【決戦!金鋪(鉄布で名尾)峠・後編】龍造寺隆信「覇」の巻14

鉄砲を使ったのは神代勝利近習の山伏で、薩摩出身の伊集院阿含坊。身の丈七尺。
郷土史によると薩摩・伊集院の弟とあるんだが、どの伊集院ですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

この阿含坊1人が撃った鉄砲が絶大な効果を発揮しました。
まず本人が鉄砲の名手だったので、部隊指揮官である兜首クラスをHITした。
そして地形です。名尾峠は周囲に崖が聳え立ってます。
鉄砲の音が周囲の崖に反響して音撃破に・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!

冗談はさておき、もっと肝心なのは「肥前における初めて鉄砲が使われた戦」だって事です。
峠に鳴り響く鉄砲の音を初めて聞いた者が、おそらく雑兵の大半を占めてたはずです。
佐嘉勢はパニックを起こし、収拾がつかなくなりました。

それでも何とか必死でよじ登ると、待ち構えてた神代勢によって追い落とされる。
峠南側の谷底は佐嘉勢の死体が累々と重なって埋まり、谷川は佐嘉勢の血で染まる。雑兵の戦死者は数えきれなかったそうです。

仕官クラスの犠牲者は、石井兼清、中元寺新左衛門、副島左馬允、水町右馬助、江副新八郎、土橋孫七郎、大塚七左衛門、久保九郎兵衛、大石四郎兵衛。

このとき、河上の鳥居の前に山内勢の何者かに依る、嘲笑の狂歌が立てられる。

『春日山 若武者先に落とされて 又清恥を かくぞ鉄布(かなしき)』


河上の鳥居・・・肥前国一の宮・與止比女神社のことでしょう。

北肥戦誌には「信安らが討たれたと聞き激怒」と簡単に書いてますが、おそらく石井兼清が戦死した事も怒りMAXになった要因だと思います( ̄ω ̄A;アセアセ

小河信安が「隆信に靡かない18代目未亡人との和合を取り持った恩人」なら、
石井兼清は「隆信が還俗した時の儀式受け入れ準備一切を取り仕切り細やかに世話してくれた恩人」です。
僧侶出身で子飼いの家臣が未だ育ってない隆信にとって、二人の存在は貴重でした。

更に北肥戦誌では激怒した隆信が「山内へ打ち入らんと発するが」止められたとあるんですが、
実は隆信は既に神代エリア内にかなり深入りしてました。

地図・名尾峠

隆信は三反田の南広坂(大和町松瀬)まで陣を進めてて、そこで大敗北の報告を聞いたんです。
三反田・南広坂は神代勝利が決戦前に布陣した場所近くらしく、そこまで隆信が陣を進めていた理由・・・

1)神代が名尾峠に移動してた情報が遅れて、隆信が知らなかった。
2)神代が戻るところを待ち伏せするつもりだった。

といったところでしょうか。三反田から烏帽子岳との距離は1kmくらい。
そのまま8kmほど北上すると三瀬峠に入ります。

まさに背振山系への入り口寸前。ここまで敵地に入り込む大将ってどうなの?( ̄ω ̄A;アセアセ
これ以上先はリアル山越え覚悟の行軍になり、山岳民族である山内豪族たちのブービートラップが幾つあるか見当も尽きません。
そもそも旧暦の10月なんで、平地の服装感覚での山越えはガチで不味い。

隆信に対し納富左馬助が「更に奥へ進むですと!(゚ロ゚屮)屮ナンダッテ~~」
「土地不案内すぎ!ダメダメダメ~~~~!!!」と必死に止めたので、隆信も漸く諦めました。

北肥戦誌にも三瀬村誌にも、龍造寺・佐嘉勢の兵数が記されてないので、佐嘉勢の戦死者数を把握することは出来ません。
が、龍造寺が負けた事は歴史的事実です。
傍証1・先陣大将・小河信安と嫡男が討死し、先陣が壊滅
傍証2・三瀬村誌に記された、地形に基づく佐嘉勢の被害の客観的状況
傍証3・三瀬村誌&北肥戦誌、双方の仕官クラス戦死者氏名の記述にブレがない(現地に慰霊の石碑有り)


トドメの傍証・・・引き上げる隆信の帰還コース
三瀬村誌によると、隆信は引き上げる際に藪の中へ旗を立て「未だいるぞ」工作し、大和町大字川上近くの惣座で西に転身し小城道から佐嘉へ帰るという遠回りしてるんです。
嗚呼・・・この行動は紛れもなく敗軍の将・・・肥前の熊・龍造寺隆信、大敗北認定です。

自分は神代勝利勢(1700、息子の兵入れると3000)より、龍造寺側の兵力が多いはずだ。と書きました。
というのも神代勝利は名尾峠で勝利すると、佐嘉勢を追撃することなく三瀬へ引き上げてるからです。
敗北はしたものの、龍造寺勢の兵力に余力があったからじゃないでしょうか。

一騎打ちの十六夜記事に記したように、三瀬へ戻った神代は小河を首級を丁重に弔ったそうです。
小河家は嫡男・豊前守も討死にして後継がなくなったので、主君・龍造寺隆信は鍋島清房の三男を信安の娘に娶せて跡を継がせたそうです。

この決戦前までは亡き小河の案内を務めた梅野弾正のように、山内の豪族でも龍造寺に靡く者もいました。
が今回の大敗北で神代勝利が完全に山内を掌握し、龍造寺が食い込む余地が皆無となってしまった。
さらに神代は要害堅固な熊ノ川城も造り、筑前方面へと勢力を広げんとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【決戦!金鋪(鉄布で名尾)峠・中篇】龍造寺隆信「覇」の巻13

シオが1558年における龍造寺VS神代に拘る理由は、この戦いが肥前において初めて鉄砲が使用された戦だからです。
使ったのは神代勝利サイド。
神代が鉄砲を入手したのを、龍造寺隆信は多分、まだ知らない。

人物・くましろん~ 神代勝利イメージ画像

「決着を付けたい」は小河信安・龍造寺隆信だけでなく、神代勝利も一緒だった。

三瀬村誌によると、神代勝利は自分一手で片を付けるつもりだったらしい。
兵3000を勝利・1700と、嫡男の長良・1300に分けるのは、まだいい。

勝利は嫡男・長良に対し、
「ワシの手勢だけでケリを付けるので、我が本陣が崩れぬうちは動くな(`・ω・´)意訳キリッ」と厳命してました。
そして
「我が本陣が崩れたor佐賀勢が敗れたら、その時の状況で判断して行動せよ(`・ω・´)意訳キリッ」と伝えています。

てか勝利の本陣が崩れた場合って、勝利本人が討死してるかもなわけで、勝利は万が一の場合は嫡男の長良を逃がそうとしたんだと思います。
と、同時に軍勢を分けて兵を分散したのは、勝利が自分自身を囮にしたんじゃないでしょうか。
もちろんそれは、龍造寺隆信本人を山内へ引き寄せる為・・・です。

敵大将が自ら敵地に赴く千載一遇のチャンスは滅多にある事じゃないのを、敵である神代勝利の方が隆信よりも判ってたのでしょう。
北肥戦誌にも三瀬村誌にも、隆信が率いていた兵数は記されてません。
でも神代勝利・長良親子の3000よりは多かったんじゃないでしょうか。

先陣である小河信安と神代勝利が一騎打ちした場所は、北肥戦誌には鉄布峠と思いっ切り適当な漢字・・・ゲホグホ
とにかく、そこは金鋪峠と呼ばれ現代の夜景スポット名尾峠の事です^-^

地図・名尾峠

神代勝利が初めに布陣したのは大和町松瀬の三反田。
動くなと言われ長良が布陣したのは名尾峠へ通じる入り口です。
名尾峠そのものは一騎打ちシーンにあるように、周りは崖が聳え立ち、道は一騎分しか通れないような間道だったようです。

勝利のいた三反田から名尾峠まで直線距離で3km弱。
小河がいた春日山・甘南備城から名尾峠まで、同じく直線距離で2km弱。
おそらく移動には互いに一時間かかったか、かからないかだったでしょう。

でもって一騎打ちして敗れた小河信安(先陣大将だよ~ん)が討たれた。
信安不在に気付いた小河勢がやってくるが、信安討ち死にを知ると、信安の嫡子・豊前守を先頭に次々と山内勢に駆け入り討ち死にしていった。(北肥戦誌より抜粋)

