『渋江家三氏、牛島・中村・中橋の事』前篇

今回は北肥戦誌からの抜粋ではなく、渋江を調べている内に芋づる式に出てきたデータです^^
脳内整理のためと備忘録?忘備録?どっちが正解なんだ~!!!(# ゚Д゚)・;'.
・・・コホン、とにかく記録として残すために記事にします^^

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さて前回の橘姓渋江氏には三氏の分家がありました。
要するに島津みたいに4兄弟だったわけです^^b

長男・渋江総領家
次男・牛島家
三男・中村家
四男・中橋家


ちなみに渋江家の諱に共通する字は「公」です^-^
渋江家では、勅使を迎える為の行事を嫡男のみに伝え、それをもって総領家の特権事項としたそうです。

ちなみのちなみに、牛島姓の由来は「橘姓渋江氏分家・牛島氏」からだと言われています^-^
全国だと自信ないけど、少なくとも肥前、肥後、筑後在住・牛島さんの御先祖は、橘姓渋江氏分家・牛島氏がルーツなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

細かくは調べてないんですが(知識不足で挫折)渋江氏と次男家・牛島氏は「骨肉の争い」があったとか。
色々揉めてる内に衰微するのは良くあるパターン。
没落した渋江氏の一部は、龍造寺剛忠(家兼)を頼って佐嘉郡与賀郷に亡命してました。

戦国最終的に渋江氏は独立した勢力として残れなかったんですが、
後藤家と縁戚関係だった事と後藤家の勢力拡大で渋江家が衰退した事などから、分家である牛島氏と中村氏が後藤家臣として吸収されたんです。

肥前で著名な後藤と言えば「武雄後藤」で、後の龍造寺四家「武雄龍造寺(鍋島)家」ですがな~
龍造寺隆信の三男・家信が武雄後藤へ養子として入りました。
その息子・後藤で龍造寺で鍋島の茂綱が、シオブロ書庫「江上・八院合戦」で登場し、鍋島軍第二陣大将(=^・ω・^=)v ブイ

【公方栗毛】江上表・八院合戦編5
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/5534368.html?type=folderlist
【リアルも】立花VS鍋島【応援】~江上・八院合戦編10
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/5761351.html
この戦いで活躍した「柳川七騎」メンバーの中に、茂綱家臣として牛島監物の名が上がってます^-^
が、こちらの牛嶋さんは、橘姓牛島氏とは別系統のようですヽ(。_゜)ノ アララ~

末っ子分家・中橋氏の記録はシオレベルでは辿れませんでした(_´Д`)アイーン

問題は|三男分家・中村氏|_ ̄)じぃー
この中村家・・・・どうも乱を呼びたがる家らしく、主家で宗家である渋江氏を凌ぐ勢力を保持してました。
中村の起こした波乱とは、巡り廻って「肥前の歴史」そのものに関わるほどの騒動だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

一話だと超長文になりそうなんで、そうそうに前後編で手を打ちました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
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◎『有馬家由来の事』

肥前国高来島志自岐原(今の原の城)城主・《有馬越前入道随意斎仙岩》というのは、大織冠鎌足公の苗裔・伊予権守純友の嫡流で、有馬肥前守貴純は孫子・左衛門尉尚鑑の子である。
童名は軍童丸、中頃修理大夫に任じ、公方義晴公の諱を賜り清純と号し、その後また義の一字を賜って越前守義貞と改めた。
この仙岩、当時その威、強勢の大将であり、先帝後奈良院のとき天文13年11月に京都へ吹挙し、勅使・日野中納言晴光卿を自らは領地に居ながらに申下し、自領の濱の松丘祇園社へ出迎えて宣命を拝し奉り修理大夫に任じられ、すぐさま勅使晴光卿を岩崎へ迎え請け、種々の饗応で持て成し、数えきれないほどの様々の引き出物を献じた。
昔のことは判らないが、近代に於いて田舎の武士が官途を得るときに、領地に居ながら勅使を申下し宣命を受けるなど稀代の珍事である。
この仙岩の曩祖・伊予権守藤原純友のことを伝え聞くに、昔、天慶の初めに武蔵権守平将門と心を合わせ世の乱れたとき、両人約したのは、此度、天下を奪い取って、将門は王孫であるから帝王となるべし。
純友は大織冠の末裔であるから関白になるべしと談じ、将門は関東に在って自らを平親王と称し、東百官と名付けて勝手に官職を立てて百官を召し使った。
そして下総国猿島郡石井郷に於いて旗を揚げ、純友は任国予州に下って共に逆意を企て天下を暗闇になさんとする。
しかし、将門は俵藤太秀郷のために承平2年2月13日に関東に於いて梟首され、純友は六孫王源経基・大納言好古・民部少輔藤原伊伝・大蔵朝臣春実・越智朝臣好方以下に攻められ、天慶4年5月3日に誅伐される。
然るに純友の子・遠江守直澄が予州より没落し、その子孫が肥前国高来島に漂着して、永く有馬に居住した。
斯かる朝敵の末裔であるから終に上洛なりがたく、年久しく辺境の奴子となり果てていたところに、いつしか有馬浦を知行してその在名を称して威を振るい、近年は高来・彼杵・杵島・藤津の四箇郡のうちを押領し、高来の原・日江・藤津の松丘・鷲巣これらの諸城を堅固に持ち、安富・安徳・島原・多比良・千々岩・神代・志自岐、そのほか多久・松浦・平井・馬渡・伊福・西郷・永田・宇礼志野・白石・上瀧原以下の城持ち共を属下にし、既に兵馬二万余騎の大名となった。
また往古・将門・純友と父子の契約をなして平氏を援けたゆえ、中頃の有馬家は平姓であった。
今の仙岩入道は純友28代の孫という。

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◎『渋江家由来の事』

この盬見城主渋江氏の祖先は何かと尋ねるに、人王31代敏達天皇の5代の孫・井手左大臣橘諸兄公の末葉である。
この諸兄、才知の誉れ世に高く、聖武天皇の頃には、既に政道の補佐をしていた。
その孫子・従四位下兵部大輔島田丸は尚も朝廷に仕えていた。
しかし神護慶雲の頃、春日の社を常陸国鹿島より今の三笠山に移らせたとき、島田丸は匠工の奉行を勤めたのであるが、内匠頭何某が99の人形を作り匠道の秘密を以て加持していた。
この人形に忽ち火が燃え移り風が舞って童の形に変化したのを、ある時は水底に入れ、ある時は山上に倒れて神力を発揮し、召しつかわれている間、思いの外に大功をなし早速に成就するに至った。
隔して御社造営が成就したあと、この人形を川中に全て捨てたのであるが、変わらず動き続け、人馬6頭を侵して甚だ世の禍となった。今の河童とはこれである。
このことを聞き及んだ称徳天皇は、そのときの奉行である島田丸に急ぎこの禍を鎮めるよう詔を下した。
島田丸がその勅命を奉じ、その赴きを川中水辺に説いて回れば以後は河童の禍はなくなった。
これよりこの河童を兵主部と名付ける。元より兵主部を橘氏の眷属とはいっていった。
島田丸六代の孫・大納言好古のときの天慶4年、朱雀院より征西将軍の勅号を賜り逆臣・藤原純友を討って伊予国を賜ったのであるが、子孫九代の間はこの国に住まわなかった。
その九代の嫡孫を橘次公葉といい、鎌倉頼経将軍の近習となって薩摩守を受領した者である。
この公葉のとき、先祖累代の領地・伊予国宇和郡を禁裏が常陸井関白へ下賜したのであるが、その替地として、公葉へは豊前国副田庄・肥後国久米郷・大隅国種子島・肥前国長島庄が与えられ、嘉禎3年はじめて伊予から肥前へ入り、長島庄に移って盬見山に城郭を構えて居住した。
公葉には6代の孫・橘薩摩弥次郎公継、その子・公経、同じく弥五郎以下、建武・暦応の合戦で将軍方に属して勲功を重ねて恩賞に預かった。今の豊後守公師は公葉から16代の後胤である。

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◎『黒木河崎星野由来(附)侍宵侍従の事』

筑後国の住人である黒木・河崎・星野というのは元来一姓で、世に稀な調姓である。

その由緒を尋ね聞くに、中頃、上妻郡河崎の庄は黒木山の城に、蔵人源助善という者があった。

その先祖は薩摩の根占に住んでいたため”根占の蔵人”ともいった。

歌読みであり笛の上手でもあった。

この蔵人、頃は人皇80代は高倉院の時代、嘉応年中に大番勤めのため上洛して内裏に仕えた。

そんなある日、管弦の遊座が催される際に俄かに笛の役が欠けたのであるが、そのときに徳大寺左大臣実定卿がこの助善の笛の器量を予てより聞き知っていて、そのように奏聞があったときに、ならば助善を殿上へ召すべしと勅定があって縁に参じて笛を吹くと、堂上の笛の音よりもなお澄みやかにその調べをたたえて御遊びは無事に終わった。

主上は甚だ感じ入って、助善に調子の「調」の字を姓に下賜し、更に従五位下に補任して蔵人大夫調助善と名乗らせた。蔵人のときの面目である。

この蔵人が在京の間は徳大寺殿から懇意にされ、雨の夜・宵(雪か?)の朝・月花の遊宴にも常に昵近された。

或る深夜のこと、徳大寺殿が助善を伴い、知り合いの女の元へ立ち入ろうとした際、女は待ちわびて
”待つ宵に 更け行く鐘の こえ聞けば あかぬ別れの 鳥はものかは”
と詠み、稀に逢う夜の恨み言も尽きなくて、その朝に実定が帰る際、あまりに別れが惜しまれて、助善を女の元へ返して尽きない名残を託したのであるが、助善は女に向かい一首の歌を詠んだ。

”物かはと 君がいいけむ 鳥の音の 今朝しも如何に 恋しかるらん”
これより助善は異名を”物かはの蔵人”と称され、女は”待宵の侍従”といわれた。

この女、元は阿波局という高倉院の官女であった。あるとき、悩みがあるときに歌を詠んで叡慮(天皇の御心)に叶い、供御を上ってその侍従とされた。

父は八幡の別当法印武内光晴、母は健春門院の小大進である。

隔して蔵人、大番を勤め終えて帰国する際に、徳大寺殿がこの年月のことを思い、この待宵の侍従を蔵人へ下された。

蔵人は身に余る面目と、この女を伴い帰国した。

しかし、黒木山にいた本妻がこれを聞き付け大いに腹を立て、
「その京上﨟め、何故にここに来るのか。片時も此処に置くなどできない」
と、下人共と語らい城の麓の大河を境として、これを入れないように防がせる。

しかし蔵人大夫はこれを打ち破って待宵と共に本城へ入った。

本妻は息巻いたが聞き入れられず、境の黒木川の深淵に身を投げて死んだ。

その骸の寄った所にこれを埋め祠を立てた。これを今の世まで築地御前という。

侍従はすぐさま懐妊し、程無く男子を生んだが、これは実定卿の子であるため「定」の字を実名に用いて《黒木四郎調定善》と号した。

この子孫は代々、黒木山猫尾城に居住した。

その後、侍従はまた男子を産んだ。

この蔵人の子の子孫は星野・河崎と号し、星野は生葉郡星野妙見城に代々居住し、河崎は上妻郡川崎伊駒野の城に居住した。

しかし、彼の築地御前が侍従腹の子孫に怨を遺して根をなす

これによって、黒木の子孫からその霊魂を祀るようになった。

その祭りには年に一度、彼の女の忌日に身を投げた淵に”粋(すい)”という器に化粧の道具を入れて水上より流すのであるが、その場所へ至ると忽ち沈んで見えなくなるという。黒木の子孫は今は築河にある。

また、待宵侍従が下向した際、所願あって高野山に一寺を建立し”講坊”と号した。これは調姓の菩提所である。

別説として、蔵人助善は元来高倉院北面の侍であり、六位を歴任した歌人で、異名として蔵人という(或は助能)。

この蔵人の子孫が今に徳大寺に仕えて苗字を”物加波(ものかは)”と号した。

黒木河内に於いて古人が語るには、黒木・河崎・星野の三人は腹違いで、黒木は待宵腹の高倉院の子で総領を継ぎ、後は本妻の子だという。

また、黒木の家は27代で、蔵人助善から兵庫助実久に至り、天正の末に大友家のために衰亡したという。

待宵侍従は後に帰京したのであるが、墓は八幡にある。

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◎『後藤家由来の事』

北肥戦誌より抜粋



後藤というのは元祖は如何なる者かと尋ね聞くに、大織冠の末裔・左近将監、兼武蔵守藤原利仁将軍の子孫である。

利仁6代の孫を後藤内則経という。

源頼信に仕えて、或る時は越前の盗賊を征伐し、或る時は市原野の猿童を誅す。

その子を後藤内章明と号す。北面にあって昇殿を免じられた故に雲上後藤内と称し、また河内国坂戸を知行したことにより坂戸判官ともいう。

これも源頼義朝臣に仕えて八幡殿の乳母子となる。

義家一年のとき、奥州の安部貞任を攻め、七箇年の在陣で大功を立て、義家朝臣が僅か七騎になったときも格別の軍労があった。それを七騎武者と称す。

その七騎とは、鎌倉権五郎景政・三浦平太郎為次・忍三郎季茂・加藤加賀介景通・首藤権守助通・後藤内章明に大将の義家を加えた七人である。

この章明の子である後藤太資茂も相次いで義家朝臣に仕えて、清原武衡追討のとき出羽国に於いて軍功があった。

その後、義家の子息・六条判官為義の天仁2年に伯父・義綱を江州甲賀に討ったときも相従った。

隔して、この資茂のとき初めて肥前国杵島郡塚崎庄の領地へ下向した。

それ以来、その子・後藤資明が塚崎の城に居住して、人皇76代近衛院のとき仁平年中に、八郎為朝が鎮西在国の中、黒髪山の大蛇を射たとき、専らその評定の人数であった。

この資明26代の孫を《後藤純明》と号した。

この純明には男子がなく、《大村純前》の次男・又八郎純を養い一人娘に娶せて、中頃は後藤左衛門尉と号し、後には伯耆守と改めた。今の貴明がこれである。

初めての室は早世したため、それ以後は伊佐早の伊福氏の女を迎えた。

この貴明、武勇あくまで優れ、近年は後藤領の他に他郡を多く切り取り、門前に馬を繋ぐ血判の侍は既に400余人という。

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◎『神崎櫛田宮の由来(附)執行本告の事』

北肥戦誌には、ときおり各家の由来が出てきます。

記述の順番としては、いろいろ前後しちゃうんですが、話の流れとは別の閑話休題的なものなので、由来は由来で別にUPします。

まぁ北肥戦誌外伝?的な?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!



