【降伏】謀反ノススメ・五【一回目】秋月種実「飛」の巻7

1559年、北肥戦誌曰く
「豊後勢は古処山を開き、佐嘉まで攻め入らんと欲し、8月28日に畠山まで陣を寄せた。」

秋月謀反1559年その2
題して「縮尺超デキトー~雰囲気伝われば(・∀・)イイ!」地図(爆

紫ライン~筑紫惟門の動き(秋月は籠城一筋)
緑ライン~大友・田北鑑生勢の動き

地図の番号は時系列順で豊後勢が山隈から畠山に移動したのが⑥
・・・なんだけど~~実は畠山の位置が特定出来なかったんです( ̄ω ̄A;アセアセ
検索でヒットするのは、かなり離れた位置の精肉店,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
だから⑥の方角に関しては、まぁ肥前or筑後方向に行った?かな?ってことで^^;

何で豊後勢が佐嘉を?
って言うと、1559年この時点で大友がバックアップしてた少弐氏が事実上、滅んでるからです。
肥前・・・特に東肥前の勢力分布が変化したため、台頭した龍造寺がターゲットになった。

龍造寺にしてみれば、こんなに早く大友の兵が動くとは想定外 アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
同年、9月15日何とか和議を結んで事なきを得ました( ̄ω ̄A;アセアセ
この部分は少弐(やっと)滅亡と合わせて龍造寺隆信編の新シリーズで紹介しますね(^ -)---☆Wink

北肥戦誌曰く「(中略)大友勢は陣を返して筑前若宮庄の河底という場所へ陣を移し、古処山を伺い続けた。」

この動きが地図時系列⑦
雰囲気(だけ)地図を見ると一目瞭然の宗像エリアにあるのが「筑前若宮庄」です。
河底までは流石に特定不可( ̄ω ̄A;アセアセ

若宮町は市町村合併で「宮若市」に編成されました。
宮田町+若宮町=宮若市・・・地理音痴の道産子シオには紛らわしぃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
で、旧若宮町地図が手に入らなかったんですが、宮若市内の学校・役所関連の場所から見るに鞍手郡・鞍手町寄りになるようです。
でもって鞍手郡・鞍手町はスバリ秋月エリア

宗像氏は、エリア内に大友軍勢が駐留されて、さぞ迷惑したことでしょう・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

家紋・宗像 宗像家紋ロゴ

世間的な知名度は殆どなくて、戦国ファンの間でも立花宗茂の咬ませ役程度の軽い認識しかされかねない秋月種実。
ですが秋月種実がいなければ、少なくとも北九州戦国史は全く違ったものになる・・・と断言できるほどのキーマンです。

道雪・紹運・宗茂が、何者にも侵される事のない上質な絹の白ならば、
秋月種実は水墨画に施される薄墨のように、白にはない陰影の魅力がある・・・(人´∀`).☆.。.:*・
アニメ世代向けに判りやすいキャラで例えるなら「ガンダムの赤い彗星シャア」ポジション(管理人の思い入れ込み評価・爆)

「打倒大友」に関しては、ブレない・メゲない・諦めない
「打倒大友」のためなら、手段を選ばず・他人の迷惑は顧みない
「打倒大友」のためなら。時に膝を屈し、時に裏切る
「九州の役」で秋月が秀吉に逆らったのは、田舎者の夜郎自大ではなく「打倒・大友」の宿願を諦めきれなかったからではないでしょうか。

そんな秋月種実エリアと大友(道雪・紹運)エリアに挟まれた宗像氏は、もう気の毒としか(´;ω;`)ウッ
2ちゃんスレッド風に言うなら⇒【助けて!】大友への補償どうしよう?!【隣人がDQN】
って感じで宗像氏は秋月種実に振り回され続けます。
そして、その始まりが1559年、秋月種実・筑紫惟門コンビの謀反なんです。

さて、本題に戻って籠城に力尽きた古処山城は、筑後の田尻氏の仲介で降伏。
秋月が降伏したため、筑紫惟門も田尻氏を通じて降伏した。
筑紫がチャッカリしてるのは、降伏条件で旧領安堵を取り付けた事です。

秋月は筑紫の去就から、国人領主の戦い方を感じ取ったのではないでしょうか。
(肝心の筑紫は生粋の国人じゃないんだけど・爆)
秋月種実、大友への降伏1回目・・・次のチャンスは2年後なのだが、それは・またの話 by^-^sio

秋月種実編「飛」の巻終了~次は肥前戦国史に戻ります(^ -)---☆Wink
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【籠城】謀反ノススメ・四【一路】秋月種実「飛」の巻6

実は討伐軍大将・田北鑑生が兵を何人召集したのか、シオレベルでは不明だったんです^^;
だから勝手に「下限6千、上限1万」と推測しました。

下限は、田北本人が引き連れている本軍の他に筑後衆が参陣するので、これより少ないってのはないかと。
上限は、過去の謀反鎮圧時における兵力を参照
補足として
・仮に1万以上~2万なら、謀反鎮圧は早期解決してるはず。
・田北の軍行動が兵力分散&多方面作戦をしていない。

