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【肥前後藤氏・四~黒髪神社~】西肥前強化期間リサーチ7武家目

黒髪山は伊万里市・武雄市・西松浦郡有田町の市町境に連なる黒髪山地の中心となる山です。
(黒髪山地以下縦列順~英山-前黒髪-黒髪山-見返峠-青螺山-青牧峠-牧の山-越)

新日本百名山及び九州百名山の一つですが、標高516mと高さは程々。
それが歴史上で特別視されてきたのは、奇岩が多いので修験者が萌え・・・(._+ )☆\(-.-メ)チガウ!

ゲホグホ・・・奇岩があって古来から修験道の聖地だったからです。
特別だった証となるのが「黒髪神社(武雄市(旧山内町)」
上宮が約2千年前からあり、下宮が創建715年、肥前最古の神社です。
鳥居は肥前鳥居なんだけど、社殿が比較的新しいらしく狛犬が肥前狛犬じゃないんだよな~
それはさておき、何故か末社に「聖徳太子社」があるのが珍しい。

いや一番珍しいのは参拝。「二拝三拍手一拝」なんです。
普通「二拝二拍手一拝」
出雲や宇佐「二拝四拍手一拝」
ですから、いかに珍しいかお分かりになると思います。

この黒髪神社には鎮西八郎為朝の大蛇退治の伝承があります。
この退治の時に為朝の弓を評定(確認)したのが、時の後藤氏当主・後藤高宗でした。^-^
後藤氏は平安時代から武雄の塚崎に土着してますからね(^ -)---☆Wink

ちなみに大蛇は為朝の弓で深手を負いながらも逃亡、そこへ偶々通りかかった盲目の僧・行慈坊が短刀でトドメを刺したそうです。
盲目の僧は異様な気配を感じて思わず殺ったのが「肥前国有田郷の白川の池に棲んでた大蛇」と知ると、
「やべ!まさかの神の使い?」(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
とチキンハートになり、神の祟りが起きないようにと「大蛇が悪事を働いたので退治したんです」って縁起を伝承したそうです。

この黒髪神社の大宮司家が黒髪氏。
どうも武士化してたようで、後藤氏の配下だったみたいなんですが、さすがにコアすぎて黒髪氏データは入手できませんでした( ̄ω ̄A;アセアセ

その黒髪氏と後藤職明に関する史料が残ってます。
明応5年12月、黒髪右京亮家俊が黒髪神社大宮司職を継ぐことにつき、職明が与えた允許(許可)状が黒髪神社に残っているそうです。
つまり大宮司・黒髪氏が領する黒髪神社・神域エリアは、後藤氏の影響下にあったということです。
ここで再確認してほしいのは冒頭の黒髪山の位置です。

黒髪山は山ですから、武雄市だけでなく、伊万里や有田町にも跨ってます。
当然、松浦党伊万里氏も聖地・黒髪神社に所縁がありました。

実は伊万里氏は後年になって龍造寺に敗れた後に、武雄・後藤氏を頼って逃げ込んでるんです。
後藤氏が伊万里氏を拾い上げ援けたのは、前回紹介した攻守同盟との縁が初めてではなく、
そもそも肥前最古の神社・黒髪神社を通じて、そうとう古くから後藤氏と接点があったからだと思います。
(神社の祭事や大宮司第代替わり神事で絶対鉢合わせする)
伊万里氏が武雄に逃げる時の山越えコースは、上記縦断順のいずれかを通過してるはずです。

なぜ黒髪神社を一話使うかと言うと、与賀郡における与賀神社のように、武雄周辺の人々にとって黒髪山と黒髪神社は、大切な大切な聖地だったからです。
それを支配下に治めていたのですから、「武雄の後藤」が如何に勢力ある国人領主に成長していたかをお察しください。

他に黒髪山の法印であった頼憲には跡を継ぐ候補が2人あったが、
跡継ぎの選に漏れた片方が頼憲に恨みを抱いて「頼憲は有馬貴純と通じて職明を調伏した」との噂を流し、
それを信じた職明が頼憲を矢で射殺しそれにより祟りがあったとの話が伝わっている。(ウィキペディアより)


ウィキペディアの編集者が微妙に不親切な件~
この場合の黒髪山の法印は寺社でして、黒髪山大智院西光密寺(武雄市山内町宮野黒髪山)のことです。

ただしウィキペディアは丸きっりの間違いじゃありません。
職明の時代は寺も神社も神仏習合してたからです。
おそらく末社の「聖徳太子社」も、神仏習合の名残でしょう。
明治になって、寺社と神社部分が分離され、現在の形になりました。

肝心の祟りですが、黒髪山大智院西光密寺のHPにもなくって判んなかったil||li _| ̄|○ il||l
とにかく黒髪山に関しては神域・寺社エリア、共に後藤氏の支配下だったって事です。
で、法印に選ばれず逆恨みした方が「有馬貴純と通じて」って事は、後藤は有馬と敵対関係だったという事。

後藤職明には男子がおらず、渋江公勢に嫁いだ娘が生んだ(=外孫)純明(すみあき)を養子に迎えたのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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【肥前後藤氏・参~職明(しきあき)~】西肥前強化期間リサーチ7武家目

職明(しきあき)って名前、カッコ良くね? (人´∀`).☆.。.:*・
いつ戦国になるんだと思いの貴方。
文明年間は立派な戦国「初期」です(`・ω・´)キリッ


没落した?らしい?長島庄渋江氏ですが、いつの間にか本城である潮見城に復活してます。
ただ分家の牛島氏と相続で争ったりしてたので、その勢力は徐々に衰えていったそうです。

長島庄は現在、武雄町大字永島と橘町大字永島という行政区分になってます。
そこには地頭職である後藤氏、長島が本貫地の渋江氏、分家の牛島・中村がひしめきあう・・
と言いたいところですが、もともとが1517町という広大な領地が長島庄。

戦国初期における彼等の勢力エリアが、長島庄の何処をどう棲み分けしてたのか、素人には皆目わかりません^^;
なにせ渋江分家がいたはず・・牛島庄の位置も、どのあたりなのかイマイチ判明してないんです^^
少なくとも潮見神社のあたりは、渋江エリアだったでしょう。
渋江氏本城である潮見城と所縁がある神社ですから。

このころの六角川流域は、三つの勢力に狙われていました。
小城郡の肥前千葉氏、松浦氏、島原高来の有馬氏。
この三氏が、それぞれ勢力拡大を狙うので、六角川流域の国人は狭間で揉まれてました。
ついでに言うと、これに少弐VS大内が加わるので、ホントに大変だったと思います^^;

1483年(文明15)有馬晴純が産まれた年に、後藤職明、渋江公直、伊万里仰、大村胤明が攻守同盟を組む。

渋江公直は男子がいなかったようで、(たぶん)弟の公勢が潮見城主を継いでます。
で、詳しい時期は不明ですが、後藤職明の娘と渋江公勢が結婚してます。
両家はエリアが近接してたと思われるので、複雑な肥前情勢の中で互いに協力し合う為の固めの婚儀と思われます。

さらに攻守同盟のうち、後藤職明、渋江公直、大村胤明の三氏が、
渋江氏分家である中村公継に藤津郡大草野(嬉野氏塩田町大草野)北部の土地を与えています。


このあたりの事情は判りません。
肥前中村氏は本家である渋江氏が衰退したドサクサに勢力拡大し、小城の肥前千葉氏に仕え家老にまでなってブイブイ言わせてました。
大内と組んで千葉氏の家督に介入し御家騒動まで起こしてましたが、その肥前千葉氏も東西に分裂。
東千葉氏に仕えた中村氏も、一時の勢力が嘘のように衰えていったそうです。
元々が譜代でもない余所者ですから、東千葉も追い出されたのか?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
これが戦国後期に後藤家に仕えたという、中村氏の前身になるのかもしれません。

さて、六角川は肥前須古城で濃厚にやったので、後藤氏では黒髪山・黒髪神社を紹介したいと思います。
ちょっと長くなりそうなので、ここでブレイク、それは・またの話 by^-^sio

