82【布陣・川上合戦4】龍造寺隆信「道」の巻9
以前も書きましたが戦国時代の川上社と現代の川上社は位置が違うみたいなんです。
地名そのものは北肥戦誌・三瀬村史ともにブレはないのですが、現代の何処になるのかは特定出来ませんでした・・・il||li _| ̄|○ il||l無念
隔して9月13日、勝利は熊川の城で勢を整え7000余騎で河上に出張った。
以下北肥戦誌より神代勝利・山内勢布陣
神代勝利は三瀬武家、三瀬安家、古河佐渡守、古河新四郎ら2000余騎
本陣:淀姫大明神の西の総門
嫡男・神代長良~神代蕃元、神代豊後守、神代兵衛尉、福島勝高、福島利高、中島鑑連、千布家利ら3000余騎
位置:大手宮原口
次男・神代種良~松瀬宗奕、松瀬能登守利宗、杠種満ら1300余騎
位置:淀姫大明神の前・南大門
三男の神代周利~八戸宗暘を付け、西川伊予守らの他、千葉胤誠の家臣らを合わせて1500余騎
位置:川(おそらく嘉瀬川)の東・都渡岐口
ここで一番不安なのが三男・周利の陣でした。
龍造寺隆信のために領地を追われ、神代を頼ってきた新参衆が中心だからです。
龍造寺隆信のせいで城と領地を失い妻子(妻が隆信の姉だった)と生き別れになった八戸(やえ)の方は、
「龍造寺憎し」でブレはないんですが、山内衆のような「我等一心同体~」的な連帯感は到底望めません。
神代も出来れば新参衆は使いたくなかったと思います。
ですが平野部に近い場所で戦うとなると、大軍の龍造寺に対抗する為に一定数の頭数は必要です。
山岳地帯のように隠れる場所のない地形では、寡兵で敵を翻弄する神代の得意技は使えません。
純前たる山内衆のみだと、名尾峠の時を鑑みて動員兵力は5000が限界です。
そして5000のみで龍造寺に勝とうとするなら、山内の中へ誘き寄せて討つしかないんです。
何故なら龍造寺隆信の辞書に「寡兵で戦う」はなく、常に敵より大軍を用意してから動く超慎重派だからです。

今山合戦で夜襲の進言に隆信が、すぐ反応しなかったのも「博打的手法」を好まない性格が働いたかな~と感じてます。
さて龍造寺軍布陣です。
龍造寺勢も8000余騎を率い鶏鳴(夜明け)に出陣。
(あぁ、やっぱ1000も神代より多い(´;ω;`)ウッ)
実弟・信周、従弟・鑑兼、小河信友ら2000余騎
位置:東の都渡岐口
納富信景を大将に2500余騎
位置:西の南大門
隆信は3500余騎
位置:宮原口
えっと・・・・(覚えきれないので)もっと判りやすくすると___φ(.. ) メモメモ
龍造寺隆信3500-----★宮原口★------嫡男・神代長良他3000
納富信景2500-----------★西の南大門★---次男・種良他1300
龍造寺信周・鑑兼、小河他2000---★東の都渡岐口★---三男・周利、八戸、千葉他1500
って形で激突しますよーo(* ̄○ ̄)ゝー!
神代勝利が余ってるがな,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
1561年9月13日、三瀬村史曰く・・・開戦はAM8:00~それは・またの話 by^-^sio