【秋月、その滅亡の連鎖】龍造寺隆信「連」の巻11

1556年、この年に隆信生母・慶誾尼と鍋島清房が再婚したことになっている。
・・・のだが、北肥戦誌に、この話は記載されていない。

記載されているのは陽肥軍記、肥前旧記(普聞集)といった軍記物のみだ。
本シリーズは、北肥戦誌(神代関連は三瀬村史含む)ベースなので、記載されていない逸話は省略~

1557年7月19日、筑前・古処山城が落城、秋月文種が家臣の裏切りにより自害する。

大友支配を嫌い、中国地方の新たな覇者・毛利元就の支援で自立しようとして、逆に滅ぼされた秋月氏。

龍造寺隆信は、この動きに便乗した。
まず、隆信も納富信景を毛利家へ派遣して誼を通じている。

大内義隆が謀反により自害して以来、龍造寺隆信には未だコレといった後ろ盾を得てない。
というとこは、肥前における龍造寺の地位は、まだまだ不安定だったのでは無いだろうか?

1555年に山内・谷田城が龍造寺勢に攻撃され、神代勝利は筑前・糸島郡原田氏の保護下に入った。
だが神代亡命は1557年という説もあり、情報が錯綜している。

これは時系列がゴタゴタなのではなく、そもそも谷田城への攻撃が断続的にあった!
とは考えられないだろうか?

東肥前ぬくもり戦国地図

先年、両雄が会見した地、龍造寺・村中城から半径1km以内の多布施。
多布施が神代と龍造寺のエリア緩衝地帯だと想定すると、神代エリアは佐嘉郡にかなり食い込んでいる。

そもそも山内エリアが、山岳地帯のため肥前三郡(小城・佐賀・神埼)と東西に広がっているのだ。
そして少弐もゾンビ復活力を失ってはおらず、その影響力は侮れない。
大物の後ろ盾がない龍造寺旗下の勢力だけで、山内の神代勢を一掃するのは厳しいものがある^^;

三瀬村史によると、神代が亡命した後、龍造寺側では山内各所に関所を設け、山内衆の横の連携を断とうとしたらしい。
(村史には「山内領民を靡かせるため」となっている)
「そのせいで神代は直ぐに山内に帰還する事が出来なかった」とあるので、一定の効果はあったのだろう。

それでも山内の領民は龍造寺派遣の代官に靡かなかったというから、よほど嫌われ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
だから、時系列??情報錯綜??って、なるくらい各所で小競り合いがあるほうが、むしろ自然じゃなかろうか。

詳細不明だが北肥戦誌には、1557年春に隆信が出撃し同3月11日に隆信家臣・小田が負けたとある。
思うようにいかない隆信にとって、秋月滅亡が絶好のチャンス!
なぜなら秋月討伐のために、大友の大軍が筑前に布陣したからです。

家紋・大友 大友家紋ロゴ

秋月が滅亡した5日後の事だ。

7月24日、隆信は鹿江兼明の鹿江城へ攻め込む。
鹿江は大軍に防ぎきれず、父子3人は討ち死にした。


鹿江は川副衆の一人で、亡き剛忠(家兼)恩顧の者でありながら、龍造寺を裏切り神代と組んだ。
1554年に鹿江の娘が、神代勝利の嫡男に嫁いでいる。

隆信は秋月討伐に便乗し、佐賀郡にいる神代配下の豪族を始末する決断をしたのだろう。

隆信は「大友に害する者を成敗致しました m(__)m」(鹿江、死後も涙目)
と、鹿江の首級を豊後勢の陣に差し送り、大友とコンタクトに成功(=^・ω・^=)v ブイ

勝利を治めた豊後・大友勢は各城に在番として入ったのだが、勢福寺城には大友家臣・豊饒鑑栄が入っている。
龍造寺側の方で、大友勢に「勢福寺城を御使い下さい~」と働きかけたのだろう。

勢福寺城在番に大友家臣が入る事に対する、東肥前への政治的効果は計り知れない。
今まで少弐と同盟関係だった大友が龍造寺の後ろ盾になった
と内外に示す事になるからです^^b

同年8月12日、隆信は上佐嘉へ進軍、神代衆を多数討ち取った。

ここから先の北肥戦誌は細かいところはともかく、1555年に神代が敗れて筑前へ亡命した部分と内容が被ります。
おそらく、佐嘉における神代勢を駆逐するために、龍造寺勢が各所で戦ったものと思われます。

とにもかくにも、佐嘉郡を掌握しなければ話にならない。
肥沃な佐賀平野を求めて降りて来た山の民を、再び山に押し込めなくては・・・!

大友の秋月討伐に便乗した龍造寺隆信の行動は、
当然、筑前に亡命していた神代勝利の元へ届いていただろう。

隆信の動きは、山内全体の危難を招きかねない。
神代勝利は、山内へ戻る算段をしたのだが、それは・またの話 by^-^sio

龍造寺隆信「連」の巻、これにて完結(^ -)---☆Wink

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【猿呪?/山内の英雄~神代勝利・七】龍造寺隆信「連」の巻10

小副川教実が神代勝利の送り込んだスパイとバレたのでしょうか。
(そもそも潜入した時期も不明なのだけど^^;)
1555年閏10月(北肥戦誌だと同年12月)、龍造寺隆信は東方を攻めるとして出馬したが、突如馬首を北へ転じて、小副川教実の谷田城に攻め掛かった

急な事で山内の諸城から援軍を呼ぶ暇はない。
千布城にいた神代勝利は僅かな兵でもって谷田城救援へ向かった。

ただし三瀬村史だと神代勝利が千布城に入った(同年3月下旬)記述がなく、谷田城にいたことになっており、小副川の方が援軍にやって来たことになってます( ̄ω ̄A;アセアセ

このあたり情報が錯綜してるっぽい。
何しろ神代は自身が何処に在城しているか、適宜に偽情報を流して龍造寺側を攪乱してたからです。
暗殺回避もありますが、龍造寺が山内の何処を攻撃したら良いかと、的を絞らせないようにしてたのでしょう。

逆に龍造寺隆信の突然の谷田城攻撃は、12月(三瀬村史だと閏10月)時点で、神代勝利が谷田城にいる情報を入手したのかもしれません。

てか、そもそも1555年ではなく、1557年かもって感じで時系列ゴチャゴチャ。
セットで攻撃される江上武種も何回降伏してるんだか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

とにかく城が要害・兵は奮戦でも、龍造寺の攻撃に小勢では如何ともしがたい。
神代勝利は一旦、城を捨て妻子を伴い、筑前は高祖城主・原田入道了栄(隆種)を頼って長野に隠棲した。

東肥前ぬくもり戦国地図

長野が糸島郡の何処になるかは特定できなかったんですが、地図だとグレーゾーンから先が原田エリアです。

隆信は勝利を討ち漏らした事に不満だったけど、とりあえず山内平定(=^・ω・^=)v ブイ
ってことで、山内に代官を配置した。

隆信の配した代官は、山内の領民を靡かせようと頑張ったらしい。
だが領民たちは、一向に懐かず「殿様(神代勝利)は必ず戻る(`・ω・´)キリッ」と信じ、ひたすらその帰りを待ったとか。

領民といっても、彼等は郷士のような感じでイザってなると農民・漁師色々が、そのまんま兵卒に転身する。
下手に刺激すると一揆されるので、龍造寺派遣代官も強引な事は出来なかっただろう。
察するに租税や軍役・諸役など、代官の要求に答えずガン無視したんじゃなかろうか^^;
てことは一定期間、神代勝利は山内を離れてたはずなので、やっぱ1555年かな~とも思う。

で、三瀬村史によると、神代家は長野潜伏中に「猿の祟り」にあったそうな。

( ̄ko ̄)<何でも息子さんの長良が、子供を身籠ったメス猿を鉄砲で撃ったんですってよ

以来、死んだ猿が「うらめしや~」とばかりに夢枕に立ち、
それどころか実体化?して目の前に現れ、啼き悲しみ禍となった(そりゃ恨まれるわな)

神代家では山々に祠を立て、猿を祀ったところ、ようやく祟りは治まり、
静まった猿霊?は、今度は神代家を守る守護神に転じたそうです。

さて、次は時系列パターン2~これには筑前・秋月家の動きが絡むのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【酒宴/山内の英雄~神代勝利・禄】龍造寺隆信「連」の巻9

