【語り継ぐ者】神代勝利公「道」の巻10

裏切り者として殺された西川伊予守には、二人の息子がいました。
その二人は共に出家しています。
おそらく父・西川伊予守の裏切りに対する贖罪からでしょう。

鳥羽院(とばい)の里が、裏切りの追討によって戦場になる事はありませんでした。
西川の息子たちが逆らうことなく、早々に身を処したから必要が無いと判断されたんじゃないでしょうか。

三瀬村史には、裏切り後の鳥羽院の里を誰が支配したのか、その後の記述が無いので判りません。
三瀬村にとっては、地元じゃないですしね^^;

龍造寺家臣となっていた西川伊予守の叔父は慶長年間に佐賀市神野で没しました。
叔父の息子(つまり西川伊予守の従兄弟)は、小城藩鍋島元茂公に仕え、佐嘉から小城へと転居しています。
ですから武家として残った西川氏は、この小城鍋島家に仕えた庶流の系譜になります。

マニアックなシオブロを御愛読頂いてる貴重な皆々様、鳥羽院伝説でお話した教信寺の事を御記憶でしょうか?
後鳥羽上皇所縁の品々(大正時代に惜しくも火事で全焼)を所蔵し、住職は代々西川家の子孫が務めていたと書きました。

この教信寺の開基にして初代住職こそが、西川伊予守の嫡男なんです!
代々住職を務めたという西川家の子孫とは、西川伊予守嫡男の子孫(5代目住職くらいまでは完全に直系)
何という事でしょう・・・西川伊予守一人の裏切りが、世が世なら領主様だった嫡男と、その直系子孫の運命を変えてしまった・・・!(´;ω;`)ウッ

山内で「裏切り者」の烙印を押された西川嫡家は、もはや鳥羽院の地で御家再興することは叶いません。
小城鍋島家に仕える西川伊予の従兄弟を頼れば、何がしか手立てを講じてもらえたかもしれません。
ですが、それだけは断じて出来ない事なのです。

従兄弟叔父を頼れば、武家として復活出来ても、その時には佐賀藩独特の大人の事情が働きます。
おそらく90%以上の確率で、庶流と嫡流の逆転現象が起きるでしょう。
つまり先に鍋島家に仕えた庶流を、西川嫡家が本家と仰ぐ立場になる・・・という事です。
そうなっても平気だからヨロシク!なんて嫡家は、まず無いです( ̄ω ̄A;アセアセ

これは自分の想像なんですが、教信寺所蔵だった後鳥羽上皇所縁の品々こそが、西川家嫡家の証だったんじゃないでしょうか。
当主・嫡家の証である(と思われる)品々を守る為に、嫡男は鳥羽院の地・後鳥羽上皇行宮に教信寺を開基したのでしょう。

領主でなないけれど、違う形で鳥羽院の地を守る為にです。
そして嫡男が、どうしても守りたかったものとは「鳥羽院伝説」そのものだと自分は思うんです。

殺された西川伊予守の死に様を聞けば、裏切りに対する見せしめとして、その身体が不必要に切り刻まれたのは容易に想像がつきます。
武家としての御家再興が叶わないとなれば、西川家の誇りと名誉は回復出来ずに踏みにじられたままになる。

戦国の習いで「たまたま裏切る事になった、だけ」なのだ。
西川氏は由緒ある名族なのだ!
と、武家でなくなった西川氏が証明出来る手段は「教信寺(西川家嫡家)所蔵・所縁の品々」と「鳥羽院伝説」しかありません。
「鳥羽院伝説」の伝承を途切れさせない為、西川氏を鳥羽院の村人が忘れないように、嫡男は残ったと思うのは穿ちすぎでしょうか。
(ちなみに西川伊予守次男は、鳥羽院を離れて鹿島で寺院を開基し住職となってます。)



話は飛んで江戸時代、寺院は幕府の出先機関の一端を担い、現代における地方自治体行政を一部兼務してました。
つまり戸籍(人別帳)管理と旅券・パスポート(通行手形)の発行です。
位置関係からいって鳥羽院の村人の大半が、教信寺の檀家だったはず。
「おらが殿様」が「おらが和尚様」になったんですな( ゚Д゚)y─┛~~
たぶん・・鳥羽院に入る代官は、教信寺住職を無視して村の取決めを行うのは難しかったと思います。

絹巻時代から数えると文字通り1000年の歴史がある鳥羽院の地にとって、神代勝利公の時代は一瞬に過ぎません。
勝利公は山内の他の土地ではカリスマでも、鳥羽院領民にとっては西川氏との関わりの方が、遥かに長く密度も濃いんです。

世が世なら殿様だった和尚様が、法要のために鳥羽院の村々を回り、時には里の子供たちに手習いを教える光景があったかもしれない。
鳥羽院に産まれ、生きて、そして土に還り涅槃の先まで、ずっとずっと・・・見守ってくれてる。
西川伊予守の前から、その後も鳥羽院の村人の中で「良き殿様」とは西川氏ですっ・゜・(PД`q。)・゜・
親から子へ、子から孫へ、更にそのまた子へと、鳥羽院の村人は語り継ぎました。

絹巻が鳥羽院へと呼称が変化した由来を。
はるばる隠岐の島から、このうえなき尊貴な上皇様がいらしたのだと。
西川氏は上皇様に随行した忠勤の者であり、この鳥羽院は西川氏の領地だったのだと。

鳥羽院の民が語り部として名族・西川氏を証明し続けていくこと。
それこそが教信寺を開基した西川伊予守嫡男の願いだったはずです。


教信寺は大正時代に一度全焼してるので往時の面影はなく、所縁の品々も焼失。
寺院そのものも、北山ダムの関係で合併して善信寺になっちゃった・・・・(´・д・`)
西川家の方が今でも住職なのかも判りません。

電話して聞けば、すぐ出る答えではあるんですけど、
「電話代の下敷き」と「鳥羽院伝説+三瀬村史から導き出した、西川氏(裏)考察のロマン台無し」が怖いので、
最後の裏付けをとらず、あえてこのままで話を終える事を御了承下さいm(__)m

さて次のお題は・・・・それは・またの話 by^-^sio
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【裏切る者・後篇】神代勝利公「道」の巻9

西川伊予守の裏切りを三瀬親子から聞いた神代勝利公は驚き、さっそく老臣らを集めて西川討伐の詮議をした。
いきり立つ三瀬ジュニアは「仲間と思われてるから油断するはず、自分が出向いて討ち取ります!!!(# ゚Д゚)・;'.」と申し出た。

神代勝利公は「単に討つだけなら、その方が有利であるが、これは佐嘉が仕掛けた謀略ゆえ、何事もないように(西川を)騙し寄せて討ち取るに越した事はない」と言われた。
さらに「幸い近いうちに重陽の節句で宴がある。伊予も参向するであろうから、そこで討ち果たそう」
「三瀬のジュニアよ。そちも宴に出るがよい。討手は成り行きに任せる(=ジュニアが殺って良し!)」
と三瀬ジュニアを宥められたそうです。
(出典:三瀬村史~判りやすいように若干、修正してます^^/)

人物・くましろん~ 勝利公イメージ画像

1562年9月9日重陽の節句の儀式と宴が開かれた。
何も知らない西川伊予守も普通に参加。

三瀬ジュニアは「西川を討つのは自分!(`・ω・´)キリッ」とギンギンでして、今か今かとタイミングを窺っていた。
すると御酌役の中野が気の早い若者で、西川へ銚子(ちょうし)を持って行くと同時に、手にした銚子を西川の顔に投げつけた。

「余人に討たれてなるものか」と三瀬ジュニアは脱兎のごとく西川伊予守に切りかかった。
(宴に)居合わせた面々も一斉に切りかかったので、伊予守は寸々になって死んだ。

自分が、西川伊予守が川上合戦直後から「疑惑の人」扱いだったんじゃないのか?
と思ったのは、三瀬村史に記された、この尋常じゃない殺され方を読んだからです。
武士として切腹も出来ず、罪人として断罪されたのでもない・・・これでは私刑(リンチ)です。

身内に龍造寺家臣がいて、全員が討死した三男陣の中で唯一生還した西川伊予守。
西川自身が、生きて戻ったのを「遅れをとった」と恥じ入る事も無く、
普段通りに振る舞っていたのが、結束の固い山内勢には憎々しかったのだと思います。

龍造寺と内通した西川伊予守を討つことは、龍造寺に対する「宣戦布告」に等しい行為です。
山内勢の更なる結束を確認し合う儀式・黙契として、裏切り者・西川伊予守の身体に全員が刃を付き立てたのでしょう。
重陽の節句の宴です。山内武士団の主だつ重臣は全て集まってますから・・・(´・д・`)
西川伊予守は、裏切りに対する見せしめもあって、生きながらにして文字通り鱠に切り刻まれたのだ・・・!


