種長と高橋元種に向かって「伊東殿の病は真でござる。安堵めされ」と報告した。

家紋・伊東(伊東家紋ロゴ)


解りやすさ優先でシオ流アレンジしてます^^
原文に関して「もっとkwskって方は参照元を御覧下さい^-^

で、結論から言うと、この逸話どうも江戸期のアレンジ臭(もしくは創作逸話)がする。

というのも原文には、歴史上は存在しないはずの島津豊久嫡男の名前がある。
(記述者の勘違いか?)

さらに関ヶ原前だというのに豊久は「関ヶ原での討死の覚悟」を語ってる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)

文中の豊久は「かなりの御人好しちゃん、アホの子」キャラになってます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

でもって伊東祐兵です。

実は祐兵は「既に西軍から東軍に寝返る決意」をしてました。

祐兵が西軍のどこに不安を感じたのか記録には無いです、病人ゆえの心変わりかもしれません。

とにかく祐兵は密かに、そして急ぎ便船を用意すると嫡男・祐慶少年をサッサと本国に帰国させちゃった

この後、島津と伊東は揉めることになるので、
島津に配慮した伊東側が「豊久と祐兵仲良し逸話」を捏造言い訳にしたと思われます(*´pq`)クスッ

祐兵は祐慶少年を帰国させるときに、黒田如水と連絡を取り合い、何事か密談したようだ。

このあたりはシオ的推測になるのだが、祐兵は嫡男の帰国前に黒田家大坂屋敷に何らかの意思表示をしたはずです。

というのも如水が九州の関ヶ原のために行動を開始したのは6月からです。

自前の軍隊・如水混成軍の兵の募集を開始してて、北九州だけでなく豊後(大分県)にも広く声をかけてました。

情報収集に熱心な九州の武将なら、如水の動きが入ってきてるはずで、
祐兵が寝返りしたことに、如水の動きは無関係ではないでしょう。

伊東家御家再興のために、一時期(vs明智~九州征伐まで)は豊臣秀吉の陣中にいた祐兵ですから、
黒田如水の油断ならない知謀は、直接に見聞きしてます。

それに黒田如水は、毛利本軍が上方に行った隙を狙って、関門海峡の制海権を既に確保済。

祐慶少年の乗った船が無事に日向に辿りつくためには如水に対し、
「僕は東軍なんです。父上から、そう言われたの^-^」って一礼入れないと砲撃くらっちゃう^^;

家紋・黒田(黒田家紋ロゴ)

祐兵にすれば、まだ未熟な祐慶を勝手の解らぬ上方でウロウロさせても大した武功は上げられない。

それより如水の勢いに便乗して、日向にある西軍の城を、東軍として落とす方が、徳川家康の覚え目出度いと判断した。

もちろん初陣の祐慶には戦の指揮は出来ない。

そこで祐兵は武勇優れたお気に入りの家臣に軍の指揮権を託した。

一度は没落した伊東家を再興しただけあって、祐兵の生き残りに賭ける執念は並々ならぬものがある。

祐兵・最期・・・渾身の大博打。

歴史は彼の掛け目が正しかったことを証明しているものの、
伊東家が飫肥藩として生き残るための犠牲者が出てしまうのだが、それは・またの話 by^-^sio

【系図上人物一覧】

●東郷
・初代・実重~渋谷光重の次男(婿養子。妻が光重の娘。)。実は紀平三武者実直の子。母は渋谷重国(祖父)の娘・又鶴。

・2代・忠重~実重の嫡男。承久の乱で戦功。

・3代・重高~忠重の嫡男。弘安の役で戦功。

・4代・頼重~重高の嫡男。妻は寺尾重道の娘・竹鶴。

・5代・重親~頼重の嫡男。弘安9年生まれ。別名:忠重。徳治3年9月23日、淵脇山の土穴に入り憤死。

・6代・氏親~頼重の次男。別名:重清・重幸・氏重・氏清・武重・重年。妻は島津忠宗の娘・経阿
・-----重勝~氏親の長男。穴野氏の祖。
・-----重将~氏親の三男。入来院庶子惣領家。
・-----宗定~氏親の四男。
・-----重頼~氏親の五男。白男川氏の祖。
・-----頼賢~氏親の六男。野久尾氏の祖。
・-----正重~氏親の七男。二渡氏の祖。
・-----重隆~氏親の八男。糟毛田氏の祖。
・-----実久~氏親の九男。川原氏の祖。
・-----右治~氏親の十男。石坂氏の祖。

