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10【宗家の花道・前篇】

龍造寺胤信(隆信)が家督を継いだ翌年の事だ。

龍造寺村中宗家当主・胤栄(たねみつ)が、自ら山口へ出向いた。
彼は大内義隆に少弐冬尚の非道(龍造寺への裏切り・陰謀)を訴えたんです。

大内義隆「渡りに船♪ヽ(*´∀`)ノ」室町将軍・足利義晴に言上。
足利義晴「らじゃ~大内君の言うとおり~」てことで「少弐討伐令」が出される。

1547年6月、「少弐討伐令」をゲッツした大内義隆は、討伐そのものを訴えた龍造寺胤栄に命じた。
更に、それに伴い龍造寺胤栄を「豊前守と肥前守護代」に任じた。


肥前守護代!(゚ロ゚屮)屮おお~~~
確か東千葉初代が死んでからは、肥前守護代は空席だったはず~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

龍造寺隆信が大内のバックアップを受けてたのは、そこそこ知られてると思う。。。たぶん(汗
だが実は、大内のバックアップを受けたのは、村中宗家の方が先だったんです。

家紋・大内 久々登場「大内花菱」

亡き剛忠(家兼)の「後見」という名のもとで、傀儡だった村中宗家当主・胤栄。
実際、家督を継いだばかりの頃は、未だ少年から青年へと成長期の最中だったのも事実だ。
成長した胤栄は、剛忠(家兼)の死で自己判断の自由を得た。
そうなったら、今までの反動か、超アクティブ。

「誕」の巻で語ったように、胤信(隆信)の水ケ江当主の座は足固めがシッカリしていない。
水ケ江内部で「胤信(隆信)当主決定議案」で会議が踊る堂々巡りの時にも、宗家の立場で宥めたのが胤栄だ。
記録の少ない胤栄だが、行動力といい、宗家の役割を果たす度量といい、いやなかなかどうして。
肥前の熊・龍造寺隆信は別格としても、胤栄もそれなりの器量はあったと思う。

同年7月下旬、胤栄は肥前本領へ戻ると、胤信(隆信)と連絡を取り合った。
でもって少弐エリア・三根&神埼がある東肥前へと出陣した。


むろん、主導権は村中宗家・胤栄にある。
討伐命令を受け、肥前守護代に任じられたのは胤栄なのだから。

少弐サイドの武将たちは、各所で龍造寺勢を防ぎ、冬尚実弟の千葉胤頼(東千葉当主)も牛尾の城にて防戦に努めた。

牛ノ尾城データ
場所:現牛尾神社のあるあたり(佐賀県小城市小城町池上字牛尾)
    晴気城&牛頭山城から南へ4~5kmほど離れてます。
来歴:詳細不明(`・ω・´)キリッ 判ってるのは築城主が千葉胤頼って事だけ。
特徴:一応山城・・・なんだけど山っていうより丘陵というか峰って感じが近いらしい。
近くに牛津川あるけど、それ以外は天嶮ってわけでもないし心細い地形だ^^;
各所で防ぐって北肥戦誌にあるから、おそらく牛尾城を囲んだ兵力は、さほどじゃなかったのだろう。

家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

歴代磨いた?少弐のゾンビパワーも伊達じゃない。
意外と粘られ「うち(龍造寺と味方の豪族たち)だけの手勢じゃ無理っぽい~~~~~~~~><;」
胤栄は大内家へ援軍を頼んだのだが、それは・またの話 by^-^sio

地名で地図検索に、すっかりハマってるシオなのだ(*´pq`)クスッ
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9【儀式 川* ̄д ̄*川ポッ~還俗・後篇】

還俗が決定した中納言円月(隆信)は、まず石井兼清(別名・忠房)の家へ迎い入れられた。

亡き剛忠(家兼)は、少弐・馬場の陰謀による落城一門ピンチの時は、円月(隆信)を逃がしていた。
が、落ち着くと円月(隆信)は再び住職を務める宝琳院に戻されていたらしい。

剛忠(家兼)が「遺言」でなく、もっと早くに後継者指名し還俗させていたら。。。
死去するまで短い期間でもいい、剛忠(家兼)が円月(隆信)を後見していた実績があったなら。。。
戦国武将・龍造寺隆信のスタートは違ったものになったかもしれない。
(少なくともスンナリ相続が決まって、クジはない^^;)

「残酷な戦国武将は?」と設問があると、必ず上位にランキングされる龍造寺隆信。
だが、そうならざるを得なかった遠因・要因は、全て剛忠(家兼)にある。
円月(隆信)は、本来なら嫡子であったはずにも関わらず、僧侶になるという通常では考えられない境遇を剛忠(家兼)により強いられた。
武家社会から断絶された11年間の僧侶生活は、人格形成に影響するには十分な長さ。

もし少弐・馬場の陰謀で一族が殺されなければ、万が一の「保険」に出番はない。
宝琳院住職の円月(隆信)は「一門を支える智者」として、その生涯を終えただろう。
一族の主だった者が殺されたため、不自然な相続をしていた歪みが露呈し、全てのツケを還俗した円月(隆信)が清算する羽目になる。
敵に対する「非情」「処分の徹底」は、このツケ後払いの苦労からくる後天的なものじゃないだろうか?とさえ思ってしまう。
シオ談:隆信は剛忠(家兼)を恨んでいいと思うの(´・д・`)

人物・剛忠小 剛忠(家兼)イメージ「後継者に指名はした。後は自分でヤレ」

剛忠(家兼)への苦情はさておき、冒頭の石井兼清だ。
彼は石井家の5男坊(といっても、たぶん壮年)。

石井家に関しては。【鎌倉以来・頼れる味方】で紹介した。
肥前千葉氏の被官だった石井家は、同じく肥前千葉の被官だった龍造寺配下になった。
いわば下請けから孫請けになるようなものだが、石井家で龍造寺を強くプッシュしたのが、この兼清だった。

石井家という味方を龍造寺サイドに引き入れた兼清は、その功績により亡き剛忠(家兼)諱から「兼」の偏諱を受けている。
石井家は実に頼もしい家だ。
剛忠(家兼)が筑後から肥前へ復帰する時に、川副・与賀の豪族衆を説得し迎えに参集させたのは石井家です。

石井家・・・特に石井兼清は剛忠(家兼)の遺言を全面的に支持。
前回のクジも兼清が仕込んで・・・(._+ )☆\(-.-メ)コラッ!
兼清は、円月(隆信)還俗のための儀式一切を取り仕切ったんです^-^

冒頭より続き・・その子息・大隅守が寝間を休所へ取構えて、先ず鰹を進め、加瀬(嘉瀬)町から彦寿という女を宿直に召し置いて還俗させてから、水ヶ江城へ入れた。

シオ的推測なんですが、還俗の儀式って、ぶっちゃけ即席で「破戒」させる事だと思うんです。
(魔王が焼き討ちした某●●山は参照不可)
精進料理生活だった僧侶に魚肉を食べさせ、女人を・・・川* ̄д ̄*川ポッ 

彦寿って女性のことは判りませんが、つまり情景としては↓
襖を開けて次の間を見ると、布団が敷かれて枕が二つ並んでる~~的な感じ (*´pq`)キャ
既成事実がなくても、そういう意味合いじゃないかなぁ~と思うんです。

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

ちなみに自分は「既成事実あり」と推測してます。
というのも武将なら円月(隆信)18歳は、結婚し早ければ子供がいても不思議じゃない年齢だからです。
通常の良家武家子弟は、乳母や守役のジィからソッチの手ほどきを受けます。( ̄ω ̄A;アセアセ
ですが僧侶だった円月(隆信)には、そんな指南?はありません。
てか、僧侶になる時に乳母は御役御免だろうし、守役のジィも選出されてない。。ショボーン..._φ(・ω・` )

武家の嗜みの一つである「衆道」は無問題。
もともと衆道のルーツは女人との接触がない僧侶社会です。
だからソッチのほうは、バッチリ経験済。

むしろ僧侶時代の戒律や道徳的縛りや稚児(衆道)経験で、女人がダメ・・何てことになったら困る^^;;
某大内さんみたいに衆道ドップリで、子作りへのノリがイマイチでも困る^^;;
乳母や守役がいない円月(隆信)のために、適当な女性を用意して即席レクチャーしたんじゃないかなぁ~
と大真面目に考察してました(´・д・`)

相続当初、いわゆる「股肱の臣」がいなかった円月(隆信)は、当主としては孤独な状態。
この石井兼清が、円月にとって最初の「信頼できる家臣」となったのです。^-^

還俗した円月は西千葉の胤連から偏諱を受けて、名を胤信と改めました。
これが戦国武将・龍造寺隆信のスタートです^^/
龍造寺隆信「誕」の巻、完結~次回より新章~それは・またの話 by^-^sio

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8【クジで決定!還俗・中篇】

剛忠(家兼)の遺言
長男家と剛忠(家兼)個人資産の相続⇒周家の次男に
            次男・家門の相続⇒家門の嫡子・左衛門大夫鑑兼に
水ケ江(龍造寺分家)の総領⇒円月(隆信~周家の長男)を還俗させて総領に


相続の流れ
剛忠(家兼)⇒長男・家純(死亡)⇒次男・家門(死亡)⇒長男家・周家(死亡)⇒ジーの遺言に続く


長男、次男、長男家と謎の家督キャッチボールは、子供の資質とは無関係ではないだろうか。
剛忠(家兼)がカリスマとして水ケ江を完全掌握するために、わざと不安定な相続方法をとったのでは?