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【肥前後藤氏・弐~室町~】西肥前強化期間リサーチ7武家目

北肥戦誌『後藤家由来の事』ですと、戦国初期の純明さんへと話が飛びます。
が、それだと渋江氏との関わりが、説明不足になるので純明さんの祖父・正明さんの話からしましょう。

後藤家の諱って、現代でも違和感ないのが多いな~



さて長島庄に(現:武雄市)1500町以上の領地を持ってた橘姓渋江氏ですが、室町期に一度目?の没落をします。

まず室町幕府三代将軍・義満が、グダグダだった南北朝合一に成功(1392年)しました。
九州における最大の功労者が今川了俊だったのですが、了俊は有能すぎました。
了俊を恐れた足利義満により、今川了俊は九州探題職を解任(1395年)され故地である駿河へと帰還します。

その後任となったのが、渋川氏です。
ちなみに渋江と渋川って名前が似てるけど、別に同族じゃありません。
武雄市の渋江は橘姓、九州探題の渋川は清和源氏足利氏流です。

1404年(応永11)、時の渋江当主は探題軍に潮見城を攻められ降伏した
攻撃された直接的原因・・・というのは探せませんでした。
推測するに少弐が絡んでる確率が高いです。

少弐氏は九州探題・渋川氏と敵対関係で、それは戦国期に突入しても変わりません。
何故なら九州探題・渋川氏は、大内氏の支援を受けてるからです。
今川了俊が良くも悪くも強烈すぎたので、無難人事で選ばれた渋川氏のキャパでは九州探題職は、その始めから荷が重かったんです。

そのために室町幕府では大内に対し「渋川を面倒みたってネ(´・д・`)」と要請し、大内が肥前へ直接介入するキッカケになったんです。
ちなみに九州探題・渋川氏は、肥前守護職を兼務してました。
(渋川氏の綾部館=肥前守護館)

実は1404年4月12日に「千葉胤基+渋川満頼+今川国秋」連合軍VS「少弐貞頼(10代目)+寝返った千葉家老」による「佐嘉郡川上の戦い」があったんです。決戦に勝利したのは肥前千葉氏側です。
渋江氏は基本として少弐サイドの国人でしたので、この争いの巻き添え食らったんじゃないでしょうか。
で、渋江さん・・・よほどコテンパンにされたみたいで、降伏後に記録から消えちゃうんです。
西肥前は記録から消える武家ばっかだ・・・il||li _| ̄|○ il||l

んで、渋江氏の没落で空席になった長島庄地頭職を、どうやら後藤氏が任じられてるみたいなんです。
1428年(正長元年)11月6日、後藤氏16代目正明が、九州探題兼肥前守護渋川義俊から塚崎庄の地頭職の下知状を受ける

下知状には英明(正明パパン)の跡を継ぐべきとあります。
後藤正明の父・英明は、長島庄の地頭職を兼領してたそうなので、後藤正明も長島庄と塚崎の地頭職両方を継承したことになります。

九州探題兼肥前守護の渋川に下知状を与えたのは、苛烈・果断な事から「万人(が)恐怖」と畏れられた足利義教。
ここでキーとなるのは後藤正明が下知を受けた年です。
1428年というのは、足利義教が将軍職に就任した年なんです。
ということは、下知状は単なる業務命令ではなく、新将軍就任に伴い発行される「new領地宛行状」ではないでしょうか。

「領地宛行状」の書式テンプレが整ったのは江戸期に入ってからです。
書式はともかく、当主代替わりがあると、それまでの家臣たちの権利・領地を改めて認める書面は必ず発行します。
後北条氏も代替わりの都度都度、___φ(.. ) カキカキ って家臣や配下国人に発行してます。

おそらく後藤氏が長島庄の地頭になったのは、応永年間で15代英明の代でしょう。
後藤家の伝承によると14代資明からとなっているそうなんですが、それだと渋江氏没落前になります。
渋江氏が大人しく本貫地の地頭職を譲るはずないので、14代資明から・・というのは無理があると思います。

従って後藤氏塚崎庄・長島庄の地頭職兼務は15代目英明から。
それが新将軍・足利義教にによって追認され、更に英明の子・正明への相続を認めた時点で、後藤氏の「長島庄地頭職」は揺るぎないものへと質的に変化しました。

1428年、足利義教の命によって出された下知状をもって「武雄(長島庄)後藤氏」の誕生です(=^・ω・^=)v ブイ
ところで一度記録から消えた渋江氏が何気に息を吹き返したのが、戦国初期の文明年間なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【肥前後藤氏・壱~平安】西肥前強化期間リサーチ7武家目

リサーチなんですが、8武家で終わらせる予定でいます。
有馬と大村も・・・って思ってたんですが、アチコチに点在してるデータを集めるとなると、キツすぎるので断念しました^^;
で、後藤氏ですがネタバレ予防の為、ここでは北肥戦誌に具体的に登場する前の後藤氏までとします^-^

ところで、そもそも武雄市が西肥前なのか?という素朴な疑問が・・・^^;
文化や方言的に・・・とヒントを探したんですが、道産子では文化圏の微妙な違いが判断できない^^;
とりあえず有馬氏最盛期エリアが六角川流域(杵島郡)までだったので、武雄市も西肥前に含めました。



戦国ファンなら察しがつくと思いますが、名前に「藤」があるので本姓は藤原氏。
正確に言うと「利仁流藤原氏」

鎮守府将軍・藤原利仁の系譜で公則が「肥後守」になり、「肥後の藤原」から後藤氏を名乗ったのが始まりだそうです。
あり?初めから肥前じゃなかったんだ^^;

んで、公則さんの曾孫が、肥前国墓崎(=塚崎)の総地頭になったのが肥前との所縁の始まり。
とはいえ、肥前に土着するまでは河内にいて、姓も「板戸(河内にある地名らしい)」だったとかで、いまいち地頭になった経緯が曖昧です。

史料などで後藤氏のことを「塚崎の後藤」って、ちょいちょい出ます。
「武雄鍋島(後藤)氏」の呼び名に慣れてる方々や、地元地理を知らない方だと「塚崎って分家かな?」って錯覚する・・・
かも?しません?判んなかったの自分だけ?^^;

ゲホゴホ・・・とにかく塚崎(武雄市武雄町大字武雄)こそが、後藤氏の本貫地。
馬渡(もうたい)氏の本貫地・川古(武雄市若木町大字川古)より、5km弱ほど南になります。

北肥戦誌『後藤家由来の事』によると、後藤氏が肥前国塚崎庄に向かったのは1108年の事。
これって平安時代だ! はぅっΣ(´Д`;)
後藤氏を名乗ったのは肥前に土着してからかもしれません。

ところが地頭として下向したはずなのに、すぐに城を築城してないんでつ・・・( ̄ko ̄)
後藤氏が塚崎城を築城したのは、サイト城郭放浪記によると推定で元永年間(1118-1120)。

ほんとに地頭だったのか・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
まぁ、つまり土着して力を蓄えるまで10年ほどかかったか。
由来の方が10年違ったかのどっちかです。

この平安期・武雄市において最大の版図を地頭として領していたのが、橘姓渋江氏でした。
てことで渋江と後藤が、想定外の濃さで絡むので渋江を再リサーチする羽目になってますil||li _| ̄|○ il||l

橘姓渋江氏の領地が長島庄、現在の武雄市橘町大字永島と武雄町大字永島の両方を含むので、かなりの広さ。
後藤の塚崎など、同じ「荘」の字がつくのに、渋江の長島庄の1%すらないんです。
なんで、こんな極端な行政区分にしちゃったのか、さっぱり判りません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

鎌倉に元寇に南北朝と、様々な激動の時代を乗り越えつつ、渋江と後藤は戦国初期を迎えたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【ISAHAYA★in西郷・六】西肥前強化期間リサーチ6武家目

戦国時代に中立はない。
従わなければ「敵」と見做され攻撃されます。

1577年(天正5)6月下旬、龍造寺勢が諫早侵攻を目指し、手始めに宇木城を攻略
実は、この龍造寺勢の中に西郷純堯実弟の深堀純賢がいました。
深堀純賢は長崎攻撃の折に龍造寺から支援を受けて、兄より一足早く実質配下になってたんです。

西郷純堯は龍造寺と戦うべく有馬氏に援軍を要請しました。
ところが、この時既に多くの西肥前国人が龍造寺に降り配下となっていたため、有馬氏には既に援軍する余力がなかったんです( ̄ω ̄A;アセアセ
有馬が援軍してくれない事に怒った西郷純堯始め一族は、これで完全に有馬と手切れとなりました。

龍造寺勢の攻勢に大ピンチだった西郷純堯は、龍造寺勢にいた実弟・深堀純賢の仲介により滅亡を免れます。

北肥戦誌曰く
純堯は降伏、隆信と対面し、純堯の子・西郷純尚(後に信尚)を隆信の婿とする約定を交わすと、
自らは隠居し小野城へ入った。


ん?「隆信の婿」? やだこれ・・・・ものすご~~~~~~~く紛らわしい!!
西郷純堯が対面したのは文面の流れからいって、おそらく(龍造寺)隆信。
西郷純堯の嫡男・純尚が婿になったのは(松浦)隆信の方!
北肥戦誌が苗字を省略して記述してるので、北肥戦誌を参照した他の文献・サイト等もゴチャ混ぜになってます^^;

もしくは松浦隆信の娘を、龍造寺隆信の養女にしてから西郷純尚に嫁がせてるかもです。
(それなら、どっちの隆信でも婿には違いないwww)
西郷純尚は偏諱を受けて信尚って諱を改めるんですが、偏諱の方は龍造寺隆信の方からだと思います。

西郷純堯は隠居後、ほどなく亡くなったと言われています。
家督を継いだ西郷信尚は、実叔父である深堀純賢と組んで長崎氏攻撃を続行してます^^

で、龍造寺が沖田畷で敗れて、秀吉の九州征伐はじまって・・・
西郷信尚は、豊臣秀吉の島津征討に参陣しなかったために改易決定。
叔父様・深堀純賢がシッカリ生き残ったのに、西郷信尚が便乗しそこねた理由は判りません。
何度も言うように史料がない為、前後の事情が皆目分からないからです。
北肥戦誌では病の為、挨拶出来なかった~~てな事になってる。

1587年(天正15)9月に西郷勢は抵抗を試みますが、龍造寺家晴(諫早龍造寺初代)の前に敗れます。
で、この大敗した時に信尚は、文書類を全て焼却しちゃったそうなんです il||li _| ̄|○ il||l

改易に絡んで何かやらかしてたのかもしれません。
落ち延びる慌ただしさの中で、文書の中身を選んで処分する猶予はなかったんでしょう・・ (゜-Å) ホロリ



1588年の北肥戦誌によると、西郷信尚は龍造寺政家の妹婿となってます。
妹って何処の誰だよ・・・・・・il||li _| ̄|○ il||l
ゲホゴホ・と、とにかく龍造寺政家から80町を与えられ浪人してたそうなんです。

で、大坂にいた小西行長を通じて御家再興を訴えてました。
裁定が下りないうちに「天正肥後国人一揆」が勃発し、西郷信尚は便乗し諫早で一揆をおこした。
経過省略で、扇畑での合戦で信尚は敗れます。
扇畑の場所は特定できなかったけど、船越町・埋津の側みたいです。

江戸時代の老人力・伊能忠敬の測量日記によると、埋津のあたりには埋津川があったそうな。
これが本明川もしくは半造川の支流だったのかどうかは、測量日記が詳しすぎて(爆)自分の知識が追いつかず~判りませんでした。

西郷信尚は妻の実家である平戸に逃れて松浦鎮信(妻の兄or弟)に仕え、同留衆に列せられて500石を拝領します。
ウィキペディアだと信尚妻は、松浦隆信でなく松浦鎮信娘になってます。
でも鎮信の正室が西郷信尚姉or妹ですから、何というか西郷関連は系譜が混乱してるようです( ̄ω ̄A;アセアセ

それと一族全て平戸に行った訳でなく、西郷信尚の弟が薩摩へと赴きました。
てことで、薩摩の西郷ドンに繋がります^^b
ただ薩摩には既に西郷姓の者が土着してるので、信尚弟は同族を頼ったのかもしれません。

西郷氏が文書を処分した理由って、肥後国人一揆に絡んだものかもしれません。
とにかく慌ただしく全部焼却しなければならない「何か」が、西郷氏にはあったんです。
郷土史マニアとしては、幻の西郷文書が凄い気になるんですが、これ以上は推測しようがないので、ひとまずリサーチ終了とします^^

さて、次なるリサーチは「武雄・後藤氏」なのだが、それは・またの話 by^-^sio




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【ISAHAYA★in西郷・五】西肥前強化期間リサーチ6武家目

史料が欠落しているため、西郷家当主は生没年不明が殆どです。
有馬氏から西郷氏へと養子に入った純久には、3人の男子と一人の女子がいました。

ゴソゴソ・・・よっこらせ!
系図・西郷
・・・・・・・・・・・・・画像が言う事聞いてくれない・・・il||li _| ̄|○ il||l

西郷氏を継いだのが、嫡男の純堯(すみたか)、正室は有馬義貞の妹(or姉or娘)
次男、純門(すみかど)が宇木城主(有喜町)
三男、純賢(すみかた)が後に深堀家へ養子に入ります。
女子が大村純忠に嫁ぎます。

大村純忠は有馬家からの養子ですので、血縁上だと従兄妹同士の結婚になります。
妻の父・西郷純久も有馬からの養子ですから、いわば有馬にとっては身内同士の結束を強める意味もあったでしょう。
こういった血縁・縁戚関係により西郷氏は、有馬氏から準一門待遇を受ける老臣の地位にありました。

1562年(永禄5)ついに有馬と龍造寺が本格的ガチンコ
現在、肥前戦国史本編が中断しているのは、まさにココです^^b
西肥前の武将名が大量に北肥戦誌に登場した為、自分の脳内で処理しきれずΣ(´Д`;)
大慌てで西肥前知識を仕入れている真っ最中なのが「西肥前強化期間シリーズ」です( ̄ω ̄A;アセアセ
で、結果からいうと有馬勢が敗れました。

有馬にとって困ったのは、龍造寺からの脅威がある中で、準一門同士である大村純忠と西郷純堯が対立したことです。
対立のきっかけは大村純忠のキリシタンへの入信(1562年)です。
西郷純堯はキリシタンが大嫌いでした。
それに加えて大村純忠が南蛮交易を始めた事も、更に対立を深めたんです。

1563年6月、大村との対立から西郷純堯は、有馬軍と埋津で戦う
梅津と記載されてるものもありますが、埋津のことです。
埋津は諫早市船越町にある河口(※干拓前・戦国当時)港ですので、西郷純堯は有馬勢に本拠地を脅かされたんです。
こうなったら縁戚もヘッタクレもありません。
西郷純堯は多数の犠牲を出しつつも、有馬勢を撃退します。o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

有馬と西郷は抗争状態になるんですが、有馬にとってマタマタ困るのは西郷を完全に敵に回せないという点でした。
全盛期の西郷エリアは藤津郡・杵島郡にまで及んでいました。
龍造寺が勢力拡大し、馬渡(もうたい)氏&肥前須古城と六角川防衛ラインを突破した時に、最前線となるのが西郷エリアなんです。

このあたりから有馬の外政がグダグダになってきます。
龍造寺の勢力拡大が止まらない現状、有馬は東との最前線である西郷との関係を優先すべきでした。
ですが有馬義貞は、一途にキリシタンとしての信仰を貫こうとする実弟・大村純忠を不憫で見放せなかったんです。
もちろん南蛮貿易から来る莫大な利益も魅力だったでしょう。
が有馬義貞も後にキリシタンになってるところを見ると、心情的に大村純忠贔屓だったのは否めません。

有馬義貞は大村純忠に忠告しました。
「西郷純堯の純忠に対する憎悪の主な原因は純忠のキリスト入信したことであると伝え、キリシタンであることを止めれば純堯と敵対することもなくなる」
これに対し大村純忠は、
「自分がキリシタンであることには異義を唱えないでいただきたい。自分は領国・家・家臣、および生命を失っても棄教はしない(`・ω・´)キリッ」
(参照:サイト「武家家伝_肥前西郷氏」より)


1565年8月、西郷純堯の末弟・純賢が深堀家の養子となり深堀18代領主となります。
VS大村(舅)&長崎(婿)チームに対し、西郷・深堀兄弟チーム結成です ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!

