fc2ブログ

【長崎市の長崎氏・弐】西肥前強化月間・リサーチ4武家目

舅である大村純忠と同じくして受洗し(1562年)キリシタンとなった長崎純景。
5年後に宣教師が純景の館(桜馬場城)の近くに布教所を建て、布教と医療を行った。
その更に2年後には、夫婦川町の丘の仏寺を改造し、長崎初の教会が建設されている。

一見、長崎氏は熱心に信仰の普及に尽力したかのように見える。
が、この期間というのは、貿易港・横瀬浦(西海市)を武雄・後藤勢に焼き払われてしまったポルトガル貿易船が、良港を求めて転々と寄港先を変えていた期間なんです。

だから長崎氏の布教保護活動が、純然たる信仰心からの発露か、ポルトガル貿易船招致活動の一環なのか、なんとも微妙で判断しかねる^^;
在地国人領主である長崎純景にしてみれば、勢力のある大村氏に追従でざるを得なかったかもしれない。
とはいえキリシタンを嫌ってはいなかったし、そこそこ信仰心もあっただろう。
でなければ領内の、しかも自分の目と鼻の先に布教所を認可したりはしないはずだ。

長崎純景が宣教師を保護したのが効いたのか?
1570年(サイトによっては1571年)長崎がポルトガル貿易船の寄港地に決定
新たに町割りが行われ、島原・大村・文知・外浦・平戸・横瀬浦町の六ヵ町が成立した
これが貿易港・長崎の始まりで、江戸期には26町にまで拡張されます。

ところが領地を提供した長崎純景は交易の利権の恩恵に預かる事が出来なかったそうなんです( ゚д゚)ンマッ!!
この初期長崎6ヶ町が何処に帰属してるのか、ちょっと自分の知識不足で上手く検索する事が出来なかったです^^;
大村純忠が、初期の段階で何処まで関わってたのかも、ちょっと(全然・爆)判りません。
ほとんどのサイトが、後年の記録と混ざって大雑把に記述されてるので、細かい推移を素人が辿るのは限界があるようです。

どうも堺のような自由交易都市&外国人居留地みたいな感じで、長崎氏は領内に治外法権地が出来たような塩梅。
6ヶ町衆(メンバーも判りませんでした)は、自前で防備のための武力も保持してたようです。

更に長崎純景にとって面白くなかったのが、6ヶ町の場所です。
そこは長崎純景の桜馬場城下ではなくて、岬の突端に位置していました。
これは無理ないことなんです。

だって長崎純景の桜馬場城は、海岸から1kmちょっと内陸なんですもの( ̄ω ̄A;アセアセ
はるばる外国から来る貿易船にしてみれば、岬の方が地形的に目印となるし、滞在する場所は海の近くの方が便利だからして~~( ̄ω ̄A;アセアセ

たかが1km、されど1km。
開発から取り残された村落が過疎るのは、平成も戦国も変わりません。
交易によって、どんどん賑わう6ヶ町に引き替え、土地を提供した側の長崎純景の城下が寂びれるなんてアンビリバボー。
そのため6ヶ町衆と長崎純景は、時に武力衝突を起こすほど不仲だったそうです。

大村純忠が、6ヶ町衆と長崎純景の不仲を、どう思っていたかは判りません。
大村は、それよりも違う事に悩まされていたからです。

人物・大村純忠 大村純忠イメージ画像

ここに西郷(兄)と深堀(弟)の兄弟がいました。
ちなみに薩摩の西郷隆盛は、この西郷(兄)から派生した一族です^-^

この兄弟も有馬氏勢力拡大と共に縁戚になり、有馬を実家に持つ大村純忠とも縁戚関係なんですが、細かい系譜は追々紹介します。
(自分が未だ覚えきれてない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)

西郷・深堀兄弟は、大村純忠が南蛮交易によって勢力拡大するのを危惧していました。
いえ、それ以前に彼等兄弟は熱心な仏教徒でして、キリシタンが大っ~~~嫌いだったんです。
深堀に至っては、嫌がらせと実利を兼ねて、やって来る南蛮船に対して海賊行為を行ってたほどです。

西郷・深堀兄弟チームは、たびたび長崎を襲撃しています。
6ヶ町衆とは不仲だった長崎純景でしたが、「貿易港・長崎」が襲われれば、ガチで巻き添え食らう位置にいました。
共通の敵(西郷・深堀兄弟チーム)に対抗すべく、
大村純忠・長崎純景の舅婿チームが結成?され、両勢力は激しく戦った。

長崎氏に現在も地名が残っている「勝山町」は、大村・長崎の舅婿チームが激戦の末、西郷・深堀兄弟チームを撃退した事から由来しています^-^

西郷・深堀だけでなく、これに勢力拡大してきた龍造寺隆信という難敵が追加。
龍造寺に抗しがたいと悩んだ大村純忠は、宣教師&キリシタンたちを守る為に一つの決断をしました。

この大村の決断が、後に娘婿である長崎純景を没落させるのだが、それは・またの話 by^-^sio
スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【長崎市の長崎氏・壱】西肥前強化期間リサーチ4武家目

現在の長崎市を本貫地とする国人がいました。
その名も、まんまで長崎氏。

本姓は桓武平氏・・・となっているんですが、詳しい事は曖昧で判りません。
記録としてハッキリ出ているのが鎌倉時代の「福田文書」
そこから長崎氏は、地元民ではなく在地領主。鎌倉御家人で長崎の地頭職と推測されてます。

本城は桜馬場城で現在の桜馬場中学校(長崎市桜馬場2丁目2−1)にありました。
平時は桜馬場が居城で、城の裏山に詰城があり、こちらは鶴城と呼ばれていたそうです。

城の遺構は・・・雰囲気が残ってる程度ではないかと・・・
というのも、この辺りはシーボルト関連・グラバー邸関連がある所だから^^;
もともと現代の長崎市自体も戦国当時は殆どが海だったらしく、江戸時代かなり変わってるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

細かい経緯は不明だが、長崎氏は有馬貴純の息子・康純を養子し家督を継がせた。
西肥前最大の版図を築きつつある有馬氏と縁戚関係になり、長崎氏の前途は洋々かに見えた。
それが色々揉めそうな気配が漂うのは、有馬から入った養子の孫にあたる純景の代だ。

長崎純景は、有馬晴純の息子・純忠の娘を室に迎えた。
この有馬晴純の息子にして、長崎純景正室の父というのが、高名なキリシタン大名・大村純忠です。
大村家と長崎家の婚儀は舅・純忠が受洗する前だったらしい。

1562年、大村純忠が受洗すると、長崎純景も受洗しキリシタンとなった。
長崎純景の信仰心が、どの程度だったのか正直なところ判断つきかねる(-ω-;)ウーン
というのも、この年に大村純忠がポルトガル船との交易を始めてるからです^^;
ポルトガルは交易の条件が受洗がSETなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
大村純忠はガチ(・∀・)

改めまして~1562年、大村純忠が横瀬浦(西海市)をポルトガル貿易港として開港
ちなみに「浦」って入り江のことね^^b
昨年の2012年は開港450周年~何か西海(さいかい)市では記念イベントやってたらしいですよ( ̄ko ̄)
貿易港として横瀬浦は非常に繁栄したらしい。

だが、それを快く思わない者たちがいた。
大村純忠を、海よりも深く山よりも高く、、この世の誰よりも憎悪した人物・・それが武雄の後藤貴明でした。
細かい事情は別記事で紹介しますが、後藤に大村家臣で非キリシタンの仏教徒が内通。
1563年、横瀬浦は武雄・後藤勢の攻撃により、開港僅か一年で焼け落ち全てが灰塵に帰した。
2013年は焼野原450周年・・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヒカエナサイネ

そこで横瀬浦に代わって・・・(途中省略)・・・で、長崎が新たな貿易港として選ばれた。
そのための町割りが始まり、建設の槌音は活況な事、この上ない^-^
ところが再開したポルトガル交易の旨味を、地元・長崎氏は全く賞味することが出来なかったのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【考察5・海から見た肥前須古城】西肥前強化月間・リサーチ3武家目

ちょっと「地図から見た少弐と龍造寺」の記述と被ってる部分があるんですが、
佐嘉郡も杵島郡も同じ有明海に面した土地だから、地盤の脆弱さを除けば土地の条件は大体同じ。
だから龍造寺が勢力を広げた経緯から「肥前須古城の役割」が類推できます。

