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【最後の清算】地図から見た少弐と龍造寺・了

素人の拙い考察に長々御付き合い頂きありがとうございます^-^
さて、今回がラストということで、話は少弐冬尚死後になります。

少弐冬尚は龍造寺隆信の攻撃により、永禄2年(1559年)に勢福寺城で自害しました。
が、完全に滅びたわけではなく亡き冬尚実弟・政興を少弐家臣が担ぎ出し抵抗を続けていました。

シオ考察では、隆信が「主殺し」の誹りを受けるのを危惧したと推測してました。

少弐冬尚と馬場頼周が有馬と組んで、龍造寺一門を抹殺した。
その衝撃的ニュースのインパクトで、世評は龍造寺家に同情的。
少弐冬尚を討った事は「仇討」と認識されていたのでしょうか、龍造寺に対し非難の声は今のところありません。

一方、少弐冬尚に対し有馬と組んだ事に対する誹謗の声も・・・イマイチない?感じ?じゃね?
本来ならば少弐冬尚に向けられるであろう「同盟裏切り」に対しての罵倒は、馬場頼周が全て引き受けて墓まで持って行きました。
そういう意味で、馬場頼周は賢臣ではなかったけれど、忠臣であった事だけは・・・真実だったと思います。

人物・馬場頼周 馬場頼周・暗黒面

僧侶出身で教養のある隆信は、今現在でなく後世出るであろう「少弐に対する感謝の声」を恐れたと思います。
時が立ち人心が落ち着けば、「少弐の殿さまは良い事もしてくれたでつ(*´ー`)」と、懐かしむ声が必ず出てきます。
それが証拠に、昭和になってから与賀神社に境内社として少弐神社が祀られているじゃないですか。

龍造寺隆信は、本拠地から数百メートルしか離れてない与賀郷から「少弐の痕跡」を完全に消し去る事を決意した。

永禄6年(1563年)
4月1日、空は闇の様な曇天となり、雷電夥(おびただ)しく、拳大の雹が降り、人馬が数多殺された。
同月2日、九重の塔が炎上する。(出典:北肥戦誌)


旧暦4月は暦上では初夏とされていました。
新暦に換算しても5月です。そんな時節にコブシくらいの雹~~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮
こりゃ頭とかに、直撃されたら死ぬわ~~(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
とどめが「九重の塔(肥前国分寺)」炎上。

龍造寺隆信は、この天災を契機に龍造寺家鎮護を目的とした龍泰寺(佐賀市赤松町)を建立します。
その龍泰寺こそ、少弐氏与賀城のあった場所そのものなんです。


由緒によると「隆信が少弐氏の城跡(与賀城)を選んだ」とあるので、あえてソコにしたんです。
龍泰寺建立には1565年説もあるんですが、これは少弐政興の御家再興が潰えた時期がハッキリしないせいだと思います。
自分はタイミング的に天災があった1563年だと思います。
佐賀県文化庁関連HPも、1563年になってるし(*´ー`)

与賀城は完全に破却され遺構はゼロ。
よしんばあったとしても、その上に龍泰寺がある限り、発掘は不可能です。( ̄ω ̄A;アセアセ
敷地内墓地には龍造寺関連だけじゃなく、大隈重信公の墓もあるし~~無っ理~~~( ̄ω ̄A;アセアセ

江戸期に書かれた北肥戦誌・・・自分の手持ちデータは全文じゃないんですが、その中には与賀城の記述はありません。
隆信の少弐痕跡隠しが完璧で、江戸時代には人々の記憶から完全に消えてたと思われます。
自分が与賀城と少弐神社を知ったのは与賀神社を調べたからです。
逆に調べなければ、今も知らないままだったでしょう。

おそらく与賀神社所蔵の文書に、少弐政資の業績を記したものがあったと思います。
与賀神社は、「与賀郷鎮護宮」で与賀だけでなく佐賀郡全体から尊崇されていた神社です。
さすがの龍造寺隆信も、与賀神社内にある少弐寄進のアレヤコレヤには手出し出来なかったみたいですね^^;

ちなみに龍泰寺は曹洞宗で、隆信が住持だった宝琳院は天台宗。
なんで同じにしなかったか~というと逸話があります。

天文16年頃、円蔵院にある豪覚和尚(隆信の師匠)の石塔が、夜になると怪火を出すとの評判が立った。
数多くの名僧が経を唱えて御霊を慰めようとしましたが、一向に効果がない。
そして8月12日、曹洞宗龍雲寺の大用和尚にも依頼があり、大用和尚も石塔へ向かい念仏を唱え、
更に「種々の幻化は覚心より出ず、即今幻尽き、覚尽くる時如何、自ら代って曰く、薪尽き火滅す」と唱え、
供の僧が続いて「火を焼く火 杖の如く、杖も亦無用」
と言い杖を投げ付けると、怪火は消え、以後は出なくなったとか。
これより隆信は天台宗から曹洞宗へ帰依する様になったそうです。


このシリーズの前半に出てた「龍造寺の龍造寺による龍造寺の為の宝琳院」ですが、江戸期に寂びれました。
江戸初期・宝琳院住職が龍造寺隆信の曾孫で、江戸幕府に龍造寺再興を訴え出て大騒ぎになり会津に預けられた例の人だからです( ̄ω ̄A;アセアセ
龍造寺一門から宝琳院は見放され、鍋島家の援助で何とか続いてたそうな^^;

龍泰寺にあった龍造寺家の墓は、後に鍋島様の高伝寺に移り、龍造寺一門で残っているのは一家だけだそうです。
佐賀市内仏閣は「大人の事情」がいっぱいに・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

さて、オチがついたところで、再び龍造寺隆信編へ戻りたいと思います。
隆信排斥派を内部に抱え波乱の宗家当主就任でしたが、それは・またの話 by^-^sio
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【アウェーとオーディエンス】地図から見た少弐と龍造寺・九

龍造寺排除を決意した少弐冬尚は、龍造寺に偽りの有馬討伐を命じる。
大内軍名将・陶興房に華麗な連勝記録を出した龍造寺だが、相手が有馬だと家兼の代では一度も勝利したことはない。
陶興房にとって、田手畷はアウェー(敵地)でした。
同じように、龍造寺勢が有馬と戦った藤津は、龍造寺勢にとってのアウェーなんです。
地図・肥前全体

佐賀県藤津郡で、この地図だと多良岳から有明海に面した地域。有馬勢力エリアです。
とうぜんオーディエンス(地元領民)に対しても油断できません。

アウェーで勝利を治めるには、オーディエンスも心が折れるほどの大軍で圧倒しなければ難しい。
少なくとも1~2万の兵力が必要で、当時の龍造寺には未だ無理です。
それでも戦わなきゃならないのは、小城郡・佐賀郡の国人領主にとって、有馬の脅威が現実のものだからです。

少弐冬尚はメイン拠点が神埼郡なので、有馬の脅威にピンときてなかったんじゃないでしょうか。
そして少弐が肥前に土着しなかったのは、良くも悪くも少弐を支援する一門衆が主家をガッチリガードしてたのが大きいでしょう。
少弐冬尚は幼少期から「大宰府が本貫地」「肥前にいるのは一時のこと、大宰府に還るのが本筋」
と繰り返し繰り返し刷り込まれていたはずです。
少弐冬尚の脳内には、まだ見ぬ大宰府に少弐の旗印がはためく姿だけがあり、肥前を故郷・故地という感覚は薄かったと思う。
肥前を愛し肥前の民を慈しむ心があれば、龍造寺(地元勢力)潰しに、有馬(地元の敵)を招きよせるという愚かな事は思いつきません(´;ω;`)ウッ

家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

これは少弐冬尚を補佐した馬場頼周の器量の限界もあります。
有馬と組むことの影響性を配慮するだけの大局観が、気の毒ですが馬場には欠落してるんです ショボーン..._φ(・ω・` )

水ケ江城を囲んだのは、有馬、松浦勢、少弐を含め19勢で兵数およそ2~3万。
予想外の裏切りに剛忠(家兼)も驚いたが、与賀オーディエンス(領民)は更に驚いた事だろう。

前節でオーディエンスの心を折るには、最低でも1~2万の兵力と記しました。
与賀領民も水ケ江を囲んだ2~3万の兵力を前に心が折れたでつ(´;ω;`)ウッ
何度も言ってるが、水ケ江城は与賀郷の数百メートル近所。
与賀領民は、自分の殿さまだと思っていた少弐が、仲良く?敵の有馬と馬を揃えて行軍する姿を目の当たりにしたんです。

これも何度も言ってますが、与賀郷は鎌倉時代に少弐氏が地頭だった土地です。
鎌倉で九州といったら元寇。
少弐氏は大陸から来た侵略者と勇敢に戦った英雄。
与賀の領民たちは、少弐の活躍を源平合戦を語るように語ってたはずです。
そういう慣習が途切れてたとしても、あとから与賀に来た少弐政資が少弐の栄光アピールしてるはず。
さらに鎮護宮・与賀神社も立派に荘厳し、開拓開墾開港への大量資本投入です。