・7代・右重~氏親の次男。母は経阿弥。別名:重喜・実久・助重・祐重。
・-----重貫~右重の次男。白浜氏の祖。

・8代・重元~右重の嫡男。別名:重信。
・-----重世~重元の次男。鳥丸氏の祖。

・9代・重明~重元の嫡男。

・10代・重隆~重明の嫡男。

・11代・重信~重隆の嫡男。別名:重述。

・12代・重理~重信の嫡男。妻は薩州家島津国久の娘。
・------重信~重理の次男。別名:重誠・重貞。

・13代・重信~重理の嫡男。母は島津国久の娘。文明11年9月13日没。

・14代・重朗~重信の嫡男。別名:重朝。妻は入来院重聡の娘。

・15代・重治~重朗の嫡男。別名:重張。

・16代・重尚~重治の養子。菱刈重州の三男。別名:重綱。妻は相良長滋の娘。島津氏に降伏し、元亀元年1月5日に領地を献上。天正13年没。

・17代・重虎~重尚の養子。島津家久の次男。母は樺山善久の娘。後に島津氏に復姓。別名:忠直・忠仍。元和7年5月29日没。

●祁答院
・初代・重保~渋谷光重の三男。別名:重直。鶴田柏原に下着し柏原と号する。
・-----朝重~重保の嫡男。吉岡と号する。大前氏と戦い戦死。
・-----経重~朝重の子。中津川氏の祖。
・-----惟重~重保の次男。中津川貞重後嗣。

・2代・重尚~重保の三男(養子)。祖父・光重の嫡男・重直の子(一説に朝重の次男)。吉岡と号する。
・-----将重~重尚の嫡男。吉岡と号する。

・3代・重松~重尚の養子。惟重の子(一説に惟重の弟)。

・4代・行重~重松の養子。大井頼郷の子(中津川重雄の別腹の弟)。建武2年2月29日に蒲生で没。

・5代・重実~行重の嫡子。貞治元年6月12日没。
・-----重氏~重実の次男。久富木氏の祖。

・6代・公重~重実の嫡子。別名:重成。平川城主。平川と号する。

・7代・重茂~公重の嫡子。別名:重氏。応永22年11月2日没。
・-----重近~重茂の嫡子。山崎氏の祖。
・-----重義~重茂の次男。大村氏の祖。
・-----延重~重茂の三男(一説に重茂の弟)。応永27年1月1日没。
・-----重基~延重の次男。蘭牟田氏の祖。

・8代・久重~重茂の養子。延重の嫡子。別名 :重久。永享4年1月11日没。
・-----諸重~久重の次男。大村氏の祖。

・9代・徳重~久重の嫡子。寛正5年6月15日没。
・-----(女子)~徳重の娘。長禄3年、虎居城(後の宮之城)下の八女瀬で没。

・10代・重慶~徳重の嫡男。別名:重度。

・11代・重貴~重慶の嫡子。別名:重隆。妻は入来院重聡の娘。
・-----清重~重貴の次男。別名:重清。
・-----重隆~清重の子。湯田氏の祖。

・12代・重武~重貴の嫡子。永正元年生まれ。享禄2年に帖佐城・山田新城を併領。天文7年7月23日没。
・-----重朝~重武の次男。黒木流。

・13代・良重~重武の嫡子。大永6年生まれ。永禄9年1月15日に妻に刺殺され没。妻は島津実久の娘(諸説)・虎 姫。
・-----重経~良重の嫡子。天文7年生まれ。母は虎姫。田中と号する。天文23年10月2日に岩剣城の戦いに於いて帖佐高樋で戦死。
・-----(女子)~良重の娘。天文10年生まれ。母は虎姫。天文23年没。

●鶴田
・初代・重茂~渋谷光重の四男。別名:重諸。大谷と号す。承久3年、宇治川で戦死。
・-----為重~重茂の次男。谷口氏の祖。
・-----重光~重茂の三男。

・2代・重行~重茂の嫡男。
・-----経重~重行の次男(一説に重成(4代?)の子)。
・-----文重~重行の三男。
・-----重朝~重行の四男。
・-----重頼~重行の五男。
・-----重俊~次男経重の子。
・-----重信~重俊の子。湯田氏の祖。

・3代・頼重~重行の嫡男。

・4代・重成~頼重の嫡子。

●入来院
・初代・定心~渋谷光重の四男。建長6年2月4日没。
・-----重純~定心の長男。別腹。楠元氏の祖。
・-----重経~定心の三男。寺尾氏の祖。
・-----重賢~定心の四男。
・-----重経~重賢の嫡男。
・-----重世~重賢の次男。中村氏の祖。
・-----範幹~定心の五男。別名:範重。倉野氏の祖。