出典は北肥戦誌と三瀬村史
三瀬村のゆるキャラが「かつとし君」との最新情報キャッチ~
最新すぎて検索してもHITしない~誰かネットに画像アップしておくれ(-人-)☆彡オネガイ

1555年3月、少弐冬尚は筑紫エリア勝尾城から横岳エリア西島城に移動。
城原の勢福寺城には、引き続き江上武種が在城だった。

2月に歌(神代作詞作曲)で小馬鹿にされて(龍造寺が神代を毒殺しようとしたともある)和睦が破綻した龍造寺と神代勝利。
その神代との和睦を仲介したのが江上だったので、隆信の矛先が江上にも向いた。

で、「江上を攻撃する手始めに」姉川惟安の姉川城が龍造寺軍の攻撃を受けた。
姉川「え?!コッチΣ(´Д`;) うあ゙」

姉川といえば、織田信長が浅井・朝倉と激突した「姉川の合戦」が圧倒的に有名ですが、
肥前の姉川は、川の名前ではなく武将の名字であり、その本城の名前^-^

東肥前ぬくもり戦国地図

書ききれなくて省略した姉川城は、城原川沿いで勢福城のちょい手前にある城。
だから敵が勢福寺城を攻略しようとすれば、必然的にセットで攻撃されるという気の毒な場所に位置しているんです^^;

姉川は400の手勢で抵抗しましたが、龍造寺勢が500で五手に別れて城を猛攻撃。
防戦しきれず止む無く降伏。
姉川勢400は、そのまま勢福城攻撃の先陣(=道案内)へとリサイクルされました♪

北肥戦誌によると神代勝利が江上の援軍として出陣。
勢福城より北に位置する猿岳(神埼市東鹿路)に布陣したとあります。
ただし「神代家伝記」には、その記述はありません。

江上も頑張って抵抗したんですが、龍造寺勢・福重が城の水路から侵入し城内に火をかけた為に防ぎきるのが困難になった。
江上は城を捨て仁比山へと脱出しました。

仁比山は神代がいた(とされる)猿岳とは別方向です。
神代は~というと、一戦することなく山内へと引いたそうです。

勝鬨を揚げて凱旋した龍造寺勢。
だが、このまま大人しく引っ込む神代じゃありません。

3月下旬、神代勝利は山内から龍造寺領の近辺へと打ち出て諸所を放火。
自身の出城である千布の土生島城(千布城)に入った。


左・くましろん/右・くま~
左・神代勝利VS右・龍造寺隆信

隆信は近臣を集め「我ら弓前を執っては向かうところ敵なしなれど、神代勝利は我らの障壁である。奴を討ち取る計略はないものか」と述べる。
これに小河信安が、「彼の神代勝利と申すは機篇あくまで鋭く、前に在るかと見れば後ろに在り、左に現るるかと思わば右に隠れる。されど、私とて劣るべき点は御座いません。よって彼奴を易々と討ち取り、隆信公の御目に掛けましょう」と述べて席を発った。


千布城にいる神代。風雨の強い夜に家人を集めて酒宴をしていた。
侍女の一人が勝利の湯殿へ行ったのだが、息を荒げて走り戻り「湯殿に大男が居る!」と述べた。
どうやって忍び込んだのであろう。大男は小河筑後守信安であった。

神代勝利は「誰ぞ湯殿へ行き、酒宴の半ばであるが筑後殿も参られ酒を呑まれませいと、述べよ」と命じた。

小河は宵に城内へ忍び入り、勝利暗殺を企図していたが見つかってしまい、本意を遂げられなかった。
神代勝利も危うく風呂場で暗殺された武将の仲間入り・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
小河は内心口惜しく感じながらも、勝利の盃を受け勝利へも返杯し、そのまま龍造寺領へ帰った。

他にも勝利は、神代家臣・小副川教実を追放したように見せかけて龍造寺家臣とさせた。
龍造寺で所領まで得た小副川は、隆信の計略を逐一、勝利に報告したそうな^^;

ちなみに小副川教実の谷田城は、江戸期は佐賀本藩の蔵入地だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【ノーヤ節、山内の英雄~神代勝利・五】龍造寺隆信「連」の巻8

翌1555年2月、隆信は神代勝利へ談合と饗応を申し出た。

前年の加冠役の話が、地名以外はイマイチ曖昧^^;

ただ後から思い出したが、信周は庶子・隆信の異母弟。
そのため末弟の長信(隆信と同腹弟)より地位が低かったというから、元服が遅いのもありかな~と思ったりする。

とにかく北肥戦誌ベースだと、龍造寺隆信と神代勝利が直接会ったのは、この饗応の時という事になる。

左・くましろん/右・くま~
監修様提供イメージ画像~左が神代勝利・右が龍造寺隆信

場所は多布施・・・現:佐賀県佐賀市多布施で、龍造寺の村中城から1km弱の土地。
多布施から600mほど東にあるのが、前年に神代が祝儀にと割譲した領地・大財と愛敬島がある。

おそらく多布施が神代・龍造寺双方の軍事緩衝地帯だったのだろう。
ちなみに宴会式場は、多布施にあった豪族の館だそうだが。。。。。その豪族は戦国を生き残れたかなぁ^^;

神代は江原石見守・福島伊賀守阿含坊という大剛の者らを選りすぐり召し連れて、多布施に赴いた。

これが「ドラマ:信長のシェフ」なら、タイムスリップした平成の料理人が魅せる華麗な包丁さばきに、
「ぅお~これは!*@?※~~(゚ロ゚屮)屮」と神代勝利が改心?して、龍造寺に信義を誓うクライマックスシーン。

だが「北肥戦誌:龍造寺のシェフ(家人)」は、神代勝利を毒殺しようとしたらしい。
隆信の指示か、家人の独断かまでは記載されていない。

何せ神代は剣術師範で、門弟500人の道場主だった経歴の持ち主。
事前に危難を察知し上手く躱したのだろう。
何事もなく談合と饗応は終わった・・・・が、ちょっとしたハプニングが起きた。




神代勝利は馳走になった後、帰り際、いきなり隆信の愛馬に飛び乗った。
(*・▲・)「!?」呆気に取られる隆信らに対し、
神代(*´○`)o¶~~♪「おどま山からじゃっけんノーヤ、お言葉も知らぬヨウ。あとで、ご評判なたのみます」
と、即興で歌を歌い、従者らと意気揚々と引き上げた。

毒殺だろうが謀殺だろうが、神代を討つには絶好のチャンスだった。
が、想定外・破天荒な神代勝利の行動に、龍造寺側は完全に毒気を抜かれ、何とはなしに神代を見送る羽目になってしまった。

神代の豪胆な行動は、山内中に拡がって大評判♪「さすがワシらの総領♪ヽ(*´∀`)ノ」となり、
勝利の即興歌は「ノーヤ節」と呼ばれ、三瀬地方の酒宴ではこれが出ないと座が賑わわないとまでいわれたそうです。
(ただし、平成現代では歌える人はいなくなり、伝承が途切れてますil||li _| ̄|○ il||l)

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

自己演出の豊かさは、神代氏のカラーだと思います。
その匂いは神代勝利の父からも感じます。
それが最も開花したのが、山内の英雄・神代勝利です。

英雄とは、歴史と言う万人が目にする舞台における、主役で演出家で脚本家で特殊効果で総監督なんです。

そして隆信と神代勝利は、違うタイプの英雄。

隆信の豪胆さは、苦しい状況でも苦しい素振りを露ほども見せない克己心・自制心から来る、いかにも修行を積んだ僧侶らしさを感じます。

神代勝利の豪胆さは「誰かに見られているのを常に意識して、豪胆な行動を見せている」だから外連味た~~ぷり。
類例をあげるなら衆人環視の中、単身で敵城へ乗りこむ豊臣秀吉と似ています。

秀吉タイプの英雄は、好き嫌いがハッキリ別れる。
個人的な印象ですが、龍造寺隆信にとって神代勝利の派手な自己演出は、生理的にキャパ限界な気がするんです。

神代は神代で毒殺は口実で、わざと隆信を怒らせるような事をした気がしないでもない^^;
ちなみに隆信の愛馬の後日談は北肥戦誌には無い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

とにかく両家の和睦は手切れとなったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【元服・・・山内の英雄・四】龍造寺隆信「連」の巻7

さて、初陣デヴューが元服前の武将・・・有名どころでシオ脳内で咄嗟に浮かぶのが犬千代(前田利家)クン^^

龍造寺隆信の次弟・信周もだったらしい?のか?
これも北肥戦誌にはなく、三瀬村史ソース。

家督争いで筑後へ亡命⇒リベンジ
というアタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタで「元服の儀」が後回しになった~
てのは充分に有り得る話ではある。

でも推定で19歳(異説で22歳)の信周の元服が未だって、ちょっと不自然(-ω-;)ウーン
末弟・長信クンなら推定15歳なので、そっちの間違いかな~とも思う。
とにかく三瀬村史が「信周(`・ω・´)キリッ」と明言してるので、そのまま進む。

1554年、少弐を綾瀬城からo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と追い出した10月15日以降の話だと思う。
龍造寺家では信周の元服の儀のためと、神代勝利に加冠役を依頼し、神代は快く承知した。

東肥前ぬくもり戦国地図

・・・・・・・何処で元服の儀式をやったんだろう(多布施かな?)・・・
・・・・神代が仮想敵の龍造寺・村中城まで出向いた?
・・・それとも(危険回避の)代理出向?

