【籠城は突然に】相良氏、義陽編13

球磨奉行の一人、丸目の母は「徳深き人物で、侍女を多く抱えていた」そうな。

人吉城・詰衆の若侍、児玉・早田・深水の3人が、そんなマザー丸目に仕える侍女たちと恋仲になった。
武家奉公する者は職場恋愛禁止!見つかったら「不義密通罪」で自分も彼女も処罰(最悪・死刑)される。

女は欲しい、処罰もヤダ。
だが丸目屋敷は「徳多きマザー丸目」の躾が行き届いてて、侍女を連れ出す隙が無い。

「恋する3アミーゴ」は宗慶寺の僧侶・智勝に相談し「ナイスアイデア(ピコーン)」を授かった。
宗慶寺・智勝のトンデモアイデア「丸目を同僚&ライバルの東長兄と争わせ、その隙に女を連れ出しちゃえ
3アミーゴは、この「助言」を実行し、手分けして東と丸目にウソを吹き込んで、目論見通りに二人を仲違いさせることに成功する。

人物・相良義陽幸麿さん作画・相良義陽イメージ画像(*´艸`)

丸目と東の不仲が、彼らの主君・相良義陽と義陽ママン・内城(ないじょう)の耳に入る頃には、既に丸目と東の関係は抜き差しならぬ所まで、拗れまくっていた。

ここ数年、相良家は受難続きだった。(詳細は省きまつ)

1557年~義陽の後見人で祖父・上村頼興が死去し、その数か月後に叔父たち(上村頼興の息子たち)が謀反したあげくに日向へトンズラ。
1558年~箒星が肥後の夜空に出現・・・人心が不安定で義陽の結婚も延期。
1559年~隣国の名和氏が八代へ侵攻・ほぼ同時期に大隅の菱刈家に水俣城が奪われた。
(連携しての軍事行動かは不明)


このような緊迫した時期に、球磨奉行(奉行は複数)の要職にある東と丸目が仲違いしてしまったのだ。
義陽とママン内城は頭を抱えて悩み(あぅ~)、
ママン内城が「わたくしが丸目の縁戚・湯前城主の東直政(以下、湯前・東)に両者の仲裁を頼みます」と決断した。

さぁ~脳内整理しましょ~~「ケンカしてるのは丸目と東長兄」「仲裁に入る湯前・東の縁戚は丸目」だぉ

家紋・相良
相良家紋ロゴ

ママン内城から呼び出しを受けて参上した湯前・東は覚悟を決めて発言した。

湯前・東「丸目の縁戚である某が仲裁役ということは、万が一「丸目殿を説得出来なければ討て」という思し召しでござるな。刺し違えてでも主命を果たしまするm(_ _)m」

ママン内城「ち、違います~そんな斜め上の決意をしなくても良いのよ。ただ、二人が元の鞘に収まってくれればそれでいいの^-^;」

湯前・東「はぁ、、、畏まりました・・(説得でもなけりゃ、討つわけでもない、なんじゃそりゃ~~)」

納得行かずモヤモヤしたまま、縁戚の丸目屋敷を訪れた湯前・東は、
「中途半端は(・A・)イクナイ!!ワシは丸目殿に御味方致しますぞ!(`・ω・´)キリッ」と、気色ばんだ。
ママン内城の人選は、アッチもコッチも逆効果 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

さて、丸目のケンカ相手・東長兄の元へも「仲裁役が丸目の縁戚である湯前・東」という情報が入った。
東長兄(ちょ、やべ~仲裁が丸目の縁戚じゃ、ワシに勝ち目ない~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ)

1559年5月15日、東長兄が相良義陽とママン内城に泣きついた。
「仲裁役が丸目の縁戚ではワシの方が不忠・不義の烙印を押されてしまいます。もはや残された道は謀反しかありませぬ。゜゜(´□`。)°゜。」
相良義陽&ママン内城「エエぇ~( ̄▲ ̄:)(:´▽`)イヤン、~落ち着いて~!!

謀反をチラつかせる泣き脅しに、義陽&ママン内城は東長兄の言葉に従うほかなく、言われるまま仮病を使う羽目になった。

城・人吉
(人吉城の石垣^^)

東長兄が義陽とママン内城に仮病を使わせたのは、二人に他者が目通りするのを防ぐ為です。

ママン内城は「気分が優れない」、義陽は「腹の調子が悪い」として、屋敷の奥に引っ込み続け、そして夜中に東長兄の手配で人吉城を出た。
つまり丸目より先に東長兄が「玉(主君)」を抑えることに成功したんです(=^・ω・^=)v ブイ

義陽とママン内城が赤池城へ入ると、赤池城から人吉城へ向け篝火を焚いて「二人の無事確保」の合図を送った。
篝火を確認すると東長兄家臣60余人が、丸目屋敷に火をかけて攻撃開始!

人吉城に勤務してる「恋する3アミーゴ(児玉・早田・深水)」は、城下の丸目屋敷に火が上がったのを見て仰天した!
 
自分の恋人を丸目屋敷から連れ出すために「ちょっとした騒ぎ」が起きてくれれば・・・と思って、
東長兄と丸目にウソを吹き込んで炊きつけたら「リアル市街戦勃発!」とんでもない大騒ぎに!!

∑( ̄◆ ̄:∑( ̄◆ ̄:∑( ̄◆ ̄:「あぅ~ひ、非常事態だから持ち場を離れられない・・彼女連れ出すチャンスなのに~~」

突然屋敷を攻撃された丸目本人&その妻子&マザー丸目&問題の侍女たちも連れて、縁戚の東の湯前城に逃げた。
湯前城主・東直政「う~む、この上は是非も無し!(# ゚Д゚)・;'.籠城だぁぁぁ!!」


3アミーゴ「あぅ!しまったぁ!俺たちのスィートハニーが巻き添えにぃ~il||li _| ̄|○ il||l」
どんどん大きくなる騒ぎに、自分たちのウソが何時バレるかと気が気でない3アミーゴ。
彼等は事態の推移に耐え切れず、遂にに職場放棄~バックレ逃走!

一度坂道を転がった石が、坂を登り戻ることはない。
「ちょっとした騒ぎ」の予定が「内乱・籠城戦」になったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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事故

ちょっと事故に遭いました(車同士&相手の一時停止違反)

頸椎捻挫と腰椎捻挫etc・・・です。

体調が戻るまで更新を休みますので、宜しくお願いします

【恋に落ちて・・・in人吉】相良氏、義陽編12

しかるべき家柄の姫様・若君の結婚は、基本として政略結婚です。

それでは、家臣たち・・・武家屋敷に奉公する者たちは?
と言うと、現代においても社内恋愛禁止の企業があるように、武家奉公の者も同じです。

なぜなら屋敷に仕える侍女(武家の子女ね)は、いつ何時「殿様の手が付いてポンポコリ~ン」にならないとも限らないからだ。

だから侍女たちは(主君以外の男性に対し)身持ちが固い・・・つまり貞操を要求される。
万が一、侍女と家臣の若侍がデキちゃうと(殿様と既成事実が無くとも)「不義密通」の罪として処罰を受けるんです。

武家にとって「自由恋愛は不義密通という罪」であり「仕える主君に対する不義であり御家の恥」
フォーリンラブは己れの全てを失う危険と引き換えなんです

( ̄ko ̄)チイサナコエデ・・・小禄の殿様・奥方なんかだと、家臣一同顔見知りだから、若者達の色恋に融通効かせてくれることもあるかもでつ・・・



堅苦しい説明より「不義密通の逸話」を紹介しよう^^b

関ヶ原の戦いが終わった慶長年間のこと、佐賀の鍋島家に仕える侍女と若侍が恋に落ちた。
若い男女は「不義密通の処罰」を恐れ、と同時に恋の成就を願い、手に手を取って佐賀を脱藩~~
隣の肥後は加藤清正のもとへ逃げて庇護を求めた。
当然、鍋島家では二人に対し追手を差し向け、加藤家が匿っているのを知ると「罪人」の引き渡しを要求。