・2代・明重~定心の次男。建長2年10月20日に入来院惣領職。文永3年4月2日没。
・-----篤重~明重の庶長子。山口氏の祖。
・-----重高~明重の三男。
・-----有重~明重の四男。文永2年8月3日、清色郷を譲り受ける。弘安4年6月29日戦死。妻は島津氏の女。
・----- 致重~明重の五男。弘安の役で戦死。
・-----静重~明重の六男。別名:重静。
・-----重知~静重の子。妻は高城重棟の娘。
・-----重尚~明重の七男。弘安の役で戦死。

・3代・公重~明重の次男。文永2年に惣領職。
・-----長徳丸~公重の嫡男。早世。
・-----祐重~公重の三男。曽司と号した後、岡本と号す。

・4代・重基~公重の次男。興国6年11月26日に所領譲与。妻は到重(致重の誤記?)の娘・弥陀童女。

・5代・重勝~重基の養子。重知の子。母は高城重棟の娘。正平4年閏6月23日に所領譲与。
・-----重宗~重勝の庶長子。別名:重成。村尾氏の祖。
・-----養庵~重勝の三男。
・-----坂本 坊~重勝の四男。
・-----重次~重勝の五男。江河と号する。子孫は東郷と号する。
・-----重継~重勝の六男。(系図に実弟とあり、重門と同腹との意か?)
・-----牢山~重勝の七男。実は従兄。寿昌寺の第十世住持。峯ヶ城で戦死。

・6代・重門~重勝の次男。文中元年6月23日に高江峯ヶ城で戦死。妻は島津氏の女。
・-----重良~重門の次男。下村重氏の養嗣子に。
・-----長王~重門の嫡女。
・-----虎絵~重門の次女。
・-----栗犬~重門の三女。

・7代・重頼~重門の嫡子。建徳2年10月15日に家督。永享元年10月9日没。
・-----越前守~重頼の次男。副田と号す。

・8代・重長~重頼の嫡男。応永13年11月15日に家督。康正2年8月26日没。妻は島津氏の女。
・-----(女子)~重長の嫡女。下村重秋室。
・-----山城守~重長の次男。
・-----左馬助~重長の三男。
・-----(女子)~重長の嫡女。大村諸重室。
・-----(女子)~重長の次女。蘭牟田河内守室。
・-----(女子)~重長の三女。蒲生清寛室。
・-----宮内少輔~重長の四男。

・9代・重 茂~重長の嫡男。応永30年8月16日家督。妻は東郷氏の女。文亀元年閏6月2日没。

・10代・重豊~重茂の嫡子。嘉吉元年2月27日に家督。文亀元年閏6月2日没。妻は北原貴兼の娘。
・-----(女子)~重豊の嫡女。高城重隆の室。

・11代・重聡~重豊の嫡子。延徳2年8月21日に家督。天文年中病没。妻は白浜重秀の娘。
・-----(女子)~重聡の嫡女。東郷重明の室。
・-----(女子)~重聡の次女。高城重弼の室。
・-----(女子)~重聡の三女。島津貴久の室。
・-----平太次郎~重聡の次男。
・-----重貞~重聡の三男(養子)。実は高城重隆の次男。後に本姓に復し、入来院庶子惣領家を興す。

・12代・重朝~重聡の嫡男。母は白浜重秀 の娘。百次・隈之城・宮崎を加領。年不明(天文15年以降)の7月16日没。
・-----重郷~重朝の次男。副田氏の祖。
・-----重治~重郷の子。
・-----重博~重朝の三男。岡本重堅の養子となる。
・-----右馬允~重朝の四男。

・13代・重嗣~重朝の嫡男。別名:重副。島津氏に降伏し、元亀元年1月5日に領地を献上。12月2日没。
・-----(女子)~重嗣の嫡女。重郷の子・重治の室。
・-----又六~重嗣の次男。
・-----重載~重嗣の三男。重朝三男の子・岡本重博の養子となる。
・-----(女子)~重嗣の次女。高城重説の室。

・14代・重豊~重嗣の嫡男 。母は肝付兼興の娘。天正11年8月5日没。妻は島津忠将の娘。

・15代・重時~重豊の婿養子。島津以久の次男。母は北郷時久の娘。天正元年生まれ。関ヶ原より退却の9月23日に戦死。

●高城
・初代・重貞~承久三年に戦死。
・-----重公~重貞の次男。知覧流の祖。
・-----将重~重貞の三男。
・-----重豊~重貞の四男。

・2代・重秀~重貞の嫡男。
・-----得位分~重秀の次男。
・-----重仲~重秀の三男。弘安の役に於いて壱岐で戦死。

・3代・重郷~重秀の嫡男。鎮西引付衆。従五位下。
・-----重名~重郷の次男。
・-----重春~重郷の三男。暦応4年に祁答院押領。
・-----重棟~重郷の四男。鎮西引付衆評定。居城の祁答院湯田城を鶴田経重に奪われる。

・4代・重藤~重郷の嫡男。別名:重勝。鎮西引付衆。
・-----重氏~重藤の次男。
・-----三郎~重藤の三男。坂河三郎重通か?

・5代・重雄~重藤の嫡男。大河と号する。鎮西引付衆評定。従五位下。
・-----重躬~重雄の次男。貞治3年に湯田天神を創建。

・6代・義重~重雄の嫡男。

・7代・重豊~義重の養子。実父は重躬。
・-----重貴~重豊の次男。大口流の祖。
・-----重興~重豊の三男。

・8代・重令~重豊の嫡男。
・-----重頼~重令の次男。
・-----重持~重令の三男。

・9代・重継~重令の嫡男。妹背城から水引城へ移る。

・10代・重珍~重令の四男。重継が水引城へ移った後の妹背城主か?

・11代・重頼~重珍の嫡子。妹背城を失し水引城へ移るも、水引城も失う。
・-----重兼~重頼の次男 。嘉吉元年生まれ。雪舟門下で画号は秋月。享禄2年没。

・12代・重政~重頼の嫡子。

【年表:祁答院・入来院・東郷・高城】1401~1570年

1401 応永八年
祁答院氏:第二次鶴田合戦にて鶴田氏が敗走。大村出羽守(重続?)が鶴田にて戦死。

1403 応永十年
入来院氏:渋谷重頼、島津元久より鹿児島郡武村と揖宿郡成河村を与えられる。

1405 応永十二年
東郷重元が次男の重世に鳥丸村を譲り、重世は鳥丸氏を称する。

1409 応永十六年
島津元久、薩・隅・日の守護となる。

1411 応永十八年
入来院氏:渋谷重頼と嫡子・重長(8代)、清色城を奪回する。

1415 応永二十二年
高城氏:高城重雄(5代)、弟の三郎(4代・重藤の三男。坂河重通か?)により敗走。高城氏は高城を失う。

1419 応永二十六年
入来院氏:渋谷重長が島津忠朝を永利城に攻める。

1422 応永二十九年
島津久豊が奈良美作守(久豊臣下で揖宿領主)に東郷を討たせる。

1440 永享十二年
入来院氏:塔之原で樋脇氏が台頭、勢力を振るう。

1459 長禄三年
祁答院徳重(9代)の娘ら、川内川で溺死する。

1462 寛正三年
入来院氏:渋谷重豊(10代)が島津立久より火同・永利・山田城を充行われ、入来院を名乗る。

1482 文明十四年
東郷重理(12代)・祁答院重慶(10代)・入来院重豊・菱刈道秀・北原立兼らが島津氏討伐を謀る。

1484 文明十六年
東郷重理・祁答院重慶が水引城を攻める。
東郷重理・島津忠昌・入来院重豊ら、山崎牧の峰に陣を置き、祁答院重貴(11代)を攻める。

1485 文明十七年
文明の大合戦が起こる。東郷重理が島津忠兼と山田に戦う。
島津忠昌が蘭牟田城を攻略。祁答院氏が大村城を攻撃、大村は祁答院重慶の所領となる。

1486 文明十八年
島津忠昌、隈之城に陣して東郷を討つ。

1504 永正元年
東郷重朗(14代)、島津忠治に忠節を尽くし、水引を拝領する。この頃、東郷流高城氏が起こる。

1510 永正七年
入来院重聡(11代)が島津忠治より、隈之城を与えられる。

1529 享禄二年
祁答院重武(12代)が帖佐本城・山田城を攻略し、姶良進出を果たす。
入来院重聡が島津実久と戦い、百次・山田以西の城邑を攻略。

1532 天文元年
入来院重朝(12代)、平佐城を攻略。

1536 天文五年
入来院重聡、島津勝久より百次城を与えられる。

1537 天文六年
入来院重聡、島津貴久を応援し伊集院竹山城を攻略する。

1539 天文八年
東郷重治(15代)、水引城を攻略。
市比野宇都の前園屋敷に於いて、島津貴久・入来院重聡の会見が行われる。

1545 天文十四年
東郷・祁答院・入来院、郡山城に叛き敗れる。

1549 天文十八年
東郷・祁答院・入来院、島津貴久に謝罪する。

1554 天文二十三年
祁答院良重(13代)の嫡男・重経が10月2日、岩剣城の戦いで島津氏に敗れ戦死。良重は帖佐城を島津貴久に攻められ、姶良地方より撤退する。

1557 弘治三年
東郷重治、阿久根大川で島津義虎と戦い勝利。
島津貴久に蒲生城を攻められ、蒲生範清が祁答院良重を頼って松尾城へ逃れる。

1566 永禄九年