大村純忠を攻撃する西郷純堯を、フロイスは日本史で「デウス」の教えに最も残忍で苛酷な敵であると記述してます。
1572年3月に大村攻めをするんですが失敗。
1573年、上手く行かない大村攻めに苛立った西郷は、有馬義貞(西郷の妻の実家)を通じて大村純忠を謀殺しようとします。
が、これは実弟を不憫に思った有馬義貞が大村純忠に知らせて助けちゃいます(西郷:怒)

このあたり西郷に対しても下手になってる感で、有馬義貞がブレブレだったのが窺えます。
ちなみに有馬氏が以前に嬉野氏に与えた所領を他の者に与えてしまい、激怒した嬉野氏が寝返ったのも1573年の事です。

1574年、有馬が内輪揉めでグダグダやってる間に、肥前須古城が龍造寺勢に敗れて落城
東と西の最前線~六角川防衛ラインを龍造寺が遂に突破しのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【ISAHAYA★in西郷・勇】西肥前強化期間リサーチ6武家目

西郷尚善が築いた高城(諫早)城~現在は諫早公園となってます^-^
城の北は本明川、南は湿地、四方に高櫓を構え、東に大手口・本門・桜馬場があったそうです(城郭放浪記より)

1474年(文明6)西郷が城を築いた前後に、有馬貴純が大村純伊を攻撃しました。
西郷尚善も有馬配下で出陣し「中岳(大村市中岳町)の戦い」で功績を立て、その武名を西肥前に響かせたとの事です^-^

この戦いで大村領は有馬氏に併呑されたんですが、2年後に大村領は肥前千葉氏に(も)併合されてます。
どうやら大村領は一度ならず数度敗れて、有馬や千葉氏に併合されてはリベンジを繰り返してたようです。
ちなみに大村藩史では、肥前千葉に敗れた事は黒歴史化して記録なしです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

大村氏が公式?リベンジしたのが1480年(文明12)の事。
この時は西郷尚善も臨戦態勢に入ったんですが、最終的に大村と有馬が和議したので西郷尚善自身は参戦せずに終わりました。
和議後の大村氏は有馬氏と縁戚関係になることにより息を吹き返したようで、必然的に諫早への圧迫が強まったようなんです。

1491年(延徳3)西郷尚善は大村への備えとして、尾和谷城(下大渡野町)を築城。
西郷は城の水を確保する為に、大渡野に落から開へと水路を引きました。
更に山下淵に井堰と水門を造り、田井原に水路を引く。

これらの用水路が今日「西郷尚善の用水路」と称されているものです。
この用水路は多少の変化はあったものの、平成の現代においても基本ベースとして活きてます。

近代諫早市の歴史は西郷氏の存在を抜きにしては語れない・・・はずでした。
ほかならぬ西郷氏自身が、文書を処分さえしなければ・・・・゜・(つД`q。)・゜・

1523年(大永3)深堀氏で紹介したように西郷尚善が「善」の文字を深堀善時に偏諱してます。
深堀善時は、この時が元服でして西郷尚善は烏帽子親も務めてます。
諫早の西郷氏が、国人領主として一定の勢力を築いていたことの証左でしょう。

武勇・治政とスペックが高かった西郷尚善ですが、どうやら男子に恵まれなかったようなんです。
1528年(大永8)有馬晴純の実弟・純久が西郷尚善の養子となって家督を継ぐ
1528年は8月28日に享禄へ改元してるんですが、養子縁組~相続は改元前のようです。

同年、隠居となった尚善は、京都へ上洛レッツGO♪ヽ(*´∀`)ノ
公家の三条西 実隆に逢って連歌の指導を受けてます^^b
これも改元前みたい~三条西さんは「実隆公記」を残してるくらいの文化人だから年号のミスはないと思う。
西郷尚善自身も風流・文化人だったんでしょうね^^

個人的には京都へ上洛したコース(途中までは船便かな?)とか、
バリ長崎弁と思われる西郷さんと、京都・公家言葉の三条西さんとの会話が気になります(爆
(同じ肥前でも西と東では方言や発音が違う)

尚善の養子となった純久は、内政に尽力したそうですが、史料ないので事跡がハッキリしてません (゜-Å) ホロリ
かろうじて判ってるのが1548年に田原六地蔵を作ってる事くらい。
この当時の諫早では六地蔵建立がブームでして、これは「生前に」極楽往生を祈願して作るものなので、純久自身が建立したのには間違いないです。

諫早の干拓事業は450年の歴史があるそうですが、それは西郷氏統治時代とモロ被ります。
おそらく尚善が造った用水路は、純久統治時代に農業用水として活用された事でしょう。
干拓・開墾が進み諫早は豊かになります。

西郷氏の諫早に陰りが出るのは、龍造寺隆信が勢力拡大し始めるからなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【ISAHAYA★in西郷・参】西肥前強化期間リサーチ6武家目

地理バナが続き「武将は何時出るんじゃ」と思いの方が(多数)いると思いますが、
地理史を含めた郷土史オタのシャウトに、もうちょっと付き合ってね(^ -)---☆Wink
もともとは普通?の国人領主オタだったはずなんだが、何かに片足突っ込んだ感が・・・il||li _| ̄|○ il||l

さて、くどいようですが「諫早市船越町」は、本格的な干拓事業開始前である戦国時代までは河口の町でした。
地図で現在の船越町の位置を見れば解りますが、干拓事業で海へと進んだ土地は6km以上あります。
船越町の中にある埋津(津=港)は、戦国時代から存在してました。
ですが、造ったのが伊佐早氏なのか西郷氏なのか、史料が少なくて判らなかったです。

船越という地名自体は、平安時代・延喜式に「駅名」として既に存在してます。
となると河口港としての諫早・船越の歴史は、平安から戦国までの数百年。
干拓が進んだ江戸期以降は、河川港として機能してたことになります。
(史料的に立証が出来れば、世界史クラスの1000年湊~( ゚д゚)ンマッ!!)

諫早の特徴は本明川だけではありません。
諫早・・・その「最大の特徴」は「陸の起点~要衝地である」という事です。

諫早が、有明海に面した土地でありながら「陸の起点」となったのは地理的な要因の為です。

地理的要因とは、長崎県と佐賀県の間にドドーンと鎮座している多良山系です。
さぁ~皆さぁ~ん、海・川ときたら山です~o(* ̄○ ̄)ゝよぉーーー!