《執行越前守伴朝臣種兼》の先祖は元来、下関の神崎櫛田宮の執行職である。

この櫛田というのは、忝くも聖王の勅願に異国の賊船退散のため、往古から三社の大明神を肥前国神崎郡に崇め奉る社で、所謂、櫛田・白角折・高志社とこれらは稲田姫を祀るところの九州最大の大社である。

その神領は、北は山内・藤原を限り、南は海際崎村まで、東は米田原、西は尾崎村まで分量数千町、これを名付けて神崎の御庄という。

年中の神事は。古は13度であったが、中頃になると鎮西は大いに乱れ、山賊・海賊が満ち満ちて、祭礼の勅使が下向することが叶い難かった。これにより略され年中3度とした。

さて今の執行種兼の先祖は、天忍日命の苗裔である伴國道12世の孫・伴兼資と号し、人皇84代順徳院の治世である健暦年中に当社の執行別当職に補せられ初めて下向し、健暦3年12月19日の午の刻、修造上棟のときにこの職を勤める。その子息・伴太郎兼篤朝臣は変わらず父の職を受けて、肥前に在国し当社の司職であった。

人皇90代後宇多院の治世である弘安の頃には、蒙古の数千艘が筑前国博多へ襲来し天下の騒ぎとなったため、公家・武家の執政により櫛田から東田手村に蒙古御祈祷所として七堂伽藍を建立した。また、東妙寺南西大寺の唯圓上人を以てこの寺に居住してより、東妙寺を櫛田宮の修理別当と定められる。

その後、東山殿義政将軍の康正3年7月29日の修造上棟のとき、《本告資景》を以て宮柱とした。

この御社、その後は公家・武家の崇敬も失われて神領も減少し、3度の神事すら絶えていった。

隔して、近代の執行は江上に招かれ竹原に在城し、本告は牟田に居城を取り構えた。

そして、今の越前守の祖父・兼貞のとき初めて苗字を称し執行と号す。

その子が執行直明、その子が越前守である。

(元々は元亀3年、執行が活躍し筑紫貞治が実は綾部の本城にいたとの記述の後に続いてました)

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日新公伊呂波歌

後に薩摩藩の郷中教育の元となりました^-^
初代藩主編のカテゴリに入れた事に他意はありません^-^ニコニコ




◎「い」:いにしへの 道を聞きても唱へても 我が行ひに せずばかひなし
(昔の偉い人の教えを幾ら聞いても口で唱えても、行動に起こさないと意味がない)

◎「ろ」:楼の上も はにふの小屋も住む人の 心にころは たかきいやしき
(立派な家に住んでいても、みすぼらしい家に住んでいても、人間の尊さや卑しさとは関係がない。
 心掛けが立派であればその人は尊敬されるのである)

◎「は」:はかなくも 明日の命を頼むかな 今日も今日もと 学びをばせで
(今日できることを明日に延ばし、更に後日に延ばし、明日を頼みとすると結局は何もできない。
 今日できることは今日すべきである)

◎「に」:似たるこそ 友としよけれ交わらば われにます人 おとなしき人
(自分と同程度の人と友達になろうとするものだが、なるべくなら自分より才能や学問に優れた徳の高い人を選んだ方がよい)

◎「ほ」:仏神 他にましまさず人よりも こころに恥ぢよ 天地よく知る
(人の心には神仏が住んでいるものであるから、良心に恥じ入ることなく正しい行いをしなさい。誰も見ていないようであるが、天地は必ず見ている)

◎「へ」:下手ぞとて 我とゆるすな稽古だに つもらばちりも 山とことの葉
(幾ら下手でも稽古を疎かにしてはいけない。毎日積み重ねれば必ず上達する)

◎「と」:科ありて 人を斬るとも軽くすな いかす刀も ただ一つなり
(罪人であっても軽々しく処罰してはいけない。
 殺すことも生かすことも君主の旨ひとつであれば、機微を洞察して臨機応変に処すべし)

◎「ち」:知恵能は 身につきぬれど荷にならず 人はおもんじ はづるものなり
(知恵や能力は幾ら身につけても決して邪魔にならない。
 人は沢山の能力を身に着けた人を尊び、自分の無知を恥じるものだから、たゆまず身につけなさい)

◎「り」:理も法も 立たぬ世ぞとてひきやすき こころの駒の 行くにまかすな
(乱れた世であっても身勝手な振る舞いに走ってはならない。
 世間がどうであれ、自分自身は正義人道に則り流されるべきではない)

◎「ぬ」:ぬす人は 余所より入ると思ふかや 耳目の門に 戸ざしよくせよ
(盗人は余所から侵入すると思いがちであるが、真の盗人は耳や目から入ってくる。
 心の戸締りをしっかりすることが肝要である)

◎「る」:流通すと 貴人や君が物語り はじめて聞ける 顔もちぞよき
(既に熟知していることでも、目上の人からの話は初めて聞くような振る舞いをした方がよい。
 知っているからと横着な態度を顔に表してはいけない)

◎「を」小車の わが悪業にひかれてや つとむる道を うしと見るらん
(人は欲望に引かれてしまうものである。
 そして何ともなかった筈の仕事すら辛く感じ、遂には悪行に走ってしまう。
 自分の成すべきを聢と成すべきである)

◎「わ」:私を捨てて 君にしむかはねば うらみも起り 述懐もあり
(君主に仕えるには私心を捨てるべきである。私心があるからこそ恨みや不平不満が生じるのである)

◎「か」:学問は あしたの潮のひるまにも なみのよるこそ なほ静かなれ
(学問をする上で時を選ぶ必要はないが、できるなら夜の方が静かなので適している)

◎「よ」:善きあしき 人の上にて身を磨け 友はかがみと なるものぞがし
(人様の善いことは見習い、悪しきことは自分はやるまいと諌め、自分自身を磨きなさい。
 友達の行いは反面教師となるので、自らの手本としなさい)

◎「た」:種子となる 心の水にまかせずば 道より外に 名も流れまじ
(煩悩の種に支配されずに行いをすれば、道に外れることもなく名聞も道より流れ出はしないだろう)

◎「れ」:礼するは 人にするかは人をまた さぐるは人を 下ぐるものかな
(人に礼を尽くすことは己に礼を尽くすに等しい。
 また、人を卑下することは己を卑下することに異ならない)

◎「そ」:そしるにも 二つあるべし大方は 主人のために なるものと知れ
(臣が主人を謗るのには二通りある。
 大概は主人の為になるものと、主人は心得るべきである)

◎「つ」:つらしとて 恨みかへすな我れ人に 報ひ報ひて はてしなき世ぞ
(人から辛い目にあわされても、恨みを返してはいけない。
 仕返しをなせば報いに報いを重ねる果てしない世となる)

◎「ね」:ねがはずば 隔てもあらじいつはりの 世にまことある 伊勢の神垣
(伊勢の神様は、此方が無謀な望みを起こさなければお守り下さる。
 非望を起こすから隔ても生じるのである)

◎「な」:名を今に 残しおきける人も人 こころもこころ 何かおとらん
(後世に名を遺した人も、人であることに変わりなく、心とて心であることに違いはない。
 同様の心を以てすればその地位に至ることも可能であり、決して劣るものではない)

◎「ら」:楽も苦も 時過ぎぬれば跡もなし 世に残る名を ただ思ふべし
(苦楽はそのとき限りのもので、時が過ぎれば跡形もなくなる。
 だが名前は、身を粉にして世に尽くせば残る。それを心掛けるべし)

◎「む」:昔より 道ならずして驕る身の 天のせめにし あはざるはなし
(古来より、無道をした者が天の責めに遭わぬということはないと知るべし)

◎「う」:憂かりける 今の世こそは先の世と おもへばいまぞ 後の世ならん
(現世の辛いことは前世の因果の為であると思えば、今の世を正しく生きれば来世は良い人生となるだろう)

◎「ゐ」:亥に臥して 寅には起くと夕露の 身を徒に あらせじがため
(夜は十時に寝て、四時に起きなさい。露のように儚い人生を無駄としないために)

◎「の」:遁るまじ 所をかねて思ひきれ 時に至りて 涼しかるべし
(逃れ難いときには、命を捨てる覚悟で思い切って決断すべきである。
 その覚悟があれば、まさかの時に至って涼やかでいられるものである)

◎「お」:思ほへず 違ふものなり身の上の 欲をはなれて 義をまもれひと
(正義の人であっても、ひとたび私欲の念が生じれば知らず道を外れてしまうものである。
 欲を捨てて正義を守るのが肝要である)

◎「く」:苦しくと すぐ道を行け九曲折の 末は鞍馬の さかさまの世ぞ
(どんなに苦しくとも、まっすぐ道を進みなさい。
 九十九折の様に曲がった道を行けば、末は真っ暗闇で逆さまに引っくり返ってしまうぞ)

◎「や」:やはらぐと 怒るをいはば弓と筆 鳥に二つの つばさとを知れ
(寛大に過ぎれば侮られ、厳格に過ぎれば陰口を叩かれる。
 寛大と厳格、この二つを例えるならば文と武である。鳥に翼が二つ必要なように、一方だけでは用をなさ ないと知りなさい)

◎「ま」:萬能も 一心とあり事ふる(つかうる)に 身ばし頼むな 思案堪忍
(いかに万能であっても、心が邪であれば取るに足らないものである。
 才能を頼みと要らぬ自慢などせず、よく思案し慎重に仕えたほうがよい)

◎「け」:賢不肖 用い捨つるといふ人も 必ずならば 殊勝なるべし
(賢者を用いて、そうでない人を用いないと言ったとしても、その通りにできるならば本当に感心である。 部下が真に優れているか否か、見極めるなどは難しいものである)

◎「ふ」:不勢とて 敵を侮ることなかれ 多勢を見ても 恐るべからず
(小勢だからといって敵を侮ってはいけない。
 また、敵が多勢だからといって恐れる必要はない)

◎「こ」:心こそ 軍さ(いくさ)する身の命なれ そろゆれば生き 揃はねば死す
(皆の心が一致団結すれば軍勢は勝利する。
 しなければ敗北する。)

◎「え」:回向(えこう)には 我と人とを隔つなよ 看経(かんきん)はよし してもせずとも
(供養する際は、敵味方を区別せず冥福を祈りなさい。
 但し、読経はしてもしなくてもよい)

◎「て」:敵となる 人こそはわが師匠ぞと 思ひかへして 身をも嗜め
(敵とは忌むべき存在のようだが、考えようによっては自分を嗜める師匠のようなものと思い返して、敵に 対しても苛酷残忍の取り扱いをしてはならない)

◎「あ」:あきらけき 目も呉竹の此世より 迷はばいかに 後のやみぢは
(目にも明らかな現世で迷えば、暗がりの死後の世界は一層迷うことだろう。
 目先のことに捕らわれず邁進すべきである)

◎「さ」:酒も水 ながれも酒となるぞかし ただ情けあれ 君が言の葉
(酒も水のように思い、また河の流れも酒のように有難く受けるものである。
 そのように情け深くあれば、厳しい言葉でも部下の心には沁みるものである)

◎「き」:聞くことも 又見ることも心がら みな迷ひなり みなさとりなり
(聞くことも見ることも、受け手の心掛け一つで迷いとも悟りともなる。
 何事も謙虚に受け止めるべきである)

◎「ゆ」:弓を得て 失ふことも大将の こころ一つの 手をば離れず
(大将の心一つで、士気を上げることも衰えさせることもある。
 よく心を配るべきである)

◎「め」:めぐりては 我身にこそは事へ(つかえ)けれ 先祖のまつり 忠孝の道
(先祖をよく供養すれば、自分も子孫より供養されるものである。
 主君に忠をなせば臣下が忠をなし、父母に考をなせば我が子に考を尽くされるものである)

◎「み」:道にただ 身をば捨てんと思ひとれ かならず天の たすけあるべし
(道義を前に身を捨ててかかれば、必ずや天からの助けがある)

◎「し」:舌だにも 歯のこはきをば知るものを 人は心の なからましやは
(舌でさえ歯が固いのを知っている。況して人には心がある。
 人様には虚飾を排して接し、また他人の正邪を察して、互いに害さぬよう心掛けるべきである)