三瀬城下には家臣の常として、西川伊予守の館があったらしい。
裏切りを注進し初めに切りかかった三瀬ジュニアには、褒美として西川の館が与えられた。
ジュニア、館を構えました~独立おめでとーーーですな( ゚Д゚)y─┛~~
銚子を投げつけてキッカケ作った中野クンは(西川館にあったと思われる)財宝が与えられる。

で、西川館と周辺を調べたら服巻伯耆守も裏切りに加担してた事が判明( ゚д゚)ンマッ!!
ちなみに服巻と書いて、何故か「はらまき」と読ませます( ̄ω ̄A;アセアセ
三瀬村史には読み通りに腹巻と記録されてるんで、探すの苦労しました( ̄ω ̄A;アセアセ
場所は灯台下暗し~西川伊予守の鳥羽院(とばい)とは同じ背振町内で隣でした^^
御町内の隣っても山一つ間に挟んだ田舎感覚のとな・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

服巻伯耆守を討つようにと三瀬一族に命が下り、防戦した服巻伯耆守も討たれ「裏切り騒動」は決着しました。
三瀬ジュニアのパパ・三瀬長門守が功績あったらしく勝利公が賞した証文(感状かな?)が残ってます。

・・・・三瀬さん、勝利公から褒められた!ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
って、よっぽど嬉しかったんだろうな・・・
子子孫孫まで大事に大事に~~って保存してたんでしょう。でなきゃ現代まで残ってません。

神代勝利公は、山内・・特に御当地であるエリア三瀬にとって、生前も死後も余人に替える事の出来ないカリスマで英雄なんです。
山内26豪族のなかで、最も勝利公に心酔し厚い忠義を捧げているのがファミリー・ザMITYUSE。
老いも若きも、三瀬の者で勝利公を裏切る者などいないと思え!(`・ω・´)キリッ


裏切りの末路とはいえ、三瀬の者を計略に誘わなければ、死に様は未だマシだったと思います。
一見、裏切り加担の仲間選びを完全にミスってるかのような西川伊予の行動ですが、これまた止む無し・・・でした( ̄ω ̄A;アセアセ

元々、勝利公は龍造寺からの刺客に用心して、己の居場所を明かさず、一カ所に長期滞在してません。
三瀬本城だったり、熊川の城だったり、娘が嫁いだ杠館だったりしてます。
三男が陣中で何者かに殺された・・という異常事態の後は更に用心してたはず。
そういや、全員討死なのに三男の陣中死亡状況が残ってるのは、生きて戻った西川伊予の報告だったかもだな・・・

とにかく勝利公を確実に討ち果たす為には、まず居場所を特定しなきゃならないので、三瀬城御膝元の三瀬ファミリーを抱き込まないと~~~
って感じで、裏切る方には、裏切る方の(自分勝手な)、裏切るための「事情アレコレ」があるもんなんですよ・・・

そして西川伊予守の裏切りによって、運命が変わってしまった者がいたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【裏切る者・中篇】神代勝利公「道」の巻8

三瀬村史によると「龍造寺から密かに使者が派遣され(西川伊予守を)色々に騙して誘惑しウンヌン」とある。

派遣された使者は・・・・おそらく龍造寺に仕えている西川伊予守の叔父か、その息子である従兄弟でしょう。
そもそも鳥羽院(とばい)は山深い里。
土地勘ないものが簡単に辿りつける場所じゃないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

西川伊予守が潔白を証明する方法は、目の前にいる龍造寺からの使者を殺し、その首を勝利公に届ける事です。
身内が使者であったなら、おいそれと殺す決断が下せない・・(-ω-;)
説得する方も失敗したら生きて山内を出られないので、命がけです。

迷う西川伊予守に使者(たぶん身内)は「勝利親子を討ち取ったら、貴殿(西川伊予守)を山内の頭領とし神代領を宛がう」という龍造寺隆信の提示した条件を「勧め励ました」そうです。
このあたり、何処まで本当なのか色んな意味で胡散臭いです。
出典が勝利公・激LOVE御当地(三瀬)村史なんで・・( ̄ω ̄A;アセアセ

龍造寺から使者が来た・・・という情報は隠し通せるものではありません。
人の動きって自分では気を付けてるつもりでも、意外と見られてます。
情報が洩れてからでは言い逃れようがなく「(未遂でも)裏切り者」認定。
目の前の使者を殺して勝利公に報告できないのら、西川には「裏切る」の一択しか残されてないんです。

裏切る決断をした西川伊予守は、様々考えた結果「単独じゃ無理ポ~仲間がいるぉ(・∀・)ピコーン★」
と、考え「杠(ゆずりは)か松瀬か三瀬」三氏のいずれかを抱きこむことにした。

上記三氏は山内の中でも親類縁者一族が多数いて、山内26豪族の中では大きな勢力だったんです。
杠氏は特に神代勝利公の信任厚く、勝利公御息女が杠家へ嫁がれております。
てことで杠氏に計略を漏らすのは、杠嫁に感づかれたらアウト。
ほいじゃ、三瀬か松瀬のどっちかだな~~と思案を巡らせ三瀬チョイス(=^・ω・^=)v ブイ

三瀬氏は神代勝利公が三瀬城に頭領として入山する前から、土着している山内豪族(=国人)です。
勝利公本城である三瀬城の目と鼻の先に、三瀬さんの城があるんです~~
たぶん勝利公本城の御膝元って事で「近いから計略に便利」なんで三瀬にしたんじゃないかな^^;

このあたり西川伊予守は、山内の結束の固さへの認識が甘かったんです。
龍造寺配下だった亡父が少弐陰謀の巻き添えで討死してから、17年の歳月が経ってます。
17年という期間が長いか短いかは見方によりけりですが、
現代で言えば中途採用の西川伊予守は、他の山内武士ほどには「神代勝利公への忠義心」を抱いてなかったのでしょう。



1562年8月中旬、西川伊予守は三瀬城への登城の帰路、三瀬さんとこのジュニアに遭った。
これは良い機会と西川伊予守は密謀を打ち明けた。
べらべらと得意の弁舌に任せて「成功の暁には龍造寺からの恩賞である山内の半分を貴殿に譲ろう」と言ったらしい。
このあたり、西川も調子に乗るタイプだったようです。

たぶん若い三瀬ジュニアなら丸め込めると、たかをくくってたんでしょうな( ゚Д゚)y─┛~~
これだから「知勇を自慢したかぶり」と三瀬村史に書かれ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

露骨な分け前の話は、若い三瀬ジュニアの正義感・地雷を思いっ切り踏みました♪ヽ(*´∀`)ノ
計略に心中戦慄した三瀬ジュニアは、いったん同心したフリをすることにした。
密謀を明かした時の西川伊予守の表情や目つきが尋常じゃなかったそうでつよ・・・( ̄ko ̄)

西川伊予守は裏切り盟約の証として、竹筒を取り出し三瀬ジュニアと西川の血をしぼり入れた。
そして、その血を誓約の盃として互いに飲み干したそうです。(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
山岳地帯では普通の遣り方なのか、紙ベースで残す誓約を避けたのか、そのあたりは判りません。
ちなみに二人が密談するのに腰を下ろした石が三瀬に残ってるそうですが、今もあるかは不明です。

西川と別れた三瀬ジュニアは速攻で、パパ三瀬に報告。
驚いたパパ三瀬とジュニアが神代勝利公へ注進。
西川伊予守の裏切りは神代勝利公と重臣たちの知るところとなったのだが、それは・またの話 by^-^sio

(いつものごとく前後編では終わらんかった・・il||li _| ̄|○ il||l)

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【裏切る者・前篇】神代勝利公「道」の巻7

光ある所には必ず影がある。
稀代の英雄・神代勝利公の放つ光芒の影となった者がいた。

三瀬村史にある鳥羽院城主・西川伊予守の人物評。

・欲深で高慢
・弁舌人に優れ、自己の知勇を自慢してたかぶり(驕り?)欲深者
・という性格なので(龍造寺にとって)都合が良い


ボロクソです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
かろうじて褒めているのが「弁舌人に優れ」の部分だけですな( ゚Д゚)y─┛~~

結束の固い山内勢に出た「裏切り者」評です。
基本、悪意でしか書かれていません。長所も貶め「だからダメなんだ」とバッサリです。

こういうのマニアック・オタとしては、非常に萌えます・・・「(裏)考証」したくなるんです!!!
てことで、ちょっと付き合って~(^ -)---☆Wink



自分は川上合戦が終わった時点で、既に西川伊予守は「内通疑惑」として山内勢からマークされてたと推測してます。

西川伊予守は「川上合戦」において、初めに瓦解した勝利公三男陣に属していました。
外様・新参が多い三男陣だったので、彼らはヤバイ!って時点でトットと撤退してしまい、それが三男陣の瓦解を早めました。

「これが龍造寺と神代の潮目となる一大決戦」という事は、山内勢の雑兵の端々まで周知され各々覚悟していたのでしょう。
瓦解した三男陣の属していた山内勢は、退く事なく悉く討死しました。
が・・・・ただ一人西川伊予守だけが生還したんです。

せっかく生きて帰ったのに、一人だけってのが不味かった・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
三瀬村史によると、西川伊予守は自力で歩けないほどの深手を負い、家人が助け戻ったとあります。
たぶん家人が背負ったか担いだかしたんでしょうけど・・・

山内勢目線でいくと、この|深手|_ ̄)じぃー・・・が既に怪しいwww
東肥前側に住む佐賀県人なら、地形的に想像がつくと思うんですが、
戦場となった大和町川上から、背振町鳥羽院(とばい)まで戻るのって、とてつもない山・谷・峠で難所の連続なんです。

龍造寺の追撃を逃れても落ち武者狩りの危険があるんで、その家人・・・ジモティしか知らないコース使って逃げてるはず。
道らしい道なんて使わず、時に崖をよじ登るような感じになる。
そんなコースを「自力で歩けないほどの傷病人」が、よく失血死せずに鳥羽院まで辿りつけたものだ・・・
と聞いた誰もが驚くだろうし、驚きが疑惑になる。