清正「我が方を頼ってきたものを引き渡しては、この清正の一分が立たぬ、御断り致す」
と最初は威勢良く断ってたのだが、交渉上手の成冨が出て旗色が変わった。

成冨「朝鮮の役でピンチだったのを助けたのを忘れた?そん時の借りを返す代わりに引き渡してよ」
清正「(-ω-;ウーン・・・朝鮮の役でのことを持ち出されると・・ゴニョゴニョ・・」
侍女と若侍は加藤家から鍋島家へ引き渡され「不義密通の罪&勝手に出奔」で処刑された。

やれやれ、、、もう少し融通を利かせれば良いものを・・・(超意訳
と、息子・勝茂の処断に溜息ついたのは、戦国武将として珍しく恋愛結婚した鍋島直茂だ。

そんな鍋島直茂も、恋愛中に奥方と逢引きしてるとこを見つかり、危うく成敗されそうになるというスリリングな経験がある。

事情を説明?そんな余裕は無い!( ̄^ ̄)
「他家の屋敷に忍び込んだ」ですよ~たちまち不審者として追いたてられた^^;

昔は街灯も照明もないから、暗くて誰かも咄嗟には判別出来ない~
問答無用で殺されずに、足裏を槍で刺される程度で済んでラッキーでした∴,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

人物・鍋島直茂 鍋島直茂イメージ画像

さて、武家の男女にとって「好きな人の元へ嫁ぐ」のが、いかに難しいかご理解頂けだろうか?
武家奉公している侍女に手を出せば「不義密通」・・・相手も自分も破滅する。
想いを打ち明ける前に、恋心を心の底に仕舞い込んだ若者も少なくなかったに違いない。

だが人の心全てをを刑罰で支配することは出来ない・・・解っていても恋してしまう者がいる。
御家の恥、主君への不義・不忠、己の破滅、両親・親族に迷惑が・・・・・(_´Д`)アイーン
障害が大きければ大きいほど夢中になってしまうのが恋の魔力。

その魔力の虜になった3人の若者がいた。名前を児玉・早田・深水と言う。
彼ら3人は、相良家・球磨奉行の要職に就く丸目の屋敷に奉公する侍女と恋に落ちた。
人目を忍んで逢瀬を重ねていたが、いつバレるとも知れない。

侍女が仕える丸目屋敷の奥向きを仕切るのは、丸目の母だ。
クチ五月蠅いババァ・・・ゲホグホゴホッ・・・躾が行き届いた節度ある婦人でして^-^;
児玉・早田・深水の色恋に、融通を利かせてくれるような、甘い期待は出来ない。

恋を成就・・・侍女を屋敷から連れ出し夫婦(めおと)になりたい・・川* ̄д ̄*川ポッ 
でもすぐに追手が来て捕まるだろう・・・若い身空で死ぬのはイヤだ(´;ω;`)ウッ
でも丸目ババ・・もとい母の目を盗んで恋人を連れ出すのは難しい・・・(-ω-;)ウーン

ジレンマに陥った3人は宗慶寺の僧組に相談した。
このあたり司祭に相談した「ロミオとジュリエット」に似てなくもない。
古今東西、身の上相談するなら僧侶と相場が決まっているのだろう(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

宗慶寺の僧組(役職の位置づけが解らんかった)は3人に同情し知恵を授けた。
丸目と同僚の東を争わせて、大騒ぎになった隙に侍女を連れ出すべし
と、とんでもないことを言いだしたが、言われてみれば一理ある。
3人と侍女が出奔した後に「丸目家が追手を放つのを忘れるくらいの騒ぎ」がなければ、すぐに捕えられてしまうからだ。

「自殺の真似事」しろって、知恵を授けたロミジュリ司祭と同レベルですな ( ゚Д゚)y─┛~~
恋は盲目・・・・児玉・早田・深水は「自分の欲望を満たすこと」だけを考え、僧組の助言を実行に移した。

児玉が球磨奉行・東長兄へ「丸目が貴方を蹴落とそうと企んでます」とウソを吹き込み、
早田と深水が東と同役の丸目へ「東が貴方を・・・・以下同文    」とウソを吹き込んだ。

家紋・相良 相良家紋ロゴ

丸目と東は同じ球磨奉行職だったが、もともとあまり仲が良くなかったんです。
最初は「まさか」と取り合わなかったが、そのうち疑心暗鬼になり、そうなると互いの一挙手一投足が全てカンに触る。

奉行たち二人の主君・相良義陽と生母・内城の耳に入る頃には、丸目と東の対立は抜き差しならぬとこまで拗れてしまっていた( ̄ω ̄A;アセアセ

ママン内城「なんとかしなくては・・・二人の仲裁を湯前城主・東に頼みましょう」
義陽「母上・・・お言葉ですが湯前の東は丸目の縁戚です。仲裁は双方に縁の無い者の方が良いのでは?」

ママン内城「縁戚なればこそ、当たりも柔らかく話も通じると言うもの、わたくしから湯前の東に頼みましょう」
義陽「母上が、そこまで言われるのなら・・・」

これが更なる政治的対立を引き起こしてしまい、3バカトリオの目論見通りに大騒ぎになるのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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【帰り新参~犬童頼安】相良氏、義陽編11

謀反が一段落した義陽に結婚話が持ち上がる。
御相手は先々代・16代当主、相良義滋の末娘・千代菊姫。
系図上は義陽の義理の叔母にあたります^-^

現代じゃ「ぇえ!(゚ロ゚屮)屮」って感じのカップリングですが、この結婚は義陽には必要なことでした。
繰り返すようですが、義陽の父・相良晴広は養子です。
晴広には頼もしい上村頼興(実父)がいたけど、もはや亡くなってしまった。

{生母は家来筋+父が養子}義陽は相良家中での地盤を、より強固にするために、16代当主の血を引く正室を必要としたんです。
結婚を決めたのは亡き実祖父、亡き父か、亡き16代か、ママン内城の意見か、全部混ざってるかもです。

が、1558年11月に結婚は延期になってる^^;

義陽の方から順延申込みしてるんだが、この年は箒星が出現してたので不吉だからと慶事を避けたらしい。

人物・相良義陽 相良義陽イメージ画像

さて、次は記事タイトルにある犬童頼安です。
ワンコの子供・・・漢字で犬童・・・と、書いて「いんどう」と読む珍名さんです^^

相良家を語る上で犬童を外すのは不可能なほどの一族でして、
後に「相良中の相良」として大きな権勢を振るう・・・その始まりは謀反からだった。

犬童頼安(いんどう よりやす)は1521年産まれ。
判りやすい例だと、織田信長より13歳年上です。

1525年~相良家で家督争い~叔父VS兄弟⇒兄VS弟⇒兄・義滋がウィナーで16代当主(=^・ω・^=)v ブイ
で、犬童一族は義滋の敵である叔父サイドだったんです。

勝者の義滋には、(息子が継ぐ)相良家にとって危険ならば実弟をも殺す、非情の実力者・上村頼興がついてる。
16代目義滋と上村頼興は、容赦なく敗者である犬童一族全てを殺した。

が、幼かった頼安だけが、出家を条件に助命されたんです。
ところが頼安少年、寺で小坊主として修行する一方で、両親・一族の仇を討つ決意してたというのだから、武家は子供でも侮れない ( ̄ー ̄A 汗フキフキ

頼安が成長し、一族の仇をとるチャンスが来たのが20年後のこと。

1545年・6月15日、相良一族の治頼(はるより)が家臣に唆されて謀反を起こす。
この謀反に犬童頼安と宮原玄蕃が加担した。

謀反は鎮圧され、相良治頼は日向経由で豊後へ逃亡し、翌年の1546年に病死しました。
16代・相良義滋も同年に亡くなってるので「相良治頼の祟りで死んだ」という噂が出たそうな。

で、犬童は野良犬・・失礼!逃亡して諸国と転々と修行してたそうで、宮原も一緒だったみたい。

11年後の1556年、犬童は豊後に居たところを首根っこ抑えられ\(≧0≦)ノキャン、相良家へ連れ戻される~
つまり帰参を許されたんです^-^
で、一緒に苦難を共にした宮原も同じく相良へ服属した^-^

義滋も晴広も鬼籍に入り、義陽が新当主になって元服した年だったので、恩赦だったかも^^
1559年~大友義鎮は豊前・筑前の守護職と九州探題の地位をゲット~大友家は全盛期を迎える

家紋・相良 相良家紋ロゴ

さて、前年の1558年に箒星が出て不吉だと結婚延期した義陽。
ホントなら1559年に婚儀するはずだったと思うが、またまた結婚どころでは無い事態が発生する。

まず、1556年に盟約を交わしたはず名和氏が、1559年に八代を度々攻撃するようになる。
もともと名和氏とは長年敵対関係にあったのを、グランパ上村が阿蘇・名和・相良で盟約をまとめたんです。
だがグランパが死に、途端に上村兄弟が謀反起こしたのを見て「これはチャンス」と兵を動かし始めた。

同年5月~菱刈家(上村兄弟の謀反に菱刈重任が加担して以来、同盟関係が破綻)に水俣城が攻撃を受けて奪われた。

相良家の同盟相手たちは、相良が内訌で弱ったと見るや、敵となってしまい、当主の義陽は難しい舵取りを求められることになる。

そんなさなか、さらに義陽とママン内城の頭を悩ませる事件が勃発する。
初めは若者たちのバカな行動からだった。
それが相良家を二分する政治事件に発展。
肥後・球磨の地方戦史における最大の戦「獺野原(うそのばる)の戦い」になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【叔父の謀反・4鎮圧】相良氏、義陽編10

雲羽神社の天狗さま(出典:あさぎり町HP)

相良義滋が永里のお城に逃げ込んだ弟の瑞堅(ずいけん)を討伐するとき、
隣村の上村城主・上村頼興に加勢を頼みますが、頼興は、はじめ「天狗さま」の難を恐れて永里攻撃をためらいました。
しかし、頼興の長男(晴広)を殿様の跡継ぎにすることを約束すると、意を決してまず雲羽神社を焼き、そして永里城を攻撃した。
瑞堅はのがれて近くの金蔵院という寺に入り、寺に火をかけて自決する。
「テン(雲羽神社の東約500mに位置する土地)」の上空には、異様な叫び声をあげながら飛び廻る「天狗さま」の大群がみられたといいます。
村人たちは、恐らくは上村氏も50年のうちには亡んでしまうに違いないと噂した。(一部省略しました)


1557年3月15日、相良義陽(よしひ・18代目当主)は、島津家の大物支族・伊集院氏と佐敷で会見する(内容不明)
その一か月後の4月14日、相良家の同盟相手である菱刈家が、伊作島津家(実質宗家)の攻撃を受け死者258人の損害を出した。

義陽と島津と何らかの密約があったのか?
菱刈が義陽と島津との密約を疑ったのか?
はたまた菱刈家が相良を疑うように仕向けた、伊作島津家の陰謀なのか?

いずれにせよ、菱刈家の菱刈重任は上村兄弟の謀反加担の誘いに応じ、その瞬間、半世紀以上に渡る「相良家と菱刈家の同盟関係」は破綻した。

菱刈重任は、16代当主義滋の娘を妻に迎えており、系図的に義陽から見て義理の叔父にあたる人物です。
1530年に義滋が大口城を攻略した時に、連携プレー組んだのが菱刈重任。
当時20代だとすると、この時期50代か、それ以上だろう。

菱刈家は記録が少なくて、この謀反加担が菱刈の総意なのか、重任のスタンドプレーなのかが判別しづらい。
だが重任は菱刈14代当主の兄弟であり、菱刈15代当主の叔父にあたる人物。
そういう人物が動いたら、菱刈サイドが「えっナニソレ?聞いてないよ~」では済まされないのは明白。
菱刈重任にすれば「成功すれば菱刈の家中も付いて来るだろう」と考えていたかもしれない。

家紋・相良 相良家紋ロゴ

ウィキペディアには「上村兄弟が相良領地を兄弟で分割支配するつもりだった(三郡雑説・出典不明)」とある。
素朴な疑問なんだが、謀反成功後に領土3分割して、北原と菱刈への見返りはどうするつもりだったのか?
いまいち腑に落ちない(-ω-;)ウーン

更に上村兄弟は皆越地頭も誘ったが o( ̄Д ̄θ★ケリッ!「断る!」と振られた。

そうこうしているうちに季節は巡り

6月2日~上村兄弟の謀反がバレる
6月4日~相良軍・人吉勢が討伐のために動き出す


6月15日、久木野城から菱刈重任が湯浦方面へ侵攻
7月9日、相良軍の津奈木・水俣・湯浦勢が反撃o( ̄ー ̄θ★ケリッ⇒菱刈を追い返す
7月25日、久木野城が落城&菱刈重任が戦死
個別認識が浸透する間もなく、謀反加担の菱刈重任が退場~~~

でもって同じく謀反加担の北原氏だが、上村兄弟の求めに応じて、兵500を出す。
皆越地頭が謀反加担を拒否った情報が、北原に伝わってたのかもしれない。

北原兵500、日向から相良領に入る時、皆越ルートを使わず、大畑ルートより侵攻!
一之坂で北原勢が球磨勢と激突!
一話使って紹介した北原の兵は、前後を伏兵に襲われ壊滅!

さぁって上村兄弟だ~~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

6月12日、豊福城主・上村頼堅が落ち延び先で捉えられ殺される。
妻子は出頭したが、その後の行方・生死の記録は無い。

8月16日、岡本城落城。上村兄弟の末弟・稲留長蔵は、北原を頼って日向・飯野へ亡命
同日、皆越降参申候
9月20日、上村城落城。上村頼孝は北原を頼って・・以下同文

皆越地頭ですが、南藤曼綿録だと上村兄弟に加担してない事になってるんですが、八代日記には「降伏」とあるので加担してたかも?です。

6月から9月まで、鎮圧に3か月かけて、ようやく叔父たちの謀反は幕を閉じた。
本来であれば、最も近い血縁として若き当主の義陽を支えるはずだった上村兄弟。

まだ若年である義陽には、日向へ逃亡した叔父たちに止めを刺すだけの余力は無かった。
2年後に上村頼孝・稲留長蔵の両叔父を赦し、日向から相良へ呼び寄せている。

だが、本心から赦したわけでは無かったらしい。
さらに、その後に彼らは粛清されてしまう。

亡き上村頼興の容赦ない手段は、相良家中で無用の恨みと畏れを買っていたのだろう。
実は上村関連の祟り&呪詛話は、冒頭の「天狗さま」、義陽編で紹介した「和歌を詠んだ亡霊・長種」。
・・・だけでなく、未だ他にもある( ̄ω ̄A;アセアセ

叔父たちの処断は、家中を鎮めるために止むを得なかった判断ではないだろうか。
政治的に不安定な立ち位置の義陽のために、婚儀の話が持ち上がるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【叔父の謀反・3日向統一の要、北原氏】相良氏、義陽編9

日向について、超簡単に言うと「日向統一における要衝の地となるのが真幸院」でして、その真幸院を本貫地にしているのが北原氏です。

大隅で最後まで島津に抵抗した国人というと肝属(きもつき)氏ですが、北原家は肝属の庶流になります。
勢力範囲は、真幸院(現・えびの市)5ヶ郷(加久藤、飯野、吉田、吉松、馬関田)及び三ツ山に加え、
東方面は高原、高崎、野尻、山田、志和池、西岳(以上 現・宮崎県)付近まで、
西方面は、財部、吉松、栗野、横川、踊、日当山(以上 現・鹿児島県)あたりまでを領有。

伊東家と婚姻関係を結ぶことにより地盤を強化・・・最盛期動員兵力は1万余!
北原の系図もメンドクサイが、それは適宜に・・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

城・飫肥虎口
(飫肥城の虎口~お気に入りアングル)

勢力範囲が宮崎県と鹿児島県にまたがっているので、当然のことながら島津・伊東の紛争に密接な関わりを持ちます。

一番のガチンコになるのが島津家の支族である「北郷(ほんごう)氏」で、北郷は日向・都城が本貫地。
というか北郷氏は周囲を強豪に囲まれて涙目の草刈り場状態。

北郷氏は島津宗家や分家の豊州島津の力を借りて抵抗するんですが、肝心の島津が内訌でアテにならない^^;
ちなみに島津の宗家の座を巡る「総州家と奥州家の争い」では、北原氏は総州家最後の当主を匿ってました。
で、奥州家の攻撃を受けて総州家当主が自害し滅亡、島津宗家は奥州家の系統(後に伊作系統が独占)になります。


北原氏と相良家の関わりは応永2年(1396年)宴会中に口論となり、刺し違えて両者とも死亡した。
これで相良と北原は関係悪化~北原は対抗上島津に近づき上記の流れ(島津の内訌)になります。

でもって飫肥城を巡る「島津VS伊東」が始まると、北原は伊東とタッグを組んだ。

家紋・島津 島津家紋ロゴ

1484年・文明16~第一次飫肥の役~伊東+北原連合軍が攻撃~島津側が守りきる。
( ̄ko ̄)<ちなみに北郷が島津へ援軍してます・・・
1485年・文明17~第二次飫肥の役~伊東+北原連合軍がリベンジの攻撃
伊東軍の本陣を島津が急襲し連合軍・大敗北~北原9代目当主が戦死⇒甥が10代目になる。
島津が「三股千町の割譲」を条件に伊東と和睦、だが北郷が納得せず三股千町を奪い返すために奮闘する。

1488年・長亨2~若年の北原10代目の家督を狙い叔父が暗躍~10代目は敗れ母方の実家である相良家へ亡命。
これが、島津4兄弟のジーちゃんや、菊池の家督を狙った人騒がせな阿蘇当主が産まれる前の話。

で、途中の日向史は省略しまして、相良家で家督争いがあったのが1525年。
叔父と甥・兄と弟でグダグダに争い、すったもんだで家督をゲッツしたのが16代義滋(* ̄・ ̄*)Vブイ

1526年(大永6)7月、相良の内訌に付けこみ北原氏が攻撃
北原氏は、この攻撃の時に一向宗門徒を扇動したと言われ、後に相良家が一向宗を禁じる伏線となったそうだ。

16代義滋は人吉城兵に (* ̄○ ̄)ゝ<明朝に援軍が来るぞ~、と呼ばわせた。
そして皆越地頭に助力を依頼し、兵100余人に松明を持たせて夜半に行軍させる。
皆越兵は到着すると (o>ロ<)<我らは伊東家よりの援軍!この先も軍兵が来る!と呼ばわせた。

この義滋の機略に騙され、北原は軍を引き上げた。

家紋・相良 相良家紋ロゴ

ちなみに当時の島津ですが、今度は宗家の座を巡って、薩州家と伊作家がガチンコで他所まで手が回らない状態^^;
年代感覚で言うと大永年間とは豊臣秀吉のママン大政所が産まれる年代です^^/

北原氏は日向では島津分家・北郷の都城を狙い、さらに隙あらば相良領も窺う油断ならない有力国人。
さぁて追い付いた1557年~上村兄弟は、この北原氏に謀反の加担を依頼した。(゚ロ゚屮)屮ええっ
戦国武将にとって他家の内訌は密の味。もちろん北原氏は乗った。

更に上村兄弟は皆越地頭にも声をかけた。
上の話(16代義滋が北原に攻撃受けた時)と1557年の皆越地頭は違う人物なのだが、
1557年当時の皆越地頭も相良家に味方し、上村兄弟の誘いを断っている。

1557年6月4日、人吉から謀反鎮圧のために軍勢が動いたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【叔父の謀反・2発端】相良氏、義陽編8

・上村頼興の息子
長男~相良晴広~相良義滋の養子となって相良家17代目当主となるが43歳で病死。
次男~上村頼孝~1517年誕生の41歳~兄に代わって上村家の家督を継ぎ、上村城主となる。
三男~上村頼堅~生年不明~豊福城主
四男~稲留長蔵~1522年誕生の37歳~岡本城主

・1557年(弘治3年)時系列経過
2月21日、上村頼興死去。享年68歳。
3月15日、相良義陽が島津家重臣・伊集院忠倉と佐敷で会見する。
4月14日、相良家の同盟相手である菱刈家が、伊作島津家(実質宗家)の攻撃を受け、死者258人の損害を出す。

おそらく伊集院は「島津が菱刈を攻撃するのを、相良は黙認して欲しい」と依頼したのだろう。
14歳の義陽にアレコレ判断できるとは考えずらいので、ハト派家臣が御膳立てしたのだと思う。

「島津から自立したい国人・菱刈」と「自立を認めない守護職・島津」では、お日様が西から登っても相容れない。
相良にしてみれば、アチラ(島津)を立てれば、コチラ(菱刈)が立たず。
そして、同盟相手が少年当主である事に不満な菱刈内部に「反作用」が起きようとしていた。

家紋・相良

以下、緑太文字部分出典「八代日記」
5月19日、上村雑説ニ依テ上村地下在城

上村城主・頼孝の謀反バナは、5月の段階で囁かれていたらしい。
「上村在城」ということは、頼孝は上村城にいたということか?
「雑説ニ依テ」というとこは、噂に配慮して・・・・謹慎?的な?

文章というより、文節が簡素すぎてプチ暗号状態~~~
日記だからな~書いてる本人が判ってれば。。。の世界でつ(-ω-:)ウーン

5月30日、人吉上村之儀ニ雑説

・・・・・・今度は、意味は読み取れるが、謎が深まる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

ちなみに上村城は球磨郡あさぎり町にあり、人吉から8kmほどしか離れていない。
天変地異でもない限り、情報の伝達に10日もかかるはずがない。

てことはつまり、一度終息した(だろう)上村謀反説が、人吉で再び蒸し返されたんです。( ゚д゚)ンマッ!!

頼孝が己の潔白を証明しようとするならば、上村に引き籠らず人吉に出向いて釈明すべきだろう。
だが、人吉の雰囲気が、もう話を聞いてくれるような状況じゃなかったかもしれない。

これは個人的な意見なんですが、
上村は、謀反を疑われたので、逆に謀反を決意したんじゃないか、って思うんです。

地図・相良関連

「当主が幼年・若年なのに付け込み、叔父が謀反なぅ」
はっきり言って、もはや戦国テンプレ状態で、凡例が多過ぎる。
過去に相良でもあったし、隣の日向・北原氏では叔父に家督を奪われた少年当主が、相良家に亡命してる。

「叔父の謀反」という噂は、あまりにも自然すぎて誰も疑わない。
少なくとも義陽生母・内城は、信じちゃったかも。

冒頭の息子一覧を見ると判るが、上村兄弟はそれぞれ地頭であり、一城の主だ。
謀反ウンヌンはさておいても、このまま捨て置けば上村家の勢力が相良家を凌ぐ危惧がある。

亡き上村頼興が、人望・衆望のある実弟・長種を殺したように、
義陽を凌ぐ可能性のある上村一族を謀反の咎で処断する・・・?
そのような陰謀があったなら、座していれば上村頼孝は謀反人として討伐されてしまう。

ちなみにウィキペディアには「上村兄弟が相良領を三分割・・・」とあるが、出典元が判らないんです。
とにかく突出した上村氏の勢力は、相良家中から畏れられていたと思います。

6月2日、人吉上村主馬允方・同左近允方如上村退出候

この上村城を退去した二人(上村姓拝領の家臣か?)が、人吉に謀反を注進したらしい。

同月4日、人吉ヨリ上村ニ働候
同月5日、人吉ヨリ上村動之注進、八代ニ未刻到来也


人吉から「謀反鎮圧」の為に出撃。
上村兄弟は「謀反に協力して欲しい」と菱刈重任に打診。
菱刈重任は、これを承諾。
さらに上村兄弟は、日向・北原氏へも呼びかけたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【叔父の謀反・1菱刈の加担】相良氏、義陽編7