◎「ゑ」:酔へる世を さましもやらで盃に 無明の酒を かさぬるはうし
(辛い世の中だからと、酒浸りになっても虚しいだけである。
 このようなときこそ、己を見つめ返すときである)

◎「ひ」:ひとり身を あはれと思へ物毎に 民にはゆるす 心あるべし
(頼る者のない身は寂しいものである。だから民には仁徳を以て寛大であるべし。)

◎「も」:もろもろの 国や所の政道は 人にまづよく 教へならはせ
(色々な国や所の法令は、民によく教えておかなければならない。
 それを知らない民を、これが国法であるからと刑罰に処するのは仁徳に欠く行為である)

◎「せ」:善に移り あやまれるをば改めよ 義不義は生れ つかぬものなり
(義も不義も天性のものではない。教え諭せば善人になりうるものである)

◎「す」:少しきを 足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなく 十六夜のそら
(欲をかかず、分を弁え程々にせよ。
 月も十五夜のように満ちてしまえば、翌日には十六夜となり欠け始めるではないか)

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北肥戦誌~少弐アレコレ

永禄四年の頃、前太宰少弐冬尚の舎弟に御曹司元盛という人があった。
父の資元が天文の初めに多久にて生害されたときは未だ幼く、妹君と共に少弐の旧領・佐賀郡川副の江上村福満寺に些か所縁があって忍び居たのであるが、譜代の家臣≪今泉朝覚≫が資元の遺言により撫育し、永禄四年に元盛は既に27歳になったと聞こえた。

この朝覚、まだ若かりし頃に少弐衰亡を嘆き、如何にしても朝廷に会って当家を再興すべしと思い立ち、出家に姿を変え播磨坊朝覚と名をやつすと、まず六十六箇国を廻って諸家へも心を合わた上で上洛を遂げ、竹苑柳房を初め公家方に縁を求めた。中でも柳原大納言資定卿の元へ常に近づき奉った。

然るに朝覚在京のとき、頃は大永元年に東山祇園社に参詣し、
「南無帰名頂礼牛頭天王、願わくば和光の憐を垂れ、朝覚が心中の願いを成就なさしめたまえ」
と臥して頼み、新たに宮殿を修造し、その社の辺りに杉と松とを多く植え置いた。

だが神官らは、朝覚の礼を訝しく思いこれを逐一報告していた。
奈良院は朝覚を法橋上人に補任の上で、
「上人、辺鄙の身として在京し祇園造営したこと、どのような仔細あってのものか」と問うた。

朝覚が申すには
「愚僧は元来、太宰少弐譜代の家人・今泉朝覚と申す者です。私自身のことには何ら願いは御座いません。しかしながら主の少弐は、九代を貫いた主なれども、近年鎮西の輩に威を奪われ、政資父子兄弟は明応年中に所々にて討たれ、その後に家は衰微して政資の末子資元一人のみ残ったものの、当時は浪々の身にて肥前国藤津という田舎の山中に罷り在りました。名家の民間に下がりしこと、その家人として某はこれを憂い、此度の上洛のついでに牛頭天王の擁護を頼み申した。願わくば聞き届けられ、廃れたる少弐家を御立て給わりたい」
と泣く泣く答えた。

その旨は悉く奏聞され、公卿は詮議の上で追って綸言すると下されたが、朝覚は力及ばずそのときはとりあえず帰って行った。

しかし、天文七年に上洛したときに再びこれを訴えると、少弐再興の事を鎮西の武士どもへ綸旨下されるべしと伝奏の者から朝覚へ言い渡される。
朝覚は大いに喜び、この勅書を帯びて天文九年に筑紫へ下向、大内義隆・渋川尹繁を初め鎮西の諸将へこれを披露したが、皆勅命に従わなかった。
朝覚は力及ばずして年月を送っていたが、この永禄四年に上洛し少弐再興を以前の様に訴え出た。

このとき下された綸言は、
「朝覚上人が度々訴え出たため少弐再興を九州の武家へ勅定したが、彼の少弐という者は将軍家に対し度々弓を引き世を乱した者であるから皆が勅命に従わないのである。強いてまたこれを立てんとすれば、勅裁を恨む者が現れ国家の乱れとなる。故に天意が及ばないのである。。この上はせめて少弐の末葉そのまま安穏に差し置くようにと、肥前の龍造寺に綸言を下される」
と伝奏の者から伝えられた。

朝覚は元盛の居る肥前川副庄へ下向した。
隔して龍造寺へも右の勅命が下れば隆信はこれを了承し、自ら川副の福満寺へ赴き元盛と対面、懇ろに言葉を添えそのまま元盛をこの寺へ差し置くとした。

朝覚はその後、元盛へ言うのは
「多年心を砕き、公を世に立てんと思い京よ田舎よと奔走いたしけれども、時至らざれば力なし。所詮、今の様に有るか否かの有様です。賎家の塵に穢れられるよりは、今は仏門に入られ、無上菩提を求められませ」
と涙ながらに述べれば、元盛も袂を濡らし、兎も角もよきに計らうべしと主従連れだって高野山に登り、元盛は真福院にて髪を剃り、明くる永禄五年に密乗の法水を請けて灌頂職位を得て大納言式部卿法印に任じ、下国してのち朝誉と名を改めて福満寺に住んだ。

然るに朝誉法印に幼少より付き従う家人三人があった。
その中の一人は今泉朝覚、ならびに窪・平原である。

法印はこの三人の従者を召して申すのは、
「我は往日は一度少弐の名跡を継ぎ、汝らを股肱として生前の恩を報じようと思ったが、ついに本懐を遂げず仏門へと入り忍従の法衣を纏った。誠に前業の感ずるところ悔いるべきにあらず。君臣、三世の宿縁あって主従の契りを結ぶと聞く。然るに汝ら、今まで我に付き従い撫育せい忠心の程、思えば海よりも深く山よりも高い。だが今となっては付き添っても詮無きことである。三人共に急ぎ禄を求め、どこぞの主にでも仕えよ」と述べた。

そして、名残も今は是までと、家に伝わる懐刀と名筆の八代集を今泉に与え、また少弐の文書と錦の旗一流・太刀一振とを窪と平原に下賜した。三人とも言葉もなく、むせび泣きながら退出した。

隔して今泉朝覚は天正八年正月二十日、齢八十にして大往生を遂げ、元盛法印は同十四年四月二十四日、齢五十二にて福満寺にて遷化した。

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【ふぉ~えばぁ~少弐・後編】龍造寺隆信「覇」の巻29

油断していた(勢福寺)城兵は取り乱し、江上武種は降伏し、城を出て筑後へ逃れた。
残された冬尚は成す術無く、同月11日に自害した。享年33。

少弐冬尚の年齢には異説があって、自分も異説支持なんですが、とりあえず北肥戦誌の記述通りで。
この時、江上武種は龍造寺隆信に内通してたとも言われますが、真相不明です。

また、冬尚も江上と共に城を忍び出て、有馬仙岩父子を頼み藤津へ逃れ、七浦にて病死したとも言われている。
少弐冬尚のじぶとさを考えると、こっちも有りな気がする^^;

家紋・少弐

とにかく少弐氏は、今度こそ、やっと、遂に、滅亡しました。
いや~長っかったっす・・・il||li _| ̄|○ il||l
まさか、ここまで少弐が肥前戦国史に絡むとは、リサーチ前は甘く見てました^^;
実は少弐冬尚には弟がいまして、その弟を擁しての御家再興運動があるんです。
が、龍造寺隆信という英雄が肥前に台頭した以上、少弐の御家再興は二度とありませんでした。

さて、冬尚落居を知り千葉胤連(西千葉)は、不仲である冬尚の実弟・千葉胤頼(東千葉)の晴気城を攻めるべく龍造寺家に助勢を頼み、差し向けられた1,500と共に牛尾城を出陣する。
これに胤頼は、城を出て東の山路で戦うも、家人12人、又者(陪臣)4人と共に討ち取られた。享年28。


肥前千葉の西と東の経緯は、複雑なんで書ききれません^^過去記事にアップ済~
とにかく100年ほど端折ると、東千葉の家督は少弐冬尚によって乗っ取られてました。
冬尚実弟の千葉胤頼は、当時10代前半の少年だったので、冬尚の思い通りに出来たでしょう。

この実弟は、兄である少弐冬尚を良く支えてました。
牛尾城だって、元々は東の千葉胤頼が、兄が晴気城に入った場合に備えとして築城した城だったんです。
ですが、この頃には牛尾城も西千葉に落とされ、晴気城だけが孤立している状態だったみたいです。

兄・少弐冬尚の為に生きてきた弟・千葉胤頼は、降伏することなく戦場で散りました・・・ショボーン..._φ(・ω・` )
兄の冬尚ですが、この時に晴気城にいて、晴気城から勢福寺城に逃げて江上に自害を勧められ、激昂した少弐冬尚は割腹し己の臓物を江上に投げつけ「七代祟りをなすべし」と呪詛したともあります。
江上氏の終わりを考えると、呪詛通りのような、そうでないような~微妙。

尚、胤頼には男子が一人あり、胤頼討ち死にの後に、上佐嘉川窪へ赴き神代家を頼った。
後に千葉(屋形)胤誠と名乗る。

保護された時に胤誠は、千葉氏重代の家宝を神代勝利に託したそうです。
千葉氏系図と刀などです。
胤誠には娘しかいなかった為、東千葉氏の系図は神代家が引き継ぎます。

佐賀藩士として残った神代家の本姓は、引き継いだので千葉と同じ平氏。
家紋は千葉氏の月星紋で通字も千葉氏で用いていた「常」を使ってます。
東千葉家最後の姫君は、神代家当主に「姉君」と呼ばれ大切に保護され、東千葉旧臣も神代家に仕えたそうです。

家紋・肥前千葉

(肥前千葉正統嫡家当主⇒)千葉胤連は以後、龍造寺に属し小城一郡を領した。
この時を持って、戦国大名・龍造寺氏の誕生です。

肥前・・特に東肥前の国人たちには、かつて主君が二人いました。
一人が太宰少弐・往時は肥前守護だった少弐氏。
いま一人が往時は肥前国主と尊崇された鎌倉以来の東国御家人系領主・肥前千葉氏。


この「二つの主家」が肥前戦国史を複雑怪奇にしてた最大の要因です。
国人たちの多くは、元々は肥前千葉氏配下で、肥前千葉が衰退(少弐に吸収)すると少弐配下へと流れていました。

従って東肥前を制覇する者には、少弐氏と千葉氏の両方を屈服させる必要が生じます。
どちらかが超然と残れば、かつての「御屋形様」として担ぎ出される可能性が無いとは言えない。
新たな東肥前の覇者の正当性が、脅かされるんです。

幾度となく御家再興を成功させてきたアンテッド少弐は、少弐冬尚の自害により永久の眠りにつきました。
かつての肥前国主・御屋形様千葉氏は、小城郡高田を本拠として龍造寺幕下に入りました。
二つの主家を下克上するという難題を、龍造寺氏は一族滅亡のピンチを乗り越え、見事クリアしたのです。

国人領主から戦国大名へ、蛹が蝶になるように成長した龍造寺氏。
勢力拡大を続ける龍造寺氏の前に立ちはだかるのは、全盛期を迎えんとするキングオブ九州・大友義鎮(宗麟)なのだが、それは・またの話 by^-^sio

「覇」の巻、これにて完結~またリサーチのため間空きます^^/

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【ふぉ~えばぁ~少弐・中篇】龍造寺隆信「覇」の巻28

明けて1559年(永禄2年)
1月上旬、隆信は再び勢福寺城を取り囲む。
昨年の和議は偽りであった。
(緑文字「北肥戦誌」より抜粋)

某氏とは~肥前の熊さんで~す。^^/ みんな正解したかな?
東肥前は敵も味方も2年連続で正月返上ですな ( ゚Д゚)y─┛~~

龍造寺と少弐の確執に詳しい方は、ここ「川上社」へ起請文を納めた事に、( ゚д゚)ンマッ!!と感じたでしょうか?
かつてあった、少弐冬尚と亡き熱血暴走家臣・馬場頼周による龍造寺(主に剛忠(家兼)係累)抹殺の陰謀。
その陰謀により龍造寺隆信の祖父・家純と祖父弟・家門更に叔父・純家が、ここ川上社で殺されているんです。

陰謀により龍造寺一族は、バラバラの方角に別れ、個々に討たれてしまいました。
で、川上社で夜営した祖父と叔父一行30余名が、馬場頼周嫡男と神代勝利勢の夜襲を受けました。

えっと神域で夜営していいのか?って疑問は、とりあえず保留で^^;
肥前国一の宮・川上社は、当然のことながら軍事介入不可で、ましてや神域で殺生・傷害など言語道断!
保護していた肥前千葉氏(川上社は大宮司)が衰退した為、川上社は往年の威光を失い「馬場+神代勢」を追い払うだけの力は無かったのでしょう。
社人もいたはずですが、実相院の方に避難してたかもです( ̄ω ̄A;アセアセ

襲う方だって神域を穢す事に内心では躊躇う者もいたはずです。
神代の山内勢は、こういうの嫌がりそうなイメージだなぁ~
でも「少弐氏御家再興」が全てにおける価値観の源泉である馬場頼周ならば、神域だろうが寺領だろうが殺る男です。

人物・馬場頼周 馬場暗黒面イメージ画像

多勢に無勢に取り囲まれて、家純と家門と隆信祖父兄弟は戦死し、従者たちも殆ど討たれた。
叔父・純家は川上社の拝殿に駆け入ると己の指を切り、その血で社殿の扉に書きつけた。

