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82【布陣・川上合戦4】龍造寺隆信「道」の巻9

今回、合戦地図なしです~(_´Д`)アイーン
以前も書きましたが戦国時代の川上社と現代の川上社は位置が違うみたいなんです。
地名そのものは北肥戦誌・三瀬村史ともにブレはないのですが、現代の何処になるのかは特定出来ませんでした・・・il||li _| ̄|○ il||l無念



隔して9月13日、勝利は熊川の城で勢を整え7000余騎で河上に出張った。

以下北肥戦誌より神代勝利・山内勢布陣

神代勝利は三瀬武家、三瀬安家、古河佐渡守、古河新四郎ら2000余騎
本陣:淀姫大明神の西の総門

嫡男・神代長良~神代蕃元、神代豊後守、神代兵衛尉、福島勝高、福島利高、中島鑑連、千布家利ら3000余騎
位置:大手宮原口

次男・神代種良~松瀬宗奕、松瀬能登守利宗、杠種満ら1300余騎
位置:淀姫大明神の前・南大門

三男の神代周利~八戸宗暘を付け、西川伊予守らの他、千葉胤誠の家臣らを合わせて1500余騎
位置:川(おそらく嘉瀬川)の東・都渡岐口

ここで一番不安なのが三男・周利の陣でした。
龍造寺隆信のために領地を追われ、神代を頼ってきた新参衆が中心だからです。

龍造寺隆信のせいで城と領地を失い妻子(妻が隆信の姉だった)と生き別れになった八戸(やえ)の方は、
「龍造寺憎し」でブレはないんですが、山内衆のような「我等一心同体~」的な連帯感は到底望めません。
神代も出来れば新参衆は使いたくなかったと思います。

ですが平野部に近い場所で戦うとなると、大軍の龍造寺に対抗する為に一定数の頭数は必要です。
山岳地帯のように隠れる場所のない地形では、寡兵で敵を翻弄する神代の得意技は使えません。

純前たる山内衆のみだと、名尾峠の時を鑑みて動員兵力は5000が限界です。
そして5000のみで龍造寺に勝とうとするなら、山内の中へ誘き寄せて討つしかないんです。
何故なら龍造寺隆信の辞書に「寡兵で戦う」はなく、常に敵より大軍を用意してから動く超慎重派だからです。

人物・龍造寺隆信 龍造寺隆信イメージ画像

今山合戦で夜襲の進言に隆信が、すぐ反応しなかったのも「博打的手法」を好まない性格が働いたかな~と感じてます。

さて龍造寺軍布陣です。

龍造寺勢も8000余騎を率い鶏鳴(夜明け)に出陣。
(あぁ、やっぱ1000も神代より多い(´;ω;`)ウッ)
実弟・信周、従弟・鑑兼、小河信友ら2000余騎
位置:東の都渡岐口

納富信景を大将に2500余騎
位置:西の南大門

隆信は3500余騎
位置:宮原口

えっと・・・・(覚えきれないので)もっと判りやすくすると___φ(.. ) メモメモ

龍造寺隆信3500-----★宮原口★------嫡男・神代長良他3000
納富信景2500-----------★西の南大門★---次男・種良他1300
龍造寺信周・鑑兼、小河他2000---★東の都渡岐口★---三男・周利、八戸、千葉他1500

って形で激突しますよーo(* ̄○ ̄)ゝー!
神代勝利が余ってるがな,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

1561年9月13日、三瀬村史曰く・・・開戦はAM8:00~それは・またの話 by^-^sio
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81【英雄はツライよ!・川上合戦3】龍造寺隆信「道」の巻8

※緑太文字は北肥戦誌より抜粋
永禄4年(1561年)
9月上旬、隆信は山内の神代勝利へ使いを出し、「御辺に対し鬱憤は片時も止む事が無い。ここは両家の行く末を掛け一戦に及び、今月13日、山里の境たる河上へ出張られ勝敗を決しようではないか」。と伝えさせた。


オタの呟きばっかで、ここから先に全く進んでません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

(神代)勝利も龍家を追い出し、肥前を平定せんとの野心があり、これに河浪駿河守を送り出し、応じる旨を伝えさせた。

龍家って呼び方がカッコ(・∀・)イイ!
ところで三瀬村史の方では、決戦の場所を日時を指定したのは神代勝利の方になってます。

神代の返答は「前略)山と里の境たる河上辺へ出向いて見参しよう」で期日を9月13日に定めて使者を返した・・・とあります。
(三瀬村史では使者の名前は不明記)

自分は川上が龍造寺と神代の境界線だったのでは・・・と推測してます。
でもって、川上を選んだのはスペースもさることながら、あわよくば山内エリアに引きこもうとしてたようです。

三瀬村史にある神代側老臣会議でも
「平場で(龍造寺の)大軍と戦っては必ず勝てるとは限らない」
「名尾峠の時のように山内の難所へ誘き寄せて地の利を得れば隆信を生け捕りにして勝つことが出来よう」
との意見が多数を占めたそうです。

と・・・・いうより、それしか勝つ方法がありません。
龍造寺隆信は佐嘉河川流域~佐賀平野にかけて全て手に入れました。
配下に小城郡を領する西千葉家、神埼郡は佐賀江川流域全てと他一部が龍造寺エリア。
山内は平野の熊に押されて、孤立しつつあったんです。

人物・くましろん~ 山内の英雄・神代勝利イメージ画像

せっかく名尾峠で勝ったのに、神代勝利は戦火を広げる事が出来ませんでした。
おそらく山内勢は限界を超える動員をした事で、2日目筋肉痛状態で足が止まってしまったのでしょう。
余力のある龍造寺は方針転換し、打倒少弐に全力投球して、これに勝利しました。
じわじわ~とエリアが狭められていながら、神代勝利は大友を頼ろうとしませんでした。

三瀬村史曰く
「この一戦に勝てば日ならずして肥前を平定し我が掌中に治める事が出来る」(誰の発言か明記なし)

これは郷土史にありがちな盛りすぎ発言と一概には片付けられません。
東肥前において「大物を頼らず」「自立した勢力を目指す」という明瞭な意識があったのは、龍造寺と神代だけだからです。
神代が龍造寺を倒し龍造寺エリアに再び食い込む事が出来たなら、その勢いで少なくとも東肥前は手中に納める事は不可能ではないでしょう。(大友に勝てるかどうかは度外視で)

それと河川流域を利用する知恵は、神代の方にも知識があったと思います。
元々は筑後川流域の「神代渡し(通行権)」を管理してた家柄だからです。
肥前に土着する段階で不主だった山内に目をつけるなど、神代家は龍造寺とは別種の「英雄の匂い」がする武家です (人´∀`).☆.。.:*・
神代勝利が平野部~河川流域を制覇した未来予想図を見たかった・・・(´;ω;`)ウッ

戦国肥前には目ぼしい産業はないと以前に書きましたが、それには山内も含まれます。
山岳地帯のため開墾には限界があり、革製品などの家庭内手工業でもって現金収入を得ていたんです。
もし山内が大友配下になった場合、大友が要求する軍役に山内の生産力が追いつかず経済的に破綻するでしょう。
神代勝利が大友を頼らずに、自立した勢力として歯を食いしばって踏ん張り続けたのは、
単に山岳民族の誇りだけでなく、それ自体が「生き残る為の手段」だったからじゃないでしょうか。

思えば少弐氏はイイ感じに衰退してたので、神輿として担ぐには程よい重さだったんです。
少弐氏の要請で出陣し勝てば、そこは神代エリアo( ̄Д ̄θ★ペタっ足跡つけられた。
でも大友の要請で出陣するのは、筑後とか筑前とかとかメリットどころか出費のみの大赤字。
大友という神輿は、担ぎ手(国人)を潰す重戦車級,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

山内勢は神代勝利を中心に、非常に良くまとまってました。
それで隆信も直接の攻撃を止めて、神代の同盟相手を潰して行く事に方向転換したんです。
「龍造寺さえ倒せば・・・・」それが山内勢のチームワークを支えた希望でした。
結束が崩れるのは「もう龍造寺に勝つのは無理かも・・・」って、山内勢の誰かが思い始めた時です。

その境目が、この川上合戦です。
おそらく三瀬村史にあるように「決戦の日時と場所」を指定したのは神代勝利でしょう。

山内から出て来ない神代勝利を「その気」にさせる為に、龍造寺隆信がワザと神代に指定させたんじゃないでしょうか。
つまり、それだけ龍造寺には余裕があるんです。

日時と場所はソッチ指定でいいよ~などど挑まれては無視できません。
何より、これ以上「龍造寺」と「山内勢」の間に差がつけば、待つのは降伏か大友配下の二択しかない。
今が「運が良ければ」「上手く行けば」「自力で勝てるかもしれない」ギリギリの段階です。
英雄・神代勝利は危険を承知で龍造寺との決戦に挑むのだが、それは・またの話 by^-^sio

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80【エリアKAWAKAMI・川上合戦2】龍造寺隆信「道」の巻7

北肥戦誌曰く、永禄4年(1561年)9月上旬、隆信は山内の神代勝利へ使いを出し、
「御辺に対し鬱憤は片時も止む事が無い。ここは両家の行く末を掛け一戦に及び、今月13日、山里の境たる河上へ出張られ勝敗を決しようではないか」と伝えさせた。


神代側(三瀬村史)と北肥戦誌との記述の差以外に、もう一つ気になる点。

「山里の境たる河上」の部分。

この山里の境って、地形的な意味じゃなくて(神代と龍造寺の)勢力圏の境目を言ってるんじゃないでしょうか?