義陽の実祖父・上村頼興は病だったらしい。
1557年(弘治3年)2月20日~55人の僧により、上村頼興平癒のために2万巻の観音経が読み上げられた。

だが、祈りも虚しく翌日の2月21日・・・グランパは帰らぬ人となった・・・
辞世の句も無いので、それほど重篤な病だったのか、あるいは容態が急変してのことかもしれない、享年は68歳。
もっと長生きして欲しかった・・・100歳くらい(九州の役楽勝)まで・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

季節は巡り、鮎が川面を飛び跳ね、春駒が夏草を食むころ・・・後ろ盾を失った義陽に最初の試練が訪れようとしていた。

城・人吉
(人吉城の石垣)

・肥後守護職を敬う
・筋を通し道理に合わぬ事はしない

律儀な相良の行動原理にブレ生じるのは、義陽の代からの事だ。
それには上村頼興という後見人の死が、大きく影を落としている。

意外に思われるかもだが、相良が他家との和睦が破綻する原因の殆どが「義陽の裏切り」です。
はきとした確証が乏しいので断言はできないのですが・・・・

どうも相良家内部には「島津と勝負ダァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」というタカ派と、
「このまま友好関係でいた方が良いと思うの(人´∀`).☆.。.:*・」というハト派がいた・・ぽい。
似たような事は他国でもあるだろうが、何しろ相良家臣は「肥後もっこす」で、どちらも絶対に主張を譲らない。
義陽は強硬な家臣の突き上げをくらい引きずられ、ズルズル・ズブズブと悪い方へ流された感がある。

これは義陽を責めるのは酷というものだろう。
義陽治世カラーという「個」が確立する前に、上村頼興というカリスマ後見人を失った穴は余りにも大きい。

上村頼興の死後、義陽の生母・内城が後見的役割を担った。
内城は亡き晴広の正室になるくらいだから、根は聡明な女性だったと思う。
だが実家が家来筋だったので、政治的背景が弱い。

さらにママン内城は、
「作戦会議でゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.っと激を飛ばす・慶誾尼」や
「わたくしが内府(家康)殿の元へ参ります(`・ω・´)キリッ・前田利家夫人」
のような胆力のある気性じゃなかったようです。

働き盛りの夫に先立たれ、まだ元服したばかりの息子の後見するのに、彼女自身が不安で一杯。
何をするにも不安が先立ち政治的な定見が無かったんじゃないだろうか。
内城のブレは、そのまま義陽少年のブレになったのだろう。

家紋・相良 相良家紋ロゴ

グランパが死んだ翌月の3月15日、相良義陽は、島津家のVIP重臣・伊集院忠倉と佐敷で会見する。

その更に一か月後の4月14日、相良家の同盟相手である菱刈家が、伊作島津家(実質宗家)の攻撃を受け、死者258人の損害を出した。

義陽と伊集院の会見内容は、おそらく「島津が菱刈攻撃するから相良は手も口も出さないでね(^ -)---☆Wink」という感じかと・・・

菱刈は「脱・島津配下」して「目指せ戦国大名化」をしたがってて、「島津への盾」とするべく相良と同盟を組んだという本音があった。
菱刈と組むということは、必然的に島津と敵対することになる。
島津と友好関係を望むハト派家臣が御膳立てし、義陽を佐敷まで連れ出し伊集院と会見させたのだろう。

おそらく内城も同行するか、そうでなくとも事前に知らされてて、義陽に伊集院の申し出を受けるよう、言い聞かせてたんじゃないかな~
当主とはいえ、当時14歳の義陽は未だ何も決められないし、決めさせてもらえなかっただろう。


島津が菱刈と相良の同盟を崩そうとするなら、この「佐敷の会見」を菱刈にリークすればいい。
リークされたからか、元からか、菱刈内部に「少年の当主」への不満が燻っていたようだ。

菱刈一族、菱刈重任が相良家で起きた謀反に加担したのだが、それは・またの話 by^-^sio


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【大口城~101回目のアプローチ?】相良氏、義陽編6

1555年9月26日~天草尚種が「ね~ね~長島領ちょうーだい」っと言って来た

地図・天草関連
(相良家が軍事介入した天草地方の地図~前年・1554年にパパン晴広が長島氏を天草から追い出した)

相良(グランパ上村)「ゴルァ!お前は長島の堂崎城に入ったろ~が、その上に領地だと?晴広が死んだ途端に調子こくんじゃねぇ!!バキッ!!(  ̄ー ̄)=○() ̄O ̄)アウッ
こんな下品な物言いはしてないが、天草の申し出は却下された。

まったく油断も隙も無い・・・ブツブツ・・・ちなみに1555年は「厳島の戦い」で毛利がウィナーになった年です。

1556年2月9日~義陽13歳で元服
当主として外部に認知されるのは、この時だろう
グランパ上村は感激で「千秋万歳」と言い、後見役の任に励んだ。

同年6月23日~相良(グランパ上村)は、名和氏・阿蘇氏と盟約を結ぶ
名和氏とは豊福城の帰属を巡って長年係争し、亡き晴広が名和氏から妻を迎えたが関係悪化で離縁している。

阿蘇氏とは大友と阿蘇が縁戚だった関係で、肥後の反乱で謀反側だった相良と敵対関係だった。
パパン晴広の代では緊張状態が続いていた両者との関係を、纏め上げたグランパ上村の外交手腕は「見事」としか言いようが無い。

同年6月29日~天草5人衆の内、栖本と上津浦が激突!
相良は栖本をヘルプ~天草+志岐は上津浦をヘルプ
この争いは決着が付かないまま、栖本と上津浦の敵対関係がグダグダ数年と引きずる。

時期で言うと天草地方のバトルより前になるらしい。
グランパ上村は、大隅の国人・菱刈氏(婚戚で同盟関係)と図り「大口城(上記地図の右下側にあるよ)ゲッツ」を狙う。


家紋・相良 相良家紋ロゴ

1530年に16代相良義滋と菱刈氏が大口城の城代・島津忠明を殺してゲッツしたのだが、その後20年の間に再び島津側に獲られていたらしい。

城主は西原氏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・って誰?Σ(´Д`;)

地名を姓にしてるとことを見ると、それなりの勢力だったはずで「相良+菱刈が狙う」ってことは島津サイドの国人かな~( ̄ω ̄A;アセアセ

グランパ上村に協力したのが菱刈重任で、菱刈当主の兄弟(菱刈当主が代替わりしてれば叔父)です。
で、菱刈重任の妻が16代相良義滋の娘なので、義陽から見て「義理の叔父」にあたる人です。

西原氏は当時は独身だったらしく、まず信頼関係を築くために菱刈重任の妹を嫁がせた。
(あるいは人質兼ねた側室だったかもしれない)
(あと嫁がせた時期は、1556年より前かもしれません)

で、1556年に西原氏が病を得て寝込んだのを「チャンス到来」と兵80人を乱入させて城に火をかけた。
西原氏は重篤な病だったらしく、切腹自害することなく城内で焼死している。

ほん~~と、何度目か分かんないけど大口城は相良+菱刈サイドの手に落ちた。
ウイキペディアを見ると「菱刈重任が大口城を相良に献上した」とあるが、城代には菱刈氏の一族も入っている。

で、引き続きウィキペディアを見ると「島津忠良(4兄弟の祖父)が大口領を割譲した」とある。
この時期の島津は大隅の国人たち・・・特に蒲生氏攻略に力を注いでいた。

で、1554年に日向・北原と菱刈を巻き込んで蒲生との大激突の末、やっとこさ西大隅を手中にしたんです。
島津は、その後の領内安定・微調整があり、大口城まで手が回らない。
「領地割譲」という形(自分達のメンツを潰さない)で、菱刈・相良・島津の国境を暫定的に定めたようです。

この後、相良側から「球磨・芦北・八代の兵1000」を交代制で大口城を守らせています。
どうも、少なくとも大口城に関して、菱刈は相良の配下に与していたようなんです。

島津の干渉・支配を嫌った菱刈は、初めは島津分家で実力者・出水の薩州家と婚姻関係になってました。
ですが薩州家が島津宗家に従属するようになった為に、菱刈には島津宗家からの盾となる相良氏の存在が必要だったのでしょう。