1530年、鍋島家の赤熊武者が活躍した田手畷の戦い。
この前後に飯盛城の肥前石井氏が剛忠(家兼)配下になる決断を一族として出します。
喜んだ剛忠(家兼)は、一族を説得した石井5男に自分の「兼」の字を偏諱して兼清という諱を与えました。
剛忠(家兼)が心中、小躍りしたのも無理はありません。
飯盛城は、肥前須古城と同じ「佐嘉郡における、起点に位置する城」だからです。

戦国時代の飯盛城は海岸から400m弱くらいの位置にあって、土地干拓造成前は飯盛城のある地域が与賀と呼ばれてました。
で、飯盛城が起点と自分が判断した理由は、今津(1km北西)相応津(1km南西)と二つの河口港の真ん中あたりに飯盛城が位置してるからです。
(ちなみに干拓された現代では河口の面影ゼロです^^;)

これは石井氏が意図して築城したのではなく、もとから石井氏がいた近所に少弐政資が河口港を開いたの^^b
飯盛城・石井氏の起点としての重要さに気付いていた剛忠(家兼)は、石井氏に佐嘉郡の海岸線警固を命じました。

肥前須古城も同じです。河川流域の起点である城は、海岸線警固も担います。
逆に肥前須古城が海岸警固してないなら、肥前須古城以外に海岸近くに城があるはずだけど、須古城以外は見当たりません。


有明海・・・つまり湾としては最深部に位置する杵島郡は、有明海における満干潮の数値はMAXです。
だから満潮と干潮を上手く利用すれば、風まかせの船の航海より速く移動できます。
でも有明海全体が基本として浅瀬だから陸に近づきすぎると座礁するし、満干潮が激しさから来る有明海の海流の速さは、日本近海でもトップクラスで、それは瀬戸内海の海流速度に匹敵します。

だから杵島郡から玄界灘・・・というより島原湾に至るまで、満干潮&湾内海流を上手く利用したジモティ水夫しか知らない有馬サイドの航海ルートがあったはずです。
龍造寺隆信は、河川流域の起点としての立地条件や海岸線警固からくる地元情報込みで、肥前須古城を攻略したかったんじゃないでしょうか。

佐嘉郡・神埼郡と河川流域に向かって勢力を伸ばしてきた龍造寺家。
これに六角川流域と杵島郡の海岸線がプラスされれば、次に起点となるのは廻里江川&塩田川流域・・・藤津郡(現・鹿島市)に至ります。
佐嘉郡から杵島郡(つまり肥前須古城)を中継地として、藤津郡を制すれば有明の制海権は完全に龍造寺のもの。
有馬の本拠地・島原は目の前です。
従って、佐嘉郡へも鹿島側へも、どっちでも航海コースを選べる中心である肥前須古が、制海権における最重要起点の軍事的要地です。


河川が縦横に走る肥前では、河川流通船便にライフラインを頼らざるを得ません。
だから勢力ある国人であれば、物資輸送のための自前の船を持つのは、現代人がマイカーを持つような感覚だったでしょう。
少弐の陰謀やクーデターで亡命する時も、龍造寺は庭先を移動するみたいに船で移動してます。
肥前へ戻る時も、やっぱり船でして、船そのものを調達するのに苦労したって話は聞いたことがありません。
なんていうか、普通にあるのが当たり前だった環境じゃないでしょうか。

龍造寺の勢力拡大の推移を鑑みると自前の水軍があったんじゃないかな~~~と思うんですが、
文献として「これだ!」ってものは、今の所見つかってませんので、推測の域を出ていません。

ブログ友様は鹿島が龍造寺水軍の拠点じゃないかと推測されてました。
自分は鹿島だけでなく、佐嘉郡・杵島郡にも、それぞれ拠点があったと思います。

佐嘉郡は石井氏が警固する河口港・今津と相応津。
杵島郡は晩年の龍造寺隆信が隠居してた肥前須古城。
そして鹿島。この3つが龍造寺水軍(もしくは軍事用でなく輸送用船の)拠点。
沖田畷の決戦前、島原を目指すにあたっては、他2つの拠点から鹿島を目指して集結したと思います。



「海から見た肥前須古城」いかがでしたでしょうか?
正直、知識不足ですので、軍事や地理の専門家から見れば穴だらけの推論かと思います。
ただハッキリしてるのは、戦国時代の有明海の海岸線が頭に入ってなければ、
龍造寺勢力拡大の方向性や龍造寺隆信が肥前須古城に拘った理由は見えてこないと言う事です。

西肥前強化月間は、まだ続きますので、今後も精進したいと思います^-^
さて次はどこかな~それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【考察4・海から見た肥前須古城】西肥前強化月間・リサーチ3武家目

リサーチで考察と堅苦しくて退屈かもですが、これやらないと自分のデータ整理が出来ないので、ゴメンナサイ^^;

さて、龍造寺の河川流域を支配するノウハウですが、これは主君だった少弐氏からパクっ・・・ゲホグホゴホ・・・学んだと思います。^-^。
肥前に都会?の最新知識を持ち込んだのが、少弐氏を(一時的に)中興させた少弐政資です。

中国地方のドン・大内氏に敗れた少弐政資は、肥前与賀郷に引っ越してきました^^
与賀郷は鎌倉時代に少弐氏が地頭だったのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー。

1482年、少弐政資は亡き少弐教頼が避難用にキープしてた与賀館を、与賀城へとビフォーアフター。
既存の与賀神社を復興させて、北の鎮護となるように城をリフォームしてます。
さらに小さな津だった土地を港へとグレードアップしたのが、今津と相応津(河口港)今宿(河川港)です。
周囲の土地も開墾した・・・と記録(少弐神社由緒)にあるので、単なる開墾でなく干拓もしたと思います。

家紋・少弐(少弐家紋ロゴ)

与賀神社を地図検索すれば、佐賀(村中)城と数百メートルしか離れてないのが判ると思います^^;
遮蔽物のない平坦な土地で、こんな近所の城ってあり?
無理矢理イメージするなら、自分の家の隣にレディーガガが引っ越して来るような?
(困惑と迷惑と色々巻き込まれそうな感でwww)
龍造寺に元大宰府長官と対等な御近所付き合いなど望むべくもなく、かといって本貫地を簡単に動けるわけもなく、西千葉(当主は少弐一族)からも「うち(実家と西千葉両方)を手伝ってね」のプッシュもあるし~~~
大内とのガチンコに巻き込まれる事が判っていても、逃れられない少弐被官一択(´;ω;`)ウッ

それはさておき干拓に伴う開墾、河川港&河口港を開く事で河川流域ライフラインを掌握、運上金などの収益確保。
などなど、龍造寺は|少弐の遣り方|_ ̄)じぃ・・・と見て覚えたんです。

こういう土地開発構想力・知識の蓄積があるという点で、ぶっちぎり武家名門で鎌倉時代・九州三人衆の一角で、大宰府長官だったのは伊達じゃなかった少弐氏です(=^・ω・^=)v ブイ
大内に敗れた少弐は与賀郷から神埼へと拠点を移しますが、少弐の感覚では「都落ちって気分は無い」と思います。
何せ神埼は、かの平清盛が密貿易にしてた土地。
大内に敗れる前の少弐氏は博多の利権も持ってたので、神埼から博多ルートを復活させる構想が無かったとは言えないでしょう。
尤も少弐が衰退しすぎてるんで、何も出来てないけど,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

家紋・竜造寺(龍造寺家紋ロゴ)

龍造寺、、、ぶっちゃけ剛忠(家兼)は、少弐が神埼に引っ越したのを良い事に、川副や与賀の豪族たちを手なずけて、少弐が与賀に残したままの津(港)やノウハウをチャッカリ・ゲッツしてたんです。
少弐命の馬場が「龍造寺抹殺~」と怒り狂うだけのことはしてたわけで・・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

元々が少弐一門だった平井氏は、少弐氏が持ってた河川流域利用ノウハウを、一族共通の知識として持ってたと思います。
特に河川周辺の地形を利用した戦に長けた人材だったんじゃないでしょうか。
千葉家臣としては新参になる平井一族が、白石の地に派遣されたのはソッチ方面の能力を期待されたからでしょう。

平井が築城した須古城は、城濠を南北共に百町牟田まで延長して周囲をかこみ、大手口から搦手に通ずる城郭には一間の土堤を巡らし、南には二重濠になった枳殻(カラタチ)土手を築いて防備を固めていました。