ほら( ̄ko ̄)<大した怪我じゃないのに、怪我を口実に撤退した・・とかでつ。
まぁ流石に怪我はウソじゃないと、思います。
西川伊予守は、自分を援けた家人に「西川」の姓を褒美に与えてますから、よほど大変だったんでしょう。

川上合戦シリーズで書いてますが、神代勝利公の三男は討死ではなく陣中で謀反人に突き殺されてます。
それで陣中が大混乱⇒龍造寺猛攻撃⇒ヤバイと新参の外様は撤収⇒山内勢だけでは支えきれず瓦解
という流れです。

自分は最初、西川伊予守が謀反人を手引きしたかと疑いました。
でも、それだと怪我の説明がつかないので、その推理は捨てました。
だから正体不明の謀反人は謎のままです。

誰が三男を殺したのか判らない・・・ってのが、余計に西川伊予守に対する疑惑を深めたと思うんです。
普段なら神代勝利公がフォローしてたと思います。
でも勝利公は亡命してて山内を離れてました。
深手なら怪我養生の西川伊予守は、暫く表には出て来れなかったはず←←余計に怪しまれます。

山内目線スコープだと、やたら西川伊予守に対して疑り深くなるには、ちゃんと理由があります。
鳥羽院・西川一族は龍造寺配下だったんです!(゚ロ゚屮)屮ナ・・ナンダッテー

家紋・竜造寺 龍造寺家紋

西川伊予守の父が仕えていたのは龍造寺頼純で、龍造寺隆信の叔父にあたります。
龍造寺頼純は「少弐の陰謀・龍造寺抹殺計画」の中で、馬場頼周手勢に討たれて死にました。
この時に配下として付き従っていた西川伊予守の父は、共に討死してるんです。

龍造寺が一族存亡ピンチの時に、西川一族も嫡流と庶流に分裂しました。
嫡流である鳥羽院・西川伊予守は神代勝利公サイドに。
庶流・・・西川伊予守の叔父は龍造寺サイドとなり、佐賀市神野に住して現在進行形。

西川伊予守は実は次男ですが西川嫡家を継ぎ鳥羽院城主となってます。
長男は子供がいないまま若くして亡くなったのでしょう。
もしかしたら父と一緒に龍造寺頼純に随行してて、馬場らに討たれたかもです。
西川伊予守の人柄を龍造寺サイドが熟知してたのは、家臣として仕えてた西川伊予守叔父等からの情報だと思います。

勝利公三男が普通に討死していれば、西川伊予守の生還は疑われなかったと思います。
でも素性不明の謀反人に討たれた・・・・という異常事態が勃発してるので、とうぜん「犯人捜し」が取沙汰されてるはずです。
でも勝利公が亡命なぅ~~だから、公に吟味されないまま有耶無耶になったんじゃないでしょうか。
山内勢の心の中には、西川伊予守へのモヤモヤが残されたままとなった・・・

西川伊予守が起き上れるようになった頃、一人だけ生きて帰った自分への周囲の目が冷たい事に気づいたでしょう。
亡父が龍造寺配下で係累が現在進行形で龍造寺家臣となれば、疑われる条件バッチリ!
西川伊予守が身の潔白を証明するには、再びあるだろう龍造寺との戦いで華々しく討死するくらいしないと無理。
勝利公が帰還された時には、もう完璧、山内勢からは「次の戦で西川の覚悟を見よう」って雰囲気に追い詰められてたんじゃないかな~~~

山内勢から孤立しつつあった(と思われる)西川伊予守は、龍造寺から裏切りの誘いが来た瞬間、覚悟したのだと思うのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【龍造寺の100日支配】神代勝利公「道」の巻6

緑太文字は北肥戦誌より抜粋
勝利の家臣・中村壱岐守は山内に残っていたのであるが、勝利を帰城させたく思い、16歳の嫡子・外記と共に山内・摩那子山の代官・田中兵庫助の屋敷に忍び入り、兵庫助を斬り殺し屋敷に火を掛けた。

北肥戦誌には摩那子山とありますが、佐賀市富士町大字麻那古の事です。
たぶん春日神社のあたり。

というのも、昔は神社で公事(くじ=訴訟や裁判)を扱ってたから。
湯起請に火起請に、村の決め事を神前で誓ったり、農作業や諸行事は全て神事とSET。
だから神社の近辺に代官所を配してたと思います。

これに近辺の領民が驚き馳せ集まると、中村父子は闇に紛れながら、不意に現れては領民を斬り殺しては隠れ、また現れては斬り殺して隠れ、また声を上げては手を叩くなどした為に、辺りは騒乱に至った。

おお・・リアルテロ行為!Σ(´Д`;)
この通り北肥戦誌では、山内の領民を中村親子が見境いなく・・・
という酷い話になってますが、三瀬村史では、ニュアンスが全く違います^^;

三瀬村史では、中村親子は代官を殺した後に(代官の)家に火をかけ驚き騒ぐ家人を突き伏せ追い散らした事になってます。
おそらく雑仕として代官屋敷に入ってた山内の者は「追い散らす」って形で逃がしたんだと思います。
もしくは召使われてた山内の者が、中村親子を手引きしたんじゃないでしょうか。
(でないと、あまりにも簡単に代官屋敷に侵入してます)

中村親子は、かねてより同心していた山内武士に声をかけた。
他の浪士たちも続々と集まり、他の龍造寺派遣代官&城代たちをo( ̄Д ̄θ★ケリッ !バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!と追い出す。 
そして事の次第を波佐見にいる神代勝利公に(* ̄○ ̄)ゝー御注進~~~~

知らせを受けて勝利公は「この機会を逸しては成らぬ」と大急ぎで山内へ帰還。
山内武士&民百姓「(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ 頭領~お帰りなさい!!!」
旧家臣は再び勝利公の元に戻り、山内はアッという間に神代勝利公支配に戻る。

時に1561年12月中旬・・・大敗北した「川上合戦」から100日もかからぬ勝利公の帰還だった。

人物・くましろん~ 勝利公イメージ画像

三瀬村史の中にいる?龍造寺隆信は「家臣ならともかく、山内の民百姓までが何故に佐嘉に背き勝利公に親しむのか・・・(-ω-;)ウーン(-ω-;)ウーン」と頭を抱えたらしい。
龍造寺隆信が三瀬村史にあるように悩んだのが事実なら、隆信は重要な点を見落としてます。

それは、神代勝利公が「山内勢から推戴された頭領」って点です。

誰の配下にもならない。
山内は山内として独立した勢力になる。

これは山内の民百姓に至るまでの総意です。
その「総意の具現者」として、山内勢は武勇・知略・人柄優れた勝利公を推戴しました。

だから龍造寺と敵対するのは、神代勝利公一人の野心から出たものじゃないんです。
もし勝利公の野心から来る暴走なら、これほど山内武士団・領民の結束が固いものにはなり得ません。

山岳地帯の山内は、平成の現代でも山深い寒村があります。
戦国時代ならリアル秘境に近い山里だったろうし、彼らの生活は豊かとは言えなかったでしょう。

おそらく彼らの生活は互いに協力しあわなければ成り立たず、
誰か大物武将・大名の配下になって(赤の他人の)軍役に応じる余力なんてなかったんじゃないでしょうか。

「山内勢の結束」は、単に山岳民族の誇りだけが支えているのではなく、
生活基盤がかかってたから結束が固かったんだと思います。



そんなウンチクは龍造寺隆信には、どうでも良い話で、今は何か別の対策&具体案を出さねばならない。
で、老臣たちと密議の結果「調略(ちょうりゃく=裏切り工作)」をしよー(・∀・)★ピコーン
と、割と鉄板なアイデアに落ち着いた。

何しろ結束が固いので、調略に応じる隙がありそうなカモを探すのも一苦労。
そんな中、目を付けられたのが「鳥羽院城主・西川伊予守」だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【ようこそ波佐見へ、くっくっくくっく♪】神代勝利公「道」の巻5

山内の三瀬鶏~~(*´○`)o¶~~♪
西肥前のリサーチは後回し(おぃ)にして、とりあえず進められるだけ進みます___φ(.. )カキカキ

1561年9月13日「川上合戦」で、龍造寺隆信に敗れた山内の英雄・神代勝利公。
次男・三男を失ったものの、勝利公自身と嫡男・長良は何とか山内へ撤収することが出来た。
そこで勝利公は腹心の者らと今後の相談をした。

案1)再び兵を募りリベンジする(`・ω・´)キリッ

ちなみに三瀬村史には「十死に一生の一戦を試みる」とある。
九死に一生じゃないのか・・・|三瀬村史|_ ̄)じぃー
てか十死って、確実に死ぬって事なんじゃ・・・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

案2)前回みたいに山内から亡命してチャンスを窺う

で、いろいろ(*´・д・)(・д・`*)相談した結果、
傷病人もいるし、負けて気落ちしてる兵を集めてもパッしないだろう~(意訳)
てことで、またまた亡命することになった。

で、今度は「引っ越し先は何処にする?」(*´・д・)(・д・`*)の相談という名の吟味。
前回は筑前の糸島・原田さんところを頼ったのだが、その後に大友配下・小田部氏と揉めて・・・
いや、小田部との戦は勝利公の鮮やかな采配で大勝利でした。