衰退した少弐は与賀を離れてしまったので、現実的対応として近所の龍造寺を頼る事にした。
でもだからといって与賀郷の人々は、少弐ファンであることを止めてなかったでしょう。
少弐を偲ぶ与賀城が残ってるんですから。

これは仮定で、まず無理な話ですが、少弐が大宰府を諦め与賀の小領主として腰を据えたら、喜んで与賀郷の人々は少弐氏を受け入れ守り続けたと思います。
それほどのテコ入れを、少弐は業績として与賀郷に残したからです。

だが、敵の敵は味方になることはあっても、敵と組んだ味方は敵にしかなりません。
与賀が思うほど少弐冬尚は与賀を思っていない。
大宰府奪還までの仮の宿扱いなのだ・・・と、与賀領民は最も最悪な形で思い知らされた。

家紋・肥前千葉 肥前千葉家紋ロゴ

少弐冬尚は更に与賀の人々を失望させました。
剛忠(家兼)を筑後へ追いやった後、少弐冬尚は与賀城には見向きもせずに、小城郡牛頭山城に入ってしまったからです。
与賀城のことを忘れてたんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

小城郡牛頭山城~現代における全国的知名度は、あんまり高いとは言えないでしょう。
牛頭山城を喩えるなら「大友における府内」「北条における小田原城」「甲斐武田家の躑躅ヶ館」
てな感じで「肥前国における王都」という感じでした。

自ら輝くだけの力がない月(少弐)は、肥前へ号令かけるために太陽(牛頭山城)の権威を必要としてたんです。
不味かったのは、その手段として有馬と組んで牛頭山城の本来の主である西千葉当主との同盟を反故にし、西千葉当主を小城郡から追い出した事です( ̄ω ̄A;アセアセ
これで少弐冬尚は小城郡オーディエンスを、完全に敵に回しちゃいました( ̄ω ̄A;アセアセ

西千葉当主が剛忠(家兼)と連携組んでリベンジに立ち上がった時、小城郡領民は手に手に鍬鍬を持って加勢し、共に少弐勢&馬場頼周を小城郡から追い出してます。

剛忠(家兼)が筑後一つ木から肥前へと戻った時、飯盛城の石井氏が周辺豪族を集めて龍造寺勢を受け入れました。
その時、川副・与賀のオーディエンス(領民)たちも、こぞって龍造寺勢を出迎えに沿岸に集ったと言われています。
剛忠(家兼)の死後、後継者となった龍造寺隆信は、与賀から少弐の色を完全に落とすため、更に布石を打つのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【龍造寺にイエローカード】地図から見た少弐と龍造寺・八

実の所、与賀と川副の豪族が龍造寺に靡いたのは、剛忠(家兼)が手なずける以前に、少弐自身(と主に馬場)が招いた割合が大きい。

家紋・肥前千葉 肥前千葉家紋ロゴ

話は1524年に遡る。
「西千葉が大内に内通している」と噂が広まり、それを聞きつけた暴走忠臣・馬場頼周。
「噂は間違いなし!」「おのれ、西千葉!こぉの~裏切り者!天誅!o( ̄Д ̄θ★ケリッ!」
と、時の西千葉当主を小城郡・晴気城から追い出してしまった^^;

元から裏切っていたのか、馬場に追い出されたからなのか、とにかく西千葉は数年間浪人し大内サイドについた。
結果、物凄く困ったのが与賀&川副の豪族たち。
そもそも彼等は西千葉(旧肥前千葉氏)の被官で、少弐と西千葉が縁戚として一体化したので、そのまま少弐与力へとスライドしてたんです。
それが主君同士で仲間割れしちゃった( ̄ω ̄A;アセアセ

東(大内サイド)と西(少弐サイド)の最前線・小城郡は晴気城には少弐のアフターケアがあるので無問題。
だが戦略的価値が低い与賀・川副にはアフター無し。
かつては与賀が少弐の拠点だったが、守りに不向きなので神埼に移動してしまい、与賀・川副は実質放置状態。
文字通り与賀・川副は(主君が)誰もいなくなった ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
主君・無住の地は、よほどの防衛力を保持してない限り、他国や夜盗などの草刈り場になる (((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

まず与賀は飯盛城・石井氏と隣の本庄・鍋島氏が相談~(*´・д・)(・д・`*)ヒソヒソ
龍造寺へ与力する事によって、その保護下に入る事にした。
西千葉は田手畷の戦い(1530年)で、少弐サイドへ戻り小城郡に帰還~元の鞘に収まった。
だが少弐も西千葉もアテならない事に気付いてしまった与賀・川副の豪族たちは、龍造寺を頼みとするようになった・・・という側面があったのです。

家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

大内の攻勢に押された少弐資元は「龍造寺家兼の仲介で」大内と和睦しました。
が、これが実は偽りの和睦。
大内義隆は太宰少弐を始末すべく、それより上の官位「太宰大弐」を狙って朝廷に猛烈アピールなぅ。
和睦は、そのための時間稼ぎだったんです。

1535年、大内は大宰府駐屯の陶興房に命じて、少弐の領地を没収した。
この時に龍造寺家兼が「大内に寝返ってた」とするサイトを見かけるが、出典や具体的な話は不明です。
ただ少弐の領地が没収された時に、佐賀郡の川副や与賀も没収されてる・・・はず。たぶん。
なんですが、仲介の労をとった龍造寺の川副にあった領地は、無傷だった可能性はあります。


少弐が龍造寺の村中城から数百メートルしか離れてない場所に来たのは、そもそも「龍造寺を頼って来た」事からだそうです。
それが少弐資元の祖父にあたる少弐教頼のこと。
年代的に言うと応仁の乱が始まった翌年に、教頼は大内に敗れて自害してます。

少弐教頼は生前、ちょいちょい肥前に亡命してたそうで、その避難先として「龍造寺を頼り」数百メートル先、御近所の与賀に居館を造ってました。
与賀は鎌倉時代に少弐が地頭だったという地縁があったからです。

が、教頼の子・政資の時に立場が逆転します。
少弐政資は、朝鮮貿易セレブ対馬・宗氏の資金力を背景に、与賀神社を中興。
居館も与賀城へとハイパーリフォーム。与賀領内も開拓開墾され、入り江は港にグレードアップ。
と、すごい高度成長期in与賀~って状態。
急速な少弐再興フィーバーに、しつこいが数百メートル御近所の龍造寺は完全に圧迫されていたと思います。

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

それが、いつものパターンで少弐が没落し、あれほどテコ入れしてた与賀を防備が弱いとアッサリ離れ、少弐は神埼郡へと去ってしまった。
龍造寺にとって、与賀城は少弐の「( ̄Д ̄θ★足跡」
少弐(ゾンビ)の往時を残す亡霊のようなものです。

領地を拝領し、主君と被官の関係である以上、放置に近い状態であっても「主君の城」に手出しは出来ません。
そのくせ、そこを他勢力に獲られでもしたら、半径数百メートル範囲内の龍造寺が脅かされる。
こんなに始末に困る&メンドクサイ城は滅多にないでしょう。


ここから先は考察というより、シオの勝手な憶測です。


大内義隆が少弐領地を没収した時、大内に接収された(はずの)与賀城は、御近所で仲介の労をとった龍造寺に預けられたのではないでしょうか。

裏切り・不忠の誹りを回避しつつ、合法的に与賀城を手に入れるチャンスを龍造寺家兼は待ってたと思うんです。
手に入れたからといって、何かする訳ではないでしょう。
歩いて行ける距離に城が何個もあってはコストがかかるだけです。
お互い平坦地にあるので、軍事的な連携する必然性も皆無なほどの御近所キャッスル(城郭)なんです。

ただ、放置してると(龍造寺にとって)危険なので、(龍造寺が)管理しておきたかった・・と思うのです。
シオ推測を証明する術はありません。
少弐資元は、領地没シュートの翌年に大内の攻撃によって自害しています。

佐賀郡で少弐より人望・衆望を得た龍造寺を危険視し、イエローカードを出したのは資元の子・冬尚。
おそらく冬尚は、与賀城に入った事は一度もないだろう。
イエローカードを出された龍造寺を待っているのは、オーディエンスが全て敵のアウェーだったのだが、それは・またの話 by^-^sio



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【さまよえる少弐】地図から見た少弐と龍造寺・七

少弐政資が自害した専称寺には「核割れ梅(たね割れ梅)」と呼ばれる梅の木がある。

大内軍に追われた少弐政資は、若い妻・桔梗の父である多久氏のいる梶峰城を頼ったのだが、そこにも既に大内の手が回っていた。
多久は大内から「少弐を匿えば、もろとも攻撃し滅ぼす」と最後通牒が来ていたのだ。
やむなく多久は門前に現れた少弐政資に、自害を促した。
命運が尽きたのを悟った少弐政資は、近くの専称寺(多久市)で切腹した。

明応6年(1497年)4月19日。享年57歳。
辞世の句「花の散る思へば風の科(とが)ならず 時至りぬる春の夕暮れ」

切腹の直前に少弐政資は、腰の袋から梅干しを取り出しカリカリと噛み砕いた種の核を地に叩き付け、
「心あらば、我が身代わりとなって萌え出で、春ごとに花を咲かせよ」平たい石に腰を下ろすと見事に腹をかっさばき、返す刃で喉笛を貫き自刃した。
翌年の春、不思議にも梅の若芽が芽吹き、年ごとに成長した。初夏には青い実を付けたが、梅の実には初めから核が割れているのも混じっていて、いつの頃からか核割れ梅(さねわれ-)と呼ばれるようになった。地元の人は「たね割れ梅」と言っている。(一部ウィキペディアより抜粋)

野暮なウンチクでなんですが、旧暦で4月というと暦上での季節感だと「初夏」なんですっ( ゚д゚)ンマッ!!
東北だろうが、実際の気温が何度だろうが、ガン無視で、暦では初夏^^;
5月に桜咲くシオ地方では、ビックリの季節感( ̄ω ̄A;アセアセ
名門当主らしく、歌上手の風流人だった少弐政資が、春に拘ったのは4月が暦上では初夏だったからでしょう。 (゜-Å) ホロリ
家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

さて、前回ラストで「佐賀郡の豪族たちが龍造寺に靡き始めてる事に、すぐは気づかなかった」と書きました。
が、それは少弐資元(政資ジュニア)が「残念な器量」という意味ではないのです。
少弐が、御当地情勢に疎くなったのは、与賀郷を離れてしまったからです。

地形を見れば一目瞭然ですが、龍造寺の村中城・水ケ江城、そして与賀城のある場所は平坦地。
大軍に囲まれたら3日で落城するしかない。
え?なんで3日間かですって?
1日目・大軍に城兵の心が折れる⇒2日目・重臣連中が「もう無理と相談」⇒3日目・家臣一同が主君に降伏を迫って落城・・・てな感じ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

少弐は、守りに不向きな与賀城を離れ、神埼郡へと拠点を移し始めます。
そして、それが少弐(他国者)と龍造寺(土着勢力)の最大の違いであり、佐賀郡の豪族たちが龍造寺に靡き始めた要因です。

少弐にとって肥前は仮の宿。危険が迫れば違う土地へとスタコラサッサ。
蓮池城、晴気城、三根の西島城、多久の梶峰城、神埼の勢福寺城・・・さまよえるゾンビ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

でも龍造寺は動けません。
隣にVIPが城作っても、そのせいで大内勢と戦う羽目になっても、もともとが守りに不向きな土地でも、離れるわけにはいかない。
なぜなら、そこが龍造寺の本貫地だからです。

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

村中と水ケ江を捨てたら、龍造寺が龍造寺でなくなります。
そして同じ事が少弐にも言えます。
少弐が本貫地である大宰府奪還を諦めたら、少弐ではいられなくなる。
そこは譲れない一線なんです。

でも与賀・川副の豪族たちにとって、事態は切実です。
少弐政資が開墾・開拓・開港してくれたお蔭で、一時的に彼らは豊かになったでしょう。
が、それゆえに他から狙われるリスクも増えました。
少弐が「殿様」として腰を据えてくれないのであれば、新たな保護者を求めるのは当然の帰結です。

実の所、自分がメイン出典にしている北肥戦誌(少弐・龍造寺・鍋島関連のみ抜粋)に、与賀城は登場しません。
別のことを調べるつもりで地理関連から入り、与賀神社を調べて初めて与賀城の存在に気づきました。
実際のところ、少弐氏が与賀郷に拠点を置いた期間は20年そこそこだと思います。
にしても、与賀郷に少弐の痕跡が少ないのには「大人の事情」があるのですが、それは・またの話 by^-^sio

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【飯盛城石井氏は、海岸警備なぅ】地図から見た少弐と龍造寺・禄

石井家が正式に龍造寺配下になった時期は調べきれませんでした。

ウィキペディアだと「田手畷の戦い(1530年)」に鍋島氏と共に龍造寺に加勢した事になってます。
でも石井忠清の主君が敵だった千葉興常(東千葉初代)になってるんで、いまいち信用できません(大爆
こんな感じで東西千葉が混同されるのが、肥前戦国史の困るところです(*´ー`)ふっ

石井家が龍造寺配下にったのは、石井家5男・兼清の強力なアピールがあったとされています。
龍造寺家兼は、石井家が配下になったのを非常に喜んだそうです。
そして石井家の総意をまとめるキッカケになった石井家5男に、自分の文字・兼を偏諱し「兼清」と名乗らせました。

龍造寺家兼が「ひゃっほーい♪ヽ(*´∀`)ノ」した事には、当然理由があります。
このカテゴリ壱で説明した佐賀県独特の「地名スライド現象」を覚えておいででしょうか?
現代に残る地名が、干拓埋立により戦国時代は位置が違うという、罠?のような現象です。

平成の現代、本庄町鹿子にある石井氏の飯盛城は、場所は同じなのに戦国時代の地名だと与賀郷なんです。
しかも手書き地図にあるように、干拓造成前は海の側でした。

東肥前ぬくもり戦国地図

龍造寺配下になった石井氏は、水ケ江城の出城(支城?)として海岸警備を担当したそうです。

この「海岸警備」というのが曲者です。
ネタだから秘密・・・ではなくて、スペースの関係で描ききれなかった亡き少弐政資が開港した港。
そのうちの今津と相応津が、実は飯盛城の御近所~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮
飯盛城を起点にすると、1km北西にあるのが今津で、1km南西に位置するのが相応津。

海岸警備とは、綺麗に言っただけに過ぎません。
少弐氏蔵入地(直轄地)だった与賀郷の今津と相応津は、石井家が味方になる事によって、龍造寺支配下の港となった・・・!

今宿(川副郷)今津・相応津(与賀郷)が、少弐直轄領だという文献的根拠はシオレベルでは探しきれず、あくまで推測です。
が、港を造る主な目的は、利便性だけでなく、交易による収入と運上金(関税)です。
港や、そこから派生した商都は、時の支配者が必ず真っ先に押さえるので、シオ推測は外れてないと思います。

少弐が肥前国で勢い盛んだった頃、財政基盤の一部だったであろう港。
その財は、少弐の胃袋に入る前に、喉元を龍造寺に抑えられた。


自分の見るところ、龍造寺家兼は慎重な人物です。
だから少弐エリアに、ダイレクトにちょっかい出すような下手はしないと思います。
その代わり、拝領した川副千町を足掛かりに周辺豪族を手なずけ始めてたんでしょう。

大内と戦う事に夢中だった少弐は、佐賀郡の豪族たちが龍造寺に靡き始めてる事に、すぐは気づかなかったんじゃないでしょうか。
亡き少弐政資が定めた「津町(港?)の制令」も、少弐のほうで権益保護を維持するのが難しくなってたはず。
佐賀郡の豪族たちは、どっちにしろ少弐へ与力してくれてるので、パッと見だと区別つきません。
ですが、少弐が佐賀郡豪族を動かすのに、いつの間にやら龍造寺を介さなければ出来なくなってきて、やっと悟ったと思います。

佐賀において龍造寺が台頭するということは、龍造寺が主君である少弐エリアを侵すということです。
龍造寺のした事は、被官の分際で主君の領地を霞め取ろうとする行為で、少弐としては断じて許し難い。
看過できない重要な裏切り行為で、下克上の一種とみなされる動きでしょう。
少弐(主君)と龍造寺(被官)の関係が破綻するのは、時間の問題でした。

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

飯盛城跡、現在は石井家菩提寺となった常照院です。

ちなみに鍋島直茂公が正室・彦鶴姫の元へ通った時に、ロミオよろしく超えた豪は残ってません(残念!
それは・またの話 by^-^sio

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【肥前小田氏の場合】地図から見た少弐と龍造寺・五

これまでの記事は「北肥戦誌」をベースに作成しておりました。
この書庫では、地形・地理から掘り起こした郷土史を切り口に、少弐と龍造寺を記事にしております。
参照サイトは「さがの歴史・文化お宝帳」です。

ただし、素人で道産子のシオでは、現地取材および県保有文献史料を閲覧することができません。
従って、これは考証ではなく、あくまでも考察であるのが前提ですので、そのへんは宜しくお願いします^^

家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

室町時代の色彩を残す与賀神社(国重文指定)の楼門は、少弐政資が与賀神社を中興した際の建造ともいわれている。

居城を増改築し与賀城を築城。与賀郷の開拓・開墾。入り江を改修し今宿・今津・相応津等の開港。

大内に大宰府を追い出され肥前・与賀郷に入った少弐政資。
上記に挙げた与賀における少弐の業績を、支えていたのが対馬・宗氏だ。

朝鮮交易セレブだった対馬・宗氏だが、少弐教頼(ダディ)少弐政資(ジュニア)を支援していた頃は、肝心の朝鮮国とトラブってたそうだ。
おそらく、その打開策として「太宰少弐」のネームバリューが必要だったのだろう。