神域・社領というのは本来は、守護不入で軍事不介入の地域ですから、敵対する者同士の軍事緩衝地帯として国境になってる事があるんです。

地図で見た方が早いでつね~~o(* ̄○ ̄)ゝ「画像出すでつ~古いの使いまわすでつ~」
地図・1558年エリア

これは1558年当時のエリアです。茶斜線が龍造寺、緑斜線が神代エリア
川上社は大和町で、この地図より更にチョイ北、嘉瀬川流域にあります。

1551年に龍造寺隆信がクーデターで肥前から筑後に亡命してた頃。
平野部に勢力を伸ばした山内衆~大財と愛敬島(現:愛敬町)まで神代エリアでした。

その後、いったん和睦した両者。
大財と愛敬島が和融の証(表向きは慶事に対する祝儀)として、神代から龍造寺へ譲渡されます(1554年)

龍造寺隆信と神代勝利が会見し物別れしたのが、大財の西にある多布施。(1555年)
つまり神代勝利の最盛期は、多布施が龍造寺と神代のエリア境界線だったんです。

1558年正月に龍造寺が八戸エリアを分捕ったので、茶斜線境目・・高木瀬あたりが境界線。
駄市川原で神代勢と龍造寺勢が激突してます。
んで、同年に名尾峠で決戦して龍造寺が大敗しました。

龍造寺隆信は、山内で神代と戦う事の愚を悟り、いったん撤収。
アンチ龍造寺たちが神輿として担いでいる少弐氏を倒す事に全力投球し、少弐冬尚を自害に追い詰める事に成功します。(1559年)
これにより龍造寺エリアは佐嘉郡から神埼郡まで広がります。

地図・佐賀江川と犬塚

佐賀江川と犬塚と~で書いたように、商業・経済圏としては佐嘉江川流域まで龍造寺支配下。
が軍事的エリアですと田手川流域にある崎村までが龍造寺エリアです。
崎村の東犬塚が龍造寺配下だから^^b

じゃ上流まで全部が龍造寺か~というと、そうは上手く行かない。
城原川の直鳥犬塚が大友配下オンリーの道を選んで、龍造寺とは一線引いてるからです。
更に直鳥の上流にある横岳が、少弐一門の横岳氏エリア。
ところが城原川を更に上流に行くと、今度は龍造寺に降伏した江上武種の勢福寺がある。

といった具合に神埼郡は、龍造寺エリアと、アンチ龍造寺エリアが錯綜してます。
とりあえずハッキリしてるのは、龍造寺配下・崎村の東犬塚さん~最前線ガン( ゜д゜)ガレ

じゃぁアンチ龍造寺=イコール神代エリアなのか・・・というとノンノンノノン♪
そこで龍造寺が神輿として担がれてた少弐冬尚を倒したのが生きるわけです。

中心となる神輿の中身が殻になった為に、少弐配下とアンチ龍造寺の紐帯が途切れて、おのおの別行動になってるからです。
少弐配下とアンチ龍造寺の立ち位置は微妙に違います。

少弐配下・・つまり旧家臣で一門衆は、ひたすらに御家再興を目指す(事にメリットがある)グループ。
アンチ龍造寺は在地国人で、龍造寺配下になりたくない利害関係が敵対してるグループ。

でもって崩れてきたのが在地国人が中心のアンチ龍造寺たち。
国人は自分たちが生き残るのが最優先。抗しきれないとなれば龍造寺配下となるのを選びます。

つまり神代勝利の同盟相手とは、少弐冬尚を神輿として担ぐという共通項の上で成り立つ同盟関係だったんです。

となると少弐が滅びた今となっては、かつての同盟関係をあてにしての行動は出来ません。
小城郡・佐嘉郡・神埼郡の三郡に跨ってた山内でしたが、上記推移を鑑みるに各郡平野部には神代エリアは残されてないとみたほうが良いでしょう。

まぁ勢力拡大する前に戻ったとも言えますな( ゚Д゚)y─┛~~
決戦するのに相手の領内にノコノコ入る馬鹿をやった龍造寺隆信は、二度と山内には(・A・)ハイラナイ!!と決めてた(と思う)
両者の軍事境界線で、かつ大軍を展開できるくらいのスペース確保となると、川上社周辺しかなかったんでしょう。

とりあえず、この決戦で増純(後の河上実相院座主)の川上社再興活動が、またまた遅れるたんじゃないかと思うのだが、それは・またの話 by^-^sio

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79【記録の温度差・・・川上合戦1】龍造寺隆信「道」の巻6

北肥戦誌曰く、永禄4年(1561年)9月上旬、隆信は山内の神代勝利へ使いを出し、
「御辺に対し鬱憤は片時も止む事が無い。ここは両家の行く末を掛け一戦に及び、今月13日、山里の境たる河上へ出張られ勝敗を決しようではないか」と伝えさせた。


三瀬村史だと、神代勝利が筑前まで勢力を広げた事に恐れおののき、決戦を決意したといった内容になってる。
以前も記事にしたけど、安楽平城(筑前大友五城の一つ)の小田部氏と神代勝利の戦いは、筑前側にデータがありません。
小競り合いで神代が地の利を生かして勝ったのは事実だとしても、今にも筑前平定しそうな勢いで記録されてて、村での伝承は相当盛ってるみたいです^^;

1559年に豊後勢が筑前へ筑紫・秋月退治にやって来た時に、佐嘉も窺ってました。
でも神代勝利や山内と接触がないので、大友氏も小田部と神代が揉めたのを問題視してないか、知らなかったんでしょう。

もう一つ考えられるのは、豊後・大友サイドが、山内・神代勝利を独立した勢力としては見做さず、佐嘉・龍造寺配下にくくってた・・・です。
だから小田部と神代が国境で揉めたのを、龍造寺のした事だと思ったとか・・・
まぁ史料がないので、そのあたりは何とも言えません。

ただ豊後勢が来た時に、当時浪人してた江上や小田が反応したのに神代が動かなかったのが不思議です。
龍造寺隆信を倒す絶好のチャンスでした。

人物・くましろん~ 神代勝利イメージ画像

三瀬村史には、豊後勢が筑前に侵攻してきて佐嘉も窺い最終的に龍造寺と和睦したあたりが、スッコーーンと抜けてます。
もしかしたら・・・いえおそらくワザと記録しなかったんでしょう。
江戸期成立の史料は、佐賀藩独特の大人の配慮が入るのが往々にしてあるからです。

想像するに、神代勝利もまた「自立した勢力」を目指し「大友の支配を嫌った」です。
コッチの方が自然です。
神代勝利は龍造寺と似てます。偏諱を受けず誰からもマーキングされてません。
山岳民族である山内の諸氏は神代を頭領として、龍造寺の支配を拒んだけど、だからと言って他の誰かの配下になって保護を受けようとはしてません。

龍造寺隆信がピンチでも大物を頼らなかったように、神代勝利も自力で己の運命を切り開こうとしてました。
龍造寺隆信と神代勝利は「似てるけど違うタイプの英雄」と、かつて自分が記事に書いたのは、そういう事なんです。

どちらも戦国大名化が目的。
龍造寺と神代は戦って決着をつけるしかない宿命のライバルなんです~ 
(人´∀`).☆.。.:*・←このカードだと神代贔屓の管理人

んで、1559年に侵攻してきた豊後勢の兵力予測が、6千~1万弱って話になる。
今山合戦ほどの大軍なら、大友につくのをキッチリアピールしないと、龍造寺サイドと思われて攻撃されちゃいます。
6千~1万弱くらいで筑前征伐の合間に寄り道IN佐嘉なら、傍観してたって(・∀・)イイ!

龍造寺と豊後勢が潰しあうのを期待したんじゃないかな~~と思ったりする。
逆に龍造寺を潰すのに豊後勢が神代を利用しなかったのも不思議なんですけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
豊後勢大将・田北鑑生は筑前方分、筑後方分の地位にいた人物で、武勇は勿論ですが北九州情勢に詳しいからの人選のはずなんです。

どうも肥前に関して大友の行動は、後手に回る事が多い。
筑前で定期的に謀反が起きるために、意識が筑前に集中しちゃうのも影響してるのかもしれませんね^^;

でもって1561年当時、神埼郡まで勢力を伸ばしつつある龍造寺に対し、
神代勝利は決戦を挑むだけの体力があるギリギリの段階でした。


これ以上の差が広がれば、いえ今現在でも単独決戦は難しく、援軍がなければ兵力不足なんです。
クールな北肥戦誌の記述と、盛り放題の三瀬村史の記述の差に、神代勝利の焦りを感じるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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78【佐賀江川と犬塚と・後編】龍造寺隆信「道」の巻5

ここまで調べて考え付いた推論・・・・
急成長した龍造寺の資金源は、河川流域舟運と河川&河口港からくる運上金ではないか?です^^
え?それだけで賄えるの?と言われると、数字的な根拠が出せないので弱い推論なんですけど^^;

繰り返すように肥前は物凄~~~~く川が多い^^;
江戸期のような本格的回漕業は未だ発達はしてないですが、戦国期に河川港・河口港は開発されてました。
物資の殆どが先ず河川舟運で運び河川港で陸揚げされて、陸路で各地に運ぶのは「それから」なんです。
ですから他国より扱う物資量がケタ違いになると思われるので、運上金も(・∀・)ウフフな感じかな~と。

それと佐賀県民には非常に恐縮なんですが・・・・( ̄ω ̄A;アセアセ( ̄ω ̄A;アセアセ
戦国期の肥前には目ぼしい産業がない・・・il||li _| ̄|○ il||l

貿易港長崎は龍造寺エリアじゃない。
殖産事業・有田焼を始めたのは鍋島様時代から。
佐賀県は知る人ぞ知る「農業王国」で、佐賀県産玉ねぎ等々をシオも美味しく頂いてるんですが、
それは江戸期以降の大規模干拓事業の賜物でして、戦国期の生産量は未だ自然にお任せコース。
金山もないし、金貸しに励んだという話も聞かないし・・・
それと龍造寺隆信は南蛮貿易に熱心じゃなかったです(キリシタンが嫌い)
となると、残るのは舟運事業からくる収入くらいしか思いつかない。

