【剛忠と呼んでね (人´∀`).☆.。.:*・】龍造寺、破の巻9

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1537年2月6日、新政権を作る男・豊臣秀吉が誕生。
同年11月13日、最後の室町将軍・足利義昭が誕生。

同年、大内義隆は足利義晴の要請で上洛を試みた。
だが、既に時を逸していました・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
台頭した尼子が山陰統一したため、大内上洛を阻む形となり、
上洛を断念した義隆は領国統治に専念することとなる。ショボーン..._φ(・ω・` )

1538年2月中旬、前回最後で紹介した通り龍造寺家兼は、入道し号(別名)を「剛忠」とした。

実は北肥戦誌の記述は、入道&隠居した人物は全て号(別名)の方で記載されてるんです^^;
( ̄ko ̄)<陶興房も小田資光も号の字が難しくって、漢字は一発変換無理ポでつよ~

人物・剛忠(監修様提供:剛忠イメージ画像)
てことで、本記事より龍造寺家兼、改め「剛忠」じゃ。

個人的な推測なんだけど、剛忠が入道したのって即身仏になるため・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

ではなくて、少弐と距離を置くためじゃないか~って勘繰ってました。

というのも少弐の正式被官になったのは、家・・・じゃなかった剛忠だからです。

少弐冬尚は剛忠の裏切りを疑い、同じく被官の小田が龍造寺を攻撃した(1536年)。
(小田は鍋島の赤熊武者にo( ̄Д ̄θ★ケリッ!っと撃退された)

史料で辿った中での印象だと、剛忠は大胆さと慎重さをバランス良く兼ね備えてた人物のように思う。

この時は「少弐から大内へ乗り換える」とハッキリ決めてたわけではないだろう。

何しろ少弐のゾンビパワーは半端じゃない^^;
この先、まさかの御家再興(=^・ω・^=)v ブイ、が無いとも限らないです。

が、現在の状況だと大内隆盛なんで、とりあえず龍造寺家から少弐色を薄めるために、
家兼が入道したのではないだろうか。

何せ龍造寺家は肥前の政治情勢が変化するたびに、当主や宗家を替えてるからなぁ~(-ω-;)アリエマス

家紋・竜造寺(龍造寺家紋)
同年5月29日、大友と大内が足利義晴の仲介で正式和睦
和睦の話は以前からあり、両家は停戦状態ではありました。
が、このたび和睦条件批准が整い、大内から筑前領一部が大友へ譲渡される事になったのです。
立花城が大友所有となったのも、この時に大内から譲られたからだ、とも言われています。

少弐冬尚: ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

祖父・少弐政資が御家再興した時は、対馬宗氏がバックアップしました。
だが宗氏は少弐が肥前千葉の家督にチョッカイ出すのを不安視し、少弐から離れました。

父・少弐資元が御家再興した時は、大友と軍事連携+西千葉+龍造寺+色々だったんです。

少弐冬尚の御家再興は、これからなのに大友という大口パトロンが北九州事業から撤退~~~

その上、龍造寺ともグダグダなまま・・・不味い、非常に拙い、(_´Д`)アイーン

御家再興の光明を見出すために、少弐冬尚の葛藤が始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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【最後の当主・少弐冬尚】龍造寺、破の巻8

読みは「ふゆひさ」なんですが、冬・・・
とつくと、佐野史郎さん演じた「冬彦キャラ」が脳裏をチラつく・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

彼の評価は生年をいつにするかで、評価が変化するのではないだろうか。

ウィキペディア公式発表によると、冬尚の生年は1529年で、1536年現在は7歳という勘定になる。

僅か7歳なら、小田資光が暴走して「家兼は裏切り者~」と攻撃するのは止められないだろう。

と、好意的に見れるのだが、冬尚が7歳だと色々と矛盾してくるんです。



冬尚の生年には異説として1510年説があり、それだと現在は27歳。

シオも1510年説を支持しています。

本記事ベースの北肥戦誌には、1528年に冬尚が家督を継いで「太宰少弐」になった~とあります。

武家の子弟は大体二十歳頃に家督を継ぐ(実権はパパ)ので、
1510年生年説だと数え19歳なんで不自然じゃないです。

冬尚の弟・元盛は、自害した資元が譜代家臣に預け、家臣が何処ぞの寺に預けたんですが、
最終的に一門の横岳資誠が引き取り養育しました。

横岳資誠は、田手畷の時(1530年)に既に成人してて現役出陣(=^・ω・^=)v ブイ

その横岳が少弐冬尚の娘を妻としているんです( ̄ω ̄A;アセアセ

1529年説だと冬尚娘と横岳が、凄い「年の差婚」になるが、
1510年説だと冬尚に子供がいても不自然じゃないし、姫も適齢期に近い年齢なんで、矛盾解消^^b

家紋・少弐(少弐家紋)

少弐冬尚が龍造寺家兼を排除しようとした裏には、
エキセントリック忠義「馬場頼周による讒言」が定説です。

が、前記事にあるように蓮池の小田資光も「( -。-)スゥーーー・・・ (o>ロ<)<家兼は裏切り者~~」と主張してました。

家兼の仲介で少弐と大内が和睦した時も、小田は大反対・主戦論だったんです。

肥前に土着して未だ100年ちょいの肥前小田氏には、
己の勢力維持・拡大のために、少弐にかこつけた大義名分が必要だったのでしょう。

小田と馬場が二人がかりで、
「お父上・資元様の自害は、家兼のせいです。」
「家兼の勧めで勢福寺城を出たから、、、陶勢に囲まれてあのような仕儀に・・・(´;ω;`)ウゥ~~」
てな感じで冬尚にせっせと吹き込んだ。

少弐がピンチになると、毎度のように親子二手に別れて逃げるのは何度か触れた。

冬尚が逃げるのが小田の蓮池城です。

蓮池城は平城だが川を上手く利用して、なかなか攻めづらい城だったようです。

とはいえ少弐の御曹司を匿うハイリスクを引き受けるのだから、
小田の少弐への入れ込みようが判ると言うものだ。

肥前で「少弐被官」というのは余程のステータスだったのだろう。

冬尚にとって、少年期⇒青年期にかけてピンチの自分を匿ってくれた小田家は、
心情的に龍造寺家兼より遥かに信を置いていたのではないだろうか。

おそらく5代目資光(隠居)や6代目政光(当代)が、冬尚の無聊の話し相手をセッセと勤めていたに違いない。

先物買いですな ( ゚Д゚)y─┛~~

冬尚様の御代に、少弐が御家再興すれば、ワシらの時代が来るのネー(*´・д・)(・д・`*)ネーby小田親子

家紋・竜造寺(龍造寺家紋)

その小田家だが、龍造寺と同程度の勢力があったらしい。
少弐と被官が行った、寺への寄進で名前の順番から、そう推測されている。

龍造寺家兼が小田家を「どう思っていたか」は不明だが、
小田資光&政光親子は「龍造寺はライバル」と思っていたのだはないだろうか。

少弐冬尚は名門当主らしく「龍造寺と小田」を天秤にかけていたのだろう。

どちらが自分に忠で利する者か、小田の龍造寺への対抗意識を煽る事もあったかもしれない。

龍造寺家兼の思考・発想は典型的国人で、えぇもう~骨の髄から国人っす( ̄ω ̄A;アセアセ

龍造寺の「少弐への忠義」は、自分の方に見返りがあるからで、
少弐の為に自己犠牲をするようなM気質、(少弐から見て)純粋なものじゃないんです。

それが国人だから、それで正解なんですが、
少弐冬尚にしてみれば龍造寺を何処まで信用していいか測り兼ねたと思います。
(途中から肥前に土着した小田の方が、少弐ブランドを必要としているんだな~と、判りやすい)

ましてや龍造寺家兼は分家(水ケ江)当主の身で、宗家(村中)を凌いだ男。
世間では、とっくに墓に入ってる年齢で宗家を超えちゃうんですよ。
ハッキリ言って「冬尚:あのジジィ何を企んでやがる」状態です(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

冬尚の龍造寺に対するブレは、国人そのものへの不信感から来るものでしょう。

これは、どうしようもないです。
国人は己と一門の繁栄・生き残りが最大課題の最優先で、ソレ以上もソレ以下もない。

少弐冬尚が戦国大名である為には、そういう国人の欲望と恐怖を刺激して、
自分に都合良いように上手くコントロールする力量が求められるんです。

小田の龍造寺攻撃以来、少弐と龍造寺の関係がギクシャクしたまま一年過ぎた。

1538年2月、龍造寺家兼は84歳にして入道し「剛忠」と名乗った。

・・・・それまでは(現役)髷を結ってたんだ・・・地毛だったのかな?(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

てことで次回から家兼ジーちゃんは「剛忠」です~それは・またの話 by^-^sio

【肥前小田氏・赤熊武者無双~後篇】龍造寺、破の巻7

(*´○`)o¶~~♪もしシオが鍋島っだぁったらぁ~♪主君から禅譲は受けなぁぁ~い♪
(*´○`)o¶~~♪罰ゲームな気がっするからぁ~♪
某ゲームCMソングよりwww(ゲームはやってません)

西のゾンビ少弐か東のフェニックス小田か。

なかなか滅びない事にかけては、少弐に匹敵するのが常陸の小田氏。

小田氏は宇都宮一門、鎌倉以来の名門で関東八屋形の一つ。

少弐が数世代に亘り「滅亡⇒御家再興」をループするのと違い、
小田の場合は最後の当主・小田氏治に不死鳥パワーが凝縮。

無勝・必敗の当主としてキャラが立ちすぎww(一回くらいは勝ってたような~)
「敵が上杉謙信、鬼佐竹、太田三楽斎と、このメンツに負け続けて滅びないのが逆に凄い」
と、一部郷土史オタから熱い支持を受けている。

百姓と在地領主のタッグといえば「のぼうの城」が記憶に新しいが、
小田氏の場合も(諸要因ありだが)領民から「おらが累代のお屋形様」と慕われ続け、
小田領民は佐竹の支配を嫌って、租税を勝った佐竹でなく負けた小田氏治に治めると言うメンドクササ。
現在でも地元(土浦市)は城発掘に展覧会と、結構プッシュされてる小田氏。

そんな小田氏治の不死鳥パワーも、豊臣秀吉のモンキーマジックには通用せず改易アボン。

その常陸小田家の分家が肥前小田氏^^b

家紋・少弐(少弐家紋)

肥前小田氏が九州に来たのは、応永年間と意外に新しい。

室町幕府は三代将軍・義満の治世で、南北朝の争乱は治まったとはいえ、カオス九州には他国人が食い込む余地が残ってたらしい。

肥前小田氏は土着し、そのまま在地領主化した。

でもって土着にあたり肥前小田氏は、ゾンビ少弐の被官となった。

肥前小田の初期は実は詳しいことが判ってない、年代的に符号しない事があるのだ。

とにかく少弐御家再興ageのタイミングを上手く掴んで、土着⇒勢力拡大に成功したので、相当のヤリ手。

現在の当主は6代目・政光。前回登場した小田資光は政光の父で5代目です。

少弐被官の中では肥前の第三極として急成長した龍造寺が重きを置かれていたが、
肥前小田氏も龍造寺と同程度の勢力があったらしい。

元々土着の龍造寺と違い、まだ100年ちょいの肥前小田氏には少弐ブランドは利用価値があった。

肥前小田氏が更に飛躍拡大するためには、龍造寺がライバルであり邪魔者だからです。

肥前小田氏は「少弐を利用して龍造寺を潰そうとした」と自分は推測してます。
家紋・鍋島(鍋島家紋)

小田資光は少弐冬尚へ「家兼は大内へ内通と思われます」と述べ「水ヶ江城を攻めるべし」と勧めた。
1536年冬、少弐冬尚の許しを得ると小田は800余騎を引率し、家兼の居城・水ヶ江城へと迫った。

家兼は報告を聞くと「ならば、こちらから半途に出迎え戦うべし」と一族らを急遽動員。

水ヶ江の東・木原村で戦端を開いたが、龍造寺が負けちゃったヽ(。_゜)ノ アレレ?