後世の我々は諸史料&歴史の推移から、1559年に大友は最盛期を迎えた・・・と判断できます。
当時の人々にとっても、大友は仰ぎ見る巨木のような印象だったでしょう。
そんな大友に謀反しようなどという、ハイリスクを侵す国人は極々僅か。

旧領復活がかかってる筑紫惟門と、毛利の支援で御家再興果たし、このまま大友からの自立キープしたい秋月・・・くらいのものです。
特に秋月の「打倒大友」にかけての執念と情熱は生涯ブレることはありませんでした。(←そこに惚れた管理人)

1559年1月の秋月御家再興に反応したのは筑紫惟門だけだし、
筑紫惟門の旧領復活謀反に呼応したのも秋月種実だけ。

謀反飛び火の危険性が低いとなれば、田北は一辺に両方を相手にする必要はないんです。
どちらか片方を潰せば、片方は単独で謀反し続けるのは厳しく、いずれ立ち枯れる。

田北鑑生は、まず少年当主・秋月種実を擁する古処山城を包囲した。

秋月謀反1559年
題して「縮尺超テキトー、雰囲気伝われば(・∀・)イイ!」地図(爆

紫ラインが筑紫惟門の動きで、博多を襲い筑後で大友勢(筑後衆)を破ったとこまで記事にしました。
緑ラインがキング大友家臣・田北の動きで、今は古処山城を包囲なぅ~

筑紫惟門に呼応した秋月は「籠城」一択。秋月にしては芸がない。
それもそのはず、1548生年説を採択している本記事で、秋月種実は数えで12歳。
まだまだヒヨっ子で「学問ノススメ」ならぬ「謀反ノススメ」手習いちゅぅ~

よく秋月関連の話だと、毛利元就を参考にした(学んだ?)って感じの表現を目にします。
でも種実が周防にいたのは足かけ2年ほどしかありません。
むしろ、この1559年時における筑紫惟門の行動の方が、「生きた学問?」として、よほど参考になったんじゃないでしょうか^^

さて、当主は少年でも古処山城は要害です。
秋になっても落とすことが出来ず、さすがに豊後勢に疲れが出始めた。

そこへ筑後勢・田尻親種が陣替えを進言した。
おそらく「陣を移動する」という行動によって、局面が変化するのを期待したのだろう。
田北は進言を入れて「山隈(朝倉郡筑前町)」へ陣替えした。

局面は動いた。五箇山から筑紫が出撃してきたんです。
田代(朝倉市田代)で筑紫と豊後勢が交戦★★~だが決着がつかず、これまた不完全燃焼、要領を得ないまま筑紫は五箇山へ引き上げた。

モヤンとした状況に田北は「古処山城だけでなく、一気に肥前佐嘉まで攻めちゃえ!(・∀・)ピコーン★」
と思いつき畠山(場所特定困難)まで陣を進めたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【討伐軍大将】謀反ノススメ・参【田北鑑生】秋月種実「飛」の巻5

大友用語早わかり集
【同紋衆/どうもんしゅう】
大友家の一門&譜代家臣から構成されるエリート集団。
大友家の家紋使用を許可された事から「同紋」衆と呼ばれた。
ちなみに大友家の家紋を使用するって、当時は超ステイタスだったらしい。
【他姓衆/たじょうしゅう】
要するに外様で、国人領主たちです^^/
【加判衆/かばんしゅう】
大臣。江戸幕府風に言うと「老中」みたいなもん~但し大老のような非常時独裁権はないです。
【方分/ほうぶんorかたわけ】
研究者によって解釈が違うらしいが、ザックリだと「守護代」みたいなもん。


大友義鎮が討伐軍大将に選んだ同紋衆は、田北大和守鑑生。(※田北氏は譜代家臣)
1559年当時、田北は「筑後方分」の地位にある。
田北を選んだのは筑後衆を率いるのに都合が良い・・・だけでなくVS秋月のエキスパートだからです。

家紋・大友 大友家紋ロゴ

田北鑑生の生年が不明なのだが、推定で40代後半から50代前半。
諱に「鑑」の文字があることから判るように、大友義鎮の父・大友義鑑の代からの家臣だ。
単なる家臣ではなく、即金・・・もとい側近だったらしい。

「二階崩れの変(大友義鑑が襲われ、後に死亡)」による大友内部の政変を生き残るだけでなく、
大友義鎮の代で加判衆に任命され、さらには加判衆筆頭に位置するほど有能だったようだ。
その輝かしい職歴(戦績)で、最も光彩を放つのが「勢場ケ原の戦い(1534年4月6日)」における功績だ。

(諸情勢の経緯は相良編と龍造寺編で紹介してます)
亡き大内義隆が名将・陶興房に兵3000を託して、豊前から豊後に侵攻させた。
大友側総大将は、この時が初陣で血気に逸り先陣切って突撃し、陶勢に討たれてしまう。