小河家は嫡男も家臣も全員脳筋なのか(@@)
何で後続の佐賀勢本隊到着を待たないんだ?!Σ(´Д`;)

いえ、、、、
それだけ忠義・信義に篤い小河信安が慕われていたのでしょう・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

そのうち後陣の佐嘉勢も続き鉄布(名尾)峠に馳せ登る。
勝利はこれに打ち掛かり、佐嘉勢も鬨を上げ乱戦となる。


北肥戦誌には「馳せ登る」と勢い良く書かれてますが、実際の龍造寺勢は峠の南側をよじ登って来たんです。
そして乱戦とありますが、場所は馬で一騎分しか通れない間道です。
華々しく兵を展開するなんて望むべくもなく、個々の技能に頼る白兵戦でした。

戦は地の利を得た方が有利です。
特に狭い間道で戦う山岳地帯での戦では、上から攻撃する側が圧倒的に有利。

龍造寺勢が峠の南側をよじ登る、まさのにその時!
神代側から龍造寺勢の頭上めがけて鉄砲が撃ちかけられたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【決戦!金鋪(鉄布で名尾)峠・前篇】龍造寺隆信「覇」の巻12

龍造寺隆信には悪い癖があります。
ニャンコが突然車道に飛び出すように、大将でありながら敵地(アウェー)に入る事です。

「沖田畷の戦い」で自ら出陣したのを「慢心・油断」とか言われますが、晩年に「そう」なったわけじゃありません。
敵地に自ら入るのは20代の頃から持ってる性質なんです。

大将に万が一あったらヤバいので、大将自ら出張ったりするのは、まぁ普通はないです。
作戦や諸事情で行かなきゃならない場合でも、本陣は一番安全な位置に置くのが「普通」です。
その「不文律」を破る武将は、「普通じゃない」ので良くも悪くも知名度に関係なく逸話になりやすいです。
せっかく「一番安全な場所に布陣した本陣」から飛び出す黒田長政は、パパ如水に怒られてるしwww

家臣と武功を(本気で)競う長政は極端な例ですが、敵地に踏み入るという点で、龍造寺隆信は織田信長や島津義弘に似たタイプかもです。
ただし生粋の武家子弟である信長と義弘は、大将が討死した場合のヤバさを本能レベルで熟知してます。

織田信長は敵地でピンチになると家臣も放置で速攻で逃げるし、島津義弘の場合は本人も必死で逃げるけど、何より義弘周囲の島津兵戦死率が急上昇して・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

隆信の「普通じゃ少ない、大将自ら敵地入り」は、僧侶出身な事と関係してるかもしれません。
もしくは「隆信は自ら敵地入りする時」は、「判断力が鈍磨している時」なんじゃないだろうか?って感じます。

沖田畷の時は負けるとは予想できないほど、アウェーを補うだけの兵力差。
今回の神代勝利との決戦で、隆信の判断力を鈍らせたのは小河信安だと思います。

家紋・竜造寺

小河信安には「相手を自分の思う通りに動かそうとする」強引さがありました。
また一族を率いる身でありながら、単身で暗殺しようと潜入する斜め上の度胸があり、自身の武勇に対し相当自信満々だったと思います。

北肥戦誌では「勝手に出陣した」事になってて、小河の性格丸出しなんで話として面白いと記事にしました。
でも、その小河を追いかけて出陣するほど隆信はオッチョコチョイではないと思います。

三瀬村誌だと小河は「神代退治」を幾度となく進言し、龍造寺隆信を出陣させようと盛んに働きかけてます。
そもそも隆信にとっても神代勝利は、少弐の龍造寺潰し陰謀に加担した父祖の仇です。
出撃しては山内に引っ込む神代勝利に、イライラもしてました。
小河信安の進言に応じた隆信の方も、敵地に入る事になるので兵力は充分用意したでしょう。。。。。沖田畷で出撃した時のように・・・

この時点で隆信の判断が間違ってます。
何故なら、どれほど大軍を擁しても山岳地帯の山内では、それを活かせないからです。

そもそもシオから言わせれば、山内なんてホットケ!です。
神代勝利が出張って来たら、都度対処し被害を最小限に抑えれば良い話。
神埼・佐嘉・小城の三郡に跨る山岳地帯である山内に蟠踞する豪族を従わせようなどどすれば、身も心も擦り減る長期消耗戦になるのが関の山。
逆に何としても一度で決着つけようとすれば、織田信長が比叡山を焼き討ちしたようにするしかありません。
でもこれやるとな~山内領民、赤子から老人に至るまで子子孫孫恨まれるうえに、数年単位で山内から租税取り立て出来ないほど被害甚大になるからな~


肥前の熊・龍造寺隆信は佐賀郡の平野部生まれの平野部育ち。
これまでの戦も、河川流域か平野部のみで、連載開始前に山岳地帯が全くイメージ出来なかった港街育ちシオと50歩100歩です。
龍造寺隆信は「山岳地帯で戦をする」という事が、頭で判ってるつもりになってるだけで、本当の意味では理解してなかったと思います。
だから神代勢より兵力を揃えれば勝てると錯覚したのだろうし、隆信の錯覚を誘発したのは小河信安の強引さでしょう。

判断ミスには不運が重なりがちです。
なんと先陣だった小河信安が討死!Σ(´Д`;) うあ゙
てか先陣大将のくせに敵大将と一騎打ちって・・・・何ヤッテンダ・・・il||li _| ̄|○ il||l
その後、龍造寺軍にとって更に不味い事態になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【永禄元年、10月十六夜(いざよい)後篇】龍造寺隆信「覇」の巻11

今回の話は、シオのオタク呟きやマニア解説やウンチク考察は、野暮。
北肥戦誌の雰囲気をお楽しみ下さい^-^



(永禄元年/1558年、10月)
明けた16日、勝利は河浪駿河守に槍を持たせ、自ら斥候に出る。

一方、小河信安も下人に槍を持たせて斥候に出ていた。

二人は脇道より登った険しい山の細道で行きあう。

互いにそれよと見れば、勝利は駿河守に預けていた槍を押っ取り、力足を踏み込んで

「やれ、筑後守(小河信安)か、勝利なり。いざ勝負を決せん」と述べる。

信安は笑い、「心得たり。勝利物々しや、元より願う処。此度の合戦の雌雄は、汝と我、ただ二人が勝負に在るぞ。いざ、参り候」
と言うや否や、槍を取り直し突き合った。

大力共の踏む足に砂混じりの岩石微塵に砕け、左右の谷へ落ちる事雨の如し。

双方の家臣は援けようとするが、道が一騎分しかなく、脇は石壁数十丈が聳えたち、中々駆け寄り難かった。

勝利の従者・駿河守はあまりに堪えかね、砂を掴んで勝利の草摺の下から打った。


信安は長身ゆえに勝利を見降ろし突き合うと、勝利は一の腕を突かれて無念と悲鳴を上げ突き返すが、信安は受けきれずに己の頬先より右の小髷の際に甲の鉢を槍先深く貫かれた(股を突かれたとも)。

信安は「ええ口惜しい口惜しい」と二言三言言う処へ河浪駿河守が走り寄って首を取られた。





神代勝利の槍を預かり、小河信安の首を直接落とした河浪駿河守ですが、一説には梅津兵部とあります。

梅津兵部は、甘南備城攻撃の際に崖道で転んで討たれた梅津帯刀の父です。

もしそうなら梅津兵部は息子の仇を取った事になるのですが、、、別説だと話が出来過ぎちゃうかな^^


落とされた小河の首級は神代勝利によって丁重に弔われたとあります。
以前記事にしましたが、小河は神代を暗殺しようと神代の城の湯殿に潜入、発覚して失敗したエピソードがあります。
かなりの大男だったと言われてるので、どうやって忍び込んだのか謎,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
神代は小河を殺す事無く、それどころか自身の酒宴に招き、小河と酒を酌み交わして帰してやりました。
いかにも自己演出・外連味たっぷりの神代らしい話です。

それだけに小河信安は何としても自身の手で神代勝利を討ちたかったんだと思います。
でもそれは小河の個人的感情。
結果として小河の行動は、主君である龍造寺隆信の判断を狂わせてしまったんです。

十五夜(満月)の翌日の月は、天空に出るのを躊躇うのだという。
そのため15日の翌日を「いざよい・十六夜」と呼ぶようになったそうです。

十六夜の月を龍造寺隆信は、どんな思いで見上げたのでしょうか・・・
隆信の判断ミスで龍造寺勢には更なる戦死者が出てしまうのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【永禄元年、10月十六夜(いざよい)前篇】龍造寺隆信「覇」の巻10

ここから先は北肥戦誌と三瀬村誌とでは記述が異なって来るので、当初の予定通り北肥戦誌ベースで行きます(`・ω・´)キリッ
(緑太文字は北肥戦誌より抜粋、三瀬村誌は適宜に参照・引用します。)
(ちなみに三瀬村誌は佐賀市所蔵でWEB公開してます。佐賀市ありがと~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ)

1558年(永禄元年)10月15日、一族が神代勢に討たれたのを知った小河筑後守信安。
[神代が首を討ち取り、討ち死にした者らへの手向けとする]と言い放つと、己が手勢で勝手に出陣してしまう。

「お・・小河!Σ(´Д`;)」
知らせを聞いた主君・龍造寺隆信は「小河を討たせてはならぬ」と、弟・兵庫頭長信らを率いて自らも出陣した。
て流れで突出した小河信安勢は、そのまま先陣を担うことになった。

地図・1558年エリア


ちなみに三瀬村誌だと出陣は14日だし、小河は勝手にじゃなくて隆信をせっついて出陣を促し、先陣を賜わった事になってる。
北肥戦誌の方が強引で激情家な小河の気性が良く出て、話としては面白い。
一方、三瀬村誌はヒーローはあくまでも神代勝利なので、どうしても神代がカッコ良く他が引き立て役になるのは致し方ない^^;

三瀬村誌の小河は、神代サイドの梅野一族の一人・梅野弾正を味方に引き込み道案内させたとある。
さすがにここまでの郷土史レベルとなると、どちらの記述に信憑性の軍配を上げるか、他県人では判断のしようがない^^;

とにかく小河信安が春日山・甘南備城に到着した時には、既に神代勝利は陣を引き払いもぬけの殻。
討死した者たち・・・小河の一族らと手勢の亡骸のみが横たわっていた。
「我が一族、顔見知った者たちが・・・!(´;ω;`)ウッ・・・゜・(PД`q。)・゜・」

小河信安は歯噛みし悔しがり「(# ゚Д゚)・;'.ならば山内へ打ち入らん!」と発する。
が、従者らが「ダメダメ~~山内一帯は神代の庭みたいなもんです!これから夜が更けて行くのに動き回るのはヤバすぎ!!」
と、必死に制止したので強引な小河も止む無く、その夜は春日山に陣を布いた。

人物・くましろん~ 神代勝利イメージ画像

これを聞いた山内勢はすぐさま集まり、高野寺の大鐘を鳴らすと、小城の千葉胤頼が加勢に駆け付けて尾形山に陣を張り、近隣の者は小副川の寄合原に集まった。

北肥戦誌には高野寺とありますが、これは寺ではなく地名というか・・・場所は富士町関屋の高野岳。
山内に権現山があるんですが、高野は登山口にあたる高野岳で集落があります。
寺もあって正式名・高野岳良源寺なんだけど、開基が判らなかったので、北肥戦誌にある高野寺が高野岳良源寺と同じかどうかは不明です。

前置きはさておき、この大鐘は非常・危急を知らせるための手段として、神代が山内に復帰した永禄元年早々に設置しました。

権現山頂上に大鐘を設置し、イザって時は鐘を打ち鳴らし山々に知らせます。
鐘の音が聞こえない場所には法螺貝・太鼓の決まった合図で知らせ、夜には各所で篝火を焚く。
ピンチ・戦の動員の際は、このシステムにより一日で山内全てに合図を送る事が出来ました。
神出鬼没だった神代勝利の行軍の速さを支えたのは、こうした工夫の賜物でしょう。

小城市から千葉胤頼(少弐冬尚実弟)が駆けつけるくらいだから、相当広範囲まさに山内一帯に「合図」を送ってたんだな~
尾形山は探せなかったけど、小副川は富士町にある地名です。

神代勢は3000を二つに分け、勝利が率いた1700は熊野峰に陣を布き、勝利の嫡子・神代長良が率いる1300は名尾口へ向かう。

熊野峰・・・解んないな~三瀬村誌だと神代は三反田すじへ・・・とあります。
となると大和町大字松瀬にある三反田郵便局付近です。
名尾口・・・名尾峠は佐賀市の方ならピンと来るんじゃないでしょうか?現在では夜景スポットだとか^^
てか、神代親子は富士町から大和町方面へ(山あり谷あり6km位を)夜のうちに、一気に移動したのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

小河信安出陣の日付は三瀬村誌の10月14日が正解なんじゃないかな~
でないと神代側が「山内一帯へ合図⇒集合⇒名尾峠まで移動」を一晩でやり遂げた事になるんで、いくらなんでも無理なんじゃ・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

そこへ斥候が戻り、佐嘉勢が攻め来ており、その中に葦毛の馬に乗った老武者の真ん前に進み、頻りに鞭を上げる者があると伝えた。勝利は、それが小河信安と悟る。
勝利は佐嘉勢を待ち受けるよう命じると、夜明けを待った。


佐嘉勢・・・すなわち小河信安と神代勝利のニアミス交戦が起きるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【永禄元年、肥前の熱い9月・後篇】龍造寺隆信「覇」の巻9

1558年元旦、神代勝利がリベンジに成功し、山内旧領へ復活(=^・ω・^=)v ブイ
同年(多分)元旦、龍造寺隆信が神代に加担した義兄・八戸宗晹を攻撃し、八戸の城・領地没収(=^・ω・^=)v ブイ
更に隆信は亡き(てか隆信が謀殺した)高木の城だった甘南備(かんなび)城を修理し兵を入れた。

ちなみに・・・甘南備城ですが、
地図・1558年エリア
この通り、緑斜線部分=神代エリアにガッツリ囲まれてます。

(以下、緑太文字は北肥戦誌よりの抜粋、( )内は管理人の補足)
(隆信は、甘南備)城には9月より、水町左京助信秀を入れたが、兵数が心許なく、小河筑後守信安の一族である小河但馬守・小河石見守・小河次郎大輔・小河左近大夫を置いた。

三瀬村誌だと小河次郎大輔と小河左近大夫が混ざって?、小河左近大輔で小河筑後守信安の弟となってます。
いずれにせよ、かなり近しい血縁関係だったようです。

自分の領内に居座る敵城に、神代勝利はイライラしてました。
もう、こうなったら龍造寺と決着つけるしかないぉ(`・ω・´)キリッ
ってことで神代は城原の江上武種とファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!タッグを組んだ。

同月(9月)に(神代勝利は)北山の峰に陣を布き、中旬に神代家臣の梅野帯刀、松瀬又三郎に兵を与えて春日山(甘南備)城へ差し向けた。

・・・・北山where?・・もし三瀬の北山ダムのあたりだとなると、甘南備城まで山あり谷あり坂もありで2km以上。
「差し向ける」距離としては、どうなんだろ・・・現在、腰がイマイチのシオなら行軍半ばで挫折します・爆

松瀬も梅野も山内の豪族で、地生えである彼らの姓は、そのまま地名として残ってます。
松瀬は神代家臣・三人衆の一人で松瀬又三郎は一族。場所は現在の富士町にあります。
梅野は富士町と大和町の両方に地名がありますが、この場合は大和町の梅野さんだと思います^-^
若い梅野帯刀とその一族が先陣に選ばれたのは、このあたり(大和町)の地理に詳しいが抜擢理由だからです。

神代勢が動いた報告を受けた甘南備城。
ならば城を出て北側の峰に登り、敵を見下ろす高地より岩を投げ落とし、矢を射かけるべしと提案する者があった。
小河左京大夫を始め、皆が我先にと打って出ると、そこへ若武者ただ一騎が一息に登る。
それは先陣として進み出た梅野帯刀であった。


・・・・颯爽登場の梅野帯刀(`・ω・´)キリッ

(甘南備)城兵は此れを見て「天晴れなる敵、組み打ちにすべし」と犇めくが、帯刀は険しい場所を踏み外して真っ逆さまに落ちた。
小河の家臣2騎が駆け寄ったが、帯刀は立てずそのまま討ち取られた。


・・・・・・・2行で討死・・・il||li _| ̄|○ il||l
北肥戦誌ではシンプルに「険しい場所」としかありませんが、三瀬村誌では「小砂混じりの崖道」となってます。
おそらく甘南備城の城壁に取りすがり城内一番乗りしようとして、他の味方が避けた足元が滑りやすい崖道を登ったんじゃないでしょうか。
地元では、この場所を「帯刀転び」と呼んでいるそうです。(と三瀬村誌にあるが現地未確認でつ)

戦と言うのは何があるか判りません。
残念な討死した梅野帯刀を見て、梅野一族が「ゴルァ!!!~~~(# ゚Д゚)・;'.」と激高、火の玉の如く攻めかかる。
さらに第二陣の松瀬勢も攻撃に加わり、とたんに乱戦突入。
逆に甘南備城兵の方が押されてしまい、城へ撤退。

勢いづいた神代勢は、そのまま城攻めへと切り替え。
こうなると地元有利( ̄ω ̄A;アセアセ
甘南備城は三方からの攻撃を受け支えきれず、落城してしまいました。
小河一族と城兵の大半が討たれ、かろうじて脱出した将兵が何とか佐嘉へと帰還した。

勝利した勝利(かつとし)は、兵糧を配り士卒を休息させた。
神代勢が休んだ場所は「布張平」と呼ぶそうですが、検索してもWEB上ではHITしないので、三瀬村誌に記録として残ってるだけで伝承は途切れてるかもです。

一族(三瀬村誌では弟と一族)が神代勢に討たれたと知った小河筑後守信安。
小河(# ゚Д゚)・;'.神代が首を討ち取り、討ち死にした者らへの手向けとする
と息巻き、10月15日(勝手に)出陣してしまうのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回「十六夜(いざよい)」の巻

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【永禄元年、肥前の熱い9月・前篇】龍造寺隆信「覇」の巻8

1558年2月28日、弘治から永禄へと改元。
この年の6月、彗星が出現しています。

すっかり忘れてたが(おぃ!)1556年に龍造寺隆信の嫡男・政家が産まれています。
自分は隆信の龍造寺総領としての地位が真に安定したのは、政家誕生の時じゃないかと考えています。

18代目龍造寺当主が男子がないまま急死したため、隆信が18代目未亡人と再婚する事で龍造寺総領の地位に付きました。
その18代目未亡人、実は剛忠(家兼)の孫娘でして、隆信からみて血の繋がった従兄弟叔母にあたります。

剛忠(家兼)の水ケ江龍造寺家は、剛忠(家兼)の意向(だと思う)で家督相続が摩訶不思議でした。
あ、家督相続って言っても、実権はモチロン剛忠(家兼)ですよ^^b

家系図・龍造寺系図①

系図にある青ラインが水ケ江龍造寺で、家督は長男⇒次男⇒長男の嫡男って流れでした。
(ちなみに少弐の陰謀で剛忠(家兼)の長男・次男・長男の嫡男は全員殺されてます)
そのくせ長男の嫡男の嫡男・・・剛忠(家兼)の嫡曾孫にあたる隆信は出家させちゃうし。
あのジー様、マジで何を考えてるんだかサパーリですわ。

そういう複雑な事をすれば、必ず揉めます。
剛忠(家兼)の死後、水ケ江龍造寺当主にと剛忠(家兼)次男系である鑑兼クンが担ぎ出され、お蔭で隆信が筑後へ亡命する羽目になったんです。

で、肝心の18代目未亡人は剛忠(家兼)次男家の姫君でした^-^
(鑑兼クンから見て姉(同母か異母かは不明)にあたります。)

18代目未亡人と龍造寺隆信の結婚は、単に本家・村中龍造寺と分家・水ケ江龍造寺の融合だけではない。
亡き剛忠(家兼)が複雑にしちゃった家督・・・水ケ江龍造寺長男家と次男家の融合でもあるんです。
それら全ての因縁を解決する結晶が隆信の嫡男・政家です。
これまでの経緯から推測すると「政家誕生」で、隆信の総領としての地位は確たるものなったはずであり、更に言うと隆信の後継者は政家でなければならない。

家紋・竜造寺

龍造寺家は肥前の複雑な政情に合わせて、総領の座をコントロールしてきました。
最初は止むを得ないものだったかもですが、途中からは剛忠(家兼)が意図的にしてたと思います。

本家総領も長男から次男へチェンジしたり、剛忠(家兼)自身も一時は総領の座を預かったり、かと思えば当主後見となって表舞台から引っ込んだりと複雑な事してます^^;

まるで江戸時代の殿さまみたいです。
極論すれば、殿様個人より藩という組織が優先される。
それで治まるのは「泰平の世」なればこそ、です。

そして剛忠(家兼)の水ケ江なら「それ」で良いんです。
何故なら剛忠(家兼)は分家で、村中宗家を守らなければならない立場なのだから。

推測ばかりで申し訳ありません。
自分は龍造寺隆信が「当主の権限」を強化しようとしてたんじゃないかと思うんです。
「龍造寺全体のための交代可能な総領」ではなく「龍造寺唯一無二の総領」への質的変化です。

実際問題として急速に勢力拡大した龍造寺家では、家臣・豪族をまとめるためには、当主のワンマン、トップダウン方式で行くしかなかったと思います。
「実力の父・隆信」と「(水ケ江)龍造寺血統上の超サラブレッド嫡男・政家」の二元体制でバランスをとろうとしたんじゃないかな~~~という推測。

だって村中宗家では、本当の意味で男子が絶えたわけじゃないですもん。
分家の出である隆信より、宗家の血統を濃く引く男子がいるんです。
「宗家嫡流じゃないことだけ」を挙げれば、隆信だって「そう」です。
だからこそ18代目未亡人との再婚による補完が必要であり、後継者は未亡人との間の長男でなければならないんです。

分家出身の隆信が総領であるためには、18代目未亡人と「合体」川* ̄д ̄*川ポッ しなきゃならない。
ところが、出家して夫の菩提を弔いつつ静かに慎ましく過ごすつもりだった未亡人にとり、歳下の従兄弟甥との再婚なんてアンビリバボー。
一族に説得されて止む無く再婚はしたものの、隆信に靡こうとしなかった。

その未亡人を脅して・・・ゲホグホゴホッ、もとい説得したのが小河信安でした^-^
当時、未だ地位不安定だった龍造寺隆信は、未亡人との和合を働きかけてくれた小河に感謝し、その忠義心・武勇にも全幅の信頼を置いていました。

小河は単身で乗り込み神代勝利を暗殺しようとするような、ちょっと強引な面もあります。
(そういや未亡人を説得した手段も強引だ・爆)
実は激情タイプ小河信安、、、その最期の夏が始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【神代VS龍造寺、その最前線】龍造寺隆信「覇」の巻7

熱く激しい1558年(弘治四)は、元旦早々に神代勝利のリベンジ旧領復活から始まった。

少弐冬尚を奉じる事によって、山内豪族たちの既得権益を守りたい総領の神代勝利。
その神代勝利を倒さなければ、今は仇敵・怨敵となった少弐を龍造寺が倒す事が出来ない。
肥前の熊・龍造寺隆信と山内の英雄・神代勝利との戦いは、避ける事が出来ないものだった。

神代勝利の旧領復活と同時に、龍造寺の方も神代に加担した八戸(やえ)宗晹の八戸城を攻撃し落とした。
(詳細は前話参照)八戸宗晹は何とか城を落ち延び、神代勝利を頼った。

(以下、緑文字部分は北肥戦誌より抜粋)
隔して隆信は、宗暘の領地である八戸・新庄・津留・諸隈・益田・木角・成道寺などを悉く奪い、また八戸城を破却した。

てことで、新たな地図入荷~~^^/
地図・1558年エリア
緑斜線部分が神代エリア、茶斜線部分が龍造寺エリアで、小城市からは千葉エリアになります。

もともと龍造寺は与賀郷、川副郷と有明海沿岸に向かって勢力を広げてました。
今は破綻しちゃったけど、神代と表向き友好だった頃に神代から龍造寺に譲渡されたのが大財と愛敬(島)。
これに八戸エリア(佐賀市八戸、鍋島町の大字が付く方一帯で嘉瀬川と国道263号線が大雑把な境目)が加わる。

管理人の興奮が伝わるでしょうか?
ついに龍造寺は佐嘉郡における河川・河口流域と平野部の殆どを手に入れたんです。
一国人領主で被官で一時は滅亡しかけた龍造寺が、小城郡を領する千葉氏に匹敵する実力をつけたのが、この1558年初頭です。

(八戸宗暘の援軍要請を受けて)
神代は早速に宗暘と共に駄市川原に出陣する。
注進を受けた隆信は急ぎ長瀬に陣を張る。


三瀬村誌によると神代勝利本人が出陣したのではなく、杠(ゆずりは)主水を援軍として差し向けたそうです。
杠主水は龍造寺軍の東南へ夜襲をかけたのですが、龍造寺家就が主水を撃退o( ̄Д ̄θ★ケリッ!
で(夜襲撃退の)注進を受けた隆信が長瀬に陣を・・・と北肥戦誌にある流れになるようだ。

ちなみに長瀬とは佐賀市高木瀬大字長瀬で、地図にあるように大財と愛敬(島)より神代エリアである大和町に近い位置になります。
陣を布くってことは、高木瀬あたりまでが龍造寺エリアに入ったのかな~と思い茶斜線入れました。

またまた三瀬村誌によると長瀬は本陣の位置なんだそうで、長瀬から五領北村にかけて布陣したそうです。
北村は特定できなかったんですが、五領は尼寺の中にあります。
実は長瀬と一口にいっても結構範囲が広いんですよ~それで特定するのに迷って修正テープ跡が。。。爆
尼寺五領と長瀬は最短距離だと250mくらいなんですが、布陣の範囲としては普通なのかどうか知識不足で判りません( ̄ω ̄A;アセアセ
それと尼寺って書いて(にいじ)って読ませるそうです・・・どんな寺だったんだろぅ( ̄ω ̄A;アセアセ

龍造寺勢から小河筑後守、小河但馬守、納富左馬助、納富越中守、納富治部大輔、内田美作守、鹿江宮内大輔、福島民部大輔、倉町上総介、倉町大隅守ら駄市川原の敵陣へ押し寄せて鬨の声を上げる。

山内勢はこれに足軽を出して矢を射かけ、勝利と宗暘は春日山へ登った。

龍造寺勢は続いて春日山へ陣を寄せ、成富信種が高城寺を焼き払って敵を炙り出さんとすると、勝利と宗暘は夜陰に紛れて山内へと退いた。
隆信も程なく佐嘉へ帰陣する。


>高城寺を焼き払って
ぅぎゃぁぁ!!( Д )  ゚  ゚ 国指定重要文化財がぁぁぁ!
この戦火の中をくぐり残ったのが高城寺文書なんだな~ (゜-Å) ヨカッタ、ノコッテホントウニヨカッタ、、、

ちなみに山内に亡命した八戸宗暘ですが、三瀬村誌によると神代勝利が杠山に館を与え住まわせて扶持したそうです。
城は落ちて更に破却され、領地は奪われ・・・おそらく妻子とも、そのまま生き別れ再会する事はなかったでしょう・・・
だって佐嘉に護送され保護された八戸の妻は、龍造寺隆信の実姉ですもの・・・ショボーン..._φ(・ω・` )
男として武将として今まで築いてきた全てを奪われた八戸宗暘の無念は、察するにあまりある。
その後の八戸は隆信への復讐にだけ生きる事となる。

隆信はその後、山内を攻める布石として、春日山城の修理普請を命じた。
北肥戦誌に春日山城とあるのが、かつて高木鑑房の本城だった甘南備(かんなび)城の事です。
位置は大和町・神代エリアに囲まれた、まさに最前線!
龍造寺と神代の激突は、この城から始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【葉隠の系譜・誤】龍造寺隆信「覇」の巻6

八戸宗晹の誤算は、龍造寺剛忠(家兼)が90を超えた高齢でリベンジに成功した事。
八戸宗晹の不運は、跡を継いだ義弟(妻の弟)隆信が歴史に名を残す英雄だった事だ。

地図・八戸エリア2

弘治4年元旦にリベンジを果たし旧領に復活した神代勝利。
この動きに龍造寺家では、八戸宗暘が大友勢を城へ入れて背くのではないかとの風聞が立った。

三瀬村誌によると、情報は鍋島信昌(後の直茂)家臣と佐嘉郡新庄の伊東兵部からもたらされたものだったらしい。
佐嘉郡新庄は現在の佐賀市鍋島町大字森田にあり、ガチ八戸宗晹エリア内。
伊東兵部とは地元豪族だろう。地元情報ということで信頼性は高いかな?

知らせを受けた龍造寺隆信は「同日」八戸城へ兵を差し向けた。
北肥戦誌にある同日というのは、弘治四年の元旦の事で、神代勝利のリベンジと同時期だったらしい。
(ちなみに同じ元旦でも三瀬村誌では弘治3年になってます)
夜中から未明にかけて神代が山内に復活し、同日知らせを受けて、速攻で八戸城を攻撃。

多少日付がずれていても正月三が日以内なのは確かで、隆信の早すぎる動きは前々から八戸宗暘を看視してたからだと思う。
八戸城攻撃メンバーは三瀬村誌によると、隆信の弟・信周、一族の家就、納富、福地、石井の兵4700。

この人数を正月に集めた?神代の動きを受けて同日に?ヽ(。_゜)ノ へっ?
たまたま同じタイミングになっただけで、前々から八戸城攻撃準備してたんじゃないかな~アヤシイ・・・|壁|_ ̄)じぃー

それはさておき元旦で油断してた八戸城では、突然の攻撃に仰天!( Д )  ゚  ゚
おそらく新年の振る舞い御屠蘇で寛いでいただろう八戸城兵たち。
すっかり動転し防戦はおろか、城内を意味なく右往左往~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

そこへ鍋島信昌が城の風上に回って陣屋を破壊、城内の森に火をかけ焼き立てた。
城内に火の手が上がったのを見て八戸城兵は完全に狼狽し、交戦どころでなくなってしまった。
八戸宗暘は何とか城を落ち延び、神代勝利を頼った。

系図~高木・於保・龍造寺の関連系譜

八戸宗暘は妻(隆信の姉or妹)との間に二女一男を儲けていた。
妻子は宗暘退去の際に逃げ遅れ、龍造寺家に囚われの身となり佐嘉へと護送された。

裏切りに厳しい肥前の熊さん「(# ゚Д゚)・;'.怨敵の子であるから、男子は殺すべし!!!」と言った。
そこへ隆信の嫡母・慶誾尼が憐み、隆信を諭して押しとどめた。

八戸宗暘の妻と隆信は同母姉弟だったかもですね^^
そうなると八戸の男子は、慶誾尼にとって実孫ですもん。そりゃ助けたいでしょう。

於保の家督ですが、八戸との確執で胤宗系から本来の嫡流である鎮宗系に戻ったんじゃないでしょうか。
鎮宗系於保氏は、龍造寺家臣となり、その後は鍋島家に仕え佐賀藩士となります。

一方、八戸宗暘の息子は八戸姓を名乗る事を許されず「山本姓」に改姓しました。
それが系図にある山本宗春で、これまた子孫が佐賀藩士として残りました。
この山本宗春の孫が葉隠の口述者・山本常朝です。

江戸期に鎮宗系於保氏と胤宗系山本(於保で八戸)氏とが、交流あったのか、互いにスルーなのか、他県人の自分には窺い知る事は出来ませんでした。
だから於保・八戸・龍造寺の複雑な関係が、山本常朝の心理に陰を落としていたかは判りません。
ただ常朝の生い立ち自体が複雑ではあります。
なにせ常朝は実父が70の時に儲けた子で、常朝は年上の甥っ子に養育されたんです^^;

肥前戦国史連載一周年記念プチシリーズ「葉隠の系譜」は、これにて終幕。
さて、葉隠の曾祖父・八戸宗暘ですが、龍造寺隆信に報復しようと神代の元でチャンスを窺う事になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【葉隠の系譜・勇】龍造寺隆信「覇」の巻5

八戸(於保)氏の最盛期を作った人物が、八戸(やえ)宗晹。
下野守。東肥前十九将の一人。生年不明。
八戸宗晹の妻は剛忠(家兼)の曾孫・・・龍造寺隆信の姉(妹説あり)だった。

系図~高木・於保・龍造寺の関連系譜
(八戸宗晹の漢字が間違ってる・・・il||li _| ̄|○ il||l)

於保氏が、いつから八戸氏を称したのか、正確な年代は特定出来なかった。
てか、そもそも宗晹は次男であり、於保当主じゃなかったはずです。

これまた推測なんですが、
剛忠(家兼)は自分の娘の孫(剛忠(家兼)から見て曾孫)である宗晹の器量を見込んで、これまた自分の曾孫にあたる隆信の姉を娶せて、於保から独立させて別家を立てたんじゃないでしょうか。

曾孫夫婦って事は、親同士が従兄弟だからして、ハトコのカップリングになるのか?(-ω-;)ウーン
島津並みの同族・血族婚です( ̄ω ̄A;アセアセ

この推測でいくと、八戸宗晹が八戸姓を称した時期は、結婚した時or八戸城に入った時orどっちも同時、の三択。
年代が曖昧な最大の理由は、八戸(やえ)城の築城年代、もしくは八戸宗晹が八戸城に入った時期が不明だからです( ̄ω ̄A;アセアセ
ちなみに八戸城で検索するのは御勧めしない。佐賀市と入れても検索結果が・・(以下略)

地図・八戸エリア2
(うねってる水色線は嘉瀬川~^^/)

八戸城の場所は、現在の龍雲寺(佐賀市八戸1丁目6-35)です。
佐嘉(村中)城&水ケ江城から1kmちょっとの近さ。
於保城(現在の於保天満宮で嘉瀬川リバーサイドカントリークラブの近所)とは3km弱の位置。
於保と龍造寺が連携を組むための「仲立ち」として程よい場所にあります。

剛忠(家兼)は、於保御家再興の後見し、本来なら嫡流でない次男(胤宗~宗晹の祖父)系統に於保家督を継がせ、さらに次男の宗晹自身に曾孫を娶せ八戸城を継がせたんです。
当然、八戸宗晹を自分の一族としてカウントしてただろうし、龍造寺配下とさえ思ってただろうし、それが無意識に態度に出ちゃってたかもです。( ̄ω ̄A;アセアセ

過度な恩というのは、相手の器量次第では毒になります。
普通に一般家庭で考えても、婿入りした訳でもない・自分から頼んでもいないにも関わらず、嫁実家都合で、嫁実家から援助され、家庭に口も手も出されるのを喜んだり、プライドが傷つかない旦那はいないでしょう。

少弐と龍造寺が手切れになった時。。。八戸宗晹は少弐サイドにつきました。
八戸宗晹は嫁実家・水ケ江龍造寺から、いえ剛忠(家兼)から離れ、自立したかったんだと思います。

さらに重要なのが八戸エリアの位置。
仮に龍造寺に与した場合、八戸宗晹エリアが、VS少弐、ひいてはVS神代の最前線になります。

ここで思い起こすのが、龍造寺勢に編成されてた(らしい)於保氏が三代に亘り次々戦死し、滅亡しかけたという事実です。
これ以上、龍造寺に便利使いされて、最前線に狩り出され戦死の憂き目は真っ平御免。
自分の利益だけの為に行動したい・・・という欲求が出ても不思議じゃありません。

少弐の陰謀で、90という高齢になって、長男・次男・孫一族を失った剛忠(家兼)。
まさか剛忠(家兼)がリベンジに成功するとは、八戸宗晹も夢にも思わなかったでしょう^^;
ゾンビ復活力という点では龍造寺も少弐とドッコイです。

剛忠(家兼)が死んだ時、八戸宗晹は龍造寺が分裂すると判断したと思います。
少弐の陰謀後、一時期ですが村中と水ケ江は別行動でしたから。
八戸宗晹の最大の誤算は、妻の実弟が肥前の熊と異名をとる英雄だったことなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【葉隠の系譜・参】龍造寺隆信「覇」の巻4

まず一番?重要な事から・・・特にシオ同様に関東以北の方々へ・・・

佐賀県の八戸は・・・はちのへぢゃないよ、「やえ」と読む。
(脳に浸透させるのに難儀しました・・・by道産子)

龍造寺と同じく、高木氏を祖とする於保(おぼ)氏の複雑さは、八戸氏と同じであって、同じでないところにある。
八戸氏のエリアは、サイトによって佐賀市中央部だったり、西部だったりする。
このブレは、本貫地である於保村を、入れるかor入れないか、の差です。

地図・八戸エリア2

実はシオも迷って、初めに描いた八戸エリアには於保を入れてたんです。修正テープ跡が物語る(爆
結論から言うと、八戸宗暢エリアに於保は含みません。

何故なら、於保氏は「龍造寺に従った於保(兄で本来の嫡流)」「龍造寺に敵対した於保(次男←八戸氏はコッチ)」の2系統に分裂したからです。

龍造寺の始まりが龍造寺村の地頭だったように、於保氏も於保村の地頭でした。
現在残る於保天満宮が於保の城跡だと言われています。
嘉瀬川リバーサイドカントリークラブを目印にすると(比較的、地図上では)探しやすいです^^;
あ、書き忘れた・・・地図上のウネウネっとした青い線は嘉瀬川なのネ^^;

少弐か大内か、浮沈の激しい肥前戦国史の狭間で、於保氏は概ね少弐被官だったようです。
で、於保は龍造寺旗下で働いてたっぽい。
むろん於保の方では、龍造寺配下になったつもりないでしょう。
当時の龍造寺は少弐被官の中で上位にいたのと、動員兵力の関係で、龍造寺勢に編成されてたと思います。

戦いの中、於保氏は三代に亘って、当主や嫡男が戦死してしまいます。
これは想像なんですが、龍造寺勢に編成された(と思われる)於保氏は先陣を担ってたんじゃないでしょうか。
でなければ当主や嫡男の戦死率が高すぎます。
一族の多くが戦死した於保氏は、一度没落の憂き目にあう。

当主(or嫡男)戦死で、残る弟・於保胤宗の妻が、剛忠(家兼)の娘という縁から、龍造寺に取り立てられ御家再興を果たします。

系図~高木・於保・龍造寺の関連系譜

このあたり剛忠(家兼)が黒い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
何故なら戦死した兄の鎮宗には、男系がキッチリ続いてるからです。
揉めてないところを見ると、戦死兄・鎮宗の遺児は幼かったのだろう(たぶん、きっとそう・汗)

剛忠(家兼)娘婿・胤宗は、時の龍造寺当主・家和(剛忠(家兼)の次兄)の養子となり、龍造寺の後見で於保当主となった。
於保胤宗の「胤」は龍造寺絡みなら、西千葉家からの偏諱だろうし、偏諱の(-人-)☆彡オネガイは龍造寺経由だと思う。
やはり本来の嫡流である実甥を差し置き当主になるには、偏諱による箔付が必要だったんじゃないだろうか。

於保当主が龍造寺後見を受けていたので、於保(八戸)エリアの表記がサイトによって佐賀市中央だったり西部だったりするのでしょう。
後に(取り立ててやった)剛忠(家兼)娘婿~弟・胤宗男子系統が、龍造寺に敵対したのだから、皮肉な話ですな( ゚Д゚)y─┛~~

おそらく剛忠(家兼)は、於保(八戸)を取り込む事によって、於保(八戸)エリアを己の影響下に置こうとしたのだろう。

剛忠(家兼)は与賀郷、川副郷と河川流域から河口に向かい有明海沿岸にと勢力範囲を広げていました。
これに於保(八戸)エリアが加算されると、佐賀市中央部から嘉瀬川流域にかけてが、龍造寺(実質は剛忠(家兼))エリアになる計算です。

剛忠(家兼)の目論見通りになれば、佐嘉郡主要地域の殆どが龍造寺の影響下に入り、小城郡を領する千葉氏と近いだけの実力を有する事になる。
主君である少弐氏と、その家臣・馬場が、何としてでも剛忠(家兼)を潰そうとしたはずです^^;

慎重な剛忠(家兼)は、あからさまに兵を用いて侵略とかはしません。
高木のように養子縁組したり、於保のように婚姻関係になったりと、時間をかけて影響力を広げています。

逆に剛忠(家兼)が兵を使う時は、西千葉からの要請だったり、少弐への助勢だったりと、必ず何らかの大義名分があるんです。
その大義名分を使って豪族たちを招集し、戦場で信頼関係を築き何時の間にか豪族たちを己の懐に飼い慣らす。
おそらく同時代の人間は剛忠(家兼)を「頼もしき仁者」と、尊敬していたことでしょう。

龍造寺エリアを広げるのに、時間かけて布石のロングパス・・・・
よっぽど自分の寿命に自信が・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

だが剛忠(家兼)の密かな大望は、挫かれた。
八戸(於保)宗暢が、龍造寺から寝返り少弐の陰謀に加担したからなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【葉隠の系譜・弐】龍造寺隆信「覇」の巻3

戦国時代、高木氏は龍造寺氏と養子縁組の関係だった。

系図~高木・於保・龍造寺の関連系譜
(手書きの)ぬくもり系譜,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

右端~□で囲んでる部分です^^/

胤家とは剛忠(家兼)の長兄でして、世が世なら彼の系統が龍造寺嫡流でした。
少弐か大内か、西千葉か東千葉かの狭間で出奔する羽目になり、嫡流から外されちゃったんです^^;
その後、胤家は龍造寺に戻り彼の系譜は続いてますが、彼の系統が当主になる事はありませんでした。

胤家は他に実子(男子)がいたんですが、高木家から養子を迎えています。
それが龍造寺盛家です。
その盛家の息子・鑑房が高木家の家督を継いでいます。

盛家の孫説もありますが、年代的に実子説の方がシックリ来ます。
「盛家の龍造寺養子入り」「鑑房の高木相続」の時期が、それぞれ不明なので剛忠(家兼)が一枚噛んでたかどうかも不明です。(無関係とも考えづらいけど)

他家へ養子に出した男子の子供に、実家の家督を継がせる事には二つの理由が考えられます。
1・高木家の男系が絶えたか、適当な男子が一族内にいない。
2・龍造寺家との関係強化

この2点。

養子縁組関係で上手く行ってた(であろう)高木と龍造寺の関係が破綻しました。
少弐と龍造寺が対立関係となり、高木は少弐に与したからです。
高木鑑房が少弐に与した最大の理由はズバリ「本拠地の位置」だと思う。

地図・八戸滅亡前

高木鑑房の本拠地は春日山にある甘南備(かんなび)城。
ちなみに甘南備は(も)サイトによって甘奈備だったり、甘南比だったりで表示がバラバ・・(以下略)

春日山にある城なので、北肥戦誌では春日山城になってますが、春日山城で検索するのは御勧めしません。
「佐賀県 春日山城」で検索かけても、某毘沙門天さま関連が(かなり)上位に出てきます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

この場合、注目するのは少弐配下の神代勝利エリアです。
(佐賀県の)春日山を囲む大和町大字梅野、同大字久池井、同大字尼寺、同大字etc・・・この一帯が神代エリアなんです。
最盛期における神代勝利エリアは、佐賀市中央部の愛敬(島)、大財まで食い込んでおり、高木エリアと龍造寺エリアは神代によって完全に分断されています。

ガチ少弐配下にして龍造寺とガチ敵対関係の神代エリアに、すっぽりと包まれた高木の状況で、同族・養子縁組の誼みを期待するのは酷というものだ。

高木鑑房の実父・盛家は、最期まで養子先である龍造寺の男として生きて、そして死んだ。
龍造寺盛家は、少弐の陰謀で偽の有馬討伐に狩り出され、戦死している。

生前、親子間での交流が薄かったのか、実の親子で敵対関係になる悲哀のようなものは、高木鑑房からは感じない。
高木鑑房で最も強烈な逸話は、首なしでゾンビ暴れした例の魔界転生ネタだけだ^^;;

国人領主としての高木氏は、龍造寺隆信に滅ぼされた。
さて、次ぎは於保(おぼ)氏。

於保氏は於保村の地頭で、現在の於保天満宮が於保城跡だと言われている。
実は、この於保村も佐賀市大和町の中にあるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【葉隠の系譜・壱】龍造寺隆信「覇」の巻 2

お蔭さまを持ちまして、7月15日で肥前戦国史連載開始から満一年の佳節を迎える事が出来ました。
これも偏に未熟な管理人を支えて下さった皆様のお蔭です。

この一年、プライベートもブログ運営に関しても様々な事があり、たびたび中断しましたが根気よく御付き合い頂き本当にありがとうございます。
現在は交通事故により腰を痛めて通院中で、これまた連載が途切れがちで申し訳ありません(´Д`;) 
養生しつつ続けてまいりますので、今後とも何卒宜しくお願いしたします^-^

記念記事としてまして企画したのが、肥前といえば葉隠!(`・ω・´)キリッ
てことで、「葉隠の系譜」をお届けします^-^
既に御存知の方も、初めての方も、お楽しみ頂けるよう精進します~♪ヽ(*´∀`)ノ

家紋・竜造寺

さて葉隠の系譜を紐解く前に、まず龍造寺のルーツを御説明したいと思います。
いまさら?・・・・と咄嗟に思った方、すいません^^;
初めにプロローグ的にするような話が、今になったのは偏に自分の未熟さ故です。

言い訳すると龍造寺が・・・・・(1~5スルー可)

1・胤家系(正嫡)龍造寺から村中(次男・家和系)へと家督チェンジ
2・剛忠(家兼)の水ケ江龍造寺が、長男⇒次男⇒長男の長男への変則相続
3・少弐とトラブル前は、剛忠(家兼)が一時期、総領の座を預かってた
4・隆信と再婚した村中当主未亡人は、実は剛忠(家兼)の孫娘(次男の娘)な件
5・1558年現在、龍造寺一門筆頭は世が世なら嫡流の胤家系出身の家親だったりする

とまぁ、かなり入り組み複雑で、龍造寺のルーツそのものに触れる余力が持てませんでした^^;
一年連載し続ける合間合間に、北肥戦誌に登場する地名や国人をコツコツ地道に調べ続け・・・
やっと記事に起こせるだけ関連データを脳内チャージしましたので、改めて紹介ね(^ -)---☆Wink



さて、龍造寺のルーツには諸説あるそうなのですが、一番有力なのが肥前高木氏。
肥前高木氏からは複数の分流が出ており、本記事と直接関連あるのが(高木氏以外で)「龍造寺氏」「於保氏」です。

で、ここで御礼の次に載せた家紋に注目^^/
実は今まで混乱を避けるために「龍造寺家紋ロゴ」で通していました。
がホントはルーツである高木氏と龍造寺は同じ家紋を使用してたんです( ̄ω ̄A;アセアセ

ちなみに肥前高木から派生した同族は全て日足家紋でして、区別としては御日様の後光のような足?の本数が違います。(デザインも若干違う)
だから同族かどうか、互いに家紋を見れば一目瞭然^-^

よくある「総領の座」争いですが、高木氏と龍造寺が、そういう方向で諍いした形跡は見受けられません。
ただ肥前高木氏が衰退していくなかで、龍造寺の方で(高木に代わって自分が)総領家意識があったかも?
って印象をシオは感じましたが、そのあたりは微妙です。剛忠(家兼)は本音を見せないタイプなんで^^

肥前高木氏は鎌倉時代に勢力を誇り、官位は太宰大弐・・・これはホントか不明^^;
官位はともかく、前回紹介した「肥前国一の宮・與止日女神社」の大宮司でした( ゚д゚)ンマッ!!

それが九州ではよくある南北朝時代に衰退。
代わって台頭するのがシオが大好き「肥前千葉氏」川* ̄д ̄*川ポッ 

家紋・肥前千葉 肥前千葉家紋ロゴ

それまでの肥前千葉氏は下総・千田庄(本貫地)と肥前・小城郡を行ったり来たりしてたんです。
イザ鎌倉・元寇のため嫡男でありながら九州へ強制移住させられた肥前千葉氏。
弟が継いだ千葉氏総領の座を諦めきれず、肥前千葉当主は頑張って千葉県と佐賀県を往来。
してたんですが、さすがに南北朝動乱期に二つの領地支配が物理的に難しくなった^^;
そこで千田千葉氏(本家)と肥前千葉氏(分家)に別れ、肥前千葉氏は小城郡に土着した。

もともとが勢力ある一族なので、肥前小城に本腰入れたら、たちまち肥前高木氏を圧倒。
「肥前国一の宮・與止日女神社」の大宮司職も、肥前千葉氏にとってかわられます。
肥前千葉が東西に分裂してから、大宮司職がどうなったかまでは辿りきれませんでした。
元亀4年の西門寄進時の大宮司が千葉胤連(鍋島殿を一時養子にしてた西千葉氏)です^-^

実は肥前千葉氏が「肥前国一の宮・與止日女神社」の大宮司だった事をシオが知ったのは最近なんです^^;
というのも参照先サイトによって「與止日女神社」が「川上社」だったり「河上社」だったりと表記がバラバラ。
そのため「川上社」で「河上社」が「與止日女神社」と同じ神社の事を指し、かつ「肥前国一の宮」だって気づいたのが、今年の7月,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

佐賀県の方はどうでしょう?、
川上社はともかく河上社が與止日女神社と同じって、すぐピンと来ますか?(道産子涙目)
土地勘の無いシオは読んでいても関連性に全く気付かず、地道に地名検索と各国人勢力エリアをコツコツと照合してたら、[神社とデータ]スッ≡( ̄ー『+』ゝハッケンしたんです。

愚痴はさておき、肥前国主とまで尊崇された肥前千葉氏が、「肥前国一の宮・與止日女神社の大宮司」というのは、頷ける話(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
祇園社を招聘しただけじゃ、東国御家人系氏族が勢力地盤を築けないよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

肥前高木氏は在地領主クラスまで衰退、家は東高木と西高木に分裂し、肥前千葉氏の被官として偏諱を受ける立場に・・・ (゜-Å) ホロリ
ちなみに首なしで暴れた魔法使い・高木鑑房は東高木氏のほうなのだが、それは・またの話 by^-^sio

※監修様へ、二話で終わるの無理みたい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

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【山内・神代勝利のリベンジ】龍造寺隆信「覇」の巻1

神代勝利が亡命先である筑前長野からリベンジした年は、弘治3年説と弘治4年説がある。

三瀬村誌(佐賀市保有)によると弘治3年(1557年)
北肥戦誌(九州治乱記)によると弘治4年(1558年)

佐賀県佐賀市三瀬は何と言っても神代勝利の御膝元だ。
三瀬村誌の説に軍配をあげたくなるが、筑前側データに基づくと弘治4年になる。

神代は亡命する時に、筑前糸島の原田了栄を頼った。
その時期が原田氏の記録だと弘治3年になっているので、必然的にリベンジは翌年の弘治4年となる。
本記事は北肥戦誌に基づいているのもあるので、この話は弘治4年に起きた事として進める。
(以下、緑太文字は「北肥戦誌」からの引用)

人物・くましろん~ 神代勝利イメージ画像

弘治4年(1558年)1月1日、昨年末の夜中に打ち出ていた神代勢は、雪を踏み分けて熊川へ出て、東雲(夜明け前、空が白んで来る頃)と共に熊川の代官を攻撃した。

熊川は佐賀県佐賀市富士町にあり、熊の川温泉があったりする(*´pq`)
ちなみに2kmちょっと西(地形無視の直線コースで)行くと、古湯温泉なり~

北肥戦誌には「雪を踏み分け」としか書いていないが、熊川は山に囲まれた土地。
ぶっちゃっけ神代勢は年末年始にかけて、山越えを敢行したんです。
もともとが山岳地帯に棲む人々なので、冬山&凍傷予防対策の知識はあったんじゃないかな~

動揺した代官所の者らは一人残らず討ち取られた。勝利はそのまま熊川に陣を布く。
時節的に大雪が谷を埋め、身動きが取り辛い中での在陣であったが、河上の小野式部が粥を煮て持参した。

三瀬村誌によると、この小野式部は川上(←地名)与止日女(よどひめ)神社の社頭だったそうだ。
神社の正式名は「與止日女神社(佐賀市大和町川上1-1)」
来年2014年が建立1450年記念大祭という、すごい古い神社で実は「肥前一の宮」!(゚ロ゚屮)屮

與止日女神社は川近くにあり、かつて川上川と呼ばれていたのが、嘉瀬川(または佐嘉川)のことです。
神社周辺の河川流域は聖域として殺生禁断!(`・ω・´)キリッ
神社近くの川に棲息する魚(ナマズらしい)は漁を禁じられていたそうです。

それほどの社格を誇る神社の社頭が、粥を持参して神代の帰還を歓迎したのだ。
神代勝利が、いかに周辺住民の人心を掌握していたかを彷彿とさせるエピソードです。
てか「肥前一の宮」神社に支配を嫌がられた(らしい)龍造寺って・・・不味くね?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

それ(小野の差し入れ粥)に気力を満たした神代勢は龍造寺の代官らを追い出し、山内へと戻った。

(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ!!頭領~~~お帰りなさい!!!

山内の者らはこれを喜び、再びの従属を表した。

再び「三瀬村誌」より
龍造寺から派遣された代官は複数だったらしく、山内の要所に配置されてたのだが、それらは悉く討たれた。
神代の帰還に勇んで続々と集まった山内勢は、3000余騎にも達したらしい。
バタバタとした帰還で、歳の餅が用意できなかったので、大釜に小豆をぶっこんで煮込み早拵えに餅を作った(御汁粉?)そうな。
こうして作った餅を山内では「なべほぐり餅」「隣知らず」「たどし」等々と呼ばれた。
ちなみに、小野の用意した粥と即席餅は神代家正月の吉例となり、正月の歳とりに食べるのが習わしとなった。

山内地方では近世まで、その習慣が続いていたらしい。
小野式部は「差し入れ粥」の功績で、毎年米十二石が褒美として与えられた。

旧領を取戻した神代勝利は、龍造寺隆信の敵として再び対峙したのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【プロローグ】龍造寺隆信「覇」の巻

ブランクあきすぎなんで軽くおさらい~

滅亡しては復活をループしていた少弐氏。
その、あまりのゾンビ復活力に、さすがのシオもゲンナリ~途中で憂鬱モードにwww

名門の終焉に萌えるファンには申し訳ないが、肥前国人目線から見れば「滅んでは復活」というのは・・・
一度くらいならともかく、数代重なると流石に迷惑,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

少弐・復活滅亡ループは、肥前千葉氏を西と東に裂き、龍造寺は兄(胤家)から弟(家和・村中龍造寺)へと嫡流逆転現象を起こした。
「少弐か大内か」二者択一の選択の狭間で家中が分裂したのは、小領主クラスまで探せば、未だあるのではないだろうか。

家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

郷土史を丹念に掘り起こすと、龍造寺は佐嘉国人たちを手なずける事によって、かつての少弐勢力エリアに地味に食い込んでいたのが窺える。
亡き剛忠(家兼)は、少弐が神埼エリアに拠点を移したのを良い事に、佐嘉郡における少弐エリアを静かに蚕食したのだ。

この事実がウッカリ見落とされがちなのは少弐のミスが大きい。
少弐は卑怯な手段で剛忠(家兼)を騙し、その子等を騙し打ちし、首級を辱めた(首を蹴ったのは馬場)
これだけでも道義上、かなりドン引きする( ̄ω ̄A;アセアセ

少弐の致命的ミスは龍造寺を潰すために、島原の有馬を小城郡・佐嘉郡に引き入れた事だ。

東肥前ぬくもり戦国地図

少弐の手引きで、有馬勢は六角川を越えて小城郡&佐賀郡に兵を入れた。
このまま有馬勢に居座られ駐留されたら、いったい少弐はどうするつもりだったのだろう。

六角川防衛ラインを、犠牲を払って死守してきた小城郡の人々は戦慄した。
有馬の脅威が目の前まで近づいた佐賀郡の人々も驚いた。
自分(少弐・肥前神埼郡)さえ良ければ、同じ肥前の他領民・豪族は、どうなっても構わないと言うのか(怒!
少弐の余りにも身勝手で自己中な遣り方に、東肥前の人心は6割方離れてしまっただろう。

なぜ100%じゃないかというと、龍造寺が台頭すれば(少弐以外で)龍造寺に己のエリアを圧迫される勢力があるからです。
その代表例が八戸氏・肥前小田氏・山内の豪族たち。

亡き剛忠(家兼)がコソーリ少弐エリアにチョッカイ出した時、真っ先に抑えたのが物資流通の要路である河川流域(川副郷・与賀郷)です。
推定で3つの河川港or河口港が龍造寺の影響下に入ったと思われます。

武具・馬具・茶器どころじゃない!生活物資全般の流通を抑えられたら、龍造寺と敵対する者はドライアップ(日干し)になってしまう。

ただし物資流通ルートは必ずしも一つじゃありません。
神埼郡の隣、筑前の博多から入るルートがあります。
コスト面(定価・運賃・配達日数)で、どっちが得かは流石に素人のシオじゃ算定無理^^;

要するに、生き残った方が相手の持つ富(物資流通からくる恩恵・運上金など租税収入含む)を手にするのです。

東肥前の覇権を巡り、少弐と龍造寺の最終決戦が始まろうとしている。
そして少弐滅亡への最大の障害が、山内豪族の頭領・神代勝利

若き龍造寺隆信が勝利の美酒を飲み干すためには、まず一回り年長の熟練戦巧者・神代勝利に勝たなければならない。

秋月滅亡を上手く利用した隆信が、一度は勝ったかのように見えた。
その情報をキャッチしたのであろう、筑前に亡命していた神代勝利が、正月早々からリベンジを開始するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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