祁答院良重、虎居城に於いて夫人に刺殺され、祁答院氏断絶。入来院重豊(14代)が祁答院を領する。

1568 永禄十一年
6月18日、東郷重尚(16代)、島津義虎と阿久根で戦う。義虎側63人が戦死する。

1569 永禄十二年
8月18日、阿久根深迫村にて東郷と合戦。
義虎方・村尾安房守重利が弓にて東郷の家老・白浜上総介重陣の股に矢を射当て、馳せて首を取らんとしたが重陣は尚も戦い、所々手負いとなるも遂にその首を討ち取った。
このとき東郷方の者共83人が討ち取られる。

1570 元亀元年
1月5日、東郷大和守重尚ならびに入来院石見守重副が、押領していた地を進上し降参したため、居城は返してそれ以外は召し上げた。
百次・平佐・隅ノ城・宮里・天辰・碇山・高江は入来院より進上、中郷・高城・水引・湯田・西方を東郷より進上。
東郷重尚には島津貴久より東郷を与えられ、入来院重嗣には入来院が与えられ、高城・水引・湯田・西方・京泊は島津義虎に与えられる。

【肝付氏他】

●肝付越前守兼演入道以安 :三郎五郎
越前守兼固の子。子孫は喜入領主・肝付主殿。忠兼公御家老。

家嫡・河内守兼忠の三男・越前守兼光が大崎を領す。その子・兼固は文明18年に大崎より移り、隅州溝辺を領す。
大永6年11月、忠兼公より虎寿丸様へ御家督御譲りの時、忠良公相模守に御成り遊ばせた折、樺山信久は安芸守に、兼演は越前守に罷り成り候。
同7年4月、忠良公、帖佐の内、辺川・加治木・木ノ内・中ノ州を下され候(加治木を攻め取るは、この年とも云う)。
天文3年、兼演、加治木を攻め取り、溝辺より加治木へ罷り帰り候。
同6年、兼演、島津実久の催促に応じ、一旦貴久公へ敵対致し候。
同18年11月下旬、北郷忠相・島津忠親へ相付き降参仕り、
12月11日、兼演父子、清水へ参上仕り御目見え仕り候て、前罪を謝り奉り候。
同19年、加治木郷安堵の御判を下され候。同21年7月4日卒。享年55。存庭兼祐居士。

{二次史料より:永正16年、勝久の命で伊集院尾張(曽於郡代)を討つ。享禄2年、加治木略取。勝久家老。喜入肝付家祖}

●肝付弾正忠兼盛 :袈裟寿丸、三郎五郎
天文2年生まれ。兼演嫡子。母は廻兵部少輔の女。貴久公御家老。貴久公の御妹聟なり。

天文23年、蒲生・渋谷らまた叛くに於いて、兼盛、異心なしの旨の誓紙を進上仕り候。8月、祁答院・入来院・蒲生・渋谷らの凶徒、加治木を攻む。北原もまた渋谷に加勢致し候。同29日、兼盛、網掛川に於いて合戦致し、凶徒4人を討ち取り、清水・宮内・姫木・長浜の後詰来りて、9月10日、また合戦。大隅衆また後詰として着船候。同13日、貴久公御父子、後詰の為に平松へ御着陣。凶徒ら驚きて加治木を引き退き候。

弘治元年3月8日、兼盛、溝辺・加治木・日当山・長浜の衆を召し連れ、帖佐の山田へ押入り、伏兵を以って凶徒23人を討ち取る。加治木の 卒将・徳永与一左衛門、安田杢之丞、歩卒2人の他、溝辺・長浜の歩卒ら戦死。
同4月2日の夜、凶徒、利を失い、帖佐新城ならびに山田城を捨て祁答院に退く。これらの賞として、貴久公より西別府・有川を下され候。
永禄4年5月、肝付省釣、廻城を攻め取り、義久公御発向し、兼盛罷り立って手負い。
同6年、飯野御危急のとき、籠城致した軍労に付き、義久公より御書発給さる。
同9年、三山城攻めの御供をし軍労。同10年、菱刈御退治軍功。同11年、忠平公、馬越城より大口を御攻めのとき、力戦仕り候。

同年2月28日、島津忠長同道にて、馬越より市山へ差し越し、新納忠元同心にて、小苗代薬師へ参詣致す処、大口城より敵打ち出て忠元難儀に及び{後述}後殿なり。
同12年、忠元・兼盛ら大口城を取り囲み、敵遂に利を失い降参致し求摩へ退散。その為、義久公より御感状ならび曽於郡のうち上三台堂を下され候。
元亀2年、肝付・伊地知・禰寝の御退治に兼盛、罷り立ち候。天正4年、高原城攻めにも御供仕り候。同5年、日州御発向に御供仕り軍労。
同6年8月11日卒す。享年46。殉死・二宮肥後守の他は、切り指すると云う。