総大将討死でパニックになった大友本陣を立て直したのが、田北鑑生(=^・ω・^=)v ブイ
田北は本陣の兵を自軍に回収するだけでなく「総大将の弔い合戦」と兵を鼓舞し、陶興房に決戦を挑んだ。
それが「勢場ケ原の戦い」です。
結果、陶勢の副将が討死、陶興房も負傷し周防への撤退を余儀なくされる。

筑後と肥後が不安定な上に、本国を脅かされた事で大友義鑑は北九州に介入するのを諦め、大内と和睦した。
この和睦で筑前の一部が大内から大友に割譲されまして、そこを足掛かりに大友は改めてジンワリ地道に勢力を広げるんです。

田北の活躍がなければ、大内と大友の和睦条件は相当不利に・・・
いや、それ以前に各地国人が大内に鞍替えて大友に反旗翻したかも( ̄ω ̄A;アセアセ

家紋・秋月 秋月家紋ロゴ

大友家臣でVS秋月というと、戸次道雪と高橋紹運が有名すぎて他が霞んでます^^;
その「霞んだ他」が、田北鑑生です^^;
1557年に秋月討伐で出陣した大友本軍は、道雪もいたけど田北鑑生もいました(臼杵も)
この秋月討伐時の功績で田北は「筑後方分」に任命されたの^^b

1559年の筑紫・秋月討伐で出陣した田北鑑生。
シオ的推定兵力は6千~1万、それは・またの話 by^-^sio

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【激突!】謀反ノススメ・弐【侍島の合戦】秋月種実「飛」の巻4

1559年(永禄元年)6月、大友義鎮(=宗麟)は、大内氏滅亡以来空席だった筑前と豊前の守護になる

同年11月には室町幕府の軍事出先機関である九州探題に任命
これにより大友家は、北九州を支配する大義名分を手に入れた。
金、地位、名声、名誉、前年には嫡男(義統)誕生。
大友義鎮(宗麟)は、30歳という若さで全てを手に入れた・・・まさにキングオブ九州!

筑紫惟門と秋月種実の謀反は、大友王国が全盛期を迎えた1559年年に起きた。
他の国人が大友の鼻息を窺う中で、かなりのチャレジャーですな( ゚Д゚)y─┛~~

人物・大友宗麟

謀反の狼煙に博多を兵2000で襲い、大友派遣の代官を殺した筑紫勢。
これら一連の軍事行動に対し、秋月が筑紫へ援軍を出したと言われているが、ネット上で詳細データは見つけられませんでした。
が、この後の大友軍の動きを見ると、秋月&筑紫が連携した軍事行動してたのは間違いないでしょう。

大友家が手塩にかけて保護し発展させてきた商都・博多が襲われたと知って、大友義鎮は激怒。
先陣として筑後衆を筑紫に向かわせた。

何度か触れているが、大友家の軍編成では先陣は他姓衆(外様、国人領主)が担う。
先陣は敵と一番先に交戦するので、当然手柄を立てるチャンスなわけで、本来なら買ってでも欲しい役割。

だが大友の場合は、規定路線の先陣なので、手柄を立てても格別な恩賞は期待できない。
サラリーマンが、手当がないのを承知で毎日毎日毎日・・・サービス残業するようなものだ。

先陣は敵と一番先に(以下略)で、当然兵の損耗が非常に激しい。
そのため何度も続けて先陣を務めるのが困難なほどだ。
大友の先陣は、ハイリターン(恩賞)がない、ハイリスクのみの役割となる。
従って先陣となる武将たちのモチベーションには、どうしてもバラつきが・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

でもって筑後衆が選ばれたのは、何といっても「近さ」だろう。
筑前と筑後は、現在の郡県制では福岡県にくくられているように、筑後川を挟んだお向かいさん。
場所にもよるが、女性が徒歩で移動しても、旅程(片道)1~2日ほどなんです。

家紋・大友 大友家紋ロゴ

同年?月、筑後侍島(三潴郡大木町)で筑紫勢と筑後衆が激突!
(あらん、江上・八院の近くじゃないこと( ゚д゚)ンマッ!!)

大友勢・筑後衆
問註所鑑晴・・討死
星野鑑泰・・・・討死
田尻氏一族・・多数討死


大友側は大敗北を喫した・・・・・・・・・・・・

筑紫と秋月は、この勝利に酔う事は許されない。
討ち取ったのは「先陣」です。
このあとには、必ず大友本軍がやって来る!

本軍を率いる大将は、同紋衆(大友の一族、譜代家臣からなるエリート集団)から選抜される。
大友義鎮が選んだのは譜代家臣・田北大和守鑑生(たぎた やまとのかみ あきなり)

役職欄
筑前方分のちに筑後方分

大友義鎮の代で加判衆に任命、一時期は加判衆筆頭

職歴(戦績)欄・・・・それは・またの話 by^-^sio

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【秋月】謀反ノススメ・壱【筑紫】秋月種実「飛」の巻3

自分が筑紫氏を知ったのは、実は肥前戦国史ではなく筑前戦国史を調べてて、秋月絡みで知った。
凝り性の自分にしては、珍しく中途半端なリサーチ。

それで余りにも去就がコロコロ変わる筑紫氏を、てっきり強かな国人領主かと・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
尤も、肥前戦国史リサーチに本腰を入れ、改めて筑紫氏を調べたら、更に去就の変化が凄かった^^;
少弐一門の筑紫氏は、一門でありながら何度も大内氏に寝返っている。