まぁ、これは史料的かつ数字的根拠が提供できないのでオタの妄想と読み飛ばして下さい^-^

地図・佐賀江川と犬塚

隆信は1560年に蒲田江城から西犬塚を追い出してますが、翌年(?時期不明)和睦して戻してます。
蒲田が江(港開発前)で、未だ津(港開発後)になってないから返したんでしょう。
西犬塚の室は隆信の妹なので、蒲田江が龍造寺勢力下である事に変化はない「はず」だから。

後年、今山合戦の際に西犬塚は大友に寝返ります。
怒った龍造寺隆信は西犬塚を許さず生き残った嫡子を始末し、妹の産んだ男子だけ助命しました。
蒲田江が経済的に重要度が高い土地だったからじゃないかな~と思うんです。

とにかく蒲田江を手にした事で「佐賀郡から神埼郡の佐賀江川まで」物資流通ライフラインは龍造寺の勢力圏になりました。
城原川流域にある直鳥(犬塚一族・神埼市千代田町直鳥)は大友配下で、龍造寺とは馴れ合ってません。
アンチ龍造寺の横岳(神埼市神埼町横岳)や山内の神代と繋がってたかもです。
従って1560年当時、城原川流域は未だ龍造寺エリアではない。

で、前回書いた「佐賀江川から船運で来る物資を、途中の土地で陸揚げせずに真っ直ぐ今宿まで運ばせ、今宿で陸揚げ」されると大打撃を受ける方が約一武家。
それが佐賀江川流域・蓮池城(神埼市蓮池町、現・蓮池公園)の肥前小田氏です。
もともと小田氏は佐賀郡・今宿(八田江川起点)に陸揚げされる物資にライフラインを依存してました。
が、今宿は勢力拡大した龍造寺エリアに入ってしまう(-ω-;)ウーン

そういった経済面のプレッシャーが肥前小田氏をしてアンチ龍造寺に走らせたと思います。
メインのライフラインは八田江川起点である今宿でしたが、おそらく佐賀江川舟運が肥前小田のセカンドライフライン。
セカンドなのは佐賀江川起点の蒲田江が津(港)になる前で物資大量陸揚げが出来ず、舟で運べる分だけに物資量が限定されるからです。

佐賀江川流域まで龍造寺エリアになったら、肥前小田氏は完全に経済封鎖されます。
水道の蛇口をひねるように、今宿で龍造寺が水道(物資量)を締めたら、たちまち品薄になり物価は上昇。
全品目に検閲かける手間はいりません。対象商品は米と塩だけで充分。何時でも肥前小田をドライアップ出来ます。

ただし、それを龍造寺が敢行した・・・という意味で書いてる訳じゃないです^^;誤解シナイデネ

家紋・竜造寺

上記、間接的な兵糧攻めは、、、何といいますか正規の武家が採択する手段じゃないというか、
タイミングが不味いと龍造寺が人心を失いかねません(巻き添えで被害受ける領民に恨まれる)
あと武功がたてられないから、家臣団から不満が出ます。
それと運上金が減ったら龍造寺の損です。
重要なのは蒲田江が龍造寺エリアになることで、肥前小田の蓮池城下が龍造寺カンパニー商業圏にスッポリ入った事です。
肥前小田氏は龍造寺に従わざるを得ず、龍造寺との関係強化に努めます。
が、龍造寺は資金源(と思われる)河川流域は直轄地か、もしくは一門衆で固めたいのが本音。
政治的に肥前小田がフラフラ(大友へ寝返り?)してたのもあり、結局は揉めます。

さて、佐賀江川と犬塚を通じて、龍造寺の懐具合を考察(妄想)した本シリーズは如何でしたでしょうか(*´pq`)クスッ
神埼郡に龍造寺エリアが伸びてきたところで、いよいよ神代勝利との決戦ですが、それは・またの話 by^-^sio

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77【佐賀江川と犬塚と・中篇】龍造寺隆信「道」の巻4

1560年(永禄3年)北肥戦誌曰く
犬塚尚重が隆信により、領地・蒲田江から追われる(詳細不明)


詳細不明の背景を素人考察(妄想ともいう)するための中篇^^/

さて、自分は龍造寺関連書庫のアチコチで「龍造寺は佐嘉郡・河川流域に向かって勢力拡大してきた」と書いてました。
それは神埼郡もだったんです。

旧少弐エリアで、未だ龍造寺に服さない少弐残党がいる神埼郡で勢力拡大するにあたって、
龍造寺は佐賀江川流域に勢力を広げていったんです。

地図・佐賀江川と犬塚

佐嘉郡と神埼郡を繋ぐ河川が佐賀江川で、その佐賀江川と城原川が分岐する起点にあるのが、西犬塚の蒲田江でした。

「江」とは湖沼地のことでして、河川港として開発されて初めて「津」と地名が変化します。
西犬塚を蒲田江からo( ̄Д ̄θ★ケリッ! と追い出したのは、河川港として開発する為ではありません。

蒲田江は河川港有望地ですが、それは将来の展望であって、今現在の目的は既に河川港として機能している「今宿の為」でしょう。
佐賀江川から船運で来る物資を、途中の土地で陸揚げせずに真っ直ぐ今宿まで運ばせ、今宿で陸揚げさせる為です。
龍造寺エリアの今宿に物資を集中させる事により、今宿は一層栄え、支配者である龍造寺の懐を潤します。

家紋・竜造寺

「河川流通と河川港が富をもたらす事」を、龍造寺は少弐氏から学びました。
大内に敗れる前に少弐を一時的に中興させた少弐政資。
その少弐政資が佐嘉郡に作ったのが河川港・今宿と河口港・今津&相応津でした。

龍造寺剛忠(家兼)は、少弐氏が衰退し佐賀郡を維持できず神埼郡に拠点を移すと、
(少弐にバレないように)これら港を有する河川流域の豪族を手なずけ支配下に治めています。

幾筋も網の目のように河川が走る肥前では、物資流通ルートの多くを河川舟運に依存していました。
従って「河川流域を支配する」事は、他国とは比較にならない程の重みがあるんです。

龍造寺時代では蒲田江は土地開発されてなかったようです。
神埼郡では何だかんだと少弐残党が結構地味に粘ってたんで、やりたいけど先延ばししてたかな~と憶測してました。
江戸初期(正確な年度が判らんばい)に蒲田江は土地開発され「河川港・蒲田津」としてリニューアル。
佐嘉郡における今宿のように、神埼郡の河川港として繁栄しました。


さて、現代では想像もつかないほどクネクネと蛇行していた佐賀江川。
ゆったりした川の流れは船運に適し、江戸期は百石船が盛んに往来してました。
が、ちょっと困った点もあります。

それは蛇行の為に排水能力が乏しかった事です。
そのために有明海が満潮になると、河川が逆流現象を起こし佐賀江川流域は大規模浸水しちゃうんです^^;
このような欠点があるのも関わらず佐賀江川の蛇行は手を加えられる事無く、そのままでした。
何故なら逆流現象で溢れた淡水(川の水)が、周辺の土地を肥沃な農地へと変えてくれるからです。
農業用地としては、もう最高!の土地で収穫された米や野菜の良質な事といったら・・涎っ!

比較するのもアレですが、佐賀江川の満潮時逆流現象はイメージとしては「古代エジプト文明におけるナイル河の氾濫」みたいなものです^-^
その為「佐嘉治水の神・成冨茂安は、佐賀江川の蛇行に手を加えてはならぬ(`・ω・´)キリッ」と遺言してたほどなんです。

江戸・明治・大正・昭和と4つ時代に跨る約300年間、成冨の遺言は守られ佐賀江川が開発される事はありませんでした。
が国道・県道が整備され陸のピストン運送が可能になると、ドンブラコ佐賀江川の舟運は逆にコスト高。
逆流現象を止めて周辺を土地開発・有効利用したい~~~という欲求が当然出てくる。

昭和50年代、ついに佐賀江川の蛇行に手を加えるショートカット工事が行われる
治水の神の遺言破りですからね~地鎮祭はガッツリ気合い入れただろうな(*´ー`)
蛇行してた河川部は完全に削られ、佐賀江川は直線(道理で妙に真っ直ぐなはずだ)となり、蒲田津防潮水門(水門の奥は蒲田津排水機場)が建設され、 河川港・蒲田津の歴史も終わった。
ちなみに満潮時の排水のための防潮水門は、蒲田津の他に牛津江、本庄江、八田江にもあります^^b

土地は蒲田津から大字小松と改名され、名残としてあるのが防潮水門の名とバス停「蒲田津橋」前^^;
あと河川港としての史跡(商家など)が残ってるくらい( ̄ω ̄A;アセアセ
蒲田津の前身である「蒲田江」の名残は1ミクロンもない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
道理で蒲田江城も小松城も、遺構・史跡ゼロのはず、今となっては正確な位置するら定かじゃありません。

さて、龍造寺が河川の起点である蒲田江をゲッツし、佐賀江川流域を支配下にしたのには、
もう一つ理由が考えられるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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76【佐賀江川と犬塚と・前篇】龍造寺隆信「道」の巻 3

1560年(永禄3年)北肥戦誌曰く
犬塚尚重が隆信により、領地・蒲田江から追われる(詳細不明)


この簡素な一文が、どうしてもどうしても気になってました。
オタカテゴリ(自分にとっての)武家家伝に筑後編・筑前編4話をUPして、犬塚氏の概略そのものは大体つかめました。

でも蒲田江城から東犬塚当主・尚重を、龍造寺隆信がo( ̄Д ̄θ★ケリッ!とした理由は出て来ません。
てか、蒲田江の場所そのものが判らんげな!ヽ(。_゜)ノ

龍造寺隆信は己れの妹を犬塚尚重継室として嫁がせていました。
蒲田江の西犬塚は庶流です。本家の崎村城・東犬塚でなく庶流の方と龍造寺は縁戚関係になった。

犬塚尚重は獅子王と異名をとるほどの武勇の持ち主でしたが、それを見込んで妹を嫁がせるような遊び心は、隆信にありません。
何故なら、龍造寺隆信には実娘がおらず、義娘で養女の於安しかいないからです。

