【追撃!若熊三兄弟・前篇】龍造寺隆信「叛」の巻7

我が家では「だんご三兄弟」のグラスが現役です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

(*´○`)o¶~~♪一番上・長男
龍造寺隆信、早生まれなんで、1553年の現在は25歳
(*´○`)o¶~~♪間に挟まった・次男
龍造寺左馬頭信周、推定数え19歳(異説あり)兄と弟とは異母・・・つまり彼だけは庶子でした。
(*´○`)o¶~~♪一番下・三男
龍造寺兵庫頭長信、推定数え15歳

龍造寺隆信は、父・一族を非業の死(少弐に謀殺された)で失いましたが、兄弟運に恵まれていました。
少年だった弟たちは亡命生活の中で、兄を支える若武者として成長しつつあったのです^-^

兄貴の前に出る時は鎖帷子着込んで・・・(._+ )☆\(-.-メ)コラッ違ウ武将ノ逸話ヲ混ゼルナ!

地図・東肥前

本城を取り戻した龍造寺勢、次は城原(勢福寺城)の江上を攻めるか、蓮池の小田を退治すべきかと評議なぅ~
その矢先の9月26日に江上は降参を申し出た。

どうも勢福寺城に、少弐冬尚は在城じゃなかったらしく、城は江上武種預かりだったようだ。
佐嘉・小城方面が危険な場合、少弐が他に逃げ込むといったら、三根郡・横岳の西島城かな~

あっそ、ほんじゃと10月8日、蓮池城攻めのアップを始めた。

隆信は井尾(位置不明)を本陣と定め作戦会議(^ -)---☆Wink
「小田政光は必ずや城を打って出るであろう。
故に政光が城より出てきたならば、左馬頭信周の備えの一つは北の方より廻って政光の跡を取り切り、また兵庫頭長信は南の方より城の大手駕興丁口へ廻り、短兵急に攻めるべし」とした。


8日南北二手に分かれ、隆信の旗本衆は井尾の陣から静かに進軍~総勢3,700、敵は2,300。

旗本先手の馬渡栄信は、本城奪還の戦いで功を上げられなかったので、此度は~と頻りに旗を進める。
蓮池城からも一陣・江口、二陣・深町理忠が打って出る。

また夜も明けようとする頃、北方より神埼の本告義景の勢300が、小田に加勢し隆信本陣へ攻撃を仕掛ける。
兄の本陣へ切り掛かる敵勢を見て北方に控えていた左馬頭信周が本告勢と戦う。

また、本告義景には馬渡栄信が組み敷いた。
本告義景は馬渡の右の小指を食い千切ったが、馬渡はその首級を見事討ち取った為、大将を失った本告勢は総崩れとなって退却。
だが蓮池城の一陣・二陣の江口と深町は退かずに左馬頭信周勢と戦う。

この隙に兵庫頭長信は南に廻り、駕興丁口へ攻め入った。
崎村の犬塚左近大夫鑑直、蒲田江の犬塚民部大夫尚重、直鳥の犬塚鎮尚らが馳せ来て、小田に加勢し防戦に努める。

・・・・・・・・・川* ̄* ̄*川 ぐぅ~~~サボらず、やりますか。

ワンコ・・・もとい犬塚氏も三兄弟ならぬ三家あります。

崎村が長男が祖の東犬塚家
蒲田江が次男が祖の西犬塚家
直鳥が四男が祖の直鳥家

東犬塚家・崎村城位置データ:佐賀県神埼市千代田町渡瀬古城
西犬塚家・蒲田江城位置データ:佐賀県佐賀市(詳細位置不明)
直鳥家・直鳥城位置データ:佐賀県神埼市千代田町直鳥字上直鳥

犬塚氏は元々は筑後の国人でしたが、明応年間に肥前・神埼郡に引っ越してきました。
神埼郡は少弐エリア・・・そのため犬塚氏は少弐配下となったんです。

指を噛み千切って奮戦し隆信旗本衆(馬渡栄信)に討たれた本告義景の姓は、「もとおり」と読みます。
城は本告牟田(もとおりむた)城:佐賀県神埼市神埼町本告牟田

位置データから判るように、小田の蓮池城に加勢したのは殆どが神埼郡の国人。
即ち少弐冬尚の配下です。



本城や領地を取り戻すだけじゃダメなんです。
臭い匂いは元から断たなきゃ(´・д・`)メです。
少弐冬尚を倒さない限り、少弐は配下国人を龍造寺潰しの加勢に送り込んでくる。

少弐冬尚と龍造寺隆信との対峙が避けられないものとなっていくのだが、それは・またの話 by^-^sio
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【本城奪還!】龍造寺隆信「叛」の巻6

八幡宮の信託・・・もとい神託で「いつやるのか、今でしょ(超意訳」と出たので出陣することになった隆信勢。
(以下大文字は北肥戦誌より抜粋)
このとき高木鑑房が攻めてくるとの風聞があり、隆信は軍勢の半分を佐嘉・蓮池へ廻し、残りで高木勢を攻め崩す様に命じる。

佐嘉の城は小田政光が守り、神代勝利、高木能登守鑑房が交替で飯盛城を守っていたのだが、そこを隆信勢は息もつかせず攻め立てる。

そこへ風聞通りに高木勢1,300が現れるが、討ち負けて若村へ退散した。
八戸宗暘も若村へ出陣したが、これを討ち負かし、高木勢は精町へ追い詰められ自領へ退散、八戸も八戸城へ退いた。

若村・位置データ:・・・不明il||li _| ̄|○ il||l
精町・位置データ:佐賀県佐賀市精(しらげ)町

村中(佐賀)城、水ケ江城から400mほど西です。

そして飯盛の神代勢も討ち負けて八戸宗暘の八戸(やえ)城へ逃れた。
隆信は梅林庵に陣を移し評定を開き、まずは八戸城を攻める結論に至る。
梅林庵(寺)位置データ:佐賀県佐賀市本庄町大字本庄西川内377
実は梅林寺は二つありますΣ(´Д`;) うあ゙
なので進軍コース&精町に近い方をチョイスしました^^;

本庄って事は、隆信勢は鍋島エリアまで来ました♪ヽ(*´∀`)ノ

地図・東肥前


8月8日、小河武純、納富信景、福地信重らが(八戸城へ)攻め進んだ。
(飯盛から)逃れた神代は(八戸城の)本丸を守り、二の丸は伊東・諸熊・光岡ら数百騎を向かわせてこれを防ぐ。
城兵多く討ち死にし、城戸口が破られんとしたとき、神代より和を請うて来た。

八戸・神代は隆信へ面褐し、城を開け渡して山内へ退いて行った。
宗暘は龍造寺家より奪った領地を返還し、八戸城へと戻された。

こうして初期の頃の隆信を見てると、けっこう裏切り者を許したり降伏を受け入れたりしてます。
でないと隆信自身がヤバいから、っていうのもあると思います。

隆信は敵の瑞城7つを攻めると、佐嘉(村中)城を守っていた小田政光は蓮池城へ退いた為、隆信は即座に佐嘉(村中)城へと入った。

ついに本城を奪い返した龍造寺隆信。
だが追撃は更に続くのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【(肥前へ)いつ帰るのか、今でしょ!】龍造寺隆信「叛」の巻5