勝ちに乗じた小田勢は龍造寺勢を執拗に追い立てる。

そこへ鍋島の赤熊武者100騎が突入し先手の将一人を討ち取ると、逆に小田勢が崩壊、蓮池方面へ潰走し始める。
龍造寺・鍋島勢は小田の蓮池城下まで追いすがり、首級数十を討ち取って水ヶ江城へ戻った。(=^・ω・^=)v ブイ

「龍造寺のピンチは鍋島が何とかする」が、既にテンプレ化してるんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

裏切り者扱いされ攻撃されたんじゃ割に合わない。当然、龍造寺は少弐と距離を置いた。

くどいようだが先に龍造寺に手袋を投げたのは、肥前小田であり、それを許した少弐冬尚です。

てことで次回は少弐氏最後の当主・少弐冬尚~それは・またの話 by^-^sio

【鍋島・赤熊武者無双~前篇】龍造寺、破の巻6

1536年、少弐資元が自刃してほどなくした頃、「少弐を励ます会(仮称」が肥前某所で開かれた(らしい)

席上江上元種が発言した。
「今の大内は武備廃れ、蹴鞠・和歌のみ持て囃し、栄華に満ち油断しきっており攻め時である」

「さよう、義隆公が衆道フィーバー・・・ゲホゴホグホ」
龍造寺家兼は同意しながらも、
「大内の武威は廃れたと雖も、公方様の覚え目出度く、朝廷の御恩厚く、陶・杉・鳰・相良ら老臣が揃い、非を諌めるに身を囲わず、軍に臨んでは命を惜しみません。
義隆は事々を彼らに任せて居る為、国は治まり、民は安んじられておりますれば、まだ天の時に至って居らぬということでは御座いますまいか」。

と柔らかく述べた。

家紋・竜造寺(龍造寺家紋)

前回、龍造寺家兼が大内に寝返ってた・・・と書いたが、正確に言うと違う。

上記の回答で窺えるように「家兼は、今は無理ポの自重論」です。

江上さんは大蔵系氏族なんで無条件にファンなんだが、それでも上記発言にシオ唖然(・0・)ポカーン

確かに大内は長年のライバル少弐氏を自刃させ、油断しているかもしれない。

だからといって、いま挙兵して一時の勝利を得たところで何になるのだろう。

局地戦の敗北などで大内の屋台骨はビクともしない、
それを挽回するだけの財力と人材は余裕綽綽なんです。

後世の大友の如く、尼子と連携組むとか、関門海峡超えて山口占拠とかとか。

よほど大胆な作戦で、よほど大きな勝算が無い限り、いま動くのは無謀というものだ。

それでなくとも島原の有馬が台頭して肥前を脅かしている現状で、
本拠地(水ケ江)を離れて大内サイドの国人相手に転戦なんて(´・д・`)ヤダ

てか、まず自分の足元を見てみ?
被官の国人が粉骨砕身働いたところで、今の少弐氏に恩賞として与える土地が寸土でもあるんかぃ?
衰退した少弐は、龍造寺の子弟を身辺に出仕させる(人質を出す)事すら要求出来てないよね?
夢を見るなら寝てる時だけで願いたいですな ( ゚Д゚)y─┛~~

威勢が良く、耳触りの良い主戦論が飛び交う中で「自重論」を述べるのは勇気がいる。

周囲から惰弱だ弱腰だと揶揄され、挙句の果てに「さては寝返ったか」と誤解される。

龍造寺家兼も誤解された。

家紋・少弐(少弐家紋)

皆は家兼の意見に納得したが、
唯一人、小田覚泒(資光)のみは少弐冬尚へ
「家兼は大内へ内通と思われます」
と述べ、「水ヶ江城を攻めるべし」と勧めた。

それは・またの話 by^-^sio

龍造寺家兼_35【自刃・少弐へチェックメイト~後篇】

1536年、ついに大内義隆は念願だった官位・太宰大弐をゲッツ
現代ならパワハラで訴えられるが、戦国時代なら平常運転~
力ある上司(太宰大弐⇒大内)が、不都合な部下(太宰少弐⇒少弐)を滅するのに遠慮はいらない

秋に入り、陶興房は千葉興常(東千葉)と示し合わせ、少弐資元を討つべく筑前を発って多久へ派兵する。
(陶興房は大宰府に駐屯してます)

それを聞き知った塚崎の後藤、上松浦の波多・草野が大内勢に加勢。
9月初旬に大挙して攻め込んだ。

実は、この9月の派兵なのだが『龍造寺記』・『隆信公御年譜』には記述がないそうなんです。
『歴代鎮西志』では「梶峯城主・多久宗時、自殺を勧む」とあります。
多久宗時は少弐に被官してて、大内に攻められた先代・少弐政資に自害を勧めた人物です。
ネタバレになるが少弐資元が死んだのは父・政資と同じ城の同じ寺なんです。
政資と混同されてるのか、ほんとに多久が自害を勧めたのか不明です。
(シオは多久が自殺勧めた説押し=多久が大内に寝返った説)
大穴が『肥陽軍記』の病死,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
この記事は北肥戦誌がベースですので、このまま大内勢の9月派兵で話を勧めます^-^


少弐資元は僅かな供廻りだけであったため防戦しようもない。

「もはや、これまで」と思い、9月4日に密かに専称寺に入ると、譜代家臣の今泉朝覚、窪、平原の三人を呼び出した。

少弐「我ら智慮なくして一昨年敵を恐れて城原の居城を去って後、付き従う者らにも見捨てられ、勢いは微々と成り果て此処に来た。
このような是非無き害に合う事は、世の宿業ながら口惜しき次第である。然れども悔いても益無し。
唯々自害を急ぐべし。さても汝ら三人は多くの家人の中で今まで心を違えず付き従い嬉しい事である。
必ず黄泉に入っても忘れはしない。この期に及び、(汝らは)死を共にしようと思うだろう。
だが子息・冬尚は蓮池に忍んで居り、その他、幼稚の子供は佐嘉の傍に隠し置いている。
汝ら三人はこの場を逃れ、彼所へ赴き子供を撫育させよ」


主君の言葉を聞くと、今泉は涙ながらに、
「御運既に傾き、この期に及んでは悔いても仕方ありません。
そんな中、我らに落ちよと申されますが、御父・政資公御生害のとき公は九歳になられ、横岳の元に忍んで御成長された。
その後、藤津へ御蟄居のときは、某が父・宗春入道と宗伊賀守ばかりが付き従いました。
その身、不肖ながらも、その子としてその最期を見捨てて、何処へ逃げて誰を頼めと申されますか。
皆、死出の御供こそ望んでおります~・゜・(PД`q。)・゜・」と述べる。


左右を見れば、窪・平原も共に涙に咽び、「我々も同意に候m(__)m」と頭を垂れていた。

資元は重ねて申すに
「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.<死は近くして易く、生は遠くして難し。幼稚が者共の事こそ心許ない。曲げて命を全うし、彼等を養育させよ。さもなくば七生までの勘当である!!」


と資元が立腹すれば、三人は主命に背く訳にいかず、涙ながらに退出した。

隔して資元は心安く思われ、専称寺の仏前に鎧脱ぎ捨て、もろ肌脱ぎ、生年48にして腹を十文字に掻き破り、桐葉落ちる夕凪の9月4日、その一生は夢となられた。法名:心月本了と申すは、この資元の事なり。

今泉・窪・平原は、泣く泣く佐嘉へ赴き、亡き君主の幼子達を或る寺へ忍ばせ、住持を頼み年月を重ねた。

特に三人の中でも今泉は、発心して髷を切り、66箇所を巡礼し、
後に上洛して竹苑椒房・摂家・清華の方を頼ったそうだ。
(これは再び少弐家を興す為の縁を求めての行為だった)

陶興房は九州支配の後始末を終えると、10月29日に周防へと帰国しました。

北肥戦誌では大内が太宰大弐になったのは、このあとって流れになってます。
( ̄ko ̄)<西国を安んじた功ですって)

ウィキペディアでは太宰大弐になったことで、少弐退治の大義名分を得たってことになってます。

いずれにせよ大内義隆が少弐退治するにあたり、諸々への大勢作りは終わってたでしょう。

家紋・大内(大内花菱)

筑後の蓮池城主・小田覚泒(資光)は少弐再興を企図して、自らの城に冬尚を隠した。

少弐が滅び肥前が完全に大内の制圧下に入れば、今度は筑後が「大内VS大友」の最前線になる。

少弐には残って踏ん張ってもらわないとネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

資元死去を知った大友義鑑は後悔し、資元の嫡子・冬尚を世に出すべしと、龍造寺氏の嫡流・胤久と談合に及ぶ。

胤久は村中龍造寺の当主でしたが、少弐に直接被官した水ケ江龍造寺家兼に遠慮し、
自ら出家し総領職を家兼に譲ってました。

家督の機微まで大友が知らなかったとしても、龍造寺の実権が家兼にある事ぐらいは、すぐ調べがつくはずです。

そこをあえて龍造寺胤久に接触したことに、大友の意図を感じる。

実はシオは龍造寺家兼は「大内に寝返ってた」と推測しており、
それは、資元の自刃後・・・大友が前当主に接触した頃からではないかと考えているのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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ジャンル : 学問・文化・芸術

龍造寺家兼_34【太宰の大と少・少弐へチェックメイト~中篇】

のぼうの城を再鑑賞でチャージ完了~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

さて、いきなりですがブランクあるので、時計を少し巻き戻して1534年に戻ろう。

この年、一つの名門武家が大内氏によって滅ぼされた。

それは九州探題(室町幕府の軍事出先機関)渋川氏です。

何を隠そう大内氏が北九州へ介入した「最初のキッカケ」は、実は渋川氏なんです。

話は「南北朝の争乱」に遡ります。

九州は南朝が優勢でして室町三代将軍・義満の頃までグダグダしてました。

打開策として名将の呼び声高い今川了俊を九州探題に任命し、鎮圧にあたらせました。

結果は大成功でしたが了俊が有能すぎて、彼個人で九州統一するかもって勢い( ゚д゚)ンマッ!!