この百町牟田という土地が曲者でして、牟田って湿地帯の事なんですけど、地盤の弱い白石町では湿地なんてもんじゃなく、足を踏み入れると膝まで没する泥土なんです。
更に西に杵島城、東に男島(小島)城を配備し、須古城の両翼とする。

といった具合に地盤の弱さを逆手にとった自然の要害で、須古城に近づく事すら容易じゃなかったんです。。
最前線の守りに須古城主・平井経治は抜擢した千葉氏に期待された以上の活躍をしました。
ただし敵(有馬)側で,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

人物・肥前須古、平井経治
(平井経治イメージ画像)

少弐政資が少弐を中興させる前にから始めてた、城リフォームだの開墾・開港とかとか資金源、金ヅルは?
となると推測するに、当時は良好な関係で少弐をバックアップしてた対馬・宗氏でしょう。

では平井氏が1525年に千葉から有馬へと寝返った後、築城された肥前須古城や2つの支城の費用の出所は?
これは南蛮貿易で懐が豊かな有馬氏でしょう。
ライフライン(物資・資金)があったからこそ、平井は12年もの期間、龍造寺の侵攻を阻み続ける事が出来たんです。
でなければ軍費調達は領民を絞るしかなくなるので、下からの怨嗟で戦闘続行不可に陥ってたはずです。

有馬氏は肥前須古城への援助に対し、出し惜しみはしなかったと思います。
バブル時代の銀行融資が如く、ゆるふわ審査で平井が望むだけ与えてたんじゃないでしょうか。
というのも肥前須古城には、六角川流域支配の要地というだけでなく、さらに重要な役割があったからなのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【考察3・海から見た肥前須古城】西肥前強化月間・リサーチ3武家目

ちょっと自分が試行錯誤してるので、順番に河川の話から進めます。
佐賀県の方にとっては、俺らは学校で習ったよ~~って知識かもしれませんが、道産子で地理音痴のシオのレベルに御付き合い下さい(^ -)---☆Wink

六角川流域にとって起点となる要地が、平井氏(少弐一門・元千葉家臣)が築城した肥前須古城です。
河川流域の土地は、起点となる要地を押さえた者が支配者となります。
川は源流である山麓から海へと注がれていますが、富(物資)は海から来るからです。
物資流通ライフラインの窓口を押さえられたら、経済的に抵抗しきれない領民たちが真っ先に靡いてしまいます^^;

だから六角川流域が欲しければ、河川流域に住む豪族や国人をイチイチ斬り従える必要はありません。
起点である肥前須古城を攻略するのが一番の近道です。
そういう意味で肥前須古城の平井と、河川流域がエリアの馬渡氏は運命共同体。
両家の繋がりが強固になるのは、地形・地理的要因から必然の事です。

肥前須古城が龍造寺によって落城した時、運命共同体の馬渡氏は平戸の方へと落ち延びました。
馬渡一族は庶流が既に龍造寺家に仕えているので、嫡流の白石・馬渡としては下座に連なるのが嫌だったのもあると思います。

前回、六角川流域には河川・河口港が見当たらない~~
オカシイ・・地形・地理的にゼロのはずないぉ・・(-ω-;)ウーン(-ω-;)ウーン と一人頭を捻ってました。
が、これはシオがウッカリさんでした^^;
明治以前の呼称で港は「津」と呼ばれてたのを、郷土史専門ブロガーなのにスコーンと忘れてまして・・・
ウォーリーを探せ、ならぬ「津」を探せ~だったんです。
で、[ぐぅ~ぐる様]スッ≡( ̄ー『+』ゝハッケン

佐賀県杵島郡白石町福田(大字)秀津・・・おそらくここが河川港の名残です。
宿場町として繁栄しなかったのは、やはり地盤が脆弱なのが起因してると思います。
秀津そのものが河川から600mほど離れている位置にあるくらいですから( ̄ω ̄A;アセアセ

六角川流域は地盤が弱くて、何をするにも築堤から始めなければなりません。
地盤が脆弱な上に満潮時における河川逆流現象で、周辺が必ず浸水します。
だから大規模築堤工事前の戦国時代だと河川のすぐ傍に施設等は無理なんです。

ちなみに六角川流域周辺の地盤も有明海と同じ泥土ですから、土地開拓しても「農地としては最適」ですが宅地造成には不向き。
平成の現代でも六角川周囲は農地が主で、住宅街は河川から少々離れてます( ̄ω ̄A;アセアセ
それで肥前須古が海岸線・河口から2km強距離をとってるように、秀津も数百メートル距離をとってるんだと思います。


あと白石町が他地域ほど商業的に発展しなかったのは、龍造寺家が「藩・大名」として生き残れなかったのが大きいでしょう。
くどいようですが肥前須古は起点の土地ですので、河川流域を開拓し海岸線を干拓さえすれば発展する土地なんです。
江戸期に六角川河口に開港された住ノ江港は、杵島炭鉱の関連もあって炭鉱閉山までは大いに賑わってました。

龍造寺隆信が沖田畷で討たれず存命し、肥前において龍造寺政権が確率していれば、杵島郡の土地開発を担うのは鍋島家ではなく龍造寺家です。
となると藩主or藩祖(←隆信ね)が住まう館の街は、一つの経済圏として本貫地・佐嘉城(村中城)と連携された第二首都として機能してたと思います。

龍造寺隆信は、そういう将来的な構想も含めて、肥前須古城を自分の隠居城にしたんじゃないかな~と素人が推測 川* ̄д ̄*川ポッ 
鍋島様の時代に白石町の有明海干拓は商業的発展は構想に含めず、あくまでも農業用地としての干拓に主眼がおかれました。
藩主・鍋島勝茂が干拓を督励するために京都から招聘したのが八坂神社で、それが肥前三大祇園祭りである「秀津祇園」の由来です^-^

陸・空の輸送が確立し物資流通ライフラインが大きく変化した現代では、肥前須古の起点としての役割は終わってるというか、停まってます。
ちなみにシオ地方は未だ船(フェリー)便に、ライフラインを依存してます( ̄ω ̄A;アセアセ
台風の度にアレコレ入荷が遅れ・・・ゲホグホゴホ

だから現代目線では肥前須古の重要さはピン来ないので、まず戦国時代の海岸線を頭に入れなきゃならいんです。

で前回のラストに話が戻る(爆
「龍造寺の遺髪を受け継いだ鍋島様はさておき、龍造寺が河川流域を支配するノウハウを何時の間に覚えたのか?」
そのルーツは少弐氏から始まっているのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【考察2・海から見た肥前須古城】西肥前強化月間・リサーチ3武家目

龍造寺隆信は須古城攻略に足掛け12年の歳月を要しています。
攻略後、龍造寺隆信は須古城を修復させて隠居城にしてます。

龍造寺隆信が、それほど須古城を重要視した理由。
逆に城主・平井が抵抗し続けた理由&メリットは?

で、ふっと思いついたのが「海岸線」・・・・・・・・・ぐぅぐる・・・・アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

(・∀・)★ビンゴ!
六角川河口から有明海沿い・・・海岸線が大幅に違う~~!

住ノ江区、昭和搦、太原搦、新拓とかとか、ぜ~~んぶ戦国時代は海の底。
国道444号線より更に内陸へ1km弱、ここまでが戦国時代の海岸線(=^・ω・^=)v ブイ

現在の六角川は河口から直線距離2kmちょいで支流である牛津川と分岐してます。
が、戦国時代は六角川も牛津川も合流してなくて、それぞれ独立した河川なんです。
となると戦国時代の須古城は、海から2km強しか離れてなかった事になります。

陸のピストン輸送が完成する以前では、河川を利用した物資流通が一番コスト安。
少なくとも河川流域に住む人々は、河川船便にライフラインを依存しています。
六角川もクネクネと蛇行しているので、河川の流れは緩やかだったでしょう。
だから本来ならドンブラコ~っと船便に適してたはずです。

が、戦国時代の六角川には河川港も河口港も開港されてません。(-ω-;)ムムムゥ~~~
もちろん舟輸送はしてたと推測してるんですが、港がなければ物資の大量陸揚げが出来ない。
となると運上金で荒稼ぎ・・・ゲホグホ、もとい、関税収入は巨利ってレベルにはならない。