1551年に起きた「大寧寺の変」、陶隆房の謀反により大内義隆が自害。
大内義隆の後ろ盾を得ていた龍造寺隆信は、少弐・大友と組んだ「隆信排斥派」により肥前を追われる身となった。
幸い、先年に剛忠(家兼)ジーちゃんを助けてくれた筑後・蒲池氏が再び隆信をヘルプ。
ジーちゃんの居候先・筑後一ツ木(現・大川市)に、隆信一行も居候する事となる。

それから足掛け3年・・・豪胆な隆信も焦ってきました( ̄ω ̄A;アセアセ
1552年に船で戻ろうとしたけど暴風で有馬エリアまで迷い込んで失敗。
それだけじゃなく、有馬が西千葉領を狙って動いた事にも、焦りを感じたんだと思います。


1553年、隆信は蟄居先に老臣を集めると発言。
「斯様に月日重ね既に三ヶ年に及び、他国にありて恥を晒したるも甲斐なし。
ここは是非とも当家恩顧の者共を語らい、肥前に討ち入りて敵と雌雄決し、敵わざれば腹を切らんと思い定めた。
御主らは如何思うや?」

超カンタンに意訳すると「(肥前へ)いつ帰るのか、今でしょ!」ですな( ゚Д゚)y─┛~~

これに石井兼清が答えた
「斯様流浪の身と罷りなりて年月を送らん事、まことに口惜しき次第にて候。
されば、興賀郷、川副郷の者共は予てより当家に二心無き者らにて候。」中でも古賀民部丞は、その父・越後の頃より剛忠公の御計らいにて鹿子村の庄官なれば、その御恩忘れず、昨年も忠心を現しましたれば、御帰国の偽は彼の者に御下しなさるべきやと・・・」


一同、賛同すると、隆信と長信(隆信弟)から、それぞれ家臣を古賀の元へ派遣した。
彼等は、「川副郷は鹿子木天満宮での連歌の会」という名目で人数を集め内談ました。

メンツは古賀民部の他、村岡興三左衛門、徳久主馬允、久米長門守、副島右兵衛門允です。
肥前の5人は、周辺の百姓ら呼びかけ、更に与賀&川副の志ある武士を募った。

「兵急募!やる気のある方だけ大歓迎!次男三男は自立のチャンス!ただし事が成るまで秘密厳守の事!委細面談にて」
てな感じ?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

地図・東肥前

1553年7月25日に都合3000余人が兵船を揃え、筑後の隆信を迎えに参上(=^・ω・^=)v ブイ
【主な内訳】
鹿江兼明、その子・南里左衛門大夫、鹿江久明、南里左馬大夫、南里治部少輔の1000余人。
石井和泉守、弟・三河守、同石見守、内田美作守、久布白又右衛門、横尾刑部少輔、立河讃岐守、堀江筑前守、堀江右衛門大夫、副島民部少輔、飯盛備前守、石丸備後守らなど。

勢ぞろいの迎えを見た居候先・宿主の原野十郎、ゴシゴシ(-_\)(/_-)三( ゚Д゚) ス、スゲー!ー
(これは便乗すべき(`・ω・´)キリッ)と三人の子の内、次男・左馬介、三男・権兵衛を隆信へ付属させた。

また、蒲池鑑盛もこれを喜び、見舞にと渡辺上総守、横田大膳亮、萩原志摩守に200余騎を付けて、隆信勢へと付属させた。
※蒲池氏は本来は大友配下の武将です。隆信の敵は少弐&大友の支援を受けています。
ですから、この援軍は蒲池の純然たる好意でした(*´ー`)イイ人ダナ~

隆信は鹿江崎に着船、乾(犬井)堂を過ぎ7月27日に威徳寺に入り旗を掲げた。

北肥戦誌には乾堂とありますが、犬井堂が正解です
鹿江崎&犬井堂の位置データ:佐賀県佐賀市川副町大字犬井道
元々は犬井堂だったのが、犬井道に変化したそうな。

威徳寺位置データ:佐賀県佐賀市川副町大字鹿江784
もともとは松浦48党の一つ、御厨一族の菩提寺でした。
現在は佐賀市高伝寺の末寺ですが、末寺になった由来や時期は不明です。

位置データを辿ると、まず一ツ木の対岸にある川副に行き、それから隣の与賀へ移動したんです^-^

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

福地長門が先達て興(与)賀船津に上がり、村岡藤七兵衛の居宅に篝火を立てれば、古賀民部ら5人が率いた者共が此れに馳せ集まる。

ありゃりゃ、過去記事で船津は川副って書いたけど、与賀郷だったようです^^;
船津。。。河口港かと思ったが河川港かも^^;
八田江川の河口or河川港で、八田江川は川副と飯盛城の間にある川です。
佐賀は河川多過ぎ~~ちょっとこれ以上は地図に盛り込むのはパス^^;

隆信勢は4-5000余騎にまで膨れ上がり、隆信は実久村の潮音寺に陣を布いた。

潮音寺位置データ:佐賀県佐賀市東与賀町鍛冶屋(戦国当時は実久村)
ここは跡です現在の潮音寺とは別ね^^b
戦後の農地解放で曾て勢威を誇った面影は残ってません( ̄ω ̄A;アセアセ
現在は一宇の御堂と墓があるだけだそうですが、隆信の陣屋跡はあるみたい~誰か知ってる?


続き
そこ(潮音寺)で軍議を行ったが結論が出ず、付近の若宮八幡宮で神託を仰ぐと、「戦は速やか用いよ」とあった為、軍勢は実久村を発って西小路へ打ち入る。
西小路は判らなかったil||li _| ̄|○ il||l

いよいよ決戦~隆信は無事に城を取り戻せるか、それは・またの話 by^-^sio

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【ならぬものは、ならぬのです】龍造寺隆信「叛」の巻4

1552年&天文21年~龍造寺隆信が有明海をウロウロしていたのと同年。

7月9日夜半の事だ。
有馬勢が小城へ乱入し千葉領を犯した。
千葉勢はこれを追い帰すも、仁戸田刑部大輔が波佐間村で討ち死にした。


仁戸田刑部大輔~苗字は「にへた」です。
肥前千葉氏の九州下向時に随行した譜代の家柄。
※「徳嶋氏系図」だと天文16年8月3日に久米塚(小城市)で戦死したことになってます^^;

波佐間村~~波佐間で地名検索すると千葉県HIT、千葉氏本家由来かとビビった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

波佐間⇒×ブゥーー
羽佐間⇒○ピンポーン

位置データ:佐賀県多久市東多久町大字別府羽佐間
(佐賀県道332号と同じく35号の分岐点周辺)

地元周辺地理より佐賀県に詳しくなってきてる今日この頃,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

地図・東肥前

(*´○`)o¶~~♪「ご乗車?の皆様、左手・牛津川を御覧下さい~」

牛頭山城、晴気城、牛尾城、持永城、さらに海沿い蘆刈のあたりまでが、現在の小城市になります。
(山は天山、川は牛津川、祇園川、嘉瀬川の祇園川主流部分が小城市に入る)
で小城市を抜けて川なりに上流へ行くと、山(茶色ライン)の前で、ちょっち西へ川が蛇行してます。
そのあたりが現代の多久市です^-^

有馬氏の最盛期を築いた有馬晴純は、この年に70歳で息子に家督を譲り、悠々自適のセカンドライフに入ります。
ただ7月時点で隠居か現役かまでは、調べきれませんでした^^;

六角川の枝毛・・・もとい、支流が牛津川。
島原半島を本拠地にする有馬氏は、この六角川流域まで勢力範囲を伸ばしてました。


そして多久市・・・ここも既に有馬勢力圏です。
多久市の多久氏・・・彼は有馬からの圧迫に抗しきれず、少弐から寝返り有馬に誼みを通じた(=配下になった)
年代は北肥戦誌だと1541年になってます。

少弐が衰退したのもあるけど、何より多久氏は肥前の西と東の境目にあるため、大物たちの動きという大風に木の葉の如く揺れざるを得なかったんです。。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

牛津川下流の晴気城&牛尾城、現在は東千葉(少弐実弟が当主)の城。
つまり龍造寺潰しで有馬と手を組んだ少弐エリア。
従って牛津川流域が、有馬と千葉氏のガチ境界線

有馬勢には、断じて牛津川を越えさせてはならない!
ならぬものは、ならぬのです(`・ω・´)キリッ
龍造寺が佐嘉城を追われたために、牛頭山城の西千葉は孤軍状態。
譜代家臣・仁戸田は命を賭して、防衛ラインを守ったんでつ (゜-Å) ホロリ

家紋・肥前千葉 肥前千葉家紋ロゴ

明けて1553年。
龍造寺隆信は未だに筑後・一ツ木(大川市)で居候なぅ。

肥前に「いつ帰るか、今でしょ!」それは・またの話 by^-^sio

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【熊が川でドンブラコ?!】龍造寺隆信「叛」の巻3

さて、鍋島清房の次男・彦法師丸(後の直茂)は千葉胤連の養子となっていました。
1551年14歳となっていた今年、養父胤連の元を辞して、本庄の館に入った。

実家に戻ったら龍造寺が一大事で驚いただろうなぁ( ̄ω ̄A;アセアセ


一方、佐嘉城を落ち延びた龍造寺隆信一同は、とりあえず南方の井尾村へ至ったが、そこから行く宛が無かった。
これを伝え聞いた筑後柳川城主・蒲池鑑盛は急ぎ堤津へ遣いを出して「弓取りは皆同じである」と、隆信一行100余人(80余人とも)を柳川領の三瀦郡(みずまぐん)に迎えた。

隆信は蒲池鑑盛の援けにより、かつて剛忠(家兼)が亡命してた時に住んだ一ツ木村(大川市)へ移ると、原恵俊(原野兼俊とも)の屋敷に住んだ。


明けて天文21年(1552)になると飢饉が発生し、10人に8人の領民が餓死するという状況に!(゚ロ゚屮)屮
一ツ木村に逗留中の隆信らも次第に食糧が乏しくなっていった。( ̄ω ̄A;アセアセ

これに福地信重は、福地太郎左衛門と小林播磨守を召して肥前へ渡海し、船津の郷長・村岡藤七兵衛の屋敷に出向き兵糧の加勢を願い出た。

皆さ~ん、くどいようですが、戦国時代と現代では有明海の海岸線が違いますからね~
大川市だと、戦国時代なら船で肥前側に移動した方が早いんですぅ~~


前から続く
村岡はこれを承諾、兵糧を積んだ船を商売船に仕立てて、世間には天草へ行くと申したてながら、一ツ木村へと送り届けたのである。
(村岡グッジョブ!)

地図・東肥前

船津・・・また新しい港が キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★←ヤケクソ

え~~おおまかな概念ですが、○津ってある地名は港か入り江か、とにかくソレ系?の土地でして^^;
この船津の位置データは現代ですと佐賀県佐賀市東与賀町になります。
戦国時代だと川副郷に入ると思います。
船津は地図に載せきれなかった八田江川の河口港(戦国当時)です。
場所は海岸線沿いに石井氏飯盛城と川副の間・・・川副寄りにあります。


現代地図だと佐賀県道48号線を辿ると地名を探しやすいです。
相応津(48号線起点付近)から県道を東に行くと船津新橋東に出ます^-^
船津も、けっこう範囲広いので(西船津とかある)その中の何処かまでは、さすがに特定無理でした^^;
もしかしたら佐賀県道48号線が、戦国当時の海岸線の目安の一つになるかもですね(^ -)---☆Wink



また同年に、旧臣・鴨打胤忠が自らの領地である蘆刈へ隆信を迎えようとの動きを見せた。
鴨打胤忠が一ツ木へ船を差し向けると、隆信はヽ(*´∀`)ノ大いに喜悦し、家中の男女連れ乗船し渡海した。

だが天運未だ至らず、俄かに暴風に見舞われて、船は柳津留(小城市牛津町砥川)の入り江に迷い込んだ。

柳津留・?・・・|グーグル|_ ̄)じぃー

牛津の柳津留って、柳鶴じゃん!Σ(´Д`;) 
どんだけ奥まで迷い込んでるんですか~肥前の熊さん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


戦国当時で入り江って事は、こりゃ牛津川のあたりも、現代と戦国時代じゃ海岸線違うっぽいな(泣
とにかく少弐実弟が城主の牛尾城まで1~2kmしか離れてないし、それ以前に!
「そこ(柳津留)は杵島郡の有馬領である。by北肥戦誌」ですな( ゚Д゚)y─┛~~

鴨打胤忠の別腹の兄・胤賢は弟と不仲だった。
胤賢は、隆信漂着を知ってこれを討ち取らんと迫る。

アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ うあぁ~~引き返せ~~~!!

隆信らの船は、何とか柳川へ漕ぎ返し事無きを得たのでした( ̄ω ̄A;アセアセ
なかなか思うようにならない状況に、だんだん豪胆な隆信も焦れてきたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【激震!大寧寺の変】龍造寺隆信「叛」の巻2

宗家・水ケ江の合一龍造寺相続時の隆信の所領
父祖伝来の2,000余町(興賀(与賀)荘1,000町+龍造寺80町+小城・佐嘉の内の勲功の地500町+筑後生葉荘100町+その他)に加え、胤栄の遺領6,000町、併せて8,000町
『隆信公御年譜』では7,230町とし、知行にして185,000石

村中宗家の遺領が大半を占めるので、村中龍造寺家臣が良からぬ事を考えるのも有り得る話ですな ( ゚Д゚)y─┛~~

1550年2月12日、大友義鑑が「二階崩れの変」での怪我が元で死亡する。
大友さん家の二階が崩れて・・・(._+ )☆\(-.-メ)コラッ二階にいるところを襲われたんだろ!

大友義鑑からバックアップ受けていた龍造寺鑑兼擁立&隆信排除派は、肝を冷やした事だろう。
幸いにして、不安定ながら大友家の屋台骨が揺らぐ事態までは至らず、彼等は胸を撫で下ろしたに違いない。

家紋・大友 大友家紋ロゴ

さて『歴代鎮西志』によると、1550年(or1551年)7月2日に陶隆房(後の晴賢)が、隆信へ遣いを出しているそうです。

内容は、大友義鑑が横死してより豊後府内が不穏な空気に包まれている有り様を述べると共に、お互いに無事である事を歓ぶ一方、近年、主君の義隆が文事に耽って困っており、いくら諌めても聞き入れないので、この際これを除こうと思う・・・

という穏やかでない内容Σ(´Д`;) 

この知らせに対する隆信の反応は判らない^^;
裏切りに「まさか」はない。
でも事前に変事を知っていたからといって、隆信にはどうにもならなかったと思います。
変事が起きてみなけりゃ、対処方法だって浮かばないですから(-ω-;)

9月1日、大内義隆が老臣・陶隆房(後の晴賢)に弑逆された

これを聞いた土橋栄益(村中龍造寺家臣)は大いに喜び、密かに鑑兼擁立を同族と内談ヒソヒソ(*´・д・)(・д・`*)コソコソ~
土橋らは大友・少弐と接触し、兼ねてより目論んでいた「隆信排除計画」を実行に移した。

土橋らの内応を受け反隆信勢力の神代勝利、小田政光、八戸(やえ)宗暘(隆信の姉婿or妹婿)、江上武種、筑紫惟門ら19将、更に有馬・後藤・多久勢らも加担し佐嘉城を囲む。

佐嘉城は平坦な地にあり、籠城できるような城じゃありません( ̄ω ̄A;アセアセ
城中には龍造寺一族、鍋島、納富、小河、福地、江副、安住ら譜代家臣が居たが、防戦しようがなかった。

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

10月25日の夕刻、小田政光の老臣・深町理忠入道が城の大手門へ参上し、納富信景・福地信重を呼び出し対面し、口上を述べた。

深町「隆信公の此度の御籠城、至極難儀の事と愚老見出し、今日は敵となるも明日は味方となるが侍の習いなれば御労しく存じ、主・政光へ談合し、寄せ手の面々へ隆信公の御安穏を取り付け候。
どうぞ心安く今宵に城を開かれ、急ぎ何方にでも御退きあれ」


報告を聞いた隆信は、この申し出を信用しなかったそうです。

隆信「これは我らを易々と討ち取る計略に如かず。先年、剛忠(家兼)公が水ヶ江城にあり一門悉く討たれた。
それに懲りもせず騙され、この首を野に晒すよりは、城にて潔く腹を切る(`・ω・´)キリッ」


無理ないな~~デジャヴュな状況だもん( ̄ω ̄A;アセアセ

隆信の返答を聞いた深町
「弓前の神に誓いて、全くの偽りに候わず。御嫌疑あるなれば、この愚老人質となりて当城へ入り申す」
と発し、太刀・刀を渡して城へ入った。


深町の捨身の行動に、やっと隆信は開城勧告の申し出を信じる決心をした。
その日の夜半に上下老若男女200余人は佐嘉の城を忍び出た。

何しろ少弐らには「まさかの裏切り」前科がある。(有馬兵がいるのも状況ソックリ)
佐嘉城の者たちは幼女に至るまで、皆が槍の柄を短く切って携え、敵の只中を押し通ったそうだ。

落城・落ち武者の常・・・この時に佐嘉の侍の中には国元に残った者や、他国へ浪人する者がいたでつ。。。。ショボーン..._φ(・ω・` )
でも隆信は精神的にタフだったようで、悔しがる様子を見せなかったそうです。

同月26日、佐嘉城には土橋の望み通り少年の鑑兼を城主とし、自らはその後見となった。
でもって小田政光・八戸宗暘・高木鑑房・神代勝利の家人を交替の番とした。

「大寧寺の変」の影響で、領地を失った龍造寺隆信と家臣たち・・・それは・またの話 by^-^sio

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【登場!龍造寺隆信】龍造寺隆信「叛」の巻

軽くおさらい^^

1548年・天文17年3月22日、龍造寺村中宗家当主・胤栄が、卒去した。
胤栄には娘しかおらず、一門・重臣が相談した結果、水ケ江当主・胤信(隆信)を胤栄未亡人と再婚させて当主とする事に決した。

胤信(隆信)当主に不満と持つ村中龍造寺家臣・土橋栄益は、胤信(隆信)の従兄弟叔父にあたる鑑兼を対抗馬にと目論んでいました。

ちなみに、従兄弟叔父(つまり父の従弟)って言っても、まだ数え7歳でちゅ~

家系図・龍造寺系図①

肥前の熊の若き頃・・・龍造寺一門筆頭は龍造寺家親(`・ω・´)キリッ
系図にある黒ライン~~村中宗家正嫡・胤家系の家老です。

肥前千葉氏が東西に分裂しなければ・・・少弐が平常運転で没落しなければ・・・胤家系が龍造寺宗家の嫡流でした。
少弐没落の巻き添えで胤家は肥前を出奔しちゃったんです。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

当時・13代目康家は存命だったらしく、息子の出奔に隠居から現役に復帰。
次男の家和に家督を相続させた。

数年後に胤家は肥前に戻ったのですが、既に相続から外されていたので胤家系男子が当主に返り咲く事はなく、そのまま一門&家臣化していきます。
胤家の養子・盛家ですが、高木家からの養子だったようです。

少弐の裏切りと陰謀で、龍造寺一門の多くが謀殺されましたが、集中的に狙われたのが剛忠(家兼)の水ケ江家。
系図青ラインの家純・周家・家門・家門男子が亡くなってます。
水ケ江の人的損失が、あまりにも多きすぎました。

村中宗家と水ケ江家が合一したといっても、龍造寺内部の派閥勢力としては村中の方が優勢だったんです。
家老の家親は、世が世であれば当主だったかもしれない人物(兄は若死にしてたらしい)
まだ二十歳そこそこの胤信(隆信)では、家親をコントロールするどころか、彼の意向を無視できない状況だったと思います。

須古・諫早・多久・武雄・・・龍造寺四家が、一門の中心となるのは後年の話で、それには胤信の弟たちの成長を待たねばならない。

1550年・天文19年7月1日、胤信は大内義隆の偏諱を受けて《隆胤》と改名
同年7月19日、隆胤から、皆様お馴染み《隆信》と改名した


まだまだ不安定な胤信(隆信)当主体制。
大内義隆のバックアップを受ける事にしたぉ~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

名前を二回変えているのは、今までの胤信の「胤」が西千葉・胤連からの偏諱で、それに配慮したんだと思います。


さて、隆信が足固めしてる頃・・・少弐冬尚も活動を再開。
1548年に村中当主死亡のドサクサ紛れに、ちゃっかり勢福寺城に復活(=^・ω・^=)v ブイ

勢福寺城は大内に接収され、城番として元少弐家臣・江上武種が入っていました。
冬尚は夜に勢福寺城へと忍び入ろうとしたが、この日の番将・光安忠三郎の奮戦によって阻まれた。
ところが肝心の城将の武種自身が城から兵を退き、冬尚に城を明け渡しちゃった。

江上武種・・・身は大内に降伏しても、心は少弐の元に置いたままだったのだろう。

さて役者は揃った~~と言えばカッコいいが、元の木阿弥と言えば心の疲れが倍増(爆
龍造寺隆信には更なる試練が襲うのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回「激震・大寧寺の変!」

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【秋月滅亡?!・後篇】秋月種実「序」の巻9

秋月氏の本城・古処山城がある古処山(こしょさん)は現在の福岡県朝倉市にあり、山岳信仰でも知られていて別名が白山。
標高は889M、登山道は整備されてて初心者でも「体力のある方」なら楽しく登山できます。
麓の秋月キャンプ場から約2時間ほどで頂上に着くので日帰り可^^b

だがしかし!舐めては行けない!

古処山は途中から勾配40度という恐ろしい急坂なんです^^;
こんなところに城を良く建てたなぁ~という天険でして( ̄ω ̄A;アセアセ
後年、豊臣秀吉も「ここを攻撃せずに済んで良かった」と音をあげたほどの急坂でした。



1557年(弘治3年)秋月種実の父・秋月文種は、大友氏から離反し毛利元就の傘下に入ろうとした。
それを怒った大友義鎮は、同年5月に毛利元就に抗議の手紙を書いているが、と同時期に出兵命令も出していました。

戸次鑑連、臼杵鑑速、吉岡長増、田北鑑生を始めとした軍勢が府内を発し日田へ着陣。
大友配下の筑後勢も合力せんと、蒲池鑑盛、田尻親種らも出陣。

大友義鎮は秋月文種だけでなく、文種に呼応して加担した筑紫惟門(つくし これかど)も成敗するつもりで、まず古処山城を攻撃させた。
大軍に為すすべもなく、支城にいた種実の兄・春種が戦死してしまう。

古処山城攻撃で活躍したのが戸次鑑連(べっき あきつら)・・・後の雷神、立花道雪だ。
秋月編では判り易いように道雪(どうせつ)の呼び名で統一しますね^-^

道雪の家臣に「江上・八院合戦編」で紹介した小野鎮幸(おのしげゆき)がいます。
その小野の従兄弟で小野九郎衛門という者が秋月家に仕えていました。
小野は親戚コネで接触し、従兄弟を裏切らせることに成功(=^・ω・^=)v ブイ

家紋・大友 大友家紋ロゴ

寝返った小野九郎衛門だが、その裏切り方は「城内に兵を引き入れる」と言った可愛らしいものじゃなかったらしい(汗
同年7月19日(北肥戦誌では13日)、小野九郎衛門は古処山城を落ち延びた秋月文種を追い込んで詰め腹を切らせたんです(´;ω;`)ウッ
種実の母親も共に自害し古処山城は落城しました。

意気揚々&ドヤ顔で、昨日までの主の首級を持参して来た小野九郎衛門に、豊後勢がドン引き。
彼を受け入れる陣営はなかった。
居場所を失くした小野九郎衛門・・・かといって裏切り者となった彼は秋月に留まる事も出来ない。
あてどもなく放浪した末に亡くなったそうです。。。。

同日、豊後勢は筑紫も討たんと山隈原に陣を布き攻撃、岩屋城・若杉城の両城が同日に落ちる。
筑紫惟門は嫡子・広門を伴い五箇山に入った。

家紋・秋月 秋月家紋ロゴ

城のあちこちから火の手があがり、周囲の山からも黒煙が見えた事だろう。
父・文種は、自害の前に種実と種実の弟二人を脱出させた。
古処山城は大友軍に接収され、秋月種実は9歳にして帰る城を失い、滅亡の惨めさを知る。

この戦いで没落した秋月家は、史料が散逸し一族の系譜が一部不明になる。
種実の年齢にも諸説があるのだが、本記事では9歳説(天文17産まれ)を採用した。

脱出した種実と弟たちは(弟の年齢も不明)、秋月家臣・深沢が守り毛利家へ預けられた。
深沢は同行せず秋月に残り、種実が再起する日に備え準備することにしたんです。


毛利元就が秋月の遺児を保護したのは、もちろん善意などではない。
北九州を毛利の物とするため「秋月家の御家再興」を利用できると考えたからです。

毛利家の領地、山口で種実は4年間を過ごしました。
この期間中に元就の長男・隆元(30代半ば)と、種実(食べ頃の10代)は「義兄弟(衆道関係)の契り」を交わしたとも言われてますが、シオは史料未確認です^^;

筑紫ですが、昔は「山口に亡命した」とされていましたが、現在では北肥戦誌の記述にあるように五箇山に潜んだ説が有力です。
話としては、広門と種実が幼馴染の方が面白かったのにネー(*´・д・)(・д・`*)ネー


さて、秋月種実「序」の巻は、これにて終了。
肥前・龍造寺隆信編に戻ります。
実は隆信は、秋月滅亡に便乗して行動を起こしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【秋月滅亡?!・前篇】秋月種実「序」の巻8

秋月家が大蔵系氏族で、それに関する事はプロローグで縷々と書いてるので割愛(笑
少弐が一番輝いていた鎌倉期も割愛(爆

で、室町期~~秋月家は少弐氏の配下でした。
が、少弐が没落したので大内配下にシフトチェンジします。

シフトチェンジは、年代で言うと永享年間の少弐没落だったと思います。
1433年(永享5年)に少弐満貞が、大内軍に敗れて筑前秋月城で戦死しています。
残った嘉頼(後に病死)と教頼が、対馬宗氏に保護されました。

1532年に大内・陶勢が肥前に侵攻した時に、大内配下だったはずの秋月が陶勢に攻撃されてるんですが、理由はシオペディアでは不明です。

秋月家は、普通の国人領主とは少し違っていたようです。
独立心が旺盛で、視野も広い。

1538年、大友義鑑と大内義隆が和睦するのですが、和睦調印は秋月の地で執り行われたそうなんです。
サイト「武家家伝」によると、大物が適地として上目線で秋月を選んだのではなく、秋月自身が働きかけ周旋に努めたとのこと。

時の秋月当主は文種。
秋月種実の父です。
1541年、秋月文種は「和睦で功績あり」と大内義隆の推挙を受けて、幕臣の一人となってます。
なんというか・・・やはり戦国大名化する国人領主は、先代のうちからアップを始めてるんだなぁ~と感じました。

家紋・秋月 秋月家紋ロゴ

大友義鑑は、大内と和睦後、大内から割譲された領地を足掛かりに、筑前で勢力を広げ始めていたようです。
1546年、秋月文種は大友に対し謀反を起こして敗れています。

大友家の「立花城~宝満山城~岩屋城」の軍事連携した防衛ラインは、秋月にとって文種の代から悩みの種だったんじゃないでしょうか。
大友家は国人に対し、キッチリ締めてくるタイプ。
秋月文種は、大内家よりアタリの強い大友の支配を嫌ってたと思います。