山遠雲埋行客跡(山は遠くして雲は行客の跡を埋め)
松寒風破旅人夢(松は寒くして風は旅人の夢を破る)

叔父さまは詩心と教養があったみたいです。その後、純家は敵中に斬り込んで戦死。
龍造寺勢の遺体撤収と社殿・境内の血は、少弐家の方で処理したそうですが、龍造寺勢が少数ながら激しく抵抗した為に社殿が破壊?破損しちゃったそうです( ̄ω ̄A;アセアセ

実の所、一門個々の死にざまというか死に場所?には諸説あるらしいんです。
ですが、その殺害現場の一つが、この川上社だったのは本当だったみたい。

思うに、龍造寺隆信は一門が謀殺された場所だからこそ、和睦の舞台に選んだんじゃないでしょうか?
当然ながら後日、反故o( ̄Д ̄θ★ケリッ!にするつもりで、川上社を選んだ。

ドライな部分と迷信が混在している時代、「起請文を反故にする事」に対し、内心ではビビる者っているんです。
でも初めに禁忌を侵したのが少弐の方なのだから、その報復は正義のはずです。
と、言う感じで気持ちを持って行くことで、ビビる者たちも割り切れます。

隆信:やられたらやり返す。10倍返し上等!(`・ω・´)キリッ
ちなみに元天台宗僧侶だった隆信が個人的に帰依してたのは、曹洞宗。
和睦仲介した蓮乗院住持・増純は真言宗(ちなみに実相院も真言宗)で、宗旨的にトラブル心配無し。

人物・龍造寺隆信 隆信イメージ画像

起請文を反故って、龍造寺隆信が元僧侶だから出来たのかな~とも感じます。

僧侶という特殊な閉鎖社会で宗教界の裏も表も見てきた隆信は、宗教というものを政治的に利用するノウハウが肌身に沁みついているんじゃないでしょうか。
個人的な宗教心と武家一門総領として統治の為に利用する宗教・宗派というものを、スイッチのON・OFFのように使い分け出来る・・・ある意味で怖い危険なタイプ。
宗教にのめり込む大友宗麟とは対照的。
そういう点で、織田信長と龍造寺隆信は共通する感じがします。

陰謀を仕掛けた者と仕掛けられた者、殺害教唆犯と実行犯と被害者遺族。
殺害現場の大宮司家と、それらに所縁を持つ仲介した僧。

ドロドロの因縁・宿縁を持つ者同士が、血塗られ穢された神域で和睦する・・・
この恐ろしくも因縁めいた川上社に起請文が納められた事で、逆に少弐冬尚は完全に油断してしまったんです。

和睦仲介の僧・増純・・・己が政治的に利用された事を、彼が最初から知っていたかは不明です。
当時は気づかなくとも、自分が必至で再興造営運動してる川上社に納めた起請文が、アッサリ反故&蔑ろにされた瞬間に、頓悟したに違いありません。

良くも悪しくも「為政者とは、宗教を利用する立場」にある者なのだ。
江戸期に隆盛した実相院・・・・その再建に尽力した増純は、この時の苦い思いを糧にしたのではないでしょうか。
川上社は一の宮として大事にしつつ、元々座主を兼務していた実相院の方に主眼を置いたのは、このあたりにあるような気がします。

城を龍造寺勢に取り囲まれた少弐冬尚・・・それは・またの話 by^-^sio

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【ふぉ~えばぁ~少弐・前篇】龍造寺隆信「覇」の巻27

さて、龍造寺勢は勢福寺城を囲み続け12月1日に至ったが、
同月3日、河上実相院の座主・増純法印の仲介により、千葉・少弐・龍造寺・江上・神代による和議が調い、
起請文には「龍造寺山城守藤原隆信」・「神代大和守武辺勝利」・「江上左馬大輔大蔵武種」と3人の名を記し神名に誓うと、隆信は佐嘉の城へ帰還した。
(緑太文字~北肥戦誌より抜粋)

えっと、まず河上実相院の座主・増純法印という人物から説明したいと思います。

以前に佐賀のブログ友と遣り取りしてた時の事
シオ「川上社が肥前一の宮の割にパッとしないのは、神代勝利押しだったのが尾を引いたのかな~」
ブロ友「いや~実相院の方が力あったからじゃないですか~川上は川上で大事にはしてたようだし」
てな感じの遣り取りがあり、実相院の事は何となくシオの脳内に宿題として残ってました。

で、ブロ友様ビンゴ正解です。
この河上実相院の座主・増純法印が、江戸期の実相院隆盛の土台を作った、武家風に言う所の「中興の祖」です。
さらに増純は神代家の縁戚であり、かつ肥前千葉氏所縁の人物でして、まさに此度の仲介の労を取るに打って付けの人物でした。

ちなみに江戸期に成立した北肥戦誌ですと河上実相院の座主ってなってるんですが、1558年当時は未だ座主じゃないです。
それだけ増純が河上実相院に貢献し、河上実相院の座主としてのイメージが強かったんだと思います。

この和睦時は蓮乗(れんじょう)院(嘉瀬町)の住持でした。
嘉瀬町には徳善院と蓮乗院の二つがあり、二つの寺院の住持は増純一族が務めてたようです。
で、増純の長兄にあたる人物が鹿江兼明の娘と結婚してます。

鹿江兼明は龍造寺剛忠(家兼)恩顧の人物ながら、何か不満があったらしく神代サイドになった人物です。
で娘があり、一人が神代勝利嫡男・長良に嫁ぎ、一人が増純の長兄に嫁いだという訳です。
神代家は後に東千葉氏の家督を継承するので、増純は千葉氏とも所縁を持つことになります。

で、増純の上の兄が円城寺氏へ養子(円城寺伊予守)に入っています。
円城寺氏というと一般の戦国オタなら「龍造寺四天王」としての方が、未だ知名度あるかな?
円城寺氏は肥前千葉氏が下総から下向した時に随行したという譜代で、更に家老も務める家柄でした。



1558年という、この年は川上社の荒廃を嘆いた増純が復興しよ~と決意した年です。
ちなみに神社としての川上社の大宮司は小城の千葉氏なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

増純は川上社・復興造営の為、米断ち&塩断ちをし、即身仏一歩手前で一心不乱の祈願した17日夜に天啓を受けたと言われています。
この和睦時では天啓を受けた増純の造営運動が始まってたと思われるので、「有徳の僧」として増純の名は広まってた事でしょう。

話飛んで6~7年後~増純の尽力により、川上社は荘厳・壮麗に復興を遂げたんです。
が・・・1570年、大友家の焼き討ちに合い、あえなく全焼 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
で、その時に実相院も戦火に合い、あえなくアボン  ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

焼野原の実相院(と川上社)を再々建したのが、1572年に35代目座主(川上社座主兼務)となった増純法印でした。
前回、川上社を復興させたときのスペックと、増純個人の人脈をフル活用したに違いありません。
以前はもっと川上社に近い位置にあったらしい実相院を、現在の位置に移転したのも、おそらく増純でしょう。

僧侶としての見識もさることながら、復興の資金(寄付・献金)集めとか、かなりの政治力の持ち主だったと思われます。
そんな増純が若き日に関わったのが、上記にある和睦仲介でした。
たぶん、政治の裏舞台を知るのは、後年に役だったんじゃないでしょうか。

というのも増純が仲介した和睦は、某氏により反故にされたからです。
起請文に記名したのは冒頭にある「龍造寺・江上・神代」の三名。
千葉・少弐・龍造寺・江上・神代も、それぞれに起請文を交わし、川上社に納めていました。

これにスッカリ安心・油断していた少弐冬尚。
さて、神様へ出した起請文を反故にしたのは、誰でしょう~それは・またの話 by^-^sio

実相院はサイト「さがの歴史・文化お宝帳」を参照
増純の出自は「肥前千葉氏のHP」を参照しました。

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【讒言の報酬・後編】龍造寺隆信「覇」の巻26

言い方を変えますね。
降伏した元敵将を先陣に使うのは、戦国時代では一般的に行われていたことです。
新参者である元敵将は、先陣というハイリスクな持ち場を請け負う事で、新たな主君への忠誠の証とするんです。

その普通の事を龍造寺隆信が行うと、何故か「昔の事を根に持って報復した」とか「神代たちと噛みあわせて互いの勢力減退の為に潰しあいさせた」などと悪い方に解釈されます( ̄ω ̄A;アセアセ
龍造寺隆信の残忍・残酷という刷り込まれたイメージが余りにも先行しています。

今回の場合、重大な失態を犯したのは小田政光の方なんです。
元敵将で新参の身でありながら「援軍を求める」とは、一体全体どういうつもりなんでしょうか。
同じ元少弐サイドの武将で先陣として従軍してた者の中で、ピンチでも援軍を~だなんて泣きつく武将は一人もいませんでしたよ。
小田の援軍要請は、配下としてヤル気を疑われるか、寝返りを疑われるレベルの大失態です。

ベテランだった小田は戦況を判断した上での援軍要請だったのかもしれません。
でも、それには余程の信頼関係がなければ受け入れてはもらえないです。
逆切れした小田が討死しましたが、援軍要請だなんて失態してなければ、他の武将のように普通に撤退出来たんです^^;
結果として捨て殺しになっちゃいましたが、その場にいた龍造寺勢は「タイミングの悪い奴や・・・」とか「空気嫁よ(´・д・`)」って感じで「仕方なかった」と感じたはずですよ。

東肥前ぬくもり戦国地図

先陣が敗れたのを知った隆信は改めて大軍を率い、太鼓を早めながら城へと押し寄せた。
これには敵うまじと、江上は田手の日吉城へ引き籠り、神代は横大路を西へ、川窪へ廻って山内に帰還した。
(緑太文字は北肥戦誌より引用)

両者とも素晴らしい逃げっぷりですな ( ゚Д゚)y─┛~~

江上がヒッキーした田手の日吉城というのが判りませんでした。
田手川自体は筑後川からの支流で地図には書いてないけど、神埼市内を流れてます。
(地図を作画した時は、田手がチョイチョイ出ると思ってなかった^^;)
田手川流域、現在は吉野ケ里遺跡~弥生人村の方が有名ですね^-^
神代の山内へ帰還した時に廻ったという川窪は、大和町川久保の事だと思います。神埼市の近所ですから。

隆信勢は勢福寺城を取り囲むが、残る城兵らの防戦により、数日城を囲み続けた。
北肥戦誌に記述はないんですが、どうも、この時、少弐冬尚は勢福寺城内に在城してたみたいなんです。

隆信は城を囲みつつ軍勢を分けて、15日に蓮池城を攻めさせた。
冒頭にあげたように、小田政光自身の失態が招いた事とはいえ、結果としては「捨て殺し」になってしまったので、小田氏では絶対に逆恨みするだろ~という見方が働いたからです。

不意を突かれた城兵は取り乱すが、政光家臣・深町入道理忠が防戦に努め、その間に政光の子小田鎮光・小田朝光・小田増光、その他の者達は城を脱出し筑後国は三瀦郡へ逃れる。


人物・龍造寺隆信
(肥前の熊 イメージ画像)

蓮池城に残り防戦した深町理忠は、奮戦の末に討ち死にしました。
深町は、かつて隆信が当主の座を追われ筑後に亡命する羽目になった折、「自分の命と引き換えに・・」と隆信の身柄の安全を保証してくれた信義と忠義に篤い恩人でした。
深町の死を惜しんだ隆信は、深町の遺児に100町を与え「深町理」と名乗らせ取り立ててます。

小田政光の父・覚泒(資光)は蓮池城とは別の場所に居り、軍勢が去った後に政光父子の顛末を聞き、大いに憤激・悔恨したが、主従二人となり力及ばず、城の西にある蔵屋敷にて自害した。
一人従った従者は遺体を隠すと、その屋敷に火を掛けてから自害した。


主従二人となり・・・文学的表現ではなく、リアル実数で二人ボッチになったようです( ̄ω ̄A;アセアセ
戦に負けるって、現実はシュールです・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

逃げた政光の子等ですが、後に許され隆信に仕えています。
残酷だ~とか、残忍だ~とか、いっつも言われる肥前の熊さんですが、むやみやたらに攻め滅ぼしてる訳じゃないんです。
そこんとこ認めてあげたって(´・д・`)

しかし、この小田氏とは様々な因縁が重なったために、どうしてもギクシャクしたままだったようです。
小田氏の方では「かつて少弐家臣時代は同格の間柄だった」という意識が抜けなかったんじゃないでしょうか。
また、小田氏自身が「少弐に讒言した過去を龍造寺が根に持ってるはず」という被害者意識があったかも。

小田を見てると国人領主が家臣化する事の難しさを感じます。
同じ国人でも石井氏や鍋島氏のように、龍造寺草創期に配下になったものは家臣化へのスライドが自然の成り行きで出来てます。

タイミングとボタンの掛け違いが、そのまま尾を引いた後味の悪さ・・・
なまじ一定の勢力を持っていたために肥前小田氏は、龍造寺氏の家臣には成りきれなかったのでしょう。
小田氏は嫡流は絶えますが、後に佐賀藩士として傍系が家名を残すのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【讒言の報酬・中篇】龍造寺隆信「覇」の巻25

>じゅうぶん援軍が間に合う位置にいながら、隆信は動きませんでした。

この行動について、後世では「残虐な龍造寺隆信が報復の為に小田を見殺しにした」と言われて来ました。
報復というのは、かつて小田氏が少弐冬尚に対して剛忠(家兼)を讒言してたからです。
それは熱血暴走家臣・馬場頼周が龍造寺潰しを画策するより前の事です。

少弐氏はピンチになると親子別々に逃げるという、滅亡回避スペックが高い家でした。
で、家督を継ぐ前の少弐冬尚の逃亡先が小田氏の蓮池城。
武力では龍造寺の力が必要だった少弐冬尚ですが、個人的に親しみを感じてたのは心細い時に支えてくれた小田氏だったでしょう。

土着ではなく、室町期に肥前に来て在地領主となった肥前小田氏にとっても、少弐のブッチギリ名門オーラが必要だったんです。
その小田氏にとって、次第に龍造寺が目障りになって来ました。
というのも龍造寺が川副や与賀といった河川流域に勢力を広げはじめたからです。

東肥前ぬくもり戦国地図
あ!よく見たら小田の蓮池が蒲池になってる ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

ゲホゴホ・・特に小田が困ったのは佐賀江川の起点、河口港だった今宿が龍造寺勢力エリアになった事だと思います。
物資流通のライフラインが他人に握られるのは、戦国時代なら死活問題になりかねません。
それで小田氏は「少弐資元が自害に追い詰められたのは、龍造寺が大内に寝返ったからだ~」と少弐冬尚に吹き込んだんです。

龍造寺が大内に寝返った・・・という話の出所は、小田の讒言じゃないでしょうか。
で、ホントに寝返ってたか?となると、自分はNOです。少なくとも具体的な裏切り行動はしてなかったと思います。
ただ、、、ちょっと、、、主君(少弐)が衰退したのを良い事に、主君の領地(与賀と川副)の豪族・領民を、ちゃっかり手なずけちゃっただけ(?)です~(*´pq`)

こういった経緯から小田との和睦(実質は降伏)に対しても、龍造寺隆信は本心からなのかと、懐疑的だったのは容易に推測出来ます。
小田の方でも、龍造寺との関係強化には積極的ではなかったようで、特にコレといった記述は残ってません。

龍造寺隆信は、1558年正月の八戸宗暘攻撃にも、同年10月の神代との決戦にも小田勢は動員してないようです。
少なくとも北肥戦誌・三瀬村史・富士町史には、小田姓の者は登場してないです。
八戸城が神代との内通を疑われ(真相不明)攻撃したというのに、小田の方では従軍を願い出るでもなく龍造寺へ人質を出すような素振りはなく、何だか超然としてる印象を受けます。

隆信が小田の本心に懐疑的だったように、小田は小田で龍造寺が東肥前の覇者となるか否かと、まだ懐疑的だったんじゃないでしょうか?
それで少弐ゾンビ復活と神代巻き返しに備えて、龍造寺とはフェイドアウト気味に距離とってたのかな~と思ったんです。
小田政光の父・資光に関しては、単純に龍造寺に頭を下げるのが嫌だったイメージですけど(爆

家紋・竜造寺

神代勝利に大敗した名尾峠での決戦。
龍造寺隆信が、その翌月の勢福寺城攻めの先陣に小田政光を起用したのは、小田家の本心を確かめるつもりだったと思います。

自分は神代勝利単独の動員能力は、龍造寺の半分くらいと考察してました。
だって同程度の軍事力で龍造寺が大敗したなら、その時点で龍造寺サイドから少弐・神代サイドへ国人・豪族の寝返りがあるはずでしょう?
特に小田さんがフラフラします。元カレにしようか今カレにしようか~ってね(^ -)---☆Wink

その動きがなかったってことは、神代は単独で龍造寺と事を構えるだけの力はないって事の証左。
神代勝利が龍造寺に勝つには、名尾峠の時のように「龍造寺隆信を山内に誘き出す」か、「周囲の同盟者と組む」の二択しかないんです。

小田でも判ってるから、先陣として出陣したはずです。
でも上記の経緯から、純前たる龍造寺配下に気持ちがなりきれなかったんでしょう。

出陣したのは現役当主である小田政光。それは(・∀・)イイ!
でも過去に龍造寺を散々に讒言したパパ資光は出て来ない。モヤモヤしません?
政光の息子たちも従軍してない。本城である蓮池城でお留守番。嫡男は従軍して隆信に挨拶すべきじゃないこと?
他の国人配下が同じ事をしても気にならないかもだけど、小田がすると「龍造寺に未だ含むところが・・」て気分になる。

そこへ持ってきて小田からの援軍要請です。
隆信は自分の胃液を飲み込むような不快さを感じた事でしょう。
本来ならば新参の配下である小田は、今後を龍造寺配下として生きるための覚悟の出陣でなければならないんです。
であれば、どんなにキツイ戦場でも援軍要請なんて出せないはずです。
裏切りでなくとも、援軍要請は小田が龍造寺配下に成りきる腹が据わってない事の証です。

小田政光は隆信が己の援軍要請を無視してる事に気づくと同時に、
龍造寺配下として生きるための覚悟を「衆目の中」で促された事に、いまさらながら気づいた・・・


武将として「戦場における覚悟」を「人から促される」って、とんでもなく恥ずかしい事です。
ここで負けて生きて帰ろうものなら、他の龍造寺勢たちから「嗤」「哂」の漢字を使われる嘲笑を生涯受ける事、間違いなし。
「ここで討死する!!・゜・(PД`q。)・゜・」って小田の決意は、むしろ当然の事です。

ここから先、小田が生き残るか討死するかは、小田本人の武運次第で、龍造寺隆信の関知するところではありません。
肥前小田氏の家運は、この先も紆余曲折するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【讒言の報酬・前篇】龍造寺隆信「覇」の巻24

1558年が濃いです。(-ω-;)ウーン
というのも、いよいよ(今度こそ)少弐氏滅亡のカウントダウンが始まってるからなんです。
(以下、緑太文字は北肥戦誌より抜粋)

10月16日、名尾峠で神代勝利に敗北した為、山内への手出しが難しくなった龍造寺隆信。

11月上旬、隆信は重臣らを集め、江上・神代の威を挫く為にも少弐を攻め潰すべく、勢福寺城攻めの用意をすべしと述べた。

江上・神代を倒すために少弐を攻めるって、少弐は肴のツマミですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
まぁ、彼らに大義名分を与えているのは「少弐の御家再興」ですから、元を断つって意味では正解です。

少弐を倒すって事は「主殺し」になります。
僧侶出身で教養ある肥前の熊は、そのあたりで躊躇してたんじゃないでしょうか。
龍造寺隆信は、後に与賀における少弐の痕跡を消してます。
つまり「後世から、どう見られるか」って事に対し、同時代・同世代人より敏感だったのでしょう。
隆信は少弐を潰すといいつつ、江上武種が守る勢福寺城を先に攻める事にした。

東肥前ぬくもり戦国地図

隔して隆信は佐嘉の城を出陣、姉川弾正忠の城を本陣とした。
書ききれなかった姉川さんの姉川城は、勢福寺城のちょっぴり下流にある城です。
位置的に勢福寺城からみの戦では「必ず巻き込まれる」運命にあります(-人-)☆彡気の毒・・・

蓮池の小田政光、蒲田・崎村の犬塚鎮家・犬塚左馬大夫も出陣する。
犬塚は直鳥と西と東の三犬塚があるんですが、割愛します(-人-)☆彡チョット区別ガ、、、ゴメンナサイ
蓮池の肥前小田氏・・・龍造寺に散々敵対してたんですが、和睦して今は龍造寺サイド。
サイト武家家伝だと小田政光の妻が、龍造寺隆信の妻と姉妹~~とあったんですが、他では見当たらないので未確認です。

佐嘉勢の動きを知った江上武種は、山内の神代勝利に援軍を乞い、11月9日に神代は手勢を連れて勢福寺城に入ります。
城兵は二手に分かれ、山内・城原勢3000は牟田を、もう一手の2000余騎は神埼口を固める
そんなに籠れるような規模の城だったか?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
兵数盛り感はさておき、牟田口と神崎口が何処を指すのかイマイチ判らん。
とにかく現在の神埼市内で姉川~本告牟田の近所っぽい。

11月10日の朝、小田勢3000余騎に神埼の本告頼景が先陣として加わった軍勢は西の牟田口より、
犬塚の一族は蒲田・崎村勢1500余騎で東の神埼口より攻めた。

が、小田の先陣は討ち負け崩れかかる。
政光は隆信へ救援を求め使者を派したが、隆信は姉川城から一切動かない。

隆信本陣の姉川城は、神埼市神埼町姉川下分にあります。
小田政光が進んだ牟田口が、本告牟田方向を指すなら1km弱しか離れてません。
見晴しの良いところなので、先陣の小田がピンチなのは判ってたはずです。
その気になれば、じゅうぶん援軍が間に合う位置にいながら、隆信は動きませんでした。

援軍が来ない事に憤激した小田政光は「討死したるわ!!(# ゚Д゚)・;'.」と死に物狂いで打ちかかった。
牟田口の小田と相対するのは神代勝利・山内勢と江上・城原勢。
小田は刀剣・槍の達人で、それが物凄い勢いで大暴れするものだから、さしもの神代と江上も手こずった。
「こりゃアカン、恰好良く討ち取るなんて無理!このままじゃ近づけない~弓だ!遠当てに狙うべし」

小田政光は四方から弓を射かけられ、それが当たり落馬。
政光は首を討ち取られたが、それを小田家臣が奪い返す!

・・・・血まみれで生首の獲り合い・・・怖いよ~(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
蓮池勢は政光の死を知り、敵陣へ駆け入り政光家臣60余人が討ち死にを遂げる。
犬塚勢も敗戦し退却した。


龍造寺隆信が動いたのは先陣が敗れてからだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【考察・終~神代勝利戦国大名化計画IF9】龍造寺隆信「覇」の巻23

片や龍造寺隆信の動員した兵力は如何ほどだったと思います?
(たぶん負けたのが恰好悪いので)記録にない佐嘉勢の兵力・・・自分は6000~8000と推測してます^^/

考えても見て下さい。
山岳地帯の山内で3000(これが限界と思う)の頭数が揃うなら、肥沃な佐賀平野&河川流域(=人口も多い)を支配する龍造寺隆信の動員能力は、神代勝利の2倍以上のはずです。

当時の龍造寺隆信領は石高推定だと25万石以上、織豊期の一般的な軍役が1万石につき250人なので、単純計算で動員能力は6000(=^・ω・^=)v ブイ
北肥戦誌だと行き当たりばったりの出陣ムードの佐嘉勢ですが、三瀬村史だと事前に入念に準備した事になってます。
それなら慎重を期して、6000以上動員しちゃったかもですよ^^b
これは龍造寺隆信の性格も要素に含まれます。

僧侶出身の龍造寺隆信には「寡兵で大軍を破る」的な、名人芸発想は浮かばないし、ヤル気もない。
無論、出自に関係なくソッチ方面に才能豊かな方もおられるでしょう。(いま思い出せないがwww)
でも用心深い肥前の熊は、確実な勝利を得る方向に走るので「戦う時は敵より多く兵を募る」セオリーに忠実なんです。

家紋・竜造寺
意外と真面目な肥前の熊,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

逆に性格+経歴+山内地形的に奇策パフォーマンス大好きっ子が神代勝利。
彼が実質率いた兵1700は、山岳地帯の山内で己の手足の如く動かすのに「程よい人数」なのでしょう。
神代は嫡男率いる兵1300を伏兵に使わず、完全待機(=隠した)させてました。
従って出陣初動時において、佐嘉勢は「神代・山内勢が1700のみ」と錯覚してた可能性があります。

また、錯覚するように神代勝利も行動してたはずです。
先陣大将の小河信安はともかく、神代勝利は大将でありながら自ら斥候するなど、動き回ってましたから^^b

「神代勝利・山内勢パッと見1700VS龍造寺隆信・佐賀勢(推定)6000~8000」
3.5~4倍以上の兵力差・・・これだけ差があれば、用心深い平野部育ちの熊も山内に足を踏み入れて来る・・・!
兵力差の傍証は、神代と龍造寺の行動にちゃんと表れてます。

名尾峠で大敗した時、龍造寺隆信は更に山内の奥へ行こうとしました。
兵力に余力が無ければ思いついても実行は躊躇います。
おそらく隆信を守る本陣や旗本衆は、未だ無傷だったんじゃないかな~だって隆信は名尾峠じゃなくて三反田にいたんだもん。
地図・名尾峠 

三反田から神代勝利の本拠地・三瀬まで8kmくらいで、実は割と道がハッキリしてるからジモティじゃなくても迷う心配はなさそうなんです。
だから攻撃すれば三瀬城は落とせたと思う。神代は目一杯動員してたはずだから、三瀬の守りも手薄だったはずなんで。

が・・・隆信のアイデアには重要な欠点がある・・・それは時間( ̄ω ̄A;アセアセ
北肥戦誌にも三瀬村史にも富士町史にも、細かい時間経過は書いてません。
(大元の出典と思われる)神代家伝記の方で、そこら辺りもワザと書かなかった可能性がなきにしもあらずです・・( ̄ω ̄A;アセアセ

10月16日早朝から行動したとして、名尾峠で決戦して大敗して、
その報告が届いて隆信 カチョ゙━━━(゚ロ゚;)━━ン!!は、時間的に午後12:00~14:00の間くらい。

龍造寺家臣一同「今から三瀬方面に進んだら、三瀬で夜になります~~・゜・(PД`q。)・゜・号泣」
旧暦10月だから、もう初冬で日が落ちるの早いっす。山岳地帯の山内ならアッという間に真っ暗。
街灯なし道路標識なし舗装道路なしの戦国時代でBGMがオオカミか野犬の遠吠え・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

龍造寺隆信って慎重で疑り深くて凄い用心深いのに、反面、とてつもなくワイルド豪胆な所もあるんです(AB型だったりして,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)
龍造寺家臣・涙目「三瀬方面どころか、今すぐ退却しないと日暮れまでに佐嘉に戻れませ~~ん!!!(;人;)☆オネガイ退却オネガイ撤退オネガイ帰還」

この恐怖に動じないのは、たぶん言いだしっぺの龍造寺隆信だけ・・・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
さすがに旗本衆は崩れてないと思うけど、雑兵クラスなら既に逃亡しはじめてたはず。
「大敗した敵地の中で、日暮れになるかも」って事に気づいたら、もう恐怖のあまり足を止めるなんて無理。
恥も外聞もヘッタクレもない。ものすごーーーーい全力疾走で退却したんじゃないでしょうか^^;



戦の前、神代勝利は嫡男・長良に対し「待機」を命じました。
動く時は「パパ勝利の本陣が崩れた時」or「佐嘉勢にパパ勝利が勝利した時」のどっちか。
でパパ勝利曰く「佐嘉勢は負けたら、一段と用心して守りが固くなるから」「追撃するか否かは自分で状況判断」してね(^ -)---☆Wink(by三瀬村史・意訳)

勝利の嫡男・長良は非常に優秀で、そのくらいの状況判断は苦も無くデキル子でした。
結果として神代家が佐賀藩士として生き残ったのは、この嫡男の判断による所が大きかったくらいで、神代家伝記でも手放し(大人の配慮含)で褒めてるそうな。

で結果、嫡男・長良は1300の兵を擁しながら佐嘉勢追撃をしませんでした。
これは隆信を守る旗本衆が崩れず、かつ無傷だったからに他なりません。
追撃しても旗本衆の層が厚く、隆信の首をとるところまで肉薄出来ないと判断したんじゃないでしょうか。

もしくは、物凄い速さで退却する(と思う)佐嘉勢に、名尾峠反対側入り口にいた嫡男の兵が追いつけなかったかもです。
神代勝利の方は、手勢に損害が出てたのと、小河との一騎打ちで勝利本人が負傷してて(皆には隠してたそうな)追撃の余力がなかったようです。

この戦いで龍造寺隆信の首と獲れなかった瞬間に、神代勝利の戦国大名化の夢は消えましたショボーン..._φ(・ω・` )
冒頭にあげたように基本動員兵力に大差があっても、龍造寺隆信の首を撮れたら局面はガラリと変化し、様々な可能性への道が開くからです。

そして基本動員兵力に大差がある以上、山内に隆信を誘き出せなければ神代勝利に勝ち目はない。
「大軍を擁しても山内の中では神代勝利の餌食になるだけ」
この事実に改めて気付いた隆信は、山内を戦場にする事は二度とありませんでした。

龍造寺隆信は、神代勝利に与する周辺勢力を潰し、山内そのものを孤立させる事に方針を変えます。
そうなったら神代勝利が圧倒的に不利。

神埼・佐嘉・小城の三郡に跨る広範囲の山内を領する神代氏が守勢に回るということは、
山内の各村落・館や城に一定数の守備兵を「常時」配置しておかなければならないからです。


かつて天から舞い降りるが如く、神出鬼没・自在に平野部を攻撃してきた神代勝利の羽が無残にもがれようとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【考察2~神代勝利、戦国大名化計画IF8】龍造寺隆信「覇」の巻22

この半年間、神代勝利に関わる地名は、片っ端から検索かけて位置データを補足してました。
それで気づいたんですが、神代勝利には「とある必勝パターン」があるんです。


それは常識の真逆・・・「ワザと兵数を減らし本陣の守りを薄くする」です。
もちろん、この作戦は山内という山岳地帯でしか使えません。
平野部で、こんな事したら普通に囲まれて討ち取られます( ̄ω ̄A;アセアセ

山岳地帯である山内では大軍よりも小部隊の方がフットワーク効きます。
いくら大軍を擁し騎馬武者を揃えたところで、林野や山の中、峠などでは馬の機動性は全く使えないですから。
それと神代勝利が剣術という個人的武技の達人だった経歴が、こうした奇策を思いつかせたんだと思うんです。

普通、一番守りが固いのが大将がいる本陣です。
でも神代勝利はワザと兵を割いたり、小田部戦の時は本陣が先陣の1/10で、本陣が伏兵になるという奇策を用いてます。

奇策の目的は一つ。敵軍を山内の奥深くに誘い込む為!(`・ω・´)キリッ
これに完璧に釣られたのが龍造寺隆信でした^^;

人物・くましろん~ 神代勝利イメージ画像

金鋪(名尾)峠の決戦前に神代は3000あった兵力を、自分1700と嫡男1300に分けました。
でもって嫡男1300を名尾峠東側入口で「待機」させてます。

神代嫡男1300は、龍造寺勢が入った場所と反対側にいて、なおかつ「待機命令」により動いてない。
となると龍造寺側は神代嫡男1300に気付いてなかった可能性があります

龍造寺サイドは「神代勝利の動員した兵力が1700だけ」だと錯覚してたんです。
だから龍造寺隆信は「神代勝利を討ち取るチャンス」だと思って山内エリアに入ったんじゃないでしょうか。

不幸なことに龍造寺勢先陣だった小河信安隊は、小河信安が討ち取られ小河隊が壊滅してます。
てことは、ますますもって神代嫡男1300の存在を、龍造寺隆信が知る機会が減るか遅くなったでしょう。

で、今度は神代勝利が1700しか集めてないことに、隆信が違和感を覚えなかったのか?という疑問が湧きます。
自分は「案外、感じない」と思いました。


戦国時代の軍役基準で「1万石ごとに250人」ってのがあります。
神代の3000を当てはめて逆算すると12万石で、鎮西無双・立花宗茂とほぼ同数の動員力になります。
山内という山岳地帯で、それほどの国力があるとは想像しづらい。
でも無理をすれば頭数としての3000は集められるでしょう。

つまり身分・年齢を問わず&城や館には留守兵も置かず、山内中から男という男を掻き集める・・・・それなら3000いける(=^・ω・^=)v ブイ。
が、平野部育ちの龍造寺隆信にすれば「山間部で伝達と動員が素早く出来る」って言うのが感覚としてイメージしづらい。
1700という報告を受ければ「短時間じゃ、それしか集まらなかったんだな~(*´ー`)」と思うはず。
でも神代勝利は「その短時間の伝達」を可能にしたんです。

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

神代勝利は大鐘や法螺貝などで工夫を施し、一日で山内全てに動員合図を送れました。
ですから短時間で山内全ての村落からの動員は出来るんです。
最短で数時間、最長でも二日あれば、3000に近い人数になったんじゃないでしょうか。

北肥戦誌では10月15日出陣で16日に決戦となってます。
でも三瀬村史では14日出陣になってます。
山内勢の移動時間を考慮すれば、14日出陣が正解かと・・・。

神代勝利が龍造寺隆信に勝てるチャンスは一度きりだったと、前回書きました。
というのも冒頭の必勝策は、同じ相手には二度と通じないからです。
神代勝利との戦いで、龍造寺隆信が山内へ足を踏み入れる事は二度とありませんでした。
だからこそ「金鋪(名尾)峠」の時が、最初で最後のチャンスだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【考察1~神代勝利、戦国大名化計画IF7】龍造寺隆信「覇」の巻21

1558年初冬(推定)の筑前、安楽平城主・小田部鎮元VS神代勝利の話。

実は北肥戦誌(九州治乱記)、監修様所蔵の二次史料、筑前側(原田氏など)史料、安楽平城史、大友側史料・・
これら一切に記述がありません。

記述があるのは、三瀬村史と富士町史(共に佐賀市所蔵)のみで、同じ町史でも大和町史には記述なしです。
記述あり町村史の大元の出典は、おそらく「神代家伝記」+「三瀬における伝承」でしょう。

神代家伝記は江戸中期(正確な年度不明)神埼郡三瀬の長谷山観音寺住職が書いたものだと言われてます。
原本は残っておらず、現在あるのはシャボン・・・写本だとか。
成立が江戸中期なんで、当然の如く「佐賀藩特有の法則」、大人の事情と配慮と気配りと遠慮が施されてるのは容易に想像がつきます( ̄ω ̄A;アセアセ

が、大名として残る事が出来なかった大友家の配下の国人で、しかも隣の筑前なら何処からもノンクレーム♪ヽ(*´∀`)ノ
「おらが殿様」を語り継ぐうちに話が盛られた「神代勝利がヒーロー・三瀬村の伝承」を、
___φ(.. ) カキカキっと、そのまんま家伝に記したと思われます。

あ、もちろん三瀬村史でも心得てて「信憑性が怪しくても突っ込みしないぉ、村史の意義として伝承は全部残すぉ(´・д・`)シオ意訳」って前置きしてます^^b

家紋・大友 大友家紋ロゴ

なので、野暮な突っ込みなのは重々承知してるんですが、考察なんで御容赦を~( ̄ω ̄A;アセアセ
1558年といえば、キングオブ九州・大友家は絶頂期・最盛期を迎えんとする頃でして・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
その大友家を差し置いて、筑前大友五城の一つである安楽平城主が、神代勝利に対し領地安堵を願うなど200%以上ないです。
てか博多・福岡に逃げたってのも200%ないですな ( ゚Д゚)y─┛~~

大友家が大事に保護してる商都・博多に逃げ込むなんてアホな事したら、城主・小田部鎮元の地位がヤバいです。
逃げたのが史実なら、逃げた方角は糸島市方向になるはずで、泣きつくなら筑前方分・臼杵鑑速が領する柑子岳城。
神代家伝記が書かれた江戸中期には、とっくに廃城になってるんで人々の記憶から抜けてたでしょう。
たぶん、もし筑前で逃げるなら~~と咄嗟に思いついた地名を書いただけ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

安楽平城・小田部鎮元と山内の神代勝利が国境で揉めたのはホントだと思います。
(互いの兵数も伝承の中で盛られてそうだが・・爆)
神代勝利が勝ったのもホントだと思う・・・戦の経過が具体的ですから^^b
ただ後はイイ感じで互いに妥協し、国境を定めて穏便に治めたんじゃないでしょうか。

で、肝心の「神代勝利戦国大名化」の可能性ですが「あった」と思います
それには、もう少し諸条件が整う必要があるんですが、そこらを無視して要となるのは「龍造寺隆信を倒す」です。
でもって、倒すチャンスはありました。

それが金鋪(名尾)峠での決戦です。
後にも先にも、神代勝利が龍造寺隆信を倒すチャンスは、この一度限り!

自分が、そう考えたのは実は「金鋪(名尾)峠での決戦」で龍造寺隆信勢が動員した兵数の記載が無い事からでした。
ネタバレが出ちゃうけど考察なんで・・・(以下略)

北肥戦誌はともかく、三瀬村史にも富士町史にも龍造寺勢の兵力が書いてないという事は、大元である神代家伝記に記載がないという事です。
ヒーロー神代勝利の鮮やかで華麗なる勝利に対する具体的な兵数を書かない理由は、ただ一つ。
「佐賀藩特有の配慮が働いた」です。

双方の兵力に差があればあるほど、負けた龍造寺隆信がカッコ悪い。
隆信のカッコ悪さを目立たせたくない理由として考えられるのは「鍋島勢も一緒に従軍してた」です。

もし鍋島が敗軍となった龍造寺のピンチを救ったのなら、その場合なら具体的な数字が出ます。
でもそんな活躍場面はなく、おそらく土地不案内の山内を、ひたすら逃げたんでしょう。
神代家伝記が書くのを遠慮するほどに・・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

三瀬村史では、この後における神代VS龍造寺・川上の戦いで、双方の実力が互角だ・・・って書いてます。
が、自分は「金鋪(名尾)峠の決戦」の段階で、互角どころか既に双方の動員能力に差が出てたと考えてます。
てことでシオ流「金鋪(名尾)峠の決戦・考察」なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【峠の無双~神代勝利、戦国大名化計画IF6】龍造寺隆信「覇」の巻20

1558年初冬、佐嘉勢を名尾峠で打ち破った神代勝利。
彼は「佐嘉は、この辺で勘弁してやるか~(*´ー`)」と思い「次、反対側へ行ってみよ~イエーイ(*´∀`)ノ」と筑前への勢力拡大を決意。

その頃、筑前国荒平(安楽平)の城主・小田辺紹連の所領の者どもが徒党を組んで狼藉を働くと知らせが・・ナンタラカンタラ by三瀬村誌参照

小田辺紹連って誰ですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!(いろいろ混ざってネ?)
面白いのは、地名や人名で詳細だった三瀬村誌が、ここら辺りで急に当て字が増えるんです。
昔の呼び方とかじゃないです。だから調べるシオとしては特定するのに凄い時間がかかり、長い前振りになった^^;
1558年当時の安楽平城主は小田部鎮元なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

察するに神代側と小田部側とで国境に関して揉めたようですな( ゚Д゚)y─┛~~

地図・筑前大友五城

神代は小田部サイドからの狼藉を口実として、小田部討伐のために山内へ合図を送った。
集まった兵らは、山伏の大弓坊&円乗坊に率いさせ、是を先陣とした。
戦国時代は兵農どころか、兵僧分離もしてない件~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

荒僧に率いられた先陣は椎原(しいば)峠から押し出し、池田口という所で布陣させた。
池田口が判りませんでした^^;
椎原峠はシオ地図には入りきれません~
鷲ケ岳城より直線距離で4km以上南西で背振山にある峠ですが、あんまり長い距離じゃないらしく、グーグルマップ検索では峠の正確な位置は出て来ません。
福岡県・峠データベースには出てま~す。

というのも実は、椎原峠は交通路としてより、背振山登山口コースとしての方が有名なんです。
背振山は1000m級の霊峰で、椎原峠自体も標高700m以上の位置にあり、ぶっちゃけ峠越えが既に登山,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
慣れない人は気圧の変化で耳キーーン来るぉ(´・д・`)

旧暦で10月~11月といえば、もう背振山には初雪が降ってる時期で、当時も山頂は麗しく雪化粧だった事でしょう。
霊峰としての背振山は山岳信仰の聖地としても知られてまして、先陣を率いる二人の荒僧は修験道の為に椎原峠を幾度となく往来してたはずです。
彼等が選ばれたのは、本人の武勇とか、兵士の士気を鼓舞とか以前に「土地勘バリバリ」だったのが最大の理由だと思います。


一方、神代勝利は僅か100騎ほどで三瀬峠を降り大野という所に密かに本陣を置いた。
これが神代勝利が仕組んだ罠でした。

小田部鎮元は「神代が来るなら、コッチから討って出るべし(`・ω・´)キリッ」と3000騎(人)率いて出陣。
池田口にいる1000騎(コッチも雑兵を含んだ人数の事だと思う)の方を神代本陣と勘違いして、攻撃したんです。

小田部が神代の旗印を知らないはずは無いので、先陣には神代本陣の旗印を持たせてたんじゃないでしょうか。
こうして神代先陣と小田部が戦いを繰り広げ乱戦~~ころあいを見た神代勝利が小田部勢後方横合いから攻撃した。
思わぬ方向から攻撃を受けた小田部勢は混乱し戦意喪失、あとはもう神代勝利の思うつぼ。
神代勢は退却しようとする小田部勢の退路を断って難所に追い込み、次々と討ち取ったそうです。

これは小田部鎮元に同情する^^;
山内周辺の峠や山間の地形を利用する布陣をさせたら、神代勝利の右に出る者はいません。
退路を断たれた小田部勢は安楽平城へ帰還する事が出来ず、博多へ逃げた(早良街道使ったかな?)と三瀬村誌にありました。

小田部鎮元は神代勝利に誓紙を差出し本領安堵を願い出たので、これを許した。
神代の勢いに恐れをなした原田、曲渕、大津留(大鶴宗秋の事らしい)が次々と和睦を申し出る。
神代は「和睦するなら強いて討伐する事はないだろう」と筑前退治を先延ばしにし、諸氏と和を結んだ。


てな感じに三瀬村誌では記してまして、戦の経過はともかく、最後の三行が話を盛ってるとしか思えないのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【安楽平城~神代勝利、戦国大名化計画IF5】龍造寺隆信「覇」の巻19

鷲ケ岳城主は大鶴(大津留)九郎宗秋(宗雲)。
安楽平城、小田部(こたべ)氏の名跡を継いだ小田部民部少鎮隆(松浦隼人佐鎮隆から改名)の息子。

と、紹介してるサイトがあったんですが、大鶴九郎宗秋の経歴からすると単なる縁戚関係っぽい感じでして、親子関係がコンガラガッテ伝承された史料があるんじゃないでしょうか^^;

大鶴は大津留とも書かれてて、初めは自分も豊後大神系氏族・大津留氏の一族かと早とちりしました。
が、通字の惟を使ってないところを見ると、直接の血族じゃなさそうです。
てか、そもそも大鶴宗秋は、大友家臣でも城持ちになれるほどの家柄じゃなかったとか。

最近、教えて貰い知ったんですが「大鶴」姓は旧日田郡大鶴村が由来だそうです。
となると大鶴九郎宗秋の父祖は、大蔵系日田氏⇒大友系日田氏に仕えてた・・・と思われ・・
大友系日田氏が衰退後に、本家である大友家に仕えた(or寝返り)って流れ・・かな?
城持ちになれる家柄じゃないとなると、大友家臣としては新参だったかもです。


ある時、大友家では「家臣たちに、ちゃんとした礼法・作法を学ばせたいな~(´・д・`)」と思い立ち、身軽な身分の大鶴九郎宗秋が京へと派遣されたそうな。
大鶴九郎宗秋は伊勢さんとこの室町礼法ハウツーを φ(.. ) メモメモ___と会得し大友家へ帰還。
喜んだ大友当主が(たぶん義鎮)褒美として、筑前に領地を与えた。

家紋・大友 大友家紋ロゴ

その拝領した領地に築城したのが鷲ケ岳城です。
つまるところ軍功ではなく、文治面での功績で城持ちになったわけで、大鶴九郎宗秋の武勇は未知数^^;
というより、あんまりアテにならない・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

その大鶴九郎宗秋の次男が、安楽平城の小田部民部少鎮隆に婿入りし、家督を継いだ。
それが小田部鎮元(後の紹叱)でして、1553年の事だと言われてます。

他姓衆(外様or新参or配下国人)でありながら、名跡と安楽平城を継いだ小田部民部少鎮隆は、おそらく余程の武勇スペック保持者。
その後継者・婿にと望まれただけあり、小田部鎮元(大鶴九郎宗秋の次男)は、かなりの気骨の持ち主だったようです。
小田部鎮元は、後年の龍造寺軍による兵糧攻めに半年間耐え抜いた後に討って出て敗れ、自刃しています。

安楽平城と鷲ケ岳城は、大内滅亡後の大友による筑前支配の要衝の一つとして、1550年~1555年の間に整備されたのでしょう。
で、軍事連携を組みやすいように、双方の城主が縁戚・血縁関係となったんだと思います。
むろん、それは主君である大友義鎮の北九州支配構想の一環だったはずです。

では、何故それほど重要な城を他姓衆(外様or新参or配下国人)に預けたのでしょう。

地図・筑前大友五城
筑前大友五城、配置図(縮尺はテキトー雰囲気だけ戦国地図)

自分は大友の軍編成における発想が、城主の配置に出てると思います。
大友は先陣には他姓衆(外様or新参or配下国人)を選ぶからです。

先陣は武功のチャンスともいえる華やかさがありますが、同時に兵の損耗率も甚大。
一度の出撃で壊滅ってパターンも無いとは言えない、別の意味では社内ブラック部署。

大友家では生え抜きの精鋭である大友本軍(同紋衆)を温存する為、兵の死傷率が高い先陣(or想定激戦区)には、替えや補充のきく他姓衆を使うわけです。
とーぜん、他姓衆は不満でイパーイですが、大友が全盛期の間は我慢して従ってました。

で、筑前大友五城に話は戻りますが、さすがに他姓衆には任せられない城があります。
それが博多の守護である立花城、付近の沿岸に睨みを利かせる柑子岳城、博多から大宰府の防衛ラインを補完する宝満山城です。

この三城だけは、余所者には任せられない。
城主は武勇・忠義、あらゆる面で生え抜きの同紋衆が選抜されます。
にも関わらず、裏切り謀反を起こす城主が出るのが、大友家の絶望的な宿痾(しゅくあ=持病)なんです。

上記三城は博多を中心点とする内城で、安楽平城と鷲ケ岳城は外城という見方も出来ます。
というのは、少弐であれ、龍造寺であれ、島津であれ、
背振山系・・特に三瀬峠を越えてる来る敵が、初めに攻略するのが安楽平城だからです。

だから軍事連携としては、安楽平城が「主」で、鷲ケ岳城が「従」。
安楽平城を落とせば、そこを起点に博多へも大宰府へ各城へも、行きたいところを攻略しに行けます。
あ、無視するって話はなしでwww
安楽平城を落とさずに先に進めば、背後を突かれちゃいます^^b
(だから後年になると、小田部氏に調略工作とか入る)

1558年冬が近づく頃、三瀬から安楽平城攻撃に動いた武将がいた。
それが山内の英雄・神代勝利なのだが、それは・またの話 by^-^sio

あ~~やっと前説終わった~~またリサーチに入るんで間があきます~

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【筑前大友五城~神代勝利、戦国大名化計画IF4】龍造寺隆信「覇」の巻18

前振りが長引いてますが、今話してる事は龍造寺編にも秋月編にも後々必要になる基本ベース知識です。
退屈かもですが「シオさんは記事にしないと脳内整理出来ない不器用さんダカラナー(*´ー`)ヤレヤレ」と笑って御付き合い下さいませ。


大友が筑前支配の為に要としたのが、筑前大友ファイブ・・ではなくて筑前大友五城です。

立花山城~~~城主・前立花氏⇒⇒道雪の立花氏
宝満山城~~~城主・一万田系高橋氏⇒⇒岩屋城玉砕で高名な紹運の吉弘系高橋氏
柑子岳城~~~城主・臼杵氏


筑前方分は臼杵鑑続(兄)鑑速(弟)、田北鑑生、戸次道雪。
(方分:ほうぶんorかたわけ、大友の職制。宿老クラスから選抜され、守護代に相当する地位)

で、大友五城を分けて紹介したのは、これから紹介する二城は、上記三城と特徴が違うんです。
その違いとは「城主」です。

上記三城の城主が常に同紋衆の一族から選ばれたのに対し、残る二城の城主は他姓衆(外様or新参or配下国人)なんです。
(同紋衆:大友家紋使用を許可された事から呼ばれた。大友支族or譜代家臣から構成されるエリート集団)
名門意識が強く身分格差がキツイ大友家での内部人事にしては、かなり珍しいケースだと思います。

その二城とは安楽平(荒平)城(福岡県福岡市早良区)と鷲ケ岳城(筑紫郡那珂川町大字南面里)です。

筑前大友五城のうち、この二城は場所も近く軍事上セットで機能してたと推測されます。
とういうのも安楽平と鷲ケ岳それぞれの城主は、リアル親子だからです。

地図・筑前大友五城
(縮尺テキトー雰囲気だけ戦国地図)

まず安楽平城ですが荒平山にあることから、もともとは荒平城と呼ばれてました。
が、秋月氏の居城が荒平城だったものですから、区別するために何時の頃から安楽の字が当てられました。

安楽平城は、軍事面だけでなく統治上でも要衝の城でした。
大内氏が早良郡に郡代を定めた時、大内の早良郡代は安楽平城に入ってたからです。

ちなみに大内が早良郡代を決めたのは、少弐氏が肥前に拠点を移す文明10(1478年)より前の事。
1430年~1460年にかけて、既に大内の早良郡代が記録上に残っており、筑前における少弐衰退が顕著になってたのが推測出来ます。

当時の早良郡代で安楽平城主は大友時代の城主・小田部氏とは別家でして、何時ごろから小田部氏が安楽平城に入ったのか、シオレベルでは辿れませんでした^^;

というのも、どうやら小田部氏は一度断絶したらしいんです。
そこで大友家臣(て、いうより配下の在地国人)で松浦城主隼人佐鎮隆が小田部の名跡を継いで安楽平城に入りました。
年代としては1550~1555年くらい、その頃が鷲ケ岳城築城推定時期なんで、同じくらいかと。。。

松浦城が何処にあったのか不明でして、早良区内には城跡としては残ってません。
もしかしたら隼人佐鎮隆が安楽平城に入った事で、早々と廃城になったかもです。

代わりにあるのが松浦殿塚で、この人物は肥前・平戸からやって来て、筑前・早良郡に土着しました。
隼人佐鎮隆と塚の人物が同じか。もしくは後裔なのかイマイチはっきりとした確証は持てなかったです。

一方、鷲ケ岳城主が大鶴(大津留)宗秋(宗雲)
長くなったので、それは・またの話 by^-^sio

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【博多と大友2~神代勝利、戦国大名化計画IF3】龍造寺隆信「覇」の巻17

(-ω-;)ウーン・・・なかなか神代勝利に辿りつかない・・・爆

勢場ヶ原の戦い(1534年・天文3年4月)は、それ単独だけで見ると、
この後は大内・大友間で大きな争いがなかったとか、
この後は実質停戦状態になり後に正式和睦したなど・・・の理由が見えてきません。

これには九州全体の情勢・・・筑後と肥後で起きた大友に対する謀反が絡んでました。

元々大友家では断続的起きる筑後の謀反に手を焼いてました。(おのれ星野め・・ビキビキ(-ω-#)by大友義長)
それに大友からの自立を目論む肥後の大友傀儡守護職・菊池義宗(大友義鑑実弟)が便乗。
「筑後の謀反を支援してやって♪ヽ(*´∀`)つ」と、大内義隆とタッグを組んで大内軍を誘い入れた。
こうして名将・陶興房が北九州入り~~

「大内が来るなら家(少弐)の出番!大友を支援するぉ(`・ω・´)キリッ」と少弐が便乗。
結果として筑後への援軍はソッチのけ。いつもの如く大内の少弐叩きが始まり、そのまま「大内の肥前平定」へと歴史は流れて行く。
ちなみに名将・陶興房ですが、個人戦では龍造寺軍に無勝,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

家紋・大友 大友家紋ロゴ

で、キッカケの筑後星野氏の謀反ですが、鎮圧に至る過程の年月日が、シオレベルではハッキリと特定出来ませんでした。
(1533年の段階で籠城したまんまだったか、いったん降伏し再び謀反して鎮圧されたのかが???)

というのも1534年2月に肥後・菊池義武が大友に対し挙兵したからで、そっちの動きが大きすぎて筑後情勢が辿れなくなっちゃたんです^^;
大友では肥後鎮圧の為に戸次鑑連(後の道雪)など、生え抜きの精鋭が送り込まれました。

大友本軍が留守の間隙を縫って、陶興房率いる大内勢が豊後国境を侵攻したのが「勢場ヶ原の戦い」です。

大友義鑑は相当焦ったと思います。
大内義隆とタッグを組んでる菊池義宗は、水軍を使って豊後・国東半島沿岸で略奪行為をし、大友を翻弄してました。

最終的には筑後・肥後の謀反は鎮圧され、大内勢も撃退し名門・大友家の底力を示した事にはなりました。
が、この1534年の段階では、一時的とはいえ大友軍のほぼ全軍がフル稼働状態となり、もし謀反が長期化していれば、さしもの大友も息切れし躓いて大怪我したかもでした。
これに懲りた大友義鑑は、足元(肥後や筑後)を固める事を優先し、北九州へ大軍を派兵する事を控えたんです。

勢場ヶ原の戦いで大友が大内勢を撃退したので、大内義隆の野望頓挫~とする見方もあります。
ですが、その数か月後には陶興房は再び北九州入りし大宰府に駐屯してます。
大友が北九州に対して大きな動きを止めた以上、大内義隆の目的は達したんです。

両者は実質停戦(和睦したともある)状態になり、1538年に足利義晴の仲介で条件批准~正式に和睦しました。

家紋・大内 大内家紋ロゴ

で、表題の博多なんですが、、、、和睦の時にどうなったか判りませんでしたil||li _| ̄|○ il||lスイマセン
でも博多の利権を大友が全て手放すとは思えないし、もしそうならWEB上の検索で引っかかると思うんです。
少なくとも博多に絡む事が和睦条件に入っていたら、大友は和睦に首を縦に振らないでしょう。
だから商都・博多に、大内・大友の二大勢力がいる状況には変化はなかったと思います。
(大友寄りの博多商人が大内寄りに靡くとった現象は起きてたでしょう)

で、和睦の条件批准として、筑前領の一部が大内から大友に割譲されました。
割譲された中に立花山城があった・・・という話もあるんですが、立花山城は元々大友が築城した城です。
だから大内が接収してたのを大友に返還されたのかもしれません。

てことで大友は割譲された筑前領から、ちょっとずつ勢力を広げる事から再スタートとなりました^^b

北九州へは大内家が選んだ守護代が派遣され、郡代は地元から選ばれ・・・といった感じで統治してます。
ただし陶興房が大宰府に駐屯してる間の軍権は、守護代ではなく陶興房に一任されてました。
肥前にも大内が守護代を任じてますが、この場合は統治の為でなく少弐に敵対する者がチョイスされてます^^;

大友が龍造寺が台頭したために、肥前統治まで至らなかったように、
大内も少弐が完全滅亡してないために、肥前だけは統治までは出来てなかったんです。

で、次は大内滅亡後~具体的な大友の筑前支配についてですが、それは・またの話 by^-^sio
神代は、それからなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

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【博多と大友1~神代勝利・戦国大名化計画IF2】龍造寺隆信「覇」の巻16

大友の北九州支配で豊前なんですが・・・
WEB上ではデータが少ないのと宇佐神宮が手ごわくてリサーチ出来てません(_´Д`)アイーン
どのみち神代と豊前は関わった事ないので、今回も逃げ・・・ゲホゴホ、割愛させて下さい(人´∀`)


さて、西から順番に肥前の次は筑前なんですが・・・筑前の覇権を巡る争いはズバリ複雑!
大友義鎮が筑前守護職になったのは、1559年で割と遅い。
が、大友家では筑前守護職ゲッツの100年以上前から、|筑前|_ ̄)じぃーっと狙い、関わっていました。

目的は大宰府・・・よりも商都・博多、貿易による利権。
「筑前の覇者=博多の支配者であり、交易による利益を甘受する者」です。
もっとも博多には一筋縄で行かない博多商人達がおり、武家の思惑通りにはなかなか・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

商都としての博多の歴史は遣唐使の経由地から始まり、平清盛が港を作ったりと錚々たる歴史上の人物が関わり、シオ程度の知識じゃ手に負えません( ̄ω ̄A;アセアセ
それでも当ブログの管理人ですので、浅学ではありますが自分の理解してる範疇で説明させてもらいますね^^;

博多支配に関しても室町中期~末期の頃には、少弐・大友・大内の三つ巴になります。
南蛮交易というと大友(=^・ω・^=)v ブイ。朝鮮交易なら対馬・宗氏(=^・ω・^=)v ブイ日明交易なら大内(=^・ω・^=)v ブイ。
てな漠然としたイメージがあると思いますが、大内の日明貿易独り勝ち状態は最初からではありません。

室町初期の頃、大内義弘は私貿易をヤリ過ぎ&実力あり過ぎを室町幕府(将軍・義満)に疎まれ「応永の乱」の首謀者として討たれて(1400年)しまいます。
室町幕府から交易の独占を許可されたのは、大内義興の代(1516年4月)です。
後を継いだ大内義隆は交易に必須の勘合符を巡って細川京兆家と対立し、結果「寧波の乱(1523年)」が起きます。
一時的に日明貿易が途絶えましたが、再び交易を復活させ大内独占状態に戻したのも大内義隆でした。

家紋・大内 大内家紋ロゴ

その大内家ですが・・・
九州探題・今川了俊の後任、無難バランス人事で選出された渋谷氏が余りにも実力不足なため、室町幕府から「渋谷の面倒見てあげてね(´・д・`)」と依頼され、公明正大に北九州に介入し始めます。

一方、陰が薄い九州探題につけこむのは大友家も一緒。
渋川満頼が九州探題を辞したのを機に、大友氏は1429年(永享元年)朝鮮に使者を遣わして博多支配を宣言
それを受けて博多商人は大友家の保護下で貿易を行ってました。

つまり博多のうち、交易港のある北東部が大友氏配下。
残る内陸側の南西部が少弐支配下だったんです。
少弐は、美味しいところを大友にとられ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

この状態は長続きしませんでした。
1478年(文明10年)、大内政弘は少弐勢力を筑前(&博多)から追放o( ̄Д ̄θ★ケリッ!
少弐は本貫地・大宰府を失っただけでなく、博多に関する利権も失った(_´Д`)アイーン
肥前に拠点を移した少弐政資が、大貧民アボンにならずにすんだのは、対馬・宗氏がバックアップしてたからです。

で、どういう感じで共存してたかは判りませんが、博多は大友・大内の二大勢力の支配下に入った。
両家が、この状況に満足するはずもなく、博多・・筑前・・ひいては北九州の覇権を巡って争う事になります。

争いに終止符を打つのが、大内家の最盛期を作る男・大内義隆です。
晩年のダメダメ感が流布されすぎて、衆道ネタでは弄られキャラにされたりで、残念な扱いをされがちです。
が・・・往年の輝いてた頃の大内義隆は、本当に凄かったんです。
なかでも北九州における大内義隆の構想を実現させる男、名将・陶興房の功績は計り知れません。

大内義隆は「勢場ヶ原の戦い」で、ついに大友を北九州から撤退させる事に成功するのだが、それは・またの話 by^-^sio

前説が多過ぎて神代に辿りつけない件・・・il||li _| ̄|○ il||lデモコレヤラナイト・・・

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【大友の肥前支配~神代勝利・戦国大名化計画IF1】龍造寺隆信「覇」の巻15

さて、今回のシリーズは「IF肥前神代藩成立」を、楽しく妄想するコーナーです。
あくまでも妄想になります。
というのもネタバレになりますが、神代家は後に嫡流が絶えるからです(家は残るけど)

でも生き残ったのが神代勝利なら、歴史が違ったかもよ?
今山合戦で大友と戦うのは神代だったりする?
マニアックネタですが・・・皆さん、ちょっと ウキウキ(0 ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワク してみませんか^^/

で、その前振りとして大友家の肥前支配について、シオの脳内整理に御付き合い下さい(^ -)---☆Wink


まず、単純に「シオ的大友配下の定義」について。

1)豊後参りに行く
(毎年八朔の日(8月1日)に豊後で行われる大友威光を示す軍事パレードに参加し臣従を誓う儀式)
2)租税を納める
3)軍役に応じる(早い話、大友軍が出陣したら馳せ参じます~てことネ)
4)府内へ人質を差し出す
5)時の大友当主から偏諱(へんき=諱の一文字を拝領)を受ける

1&2に関しては、図書館所蔵とかの大友関連文書や史料の裏付けが取れないと把握不可なんで、道産子素人歴女じゃ無理。
3~5ならWEB検索で判る~ただし、個々の国人を調べて行くと言う地味に時間かかる作業だけどwww
でもシオってば凝り性だから、コツコツやっちゃうのよね(*´pq`)クスッ

で、一番調べやすいのが偏諱ですが、大友家から偏諱を受けた肥前国人は、宗麟の父・義鑑の頃から出始めてます。
一方、しぶとく残ってる少弐家。少弐から偏諱を受けてた(だろう)と思われるのは政資の代くらいまで。
政資の孫・冬尚から偏諱を受けた国人は、シオの調べた範囲では皆無・・・です。

哀しいかな、これが衰退しゆく少弐の現実。
名門ゆえに神輿として担がれるだけで、担ぐ国人たちに少弐に対する忠義はないんです。
大友義鑑は、一言で説明できない事態が重なり大内と和睦、北九州支配から一端(表向き)手を引きます。
再び大友が本格的に北九州支配に乗り出すのは、大内義隆が家臣の謀反で討たれてる1551年以降の事。

1554年、大友義鎮が肥前守護職となる
人物・大友宗麟

大友家では守護代に相当する役職「方分(ほうぶんorかたわけ」を任命しました。
したんですが・・・・大友支配が何処まで肥前に及んでいたかとなると・・・かなり微妙です^^;

方分職は行政と司法と現地政務などを司り・・と権限は大きい。
ところが、読み方がハッキリしてないように、方分職そのものが未だ研究段階途上。

国単位だけでなく、郡単位の方分任命もあった・・・とか。
義鎮時代初期は他役職との兼務もしてましたが、家臣謀反を恐れ次第に方分と他役職を兼務させなくなったり・・・とか。
現段階で肥前方分(守護代みたいな感じ)に任命された・・・と推測されているのは以下の三名。

臼杵鑑速、田原親賢、吉弘鑑理

ただし研究者全てが、この三人をチョイスしてるわけでなく、上記三人の内「二人が方分だ」「いや一人だけだ。」と説が別れてます。

どうも肥前に関して大友家は実行支配までには至っておらず、方分職の三人は大友家における肥前関係の窓口・・・というのが実情に近いかもしれません。

正直な話。大友家では家臣謀反・国人謀反への対応で忙しく、それに加えて毛利とドスコイ状態になったりで、肥前まで手が回らなかったんです。
この有耶無耶な状態が龍造寺隆信の台頭を許してしまう事になります。

家紋・少弐


今まで少弐は大友のバックアップ受けていた・・・とザックリ説明してきました。
が、それは具体的な事例には乏しい、実はムードみたいなものでした^^;

自分の知る限りでは、少弐の要請で大友が肥前に派兵した事実はないと思います。
あくまでも大友が北九州へ兵を入れるのは、
大友都合の
大友事情による
大友利益のための軍事行動

でして、少弐はダシにされてるか、少弐の方で大友に便乗したかのいずれかです。

ぶっちゃけた話。大内義隆が死んだからには、大友にとって少弐の利用価値は半値以下。
少弐支援を大義名分にする必要などサラサラなく、大友自身の実力・財力で守護職を次々と余裕でゲッチュー。
少弐は残っても残らなくても、どーでも宜しい。まぁ龍造寺が力つけてるからフタになってくれれば助かるかな~程度。

むろん守護大名&キングオブ九州として「少弐から保護を求めてくれば」(亡命者として)受け入れる度量はあります。
なんたって太宰少弐ですもん、大友保護下・府内在住居候となれば、大友が自慢できるでしょ?(*´ー`)


少弐冬尚は、大内義隆の死で「大友にとって少弐が政治的に不必要になってる事実」に目も耳も塞いでいたかもしれません。
利用価値なし・不必要になるって事は、相手が龍造寺でなくとも大友に滅ぼされる日が来るっかもしれないって事。

シオ的「少弐が武家として生き残る道」は、大友に臣従を誓う事です。
大友義鎮から偏諱を受けるか、人質(家臣クラスじゃダメね、身内よ)を府内へ差し出し、八朔の日に少弐冬尚自身が豊後・府内へ詣で大友の下座に着くんです。
そして龍造寺討伐の為、大友家臣生え抜き同紋衆の出陣を請い願う。

・・・・が、これを実行するには、少弐は余りにも名門すぎました・・・・(´;ω;`)ウッ
鎌倉時代「九州三人衆」として、大友家と肩を並べていた少弐氏が、どうして大友の下座につくなど出来ましょう・・・(´;ω;`)ウッ
少弐は、ゆっくりと確実に地盤沈下し、少弐配下の国人たちは少弐の頭越しに大友家からの偏諱を受けていきます。
少弐配下だったはずの神代勝利にしても、そう。
彼もまた、少弐とは関係のなく自己判断で動き始めて行くのですが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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