てことは、有馬へ寝返った平井氏が須古城を築城したのは、河川流通の利権絡みがメインな理由ではなく、純粋に軍事的な理由だった事になります。

人物・肥前須古、平井経治
須古城主・平井経治イメージ画像

自分は須古城が六角川流域を支配する起点の役割を担ってたと推測してます。
戦国時代の海岸線を考慮に入れたとしても、起点となる軍事的要地への築城は、通常ならもっと河口&海岸線に近い位置になるはずです。
小早川隆景の名島城みたいに、城へ海水(or淡水)を引き入れた水城にして天然の要害なんてイクね?(・∀・)
が、六角川では水城タイプの築城が無理が無理ですた・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

六角川河口から有明海沿いの土地は、日本でも有数の地盤脆弱地帯だからです。
しかも地盤は泥土でジモティワードでドタ土。
ちなみに六角川流域も地盤が弱く泥土、だから橋をかけたりするには、まず大規模な築堤からスタートです。

白石町の海岸線には上記にあげたように○○搦と、搦という文字が目につきます。
この地名に残った文字こそが、土地を人工的に干拓した証です。

搦とは干拓用の堤の事でして、泥土を乾かすために堤でもって海水が入らないようにして、かつ泥土から排水をしなきゃ~で、これにはタップリドップリ数年かかります。
当然、一家臣の立場・裁量で行える事ではありません。

一つの搦に対し、10年くらいのスタンスで予算を組んで人員を配置することができる、安定した長期政権でなければ為し得ない「事業」です。
有明海の干拓は推古天皇の頃からあった・・・とさえ言われています。
ですが「搦」と言う言葉が文献に出るのは江戸期以降、つまり江戸時代以降に干拓された部分って事です。

さらにもう一つ築城には問題が・・・
つまり、長い時間をかけて自然の堆積と干拓によって広げられた土地ですので、海抜はゼロメートル。
に対して、有明海の満潮における海面上昇は、屋根より高い6m。
逆に干潮になって海が引くと10~15m海底が露出します。

地盤が脆弱な上に満干潮のアップダウンの激しさ。
だから海岸線から一定の距離をとった土地でないと築城は出来ません。
そして、それらの難問をクリアしつつ、六角川流域~河口~有明海岸線の軍事的要地として、最も適した位置に築城されたのが肥前須古城。

従って「有馬~白石須古の平井~白石・芦原の馬渡」の防衛ラインとは、陸の防衛ラインではありません。
「玄界灘~有明海~六角川流域」に至る「制海権の防衛ライン」です。

肥前須古城は、現代の地図からではなく、戦国期有明の海岸線・・・海から見る城です

肥前須古城が制海権のキーとなる軍事的要地である。
それを判ってて築城したのが平井兄弟。
それに気づいて何としても攻略しようとしたのが龍造寺隆信。

では両者は、どうやってソレに気付くノウハウを手に入れたのでしょうか?それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【考察1・海から見た肥前須古城】西肥前強化月間・リサーチ3武家目

須古って名前は認知してました。
ほら、龍造寺四家に須古があるから・・( ̄ko ̄)

けど恥ずかしながら、佐賀県杵島郡白石町にあったって、今回知りました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

肥前須古城の位置は、現在の須古小学校。
別名を高城または隆城で平城です。
須古城は居城でして、東に男島城と西に杵島城と支城があり、軍事的には3つの城で機能してます。
地形は全体として丘陵地帯で標高はさほどなく、ここが龍造寺軍の攻撃を2度防いだ要害の地には見えないだろう。
何故なら例によって例の如く、現代と戦国時代では地形がかなり変化してるからです。

築城主は平井経則(兄)か平井経治(弟)のどっちかか、もしくは両方^^;
築城年代は1532~1555年です。
平井氏は元々は少弐一門でしたが、肥前千葉氏の家臣となります。

家紋・肥前千葉 肥前千葉家紋ロゴ

このあたりの経緯が定かではありません。
というのも千葉一族を扱ったWEBサイト(史料膨大っす)では、平井氏が家臣団の列に入ってないんです。
たぶん、平井氏が肥前千葉家臣となった期間が短いんだと思うんです。

そもそも少弐一門が肥前千葉家臣になる事情は何だろう~と推測するに、
少弐政資が肥前千葉の男系嫡流が絶えた時に、自分の実弟を当主に据えてます。
(肥前千葉・最後の姫様と実弟を結婚させた)

この家督介入がキッカケで肥前千葉は西と東に分裂してまして、少弐氏から当主を迎えていた方が西千葉氏。
肥前千葉嫡家は、最後の姫君と結婚して系譜を継いだ(少弐の)西千葉氏の方です。
少弐実弟と姫様の間には、どうも実子がいなかったようで、少弐一門である横岳から養子を迎えています。

この流れのいずれかで平井氏は、少弐から肥前千葉へと随行(派遣?)したんじゃないでしょうか。
従って累代の肥前千葉家臣ではなく、平井にすれば少弐一門から家臣団(しかも他家)の列に入るのが、そもそも面白くなかったのかもです。

で、平井氏は千葉氏の有馬への備えとして白石の地に入った。
全盛期の肥前千葉は杵島郡までが勢力エリアでしたから。

肥前千葉が西と東に分裂するのと同じくして、有馬が勢力を広げ杵島郡六角川流域まで食い込んできます。
その食い込むキッカケが平井の寝返りです。
年代は1525年。

寝返った理由は、一応、平井経治の妻が有馬義貞の妹だったから・・・とされてるんですが、
1525年だと有馬義貞数え5歳。。。チャイルドプレ・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメナサイネ
縁戚関係がホントだったとすれば、寝返り理由として時系列が錯綜してるようで・・・ゲホゴホ

実は寝返り前年の1524年に、千葉胤勝(西千葉当主)が大内に寝返ってると噂が立ちまして・・・
例の熱血少弐命家臣・馬場頼周によってo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
っと、千葉胤勝は(当主なのに)西千葉の晴気城を追い出されてるんです。

西千葉・胤勝が本当に裏切ってたかは判りません。
馬場に追い出されたから大内に走ったのか、大内に靡いてたから馬場に追い出されたのか、もはや鶏⇔卵の状態です( ̄ω ̄A;アセアセ
あ、ちなみに西千葉と少弐は数年後、元サヤに戻ります(・∀・)★

人物・馬場頼周 久々登場~馬場頼周、暗黒面イメージ画像

1525年は、西千葉当主・胤勝が筑前に亡命してる真っ最中^^;
少弐一門で千葉家臣だった平井兄弟の寝返りには、この1524年内輪もめが影を落としてたんじゃないでしょうか。
どうも少弐氏は神埼郡に拠点を移しているせいか、有馬からの脅威に対して鈍感です。
もっと突っ込むと、国境が隣接している小城の人々がピリピリしている事に対して鈍感・・・と言った方が正解かもしれません。

思うに少弐は大内との抗争に明け暮れていて、それ中心でしか物事が考えられなくなってたんでしょう。
馬場が西千葉当主を追い出した時、千葉氏の命令で白石に入ってた平井一族の事など、完全に忘れてたと思います( ̄ω ̄A;アセアセ

馬場頼周という人物は少弐への忠義・愛憎が激しすぎるのか、常に遣りすぎます。
その為、少弐に良かれと馬場がやることは、結果として少弐に損をもたらします。
少弐仕様の貧乏神というか少弐専門デスノートというか・・・

周囲の国人・豪族が有馬色に染められて行く中で平井は孤軍に近い状態で奮闘してたのに、少弐と西千葉が内輪もめ。
(アテにならないと心が折れたと思われる)平井兄弟が主不在の西千葉と旧主少弐を見限り、有馬家臣となったのは無理からぬ話です。

とはいえ、龍造寺にあれほど抵抗したのは何故でしょう。それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【リサーチ】馬渡(もうたい)氏【2武家目】西肥前強化月間

馬だけどモウ・・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメナサイネ

難しいのは後回しとも言うが、初めに有馬だ後藤だ~と張り切ってもワカランチンなので、周辺から調べてます。
どの時点、どの武家、どの地域がキーになるのか、ヒーリング,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
(なんか広告でやたら目につくんだが・・・)

ところでシオが肥前戦国史を扱うにあたり基本ベースにしている北肥戦誌なんですが、
江戸期に編纂した人物が佐賀藩士・馬渡俊継なんです。
「俊」の文字は馬渡氏の通字なので、おそらく子孫だと思います^-^



まずは脳内整理を兼ねて順番にルーツから___φ(.. ) カキカキ

馬渡氏発祥は美濃国馬渡庄城主の源義俊が家祖になります。
本姓は清和源氏なんですが、もともとは坂上姓田村氏の後裔で、源満仲の養子になることで本姓を源氏と称するようになったそうです。
まぁ、このへんは突っ込み不可です。