多良山系のメインとなるのは、経ヶ岳、多良岳、五家原岳で、諫早市を流れる本明川の水源が五家原岳です^-^
★経ヶ岳(1,076m)
多良山系最高峰(=^・ω・^=)v ブイ
なんと東肥前の背振山系1000m級である背振山と天山よりも高い!Σ(´Д`;)
修行僧が経本を山頂に納めたことが名前の由来なんだけど、無事に下山出来たんだろうか・・( ̄ω ̄A;アセアセ
★五家原岳(1,058m)
一番南にある山で、雲仙や佐賀県側の山々が見渡せる眺望最高♪ヽ(*´∀`)ノ
★多良岳(983m)
経ヶ岳の南東になるんですが、山系の名称に標高3番目の多良岳がチョイスされたのは、多良岳が山岳信仰の対象だったからなんです。
行基ゆかりの権現とか、弘法大師ゆかりとかとか、色々ありますよ(^ -)---☆Wink

( ̄ko ̄)<標高1位2位の山だと、険しすぎて修行以前に極楽逝きでつ・・・
と言いますのも、神埼・佐嘉・小城の三郡にまたがり横?に長広~い背振山系と違い、
多良山系は大村側・藤津郡鹿島側・諫早側の【真ん中に集中】している山系だからです。
その為、標高差が10数m程度の差であっても、勾配のキツさは背振山系以上なのが多良山系なんです^^;

てことで、今でこそ楽しくハイキングコースがありますが、昔は多良山系の奥深くに入るのは修行僧&山伏くらい。
とてもじゃないが、物資輸送とか商人や旅人が気軽に行き来できるコースじゃありません(_´Д`)アイーン

平谷黒木トンネルや国道444号線により最短コースが出来ましたが、完成したのは何と平成11年 ( ゚д゚)ンマッ!!
つい最近、ほんの十数年前まで諫早が陸の分岐点として、重要な役割を果たしていたんです。

で、具体的に言うと、諫早は七つの海ならぬ「3つの海(湾)」に通じてました^^/
1)大村湾~とうぜん長崎へも行ける
2)御当地・諫早湾~有明海へ通じる
3)橘湾~島原半島&玄界灘へ通じる


街道だと、諫早街道、大村街道、島原街道・・・かな?
実は諫早街道って、当時の海岸線沿いだったみたいなんです。
宿場名が、水・海に因んでいるのがチラホラあるんですが、これ以上深入りすると戻れなくなりそうなんで、ちょっと細かい歴史までは調べてないです( ̄ω ̄A;アセアセ

1474年、諫早の新たな支配者となった西郷尚善が高城城(現、諫早公園)を築きます
史料がないんで不明ですが、江戸期に洪水があるってことは、戦国期も諫早は洪水で度々悩まされてたはずなんです。
にも関わらず伊佐早氏が河口(←戦国時代までの話)だった船越に拘ったのは、河口港としての利便性以前に、そこが本貫地だったからです。
(伊佐早氏は元々船越姓でした)
が、新たな支配者である西郷氏には、そんな拘りや柵はありません。
洪水被害を避け、かつより街道に近い場所に本城を移したのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【ISAHAYA in 西郷・弐】西肥前強化期間・リサーチ6武家目

伊佐早氏が滅亡した詳細は不明だが、一族が全滅したわけでなく落城後に落ち延びたらしい。
山形県に伊佐早姓があり、子孫の可能性が高いそうだ。

一方、江戸期の諫早・本明川洪水関連記録にも伊佐早姓が見受けられるので、生き残った一族全て東北に行った訳でなく、勝者である西郷氏に仕えた者もいたのではないだろうか。

本明川流域を長年領していた伊佐早一族は、治水土木に長けていたそうだ。
蓄積された智慧は、新たな諫早の支配者・西郷氏に吸収されたに違いない。

肥前宇木城(宇喜町)から勢力拡大し北上した西郷尚善は、伊佐早氏を亡ぼすと伊佐早氏の本城だった船越城(位置不明・船越町のどこか)に入ってました。
1474年、西郷尚善は高城城(現:諫早公園)を築いて入る。
(船越城は一族の者が城主として守った)

実は同じ河川流域でも諫早の本明川は、須古の六角川や蓮池の佐賀江川とは大きく違う。
川筋の蛇行が殆どないんです。

本明川は多良山系の南にある五家原岳(標高1,058m)を水源としており、山間部は支流が毛細血管のように張り巡らされ本明川へと合流する。

地形図の毛細血管支流を初めて見た時には、こ・・この河川、素人地理音痴が理解できるだろうか・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
とガチで怖気づき気が遠くなった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
それでも「虚仮の一念」で何度も検索と地形図をガン見を繰り返すうちに、なんとな~く纏まってきました。

本明川は川筋としては長くなく、川全体としては山間部が7割、平野部が3割くらいの比率です。
メインが山間部で水源は標高1,058mですから、山間部~平野部にかけては物凄い急こう配。

ちなみに平野部と書いてはいますが、江戸期干拓前ですから戦国期の平野部は範囲が決して広いわけじゃありません。
戦国諫早の海岸線は、佐賀県側ほどはキッチリ特定できなかった^^;
(天狗鼻って、いつから出来てたんだろうヽ(。_゜)ノ ?)

ちなみに航空写真でも見える干拓地・諫早平野は、江戸期からなのはハッキリしてます。
さらに半造川が現在のように本明川と合流しておらず、戦国時代の河口は別々。
それらを踏まえて戦国諫早海岸線を類推すると、高城城から戦国期・本明川河口までは2kmくらいしかありません。

でもって有明海満干潮は諫早にも河川逆流現象をもたらします。
いくらなんでも急こう配山間部を遡ることはありません。
浸水するのは2km四方の平野部です。

この地形では、本明川流域平野部の排水能力が・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
長雨があると本明川は、排水能力MAXを簡単に超えちゃうので、大洪水をたびたび引き起こしてます。

現在、水位観測所がある埋津は、本明川から約500m離れてます。
埋津・・・津=港なんですけど、いつから成立したのか何としても判らんかった(-ω-#)クヤシイ
長崎県(=西肥前)はベースとなる史料が少ないので、佐賀県(=東肥前)ほどはWEBデータもないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

一般的に肥前における津や城は、逆流現象時の浸水を見越して一定の距離を置いて作られます。
従って満干潮逆流現象は、本明川から500mくらいの位置まで浸水するのが平常運転だったと言う事です。

とはいえ、埋津のある場所が船越町って地名で、かつ戦国前から船越城があった以上、河川(戦国時代なら河口)港として既に機能してたと思います^-^

ちなみに船越町の位置は、半造川と本明川の丁度真ん中あたり。
素晴らしい!(福山ガリレオ風で)実に(・∀・)イイ!位置です。
おそらく諫早における「戦国期~江戸期の河川ライフライン起点」は、船越町だったはず。
案外、埋津橋付近が船越城の場所だったかもだな~~

さて、例え平城でも防備力があるのが肥前の城郭(=^・ω・^=)v ブイ
クリークで囲んでただろうし、本明川(北)と半造川(南)の真ん中に位置しているから、船越城の南北は歩くのも一苦労する湿地帯だったはずです。

逆に鉄砲のない時代の西郷尚善が、よく船越城を落とせたと思います。
伊佐早一族or家臣に内通者がいたか、有馬から援助を受けたかもですね。

船越城が「海の起点」とするならば、西郷尚善が新たに築いた高城城は「陸の起点」だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【ISAHAYA in 西郷・壱】西肥前強化期間リサーチ6武家目

肥前西郷氏は薩摩の西郷隆盛の先祖か、少なくとも同族になるらしい。
ついでに幕末会津の西郷頼母とも同族になる。
ということを知って以来、西郷尚善の脳内イメージが俳優の西田敏行になってしまった管理人です(爆

深堀氏のくだりで「文書を処分してしまった某氏」と書いたのが、この肥前西郷氏なんです。
おかげでデータが凄い少ないil||li _| ̄|○ il||l

城郭に関しても詳細不明の支城が多く「西郷氏の支城的な?絡みっぽい?」ってだけで、どういった役割を担ったのか、城史(築城年・主など)も不明です。
その為、リサーチと言っても散文的なものになるのを予め御了承下さいm(__)m

さて、人か地形か城か・・・どの角度もデータが足りないな~
てことで普通に一族の概略から行きますか(`・ω・´)キリッ



肥前西郷氏は肥後菊池一族の流れを汲むと言われている。
サイト武家家伝によると西郷エリアは「伊佐早(諌早)荘南部および島原半島の高来郡西郷一帯」
となってるんですが、この髙来郡も市町村合併で変遷が激しい^^;

でもって「戦国時代の西郷=イコール近代・西郷村」とは限らないらしく、西郷エリアの南限がイマイチ不明。
いずれにせよ「西郷」とある以上、肥前西郷氏発祥に所縁があるのは「高来郡西郷」で、平成現代だと雲仙市瑞穂町の一角(西郷駅付近)になるらしい。
で、そこから本明(ほんみょう)川流域にあたる諫早市に向かって勢力が広がったのだろう。

諫早は元々は伊佐早と呼ばれ、伊佐早氏が支配していた。
その伊佐早氏は、元々の元は「船越」姓だった。本城は船越城。
伊佐早荘を領するようになって「船越」から「伊佐早」に改めたそうです。(鎌倉時代かな?)