それにイラついた少弐命の熱狂家臣・馬場頼周に、筑紫満門が謀殺されたほどだ。
だが筑紫氏の立場に身を置けば、大内に寝返るのは無理もない。
というのも、筑紫エリアは大宰府に近すぎるからです。

筑紫エリアは、ザックリと福岡県筑紫郡~鳥栖市付近あたりで、東に位置する大宰府から直線距離で10~20kmくらいしか離れてません。
さらに不味いことに、大宰府と筑紫エリアの間には、天嶮として自然の盾になるような山河がない(涙目)

大宰府に恙なく少弐氏が治まっている分には無問題。
ところが大宰府を大内に奪われ、大宰府に大内の大軍が駐留するとなると・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

大宰府を追われた少弐氏は、筑紫エリアの頭越しに背振山系・肥前側に拠点を移す。
あれよあれよと、気づけば筑紫エリアはVS大内軍への最前線化!!
少弐をモグラ叩きするため奔流のように押し寄せる大内軍に、筑紫単独で抵抗しきれるものではない。

(筑紫にとって)ムカつくのは、少弐は自分がヤバくなると、とっとと逃げちゃう(OR自害でアボン)
なので、本家としても主君としても、到底アテにする事は出来ない(-ω-怒)
少弐が御家再興する間ず~っと、筑紫氏は大宰府に駐留する大内勢からの圧力を受け続けるんです。
生き残るために筑紫は大内配下となる。
この時点で筑紫氏は半ば、国人領主化してたかもしれない。

大内が滅ぶと、北九州で鼻息荒い大友氏配下となった。
もちろん筑紫の本意ではない。
同じく本意でないが、大内滅亡の流れで大友配下となった秋月氏と意気投合。

1557年、筑紫惟門と秋月文種が毛利元就の支援を受けて、大友に反旗を翻したのだが大敗北^^;
秋月の方は既に紹介したので、筑紫の方だ。

秋月文種は家臣の裏切りにより自害したが、筑紫惟門は嫡男・広門を伴い五箇山城を脱出している。
ピンチにおける逃げっぷりの上手さは、惟門だけでなく嫡男・広門にも受け継がれており、
翻ってみるとピンチになると必ず親子バラバラに逃げて御家再興を計る少弐氏を彷彿とさせる。
(さすが一門,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)

で、脱出した筑紫惟門・広門親子は、海を越えて山口は毛利元就の庇護を受けた・・・
と言われていたのだが、近年では「基養父のいずこかに潜んでいた」説が有力らしい。

1559年元旦に秋月が攻撃開始し秋月旧領を回復すると、筑紫惟門も行動開始。
同年、筑紫惟門は兵2000を持って大宰府を急襲し大友派遣の代官を殺したのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【秋月・・・始まりの復活・後編】秋月種実「飛」の巻2

元旦から戦って大変だな~と思うが、やはり相手が油断してるって点で奇襲にはもってこい。
乾坤一擲的な、ここ一番って時の踏ん張り時には、正月三が日返上なぅ~(´Д`)ノ

ちなみに九州戦国史で元旦から頑張ったのが、
市ではない北九州からエントリー・神代勝利
南九州からエントリー・島津家の高性能ジーちゃん、島津忠良(日新斎)です~^^/



御家再興決行を秋月家譜には、下記のように記されています。
毛利元就 兵三千ヲ出シテ之ヲ援ケ、下ノ関ヨリ航シ、筑前黒崎ニ屯ス。四方ノ旧臣集リ、兵概ニ備ワル

家譜には毛利より兵3千とありますが、ネット上では他に80貫の軍資金提供も受けたとありました。
前回話した元就が種実に与えた領地(知行?)のことを差してると思います。
秋月種実11歳、これが初陣だったと思います^-^
(本記事人物の生年月日はウィキペディアに準拠してるので、家譜に記載された年齢とは異なります)
筑前黒崎とは、現代の北九州市八幡西区黒崎のことで、いまは大人の歓楽街~川* ̄д ̄*川ポッ

大友から派遣されていた守将は、年賀の伺候のためキング大友の王都・豊後国府内に出向いていました。
秋月勢(毛利援軍含む)は、その留守をついて急襲したんです。

ちなみに秋月の古処山城奪還は、1559年説・1561年説・1567年説とあり、
シオが参照している九州治乱記(北肥戦誌のベース)ですと1567年説です。

ただ1567年説だと秋月が引き起こした「筑前騒乱」とゴチャ混ぜになってるように思います。
で、1559年説か1561年説か、迷ったんですが各種サイトで一番多く採択されている1559年説を採択しました^-^