もう、この時点で突っ込みたいところが出て・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
とにかく強引に進む(`・ω・´)キリッ

以下、三瀬村史より抜粋( )内はシオ補足部分
『(加冠役の神代は)安房守(信周)の幼名を勝利と同じ新次郎に改め』
『(神代からの)引出物として大財、愛敬島のうち80町を安房守(信周)に与えた』


安房守って誰ですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

次弟・信周は左馬頭。
末弟・長信は兵庫頭。
名前の新次郎から検索かけても、どちらとも特定できなかった^^;

もっとも後年の信周は須古安房守でもある。
だから村史編纂・大元の出典元が安房守という表記であれば、ソースは一次史料ではなく二次史料。

そんな不確かな話に、何故にシオが食いついたかといいますと。
【引出物として大財、愛敬島のうち80町】とあったからです。

神代が気前のイイ話。。。。ではなく、問題は位置。
大財と愛敬島(現:愛敬町)、どちらも佐嘉郡で現代の佐賀市内。

それどころか龍造寺の本城である村中城から、北へ1kmほどしか離れてない土地なんです。

前後が突っ込みどころ満載でも、ここまで地名が明確ということは誇張ではないでしょう。
つまり勝利の勢力エリアは佐嘉郡・龍造寺エリアと超近接してたということです。
(ぬくもり地図でいうと、山内エリアって書いた文字のあたりから村中城までの空白部分が、神代エリアに相当)

隆信が筑後を追われた折に、龍造寺エリアは首なしで暴れたという強烈なキャラ・高木や神代らが分捕る・・・ゲホグホ。
もとい預かっていました。
高木の方は隆信がo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と倒し(後に謀殺)、実力で奪われていた龍造寺エリアは取り戻したはず。

でも神代が「預かっていた龍造寺エリア」は、和睦時に返却されることなく、そのまま神代がキープしてたんじゃないでしょうか。
強かな神代勝利なら、のらりくらりと躱して領地返還の話を有耶無耶にするくらいはやってそう^^;

次弟だろうが末弟だろうが親族の誰かだろうが、些事。(なのか?爆)
隆信は慶事という建前を出して、神代の面子を潰さず領地返還しやすい状況で交渉したんでしょう。

しかし神代も負けてない~「のうち80町」だから、全部は割譲してない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

人物・くましろん~ 神代勝利イメージ画像

神代エリア~地名に関しては整合性ある、とシオが判断した事には傍証もあります。
翌年に多布施で神代・龍造寺の会見があったからです。

多布施も佐嘉郡~現代の佐賀市内でして、大財と愛敬島から東へ600mほど離れた土地。
おそらく多布施が、龍造寺・神代エリアの国境であり、軍事緩衝地帯です。
「そう」でなければ、神代本人が出向くには龍造寺エリアに近すぎて危険なはずだからです。

また同年?月に、亡き龍造寺家兼恩顧の川副豪族・鹿江兼明の娘が、神代勝利嫡男に嫁いでいます。

鹿江が、リベンジ破竹の勢いである隆信から裏切りともとれる行動を、何故したのか不可解でした。
でも神代勝利エリアが、そこまで佐嘉郡に食い込んでいたのなら、川副郷の鹿江が靡いても不思議じゃない。
そして隆信が鹿江に対し、すぐリアクションできなかったのも、神代と睨みあい駆け引きの真っ最中だったからでしょう。

一筋縄でいかない「山内の英雄」に龍造寺隆信が(-ω-#)イライラしてたのは想像に難くない。
かといって戦で決するには神代勝利は手ごわすぎる。
隆信は一つの決断をしたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【山内の英雄~神代勝利・参】龍造寺隆信「連」の巻6

山岳地帯の山内26ケ山は、肥前三郡にまたがっている。

神崎山内~三瀬、藤原、久保、腹巻、鹿路、広瀬、杠(ゆずりは)
佐嘉山内~関屋、名尾、松瀬、小副川、畑瀬、菖浦、梅野
小城山内~合瀬、藤瀬、古場、無津呂、大野、摩那古、古湯、大串、栗並、波多瀬、杉山、市ノ川

その地に、それぞれ土着の豪族がおり、彼らの総領として推戴されたのが、神代勝利です。

神代三人衆~三瀬・松瀬・杠
神代五人衆~上記三人+菖蒲・畑瀬
神代七人衆~上記五人+藤原・栗並

山内総領として神代の本城は三瀬城なのだが、VS龍造寺への最前線として谷田城が築城される。
三瀬村史を参照しようとしたら、時系列が思いっ切り違った,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

東肥前ぬくもり戦国地図

1553年に筑後から肥前へリベンジ復活を果たした龍造寺隆信。

で、同年に勢福寺城の江上武種(少弐サイド)が、隆信の勢いに押され和睦する。
三瀬村史によると、その時に先に和睦した江上の仲介で、神代勝利も隆信と和睦したらしい。
らしい、というのは北肥戦誌には江上の降伏記述はあるが、神代には触れてないからなんです。

三瀬村史は、村史として全て残すぉ!(`・ω・´)キリッ
という村史ならではの主旨から、伝承・伝記の類も盛り込んでるので、玉石混合な部分があります。
とはいえ神代勝利の伝記としては、これ以上詳細なものは無いと思います。
そこで時系列が不自然なもの以外は、基本として採択したいと思います。

1554年10月15日、龍造寺隆信は綾部城にいた少弐冬尚を攻撃~少弐は肥前山浦城へ逃げ込んだ

カテゴリ「地図から見た少弐と龍造寺」にも記述しましたが、綾部城とは一つの城郭のことではなく、幾つかある城郭群の総称です。
少弐のいた「綾部城」は、そのうちの一つ「少弐山城(別名:綾部城)」。

で、少弐が逃げ込んだ肥前山浦城とは、勝尾城(鳥栖市山浦町)の別名^^b
勝尾城って別名が多過ぎてリサーチ泣かせでつ~~(´Д`;)
勝尾城は筑紫氏エリア~少弐は、筑紫を頼ったみたい^^b

筑紫って少弐一門のクセに、しょっちゅう少弐を裏切る困ったさん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
少弐から寝返り、頼った先の大内が陶の謀反でガタガタになったので、やむなく大友配下なぅ~
龍造寺隆信排斥の動きに便乗し、この時期は少弐とタッグを組んでたんです( ̄ω ̄A;アセアセ

で、この少弐攻撃の時に龍造寺隆信は神代勝利にも「先年、和睦の誼み」と協力要請を出した。

人物・くましろん~ 神代勝利イメージ画像

三瀬村史には「再三」とあるので、かなりしつこく言ってきたらしい。
隆信に本心から従ったわけじゃない神代勝利。
自身の出馬を避けて、一族の者に騎馬武者30騎、軽卒合わせて300余人を出陣させた。
神代が少弐に何て言い訳したかは知らない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

で、ここから先が嘘っぽい・・・ゲホグホゴホ・・・もとい伝承っぽい話になる。

何と出陣した300余人の中に、神代勝利の次男が忍んでいたそうな

( ゚д゚)ンマッ!!

