【肥後の名門、菊池義武の最期・弐】相良氏、戦国名君編14

肥後国人・鹿子木を知ってる人は、相当の郷土史オタだろう。

菊池義武が亡命中は、鹿子木氏が隈本城に入っていた。

菊池義武がスンナリ隈本城に入れたのは、城主の鹿子木が全面協力したからなんです。

では上手く行ってたはずの菊池の謀反が失敗した理由は?
というと肥後国人からの衆望が無かったから( ̄ω ̄A;アセアセ

そもそも肥後菊池氏の本拠地は隈府城(菊池市)でした。

ですが肥後守護職になった菊池義武が、菊池家三家老(隈部・城・赤星)と合わず、
彼らのいる隈府城を避けて隈本城(熊本市)に入ったという経緯があった。

もっとも菊池三家老は過去に二人の主君をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と追い出した前歴があり、
誰が菊池当主になっても従うような殊勝な連中じゃなぃ・・・ゲホグホゴホ

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

さて相良氏だが、菊池義武が蜂起した時に大友義鎮(宗麟)から「鎮圧に協力するように」と要請があったそうだ。

相良氏では、それを蹴って菊池義武に助勢した。

相良氏が菊池義武に肩入れした理由はズバリ「豊福城」だろう。

たかが城一つだが、どこに帰属するかで国境線が違ってくる。

豊福城周辺は物成りが豊かで、土地そのものにも魅力があっただろう。

色々あって豊福城は天文13年に名和氏に帰属した。

翌天文14年に名和・阿蘇・相良による三氏和合が結ばれている。

家督争いに端を発して阿蘇氏は二系統に分裂していました。

名和と相良が押しメン阿蘇惟前は、阿蘇惟豊によって討たれてしまったために、
ウィナー阿蘇惟豊との関係修復の為に必要に迫られた和合だったと思います。

だが、このままでは豊福城は名和氏領有のままで、相良の元に戻らない。

外交の卓袱台をオリャ!!(ノ´□`)ノ ┫:・'∵:.┻┻:・'.:┣∵・:. ┳┳☆ピタッ
って、引っくり返すカオスな状況が欲しい。

トラブルメーカー・菊池義武は、そのために有用なジョーカーだったのではないだろうか。

1534年に菊池義武が起こした謀反の時も、
相良氏は菊池への助勢にかこつけて名和氏の豊福城を攻撃してます。

北肥後が謀反によってカオスになる事は、相良にとってのチャンスなんです。

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

2度目の菊池義武謀反で、相良が待ち望んだカオスなチャンス到来~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

なんと名和氏の家臣が謀反を起こし、宇土城から主君・名和氏を追い出しちゃった!

名和氏が宇土城を奪還する際に相良が助勢したとかしないとか。

相良晴広は、菊池謀反なぅの時に名和と菊池義武を同盟させているのだが、
名和氏の宇土城奪還にからんでいたかもです。

とにかく相良家では、この菊池謀反ドサクサに紛れて、再び豊福城ゲッツに成功しました(=^・ω・^=)v ブイ

えっと~相良が途中から豊福城に夢中で、
菊池義武の謀反が放置プレイになるのは、前回と一緒,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

1550年8月9日、大友の大軍を前に菊池義武と鹿子木氏は敗れ、隈本城を落ち延びた。
8月22日に肥後謀反は完全鎮圧。
9月1日には大友軍は隈本の陣を引き払った。


相良家では大友三老に馬を贈呈。大友からは相良へ永賀蔵王が派遣され、両家の間で折衝開始。
談合は上手く折り合わなかったらしく、永賀蔵王が豊後へ帰ったのは大友軍撤収より後の9月23日です。


大友家との今後の関係をどうするか・・・そんな微妙な時期に相良家は菊池義武の亡命を再び受け入れた。

菊池義武の身柄を巡って、大友と相良との間で遣り取りが始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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【肥後の名門・菊池義武の最期・壱】相良氏、戦国名君編13

謀反が失敗し肥後守護職の座を追われ、相良氏のところで家族ぐるみでニート・・・
もとい亡命中の菊池義武。

彼が待ちに待ったチャンスが訪れようとしていた。

1550年(天文19)2月10日、大友家で「二階崩れの変」が起きる。
二階崩れの変については、【大友宗麟】夢追う人【ドン・フランシスコ】大蔵系氏族&秋月種実編2 で、
一度語ってるのだが、ちとブランクが空いたので重複するが再び語りたいと思う。

大友家は、とにかく家族不和な一族で、特に親子相克が多い。

その親子間の対立の余りの激しさに、一時期大内家が政治介入したほどだった(大友16代、17代親子の時)

1550年「二階崩れの変」で揉めた大友親子は、
父が20代目大友義鑑で息子は21代目大友義鎮・・・後の宗麟です。

大友宗麟と正室・奈多夫人の不仲は有名だが、
宗麟の父・義鑑も正室(宗麟生母)と不仲だったそうだ。

大友義鑑は大嫌いな正室が生んだ病弱な義鎮(宗麟)を嫌い、
寵愛する側室が生んだ庶子・塩市丸を溺愛した。

そのため大友家中は嫡子・義鎮派と、庶子・塩市丸擁立派とに二分される。

義鑑は溺愛のあまり、遂には嫡子・義鎮を廃し、庶子・塩市丸に家督を継がせようと画策するに至った。

画策のために義鑑は義鎮に対し
「身体によい湯があるから湯治に行っておいで^-^ニコニコ」と大友館から遠ざけた。

義鎮派家臣が、何時もと違う義鑑の態度に企みを察知。

義鎮派家臣が、先手を打って大友館を襲ったのが「二階崩れの変」です。

大友館の二階にいるところを襲われた事から、そう呼ばれました。
二階がホントに崩れたわけではない(念のため)

家紋・大友(大友家紋)

襲撃された義鑑は瀕死の重体で、彼が溺愛した庶子・塩市丸は生母もろとも惨殺された。

同年2月12日、大友義鑑は回復することなく没した。享年49歳
同年3月、庶子擁立派だった大友家臣・入田親誠が、阿蘇惟豊によって殺される。

入田は事変後に阿蘇惟豊を頼り亡命していたのだが、
大友と揉めるのを嫌った阿蘇惟豊により始末されたんです。

大友家は「二階崩れの変の犯人」として入田の死を処理した。
だが無実(と思われる)入田を罪人に仕立て上げたのだ。後々禍根となったのは言うに及ばず(`・ω・´)キリッ

亡き大友義鑑、実弟・菊池義武が行動を起こしたのは、阿蘇が入田を殺したのと同時期だった。
同月14日、菊池義武が隈本城へ入る。
5月、菊池義武が謀反を起こす。

ブランクあるのは、諸方へ兵を募ったりしてたのでしょう。
相良へ菊池義武から使者が来たのは5月16日です。

閏5月、謀反の呼びかけに応じた相良晴広が、阿蘇氏と戦い此れを破る。バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!!

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

1545年に名和・相良・阿蘇とで三氏和合してたんですが、
菊池義武の謀反を前にアッという間に吹っ飛んだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

さらに相良晴広は、名和氏と菊池義武を同盟させる事に成功します。
(もともと菊池義武の正室は名和氏の姫様なんです^^)

6月3日には菊池義武から相良晴広の元へ竹林寺(使僧?)が派遣されている。
名和との同盟に絡むことだったかもです。

こういう状況だったので、初手は謀反側が優勢でして、
鎮圧のために奔走する大友家臣・佐伯惟教(他姓衆)は、一時的に孤軍状態となって奮戦してました。

このまま成功するかに見えた菊池義武の謀反でしたが、所詮それは儚い夢。

8月9日、隈本城が落城し菊池義武は城を脱出。
再び亡命生活が始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio

【相良と5人の天草衆たち】相良氏、戦国名君編12

大友が相良の台頭を何故に見過ごしたかというと、
「手が回らなかった」の一語に尽きる。

大友家は1510年代から断続的に筑後・星野氏の謀反に手こずっており、
謀反⇒鎮圧or降伏⇒謀反⇒(以下略)の不毛ループを繰り返してました。

大友が味噌をつけたのは(上記の状態なのに)肥後守護職・菊池家の家督に介入したことです。

実弟・義武を当主に送り込んだまではグッジョブだったが、
肥後国人が旧主を担いで謀反、さらに実弟までが謀反と肥後謀反ラッシュ( ̄ω ̄A;アセアセ

これに筑後星野の謀反もリンク、さらに飛び火して大内とガチンコ(勢場ヶ原の戦い)。

一時的な事ですが、大友軍は精鋭から留守部隊までフル稼働状態となって首が回らなくなり、
大友義鑑が北九州の覇権を諦め、大内義隆と和睦した要因となったんです。

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

さて、戦国大名・相良家の経済基盤を支えたのは貿易です。

それには天草5人衆・・・諱(いみな・名前)に「種」の文字が入る男たち・・・が関係してきます。

天草地方は大別すると「上嶋・下嶋・大矢野島(熊本県)・長嶋と獅子島(鹿児島県)」からなる。

天草地方には飛びぬけた戦国大名は出現せず、いるのは後に「天草5人衆」と呼ばれる国人達で、
彼らは、元々は8家で、うち2家が天草尚種により併合されて6家になる。

その6家が天草氏(大蔵系)・志岐氏・大矢野氏(大蔵系)・栖本氏・長島氏・上津浦氏(大蔵系)。
(ちなみに小勢力で下津浦氏って国人もいました( ̄ko ̄)チイサナコエデ)

彼らは天草地方に蟠踞し、少しでも優位に立とうと小競り合い、せめぎ合いを繰り返していた。

相良家の天草地方に対する本格的な軍事介入は、16代目・相良義滋(よししげ)からだ。

理由はカンタン。

明との交易を始めたのが義滋で、その交易港である「徳淵湊(八代の外港)」を守るためには、天草地方を勢力下に置く必要があるからです。

地図・天草関連

1532年(享禄5)6月13日~天草氏+志岐氏+栖本氏+長島氏+大矢野氏の連合軍で上津浦氏を攻撃した。
同年6月16日~16代・相良義滋が上津浦氏に援軍~
同年7月1日~相良+上津浦氏がウィナー(* ̄・ ̄*)Vブイ