グランパの後見で幸先良いスタートだった義陽だが、そのグランパが突然亡くなる ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
義陽の真のピンチは、パパン死去よりグランパ死去だったかもしれない。
相良に御家騒動のキナ臭い煙が立ち上るのが、それは・またの話 by^-^sio

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【山と川と八代と】相良氏、義陽編5

相良と言えば、人吉のイメージだろう。
が、実は義滋、晴広、義陽の途中までは、八代城(当時は古麓城)が相良の本城だった。

そして相良家では、八代と人吉を分割統治し、相良当主が人吉と八代を往来していました。
これには大きく分けて「地理的要因」と「政治的要因」の二つがある。

九州は「火の国」阿蘇山、霧島、桜島、島原と名だたる活火山がある。
とうぜん険しい山々が多い。
肥後でいうと阿蘇山系と九州山地。
八代と人吉の間には九州山地に含まれる1000mクラスの仰烏帽子山がある。

それだけでなく盆地である人吉は、北部は八代・球磨山地、東部は九州山地、南部および西部は肥薩火山群(国見山地)に囲まれている。
九州自動車道と肥後トンネルが完成するまで、山越えルートはガチ命がけだったんじゃないだろうか^^;
となると陸路の南北より、物資人馬流通の要路として東西の河川流域が発展するのは自然の流れ。

そして河川流域(物資流通)を抑えた者が、台頭する。
球磨川沿いに進出してきた(であろう)相良氏が、八代を手に入れてたのは義滋の父・長毎の代だ。
八代を手に入れた最大の利点は「港」を手に入れた事だ。

地図・天草関連

義滋~晴広にかけて明との交易ルートを確立し、交易港保護のため天草諸島の国人たちを支配下に治めた。
明との交易が安定するまで、|港|_ ̄)じぃー ってのもある。
八代城下は、相良家の財政を支える「商都」としての役割を担う事となる。

あと北肥後が政情不安定で定期的?に謀反が起きてし、豊福城のことで名和と揉めてたので、その対応対策もある・・・
となると八代が本城というのも頷ける(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

それと八代という土地そのものが特殊だった。
八代は「惣国一揆」という国人・豪族の連合体。
正式名「八代談合衆中」という相良家臣団とは別組織だったんです。

下手に代官を派遣して支配しようとすれば、肥後国人に謀反された大友の二の舞。
人吉と八代には別々の奉行を配置し、定期的に相良当主が八代現地に赴く(年に2、3回)・・・
という、細やかな配慮が必要だったんです。

が、上記の事情があるとはいえ、八代ばかりに比重を置くのは(・A・)イクナイ!!
何といっても人吉は「父祖伝来の本貫地」なのだ。
そこで人吉城の方には、相良家当主の妻子を置いて、八代と人吉を行き来する・・・って形になった^^b

少年当主である義陽も勿論お出掛け~「初めての御使い義陽バージョン」~
ではなくて、ママン内城(ないじょう)の同伴付き(*´艸`)クスクス
ちなみに内城は夫・晴広の死後に落飾して尼になってるはずなのだが、尼号では呼ばれず、そのまま内城と呼ばれていたらしい。

ママンにすれば、年少で当主となった義陽が粗相しないか心配で堪らなかったのだろう。
かなり大人になってからもママ同伴だったらしいが、、、それはマザコンじゃないと思う。

申すも憚れることであるが・・・( ̄ko ̄)<不意の暗殺を恐れたんじゃないだろうか・・・

くどいようだがパパン晴広は養子、しかも義陽には同年・同日生まれの弟がいる。
その弟・頼貞はパパン晴広の決定で「10歳になったら出家」ってことで寺院入りしてます。
でも何事か企む輩が出ないとも限らず、ママン内城はトッテモ心配だったんだろうなぁ~って思います。

そして義陽が八代に赴く間、人吉城代だったのが実祖父・上村頼興。

家紋・相良


上村頼興の人吉城代の務めは義滋・晴広の頃からです。

それとパパン晴広と義陽時代の奉行がコチラ↓

球磨奉行:深水頼金・東長兄・丸目頼美
八代奉行:東山城守 ⇒東左京進
     高橋下野 ⇒高橋駿河
     蓑田美濃守・蓑田三浦介&蓑田筑前

話の進行上、彼らの出番もありますので宜しくね^^b

1555年という覚えやすい年の8月12日にパパン晴広が43歳で病死し義陽12歳が家督を継いだ。
実は初名は頼房なのだが、普通の人(相良オタ以外)は絶対コンガラガルので、義陽で呼び名を統一します
(ウキペディアも義陽で検索するようになってるんで)

グランパ上村は義陽の後見役となると、相良家中で「大殿」という敬称で呼ばれた。
16代当主・義滋が存命なら、義滋が呼ばれるべき敬称で、グランパの権勢の大きさを表している。

この上村頼興が年少の義陽に代わって、相良の内外の政務を執るのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良と菱刈と島津宗家と薩州家と~後編】相良氏、義陽編4

自立の気配を見せる菱刈に対し、島津宗家・忠兼(勝久)は牛屎院の一部を割譲して懐柔しようとした。
だが自立したい菱刈の方は、貰うものは貰ったが宗家には靡かなかった。

じゃ、相良の方へ(*´∀`)ノ「牛屎院(大口城)あげるよ~」と誘いをかけたが、相良義滋に断られる。
順番が前後してるかもだが、要するに島津宗家は菱刈にも相良にも振られた(爆

自立したがり菱刈はさておき、実は相良の行動には一貫性がある。

1)道理に合わない事はしない
2)肥後守護職に敬意を払い従う

八代・葦北は、相良が強引に奪ったものではなく、守護から貰い受ける形で入手している。
薩州家・豊州家に意向で領有した牛屎院も、前回記述したように島津宗家へ返還しています。
冒頭の話の後、大口城をゲッツしてますが、それは島津宗家から改めて割譲されたものです。

肥後守護職に従うという点では相良は優等生?
肥後守護職・菊池義武が大友家に対し謀反を起こした時も相良家は従ってます。
(ただし最後までは付き合わず、適当なところで距離置いてる)
菊池義武が亡命してた時も受け入れ、大友の引き渡し要求には応じず、最後まで家臣として面倒を見てました。

途中で肥後守護職は大友家のものとなってます。
ですが菊池義武生存中、相良は菊池家を「屋形様(国主への尊称)」と立て続けました。

大友にとっては腹立たしいとは思いますが、常に裏切る危険を孕む国人たちより、
守護職という権威に律儀な相良家そのものには、好意を感じたのでは?と思っています。

そして相良家は敵対する島津宗家と薩州家の、双方から友好関係であることを望まれた。

家紋・相良 相良家紋ロゴ

島津宗家は、薩州家とのバトル・大隅統一・飫肥城を巡る伊東家との確執と問題が山積しており、相良と事を構える余力など到底ない忙しさ。

薩州家も、だんだん伊作島津に押され形勢不利になってきたので、相良が宗家サイドになったら困る。
1538年(天文7)4月13日、薩州家・島津実久は佐敷の仮屋に来訪し、相良義滋と会見している。

相良家文書によると、この時に実久は起請文を提出したらしい。
内容が判らないが、とにかく相良は薩州家と島津宗家のどちらにも与しない事を約したのではないだろうか。
それともう一つの可能性として、天草のことで何か取決めしたのではないだろうか。

相良晴広が天草に介入し、天草から長嶋氏を追い出したのは薩州家・島津実久死後だからです。
もっとも長嶋氏は、出水の薩州家に逃げ込んだので、それはそれで新たな火種にはなってる^^;

「道理に合わない事はしない」
そうした相良家の律儀な姿勢は、近隣諸国から同盟相手として信のおける相手と評価されていただろう。

そんな相良がブレるのは、義陽の代になってからの事だ。
これは義陽の器量の問題ではなく、若年で当主になったことのマイナス面が出た結果だと思う。
実父の晴広か、祖父の上村頼興が、義陽成人まで存命であれば、相良の運命は違ったかもしれない。

