【剛忠と呼んでね (人´∀`).☆.。.:*・】龍造寺、破の巻9
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1537年2月6日、新政権を作る男・豊臣秀吉が誕生。
同年11月13日、最後の室町将軍・足利義昭が誕生。
同年、大内義隆は足利義晴の要請で上洛を試みた。
だが、既に時を逸していました・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
台頭した尼子が山陰統一したため、大内上洛を阻む形となり、
上洛を断念した義隆は領国統治に専念することとなる。ショボーン..._φ(・ω・` )
1538年2月中旬、前回最後で紹介した通り龍造寺家兼は、入道し号(別名)を「剛忠」とした。
実は北肥戦誌の記述は、入道&隠居した人物は全て号(別名)の方で記載されてるんです^^;
( ̄ko ̄)<陶興房も小田資光も号の字が難しくって、漢字は一発変換無理ポでつよ~

てことで、本記事より龍造寺家兼、改め「剛忠」じゃ。
個人的な推測なんだけど、剛忠が入道したのって即身仏になるため・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
ではなくて、少弐と距離を置くためじゃないか~って勘繰ってました。
というのも少弐の正式被官になったのは、家・・・じゃなかった剛忠だからです。
少弐冬尚は剛忠の裏切りを疑い、同じく被官の小田が龍造寺を攻撃した(1536年)。
(小田は鍋島の赤熊武者にo( ̄Д ̄θ★ケリッ!っと撃退された)
史料で辿った中での印象だと、剛忠は大胆さと慎重さをバランス良く兼ね備えてた人物のように思う。
この時は「少弐から大内へ乗り換える」とハッキリ決めてたわけではないだろう。
何しろ少弐のゾンビパワーは半端じゃない^^;
この先、まさかの御家再興(=^・ω・^=)v ブイ、が無いとも限らないです。
が、現在の状況だと大内隆盛なんで、とりあえず龍造寺家から少弐色を薄めるために、
家兼が入道したのではないだろうか。
何せ龍造寺家は肥前の政治情勢が変化するたびに、当主や宗家を替えてるからなぁ~(-ω-;)アリエマス

同年5月29日、大友と大内が足利義晴の仲介で正式和睦
和睦の話は以前からあり、両家は停戦状態ではありました。
が、このたび和睦条件批准が整い、大内から筑前領一部が大友へ譲渡される事になったのです。
立花城が大友所有となったのも、この時に大内から譲られたからだ、とも言われています。
少弐冬尚: ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
祖父・少弐政資が御家再興した時は、対馬宗氏がバックアップしました。
だが宗氏は少弐が肥前千葉の家督にチョッカイ出すのを不安視し、少弐から離れました。
父・少弐資元が御家再興した時は、大友と軍事連携+西千葉+龍造寺+色々だったんです。
少弐冬尚の御家再興は、これからなのに大友という大口パトロンが北九州事業から撤退~~~
その上、龍造寺ともグダグダなまま・・・不味い、非常に拙い、(_´Д`)アイーン
御家再興の光明を見出すために、少弐冬尚の葛藤が始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio