【肥後の名門、菊池義武の最期・弐】相良氏、戦国名君編14
肥後国人・鹿子木を知ってる人は、相当の郷土史オタだろう。
菊池義武が亡命中は、鹿子木氏が隈本城に入っていた。
菊池義武がスンナリ隈本城に入れたのは、城主の鹿子木が全面協力したからなんです。
では上手く行ってたはずの菊池の謀反が失敗した理由は?
というと肥後国人からの衆望が無かったから( ̄ω ̄A;アセアセ
そもそも肥後菊池氏の本拠地は隈府城(菊池市)でした。
ですが肥後守護職になった菊池義武が、菊池家三家老(隈部・城・赤星)と合わず、
彼らのいる隈府城を避けて隈本城(熊本市)に入ったという経緯があった。
もっとも菊池三家老は過去に二人の主君をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と追い出した前歴があり、
誰が菊池当主になっても従うような殊勝な連中じゃなぃ・・・ゲホグホゴホ
(大友家紋ロゴ)
さて相良氏だが、菊池義武が蜂起した時に大友義鎮(宗麟)から「鎮圧に協力するように」と要請があったそうだ。
相良氏では、それを蹴って菊池義武に助勢した。
相良氏が菊池義武に肩入れした理由はズバリ「豊福城」だろう。
たかが城一つだが、どこに帰属するかで国境線が違ってくる。
豊福城周辺は物成りが豊かで、土地そのものにも魅力があっただろう。
色々あって豊福城は天文13年に名和氏に帰属した。
翌天文14年に名和・阿蘇・相良による三氏和合が結ばれている。
家督争いに端を発して阿蘇氏は二系統に分裂していました。
名和と相良が押しメン阿蘇惟前は、阿蘇惟豊によって討たれてしまったために、
ウィナー阿蘇惟豊との関係修復の為に必要に迫られた和合だったと思います。
だが、このままでは豊福城は名和氏領有のままで、相良の元に戻らない。
外交の卓袱台をオリャ!!(ノ´□`)ノ ┫:・'∵:.┻┻:・'.:┣∵・:. ┳┳☆ピタッ
って、引っくり返すカオスな状況が欲しい。
トラブルメーカー・菊池義武は、そのために有用なジョーカーだったのではないだろうか。
1534年に菊池義武が起こした謀反の時も、
相良氏は菊池への助勢にかこつけて名和氏の豊福城を攻撃してます。
北肥後が謀反によってカオスになる事は、相良にとってのチャンスなんです。
(相良家紋ロゴ)
2度目の菊池義武謀反で、相良が待ち望んだカオスなチャンス到来~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
なんと名和氏の家臣が謀反を起こし、宇土城から主君・名和氏を追い出しちゃった!
名和氏が宇土城を奪還する際に相良が助勢したとかしないとか。
相良晴広は、菊池謀反なぅの時に名和と菊池義武を同盟させているのだが、
名和氏の宇土城奪還にからんでいたかもです。
とにかく相良家では、この菊池謀反ドサクサに紛れて、再び豊福城ゲッツに成功しました(=^・ω・^=)v ブイ
えっと~相良が途中から豊福城に夢中で、
菊池義武の謀反が放置プレイになるのは、前回と一緒,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
1550年8月9日、大友の大軍を前に菊池義武と鹿子木氏は敗れ、隈本城を落ち延びた。
8月22日に肥後謀反は完全鎮圧。
9月1日には大友軍は隈本の陣を引き払った。
相良家では大友三老に馬を贈呈。大友からは相良へ永賀蔵王が派遣され、両家の間で折衝開始。
談合は上手く折り合わなかったらしく、永賀蔵王が豊後へ帰ったのは大友軍撤収より後の9月23日です。
大友家との今後の関係をどうするか・・・そんな微妙な時期に相良家は菊池義武の亡命を再び受け入れた。
菊池義武の身柄を巡って、大友と相良との間で遣り取りが始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio
菊池義武が亡命中は、鹿子木氏が隈本城に入っていた。
菊池義武がスンナリ隈本城に入れたのは、城主の鹿子木が全面協力したからなんです。
では上手く行ってたはずの菊池の謀反が失敗した理由は?
というと肥後国人からの衆望が無かったから( ̄ω ̄A;アセアセ
そもそも肥後菊池氏の本拠地は隈府城(菊池市)でした。
ですが肥後守護職になった菊池義武が、菊池家三家老(隈部・城・赤星)と合わず、
彼らのいる隈府城を避けて隈本城(熊本市)に入ったという経緯があった。
もっとも菊池三家老は過去に二人の主君をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と追い出した前歴があり、
誰が菊池当主になっても従うような殊勝な連中じゃなぃ・・・ゲホグホゴホ

さて相良氏だが、菊池義武が蜂起した時に大友義鎮(宗麟)から「鎮圧に協力するように」と要請があったそうだ。
相良氏では、それを蹴って菊池義武に助勢した。
相良氏が菊池義武に肩入れした理由はズバリ「豊福城」だろう。
たかが城一つだが、どこに帰属するかで国境線が違ってくる。
豊福城周辺は物成りが豊かで、土地そのものにも魅力があっただろう。
色々あって豊福城は天文13年に名和氏に帰属した。
翌天文14年に名和・阿蘇・相良による三氏和合が結ばれている。
家督争いに端を発して阿蘇氏は二系統に分裂していました。
名和と相良が押しメン阿蘇惟前は、阿蘇惟豊によって討たれてしまったために、
ウィナー阿蘇惟豊との関係修復の為に必要に迫られた和合だったと思います。
だが、このままでは豊福城は名和氏領有のままで、相良の元に戻らない。
外交の卓袱台をオリャ!!(ノ´□`)ノ ┫:・'∵:.┻┻:・'.:┣∵・:. ┳┳☆ピタッ
って、引っくり返すカオスな状況が欲しい。
トラブルメーカー・菊池義武は、そのために有用なジョーカーだったのではないだろうか。
1534年に菊池義武が起こした謀反の時も、
相良氏は菊池への助勢にかこつけて名和氏の豊福城を攻撃してます。
北肥後が謀反によってカオスになる事は、相良にとってのチャンスなんです。

2度目の菊池義武謀反で、相良が待ち望んだカオスなチャンス到来~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
なんと名和氏の家臣が謀反を起こし、宇土城から主君・名和氏を追い出しちゃった!
名和氏が宇土城を奪還する際に相良が助勢したとかしないとか。
相良晴広は、菊池謀反なぅの時に名和と菊池義武を同盟させているのだが、
名和氏の宇土城奪還にからんでいたかもです。
とにかく相良家では、この菊池謀反ドサクサに紛れて、再び豊福城ゲッツに成功しました(=^・ω・^=)v ブイ
えっと~相良が途中から豊福城に夢中で、
菊池義武の謀反が放置プレイになるのは、前回と一緒,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
1550年8月9日、大友の大軍を前に菊池義武と鹿子木氏は敗れ、隈本城を落ち延びた。
8月22日に肥後謀反は完全鎮圧。
9月1日には大友軍は隈本の陣を引き払った。
相良家では大友三老に馬を贈呈。大友からは相良へ永賀蔵王が派遣され、両家の間で折衝開始。
談合は上手く折り合わなかったらしく、永賀蔵王が豊後へ帰ったのは大友軍撤収より後の9月23日です。
大友家との今後の関係をどうするか・・・そんな微妙な時期に相良家は菊池義武の亡命を再び受け入れた。
菊池義武の身柄を巡って、大友と相良との間で遣り取りが始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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