ウィキペディアでは「この勝利で天草諸氏は相良に従うようになった」と簡素に説明しているが、
どうもそんな単純じゃなかったらしい。

1533年(天文2)~天草氏中心で、またまた志岐氏+栖本氏+長島氏+大矢野氏の連合軍が、上津浦氏を攻撃した。
2回目の時は決着が付かなかったみたい(記録が少なすぎ^^;)

最初は連合して相良のバックアップ受けてる上津浦氏を苛めて(?)たんだけど、
その後になって志岐氏・栖本氏・長島氏が、肥前有馬氏の、バックアップを受けるようになってから天草地方のミリタリーバランスが変化してきた。

(ヤバイ!)と感じた天草氏は、相良氏と急接近を始める。

ちなみに相良家が海外と貿易を始めたのは1539年。

家紋・相良
(相良家紋ロゴ)

1546年(天文16)~17代・相良晴広が家督を継ぐと、天草氏は八代に祝賀の使者を送る。
1547年(天文17)3月24日~天草尚種と相良晴広が獅子島(地図参照)で会見し講和する。
1548年(天文18)も天草尚種は相良晴広と何事か会見している(内容不明)

会話の内容は不明なんだけど、天草尚種は軍事支援で相良は交易船保護の協力じゃないかと思う。

というのも、どうやら長島氏が「天草氏+相良氏」に、圧迫されて勢力が衰えているっぽい。

この辺りから長島氏に関する記録が減っていってるの。

1551年(天文20)~天草氏+上津浦氏+大矢野氏の連合して栖本氏を攻める。

で、この時は「大友軍」が介入したらしい~天草弾正左衛門尉行盛が大友義鎮に降伏している。

この降伏が影響したのか、天草尚種の次期当主・天草鎮尚は、大友義鎮(宗麟ネ)から鎮の文字の偏諱を受けている。
(もしかしたら人質として大友館に出仕してたかも)

じゃぁ、この後は天草地方で大友義鎮がブイブイ言わせたかというと、そうは問屋が卸さない。

大友家では「家臣の謀反~府内の乱・1553年」があって、
その余波で大友義鎮は「大友館」から「臼杵」へお引越し~国内安定の方が優先になった。

大物のテコ入れが無いので、天草地方は国人達の小競り合いが続く。

決着つくのが1554年(天文23)7月~相良晴広が天草地方に兵を入れ、長島氏を長嶋から追い出すo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
これを持って、天草地方は「天草氏・志岐氏・大矢野氏・栖本氏・上津浦氏」からなる「天草5人衆時代」に突入した。
え~戦隊風に言うとブラックとブルー的な位置にいるのが天草氏・志岐氏,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

5人衆のうち、相良氏がプッシュしてたのが「天草氏・大矢野氏・上津浦氏」です^^


家紋・島津(島津家紋ロゴ)

長嶋氏の堂崎城には天草氏の一族が城主として入り、17代・相良晴広の名君治世は順風万般なはずだった。

一方、追い出された長嶋氏が、帰農したのか某家に仕えたか解らないが、逃げた先だけはハッキリしてる。

でもって、その逃げた場所が問題だった。

長嶋氏は島津の勢力圏である出水に亡命したんです。
(近いし、相良に追い出されたから当然なんだけど)

地図には「出水城・出水嶋津家」とあるが、それは「薩州家」のことです。
出水を領している「薩州家」とは、島津家分家筆頭にして薩州家6代目当主・島津義虎!
歴史からフェイドアウトする長嶋氏の頭越しに、長島の領有を巡って相良と薩州家のバトル勃発する。

それには悲劇と祟りのフルコンポ付なのだが、それは・またの話 by^-^sio


ちとロングパスの伏線になります( ̄ω ̄A;アセアセ

【デヴュー・戦国大名】相良氏、戦国名君編11

1544年8月27日、菊池義武が相良の元を離れ島原・有馬へと旅立った。
相良家で最も知名度のある当主・義陽は同年2月8日に誕生した。


父は名君の誉れ高い17代目当主・清為(後の晴広)。

前回、語ったように為清は、1542年に名和氏の妻と離縁した。

そのあと彼は、上田氏から内城(ないじょう)を継室に迎えた。

同じく1544年(天文13)2月8日~為清の側室が頼貞を産む。

1542年に離縁してすぐ再婚して、1544年に正室と側室が同じ日に男子を産むって、
どういう家族計画なんですか為清さん(/▽*\)キャァ

正室の内城は申し分のない賢婦人だが、女として為清がカワユイ~
と魅力を感じて寵愛してるのは側室の方だったらしい。

だが名君・為清は惻隠の情に流されることなく、嫡出子である頼房を長男とし、庶子の頼貞を次男とした。

さらに家督争い回避のため「次男は10歳になったら出家~~」と公表し筋目を明確にする。

だが折角の配慮も為清が44歳の働き盛りで急死しために、御家騒動が起きるのである。

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

1545年4月、阿蘇惟豊・名和武顕・相良長唯によるNEW三家和合が成立する。

一見、デジャヴュなNEW三家和合ですが、中身が変化してます。

1539年三家和合と1545年三家和合では、阿蘇氏が違うんです。

阿蘇氏は肥後菊池家の家督に介入した事に絡んで、兄・惟長系と弟・惟豊系の二系統に分裂しました。

1539年三家和合の阿蘇氏は兄・惟長系。
1545年三家和合の阿蘇氏は弟・阿蘇惟豊です。


1542年に為清と名和娘が離縁し両家は交戦状態となって和合破綻。

惟長系・阿蘇惟前も、1543年に叔父である阿蘇惟豊から攻撃されて歴史からフェイドアウトしました。

更に1539年三家和合は、元肥後守護職・菊池義武のリベンジ助力を掲げていました。

その菊池義武も1545年に、寄宿していた相良氏の元を離れています。

1545年NEW三家和合は純然たる和合で、阿蘇家の家督争いに端を発したゴタゴタの関係修復のためと思われます。

家紋・阿蘇(阿蘇家紋ロゴ)

一安心と思いきや、同年6月15日~相良治頼が謀反起こしますヽ(。_゜)ノアリャリャ

治頼は12代目当主の曾孫です。
謀反そのものは失敗し、彼は日向経由豊後という定番コースで亡命します^^;

翌年に治頼は死亡するのですが、その後に彼の祟りがあったと噂されてます。

まぁ、謀反と祟りがセットメニューなのが相良家の特徴でもありますな ( ゚Д゚)y─┛~~

1545年12月、相良氏が足利将軍・義晴より偏諱を受ける。
16代目長唯が義滋、17代目為清が晴広と、それぞれ改名した。

戦国大名・相良氏、誕生の瞬間です。

戦国大名の定義って、実は結構ファジーです。

特に困るのが在地領主(鎌倉以来ってのね)や国人領主(地元民)の扱いでして( ̄ω ̄A;アセアセ
彼らが「何時」から戦国大名になったか?って境目を決めるのはケースバイケースなんです^^;

一応の目安として、
1・一か国または数郡を領していること
2・朝廷から本物の官位を貰ってる事
3・領内統治がキチンと為されている事(分国法があれば尚可)
4・国人を被官として配下にしている事

相良氏は、数代かけて法度(分国法)を作り、17代目晴広が1555年に完成させて発布しています。

分国法完成以前に、相良氏は既に八代・人吉・水俣三郡を治めており、
これは推測ですが大隅・菱刈との同盟も対等なものではなく、
菱刈が相良への一種の被官状態だったようなんです。

更に未だ権威が残っていた足利将軍家からの偏諱をもって、
相良氏が対外的に戦国大名としてみなされたと、シオは考えています。

それは同時に、肥後守護職である大友氏から南肥後の相良氏が自立した事を意味するのだが、
それは・またの話 by^-^sio

【主に揉めてます】相良氏、戦国名君編10

相良家は「家督争い・御家騒動」が非常に多い。

江戸期なぞ僅か2万2千石で、よくもまぁ飽きずに揉め、よく改易にならなかったと感心する。

江戸期の御家騒動の遠因は戦国時代にあり、その理由は話の進行とともに追々語ろうと思う。

ただ戦国期の家督争いは、一つにまとまらない「肥後気質」だけでなく、未だ「長子相続」が確立していなかったせいもなる。

だが相良家は優れた当主が数代に渡り輩出されたため、戦国期の舵取りを誤ることなく着実に力を付けて行った。

そんな「相良の優れた当主たち」の中で「名君」と謳われたのが、
17代目当主・相良為清(後の晴広)だ。

当主在位期間が10年足らず・・・ということを勘案すると、
その器量は知名度のある義陽以上かもしれない。

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

相良為清は1513年(永正10)産まれ。

ちなみに雷神こと立花道雪も同じ年産まれ。
蛇足ながら島津4兄弟のダディ貴久が1514年産まれ。
肥後戦国期の人気武将・甲斐宗運が1515年産まれです。

その為清は実は相良家の産まれではなく、相良家の支族・上村家の長男として産まれた。

為清パパ上村は16代目当主・長唯の従兄弟にあたります。

時の相良家では家督争いがあり、
①叔父と甥で争い⇒甥側(長唯とその兄弟)が勝利。
②その後、兄弟(長唯と弟)の争いに発展⇒長唯が勝利して16代目当主となった。

その過程で長唯は、相良家臣団の実力者で大きな発言力を持つパパ上村に助力を頼んだ。

パパ上村は「協力いたそう。( ̄ko ̄)<その代わりに・・・」
と我が子・為清を長唯の養子にさせる(1530年のこと~大友宗麟が産まれた年)