誰だって相続したい。。。チャンスの前髪を捕まえたい。
長男家にも次男家にも等しくジーちゃんがニンジンをぶらさげたならどうなる?
相続指名欲しさに、剛忠(家兼)に絶対服従する。
家督をコントロールすることで、剛忠(家兼)はカリスマオーラを維持してたと思う。

隆信の資質は剛忠(家兼)のコントロールの範疇を超える。
一つの家にカリスマは二人いらない。だから出家させた。
だが剛忠(家兼)の寿命が尽きるとなれば話は別。

変則相続で不安定な水ケ江は必ず揉める。
自分に変わるカリスマとして「保険」だったのが隆信だったのだと思う。

人物・剛忠小 剛忠(家兼)イメージ画像

剛忠(家兼)は隆信の資質に危険なものを感じてたと思います。
ギリギリまで迷ったから、円月(隆信)の後継者指名が生前でなく遺言になったのでしょう。
カリスマが迷うくらいなら、普通の人に結論が出るはずもない。

剛忠の遺言ではあったものの、意見が割れ(-ω-;)ウーンと悩んだ一族・老臣。
「そうだ!八幡宮でクジを引こう!(・∀・)ピコーーン★」となった。
この場合のクジは現代人が初詣で引くようなものではなく「神意を問う」という意味の厳粛なものだ。
室町将軍もクジで決まった事があるくらいです。

一同揃って参拝し、三度クジを引くと三度とも円月(隆信)となったので、水ヶ江総領に決まった。
肥前国の運命が決まった瞬間だった。

だが、それでもなお、鍋島清房が円月(隆信)相続に難色を示した。
鍋島家は剛忠(家兼)の縁戚で準一門。清房は後の佐賀藩祖・直茂の父です。
清房の難色も当然です。
円月は7歳から18歳まで僧侶として暮らしたために、武家の子弟としての教育を受けてないんです。

円月(隆信)には、嫡子としての教育が施されてない。
円月には、武家の子弟に当然いる「一緒に学び遊んで育つ側近(幹部候補)」もいない。
円月には、一門の中に有力な後見役もいない(主だった者は馬場に殺されたから)
還俗しても一族内では孤高状態。
これで、やっていけるか?と不安に思うのは当然です。

そもそも、まともな相続の流れであれば、長男家の長男だった円月が嫡子だったはずなんです。
それが出家させるという、普通じゃない状況におかれていた。
「頭脳体躯に申し分なくとも、他に何か不都合あるのでは?」
「本当に当主として相応しいなら、もっと早く還俗させてたのでは?」

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

織田信長・豊臣秀吉・大友宗麟・伊東義祐・秋月種実。。。例を出せば枚挙に暇がない。
最盛期と没落はカードの裏表だ。
英雄たちが頂点目指して駆け上がる階段に、横壁はない。
バランスを崩せば、待っているのは没落への奈落だ。

「円月の資質は、龍造寺を飛躍させるか潰すか、どちらか一つしかない。」
・・・と、剛忠(家兼)は感じてたんじゃないかなぁ~~~
だって円月(本来なら嫡子)の出家は、それくらいレアなケース。

円月の聡明さ頑健さなら、武家の素養・武技を身に着けるのに、さほど年月を要しなかっただろう。
むしろ教養だけなら、一族老臣より僧侶で住職だった円月の方がある。
だが武家の子弟として培われるはずだった「感性」「武家的発想」となると、、、、
感覚的なものだけに、、、難しい。

円月自身は自分の境遇や、剛忠(家兼)をどう思っていたんだろうか。
袴着の儀式をやったか未だか~て年齢からの11年。。。この教育的空白期間はあまりにも重い。

迷っても仕方ない。
次男家嫡子は数え4歳という幼さなのだ。
龍造寺宗家が鍋島清房を宥め、やっと一同全員賛同となったのだが、それは・またの話 by^-^sio


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7【還俗・前篇】

1545年1月、少弐冬尚と馬場頼周の陰謀により龍造寺一門が抹殺される。

殺されたのは( )内は龍造寺隆信から見た係累関係。
筑前河上で、家純(祖父)家門(叔父)澄家(純家か?叔父)
祇園原で、周家(父)家泰(父の従兄弟)頼純(叔父)


全て水ケ江龍造寺家の者で、少弐と馬場のターゲットが剛忠(家兼)だったのが窺える。
これだけでなく少弐・馬場の策略である「偽りの有馬討伐」で戦死した龍造寺一門もおり、人的被害は甚大だった。
少弐や馬場が「これだけ痛めつければ立ち直れないだろう」と判断し、剛忠(家兼)自身を見逃したのも判ろうというものだ。

家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

少弐と馬場のターゲットは、龍造寺・村中宗家も例外ではない。
水ケ江城と同時期に村中城(後の佐賀城)も、軍勢に囲まれた。
もっとも、メチャクチャ御近所の本家と分家の城なんで、一緒に囲んじゃったほうが取りこぼしないってのもある。
(ほんと近所なんだってば、現代人でも徒歩で行ける近さ!)

龍造寺隆信の資質に剛忠(家兼)なら気づいていただろう。
同時に隆信の酷薄な気性にも気づいてたんじゃないだろうか。
だから出家させたのかなぁ~とも思う。用いるには危険すぎるから。

とはいえ、この非常事態の今となっては、貴重な男子。
剛忠(家兼)は円月(隆信)を宝琳院(佐賀市鬼丸町)から脱出させ、筑後に同行させたらしい。
村中城落城が1月18日で、水ケ江落城が同月22日なので、この前後に円月(隆信)を逃がしたと思う。

円月(隆信)が4代目住職となった宝琳院は村中城と200M離れてるかな~ってくらい近い。
で、水ケ江も村中城と200Mくらい離れた赤松小学校のあたり。
で、水ケ江と宝琳院も200M~300Mくらいの距離にあるんで、
てことで、村中を頂点とすると左下に宝琳院、右下に水ケ江で△ゾーンになります。
風水的になにかあるかは判りません。
とにかく宝琳院は住職が龍造寺一門から出ると決まってた寺院なんで、寺院だから安全地帯とは言えなかったんです。

地図・東肥前 ゆるふわ東肥前地図

剛忠(家兼)と残った家臣らは、筑後・蒲池氏の保護を受けて筑後一木ってとこにいました。
(村中宗家は大内を頼って筑前へ)

剛忠(家兼)~同年3月にはリベンジしてます(早っ!
その時に剛忠(家兼)を迎えたのが、地図にある川副・与賀の豪族たちです。
彼らを説得し、まとめたのが後に鍋島直茂と結婚する彦鶴姫の実家である石井氏です^-^

水ケ江城を取り戻した剛忠(家兼)。
ホッとしただろうし、落ち着いたら息子・孫を非業のうちに一度に失った悲しみも込み上げたに違いない。
93歳という高齢もあって老衰。
翌年の1546年3月10日に死亡した。

ちなみに剛忠(家兼)の死亡した年は、剣豪将軍・足利義輝の将軍就任の年。
馴染の人だと、黒田如水と武田勝頼が産まれた年です^-^

身体は老衰してても、頭脳は最期まで明晰だった剛忠(家兼)
相続に関して、キッチリと遺言を残した。

1つ、水ケ江・龍造寺家門(剛忠次男)の跡は、家門の子・左衛門大夫鑑兼に与える
2つ、水ケ江・龍造寺家純(剛忠長男)の跡と剛忠隠居分は、周家(家純の子)の次男・慶法師に与える
3つ、水ケ江・龍造寺の総領は、中納言円月(後の竜造寺隆信)を還俗させて当主とせよ

長男~次男~と、謎の家督キャッチボールをしていた、剛忠(家兼)。
カリスマじーちゃんの遺言とはいえ、複雑な家督相続してたために「円月(隆信)の還俗後当主」に異を唱える者が出たのだが、それは・またの話 by^-^sio

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6【肥前の仔熊・後篇】

1538年(天文7)3月13日、家兼が入道した年に鍋島直茂は産まれた。
赤子の直茂と円月(龍造寺隆信)との接触は、おそらく無かっただろう。

翌年1539年(天文8)、村中宗家17代目胤久が40歳という壮齢で死亡。
15歳の嫡男・胤栄が当主となる。
正室は剛忠(家兼)次男・家門の娘で、剛忠(家兼)は若年の胤栄の後見役となった。

17代目胤久は、剛忠(家兼)が(村中宗家の頭越しに)少弐被官となった時に、遠慮して出家した人物だ。
宗家の方が遠慮するほど、偉大な功労者・剛忠(家兼)のカリスマ支配力が強かったのだろう。
少弐から勘気を蒙った剛忠(家兼)は、実権は握りつつも後見役という立場に一歩下がった。
これにより剛忠(家兼)は「分家の身で宗家を蔑ろに・・」という誹りからは免れる。
そのような噂が実際にあった訳ではないが、少弐から突っ込まれる種は無いに越した事は無い。

人物・剛忠小 剛忠(家兼)イメージ画像

1542年(天文11)剛忠(家兼)次男・龍造寺家門に次男が誕生した。
次男の次男なので本来なら家督に縁が無いはずの赤子だった。
だが長子である兄が、少弐&馬場の陰謀で非業に死んだ事から運命が変化する。