その宗氏が少弐政資と距離を置き始めたのは、大内家による離間策があったと幾つかのサイトにあったが、具体的な事は判らない。
また宗氏は、少弐政資が肥前千葉の家督に介入する事にも反対だったと言われている。
(ただし宗氏一門が少弐と縁戚関係だったのもあり、宗一門の一部は少弐家臣となった)

少弐政資自身は、宗氏が離れても不安は感じてなかったと思う。

なぜなら少弐のパトロンは宗氏だけでなく大友氏もいたし、肥前千葉氏の家督介入に成功し、肥前国人たちを自分の影響下に置くことが出来た。
さらに今宿・今津・相応津の港から来る運上金(関税)が、少弐の胃袋を満たしていたはずだからだ。

今津・相応津は与賀郷にあり、戦国時代は海沿いで本庄江川の河口港にあたります。
今宿は川副で佐賀江川の起点となる位置です。

東肥前ぬくもり戦国地図

河川が縦横にある佐賀県。
明治以降に開通した鉄道による「陸の輸送」が完成するまで、河川を利用した流通が、物資輸送のメインでした。
特に筑後川の支流になる佐賀江川は、運河として盛んに物資輸送が行われ、届いた荷物は今宿で陸揚げされてたんです。
そして今宿から運ばれた荷物にライフラインを依存していたのが、肥前小田氏の蓮池町です。

これは江戸期の河川流通ルートを参考にしてますが、おそらく戦国時代も同じはずです。
というより少弐が港を造った事により、物資流通ルートが確立したんじゃないでしょうか。
一度ライフラインが出来れば、それが無かった頃には戻れません。
その方がコスト安いし便利だからです。
だが肥前小田氏にとって不味い事に、今宿を有する川副郷に龍造寺領が出来た。

それは「田手畷の戦い」の恩賞として、少弐資元(政資ジュニア)が龍造寺家兼に与えた川副千町です。
いくらなんでも川副千町に今宿は入ってなかったでしょう。
少弐にとって貴重な交易収入源ですから。
もし今宿込の千町なら、少弐資元は脳内花畑です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
ま、流石にそれはないでしょうな ( ゚Д゚)y─┛~~

IF「今宿に陸揚げされた生活物資全般を運ぶためには、龍造寺領(or近所)を通過しなければならなかった」
としたら、肥前小田氏にとって龍造寺は、目障りな存在だった事でしょう。
ただでさえ龍造寺が邪魔だった肥前小田にとって、さらに龍造寺が川副に勢力を広げるのは脅威。

少弐の龍造寺潰しでは、馬場頼周ばかりが注目されます。
ですが、そもそも「龍造寺裏切り」を少弐冬尚に吹き込んだのは、小田資光です。

龍造寺が数百mしか離れてない与賀城が(たぶん絶対に)邪魔だったように。
肥前小田氏にとっても、近所の龍造寺が邪魔だったんです。

後に今宿は佐賀藩祖・鍋島直茂が城下町を形成するにあたり物資輸送拠点として利用されます。
下今宿は、宿場町として大いに賑わったそうです^-^
後年の賑わいから見ると、与賀が拠点だった頃の少弐は財政的に豊かだったと推測できます。
そして、その財は少弐ゾンビ復活力の一部だったと思います。

だがそれも、龍造寺が台頭するまでの事だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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地図から見た少弐と龍造寺・四

前回、少弐は肥前国人に歓迎されてないと書いたが、よくよく、よくよ~~~く調べると政資の頃は違ったようだ。

大内のために大宰府を追われ肥前に入る事になった少弐政資。
「押忍!肥前で勢力広げて巻き返しだ!」
って事で、肥前の民を味方にするため尽力してたみたいなんです。

何回か登場している与賀神社だが、その中にある社・・いわゆる境内社に「少弐神社」がある。
祭神は「少弐政資」
昭和27年に与賀神社と与賀郷の功績を鑑み、祀られた。

少弐神社の由緒によると、与賀に入った少弐政資は、与賀郷の開拓・開墾に尽力し港の整備などなど、民草を慈しみ善政を布いていたそうだ。

龍造寺家「やりづらさ倍増(´;ω;`)ウッ」
大宰府長官が数百メートル近所に城をリフォーム&定住し、善政を布かれたのでは隣は堪らない。
開墾・開拓かぁ~衰退したとはいっても、少弐と龍造寺じゃ資本力が違ったろうなぁ( ̄ω ̄A;アセアセ
龍造寺家の蒙る迷惑度は、自領農民が与賀郷に逃散しないか見張らなきゃならないレベル。

肥前千葉⇒(少弐)⇒龍造寺⇒鍋島 と支配者が目まぐるしく変化した肥前国。

佐賀藩士として生き残った千葉家はともかく、滅びてしまった少弐の「肥前における功績」を辿るのは、専門の郷土史家でないと難しい。
少なくとも「少弐」で検索した程度では、ネット上でHITしない。
自分も地図作りで「地名」を辿って検索してたら、偶然に見つけたんです。

そのため少弐政資が死んだ後に、与賀城がどうなったのか・・・という事すら判然としない。
郷土史を地図から辿っていく限りでは、すぐには破却されてないのは確かで、最終的には龍造寺のものとなっている。
なってはいる・・・が、龍造寺が「いつ与賀城をゲッツした」がシオレベルでは判らない(-ω-;)ウーン

政資が死んだ時に息子・資元は幼く、少弐一門の横岳氏の保護を受け西島城(地図参照)で幼少期を過ごした。

東肥前ぬくもり戦国地図

与賀郷は、少弐にとって「特別な地」だったと思う。
目標は「打倒大内・大宰府奪還」だ。
だが、与賀郷を拠点に~というだけあって神社と城を改修、入江(小津)を改修し港(今宿・今津・相応津等)を開いている。
ということは現在の西与賀町相応津は、海沿いにあったのか__φ(.. ) メモメモ
さらに「法一章5ケ条の津町の制札」を定めるなど、土着しそうな勢いで丹精込めて豪族・民を撫育している。

さらに鎌倉時代に与賀郷地頭だった少弐とは、少弐資能のことだ。
少弐家としては二代目だが、少弐姓を最初に名乗った人物だと言われている。

これは想像になるのだが、少弐が肥前に土着し生き残った場合、肥前における本貫地は、おそらく与賀郷だっただろう。

こういった経緯を見るに、少弐が与賀城(与賀神社込)を簡単に手放すとは考えづらい。
少弐資元が成長し御家再興するまで、少弐一門が城番として預かってたんじゃないかな~と思う。

だが少弐氏が大内に押されてくるにつれ、情勢が変化し始める。
与賀郷の豪族たちが、龍造寺に靡き始めたのだ。
与賀郷の豪族が、龍造寺に一目置くようになったのは、当然「田手畷の戦い(1530年)」(^ -)---☆Wink

剛忠(家兼)の武功に対し、少弐資元は川副荘千町の領地を与えた。
配下として与力していたものの、龍造寺家兼が正式に少弐被官となったのは、この時だ。
そして分家・水ケ江龍造寺が、村中龍造寺宗家を超えた瞬間でもある。

御近所VIP少弐の見えないプレッシャーから、必死に自分の地盤を死守してきた龍造寺家。
少弐の衰退とともに、勢力を拡大していくのだが、それは・またの話 by^-^sio

PS:今までの連載(家兼編)は何だったんだ~~~という突っ込み不可で(-人-)☆彡オネガイ

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地図から見た少弐と龍造寺・参

水ケ江城の築城時期は、ザックリ文明年間とハッキリしていない。

剛忠(家兼)の父・康家の隠居城だったのだが、その康家の生没年が不明な為に築城時期も不明なのだろう。
自分は、康家の隠居と水ケ江築城も、与賀城と関連あるのではないかと推測してました。

村中城・水ケ江城・与賀城は、それぞれ直線距離で1km離れていない(佐賀城の堀を無視した場合)
道路が舗装された現在、三カ所を一日で訪問するのはシオでも楽勝な近さ。

これほどの近さで城を建てられたら、国人の身として少弐へ伺候しないわけに行かない。
伺候といっても、少弐政資に会える訳でなく、龍造寺への対応は少弐家老クラスだったと思う。

ここでハタと困るのは、龍造寺家は代々肥前千葉氏の被官だという事だ。
少弐が来たからと言って、従来の主君である肥前千葉氏を蔑ろには出来ない~~

(-ω-;)ウーン っと悩んだ結果、康家が隠居し水ケ江城へ入る事にしたんじゃないでしょうか。
もしくは元から隠居してたかもですけど。

とにかく隠居の龍造寺康家が従前通り肥前千葉氏へ伺候し、現役当主(or嫡子)である胤家が少弐・与賀城に伺候する・・・という流れまで妄想 考察してた。
と同時に宝琳院を~は、前回考察と同じで。