パパ上村は実子・為清が相良当主となるのに、障害となりそうな人物を次々と始末した。

邪魔者は自分の実弟であろうと容赦しない徹底ぶりで、
長唯もパパ上村の行動に同調した。

パパ上村にとって目障りな人物は、長唯の統治にあたっても「五月蠅い連中」だったからです。

長唯はパパ上村の協力によって、「家督争い」で分裂した相良家中を一つに纏めるとこに成功した。

一言で済ませてますが、どんな手段であれ「肥後もっこす」を束ねたのだから大したものです。

為清の名君としての実績も「義父・16代目長唯+実父・パパ上村」の強力タッグによる「地ならし」あってこそのもの。

とはいえ為清とパパ上村は、相良当主である長唯との関係に色々配慮してたようで、
息子の義陽の正室に長唯の4女・千代菊を迎えている。

つまり義陽は叔母(義理の関係だが)と結婚したんです。

年は千代菊が一歳年上で二人の間に女の子三人(虎満、千満、千代菊)を儲けた。

家紋・阿蘇(阿蘇家紋ロゴ)

さて、ここで前回まで話した「肥後の三氏(相良・名和・阿蘇惟前)和合」に話が戻る。

名君・相良為清の最初の正室は名和氏から迎えた。

1539年の三氏和合より三年前の1536年の事だ。

名和氏とは豊福城の帰属を巡って長年係争しており、
その過程で名和と相良は和解と戦を繰り返していた。

相良・名和の両家縁組と、阿蘇惟前を含めた三氏和合で上手く行くかのように見えたが、
僅か3年後の1542年に破綻する。

最初に破綻したのは相良と名和の関係で、
1542年6月15日、為清は名和氏娘と離縁している。

同年9月3日、名和氏が船で八代海土江を攻撃し、両家は再び交戦状態となった。

為清の離縁も泥沼離婚だったらしく、名和氏娘は実家へ戻る時に夫・為清を呪詛したと伝えられている。

為清は病で倒れるが、呪詛の調伏祈祷により回復したそうだ・・・
でも病になったのって離縁から10年くらい経ってるんですが・・・
遅効性呪詛?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

1543年5月8日になると阿蘇惟前の堅志田城が、阿蘇惟豊の攻撃を受けて落城し、
阿蘇惟前自身も討死にしたらしく歴史からフェイドアウトする。

一部サイトで惟前は八代に亡命とあるが判然としておらず、
少なくとも史料からは惟前の記録が消える。

肥後の三氏和合は、有耶無耶になり自然消滅状態。

同年、大友義鑑が空席だった肥後守護職に補任される。

謀反失敗後、八代に亡命し相良の保護を受けていた菊池義宗(前肥前守護職)だが、
「この流れじゃ、再起できそうにないil||li _| ̄|○ il||l」と思ったらしい。

同年8月27日、菊池義武は相良の元を離れ島原・有馬へと旅立ったのだが、
それは・またの話 by^-^sio

【肥後の三氏和合】相良氏、戦国名君編9

大友にとって、相良の態度・行動は好ましいものではない。

だが相良は、大友が手袋を投げるまでには至らない、
外交としてはギリギリセーフな状態を賢くキープしていた。

大友にすれば、相良というフタが外れた南肥後の混乱の方が怖かったのだろう。

大友は相良に対し、不快と態度に出すどころか、逆に気遣う風を見せている。

(相良編メイン出典元「八代日記」「南藤曼綿録」他)

家紋・相良

1534年の菊池義宗謀反の時も、
相良は「肥前守護職(当時)様から命令されたの(vv*)」という在地領主らしい大義を慎ましく?掲げた。

そして義宗に助勢への感謝を貰いつつ、途中から謀反メンバーから抜け、
大友からマークされるのをチャッカリ免れている。

相良が、こうした外交駆け引きをしたのは、長年のライバルである名和氏との関係改善の為とシオ推測してました。

むろん相良が優位な立ち位置であるのが前提での関係改善です。

相良は、そのための外交手札を増やすために、色々動いたのでは?と考えてました。

二系統に分裂した阿蘇氏ですが、ライバル名和の押しメンも相良と同じ阿蘇惟長・惟前親子なんです。

日頃ライバルの名和と相良は、阿蘇家督に関してタッグを組んで和合成立。

和合の証として名和娘と相良晴広が結婚する。(後に破綻)

1535年12月13日、暮れも押し迫った頃に島原高来から八代へ菊池義宗が亡命してきた。

初めは地福寺に泊まってたのだが、19日に荘厳寺に移動。

翌20日、相良長唯が菊池義宗に「拝謁」しているm(__)m

拝謁という言葉は八代日記に記されており、
相良長唯の義宗に接する態度は、家臣としてのものだった。

義宗がリベンジを全く諦めてないことを、相良がどう感じていたかは判らない。

だが少なくとも義宗がリベンジの為に動き回るのを、止めた風はなさそうだ。

家紋・大友(大友家紋)

1539年12月29日、相良長唯は大友義鑑と菊池義宗を兄弟仲直りさせようとする。
これに伴い、相良、名和、阿蘇惟前の三氏で起請文を交わした。
名和から相良へ(原文要約)
1・肥後諸氏は大友に対し疎義なきこと。
2・大友が相良を攻める事あれば、互いに防戦に努めること。
3・相良~名和間で中傷あらば、互いに隠さず主張し是非を決すること。
4・国中衆の書状は一通でも隠さず開示すること。
5・義武(義宗)の為、勝利するよう策を廻らす事、これは同調すべし。
6・両家(相良、名和)の間で鴆毒(ちんどく=猛毒のこと)を用いて誑かすな。

相良から阿蘇惟前へ(同上)
1・両家(相良、阿蘇惟前)は後代においても無二の関係であり何かあらば要相談のこと。
2・他方より苦情あらば尽力するが、中傷の場合は取り上げない。
3・天文3~4年における阿蘇の好意は忘れない。再び戦にならば心底明らかにすべし。
4・義鑑、義武の斡旋に努めたが、大友に歯向うつもりはない。

肥前の三氏和合が少弐の裏切りで破たんしたように、
肥後の三氏和合も速攻で破たんするのだが、それは・またの話 by^-^sio

【相良と二つの阿蘇氏】相良氏、戦国名君編8

「薩摩の大提灯(おおぢょうちん)肥後の鍬形(くわがた)」

薩摩人は大きな提灯を掲げた強力な指導者が現れた際には皆がこぞってついていくが、
肥後国では各々が兜をかぶり大将気取りで一致団結することがないためこう呼ばれた。

または「肥後の腰提灯」

薩摩の大提灯と比較して、肥後では各々が腰に提灯をつけ単独行動をとることから言われた


肥後戦国史を語る前に、しばらくブランクあったので「あらすじ」兼ねて、時計の針を少し巻き戻そう。

永正年間(1510年代)、阿蘇惟長は大友のバックアップで菊池当主となったのだが、
菊池家臣が思うとおりにならず、大友の傀儡当主である事が嫌になって阿蘇家に出戻った。

が、既に阿蘇家当主は惟長弟の惟豊でして、、、てか菊池当主になったのがルンルンで、惟長が自分で譲った^^;

阿蘇氏は「家督を奪い返そうとする兄・惟長」と「正規に家督継承したんだ返すもんか!弟・惟豊」の二つに分裂した。

家督を巡っての争いは、甲斐氏の助力を得た惟豊に軍配が上がった。

敗れた阿蘇惟長と息子の惟前は、相良氏の保護を受けたんです。

家紋・阿蘇(阿蘇家紋ロゴ)

1520年(永正17)、大友義鑑(宗麟ダディ)は肥後・菊池家臣の不満に付けこみ、実弟・義宗(義武)を菊池当主に送りこむ事に成功する

阿蘇惟長が実家に帰ったので、空位の菊池家督は一族から当主が選ばれていたのだが、
菊池家臣団は、それはそれで不満が出て、ゴタゴタしてたんです。

1523年(大永3)~肥後で謀反発生!