前回記事にしたように、水ケ江龍造寺は剛忠(家兼)の意向で変則家督相続を繰り返していた。

剛忠(家兼)長男 ⇒ 養子in剛忠(家兼)次男 ⇒ 養子in長男家の長男 ⇒⇒ ?未定

長男家にも次男家にも、それぞれ男子がいるにも関わらず、まっとうな流れで相続していない。
普通の武家であれば、長男の長男の、これまた長男にあたる隆信が嫡子。
にも関わらず、隆信は宝琳院に預けられ出家し円月となってるんです。

このまま家督キャッチボールが続けば、次は次男家から分家当主が排出される番。
水ケ江龍造寺・次男家で産声を上げた赤子は、龍造寺家に本人が望まぬ波紋を起こす事となる。


さて肝心の円月(隆信)ですが、彼は体躯に優れ、12-3歳の頃には既に20歳くらいの者と比べても遜色ない程だったそうだ。
眼光あくまで鋭く、才智・力量に富み、剛強の業を好んだとされています。

15歳の頃(1544年?)、同じく宝琳院で修業していた僧の一人が村人とケンカし、負けて寺へと逃げ込んだ上、寺の門扉を閉ざすという出来事があったようです。
その折、村人6-7人が門の扉を押し開けようと怒鳴り散らすので、円月(隆信)が一人でこれを押さえた。
すると、力が強過ぎるあまり扉を押し倒してしまい、村人4-5人が扉の下敷きになったので、村人は恐れをなして逃げて行った・・・という事があったそうです。

ちょっと人間離れした怪力なんで、誇張されてるかもです( ̄ω ̄A;アセアセ
円月(隆信)が宝琳院住職になった時期は、自分では調べきる事は出来ませんでした。
が、剛忠(家兼)が死亡した数え18歳の時には、住職だったようです。

寺院の門扉を壊した翌年の1545年1月・・・一族、何より実の父が非業の死を遂げる一大事発生。
僧侶として終わるはずの円月の運命が、
ひいては肥前一国の歴史が、大きく動くのだが、それは・またの話 by^-^sio

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5【肥前の仔熊・中篇】

皆さま、本日紹介するのは、佐賀県佐賀市鬼丸町~(*´○`)o¶~~♪
やたら名前にインパクトあるこの町は、佐賀城の超近所^^/

7歳で寺に入り(1535年)、中納言円月と呼ばれる事になった長法師丸(後の龍造寺隆信)。

寺の名は元々は宝琳坊と言い、あちこちで寺を開基してる行基が建立したとされる。
イイ感じに寂びれた所で、龍造寺家が再興。
以来、地頭職を務める龍造寺家の祈祷所だった。

15世紀に入って、家兼の父・康家が三男の修業スキルアップを機に宝琳坊をテコ入れ。
なんということでしょう(ビフォーアフター風に)
宝琳坊は恵日山龍造寺宝琳院(佐賀市鬼丸町)と生まれ変わったのでございます。
地形は、ぜんぜん山じゃないです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

てことで、装い新たになった宝琳院の初代住職は、龍造寺康家の三男・澄覚。
家兼ジーちゃんの兄様にあたる方です。(-人-)☆彡
元々が祈祷所でしたから、龍造寺家の菩提寺にするつもりだったかもしれません。
住職は「龍造寺一門から選ばれる」と規定されていたようです。

円月(隆信)が入った時の住職は二代目で豪覚。
北肥戦誌には大叔父(家兼三男)ってあるけど、隆信の父(周家)の弟説もあります。
HPの沿革によると、龍造寺一門の中には、住職でなくとも出家して宝琳院に入った者がいるらしい。
逆に出家した後に還俗し、再び武士となって戦場で散った者もいたそうな。
てことで「宝琳院に入る=イコール永久就職・僧侶」とガッチリした枠組みでもなさそうだ。

シオ推測だが、7歳で入った当初は「行儀見習い&武家素養スキル」がメインだったんじゃないだろうか。
本格的に出家で住職コースになったのは1537年(天文7)なのでは?
というのも、龍造寺家を取り巻く政治情勢が変化してるからです。

人物・剛忠小 剛忠(家兼)イメージ画像

1530年「田手畷の戦い」での活躍で、正式に少弐被官となった家兼。
だが僅か6年後に「龍造寺家兼は大内に寝返った」と少弐サイドに疑われ攻撃されてるんです。
これは龍造寺を煙たく思った肥前小田氏の讒言によるもので、家兼が裏切ったという事実はありません。
強いて言うなら「時期尚早、自重論」を唱えた事で誤解された。。。というのはありそうです。

家兼は、少弐から勘気を蒙ったという事で、預かっていた龍造寺総領職を宗家へ返上。
村中宗家当主の後見役となって、実権は握りつつも表舞台から一歩下がりました。
更に1538年に入道し名前を剛忠(家兼)と改めたんです。
因みに、この時で85歳。( ̄ω ̄A;アセアセ
同年、宝琳院二代目住職・豪覚が死去した。
三代目住職は源覚なのだが、数年後に円月(隆信)が4代目住職になったところを見ると、
三代目は高齢、若しくは円月(隆信)が住職としての教養を身に着けるまでの繋ぎの住職だったのかもしれない。

剛忠(家兼)は政治情勢が変化すると、家督チェンジをする。
状況が変わるまで、カメレオンのように周囲の色に合わせるのだ。
少弐被官となったのは水ケ江龍造寺家で、村中宗家ではない。
だから、村中宗家では遠慮して少弐被官である家兼を表に立てた。
今度は家兼が少弐から勘気を蒙ったので、水ケ江は裏方に回り村中宗家を前面に立てる。
コロコロ変わる方が信用されないんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

とにかく目立つ事を避けようとしてた剛忠(家兼)なので、一度寺に預けた神童・円月を俗世に戻さず住職コースに乗せる事にしたのではないだろうか。
寺院という形態をとっているが、宝琳院も龍造寺を支える一門の一つなのだ。
必要に応じて還俗させる融通性があったのはないだろうか。

周囲の状況をよそに、仔熊な円月は僧侶に惜しい体躯に成長するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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4【神童・肥前の仔熊~前篇】

龍造寺隆信が生を受けたのは、1529年(享禄2)2月15日。

奇しくも、同年に前半生のライバル・神代勝利が家督を継いだ。
翌年が鍋島・赤熊武者が活躍する「田手畷の戦い」なので、隆信の生年は覚えやすい。

幼名は長法師丸。
戦国・南の高性能ジーちゃん龍造寺家兼の曾孫にあたる。

水ケ江・龍造寺家兼⇒長男(家純)⇒長男(周家)⇒長男(長法師丸で隆信)

という系譜で、通常の武家であれば水ケ江の嫡子は長法師丸だったはずだ。
ところが7歳の時に寺へ預けられ、養育だけかと思いきや、そのまま出家している。

龍造寺家は、実は家督が複雑な家です。
これは肥前千葉氏が東西に分裂した事と無縁ではないだろう。
肥前千葉の被官だった龍造寺家は、肥前の複雑な政局に合わせて村中宗家当主が交代した。
もちろん裏で糸を引いていたのは、分家・水ケ江龍造寺当主である家兼だろう。

人物・剛忠小 剛忠(家兼)イメージ画像


そして変則家督相続は、水ケ江龍造寺家も例外ではない。
家兼長男だった家純は、家兼の次男(家純から見て弟)を養子にし相続させてます。
家兼次男だった家門は、家純の長男(家門から見て甥)を養子にしてるんです。

上の系譜上の流れと見比べながら、こっちが家督相続の流れ↓

家兼⇒長男・家純⇒次男・家門⇒孫・周家(長男の長男)⇒⇒?

相続者を長男にしたり、次男にしたり、またまた長男の系統に戻したり。
順番?で行ったら、次は次男の系譜か?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

家兼は親子の情実に流される事が一切なかったのではないだろうか。
「実力あるものに家督を継がせる」を徹底していたのだろう。
だが、いくら長子相続が確定していない時代とはいえ、コロコロ変え過ぎじゃね?( ̄ω ̄A;アセアセ
少弐冬尚や馬場頼周が、家兼を警戒するのも無理はない話だ。

実は剛忠(家兼)亡き後に、村中(宗家)と水ケ江(分家)は分裂し、水ケ江も隆信相続に対し反旗を翻す者が出る。
無血の禅譲・・家督チェンジは、剛忠(家兼)のような卓越したリーダーがいてこそ成功するのだ。
長男家と次男家を、行ったり来たりする家督相続は、剛忠(家兼)亡き後は揉める元にしかならなかったのだろう。

息子・一族が非業に死ぬ一大事が無ければ、剛忠(家兼)は次は誰に家督を継がせるつもりだったのであろう・・・

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

さて、ジーちゃんの思惑はともかく、長法師丸クンは非常に優秀な御子だった。

長法師丸が8歳(7歳?)のとき、侍女が『平家物語』を読んで聞かせていたところ、
「わしは源氏か、平家か」
と、問うたので侍女は、
「源平では御座いません。御当家は藤原の御末孫です」
と答えたところ、
「藤原の武勇は、源平と比べてどうか?」
と再び尋ねたので、藤原氏代々の武勇を話して聞かせると、長法師丸は機嫌よく壇ノ浦の戦話を聞き、それを一度ですっかり覚えてしまったとのこと。