父、勝利が承知の上での行動なのか、息子が暴走ヤンチャ君なのか、そこまでの記載はありません。

勝利次男は隙を見て龍造寺隆信を暗殺しようとしてたんです。
無論、本人は事の正否如何に関わらず、死を覚悟してたでしょう。

だが隆信の天運尽きず、また用心が調っていたゆえに、なんたらかんたら~
早い話、チャンスがなかったそうです。

互いに胸中含むところがありながら、表面上は友好関係を取り繕う。
虚虚実実の駆け引きは、この後も続くのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【とある佐賀藩士の系図】龍造寺隆信「叛」の巻9

叛の巻・・・一度終わったんですが、自分の中で若干の疑問がありました。

それは>「隆信排斥派首謀者・土橋栄益の一族は連座で処罰を受けなかったのだろうか?」です。

そもそも土橋のしたことは一種のクーデターですから、一族が全く無関係だったのかも疑わしい。
一般的には妻子も処刑されたり、そこまでいかずとも追放されたりするのですが、そのような記述が少なくとも北肥戦誌にはありません。

未消化のまま、個人的に色々あった叛の巻を閉じたのですが、ひょんなことから一つ(一枚)の史料提供を受けました。
それは、とある佐賀藩士の記録です。

石丸氏略系図(一部省略)
龍造寺豊前守胤家公御末
石丸備後守
  出生年月日不詳
  文禄元壬辰11月6日卒行年不詳
  御城下葬本行寺
  法名 常秀
 妻 土橋加賀守娘
 文禄三申牛6月2日卒行年不詳寺同前
 
※出典元「佐賀県立図書館所蔵、佐賀藩士の系図」

これ見ただけでピンと来た人は、シオクラスの肥前戦国通(=^・ω・^=)v ブイ

斬首された土橋栄益・・・・北肥戦誌に記された彼の通称は、土橋加賀・・・( ゚д゚)!
文禄元年に死亡した石丸備後守の妻は、高い確率で土橋栄益の娘である可能性あり。
土橋栄益の娘でなくとも土橋一族なのは間違いありません。

では夫の石丸備後守とは何者なのか。
胤家公御末の御末とは子孫を差します。
石丸備後守こそ、龍造寺14代目胤家公の曾孫・龍造寺備後守鎮家、その人です!

家系図・龍造寺系図①

系図黒ライン・胤家系は真・龍造寺嫡流(`・ω・´)キリッ

14代目胤家は少弐と大内の争いの巻き添えで、当主でありながら出奔(亡命)を余儀なくされました。
隠居してた13代目康家パパンが急きょ現役復帰。
次男の家和を当主にしたんです。

龍造寺隆信が継いだのは家和系龍造寺です。
男系が絶えた家和系龍造寺と違い、胤家系は系図にあるように男系がシッカと続いていました。
ですが、おそらくは相続の筋目を違えないためでしょう。
胤家系が当主として復活する事はありませんでした (゜-Å) ホロリ

話戻って、龍造寺隆信は剛忠(家兼)の曾孫。
龍造寺鎮家(石丸備後守)は、剛忠(家兼)の長兄・胤家の曾孫。
系譜上の関係から推測するに、二人の年齢は極端に離れてはいなかったと思います。

てことは、土橋クーデターの折には、龍造寺鎮家(石丸備後守)に土橋加賀守(栄益?)の娘は既に嫁いでいたはず。

ここで重要になるのは、龍造寺内部の勢力関係。
分家だった隆信の水ケ江家より、宗家の村中龍造寺の方が大所帯だったって事です。
ましてや隆信は少弐の陰謀で祖父・父・叔父・従兄という係累を一気に失ってます。

鍋島信昌(後の直茂)も隆信の弟も、やっとこさ初陣デヴューという若さ。
あきらかに水ケ江の方が人材不足な件~(-ω-;)ウーン


隆信前半生の龍造寺一門筆頭は、龍造寺家親。
龍造寺嫡流胤家系にして、龍造寺鎮家(石丸備後守)の実叔父です。

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

五ヶ国御領地之節配分帳には、土橋姓の者が領地を安堵されています。
土橋一族は、龍造寺嫡流胤家系の縁戚として、その保護下にあったのではないでしょうか?
だから連座で処断される事なく、家名も残ったんだと思います。

リベンジ復活を果たしたばかりの隆信では、胤家系龍造寺一門を敵に回すことなど、到底出来なかったでしょう。
胤家系は「世が世であれば、龍造寺当主だった!」というガチ嫡流なんです。
分家の身で龍造寺総領になった隆信にすれば、胤家系には遠慮・配慮もあったと思います。

胤家系龍造寺の運命が変化するのは、おそらく「沖田畷の戦い」です。
一門筆頭だった家親の息子たちも・・・出陣してるでつ。。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

石丸備後守が卒去した文禄元年は、朝鮮との戦「文禄の役」が始まった年です。
同年3月頃から諸将は朝鮮へと渡海しています。
石丸備後守が、留守居か遠征に同行したか「略」系図なんで不明^^;
龍造寺一門が鍋島直茂に従うようになったのは(一般的には)朝鮮の役ころから・・と言われてます。

本行寺にある14代目胤家の墓の隣には、石丸家の墓が寄り添うように並んでいます。
改姓のソースは墓に刻まれた脇書。

龍造寺鎮家が、改姓した時期はシオレベルでは判りません。
が、佐賀藩独特「大人の事情」であるのは間違いないでしょう。

龍造寺鎮家は、世が世なら正当嫡流御末。
鍋島家だけでなく、隆信係累である龍造寺四家にも、遠慮があったかもです。

龍造寺姓を捨て、石丸という姓を、どんな由来で決めたのかと、激しく好奇心は揺さぶられます。
が、部外者が立ち入っては行けないデリケートな領域という思いもあります。

様々な人の、様々な事情を呑み込み、肥前佐賀藩は成立しました。
それが内乱が起きる事無く、ほぼ無血で為し得たのは、やはり一つの奇跡だと思うのです。
龍造寺と鍋島、どちらか片方ではなく、天秤の重しの如く両方いたからこそなのだと。

末筆ですが、データ提供者様には心より御礼申し上げます。
これにて「叛」の巻、完結とさせて頂きます^-^ 

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【山内の英雄~神代勝利・弐】龍造寺隆信「連」の巻5

先日、監修様と神代勝利の話題でメールの遣り取りしてまして、自分の考えをメール返信しようと。。。
あれやこれやと φ(..φ ) PCカタカタ してる内に超・長文になってしまったので考察記事へとスライドしてたりする(爆

龍造寺隆信の前半生において、ライバルである神代勝利の存在は外せない。
そこで、道産子港町育ちのシオが一番困惑したのは「山岳地帯というものが全くイメージできない」事でした。
しかも、あぁ~た。戦国時代の山岳地帯ですよ( ゚д゚)ンマッ!!
脳内では「もののけ姫」のテーマソングがひたすらリフレインしておりました。。。(-人-)☆彡ダメダコリャ

そもそも山内の人々は、何で生計を立ててたのでせぅか~~?
神代家の履歴だけでは飽き足らず、シオのリサーチは山内という土地そのものから始まったのでした。
元々地理・地図の猛特訓だって、その一部だったのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

東肥前ぬくもり戦国地図
(東肥前(手書きの)ぬくもり地図~(*´pq`)クスッ)

筑前と肥前の国境にある山内地方は、人馬物資の交流・往来が昔から頻繁だったらしい。
山岳信仰だけでなく、仏教も伝来。
多少のタイムラグはあっても、近隣諸国の情報も入ってくる。
一般的な山岳地帯のイメージにありがちな閉鎖性・偏狭性は少ない土地柄だった。

その証拠に山内総領に推戴された神代勝利も、父の代で土着した筑後国人。
また前回、紹介した杠(ゆずりは)氏も室町末期~戦国初期にかけて山内に土着した他国人です。

とはいえ山内は山岳地帯ですから、小盆地が点在しているため農耕地は限られています。
従って豪族たちに仕える家臣(武士)たちの扶持は、他地域より少なかった。
そのため武士たちの多くは副業を持ち、一大事があると集まる・・・といった郷士のような感じでした。

山内の様相が変化するのは室町末期。
他国と交流する中で新規の技術情報が入り、土地の開墾・開拓が進み始めたんです。
さらに他国との交易が軌道に乗り始めた。

輸出する商品・・・というと大袈裟で、あくまでも家庭内手工業規模。
皮なめしした皮革製品・土器・織物など。
元々が他国と交流が盛んな土地柄ですので、消費者のニーズなどを積極的に取り入れたんじゃないかな~と想像してます^-^

生活が上向けば、築いた財を守りたいという自衛意識が、当然起きます。
そして富は兵を養うに足る。

時は戦国時代初期。
始めは自衛のためだったのが、やがては更なる豊かさを求めるようになったのではないでしょうか。
麓を降り、川を越え、肥沃な佐賀平野へと!