1551年「大寧寺の変」で大内義隆が死亡。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
秋月文種・・・気が進まない大友配下入り。。。il||li _| ̄|○ il||l

1557年、毛利元就が陶の置き土産である傀儡政権を倒し、首都・山口を制圧する。
毛利元就は文種に誘いをかけた。
元就(*´∀`)ノ「ヤホーイ、うちくる?」
秋月文種は毛利元就の誘いを受けて、大友氏から独立することを決意(`・ω・´)キリッ

1557年(弘治3)5月、秋月の離反を知り、怒った大友義鎮は毛利元就に手紙を書いた。
大友から元就への手紙
「前略(怒!)大友から離反した秋月文種を攻撃するから!今後一切、秋月への支援とか止めてよね!草々(怒!)」

人物・大友宗麟

主役の秋月種実は文種の次男で幼名は黒法師。

1548年(天文17・月日不明)生まれで、実は高橋紹運と同い年。
年齢には諸説あるんですが、個人的に紹運と同い年がツボなんで天文17年説を採択^^b

種実は、この時まだ9歳。
生まれ育った故郷の山河と城が大友軍によって攻撃を受ける。

ちなみに毛利元就は、同年の11月25日に「三本の矢」の元ネタになった「教訓状14か条」を息子たちに送るのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【大寧寺の変・後篇】秋月種実「序」の巻7

さて前回、中国地方の情勢を紹介したので、今度は北九州の情勢を紹介します^-^

ザックリ言うと守護大名の守護職というのは、室町幕府から国単位で一名、任命されます(郡単位の例外アリ)
でも守護大名本人は、京都や自分の本拠地にいて任官地には赴きません。
代わりに代理人として守護代を任命します。権限は軍事と行政の両方です。

さらに守護代は世襲でしたので、領民から見れば守護代が実質的な支配者なんです。
そのため、戦国時代に入り室町幕府の権威が衰えると、領地を直接支配していた守護代が守護大名を凌ぐようになります。
「大寧寺の変(1551年)」で謀叛を起こした陶晴賢は、周防守護代の家柄でした。
で、大内氏が北九州に配置していた守護代は、筑前杉氏と豊前杉氏の二家。

ちあみに肥前は少弐が頑張ってたせいで、中々大内の思う通りにはならず。
肥前守護代は、東千葉初代だったり、龍造寺村中宗家当主だったりと安定していません。

それと陶晴賢の父・陶興房、その生前は大内義隆の命で筑前・大宰府に駐屯していましたが、北九州の軍権そのものは、本来は筑前杉氏の職務です。
てことで、龍造寺の要請で少弐リベンジに援軍したのは、筑前杉さんなのネ^^b

家紋・大内 大内家紋ロゴ

謀叛によって自害した大内義隆の家臣に相良武任(さがら たけとう)という行政官がいました。
肥後戦国史・相良家でチラっと紹介した多良木相良家の血筋です。

元々は相良家宗家は多良木相良氏でしたが、多良木宗家が人吉相良氏に敗れた為に肥後を離れて大内義隆の家臣になった。

文官として優れていた相良武任は大内義隆に重用され、秘書的な仕事だけでなく奉行などの行政官としても活躍しました。(イメージは石田三成的な感じ)

武断派・陶は当然の如く不満!
相良武任の存在が、陶が謀叛を起こす引き金になったんです。


陶と対立した相良は、陶の軍事力を恐れて3度も大内家を出奔(しゅっぽん=家出)しています。
天文14年5月と天文19年9月の時は、石見の吉見さんに匿われたり、筑前杉さんのトコにいた。
もっとも筑前杉さんは、優しく保護したのではなく、相良を抑留して山口へo( ̄Д ̄θ★ケリッ!っと送還したらしい^^;

2回目に戻った時には、怒った陶が山口(大内氏の首都)への出仕を二ヶ月拒否したほどです。
3度目の出奔が1551年(天文20)8月10日・・・この月の28日に堪忍袋の緒が切れた陶が謀叛を起こすのです。

相良武任は、筑前・花尾城にいたのを、陶軍に攻撃されて殺されました。
本人の名誉のために~( ̄ko ̄)<相良は奮戦して討死したそうですよ

北九州の守護代の一人、筑前杉氏は、この時に亡くなります。
死に様には諸説あり、大寧寺で奮戦したとか、主君の後を追い自害したとか、相良と一緒に花尾城で死んだとか、色々言われています。

家紋・相良
(相良繋がりで相良家紋ロゴ)

陶に殺された相良ですが、生前(1551年1月)に、出奔の言い訳手紙を書いてます。
そこに問題発言がありました。

相良の手紙「豊前杉さんも陶が大嫌いって言ってたよ!」

こういう事を言うから「讒言する奴」って書かれ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ


長年争っていた相良を殺しスッキリ♪ヽ(*´∀`)ノ してた陶の耳に、遅ればせながら手紙の内容が入る。
(山口を占拠した時、押収した文書類に、相良レターが残ってたんです^^;)
豊前杉氏は陶の謀叛に同調していたとも言われていたのだが、たちまち揉めた( ̄ω ̄A;アセアセ

[生来の激しい気性+謀叛後でピリピリ]だった陶は、豊前杉氏を殺してしまう(同じ1551年の出来事)
その陶も1555年(天文24)10月16日の「厳島の戦い」で、毛利元就に敗れて自害する。

【守護大名⇒守護代】の秩序が完全に崩壊したため、市ではない北九州地方は混乱した。


豊後のキングオブ九州・大友義鎮か
中国地方の新たな覇者として台頭した毛利元就か

北九州土着の国人領主たちは生き残るために、どちらかに帰属するのを選ばなければならなくなったのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回「秋月氏滅亡・前篇」

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【大寧寺の変・前篇】秋月種実「序」の巻6

1551年9月1日「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢(すえ はるかた)に討たれる。
「大寧寺の変」は中国地方における「本能寺の変」に相当する大事件です。

陶は傀儡当主に大内義長(大友義鎮の異母弟で亡き大内義隆の養子)を推戴した。
大友義鎮は、陶からの申し出を二つ返事で了承し、異母弟を山口へ送り出した

大友の狙いは大内が握っていた日明貿易。

異母弟を通じて貿易に参入しようとしたのだが、肝心の明国が傀儡当主を大内の後継者と認めなかったので、日明貿易そのものが途絶える。


さて、石見に益田藤兼(ました ふじかね)と云う国人領主がいた。
益田は陶家の縁戚だった関係で陶晴賢と親しく、「大寧寺の変」の後は陶の右腕となった。
大内の傀儡当主に大友義鎮の異母弟を~と云うのは益田のアイデアだったらしい。

その益田のライバルだったのが吉見正頼(よしみ まさより/1513~1588年/吉見家11代目当主)だ。
吉見は5男で出家し僧となっていたが、父と兄が相次いで亡くなると、家臣から請われ還俗して家督を継いだ。

大内義隆の生前から吉見と益田は領地問題で揉めていたのだが、陶の側近となった益田は露骨に吉見の領地を狙いはじめた。
元より清廉な気性の吉見には、謀叛を起こした陶の傀儡当主など到底、受け入れ難い。

1552年5月・吉見は毛利元就に打倒・陶(と益田)のため助力を要請した。
が、稀代の陰謀家であると同時に超慎重な毛利元就は態度を明確にしなかった。
その間にも吉見の領地を狙う益田軍との小競合いが続き、吉見~我慢の限界突破!