鮮やかすぎて、それが負けて亡命なんて・・・ちょっと政治的に(・A・)イクナイ
てことで杉山の小副川さん所縁の人が、大村の波佐美にいるというので、そこを頼って勝利公の一族郎党が落ち延びた。
(妻子・三族近臣~とあるから、けっこう大所帯?^^;)

人物・くましろん~ 勝利公イメージ画像

山内の英雄が亡命したニュースは、すぐに肥前守護職・有馬晴純の耳に入った。
ちなみに、1561年時点で有馬晴純は隠居しており「仙巌」と名乗っている。

あ、そうだ。
大村の波佐美ってあるけど、大村エリアだから長崎県東杵郡波佐見町なの~~^^/
今度は長崎県の地理か・・・・il||li _| ̄|○ il||l

有馬仙巌は早速のこと使者を派遣し、大村純忠へ神代勝利公の保護を依頼した。
ちなみに大村純忠は、有馬仙巌の実子(次男)で~す♪ヽ(*´∀`)ノ←ヤケクソ
有馬氏は一族子沢山でアチコチに養子送り込んだり、政略結婚してるんです~・゜・(PД`q。)・゜・
複雑で未だに係累関係が覚えきれません(_´Д`)アイーン

実父から依頼された大村純忠は、快諾。
家臣の朝長伯耆守(筆頭家老・純利か?)に世話を命じた。
それだけでなく大村純忠は勝利公を慰め、武運の守りにと太刀もプレゼントしてくれたそうだ。


お蔭で勝利公の亡命生活に不自由はなかったらしい。
有馬にとっては、剛忠(家兼)の頃から龍造寺はリアル仮想敵。
龍造寺と敵対する神代勝利公に援助は惜しまなかっただろう。

勝利公の筋が通ってると言うか、、、有馬(を通じて大村)から受けたのは亡命生活の支援のみだと言う事です。
どんなに飢えていても、目の前のニンジンには食いつかない・・・これは凡人には中々出来ません。

有馬&大村から援軍を受ければ(可能かどうかは度外視で過程の話)龍造寺と比肩できる兵力は揃えられます。
が、その援軍を東肥前に引き入れた時点で、神代勝利公は小城・佐嘉の領民から「敵認定」され恨みを買うことになります。
かつて少弐氏が小城・佐嘉の人心を失ったのと、同じ轍を踏むことになるでしょう。

神代勝利公は、先祖代々の頭領でなく、推戴されて頭領になった人物です。
だから敵味方関係なく、現地の住民感情を害するのを何を置いても回避してたと思います。
そういった細やかな配慮の積み重ねで、勝利公は山内領民から「全幅の信頼」を得たのではないでしょうか。

一方、龍造寺の降伏勧告を蹴って浪人となった山内武士団。
彼等は、ただ待つだけでなく、勝利公を向かい入れるべく計略を廻らしたのだが、それは・またの話 by^-^sio





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【龍造寺なんてキライよ♪顔も見たくない♪フン♪】神代勝利公「道」の巻4

本シリーズは東肥前を統一できたかもしれない郷土史の英雄・神代勝利公と嫡男・長良公に捧ぐ。
個人的依怙贔屓で本シリーズだけは、御諱に公の敬称をつけさせて頂きます(-人-)☆彡

1561年9月13日「川上合戦」での大敗北により、次男・三男が戦死し一族・一門衆も多数失った山内の英雄・神代勝利公。
着々と勢力を広げる龍造寺隆信に、次第にエリアが狭められていく山内勢。
果たして神代勝利公と山内勢に生き残る「道」はあるのか?
(以下緑太文字は北肥戦誌より抜粋)

隆信は神代領を悉く没収し、山内の処々に代官を置き、空閑(古賀)光家を山内の抑えにと朽井村へ移した。

朽井村は現在は行政区としては残っておらず、佐賀市大和町大字久池町になります。
位置的には玉林寺のあたりになります。
嘉瀬川を挟んで玉林寺の向かいが川上社(與杼日女神社)なんです。
神代勝利公が本陣を置くのを許したりなど、何かと勝利公へ協力的だった川上社への牽制もあったと思います。

・・・・・実は、亡くなられた神代勝利公の次男と三男は、この玉林寺に埋葬されたんです。
まだ土も乾かぬというのに・・・・゜・(PД`q。)・゜・
龍造寺を恨む山内勢がリベンジするにしても、勝利公子息が埋葬された玉林寺には、不敬したり戦火が及ぶような事は避けるでしょう。
玉林寺周辺は、いわば龍造寺家臣にとっての「安全地帯」でした。
(余計に反感買いそうな気もするんだが・・・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)

ここで重要なのは《代官を置いた》の部分です。
龍造寺隆信は敗北でヤケになった山内勢が、山野に潜伏してゲリラ化するのを恐れていました。

だから神代勝利公から没収した領地を、己の家臣への恩賞として分配せずに、龍造寺預かりと直轄地にしたんです。
神代勝利公に従った個々の山内勢への追撃もしませんでした。
彼等が龍造寺へ自然に帰服するのを長期戦で待つつもりだったんです。
残忍だの残酷だの散々な評価の龍造寺隆信ですが、時機を待つことが出来る器量があり、それは統治者として必要な資質でした。

人物・龍造寺隆信

えっと勝利公が、どうされてたかは別に紹介します。

とにかく適当に頃合いを見て、代官を通じて山内勢へ龍造寺への降伏勧告がされました。
帰順すれば、今まで敵対してた過去は全てチャラで、父祖伝来の本貫地を無傷で安堵するという寛大な内容でした。

ところが山内勢は、
「小利に迷わず(勝利公との)君臣の大義を守って、ついに隆信に降ろうとしなかった」by三瀬村史

無傷の本貫地安堵を小利とは、何という鼻息の荒さ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
まぁフォローすると、これは龍造寺に限った事じゃないんですよ。

江戸期の鍋島殿の時代になって神代家は領地替えとなり、一度は山内を離れたんです。
ですが新しい領主に山内の領民は何としても懐かない(_´Д`)アイーン
この頃は既に勝利公直系の血統は絶えてたんですが、山内衆を宥めるために神代家は再び縁故の地へと領地替えになりました。

江戸期で勝利公直系が絶えててもこんな状態なんで、勝利公存命時の戦国山内では、とてもとても・・・
龍造寺に限らず、どの勢力相手だって山内勢は全力で抵抗するから、爪も立てられません。

結局、何とか宥めて懐柔しようとした龍造寺隆信の試みは徒労に終わり、山内武士の多くが浪人化Σ(´Д`;)
山内各所に配置された龍造寺代官達は、いつテロに遭うか判らないという危険な役務となった。

山内浪士は心の底から信じてました。
勝利公なら必ず再び復活すると。
勝利公の仁徳を慕い、浪人生活の苦しさに耐え、ひたすら勝利公を待ち続けたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【鳥羽院伝説と西川と】神代勝利公「道」の巻3

地名は「鳥羽院・とばい」ですが、絹巻の里に訪れたのは後鳥羽上皇です。

えっと日本史の勉強で「承久の乱(1221年)」って覚えてます?
シオ(←戦国以外の知識は曖昧)もボヤンとしか覚えてないんですが、鎌倉幕府(ぶっちゃけ北条執権)から政治的実権を取り戻そうとした朝廷側との戦いです。

武士の時代が逆戻りすることはなく朝廷側は敗れ、首謀者だった後鳥羽上皇は隠岐島へ配流となった。
後鳥羽上皇の荘園は鎌倉府によって全て没収。
表向きは高倉院へ与えられたが、実質支配してたのは北条得宗家。
だから北条家が神埼荘をゲッツしたのは平家滅亡後じゃなくて、承久の乱後かもです。

上皇が配流された隠岐島の国人(上皇の陪臣と書かれてるサイトもあった)だったのが西川伊予守の先祖・西川家房でした。
後鳥羽上皇は、西川祖先が神埼荘に飛び地があるのを知ると、隠岐島脱走を持ちかける。
で、一旗あげようと思ったのか西川祖先は話に乗り、後鳥羽上皇御潜行in神埼荘・絹巻の里・・となった。
ちなみに島根県にある隠岐島から来た西川の子孫が、何で伊予守なのかは判らん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

現在の鳥羽院(とばい)は鳥羽院上と鳥羽院下に行政区が別れてます。
で、後鳥羽上皇が稗粥を食べた伝説とか、後鳥羽上皇の御陵?墓陵とかがバッチリ残ってたりする。
後鳥羽神社もあるし、上皇が読んだ歌の歌碑もあって、地名変更するだけあって史跡が上皇フィーバー^^;

県道沿いに善信寺という寺院があるんですが、元は教信寺で後鳥羽上皇が行宮とした寺院だったという由来があります。
でもって寺の住職は代々西川家子孫が勤めていたそうです。
その寺院には後鳥羽上皇御真筆とか、色々残ってたそうなんですが大正時代の火事で全焼しちゃいました^^;;

さらに北山ダム建造の関係で寺院が合併して現在の善信寺になったそうですから、現在の住職が西川家の方かは判りません。
電話かけて確認しようかガチで考えたんですが、そういう事をやりはじめると電話代の下敷きになるので自省しました・爆

個人的には眉唾っぽい後鳥羽上皇御潜行なんですが、西川祖先が隠岐から来た時に便乗した公家の一人や二人がいても不思議じゃありません。
でもって西川祖先が土着するにあたり、後鳥羽上皇伝説・伝承を上手~く利用したんでしょう。
(夢もロマンも吹き飛ぶ推測)