山内という土地に培われたエネルギーは、戦国期に入って熱を帯びたマグマとなって、その出口を求めていたのでしょう。
エネルギーの方向性を定めるには、山内を一つに纏める傑出したリーダーが必要です。

山内の人々はリーダーに対し、憂いを帯びた月光ではなく、雨上がりの空に輝く太陽のようなカラリとした明るさを求めた。
そして神の加護があるが如き神秘性を望んだのだと思います。
さらに担ぐ神輿には、彼らは少弐を選んだ。

家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

落ち目の少弐を神輿に選んだ理由は・・・正直に言うと、自分の中で未だ答えが出せずにいます。
彼等に純然たる忠義心があったとは思えず、よくある守護大名と被官の関係のように思うからです。

しいて想像するならば、山内の独自性・従前の利権の堅持。
今日はA、明日はBの配下とフラフラするのではなく、山内は山内として自立したかったのかな・・・って。
すいません。まとまりなくて^^;

龍造寺隆信が産まれた1529年(享禄5)の5月、勝利は神代家51代目当主となり、そして千布氏の娘を娶って、遂には野田宗利らの推挙により山内26ヶ山の頭領となる。
山内の英雄・・・神代勝利、誕生の瞬間だった。

龍造寺家が一国人領主から戦国大名化するためには、少弐(主君)と神代(主君のシンパ)を排除しなければならないのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【山内の英雄~神代勝利・壱】龍造寺隆信「連」の巻4

先日、九州歴史研究会の講演会(道産子シオ涙の不参加)の配布物を郵送して頂きました(*´pq`)感謝♪

その中に「1450年に龍造寺は少弐の被官になった」的な一文あり。

アリ?!(゚ロ゚屮)屮
お家(配布物)にソース(出典元)の買い置きがないのは、お約束il||li _| ̄|○ il||l

察するに少弐教頼が政治的に失脚(嘉吉の乱の実行犯を匿い朝鮮へ逃がした)し、とどめで大内に敗れ、地縁のある与賀へ、御近所の龍造寺を頼って、肥前に亡命したことを指すのではないかと思われ・・・

少弐教頼は与賀に居館を作ったものの、そこはあくまでピンチを凌ぐだけの避難所。
与賀の居館を城にグレードアップし、本格的に肥前へと拠点を移した(都落ちしたとも言う)のは息子の少弐政資で1482年の事だ。

だが肥前・山内二十六ヶ山(神埼市・佐賀市・小城市の北部の山地一帯)と少弐の関わりは、それより前からだったらしい。

家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

少弐政資が政尚と名乗っていた1472年9月24日。
山内豪族の一人、杠(ゆずりは)氏に対し知行安堵状を発布している(出典:杠家文書)

少弐の山内に対する影響力は、山内が筑前と肥前の国境にある・・・というのが大きいだろう。
山内は文字通り山の内の山岳地帯だが、決して情弱ではない。
でないが故に自分たちを束ねる優れたリーダーを欲した。

北九州の覇権を巡り少弐と大内がガチンコで、そこに介入する大友の三つ巴。
国主と仰がれた肥前千葉氏の衰退。
山内を取り巻く情勢が余りにも流動的で、これまでのように豪族たち個々の判断で動いたのでは、大物たちの争いに巻き込まれ呑み込まれてしまう。
危険を感じた志ある者たちが集い、神代勝利を総領として推戴した。

推戴する以上、神代勝利は万人より優れた英雄でなければならない。

神代を神格化に近いほど英雄視する動きは、生前からあったのではないだろうか。
実は山内の豪族たち全てが神代に従ったわけではなく、逆らって討伐された者もいたらしい。
元々筑後国人(父の代で肥前に土着)だった神代勝利が、豪族たちを統合するのに腐心したのは想像に難くない。

ただ誤解しないで欲しいのは、神代勝利は決して「作られた英雄ではない」ということだ。

人物・くましろん~ 神代勝利イメージ画像

山内の郷民は神代を累代の殿さまのように慕ったらしい。
郷土史の英雄譚にありがちな誇張はあるにせよ、神代勝利はリーダーとなるに相応しい器量の人物だと思う。

その神代勝利は異母兄を差し置き当主となった。
以前に経緯を記事にしたときに「神代家中で兄擁立派と弟(勝利)擁立派が揉めたのでは?」と言った内容を書いた。
今でも、その考えは変わっていない。

三瀬村史によると、兄と弟のどちらを当主にするのが吉か、神意を問うべく住吉大明神で籤を引いたそうだ。
籤の結果、選ばれたのは弟・勝利。
仕込みか偶然かは二の次。

弟である勝利が当主となるのを、神代家中が承諾する上で「神意で選ばれる事」が必要不可欠な通過儀礼だったのではないか。
よく「悲運の名将」と文学的表現では言うけれど、リアルで大将が悲運では戦に負けてしまう。
真の英雄・名将とは強運であるのが絶対条件なのだ。
と同時に落ち目の時であっても「彼の御仁は余人に勝る強運の持ち主」と錯覚させなければならない。

神意の衣を纏った英雄・神代勝利。
それは神代自身の演出だけでなく、山内という土地自体が神代に「そう」である事を渇望した結果に違いない。

何やら話が脱線してる感があるが、それは・またの話 by^-^sio

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九州限定戦国年表(弘治元年間一部抜粋

弘治元年(1555年)
6月10日、島津忠良、相良晴広へ馬二頭を進呈。
8月12日、相良晴広、八代鷹峯城にて逝去。



弘治2年(1556年)
2月9日、相良義陽、元服。
6月27日、娑婆峰にて、阿蘇家・宇土家・相良家の老臣が会談。
7月1日、東郷家より、相良家に合縁を求める(後に東郷家へ義滋三女が嫁ぐ)。
7月3日、島津忠良、大口を相良家に割譲。
12月15日、相良義滋の母(蓮乗院)、卒去。



弘治3年(1557年)~古処山城落城。秋月種方(文種)敗死。種実、毛利元就を頼る
2月21日、上村頼興、逝去。
4月15日、島津日新斎、菱刈重豊を攻め、248人を討ち取る。
4月20日、蒲生範清、島津貴久に降伏し祁答院氏を頼る。
6月、上村頼孝・上村頼堅・稲富長蔵の兄弟が謀叛。相良勢は6月10日に頼堅の豊福城へ進軍、12日に頼堅を成敗。
7月25日、兄弟に呼応した菱刈方の久木野城を落とす。菱刈重任ら50余人を成敗。
また8月13日、上村兄弟を支援すべく北原勢が襲来、これを大畑にて迎え打つ。長蔵の岡本城は8月16日に落城、頼孝の上村城は9月20日に落城するも、頼孝と長蔵は北原氏を頼り落去。
9月1日、相良義陽、家督の儀(正式に家督を継承したのはこの日)。
東郷重治、阿久根大川で島津義虎と戦い勝利。
島津貴久に蒲生城を攻められ、蒲生範清が祁答院良重を頼って松尾城へ逃れる。

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九州限定戦国年表(永禄年間一部抜粋)

永禄元年(1558年)
内田壱岐・内田善兵衛兄弟、種実のために居館を建てる。
秋月種実、毛利元就より八十貫(800石)の地を贈られる
11月30日、相良義陽、婚儀を延期。
北原兼守、逝去。



永禄2年(1559年)
1月、大友義鎮、肥前守護職に、6月には豊後・筑後の守護職になる。また11月には九州探題に補任される。
・秋月種実、毛利氏の援軍を得て旧領回復。
・大友義鎮、府内の湊にて南蛮商人と交易する
3月17日、伊東義祐、馬関田右衛門佐への北原家督に反対の者を都於郡城にて詰問。その帰途を六野原にて待ち伏せて、詰め腹を切らせる。
5月21日、菱刈家により水俣城が落とされる。
7月29日、上村頼孝、将兵700人を伴い帰参。
8月16日、獺野原の戦いにて、湯前地頭の東直政討ち死に(『八代日記』では9月3日に討ち死に、落城とあり)。
11月7日、阿蘇惟豊、逝去。
島津義久の室(花舜夫人)、卒去。