了俊に野心あったかは不明ですが、とにかく一人の功績が大きすぎる事を恐れた足利義満が彼を解任。

今川の後任として選ばれたのが渋川氏でした。

ところが未だピリピリムードの鎮西を治めるには、渋川の個人スキルが不足(無難無難と選んだせいで能力は度外視だった)。

そこで室町幕府は大内氏に「渋川の面倒を見てね(´・д・`)」と命じ、
大内は正々堂々・公明正大・勘気雀躍で北九州に介入する事となったのです。

家紋・大内(大内花菱)

渋川氏、最後の当主・渋川尹繁(ただしげ)を九州探題に推挙したのは大内氏でした。

未だ元気だった少弐に城を追われたので大内の庇護下に入ってたんです。

その大内が渋川を攻撃したのは、渋川が土壇場で少弐に寝返ったからだと言われています。

大内の肥前平定なぅ~の状況で旧敵だった少弐に寝返るなど常識ではありえないのですが、
どうも渋川尹繁の嫡子の死が絡んでいるようなんです。

1533年12月に筑紫家支城の朝日山城(鳥栖市)が攻略され、
大内方で参加した渋川尹繁の嫡子・義長が戦死しました。(直後に筑紫は少弐から大内に寝返る)

尹繁には義長しか子供がいなかったようで、嫡子の戦死に納得いかない事があったっぽい~
サイトによっては「渋川義長は大内に討たれた」ってなってます。
(寝返り常習・筑紫が絡んでるからなぁ~筑紫が何かヤラかした巻き添えのイメージが。。(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ)

渋川尹繁は大内に攻撃され、綾部館で自害。

大内によって支えられた渋川氏は、大内によって断絶・滅亡した。

大内義隆という人物は、大内の最盛期を作っただけに衆道ネタ意外と面白い人物かもしれない。

「少弐より先に大友を潰す」は、一回やって懲りたらしいが、他にも違う方向で発想の転換をしてました。

名実共に北九州覇者になるために、少弐より上の官位をゲッツすればイクね?(・∀・)ピコーン★

大内が狙った地位は少弐より上、かつて平清盛が就任した太宰大弐。

家紋・少弐(少弐家紋)

官位クレクレ運動は1532年から始めてるのだが、太宰大弐は決まった公卿(細かいの失念)に与えられる官位。

通例・慣例の壁を突破するため大内は実弾莫大な献金で朝廷にプッシュ。

1534年、後奈良天皇の即位に合わせて2千貫を朝廷に寄進して、1535年に大宰大弐の叙任を申請。

帝は一度は許可したが、大内の金で顔をはたくような露骨な猟官運動が不快で、僅か一日で取り消し(爆

大内は更に誠意?を示すべく、1535年9月3日、朝廷に門の修理代とドドーンと寄進。

もう意地になってるとしか・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

大内が少弐より上の官職になれば、少弐を神輿として担ぐ必然性が無くなります。

そうなれば譜代家臣&一門以外の被官となった国人たちはメリットの減った少弐から離れ、
たとえ子孫が残っても時の推移の中で埋没する。


織田信長・伊達政宗・島津四兄弟・・・一国を纏め新たな体制を作るには強烈な個性・異能を持つリーダーが必要です。

肥前の熊と畏れられた龍造寺隆信は、このとき数え8歳。

少弐が御家再興を繰り返してたのは、神輿として担ぐ「英雄」が肥前に不在だったのもあると思います。

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1535年12月29日、大宰府駐屯なぅの陶興房が大内義隆の命令で、少弐所領・佐賀、三根、神崎を没収するという暴挙に出た。
12月31日、少弐資元は多久・梶峰城へ亡命し、嫡男の冬尚は蒲池城へ入り小田資光を頼った。

年末に密かに引っ越しなんて、夜逃げ屋本舗か少弐くらいなものだろう。

親子二手に逃げる手際の良さは父祖代々の知恵ですな ( ゚Д゚)y─┛~~

これは大内による挑発だと言われており、挑発というなら少弐は、その屈辱に耐えました。

嵐が過ぎ去ればリベンジは可能!だってウチは太宰少弐だもん~♪(・∀・)

1536年、ついに大内義隆が太宰大弐の地位を手にし、少弐を超える。

大義名分を得た大内は「最後の詰めの一手」を仕掛けたのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

龍造寺家兼_33【大内義隆・少弐へチェックメイト~前篇】

1534年、おそらく肥前に大きな水災害が起きた(7月15日)後であろうか、
長年敵対していた西千葉と東千葉が和睦した。

もっとも、10月に大内義隆が兵3万で北九州入りした事で、両家の和睦は破綻した。

もともと大内が北九州へ陶興房を派兵したのは、
肥後・菊池義宗が「大友に反旗を翻した筑後・星野への与力を依頼(1531年」した事による。

だがフタを開ければ大内が筑後に入ったのは一度きりで(1534年10月)、
破竹の勢いで攻略するのは肥前の城ばっかり,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

これは大友と同盟関係の少弐が「筑後が謀反とな?大友へ与力すべし(`・ω・´)キリッ」と挙兵したため、
必然的に大内が少弐モグラ叩きを再開したからです。

結果として大内も少弐も、筑後・星野氏への与力は殆ど出来ておらず、星野当主は歴史からフェイドアウトする^^;

少弐と肥後・菊池義宗(大内と協力してた筈なのに梯子外された状態)が、
歴史の草場の影から何か言いたそうにしているが、
1533年の陶軍・破竹の勢いを世間一般では「大内の肥前平定」と呼んでいるwww

家紋・大内(大内花菱)

少弐にとって不運だったのは、肥前の西・・・島原半島の有馬氏が台頭し肥前を脅かし始めた事だ。

1534年7月13日に有馬軍が多久城を攻撃しており、
西千葉と東千葉が一時的にせよ和睦したのは「有馬氏の脅威」があったからです。

ぶっちゃけ肥前の諸豪族は少弐どころでは無くなって来た( ̄ω ̄A;アセアセ

これから増々強くなるであろう有馬対策のため、
東千葉、西千葉、龍造寺は協力体制を模索し始める。

龍造寺「第三極ではダメなんだ!第二極でなくちゃ!」
東千葉「そのセリフ、いまは違うから!空気嫁!」
西千葉「えっと、このさい少異を捨てて大同を~~ですかな?」
三家一同「そう!それっ!!!」

この協力体制における大前提が「少弐と大内の和睦」でした。

龍造寺は正式に少弐被官になったし、東と西の両千葉は長年「少弐と大内の代理戦争」してた柵で、
少弐と大内が争うと肥前が巻き込まれるからです。

同年10月30日、少弐が勢福寺城を大内に明け渡して和睦(条件的には降伏に近い)したのも、
西千葉と龍造寺が大内との戦闘続行に対し難色を示したからだろう。

もはや落ち目少弐の単独号令では肥前国人は集まらない・・・
西千葉、龍造寺の与力なしで事が進まなくなってます。

家紋・少弐(少弐家紋)

そんな肥前の状況なぞ、中国地方のドン・大内義隆には関係ありません。

関門海峡を越えた北九州の西にある有馬が、ちょっとくらい大きくなっても大内には脅威ではない。

大内&陶「有馬なぞ少弐退治してから、肥前勢に当たらせれば済むよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー」
って感じでして、これが良くも悪くも大国の政治です。

1534年に少弐資元に三男・政興が、翌年には四男・元盛が誕生し、束の間の平穏な日々を過ごしました。

四男・元盛の血統は絶えているので、残り少ない少弐子孫は三男・政興の系統になると思います。

1535年12月29日、大宰府駐屯なぅの陶興房が大内義隆の命令で、少弐所領・佐賀、三根、神崎を没収するという暴挙に出た。
12月31日、少弐資元は多久・梶峰城へ亡命し、嫡男の冬尚は蒲池城へ入り小田資光を頼った。

ピンチの時は必ず親子バラバラで逃げるべし(`・ω・´)キリッ
今までの少弐は、この手で常に何とか御家再興してきたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_32【少弐】最期の和睦【大内】

肥前龍造寺家とは実にタフな一族だ。

生き残るために最初は当主を替え、次は宗家の座を分家とチェンジする。

九州郷土史&国人領主に魅了され足掛け6年・・・今まで様々な国人をリサーチしてきた。

だが龍造寺家のような、生き残ることにかけて、これほど変幻自在な国人は初めてだ・・・!

これは、やはり肥前千葉氏が西と東に分裂したことと、無縁ではないように思う。

通常は宗家or主家を残すために、トカゲの尻尾切りの如く、分家や家臣が犠牲になったりするものだ。

でも龍造寺は、複雑な肥前の政局変化に合わせて色(当主・宗家)を替える・・・まさにカメレオン。

佐賀藩鍋島家は、初代藩主・勝茂が、龍造寺宗家を継承した事になっている。

日本史上、この極めて珍しい無血の政権移譲は、藩祖・鍋島直茂の異能もさることながら、
主家がカメレオン体質・龍造寺家だからこそ可能だったのだろう。

龍造寺にしてみれば愉快な事ではないが、
一族一門存続最優先のために「宗家チェンジ」するのは、鍋島が初めてでは無かったという事だ。

もっと驚くのは、そのカメレオン手法を龍造寺家兼が一代で完成させた事だ。

分家当主でありながら、家督・宗家という武家の根幹に関わる事に、
やたらフットワークが軽いのは、どういうことなのであろう。

分家だからかなぁ~島津も「分家は言う事聞かない」がテンプレ化してるし,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

この面白い国人が、中央近くやカオス信濃あたりに産まれていたなら、一体全体どうなった?(*´pq`)クスクス

少弐オンリーワンの忠義家臣・馬場頼周が、龍造寺家兼を警戒し疑ったはずです。

主家命の馬場には、家兼の家督フットワークは理解不能だっただろう。

その龍造寺家兼が、大内と少弐の和睦仲介をした。

家紋・竜造寺(龍造寺家紋)

1534年10月、少弐退治のために大内義隆が自ら兵3万を率いて九州へ出陣、大宰府を本陣とした。

大軍で一気にカタをつけるつもりが、少弐は息子・冬尚が攻めづらい事で定評のある蓮池城に逃げ込む(-ω-;)ウムム

長期戦を嫌った大内は、急きょ和睦に方針転換し、使者を家兼の元へ派遣したんです。

家兼は、千葉興常、千葉喜胤、波多下野守の3人へ、
「中国の軍兵雲霞の如し。然るに此度は千に一つの勝利も得られますまい。和融に及び居城を渡されれば、一には公儀への忠心、二には敵味方諸人の安堵、三には累代の名家を相続あり、これらの大幸を為します。然るに御辺らは少弐氏の近臣なれば、これを宜しく評議致され」と申し送った。

これは「大内義隆の命を受けての発言」との風聞が立ったそうだ。

そりゃそうだろうなぁ~千葉興常は東千葉初代で、長年に亘り少弐サイド西千葉と敵対してたんだもん。

どういう基準で「近臣」カテゴリに入れたんだか、北肥戦誌読んでるシオも訳わかんないぉ(爆

喜胤は興常の息子なんだけど・・・( ̄ko ̄)<親子関係最悪だったそうでつ・・・

波多下野守・・・・パス!,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
波多は複雑で分らん~~諱が一文字って時点で既にクラクラするし~~~

とりあえず1530年田手畷の勝利で少弐が一時盛り返した際に、波多家へ少弐資元の子が養子入りしてます^^b

歴史を紐とくに、この和睦が、少弐が生き残る最期のチャンスでした・・・

家紋・少弐(少弐家紋)

知らせを聞いた少弐資元曰く「大内と当家との怨恨は一朝一旦の事ではない。御主らが存ずる如く、大内は先祖累代の難敵・・・殊に父の仇である。幸いにも義隆は来陣した。此の上は我が屍を野首に晒すとも一戦に及び、勝敗を決する外なし。されど、また案ずるに、我が憤激の為に万人を死なすも流石に不憫である。求めに応じよう」と述べた。

和睦を受け入れた少弐親子は、勢福寺城を明け渡した。

少弐と大内の和睦を聞いた大友家も、元々「少弐支援」で北九州に首を突っ込んでいたし、
肥後の謀反を鎮圧しなきゃだし、豊前での陶との戦で危機一髪セーフだったし、
てな事情が重なり大内と和睦した。(和睦条件などの正式批准は数年後)

大内義隆は周防へ帰り、陶親子は肥前から大宰府駐屯生活に戻り、
1534年が終わったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_31【二転三転、総領の座】

龍造寺早わかり系図
(○内の数字は当主としてのカウント、---は親子、~~は兄弟)

長男・胤家⑭----盛家(養子)
長女・内田左京亮妻
次男・家和⑮----胤和⑯~~~胤久⑰
三男・出家
四男・早逝か?
五男・家兼-----家純~~~~家門
六男・出家
※高名な慶誾尼は胤和⑯の娘です^-^

家兼の長兄・胤家は北肥戦誌では家督を継いでいないことになっています。

が14代目としてカウントしているサイトもあり、そこは判然としていません。

このややこしさは肥前千葉氏が衰退し、西と東に別れた事も要因の一つです。

サイトによって千葉氏は西も東もゴチャ混ぜに扱っており、それが龍造寺家を理解しづらくしています。

長男・胤家は大内からの圧迫が強くなる中で、
少弐サイドの西千葉氏に肩入れしすぎて、当主(or嫡子)の座を追われ肥前を出奔しました。

数年後に胤家が戻った時には、当主は次男・家和が継いでいました。

シオは、この当主(or嫡子)交代劇に、家兼も一枚噛んでると睨んでます。

源平合戦とか、南北朝の争乱とか、関ヶ原とかとか、大事件や大政変が起きたならいざ知らず、
平常運転時に当主交代劇が起きたんです。

嫡子を差し置いて(追い出して?)次男が当主になるには、
一族総意を纏める音頭取りが必要で、分家・水ヶ江当主である家兼が、その役目を果たしたのではないでしょうか。

宗家である村中龍造寺の実権は家兼が握り、当主は全て傀儡だったと言われています。

それもそのはず、本来庶流である家和系統の当主は、成立スタートから分家当主・家兼の支持を必要としてたんです。

次男・家和と五男・家兼は「黒い表現」だと「家督乗っ取り一蓮托生仲間」で対等の関係。

むろん「龍造寺家が生き残るため」という大義名分の元での行動なので、本人たちはガチ本気で罪悪感はなかったはず。

家和が死に胤久が当主となったのですが、家兼が何せ現役で長命でして・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
実力的にも胤久の村中家を凌いでしまいまして・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
とはいえ主導権を握られっぱなしの村中宗家家臣も面白いはずがないわけで・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

その微妙な空気を変えたのが「田手畷の戦い」でした。

家紋・竜造寺(竜造寺家紋)

ここで重要になるのは、そもそも龍造寺は肥前千葉氏の被官だった!って点です

その肥前千葉氏が衰退し「少弐サイドで嫡流の西」と「大内サイドで庶流の東」に分裂。

特に嫡流・西千葉は直系男子が絶え、少弐一門の横岳から当主を迎え・・・実質、少弐の分家状態。

本来の主君・西千葉の要請で出陣し戦う事は、少弐の利にも叶う事であり、
龍造寺は何となくの成り行きの少弐被官化なぅ~

田手畷の戦いで鍋島の赤熊武者の活躍もあって、少弐側の勝利に終わりました。

喜んだ少弐氏は、宗家・村中龍造寺の頭越しに、分家である龍造寺家兼に領地を与えた。
領地拝領もしくは安堵・・・この時点で龍造寺家兼は正式に少弐被官となった事になります。

官位は太宰少弐、元鎌倉幕府の鎮西奉行、腐っても北九州支配者の少弐の被官です。

村中の胤久さん「 ガビョ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! 地味だけどワシだって一緒に出陣してたのに(´;ω;`)ウッ」

少弐が、嬉しさのあまり配慮を忘れただけなのか、裏に何かあったのかは不明です。
が、龍造寺家兼を分家ではなく一武門の家と扱ったのは紛れもない事実。

この戦いの後に、龍造寺内部に亀裂が走るのを恐れた胤久は出家。
さらに総領家・・・宗家の座を龍造寺家兼と、その息子・家門に譲りました。

田手畷(1530年)以降、対外的には水ヶ江龍造寺家が公式宗家です(=^・ω・^=)v ブイ

家紋・少弐(少弐家紋)

後に龍造寺隆信によって滅亡する少弐ですが、
何と言いますか、1530年で既に思いっ切り揉める種を撒いちゃってます~~( ̄ω ̄A;アセアセ

田手畷で家兼76歳なんで、直後にポックリ老衰で逝ってたら龍造寺家は完全に分裂してたかもです。

家兼の嫡子は家純で、家門は次男です。記録は少ないですが息子二人とも「出来た良い子」だったみたい。

父・家兼の意向でしょう、家純は弟・家門を己の養子にして水ヶ江を継がせてます。

家純には男子がいたにも関わらず・・・です。ここでも変則家督相続が起きているという事です。

家兼一代の間に宗家の座・当主の座が二転三転してて、しかも表向き揉めてないってのは、ちょっと珍しいです。

龍造寺家兼という人物の器量が、相当なものだったのでしょう。



さて、被官にはなったもの、少弐の衰退は留まるところ知らず^^;

もはや龍造寺が貢ぐ一方で、WINWINの関係は成立しない~
家兼ジーちゃんは脳内エア算盤を弾き始めるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_30【波紋・大内義隆、兵3万で出陣なぅ】

夜襲で陶軍に大勝し、龍造寺勢は気分爽快の朝帰り~♪ヽ(*´∀`)ノ

すると、潮に流れて何やら流れて来た。

どんぶらこ~~桃ではない。それは観世音菩薩の木像であった。

家兼は、「大敵を追い崩し、帰陣に及んで仏像を得る事、偏に子孫繁栄すべき瑞相なり」
と木像を懐中にパクって・・・もとい、しまって帰城した。

その後、城の南に堂を建てて木像を安置させた。
この木像が、後の水ヶ江慈教院の観世音である。

って北肥戦誌にあるんだけど、水ヶ江慈教院が現在の何処なのか、寺社が残っているのか未確認です。
検索するとシオブログの書庫・北肥戦誌がHITする件~~il||li _| ̄|○ il||l

同年8月15日、 家兼は法華経万部を修読したそうな。

災害による水没者の供養も兼ねていたのでしょうか・・・
観音菩薩といい、家兼は年相応に信心深くなっているようです(-人-)☆彡

ちなみに家兼ですが、この1534年の時点で既に御年80歳なり~~~~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

家紋・竜造寺(竜造寺家紋)

陶軍の敗戦にブチ切れた大内義隆は、自ら兵3万を率いて北九州は筑後へと渡った。

肥後戦国史「肥後、おぃ!ちょっと落ち着け!」で、「勢場ヶ原の合戦(4月6日)以降も菊池と大内が連携してたらしい」
と書いたのは、大内義隆(or陶軍)が今までの九州出陣と違い、初めに筑後入りしてたからです。

いつもなら少弐から奪った大宰府を本陣にするので、筑前入りします。

おそらく何らかの打ち合わせしたのでしょう、菊池義宗は同月17日に筑後へ出陣しています。

さて、大内義隆は筑後から筑前へ移動し、いつもの本陣・大宰府へ入ると少弐への討手を差し向ける事になった。

すかさず、陶興房は「敗戦の汚名返上を!」と先陣を願い出た m(__)m
主君・大内義隆の許しを得ると、陶は嫡子・隆房(後の陶晴賢)と共に肥前国へ出陣!

勢福寺城の少弐親子は、味方を要所へ配置し大内勢を防いだ。

だが、息子・少弐冬尚が敗れて、筑後・小田氏の蓮池城へと入った。

蓮池城は長い川の流れを巡らせた要害で、おいそれと大内勢は攻められない。

やるとなったら、長期滞陣を覚悟しなければならないだろう。

これが肥後・菊池義宗と連携していたであろう、大内義隆の方針を変えた。

そこで、唐津の波多隠岐守を龍造寺家兼に遣わし、
「公方様より命を承り、義隆が逆徒を平らげました。少弐は我意を恣にし、国家の動乱が治まりません。
そこもとは少弐と年来の誼が御座れば、少弐を諌めて争乱を止めさせて頂きたい。
この儀、整うならば義隆の計らいにて少弐に休息処を与えるでありましょう」と述べた。

家紋・大内(大内花菱)

管理人は以前、こう書きました。
「西(千葉)でもなければ東(千葉)でもない・・・肥前のおける第三の勢力として龍造寺は台頭した」と。

東千葉~西千葉と敵対し、はなから大内サイドなんで和睦の使者としては不適当。
西千葉~直系男子が絶え、御家存続のため初めは少弐から次に少弐一門の横岳から養子を迎える。

西千葉と少弐は実質=イコールの状態です。

一時期、千葉胤勝が大内に寝返り、少弐家臣・馬場にo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
っと、されたブレた数年がありますが、基本は少弐サイドです。

( ̄ko ̄)<その西の千葉胤勝なんですが、どうも死亡してたっぽいんでつ・・・

天文3年、つまり1534年から千葉胤勝に関する記述が、パッタリと途絶えます。

1534年は陶軍の動きが前年に引き続き激しいですし、
前記事にあるように肥前は水害で1万余りの死者が 発生してます。

戦死か水害か・・・いずれかの理由で西千葉当主が死亡したと思われます。

大内が龍造寺を和睦の仲介に選んだのは、そういった背景があったのでは~と推測してました。


使者の波多の言葉「そこもと(龍造寺)は少弐と年来の誼が御座れば」

この言葉が史実なら、少弐と龍造寺の関係を実に端的に表現していると思う。

竜造寺家は「少弐の被官」と称されているが、
竜造寺家発祥そのものは「少弐の被官ではない」からです。

少弐と龍造寺の微妙な距離が、後に両者の運命を決める・・・それは・またの話 by^-^sio

次回より新章「龍造寺「破」の巻~お楽しみに(^ -)---☆Wink




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龍造寺家兼_29【陶興房・龍造寺に無勝 il||li _| ̄|○ il||l】

タイトルに泣ける(´;ω;`)ウッ

1534年が長いが、当事者にとっても暑く長い一年だっただろう。

4月6日に豊前で激突した大友&大内。

大友は総大将・副将を失いつつも、陶興房をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!っと何とか撃退した。

負傷した陶興房は一度周防に退却したのだが、
5月に入り再び肥前へ出陣すると、神埼郡三津山に陣を布いた。

5月16日、龍造寺家兼の居城・水ヶ江城を攻撃するが城側が死守し、大内勢は三津山本陣へと引き上げた。

家紋・竜造寺(龍造寺家紋)

7月13日には有馬晴純の軍勢が少弐の留守を狙い多久城を攻撃、こちらも城番・龍造寺盛家が死守する。


( ゚д゚)ンマッ!!「有馬ですって~~~」

アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ こっちは大内、大友どっちも無関係~別の動きですっ!!!

(*´○`)o¶~~♪「西から興った有馬さん、東ぃ~を攻めるぅ~♪」(ベースメロディ:バカ●ンのテーマ)
「それでいいのだぁ♪」・・・(._+ )☆\(-.-メ)イイワケネーダロ!!

島原半島高来郡を中心に貿易による利益を背景に勢力拡大。最盛期当主は、この有馬晴純です^-^

肥前が少弐だ~千葉の東だ西だ~竜造寺だ~~と大内とグダグダしてる間に「新たな敵」出現!!

この有馬氏による肥前侵攻が、龍造寺と東西千葉さらには鍋島直茂の運命にも影響する。

ちなみに龍造寺伯耆守盛家は、元14代目当主・胤家の養子です^^/


有馬勢が引き上げてホッとしたのも束の間で、次は自然の猛威が肥前を襲った。

翌日14日の夕方から俄かに風が吹き出し、翌15日の朝には大雨となった。

南の海から大潮となり、それが風に煽られ高波となると、
須古・白石・佐嘉・神埼の村々を洪水が襲う。災害の死者は一万余。


この様子を見ていた龍造寺家兼は息子・家門へ言った。
「この大風と大雨で、三津山の陣に居る者達(大内・陶軍)は合戦の事など考えられぬだろう。ならば今夜、風雨に紛れて敵陣を夜襲し、陶を討ち取るべし(`・ω・´)キリッ」
家門も父の意見に賛成し龍造寺勢「夜襲決行!!」

家紋・大内(大内花菱)

その頃、陶の陣中では、佐嘉・神埼の民家が浸水している様を遠く見ながら、
「龍造寺の者達が自滅する」と笑いながら酒宴に興じていた。

( ̄ko ̄)<人様の不幸を酒の肴にしたのでバチが中ったのでつかね・・・

そこへ龍造寺勢300余が鬨の声を上げて押し寄せた為、完全に油断してた陶勢はビックリ仰天!!

矢兵具を放り出し、我先にと逃げ出した。

龍造寺勢は更に敵を追い崩し、千余の首級を得て勝ち鬨を上げた。


破竹の勢いで北九州を攻略している陶興房なのだが、
どうも龍造寺が相手だと勝負運が無いようです( ̄ω ̄A;アセアセ

陶興房「田手畷では赤熊に襲われ、今回は夜襲くらいました(´;ω;`)ウッ」

水が引くように戦も治まれば万々歳なのだが、戦国時代~そうは問屋が卸さない。

敗戦に激怒した大内義隆が、自ら兵を率いて出陣~その数、兵3万余!
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【肥後、ぉい!ちょっと落ち着け!】相良氏、戦国名君編7

1534年4月6日、大友VS大内のガチンコ「勢場ヶ原の合戦」は、
大友が総大将・副将の討死、大内側が副将討死&総大将の陶興房が負傷で撤退、
という言わば双方痛み分けの状況で終わった。

打倒大友のために軍事連携した、大内義隆と菊池義宗(肥後守護職で大友義鑑実弟)だが、
この勢場ヶ原以後も連携は続いていたようだ。

なぜなら謀反起こした菊池は謀反続行で、
周防に撤退した陶興房も怪我の治癒もそこそに北九州に再び出兵してるからです。

肥後と筑後が謀反なぅ~でいる間は、大友は大軍を北九州へ出すのは困難。

このまま大内と菊池の連携が続いていれば、さしもの大友も緩やかに下降したかも。

だが大内の目論見は多少狂う。
何故なら期待の陶興房が龍造寺家兼に敗れちゃうからです( ゚д゚)ンマッ!!

その話は龍造寺「承」の巻で語るとして、こっちは肥後戦国史~菊池謀反の続きです。

家紋・大内(大内花菱)

同年7月20日、大友勢と菊池勢が玖珠群で合戦(勝敗不明)
同年9月21日、菊池義宗が吉松へ出兵

この吉松出兵ってのがイマイチ判らん~
日向真幸院に吉松ってとこがある~今の鹿児島県吉松駅のあたり~
形勢が不利なんで南下したのか義宗~手を広げすぎじゃね?

同年10月17日、吉松で上手く行かなかったのか、義宗は筑後へ出兵((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~
実は10月初めに大内義隆が自ら3万率いて筑前入りしてるんです。

だが便乗しようとした菊池義宗の思惑は外れた・・・

大内義隆は龍造寺家兼の仲介で少弐と和睦したからです~菊池義宗「 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!」
とどめ同年12月14日、足利将軍家より大友・大内へ和睦勧告~同上「 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!」

一部サイトでは、この勧告で12月24日に両家は和睦とあります。
正式な和睦調印は数年後なんですが、この時点で大友&大内は実質的な停戦状態になったようです。

家紋・大友(大友家紋)

とにかく炎上中の御膝元・肥後と筑後を落ち着かせなきゃならない。

大友は北九州は後回しじゃ~~って事で、とにもかくにも大内との交戦状態回避に入った。

大内に否やはない~~~大友という御邪魔虫を追い出したら、初志貫徹で少弐退治に専念(=^・ω・^=)v ブイ

哀れ・・・登った屋根から梯子を外され降りれなくなったは、菊池義宗ただ一人、、ポツーン..._φ(・ω・` )

一方、菊池義宗の謀反に加担した相良長唯(後の義滋)だが、賢い彼は早々に手を引いた。

1535年3月16日、阿蘇(当主・惟豊)と名和(前当主・阿蘇惟長押し)がガチンコ。
同年3月22日、名和が阿蘇に大敗すると、それに便乗して相良が豊福城ゲッツ。
同年5月、相良と名和が和睦で双方の子供同士で婚約決定。

と相良家は自分の事に専念してますた(-人-)☆彡義宗クンヘ、不義理デゴメンネ

同年8月22日、車返(地名)の戦いで、戸次鑑連(道雪)率いる3000騎が菊池残党を撃破o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

菊池義宗~ついに肥後にいられなくなり肥前は島原高来へ亡命・゜・(PД`q。)・゜・
肥後守護職の地位は大友義鑑が補任となり、菊池家の手から完全に離れる。

菊池義宗は程なくすると島原を離れ、相良氏を頼った( ̄ω ̄A;アセアセ

家紋・相良(相良家紋)

相良家は「利害は利害」「義理は義理」と「基本、相手を立てるタイプ」らしく、亡命してきた菊池義宗を丁重に迎えた。
この相良長唯の姿勢は、養子で跡継ぎの晴広、義陽へと受け継がれる。

同年12月13日、菊池義宗は島原から八代徳洲着~地福寺へ逗留。
同12月19日、菊池義宗は地福寺から荘厳寺へ移動。
翌日に相良長唯は義宗に「拝謁」している。

八代日記には「長唯御礼として(荘厳寺へ)御参候、奏者ハ臼杵殿庭中まで被出候、義宗えん(縁側)までおり合候」
とあり更に進物も届けるなどBIP待遇扱い~義宗を満足させた事でしょう。

だが義宗クンは知らない・・・
謀反前までは「御屋形様(国主への敬称)」と記録してた八代日記が、
敗れた後の呼称が即効で「義宗」になっていることを・・・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

義宗が人生のリベンジを開始するのは、大嫌いな実兄・大友義鑑死後なのだが、それは・またの話 by^-^sio

龍造寺家兼_28【弔い合戦!・勢場ヶ原の合戦4】

1534年4月6日、未明から始まった戦は総大将・吉弘氏直と副将・寒田の討死、、、
という大友側の敗色濃厚でスタートした。

普通ならここで負けちゃうのだが、
そこへ地蔵峠と立石峠を守っていた大友軍1800が援軍に駆けつけた。

が時すでに遅しで、総大将と副将は討死した後。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

援軍を指揮する田北鑑生(たきた・あきなり)は、大将討死でパニくり壊滅状態だった本陣の兵らを収容。

そのまま田北は撤退せずに、総大将&副将の弔い合戦とばかりに、陶軍に猛攻撃をかけた。

家紋・大友(大友家紋)

大友軍の鬼気迫る反撃に押され、陶軍は勢場ヶ原まで引いて体制を立て直し応戦。

もともと大友軍は地元出身の兵ばかりだった。

田北は地の利を生かし、陶勢を奇襲・急襲と翻弄した。

陶勢は大友の総大将を討った事で「戦は勝った・終わった・ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ」
てことで浮かれて緊張が解れてしまってた為に、田北らの攻撃に対応しきれず遂に崩れて大敗。

今度は陶軍の副将・杉長門が討死。さらに陶興房も負傷してしまう。

結果として死者は、大友軍283名、陶軍358名と、
陶側の方が戦死者が多いという事になってしまった( ゚д゚)ンマッ!!

総大将の陶が負傷ってことは、陶の方も本陣まで肉薄され接近戦となって崩されたって事です。

これじゃ、どっちが勝ったんだか判らない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

陶興房は敗軍の兵をまとめると、寄藻川(宇佐市)沿いに豊後高田方面へと退却し、海路周防に撤退した。

駐屯してる大宰府じゃなくて、お家(周防)へ直行するところが凄い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

おそらく万が一の大友軍の追撃を警戒したんだと思います。

大友は肥後と筑後の(大内と連携した菊池義宗が起こした)謀反鎮圧で主力軍が遠征しちゃってるので、
陶を追撃する余力は無いはずなんですが、それでも周防に引き上げた方が安心安全ですからネ^^b

この後、大友と大内の本格ガチンコはないですが、
大内義隆が謀反で討たれるまでは北九州の覇権は、ほぼ大内の手中にありました。

大友義鑑の北九州への野望は頓挫したとも言えます。

家紋・大内(大内花菱)

で、この一大決戦の時に少弐が何をしていたかと言いますと。

少弐は原田隆種と戦ってました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

( ̄ko ̄)<日にちも同じ4月6日でつ。。。

原田隆種・・・後の了栄~大蔵系氏族嫡流よん~(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪

隆の字は大内義隆からの偏諱~つまり大内サイドの国人^^/

原田さんは陶興房の命令で少弐と戦ってましたが、戦の勝敗は判りません^^;

陶興房は自分が留守してる間に、少弐に大宰府を奪還されたりしないようにと、原田を使って牽制してたんです。 

振り返れば、この時が大宰府奪還の最後のチャンスでしたが、
たとえ奪還できたとしても少弐に維持する力は残ってなかったでしょう。

今の少弐はオセロに例えるならば、大内と陶に盤面の四隅を取られてる状態だからです。

さて負傷した陶ですが、怪我の治癒もそこそこに再び北九州へと出陣します。

次回「家兼ジーちゃんと陶興房の激突!」それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_27【総大将討死!・勢場ヶ原の合戦3】

陶軍の目的がイマイチ判らない。

大友の首都・府内を制圧するつもりなら、3000じゃ少ないよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

むしろ陶軍を迎え撃つために出撃するであろう「大友軍に勝つこと」そのものが目的だったかもです。

本国の豊後を脅かされて戦に負けでもしたら、大友のブランド価値はマッハで下落する。

現在進行形で肥後と筑後が謀反なぅ~この状況で本国の大友が敗退する事態になれば、
それまで大友サイドだった国人たちが雪崩を打って大内に乗り換える。

国人が寝返り始めれば陶軍の3000は、あっという間に2倍3倍に膨れ上がり兵が余るほどになるだろう。

北九州各地の諸城を落として来た陶興房には、その状況が実感として想像出来たのではないだろうか。

家紋・大内(大内花菱)

一方、陶軍目指して一直線まっしぐら~の大村山本陣の大友軍。

この場合、非常に拙いのは総大将・吉弘氏直が先頭集団の中にいたことです( ̄ω ̄A;アセアセ

強引に中央突破を試みた吉弘だが、関ヶ原の島津で分るように敵中央突破は成功率・生還率が極めて低い。

陶軍の奇襲作戦にしてやられた事に、完全に血が上った19歳初陣の総大将・吉弘クン。

副将・寒田の制止も聞かずに「皆!我に続け~((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~」と、
撤退する奇襲部隊を追いかけて、真っ先に山を馬で駆け下りたんです。

これで敵が陶でなく島津なら「釣り野伏せを仕掛けられた」と言われる所でしょうな ( ゚Д゚)y─┛~~

戦国時代にプロフィール画像はない。陶軍も、まさか総大将自ら出張るとは思ってなかっただろう。

ちなみに日本の戦闘単位では「騎馬武者⇒⇒隊の指揮官」です。

吉弘を視認した陶軍は「ヤケに目立つ装束の騎馬武者だが、先鋒大将の一人だな」とでも思ったか。

とにかく陶軍は吉弘を狙い、一斉に矢を放った。
(補足の囁き( ̄ko ̄)<この頃は未だ鉄砲が日本に入って来てないでつ)

吉弘は馬上、降り注ぐ矢を刀で薙ぎ払っていたが、
吉弘を「手ごわい」と感じた陶の弓隊が、的の標的を吉弘を乗せる馬に替えた。

無数の矢に射られて馬が倒れて吉弘も落馬。

参照サイト豊後の城と合戦によると、
落馬した吉弘は「馬を狙うとは卑怯なり!我は総大将・吉弘氏直だぁ~尋常に勝負(以下略)」
てな事を叫んだそうだが(出典元記載無し)それが史実なら、吉弘は真正の脳筋だろう。

再び陶の弓隊の放った矢が、吉弘の身体に雨の如く降り注ぎ、吉弘は無残にもハリネズミのようになった。

陶興房を相手に同格で戦うには、吉弘氏直は余りにも若く経験値が少なすぎた。

大友軍、総大将・吉弘氏直が初陣で討死・・・享年19歳。

家紋・大友(大友家紋)

ちなみに吉弘の嫡男が、後に豊後三老の一人として大友家に貢献した吉弘鑑理です。

ところが鑑理の生年を見るとウィキペディアでは【生誕 永正16年(1519年)?】となってるんです。

パパン氏直が1534年で19歳討死-嫡男・鑑理の生年が1519年=数え5歳で一児の父ヽ(。_゜)ノ へっ?

ワールドレコード更新・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

どっちの記録が間違ってるのか不明ですが、戦国時代の19歳なら子供がいても不思議じゃないので、
吉弘鑑理の生年の方が記載・伝承ミスかもしれません。

でもって吉弘を守ろうとした従者も、陶の弓隊の餌食となってハリネズミ・・・(-人-)☆彡

副将・寒田は「怯むな!総大将の首を敵に渡してはならぬ!!」

と、必死で混乱する大友軍をまとめつつ、自らも槍を振るって戦う。

だが獅子奮迅の働きも虚しく、寒田も陶勢に討たれてしまう。

総大将と副将の討死に大友本陣は壊滅状態!!!
だが戦は、これで終わりじゃない!立石峠と地蔵峠にいた大友勢は未だ無傷だ!!

残る大友軍の反撃「弔い合戦」が始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家兼_26【激突2大内VS大友・勢場ヶ原の合戦2】

1534年4月3日、大内家臣・陶軍3000は宇佐郡糸口原に到着。

陶興房が周防を出陣したと報告を聞いた大友義鑑は、アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ~大慌て。

同年1月に筑後勢の謀反発生+肥後・菊池義宗(大友の実弟)が加担し挙兵。

その鎮圧のために大友本軍は肥後へ行ってたからです。

やむなく大友義鑑は、国東、速水、杵築から動員した兵2800を陶軍に当たらせる事にした。

総大将は吉弘氏直~今年19歳のニューフェイス~つまり今回が初陣!^^/

ベテラン陶に、ほぼ同数の兵力で大将が初陣・・・これって死亡フラグ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

吉弘の不慣れな所は、副将の寒田(そうだ)親将がフォロー。

兵力に大差がないとなれば、地元である大友軍が有利なのは言うまでもない。

そこで陶は一計を案じた。

家紋・大友(大友家紋)

陶は「豊前街道(通常ルート)を南下する」と噂を流させたんです。

噂を信じた大友側は、陶軍を迎え撃つための布陣を決め、兵を3つに分散してしまう。

1)立石峠に、田北鑑生と木付親実の兵1000
2)地蔵峠に、志手泰久と野原昌久の兵1800
3)大村山に、本陣~大将・吉弘氏直と副将・寒田親将の兵1000
4)後詰に、大神鎮氏と林鎮治の兵350

実際の陶軍は難所と言われる佐田越えルートを進軍。

道案内を務めたのは宇佐郡代(大内が任命)の佐田朝景だ。

大友本陣のある大村山麓に到着した陶軍は、石河野という場所に陣を布いた。

が、豊前街道を~って噂を信じていた大友側は、
夜陰に紛れて行軍した陶軍の動きに全く気付いていなかった^^;

4月6日未明、陶軍から出撃した100名ほどの部隊が本陣を奇襲!

大内軍が天から降ってきた!

家紋・大内(大内花菱)

突然の攻撃に驚いた大友兵がパニックを起こし、大友本陣は大混乱!!

大将の吉弘氏直は兵を叱咤し、必死に本陣の体制を整えた。

さすが若くても初陣なのに猛将と呼び声高いだけのことはあります。

ちなみに吉弘家は「大友家中で最も忠義に篤い家」と言われ、
岩屋城で玉砕する紹運は氏直の孫で、石垣原で主家の為に散る統幸は氏直の曾孫です^-^

一方、陶の奇襲部隊ですが元々僅か100名なので、大友本陣が混乱から立ち直り始めると退却し始めた。

それを見た吉弘氏直は「あれらを追撃するぞ!」と言い出した。

副将・寒田「Σ(´Д`;)それ危険です!陶が待ち伏せしてるかも~立石と地蔵の兵が来るのを待ちましょう!」

だが若い吉弘は寒田の諌めを聞かず「者ども!我に続け!」と、
大将自ら先頭きって馬で大村山を駆け下りて行った。

将らは、吉弘に続き山を駆け下りたので、自然と隊列は縦一直線(雁行の陣)となった。

麓・石河野で待ち受ける陶軍は、横に広く陣を布いていたので(鶴翼の陣)
陶軍より少数の吉弘らは、このままだと陶軍に包まれるように囲まれて潰されてしまう。

吉弘「オラァ!!!(# ゚Д゚)・;'.怯むな!このまま敵本陣まで突き進め!!」

互いの陣形に気付いた吉弘は、強引に中央突破しようと試みたのだが、
それは・またの話 by^-^sio

本シリーズ参照サイト:豊後の城と合戦

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龍造寺家兼_25【激突Ⅱ大友VS大内・勢場ヶ原の合戦①】

1533年「北肥戦誌」曰く、この年10月8日の暁、萬星半天に流動し、悉く海陸に落ちる。

落ちた星は少弐か、はたまた肥後・菊池か・・・

blog_import_5042c7bb98c81.jpeg(少弐家紋)

「九州三人衆」・・・鎌倉時代、幕府は九州を三つに分けて、三家に丸投げ治めさせた。
九州は遠国、ということで三家には一般の守護職を超えた権限(地頭・御家人の訴状処理)を与えられる。

その三家とは、
島津氏・・・支配地域は三奥と呼ばれた、薩摩・大隅・日向の三州。
大友氏・・・支配地域は三後と呼ばれた、豊後・肥後・筑後の三州。
少弐氏・・・支配地域は三前と呼ばれた、豊前・筑前・肥前の三州+対馬、壱岐の二島。

これが、いわゆる鎌倉以来の祖法というものなのだろう。
この三家は紆余曲折を経つつも、戦国期に入ってなお、影響力を持っていた。
(ちなみに前・後・奥は、京都から見た距離感~奥ってどんだけ遠国と思われてたんだwww)

そのうちの一角、三前(筑前・肥前・豊前)に数代かけて食い込んできたのが、中国地方のドン大内。

ゾンビ不死鳥の如く何度も御家再興を繰り返して来た少弐氏だが、さすがに回復力に陰りが見え始める。

筑前、豊前の守護職は大内のものとなり、本貫地・大宰府をも奪われた。

少弐は、残された肥前で何とか命脈を保っている状態でした。

その「少弐を援ける」という名目で、三前に介入してきたのが、キングオブ豊後・大友です。

家紋・大友(大友家紋)

むろん慈善事業ではなく、大友も三前に色気を出して来たんです。

大内にとって、少弐もシツコイが、それを支援する大友もUZA!

さらに大友は、少弐に援軍を出すだけに留まらす、ついには豊前、豊後の国境を侵し始める。

もはや大友の動きも看過する事は出来ない。

大内義隆は「大友と雌雄を決すべし」と決断した。

だが、まともに大友とガチンコになったら、大内の方も満身創痍になりかねず、ヘタすれば共倒れになる。

そこで大内義隆は、大友義鑑が大嫌いな実弟・菊池義宗とタッグを組んだ。ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!

家紋・大内(大内花菱)

大友義鑑の実弟・菊池義宗は、大友の御膳立てで菊池家の家督と肥後守護職の地位を手に入れた。

だが義宗は、大友の傀儡当主でいることに飽き足りず、自立と同時に大友支配の筑後を欲した。

筑後で大友に対し謀反が起きると、それに加担。ついには義宗自身も挙兵する。

この挙兵は大内と事前に打ち合わせ済みだったようだ。


大内義隆は1532年~1533年にかけて、陶興房を派遣し三前の諸城を攻略させている。
(建て前は大友に謀反を起こした筑後勢への援軍)

破竹の勢いの陶勢~絶好調で肥前で年越しカウントダウンだったのだが、
1534年新年早々に大内義隆に周防に呼び戻されている。

同年1月から菊池義宗が行動開始(詳細は野望の同盟・相良氏、戦国名君編6

大友義鑑は鎮圧のために主力本軍を派兵した。

大友軍と菊池勢が激突する直前の春、陶興房が兵3000で出陣!目指すは大友の本拠地豊後!

三前・・・北九州の覇権を巡り大内と大友が激突するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【北肥戦誌・1590年】

天正18年 (1590)1月、16年より在京していた政家が佐嘉へ着いた。

また3月7日、関白より鍋島直茂へ、政家に代わって政務に努め、龍造寺家督については政家の嫡子・高房と仰せつけられると、政家は隠居となった。

政家は佐嘉郡の太俣に5,224石の隠居料を以って隠居所を構え移り住んだ。

同年春、関白が小田原の北条征伐へ出陣、これに鍋島直茂は田尻鑑種・土肥家実・西牟田家親ら100人を小早川隆景の軍勢に加え、自らも上洛すべく妻と共に2月19日に大坂へ上がった。

ちょうど彼岸の節句の時期で大坂天満宮への参拝者が多く、大坂へ6日間逗留した後、24日に京都へ着陣、田尻らは清州へ赴き、直茂夫婦はそのまま在京(ただ夫婦で旅行しただけです、有難う御座いました)。

田尻らは8月19日に佐嘉へ帰陣する。

関白が諸国の人質を召した。

鍋島直茂は次男・平七、江上家種は養子の伊勢松、後藤家信は嫡子・初龍、龍造寺家晴は嫡子・万歳を其々大坂に差し登らせた。

このとき、政家の母・宗誾尼と息女の於安はこれに代わって下国した。

但し於安は、関白の達しにより豊前小倉城主・毛利勝永に縁組しており、宗誾尼のみ戻った 。

【野望の同盟*大友VS菊池】相良氏、戦国名君編6

菊池義宗・・・諱は義武だが義国とか義宗とか呼び方色々で、1530年代は「義宗」と記録されている。

彼は大友氏19代目当主・義鑑の実弟だ。

1520年に義宗は肥後守護職・菊池家の養子として入り当主となった。

つまるところ大友家による菊池の家督乗っ取りです。

ところが大友家の思惑が狂った。義宗が兄・義鑑と不仲で言う事を聞かなからだ。ヽ(。_゜)ノ アレっ?

義宗が大友の家督を欲しがった、とか、大友支配の筑後が欲しかった、など。

理由は諸説あるが、その全部が入り混じっていたかもしれない。

1531年・・・菊池義宗と中国の大内義隆が接触。

大友に謀反を起こした星野へ菊池義宗は肩入れし、大内へ援軍派遣を依頼したんです。

大内はチャンス到来とばかりに「援軍」を大義名分にし、陶興房を派遣。

陶に北九州諸城を攻略させた。

大内軍が侵攻(建て前は星野へ援軍)してきたので、大友と同盟関係の少弐も大友への与力と挙兵。

北九州は大炎上。途中で落城(時期不明)した星野は関係ないまま、各地で戦が続行。

倒しても倒しても生き残った男子を奉じて御家再興する少弐氏。

大内義隆「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.少弐はゾンビかアンテッドかよ!」

なかなか死なない少弐にイラ立った大内義隆は、
「いっそ少弐を援助する大友を先に潰そう(・∀・)-★ピコーン」と発想の転換をする。

大友本軍を豊後から引きずり出すために、菊池と大内がタッグを組んだファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!

家紋・大内(大内花菱)

1534年1月23日、三池・溝口ら筑後諸豪族が、反大友で挙兵~これに菊池義宗が加担。

この挙兵に相良氏も助勢したらしい。

同24日の八代日記には「義宗(義国)方に地躰定候」とある。

ぶっちゃけ意味が判りません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

「菊池一族の興亡」(荒木栄司著)によると、相良は菊池に協力し隈庄城に兵を入れたらしい。

同26日、相良のライバル名和勢が隈庄城を攻撃。
閏1月1日、菊池義宗は相良が隈庄城を援助してくれたことに感謝の意を表している。

・・・・閏1月・・・こういう時って正月行事はどうするんだろう,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

それはさておき、相良勢そのものが入城したわけじゃないかもです。

この隈庄城は戦後に相良氏預かりになってて、城には相良に協力してくれた目方氏が入ってます。

相良経由で目方氏が隈庄城を与力したのかも^^;

同閏15日、名和勢が再び隈庄城を攻撃。
同2月29日、相良勢が反撃!名和の豊福城を攻撃。

豊福城の領有を巡って名和と相良がガチンコするのは、いつものことですが、
隈庄城攻防の方は、勝敗がどうなったか不明だそうです。

家紋・相良(相良家紋)

肥後・菊池義宗の挙兵に大友義鑑は驚いたアタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

鎮圧のために大友本軍を派兵!

さらに菊池義宗は、水軍(天草か?)を使って大友の国東沿岸を荒らしまわったため、
大友はそちらの手当にも追われ、肝心の本国・豊後の守りが手薄になった。

大内義隆「チャンスキタァ━━━━ヽ(´∀` *)ノ━━━━ッ★」これを待ってたんです!

義隆は、陶興房に兵3000を与えて豊後攻撃を命じる。

一方、挙兵した菊池側は、終始押され気味だったようだ。

同3月18日、大友勢が川尻の大渡口で菊池・相良連合軍を撃破o( ̄Д ̄θ★ケリッ!
同3月28日、大友家臣・一万田与一&詫摩鑑秀勢が菊池サイドの木山城を落とす。

多少不利でも恐れることは無い。菊池には大内という同盟者がついている。

豊後本国が大内に敗れれば、肥後の局面も変わるはずだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

【理想の同盟*人 ̄▽)♪~】相良氏、戦国名君編5

龍造寺編で大内・大友の激突前に肥後・相良家に話を戻したい。

大内義隆が肥後守護職・菊池義宗とタッグを組んだので、肥後情勢も絡んできちゃうからです^^;

でもって「相良家の同盟相手」と言うと、
戦国ファンなら真っ先に「甲斐家(と甲斐主君の阿蘇家)」を上げるだろう。

だが甲斐家(と阿蘇家)より、遥か前に相良家がタッグを組んだ武家がある。

それが北隅(ほくすみ・大隅国の北部)の雄・菱刈家

島津家の大隅統一を阻んでいた理由の一つが「相良家と菱刈家の同盟」にあり、
菱刈家の武勇に「あの猛将・島津義弘(4兄弟次男)」が撃退され、手痛い敗戦を喫したことすらある。

( ̄ko ̄)<いえね・・・義弘さんってば倍する敵の菱刈に、例によって突撃の無茶ぶりしたんでつ

その菱刈と相良の同盟は、何と「関ヶ原の戦い」の100年以上前に遡る。

同盟による婚姻は以下の通り
相良側~16代・義滋の娘~菱刈重任(14代重州の兄弟)の室
菱刈側
重州(14代当主)の叔母~相良長皓(16代義滋の叔父)の室
重州(14代当主)の妹~~相良長時(16代義滋の従兄弟)の室

といった感じで、この同盟は菱刈は島津対策・相良は恐らく北原(日向)対策のためです(* ̄・ ̄*)b

文明17年(1485年)ヒェェ><;~その相良と菱刈を交えて島津家の三家が同盟をする。

島津は三家同盟にことよせて、何とか相良と菱刈を引き離そうとするのだが、上記の強固な繋がりを崩すことは出来なかった。

時代下って1530年(享禄3年)~16代・相良長唯と14代・菱刈重州の連合軍が大口城を攻撃する。

相良編を調べて初めて知ったのだが、これほどの激戦地で島津ファンなら誰でも知ってる大口城~~

なのに「築城年・築城主・歴代城主」といった基本データが入手不可 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

大口城は鹿児島県伊佐市にあり、元々は大口市だったのが菱刈氏の菱刈町などと合併し、伊佐市になった。

市HPの歴史を見ると市の(合併の)歴史・・・_| ̄|○ il||li がくぅ・・・まんまですがな・・

地図・相良関連

それはさておき、上記地図をガン見してくださると[壁]スッ≡( ̄ー『+』ゝハッケンできるのだが、

「大口城」は菱刈家と相良家の境目にある城・・・だから大隅統一を狙う島津がゲッツしたり、菱刈がゲッツしたりと、非常に目まぐるしい。

1530年当時、大口城は島津のもので、時の城主が羽州島津家・3代目当主・島津忠明。

羽州というのは、官位名が出羽守だったので羽州と呼ばれた。

もともと梅北に在していたが、大口城に入ってからは「大口殿(口がデカい訳では無い)」と呼ばれた。

攻撃を受けた時、ちょうど諏訪神社の祭礼で参拝者に紛れこんだ敵兵が城に火をかけ、あっという間に攻め落とされた。

さらに忠明の息子は鷹狩の最中に殺され、忠明も城で自害して果てた。

家紋・島津(島津家紋ロゴ)

激戦地である大口城では惣領息子の討死が多い。

羽州島津家では後を継いだ4代目まで大口城絡みの戦で討死し、男系が絶えてしまう。

女系で忠明の孫にあたる男子が、16代島津当主・義久(4兄弟長男)の命令で羽州島津家の家督を継ぎ、江戸期は大島家として残った。

急なことで、援軍が間に合わなかったのを島津宗家は気に病んでいたらしい。

天正7年に島津忠明を祭神とする神社を建立した。それが伊佐市にある「西原神社」だ。

鹿児島県・神社庁HP~グッジョブ!

だけど建立したのは島津貴久ってなってるけど、当時の当主は義久,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

たぶん大口城の歴史が通史としてまとまってないから、ごちゃ混ぜになってるんだな~

さて、大口城を手に入れた菱刈氏だが、どうもその後、またまた島津サイドに奪われているらしい~

きっと20年弱で色々あったんだろうなぁ・・・( ̄ω ̄A;アセアセ 

でもって、この強固な同盟関係にヒビが入るのは、名君な相良晴広の死がキッカケなのだが、
それは・またの話 by^-^sio

【北肥戦誌・1589年】天草国人一揆2

10月下旬、隈本城に居た加藤清正は、志岐城の堅固さに行長が和平に及ぼうとしていると聞き、ならば自ら馳せ参じて打ち崩すべしと、手勢10,000余騎を率いて同月29日に志岐浦へ船を着ける。
そして麟泉へ、「主計頭(清正)が、和談を調えんが為こちらへ着船します」と使いを以って伝えると、麟泉は家臣10余人と海辺へ出迎える。
すると清正は志岐の湊へ着くなり鉄砲を放ってその内の14人を打ち倒し、城へ向って禿山へ陣を布き、斎藤伊豆守らに1,500を与えて小西勢へ加勢させた。
これが本渡城へ伝わると、天草種元は志岐勢の後詰として、天草主水助に700を与えて差し向ける。
主水は甲浦から比々尾へ陣を布いて小西勢と退陣する。
また、本渡城に木山弾正という無双の剛の者がいたが、これも志岐を救うべく弓・鉄砲の500人を率いて、禿山の上の山に陣を取り、加藤勢と相対した。

11月初旬、天草主水・木山弾正は話合いの上で麟泉へ、明朝一斉に切って出て、三方より押し包んで加藤・小西を討ち取るよう伝える。
だが、城内の者の中に小西との和平を望む者もおり軍議が纏まらず、麟泉は返答できなかった。
天草主水は憤慨し、ならば我らは本渡へ帰城すると言い捨て、その翌日に陣を引き払った。
一方の木山弾正は、勝負を極めなければ二度と本渡へは帰らないと誓っていた為、敢えて引かず陣所へ留まった。
清正は行長へ遣いを出し、「木山は我らと一戦交える心算に見える。我らは明朝彼らの陣を切り崩す。御辺は志岐城を堅固に囲んで戦の動向を見られよ」と伝えると、夜のうちに木山の陣の上へ旗指物を隠しながら登ると、その夜は静まり返って合図を待った。