○後述:新納武蔵守忠元入道拙斎為舟の項より抜粋
永禄11年2月28日、馬越より戦の談合の為、何れも市山へ来たり、その晩に小苗代薬師へ参るべく島津忠長と肝付弾正が同心にて参り候ところ、大口城より見付け候て、多勢打ち出て皆々市山へ引き入り候を敵追いかけて彼所にて応じ候えども、敵雲霞の如く取り掛かり一大事に及び候ところ、市山向之坂の上に忠元応え、敵に指し合い槍合わせ候。
このとき被官・久保筑前一人を召し連れ求摩の足軽・竹添丹波と申す者、後ろより忠元の左の片腹を槍にて深く突き候を筑前見て、忠元を坂の下に引き下ろし候。
そのとき、槍を取りは放れ{手放し}刀を寝ながら抜き候て、敵に差し合い候。槍5-6本にて叩き掛け候を、相しらい市山外の垂まで退き入り候。
このとき小苗代にて敵2人(一人は川畑甲斐守)市山丈の垂にて3人(一人は東郷藤左衛門と申す名の有る武士なり)討ち取り、腹と頭に槍疵6ヶ所、このときは我ながら随分の働きと申し候由。伯囿公より長谷場織部介・三原右京亮を市山へ差遣、御感の由 仰せ聞き候。忠長・兼盛も途中にて敵に遭い合戦し、新納右衛門・鎌田尾張迎えに出候て帰ると云々。


●肝付弾正忠兼寛 :袈裟寿丸、三郎五郎。加治木弾正という。
兼盛嫡子。永禄元年生まれ。母は忠良日新斎公御女。

天正3年3月16日、犬追物射手、三郎五郎、4疋射る。17日にまた射手、5疋射る。4月21日また射手也。
天正6年、大友日州に入り、義久公御発向御供、11月11日敵敗北のとき軍労。
同8年10月15日、肥後矢崎城攻めのとき、敵数多討ち取り候。同9年5月15日、諸将と組み、肥後室(肥後宝とも)河内を攻め抜く。同10年8月18日、水俣御陣御供。同11年、諸将と組んで八代へ出陣、肥後より肥前有馬へ発向致し、同12年、肥後日比良を攻め抜く。
同11年9月、肥後八代へ罷り立ち、10月、諸将と組んで堅志田を侵す。同11月、花山城を築き各々帰国。
同12年3月、肥前有馬へ罷り渡り 戦功あり。同年6月上洛。9月29日、加治木へ下着(日記より。何の故あって上洛するか可疑)。
同13年8月13日、諸将と組んで肥後阿蘇を破り、同閏8月13日、堅志田城攻め、上井覚兼を先登として内城を攻め落とす。今夜、

覚兼と内城に罷り在り候。上下鎧の袖を片敷き一夜を明かし候なり。
同14年1月13日、諸将と組んで日州高森を攻め落とす。同年7月、諸将と組んで岩屋城を攻め落とす。同年10月、豊後入りの御供於いて諸所にて軍労。同15年、豊後引陣にて軍労。

同18年3月3日卒。享年33。利翁守益庵主。
兼寛領高 15,084石。城9つ。領地:加治木・溝辺(地頭は家臣・新納三河守久林なり)・踊・日当山・三代堂{三台堂}。


●肝付三郎五郎兼三
兼寛養子。実は伊集院幸侃の三男なり。

文禄4年、加治木・溝辺・三台堂を召し上げ、薩州喜入ならびに阿辺郡のうち宮清を下される。
同10月26日、加治木より喜入へ罷り移り候。
慶長2年、兼三、300余人召し連れ、高麗へ罷り渡り、加徳島御陣に罷り在り候。同5月、兼三、幼稚にて帰朝仰せ付かり、家老・前田久右衛門盛張が軍代官勤め候。
同4年、父・幸侃の隠謀露見し伏誅ゆえに、兼三、肝付家を去り阿多に移り、後に誅され候。


●肝付越前守兼篤 :兼仍、小五郎、狩野介、伴兵衛尉。
兼寛後嗣。実は兼盛の次男なり。 永禄5年生まれ。生母は菱刈兵庫頭重猥の女。

慶長4年、兼三が去り、当家・兼盛忠功の故を以って、龍伯公、兼仍に家督仰せ付け候。兼三去り、河辺のうち清水(前には宮清とあり、これには清水とあり是の非を知らず)高800石余召し上げ候。
同年、庄内御陣御供軍労。同年2月16日、御家御安定の御祝言のとき、公を伺い仕り候。
同14年、琉球征伐に兼篤軍役、84人を召し連れ2月25日喜入を立ち、28日に家久公、山川へ御着き、兼篤は大島を攻めよとの御意受け候。3月3日夜半、諸軍と組んで山川を出帆、同7日、大島へ着船、島中尽く降伏、同17日、徳之島へ渡り、同25日、琉球運天津に入り、今皈仁城、未だ戦いて没落。4月4日、国王降参にて下城(5月5日、琉球出船。同21日、鹿児島へ凱旋すと、西藩野史に見えたり。野史には、25日、薩州に帰るとす。また兼篤の渡海の事を記せず)。
同年6月29日卒。享年48。傑心大英居士。


●肝付弾正少弼兼武 :鶴寿丸、長三郎。
兼篤の子。慶長6年生まれ。生母は岩切善信入道可春の女。

慶長14年、9歳のとき家督。同年に於いて、家久公の御前にて元服、号を長三郎兼武とし、御刀一腰(祐定)拝領。また国分加治木へ参上仕り、龍伯公・惟心公へ御目見え仕り候。
同19年冬、大坂御出陣のとき、100余人召し連れ肥後まで罷り立ち候。同年、河辺・宮村召し上げ、日州真幸吉田のうち西明寺ならびに、津留村のうちに御繰替え下され候。
元和年中、諸士石行四部一(?)召し上げのとき、50石進上仕り候。
寛永2年8月19日卒。享年25。法名:自性了源居士。


●肝付伴兵衛兼屋 :兼治。鶴寿丸、三郎五郎。
兼武の子。元和5年11月14日生まれ。生母は渋谷四郎左衛門重持の女。

寛永2年8月に家督、7歳。同4年8月27日に於いて、家久公の御前にて元服。御刀(安房)拝領。
同15年1月9日、100余人召し連れ、島原へ罷り立ち候。同20年、組頭。寛文2年8月、大目付。慶安4年、小根占地○{←:地頭?}。光久公の御妹聟。
延宝3年4月29日卒。享年57。桃外院洞巌素山居士。

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以下、二次史料より抜粋。

伴姓肝付氏は、薩摩国総追補使として入国した伴掾兼行の子孫で、島津一円庄に広く拡がり栄えた。肝付(その分派:救仁郷・検見崎・岸良・薬丸・津曲・野崎・河南・三俣・鹿屋・山下・頴娃・橋口)・萩原・安楽・和泉・梅北氏等がその一族。
戦国期、肝付兼続が島津氏に最後の抵抗を試みて滅ぶ(小番家)。支流肝付兼政(後の頴娃氏・一所持ちの同格)・加治木領主兼演あとの肝付氏(一所持ち喜入)が残った。頴娃氏は嫡男に久の字が許されたが、肝付氏の家字は兼である。
肝付兼続の後室・御南は忠良の娘。


●肝付新大夫兼俊
肝付の祖・兼貞の子。長元9年、肝付弁済使、肝付と号す。


●肝付八郎兼重 :周防守
肝属郡と日向三俣を併領。南朝に属し、尊氏・貞久に対立。延元4年、三俣高城落城。


●肝付河内守兼忠
応永18年、久豊に反す。嘉吉元年、大覚寺義昭誅殺者の一人。文明6年、肝付領主高山城主。忠昌国人。1484没。


●肝付主税助兼光
文明6年、救仁郷領主。忠昌御内。


●肝付大炊介兼恒
文明6年、庄内山田領主。忠昌御内。


●肝付周防守兼連
兼忠の子。文明13年、忠昌と盟書交換。


●肝付治部左衛門兼家
島津以久の臣。慶長15年、以久に殉死。

【北肥戦誌・1586年】

天正14年1月4日、政家と信生は関白秀吉に音信を通じるべく、江上入道賢也を上洛させ、
「昨冬に三家は一旦和睦したものの(?)、鹿児島と府内の間は程なく和が破られたと聞こえ、また龍造寺に於いても島津より色々相違する旨があった。
別して一昨年、隆信が高来にて島津の為に戦死した事、合戦の習いと雖も政家・信生の遺恨は晴れません。
昨年9月にも小早川隆景まで成富十右衛門(信安)を関白殿へ遣わし、此度また賢也を登らせます」と伝えさせる。

賢也はまず広島で小早川隆景に褐し、2月8日に大坂へ上がって秀吉に拝褐し使いを果たすと佐嘉へ戻ったが、
すぐに三浦入道可鷗・成富信安を再び隆景に褐させ、同じく大坂へ上げて関白と仔細に及ばせ帰国させた。