龍造寺系図①

龍造寺家の困惑は、間もなく解消する。
少弐政資が肥前千葉の家督に介入し、縁戚関係となって両家は実質一体化したからだ。

龍造寺は、今まで通り肥前千葉の被官でいれば、少弐へ与力する事にもなるので「主君二股状態」を回避できる。
が、一つ解決したら、新たな問題発生。
肥前千葉氏が中国地方・ドン大内の介入で、晴気(西)千葉と祇園(東)千葉に分裂したからだ。

ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
てことで龍造寺の方も、剛忠(家兼)が分家を立て、宗家・村中龍造寺と分家・水ケ江龍造寺となった。


戦国時代、親子兄弟が敵味方に分かれて合戦するのは、普通にあることだ。
そして敵味方に分かれる一番の理由は、勝った側に付いた方が生き残り、負けた身内を助命嘆願したりして家を残すためです。

例えとしてあげるなら、一番有名なのは真田家ですな ( ゚Д゚)y─┛~~

龍造寺の宗家と分家が敵味方になる悲劇は、結果としてなかった。
だって剛忠(家兼)がカリスマ支配し、宗家も分家も掌握しちゃってましたからね(^ -)---☆Wink

治まるところに納まったところで、大内に敗れた少弐政資が死んで少弐が没落する ヽ(。_゜)ノ へっ?
少弐の縁戚だった西千葉家も当然衰退。

(系図緑ライン)家和の反対を押し切り、西千葉への肩入れを止めない(系図黒ライン)胤家。
胤家は戦にも敗れ、龍造寺内部からも孤立し、当主(or嫡子)でありながら亡命を余儀なくされる。
代わって当主となったのが家和です。

家紋・竜造寺 竜造寺家紋ロゴ

戦国時代とはいえ「弟が兄を押しのけて家督を継ぐ」というのは「普通じゃない」です。
家中分裂、兄派・弟派で流血するレベル。
剛忠(家兼)が家和派であろう事は、皆様じゅうぶん察しがつくと思います。

で、自分は更に深読みで、いっけん西千葉に肩入れしてる胤家ですが、実は龍造寺家における「少弐支持派」だったんじゃないでしょうか?

それなら少弐が没落した時に、胤家を龍造寺家の総意でo( ̄Д ̄θ★ケリッ!追い出しにかかったのが頷けます。

目と鼻の先に目障りな城を建てやがった・・・ゲホグホ
失礼、少弐は肥前国人にとっては他国人。
大内との争いを肥前に持ち込む禍の元。

肥前の国人は、本音の部分では少弐を受け入れてなかったと思います。
だって少弐は肥前に骨を埋めるつもりはサラサラなくて、肥前国人を利用してるだけですもの。

そして少弐と龍造寺が対立した原因は、御近所すぎる城・与賀城の帰属問題だと思うのだが、それは・またの話 by^-^sio

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地図から見た少弐と龍造寺・弐

少弐政資「少弐氏を一時的に中興するbyウィキペディア」

大内により筑前大宰府から肥前へと入った少弐政資。
彼は肥前国で勢力を広げるために、二つの権威を利用した。
それが「佐賀郡・与賀神社」「小城郡・肥前千葉氏」だ。

少弐政資が肥前・与賀郷に入ったのは、そもそも御先祖が鎌倉時代に地頭だった縁からだろう。
もっとも地頭といっても、少弐は大宰府在だからして、与賀郷に住むようになったのは衰退してからです。

衰退し肥前にチョコチョコ逃げるようになったのは、政資の父・教頼からのこと。
与賀郷には教頼の避難所・・・もとい居館があったんです。

1482年(文明14)少弐政資は元から所縁のあった与賀神社をテコ入れし社殿を再興。
さらに教頼の居館を利用し与賀城を築城、与賀神社を鬼門の鎮護とした。

推測ですが、これは肥前国人にとって「喜ばしい事」と一概には言えなかったんじゃないでしょうか?

東肥前ぬくもり戦国地図
(東肥前戦国(手書きの)ぬくもり地図,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)

与賀神社は鎌倉時代「与賀庄鎮護宮」でした。
従って与賀神社は、少弐「だけ」でなく、与賀郷~佐賀郡一帯の肥前国人たちから、尊崇されていたんです。

それが鎌倉時代は地頭「だった」とはいえ、後から来た少弐の権勢を彩るための一部に与賀神社が組み込まれてしまった。
神事や祭礼には、全て少弐の仕切りが入り、肥前国人たちにとって「迷惑」で「不愉快」だったのでは?


自分は、龍造寺家が宝琳院を作ったのは、少弐が与賀神社を独占した事と無縁ではないと思うのです。
「少弐の鎮護宮」になった与賀神社へ、肥前の豪族たちが以前通り気軽に近づけたでしょうか?
参籠の前後には、少弐政資へ伺候するよう仕向けられたと思います。

与賀城も村中城も水ケ江城も、地図で判るようにメチャクチャ近く、全て現在の佐賀市内に詰まってます。
都会の出勤ラッシュ並みの密集度 ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


15世紀末・・・文明年間の龍造寺氏は、少弐からの圧迫に少しでも距離を置くために「祈祷所・宝琳山」を「恵日山宝琳院」にテコ入れしたと、自分は推測しています。

与賀神社が少弐の権威付けに利用されたから、宝琳院という「龍造寺の龍造寺による龍造寺鎮護のための寺社」を作った。。。。と考察してみる^^b

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

少弐政資が、小城郡・肥前千葉氏の家督に介入したのは、与賀城築城より後、1486年の事です。
政資の実弟・胤資を婿養子として、肥前千葉家に送り込む事に成功しました(=^・ω・^=)v ブイ

与賀神社だけであれば、少弐があれほど肥前に食い込む事は無理だったと思います。
何度か語ってますが、肥前千葉氏は「肥前国主・御屋形様」と尊崇を受けていた家です。

ぶっちゃけ肥前国人の地元感情だと、少弐より肥前千葉の方が偉いんです。
小城だけでなく少なくとも東肥前の国人で「肥前千葉の被官ではなかった国人」は、他国からの流れ者でない限りいないと言っても過言ではないはずです。

あれだけ近い場所にVIPが城を作ったら、誰でもビビります。(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
大内と激しく争い、浮沈が激しく「明日はどっちだの少弐」と(たぶん)距離を置きたかった龍造寺。

だが、少弐と肥前千葉が一体化しては逃れようがありません。
龍造寺は代々、肥前千葉家の被官なんです。
肥前千葉家、最後の姫様「尼日光」からも「力を貸してね^-^」と言われるil||li _| ̄|○ il||l
1490年、少弐政資は大友家からの合力を受けて、西肥前・東肥前を制圧する。

このまま勢力蓄えたら、大宰府奪還も夢じゃないかも~~~
(*´pq`)ウフフ の少弐政資の思惑が狂うのは、翌年と速かった( ̄ω ̄A;アセアセ

1491年、大内義興の支援で東千葉初代・興常が、千葉胤資(少弐実弟)に勝利。
さらに肥前千葉氏の居城・牛頭山城ゲットに成功する。


肥前千葉は晴気城に入り、千葉胤頼は西千葉初代認定。il||li _| ̄|○ il||lコンナハズジャ・・・
肥前千葉氏が、ニ家に分裂したのが誰の目にも明確となる。

剛忠(家兼)が父・康家死後に独立し、龍造寺家が村中宗家と水ケ江分家に別れるのは、
その翌年の1492年の事なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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地図から見た少弐と龍造寺・前篇

もともとは龍造寺隆信編データとして、地理の勉強&各城の位置関係を調べるために、あちこち郷土史を掘り起こしてました。
で、いろいろ集まった結果、記事に出来る状態になったので、記録の意味も込めてアップしたいと思います。^-^

まずはコチラ~方向音痴の道産子シオが艱難辛苦・試行錯誤の末に完成した「戦国時代の東肥前地図」です。

東肥前ぬくもり戦国地図
東肥前(手書きの)ぬくもり戦国地図,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

右上のグレー部分からは筑前・原田氏勢力圏です。
もうちょい上の海岸近くに姪浜城があるんだが、紙が足りなくなって描ききれんかった(爆

調べてるうちに判った(シオ的)トリビア。

( ̄ko ̄)<グレーゾーンの下にある馬場氏の綾部城ですが。。。。。
実は「綾部城」って城はありません。

綾部神社の側に幾つか山城があります。
その複数の城郭郡の総称が、綾部城の正体(大袈裟?)です。

そのうち、遺構が残っているのが「宮山城」「百虎山城」「少弐山城」で、それぞれ「別名・綾部城」です。

少弐一門にして家臣・馬場氏が入ったのが「少弐山城で綾部城」
東肥前19将の一人、綾部鎮幸がいたのが「百虎山城で綾部城」


総称されるだけあって、メチャクチャ近所,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
それぞれ直線距離だと1km以内なんです。
詳細はサイト「城郭放浪記」が詳しいです^-^

上記、三城は遺構が残っているので、地元の郷土史ファンなら知ってる方は知ってる・・・という感じだと思います。
ですが道産子のシオには、ちょっと盲点でした( ̄ω ̄A;アセアセ