復帰した秋月は、
筑前の夜須(朝倉郡筑前町東小田あたり)上座・下座・加摩(三カ所特定困難)・穂波(飯塚市)・鞍手(鞍手郡&鞍手町もか?)、
筑後の生葉(うきは市)・竹野(久留米市田主丸町)・三原(特定困難、久留米市か?)・三井(三井郡)、
豊前の田川(田川市)と領し、夜襲を駆使して勝利を収め続けたそうです。

ぐぐ~る地図で辿ると宗像氏エリアの宗像市・宮若市と隣接してるのが判ります。
ちなみに肝心要の古処山城は福岡県朝倉市です(=^・ω・^=)v ブイ 

家紋・秋月 秋月家紋ロゴ

古処山城へ復帰した時に種実は、秋月領内に住む小野姓の者を皆殺しにしたと伝えられています。

秋月が一度滅亡した時に寝返った小野という人物は、立花四天王・小野鎮幸の従兄弟とも言われていました。
で、小野の寝返り方に問題がありまして・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

「城への抜け道を教える」とか
「城門の何とか口をコソーリ開けて大友勢を手引きした」などの可愛らしいものではなく、

ガチで種実の父・文種に自害を迫り、強引に切腹させて首を落としたんです。
でもって、ついさっきまでの主の首級を、己の手柄として、ドヤ顔で大友勢に差し出した。

裏切りの誘い・工作した大友勢も、この露骨さにドン引き。
小野の行為を「戦における裏切りによる軍功」とはカウントせず、「武士にあるまじき主殺しの大罪人」とした。

大友勢が裏切り小野を処断しなかったのは、小野鎮幸の従兄弟が史実だったからなのか、はたまた裏切り工作した事への後ろめたさからかもしれません。
とにかく大友勢には、主殺し小野の身柄を引き受ける物好きはいない。
やりすぎて居場所を失った小野は、放浪の末に死亡したそうです。

復活した秋月は、主殺しの小野を探し出して処断しようとしたと思います。
おそらく本人が放浪の果てに死亡した後だったのでしょう。
同姓の者を一族とみなし連座で処刑したと思われます。

小野姓全員だから、親戚でも何でもない無関係で偶々同姓小野さんも交じってたんじゃないでしょうか~~
死んでからも迷惑な裏切り者ですな( ゚Д゚)y─┛~~

秋月家は少年当主を擁して御家再興を果たしたのを見ても、家臣団の結束が固かったようです。
旧臣をまとめた深江美濃守が、よほど出来た人物だったのでしょう。
それだけに「主殺し小野(の一族)処刑」が、秋月復活のデモンストレーションとして利用されたんでしょうね・・・・

さて、御神酒徳利の如く謀反するときは秋月と一緒の筑紫氏。
秋月復活に筑紫も動きはじめたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【秋月・・・始まりの復活・前篇】秋月種実「飛」の巻1

九州戦国史を時系列で辿りつつ記事にする・・・という壮大な企画で進めている当ブログ。
肥前&肥後&筑前戦国史の三本立てで、今回は筑前戦国史における台風の目・秋月種実編を新章にて再開~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ←大蔵系氏族ファン

出典:北肥戦誌、秋月家譜(生年月日が諸説ある場合はウィキペディアに準拠)

秋月種実の父・文種は秋月家譜だと名前が種方となっている。
んで、ウィキペディアだと種実の幼名は黒法師なのだが、秋月家譜だと黒帽子なんです。
実の所、この「不思議の国のアリス」に出て来そうな、一風変わった幼名にDQNネーム?キラキラネーム系?
と、多少戸惑いつつも個人的趣味(爆)で、種実の幼名は「黒帽子」を採択しました(=^・ω・^=)v ブイ



パパ文種は、少弐の一門である筑紫氏と組んで、大友支配から自立しようと謀反して失敗、自害した。
これが1557年のことだ。

大友の秋月討伐に便乗した龍造寺隆信が、寝返って神代勝利(少弐サイド国人)に与した川副衆・鹿江を始末したのが、龍造寺隆信「連」の巻のくだりになります。

秋月は当主・文種と嫡男・春種が死に、本城・古処山城も落城。
家臣はちりぢりバラバラで、これ以上はないっていう没落ぶりで、没落というより一度滅亡したと言えちゃうレベル。
次男の黒帽子(種実)が脱出し、毛利元就の庇護下に入った。
パパ文種には黒帽子に下にも男子がいたが、毛利に預けられたのは黒帽子(種実)だけだったらしい。

僧高韵、ヒソカニ孤ヲ以テ逃レ、周防ニ赴キ、毛利ニ倚ル。
孤ハ即チ種実ナリ。幼名ハ黒帽子トイウ。ソノ周防ニ逃ルルヤ、年僅カ十三。
土豪内田壱岐、力ヲ尽シテ之ヲ奉ジ、タメニ新居ヲ営ム
(出典:秋月家譜)


「孤」というのは一人という意味なので、下の弟たちは違う寺か家臣が預かったかもです。
家譜では年13歳とありますが、ウィキペディアの生年だと9歳で、本記事では9歳説を採択してます。

内田壱岐は黒帽子(種実)が毛利の保護下にある頃からの家臣で、
黒帽子を迎え入れるための居宅を用意したんです。
内田壱岐・内田善兵衛実久は兄弟とされていますが、『本藩実録』では改名した同一人物ではないか?とも言われています。

内田が居宅を用意したのが1558年で、毛利元就の方からは黒帽子(種実)八十貫(800石)の地を与えられました。
まだ元服前(だと思う)ですが、領地(知行?)を拝領したことで、黒帽子(種実)は毛利配下の国人になったと言えます。

家紋・秋月 秋月家紋ロゴ

ちなみに1558年2月28日、弘治から永禄に改元
同4月20日島津貴久が蒲生氏を降し、大隅を統一する。
同年に秋月種実の宿敵・大友宗麟に嫡男・義統が誕生する。
あと、相良義陽の婚儀を延期させた彗星が出現したのも、この年だ。

一方、秋月旧領に残った深江美濃守が御家再興のために、旧臣たちと下準備をしていた。
だが、その動きを大友に察知され、やむなく深江は疑いを解くべく自身の息子を人質に出したそうだ。

1559年元旦、秋月が御家再興の幟を揚げたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【決戦タDAYONE!?】相良氏、義陽編15

恋する3アミーゴの愚行が原因で、球磨奉行職・重臣二人(東長兄と丸目)が大ゲンカ~
ついには相良家中を二分する争いになってしまった。

東長兄は「言う通りにしないと謀反しちゃぅもん(pq)グスン」と主君に泣き脅しをかけて、自分が有利になるように画策。

屋敷を東長兄の手勢に襲われ、追い詰められた丸目は、縁戚の東直政が城主を務める湯前城に一族郎党を連れて避難~~~
(人吉城の近所なんです^^)

謀反に難色を示していた湯前城主・東だったが、後見役に説得され「こうなっては腹をくくるしかない」
と、止む無く「主君に弓引く」籠城戦を決意したのだった。


家紋・相良(相良家紋ロゴ)

球磨地方最大の戦「獺野原(うそのばる)の戦い」
の前哨戦「奥野一度橋の戦い」は謀反サイド・湯前城側の勝利に終わった。
主君・義陽側大将の犬童頼安(いんどう よりやす)は殿軍の時に手傷を負ってしまう。

初戦で勝利し、兵糧を城へ運びこむ事が出来た湯前城側だが、手放しで喜んでもいられない。
なぜなら籠城は永遠に続けることは出来ない、いずれは何処かで行き詰まるからだ。
湯前城の東直政と丸目は日向椎葉の那須氏に援軍を頼んだ。

この戦いの果てに展望があるわけでない・・・起たねば滅ぶから戦うしかなかったのだ。
籠城で心が揺れる湯前城側に一つの情報が入った。

情報「人吉から多良木へ軍が入り、湯前城を攻撃する」
1559年8月15日、情報(実は誤報)を元に湯前城・東直政は恒松蔵人を多良木城攻撃に向かわせた
多良木城主は岩崎と言うのだが、実は甥っ子が敵である湯前城兵として籠城していた( ̄ω ̄A;アセアセ

「あぅ~このままじゃ叔父さんが死んじゃう~(;;)」

岩崎の甥は、自分の侍女を城外へ出し、湯前城の出兵情報を多良木城へ漏らしちゃった^^;
なにせ地方の内輪揉めだから、敵も味方も知り合い・縁戚ばかりで、どうにもグダグダしてます^^;

湯前城から出陣した恒松蔵人は、多良木兵の伏兵に合うが o( ̄ー ̄θ★ケリッ 撃破!
恒松蔵人~撃破した勢いで多良木城を攻撃するが落城には至らず。
「ちぇっ」と仕方なく獺野原(うそのばる)に陣を布いた。
(※獺野原(うそのばる)~今は桑畑になってて、場所は現在の多良木町黒肥地村にあり、天狗伝説を紹介した「あさぎり町」の隣町です)


同8月16日、湯前城・東直政+丸目+恒松蔵人+日向からの援軍・那須VS犬童率いる人吉兵+深水率いる多良木兵他が獺野原(うそのばる)で激突した
決戦前、犬童頼安は多良木城兵を率いた深水に対し「人吉衆が大軍に当たるので、多良木衆は横から攻めて欲しい」と言った。

すると深水は「これまで籠城して我慢してきた。自分らに先陣を任せてくれなければ、これから恥ずかしくて戦など出来ない」と反論する。
犬童が「あのね・・・そういうことじゃなくて・・」諭そうとすると、
深水は逆切れ「(# ゚Д゚)・;'.なら勝手に攻め込んで討ち死にしちゃる!」犬童と険悪な状況になった。

大将とはいえ、犬童は過去に謀反に加担して出奔した黒歴史があり、最近許されて帰参した「帰り新参」だ。
前哨戦である「奥野一度橋の戦い」でも敗退してることこもあり、あまり強くも出られない。
結局は犬童が折れて深水に先陣を譲った。(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ

目が(▼ー▼)こんな感じになってヤル気満々の深水は、自陣に戻ると「討ち死にする覚悟のある人間」を選抜。
その者らに酒を一杯ずつ振る舞い出陣。
途中にある川を「三途の川」に準えるほど、斜め上にテンションが高い。
彼等は「三途の川(仮称」を渡って、獺野原の敵陣に向かう坂を登る途中で交戦!








交戦したんだけどぉ~~~深水率いる多良木兵は緒戦で壊滅&深水本人も討死ヽ(。_゜)ノ へっ?
生還を期せず死を覚悟した死兵は、ドラマや小説だと無双なはずなんだが、必ず勝つとは限らないものなんだな~~(-ω-;)ウーン

一方、世功者の犬童頼安、自軍を率いて密かに敵の背後にある坂を登らせ、背後から敵を攻撃!
背後を突かれたのだから湯前城側が崩れる・・・・・のが普通の流れだが、そう上手く運ばなかった。
何度も言うが「地方の内乱」は「大将から一兵卒に至るまで」「敵も味方も知り合いだらけ」

親・息子・兄・弟・叔父・甥・( ̄▽)人(▽ ̄)友達♪・同輩・従弟にハトコに鎧親やら元服の世話役等々・・・
ついこの間まで酒を酌み交わしてた相手の腹に、槍を突き立てる気になんかなれないぉ。。(ω・`))
本気が出ないので、決着もつかず、ダラダラーーーとした交戦状態が続く。

そのうち謀反サイド恒松兵に連戦の疲れが出て「ヒザカックン状態」に~そこを人吉兵が押し始め一気に乱戦!!
その乱戦に巻き込まれ、東直政率いる兵が壊滅!
東直政と恒松蔵人を含めた180余人(人数は諸説あり)が討死した。

丸目は日向へ逃亡し、伊東家に再就職したものの「木崎原の戦い」で討死したそうだ。
留守を預かっていた湯前城の城代は「敗戦」の報を聞くと城に火をかけて自害。
丸目の母親と「恋する3アミーゴ」が連れ出そうとしていた恋人の侍女たちも、共に寺で自害した。


恋する3アミーゴ・・・児玉・早田・深水(相良家中に多い名字です)たちは、大きくなる騒ぎが怖くなって逃亡したものの、アテがあるわけじゃない。
愛しのハニーが「自分たちの行動」が引き起こした戦の巻き添えで自害したのを知って、完全に自暴自棄になっていたそうだ。

内乱の翌年・・・アミーゴとアミーゴに余計な智慧を授けた宗慶寺の僧侶・智勝は捉えられ「城下引き回しの上、処刑」彼らの首は罪人として晒された。

ところで、この僧侶なんですが・・・・( ̄ko ̄)<化けて出たそうです・・・

宗慶寺の途中の道で夜な夜な首だけの姿で ヘ(ーーヘ)(ノーー)ノヘ(ーーヘ)(ノーー)ノウラメシヤ~~
調伏できなかったらしく、困った宗慶寺では寺を移転する羽目になったそうだ。

死者180余人で「球磨地方最大」とは大袈裟に思うかもだが、一地方限定の内乱ですから規模は押して知るべし^^
戦い終わって日が暮れて・・・・
戦死者の中に知人がいない方が少ないだろう・・・相良家中一同・・・リアル【喪中】 

16歳の若き当主・相良義陽は苦い勝利の味を知ったのだが、それは・またの話 by^-^sio

相良編は、ここで一区切り~次は筑前戦国史・秋月種実編です(^ -)---☆Wink

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【前哨戦・奥野一度橋の戦い】相良氏、義陽編14

八百屋お七は「恋しい男会いたさ」に放火の大罪を犯した。

相良家の「恋する3アミーゴ」は「恋人を丸目屋敷から連れ出したい一心」で、
彼女らの主君・丸目と彼の同役・東長兄にウソを吹き込み、争わせるという愚行に走った。

だが市街戦⇒籠城になるまで騒動が発展してしまうのは、ママン内城の仲裁役の人選に問題があったからだ。

ママン内城が穏便に納めようと選んだはずの湯前城主・東直政は、仲裁役なのに「殺るか?殺らないか?」の二者択一と思い込んで大張り切り。

ママンが「元サヤになればOKよ~」と言うと(え~それ期待外れ~)と。。勝手に(ω・`))ガッカリ
あろうことか争いの一方である丸目の元へ訪問し「ワシは丸目殿を応援しますぞ!」と宣言。

そんな仲裁役に「自分が不利」と感じた東長兄が先手を打った。
主君・相良義陽と生母・内城に対し「言うこと聞かないと謀反しちゃぅもん(pq)グスン」と泣き脅し。
東長兄は「御身の安全のためです」と、義陽とママンを人吉城から赤池城に連れ出すことに成功する。

「玉(主君と、その生母)」を手中にし「大義名分」を手に入れた東長兄は、人吉城下の丸目屋敷を攻撃した。
突然の攻撃に丸目は抵抗する準備が無く、やむなく妻子眷属郎党を連れて「応援します」宣言してた東直政の湯前城に避難する。

城・人吉城・三の丸跡から見た球磨川と人吉市内
(人吉城三の丸から見た球磨川と人吉市内)