11月5日の黎明、加藤善右衛門の一番備え3,000が敵陣と谷を隔てて合図を待っていた処、善右衛門の家臣・伊東次右衛門という者がただ一人、槍を掲げて抜け駆けすべく進み出る。
清正は本陣からこれを見、「誰だ、無指図に槍を振るうのは! あやつを止めよ!」と使者を出して留めたが、既に山の六七分を登っており、あっという間に敵方より徒歩立ちの者3名が刀を抜いて切り掛かった。
次右衛門はしばし槍で支えたが、更に二三十人の敵が現れ、次右衛門を取り囲み討ち取った。
先手3,000がこれに堪え切れず進み出ると、敵は勝ちに乗り坂落としに襲い来る。
先手は軍令に背いての進軍である為、坂の途中で突き立てられて清正の旗本勢へ崩れかかる。
清正は床几に座してこれを見ると歯噛みして、「どこまで逃げる心算か。返せ返せ!」と下知したが、悉く討ち負け左右の谷へ落とされた。
清正の旗本勢はそれでも退かず、馬印を立てたまま留まっていた所へ、木山勢20人ほどが一群を為して襲ってくる。
これに清正自ら槍を掴んで、敵二人を討ち取ると、再び床几へ座った。
旗本衆もこれらを討ち取り敵を退かせたが、木山弾正が槍を掲げ20人程を連れて現れる。
木山は「足元に居るのは加藤主計頭(清正)と見える。我と一遣り合わせ、大将と大将の勝負を仕らん」と駆け寄った。
清正は眼を見開いて、十文字槍を掴んでこれに応じ、槍を突き入れ弾正の高股を突き通した。
後に続く木山家臣が駆け寄るが、清正が再び突き伏せると、清正側にあった浪人・阿波鳴門という者が木山の首を取る。
が、その阿波も流れ矢に当たり死んだ。
木山家臣は清正を逃がすまいと一斉に切り掛かったが、旗本衆に悉く突き崩され、大将を失った木山勢は敗走した。
合戦は辰の刻に始まり、午の刻に終わる。
清正方が討ち取った首級460余、味方の戦死は士分11人・雑兵279人であった。
清正はこれら首級を海辺に並べたが、このとき一揆勢が清正の乗船を奪おうとするのを、加勢の龍造寺勢が追い払った。
志岐麟泉は尚も籠城を続けたが、先達て関白へ島津義弘が「麟泉は中務大輔の婿にて(『本藩人物誌』では、島津義虎の娘の婿が麟泉の次男(養嗣子とも)・親重)、某にとっても縁者に候。願わくば御赦免を賜り、さすればすぐさま下城させます」が求めて許された為、麟泉は11月10日に《有馬修理大夫政純》を頼って下城、行長へ城を明け渡した。

本渡市教育委員会刊『天草の歴史』では、麟泉は出水へ逃れ、養嗣子の親重は有馬晴純の実子なので有馬へ戻った後、加藤清正へ仕えた。が、加藤家改易に伴い、親重の子・親昌は母方の縁を頼り島津家臣となったとある)

11月20日、清正と行長は本渡城を討つべく、有馬・大村・平戸・五島を合わせた25,000余人で向かった。
21日より竹束で仕寄りを形成しつつ、夜毎に少しずつ攻め近付き、24日から鉄砲を撃ち掛ける。
その日の未の刻、天草種元とその子・太郎次郎は、数百人を率いて城から打って出、激しく戦った後に敗退する事無く城へ戻った。
だが翌25日に寄せ手が城内へ入り、二の丸を奪った。城兵700余人が討ち死に、種元は矢倉へ上がって妻子を斬り殺すと、自身も切腹して果てた。
これに譜代の家臣21人が後を追って切腹、残りは悉く逃げ散った。
清正勢にも570余人の戦死者が出、他の小西や有馬らの勢も討ち死にが多かった。

(本渡市教育委員会刊『天草の歴史』では、大矢野・栖本・上津浦も天草に続いて降伏、その四氏は領地を召し上げられ、小西の家臣に組み入れられたとし、その後に行長は、同じ豪商出身で切支丹の家臣「ビンセンゾ・兵右衛門」を志岐に置き、本渡や上津浦にも切支丹武士を配置。この翌年、上津浦氏も信者となり3,500人が領主に続いて洗礼を受けたとしている。)

【北肥戦誌・1589年】天草国人一揆

天正17年の秋、小西行長は宇土城の補修を行っていたのであるが、天草本渡城主・天草種元と志岐城主・志岐麟泉(鎮経)に普請を手伝うよう遣いを出した。
だが両人これを嘲り、「一昨年、関白殿下が薩摩へ御動座の際に、我らは筑前秋月へ向いすぐさま拝褐し、殿下が御帰洛の砌に御朱印を賜っております。故に公儀の御普請であれば小西殿の下知に従いまするが、小西殿の私的な普請は承りかねます。また我らとて、相応の疲城とはいえ城持ちですので、修理経営に領内の百姓らを貸す暇もないのです」と返答した。
行長はこれに憤り、秀吉へ訴える。
秀吉が、左様な奴らは誅伐を加えよと下知すると、行長は家臣・伊地知文太夫に3,000の兵を与え、まず志岐城を攻めるべく近くの袋浦へ差し向けた。
だが船でそこへ上陸すると、麟泉は夜襲を仕掛けて文太夫の3,000余騎を悉く打ち殺し、舸子・船頭の命を援けて追い帰した。
これに狼狽した行長は、隈本の加藤清正へ援軍を乞うた。
清正は佐々平左衛門・瀧野讃岐守ら1,500余騎を宇土へ向かわせ、また行長も手勢6,500を率い、総勢8,000が船で袋浦へと渡る。
麟泉は干潟まで出て戦おうとするが、行長はこれを侮り難しと思い、すぐには戦を仕掛けなかった。
すると麟泉の勢から若武者共が出てきて「京衆京衆なぜ鑓せぬぞ。かふすの皮のすもりか」と悪口を拍子に乗せて囃し立てる。隈本からの加勢はこれを堪えかね、槍を揃えて突き掛かると小西勢もこれを見て続く。
敵味方入り乱れて戦い、両陣に死傷者が多く出ると、城兵は志岐城へ引き退いた。
このとき小西・加藤の討ち死にの将は27人、討ち取った首級は21という。
寄せ手は城攻めを開始、城には麟泉の手勢2,000余、天草よりの援兵の侍20騎、弓・鉄砲300挺が詰め、合力して防戦する。
また志岐城は、東は深谷で水が流れ、南は高山で林木が生い茂り、西北は人家に連なり、更に海に囲まれ、西岸は屏風のように岩石の壁となった要害で、容易くは落ちなかった。
そんな折、松浦久信・有馬政純・大村嘉前・波多親・五島(宇久)盛家ら、更に龍造寺家より成富家為の500余人が寄せ手の加勢に入り攻囲した。
行長は、志岐の縁者である有馬政純を通して、城を降って和睦すれば秀吉に執り成すと伝える。
麟泉がこれに思案する間、合戦は行われなかった。
すると、前回の仕返しとばかりに寄せ手より「城衆城衆なぜ切って出ぬぞ。志岐しや志岐しやへのこしきしや」と、手拍子と嘲笑が返された。

龍造寺家兼_24【宇佐郡代・佐田朝景/激突Ⅱ大内VS大友】

初めに手袋を横っ面に投げつけたのは、大友か大内か・・・

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

大友氏は北九州の覇権を巡って大内と争い、そのために少弐氏と度々連携した軍事行動をとっていた。

だがそれだけでなく、大友単独でも大内支配下にある豊前にチョッカイだしてました。

特に国境である宇佐が大友に脅かされていました。

宇佐を領するのは佐田氏。

宇都宮系城井氏庶流で、宇佐郡佐田庄に住んだ事から佐田氏を名乗るようになった。

全部話すとキリないんで、この記事現在の佐田氏は大内の下で豊前・宇佐郡代を務めている。

当代の宇佐郡代は、表題にある佐田朝景(さた ともあさ)^^/

1532年夏から秋にかけて、大友軍は佐田の居城・菩提寺城を攻略。

佐田朝景~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ~支えきれず、菩提寺城より堅固な妙見岳城に籠った。

同年11月14日、大友義鑑は妙見岳城を攻撃したが、佐田朝景は良く防ぎo( ̄Д ̄θ★ケリッ!撃退。

ちょうど少弐と陶がガチンコになって、不意をつかれた陶が敗北しちゃった頃です( ̄ω ̄A;アセアセ

家紋・大内(大内花菱)

大友と大内のパワーバランスが変化した直接原因は、筑後・星野氏が大友に対して謀反を起こした事です。

大友VS大内の激突「勢場ヶ原の合戦」を、あちこちネットサーフィンしてて気づいたんですが、
ほとんどが1533年の「陶興房の反撃」からの経過説明で、その前の筑後・星野氏謀反にまで遡って触れてるところがないんです。

肥後・肥前・筑後からの観点が、そっくり抜け落ちてるのは意外と盲点になってるからかな?^^;

シオが星野が原因~~っていう根拠は「肥後・菊池義国(大友義鑑・実弟)」が絡むからです。

「勢場ヶ原の合戦」で、ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!
とタッグを組んだ大内義隆と菊池義国。

このコンビ結成の馴初め?が「菊池義国が大内義隆へ」「星野への援軍を頼んだ」からなんです。

1532年の陶軍行動は当然、1533年の反撃も「戦の大義名分は星野への支援」です。
(少弐が、出張ってくるのは大友への与力)

これが国人領主の謀反の怖さで、何としても早期鎮圧しなければならない一番の理由なんです。

国人同士の戦というのが、そもそも戦国大名間の代理戦争である場合が殆どです。

微妙なバランスで保たれてた均衡が、謀反によって卓袱台返し状態で一気に崩れる。

謀反が長期化し援軍~~って話になれば、バックアップしてた戦国大名は無視できません。
(何もしなければ「頼み難し」って国人の支持を失い、次の軍役に応じてもらえなくなる)

結果として導火線に火が付いた如く、次々関係諸国を巻き込み、
「時期が~」「準備が~」「あぅ~」って悩もうがどうしようもなく大物同士の直接対決になる。

星野氏が忘れられちゃうのは、時期不明で落城し当主・星野親忠が歴史からフェイドアウトしちゃうからでしょう。

筑前・秋月は適当なとこでチャッチャと降伏しちゃう~そこが面白い(*´pq`)クスッ
筑後・星野家は頑固者揃いなのか最期まで突っ走る~それが魅力なんです~川* ̄д ̄*川ポッ


国人オタの薀蓄はさておき、大内義隆は発想の転換をした。

大内は北九州の覇権ゲッツのために、少弐を歴代何度もモグラ叩きしてたが、
基本・名門の少弐は男子が一人でも残ってると復活してしまうil||li _| ̄|○ il||l

その少弐を(大内の邪魔するために)バックアップするのが大友家です。

豊前宇佐郡代・佐田朝景からも・゜・(PД`q。)・゜・「何とか妙見岳城で頑張ってます」報告が届いてる。

「いっそ少弐より先に大友を退治しちゃえばいいんじゃね(・∀・)-★ピコーン」

晩年とは別人のようにアクティブな大内義隆は、陶興房に豊後侵攻を命じる。

豊前から豊後へ道案内を務めるのは、もち佐田朝景(^ -)---☆Wink 

ちなみに佐田さんの郡代職務は、宇佐にイパーイある神社関係の奉行を兼ねてた。

大内が滅亡後の佐田氏は、宇佐の神人に手を焼く大友氏の元で重宝され、
大友が滅亡後は熊本・細川家に仕え無事に家名を残すのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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