そして島津との和睦が破綻するのは、常に相良からの裏切り。
それも義陽が主導的役割を果たしたのではなく、島津主戦派家臣を抑えることが出来ず、振り回された感がある。

義陽自身は、父祖から続く島津との友好関係を守りたかったように感じるのだが、それもイマイチ判然としない (-ω-;)ウーン
相良義陽を見ていると、若年で当主になることの難しさを感じる。
そして心を預ける家臣のいない当主の孤独さも感じる。

だが最期の責任をとるのは当主なのだ。
相良義陽には、戦国武将の悲哀と悲劇が常に付きまとうのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良と菱刈と島津宗家と薩州家と~前篇】相良氏、義陽編3

義陽編を始めるにあたり、念頭に入れて欲しい事がある。

相良家と島津家は、元々は友好関係だった・・・という事です。

ところが、その島津宗家と分家が対立し、一枚岩でないために話が複雑になる( ̄ω ̄A;アセアセ
そこに菱刈が ヤポーィ♪ヽ(*´∀`)ノ と便乗するので、更に判りづらい^^;

話を整理しようとすると、文明年間まで遡る。
文明は1469年~1487年までなのだが、薩州家・相良の関わりは1470年代頃だと思う。

1476年3月、相良為続は薩州家・島津国久&豊州家・島津季久の内意により、牛屎院を格護する。
牛屎院とは地名であり、そこを領有していた国人の姓でもある(読み方にビックリ)
本城は大口城・・・・大物同士の係争地で、牛屎院氏は本貫地を守り抜く事が出来ず日向・北原氏を頼ってへフェイドアウトしたらしい。

その北原と相良が抗争に及んだ時、どちらに与するかで島津宗家と分家が揉めた。
薩州家国久&豊州家季久は「相良に味方しましょうよ(*´pq`)ウフフ」だったが、
島津宗家当主・忠昌が、その申し出をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!拒んだ。

実は島津忠昌の生母は家来筋で、父が働き盛りで死亡したため、ただ一人の男子だった忠昌が弱年で家督を継いだ。
生母の家格が低い当主に、分家のオジサマ方が「毛並はウチの方が・・・」と内心不満だったであろうことは容易に想像がつく。

結果、薩州家が挙兵。同時期に豊州家と相州家が謀反。
相次ぐ分家の離反に、忠昌は宗家当主でありながら伊集院への避難を余儀なくされる(´;ω;`)ウッ
謀反鎮圧後も薩州家は半独立状態で鼻息が荒かったが、翌1467年6月27日に豊州初代季久が死亡。
薩州家も島津宗家に帰順した。m(__)mゴメンナサイ

相良氏の方も色々あって牛屎院(大口城)を島津宗家に返還した。

家紋・島津 島津家紋ロゴ

本館と相互リンクしている「戦国島津女系図」で知ったのだが、その薩州家2代目国久の孫姫が菱刈重副に嫁いでいる。
で、菱刈重副の妹と娘が相良家へ嫁ぎ、
で、菱刈重副の息子・重任に相良義滋の娘が嫁いでいる。

薩州家と相良家は菱刈家を通じて縁戚関係となった。(各年度は不明)

菱刈が薩州家と相良両家に縁組する目的は明解だ。
ズバリ「島津宗家配下の国人」という立場からの自立・・・です。

これは、自立心旺盛な国人なら等しく願う事だが、行動に移すには本人の実力の他に、それをバックアップする後ろ盾が必須。
菱刈家は始めパトロンとして薩州家に目をつけたのだろう。

ところが頼れる重鎮・国久の死後に、薩州家は家督を巡って親子(国久の息子と孫)が壮絶なバトル開始。
伊作島津氏と羽州島津氏も巻き込む大騒ぎとなる。
勝ったのは国久の孫・忠興(=^・ω・^=)v ブイ
その後、忠興の子、実久が島津宗家の座を巡って、薩州家は伊作島津と周辺国人を巻き込む大バトル。

ゴタゴタが続くのを見て菱刈は「島津宗家からの盾」として薩州家だけでなく、相良とも同盟関係になることを選んだ。
本音は「島津からの盾」なので、菱刈は相良を兄貴分として立ててたように思う。
少なくとも大口城に関しては、菱刈は相良の配下国人として、その指揮下に入っていたんじゃないだろうか。
菱刈は島津に降伏した後は、迷うことなく相良の保護を求めているので、あながち方向違いの推測じゃないだろう。

そして相良が戦国大名としてクラスチェンジに成功する陰に、島津との友好関係があったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【グランパ・上村頼興】相良氏、義陽編2

さて、義陽(よしひ)が当主時代に入るのに欠かせない人物たち。

生母・内城(ないじょう)は前回の「少年当主」で触れましたが、今回は重鎮のグランパ紹介~
何度か触れたが義陽の父・晴広は養子で、実父(義陽から見て実祖父)が、上村頼興(うえむら よりおき)です。

上村家は相良家の支族にあたり、一族の中でも実力者、味方にすると百人力。
中でも上村頼興は島津家の「中興の祖・島津忠良(日新斎)」のような立ち位置にいます。

つまり庶長子だった義滋(よししげ)が相良16代当主になるにあたり、グランパ上村の助力を必要としたからです。
上村頼興は「助ける代わりにワシの長男を養子にして次期相良当主にしてネ」と言う交換条件を出し、義滋は承諾しました。

地図・相良関連
(グランパの上村城は地図右側にあります)

上村頼興は1490年産まれで上村家16代目当主、義滋とは従兄弟の間柄。

息子が4人、晴広(相良17代目当主になる)・頼孝(次男で上村の家督を継いだ)・頼堅・長蔵(稲留姓になる)

相良での家督争いは1525年で、約束通り晴広が相良家の養子になったのが1530年。
上村頼興は将来当主となる実子・晴広のために、邪魔者を抹殺していく。
その非情さは身内にも及び、1535年~頼興の実弟・長種を殺しています。

上村頼興の実弟・長種は、戦っては度々葦北方面の兵乱を鎮圧して武勲を重ね、書や連歌の才に
長けていた。
特に連歌における名声は高く、高名な上人らが訪れるほどである。
また温和な性格であったため人望も厚く、その声望は高まる一方であった。

そのため誰ぞが長種を担ぎだし、現当主・相良義滋に叛くことを危惧した頼興は重臣らと謀り、長種を殺害することにした。
やがて上からの御召しであるとして呼び出された長種は、頼興の命を受けた蓑田長親により城中にて刺殺された。

相良家では、御家騒動と祟りはワンセットが平常運転

突然に襲われ殺された長種の無念が怨霊となって、
「頼興の命令(ココ重要)」で「手を下した蓑田長親・・・ではなく、その息子・源十郎」を祟ったんです。
とにかく源十郎は言葉を発することができなくなったばかりか、手足も不自由となってしまった。

そこで修験者を呼び、霊を憑依させてその意志などを語らせる「口寄せ」を行ったところ、
長種の霊は 「時知らて 匂うや梅の花盛り」 と発句した。
(さすが、戦でも連歌する相良家臣クォリティ)
それを聞き一同が 「白玉や 根こめに植し萩の露」 と返すと、
長種の霊は「望みを達した!」と大いに喜び以来、源十郎の病は治癒したという。
(心霊ネタは「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」に掲載されていたのを、前後背景をシオ風に編集してます。)

命令した頼興でなく明後日の方向に祟って何が満足したか、よく判らない怨霊ですが、とりあえずお引き取り頂けたようです( ̄ω ̄A;アセアセ

家紋・相良 相良家紋ロゴ

1546年に義滋が死んで、我が子・晴広が相良の家督を継ぐと、上村頼興は引き続き粛清に励んだ。
1552年8月、上村頼興は自身の従兄弟で、岡本の地頭だった相良頼春を謀殺した。

つまりね基本が同族だから、従兄弟だったり叔父・甥だったり何かしらの縁戚・血縁関係になるんです。
たいていの場合は揉めそうになると、親族・縁戚が宥めて「なぁなぁ」で終わらせるのが、中世~戦国中期くらいのパターン。
抜本的な解決にならないから、関係清算できずにグダグダ尾を引くのだが、上村頼興は親族の仲裁とか入って拗れる前にスパーンと殺っちゃう。