永禄3年(1560年)~大友軍が古処山城を攻める。秋月種実以下、力戦してこれを破る
3月19日、島津義弘、島津忠親の養子として飫肥に入る。
7月3日、菱刈家より、12屋敷との交換で水俣城を返還される。
9月4日、日向の兵乱を鎮めるべく、幕府より伊勢貞考が来訪。伊東方は偽の御行書を提示し、飫肥領有を正統化せんと図る(島津の史料では6月2日とも)。
11月28日、相良義陽、千代菊と婚儀。
稲富筑後が堺にて購入した鉄砲を相良家へ献上(相良家初の鉄砲)。
永禄3年より省約、守護方に叛くともあり。隅州廻城は良兼の代まで領し、降参のとき進上とあり。




永禄4年(1561年)
5月14日、肝付家が、島津家に叛き廻城を囲む。
7月12日、島津忠将、廻城の戦いにて竹原山に戦死。
この頃、伊東義益が家督継承。
7月頃、大友義鎮が出家し、瑞峰宗麟と号す



永禄5年(1562年)
1月22日、北原兼孝、伊東義祐により生害。
3月1日、島津尚久、卒去。この頃、島津義弘が鹿児島へ戻される。
3月13日、名和行興、逝去。
5月10日、相良家の人吉勢、北原家再興に助力し、伊東家が簒奪した真幸院へ討ち入り。1日で5つの城を落とし、12日に帰城。島津勢も6月3日に討ち入り。21日に白鳥権現社にて北原兼親を前に、島津方・伊集院忠倉、北郷方・北郷忠徳、相良方・深水頼金が相互扶助を約し神文を交わし合う。



永禄6年(1563年)
4月1日、阿蘇山が鳴動、翌日に茶碗に3-4つ入る程の霰が降る。7月17日にも降り、7月21日には球磨側にも降る。
5月14日、相良家、島津家を裏切り、伊東家と共に真幸の大明神城を落とす。但し、相良方に軍功ナシ。
11月9日、島津日新斎の室(寛庭院)、卒去。
・(3月~6月の間)大村純忠がキリスト教に受洗し、ドン・バルトロメウの名を得る(日本最初のキリシタン大名)。以後、純忠は領内へ過激なキリスト布教活動を行ったことで反発を招き、後藤貴明を擁しての叛乱が発生。針生城主・針生伊賀守も叛乱に加担し、7月27日夜半に、横瀬浦奉行・朝長純安の一行を針生の岸で襲い殺害する



永禄7年(1564年)
2月11日、島津勢が大口城を攻撃。
4月8日、名和行憲、逝去。享年9。
5月30日、伊東義祐、大河平氏の今城を攻撃。大河平隆次ら討ち死に。
11月7日、島津義弘、飯野城へ入る。
島津義久、修理大夫に任じられる。
12月29日、波多鎮(しげし)、家督に反対する日高喜(このむ)らにより岸岳城を追われる



永禄8年(1565年)~秋月種実、豊後浦部城主・田原親広の娘を娶る
6月、相良勢が豊福城を取り戻す。



永禄9年(1566年)
2月、島津義久、家督継承。貴久は剃髪し伯囿斎と号す。
9月9日、霧島山の御鉢が大噴火。死者多数
10月26日、島津勢、大挙して三ツ山城(後の小林城)を攻撃するも敗退。
祁答院良重、虎居城に於いて夫人に刺殺され、祁答院氏断絶。入来院重豊(14代)が祁答院を領する。



永禄10年(1567年)
・8月15日、秋月種実、大友方の戸次・臼杵・吉弘勢に夜襲を仕掛け勝利。
・秋月種長、誕生。(wikiには2月7日とありますが、『高鍋藩史話』には具体的な日付はありませんでした)
・有馬晴信、誕生。(永禄5年とも)



1568 永禄十一年
1月20日、島津義弘が手勢300にて、3,000(5,000とも)の相良・菱刈勢が籠る大口城を攻撃し大敗。
川上久朗が手傷を負い、戻った鹿児島にて2月3日に卒去。
5月、伊東勢が飫肥城を攻略。
12月13日、島津日新斎、逝去。
東郷重尚(16代)、島津義虎と阿久根で戦う。



1569 永禄十二年
5月6日、島津家久、大口城兵に大勝(相良の史料では3月24日)。
7月11日、伊東義益、逝去。これにより8月20日、桶平城より撤兵。
9月20日、大口城の相良・菱刈勢、城を島津方に渡し降伏。
島津義弘の嫡男・鶴寿丸、誕生。
東郷重尚、入来院重嗣(13代)に相議して島津氏に降伏。
12月、龍造寺勢が日高喜を岸岳城より追い出し、波多鎮が城主に復帰

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九州限定戦国年表~元亀年間一部抜粋

1570 元亀元年
1月5日、渋谷一族、島津家へ降伏。島津家が薩摩統一
東郷重尚には島津貴久より東郷を与えられ、入来院重嗣には入来院が与えられ、高城は島津義虎に与えられる。



元亀2年(1571年)~高橋元種誕生
6月23日、島津貴久、逝去。



元亀3年(1572年)
3月8日、相良忠房、誕生。
5月4日、島津義弘、日向飯野にて伊東勢に大勝(木崎原の戦い)。



天正元年(1573年)
7月18日、足利義昭、京より追放される。
9月26日、禰寝家が島津家に内応。
島津久保、誕生

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九州限定戦国年表(天正年間一部抜粋)

天正元年(1573年)
7月18日、足利義昭、京より追放される。
9月26日、禰寝家が島津家に内応。
島津久保、誕生。



天正2年(1574年)
春頃、肝付・伊地知両家が、島津家へ降伏。島津家が大隅統一。
5月24日、相良頼房、誕生。
11月1日、大村純忠と下(しも)の地区長ガスパル・コエリユが会談の末、大村家の全家臣をキリスト教に改宗させると決める。



天正3年(1575年)
伊東方の若衆34人が、伊東帰雲斎への恨みから争乱に及ぶ。
7月4日、相良義陽、島津方に通じた廉で、愛宕別当の簗瀬将軍斎を誅す。
近衛前久が九州下向。大友家→伊東家→相良家と訪ねた後、薩摩に入国(9月に九州へ旅立ち、12月25日に入国)。
出水に3ヶ月滞在後、翌年3月中旬に鹿児島へ入り2ヶ月滞在。
11月、大友宗麟の次男・親家がキリスト教に受洗し、ドン・セバスチャンの名を得る



天正4年(1576年)
4月、伊東祐兵、兄・祐益の嫡女(齢12)を娶る。
8月23日、島津義久、伊東方の高原城を攻略。その翌日、小林城・須木城などが島津方相次いで寝返る。
11月7日、島津忠恒、誕生。
11月22日、島津義弘の嫡男・鶴寿丸が夭折。



天正5年(1577年)
2月22日、土持氏が伊東方の門川城を攻撃(門川城の米良四郎右衛門が正月に、小姓の高妻孫三郎を折檻、これを恨みに思った孫三郎とその父の治部丞が、土持氏を頼ったのが遠因)。
3月、水俣城代が、深水頼延から犬童頼安へ交代。
6月19日、伊東勢が櫛間を攻撃するも敗退。
8月、伊東義祐、嫡孫の義賢へ家督を譲る。
12月7日、伊東方の野尻城が島津家へ寝返る。
12月9日、伊東義祐、日向より退散。



天正6年(1578年)
4月3日、相良長誠、誕生。
7月25日、大友宗麟がキリスト教に受洗し、ドン・フランシスコの名を得る
11月12日、島津勢、大友勢に大勝。(高城川の戦い{耳川の戦い})
12月24日、佐牟田長堅、薩摩国の深仁田にて島津方に銃殺される。



天正7年(1579年)
10月、秋月種実、大友勢を筑後の原津留にて破る。
11月、秋月種長が初陣。種実の名代として、鷲ヶ嶽にて大友方・小野和泉と戦う。



天正8年(1580年)
有馬晴信がキリスト教に受洗し、初めドン・プロタジオ、後にドン・ジョアンの名を得る



天正10年(1582年) 
1月28日、大友・大村・有馬の三家よりの使節団が、ローマへ向け長崎を出航(臼杵の修道院長であるペドロ・ラモン司祭によると、宗麟は使節派遣に対しては「使節を派遣する考えすら無く、使節が差し出した書状もしたためてないことは確かです」と一切関与していないとしている)。
3月、秋月種長、彦山舜宥の娘を娶る。
11月、秋月方・芥田悪六兵衛、大友方の臼杵中務を討つ。



天正12.3.21にも頼房の記述がありますが、「相良殿兄弟指出也、御太刀・御酒・漆なと進上也」と一括りにされてますので



天正13年(1585年)
秋月種実、種長へ家督を譲り、入道して宗誾と号す。

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【肥前の、魔界転生!?後篇】龍造寺隆信「連」の巻3

魔法使い?の高木鑑房が頼った杵島郡の佐留志城主・前田家定。

調べたけれど詳しい事歴は判らなかったです。
佐留志という地名は現代も残ってるので、その地に住む国人だったと思います。
(ちなみに杵島郡江北町にある^^b)

東肥前ぬくもり戦国地図 復活(手書きの)ぬくもり地図

杵島郡とは地図左にある六角川より左・・・もとい、西に位置し地図に「有馬進出」ってある辺りです。
島原半島・有馬氏の全盛期は、この杵島郡までが勢力圏でした。
つまり佐留志城主・前田は有馬配下の国人。
魔法使い高木は、事もあろうに有馬エリアに逃げ込んだんです。( ゚д゚)ンマッ!!