従って龍造寺隆信の姉や妹は、一族婦女子の中での地位は高かったはずで、嫁ぎ先全て政略結婚。
その少ない貴重な駒を犬塚尚重へ娶せるには(龍造寺にとっては重要な)理由があるはずです。

で、この一か月コツコツコツコツと蒲田蒲田蒲田江と色んな角度で検索かけてたらキタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
てことで出来立てほやほや~最新ゆるふわ戦国地図↓
地図・佐賀江川と犬塚

蒲田江とは平成の現在、佐賀県神埼市蓮池町大字小松にありました。
その中でも特に城原川と佐賀江川の起点となる位置だったんです。
後に活躍する犬塚鎮家の小松城も、大字小松の中で蒲田江御近所にあったんじゃないでしょうか。

本家・東犬塚の崎村城は田手川と県道15号が交差するあたりで、神埼市千代田町崎村・・・ではなく、その少し北の渡瀬というところにあったとです。

龍造寺とは一線を画す大友配下の直鳥城は、神埼市千代田町直鳥の直鳥クリーク公園のあたり。
国道264号線に近いんですけど、ゆるふわ地図に書ききれんかった^^;
矢印↑があるように、もうちょっと城原川の上流にあるんです。

ちなみに城原川を、もっと上流に行くと、亡き少弐冬尚がピンチになると引き籠ってた・・・ゲホグホゴホ
勢福寺城なんです^-^

蒲田江の位置が判って、やっと得心しました。
本家・崎村の東犬塚よりも、分家・蒲田江の西犬塚と縁戚関係になるほど重要視してたのは、
蒲田江という土地そのものが、龍造寺にとって極めて魅力のある土地だったからなんです。

軍事的理由は希薄で経済的理由がメイン。

分岐する河川の起点となる「○○江」と呼ばれる土地は、河川港立地条件の全てを満たす第一等地。
更に一つ。
佐賀江川も舟運に適する素敵な蛇行をしてました。

平成の現代、佐賀江川はダイエットスリムして、ボンきゅっボンの蛇行がなくなってます。
ゆるふわ地図では気分を出すために、適当にクネクネさせときました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

川が大曲り~小曲り~て具合に川が蛇行するって事は、
川の流れは、まったりゆったりドンブラコッコと舟で往来するのに、ちょうどバッチリ(=^・ω・^=)v ブイ

佐賀江川をドンブラッコッコと西へ進むと、やがて神埼郡から佐嘉郡へと入ります。
佐嘉郡における河川・寄港地が、龍造寺エリアにある「今宿」!

もう表向きの理由なんか、どうでも宜しい(爆
龍造寺は、蒲田江が欲しかったから、とったとしか・・・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
ここまで書いて、ふと思ったが・・・・
龍造寺家から嫁を貰うって、何気に婿側に死亡フラグが立つような気がするのだが、それは・またの話 by^-^sio

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75【大友チャネラー・鑑兼(あきかね)後篇】龍造寺隆信「道」の巻2

龍造寺左衛門佐鑑兼、この時は若干18歳。
この若さで担うには大役だが、龍造寺では大友とコネクションがあるのは、この鑑兼しかいない^^;

戦国オタならピンとくるが、龍造寺鑑兼は大友家から偏諱(へんき)を受けてるんです。
みなさ~ん、プロローグ・偏諱と龍造寺を思い出しながら読んでくださぁ~~(* ̄○ ̄)ゝーいぃぃぃぃぃぃ!

鑑の一文字は大友義鑑からの偏諱。

1530年「二階崩れの変」で襲われた怪我が元で死んだ大友義鑑。
「二階崩れの変」の黒幕、実は大友義鎮(宗麟)かも~って噂があるとか。
亡き大友義鑑と義鎮の親子仲は絶望的な不仲だったとか。
それは今回は、どうでも宜しい。

畠山・豊後勢に陣で左衛門佐鑑兼が会うのは、同じ鑑の偏諱を受けてる田北鑑生だ。
が、実は左衛門佐鑑兼・・・本来であれば鑑の偏諱を受けられる立場ではありませんでした。

家系図・龍造寺系図①

プロローグに緑文字でチラリン~と書いてたんですが、偏諱には他にもルールがあるんです。

それは「主君からみて陪臣(家臣の、そのまた家臣)には偏諱を与える事は出来ない」です。
理由はシオにも判りません。
「ならぬものはならぬ(`・ω・´)キリッ」で慣習だからとしか・・・
しいて言うなら、家臣の家臣にまで偏諱したら君臣の関係がグダグダになるからだと思います。

隆信が龍造寺の総領である以上、鑑兼は一門とはいえ家臣の席に連なる事になります。
従って隆信の頭越しに、大友や他の大物が偏諱する事は出来ません。

亡き剛忠(家兼)と子弟が誰からも偏諱を受けなかったのは、この偏諱ルールもあったからでしょう。
剛忠(家兼)は実力では宗家を凌ぎ、少弐から領地を拝領し直接被官になってます。
だから本気で偏諱が欲しければ、ゴリ押し出来たはず。
でも、それやると自立したい剛忠(家兼)の本音がバレバレになるのでしなかったんだと斜めに推測(爆

つまり家臣の家臣の立場なのに偏諱を受ける変則パターンとは、100%以上の確率で御家が揉めてる時って訳です
隆信の相続に不満だった者が、まだ数え12歳だった鑑兼を担ぎ出し、大友の後ろ盾を得るために偏諱を受けさせたんです(1551年)。
結果としてクーデターは鎮圧され、鑑兼クン12歳(当時)は傀儡だったという事で許されました。

キッカケはともかく今となっては龍造寺内部で大友に所縁のあるのは、左衛門佐鑑兼しかいません。
本人が、どう感じてたかは不明ですが、鑑兼は年上の従兄弟甥に仕え、彼の息子は諫早龍造寺の祖となります^-^

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

肝心の和議ですが北肥戦誌では「畠山の豊後陣にて和議を求め、これを容れられた」とアッサリ。
自分は秋月編で田北の率いていた兵数を「6千以上の1万未満」と推測してました。
つまり他面作戦を取れるほどの大軍ではなかったと思うんです。

今山合戦では大友勢は6万と言われてます。
さすがにそこまでじゃないにしても2、3万くらいあれば、筑紫と秋月の鎮圧は早期決着してるだろうし、この段階で龍造寺を潰せたと思います。

何故なら田北鑑生という武将は、自軍が有利だと慢心し陣中で宴フィーバーするような愚か者じゃないからです。
田北相手に佐嘉勢が夜襲を仕掛けても、不首尾に終わるか大きな戦果は得られなかったでしょう。
つまり「沖田畷の戦い」以前までなら、龍造寺隆信は凄い強運の持ち主だったんですよ~^^b

さて、何とか和議が調ったので、ボウフラのように湧いて出てきた少弐残党を何とかしなきゃ~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
まだ豊後勢はいるぉ・・|畠山の豊後陣|_ ̄)じぃー。。。少弐残党と揉めると変に勘繰られて和議が破綻するかも・・・
(結果)
小田鎮光に旧領5000余町を安堵し蓮池城へ帰還させ、江上武種にも2500町を返し勢福寺城へ帰らせる
と、大友勢は陣を返して筑前若宮庄の河底という場所へ陣を移し

助かった・・・筑前へ引き払ったか・・il||li _| ̄|○ il||l
数か月の籠城に力尽きた秋月が降伏すると筑紫も降伏、てことで豊後勢は筑前からも撤収。
以後、佐嘉周辺は一時的に平穏となる。by北肥戦誌
心の底から迷惑だったようです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

さて、落ち着いたところで龍造寺隆信は神代勝利と決着をつけようと思い立つのだが、それは・またの話 by^-^sio

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74【大友チャネラー・鑑兼(あきかね)前篇】龍造寺隆信「道」の巻1

戦国大名としての道を歩み始めた龍造寺隆信の前に立ちはだかるのが、キングオブ九州の大友義鎮。
何度も言うが大友家は義鎮(=宗麟)の代で最盛期の絶頂期のイケイケGOGOを迎え、時代の風は今まさに大友に吹いてるネ!って感じ。

人物・大友宗麟

今山合戦に至る前の龍造寺は大友との直接対決を避けるため、のらりくらりと誤魔化していました。
で、それには高確率で秋月と筑紫が絡みます( ̄ω ̄A;アセアセ

というのも大友が「あいつら許せん~筑紫と秋月退治だァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」と北九州に大軍を派遣するから。
んで、やって来た豊後勢「ついでに最近調子こいてる佐嘉勢もやっちまうか~」という流れになる。
未だ戦国大名としてはヨチヨチ歩きの龍造寺にとって、筑紫と秋月がハチャけるのは非常に迷惑な事だったんです^^;

1559年、ついに少弐冬尚を自害に追い込み、勝利を掴んだ龍造寺隆信。
とはいえ少弐一門の横岳氏、山内の神代勝利などのアンチ龍造寺は健在で、予断は許さない状況ではありました。
それはそれとホッと一息ついたのも束の間。
同年に筑紫惟門がヒャッハーと博多を襲い、大友派遣の代官を殺した。
筑紫に呼応した秋月種実も古処山城に籠る。

勢いづいてた筑紫勢は、初期の段階では豊後勢を撃破o( ̄Д ̄θ★ケリッ!
この時に戦死した豊後勢の中にいたのが直鳥犬塚氏の当主と嫡男だったらしく、後年に武名を轟かす犬塚鎮家が直鳥の家督を継ぐ事となる。

全盛期の大友氏は、綺羅星の如く優れた武将の宝庫でした。
筑紫・秋月討伐の為に派遣された大将は、田北大和守鑑生(`・ω・´)キリッ
大内VS大友「勢場ヶ原の戦い」で、大内勢で名将と呼ばれた陶興房を見事撃退した人物です。

地図・秋月謀反1559年その2
紫ライン~筑紫惟門の動き(秋月は籠城一筋)
緑ライン~大友・田北鑑生勢の動き

古処山城は要害で中々落ちないし、筑紫とは決着つかないまま五箇山に逃げ込まれるしで、戦線は膠着状態になりました。

北肥戦誌曰く
「豊後勢は古処山を開き、佐嘉まで攻め入らんと欲し、8月28日に畠山まで陣を寄せた。」

地図の番号は時系列順で豊後勢が畠山に移動したのが⑥です。
ただし方角はテキトー,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
畠山の位置が特定出来なかったんです~~~~~il||li _| ̄|○ il||l無念

同盟関係だった少弐氏が龍造寺によって倒された事は、既に情報として大友に届いていたんでしょう。
田北は戦線が膠着した筑紫と秋月だけに拘るのを止めて、先に肥前で台頭した龍造寺を潰そうとしたんです。
発想が柔軟+フットワークの軽さ、流石は田北鑑生です(^ -)---☆Wink

再び北肥戦誌より
これ(大友の動き)を聞いた小田鎮光と江上武種は、このとき龍造寺の為に浪人していたが、大友に合力せんと動く。
(小田)鎮光はまず私領の三潴に至り従者600余人を集めた。


大友を如何に防ぐか(-ω-;)ウーン(-ω-;)ウーンと考えた龍造寺家中。
「そうだ!和睦しよう(・∀・)ピコーン★」と決した。

大友との交渉の為、隆信の代理として赴いたのが「龍造寺左衛門佐鑑兼」だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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73【プロローグ・偏諱と龍造寺、後篇】龍造寺隆信「道」の巻

なんとか後篇で収まりそうです( ̄ω ̄A;アセアセ

「自立した勢力になる」これは亡き剛忠(家兼)の密かな悲願で遺志・・
と、前回書きましたが、もちろん遺言とか日頃の言動に残ってる訳でなく、あくまでも素人シオ推測^^

これは龍造寺の系図を見てて思いついた事なんです。

家系図・龍造寺系図①
こちらシオ作の簡単系図。
サイト武家家伝には詳細な大系図があります^-^

村中龍造寺宗家の系図(黒と緑ライン)人物の諱に見られる「胤」の字は、おそらく西千葉家からの偏諱です。
が方や剛忠(家兼)の水ケ江龍造寺(青ライン)・・・偏諱を受けてる人物はゼロ。

正確に言うと、剛忠(家兼)が実権を握っている間、千葉、少弐、大内、大友などの大物から偏諱を受けてる人物がいないという事です。

宗家が偏諱を受けてるからじゃない?
いえいえ、そういう問題じゃないでしょう。ここは大事なところですよ。

何故なら剛忠(家兼)は、分家でありながら村中宗家を凌ぎ、直で少弐資元から領地(川副千町)を与えられてるんです。
実質的に被官(室町期の家臣で緩やかな主従関係)になりながら、自分はともかく子弟に偏諱を受けさせないというのは外交関係儀礼上どうなの?って事。

繰り返しますが「偏諱」はテリトリー主張の匂い付け、マーキングと一緒です。
一度、偏諱を受ければ誰の配下か一目瞭然。
諱を日常で使うことは無いけれど、正式・公式文書・行事などでは本姓官名諱を名乗るので、偏諱を受けているが露わになります。

剛忠(家兼)は領地という実は拝領するけれど、偏諱というマーキングは拝領しなかった。
誰かのマーキングや○○サイド・・・的な色分けされるのが嫌だったんじゃないでしょうか。

実は自分・・・龍造寺が少弐の被官だったかどうかと言う基本的な事で判断に迷い躓きました。
龍造寺は元々が肥前千葉の被官だから、系図にあるように偏諱を受けるのは「胤」ばかり。
どの段階で少弐被官になったのか境目が判らなくて悩んだんです^^;
まぁ、その悩みはカテゴリ「地図から見た少弐と龍造寺」で解決しました( ̄ω ̄A;アセアセ

人物・剛忠小 剛忠(家兼)イメージ画像

剛忠(家兼)は全ての実権を握りつつ、表向きは宗家を立てて西千葉からの偏諱のみ(宗家が)拝領してます。
少弐の御家再興が成功するかどうか微妙な段階で、少弐から偏諱を受けるほど深入りしたくない。
龍造寺は元々が肥前千葉氏の被官なので、西千葉からの偏諱が対外的に一番無難な選択だからでしょう。

何処からも偏諱を受けない・・・というチョイスは原則的には不可能です。
千葉の西か東か、少弐か大内か(大友も時々混ざる)で揺れる肥前の地で、誰からのマーキングを受けないって事は、下手すれば双方から攻撃を受けて潰されます。
でも剛忠(家兼)は密かに「誰からも偏諱を受けない選択」をしてたんです。

その証拠が系図・・・水ケ江龍造寺は剛忠(家兼)生存中に、千葉からも少弐からも大内・大友からだって偏諱を受けてません。
これには様々な配慮の上での選択だと推測されます。

綺麗に言うと(実力的には宗家を凌いでたけど)分家という立場なので偏諱は遠慮した・・・です。
もし人から聞かれたり偏諱を進められたら、剛忠(家兼)は神妙な顔で、そう答えたのではないでしょうか。

でも少弐が神埼に本拠地を移したのをラッキーとばかりに、少弐領だった川副・与賀の豪族をチャッカリ手なずけてる剛忠(家兼)が、そんな殊勝な心がけだったとは到底思えません(爆

剛忠(家兼)は西か東か少弐か大内かで揺れる情勢の中で、生き残りをかけた「自立した勢力への道」を歩み始めたのでしょう。
長男⇒次男(長男の養子)⇒長男嫡子(次男の養子)⇒予測:次男家男子の誰か?
という摩訶不思議な変則相続も、剛忠(家兼)の「自立した勢力への道」構想の一環だったかもしれません。
でなければ剛忠(家兼)生存中の段階で、相続に対して不満噴出になるはずだからです。

剛忠(家兼)は偏諱を受けないだけでなく、自分が偏諱を与えていました。
剛忠(家兼)から偏諱を受けたのが石井家の五男・石井兼清。

系図~高木・於保・龍造寺の関連系譜
於保氏の系図で宗益には娘がいました。
剛忠(家兼)からみて曾孫娘でして、その婿が石井兼清。
剛忠(家兼)から偏諱を受けた時から、石井兼清は単なる縁戚から水ケ江龍造寺の家臣となったんです。

「誰かに偏諱する」という行為は、一国人領主の行う事ではなく「自立した勢力」のする事です。
石井兼清の偏諱拝領を部外者(少弐とか千葉)が知ってたかは判りません。(諱は普段使いする名ではない)
でも水ケ江龍造寺家中は知ってた筈です。

自立の中に宗家からも独立するが入っていたのかは、剛忠(家兼)が何も残してないから不明です。
でも剛忠(家兼)が龍造寺独自の路線を歩もうとしてたのは、敏感な者は感じ取ってたかな~と思うんです。
そういう下地があったからこそ、龍造寺隆信が「戦国大名への道」を選んだ事に対する一門からのクレームが無かったのでは?

隆信に不満があった者は、初期の段階でクーデターを起こして失敗してます。
残ったのは「戦国大名化への道」を亡き剛忠(家兼)の遺志ととらえ、隆信と共に歩もうと決意した者たちです。
龍造寺の急成長と強さの秘密は、そこにあったのだ!
・・・(人´∀`).☆.。.:*・ と楽しく妄想してました~ではでは本編再開~それは・またの話 by^-^sio

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72【プロローグ・偏諱と龍造寺、中篇】龍造寺隆信「道」の巻

中篇にしてみたけど、あと1話で終われるか?(-ω-;)ウーン

龍造寺隆信は、大内義隆から偏諱を受けて被官となった(はず)にも関わらず、被官らしいことはしてません。
偏諱の御礼言上に大内義隆に拝謁なし(たぶん使者のみ派遣)
山口には龍造寺の屋敷がない・・・つまり龍造寺隆信は一度も山口に出仕してないと言う事です。

大内義隆が「大寧寺の変」で陶晴賢に討たれたので、龍造寺が大内の命令で兵を出す事もありませんでした。
もしかしたらVS少弐の為なら、大内の要請に応じて出兵したかもです。

どうも龍造寺隆信には「誰かの被官(室町風の家臣)or配下になる」
・・・って、チョイスが初手からないように感じます。
これは隆信が僧侶出身だった事と関係してるかもです。
一寺の住持(つまりTOP)で誰かの家臣になるという武将としての経験がない。
さらに隆信自身が誰かに頭を下げる事をしたくない・・つまりプライドが高かったのでは・・・と感じます。

人物・龍造寺隆信 隆信イメージ画像

前回、偏諱はマーキングと同じだ(`・ω・´)キリッと書きました。
偏諱を受けたら「お前は俺の子分」と強烈な匂い付けをされるわけです。

龍造寺隆信は大内義隆から偏諱を受けた以降、誰の偏諱も受けませんでした。
誰かのマーキングを嫌ったんじゃないでしょうか。
誰の偏諱も受けないために、隆信の名乗りを変えずにいたかもです。

その代わり、嫡男の政家には大友義鎮から偏諱を受けさせてます。
龍造寺隆信にとって偏諱は「誰かの家臣になる為」ではなく、「外交手段のカード」なんです
まさしく典型的な戦国武将で、外交手段だから本気で配下になるつもりなど毛頭ない。

大友と和睦して嫡男に偏諱を受けさせ、大友を喜ばせるのは一時の事。
子弟を府内へは出仕(人質)させないし、八朔の日恒例の儀式「豊後参り」は当然の如く不参加。
(大友から見て)勝手に兵を出し領地を広げ「既得権益」として有耶無耶にして認めさせる。
大友にとって、これほど腹の立つ、傲岸な男はいないでしょう。