さて、ぬくもり地図に話を戻します。

肥前の地形における最大の特徴は、時代によって海岸線が違う事です
干拓埋立による造成前なので、現代より内陸に引っ込んでます。

例えば、現代は佐賀空港にあるあたりが川副町です。
が、戦国時代は佐賀空港は有明海でして、筑後・一つ木の対岸が川副町。

現代と地名は同じなのに、戦国時代は位置が違うと言う、恐怖の地名スライド現象が肥前の特徴。

地元民はジモティであるがゆえに、他県人は地理感覚がないがゆえに、勘違いして地名の森に迷い込む~~
地形から戦国肥前を俯瞰・理解するには、まず当時の海岸線を頭に叩き込まなきゃダメなんです(´;ω;`)ウッ

家紋・竜造寺 竜造寺家紋ロゴ

剛忠(家兼)が、少弐の陰謀のせいで肥前から筑後・一ツ木に入り、すぐリベンジに成功しました。
その時に龍造寺を迎え入れたのが、川副庄・与賀庄・・・佐賀郡の豪族たちです。

もともとは神代と山内の場所、、、また川副庄の豪族たちを調べたいのと、更に与賀庄の事を知りたくて戦国地図にチャレンジし始めました。
で、先ほどいったように地名スライド現象(涙目)で、与賀庄(町)の変遷をザックリ書くと下記になります。

・戦国時代~与賀庄(現、与賀町+西与賀町一部)
・江戸初期~上与賀(与賀町)+下与賀(西与賀町)
・現代~~与賀町、西与賀町、東与賀町

戦国時代は東与賀町は一部だけで、後は有明海の底~~( ̄ω ̄A;アセアセ
地名変遷=土地造成ですから、当然、町の大きさ(広さ?)も違うはずですが、さすがにそこまでは調べきれなかったです( ̄ω ̄A;アセアセ

読んで下さってる皆様、退屈だとは思いますが、もう少し御付き合い下さい。


で、シオが「与~~~~~賀~~~~~~、与賀って何処!!現代の場所だと何処っ!!?」
と拘り調べ続けたのには理由があります。

実は、少弐が神埼郡・勢福寺城に入る前は、戦国時代の与賀庄が本拠地だったからなんです。

時の少弐当主は、少弐政資。
時代は文明年間。
龍造寺当主は、剛忠(家兼)の父・龍造寺康家だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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16【胤信(隆信)排斥派・後篇】龍造寺隆信「苦」の巻7

腑に落ちない・・・(-ω-;)ウーン
鑑兼チャン7歳は、なぜ大友義鑑を烏帽子親にし、偏諱を受けたんでせうか・・・
教えて!剛忠(家兼)!

人物・剛忠小 「戦国じゃ、己で考えろ」

剛忠(家兼)次男・家門の跡は鑑兼に継がせよ・・・というのは剛忠(家兼)の遺言だ。
だが烏帽子親や偏諱は、剛忠(家兼)死後に水ケ江次男家の家臣らが決めたんじゃないだろうか。

剛忠(家兼)死去は1546年3月。
筑前の秋月が大友に対し謀反し鎮圧されたのが、同じく1546年。

てことは剛忠(家兼)晩年頃は、大友の北九州における勢力は徐々に広がっていたのだろう。
だからといって、幼い鑑兼チャンの後ろ盾に大友チョイスは考えづらい。

なぜなら大友家は、数代に亘り少弐と盟約を組んでた間柄だからです。
タッグを組んだ目的は「打倒・大内」ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!

1538年に大友と大内が和睦しちゃったんで、表向きは少弐支援を手控えた大友義鑑。
でも少弐と縁切りになったわけじゃない。

でもって少弐の陰謀で龍造寺一門は大打撃を受けた。
そうなると少弐と対抗するには、少弐の仇敵・大内家と組むしかない。

だが「敵の敵は味方」という言葉が世間にはある。
水ケ江次男家は、胤信(隆信)相続に対し、含むところがあったのではないだろうか?

村中龍造寺宗家は、大内のバックアップを受けた。
宗家相続した胤信(隆信)も、その外交方針を継承している。
胤信に対抗しようと思えば、鑑兼チャンの後ろ盾に大内でなく大友を選ぶのは不思議ではない。

龍造寺系図①

てことで、ここんとこ出ずっぱりの龍造寺早わかり系図の出番^^/
亡き剛忠(家兼)が初代の水ケ江龍造寺は、剛忠(家兼)の意向で変則相続をしていた。

(青数字に注目)
初代⇒2代目・長男⇒3代目・次男⇒予定4代目・長男の嫡子⇒⇒実際の4代目・長男の孫

とまぁ、長男家と次男家が交代で相続してる。
更に長男家・嫡子にあたる胤信を出家させ相続から外すという、通常では有り得ない事もしていた。

(系図作りながら思いついたシオ推測)
少弐の陰謀がなく周家が無事に相続していたら、次の相続は次男家の番。
そのために周家の嫡子・胤信を出家させて相続から外してた。


シオ推測は抜きにしても次男家のほうで、
「うちは他家の庶流とはちゃう!カリスマ初代が認めたんや!うちにも相続の権利があるねん!(`・ω・´)キリッ」
と期待と夢と希望を持っても不思議ではない、青数字の流れ( ̄ω ̄A;アセアセ

でなければ大内オンリーの龍造寺の中で、一人大友派になる理由が思いつかない。

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

実は宗家相続のさい、宗家の方で当主候補がいたんです。
名前は龍造寺家就。後の龍造寺四家・諫早龍造寺家の祖。
そんな人物が何で系図にないかっていうと「胤栄弟説」と「従兄弟説」の二つあって、扱いに困って今回は省きました。。。il||li _| ̄|○ il||lスイマセン

んで、宗家相続の時も「胤信or家就で籤引きなぅin八幡宮」って話もあるが、水ケ江相続時の籤引きと話が混ざってるかも^^;
とにかく家就の方で「当主の器量は胤信(隆信)が相応しいですm(__)m」って辞退し、胤信に仕える事を選び相続候補から外れた。

胤栄未亡人と胤信(隆信)は結婚したばかりで、まだ嫡男は産まれていない。
胤信(隆信)に万が一の事があれば。。。
ってメチャクチャ健康そうで、首と胴体を離さなきゃ死にそうにない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

だが、大内家が大友に敗れ、胤信(隆信)が政治的窮地になれば、その時こそ大友派鑑兼チャンの出番。
未亡人には前当主との間に娘・於安がいる。年は鑑兼と同じく数えで7歳。
胤信(隆信)が未亡人と結婚したように、鑑兼と於安が結婚すれば(次男家の思い込み抜きで)相続上の問題はクリア出来ます。

龍造寺胤信(隆信)排斥派・土橋栄益が次男家に囁いたのか。
次男家の方から土橋に近づいたのか。
細かい経緯は不明だが、烏帽子親と偏諱を頼まれた大友義鑑が二つ返事でOKしたのは間違いないだろう。

胤信(隆信)の宗家相続は1548年。
大内義隆が「大寧寺の変」で死亡するまで、後残すところ三年なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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15【胤信(隆信)排斥派・前編】

1546年、筑前国人・秋月文種が大友に対し謀反を起こした。
戸次鑑連(後の立花道雪)、佐伯、臼杵、吉弘らが、1万の兵を持ってこれを鎮圧する。


ここで注目するところは「大友に対し謀反」の部分です。
なぜなら西暦で1546年というと大内義隆は存命中。
筑前は大内支配圏で、大内が任命した守護代がいたからです。

それが何故に大友に対し謀反になるのかというと、実は筑前の中に「大友領」がありました。
話はシオ記事で言うと「剛忠(家兼)と呼んでネ」龍造寺「破」の巻9、年代でいうと1538年5月29日に遡ります。

この時に北九州の覇権を巡って争っていた大内義隆と大友義鑑が和睦しました。
(和睦に至った経緯は龍造寺「承」の巻と相良氏、戦国名君編で語ってるので割愛。)
で、その時の和睦条件として、筑前の一部が大内から大友へ割譲されたんです。

その大友領にあるのが、立花城、柑子岳城です。
その後に大友家は筑紫家をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!追い出し、岩屋城、宝満山城をゲッツ。
後年、島津北上の野望を打ち砕いた「立花城ー宝満山城ー岩屋城」の軍事防衛シフトが構築されていきます。

そうなると、大友からの圧迫をモロに受けるのが古処山城(朝倉市)の秋月氏です。

家紋・秋月 秋月家紋ロゴ

謀反を起こした細かい経緯は調べきれませんでしたが、大友支配を嫌った秋月が反抗し鎮圧されたようです。

秋月が謀反を起こす時って、単独って殆どない。
どこかと同盟するか「中国地方の大物」から支援を受けます。
だから秋月文種謀反のバックに大内義隆がいた可能性はあります。

いずれにせよ、謀反の前後事情は大内家でも情報キャッチしてたでしょう。
当然、大内家では面白くない(・A・)