剛忠(家兼)は長法師丸に壇ノ浦の話を所望すると、長法師丸は空でそれを読んだ事から、剛忠(家兼)はこの子は只者ではないと感心し、
出家とすれば九族(自分を中心とした祖先4代と子孫4代)天に生じて仏の果報を得るべし」
として、長法師丸を出家させたとの事です。


只者出ないと感心して、なぜそこで出家?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
やっぱ順番?で次は次男家から相続者を選ぶつもりだったのかなぁ(-ω-:)ウーン

1535年(天文4)、長法師丸は数え7歳で宝林院に入り中納言円月と称した。
この時点で、父・周家は伯父・家門の養子となっており、次期当主候補だった。
長法師丸が長男でありながら相続から外されたのか。
はたまた嫡子候補として養育のために寺院に預けられたのか。

剛忠(家兼)以下関係者全てが鬼籍に入っている以上、知る由もない。
とにかく結果として長法師丸は出家したのだが、それは・またの話 by^-^sio

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3【夢を買う男・裏~神代家と山内26豪族】

神代勝利(くましろ かつとし)の記事をアップするにあたり「さがの歴史・文化お宝帳」を参考にしました。
今回はシオ流に裏・考察してみたいと思います。
例によってマニアックなんでスルー可,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


ずっと気にかかってたのが「なぜ大事な嫡子(候補)」を武者修行なんかに出すの?」です。

武家の素養スキルなら、何も外へ出さずとも「師匠を招く」だけで事足りるはずです。
水杯で家族と別れなきゃならない四国行じゃあるまいし、肥前・千布なら幾ばくか金子を積めば来るでしょう。

サイト(と参考にした前記事)には綺麗に書いてるけれど、兄・利之と弟・勝利の双方いずれを当主にするかで一族内でガッツリ意見が割れたんじゃないでしょうか。

異母兄・利之は片目が不自由というけれど、失明じゃない。
伊達政宗を例に出すまでもなく、日常生活に不自由なければ当主は務まる。
てか、そもそも戦国時代は、病や戦場の負傷等で隻眼になるのは珍しくないはずなんです。

新次郎(勝利)は、神代一族内の兄擁立派を納得させるために、兄以上のスキルを要求されたんじゃないでしょうか。

千葉興常の武術指南役に入門という経歴は、実に判りやすい箔付です。
なぜなら当時、牛頭山城の主は東千葉当主・興常だったからです。
ホントの嫡流は西千葉~~~なんてのは関係なし。

「小城(肥前国主象徴の)牛頭山城下で修業したんだぞ(=^・ω・^=)v ブイ」っていうブランドが重要。
全盛期の肥前千葉氏は、それほど肥前国に影響力があったんです。
肥前の国人で、「肥前千葉の被官に一度もならなかった者」を探す方が難しいくらいです。

新次郎(勝利)の武者修行に際し、旅費やら滞在費やら入門料は生母実家の陣内家が援助したと想像出来ます。
パパ神代は「第一子を神代家当主にする」という条件で、陣内家へ婿入りしました。
婿ですよ?しかも世話になってるのはパパ神代の方ですよ?
なのに第一子を・・・って条件を、陣内がOKしたのはパパ神代の器量ウンヌン以外の理由があると思います。

それは山内(さんない)という土地が「肥前と筑前との間にある山岳地帯」という事に関連してるのではないでしょうか。
人物・くましろん~(神代勝利イメージ画像)

山岳に住む人々にとって、山そのものが財産でありトップシークレットです。
(湧水が出る場所とか、建材になる材木の知識、耕作可能の場所(隠し田)などなどなど)

その財(秘密・共有財産)を守る為、山人は閉鎖的になりがち。
ですが婿取り嫁取りを山内のみに限定しちゃうと血族婚率が増えて(・A・)イクナイ!!
他国人の血を入れて血統をリフレッシュすることは、どこの山岳地帯でも種として本能的にやってます。
でもって入れる血(DNA)は、出来うる限り「貴人・貴種・もしくは優れた異能者」が望ましい。

山内の豪族たちにとって、筑後国人・神代家の血統そのものが魅力(==)b

神代家~高良神社系武家で、勝利の代で既に51代目。

高良神社~正式名「筑後国一の宮・高良大社」(`・ω・´)キリッ
輝かしい実績~国家規模級厄払い=蒙古調伏(現代目線の突っ込み不可)
輝かしい経歴
鎌倉期~九州総社、造営補修などは全て勅裁(`・ω・´)キリッ

室町期~島津・大友・菊池・少弐が高良大社四頭~つまり4大名交代で祭礼を行う(`・ω・´)キリッ

高良大社は戦国肥前においても知名度抜群。
パパ神代の舅・陣内は摂津出身で住吉神宮の神官でした。
舅・陣内は「神代という血統」が、「山内という山岳地帯で尊ばれる」と職業的体験で知ってたはずです。
婿として迎えた神代家を盛り立てていけば、千布の住吉神社は神代家の保護下に入る事が出来ます。

そして神代勝利が家督を継ぐ前後に千布(ちふ)で剣術道場を開いた目的は、ズバリ「血統の宣伝」

テレビ・ラジオ・電話・ネットもない戦国時代~
山岳地帯の人々にとって「情報」は最高の娯楽であり、衣食住以外で生き残るために必要な知恵です。

剣術道場を開いた事で神代家の存在が山内中に噂された事でしょう。
神代さま・・・なんと「あの」高良大社大宮司の流れを汲む由緒ある家柄・・・( ゚д゚)ンマッ!!
そして弟子が来ることで、神代の元にも山内の情報が集まるんです。
ん?弟子は集まりますよ~「肥前的都会・小城で修業ブランド」ですから^-^

山内は、すぐ近所が筑前だけあって、血統だけで若い神代勝利を頭領にするほと単純(超絶田舎)じゃないはず。
血統は理想的、後は「新次郎勝利が武将として優れた器量」なのか「単なる剣術屋」なのか、三瀬の野田が剣術弟子入りして観察してた・・・
とまぁ~こんな感じで考察(妄想)してみました。


肥前に来て2代目で頭領になるだけあって、神代家は自己アピール演出力が非常に優れています。
そして、とてもユニーク。
肥前で一旗揚げるのに、千葉や少弐や龍造寺とかの家臣にはならず、まず自分の勢力基盤を作る事からスタートしてますから。
山内に目をつける着眼点も優れてるように思います。
山内は筑前と肥前の間に挟まれてるだけあって、ちょうどエアポケット状態。
大物たちは自分たちの事で忙しく、山岳地帯の山内には注目してなかったでしょう。
神代家が入るまで、豪族たちは必要に応じて集まるくらいで、組織として一つにまとまった事は無かったんじゃないでしょうか。

山内の人々にとって、神代勝利は今でも偉人です^-^
さて、次は産声を上げた肥前(平地)の熊です。それは・またの話 by^-^sio

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2【神代勝利・夢を買う男・後編】

新次郎(勝利)クンは、次男ですが生まれながらの嫡子「候補」です。
何故なら生母が婿に入った陣内家の娘だから。

新次郎の兄は利之。
パパ神代が筑後時代に儲けた子だったのですが、幼い頃に病で片目が不自由となったために相続者としては不適当では。。。というのがパパ神代の密かな悩みでした。
兄・利之は、新次郎が成長するまでの繋ぎの嫡子だったようです。

新次郎が産まれた2年後、1513年(永正10)には新次郎の弟が産まれてます。


1525年(大永5)3月、15歳となった新次郎クンの教育に悩んだ神代家が、千葉家武術指南役・奥常之に弟子入りさせた。
新次郎は入門して二か月で頭角を現し、師匠の奥常之は新次郎の才能に舌を巻いた。
1529年(大永9)、「もはや教える事なし」と師匠は神代に免許皆伝、独立する事を許した。

人物・くましろん~(神代勝利イメージ画像)

その新次郎が千葉家臣・奥常之の元で剣術修行中の頃の話だ。

或る朝、一緒の部屋で起居していた江原石見守という朋輩に、
「自分の体が次第に大きくなり、遂には北山(山内の中世以降の別称)を枕に、南の有明海に足を浸す程になった。これは吉夢か、それとも凶夢だろうか」と問われる。


勝利はこの夢が大大吉と悟り、これを我がものにしようと、
「頭を北枕にするとは悪夢の最たるものだが、これを人に売れば却って吉夢に転じると聞いている。自分がその夢を買い取り、貴公の災難を引き受けよう」と述べ、
持ち合わせていた金の笄(こうがい)を与えて買い取ったという。

笄(ウィキペディア)
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4AURU_jaJP499JP499&q=%e7%ac%84

故郷に戻った新次郎は金立町に剣術道場を開き、千布家の剣術を指南するまでに成長した。

新次郎18歳の時、神代家では改めて家督の事が協議された。
異母兄・利之は「自分は身体が不自由で総領として適当ではありません。幸いにして新次郎が立派に成長したので、これに譲りたくありますm(__)m)」と自ら身を引いた。

なんとなくなんですけど。。。
パパ神代が相続から外れる長子を気遣い「自ら身を引く」という花道を設けた気がします。。ショボーン..._φ(・ω・` )
神代一族家臣に否やはありません。
そのために他国で修業させて新次郎クンに箔をつけたんでつ。