1553年10月・吉見は大内(=陶)からの独立を宣言!陶と抗戦状態に突入する。
ちなみに1553年1月22日に元就の孫・毛利輝元が産まれてます~(*´艸`)

陶晴賢は吉見正頼を討つために、傀儡当主・大内義長を総大将に兵13000で出陣。
益田軍も兵2000で、これに合流する。迎え撃つ吉見軍は1200!

1554年3月2日・10倍近い大軍が吉見の本城・津和野城(当時の名称は三本松城)を包囲した。
吉見の方はというと、最初から籠城するつもりで城下の町民2000人を城内へ避難させていました。

同年4月17日・陶軍が津和野城を総攻撃したが、津和野城は堅城で持ちこたえる。
吉見のライバル益田は、津和野城の支城を次々と攻略し、津和野城を孤城にしようとした。

この間も毛利元就は様子見状態~~~|壁|_ ̄)じぃー

夏ごろ、慎重な元就の反対を押し切り、嫡男の隆元が援軍を出す。
兵力は焼け石に水の40名(少っ!)だが、この場合は兵数ではなく援軍そのものが政治的意味を持つ。

毛利元就が陶晴賢の奉じた傀儡当主を否定したという事になるからだ。

家紋・毛利 毛利家紋ロゴ

津和野城を包囲して約半年、陶は毛利元就に対する備えも必要になった、このままじゃ埒が明かない~

8月23日・頃合を見計った吉見が嫡男を人質に出す事を条件に降伏する。
9月、後始末は陶にお任せコースで傀儡当主・大内義長が山口へ帰った。

どっかの政党のように、もともと考えがバラバラだった者たちの集まりです。
大内内部で仲間割れが起きて、毛利元就に内通する者が出る。

1555年10月16日・「厳島の戦い」で、ついに毛利元就が陶晴賢を破る。
陶はアッサリ自害、自分が持ち上げた当主・大内義長は置いてけぼりだヽ(。_゜)ノ へっ?

1556年、吉見は陶の死で弛んだスキをついて、人質に出していた嫡男(14歳)を取り戻す(=^・ω・^=)v ブイ
1557年3月、毛利元就と連携した吉見軍は、大内家の首都山口を制圧(=^・ω・^=)v ブイ

吉見は押収した大内家の重宝・家宝を毛利元就に献上し、正式に家臣となった。
同年4月3日、大内義長は自害し、西国のドン・大内家は滅亡した。

大友義鎮は異母弟の助命より茶器を欲しがった~などと非難されている。
だが実は陶の死後から山口制圧までの間、大内義長は逃げようと思えば出来たらしい。

それが武門の意地なのか、義長は異母兄である大友義鎮のいる豊後(大分県)に逃げようとはしなかった。
また、毛利元就と大友義鎮の間で相互不可侵の裏取引が出来ていたとも言われている。

人物・大友宗麟 大友義鎮=宗麟

山口を制圧する一方、同時進行で陶の側近だった益田藤兼が、吉川元春(元就の次男)と宍戸隆家(元就の娘ムコ)のフルボッコ猛攻撃を受け降伏した。

陶の側近&功労者である吉見のライバルという事があって、毛利元就は益田の助命を渋った。
だが益田の才能を惜しんだ吉川元春の強い要望により、助命と本領安堵が認められる。
寛大な処置に感謝した益田は以降、毛利家(と吉川家)の忠実な家臣となり、吉見との領地問題でも和解する。


豊臣秀吉が織田信長を殺した明智光秀を討って天下統一の階段を登ったように、
毛利元就も大内義隆を殺した陶晴賢を討つことによって旧大内領を引き継いだのだ。

ベテラン陰謀家・毛利元就
28歳の若さの大友義鎮

二人は旧大内領であった北九州の覇権を巡るライバルとなって激しくぶつかりうのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【姓氏対立「事件?!」】秋月種実「序」の巻5

さて、次ぎはキングオブ九州・大友、基礎用語の時間です^-^

加判衆~大友家・家臣団のトップで、5~6人で構成され、現代風に云うと大臣に相当する。

同紋衆~大友家と同じ家紋の使用を許されているエリート集団。主に親族や譜代の家臣たち。

他姓衆~同紋衆以外の家臣・配下の国人

エリート意識の強い同紋衆に反発し、他姓衆は常に待遇などで不満を持っていた。
これは昨日、今日からの話ではなく、大友家の歴代に渡る対立でした。

その憤懣のマグマが噴出したのが「姓氏対立事件」です。

それは主家である大友家と、他姓衆である家臣団の関係が、征服者と被征服者の関係だった事から起因している。

とはいえ、どこの大名家でも多かれ少なかれ、そういった要素があるものだ。
だが大友家では領内統治の一環として、例えば紋の使用許可などのように、身分格差を徹底した為に他家より不満が燻ったんです。

1550年の肥後での謀叛鎮圧に功績があった他姓衆に対し、大友家では満足な恩賞を与えなかった。
これは大友家の懐事情のためでした。

肥後という土地は他国より土着の国人領主が多く、その実力も拮抗していた。
彼ら国人領主は謀叛鎮圧後に大友家へ帰属したのだが、大友に対し従前通りの領地所有を要求した。
認めなければ再び派手な謀叛が起きる。
肥後の謀反は隣国・筑後にも飛び火する確率が高く、大友義鎮はOKするしか無かった。

謀叛の鎮圧では、新たな領地が急増する訳ではないので、功績があった者へ配分するだけの土地が無い。
だが日頃、処遇に不満を持つ他姓衆たちは、また自分たちが格下に扱われたと怒りが燻った。


家紋・大友 大友家紋ロゴ

他姓衆から選ばれた加判衆(=大臣)に小原鑑元(おばら あきもと)という家臣がいる。
小原氏は他姓衆・阿南氏の庶流の家なので家格は高い方ではない。
彼は先に挙げた謀叛鎮圧後の功労者として、肥後方分(ほうぶん)に任命された。

方分とは語源的には「方面分担」の略らしく、権限は行政と軍事の両方で大きい。
現代で言うと大臣が県知事を兼務する状態だ。
つまり謀叛直後の不穏な肥後の戦後処理と統治を任されたって事です^^