家紋・竜造寺

偏諱を受けない・・・誰の配下にもならないと心中決めていた・・と、思われる隆信。
だから瀬戸際のピンチになっても、隆信本人は大物を頼る事はしてません。

亡き村中龍造寺当主は、少弐の陰謀でピンチになった時に大内義隆を頼り、大内から肥前守護代の地位を得てます。
これが普通の国人領主の反応なんです。

隆信は「自立した勢力である立場は譲れない(`・ω・´)キリッ」とばかりに、どんなにキツクても踏ん張り続け家臣らと力を合わせてピンチを切り抜けます。
この矜持があるからこそ「戦国大名」として、「頼れる御大将」になりえたのでしょう。

実は先日、監修さまから興味深いHPの紹介を受けたんです。
僧侶の美醜についてでして「僧侶になるのは醜男」という、現代ではビックリの話でした。
昔は美醜について明確な差別があり「美しい者は前世において善根を積んだ者」「醜い者は前世の悪徳の因果の報い」という偏見があったそうなんです。
醜男は今世で善根を積むために僧侶になる(-人-)☆彡オネガイ って話。

て事はですよ。龍造寺隆信は7歳にして僧侶にならなければならないほど残念な顔?ヽ(。_゜)ノ へっ?
確かに残ってる肖像画を見ると、お世辞にも美男とは言い難い御姿( ̄ω ̄A;アセアセ
隆信の出家を決めた剛忠(家兼)は、室町末期の人物なので上記の美醜感覚の持ち主だったと思われます。
村中未亡人が隆信に中々靡かなった事。隆信自身の恋バナ無し。側室がいたかすら不明。
というのも加味すると、「出家させるしかない残念な・・説」は真実味がありそう^^;
まぁ水ケ江龍造寺は長男⇒次男⇒長男家の変則相続を繰り返してたので、それもあって隆信を相続から外したのもあるかもです。

修羅の戦国時代に入ると武将にとって美醜は二の次三の次。武勇・実力が全て(`・ω・´)キリッ
同時代人である権現様も「美醜関係ない~戦キズが元なら寧ろ名誉」的な発言されてます。
もともと古代日本では「醜しこ⇒四股」となったように、醜さは強さ異能の証でした。
醜女であるイワナガヒメは、健康と神レベルの長寿の象徴。
「人と違う=神秘性」であり、龍造寺隆信の神童・英雄伝説にカリスマ性をもたらしたのかもしれません。

話戻って、面白いのは分家出身である龍造寺隆信の、一見無謀に見える踏ん張りに龍造寺一門が付き従った事です。
龍造寺は誰の配下にもならない。
龍造寺よ、誇り高く自立した勢力たれ!


いかに龍造寺隆信が英雄的資質・上記のようなカリスマ性を持っていたにせよ、分家出身の当主が一門の意思統一を完璧に出来るものでしょうか。
自分は龍造寺隆信の才覚だけでなく、剛忠(家兼)の代からの布石が生きたのだと感じます。

なぜなら「龍造寺剛忠(家兼)も、誰からも偏諱を受けなかった人物だから」です。
「自立した勢力になる」これは亡き剛忠(家兼)の密かな悲願で遺志だったと思うのだが、それは・またの話 by^-^sio

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71【プロローグ・偏諱と龍造寺、前編】龍造寺隆信「道」の巻

新章に入る前に、ちょっとボンヤリと考えてました。
記事の文章を推敲してるうちに、別に分けた方がいいかな~って(自分の脳内整理)
思いつくまま書いてるので、予め前篇にしときます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

諱(いみな)とは(ウィキペディアより)
諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞である。
この漢字は、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の本名(名)のことを指すようになった。(中略)
諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな←通称・名乗りです)といい、
時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。
諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が諱で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた


諱は普通は公開しません。その人の本当の名前(隠し名)だからです。
だから本人が死んで墓石や戒名に諱が書かれて「初めて知った」なんて事もあります。
我々が隠してたはずの諱を、どうやって知るか?というと文書です。

朝廷に伺候する時は普段の名乗りではなく、本姓(源平藤橘諸氏)と本名(諱)で呼ばれます。
神社に寄進したりするときの願主・施主の名前も普段の(以下同文)
和睦・和議で起請文や各種誓紙を交わす時も普段の(以下同文)
主君は家臣を諱で呼びかける事が許されてる(非礼とはされない)ので、そういった時の情景が日記などの記録に___φ(.. ) メモメモっと残されてる場合もあります。

だから後世の我々が、武将たちの普段の名乗り以外で諱や本姓を知るのは、文書や史跡の銘・碑文、墓石の脇書等として残ってる人物に限定されるわけです^-^

余談ですが、伊達政宗だけは現代の大河ドラマの如く、ガンガン諱呼びされてました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
さすがに本人に面と向かっては、呼び捨てはしてないとは思うんですけどね・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
でも誰もが目にする布陣図に「政宗(の陣)」と書かれてても、伊達家からはノンクレームなところを見ると、本人が諱呼びを面白がってたとしか思えない^^;
自分の諱をキャラ化してた唯一の戦国武将かもです。

余談から戻って諱とくれば偏諱です。
偏諱(へんき=諱の一字拝領)の風習(ウィキペディアより一部抜粋)
貴人から臣下への恩恵の付与として偏諱を与える例が、鎌倉時代から江戸時代にかけて非常に多く見られる。
室町時代に入ると重臣の嫡子などの元服に際して烏帽子親となった主君が、特別な恩恵として自身の偏諱を与えることが広く見られるようになった。
武家において偏諱を授けるということは直接的な主従関係の証となるものであり、
主君が自分の家臣に仕えている陪臣に偏諱を授けることが出来なかった。
(中略)戦国期に入ると偏諱は外交手段として用いられた。


もっと判りやすく言うと、戦国時代における偏諱とは「ニャンコのマーキング」です(`・ω・´)キリッ
諱の偏諱を見れば、どの武将が大内サイドで誰が大友サイドか一目瞭然。

九州で最も偏諱に熱心だったのはキング大友。
お蔭でデジャヴュな諱が量産され、フルネームでないと誰が誰だか区別つきません(爆
名乗り・通称の習慣が薄れた現代人泣かせですが、利点もあります。

例えば生没年不詳の武将がいたとします。
彼の諱に「鑑」の文字が入っていれば、大友義鑑からの偏諱で、拝領したのは1530年以前に限定出来ます。
または諱に「鎮」の文字が入っていれば、大友義鎮(宗麟)からの偏諱で、拝領したのは家督相続以降で隠居前に限定されます。

そうなると前後の史料・諸情勢から、生没年不詳武将の活動時期・年齢などが大雑把に推測できる・・・と言う訳です^-^(本音:面倒くせぇえええ~)

で、長々説明して龍造寺です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

龍造寺隆信は、初めは西千葉氏から、次は亡き大内義隆から偏諱を受けて「隆」の文字を拝領してます。
緑文字で説明した偏諱の風習に従うと、龍造寺隆信は大内義隆の被官(ひかん・緩やかな主従関係)になった事になる・・・はずです。

が、実際の隆信は大内被官としての行動を何一つしてません。(゚ロ゚屮)屮 じぇじぇじぇ!
龍造寺隆信の辞書に「誰かの家臣になる」は無い(`・ω・´)キリッ
てことで断言しちゃおうと考えているのだが、それは・またの話 by^-^sio

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70【命運・・・二つの犬塚・肥前編3】

肥前犬塚氏5兄弟の基礎データ(名前の前に★マークがある人物は養子です)
(東犬塚)
崎村城主、長男・家直⇒★鑑直⇒鎮直⇒家広(←読みは「いえしげ」)(以下略
三男・家種~長男を補佐^-^
(西犬塚)
蒲田江城主、次男・家重⇒元重⇒尚重⇒信尚(以下略
(直鳥)
直鳥城主、四男・家久⇒家清⇒尚家⇒鎮尚(以下略
【小松城主、家清の子で尚家弟・鎮家】

東古賀館主、五男・家喜⇒(以下略


肥前犬塚氏の推移は、キーマンである犬塚鎮家の経歴を辿ると判りやすいです。
個人的に「肥前の出世魚」と呼ばせてもらいます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

さて「少弐配下にして大友配下」だった犬塚一族は、少弐の衰退・滅亡で「龍造寺配下にして大友配下」になりました
県議と国会議員それぞれの後援会入りみたいなもんですな( ゚Д゚)y─┛~~献金の代わりに軍役があるぉ

ただし肥前犬塚一族全てが龍造寺配下になった訳でなく、直鳥犬塚家は大友配下オンリーでした。

年代としては、おそらく1559年(筑紫がハチャけた年)の事になると思います。
直鳥家の家清と尚家は大友宗麟の命により筑紫惟門を攻めたのですが、共に戦死してしまいます。
そのため小松城主で尚家の実弟・鎮家が直鳥家の家督を継ぎました。

系図を見ると戦死した尚家には男子がいたのですが、鎮家が継いだところを見るに未だ幼少だったのでしょう。
小松城は・・・もしかしての廃城・・・今となっては位置も定かではありません。
ちなみに直鳥城は佐賀県独特のクリークを利用した城でした。
壕があり小島のようになってて、各曲輪へは小舟で移動してたと思われます^-^

東西犬塚家に決定的な事が起きたのは1569年。
大友軍が龍造寺討伐に動いたからです。

大友オンリーだった直鳥家と違って、東西犬塚家は「龍造寺配下にして大友配下」でした。
東西犬塚家は龍造寺か大友か・・・という究極の選択を迫られます。

人物・龍造寺隆信 龍造寺隆信イメージ画像

東犬塚家は龍造寺を選び、西犬塚は大友を選んだ。
元々が大友派の直鳥・犬塚鎮家は西犬塚を支持。

どちらが勝っても生き残るため・・・という関ヶ原の真田家的選択ではありません。
東西犬塚家はガチで対立。
西犬塚尚重は、東犬塚鎮直を謀殺。東犬塚尚重は自身も返り討ちにあって死亡しました。

西犬塚尚重の長男は龍造寺(実は手を下したのは鍋島直茂)に殺され、次男(実は生母が隆信妹)のみ助命されました。
龍造寺に攻撃された西犬塚の蒲田江城は、この時に一度落城します。
直鳥・犬塚鎮家は筑後に亡命。