1529年(享禄5)5月、新次郎は神代家51代目当主となり名を刑部少輔勝利と改めた。

儀式当日、住吉神社に神代一族家臣、千布氏が臨席するなか、雅楽奉納や献幣が盛大に執り行われ、兄・利之が新次郎の次席へと着座し、新次郎は候補から正式に神代家総領となった。

そして千布氏の娘を娶って、遂には野田宗利らの推挙により山内26ヶ山の頭領となった。
(神代勝利が剣術指南する弟子の中に、山内は神埼郡三瀬の城主である野田宗利がいた。)

山内26ヶ山とは、神埼の”三瀬・藤原(ふじのばる)・久保・腹巻・鹿路(ろくろ)・広滝・杠(ゆずりは)”、佐嘉の”関屋・名尾・松瀬(まつぜ)・小副川・畑瀬・菖蒲・梅野”、小城の”合瀬(あうぜ)・藤瀬・古場(こば)・無津呂・大野・摩那古(まなご)・古湯・大串・栗並・波多瀬・杉・市ノ川から成っている。

勝利は、三瀬・松瀬・杠(以上で三人衆)と、菖蒲・畑瀬(以上で五人衆)、藤原・栗並(以上で七人衆)と主従の契りを結び、三瀬に本城を置くと、下小副川の谷田(たんだ)や熊川などに出城を築き、後に肥前以外に筑前の那珂・怡土(いど)・早良三郡内にも所領を有するようになる。

なお、千布氏の家督は勝利の2歳違いの弟が家督を継いだ(千布頃幡守宗利)

神代勝利が家督を継いだ1529年。
まさにその年に肥前の熊・龍造寺隆信が生を受け産声を上げたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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1【神代勝利、夢を買う男・前篇】

久々の肥前戦国史~♪ヽ(*´∀`)ノ
剛忠(龍造寺家兼)の死で終わった、戦国前期の龍造寺氏。
いよいよ肥前の熊・龍造寺隆信が登場です(^ -)---☆Wink

熊さんを起こす前に、まず隆信が東肥前を平定する前までのライバル・神代勝利を紹介しましょう。
ん?^-^理由?
( ̄ko ̄)<知名度が心配だからでつ・・・

人物・くましろん~

神代勝利(くましろ かつとし)佐賀県民以外で、検索無し一発で正確に読めた方は漢字王(爆

龍造寺隆信のライバルと書きましたが、実は結構年が離れてます。
隆信は1529年(享禄2年)産まれ。
勝利は1511年(永正8年)産まれ。
18歳という年齢差は戦国時代なら親子に近い世代格差があったと思います。

この二人は何となく似ているようで、真逆のタイプ。
・豪胆なイメージの龍造寺隆信は、実は物凄く慎重で用心深い野生動物タイプ。
・やる事が大胆な神代勝利は、孔雀が己を誇示するために尾を広げるように、自己アピール演出タイプ。

若い龍造寺隆信から見たら、神代勝利はイタイおっさん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
シオの印象だと、隆信はケレン味ギンギン、勝利のような人柄は好まないと思う。

さて、まずは神代家の来歴から行きます~((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~


山内(さんない)の神代氏は武内宿禰(たけうちのすくね)の後裔とされ、筑後高良山大宮司鏡山氏の弟が後に武人となり、文治元年(1185)に高良山麓の神代村(現:久留米市)に居住してより神代と称した(移住したのは神代良光)。

別説として、神功皇后遠征のときに武内宿禰が神の如き働きをしたため、「神の代わり」という意味で「神代」の二字を授けたともされる。

漢字も元は「熊代」だったのが「神代」に変化したという説もあるそうです。
元祖・熊?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


神代村は筑後川筋に於ける大宰府と筑後を結ぶ交通の要衝であり、神代氏はこの「神代渡し」の通行権を管理していたともいわれる。

実際、文永11年(1274)の「文永の役」のとき、神代良忠は、筑後川が増水したので浮橋を多く架けて、肥後・日向・薩摩・大隅らの軍勢を渡らせている。


応仁の乱(1467~1477)から後、筑後には蒲池・西牟田・草野らの豪族が威勢を強め、神代対馬守宗元入道は本領の神代を去り、一族郎党27士を連れ松浦の波多氏を頼って肥前に落ちた。

そのとき上佐賀の千布村を通りかかった際に雨が降り出し、地蔵堂で雨宿りしていた処を村主の陣内大和守が気に掛け、宗元らを持て成した処から知遇を得る。

宗元は弓の名手で、大和守はこれを見初めて自分の娘婿にすると、領地を与えて千布村に移住させた。

この二人の間に、永正8年(1511)に次男として誕生したのが新次郎こと後の大和守勝利です。


北肥戦誌には「1485年(文明17)に神代勝利が千布村・住吉大明神の社を再興する。」とあります。

おそらく勝利ではなく、父の宗元の誤記でしょう。

社を再興する財力があったというのであれば、既に娘婿になってたかもしれません。

ですがパパ神代が筑後から肥前へ落ちたのは明応5(1495年)という話(出典:不明)があり、女性の出産可能限界年齢を考えると1495年以降に娘婿の方が自然です。

北肥戦誌が10年ズレて誤記したかもでつ( ̄ω ̄A;アセアセ

次男とあるが長男は生没年不明。
ただパパ神代が筑後時代に儲けた男子で、陣内家の血は引いてないんです。

そのたりの家庭の事情か、新次郎クンは千布村を出て東千葉の小城へと旅立つのですが、それは・またの話 by^-^sio

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【king大友、幻の三州統一・終】相良氏、戦国名君編・完

弘治2年5月8日「大水山城没落、小原遠江守ソウイ入道打死」出典:八代日記

地図・大津山氏関連

八代日記に「大水山」城とあるのは大津山の誤記で、肥後・南関城の事でしょう。

大友から動員された鎮圧軍は1万とも2万とも言われ、謀反側鎮圧側双方で7000名に及ぶ被害があったそうです。
ですが謀反そのものは短期間で終わりました。
元城主の肥後国人・大津山氏が、城と領地を取り戻すために大友軍を先導したからです。
小原鑑元の妻子は落城と共に自害。勇将だった小原は城から出て討死しました。

府内にいた宣教師の記録によると、謀反加担の罪で大友義鎮が処刑したのは13名で、府内にある彼らの屋敷も焼き払ったとあります。
身の危険を感じた義鎮は府内館を退去し、臼杵へ政都を移しています。

処刑された者らは八代日記・現地速報によると、
弘治2年5月4日「豊州小原甚五郎殿・大津留殿(本庄・雄城、此人数大神氏成敗、七日ニ八代きこえ候)」

本庄は判らなかったんですが、それ以外は大神系氏族の者が処断されています。
雄城は、城じゃなくて人の名前で、小原と同じ豊後大神系阿南氏庶流です。

雄城治景は、亡き父・義鑑が加判衆(家老)に選んだ他姓衆(江戸時代風に言うと外様)です。
1551年3月に小原鑑元が加判衆から解任された時に、
加判衆は同紋衆(一門・譜代)が4人、他姓衆が1人で、その最後の他姓衆が雄城治景だったんです。

雄城は義鎮がキリシタン布教を許可(1553年)した時に大反対をし、
「亡国の兆し」といった意味の言葉で激しく諫言した為に、義鎮の不興を買い加判衆を解任(時期不明)されました。
大友中枢には只の一人も他姓衆出身者がいなくなり、不満を募らせた家臣らが謀反。。。ショボーン..._φ(・ω・` )
雄城治景自身は謀反に加担しなかったらしく、そのまま大友家に仕えています。

人物・大友宗麟

伊予に亡命した佐伯惟教ですが、彼もまた謀反に加担したわけじゃなかったようです。
が、謀反側が佐伯を仲間にしたくて連絡を取りあってたのを咎められ、結果亡命となった。

実は佐伯家は他姓衆ながら、その優秀さを買われ大友家から特別扱いされてました。
毎年、新年の挨拶で大友家臣は御前に罷り出、居並ぶ重臣の前で主君・大友氏から祝賀の杯を受け取る儀式がありました。
他姓衆の中で佐伯氏のみが、その儀式後に大友当主自らが府内佐伯屋敷を訪れ返礼を受ける。
という、特別待遇を受けていたんです。
帰参した佐伯惟教が最期まで大友家へ忠節を尽くしたのも「わが佐伯家は格別の家である」という自負があったからでしょう。

八代から派遣された使者が豊後から戻ったのは同年5月22日です。
以後、八代日記から大友家関連記述は出ません。

相良家は、この後色々ありまして、大友どころじゃないってのが最大の理由ですが、
何より大友家が肥後直接統治を諦めたからです。

1505年から肥後に介入して半世紀・・・
菊池当主として3人を送り込んだが、どの当主にも菊池三家老は従おうとしなかった。
そして送り込んだ当主や責任者は次々と大友に対し挙兵する。
バタバタしてるうちに、南肥後三郡・相良家が戦国大名として自立完了 il||li _| ̄|○ il||l

支配しようとすればするほど拗れる肥後統治よりも、
大内義隆が死に混乱してる北九州覇権ゲッツの方が大友義鎮には魅力だったのでしょう。
以後、北肥後は菊池三家老(隈部・城・赤星)を中心とした肥後国人による自治に任された。