庶流の出が不満で一度は追い出した菊池旧主を奉じた国人たちが、挙兵した。

大友家は直ちに討伐軍を派兵、大友義鑑の叔父にあたる阿蘇惟豊と甲斐親宣(宗運ダディ)も大友側として出陣。

菊池旧主は敗れて肥前に亡命し、その地で没した。

これにより菊池家・一族出身の当主は絶えて、家督は完全に大友家に乗っ取られた。

とはいえ元々が大所帯で庶流が沢山いるから、菊池家の血統は色んな形で残ることになる。

ちなみに阿蘇の家老である甲斐氏も、元々は菊池氏庶流です。

でもって、1523年の反乱のドサクサに紛れて、リベンジに成功した者がいた。

同じく1523年、八代に亡命してた阿蘇惟長の息子・惟前が堅志田城を攻めゲッツ成功(* ̄・ ̄*)Vブイ

「ワァハハハ~デカした息子よwww」←自分から惟豊(実弟)に家督を譲ったくせに、奪い返そうとした身勝手な兄・阿蘇惟長

イマイチ小物チックな阿蘇惟長・・・彼は1537年に亡くなるのだが、晩年の慰めは堅志田城で没したことだろう。

「元々の嫡流は兄のワシだ!いつか阿蘇の家督を取り戻すぉ」と、
「浪花ならぬ矢部(阿蘇の本拠地)のことは夢のまた夢」を見ながら死ぬことができたからだ。

堅志田城は1543年に阿蘇惟豊が奪い返し、惟前(惟長の息子)は・・・
おそらく討死と思われるが歴史からフェイドアウト(没年不詳)する。

その少し前の1541年に甲斐親直(宗運のこと)が功績により御船城主となった。

年代の感覚がイマイチって人に・・・徳川家康と秀吉の妻・寧々が1542年産まれ。

阿蘇惟豊が堅志田城を奪い返した1543年~~種子島に鉄砲伝来です
そうなんです・・・これまで紹介してた戦に「火縄銃」はまだ登場していません^-^

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

さて菊池当主となった菊池(旧姓・大友)義宗だが、その兄・大友義鑑と相当な不仲だったらしい。

まぁ戦国時代に仲良し兄弟の方が珍しい(だから逸話が様々残る)んだけど、
それにしても大友はホント家庭崩壊しすぎです( ̄ω ̄A;アセアセ

菊池義宗は大嫌いな兄からの自立と、兄が支配する筑後を狙っていた。| 肥後 |_ ̄)じー

1534年に大内義隆と連携して菊池義宗が謀反を起こしたのは、野望の同盟肥後!おぃちょっと落ち着け!で説明した。

だが、それより前から菊池義宗はコソコソ動いていたらしい。

1527年11月25日、佐伯惟治が菊池義宗に同心し謀反を起こすが、敗れて自刃している。

1534年の菊池義宗謀反で大友義鑑が全力で潰そうとしたはずです。( ̄ω ̄A;アセアセ

菊池謀反の前年・1533年4月、相良長唯娘と阿蘇惟前(惟長息子)が同盟による結婚をした。

相良家では阿蘇の家督は本来の嫡男である惟長とし、亡命してきた彼らを受け入れバックアップした。

惟長と敵対する現当主・阿蘇惟豊(甲斐の主君で覚えると区別しやすいよ)は、親大友。

相良が惟長・惟前親子押しする。ということは、必然的に大友との外交関係は一線を引く事となる。

菊池義宗が「そうだ!相良へ行こう」と思ったのは、その辺りにありそうだ。

菊池義宗が、ひょっこり相良へ訪れたのは、謀反失敗の翌年(1535年)の事なのだが、
それは・またの話 by^-^sio

【龍造寺が】剛忠(家兼)死す!【分裂?】龍造寺、滅の巻9

1546年(天文15年)3月10日、剛忠(=竜造寺家兼)は93歳で身罷った。

92という年で息子・一門を失う悲運にあいながら、ショックで恍惚しちゃう事無くリベンジを果たす。

さらに93歳の今わの際においても、剛忠(家兼)の頭脳は明晰で後継についての遺言を残した。

1つ、水ケ江・龍造寺家門(剛忠次男)の跡は、家門の子・左衛門大夫鑑兼に与える

2つ、水ケ江・龍造寺家純(剛忠長男)の跡と剛忠隠居分は、周家(家純の子)の次男・慶法師に与える

3つ、水ケ江・龍造寺の総領は、中納言円月(後の竜造寺隆信)を還俗させて当主とせよ

人物・剛忠小(剛忠(家兼)イメージ画像)

みなさま・・・覚えておいででしょうか?

龍造寺には、宗家・村中と、分家・水ケ江、という二つの家があったことを。

みなさま・・・お気づきでしょうか?

剛忠(家兼)が遺言したのは、己の水ケ江・龍造寺の後継だけなのを。

龍造寺剛忠(家兼)の死をもって、龍造寺家は村中と水ケ江のニ家に分裂しました。

剛忠は西千葉とタッグを組んだ。
倒したのは、剛忠(家兼)を陥れた馬場頼周。
奪い返したのは西千葉の牛頭山城と剛忠の水ケ江城。

村中宗家は、自分の城・村中城を取り戻すのに、大内家のバックアップを受けたんです。

分家の立場で宗家を超えるなど、それを看過する宗家当主などいない!

今まで何も揉めてなかったのは、剛忠(家兼)の類稀なリーダーシップの賜物にすぎない。

村中宗家18代目当主は、龍造寺胤栄(たねみつ)。弱冠22歳の若者だ。

彼は「若年だから」と剛忠(家兼)の後見という名のもとに、何も決定する事が出来ない傀儡当主だった。

それが剛忠(家兼)というフタが外れる事により「自由」を得て、
村中宗家独自の道を歩き始める。

家紋・竜造寺(龍造寺家紋)

1547年、村中・龍造寺胤栄は自ら大内義隆の元へ出向き「少弐冬尚の非道」を訴える。
同年、大内義隆は胤栄の訴えを足利義晴に言上。受けた足利義晴は「少弐討伐令」を発布。

同年6月、大内義隆は龍造寺胤栄を豊前守&肥前守護代に任じると、胤栄に少弐討伐を命じる

龍造寺のうち、大内の後ろ盾を得て「大義名分」と「主導権」を握ったのは村中宗家でした。

村中宗家は、大功労者である剛忠(家兼)が亡くなった以上、
分家・水ケ江の風下に立つのは、もう終わりにしたいんです。

この微妙で複雑な龍造寺の状態は、大内が介入するには「ウホウホ♪状態」。

国人領主・龍造寺家が、戦国大名・龍造寺家に生まれ変わる為の「産みの苦しみ」は、剛忠(家兼)の死から始まる。
二つに分裂した龍造寺を、運命が再び一つに和合させるのだが、それは・またの話 by^-^sio

肥前戦国史・第2部「龍造寺家兼編」これにて完結。
次回よりは、第3部「肥前の熊編」です^-^
史料整理のために肥前戦国史は、少々お休みします。
その間は肥後と筑前の方を進めますので、何卒宜しくお願いします^-^

【西千葉と】目指す敵は、少弐冬尚!参【老人力と】龍造寺、滅の巻8

少弐冬尚が気の毒なのは、祖父・父の御家再興の頃と違い、
大口パトロン(大友や対馬宗氏)が少弐から手を引いてしまった事だ。

その為に、それまでの拠点から牛頭山城(肥前国主のシンボル)を居城にするという様な、
他人の褌で相撲を取る的な手段を用いる羽目になる。

冬尚の不幸は馬場頼周という家臣を持ったことであり、
冬尚の幸福も馬場頼周という家臣を持ったことでもある。

なぜなら滅びゆく少弐氏の失点・失敗・汚名は、
全て馬場頼周が引き受けたからだ。

その馬場も、最期の時が来た。

家紋・少弐(少弐家紋)

牛頭山城で防戦しきれず城を落ち延びた馬場頼周。

馬場家臣の半田平右衛門が木の枝を折って道標を作っていたのだが、
馬場は黒岩という処からそれを見失い、大願寺野へ迷い出た。

その地の川上山へ逃れ入ると、そこに住んでいた寺家・社家の者らが
「此人は以前、不義の行いを致し、社内で数多の人を討ち、血を流せし神敵である(`・ω・´)キリッ」
と、馬場らに襲い掛かる。

馬場はそこも逃れ出て川へ入った頃、千葉胤連の軍勢に追い付かれ、
馬場の嫡男・政員は野田三河守家俊に弓で射殺された。

必死で逃げる馬場は社家に走り込み、土民の用意した芋釜の穴に隠れた。
だが、加茂弾正という者から穴より馬場を引き摺り出し討ち取った。

馬場悪あがき

剛忠(家兼)は、馬場頼周と政員親子の首級を、北佐嘉へ向かう途上の坪上という地で検分した。

野田石見守(政員を討った人物とは別)は剛忠へ、
「馬場頼周は御一門の首を踏み付けたので、我らも彼奴等の首を水ヶ江の城門の下に埋め、出入りの者に踏ませるべし」と述べたが、

剛忠は首を振り
「それは狂人を真似る不狂人であり、左様な情けなき事は努々あるべからず
」と返し、二人の首を懇ろに弔わせた。

同月、筑前に亡命していた村中宗家・胤栄も、大内勢の助力を得て村中城を取り戻した。

剛忠は、「近年不運にして子孫悉く不慮の害に遭う。是に於いて善根を以って万部に満たせたし」
(天文7年より行わせていた法華経万部の修読が九千部あったのが、この年千部を修業し、合計一万部成就となった)

同年11月に城内に造らせた仮道場にて、毎日自ら焼香礼拝すると共に、
布施も長老には貨幣50貫ずつ、平僧には10貫ずつとし、
更に大衆の為に休息所100間・饗応所30間を設け、兼ねてより蓄えていた財物を悉く蔵から出し、
町の辻々に高札を立てて貧民に施し、領民に貸していた金や米を悉く免除(徳政)を行った。

人物・剛忠小(剛忠(家兼)イメージ)

一方、牛頭山城を攻撃した千葉胤連だが、小城領民の加勢もあって城を落とす。

1491年に東千葉氏に奪われた牛頭山城を取戻し、長年の悲願を達成した。

東千葉当主・千葉胤頼(少弐冬尚実弟)は、
それまで西千葉が入っていた晴気城に入る。

西千葉は、少弐と同盟関係の頃は、なかなか東千葉に勝てなかったのだが、
皮肉なことに少弐に裏切られてリベンジしたら、牛頭山城を取り戻した,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

リベンジは成功した・・・だが、それで龍造寺が失った人的被害が戻るわけではない。

そして、、、龍造寺の中心人物だった剛忠(家兼)の死が近づこうとしていた。

龍造寺の真のピンチは、これからなのだが、それは・またの話 by^-^sio

【西千葉と】目指す敵は、少弐冬尚!弐【老人力と】龍造寺、滅の巻7

剛忠(家兼)は水ケ江城を明け渡した後は、筑後の蒲池氏の庇護を受けていた。

筑後で息子や一族たちの悲報を聞いた剛忠(家兼)は悲嘆に暮れ憤激すると、
「100ヶ日を過ぎぬうちに馬場頼周の首を見なければ、この老命を縮めて再び本国には帰れない」
と三日間断食した。


齢90を過ぎて断食って・・・よく死ななかったな・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

3月24日、剛忠は、筑後・蒲池氏と鍋島の助力で再起~肥前へと戻る(=^・ω・^=)v ブイ

剛忠の水ケ江城には、馬場・神代・小田の兵が交代で留守番してました。

ちょうど、小田兵が水ケ江城番だった日の事です。

剛忠が龍造寺に誼ある者を集い水ヶ江城へ向かうと、城番の小田兵は一戦にも及ばず城を明け渡した。

ちなみに城番責任者は小田資光。
馬場と一緒になって、「剛忠(家兼)が大内に寝返った」と、少弐に讒言した人物です。

家紋・竜造寺(龍造寺家紋)

4月2日、剛忠に同心した千葉胤連の軍勢が、牛頭山城に襲い掛かる。

リフォーム(城普請)現場監督(奉行)として牛頭山城で差配していた馬場頼周が、これを防戦。

そこへ千葉家臣・矢作左近将監、江原石見守が水の手から城内へ忍び入り、城に火を放った。
(水の手って、、地下水を汲み上げる為の秘密の洞窟でもあったかな?)