伊佐早と西郷のガチンコ記録が出るのは南北朝争乱期。
伊佐早が北朝サイドで西郷が南朝サイドって記載したサイトがある一方で、
九州探題・今川了俊の攻撃で、伊佐早と西郷が服したと記載してるサイトもあり。( ゚д゚)アリ?
要するに「ヽ(。_゜)ノ ヨクワカランチン~」て事らしい。

歴史とは所詮「勝者の記録」ということなのであろう。
伊佐早VS西郷において、勝者である西郷氏が文書を処分してしまった為に、巻き添えで伊佐早氏も謎の一族化してしまったんです。
(たぶん深堀氏が記録から数十年消えるのも、きっと西郷さんの・・・|壁|_ ̄)じぃー)

伊佐早氏の本城であった船越城は、遺構はおろか位置すら特定されていない。
それどころか西郷氏が「何年何月」に、伊佐早氏を滅亡させたのかすら明確になってない件~(_´Д`)アイーン

諫早の支配者として、西郷氏が記録に登場するのは1474年。
従って戦国初期である文明(1469~)年間で、かつ1474年までの間に、「伊佐早VS西郷」の決戦があったと推測される。

勝者となった西郷氏の当主が(脳内イメージ西田敏行さんの)西郷尚善(さいごう ひさよし)なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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感想= 戦国期における有明海の交通体系ー兵船動員と海賊・国人領主ー鈴木敦子著 =

この論文の場合は「あんまり詳しく書くと」「これから展開する歴史記事のネタバレ」になるんです。
てことで、軽めにいきます~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

自分はズブの素人から九州戦国史に入った為に、こうした専門家・論文の存在すら知らず、北肥戦誌をツールに独学(WEB検索)で、ここまでの知識を得て来ました。(←凝り性なんで徹底して調べるから)
だから今まで記事に盛り込んでたオタ推論が、こうした論文で展開されてるのを読むと、自分の方向性がズレてない事が確認できて、物凄~くホッとしてます^^;

自分は「肥前において、一定の力がある国人領主は自前の津(港)があったはず」「船は現代のマイカーのように、持ってるのが当たり前感覚だったはず」
って、何度か書いてますが、論文読むと、やっぱそうでした~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

ただし、それは筑前だけでなく、筑後もだった Σ(´Д`;)はぅっ
論文読んで、筑後の河川河口船便が自分にとって盲点だった事が判明(_´Д`)アイーン
道産子の悲しさで、地理感覚がスコーーンと抜けてたんです^^;;
言われてみれば筑後も有明海に面してるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

で、ちょっぴりネタバレ・・・論文によると
1570年の今山合戦において、大友宗麟は筑後国人衆に有明海の海上封鎖(準備)命令出してました何と!(゚ロ゚屮)屮 シランカッタ~~~
筑後と筑前は歴史的に双方向で行き来してました。
神代家や犬塚家が筑後で没落して肥前に土着したように、
龍造寺も剛忠(家兼)や隆信も、ピンチになると筑後へ亡命してました。

ですが有明海の筑後側津(つ=港)や航路を海上封鎖されたら、今までのピンチみたいに筑後へ一時退避が出来ない ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
今山合戦で乾坤一擲の夜襲に全てを賭けるしかないほど、陸からも海からも龍造寺は本当にピンチだったようです。

論文は、今後のネタに関わるので、付箋に棒線やらイパーイ (*´pq`)クスッ
それと海上交通ルールが室町中期には既に法文化されてたって( ゚д゚)ンマッ!!
「大船廻法」って言うんですが、論文によると写本が全国に流通してて、九州でも海難法として広く普及してたそうです。
自分のオタ推論以上に、活発だった・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

でもって安堵に関する部分だと、海夫船の所有と船の係留地が「先祖譲状」の対象になってました。
海の民にとって、絶対必要なものだから当然といえば当然なんですが、キッチリ明文化してたんだな~

あと「海賊」ですが、論文では2パターンに分けてました

・ホントに海賊行為で生業たててる漁民(田畑なし)たち
・在地領主(田畑あり)で海賊行為もするけど、戦時においては水軍として活躍する国人領主

海賊行為で生業立てる人たちには、そうせざるを得ない事情がありました。
それが諫早・西郷氏で紹介した、急こう配の多良山系です。

そのため耕作地に出来る土地に限界があり、それぞれの河川河口流域が肥沃な穀倉地帯となるのは江戸期の大規模干拓以降。
耕地を持たない海沿いに住む漁師たちは、漁だけでは収入が不安定、倭寇などの海賊行為で食べるしかなかったんです。
戦時になると、国人領主から召集がかかる人々でもあります^-^

で、海賊もするけど水軍として活躍する国人領主の代表例として論文に紹介されてるのが「深堀氏」です。
フロイスの日本史によると「深堀殿は大海賊」ってバッチリ書かれちゃってるんだって,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

秀吉の出した朱印状によると、深堀氏は海賊禁止令以降も海賊行為を継続してたみたいです^^;
深堀の意思じゃなくて、領内の漁民が止めなかったのかもだけど^^;
朱印状(公式文書)の中には「彼者(深堀から)人質を取置、屋敷早々可引崩」とあり、
深堀氏は大ピンチ~~これを、どう切り抜けたのかも書いて欲しかった(爆

その後の歴史と系図から推測するに、深堀純賢が石井氏後家と再婚し、その息子を養子にしたのは、このピンチを生き残る為だったのでしょう。

独立した国人領主である事は難しくなり、鍋島家臣になった。
でも同じ家臣でも石井氏は、鍋島直茂正室の実家・・・華麗なる閨閥(=^・ω・^=)v ブイ
深堀氏は本貫地を動く事なく、しかも佐賀藩家老職で幕末まで続いたんです。素晴らしい!

この縁組が成立したのは、鍋島氏にとって「水軍として活躍する国人領主としての深堀氏」が必要だったからです。
「朝鮮の役」の頃ですから、より優秀な水軍ゲッツは、軍役を果たすため必要不可欠でした。
深堀純賢は、自家の水軍としての実力の価値を判った上で、鍋島の殿と上手く交渉したんだろうなぁ^^

てことで、論文2つ、すっごい面白かったです (人´∀`).☆.。.:*・シアワセ☆.。.:*
「戦国を駆ける武将たち」も読んだというか見た~
水ヶ江城古図・・・メチャクチャ、くまなくクリークだらけでつ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

さて、次の論文逝きます(*´pq`)

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【佐賀藩家老・深堀氏、参】西肥前強化期間・リサーチ5武家目

戦国時代の兄弟は敵対するか協力し合うかの二択しかないのかもしれない。
実家兄・西郷と弟・深堀純賢は協力し合う関係でした。ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!

思想的にも兄弟揃って「キリシタン大嫌い!」っていうのもありますが、大村氏が勢力拡大するとモロに圧迫受けるのが、西郷・深堀兄弟だったので利害関係も一致してました。
長崎氏の下りで書いたように、西郷・深堀兄弟チームは度々貿易港長崎(と長崎氏の桜馬場城)を攻撃しています。
長崎が貿易港として栄えれば栄えるほど、長崎から南に10kmほどしか離れていない深堀は、経済的な圧迫を被る事になるのでガチ必死です( ̄ω ̄A;アセアセ
ついでに南蛮船から略奪するぜ!(・∀・)

龍造寺が勢力拡大し、大村攻めを始めると深堀も龍造寺から援助を受けて長崎を攻撃してます。
この時に深堀純賢は龍造寺配下になった事になります。
深堀の長崎攻撃は、領民の激しい抵抗にあって失敗しますが、大村純忠は龍造寺の攻撃に遂に降伏します。

大村が敗れた喜びも束の間・・・今度は龍造寺隆信が「沖田畷の戦いで討たれた」
ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
鍋島の殿が威勢よく島津に啖呵きった逸話が残っておりますが、その実態は・・・
龍造寺は島津に実質的に降伏してるんでつ・・・( ̄ko ̄)