六角川を越えて侵攻してくる有馬勢は、西千葉氏&龍造寺の懸案事項。
更に少弐が龍造寺潰しの為に有馬と組んだ事もあって、隆信も神経を尖らせていたことでしょう。
もし再び有馬が侵攻してきたら、道案内として高木が有馬勢の先陣にいる未来予想図は容易に想像出来ます。

隆信は有馬配下の前田にコンタクトを取り、高木を処断するのを承諾させました
ちなみに前田は、この後は徐々に有馬配下から龍造寺配下へとシフトチェンジして行きます。


高木は因果左衛門と不動左衛門という、仏像の阿吽みたいな名前の豪傑二人を常に傍に置いていました。
その日、高木は因果左衛門に秘蔵の笛を取りに旧領へ遣わし、不動左衛門のみを連れて鷹野にお出かけルン♪
(息子を人質に差し出して亡命してる割にエンジョイライフだが、身体が鈍らないよう鍛練も兼ねてるかもです)

朝方、高木は前田の家(館?)へと帰り、縁に腰かけて不動左衛門に足を洗わせていた。
無防備な処を前田家定は密かに背後に廻り、長刀で鑑房の首を打ち落とした。

前田「終わった(´・д・`)悪く思うな、これも乱世の習・・・( ゚д゚)い?!」

なんと!ドォッと倒れた高木の、首の無い骸が俄かに立ち上った!!
さすが魔法使い。高木鑑房殿は魔界転生されましたぞ!(-人-)☆彡

首無し高木は小鳥という銘刀を引き抜くと、己が従者・不動左衛門を斬り殺した。
不動「(あれ?ワシ何で主君に殺されるわけ?)びでぶっ(←北斗の拳風の断末魔声)」

首がなくて視認できないから、不動と前田を間違えたのか?
魔法使いから魔界転生に格上げ?した高木は、(首のないまま)広間へと駆け上って奥へと切って入る。



高木の身体は頸部切り口から流血した夥しい血で真っ赤に染まり、それが刀を持って歩き回る姿は、さながら地獄から来た閻魔の使いのような様相だった。

家臣某1「これは夢じゃ夢じゃ夢でゴザル~~~」
家臣某2「こういう時は歌おう!(*´○`)o¶~~♪来る~きっと来る~」
家臣某3「貞○は止めれ!異界へお帰り願うんだ!エ○エコアザラク~」
家臣某4「そりゃ召喚の方だ!」

前田「お主ら、何をしておる!アレを退治せよ!」
家臣一同「嫌ですっ 触りたくありません!!!!」

前田「かぁぁ!お前らの槍や刀は飾りか子供の玩具か!あれは只の肉人形?ぞ!一斉に切りかかれ!!(涙目」


この珍事に近付く者はなかったが、前田の家来数十人が槍・刀で四方から刺し貫き組み伏せたと記録されている。

( ̄ko ̄)<皆さ~~ん、家来が「数」十人ですよ~20とか30とか40って事ですよ~~
よっぽど怖かったんだろうなぁ  (゜-Å) ホロリ
逃げ出せないのが武家奉公の辛いトコ。

一番気の毒なのは高木に殺された不動左衛門。
一番ラッキーなのは、高木のお使いで現場に居合わせなかった因果左衛門^^b

※下線~下線部分は北肥戦誌出典アレンジではなく、シオの御遊びでつ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

人質だった高木の息子たちは赦されて龍造寺家臣となったのですが、長男・次男ともに後に戦死したとのことで、鑑房直系(男系)子孫は絶えているようです。

翌年、1555年になると龍造寺と神代の間で和睦案が出たのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【肥前の、魔界転生!?前篇】龍造寺隆信「連」の巻2

さて、鹿江氏と神代氏が縁戚となった1554年3月の事。
龍造寺隆信は「高木鑑房を征伐すべし」と出兵した。

高木鑑房(たかぎ あきふさ)1504年生まれなので、この時は満年齢50歳。
龍造寺とは同族で、隆信と鑑房は・・・遠縁・・・ってことになるのかなぁ

家系図・龍造寺系図①

久々登場の龍造寺系図~黒文字部分に注目^^b
14代目胤家の養子に盛家という人物がいたのですが、盛家は高木家からの養子でした。

んで、高木鑑房は盛家の息子じゃなかろうか~と言われているんです。
で、鑑房は家督の都合か龍造寺家には入らずに高木家に残った(らしい)

実は龍造寺盛家は少弐の龍造寺潰しの罠「偽りの有馬征伐」に出兵し討死してるんです。
だから少弐冬尚は高木にとって実父の仇・・・のはずなんだけど。。。そんな雰囲気ないのよね^^;

少弐配下だった彼は、少弐資元が自害すると浪人し、一時大友家臣となった。
で、当時の大友当主・義鑑から偏諱を受けて鑑房と名乗ったんです。
一介の浪人に偏諱するなんて、高木は余程力量を買われていたんだろうか(-ω-;)ウーン

北肥戦誌によると高木は魔法使いだったらしい( ゚д゚)ンマッ!!

この鑑房、勇力万人に優れ、早業は江都公主の素早さをも超越し、打物は樊噲・長良にも恥じず、その上に魔法を習得しており、或る時は闇夜に日月を現し、或る時は酷暑に雪を降らせ、大空に立って大海を飛び、断じて凡夫ではなかった。

大友義鑑の前で超マジック・ハンドパワーしたのかな?(*´pq`)クスッ

少弐冬尚が御家再興の旗を揚げると、高木は肥前の旧領に復活し少弐配下に戻った。
で、例の隆信排斥派に加担したんです。

1553年に隆信が筑後から肥前旧領へ復活した時に、高木は敗れて自領にヒッキー・・もとい戻った。
隆信にしてみれば高木を捨て置く事が出来かねたのだろう。

やっぱ征伐!と兵を起こした。

高木鑑房は龍造寺勢が押し寄せると聞くと、急ぎ軍勢800を出して三溝口で打ち合った。
三溝は村中(佐嘉)城から北へ2km弱離れた地域で・・つまるところ現代の佐賀市内。

佐賀市が広大なのか、戦国時代の佐賀市が戦闘密集地域なのか、
道産子の自分には実際の広さが感覚としてワカラン(爆

そのとき、龍造寺勢より齢16-7の若武者が討ち出て、鍋島信昌と名乗った。

家紋・鍋島 鍋島家紋ロゴ

この若者こそ後の佐賀藩祖・鍋島直茂、その人です^-^

(信昌は)唯一騎で前に進み出ると、千変万化の活躍を見せた。
北肥戦誌の記述が簡素すぎる。。。il||li _| ̄|○ il||l

実はシオは、これが殿の初陣かと早とちりしてたんです( ̄ω ̄A;アセアセ
殿の初陣は前年の小田政光との戦いの時だそうです。

殿は西千葉に養子に入り、養家で実子が産まれた事もあり、14の時に実家の鍋島家に戻ってました。
で、その後は梅林庵(佐賀市本庄町大字本庄71)で___φ(.. )カキカキ と修学してたそうな。
初陣の時は、この梅林庵から出陣したとか。

そういや、小田攻めの時に鍋島勢が何故か遅れて来たんだっけ。
殿と合流したりなんだりで時間くったのかもですね^^

高木の魔法は実戦の役には立たなかったらしく、敗れた彼は息子を人質に出して降伏した。
鑑房は杵島郡・佐留志城主・前田家定を頼ったが、鑑房の後の行状に不安を感じた隆信は、前田家定を籠絡し鑑房を討ち取らせる事にした。

魔法・・・ハリポタで駄洒落したいが浮かば無ないのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【婚儀は、裏切りの証】龍造寺隆信「連」の巻1