馬渡という地名は滋賀県にもあるので、大元を辿れば同族か、何か所縁があるかもしれません。
ちなみに馬渡・・・という呼称自体は放馬地の事です^-^
とにかく美濃在住前後は本馬八郎義俊という名乗りでした。

それが延暦寺の僧兵がらみで冤罪を蒙り左遷されたので、肥前松浦党を頼って土着しました。
初めに訪れたのが玄界灘に浮かぶ島(佐賀県唐津市鎮西町)。
ルーツ義俊は、島の名前を馬渡島に改め、自分の姓も曾て領地だった馬渡に改めたそうです。

平成の現代は釣りスポット(=^・ω・^=)v ブイ
島の呼称の由来としては、馬の放牧地(馬渡)だったからだって説もあります^-^b
その後は波多氏のツテで島を離れて武雄の川古へと移住しました。



おそらく現代の佐賀県で武雄市で川古というと咄嗟に浮かぶのは大楠ではないでしょうか。
樹齢3000年。日本でも全国第5位の大きさです。
馬渡氏も、この川古大楠の姿を仰いだ事でしょう。

全然関係ないけど馬渡さんとこの諱って、現代の命名でもありそう(爆
で、馬渡氏で最も知名度があるのが馬渡甲斐守俊明です。法名は秀岩。
後藤氏との戦いで敗れて、鳥坂峠(現:戸坂峠)で戦死しました。
川古領は後藤氏がゲッツ~これで馬渡氏は一族離散となります。( ̄ω ̄A;アセアセ

秀岩が戦死したのは1533年説と1566年説があるんですが、個人的には1533年説支持です^^/
というのも秀岩の没年がバッチリ刻まれた供養塔(石造宝篋印塔)が残ってるからなんです。
おそらく1533年説の根拠も、その供養塔の存在でしょう。

場所は武雄市若木町大字川古の秀岩寺です。
寺号は甲斐守俊明の法号に因んでおり、開基も秀岩の菩提を弔う為に、その妻が建てた庵が起源です。
妻の供養塔と思われる物が、秀岩の供養塔の隣にあるんですが、その基礎には1558年と刻まれてます。



秀岩の戦死で離散した一族の中に龍造寺に仕えた一派がいました。
七郎次郎義者の系譜ですが、秀岩の叔父説と兄弟説の2パターンがあります。
ただ、いきなり龍造寺隆信に仕えたのではなく、初めは宗家だった村中龍造寺に仕官。

胤久⇒胤栄⇒隆信って流れで^^b
胤久の没年は1539年なので、秀岩の戦死&一族離散がキッカケで仕えたのなら、やはり1533年戦死説が自然なように思います。

龍造寺サイドとして北肥戦誌(1562年)に登場するのが、馬渡俊光。
WEBにある馬渡系図には同名の人物は探せませんでした。
ですが、龍造寺家臣団の中には名前があり、領地も102町(or120町)とあるので実在の人物なのは確かだったようです。
他に秀岩の叔父(or兄弟)系列の馬渡姓の者が4名、龍造寺家臣団リストに登録されてます。
北肥戦誌を編纂した馬渡俊継が、上記5名のうち誰の子孫なのかはシオレベルでは判りません( ̄ω ̄A;アセアセ



一方、馬渡氏嫡流ですが川古を失ったら大貧民~~~
ではなくて、芦原と白石にも領地があり、そこでガン( ゜д゜)ガレ
現代ですと芦原は武雄市の北方町、朝日町、橘町に跨ってますが、馬渡エリアは北方町側の芦原です。
白石町は杵島郡・・・判り易く言うと六角川流域でして、ガチで龍造寺(もしくは肥前千葉)VS有馬の最前線。

そして白石町に領地があったことで馬渡氏嫡流は、白石にあった須古城主・平井氏と繋がりが出来ます。
もともと馬渡氏は波多氏を頼って肥前に土着しました。
その波多氏には有馬から養子が入ってるし、須古の平井は有馬配下です。
そこで《有馬--平井&波多--馬渡嫡流》という有馬サイド・防衛ラインが出来たんです。

この「有馬~平井~馬渡ライン」は、繋がりが強固で、龍造寺隆信も一度では攻略出来てません。
当主は秀岩の息子・俊兼。
・1564年、俊兼の嫡男の元服では有馬義純が加冠役でして「直勝」という諱を与えています。
・1571年、直勝の弟(俊兼次男)が元服し、この時は須古城主・平井経治から「治」の文字を偏諱されて「治俊」という諱を名乗ってます。
須古城が龍造寺によって落城した時に、馬渡直勝、治俊兄弟は平戸松浦氏を頼って落ち延びてます。

てことで、リサーチ3武家目は、有馬サイドの六角川ライン守護者・須古の平井です~~



おまけ(^ -)---☆Wink

実は馬渡一族の中で秋田に慰霊碑がある人がいます。
名前は馬渡栄助、身分は足軽だったそうで、俊の通字がないのを見ると庶流・親族かな?
遠い秋田で戦死した理由は、戊辰戦争。

昭和になってから、寒い北国で秋田を守る為に死んだ佐賀藩士が気の毒だと、佐賀県での遺族捜しが始まり~
(色々省略)関連委員会が発足され佐賀県側と連携~慰霊祭などが行われ、馬渡栄助の遺骨は119年ぶりに故郷の佐賀県へと帰る事が出来たそうです。
見つかった遺族の方によって、佐賀藩士馬渡一族の菩提寺である正法寺に納められました。

秋田には馬渡栄助以外にも戦死した佐賀藩士がいるので、彼らを慰霊する葉隠墓苑があります。
戦国とは離れますが、こういう話ってやっぱ日本人だな~と気持ちがホッコリしたんで小話挿入してみました^^
詳細を知りたい方は「葉隠墓苑物語」で検索してみてください(^ -)---☆Wink

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【嬉野氏】西肥前強化月間

ニッポン、チャチャチャ♪ヽ(*´∀`)ノ 嬉野茶♪ヽ(*´∀`)ノ

ではなくて、嬉野氏を勉強ちゅう・・・基礎知識が足りないんで読んでても関連性が・・・自分ガン( ゜д゜)ガレ

嬉野エリアは[勢力拡大した龍造寺][武雄の後藤][有馬]といった3つの勢力の狭間にある要衝地だった。
嬉野氏が、いずれの配下に属するかによって各勢力圏の分布図が変化する。
現代では茶の方で有名だが、戦国時代も何気にキーマンでした。

いろいろスッとばして、元々は「宇礼志野」氏。
「名前(字数)長げーよ!」と漢字を「嬉野」に替えたのは有馬晴純だそうな。
割と時代下がってから嬉野姓になったのね・・・

ルーツの方は白石氏説と四国の河野氏説がある。
そのせいか知らんが、嬉野氏の諱の通字は、河野氏と同じ「通」。
だから諱だけだと被ってる人がいて検索がだな・・・涙目

ちなみに地名の嬉野町も、元々は宇礼志野町だったそうで、戦国時代に地名表記が嬉野町に変化したらしい。
この嬉野町が、そのまま嬉野氏エリアなので姓の漢字改姓と、地名の漢字が変化したのは同時期なんじゃないだろうか。
つまり嬉野氏は全盛期ブイブイだった有馬配下にだったとさ。

てことで日守城も湯野田城も現代の嬉野町にあった。
|ぐーぐるまっぷ|_ ̄)じぃー

あった!
嬉野市嬉野町大字下宿にある西公園が湯野田城址だ!
城があったのは権現山~~~ってあるが、ホントに山認定されてる訳じゃなくジモティ限定の呼称だった。。
どうりで権現山で検索しても山が見つからんはずだ・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

土地の方々は「山」って呼んでたそうだが、標高111mほどで実際は、ちょっと高い丘程度。
ここが要害の城・・・か?地形以外のアピールポイントがあったのかな?
後に有馬晴純は、嬉野氏を怒らせてしまい、敵対してた後藤(さらに龍造寺)へと寝返りされてしまいます。
嬉野氏を失うのは大きかっただろうな・・・

訂正、要害は日守城の方だった。
日守城は標高約200mの日守山にあった山城でした。
城としての規模は湯野田城の方が大きかったらしいが、湯野田城より眺望が良かったそうだ(そらそうだ)。
で、この城があった日守山だが・・・・これまたジモティワードil||li _| ̄|○ il||l

平成の現代では地図上の地名表記では残っておらず、ちょっと他県人では判らない。
どうも上岩屋あたりだったらしいが、このあたりダム建設で地形変わってるっぽい^^;
となるとダム建設前の地形を覚えているだろう60代以上のジモティに聞くしかなさそうだ。

一つの町だけで二つもジモティワードがあるなんて・・・ダイジョウブか自分・・・
てか、ちらっと視界に入ったが西肥前側も河川がけっこうあるのね・・・・(やな予感)

まぁいい、とにかく有馬・後藤・龍造寺の三つ巴が激化する中で、
嬉野氏は湯野田城から日守城に移動したらしい。
うん、だいぶイメージ出来てきた^^/



主要人物たちの履歴

嬉野通久(生没年不明)が有馬氏の配下として活躍。
1533年、ちょっかい出して来た後藤貴明をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!