作事のために徴集された地元・小城領民:
あ!千葉氏の旗印!!(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ お帰りなさい!!!
ワシらも加勢するど~ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!


馬場と配下の者たちは、城内に侵入した千葉兵を討ち取ろうとしたのだが、
作業中だった小城領民が鍬・鍬などの農具を持って千葉兵に加勢し、馬場らに襲い掛かった。

百姓の本気パネェ!(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
西だろうが東だろうが、非常時には細かい事だ。
牛頭山城の主が「千葉氏」であることが、小城領民には大事なんでしょうな ( ゚Д゚)y─┛~~

少弐も馬場も小城領民に、よっぽど嫌われていたらしい( ̄ω ̄A;アセアセ

これまで命じられる側だった民衆たちの反撃にあい、馬場勢は防戦しきれず、
牛頭山城を捨て裏道から自らの居城・綾部城を目指した。

家紋・肥前千葉(肥前千葉家紋)

この戦いの中で馬場の息子・政員が、野田三河守家俊に(弓で)射殺される。

えっと~龍造寺を潰せ・壱でチラっと紹介したんですが、
馬場の息子・政員の妻、というのが剛忠(家兼)孫娘だったんです。

自分の実家と嫁ぎ先が戦になるというのは、平常運転の戦国時代ですが、
ここまで壮絶なのは多くはありません。

剛忠(家兼)が馬場へのリベンジを果たすと、孫娘は離縁(馬場家には残らないって事)され出戻った。

傷心の剛忠孫娘には、新たな嫁ぎ先が用意されます。

その相手と言うのが、千葉胤連・・・剛忠(家兼)とタッグを組んだ西千葉家当主です。

三家和合の条件として鍋島彦法師(後の直茂)が、胤連の養子となりましたが、
少弐の裏切りにより三家和合が破綻してしまいました。

龍造寺と西千葉家の、改めて関係強化~のための政略結婚でしょう。

千葉胤連は、養子の彦法師を実子同然に愛したという人柄ですので、
剛忠孫娘は政略を超えて大事にされたのでは?とスィーツに妄想してます(*´pq`)プププ

後に産まれる胤連嫡男の生母は、この剛忠孫娘なのだが、それは・またの話 by^-^sio



【西千葉と】目指す敵は、少弐冬尚!壱【老人力と】龍造寺、滅の巻6

小城領民「はぁ、お武家様には少弐様は何ほど偉いか知らねですども、
ワシらの殿さまはジィ様の親の、そのまた親の親の代の前・・・とにかく殿様は、ずぅ~っと千葉様です」


少弐冬尚は牛頭山城をゲッツした事で、かなり調子に乗ってしまったらしい。

「太宰少弐」としては本貫地・大宰府が大内に奪われたままで落ち目なので、
まずは「肥前国主」として「肥前国人に号令をかける」事にしたのだろう。

肥前国主の象徴が、肥前千葉氏居城・牛頭山城であり、肥前千葉氏が招聘した祇園社だ。

肥前千葉氏の最盛期には、牛頭山城下は国府と称され繁栄した。

肥前千葉氏(往時の)威光を利用しようと考える時点で、
少弐のブランド力が落ち目になってる感がヒシヒシ伝わる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

それまでの肥前における拠点は、肥前国神崎郡は勢福寺城だったが、
そこは龍造寺潰しに活躍した家臣で一門の馬場頼周に任せ、
少弐冬尚本人は牛頭山城に腰を据える気満々♪ヽ(*´∀`)ノ

本来の牛頭山城の主・千葉胤頼が、自分の実弟で14歳の少年であるのを良いことに、
西千葉の城だった晴気城へ移動させてしまった。

でもって冬尚は牛頭山城の新しい主として、ルンルンでリフォーム(城普請)まで始める。

牛頭山城がある小城領民の地元感情への配慮がスッコーーーンと抜けてるあたり、
「さすが名門だなぁ~(棒読み)」と感じる。

祇園社
(肥前千葉氏が招聘した祇園社)

冬尚の失敗~その1
龍造寺と西千葉を潰すために島原の有馬と手を組んだ事


勢力拡大を狙う有馬氏は、たびたび肥前侵攻し小城領内にも手勢を入れている。

戦で迷惑するのは領民で、彼らは有馬氏に脅かされていたが、
西千葉と同盟関係で味方だったはずの
「少弐が敵の有馬と組んで、おらが殿様を城から追い出した(;;)あぅ~」

有馬からの脅威は無くなったのか、それとも有馬を招き入れてしまう事になるのか、
小城領民にとって先行き不安な日々となる。

小城の民百姓:えっと~とりあえず租税は少弐に治める事になるのきゃ?ヽ(。_゜)ノ?

冬尚の失敗~その2
リフォーム(城普請)に小城領民を使った


それ自体は悪いわけでなく、新しい主の威光を示すためにアルアルな話だ。

だが小城領民が駆り出された時期が、旧暦3月で新暦だと4月。

そろそろ田畑の耕作や田植えの準備が始まる~って頃に、
壮健な男子を徴募されるのはキツイ( ̄ω ̄A;アセアセ
(田植えの前にリフォーム完成する予定だったかも)

新しい領地を手に入れたばかりの領主は、領民を自分に懐かせるために、
(速攻で)租税率を据え置きしたり、諸役を一部免除したり、などなど慰撫に励むものだ。

だが小城領民が少弐に靡かなかったところを見ると、
そのあたりの配慮が為されてなかったように思う。
(やってても前後の失敗理由から嫌われたのかも)

冬尚の失敗~その3
リフォーム(城普請)の現場監督(奉行)を馬場頼周に担当させた


馬場は(小城領民から見て)千葉氏の牛頭山城乗っ取りの御先棒担いだ超本人。

さらに千葉の同盟相手だった龍造寺を騙し討ちし、
龍造寺の首級に不敬・非礼を働いた事も風の便りで小城にも聞こえており、
馬場に対して良い感情を抱くはずがない。

せめて住民感情に配慮し、実弟の東千葉家臣から奉行を選ぶべきでした( ̄ω ̄A;アセアセ

家紋・少弐(少弐家紋)

冬尚~最大の失敗
龍造寺も西千葉も、どっちも当主が落ち延びてる~~~中途半端!キッチリ追い込んでトドメ刺せよ!


晴気城の西千葉~当主・胤連が脱出して白石郷に亡命なぅ
水ケ江の龍造寺~一族・一門を束ねる剛忠(家兼)が筑後へ亡命なぅ
村中宗家龍造寺~当主・胤栄は筑前守護代・杉十郎隆光を頼って落ち延びる


記事を書いてて頭痛がしてきた・・・・風邪のせいかな?(爆

少弐だって、何度も御家再興してきたプロ?なんだからさぁ~
生き残りがいたらメンドクサイ事になるのは判ってるはずなんだけどな~

自分が御家再興する方ばっかりで、
御家再興され返された?経験が無いから頭が回らなかったのかね~
まぁ単純に、事が上手く運び過ぎて油断したんですな ( ゚Д゚)y─┛~~


とにかく少弐から切られた以上、龍造寺(分家&宗家)と西千葉は西国のドン・大内を頼みとするしか道がありません。

同じ大物でも大友は頼れません。
大友は少弐と長年連携組んでる間柄だし、大友と大内は和睦してるんで何かしてくれるって期待無理。

少弐と馬場にすれば「あれだけ痛めつけたんだから大丈夫」って思ったんでしょうが、
ちちちっ甘いな~武家の怖さを忘れてます。

策士、策に溺れる。
剛忠(家兼)と西千葉のリベンジが素早かったために、
少弐冬尚は自分でピンチを招きよせる事になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

【少弐~西千葉を】龍造寺を潰せ!・四【ポイ捨て(涙目】龍造寺、滅の巻5

1545年1月18日、少弐と連携組んだ有馬勢が龍造寺宗家・村中城を攻撃!
当主、胤栄は大内家の筑前守護代・杉十郎隆光を頼って落ち延びる。

同年1月22日、剛忠(家兼)の水ケ江が落城!

城を囲んだ馬場頼周(少弐一門で家臣)は、眉を潜めて神妙な面持ちで水ヶ江城へ現れると、
剛忠入道に対面、小声にて述べる。

「此度の西肥前退治は有馬討伐の為に非ず。龍造寺が大内に通じて居ると讒言する者ありて、冬尚公御立腹され貴家を絶やさんとしておるのです。ここは冬尚公へ参じられ咎なき由を申し開かれれば、この頼周も御辺に対し悪し様には申しますまい」

人物・馬場頼周(讒言した本人~馬場イメージ画像)

龍造寺家中では、「なまじ下城されて憂き目に遭うよりは、当城に残るべきです」と反対した者もいたがが、
剛忠は「野心の名を得て死するは弓取りの本意に非ず」と、22日に水ヶ江城を明け渡し、23日に一門を諸所へ分散させた。

1月23日、筑前へ亡命した龍造寺家純(剛忠長男で隆信祖父)・家門(剛忠次男)・澄家が、馬場+神代500余騎に待ち伏せされ討死!
同月24日、龍造寺周家(剛忠孫・家純子・隆信の父)家泰・頼純は、少弐冬尚への申し開きの為にと祇園原に至った時、馬場が配置した伏兵により討ち取られた。

剛忠(家兼)の息子・孫・一門の者6名を計略により討ち取った馬場頼周は、
喜びのあまり彼等の首級をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!足蹴にし踏みつけるという非礼・不敬を働く。


馬場の後世での評価が、この行為によって決定的になった。

6人は雑兵ではない。龍造寺のしかるべき地位にある武将たちなのだ。
彼らの首級は死化粧を施され主君・少弐冬尚に首実検されなければならない。
武運拙く討たれた彼等の死に対する、当然の礼節です。(首級は自分手柄の証でもある)
馬場の行為は武士の誇りと名誉を踏みにじる、武士にあるまじき行為です!(`・ω・´)キリッ