肥後国人たちが「豊後参り(大友の威信アピールの軍事パレード)」に参加してたかは、シオレベルでは判りませんでした。
例え不参加だったとしても、筑後のように大友直参衆が配置されている訳ではないので、強要するのは難しかったでしょう。

大友家宿願だった三州(肥後・豊後・筑後)統一は、ついに完成をみることはなく幻となった。

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

10年という短い治世でしたが、名君と仰がれた相良晴広は、養父・相良義滋と実父・上村頼興の築いた地盤をしっかりと固めました。

天草を支配下に治め、分国法の原点と言われる「相良家法度」が完成したのも晴広の代。
菊池義武亡命受け入れに際しても、大友義鎮との外交関係を壊すことなく乗り切った。
その晴広は1555年に死亡し、相良家は少年当主頼房(後の義陽)の時代となる。
さらに北肥後も1556年以降は、大友による直接支配から離れ、国人による完全自治の国へと生まれ変わった。

肥後戦国の新たな局面の幕開けに、相良義陽の治世は波乱の船出となるのだが、
それは・またの話 by^-^sio

【king大友、幻の三州統一・参】相良氏、戦国名君編20

豊後大神(おおが)氏。祖:大神惟基(おおが これもと)。通字:惟

・長男:高千穂氏(本貫地:日向国臼杵郡高千穂郷)、嫡流は三田井氏。
・次男:阿南氏(本貫地:豊後国大分郡阿南郷)庶流代表例:小原、雄城、大津留、由布
・三男:稙田氏(本貫地:豊後国大分郡稙田郷)庶流 〃 :入倉、十時、田尻
・四男:大野氏(本貫地:豊後国大野郡)   庶流 〃 :朽網
・五男:臼杵氏(本貫地:豊後国海部郡臼杵荘)庶流 〃 :戸次、佐伯、賀来、緒方

大神惟基は平安時代の人物ですが、伝説・伝承が多く明確な経歴は不明です。
嫡男の高千穂氏が相続放棄して高千穂に土着した理由も不明。

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

鎌倉時代に大友氏が豊後入りした時、当然の事ながら豊後国人である大神氏族は激しく抵抗した。
だが徐々に大友氏が優勢となり、それとともに大神氏族は大友家臣団の中に組み入れられた。
大友は大神氏族懐柔のために縁組(臼杵、戸次)したり、大友家の家紋使用を許可する(同紋衆)
だが全ての大神氏族が家紋使用を許可されたわけではない。
大友家臣参入後発組は、家紋使用の許可は下りず、新参者(他姓衆)のくくりに入った。

大神系で同紋衆代表例⇒戸次氏、臼杵氏
大神系で他姓衆代表例⇒阿南氏、佐伯氏
つまり、簡単に言うとこう↓
同紋衆>>>>>超えられない身分格差>>>>他姓衆

本来は同族であった大神系武士団は、大友の定めた身分格差のために激しく反目しあうようになる。
頑張っても頑張っても、格下扱いの他姓衆サイドに、より不満が溜まるのは当然だろう。

それは、大友の軍編成にも表れた。
大友では配下の国人や他姓衆家臣に先陣を命じるんです。

先陣は非常な名誉で、損耗も激しいと同時に武功チャンスも多く、本来であれば志願してでも欲しい役目です。
が、恩賞が無いか薄いのが前提での先陣となれば、話は違ってくる。( ̄ω ̄A;アセアセ
他姓衆には、主君・大友家が過酷な最前線を自分たちだけに負わせて、本軍である同紋衆を温存しているようにしか見えない。

1550年菊池義武の謀反鎮圧の際も、最初に向かったのは、他姓衆の小原と佐伯ら。
当初は謀反側が優勢だったために、本軍である戸次ら同紋衆到着まで、一時孤軍状態だった。
謀反鎮圧後、大将の小原は肥後責任者に任命されたものの、佐伯には恩賞らしい恩賞は無かったそうだ。

これは大友家の台所事情と関係がある。
実は大友宗家の蔵入地(直轄地)は、分家より少なかったんです。
豊後平定の過程で恩賞を与えた為で、主家アルアルな話です( ̄ω ̄A;アセアセ
そのため大友宗家は家臣団のパワーバランスをとるのに常に苦労してまして、
本軍温存もあるけど同紋衆に大きな手柄を立てられると困るってのもあったんです。
(他姓衆は押さえつけ我慢させられるが、譜代や一門には恩賞ゼロって訳に行かない)

それでも20代目大友義鑑の頃はマシでした。

義鑑は家中融和のために他姓衆からも加判衆(家老にあたる役目)を選び、他姓衆の不満を抑えていました。
さらに同紋の代わりに偏諱(へんき=諱プレゼント)ラッシュ。
お蔭で通字の惟が埋没、苗字が無いと区別不可のデジャヴュ諱が量産・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

義鑑は死に臨んで嫡子・義鎮に対し「加判衆は、同紋より三名、他姓より三名とせよ」と遺言した。
が、義鎮は不仲だった父の遺言をガン無視した。

人物・大友宗麟(21代目大友義鎮=宗麟)

全権を与えられ肥後入りした小原鑑元だが、元々は加判衆でした。
義鎮は翌年の1551年3月に、まず小原を加判衆から解任した(小原: ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!)

家臣の謀反を警戒する義鎮は、一人に権限が集中するのを恐れ、加判衆との兼務を嫌った。
後年ですが道雪も筑前・立花城へ入る時に加判衆から外されています。
でも1551年当時の解任目的は、加判衆からの他姓衆排除でした。
義鎮は自分の周囲を譜代・一門からなる同紋衆で固め、
さらに同紋衆でも自分の意のままにならない者は「謀反の過度有り」と処刑した(1553年・府内の乱)
他姓衆にとって、新当主・大友義鎮誕生は「恐怖政治」の幕開けだった・・・


( ̄ko ̄)<実は、豊後大神系氏族は、宇佐神宮と関わりありまして。
宇佐神宮自体は宇佐(豊前)大神氏が創ったのですが、豊後大神氏の祖には宇佐大神氏説もあるんです。

何が言いたいかって言いますと、
豊後大神系氏族は(宇佐神宮と繋がりある氏族だから)程度の差はあれ基本としてキリシタンがキライ
(キリシタン布教許可は1553年で、同年6月に宣教師の住院が府内に完成)
(大友内部で差別されたから)反抗的で、神の国に理解のない大神系氏族は「義鎮にとって獅子身中の虫」認定。

とまぁ、こういった因縁の積み重ねで堪忍袋の緒がプッツーーンした小原鑑元が、1556年5月に肥後で挙兵したのだが、それは・またの話 by^-^sio

【King大友、幻の三州統一・弐】相良氏、戦国名君編19

ウィキペディアにあるように、相良家と大友義鎮との外交関係にヒビが入る事はなかった。

相良が菊池義武の謀反に助勢したのは豊福城が目的だったとは思うが、
それはそれだ。

全てを失った菊池義武へ臣下の礼を取りづつけ、最期まで信義を貫いた相良家に対し、
極度の人間不信だった大友義鎮は個人的に好感を抱いたのかもしれない。

菊池義武自害以後は八代日記に大友関連の記述は殆どなくなる。
書く必要がないほど穏やかで良好な関係だったのだろう。

弘治二年二月十八日、
「西音寺豊州被遣候、年頭御祝儀、中間源次兵衛尉」出典:八代日記


前年に晴広が死亡し12歳の頼房(義陽)が家督を継いだのだが、
この弘治2年2月9日に13歳で元服し初名の頼房を名乗った。

年頭の祝賀に来た大友からの使者は、頼房(義陽)元服に対する修辞も述べたに違いない。

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

大友にすれば、南肥後三郡・相良氏の戦国大名化は、もう止めようがないので友好関係でいる事にして、北肥後統治でイイやと妥協したのだろう。

大友宿願の三州(豊後・筑後・肥後)統一は、この時点で崩れてまして。。( ̄ω ̄A;アセアセ
てか北肥後の阿蘇氏も戦国大名化してまして。。( ̄ω ̄A;アセアセ
阿蘇氏とは色々あったが、今は親大友だから、まぁイイやでして。。( ̄ω ̄A;アセアセ

とにかく大友家臣にして肥後現地担当責任者(大友用語で肥後方分)小原鑑元の元で、
北肥後国人衆が静か~~な状態なら許容範囲な感じ。

だが北肥後統治は、そう甘いものじゃなかった・・・・

1556年(弘治二年)今度は小原鑑元が謀反を起こす
後の世に言う「姓氏対立事件」です

相良家も驚いただろう。2月に大友から年賀の挨拶を受けたばかりなのだ。

相良家も巻き込まれる事になるのか、
とにもかくにも八代から飛脚が豊後へ派遣され情報収集にあたってます。

豊後から八代へ第一報が届いたのは5月7日、
「5月4日、豊州小原甚五郎殿・大津留殿(本庄・雄城、此人数大神氏成敗、七日ニ八代きこえ候)」とあります。
()内は、小文字で書かれた注釈部分で、日付の詳細は、後から知って書き加えたかもです。
( ̄ko ̄)<成敗された地は大友家首都・府内でつ