喜んだ有馬晴純が五百三十町の土地を与えて湯野田城主とした(湯野田が本格築城されたのはこの時)
更に名前を「嬉野」に替えたのも、この時でした。
領地を貰った事で「嬉」文字チョイスらしい。

数十年もの間、有馬配下として尽して、有馬晴純の信頼も厚かったのだが「親しき仲にも礼儀あり」
有馬はウッカリ最悪KYして嬉野通久を激怒させる。

1573年、後藤家内部でゴタゴタがあり後藤配下だった藤津一党が有馬氏へと帰順した。
喜んだ有馬晴純は、既に嬉野通久に与えていた領地の一部割譲し藤津一党に与えてしまう。

これに激怒した嬉野通久は後藤に寝返った。
ちなみに通久の嫡男・直通は、過去の後藤との戦で戦死しており、通久は龍造寺が台頭すると後藤から更に龍造寺へとシフトチェンジする。

通久の正確な没年は不明なのだが、龍造寺の藤津侵攻前に湯野田城で病没してたらしい。
家督は通久の嫡孫・通直が継ぐ。

嬉野通直(通久の嫡孫)が、後藤から龍造寺に寝返ったのがウィキペディアだと1574年とあるので、
通久の病没は1573年~1574年の間かもしれないです。

治乱記だと龍造寺寝返り時点では、越後守直通が存命してた事になってる。
でもって龍造寺に寝返ったのは、横沢城合戦(1576年)で合戦半ばだったらしい。
寝返ったのは宇礼志野(嬉野)越後守直通、同名陸奥守(淡路守?)通益、同子息与右衛門尉、同名大和守の四名。
最初から龍造寺に内通してたのが直通(通直パパ)の実弟にあたる、陸奥守通益親子。
(陸奥守通益は蓮池嬉野氏の祖)

通直(通久の嫡孫)は激動の時代を生き残るのだが「朝鮮の役」で弟と共に戦没し、家督は通久からみて嫡曾孫にあたる盛通が継いだ。

嬉野氏所縁の墓所があるのが宗運寺(嬉野市嬉野町岩屋川内コウ−1554)
開基は小城嬉野氏の祖で直通(通直パパ)の末弟である通純。
小城嬉野氏は、鍋島直茂が孫である元茂につけた83人衆の一人だったのが始まり。
元茂が小城に入るにあたって、そのまま随行した。




てことで嬉野氏は、無事に佐賀藩士として系譜を残すことに成功しました(=^・ω・^=)v ブイ

しっかし直通(パパ)と通直(息子)の諱が、ミラー諱でクラクラしてきそうだ・・
てか越後守直通は後藤との戦で死んでたんじゃないのか?
ジジ通久・パパ直通の没年が明確じゃないので、読んでる自分も混乱する~
まぁ、そのあたりは北肥戦誌と擦り合わせて行きます( ̄ω ̄A;アセアセ

宗運寺があったあたりがジモティ曰くの上岩屋でして、ダム建設と町村合併の絡みか、地名が一部統廃合されてるようだ。
上岩屋の名称自体は残ってるので他県人には判りづらく、日守城の場所は大雑把に宗運寺を目印にするしかなさそう。

よっしゃ~~~チャージ完了(=^・ω・^=)v ブイ

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

103あとがき・・・

依怙贔屓を承知でいうと、神代勝利公は山岳戦における天才だったと思います。

平地がダメってわけじゃないんですが、いかんせん龍造寺より動員能力が劣るのは、遮蔽物のない平野部では何ともカントモですから( ̄ω ̄A;アセアセ

「和睦の思惑」で書いた勝利公が嫡男・長良公に胸中を明かす下りは、
真田昌幸が幸村に胸中を語る場面を彷彿としませんか? 川* ̄д ̄*川ポッ 

あ、記事は噛み砕いて書いてるだけで自分の創作じゃないです。
基本、三瀬村史と北肥戦誌がベースです^^b
自分の推測の時は、推測って前置きするか、○○と思うな~とか書いてます^^b

歴史は調べれば調べるほど、諸要因を見つけちゃうんでIFが難しくなるんですけども。
ぶっちゃけ勝利公が長命されていれば、龍造寺隆信の東肥前制覇が頓挫してます。
だって山内武士団&領民は、龍造寺に従うのはo( ̄Д ̄θ★ケリッ!です。
譲って同盟関係までなんです。
だから龍造寺は「東肥前の制覇まで至らない期間」がズルズル~と続くことになる。


結果としては同じかもですが、龍造寺の勢力拡大スピードが緩む分、肥前戦国史は我々が知っている歴史とは差異が出て来ると思います。
てか川上合戦で山内が勝ってたら、東肥前の覇者は勝利公だったぉ・・・(´;ω;`)ウッ

英雄とは、現実の辛さを忍耐させ、10年20年先の未来に架かる夢・・・手に掴めないはずの虹の煌きを、人々に追いかけさせる事が出来る人物です。
そういう意味では、神代勝利公は紛れもなく英雄でした。
だからこそ、肥前の熊と畏れられた龍造寺隆信のライバルたりえたんです。

ぶっちゃけ、龍造寺隆信と神代勝利公の絡みが余りにも多いので、カテゴリタイトルを龍造寺隆信編にする事に違和感を覚えたほどでした。
それで、勝利公の死を扱う本シリーズのみは、神代勝利公編にした次第です。

港町育ちで道産子の自分には、山岳地帯のイメージが全くわかず(@@)コマッタ!
とにかく三瀬村史や北肥戦誌に出てくる地名は片っ端から検索し、位置関係や地形の変化の歴史等々を徹底して調べました。
そのおかげで思いもかけず拾った逸話などがあり、消化するのに嬉しいやら大変やらで、今となっては「学ぶ楽しさ」を再確認した充実した時間でした。

現在の自分の記事スタイルが概ね定まったのも、勝利公を調べるために培ったスタイルです。
そういう意味では、亡き神代勝利公に感謝しています。
勝利公を調べなければ、これほど東肥前を知る機会はなかったでしょう。

神代家に関しては、まだまだ語りたいことはあるのですが、
勝利公亡き後の事になるので、龍造寺隆信編の中に折り込みたいと思います。

今度は西肥前のリサーチなので、暫くはリサーチ記事が続くと思います。
何せ、この通り拘りのシオなんで徹底して調べます(`・ω・´)キリッ
ブログ運営はマイペースになりますが、何卒、宜しくお願いします。

最後に三瀬村史・富士町史をWEB公開して下さってる佐賀市に、心から御礼を述べて終わりたいと思います。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

102【愛しき山内、さらば英雄】神代勝利公「道」の巻14

龍造寺隆信家臣の中で神代家との和合を反対する者がいたそうだ。
彼等19名は徒党を組んで、隆信にも秘して密かに勝利公を討たんと企んでいた。
(手柄を独占しようとした?)