筑前・肥前の国人領主が次々と龍造寺から島津へと乗り換える中で、深堀純賢はフラつくことなく龍造寺サイドに徹しました。
このあたり史料が入手できなくて、純賢が龍造寺サイドに踏みとどまった理由は判りません。
もともとが海賊・・ゲホグホ、いわば海の民だった深堀一族は、何らかのルートで中央政界の情報を入手してたんじゃないでしょうか。

天正15年、秀吉の九州征伐にも従軍し、島津に抵抗し続けたのもあって、本領を安堵されます。
天正16年の海賊禁止令で改易されたってサイトを見かけたんですが、その後も本領を守ってるところを見ると、鍋島様との繋がりで上手く切り抜けたっぽい。
ただ海賊としての深堀氏は、この海賊禁止令で終えたと思います。

海賊っていうと略奪しかしてないイメージですが、大名や商家の依頼を受けて船舶の警護を行うことも主要な活動の1つでして、請負で警護料を貰ってました。
敵は略奪、味方は警固~一ニ三の海賊衆♪シーセキュリティは海賊衆(*´○`)o¶~~♪
室町幕府が海賊を容認してたのは、そういう側面があったからです。

現金収入を失った海賊たちは自立した勢力でいる事が出来なくなり、武士を止めるか各大名家臣として吸収されていきます。
秀吉の唐入りフィーバーで水軍の需要が高かったので、選ばなければ再就職先には困りません。

深堀純賢は「文禄元年(1592)朝鮮の役」で、鍋島様に属して従軍しています。
深堀一族の航海知識が役だったのでしょう。
純賢は「鍋島姓」を与えられ、深堀から鍋島に改めます^-^
そして鍋島家の重臣・石井安房守信忠の妻を後妻(大宝院)とし、男子がいなかった純賢は、後妻の連れ子茂賢を養子として家督を継がせました。
系図・深堀2
また真横・・・容量のせいなのか?il||li _| ̄|○ il||l

純賢自身が養子だったので、こういう思い切った事が逆に出来たんだと思います。
養子にした茂賢はママン大宝院再婚時で既に二十歳前後、てことはママンの年齢は推定でアラフォー。
だから再婚は子作りの為でなく、茂賢を養子に迎い入れる為に、その生母ごと引き受けたんだと思います。

この石井家次男家当主未亡人というのが、実は鍋島直茂の正室・彦鶴姫の姪なんです。
(彦鶴姫の実家は、石井一族長男家)
茂賢の実兄は一時は鍋島家の跡取り候補だったほど優秀で、弟の茂賢も優れた若者として将来を嘱望された人材でした。
この政治色の濃い養子縁組が、深堀鍋島氏6000石、佐賀藩家老職の地位を不動のものにしました。

養子となった茂賢(旧姓石井)は「文禄・慶長の役」で、既に養父純賢の陣代として深堀勢を率いており、
関ヶ原の戦い後の「江上・八院合戦」では、実兄・茂里ともに先鋒をつとめてます。
鍋島の先鋒は、立花勢にメチャクチャ崩されて・・・(._+ )☆\(-.-メ)ソレハ禁句!

ゲフゴホ・・えっと「江上・八院合戦」で武勲があり、鍋島直茂・勝茂父子の信任も厚かった。
養子・茂賢は大坂の夏冬両陣にも一軍率いて参加、島原の乱でも抜群の功績があったと言われてます。
人柄優れ家臣にも慕われ、養子ながら茂賢の死去には殉死者18名が出てます。

深堀純賢は「佐賀藩特有・大人の事情」が複雑に絡む中で、最も核心を突いた石井一門という閨閥の中に入りました。その中でも実力人格ALL備わった、まさに珠のような茂賢を養子にすることで、深堀本貫地を無事に江戸期へと引き継ぐ事に成功しました。

弟が生き残りに成功する一方で、深堀の兄である西郷は違う道を選択したのだが、それは・またの話 by^-^sio
リサーチ6武家目は西郷氏(=^・ω・^=)v ブイ

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【佐賀藩家老・深堀氏、弐】西肥前強化期間・リサーチ5武家目

リサーチを続けていたら西肥前の史料が少ない理由が見えてきました。
北肥戦誌に記述が少ないもの無理ないです。元から無ければ編纂のしようが無い。

領内の神社仏閣を破壊(文書類もアボン)した某キリシタン大名家や、
意図的に80年分の文書を全て燃やした某家などの影響もあったでしょう。
本貫地から動いた事が無いにも関わらず、深堀氏の動向が六十余年不明になります(_´Д`)アイーン

年代で言うと1433年(室町中期)~戦国初期の明応年間初めくらいまでです。
キナ臭くなってくる面白い時期なのに・・・il||li _| ̄|○ il||l
そして再び記録に出るのが、深堀貴時の代です。

前段階がスコーーンとないので推測なんですが、深堀貴時は有馬氏の被官になったようです。
貴時の「貴」は、有馬貴純からの偏諱と思われます。

1494年(明応3)深堀貴時は、有馬貴純から藤津郡白石長島荘の名代職を命じられます
藤津郡白石長島荘の場所が特定できなかったです。
武雄が長島荘と呼ばれてたから、そのあたりかも?
となると、深堀の本貫地から少し離れてるんだよな~ヽ(。_゜)ノ ワカラン

それはさておき、戦国深堀氏が領内での支配権を固める上で、有馬氏から役目を預かった事実は、領内豪族たちへのアピールとして、大いに役立ったと思います。
そういう意味で、深堀6000石の土台を作ったのは、この深堀貴時でしょう。

では有馬氏との主君~被官関係が良好だったのか?と言うと違ったみたいでつ( ̄ko ̄)
深堀氏は有馬と距離を置き始め、戦国後期は完全に敵対関係でした。
その理由も推測なんですが、おそらく大村氏が台頭したせいだと思います。

大村氏は有馬家から嫁を迎え、次には養子(純忠)を迎え、有馬=大村に近い状態でした。
(後年は有馬氏も深堀が大嫌いなキリシタンになってます)
深堀氏は大村氏に対抗する為に、西郷氏と接近します。

系図・深堀1
why!何故真横なの? Σ(´Д`;)

ゲフゴホ・・・1523年(大永3)貴時の孫・善時は、西郷尚善の「善」の偏諱を受けて元服しました
この頃は中国のドン・大内氏が全盛期。
深堀善時は、大内義隆に太刀・馬・銭を贈り、義隆から太刀を答礼に貰ったそうです^^b
善時には男子がおらず真法姫一人。
そこで姫のまた従兄弟にあたる直時と娶せ、婿養子として直時に家督を継がせました。

ところが直時は舅・善時が死ぬと、有馬サイド寄りの態度をとり、深堀氏の対外政策に逆らった。
その為に一族達が、o( ̄Д ̄θ★ケリッ! っと、当主である直時を深堀家から追放しちゃったんです。
追放された直時子孫が、某家に仕えた~~~
って何処かで見かけたんですが、某家を控え損ねた上にサイトも見失った,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ヤッチマッタ
とにかく、この婿養子追放で深堀氏嫡流の血統は絶えた事になるでしょう。

深堀一族は、西郷純久の子・純賢を当主に迎えました。
この深堀純賢が、一番難しい時期の舵とり&政治判断を誤らず、本貫地を守り抜く事に成功するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【佐賀藩家老・深堀氏、壱】西肥前強化期間・リサーチ5武家目

長崎氏の紹介で深堀氏がポルトガル商船に対し海賊行為(嫌がらせ&実益)を行ってたと書きました。
実は海賊「行為」~って、いうより、ぶっちゃけ深堀氏は海賊(←本職)で名を馳せてまして・・・^^;
豊臣秀吉の海賊禁止令に引っかかって、一度は改易(天正16年)になったらしい。
(改易になったのか、ピンチをギリ回避したのか、ちょっと確定出来なかった・汗)