1554年某日、神代勝利の嫡男・長良と川副衆・鹿江兼明の娘が結婚した。

(-ω-;)ウーン
これだけ記述しても、事の重大さは伝わらないでしょう。

神代勝利~山内豪族たちの総領にして地方史の英雄、少弐配下。
若き龍造寺隆信の宿命のライバルです。
(といっても二人は親子に近い年齢差がありますけど)

川副衆・鹿江兼明~川副を束ねる豪族・郡司5人衆の一人です。
郡司という役職自体は律令制のものでして、当然、戦国時代の現在は役職としての権能はありません。
ですが地方によっては呼称が残ってて、かつて郡司を排出した武家が名乗ってたりしたそうな。
これ以上は専門的すぎてウィキペディア読んでも脳に浸透しなかった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
つまるところ、それだけ古くから川副にいた豪族ってことなんです。

亡き剛忠(家兼)は「田手畷の戦い(1530年)」の功績により、これまた亡き少弐資元から川副千町の領地を拝領した。
龍造寺家と川副衆との接点は、ここから始まった。 

人物・剛忠小 剛忠(家兼)イメージ画像

強かな剛忠(家兼)は川副千町を足掛かりに、少弐領だった与賀郷へと勢力を伸ばした。
その前後に龍造寺家臣となったのが、与賀の石井氏であり、本庄の鍋島氏。

主君(少弐)が衰退したのを「ラッキー♪」とばかりに、主君の領地の豪族&領民たちを手懐けてたのだ。
遣り方はともかく、少弐が龍造寺を潰そうとしたのは、決して故ない事ではないのです。

「少弐VS龍造寺」
川副・与賀の豪族と領民は、龍造寺を選択した。

理由1・少弐が川副・与賀の領地維持が困難になり、本拠地を神埼郡に移した。。ショボーン..._φ(・ω・` )
理由2・少弐が龍造寺を潰すために有馬と同盟組んだ  ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
理由3・与賀の石井氏が川副・与賀の豪族たちに「龍造寺押し」を働きかけた


筑後へ亡命してた剛忠(家兼)が肥前に帰還する時。
同じく筑後へ亡命する羽目になった隆信が肥前に帰還した時も。

川副と与賀の豪族&領民は、こぞって龍造寺を出迎えていました。

川副・郡司5人衆の全員を調べる事は、コアすぎてシオじゃ無理でした^^;
龍造寺家臣団に中に、鹿江氏、久布白氏、南里氏とあり、彼等が川副衆です。

彼等と龍造寺家は、剛忠(家兼)の頃から固い絆で結ばれているはずでした。
それなのに川副衆・鹿江の娘が神代勝利の嫡男に嫁いでいた。。。
それ即ち、神代の調略の手が、剛忠(家兼)有縁の地たる川副にまで及んでいたという事です。

龍造寺と神代の和睦は、1554年時点では出てません。
百歩譲って和睦のための結婚だったとしても、龍造寺サイドは、もっと隆信に近い係累から姫を選ぶはずです。

鹿江が何故に龍造寺から少弐サイドに寝返ったのか、頑張って調べたけどシオレベルでは不明でした。
また隆信が鹿江の寝返りをいつ知ったかもシオレベルでは不明です。
ですが隆信は神代の動向を調べるため、頻りに間者を放っていたそうなので、早い段階でバレていたでしょう。
村中(佐賀)城に復活したばかりの隆信は、鹿江を直ぐに討伐せずに泳がせていたと思います。


領地か待遇で不満か、はたまた隆信の将来性を危惧したか、鹿江は神代(=少弐)というカードを引きました。
鹿江一族の運命は、神代家との縁組によって決定したのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【追撃!若熊三兄弟・後篇】龍造寺隆信「叛」の巻8

いろいろあって久々の更新です^^;

ふと考えたけど、剛忠(家兼)は自分亡き後の水ケ江家に村中宗家が介入してくるのを嫌ったのかもしれない。
(当時は宗家当主が若くして&男子がないまま亡くなるなんて想像も出来なかっただろう)
だから慶誾尼(宗家姫君)を生母に持つ隆信を出家させたのかな~って。

それはさておき、長子相続が確立する以前は、嫡子(生母が正室)の上に年長の庶兄がいる事は珍しくなかった。
そのために庶兄と弟嫡男とが家督を巡り子の代に亘っても争う事がしばしばありました。

隆信にとって幸いしたのは、隆信が嫡子であり同時に長男だったことです。
少弐の陰謀により祖父・父・叔父・従兄と係累を一気に失った隆信にとって、自分を支えてくれる弟達の存在は他家の弟より比重が大きかったと思います。

長男・龍造寺隆信、早生まれなんで、1553年の現在は25歳
次男・龍造寺左馬頭信周、推定数え19歳(異説あり)兄と弟とは異母・・・つまり彼だけは庶子でした。
三男・龍造寺兵庫頭長信、推定数え15歳


1553年10月8日、龍造寺勢は少弐サイド・小田政光の蓮池城を攻撃した。

城主・小田政光は押され気味であるのを悟ると、一門の者ら郎党200余人を左右に従え、龍造寺旗本勢に討って掛かった。

ぅお!(゚ロ゚屮)屮 城主だ!VIP(小田家一門)勢ぞろいだ!手柄だ~~~
隆信の旗本勢のうち、川副衆南里一族が飢狼のように小田勢に食らいついた。

南里等は小田一族を討ち取ったのだが、南里左馬大夫は深手を負い、残る一族3名と手勢30名が討死。
福地信重(家老)も一族を率いて戦い、膝口を槍で突かれ肱肩を三ヶ所射抜かれる。
秀島主計允も鉄砲に当たる。

あり?
肥前で鉄砲が使用された最初の戦って神代との戦いってのが通説なんだけど???
鉄砲と記述されてるけれど、いわゆる火縄銃ではなかったのかもです^^

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

一方、一進一退の様相に・・・肥前の熊さんが飽きてきたみたいです。
元僧侶ですから、お行儀良いので欠伸はしてないです。
( ̄ko ̄)<でも、ちょっと退屈してきたみたいですよ。

主君の様子に気づいた倉町信家(不味い!士卒に隆信さまの惰気が移るΣ(´Д`;))
彼は機転を利かせ、濁り酒を隆信に勧めた。

「ぶは~~~~」酒でテンション上がった隆信は、気を滾らせ采配を幾度も振るった。
その様子に龍造寺勢もファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!
そこに何故か遅れてきた鍋島勢が加わる。

奮起した龍造寺勢は少弐が援軍に送り込んだ犬塚勢を蹴散らしo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
小田兵も次々討ち取る バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!
ほうほうのていで蓮池城へ帰還した小田政光は降伏を申し出た。

隆信は小田政光の降伏をなかなか信じなかったそうです。
馬場頼周が強烈で忘れられてるんですが、実は少弐冬尚に龍造寺を一番最初に讒言したのは小田氏なんです。
隆信「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.小田は龍家を傾けし家なり、城中へ攻め入り首を刎ねよ!」と命じた。
老臣たち「ちょっと待った~~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ」
「これは征伐の初めなれば、和平に応じ給わねば国中の者共は、以後降参しようと致しませぬ」(-人-;)オネガイヤメテ・ソレホントヤメテ

と諭したので隆信も降伏を受け入れると村中城へと戻った。



さて隆信排斥派が擁立した水ヶ江城の鑑兼クンは小城へ蟄居を命じられました。

鑑兼クン「僕、まだ12歳です。排斥派に利用されただけで、彼らの叛意は知らなかったんでつ。お願い許して(;;)」
と先非を悔いた為、後にその罪を許され帰国しています。

隆信が筑後へ亡命する羽目になった元凶・・・
隆信排斥派・土橋加賀守栄益は捕縛されて首を刎ねられ、土橋の相談人・西村美濃守は罪を許された。

以後、隆信は納富道周(栄房)、小河武純、江副久吉を執権と定め、水ヶ江を隆信の弟・長信の所有とし、その与力には石井兼清を尾張守に任じて、福地蔵人助、吉岡蔵人と共に付属させた。




一応の落着を見た隆信排斥運動。
この時に活躍した者たちは、隆信の腹心だったり旗本勢として活躍する者たちのはずだった。

だが亡き剛忠(家兼)が目をかけてきた者たちの中に、少弐へ寝返る者が出るのだが、それは・またの話 by^-^sio

これにて叛の巻終了~次回より連の巻です^-^

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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