でもって丸目が引き連れた郎党の中に、恋する3アミーゴが連れ出す予定だった侍女たちも含まれていたんです。
アミーゴの愚行が、大事な恋人まで巻き添えにした大騒ぎに・・・。゜゜(´□`。)°゜。マイハニー!!
もういまさらホントの事は言えない~~~3アミーゴは職場(人吉城・詰衆)放棄してバックれ~~


丸目が屋敷を逃亡した時に、実は丸目のもう一人の同役・深水頼金の末っ子・左近が従ってた。
深水左近は湯前城に行く前に、友人の佐牟田の屋敷に出向き、最期の暇と、手拭いを形見の意味で交換した。

で、湯前城でこれを同僚らにシミジミ~と話すと、

同僚「敵として相まみえる可能性の者と形見の取り替えは聞いたことがない。むしろ差し違えるべきだったろう~ワロス」
と嘲笑され「確かにそうだった(-ω-;)」と深水は納得し、心中深く決意する。

一方、丸目一党を受け入れた湯前城主・東直政だが、受け入れはしたものの謀反には難色を示した。
湯前・東「応援はする」だが「殿様に叛いてまで丸目に同心するなど思いも寄らなかった」と加担を拒否したんです。
だが東直政の後見役・上田兵部が説得したので、ようやく謀反に応じたのだった。

1559年・・肥後・球磨地方における最大の戦「獺野原(うそのばる)の戦い」は、こうして幕を開けた

ここまで騒ぎになる前に何とか出来なかったの?・・・という批判は酷だろう。
相良家18代目当主・相良義陽は、まだ数えで16歳。
重臣たちが年甲斐もなく争うのを押さえつけるだけの力が無い。
とはいえ、手をこまねいて事態を傍観してたわけではない。

1559年7月29日・・・一昨年に謀反を起こして日向へ亡命していた上村頼孝が許されて兵700を連れて帰還する

人物・相良義陽 義陽イメージ画像

義陽の後見役だった実祖父・上村頼興が死んで以来、相良家はピンチの連続だった。

1557年、上村3兄弟が謀反を起こし日向へ逃亡する。
1558年6月、夜空に凶事の象徴である彗星が出現し、義陽の婚儀が延期。
1559年、名和氏が八代へ侵攻&大隅の菱刈家に水俣城を奪われている。


謀反を起こした上村頼孝は、日向の北原氏のバックアップを受けていた。
名和・菱刈だけでなく日向の北原まで、内訌に付けこんで介入してきたら・・・義陽は戦慄しただろう。

僧侶・東出羽を召し出し「叔父を日向から戻るよう説得工作して欲しい」と依頼した。
北原家に利用される前に叔父を何とかしなければ・・・・アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

東出羽が何と言って上村を説得したか解らないが「義陽が叔父に対し、それなりのポジション」を約束したのは間違いないだろう。
上村は兵700と鳴り物入りで(* ̄ー ̄*)エヘン・ワシエライ~っと相良領へ帰還する。

菱刈への対応があるので「大口城在番衆」を戻すことが出来ないし、
名和への対応があるので「八代」の兵力を割くことが出来ないし、
内訌で混乱している相良家にとって「兵力」は喉から手が出るほど欲しいものだ。

逃亡中の上村には、それだけの兵力を集める資金力があるとは思えない。
おそらく、北原から借りたか、伊東の介入で北原から分かれた一派を取り込んだのだろう。

とにかく、これで兵力の心配と北原からの介入への不安は解消された・・・
これで後は籠城した湯前城を攻撃することに集中できる(=^・ω・^=)v ブイ

家紋・相良
(相良家紋~ちなみに湯前町は人吉市の側です~城郭跡には「縁結び」で有名な里宮神社があります)

事前準備なし勢いで籠城しちゃった湯前城~当然ながら兵糧が足りない^^;
そこで兵糧を運ぶために人夫と護衛兵を出した。

その情報をキャッチした義陽は「帰り新参・犬童頼安(いんどう よりやす)」に攻撃を命じる。
犬童は「奥野一度橋」でこれを迎え撃った。

湯前城から出兵した兵糧の護衛兵の中に、同僚に笑われた深水左近がいた。
戦闘が始まると、深水は友人・佐牟田の前で手拭い放って「自分がいる」ことを知らせた。
二人は互いに槍を合わせ、双方ともに討死したそうだ。
       ・・・・・・・もしかして衆道な仲だったのかなぁ・・・・・・

「奥野一度橋の戦い」は犬童の敗北に終わった。

退却する殿軍の中に犬童の放浪時代の仲間・宮原がいて、途中で負傷してしまって動けなくなった!
仲間思いの犬童「み、宮原!!Σ(´Д`;) 今助けに行くぞ!!」
何と犬童は一軍を率いる身で殿軍の中に戻って、宮原を救出したのだ。

手柄を狙う湯前城兵が群がるのを必死で交わし、犬童も負傷しながら何とか危難を脱する。


決戦は刻一刻と近づき、親兄弟一族が敵味方に分かれる「内訌による戦」が始まろうとしてるのだが、それは・またの話 by^-^sio 

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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