殺して空席になった岡本城城主と地頭職を、自分の4男である長蔵に継がせた。
ちなみに三男の頼堅は豊福城主及び地頭。
こんな怖い男なんで、息子たち(義陽から見て実叔父たち)は上村頼興に逆らうことなく従っていた。
上村頼興の御膳立てで地頭・城主の地位を得てるので、従う事にメリットもありました。

1555年8月12日・・・実父・上村頼興に先立ち43歳の働き盛りで相良晴広が病死する。
跡継ぎの義陽は、わずか12歳・・・当主としての判断を全て自分で行うことなど覚束ない。
グランパ頼興は、66歳という老骨(当時の感覚で)に鞭打ち、孫の義陽を支えた。



て、言うと綺麗だが、ぶっちゃけグランパに実権握られてたんです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
さて義陽ではなく、上村頼興の執政が始まるのだが、それは またの話

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相良義陽_1【少年当主誕生】

5月は肥後戦国史月間です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

1543年・・・後に相良義陽の正室となる千代菊(義滋の娘なので義叔母にあたる)が産まれる。
一つ上の姉さん女房ですね(*´艸`)

さて、相良氏17代目当主・晴広は、16代目当主・義滋の養子でした。
晴広は、1542年に名和氏の妻と離縁した後、再婚してるのだが中々子宝に恵まれないまま三十路超え~~~

晴広が類いまれな名君だろうが、実父・上村氏が実力者だろうが、後がなければ話が続かない。

 |相良義滋(養父)+上村(実父)+相良家臣一同 |_ ̄)じー・・マダ? 

見えないプレッシャーを受けつつ励んだ結果、今度はハッスルしすぎたのか正室と側室が同じ日に男子を産んだ。

1544年・天文13・2月8日~相良義陽と弟・頼貞が産まれる
御家騒動の多い相良家では揉めるのは間違いなしですな ( ゚Д゚)y─┛~~

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

義陽の生母・内城(ないじょう)は数えで二十で、今ならヤンママ(死語?)だが、戦国ならば遅い方。
でもって正室の内城と側室は、晴広の初婚が政略結婚だったのに引きかえ、どちらも家来筋。
これは冒頭で上げたように、子作りにハッスルするために、メンドクサイ家柄の妻を避けたのだろう。

元々が家来筋なので、内城と側室の地位(扱い)は男子誕生までは高いものでは無かったはずだ。
そのせいか、二人は共に実家で出産している。
(占いで「実家で出産するのが吉」と出たかもだが)

もしかしたら、男子出産までは双方ともに側室で、子供が生まれてから「正室」「側室」が決定したかもしれない。
側室は、晴広が巡視の時に訪れた家臣のところで見初めた娘だけに美貌の持ち主だが、武家の正室に必要なのは能力で、顔で選ぶのが側室だ。

正室は奥向きを宰領したり、家臣への心配り、他家の奥向き同士の交流など、当主の公私に渡るパートナーでなければならない。
蝶よ花よで育ったブッチギリの名門お嬢は、乳母が代行して仕切るのでつ(*´艸`)
男子誕生の時点で、「正室」の任が務まる内城が選ばれ、義陽が嫡男(暫定的に)となったのでは無いだろうか。

何せ戦国時代は跡継ぎを決める「明確な基準(長子相続)」が確立しておらずファジーなんです^^;
でもって正室と側室の定義もファジーで、曖昧なとこがあるんだよなぁ( ̄ー ̄A 汗フキフキ
つまり戦国時代だと、側室も政略結婚で選ばれる事があるので、妻の地位は「実家の格」が物を言うんです。


1545年・天文14~12月~相良義滋と晴広が室町将軍・足利義晴から偏諱(へんき・名前の一文字を貰うこと)を受ける
実は便宜上、名前表記を統一していたのだが「義滋」「晴広」と名乗るのは、この後からなんです。

貰った字は「義」と「晴」。
ちなみに足利家の通字(つうじ・代々受け継ぐ文字)は「義」なので、「義」を拝領する方がグレードが高い。

つまり足利将軍家代々名乗る「義」を養父が貰い、当代の名乗りの文字「晴」の方を養子である晴広が貰ったんです^^b
で・室町幕府から偏諱のための使者が、はるばる肥後・相良家まで下向してます^-^

1546年・天文15~前年の名誉と相良家の順調な発展ぶりにホっとしたのか、16代義滋が亡くなる
だから義滋って名乗った期間って、実は一年未満だったりする,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

で、晴広が34歳で家督を継ぎます。
時代感覚で言うと、竹千代と呼ばれていた徳川家康が、今川家の人質となるのが1549年です。

1548年~相良義陽(数え5歳)が、球磨・芦北・八代の老臣合議で正式に世継ぎとなる
シオは、これまでは暫定的(内向き)に嫡男とされていて、1548年に公式発表な感じで正式決定したんじゃないかなぁ~って解釈してます。

これは武家の男子の教育課程も関係してると思ったからです。

武家(だけじゃないが)男子は、5歳で「袴着の儀」の祝いをします。
それまでの童姿(お河童ヘア)から可愛らしく髷を結って、おコチャマサイズの紋付袴の着用がOKになるのね^^
「七・五・三」のうちの五の祝いで、宮中では今でも古式に則って儀式が行われます^^b

でもって戦国・武家の場合、7~8歳くらいから現場・・もとい戦場を実地で見学させて慣れさせる。
立花宗茂も年少の時に罪人の処刑なんかに立ち会ったりしてる(ちなみに全く平常心だったそうです)

でもって嫡男ともなると庶子とは受ける教育が違う。

馬術・剣術・弓術(時代とともに鉄砲も入り、槍は好みで)水練(衣服着用での状態含む)・といった個人的武技はもちろんのこと、
(ただしブッチギリの名門クラスになると心得があればOK~)

出陣の儀式・首実検の儀式・祭祀の儀式・花押の書き方(各武家の家紋&花押の暗記込み)。
戦場における軍配の使い方・城の秘密の抜け道とか・領内統治など帝王学。
名門の素養として和歌に書も(時代とともに茶道が入り・ぶっちぎり名門だと蹴鞠や犬追物も)覚えなきゃ~

あ~~!
あと能や狂言に舞(観るだけじゃなく演じるレベル)・鼓(演じるのに必要・笛は好みで)と数限りなくあり。
で、家臣と主君じゃ、あらゆる儀式の立ち位置と所作が違う~とにかく5~6歳から教育しないと間に合わない^^;;

つまり、いよいよ嫡男としての本格的教育を受けるにあたり、
家臣から心効いた者を「後見役(複数可・習い事の師匠とは別で武将としての後見)で元服時に任命」考えなきゃだし、
遊び相手としての小姓(一緒に学問・武芸に励む将来の幹部候補生)も選ぶので、
年齢的に、嫡男が誰なのか公式発表する時期に来たってことです。



1550年に「肥後の反乱(大友側から見て)」が起きて、相良晴広は謀反側だったが、反乱鎮圧後も大友と事を構えることなく終息した。
このあとは「大寧寺の変」で大内義隆が討たれ、中国~北九州にかけての勢力分布が激しく変動する。
さらに豊後の大友家では「府内の乱(家臣の謀反)」が起きて落ち着かない。
この間に晴広は天草地方に介入し、天草地方から長島氏を追い出すことに成功し、明との交易ルートの安全を確保した。

1555年・天文24年~晴広は「相良氏法(分国法の原点)」を発布する
これは1400年代から1555年まで、3代に亘る相良家当主が編み出したもので、晴広の代で完成を見る。

晴広は41歳の時に筋骨に激痛が走る奇病に罹り、占いで10年前に離縁した前夫人の祟りと出て、真言僧らにより鎮められ平癒している。
祟り云々は別にして、この時に何らかの病を併発していたのかもしれない。

同年の8月12日~43歳の若さで相良晴広は病死
相良義陽は若干12歳で、相良氏18代当主となって家督を継ぐことになった。
名君の死・少年当主誕生で相良家周辺は俄かに騒がしくなるのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回「グランパ・上村頼興」

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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