えっと~八代日記だけの記述だと、謀反に至った背景がスコーーンと抜けてるので、
(相良に関係ない事だから、知ってても記述しなかったかも)
僭越ながらシオが説明します 川* ̄д ̄*川ポッ 

小原鑑元が挙兵し立て籠もったのは、肥後の南関城です。(下図参照)

地図・大津山氏関連

ピンク四角で囲んだ部分で、見て解る通り肥後と筑後の国境近くにあります。

大津山氏ってあるのは、元々は肥後国人・大津山氏の城(旧名「つづら嶽城」)だったからです。

大津山氏は菊池義武の謀反時に、菊池に加担したために領地・城を没収されちゃったの。

で、その後に城督(今風に言うと方面軍司令官)として小原鑑元が妻子伴い入城。
合わせて肥後の方分(室町幕府風に言うと守護代が近い)に任命。

城は手直しされて「つづら嶽城」から「南関城」と改名されてました。

城督と方分の職制としての優先順位は解りませんが、
とにかく小原鑑元は、大友から肥後統治における全権を与えられた事になります。

その小原が謀反しちゃったのだから、
万が一にも飛び火したら北肥後が大炎上するかもの(大友にとって)ピンチだったんです。

挙兵は肥後ですが、根っこの対立は大友家内部の問題でした。

謀反加担の咎で処断された家臣の多くが、豊後大神氏系武家。

大友家臣団の分類ですと、新参や国人領主出身から構成される他姓衆になります。

豊後国における最大氏族、豊後大神氏。そこから派生した氏族は37氏!

主な氏族一覧~スルー可
阿南氏、臼杵氏(戸次氏、佐伯氏、緒方氏)、大野氏、稙田氏、三田井氏、朽網氏、大津留氏、橋爪氏、高知尾氏、賀来氏、野尻氏、三重氏、田尻氏、野津原氏、高千穂氏、堅田氏、高野氏、松尾氏、吉藤氏、行弘氏、太田氏など


豊後大神氏と大友氏の対立は、はるか鎌倉時代にまで遡るのだが、
それは・またの話 by^-^sio

【King大友、幻の三州統一・壱】相良氏、戦国名君編18

鎌倉時代、幕府の命で遠国の九州は三人衆が治めていた。

少弐氏が筑前・豊前・肥前の三州で、戦国の現在は没落街道驀進中。
島津氏が薩摩・大隅・日向の三州で、戦国の現在は大隅統一やり直し中
大友氏が豊後・筑後・肥後の三州で、戦国の現在は本シリーズ読んでネ^^b

島津の「三州(薩摩・大隅・日向)統一」っていうのは、鎌倉時代と同様の勢力回復を目指すって事です。

で、大友は大友で「三州(豊後・筑後・肥後)統一」が宿願だったんです。

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

まぁ豊後は本貫地だからして、御家騒動・親子不和で大友家中が揉めるのは平常運転。

それはさておき、まずは筑後支配から。

これも国人が言う事を聞いてくれないから、手こずる手こずる。

特に筑後星野氏の謀反には、大友義長(19代目)義鑑(20代目)の二代に亘る当主が悩まされました。

とにかく何とか筑後の謀反は鎮圧され、筑後には大友直参「高一揆衆(二十五家)」が置かれています。

筑後で最も勢力のある蒲池氏は、上蒲池と下蒲池に分けて懐柔。

筑後国人・十五家は大友に従い「豊後参り(大友の軍事パレード)」に強制参加。

「豊後参り」不参加の者は「謀反人」として処断された。

大友家最盛期である大友義鎮(21代目・宗麟)の頃には、大友による筑後統一は完成していました。

地図・筑後
(筑後関連地図)

次は肥後~肥後~(*´○`)o¶~~♪

経過ぶっとばして、とにかく室町時代における肥後守護職は菊池家でした。

菊池家が盤石であれば、大友家といえども無法な手出しは出来なかったでしょう。

が時代の推移とともに御約束の肥後守護職・菊池家衰退( ̄ω ̄A;アセアセ

【肥後へ最初の家督介入】
大友家が菊池家の家督に介入したのは1505年の事です。

大友義長は縁戚である阿蘇惟長を菊池当主として送り込んだのですが、
菊池三家老(城・赤星・隈部)が従わずo( ̄Д ̄θ★ケリッ!

阿蘇惟長が出戻ったせいで阿蘇氏宗家が一時期二系統に分裂します^^;

【肥後へ二度目の家督介入】
空位になった菊池当主に、菊池庶流託摩氏から武包が当主として送り込まれた。

これは最後の菊池当主である義武が元服するまでの仮の措置でした。

1520年に義武が15歳で元服すると武包は家督を譲っています。
(というか譲らされたが正解かも^^;)

【大友に対する最初の肥後国謀反】

1523年、大友の介入を嫌った肥後国人が前当主・武包を担いで蜂起。

リベンジは失敗し、武包は肥前へ亡命、さらに島原へと行き、1532年2月13日に死去した。

【大友に対する2度目の肥後国謀反】

1534年、大友が送り込んだ菊池当主・義武が自立を望んで挙兵。

この時は義武が大内義隆とタッグを組んでた為に「大内VS大友・勢場ヶ原の戦い」にまで発展した。

肥後鎮圧のために大友本軍は出陣しており、留守兵が大内と激突。

総大将討死という事態にまでなりつつも、何とか大内勢を撃退した。

この事態に流石の大友家も「肥後と北九州の二兎を追う」を断念。
大内義隆と和睦し、北九州から撤退、少弐氏への支援から手を引いた。

謀反鎮圧後に肥後守護職は大友義鑑が補任。
肥後支配の大義名分は大友のものとなる。

【大友に対する3度目の肥後国謀反】

1550年、大友義鑑が御家騒動で死ぬと、菊池義武がリベンジのために再挙兵。

ですが義武本人が肥後国人の衆望を得ることが出来ず、結局は鎮圧されました。

肥後国人にとっては、義武だろうが義鎮だろうが、しょせん大友同士の揉め事ですから^^;

大友義鎮は謀反鎮圧に功績のあった大将・小原鑑元を肥後方分に任じた
※「方分」は大友独自の地位で、ほうぶんorかたわけ、と読み方もハッキリしていない。
職分も研究者によって解釈が微妙に違うんだけど、室町幕府でいうと守護代に相当する役目らしく、
一地方行政官とはいえ権限は「行政・司法・警察」の全てで大きい。
大友家では肥後国人衆に対し「小原鑑元の寄子(よりこ)として、その命に従うように」と通達している。

だが、もはや遅かった・・・肥後国のうち、南肥後三郡(水俣・八代・球磨)の相良家が既に戦国大名として自立。
相良晴広は独立した勢力として、大友からの「菊池義武の身柄引き渡し要求」を最後まで拒み抜いた。
相良家を従わせる事が出来ず、止む無く大友家では偽りの和睦案で義武を釣って自害に追い込むという、小細工をする羽目になる。
しかも、その後に相良家へ「義鎮は何も知りませんでした。」と言い訳までしている。

この時点で、大友の肥後統一は頓挫しており、残るは北肥後だけだったのだが、
それは・またの話 by^-^sio

【肥後の名門、菊池義武の最期・終】相良氏、戦国名君編17

謀反で揉めた叔父を偽りの和睦案で誘き寄せて始末する。

それは、かつて相良晴広の義父が用いた手法だ。

大友義鎮の和睦案を承諾し豊後へ帰参する。
という菊池義武の言葉を聞いた時に、相良晴広の脳内には「罠」と浮かんだ事だろう。

だからといって義武の行動を止めなきゃならない理由も確証も晴広にあるわけじゃない。

罠かどうかは、豊後へ行けば解る。
義武が生き残れるかどうか、後は本人の天運次第なのだ。


相良晴広は戦国人らしく、自分の胸中と折り合いをつけたに違いなく、
相良が義武に対し「親切心」を発揮したのは、義武の天運に対し同情した後からだろう。

何故なら、死んでも生きても八代を出さえすれば、
菊池義武は相良家にとり人畜無害な存在になるからです。

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

菊池義武(入道して道誾)が、甥である大友義鎮(後の宗麟)の和睦案を受け入れる気持ちになったのは、
流浪生活への疲れもあっただろう。

が、同年8月に大友義鎮が肥後守護職に就任した事で、何より心が折れたのではないだろうか。

肥後守護職「だった」というのは、義武再起の拠り所だったはずですから。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

八代日記には義鎮就任後においても義武の事を時折、
「屋形さま(国主・守護職に対する特別な呼称)」と記載しています。

大友義鎮が肥後守護職になるって事は、室町幕府体制における形式では相良家の主君になるって事です。

アンビリーバボー~相良家の南肥後三郡は既に大友から独立した存在です。
今さら肥後守護職になるのは大友の勝手で、相良は自分の主君だなんて考えてもいないはず。

そのあたりのムカつきが、義武をあえて「屋形さま」と書いているように感じました。
(だって書いてる当時は日記だから、誰かに読まれるのは想定してないもん)
(もしくは義鎮就任後でも、相良家中では義武を「屋形さま」と呼んでた可能性大)

1554年(天文23)11月3日、屋形さまニ豊州ヨリ被遣候河尻知行として、屋形御人数河尻ニ行候

場所がイマイチ不明なんですが、とにかく大友から河尻って土地が与えられる事になり、
菊池側から家臣が先行したようです。

同3日「屋形御料人さま、晴廣さまノ大方ニ御申請候、一夜御ままり(「とまり」か?)候、大方様ヨリ御料人さまへ御きせ候分、したてきる物一、うす板二ツ、其外ニ一ツ、以上四、又鳥目十二貫ハあくる日ニ御持候、大方ヨリ御女房衆両人御礼ニ参候」

大方というのは相良晴広正室の内城の事と思われます。
義武の妻と交流があったようで、出発前の支度を用立てたみたいです。

ですが、結局は義武の妻は豊後行きに同行しませんでした。

実は大友と相良の間で「引き渡せ」「(´・д・`)ヤダ」の使者往来が頻繁だった事で、
「戦になるんじゃ・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル」って噂が立ってたんです。

その噂を慮った義武の方で、自分の妻と二男則直を相良家へ託し、自身と嫡男を伴い出立しました。

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

同月7日「道誾さま上国ノ御かといて、妙見ニ御参候て、それより成願寺に御出候、さやうニ候て、又 天福寺ニ御出候て、十五日壬子豊州のことく御行候、晴廣さま・頼興さまハ成願寺ノ前ニテ御暇乞候、御料人さま同前ニ豊州ニ御登候」

相良晴広と実父・上村頼興が7日の成願寺参詣において、義武と最期の別れをしています。

「暇乞い」って記述があるので、相良家では義武に対し最後まで家臣の礼を持って接していたようです。

落ち目の菊池義武にとって、相良家での処遇は晩年のささやかな慰めだったでしょう(´;ω;`)ウッ

義武と嫡男が大友の軍勢に取り囲まれ自害したのは、僅か5日後の20日です。

相良家が知ったのは大友家から使者が来た12月5日。
「豊州ヨリ飛脚 八代ニ被遣候、道誾さま御生害、(大友)義鎮さま御存知なきよし候」

大友義鎮は義武自害には関与してなかったんや~~~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮
と相良へ伝えてますが、ちょっと信じられないなぁ~~^^;

冒頭の前歴がある相良家なら、なおさら信じられなかったと思うが、そこは外交なんで突っ込みません。

相良に預けられた義武次男ですが、御家再興を願ったものの当然果たされるわけもなく( ̄ω ̄A;アセアセ
そのまま相良家臣となり晴広の孫である頼房の頃には、相良家重臣として菊池家は残りました。

政治的亡命者や捕虜など、預かった以上は最後まで面倒を見る。
それもまた戦国大名の度量の一つです^-^
この信義があるからこそ、家臣&配下国人が自家の命運を預けて戦ってくれる。

だから菊池義武を大友に引き渡さない、
という態度は相良家が戦国大名である為に譲れない一線だったんです。

さて大友は大友で、肥後支配は長年の宿願だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

【肥後の名門、菊池義武の最期・四】相良氏、戦国名君編16

1551年(天文20)7月26日「義武御門出と聞得候」、
同年8月4日「義武国中ニ御上候とて、火色ハマ伊倉ニ見え候」


八代日記・・・8月4日が暗号な件・・・il||li _| ̄|○ il||l

どうやら新天地?を求めて相良の元を離れたらしい。

しばらく義武に関する記述が八代日記から途絶えてます。

相良家にしても義武が自分から出る分には、引き止める理由ないですし^^;

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

次に八代日記に出るのは天文23年ですが、義武は義綱に改名したようです。
更に入道したので「道誾」と表記が変化します。

お気づきの方もいるかもですが、天文23年は義武が死ぬ年です。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

天文23年3月12日「屋形義綱 求麻ニ御上候、今日久木野ヘ、夫(ソレ)ヨリ原田御着候、御落髪而、御法名 笑(原文は口偏に「笑」)屋道誾 と申候、永国寺御所望候、廿二日ニ佐敷のことく御下候て、やかて水俣ふくろの如く御出候、求麻ニ登候事ハ、日州のことく御出あるへきためニ候へとも、真幸こえとも米良越も事成申さず候て、もとのことくふくろニ御出候」

日向か薩摩に亡命しようとしたけど果たせなかった。
とウィキペディアなどにある話部分が記録されています。

1551年に大内義隆が謀反で殺されずにいたら、菊池義武の運命も違っていたかもです。

えっと(入道したから)永国寺が欲しいの (人´∀`).☆.。.:*・
って要求するあたり居候の慎ましさがない・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
とにかく相良に対しては昔通り「屋形(肥後守護職)」として振る舞ってた感があります^^;

肥後守護職は大友義鑑死後は空位のままなので、義武最後のプライドだったかもしれません。

5月に入ると「豊州からの使僧」との遣り取りが頻繁に出てきます。

豊州・・・すなわち大友家からの使いです。

大友義鎮は、叔父にあたる菊池義武が再び相良家の保護下に入った情報をキャッチすると、
「引き渡し要請」をしてたんです。

もちろん相良家では拒否。
誰を保護しようと大友家に干渉される筋合いじゃありません。
大友幕下につくわけじゃないのに、何で相良が従う必要があるのでしょう(`・ω・´)キリッ

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

同年10月11日「道誾御父子 水俣ヨリ八代ニ御登候、道誾さまハ天福寺ニ御座、則朝(菊池則直?)さまハ光勝寺ニ御宿にて候」

菊池義武が息子を伴い水俣から八代へ移動。

11月1日「豊州の三伏(使)、屋形さまニ始テ御目ニかゝられ候、道誾さまも彼三人ノ小宿ニ御光義にて候、則朝さま御対面なく候」

豊州、、大友からの使者に初めて対面したとあるので、
大友義鎮が偽りの和睦案を提示したのは、まさにこの時だったようです。

おそらくしかるべき知行地を与えるとかなんとか、囁いたのでしょう。

これを承諾した時に菊池義武の運命は定まったのだが、それは・またの話 by^-^sio

【肥後の名門、菊池義武の最期・参】相良氏、戦国名君編15

大友家が世代交代したので、脳内整理^^/

1550年「二階崩れの変」で襲われて数日後死亡したのが20代目・大友義鑑。
同年、肥後で謀反を起こしたのは、元肥後守護職にして亡き義鑑実弟・菊池義武。
同年、亡き父の跡を継ぎ21代目当主となったのが、大友義鎮・・後の宗麟。

叔父にあたる菊池義武の謀反鎮圧後、大友家では論功行賞が行われ、
討伐軍大将・小原鑑元が肥後方分(大友用語で守護代のようなもの)となった。

尚、義鑑死亡により「肥後守護職」の地位は現在空位である。

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

北肥後の謀反にかこつけて、名和から豊福城をゲッツした相良晴広。
目的を達したので菊池義武に利用価値はないはずだが、相良家では彼の亡命を受け入れた。

色々考察したんだが、亡命受け入れは「単純に頼られたから」じゃないか?という発想に至った^^;
戦国大名というのはヨーロッパの小国のように、一種独立国家のようなものです。
室町幕府が衰退してるので、それぞれの地域・地方における「公儀」の役割を戦国大名が果たしています。
配下の国人たちは家督問題や領地問題で揉めると、所属する戦国大名の裁定を仰ぐわけです。
従って「公儀権確立」は、戦国大名が戦国大名である為に、とってもとっても重要なんです(`・ω・´)キリッ

で、「独立国家」だから「政治犯亡命受け入れ」も有りでしょう^^b

戦国大名にとって「頼られる」ってことは、ある意味ステータスであり「力の象徴」です。
亡命相手が大物であればあるほど、周囲が相良家を見る威望がグレードアップで、
敵対関係の両者仲介が出来れば外交上手腕の評価もageage

相良家では菊池義武を丁重に迎い入れ(形式上は元主君)、
島津日新斎(四兄弟祖父)を通じ、大友義鎮と菊池義武の仲を取り持とうとしたんですが、大友義鎮が拒否o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

八代日記によると1551年(天文20)1月28日と2月15日にも、
大友家から相良家の元へ使者が訪問してるんですが、いろいろ不首尾だったようです。

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

戦国大名に「自分は戦国大名だ」って認識はないでしょう。
位置づけするのは歴史の流れを知ってる我々後世の人間です。

「自分の配下になる領主」か「影響下にある同盟国」か「別個の独立した存在」なのか、
それが決まるのは、戦だったり外交交渉における感触で掴む、、、まさに真剣勝負の世界。

大友義鎮は、大友家当主の意向として政治犯・菊池義武の引き渡しを相良家に要求してました。

ですが、相良家は義鎮の申し出を拒否。
菊池義武を「元の御屋形様・・・客人マレビト」として遇し続けました。

南肥後三郡を領する相良家は、大友家の配下領主じゃない。
「引き渡せ」「はい、どうぞ」と一度でも従えば、この先ずっと外交上で大友が上位って態度で出てくる。

「相良家は大友支配から独立した存在」だって事を新当主・義鎮に認識させるためには、菊池義武を大友家に引き渡してはならない!

相良の面子を潰し、曲げて引き渡しを要求するならば、
大友サイドは領地割譲、軍事的支援、とにかく何らかのメリットを相良に提示すべき。

もちろん大友義鎮は、相良に譲歩なんて事したくない~~
こっちはこっちでキング大友の威信に関わる^^;

大友と相良の駆け引きが続くなかで、
肝心の菊池義武は八代にジッとしておらずウロウロしてたのだが、それは・またの話 by^-^sio
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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