企みを察知した隆信は「Σ(´Д`;)ちょ、それ不味いから!」と焦った。
勝利公を小手先の陰謀で討てたら、隆信本人がとっくに殺って・・・ゲホグホゴホ

とにかく正面だろうが裏だろうが、簡単にどうこう出来る相手じゃないからこそ和睦したんです。
この話が他から勝利公の耳に入ったら、和睦が台無し~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
大慌てで隆信は次第を勝利公に伝えた。

急報を受けた勝利公は精兵700騎(たぶん人数)を率いて、件の19名を討つべく山内を出ると、まず隆信公に対面した。
(同盟関係である以上、理由はともかく勝手に龍造寺家臣を討つのは礼を失します)

隆信は勝利公に言った。
「どうか、かの19名を討つのは勘忍して頂きたい(-人-)☆彡」
「彼らの処分は(彼等の主である)こちらに任せてもらえないだろうか?」
「このように大勢が我意を通して言う事をきかない時は、どのように処断したら良いでしょうか」
と尋ねたそうです。


・・・うーん、さすがは肥前の熊、実に上手い交渉術です。

人物・龍造寺隆信 龍造寺隆信イメージ画像

自分の家臣の不出来を他家に尻拭いさせたら、龍造寺は赤っ恥です。
さらに勝利公に自分から知らせるという事は「今回の和睦が隆信の本心からである証」となります。
隆信が誠意を見せた後では、勝利公が隆信を無視して龍造寺家臣を討つことは外交上出来ません。

龍造寺隆信の器量であれば、人に尋ねずとも処理能力はあるでしょう。
そこを敢えて勝利公に彼らの処断方法を聞くことによって、勝利公を立ててるんです。

勝利公は隆信の問いに返答されました。
「その儀ならば、彼らを成敗せずに寧ろ加増してやりなさい。」
「彼等は加増の多寡によって、利を貪ったり他を妬んだりで必ず仲間割れします」
「大勢で徒党を組まれると成敗の妨げになるので、この方法がベスト(=^・ω・^=)v ブイ」

(じゃっかん、超意訳しました)

隆信公は「(そういう手もあるのか)なるほど」と感心され勝利公の意に従うのを約束したので、勝利公も山内へ撤収した。
その19人は勝利公の言われるように仲間割れし、龍造寺に逆心したものが出たので小城郡芦刈で討たれたとの事です。
後に話を聞かれた鍋島直茂公が「勝利公の優れた計略である」と絶賛したそうな^^/

唐突に三瀬村史に鍋島の殿の名前が出るのは後年の伏線かしらん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!




和平後は山内と佐嘉の交流が始まったのだが、三瀬だと遠すぎて折々の交際に不便を感じるようになった。
1564年、勝利公は里近くの畑瀬(佐賀市富士町大字畑瀬)に城を築かれました。

里、近い・・・・のかな?
まぁ、嘉瀬川上流の地だから三瀬に比べたら格段に近いか( ̄ω ̄A;アセアセ

嫡男の長良公は千布に城を置き、常は親子それぞれの城で過ごすこととなったのです。
さらに勝利公は長良公に家督を譲られます。
畑瀬城は、そのまま勝利公の隠居城となり、同時に終の棲家になったのです。

同年、暮れから勝利公は体調が思わしくなく食が進まなくなり、臥所に伏せる日々が多くなりました。
神仏への祈祷も医療も思う限りの手は尽くしましたが、勝利公は日々衰弱していきました。
病気には胃ガン説と胸部に受けた古傷が元の二説あります。

とにかく勝利公は回復される事無く、
1565年3月15日畑瀬城で永眠、享年55歳。

・゜・(PД`q。)・゜・・゜・(PД`q。)・゜・・゜・(PД`q。)・゜・
一つの時代が終わりを告げました。
我々は夢から覚めなければなりません。

勝利公亡き後も、山内武士団の生き残りをかけた戦いは続きます。
後を継がれた長良公が舵取りをされるのですが、それは・またの話 by^-^sio

出典元:三瀬村史

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

101【和睦の思惑・参】神代勝利公「道」の巻13

「我に10年の齢があれば、機にのぞんで功を立てる事は掌の中にある」
という男前なセリフの前に、勝利公は龍造寺隆信の人物評を話されてます。

隆信の気質は、勇謀はあっても仁徳を知らず、
一旦、大利を得て数国を保つことが出来ても、後は驕り高ぶって万事が我儘になり、
一門近臣の中でも信あるものは嫌い退け、佞人や軽薄表裏のものだけが栄えて、
ついには禍がかこいの中から起り、一家を亡ぼすことてきめんである。


ボロクソです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

勇謀・・・は、判らないでもないです。
龍造寺隆信は、敵を倒すためならあらゆる手段を講じるタイプ。
謀殺とか暗殺とかって手段に対し、怯んだり躊躇しません。情実も絡めない冷静さがあります。

ただ一つ肝心な点は、三瀬村史のベースとなる「神代家伝記は江戸期に書かれた」という点です。
ネタバレしちゃうけど、神代家は生き残り肥前佐賀藩・鍋島家に仕えます。
しかも(藩主・鍋島家の)御親類格( ゚д゚)ンマッ!!

だから隆信の人物評に関しては「佐賀藩特有の大人の配慮」が多分に働いてると見た方が正解です。
つまり・・・( ̄ko ̄)<鍋島の殿より、龍造寺隆信を褒めるわけにいかないんでつ~~~

織田信長が秀吉の妻・寧々さんを気遣う手紙を書いていたように、
龍造寺隆信にも「隆信らしさ」を感じる「慈悲」や「温情」があったはずです。

龍造寺隆信は、初期に自分を追い出そうとしたクーデターに対し、処断したのは首謀者・土橋だけ。
利用された鑑兼も土橋の一族も家臣団の中に受け入れてます。
織田信長のように、後年になってから追い出したりなんかしてません。

隆信の人間的エピソード(善)は、江戸期に語り継ぐなかで鍋島家への遠慮から、記録から削ぎ落とされたと思います。
隆信に側室がいたかいないか不明なのが良い例です。
隆信には三人の息子がいましたが、残る二人の男子は生母が定かではありません。
嫡男の政家もウィキペディアだと生母が例の村中当主未亡人ですが、これもシオは出典の確認がとれてません。
もともと女性の記録は少ないものですが、隆信周辺は無さすぎです。

ガバイ母ちゃんのキャラが突出して有名すぎて、お蔭で肥前の熊はネタでマザコン認定されました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
軍記ものだと、いきなり斜め上に大言壮語してるのしか無かったりで、キャラに関してはアテにならないんです。(-ω-;)ウーン

話戻って勝利公は(男前セリフの後)言われました。
「長良(勝利公嫡男)、この意を含んで時を待つが良い。この際は一先ず和睦するが良策である」
と言われたので、一同は得心し従った。

人物・くましろん~ 勝利公イメージ画像

余談ですが、今回の和睦仲介は龍造寺家老・納富信景でした。
納富さんは1556年における「龍造寺VS神代」で、長男(北肥戦誌では義弟)を神代長良に討たれてます。
で、その時に未亡人となった息子(or義弟)の嫁が、後に鍋島直茂と恋愛結婚で再婚する石井家の彦鶴姫です^-^

龍造寺と神代勝利公は互いに誓紙を交わし、更に和合の証として縁組が決定します。
勝利公孫娘(長良の娘)と隆信三男(後の後藤家信)が婚約。

さらに隆信は亡き龍造寺胤久の娘を自分の妹分として、勝利公に嫁がせたいと申し入れたそうです。
1539年に亡くなった胤久の娘なら、けっこう年増なんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
この場合は年齢関係なく血統です。
なんてったって亡き龍造寺胤久は村中龍造寺の17代目当主でしたから(^ -)---☆Wink

えっと実は勝利公は2度結婚されてまして、初婚が異母兄実家の福島氏で長良公生母(生没年不明)。
継室が山内頭領に押された時に結婚した千布さんとこの娘です。

ただ、この継室・・・没年が天正年間・・・つまり勝利公は妻帯者。
嫁ぐとなると側室になるのは承知の上でしょうから、龍造寺側が相当気を使ってます。
(政略結婚が多い時代なので、側室でも「嫁ぐ」って表現を用いてました)

勝利公、この時既に数えで52歳。
自分は老いた身ですから・・・と、いまさら妻を迎えるのを辞退しました。
ですが龍造寺側(たぶん仲介役の納富さん)から、此度の和平に他意はなく嫁ぐのも山内への人質ですから、是非!是非~~~
と、強くプッシュされたので勝利公も承諾し、龍造寺胤久娘が嫁いで和睦が成立したのでした。
(※ただし北肥戦誌には胤久娘が嫁ぐウンヌンの記載はありません)

漸く平穏になった佐嘉と山内だが、それも戦国の世では長く続かなかったのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

100【和睦の思惑・弐】神代勝利公「道」の巻12

龍造寺隆信の目論見に乗って、和睦しようと言った勝利公の思惑は、こうでした。

今は先ずコチラも領分を固めて、筑前へ軍立てしよう(・∀・)ピコーン★
我が方も(筑前へ)領土を広げて、時機を待とう(・∀・)ピコーン★
(by三瀬村史を超意訳)


