36【秋月、その滅亡の連鎖】龍造寺隆信「連」の巻11
・・・のだが、北肥戦誌に、この話は記載されていない。
記載されているのは陽肥軍記、肥前旧記(普聞集)といった軍記物のみだ。
本シリーズは、北肥戦誌(神代関連は三瀬村史含む)ベースなので、記載されていない逸話は省略~
1557年7月19日、筑前・古処山城が落城、秋月文種が家臣の裏切りにより自害する。
大友支配を嫌い、中国地方の新たな覇者・毛利元就の支援で自立しようとして、逆に滅ぼされた秋月氏。
龍造寺隆信は、この動きに便乗した。
まず、隆信も納富信景を毛利家へ派遣して誼を通じている。
大内義隆が謀反により自害して以来、龍造寺隆信には未だコレといった後ろ盾を得てない。
というとこは、肥前における龍造寺の地位は、まだまだ不安定だったのでは無いだろうか?
1555年に山内・谷田城が龍造寺勢に攻撃され、神代勝利は筑前・糸島郡原田氏の保護下に入った。
だが神代亡命は1557年という説もあり、情報が錯綜している。
これは時系列がゴタゴタなのではなく、そもそも谷田城への攻撃が断続的にあった!
とは考えられないだろうか?

先年、両雄が会見した地、龍造寺・村中城から半径1km以内の多布施。
多布施が神代と龍造寺のエリア緩衝地帯だと想定すると、神代エリアは佐嘉郡にかなり食い込んでいる。
そもそも山内エリアが、山岳地帯のため肥前三郡(小城・佐賀・神埼)と東西に広がっているのだ。
そして少弐もゾンビ復活力を失ってはおらず、その影響力は侮れない。
大物の後ろ盾がない龍造寺旗下の勢力だけで、山内の神代勢を一掃するのは厳しいものがある^^;
三瀬村史によると、神代が亡命した後、龍造寺側では山内各所に関所を設け、山内衆の横の連携を断とうとしたらしい。
(村史には「山内領民を靡かせるため」となっている)
「そのせいで神代は直ぐに山内に帰還する事が出来なかった」とあるので、一定の効果はあったのだろう。
それでも山内の領民は龍造寺派遣の代官に靡かなかったというから、よほど嫌われ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
だから、時系列??情報錯綜??って、なるくらい各所で小競り合いがあるほうが、むしろ自然じゃなかろうか。
詳細不明だが北肥戦誌には、1557年春に隆信が出撃し同3月11日に隆信家臣・小田が負けたとある。
思うようにいかない隆信にとって、秋月滅亡が絶好のチャンス!
なぜなら秋月討伐のために、大友の大軍が筑前に布陣したからです。

秋月が滅亡した5日後の事だ。
7月24日、隆信は鹿江兼明の鹿江城へ攻め込む。
鹿江は大軍に防ぎきれず、父子3人は討ち死にした。
鹿江は川副衆の一人で、亡き剛忠(家兼)恩顧の者でありながら、龍造寺を裏切り神代と組んだ。
1554年に鹿江の娘が、神代勝利の嫡男に嫁いでいる。
隆信は秋月討伐に便乗し、佐賀郡にいる神代配下の豪族を始末する決断をしたのだろう。
隆信は「大友に害する者を成敗致しました m(__)m」(鹿江、死後も涙目)
と、鹿江の首級を豊後勢の陣に差し送り、大友とコンタクトに成功(=^・ω・^=)v ブイ
勝利を治めた豊後・大友勢は各城に在番として入ったのだが、勢福寺城には大友家臣・豊饒鑑栄が入っている。
龍造寺側の方で、大友勢に「勢福寺城を御使い下さい~」と働きかけたのだろう。
勢福寺城在番に大友家臣が入る事に対する、東肥前への政治的効果は計り知れない。
今まで少弐と同盟関係だった大友が龍造寺の後ろ盾になった
と内外に示す事になるからです^^b
同年8月12日、隆信は上佐嘉へ進軍、神代衆を多数討ち取った。
ここから先の北肥戦誌は細かいところはともかく、1555年に神代が敗れて筑前へ亡命した部分と内容が被ります。
おそらく、佐嘉における神代勢を駆逐するために、龍造寺勢が各所で戦ったものと思われます。
とにもかくにも、佐嘉郡を掌握しなければ話にならない。
肥沃な佐賀平野を求めて降りて来た山の民を、再び山に押し込めなくては・・・!
大友の秋月討伐に便乗した龍造寺隆信の行動は、
当然、筑前に亡命していた神代勝利の元へ届いていただろう。
隆信の動きは、山内全体の危難を招きかねない。
神代勝利は、山内へ戻る算段をしたのだが、それは・またの話 by^-^sio
龍造寺隆信「連」の巻、これにて完結(^ -)---☆Wink