ここからが犬塚鎮家の出世魚~~実は彼は物凄い武勇の持ち主でして「有馬との戦いに彼奴の武勇が必要な件」
て、ことで召致され筑後から肥前へ帰還~かつて西犬塚の居城・蒲田江城に入ります。
先陣として活躍した犬塚鎮家は、両弾二島(龍造寺氏配下の武勇優れた4人)の一人に数えられたんです。

その功績により犬塚鎮家には森岳城(後の島原城)が与えられ、蒲田江城は廃城になりました。
現在、蒲田江城本丸跡には鎮西出雲大社が鎮座しています。

一方、崎村城ですが、謀殺された鎮直の跡を息子の家広が継ぎました。
1572年に龍造寺隆信の命で、三根郡(現みやき町)中津隈城へ引っ越した為に、崎村城も廃城になってます。

江戸期に入って鍋島に仕えた東犬塚さん~今度は小城の方へと移動したんで中津隈城の短い歴史は終わり。
ちなみに中津隈城跡には、中津隈宝満神社の社殿が建ってるんで遺構殆どなし^^;

江上・八院合戦の佐嘉勢第十二陣に犬塚三郎右衛門茂虎の名があります。
名乗り(三郎右衛門の部分)と経緯から推測するに、東犬塚氏だと思います。
5男系(古賀館主・家喜の子孫)直鳥系・西犬塚系の江戸期以降の詳細はシオレベルでは辿れませんでした( ̄ω ̄A;アセアセ

こんな感じで肥前犬塚一族は、バラバラで各地を転々としたために、現代佐賀県のアチコチに「犬塚さん」がいる・・・という訳です。
(1569年には筑後犬塚さんが肥前に引っ越してきた事になってるし)
ここまでバラバラだと、現代の犬塚さんは「先祖が、どの犬塚」なのか辿るのは至難の業じゃないでしょうか^^;

一部ネタバレしちゃいましたが詳細は本編の中で(*´pq`)
大物の争いに翻弄された犬塚家の運命を盛り込みたいと思います。
それは・またの話 by^-^sio

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69【両属の矛盾・・・二つの犬塚・肥前編2】

犬塚氏5兄弟の基礎データ(名前の前に★マークがある人物は養子です)
(東犬塚)
崎村城主、長男・家直⇒★鑑直⇒鎮直⇒家広(以下略
三男・家種~長男を補佐^-^
(西犬塚)
蒲田江城主、次男・家重⇒元重⇒尚重⇒信尚(以下略
(直鳥)
直鳥城主、四男・家久⇒家清⇒尚家⇒鎮尚(以下略
【小松城主、家清の子で尚家弟・鎮家】

東古賀館主、五男・家喜⇒(以下略


前回、総領の座を巡る争い・・と書きましたが、あくまでも自分の推測でして、あからさまに家督ウンヌンで揉めた訳ではありません。

ただ総領家・東犬塚と次男家・西犬塚は、一族の外交方針で決定的な対立をしました。
で、根底に|総領の座|_ ̄)じぃ。。。って気持ちがあった?かも?と思ったんです。
というのも総領家では男子に恵まれず養子で繋いでたからです。

それが東犬塚で★マークついてる鑑直。
どこから迎えた養子かは調べきれませんでしたが、以後は養子の血統が東犬塚を継承します。

泰平の世ならともかく、戦国期に総領家当主が養子・・・
っていうのは、出番がなかった次男にとってモヤモヤの元です( ̄ω ̄A;アセアセ

養子の立場を補完するために東犬塚家では、大友家の偏諱を受けたのでしょう。
これは東犬塚家だけでなく、犬塚一族全体が大友配下となった事を意味します。

家紋・大友 大友家紋ロゴ

もちろん少弐配下であるのは継続中~
国人にとって、より大きな勢力の後ろ盾を得る事は生き残る為に必須。
何回も言うように、主君二股は道義的には無問題(主君の方でモヤモヤするかもは別の話)

ちなみに肥前国人にとって「(少弐)より大きな勢力=大友家」です。
大内チョイスは、基本としてアウトオブ眼中。
一時期、肥前国人の殆どが少弐配下でしたので、少弐の敵である大内に靡くのは寝返りになっちゃいます。

とはいえ、大友の支配を毛嫌いし、中国地方のドンから後ろ盾を欲しがる筑前国人たちとは真逆なのが面白い。
これは文化交流の密度の違いから来るのかな~と感じてます。

神代しかり、犬塚しかり、筑後国人が新天地ヤポー♪ヽ(*´∀`)ノと土着するのが肥前なら、
肥前国人(代表例・龍造寺)がヤバくなったら亡命するのは筑後なんです。
その筑後は鎌倉の頃より大友支配下にあるのだから「寄らば大樹」の樹は大友・・・と言うのが自然の流れ。

肥前国人が筑前へ亡命したり、大内の後ろ盾を得る時・・・
それは大友ブランドが売約済で他に頼る相手がいない時です。
下手うってガチで大友と揉めちゃったり、自立したくて謀反した時などなどですね^^

余談はさておき
犬塚一族で最も知名度があり、キーマンとなるのが犬塚鎮家。
犬塚鎮家は直鳥犬塚家・家祖の孫にあたります。

1558年、龍造寺による勢福寺攻めにおいて「北肥戦誌」曰く、
蓮池の小田政光、蒲田(江)・崎村の犬塚鎮家・犬塚左馬大夫も出陣する。

多分、これ北肥戦誌の誤記です。
犬塚鎮家は、この当時は小松城主でして蒲田江に入るのは後年の事です。
1558年だったら西犬塚の蒲田江は元重か尚重の代。
崎村の犬塚左馬大夫も?ダレ?ヽ(。_゜)ノ左馬大輔鎮直の事じゃないでしょうか^^;

少弐配下だった犬塚一族は、龍造寺が台頭するにつれ少弐から龍造寺へとシフトチェンジしました。
自然・時代の流れで少弐が泣いても喚いても、どうにもなりません。
ここで問題になるのは、
犬塚一族が大友配下の状態をキープしたままで、龍造寺配下になった事です。
読んで下さる皆様・・・揉める予感がしませんか?それは・またの話 by^-^sio

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68【犬塚ふぁいぶ!~二つの犬塚・筑前編1】

肥前の犬塚ふぁいぶ・・・(._+ )☆\(-.-メ)息子が5人!!

東犬塚)崎村城主、長男・家直⇒鑑直⇒鎮直⇒家広(以下略
三男・家種~長男を補佐^-^

西犬塚)蒲田江城主、次男・家重⇒元重⇒尚重⇒信尚(以下略

直鳥)直鳥城主、四男・家久⇒家清⇒尚家⇒鎮尚(以下略

東古賀館主、五男・家喜⇒(以下略


名前に犬とあると里見八犬士的妄想したくなるが、筑後にある某ワンコ伝説と犬塚家は無関係です。
ザッと系図見ると、基本としての通字は「家」みたいですね。

肥前犬塚家は筑後バージョンで説明したように、元々は筑後の国人・蒲池氏の庶流です。
ちなみに蒲池氏は「藤原北家宇都宮氏流」
三瀦郡犬塚に棲んでいた事から犬塚姓を称しました。

年代不明ながら犬塚氏は本貫地を離れ、肥前佐嘉郡川副に移住し、明応年間に同じく肥前神埼郡に移住した。
個人的な推測では「渋川VS少弐+大友」の争いに巻き込まれ、本貫地がカオスになった為の移転と思われます。
神埼に移転したのは、犬塚氏が少弐配下だったからだと思います。

で、犬塚家には5人の男子があり、そのうちの三人が城持ち主で、それぞれ東犬塚・西犬塚・直鳥犬塚・・合わせて「三犬塚氏」と呼ばれていました。
総領家は当然、嫡男系統である東犬塚です(=^・ω・^=)v ブイ

永禄3年(1560)
犬塚尚重が隆信により、領地・蒲田江から追われる


自分が犬塚氏を調べなきゃ~~と感じたのは、北肥戦誌にある簡素な一文が原因です。
前後がサッパリワカラン・・・というより「隆信が追い出した」に違和感があったんです。

というのも実は犬塚氏では、東(総領家)と西(次男家)で骨肉の争いが起きてました。
おそらく総領家の座を巡る争いだと思います。
その頃、既に少弐氏は滅び犬塚一族は龍造寺配下となってました。

つまり龍造寺隆信は犬塚氏の争いを治める立場にあったわけです。
北肥戦誌の一文だけだと、龍造寺隆信が悪巧みしたみたいだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

てことでジックリ行きましょ~~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

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67【二つの犬塚・筑後編】

史料整理してると、アチコチ気になる武家が出てしまい、それらを調べてて本編再開が遅れてます。

あ、でも全く別方向に走ってる訳でなく、後々に龍造寺と絡む関連性がある武家ですけどね^^

で、渋江さんの次は犬塚くんにハマってました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

あまり興味を持つ方がいないと思うのですが、他県人には非常に判りづらい犬塚氏。

というのも、犬塚氏には筑後と肥前の2家があるからです

系図が2パターン(筑後バージョンと肥前バージョン)あるのですが、時系列からみて二つは同族の別系統のようです。

サイト武家家伝の系図を見比べてたら、デジャヴュな諱ばっかでクラクラした,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

同族~~というのは筑後・肥前・・・どっちの犬塚氏も、筑後最大の国人・蒲池氏の庶流だからです

で、北九州で筑後と肥前とくれば、必ず絡むのが少弐。
少弐配下だった犬塚氏は、少弐の栄枯盛衰に巻き込まれていきます。

家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

で、今回は犬塚氏・筑後バージョン~

そもそも蒲池氏の庶流である犬塚氏は、蒲池氏と同じく筑後の国人でした。

それがグダグダになってくるのは、目立たない九州探題・渋川氏が筑後へ勢力を伸ばした事から始まってます。
で、筑後・犬塚城の築城主は犬塚氏・・・ではなくて、渋川教直が築城したと言われています。