電波発言じゃないです。
郷土史の盛り記述でもないです。
実は全盛期の神代氏は、筑前へも勢力を広げてまして、糸島・原田エリアにも一部食い込んでました。

年代的には、龍造寺隆信を名尾峠で破った1558年~1559年頃になると思います。
1558年冬に神代勝利公は筑前大友五城の一角である安楽平城の小田部氏を打ち破ってます。
メチャクチャに恰好良かったの(人´∀`).☆.。.:*・

三瀬村史では今にも筑前統一するかのような書き方で、幾らなんでも盛りすぎやん~
と思ってたんですが、よくよく仔細を見るに、まるっきり盛りでもなさそうなんです。

まず筑前や大友側では、ネット上では勝利公VS安楽平城・小田部氏が見つけられませんでした(汗
もしかして原田さんとこの糸島関連郷土史なら、何かあるかもです。
結果として大勢に影響がなかったから、記録が埋もれてしまった感があります。
というのも筑前という土地は、筑紫と秋月が定期的にハチャけるんで、そっちに扱いの比重が置かれちゃうからなんですよ( ̄ω ̄A;アセアセ

まず小田部氏に勝利公が華麗に勝利したのは、ほぼ事実と思われます。
安楽平城は「三瀬峠を越えてくる軍勢」が「初めに攻略する必要性がある城」でして、いわば「筑前における西の守り」です。
それを大友氏から預かってた小田部氏が敗れたからこそ、周辺の豪族がチキンハートになるんです。

大友は悪い表現だと配下の国人は使い捨てでして・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
大友の面子が潰れたとか、財源である博多が脅かされない限りは、国人のヘルプにイチイチ大軍を送ってはくれません。
送ったとしても、三瀬峠を降りてくる山内勢の動きの方が早いです~~(_´Д`)アイーン
山内勢からの脅威に筑前の豪族たちは、降伏に近い和睦をしたようなんです。

人物・くましろん~ 勝利公イメージ画像

和睦の証として勝利公息女二人が、筑前の曲淵氏と大津留氏にそれぞれ嫁いでいます。
曲淵氏の曲淵城は小田部の安楽平城より三瀬峠に近いですからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
涙目の全面降伏だったと思います( ̄ω ̄A;アセアセ

曲淵氏そのものは、原田氏の勢力拡大とともに配下となって、原田氏滅亡とともに浪人になり、その後は判りません。
歴代城主の名に助次-氏助-信助とあるんですが、信助に勝利公息女が嫁がれてます。

てか、大津留さん・・・・あんたは在地国人じゃなくて大友家臣だろ・・・ナサケナイil||li _| ̄|○ il||l
鷲ケ岳城主の大津留宗秋は、元々文治面の功績で城主になった人なんで、武勇スペックは心許ない。
どうも鷲ケ岳城は、小田部・安楽平城と軍事連携し、かつ補完的位置だったんじゃないかな~と思います。
もちろん裏切りとかする人じゃないですよ。国境の城に入るくらいなんですから。
ただ「ここ一番」で「踏ん張りきる事が出来ない人」なんです( ̄ω ̄A;アセアセ

じゃ、1562年時で勝利公が筑前に食い込む余地があるんか?
あります・・・エアポケットが!
1561年「豊前・門司城合戦」毛利VS大友・10年戦争の幕が開けたからです
いやぁ~筑前戦国史を先に調べといて正解だったわ~♪自画自賛ヽ(*´∀`)ノ
1561年は門司城合戦で毛利と大友が睨みあい~
1562年に肥前へ色気を出しますが兵は動かしてません。
毛利とは揉めたままなんで、おいそれと大軍を動かせないんです。
その後も大友と毛利は和睦する、しないでグダグダして、その後にドカンと来るのが「筑前の騒乱」です。

(・∀・)イイ!とこまで行けますよ~~~
その代わり、筑前が原田と秋月と勝利公の草刈り場で壮絶カオスになって、道雪や紹運でも手に負えなくなるかもしれん。
宗像さん家は呪われてるから・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

勝利公曰く「我に10年の齢があれば、機にのぞんで功を立てる事は掌の中にある」
と仰られたのだが、それは・またの話 by^-^sio


テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

99【和睦の思惑・壱】神代勝利公「道」の巻11

山内の一角、鳥羽院・西川伊予守の裏切り工作が失敗したのを知ると、
「やっぱダメだったか・・・il||li _| ̄|○ il||l」と計略を諦めたらしい。

というのも龍造寺隆信は・・・(色々省略)ってことで、いよいよ有馬との戦いが現実のものとなり、山内攻略の為に兵を割くのが困難になってきたからです。
(今すぐは大丈夫でも、交戦状態が長期化しようものなら、首が回らなくなるのは確実)

1562年冬、龍造寺隆信は神代勝利公へ和睦を申し入れた
三瀬村史によると神代勝利公は「佐嘉勢は山内勢力の10倍になっている」と語ったそうです。

人物・くましろん~ 勝利公イメージ画像

はい、当たってます。
シオは勝利公に関するデータは基本、三瀬村史ベースで進めていますが、
勝利公激LOVE御当地村史だけに、文中にある威勢の良い数字は、鵜呑みにしてません。
素人シオには無理ですが専門郷土史家による具体的な数字を検証比較出来れば、そこまでの差ではない部分もあると思います。
が、総合力ですと10倍比って思う感覚は当たらずとも遠からずの差です。

自分は名尾(鉄布)峠合戦の段階で、山内勢は動員能力の限界を超えて無理矢理集めてるって言いました。
戦に勝ちながら追撃できず、隆信の首を獲るに至らなかったのは、山内という勢力における体力の限界だからです。
1561年川上合戦の敗北で山内勢は、回復するのに数年(下手すると10年以上)かかるほどのダメージ(討死によるベテラン前線指揮官を失った人的損害)を受けてるとも書いてます。

100日弱という勝利公の山内スピード帰還、裏切り者の処断で結束再確認等により、山内勢の気息は戻りました。
でもね。戦国ゲームじゃないんですから、受けたダメージがマイナスから即プラスに復元する回復魔法なんて現実世界にはないんです。
現段階で10倍比という「事実」は、御当地村史特有・盛り記述でも隠しようのない「現実」です。

では有利なはずの佐嘉勢から和睦を持ちかけたのは、どのような思惑であろうか?
我らが英雄・勝利公には「龍造寺隆信の魂胆など、全部お見通しだ!(仲間TRICK風で♪)」

人物・龍造寺隆信 このシリーズではダークサイドの熊さん

何回も書いてますが、神代勝利公は山岳地帯における地形利用した戦では、ガチ無双で無敵で無敗で天才なんです。
この才能の差というのは、どれほど平地の兵が頑張っても、精神論とか大軍を投じれば何とかなるレベルじゃありません。
それこそ織田軍の比叡山焼き討ちや、大友宗麟の英彦山焼き討ちのような、万単位ブッチギリ大軍で焦土作戦でも展開しない限り、山内エリアで勝利公を倒すのは不可能に近いんです。

事実、龍造寺隆信は名尾峠での敗北以降は、山内とは直接弓矢を交えず、勝利公周辺の同盟者(少弐・小田・江上等)を討つことにより、勝利公を徐々に平野部から山内へと閉じ込めて行きました。
龍造寺が勢力拡大を続けていけば、山内は孤立し嫌でも従うしかないくらいの勢力差になり、いま現実に10倍比です。

川上合戦の勝利で行けるかな~と隆信公、裏切り工作ルン♪したら見事失敗。
あれほどの大敗にも関わらす山内武士団、領民に至るまで結束が崩れてないとなると、弓矢で決着しようものならゲンナリするような長期消耗戦になるのは目に見えてます。
隆信の目論見は「ここはひとまず和睦し、佐嘉勢は己の勢力拡大に専念することにより、山内勢の体力が尽きるのを待つことにしよう」です(`・ω・´)キリッ

というような内容の話を勝利公はされたそうです。
あと・・・シオから蛇足・・・( ̄ko ̄)<勝利公には失礼ながら、隆信と勝利公は親子に近い年齢差でして
( ̄ko ̄)<生物学的持久戦(=寿命)においても隆信が有利でつ・・・

勝利公は、このような隆信を目論見を承知で和睦を承諾されました。
そして、その理由を老臣らに語ったのですが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
378位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
83位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR