龍造寺家兼_23【名将・陶興房の反撃】
だが陶興房も名将と呼ばれた男。このまま引き下がったりなどしない。
( ̄ko ̄)<戦のキッカケは大友に謀反した筑後・星野親忠~~~
( ̄ko ̄)<鎮圧側~大友の与力が少弐でつ
( ̄ko ̄)<謀反側~星野の援軍が大内義隆よりの派遣・陶興房でつ
1533年(天文2)1月、陶興房は兵を集めると、星野への後詰(援軍)を残し、
大友・少弐と戦うべく筑前から筑後へ侵攻。
三原を過ぎて各地を撹乱し、豊後に帰った大友サイドの城を攻めた。
まず久留米城・安武城が落城。
※補足
この記事は基本【北肥戦誌・1533年】がベースなんですが、
いかんせん肥前の郷土資料なんで、他国の事だと、ちょいちょい違うところがあるんです。
てことで、陶興房の進軍コースは、上記リンク先とは変化しますので、予め御了承下さい^-^

さらに陶興房は筑後から筑前へと転身。((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~
同年3月19日、柑子ヶ岳(こうじだけ)城(福岡市西区)を攻略する。
この柑子ヶ岳城なんですが、通説では一応《永禄年間・大友宗麟の命で築城≫となってるんですが、
郷土史家たちの間では「もっと前からあるよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー」と地味に囁かれてる城なんです。
ちなみに柑子ヶ岳城の城督が前回チラ出しした臼杵氏です。
むろん、未だ城督には任命されていません。
後年の話ですが臼杵氏は対大内への外交交渉担当で、
その実績と役割を鑑みれば永禄年間より前に築城してた可能性があります。
(いまのところ決め手になる傍証が出てない(-ω-;)ウーン)
んで、1532年に少弐への援軍として臼杵一族を駐留させています。
この駐留が、臼杵氏が北九州に関わるキッカケになったっぽい。
一定数の兵力を一定期間駐屯するために、
城とまではいかずとも、前身となる砦くらいはあったんじゃないかなぁ~
さてシオが妄想炸裂してる間に、陶さん今後は肥前へ転身~((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~
宗秀恒の鏡山城を落とした。
少弐サイドだった原田五郎は、中国の仁保加賀守とタッグを組んで、
怡土・志摩両郡の兵と上松浦衆を打ち従えて陶に同心。
m(__)m<お味方の端っこに入れてちょ♪~って佐嘉・神埼に討ち入り、少弐一家退治しようとする。
このとき資元・冬尚親子は多久の梶峯城にあったが、
そこへ馬場氏・横岳氏・姉川氏・龍造寺氏らが協力して、資元親子を城原へと迎えると勢福寺城へ入れた。
江上石見守元種をこの守護とし、中野・西島・千葉・蓮池・崎村・直鳥らの城へ銘々立て籠もって、大内勢を待ち構える。
同年4月3日、陶興房は神埼郡三津村籾岳に陣を布き、少弐勢と戦う。
少弐の味方は、馬場・横岳・宗・出雲・小田・犬塚。
この時は、各々頑張って奮戦し何とか凌いだのだが、
なにせ勢いのある陶軍は兵力が続々増えていってるんです。( ̄ω ̄A;アセアセ

同年10月、陶軍は筑紫正門の武蔵城(筑紫氏の支城)を落とす。
この時期の陶軍は肥前・筑後・筑前とメチャクチャ転戦してます。
一応、各城データを元に月日を推定してるんですが、
あまりにも陶軍の動きが激しいので、これでも順番が間違ってるかもです( ̄ω ̄A;アセアセ
同年12月、陶軍が朝日山城(鳥栖市・これも筑紫の支城)を攻略。
鳥栖市を少し北上すると筑紫の居館&本城・勝尾城です!
「ひぃ~もぅ無理ポ」と判断した、筑紫惟門(少弐一門)が陶軍に降伏した。
少弐滅亡カウントダウンだったが、戦は何が起きるか解らないものです。
何と大友軍が大内と雌雄を決すべく北上なぅ!迎え撃つ陶軍~~戦場は肥前から一転して豊前!!
「次回・激突Ⅱ~大内VS大友」それは・またの話 by^-^sio