大内にすれば、領地を割譲するのは認めたが、そこを足掛かりに大友が勢力拡大するのを認めた訳じゃないからです。
大内と大友の緊張状態が再燃し始めた頃に、肥前で龍造寺胤信(隆信)が宗家相続をしました。

亡き村中龍造寺宗家当主・胤栄は、生前に大内義隆のバックアップを受けていました。
それを胤信(隆信)が継承したので、胤信(隆信)も大内サイドと目されてたんです。
(ただし具体的な接触は未だない)

胤栄未亡人と胤信(隆信)の結婚で、村中龍造寺と水ケ江龍造寺が合一し「新・龍造寺」が誕生しました。
だが村中宗家家臣の中で「胤信当主」を快く思ってない者がいました。

それが土橋栄益です。

龍造寺系図①
龍造寺早わかり系図
(黒数字が村中宗家当主カウント・青数字が水ケ江当主カウント)

土橋は、胤信(隆信)対抗馬として、わずか数え7歳の鑑兼を担ぎ出す事を思いついた。
で、大内家対策として大友義鑑と接触したんです。

というのも鑑兼の「鑑」の文字は、大友義鑑からの偏諱で、鑑兼の烏帽子親は大友義鑑だからです。
烏帽子親~~~ってことは、鑑兼は子供ですが元服してたことになります。

少弐の陰謀で龍造寺一門が抹殺され、鑑兼の父・家門も殺されました。
その家門の跡を継ぐため、幼いながらも急きょ元服したのでしょう。

通常であれば、鑑兼ちゃんは庶流で正統とは言えません。
ところが龍造寺の場合は、そうとも言えない事情があったのですが、それは・またの話 by^-^sio

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14【バツ1子ありのシングルマザー~宗家相続・参】

亡くなった村中宗家当主・胤栄と夫人は、仲睦まじい夫婦だったようだ。

少弐の陰謀に村中龍造寺もトバッチリ・・・ゲホグホ、もとい巻き込まれ筑前へ亡命。
龍造寺のカリスマ・剛忠(家兼)の死で揺れた時などなど。

それらのピンチを若い宗家当主夫妻は、力を合わせて乗り越えてきたのだろう。
一段落して、これからという時に突然、夫の病死。

一門衆の決定で、水ケ江龍造寺胤信(隆信)と再婚したものの、気持ちの切り替え整理が付かなかったらしい。
夫の忘れ形見である一人娘・お安を腕に抱き、悲嘆に暮れるばかり。
新しい夫・胤信(隆信)に対し、心を開こうとしなかった。

ちなみに龍造寺胤信(隆信)は、二十歳。初婚。
「キミは三歳の子供の親になれるか?」って発言は、芸能人の誰が結婚した時だったか。
まだまだ若いから、女性の扱いには慣れてないだろうなぁ。。。
つい、僧侶時代のクセで説教じみた訓戒垂れて、未亡人にドン引きされてたりして,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

家紋・竜造寺


龍造寺隆信は、とても頭が良い人だったと思う。
何というか、怒る時も理屈がある感じ。
人間の心の襞(ひだ)、感情の機微に対し、鈍いわけじゃないが、それを表現したり思いやったりするのが下手な感じがする。
むしろ「そういった感情は理性でコントロールすべき」と自分に規定してそう。

己にも他人にも厳しい言動は、家臣であれば「清廉」と褒められるのだろうが、当主だと「冷酷」と囁かれる。
総領であれば、ウソでも「これはワシの本意ではないの(PД`q。)オヨヨ」って演技が必要だが、隆信にそんな場面あったっけ?って感じ。
そういう点、毛利元就、徳川家康、織田信長など「誰かを始末する前の根回しは入念」

やはり僧侶から当主になった当初に「股肱の臣」「汚れ仕事の引き受け役」不在だった事が、そのまま尾を引いたように思う。
「守役」も「乳兄弟」もいない隆信は、最初から最期まで「独り」だったんじゃないだろうか。


「分析はいらん!このままじゃ困るだろ!(`・ω・´)キリッ」と、ここに憂える老臣が1人。
彼の名は小河信安。村中宗家に仕える家臣だ。
小河は忠義に篤く胤栄が死去した時も「今は主人なし、誰にか従わんや」と殉死しようとしたほどだ。

小河は一計を案じ、胤栄との間に生まれていた娘:於安(数えで7歳)を乳母から受け取ると脇差を抜き、
「村中・水ヶ江両家和親すべきを、御簾中が胤信公と御親しみにならぬ故に、御家は二つに割れ、近国の諸公が佐嘉に攻め込まんとの風聞あり。
味方は防ぎようがなく、この姫君も敵の虜となりましょう。斯様な恥は耐えきれませぬ。ならば旧恩に報いて、某が刺殺して進ぜましょう」
と、抜刀し掛ける。

夫人「Σ(´Д`;)ひぃ!」っと仰天し「以後は心を改める」と述べて「娘を放してぇぇ・゜・(PД`q。)・゜・」と泣いて手を合わせた。
信安も涙ながらに喜悦し、於安を乳母に返すと退出していった。
以後、未亡人と胤信は「和親した」と北肥戦誌にあるから、それまでは未亡人が拒否してレスだったみたいですね( ̄ω ̄A;アセアセ

さて、この頃ですが、実は大友と大内の関係がキナ臭くなってました。
中国地方の大物と大友が揉める時・・・
その原因の殆どが筑前・秋月家にあるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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13【未亡人と再婚~宗家相続・弐】

(黒数字は村中宗家当主のカウント)
(青系譜は水ケ江龍造寺で青数字は水ケ江当主のカウント)
簡単早わかり系図につき( -。-)スゥーーー・・・ (o>ロ<)<主要メンバー以外は省略ゥゥ~~~~~
龍造寺系図①

亡き胤栄の正室・・・実は剛忠(家兼)の次男・家門の娘です。
胤信(隆信)とは、従兄姉叔母になるかな?いずれにせよ血族婚。
胤栄未亡人&胤信(隆信)のカップリングは、
家督相続上だと⇒⇒村中宗家と分家・水ケ江の合一

血統上からだと⇒⇒水ケ江次男家と水ケ江長男家の合一

簡単系図の青数字に注目~
初代剛忠(家兼)⇒2代目長男⇒3代目次男⇒長男家嫡子(予定)
と、長男家と次男家で代わりばんこに家督を相続してるんです。

おそらく亡き剛忠(家兼)は家督相続をコントロールすることで、一族を掌握してたんだと思います。
で、推測なんですが、長男家・次男家に嫡子が産まれると、それを互いに養子にするという暗黙の了解があったんじゃないでしょうか?
一度相続したら、誰だって我が子に継がせたい。。。
健康も能力も血統も問題がないにも関わらず、兄弟に譲るなんて理不尽に我慢できるはずがない。
譲っても、次は自分の嫡子が当主♪(人´∀`)って事なら、かろうじて耐えられます。

少弐の陰謀で殺されなければ、次男・家門の養子だった長男家・周家が次期当主でした。
周家が当主になった暁には、次男家嫡子を養子にする予定だったと思うんです。
そのために周家嫡子だった胤信(隆信)を出家させたんじゃないでしょうか?

いくら神童とはいえ、「7歳の少年の資質を警戒した&万が一の保険で出家説」は、後世の活躍を知ってる我々現代目線が入り過ぎだと思うんです。
ですが、家督キャッチボール予定調和で「次は次男家相続ネ」と順番が決まっていたなら、長男家嫡子である胤信(隆信)は邪魔です。

しかも神童で「家臣や一門の枠」に納まりそうにない。。。となれば武家社会から切り放し出家させる以外に手はないでしょう。
養子に出すって方法もあるが、そんな揉めそうな禍根を残すより、出家が確実(`・ω・´)キリッ
才覚を封印される胤信(隆信)は哀れです。
だが、家督そのものは次男家の後に再び長男家に戻る。。。と言う順番なら、父である周家も我慢するでしょう。

剛忠(家兼)がギリギリまで円月(隆信)還俗を決めなかったのも、これなら頷けます。
皮肉な事に、周家が養子にする予定だったであろう次男家男子も少弐の陰謀で死亡しており、次男家に残されたのは4歳の鑑兼。
順番通り次男家の子供に相続させるか、順番を破って成人男子である円月(隆信)を当主にするか。

いずれにせよ禍根となって、いつか必ず水ケ江龍造寺家は揉める。
死の床についた剛忠(家兼)は、初めて家督の変則相続を繰り返した事を後悔したと思います。

人物・剛忠小 剛忠(家兼)イメージ画像~だってぇ戦国時代だもん、判って♪

胤栄未亡人と胤信(隆信)の結婚は、龍造寺全体のためばかりでない。
、変則相続で噴出した水ケ江の矛盾を一挙に解決する・・・まさに完璧な合一!です。

このアイデアを取りまとめた鍋島清房は、慶誾尼との再婚逸話でしか目立ってないですが、さすが佐賀藩祖の父だけのことはあります。
何故なら、この合一アイデアは、鍋島家の立場を更に更に優位にするからです。