馬場は少弐への忠義が篤すぎて、少弐にとって目障りな者への態度が過激すぎる( ̄ω ̄A;アセアセ
馬場の行為は、結果として少弐の評判も落とす事になるんだが、
その辺り馬場本人、どうにもピンと来ないらしい。(困った人だ)

同年2月27日、馬場頼周+江上元種+千葉胤頼(東当主で冬尚実弟で初陣)が、西千葉・胤連の晴気城を攻撃!
家紋・肥前千葉(肥前千葉家紋)

北肥戦誌に西千葉へ養子に入った彦法師(後の鍋島直茂)が「1545年に鍋島家へ戻った」とあるのは、
このせいかもしれない。

城を落ち延びた千葉胤連は白石郷に亡命するのだが、
彦法師も一時的に実家である鍋島家が保護したかもです。

シオは肥前千葉ファンなので、少弐&馬場の西千葉攻撃に超ムカつきます(-ω-#)

西千葉と少弐は、文明年間(1480年代)から足掛け60年もの同盟関係です。

肥前千葉氏最後の姫君・尼日光明胤は、肥前千葉の御家再興を少弐氏に賭けた。
少弐氏から婿を迎え、子が無いまま夫が戦死すると少弐一門・横岳から養子を迎え家名を繋いだ。
それが肥前千葉嫡家・西千葉氏です。

西千葉氏は、田手畷の戦い(1530年)より前の数年間は、一時ブレて大内サイドになった事がありましたが、基本的に少弐氏と運命を共にしてきました。

以来、少弐が健やかなる(御家再興した)時も、病める(滅亡・亡命)時も、
準一門として陰日向なく支え続けてきた西千葉を・・・少弐冬尚はポイ捨てしたんです!・゜・(PД`q。)・゜・


実弟が東千葉(初代は千日尼従兄弟)を継ぎ、肥前国主象徴の牛頭山城が手に入ると、
冬尚は西千葉が邪魔になった。

なぜなら牛頭山城奪還は、1491年に東千葉初代に奪われてから、ずっとずっと西千葉の悲願だったからです。

更に西千葉は親龍造寺派で、龍造寺とともに西千葉も少弐には目障りな存在となってしまいました。

落城した晴気城は接収した千葉胤頼(弟)が入り、牛頭山城は少弐冬尚(兄)の居城とすべく改築工事が始まる。

少弐冬尚の、このあんまりな遣り方に、地元民である小城領民たちの間で怒りが湧きあがるのだが、
それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【陰謀か?】龍造寺を潰せ!・参【武略か?】龍造寺、滅の巻4

戦国大名が生き残るコツは、国人領主をコントロール出来るか否かが重要だと思う。

少弐は、龍造寺がこれ以上大きくなってコントロール出来なくなる前に潰そう、と決めた。

それ自体は罪ではない。戦国時代なのだ。どこでもある話です。

でもね、冬尚さん・・・そういう事やって大丈夫なのって、大友とか大内とか大大名ですよ~~~

三家(東西千葉・龍造寺・少弐)和合が、よっぽど気に入らない・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

1544年冬、少弐冬尚は「多久と上松浦の者達が有馬について少弐に背いた」と偽り、剛忠(家兼)に彼らを討伐する様命じた。

剛忠(家兼)ほどのベテランが、冬尚の言葉を信じたのには下地があった。

同年1月23日、龍造寺は有馬へ寝返った上松浦・大川野城を攻撃してるんです。

しかも攻略に失敗し、龍造寺側は一族の将を多数失っている。

それらを受けて、裏切りクセのある多久や上松浦勢が動き出す事は自然な流れ。
これを、しかも和合してる少弐の陰謀だと見抜くのは、超能力でもない限り無理だったでしょう。

人物・剛忠小(剛忠(家兼)イメージ画像)

11月21日、剛忠(家兼)は龍造寺盛家(義理甥)らを上松浦へ、龍造寺家純(長男)らを多久の梶峯城へ、
龍造寺家門(次男)らは有馬家を追い払うべく長島表へと三方へ派兵した。


まず家純が多久の梶峯城を落として、周家(家純長男)を城の守りに入れた。

上松浦攻めは、鶴田氏の獅子城を囲むが落とせず、同月23日に龍造寺盛家らが討死にする。

残った龍造寺勢は獅子城を囲んだまま越年したらしい。

だが、ここで少し雲行きが怪しくなる。

1545年1月初旬、有馬勢は龍造寺一族・鶴田越前守の獅子城を攻めた。

ヽ(。_゜)ノ へっ?鶴田は有馬に寝返ってたんじゃないの?
龍造寺勢は何が起きたか判らなかったんじゃないだろうか( ̄ω ̄A;アセアセ
( ̄ko ̄)<まぁ自分らの退却が先で、それどころじゃなかったかもでつ

有馬勢は同月7日に獅子城を攻め落とし、すぐさま城警固の為に馬渡主殿助俊信を入れ置いた。

鶴田兵はリベンジのため、12日に急ぎ馬渡俊信と戦う。

馬渡は手の者を下知して防戦し一旦は鶴田勢をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!撃退するのだが、
鶴田勢には勝手知ったる己の城だ。

その夜に、城の後方へ廻り険阻な場所を登って、密かに城中へ近付くと鯨波(鬨の声)を上げて夜襲敢行。

有馬の馬渡勢は利を失い、馬渡他60余人が討死。鶴田は居城を取り返した。
(鶴田:何この流れ!超迷惑だったわ!城は取り返したけどね!(`・ω・´)キリッ)

家紋・少弐(少弐家紋)

一方、多久攻め組の龍造寺豊後守家純らは、同月18日~多久城を遂に落とした。

だが、多久城搦め手に向った龍造寺新五郎・於保備前入道・副島五郎左衛門尉・副島右馬助猶房らは、
14日に志久峠で、平井・前田・井元に敗れて悉く討たれており、
城を落としたと言っても龍造寺家純側の損害も大きかったようだ。

また、長島表に向った龍造寺勢の方も、同月15日に藤津冬野原の戦で有馬勢に敗れ、
龍造寺右京亮胤直(剛忠(家兼)甥で盛家とは義兄弟)が討ち死にし、
18日に追い縋る有馬勢と戦いながらようやく佐嘉へ戻った。

やれやれ( ̄ω ̄A;アセアセ と一息ついたのも束の間。

水ケ江城を2~3万の兵が取り囲む。
剛忠(家兼)は我が目を疑っただろう・・・
取り囲む兵らの中に少弐の旗印が掲げられていたからだ。

有馬、松浦勢、少弐を含め水ケ江城を囲む数は19勢。

この時になって初めて剛忠(家兼)は、尋常ならざる事態に陥り、
龍造寺を潰すための謀略が張り巡らされていた事に気付いた。

大内が滅ぶ「大寧寺の変」まで残すところ後6年。
ゾンビ少弐&カメレオン龍造寺は生き残る事が出来るか? それは・またの話 by^-^sio

【少弐の為なら】龍造寺を潰せ!・弐【敵も味方】龍造寺、滅の巻3

肥前を脅かす有馬対策のためにした「三家(東西千葉・少弐・龍造寺)和合」。

皮肉にも、これが少弐冬尚と馬場頼周をして「龍造寺抹殺」を決意させた。

一つには東西千葉氏のうち、東千葉の家督と遺領が当主の死によって、少弐にものとなったこと。
(冬尚実弟で13歳の少年が婿養子として家督を継いだ)

東千葉当主が領する、肥前国主の象徴たる牛頭山城を手にした事で、龍造寺の助勢が無くとも御家再興出来ると判断した。

いま一つ・・・少弐冬尚は一時のピンチを凌ぐと、「三家和合」自体が腹立たしくなってきたのではないだろうか?
なぜなら「和合(同盟)」ということは、少弐と龍造寺の立ち位置が対等になるからです。

冬尚が龍造寺・水ケ江城に「援けて欲しい」と単身で乗りこんだのも、情勢が有利になれば惨めで恥ずかしく黒歴史。

こちらが下手に出たゆえ、龍造寺は調子にのって太宰少弐たる我が家と、和合をと出てきたぞ!
てなところですかな ( ゚Д゚)y─┛~~

それにひきかえ、かつて龍造寺の主筋だった西千葉は、龍造寺と対等な関係になるのを受け入れた。

西千葉の胤連は、養子として入った彦法師(剛忠(家兼)曾孫&鍋島直茂)を、人質として扱うのではなく実子同然に愛し、
龍造寺と親しい同盟相手として新たな関係を構築した。

少弐にとって、それも苛立ったかもです。
「太宰少弐たる我が家は、西千葉とは違うぞ!被官と対等に慣れあうなど出来るか!ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」

まぁ確認できる史料があるわけでないので、上記二つは単なる憶測・推測の域を出ない。

だが、この後の少弐冬尚と馬場頼周の行動を見ると、あながち想像でもないと思うのだ。

少弐冬尚を馬場頼周は、龍造寺抹殺のために、敵であるはずの有馬氏と手を組んだ。

家紋・少弐(少弐家紋)

余りの愚かさにコメントに窮する。( ̄ω ̄A;アセアセ

有馬は肥前併呑が目的なのだ。有馬「内ゲバ、大歓迎(・∀・)」

少弐が龍造寺を潰して御家再興を果たす頃には、有馬だって今のままじゃなく更に勢力拡大してるはずです。

てか大内は、どーすんだよ。下手すりゃ有馬と大内に挟まれる^^;
こういう陰謀を働く連中って「自分は上手くやる」って、何故か根拠レスで自信満々なのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

被官だった龍造寺と和合するより、有馬と手を組んで大内を排除するつもりだったかもだけど・・・

くどいようだが有馬の目的は肥前そのものだから、少弐は踏み台にされるのがオチよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

1544年、龍造寺抹殺のために少弐は有馬へ密使を送った。

有馬も此れに(うほ~い♪ヽ(*´∀`)ノ)賛同し、杵島郡長島に派兵。
更に馬場頼周は、諸豪族にも協力を求めた。
結果、多久上野守は梶峯城へ引き籠り、上松浦の者達は日鼓山へ出陣。
少弐冬尚は「これらが有馬について少弐に背いた」と偽り、剛忠(家兼)に彼らを討伐する様命じた。