戦国時代の西川伊予守の鳥羽院城の場所を探してるうちに、色々拾っちゃって面白くて記事にしちゃいました(*´pq`)プププ
当初の目的⇒鳥羽院城の場所は判らんかった。。。il||li _| ̄|○ il||l


鳥羽院の位置を知りたかったのは、三瀬とどのくらい離れてるのかな~~と思ったからです。
あ、すいません。
それ以前の話が抜けてました。

川上合戦で、大将(神代勝利公三男)が陣中で殺され+龍造寺勢の攻撃で瓦解した中で、唯一生き残ったのが西川伊予守でした。
そして、この西川伊予守が龍造寺隆信の裏切り工作に応じた人物です。
(※川上合戦の後です(^ -)---☆Wink)

これまで龍造寺隆信を寄せ付けず、固い結束を誇っていた山内勢の一角がついに崩れたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【絹巻の里】神代勝利公「道」の巻

神埼市背振町の山里に、その昔「絹巻の里」と呼ばれた地がありました。
細かく言うと背振町鹿路で佐賀県道273号線をググーーと奥に入ります。
周囲を山に囲まれバスは一日3便なぅ。土地勘ないと辿りつくまで、かな~り心細いです^^;
そこが絹巻の里と呼ばれたのには、このような伝説があります。


件の山里に父と娘が二人で暮らしていました。
やがて父が後妻を迎えます。

この後妻が性悪で先妻の娘をイビリまくってました。
娘の慰めは観世音の名号を心の内で唱える事だったそうな。(-人-)☆彡

ある日、朝廷へ献上する絹織物が織れないと、継母が何時にも増して娘を躾と称して虐待する。
「こんの役立たず!穀潰し!(←死語?)」と、継母は絹を巻きつける板を娘の背にくくりつけてo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と追い出した。

・゜・(PД`q。)・゜・・゜・(PД`q。)・゜・
どっぷりと暮れた夜道を泣く泣く歩く娘の前に見えたのは、一軒の家。
中には美しい女人が機織りをしてました。

娘は女人から織り方テクを教わると、父の元へと戻った。
話を聞いて父は「これは御礼をせねば・・」と、父娘で女人を訪ねると、家は跡形もない。
代わりに家があった場所には、山と積まれた美しい白絹の反物(ALLメイドインジャパン・検品済)が・・( ゚д゚)ンマッ!!
たくさんの反物の上には、娘が背負って来た巻板がチョコンと置かれていたそうな。

(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ~~これぞまさしく観音様のお導き!
父娘が仲良く戻るのを見て、アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ逃げ出そうとした継母。

それを娘が「どうか行かないで!」
「織物が織れなかったのはホントマジやばかったしぃ・・(._+ )☆\(-.-メ)アレンジヤリスギ!
ゲホゴホ・・・カットカット~~~やり直し!

それを娘が「継母さまの意地悪も私には善知識でございました。これも全て観音様の御導きです」と必死で宥めたので、継子に対し頑なだった継母の心も淡雪のごとく融けた。
以来、親子三人睦まじく(反物で)裕福に暮らしたそうな。

親子の村では観世音を祀り、継母が娘の背にくくりつけた絹巻を観世音の後光ししつらえると「絹巻観音」と崇め、村は「絹巻の里」と呼ぶようになったそうだ。
(参照:さがの歴史・文化お宝帳)


突っ込み不可の(・∀・)イイ!話がガラリと代わって。
先日、ブログ友さまとコメントのやりとりしてて、地名の「○○院」って話になった。
日本の地名で「院」と付く場所の由来には、大きく2パターンがあります。

パターン1)
献上米を収める垣の中に囲まれた倉庫を当時「院」と呼び、○○にある倉庫って言葉が、そのまま地名化した。
他にも「院」とは大きな建物を指す言葉でしたので、そういった建造物があった場所が地名化したりします。
パターン2)
高貴な公家や皇族が訪れた事から付いた。
筑後の八院は、このパターンです^^b

ロマンチックな響きと伝説があった「絹巻の里」は、パターン2の理由で地名変更される。
訪れた高貴な方とは・・・後鳥羽上皇!(゚ロ゚屮)屮 ナ、ナンダッテー
観音様より地上の権威?

絹巻の里は鳥羽院と地名変更したが、何故か読みは「と・ば・い」
「ん」は何処へ行った,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
某外国都市名のような鳥羽院を領していたのが山内の豪族・西川伊予守なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【おらが村のJk】神代勝利公「道」の巻1

冗談抜きで、しばらく三瀬村史ベースの話が続くので、神代勝利公専用シリーズです^^/
でもって小題にあるjkは、もちろん女子高生ではありません・爆

ちょっと戦国から離れます。
ここまで風呂敷広げて大丈夫か?と思われるかもですが、まぁ御付き合い下さい^^

実は肥前には平家所縁のアレヤコレヤが色々あります。
佐賀市大和町川上には、幼くして死んだはずの安徳天皇が生きてて開基したって由来の寺があります(名前失念)
地名の「尼寺・にいじ」も、二位尼が変化した説があるとか。

特に神埼荘(現・神埼市)に平家由来のアレコレが集中してまして、それには理由があります。
(アレコレは得意分野じゃないので調べきれないから聞かないで・汗)
実は神埼荘は平家領でして、平家の巨万の富を支えた密貿易の本拠地だったんです。( ゚д゚)ンマッ!!
密・・・ですから、どのくらいの規模とか稼いだとかは、平家が滅んだ今となっては当然判りません。

え~~~何度か戦国時代と現代は海岸線がちゃうんや~~と涙目で訴えてた道産子です。
で、さらに時代を遡り平家の時代は、もっともっと海岸線が違うんです。
地理が苦手なんで上手く説明できなんですが、平安初期は平成・佐賀市の殆どは海だったんです。
与賀も川副も海で、陸地が形成されてないから、そこを流れる本庄江川は存在すらしてません。

だから神埼の方も、大きく東西に蛇行してた佐賀江川は未だ存在しておらず、筑後川からダイレクトに陸地。
陸地から少し進んだところで、城原川が支流として別れてました。

平家・・・ぶっちゃけ清盛は、密貿易で運んだ貿易品を神埼荘で陸揚げしてたんです。
今なら凄い遠くに感じるだろうし、山越えはヽ(。_゜)ノ へっ?と思うかもです。
が、繰り返すように海岸線が違うので、筑後川を利用すれば、かなり内陸まで運べたようなんです。
( ̄ko ̄)<神埼市では、時々宋銭が出土するそうでつよ・・・
んで、旧三瀬街道経由で博多へと密貿易品が運び込まれ、平家の財力を支えていました。

平家が滅ぶと密貿易の旨味は消えましたが、神埼荘という土地そのものに価値がありました。
だって平成・佐賀市の殆どが未だ海~~~ってことは、神埼荘は肥前における貴重な平野部だからです。

通常は海の近くだと塩害モロなんで稲作なんで到底無理。
が、少し内陸に入った河川流域だと海が近くでも塩害は少ないし、定期的におきる満潮時の河川逆流現象が肥前平野部を常に肥沃な土地へとリフレッシュします。
源平の頃、肥前において最も物成りが豊だったのが、神埼荘平野部でした。

名残として、佐賀江川流域生産の米が「江戸期ブランド米」でした(^ -)---☆Wink
てことで平家が滅んだ後の、美味しい土地は北条得宗家がゲッツ(=^・ω・^=)v ブイ
北条家の九州への支配力が強まった頃だと思います(苦手な時代だから細かい突っ込み不可)

んで、ですね。
ぶっちゃけ、このあたりの時代は不勉強だし、内容的にガチ郷土史研究家分野。
だから神埼荘を全て北条得宗家がゲッツしたのか、平家領を分捕ったのを山分けしたのか、あと恩賞として土地を拝領した鎌倉御家人系もいたと思うんで、シオレベルじゃ手におえません。

とにかく神埼荘は「豊穣の地」だから「北条だけの土地」じゃなくて、「禁裏御領(帝の直轄地)」もあったんです。
何処から何処までを、誰が領してたかとなると、とても調べきれないので御容赦を^^;

安徳天皇が生きて肥前にキタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
って伝説があるのを見ると、平家全盛時代から神埼荘に禁裏御領があったかもです。

禁裏御領がある・・・ということで、肥前へ足を運ばれたjk・・・上皇がおられたのだが、それは・またの話 by^-^sio


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【致命的敗北?・川上合戦・終】龍造寺隆信「道」の巻15

神代勝利が「父として」「次男・三男の死に動揺」し、頭領の立場を忘れた言動をしたのは、
記録に残っている限りでは、後にも先にも川上合戦での「この時」だけです。

神代勝利曰く
今は何も期待することはない。
我が陣(本陣)を進めて(勝利が)討死し、長良(嫡男)を助けよう。

そう言うと神代勝利は、本陣の隊伍を崩し佐嘉勢に攻めかかった。
(出典:三瀬村史)

勝利公・・・・ (゜-Å) ホロリ

人物・くましろん~ 神代勝利イメージ画像

って、大将が討死しちゃダメじゃん!!Σ(´Д`;)

神代家臣が最前線に進もうとする勝利公を必死に説得 アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
本陣の後ろに回った佐嘉勢を蹴散らしo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
「早く早く後ろ空けたから今のうちね!っね!山内へ引き上げましょう!!!(超意訳)」と申し出たので、やっと神代勝利も同意して退却した。