大友義鎮は、家臣の謀反を終生警戒していました。
そのため1人の家臣に権限が集中するのを嫌い、加判衆が役職の兼務をするのも嫌いました。

謀叛鎮圧の2年後の天文21(1552年)、小原は何の落ち度も無いのに突然、加判衆から外された。
メンツの潰された小原と恩賞に不満だった他姓衆たち。。。彼らが意気投合し互いの怒りが遂に爆発。

1556年(弘治2)5月・小原が肥後で謀叛を起こす
「事件」と呼ぶのは謀反鎮圧そのものは一月ほどで終ったからだろう。

首謀者の小原鑑元は討死、妻子は自害で滅亡した。
大友側・謀叛側の双方の死傷者は7000名にも達したが、6月には戦後処理が行われた。

だが言葉で「事件」と小さく報じても影響の大きさは隠せない。

大友義鎮は、小原に同調した家臣13名を処断し、府内にある彼らの屋敷を焼き払った。
そして危難(暗殺)を避けるため首都である府内から臼杵への転居を余儀なくされたんです。

人物・大友宗麟 大友義鎮=宗麟

小原と処断された13人の多くは、豊後大神系氏族出身でした。
豊後大神系氏族は鎌倉時代に大友支配を嫌って抵抗し続けていた一族です。
大友家の力の前に服従し家臣化した彼等でしたが、大友の身分格差統治スタイルにキャパ限界になったんです。

反抗的な豊後大神系氏族は、大友家にとっても靴の中の小石のようにイラっと来る存在。
主だった者たちを小原謀反にかこつけて処断し、彼らの力を分散したのではないでしょうか。
殺された13人全てが、本当に謀反に加担していたのか、シオは多少勘ぐってます^^;

鎌倉時代の大友家は、豊後大神系の一部を同紋衆に入れ(戸次や臼杵など)、残りは他姓衆にして血族間の横の連携を断ちました。
ですが豊後大神系氏族は、豊後国最大の氏族でして派生した武家も多いんです( ̄ω ̄A;アセアセ
処断に逆切れした暴徒が、義鎮の生命を脅かす可能性は無きにしもあらず。
で、王様自らが首都を引っ越すという、ちょっと情けない結果となったんです^^;

小原鑑元謀反の顛末と肥後国との絡みは、肥後戦国史で(ガッツリ)紹介したので、今回は簡単に経緯のみ紹介しました^^
king大友、幻の三州統一・壱~終

大友家で起きた謀叛の余波を見逃さず、虎視眈々と狙う人物がいる。
中国地方の新たな覇者・毛利元就が大友家に対し、特に海を挟んで自国の対岸にある北九州に野心を抱いた。

大友義鎮が家督を相続し次々起きる謀叛という試練を、何とか乗り越えてきた時期は、毛利元就が中国地方の新たな支配者として地盤を固めつつある時期と重なっている。
1557年~「姓氏対立事件」の翌年、毛利元就は傀儡政権だった大内氏を滅亡させ、本格的に北九州に介入し始めるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【人妻は謀反の香り?】秋月種実「序」の巻4

隆信編を再開するにあたり、ブランクが空いたので、まず復習(大友関連)と予習(大寧寺の変)の秋月編タイムです。^^b




弟派の家臣を粛清し、家督を狙う叔父(肥後・菊池義武)を退けた大友義鎮(おおとも よししげ)だが、それで豊後国内が安泰になったわけでは無かった。

1553年(天文22)閏1月23日・謀叛の罪で家臣の屋敷に兵士が差し向けられ殺される。
殺されたのは一万田鑑相(いちまんた あきすけ)宗像鑑久(むなかた あきひさ)服部右京亮(はっとりうきょうのすけ)の3名だ。
1553年はキリシタンの布教が正式に認可され、同年6月には宣教師の住院が完成している。

処断された3人は布教に反発、服部が義鎮暗殺を目論み、それが発覚。
首謀者として一万田と宗像の兄弟と服部が処断されたのだが、この話には尾ひれが付いた。

義鎮が服部の美貌の妻に目を付け、彼女を側室にするために服部らを殺した。

と言う話だ。
だが管理人は、この話には疑問を感じる。


人物・大友宗麟 大友義鎮=後の宗麟

以前も話した正妻の奈多夫人の出産ペースを考えると、この時期は奥方一筋のように感じる。
それに逸話通りに女遊びを遣りたい放題なら、庶子の数が1女だけ、というのは少なすぎる。
(正妻の奈多夫人は義鎮の子供、8人のうち7人を出産)

それにお家騒動「二階崩れの変」で、義鎮が家督を継いでから足掛け3年目でしかない。
家臣の妻を奪うような愚かな男を、前当主を殺してまで奉じるとは考えにくい。
義鎮はキリシタン大名としての行動に対して、生前も死後も、非難悪口を言われ続けてきた。
大名として生き残る事の出来なかった大友家は、江戸時代にキリシタンが禁教となった事もあり、反論するチャンスが無いままに、後世さらに面白ろ可笑しく脚色されたと思います。


さて君主が 家督を相続⇒反対派の粛清 と、ここまで来ました。

では次に必要なことは何だと思いますか?

君主が次に為すべき事は、家臣団の統御で自分が主権者であるとアピールする事です
処断された一万田鑑相は、義鎮の家督相続の時は加判衆(かばんしゅう)でした。

加判衆とは大友家・家臣団のトップで5・6人のメンバーから構成されており、江戸時代で云うと老中のような地位にあたります。

江戸時代でも政権交代が起きると、それまでの老中が失脚し、メンバーの入れ替えがありました。
大友家内部でも同じことが起きたと思います。
一万田鑑相は大友内部での権力争いの破れ失脚したんです。

失脚した一万田が起死回生を狙って義鎮の命を狙ったのか?
はたまた義鎮自身が、自分の統治に彼が邪魔で排除したのか真相は謎です。

この討伐に対し、家臣の一部から反対が出ましたが義鎮は自分の意思を押し通しました。

家紋・大友 大友家紋ロゴ

1554年(天文23)5月~大友に謀叛を起こし、相良家に亡命していた菊池義武(きくちよしたけ)が殺されます。
これで肥後(熊本県)の名門・菊池家の家名が絶えました(-人-)☆彡モッタイナイ・・・

ただ菊池家の血筋自体は残ってて、名前を米良氏と変えて存続します。
そして、まだ先の話だけど菊池家の生き残り、米良氏が主役の秋月家に関わりが出てくるのです。
意外なところで色んな人が繋がって行くのが歴史の楽しさです^^


さて、ヤル時は徹底している大友義鎮。
敵から見れば恐ろしいが、主君または味方であれば頼もしい人物だったと思います。
英邁だった義鎮が変化していくのは、キリシタンへの信仰が深まって行くからです。

現代であれば、高潔・立派だなぁ~と感じる慈悲や慈愛の行動。
時が戦国時代となれば「うちの殿様が変なんですけど~~~~!?Σ(´Д`;)」と理解不能。

家臣にすればキリシタンの教義基準で物事を決定されるのは、迷惑至極でしかない。
そのため雷神と武勇を讃えられた戸次道雪が、たびたび主君である義鎮に諫言するのだが、それは・またの話 by^-^sio


次回「事件?!」

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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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