同年11月21日、何も知らない剛忠(家兼)は一門の者たちを出陣させた。

それは・またの話 by^-^sio

【少弐の為なら】龍造寺を潰せ・壱【嫁を泣かす】龍造寺、滅の巻2

戦国「縁戚になりたくない男№1」といえば、宇喜多直家(ネタ込)だろう。
そして九州から地味にエントリーするのが、少弐一門で家臣の馬場頼周だ。

最初は妻の父・・・舅・筑紫満門を「少弐を裏切ったから」という理由で謀殺している。
しかも舅を呼び出すのに、妻を騙して策謀に使った。
あまりの事に馬場妻は世を儚み、尼となって仏門に入ってしまった。
(筑紫は「裏切り」⇒「少弐に戻り」⇒「大内の肥前平定で大内に降伏」です)

馬場さん、今回のターゲットは息子の妻・・・嫁の実家・龍造寺家です(=^・ω・^=)v ブイ
大友家臣だと忠義胸熱なのに、少弐だとドン引くのは、やっぱ・・・この人のせいなんだろうな^^;

人物・馬場頼周(馬場・悪イメージ画像)

まずは何時もの如く「北肥戦誌」より^^/

(島原)高来の有馬・筑後の星野伯耆守が、千葉氏が支配する上松浦の獅子城を攻め取るべく多久へ進軍し堂ノ原に布陣した。
徳島鑑家、今泉兵庫允らがこれを切り崩した。

(徳島は肥前千葉庶流です。千葉としか書いてないけど、シオ予想では多分、西千葉の方)
馬場頼周は少弐譜代ながら、(息子は)龍造寺家純の婿でもある。
だが龍造寺の威勢が強まる事を懸念し、剛忠(家兼)が大内に通じていると冬尚に吹聴した。


有馬氏が快調に肥前攻略を進めて来るので、
龍造寺家門(剛忠(家兼)次男)の周旋で「1541年、千葉(東西)・少弐・龍造寺の三家和合」が成立しました。

皮肉なことに「有馬対策の三家和合成立」が、馬場をして「龍造寺排除」を決意させたのです。

「龍造寺が必要なのぉ、でないと死んじゃうから・゜・(PД`q。)・゜・(超意訳」
と、泣きついて助勢を求めた少弐冬尚。

それが馬場の言葉にコロリと態度を一変させたのは、少弐が東千葉の家督をゲッツしたからだろう。

少弐冬尚の実弟・胤頼が東千葉の養子(和合の条件)になった時、
東千葉当主・喜胤は33歳という若さだった。

この先「祝・男子誕生」は充分ありえる年で、冬尚弟は後継者というより人質の意味合いの方が強かっただろう。

ところが1542年に喜胤が病を苦にして自害したため、冬尚弟に東千葉の家督が転がり込んだ。

当主といっても冬尚弟は13歳の少年なので、東千葉は少弐冬尚の思いのままとなったんです。

大宰府が三州(豊前・筑前・肥前+二島)覇者の象徴なら、
東千葉の牛頭山城が肥前国主の象徴です。

少弐と馬場は「東千葉が手に入った以上、龍造寺の力が無くともイケる!」と判断した。

家紋・竜造寺(龍造寺家紋)

そもそも国人というのは、一門隆盛・本貫地死守がライフワーク。

領地安堵のために「被官になる」「寝返り」「ヤベ不利、降伏」をループし、ループどまりが普通の国人^^b

国人領主から戦国大名化するには「知力・体力・時の運」だけでは、未だ足りない。

守護職、守護代といった既成の権威・概念を、o( ̄Д ̄θ★ケリッ!と打ち破り、
セミが殻を脱ぎ捨てるような強かさと柔軟さが必要です。

特に九州は鎌倉以来の三人衆(少弐・大友・島津)の影響力が強く、彼らは衰退はしても中々滅びず、島津に至っては明治維新まで完走した。

龍造寺は、国人が戦国大名化するに必要な強かさと柔軟さの下地が十分出来てて、後は今一歩を踏み出すタイミング待ち状態。

「剛忠(家兼)は、少弐という従来の権威に対し不遜で信用が出来ない」これが龍造寺排除の最大の理由。

大内に寝返ったウンヌンは後付けの口実みたいなもので、事実確認などハナからするつもりは無いんです。

家紋・少弐(少弐家紋)

少弐に不遜といっても、剛忠(家兼)の態度は何処までも穏やかで謙虚です。

にも関わらず「あのジジィ、内心では少弐を軽んじてる、いつか裏切るぉ(`・ω・´)キリッ」と少弐と馬場は頑なに龍造寺を疑った。

龍造寺と勢力が同程度の国人なら他にもいます。

なのに何故、龍造寺だけを危険視したか・・・というと龍造寺の家督に関して紐解く必要が出てくる。

龍造寺は、ちょっとかなり他の国人とは毛色が違うんです。

西千葉が衰退~西千葉より当主をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!⇒家督を弟系譜にチェンジ
少弐が御家再興⇒剛忠(家兼)が直接、少弐被官⇒分家が宗家を超える
少弐との関係良好~⇒宗家から分家・剛忠(家兼)へ総領職移譲=宗家地位チェンジ
少弐との関係ギクシャク⇒総領職は再び宗家へ、剛忠(家兼)は宗家後見役として表舞台から一歩下がる

総領職が移譲するという事は、一族郎党に対する公儀権も移譲する。

となると訴訟関連の決定が覆る可能性も無きにしも有らずで、
プライドだけでなく、自分の利権確保にも絡むからして・・・・普通は絶対に揉めるんです。

ところが龍造寺は数十年という短期間に、家督や宗家や総領職が二転三転するにも関わらず、
流血沙汰が一切起きてないんです(少なくとも表面化してない)

馬場は龍造寺は内部がギスギスしてるはず、、、と思っていたでしょう。

その方が安心なんです。それが普通だから。
揉めてくれてれば、そこを少弐が介入し龍造寺をコントロール出来るんです。

馬場は息子の嫁となった家純娘から、それとなく龍造寺の人間関係を探ったでしょう。

他愛のない話でも構わない、むしろその方が家族間の仲が想像できるというものだ。

で、何も揉めてる風が無い・・・・と知って、初めて龍造寺が怖くなったのでしょう。

部屋の模様替えや衣替えじゃあるまいし、家督や総領や宗家の位置を、政治事情に合わせてコロコロ替えるなんで、不気味すぎです!!

龍造寺の家督衣替え感覚が、何時か少弐に向けられる日が来ると畏れた。

何より、このままでは龍造寺の功績が大きすぎて、少弐がコントロール出来なくなる。

馬場頼周の讒言に従い、少弐冬尚は龍造寺一族抹殺を承諾したのだが、それは・またの話 by^-^sio



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【東千葉】二人の養子【西千葉】龍造寺、滅の巻1

1541年、有馬からの脅威への備えとして、千葉(東西)・少弐・龍造寺の三家和合が成立した。

東千葉へは、少弐冬尚の実弟・胤頼が養子に入った。

だが翌年3月29日、養父の喜胤(東千葉二代目)が34歳の若さで死亡する。

別段、陰謀とかではない。喜胤は以前から悪瘡を患っていたんです。

抗生物質はおろか、痛み止めすら無い時代だ。病の苦痛に耐えかね彼は自害した。。ショボーン..._φ(・ω・` )

で、男子がいない喜胤だが娘はいた。少弐冬尚の実弟・胤頼が喜胤の娘と婚姻し、東千葉の家督を継いだ。

養子の話は1541年から出てるのだが、その時から喜胤娘へ婿入りする条件だったかもしれない。

これにより東西・双方の千葉家から男系血統が絶え、東西どっちも少弐氏からの系譜となる。

家系図上だけだと少弐氏の一人勝ち状態なのだが、
いかんせん少弐の屋台骨がガタガタなんで、手放しで喜んでる場合ではない。

とにかく少弐冬尚実弟が当主となった事により、
それまで大内のバックアップを受けていた東千葉が、少弐サイドとなる。

今頃、大内から鞍替えして大丈夫かよ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
( ̄ko ̄)<こんな感じで肥前千葉が東西分裂する上に、少弐だ大内や~と二転三転するから、肥前千葉編からスタートしたんでつよ

家紋・肥前千葉(肥前千葉家紋)

西千葉へは、剛忠(家兼)の曾孫で、鍋島清房次男・彦法師が養子に入った。

西千葉の胤連は子供に恵まれず、4歳の坊や彦法師が胤連の手元で養育される事になったんです。

養子に来て間もない頃、胤連から
「もし叶うなら、家に帰りたいのではないか?」

と彦法師に尋ねると、彦法師は
「帰りたいですが、貴方は返せないでしょう。川* ̄д ̄*川」

(戦国ちょっといい話・悪い話まとめ : 鍋島家の、4歳の次男坊より)

この子供とは思えぬ返答に、千葉胤連は「これは大物になる」と、すっかり気に入ってしまった♪

政治の駆け引きや人質兼などなどを超えて、実子同然に彦法師を可愛がった。

さすが我が殿~~愛されキャラなの(人´∀`).☆.。.:*・←無条件に鍋島ファン

尤も胤連の妻は、彦法師生母と姉妹なので、もともと叔父甥の関係ではある^^

記事ソースにしている北肥戦誌1542年の部分では、
既に死んでるはずの千葉胤勝(胤連パパ)が出てきたり(胤連と混同か?)
彦法師が鍋島家へ戻ったのが天文14年(1545年)になってるのだが、
千葉胤連の嫡子・胤信が産まれたのは、天文20年・1551年です。

嫡男・胤信が産まれると、養父・胤連は後継者の地位から外れた彦法師のためにと、自らの隠居料・美奈岐80町を譲った。

更に「領地を得たのだ。彦法師にも家臣が必要だな^-^ニコニコ」と、
胤連の元から「鍵尼・野辺田・金原・小出・仁戸田・堀江・平田・巨勢・井出・田中・浜野・陣内」と12人の武士を付けた。(最古参十二家)


これが肥前32万石藩祖・鍋島直茂の最初の知行と家臣です。
(参照:千葉一族HP http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/kyushu27.htm)

人物・鍋島直茂(鍋島直茂イメージ画像)

西千葉に嫡男が誕生したので、彦法師は鍋島家へ出戻り・・・もとい帰ったのだが、
北肥戦誌では、その時に彦法師が胤連に貰った隠居領を返還したことになってます。

そのあたり「返した・返してない」はイマイチ不明^^;

養父・胤連は1593年まで長命したので、その間ずっと彦法師・・・鍋島直茂とは親密な関係だったらしい。

胤連の嫡子・胤信は、後に鍋島姓を拝領し一門として名を連ねている。
(伏見城攻め・江上八院合戦にも従軍してるぉ(=^・ω・^=)v ブイ)

いくら甥とはいえ妻の係累なので血縁はない。
にも関わらず、戦国では珍しいほどの厚遇をした胤連の好意は、結果として報われたとも言える。

さて、しばらく鳴りを潜めてた馬場頼周(少弐一門)だが、龍造寺排除のための策を巡らせようとしてた。

馬場の企みが東西千葉氏の関係を、結局は更に複雑にしちゃったのだが、それは・またの話 by^-^sio

【少弐・千葉(東西)・龍造寺~和合成立!】龍造寺、破の巻11

1529生年説13歳だと健気~(人´∀`).☆.。.:*・
1510生年説32歳だと、ちと情けないか?(-ω-;)ウーン
某太閤記を先取りし、少弐冬尚が形振り構わぬ捨身の突撃訪問なぅ~
(水ケ江城の)奥へ通された冬尚へ剛忠(家兼)は、
「正気の沙汰とも思えぬ有り様ですが、何用にて御渡りに御座いましょうや」

と問えば、冬尚は
「私は今、大内に家を削られ断絶の憂き目を見んとしている。これを天運と言いつつも遺恨は止むものに非ず。昨今、国中を見廻すに、御辺は末頼もしき御仁なれば、亡き父・資元の頃と変わらず、龍造寺が御家に何卒お力添え頂き、廃れいく少弐が家を取り立てて頂きたく御頼み申す。
もし承らざれば命を白刃に縮め、根を黄泉に報じます」と述べた。

亡き父の頃と同じように頼む!(-人-)☆彡オネガイ援けて!
援けてくれなきゃ、冬尚、もぅ死んじゃうしかないの~・゜・(PД`q。)・゜・(超省略&超意訳)

人物・剛忠小 剛忠(家兼)イメージ画像

人を裏切り者扱いして小田に攻撃させたくせに、どの口が言うか~ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.
と罵って o( ̄Д ̄θ★ケリッ! って追い返したいが、単身で来た冬尚に、それはちと後生が悪い^^;
思えば龍造寺家が肥前国中に、その名を轟かせたのは先君・資元公の御褒めに預かり、少弐被官となったればこそ。
剛忠は恨みを思いつつも、旧恩を安んじこれを承るとした。

結論:剛忠の次男・家門を後見とし、江上元種、馬場頼周と共に(冬尚を)補佐する事となった。

これで一安心と思いきや、少弐サイドだった多久宗時が、有馬晴純に寝返った!
思わぬ事に喜んだ有馬晴純は、
「よっしゃ~肥前へ攻め込むど~まずは手始めに小城の千葉喜胤(東千葉)を攻略だ!((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~」


東千葉と西千葉+少弐は長年争っていた。

東・千葉喜胤にすれば、前から有馬・後ろから少弐と挟み撃ちされる格好になり大ピンチ!

この事態に剛忠(家兼)は慌てた アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

有馬の目的は肥前併呑で、少弐と領土を分け合う気持ちなど毛頭ない。

東・千葉を潰したら、一気呵成に少弐の神崎郡へ攻め込んで来るだろう。

今の少弐は神崎郡を維持するのがやっとで、有馬の侵攻には耐えられない!

もはや、東千葉と西千葉+少弐が争っている場合ではないのだ。

剛忠(家兼)次男・龍造寺家門は小城へ赴くと、
東・千葉喜胤へ、千葉氏が少弐(西千葉含む)・龍造寺と合力しあう方針を提案する。


家紋・肥前千葉(肥前千葉家紋)

提案1)男子のいない東・千葉喜胤へ~冬尚の弟(胤頼)が養子として入る。
提案2)同じく男子がいない西・千葉胤連へ~剛忠(家兼)曾孫にして、鍋島清房の次男・彦法師(後の直茂)が養子として入る。


千葉喜胤は、これを了承。ここに千葉・少弐・龍造寺の和合が成立した。

喜胤のオヤジ・興常なら和合案拒否って、大内の助勢頼んで、肥前が更にカオスしたかもだなぁ^^;

有馬さんは、この和合成立を聞くと「やべ、これ無理だわ」と撤収した。

肥前における3つの勢力がタッグを組んで、これで無双と安心したのは束の間だった。

東の千葉喜胤が病を苦にして自害したんです ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

西千葉は既に嫡流が絶えて養子の系譜になってましたが、
庶流だった東千葉も、ついに血統が絶えてしまった・・・il||li _| ̄|○ il||l

後を継いだのは養子に入ってた少弐冬尚の実弟だ。

和合継続とはいえ、その内実はバランスが崩れ始め、そして馬場頼周が龍造寺排除に動き出す。

次回より新章・龍造寺「滅」の巻~それは・またの話 by^-^sio

【少弐冬尚~御家再興への松明を燈せ!】龍造寺、破の巻10

1538年3月13日、家兼が剛忠となった年に佐賀藩祖・鍋島直茂が産まれる。
殿~産まれてくれてありがと~(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪←元々は鍋島ファン
ちなみに前田利家も同じ年生まれ^^b

1539年4月18日、訃報です(-人-)☆彡大内の陶興房が死亡しました。
義隆がコキ使うから過労死・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

大内の肥前平定に大きく貢献した功労者の死で、
少弐的にはチャンスなのだが、龍造寺の助勢なしだとイマイチ兵力不足。

同年、村中龍造寺17代目・胤久が40歳の若さで死亡。
少弐冬尚にとって地味に、 ガチョ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!な、胤久の死だったかもしれない。

人物・剛忠小(剛忠(家兼)イメージ画像)

田手畷の戦い(1530年)で剛忠(家兼)は正式に少弐被官となった。
(それまでは西千葉与力の流れで、少弐に与力してた)

宗家村中も出陣してたのに、村中には少弐から御声がかからずで、えっと~~
とどのつまり剛忠は分家(水ケ江)の身で宗家を超えちゃったんです^^;

一門の分裂を恐れた村中の胤久は自ら出家し、総領職を剛忠に譲りました。

龍造寺の凄いところは、総領職が禅譲で無血で成功したことです。

普通なら絶対揉める。当主が良くても周りの家臣が黙ってません。必ず流血沙汰に発展します。

しかも少弐御家再興の晴れ舞台で、宗家より分家の方が武勇が勝ると言われたも同然なんです。

こんな屈辱に黙ってられる道理がありません。

その宗家家臣の不満を胤久は自らの出家で抑えたのだから、
剛忠に及ばずとも家臣の統率は出来てたと思います。

とはいえ嫡子が幼いので、胤久は在俗のまま法体になったかもです。

そういう経緯がある胤久でしたので、
関係が拗れた少弐と剛忠(家兼)の間を「仲介できる人物」と周囲から期待されてたんです。

大友義鑑も少弐資元の自刃直後に、少弐御家再興の相談を胤久に持ちかけてました。

胤久の大友に対する反応は不明ですが、現総領・剛忠に遠慮しハッキリとした反応はしなかったと思います。

その後、少弐が再び没落なぅで、新当主・冬尚と剛忠もギクシャク疎遠で、家兼も入道して剛忠になった。

村中が宗家に返り咲いてもイクね?(・∀・)
すっごい微妙な時期での胤久の急死だったのです。
(実際、宗家当主カウントの中に、家兼は入ってません)

家紋・竜造寺(龍造寺家紋)

胤久の死で若干15歳の胤栄が18代目宗家当主となりました。

剛忠は胤栄の後見となり、胤栄の正室は剛忠の孫(次男家門の娘)が嫁ぐ、
といった具合に村中宗家を囲い込み、自身の影響下に置いたのです。

少弐や他に思惑ある諸々には残念ですが、村中ルートから龍造寺を動かすのは不可能ですから~。

この年は37回も大風にあい肥前は飢饉となる。
8月には領民に餓死者が出始め、路傍に死体が散乱する悲惨な事態
こういう状況なんで、この年は大きな動きはなしです( ̄ω ̄A;アセアセ

1540年6月4日、千葉興常(東千葉初代)が死亡しました。

西千葉宗家を「父の仇(真偽不明」と憎み、大内のバックアップで東千葉を興した興常の死でした。

後を継いだ喜胤は父・興常とメチャクチャ不仲で、父のする事全てが気に入らなかったらしい。

さすがに大内から少弐に寝返るほどキレてはいないが、喜胤となら西と東の千葉和合交渉が可能です。

同年、有馬義貞が小城の東千葉を攻撃、杵島郡以西は有馬勢力圏内となった。

大内の次は有馬・・・東と西の挟み撃ちで、肥前全てがケツに火が噴く一歩手前(_´Д`)アイーン

このまま愚図愚図していては御家再興どころか、肥前が有馬か大内に併呑されて少弐の入る隙間がなくなる。

覚悟を決めた少弐冬尚は、名門のプライドを一時凍結。
交渉だの仲介だの手練手管は無し!
ただ一人の冬尚として、水ケ江城に乗りこみ剛忠(家兼)の懐に飛び込む挙に出る。


海千山千・老獪という言葉がピッタリの剛忠(家兼)だが、
88年生きてて流石に初体験の冬尚突撃訪問にビックリ~~それは・またの話 by^-^sio
















プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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