(以下、緑太文字は北肥戦誌より抜粋)
唯一、宮原口の長良のみ健在で(隆信の)旗本勢と叩き続ける。

父・神代勝利が本陣を割いて援軍した事で、嫡男・長良勢だけは何とか持ち直して奮戦を続けてたんです。
さら~っと北肥戦誌では流してますが、これってメチャクチャ凄いことです。
本陣が退却したって事は、嫡男・長良勢の状態を端的に、良く言うと「殿軍を引き受けた」悪く言うと「戦場に置き去り」です。

最前線で自陣がボッチになったと気づけば、どんな歴戦の猛者でも一瞬怯みます。
それを嫡男・長良は士卒たちを混乱させることなく、戦線を維持し続けてました。
史料が少ない神代長良は、父・勝利が「自分が代わりに討死してでも助けたい」と願うほどの逸材だったんです。

うにょれ・・龍造寺さえ台頭しなければ肥前は神代藩が・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ

これ(長良勢)に竹藪を隔てて戦う箇所があったのだが、佐嘉勢の馬渡信喜がこれを見て堀の岸を伝え寄り、藪越しに突き出された槍を6 、7本奪い取った。
更に龍造寺家臣・水町信秀らも奮戦により、長良は遂に討ち負けて山内へ退き始めた。
龍造寺勢はこれに追い縋る。
長良は血塗りの長身の槍を振り回し、敵を振り切るが逃れ難く見え榎木の下にて腹を切らんとする。


うぎゃぁああああああああああ!
神代長良が自刃したら佐賀藩の歴史(一部)が変わる!!!!

が、福島周防守、福島伊賀守、福島弾正忠、福島新三郎、神代兵衛尉、梅野源太左衛門、中島上総介らが長良を逃すべく敵に打ち掛かる。
そして次々と討ち死にし、江原石見守は生け捕りとなった。


嫡男・長良の生母は、神代勝利の実兄生母(勝利とは異母兄弟)の実家・福島氏娘でした。
それで長良勢には、福島一族が多数配されていたみたいです。

その隙に神代備後守は長良に走り寄って自害を押し留めると、藪の茂みに長良を隠すと自らは敵に打ち掛かる。
神代備後は福地長門の家人三名を討ち取ったが、福地勢に討ち取られた。

勝利らは、落人と見て群がり来る野武士らを追い払いながら熊川の城へと戻った。
長良もその夜に熊川へと辿り着く。


隆信は鉄布(現在の名尾峠)の無念を晴らせたと大いに喜悦し、勝ち鬨を上げると、下於保村にて生け捕りとした者らを処した上で佐嘉へ帰陣した。

人物・龍造寺隆信 龍造寺隆信イメージ画像

下於保という地名は今は残ってなくて、佐賀市大和町大字池上にある下於保公民館のあたりになります。
ちなみに今山合戦で夜襲前に龍造寺勢が一時待機したのも、この下於保村。
布陣するのに(・∀・)イイ!感じの場所だったみたいです。

一説に勝利次男・種良は生け捕りとなって処されたとも、
(生け捕りにされてた)江原石見守は処される際に、不意に立ち上がると太刀取りを蹴り倒して、その喉笛を食い千切ったとも謂われる。


龍造寺隆信が喜悦したのも当然です。

神代勝利は次男・三男だけでなく福島一族・神代一族を多数失ってます。
言いづらいけど雑兵って、何だかんだと補充が利くんです~( ̄ω ̄A;アセアセ
ですが馬廻り衆とか各家臣の当主・嫡男・重臣といった将校クラスを失うと、人的損害から立ち直るのに数年単位かかります。
(次世代の跡継ぎである子弟が成長するのを待たなきゃならないから)

比較するなら神代勝利が蒙ったダメージは、

少弐の陰謀で抹殺されかけた龍造寺の受けたダメージ以上、
沖田畷で敗北した龍造寺のダメージ未満ってとこです。

沖田畷未満なのは、大将で現役当主である神代勝利が生きて戦線離脱してるから。
それでも一年や、そこらで回復できるようなダメージじゃありません。

普通は。

神代勝利と山内勢の底力は、普通じゃ有り得ない速さで大敗北のダメージから復活した事なのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回「おらが村のjk」データ整理の為、またまた間あきます♪ヽ(*´∀`)ノ

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【南大門瓦解・川上合戦9】龍造寺隆信「道」の巻14

ちょっと本題からズレますが、川上社は神代と山内衆の味方だったみたいです。
みたい~というのは史料的な裏付けが例によってとれないもんで・・^^;

川上社=與杼日女神社は肥前国一の宮。
大宮司は初めは高木氏でしたが、勢力拡大した東国御家人・肥前千葉氏にとって代わられます。
その肥前千葉氏が大内と少弐の介入で、東西に別れて衰退。
肥前千葉嫡家(西の方)当主・千葉胤連が大宮司として復活するまでの間。

この短い、だが激動のニ十数年・・・川上社を何らかの形で外護してたのは、神代勝利だったんじゃないでしょうか。
だって全盛期の神代エリアに川上社は、スッポリ入ってますもの。
後年、川上社西門を寄進した時には、願主や寄進者の中に鍋島勝茂の名と共に神代家の名もあります。

肥前国一の宮である川上社は、まぁそれなりに各在地領主達から寄進は受けてたと思います。
(でないと社領・社殿の維持が出来ない)
が、川上社に仕える社頭や社人の生活面に関する細やかなアフターケアは、神代勝利が配慮してたと推測してました。

「やぁ川上の者なら、山内の者も同然、不都合あれば何なりと申せ^-^ニコニコ」
って優しく声をかける勝利公の御姿が浮かびます(*´ー`)
神代勝利という人は、そういった気配り心遣いが人心収攬の計算ではなく、自然に出来る人柄だったんじゃないでしょうか。
でもって、人情の機微に関するアンテナの受信良好さ、それは剣術道場主時代に培ったものでしょう。

神域である川上社は守護不入・軍事不介入、逆を言えば誰にも加担しないで中立・・・とも言えます。
ですが川上社の社人たちは、常日頃の厚情(←推測ですけどね)に報いる為に、社の総門に神代が本陣を置いてもノンクレームだったのかな~~と。

でないと龍造寺からの報復を恐れず、山内に復帰したばかりの神代に川上社の社頭が差し入れしたりと、神代サイドの肩入れをしないはずです。
身を隠す場所がない川上で、唯一の安全地帯ともいえる川上社から出て、神代勝利は本陣を前進させて最前線に近づいた。

人物・くましろん~ 神代勝利イメージ画像

実は自分・・・勝利が本陣を「いつ前進させたか」の判断に迷いました。
経過を見るに前進してるのは確かなんですが、細かい時系列での記述はないのでタイミングに迷ったんです。

で(-ω-;)ウーン(-ω-;)ウーンと悩んだ結果、
「三男・周利勢が瓦解し、三男・周利勢と戦っていた龍造寺信周&鑑兼&小河勢2000が、嘉瀬川を渡河して次男・種良勢の横合いに攻撃が始まった時点」で前進した・・・としました。

というのも位置関係の問題があるからです。
川上社が安全地帯(一種のプチ砦状態)というのは、嫡男・次男・三男の陣三つが備えとして機能してるからこそ、だと思うんです。

三男が瓦解し南大門の次男が瓦解した後も、そのままの位置に本陣が布陣していたら、
嫡男と勝利の陣が佐嘉勢に分断されてしまいます。
そして、それは嫡男の陣が瓦解した場合でも同じ事が言えます。
山内勢ALLピンチとなったので、本陣を川上社総門から出さざるを得なかったんです。

龍造寺が初めに本陣を置いたのが西山田で、現在の川上社との距離は1km弱。
戦国時代の川上社は、今より少し南にあったし、龍造寺勢も山内勢と激突するために西山田から前進してます。
接近戦となった嫡男と次男の陣は、200mくらいしか離れてないんじゃないでしょうか。
少なくとも互いの旗印が視認できる距離での、激戦・乱戦だったでしょう。
どっちの戦線もガッツリ乱戦状態の接近戦で、かつ利用できる遮蔽物もない地形で、どちらか片方だけを援けるなんて器用な事が、そもそも不可能です

どちらが潰れても、神代勝利の本陣に危難が及ぶ。
どちらも潰すわけには行かない。究極の二択・・・でも選べない二択・・・
父・神代勝利が本陣を前進させたのを、次男・種良は気づいてたはず。

(次男)種良は「一足も退くな! 駆け入りて皆討ち死にせよ! これを破られらば、勝利を得るはより難儀となる、進め、進めぃ!」と叱咤する
これに神代家臣・松瀬能登守、馬場四郎左衛門らは佐嘉勢に討ち入り悉く討死。
次男・種良も御手洗橋の辺りで組み伏せられ討死(享年23歳)


ついに南大門の神代勢も瓦解!
朝から戦い続けてたんです。
おそらく・・・3倍の兵力差になってから瓦解まで、1刻(2時間)もたなかったかと・・(´;ω;`)ウッ

地図・エリア川上3

龍造寺勢はこれ(瓦解した種良勢)も討ち捨て、勝利本陣の後方を取らんとする。

自分は初め、この北肥戦誌の文章の意味がヽ(。_゜)ノ へっ?でした。
川上社総門の後方って??ワケワカランチン

ですが三瀬村史と富士町史と北肥戦誌の戦況を読み比べて得心しました。
前述したように、神代勝利本陣が総門を離れて前進してたんです。

後ろを龍造寺勢に取られたら、神代本陣も宮原口の嫡男・長良勢も、周り全てを囲まれ押し包まれてしまいます!!
息子を次々と失った絶望の中で、神代勝利は頭領ではなく「父としての」決断をしたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【決断・川上合戦8】龍造寺隆信「道」の巻13