そして3月15日、関白への人質として千布賢利を大坂へ登らせている。

三家の和睦破れて後、九州の諸士は思い思いとなる。

筑後衆の草野家清・西牟田家親・田尻鑑種・高良山座主の麟圭は龍造寺方で、同国の三池鎮実(親基とも)・蒲池鎮運(家恒とも)・星野鎮種・問註所鎮員と肥後衆は島津方、他に筑紫広門・秋月種実も龍造寺幕下(?)から島津へ鞍替えし、豊前の城井鎮房・長野鎮展・高橋元種も島津に与していた。

だがこの頃、筑紫広門が島津方から寝返り、高橋紹運の子・彌七郎を婿に取った。

島津は筑紫を誅伐すべく高良山へ打ち出し、諸将も伊集院忠棟の陣に参じた。

これに島津の一味の礼として、政家も神崎まで打ち出し、信生も波古川へ陣を布き、田尻勢も200人を催して政家と同所に在陣する。

今回、島津に加担し集まったのは30,000余騎、これは筑紫討伐の為だけではなく、高橋紹運の岩屋城・立花統虎の立花城をも打ち崩し、事に依っては龍造寺の城を攻めるべしとの評議であった(?何故?)。

隔して7月6日、島津勢は秋月と相談の上で人数を差し分け、筑紫の端城である朝日山・一之岳・一之瀬・鷹取らを押さえさせ、筑紫の居城である勝野尾・山浦を攻め残る所なく放火、朝日山・鷹取の両砦は瞬く間に落ち、晴門以下数百人が討ち取られた。

広門は勝野尾の本城を引き上げて降参を願い出れば、忠棟はこれを許し、広門は同月10日に筑後の大善寺に蟄居、勝尾の番には肥後の小代・大津山両氏が充てられた。

(次は岩屋城攻めですが、龍造寺関連した部分は、龍造寺政家・鍋島信生は佐嘉へ帰陣し、その陣代として龍造寺晴家・江上家種を岩屋に布陣させ、更にその代理として後藤家信・田尻鑑種が7月25日より岩屋西の口より終日鉄砲を放ち、翌日に攻め登ったとだけ)


筑紫広門は大善寺に蟄居していたが、譜代家臣の等島・小川・立石・黒岩らにより盗み出され、筑前の五箇山へ忍び入って家臣を催して1,000余騎になると、旧知の一之岳の城から島津勢を追い出した。

龍造寺勢は島津一味の礼として、筑紫により高良山座主・武辺良也(同座主・麟圭の子)が番として入れられている安楽平の城を攻めた。

良也は敵い難く筑紫に援軍を求めたが堪え切れず城を出る。

これに、すぐに筑紫勢が入れ替わるも、龍造寺勢は筑紫衆を追い出した。

この後は、田尻鑑種・西牟田家親・高良山座主・麟圭の名代を番として入れた。

9月上旬、政家は島津への手切れの使者として、田原大隅入道を薩摩へ送る。

そして9月11日、鍋島信生と共に20,000余騎を催し筑前に討ち入り、三池鎮実の領地を放火した。

三池鎮実は島津家久に属して日向表に在陣して留守であった為、留守の守兵は一人も出合わなかった。

次に政家・信生は13日より肥後へ討ち入り、政家は南関へ陣を布き、信生は土肥家実を召して大田黒まで放火する。

(以上を11月とした記述も『北肥戦誌』内に併記。その場合、16日に肥後より引き返し、筑前へ討ち入って秋月種実の領地を攻め、岩屋の城辺りまで進軍すると佐嘉へ帰陣した。)

{ホントかウソか、以下も別記↓}:
政家が南関に在陣する中、そこへ立花統虎より島津の虜となって北関にいる母妹を救いだしてくれと頼まれる。

政家はこれに応じ、大木兵部丞・堀江兼左衛門へ下知し、宮曽呂城を攻めて番兵を追い払わせて、統虎の母妹を奪って立花城へ送った。

その後、政家・信生は佐嘉へ帰陣する。

・・・・・・・・・・・嘘っぽい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

10月、関白は龍造寺より人質を出すよう命じた為、政家は母・宗誾尼を大坂へ、信生は猶子・家俊(後の茂里)を小早川隆景まで差し出した。

また黒田考高より、殿下の命と称して、龍造寺一族からも人質を出すよう乞われ、江上家種・後藤家信・龍造寺家晴・龍造寺長信・龍造寺家就からも人質が出された。

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もう竜造寺は島津に降伏してるのに、竜造寺の城を攻撃って??

なんかイマイチ腑に落ちない、今回の北肥戦誌( ̄ω ̄A;アセアセ
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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