ポイント1・鍋島清房の妻は家純娘。龍造寺準一門といっても鍋島家は水ケ江長男家系統である。
ポイント2・従って村中当主候補は、長男家系統から出すのが鍋島の立場上望ましい。
ポイント3・胤信(隆信)は記憶力抜群で、鍋島清房が円月(隆信)還俗に難色示したのを忘れてない(はず)
ポイント4・てことで胤信(隆信)を村中当主にプッシュする事で、胤信から信頼を勝ちとり地位安定(=^・ω・^=)v ブイ

話は飛ぶが、隆信嫡男・政家はダメっ子説が広く流布されてます。
が、ダメっ子だって話は後世出たもので、同時代史料には、それっぽい記述はないそうです。
政家は生母が胤栄未亡人の嫡子
つまり(政家=村中+水ケ江(長男家+次男家))という方程式
隆信の跡は、完全合一の結晶である政家以外は有り得ないんです。

村中城(佐賀城)に入り万事順調だったのだが、肝心の胤栄未亡人が胤信(隆信)に靡かないΣ(´Д`;)アレ?
子供が出来なきゃ各方面困るのだが、それは・またの話 by^-^sio

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12【宗家相続・壱】

龍造寺の家督の流れは・・・実は複雑( ̄ω ̄A;アセアセ

まずは、簡単に系図書いた~~ガムバリマシタil||li _| ̄|○ il||l
(黒数字は村中宗家当主としてのカウント)
(青系譜は水ケ江龍造寺で青数字は水ケ江当主としての略)
( -。-)スゥーーー・・・ (o>ロ<)<主要メンバー以外は省略ゥゥ~~~~~

龍造寺系図①

村中宗家14代目・胤家は、当時衰退してた西千葉(当時は少弐サイド)に肩入れしすぎた。
そのため龍造寺家中から異議が出て o( ̄Д ̄θ★ケリッ!って追い出された。
代わって宗家当主になったのが弟の家和。
以下、系図にある通り家和の系統が村中当主となる。

シオは、この当主交代劇に弟である剛忠(家兼)が、裏で噛んでると推測してました。
少なくとも、水ケ江の家督コントロールが閃いたのは、これがキッカケじゃないでしょうか。

村中宗家18代目・胤栄が25歳の若さで死んだ時・・・いるじゃないですか男子!
14代目胤家の系統・・・鎮家が!
ところが彼には村中宗家を継ぐわけには行かない事情がありました。

14代目胤家の曾孫・・・世が世なら嫡子であったはずの鎮家は、少弐に寝返り家臣となってたからです。
ナ、ナンダッテ━━━(゚ロ゚;)━━!!
シオレベルでは詳細がリサーチできなかったので、ここからは推測です。


鎮家が寝返ったのは剛忠(家兼)生前で少弐とギクシャクした頃じゃないかな?
14代から15代へ「当主交代劇」に剛忠(家兼)が絡んでいたのが前提になります。
そうなると、鎮家は剛忠(家兼)が健在である限り、当主の座は巡って来ない。
剛忠(家兼)への不満から少弐へ寝返ったのでは?っていうのがシオ推測^^b

諱が「鎮」家ですから(たぶん)少弐が滅んでから大友サイドに走り(今山合戦の頃?)義鎮(宗麟)の偏諱を受けたんじゃないかなぁ~

ちなみに同じ14代胤家系統でも、鎮家の叔父(庶子?)にあたる家親は、龍造寺家の家老として残り系譜も続いてます。
少弐氏がゾンビ復活してたなら、家臣である鎮家を龍造寺宗家当主として捻じ込んだかもです。

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

(村中の)老臣らは龍造寺の正統が潰えるのを懸念し、老臣・小河信安、納富道周(栄房)、江副久吉、そして龍造寺家直らと詮議。
鍋島清房と談合して、水ヶ江の当主・胤信(隆信)に胤栄の室を娶せて、村中家と水ヶ江家を一つにするとの衆議が決定、胤信は村中城(後の佐嘉城)に入る。


系図にあるように胤信(隆信)の生母は慶誾尼(けいぎんに)。
ガバイかぁちゃん。。。
そっちじゃなくて、慶誾尼は16代目胤和の娘なので、胤信(隆信)は村中宗家の血を引いてます^-^
とはいえ女系ですので血統的に劣るのを、亡き胤栄未亡人と結婚させる事で補完するという訳です。

鍋島清房~~水ケ江龍造寺・準一門。
上記系図には書ききれなかったのですが、清房の妻は水ケ江2代目・家純の娘です。
鍋島・赤熊武者の活躍を喜んだ剛忠(家兼)が娶せました。
胤信(隆信)から見ると、鍋島清房は義叔父にあたります。

とはいえ、鍋島が縁戚になったのは1530年で、それから未だ18年しか経ってません。
普通の武家なら、いかに武功があっても家格としては「新参者」です。
ところが少弐の陰謀で、主だった龍造寺一門衆が殺されてしまったために、新参者・鍋島の立ち位置も準一門+重臣クラスに押しあがったというわけです( ̄ω ̄A;アセアセ

後に佐賀藩主となる鍋島家の家格素地に、少弐の陰謀が一役買ってたとは、さすがのゾンビ波及力。
新参者のままでは、佐賀藩主になれたとしてもメチャクチャ揉めたでしょう。

さて、胤信(隆信)宗家相続に、不満ある者がいたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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11【宗家の花道・後篇】

1547年、龍造寺宗家当主・胤栄(たねみつ)は、自ら山口へ出向き大内義隆の後ろ盾を得る。
大内は室町将軍家から「少弐討伐令」ゲットし、胤栄に「少弐討伐」を命じた。

肥前本領に戻った胤栄は、水ケ江の胤信(後の龍造寺隆信)と協力し、少弐エリアの東肥前へと出陣した。
少弐勢は龍造寺勢からの攻撃に果敢に防戦し、龍造寺サイドもこれらに手こずる。

同年閏7月、胤栄は杉隆満(大内配下・筑前守護代)へ情勢を訴え、大内サイド筑紫勢からの援軍を得た。
筑紫家・・・攻撃されると大内に寝返る常連なのだが、もともとは少弐一門です( ̄ω ̄A;アセアセ
とにかく龍造寺勢は筑紫の加勢を加えて、少弐冬尚の勢福寺城へと押し寄せる。

少弐冬尚は、亡き剛忠(家兼)&西千葉・胤連にリベンジされ牛頭山城を追い出され、一門の横岳氏の保護で三根西島城に入った。
(実弟の東千葉・胤頼は晴気城へ入り、その後で前記事の牛ノ尾城へ移動)
ちなみに三根西島城は、少弐冬尚パパン・資元が幼少期を過ごした城でもある。
その後、剛忠(家兼)が死んだドサクサに紛れ、いつのまにやら勢福寺城に戻ってたらしい。

家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

少弐勢は老臣・江上元種、宗本盛(秀恒・少弐家老)、馬場周詮ら、三根・神埼で防戦すれども悉く敗れる。
宗は対馬の宗氏がバックアップしてたわけじゃありません。
が、宗一門の中で少弐サイド(縁戚)がいたんです。


同年8月5日「米田原(目達原)の戦い」で、宗本盛は苔野口にて討ち死。

位置データ:目達原~~神埼郡吉野ヶ里町吉田目達原
(原とあるだけあって、戦するのにイイ感じの広さだぉ♪ヽ(*´∀`)ノ)
位置データ:苔野口~~神埼郡吉野ヶ里町吉田苔野
(目達原への入り口だから近所、目達原から筑後川支流挟んで西南にある)

家老の死に少弐方の意気・戦意は消沈il||li _| ̄|○ il||lもぅダメポ
同年10月16日、ついに冬尚は勢福寺城を落ち延びた。
三根・神埼などの少弐領は大内義隆に没収され、龍造寺家がその境の番となった。


おそらく、この三根・神埼への出陣が龍造寺隆信の初陣です。

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

天文17年(1548)3月22日、村中龍造寺の正統・豊前守胤栄が卒去。

肥前の熊・龍造寺隆信が主役として躍り出るために、これも用意された運命だったのだろうか。
少弐の陰謀で祖父・父・叔父たちが非業に倒れなければ、僧侶・円月(隆信)に出番はない。
龍造寺宗家当主が死ななければ、胤信(隆信)は分家・水ケ江当主のままだった。

剛忠(家兼)の傀儡当主だった胤栄。
剛忠(家兼)の死によって傀儡の呪縛から解き放たれた。
やっと「自由」を得たというのに、自己判断で活動したのは一年あまりという短さ。

胤栄は打ち上げ花火のように、一時夜空に閃光を放ち器量の片鱗を見せると、大輪を咲かせることなく散った。
享年25歳。(-人-)☆彡合掌

胤栄には世継ぎが無く、娘が一人いただけ。
龍造寺宗家老臣らは龍造寺の嫡流が潰えるのを懸念し会議なぅ

( ̄ko ̄)<ところが実は、龍造寺宗家には別系統で男子がいたんでつ。
亡き剛忠(家兼)の家督コントロールのために、正統から外れた男子なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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