つまり筑後犬塚に棲んでた犬塚氏は本貫地に、城を建てられてしまった事になるわけです ガチョ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

それだけでも居心地がイマイチな所に、最盛期が短い渋川氏は未だ元気溌剌だった頃の少弐にo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
豊後・大友も少弐とタッグを組んで渋川をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
地味九州探題・渋川さんは衰退~・゜・(PД`q。)・゜・タスケテ~と西国のドン・大内を頼る事になる。

肥前バージョンの犬塚氏が筑後から肥前神埼へと移住したのが、明応年間。
明らかに「渋川VS少弐+大友」のグダグダに巻き込まれたが故の移転でしょう。

犬塚城主だった渋川政実が死んだ為、筑後犬塚城(福岡県久留米市三潴町玉満字原巳)は空城。

そこで時の大友当主・大友政親は犬塚城を筑後一五城の旗頭といわれた蒲池繁久に預けた
蒲池繁久は弟の刑部大輔家久を城番とした

これは蒲池氏が下蒲池と上蒲池に別れる前の話でして。
蒲池繁久というのは、筑後に亡命した龍造寺を援けた蒲池宗雪の祖父の、そのまた祖父にあたる人。

犬塚城に入った蒲池家久は、大友から偏諱を受けて諱を繁貞と改め、姓も「犬塚」を称しました
これが筑後バージョン・犬塚氏です

肥前に移住した元々の犬塚も、筑後犬塚城に入った犬塚繁貞も、元を質せば、どちらも蒲池一族。
系図が筑後バージョンと肥前バージョンがあるために、判りづらいんです^^;

筑後・犬塚繁貞は後に出家し大薮村に円照寺を開基したそうです。
で、犬塚城ですが、少弐が滅亡したために筑後・犬塚氏(犬塚繁貞の子供?)は肥前へと移住し、犬塚城は廃城になったとか。

年代だと1567年だと伝えられてますが、少弐冬尚の自害は1559年。
なので、冬尚自害後におけるアンチ龍造寺派の抵抗が終息した頃に移住した・・・らしい^^;

筑後犬塚氏の消息がハッキリしてないのですが、肥前神埼に移住するにあたっては、同族で元祖・肥前犬塚氏を頼ったんじゃないでしょうか。

ふぁ~眠くなってきた・・・
筑後バージョンの脳内整理が終わったところで、肥前~それは・またの話 by^-^sio

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『渋江家三氏、牛島・中村・中橋の事』後篇

一話というと前後編になり、前後編というと前中後編と、予告より必ず伸びるのがシオ記事です(爆

基礎データ

長男・渋江総領家
次男・牛島家
三男・中村家
四男・中橋家

本姓:橘氏、諱の通字:公
渋江氏本貫地、武雄市橘町大字永島、本城:潮見城、関連神社:潮見神社(武雄市橘町大字永島)


さて、基礎データの渋江一族のなか、現代において圧倒的に知名度ありが「牛島さんだ~」
と書いたけど、素人が個々に系譜を辿れるわけでもない。

正確な表現だと、単純に「牛島姓」が著名だということです。
牛島姓にはルーツが幾つかあるらしいのですが、北肥戦誌などに登場する殆どが橘姓渋江氏系です。

佐賀市にある牛嶋神社は、渋江系牛島氏とは無関係で、こちらは平姓牛島氏。
が、平姓牛島氏の詳細は不明です。
肥前各地に散らばった牛島さん全てのルーツは判りませんが、武家としてより違う方向で成功したために「牛島氏」の知名度があるんです。

牛島さんの中には財を成した方がいたらしく、佐賀市歴史民俗館で公開されている屋敷には「旧牛島家」があります。
有名なのは屋敷ではなく、こっち⇒⇒それは久光製薬の前身である「田代売薬」と関わりがあります。

北海道在住のシオは全く知らなかった^^;
北海道で「薬売りの行商」というと圧倒的に富山なんでもので( ̄ω ̄A;アセアセ

佐賀県鳥栖市にあった田代宿は製薬・売薬行商の宿場として大変栄えたそうです。
で、牛島家の関わりは~というと製薬の方。

薬種として黒子丸・竜虎円・送上引下げ・妙振出・人参香・下虫丸・感応丸を提供^^
何が、どう効くかサッパリ判らん^^;
下虫丸あたりは、まんま虫下しっぽいな・・・・・|壁|_ ̄)じぃー


鳥栖市には中冨記念くすり博物館(鳥栖市神辺町288-1)があります。
http://www.hisamitsu.co.jp/syakai/kusuri/index.htm
こちらには田代売薬の歴史だけでなく、当時の薬に関する道具類の展示などありシオ的にはツボ^^
御近所なら行きたかった~~~機会がありましたら是非どうぞ(^ -)---☆Wink




なんだか前中後編の記事構成のバランスが悪くすいません^^;
三男家・中村氏が濃すぎで四男家・中橋氏が薄すぎです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

お蔭さまで室町中期~戦国初期あたりまで、渋江一族と東肥前の関わりは理解できました。
西肥前がミステリーゾーンなのは変わってないし、寧ろここから先が肝心&必要な件・・・ il||li _| ̄|○ il||l

まぁ何時もの通り北肥戦誌を元に___φ(.. ) メモメモと地道にリサーチします^-^
本編・新章再開まで、もう少しお時間下さい。宜しくお願い致しますm(__)m

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『渋江家三氏、牛島・中村・中橋の事』中篇

基礎データ

長男・渋江総領家
次男・牛島家
三男・中村家
四男・中橋家

本姓:橘氏、諱の通字:公
渋江氏本貫地、武雄市橘町大字永島、本城:潮見城、関連神社:潮見神社(武雄市橘町大字永島)


総領家渋江氏と次男家牛島氏が争っている間に、シッカリ者の三男家中村氏が勢力拡大。
やがて中村氏は、今を時めく小城郡・肥前千葉氏7代目当主・千葉胤鎮に仕えました。

年代でいうと1400年代で、どっぷり室町期( ̄ω ̄A;アセアセ
ちなみに地元の総領家の頭越しに、守護大名とか有力家に仕える事は無問題。
室町期~戦国期にかけての主君と家臣は、江戸期の家臣と違って「被官(ひかん)」として仕えてました。
被官は家臣のような縛りがないため、地元主君の他に幕府の御家人等になるのも自由だったんです。
(そもそも実力がある国人領主でないと、どこかと両属する事自体無理ですけどね^^)

で、ここからが謎の人事なんですが、他家からの新参者でありながら中村氏は千葉家老に抜擢されたんです。
それが橘姓渋江系中村氏の最盛期当主・中村胤信で、元の諱は公廉。
肥前千葉氏はカテゴリ作って連載してたんですが、渋江氏を調べる前だったので、中村胤信の事は完全に盲点でした il||li _| ̄|○ il||l

家紋・肥前千葉 肥前千葉家紋ロゴ

譜代家臣ゴボウ抜き人事に、チラリンと腐女子的発想が脳裏を過ぎったけど即没。
千葉胤鎮は千葉氏最盛期を築いた当主。断じて暗君ではありません。
そもそも衆道的情実人事なら、任命の時点で譜代家臣が黙ってないはずです。

どうも肥前千葉氏(7代目胤鎮に限らず)にとって、渋江系中村氏の存在が(胤信=元廉に限らず)何らかの利用価値があったようです。
勝手に推測するなら、肥前千葉氏は藤津の方へ勢力を伸ばそうとしてました(結局、統治にまでは至らず)
その関連で、中村氏の情報やコネクションが便利だったのかな~~~と。
それだけにしては、かなりの依怙贔屓なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー てことで謎は謎です。

で、新参ながら重用されてた中村胤信(公廉)が、大内に内通し千葉胤鎮をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!追い出した!
時の大内当主は、大内持世。
大内の後ろ盾で中村胤信(公廉)は、7代目胤鎮の弟・胤紹を肥前千葉氏当主に据えます。
少弐と大内の争いの中で、家督に介入され千葉氏自体の不幸(嫡男なしで当主死亡)が重なり、衰退していく肥前千葉氏。
最初に介入したのは大内氏で、その発端を作ったのが渋江系中村氏なんです。

西国のドン・大内氏の力で、室町幕府が家督簒奪者であるはずの胤紹当主の正統性を認めました。
そのため肥前千葉家は、兄・胤鎮系と弟・胤紹系の二つの嫡流が出来ちゃった ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

家系図・肥前千葉系図・決定
7代目胤鎮に幸いしたのは、嘉吉の乱(1441年)で時の将軍・義教と大内持世が死んだ事です。
千葉胤鎮は、新参者・中村胤信に猛反発した千葉氏譜代衆を集め、リベンジに成功し胤紹と嫡男と中村は討たれました。
(室町幕府が認めた胤紹は正式に8代目としてカウントされてます)

胤鎮の死後、9代目元胤の代で、謀反者・中村胤信(公廉)の息子が再び家宰(家老)として復活してます。
その間、僅か10数年しか経過してないので、肥前千葉氏と中村氏の間に、何かしらの利害関係があったんじゃないでしょうか。

さんざん記事にしたんで詳細省いて、肥前千葉が西と東に別れた時。
元々大内に内通した黒歴史がある中村氏は、大内の後ろ盾がある東千葉に仕えました。
西と東、両千葉氏の争いの中で、一時は渋江家を凌いでいた中村家も衰微したようです。

没落してた渋江氏も一時は本貫地を取り戻したのですが、やっぱり衰退。
前回記事にしたように、中村氏は武雄龍造寺(鍋島)に仕えます。所領は当時家中で最大だったとか。
それが災いしたのか、江戸期に入って中村氏は、主家である武雄龍造寺からの独立を目論み失敗。
一族離散という羽目になり武家としては残らなかったそうです。

さて、渋江一族のなかで現在、もっとも知名度があるのは次男家牛島氏なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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