オタの妄想はさておき、山内勢の結束力の凄さは、大将が暗殺されるという異常事態の混乱から、一時的にせよ持ち直した事です。
殺された三男・清次郎周利は二十歳の若さでしたので、おそらく父・勝利が物馴れた老臣を補佐として付けていたのでしょう。

東の都渡原に陣していた三男・周利勢は、必死に戦ったのですが、いかんせん新参衆がメインのニワカ増設部隊。
互いに互いが「あいつ佐嘉勢に通じてるんじゃ・・」と疑心暗鬼になって、攻撃のリズムが揃わない(_´Д`)アイーン
そうこうしているうちに、八戸宗晹、西川伊予守が負傷し戦線離脱。

西川伊予守に至っては自力で歩く事もままならず、家人に助けられ漸く鳥羽院に逃げ帰った。
後に西川は、自分を助けた家人に自身の「西川」姓を与えたそうです。

奮戦を続けていた他の山内勢も、ついに力尽きる。
広瀬・古場・杉山以下、西川伊予守を除く大半の山内勢が討たれて、三男・周利勢が瓦解した。


地図・エリア川上2

信周の勢はこれら(三男・周利勢)を打ち捨て、(嘉瀬)川を渡り納富が攻める南大門に加勢に加わり、勝利次男・種良の横合いに攻め掛かる。by北肥戦誌

三男・周利勢と戦っていた龍造寺信周・鑑兼・小河ら2000が、今度は次男・種良勢に矛先を向ける。
元々、次男・種良勢は2倍近い納富勢2500を相手に奮戦していた。
そこへ信周以下2000が敵兵に加わったのだ。
次男・種良勢に掛かった負荷は、一気に3倍弱に増大! ガチョ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

一方、主力軍である嫡男・長良勢も力の限り奮戦し続けていたため、さすがに疲れが出始め佐嘉勢に押されはじめてきました。

この有様を見ていた神代勝利は、臓腑を抉られるような苦悩を感じたのではないでしょうか・・・・
三男の突然の死を嘆く暇はありません。
今度は二人の息子がピンチなんです。

神代勝利本陣率いるのは兵1200。
今現在、活発な戦線へ援軍する場合、兵の逐次投入は絶対に禁忌(タブー)。
ベテラン戦上手の神代勝利なら経験的に判ってる事です。

というのは中途半端に援軍を送っても「焼け石に水」って事でして、下手すれば援軍もろとも自滅コース。
う~んと思い切って兵を割いて投入しないと、一旦不利になった戦況を変える事なんて出来ないんです。

3倍近い敵兵を引き受けて、もはや限界を超えてる次男・種良か。
疲れが出始め動きが鈍くなり佐嘉勢に押されてる嫡男。長良か。
父である神代勝利が物理的に援軍する事が出来るのは、どちらか片方だけ!

人物・くましろん~ 神代勝利イメージ画像

後に病死する神代勝利の死因は胃ガンだったと言われていますが、おそらく川上合戦でのストレスMAXが発病要因の一つだったんじゃないでしょうか。

親として我が子の愛おしさに順番はありません・・・(´;ω;`)ウッ

ちなみに勝利嫡男と次男は生母が違いまして・・
嫡男生母は勝利の異母兄一族である福島家娘。
次男生母は山内・千布城野田氏娘。
・・・・・どっちかを選んだ場合、政治的にもキナ臭くなるような?・・・(´;ω;`)ウッ


神代勝利関連の記録で、我が子の死を嘆く素振りや言動は一切残っていません。
おそらく本当に声音や顔に出さなかったのでしょう。
何故なら神代勝利は、頭領として山内を照らす太陽だから。
太陽は曇っちゃダメなんです。

これが累代の頭領なら、神代勝利のキャラクターは全く違ったかもしれません。
でも神代勝利は、勝利の代で山内衆から推戴された頭領。
「山内衆が望む頭領像でいなければならない」って、入り婿みたいな心理的枷が常にあったと思うんです。

武辺朝臣・神代勝利は、人前で自分の息子の死(だけ)を嘆く事は出来ない・・・
何故なら息子や身内が戦死したのは勝利だけじゃないのだから・・・

「答え」を出さないまま、神代勝利は川上社総門を離れ本陣を前に進めたのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
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【変事・川上合戦7】龍造寺隆信「道」の巻12

(緑太文字は北肥戦誌より抜粋)
隆信は予てより「先陣の敗は二陣の不覚、先陣の勝は二陣の手柄」と定めていた。

つまり不覚であれ武功であれ、二陣と先陣は一緒♪ってこと^^
嫡男・神代長良勢の猛攻撃に隆信旗本勢・先陣が瓦解Σ(´Д`;) うあ゙
が、常日頃の隆信の言葉に奮起した第二陣・大将・福地長門守信重500余騎が入れ替わり前線に躍り出る。

神代長良も采配をふるって「佐嘉勢の備えはしどろ(?)になったぞ」と大声で下知する
(太文字部分・三瀬村史より抜粋)
しどろって「しどろもどろ」の「しどろ」かな?

面白いのは北肥戦誌(龍造寺勢サイドの記録がメイン)も三瀬村史(神代、御当地村史)も、互いに自分が有利!と記していることです。

1561年9月13日に起きた「佐嘉・龍造寺隆信VS山内・神代勝利IN川上合戦」。
もはや国人領主ではない。
誰の配下にもならない。
ただ一つオンリーワンの東肥前覇者の椅子を巡る争いでした。
双方が絶対に勝ちを譲る事の出来ない戦いで、それは雑兵の端々まで自覚してました。
それゆえ凄まじい激戦となり、三瀬戦史で言うところの「千騎が一騎になるまでも、何時果てるともない大乱戦」となったんです。

地図・エリアKAWAKAMI

山内勢・主力軍の嫡男・神代長良勢と、隆信本軍旗本勢は、ほぼ同兵力でした。
ですが何せ山岳民族の山内勢は、個々の兵が武勇スペック高い( ̄ω ̄A;アセアセ
そのため初戦では山内勢が優勢だったようです。

このままだったら肥前の熊は成獣になる前に、山の民に退治されちゃったかもです。
ところが誰も予測してなかった「事件・変事」が起きます。

異変が起きたのは、神代勝利三男・清次郎周利勢でした。
突然、「野心を抱く謀反人」が「大将の神代清次郎周利」を突き殺したんです!!
清次郎周利、享年二十歳の若さでした・・・・゜・(PД`q。)・゜・

この「野心を抱く謀反人」ですが、北肥戦誌・三瀬村史・神代家伝記にも「何者だったのか」が記載されていません。
何しろ一軍の大将が殺されると言う一大事です。
現場は物凄い大混乱で本当に誰なのか、判らなかったかも・・・なんですが・・・


すいません。ここから先、オタの妄想です。

もしかしてなんですが、龍造寺隆信が刺客を放ったかも・・・って考えました。
というのも隆信の立場で考えたら、自分が隆信でもダメ元でやってみるかな~と思うからです。

山内勢は神代勝利を「武辺朝臣」と呼び、一代の英雄と尊崇し結束力が非常に強固でした。
そのため龍造寺隆信は、裏切り工作も出来ず、神代勝利暗殺にも失敗、山内へ入って大敗と目も当てられない有様^^;
変な話ですが、もう「正々堂々の決戦」に持ち込むしか、神代勝利を山内から出てこさせる方法が無かったんです。

山内勢は廻りが顔見知りだらけだし、知らなくても山言葉でジモティか余所者か即バレちゃいます。
ですが三男・清次郎周利の陣だけは、最近になって神代傘下に入った新参衆がメインだったんです。
刺客を潜り込ませる事が出来るのは、三男・周利勢だけ。

我ながら人が悪いな~と気が引けるんですけど・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

【自分が隆信で刺客を放った場合】
まず複数で。(別々に依頼して、誰が刺客か互いに知らせない)
モチベーションを上げる為に成功・不成功問わず報酬を渡す。
大将でなくても仕留めるチャンスがあれば重臣クラスでも可。(混乱させるのが目的だから)
で、仕留めたら誰が犯人か判らないように、得物は必ず処分させるんです。

「誰が裏切ったか判らない」
この状態が最も混乱し、最も疑心暗鬼を生む要因になります。
で・・・ちょっと、この人が刺客を手引きしたかも・・って目を付けてる人物がいるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【激突・川上合戦6】龍造寺隆信「道」の巻11

淀姫(與杼日女)神社(=川上社&肥前国一の宮)総門(山門=正面)に本陣を置いた神代勝利。

・・・・イメージちゅぅ・・・・(人´∀`).☆.。.:*・ちょっと、かなりカッコ良いわぁ

神仏の加護を背負った如く風にたなびく神代本陣の旗印は、勝手の違う地域で戦う山内衆を鼓舞させたと思います^-^
隆信からすると「また芝居がかった事をしやがって・・・」と面白くないし、社殿がバックだと不敬しないで神代本陣のみを攻撃ってやりづらい。

神代本陣を正面から攻撃しようとすれば、川上社に攻撃してるような感覚になり、ちょっと心理的に負荷セーブモード入ります。
隠れる場所・利用できる地形がない川上で、上手いところに本陣をおいたものです。
やはりこれは三瀬村史にあるように、決戦の場所と日にちを指定したのは神代勝利ですな( ゚Д゚)y─┛~~

人物・くましろん~ 神代勝利イメージ画像

えっと三瀬村史と北肥戦誌を見比べてるから忙しいぞ~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

1561年9月13日、まず龍造寺勢は夜明けに出陣し、西山田に本陣を置きました。
西山田は佐賀市大和町大字東山田の西隣です。

すいません、ふざけてるわけじゃなく西山田って地名表記では残ってないようなんです(グーグルに出ない)
現在の「佐賀大和観光桃園」のあるあたりが西山田です。
龍造寺配下の於保(おぼ)氏の於保村より北に位置してるので、やはり1561年当時は嘉瀬川流域で川上社を含む長崎自動車道周辺の土地が、神代と龍造寺のエリア境界線だと思います。

で、戦国当時の川上社の正確な位置は不明ですが、現在の川上社と西山田は直線距離で約1km離れてます。
アップダウンがない広やかな場所なので、視界を遮るビル等がない戦国時代なら見晴しは相当良かったでしょう。

神代勝利は本陣を含めて4隊に軍勢を分けてました。
隆信は(おそらく神代勝利の本陣位置を知って)本陣含めて3隊で軍編成。
神代本陣は無視して、神代の息子たちが率いる各隊を先に撃破する作戦でしょう。

なんていうか眺望が効く平野部では伏兵や奇兵も出来ない。
だから敵より兵が多い方が有利という単純計算が成り立ちます。
平野部生まれの平野部育ちの隆信が、敵より常に大軍を用意するのも、そういう所から来てるんでしょう。
(野次馬から見て面白味ゼロだけどwww)

地図・エリアKAWAKAMI
激突カンタン一覧表^^/
龍造寺隆信3500-----★宮原口★------嫡男・神代長良他3000
納富信景2500-----------★西の南大門★---次男・種良他1300
龍造寺信周・鑑兼、小河他2000---★東の都渡岐口★---三男・周利、八戸、千葉他1500


龍造寺隆信は旗本勢の先陣大将を広橋一祐軒信了、第二陣大将を福地長門守信重として、宮原口(位置?)の嫡男・神代長良他3000に段々と迫りました。

それを見た神代長良は、隆信先陣が1町(110m弱)に近づいたところで、弓鉄砲を射かける。
この攻撃が神代VS龍造寺の激突の始まりでした。

(隆信)旗本勢の先陣・広橋一祐軒信了は士卒を励まし、
「一歩も退くな、掛かれ!」と下知するも、神代(長良)勢の勢いに南の方へ瓦解し広橋(←先陣大将)も討たれんとした折、
二陣の者らは大いに憤激し自ら采配を上げて馬廻り衆を急いで先陣と入れ替え、二陣の大将・福地長門守信重も500余騎で入れ替わる。

(緑太文字は北肥戦誌より抜粋)

北肥戦誌では経緯が端折られてます。
三瀬村史によると、最初に神代長良隊が弓鉄砲で射かけて、隆信旗本勢も同じく弓鉄砲で応戦してました。
そこへ神代長良隊から神代兵衛ノ尉と江原石見守が進み出て一番槍として、隆信旗本勢先陣に突入!
他の神代長良勢も一番槍に遅れを取るなとばかりに続いて攻撃。

山岳地帯の武士は強兵と、どこの地域でも相場が決まってるが、山内勢も強かった。
先陣はコテンパンでして( ̄ω ̄A;アセアセ
北肥戦誌にあるように、支えきれず瓦解し先陣大将・広橋も討たれる寸前 Σ(´Д`;)

歴史とは不思議なもので、兵が強いから生き残るとは限らない。
でもって大軍だから絶対勝つとも限らない。
やはり勝敗は時の運・・・ということになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【合戦は神前で♪・川上合戦5】龍造寺隆信「道」の巻10

位置関係を勘違いしてたので、記事大幅修正でつ( ̄ω ̄A;アセアセ

久々に富士町史をチェックしたら、川上合戦の龍造寺勢が動員38000,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
鳩尾(みぞおち)に笑撃来ました。。。。。盛るのもほどほどにしてください。
東肥前制覇半ばの龍造寺が、朝鮮の役や関ヶ原や江上・八院より多い兵力を動員なんて不可能です。
おそらく江戸期に8千の前に3万を書き加えたんですな( ゚Д゚)y─┛~~

どうやら富士町史と三瀬村史では、参照した史料が違うようです。
(富士町史は「神代家伝記」っぽいです。三瀬村史は家伝記だけでなく村の伝承が含まれる)
他に違ったのが、神代勝利本陣の兵数で、三瀬村史が2000、富士町史が1200でした。

龍造寺勢の盛り動員はともかく、勝利本陣の兵数は富士町史が「近い」と感じました。
というのも、山内勢の主力軍は「嫡男・長良率いる兵3000」だからです。

長良の隊には、一門衆・重臣クラスの家臣らが配置され、さらに名尾(鉄布)峠で活躍した鉄砲名人・阿含坊ら山伏たちも配されてました。
長良率いる主力部隊を撃破するため、龍造寺勢も隆信率いる旗本勢が当たったのでしょう。

地図・エリアKAWAKAMI
エリアKAWAKAMI・合戦イメージ配置図

どうも戦国時代の川上社は、現在より数百メートル南だったっぽい。
宮原口は川上へ入る要路で、そこから先が川上社の社領になるようです。

神代本陣を守る形で、川上社南の大門に布陣したのが、次男・種良勢1300。
嘉瀬川を挟んで東側の都渡原に布陣したのが、三男・周利と八戸・千葉ら新参衆1500。

その神代の本陣は淀姫大明神(=川上社)の西の総門。
             ・・・・・・・・・・・・【総門とは】φ(.. ) 検索カタカタ

「外構えの大門。また、城などの外郭の正門。」だそうで、つまるところ正面玄関になるらしい。
あからさまに真ん前でないにしろ、神代本陣をガチで攻撃しようとすれば、社殿に戦火が及ぶかもです。
となると攻撃する方からすると、ちょっと躊躇するなぁ・・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

三瀬村史&富士町史では決戦の場所と日を指定したのは神代勝利になってます。
自分もソッチを支持します。
つまり川上社を本陣にしたのには、神代勝利に何か意図があったからでは・・・と思うんです。

神代勝利は大将である自分が囮になったり、本陣そのものを伏兵にしたりと、あえて本陣を手薄にし無防備に見せかけて奇策を用いるという特徴があります。
今回も龍造寺勢より少ない兵力を活かす為の秘策があったんじゃないでしょうか。

人物・龍造寺隆信

てな感じに社を本陣にした神代の行動を、龍造寺隆信が深読みしたと思うんです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

敵より大軍を用意してから出陣するという正攻法セオリーに忠実な隆信にとって、
何を仕出かすか次の行動が全く予測出来ない神代勝利は、苦手なタイプだったでしょう。

神代勝利が一世一代の決戦ゆえに大明神照覧の元で、真向勝負で挑もう。それゆえ覚悟の上での本陣の構え・・・・とは素直に思えなかったんじゃないかな~^^;
正直なところ、自分も裏があるんじゃないかとアレコレ妄想が爆走しそうになってます(爆
当事者の隆信なら猶更でしょう。

戦は川上社を背にした神代勝利が見守る中始まろうとしていました。
神前で合戦式・・・(._+ )☆\(-.-メ)タワケ!

なんだか鎌倉時代みたいな話ですが、こんな劇場型舞台設定は龍造寺隆信の趣味じゃありません。
むしろ、こういう芝居っ気が嫌いなタイプ(だから神代勝利とは生理的に合わない)
でも神代勝利と決着つけるためには、神代好みの御膳立てに乗るしかなかったんですil||li _| ̄|○ il||l

意外かもですが、これまで龍造寺隆信は山内衆に対して寝返り工作とかしてません。
工作出来ないほど、神代勝利を中心とした山内衆の結束が固かったんです。

人物・くましろん~

神代家という武家は国人オタのシオからしたら、これほど魅力的・蠱惑的な国人領主はいません。
現代人ですら魅了される神代勝利を、山内衆が一代の英傑・英雄と慕うのも判るような気がします。
龍造寺派遣の代官を山内衆が毛嫌いしたところを見ると、領内統治も神代勝利は相当細やかに気配りしてたんじゃないでしょうか。

山岳地帯の山内は決して閉鎖村社会ではありません。
自分たちの作った工芸品を売る為や日常品の買い物などで他地域との交流は盛んでした。
また背振山系は山岳信仰の対象だったので、修験道の山伏が古くから一杯出入りしてました。

つまり間者(スパイ)を潜り込ませるのって、超かんたん(・∀・)
ところが肝心の内部情報となると、山内衆も領民も口が堅い固い・・・il||li _| ̄|○ il||l
龍造寺隆信は「神代勝利が、何処に在城しているか」さえ掴むのが容易でなかったんです。
神代勝利の暗殺も失敗してたのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

神代勝利を倒すには、山内に入るか、神代が山内から出たところを叩くか二つに一つ。
で、山内に入ってみたら名尾(鉄布)峠の決戦で大敗北。
懲りた隆信は、神代勝利を山内から出て来させる為に、決戦を申し出たんです。

肥前国一の宮・川上社の祭神・與止日女命が微笑むのは、果たして龍造寺か神代か、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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