その深堀氏の本貫地~現在の深堀町は、長崎氏の桜馬場城より10km以上南にありました。
本城は俵石城(別名:深堀城)で、現在の長崎市深堀町(城山)のあたりにあります。
俵石城の廃城時期は、ざっと検索した現段階では不明。
いずれにせよ「秀吉の九州仕置き以降~江戸初期・一国一城令公布」の間でしょう。

佐賀藩家老として系譜を残した深堀氏は、長崎氏と違い本貫地を動く事なく明治を迎えます。
江戸期は深堀陣屋(深堀町5丁目)を構え、拝領された「鍋島姓」を名乗ってましたが、地元からは「深堀の殿様」と呼ばれていたそうですよ(*´pq`)



深堀氏のルーツは桓武平氏三浦氏流・・・つまり本姓が平氏で三浦氏の子孫。
ちょっと系図となると曖昧な部分があるんですが、少なくとも三浦一族だっただろうと言われています。
深堀姓の由来は上総伊南荘深堀に住んだ事から「深堀姓」を名乗ったそうです。

深堀氏が肥前に所縁を持つようになったのは、承久の乱(1221年)。
幕府サイドで戦った際の恩賞として・・・・貰ったのは筑後の土地ヽ(。_゜)ノ アレレ?
場所が気に入らなかったのか、深堀氏の方から幕府へ換地を申し出て、肥前に変更になったそうです。

一般的に国人領主が姓を名乗る場合、在住した土地名を名乗る方が多いかな?
「肥前の深堀」は、逆パターン。
元は違う地名だったのが、深堀氏が土着する事によって「深堀」へと地名の方が変更になったそうです。

なんとなく家風としてキャラが濃そうな深堀氏は、相続法も変則でした。
何故か嫡男ではなく、嫡孫に相続させてたらしい ( ゚д゚)ンマッ!!
そうなると嫡孫は若年で惣領になるわけですから、ジジ・パパが後見してたとしても、相続で係争が起きちゃいます。
ちなみに鎌倉時代は女子にも相続権が認められてたので、余計に揉めたんじゃないでしょうか。

そのため鎌倉末期頃には総領制が崩れてしまい、それぞれ一族が独自の判断で行動してた。
「建武の新政」での軍勢催促は、深堀氏総領家だけでなく庶家にもバラバラに届いてたそうです。
まぁ、この辺は深堀氏に始まった事ではないでしょう。
島津も分家と宗家は、それぞれの政治判断で別行動だったりしてますからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
でも島津より深堀の方が、いち早く崩れたぞ てか?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

途中経過、すっとばして戦国初期。
深堀氏当主で頭角を現すのが、深堀貴時。
時は明応年間。ちょうど有馬氏が勢力拡大し始めた頃なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【河川から見た水ヶ江城・後編】

国人領主が被官から自立した勢力に成長(戦国大名化)するには、「津(港)」が必要というのは、あくまでも肥前の場合です。
例えば甲斐国のような山国では適用しないと思います。

肥前における物資流通で河川を使った舟便は欠かせません。
何故なら、満干潮による河川逆流現象で浸水被害が必ずあるため「安定した陸の輸送」が困難だったからです。
逆を言うと肥前において一定の勢力がある国人領主は、物資流通の要である河川港か河口港を何らか形で保持してたんじゃないでしょうか。

龍造寺初期台頭時代は、位置的に八田江川流域にあった八田橋の津を利用してたと推測出来ます。
剛忠(家兼)の代で勢力拡大し、少弐氏が開港した今宿・今津・相応津は龍造寺が支配下に治めた・・・と思う。
思う~~になるのは、剛忠(家兼)が兵馬を用いず政略結婚などで「周囲の豪族を手なずける」という長いスパンをかけたからです。

剛忠(家兼)という人物は、とても強かで、凄く慎重で、相当に用心深い。
自分の調べた範囲ですが、剛忠(家兼)の方から大内氏に接触した事はないでしょう。
(和睦の仲介を「大内の方から」頼まれた事はある)
でも少弐の資産だった今宿・今津・相応津(周辺領地含む)を支配下に治める行為は、
龍造寺が「主君に対する重大な裏切り」を働いた証です。
剛忠(家兼)も、それを判ってるから少弐に気付かれないように、ゆっくり、じんわりと勢力を広げてた。
勢力拡大の分岐点は、鍋島様の赤熊武者が活躍し龍造寺の武勇を肥前中に轟かせた「田手畷の戦い」です。

相応津・今津を支配したのは、肥前石井氏が龍造寺家臣になった頃(田手畷合戦以降)になると思います。
剛忠(家兼)は肥前石井氏に海岸警固を命じてます。
当然、警固対象には河口港である今津と相応津が含まれます。
何故なら肥前石井氏の飯盛城は、今津と相応津の中間地点に位置してるからです。

今宿が龍造寺勢力圏に入ったのは、シオ推測で1536年の少弐資元自害以降。
この時に蓮池城の肥前小田氏が「御父上(資元)が自害になったのは、龍造寺が裏切ったから」と、少弐冬尚に讒言してるからです。

佐賀江川流域が勢力圏だった肥前小田氏にとっても、今宿は喉から手が出るほど欲しかった河川港だったはず。
ショートカット工事前の佐賀江川は、物凄く蛇行してて浸水被害も広範囲。
戦国期は大きな津を作るほどの治水土木技術が未だ追いついてません。
治水の神と称えられた成富茂安ですら「佐賀江川の蛇行には手をつけるな」と遺言してたほどです^^;
従って肥前小田氏は、佐賀江川と八田江川の分岐点である河川港・今宿に、物資流通ライフラインを依存してたでしょう。
今宿には商人たちが移り住み後世の繁栄を予測させる商業圏が育ちつつありました。
運上金とかの利権が絡んできまつよね・・・( ̄ko ̄)
肥前小田氏と龍造寺は、今宿の支配を巡るライバルだったと思います。

その肥前小田が龍造寺を讒言するって事は、今宿が龍造寺勢力圏に入って、経済的に肥前小田を脅かす危機が高まったからじゃないでしょうか。
少弐資元自害で少弐がゴタゴタ混乱してる頃なら、龍造寺が今宿をゲットする絶好のチャンスですよね(^ -)---☆Wink

神埼に拠点を移した少弐氏は佐嘉郡に目が行き届かなくなり、龍造寺の勢力拡大に対する認識が遅れたと思います。気づいていても大内へ対抗する為には「龍造寺の武勇」が必要で、切り捨てる事が出来ませんでした。
ジレンマの果てに我慢の限界に達し、馬場頼周立案「龍造寺抹殺計画」が遂行されます。


さて、
剛忠(家兼)がリフォームした水ヶ江城は、クリークを利用しており5つあった館(曲輪)は、それぞれ独立してたそうです。
その為、5館全部を合わせた広さは30町(約3.3km)という広大さでした。( ゚д゚)ンマッ!!

無数にあるクリーク。広大な場所にある独立した各館。
火縄銃・大砲のない時代なら充分に「攻めづらい城」です。

少弐氏が剛忠(家兼)を裏切り水ヶ江城を囲んだ時に、万単位の兵力を揃えたのは数の盛りじゃないでしょう。
この広さなら、そのくらい要ります~本館だけ囲むって都合良くいかないですもん~( ̄ω ̄A;アセアセ
それを思うと、少弐が有馬と組んだのも、万単位の軍勢が必要だったからだったのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

いや~面白かった~
地形と城って密接な関係があるんですが、肥前は独特ですね。
パッと見は無防備そうに見える平城でも、戦国当時は城周囲がクリークや湿地帯で守られてて、敵が簡単に攻略できないように工夫されてるんです。

これは干拓・灌漑・護岸工事が終わった平成現代の地図からでは、イメージ出来ません。
戦国時代の海岸線・河川蛇行・逆流現象浸水被害の範囲・クリークの有無が予備知識として必要になります。
もちろん周辺にある山の標高とかも必要なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
地理嫌いだったので初めは大変でしたが、今は楽しく地形を調べてます^^
西肥前の河川も順次リサーチ中ですので、そのあたりも愉しんで頂けるように精進したいと思います。

末筆ですが、ブロ友様へ~水ヶ江城をリサーチするヒントをありがとうございました。
この場を借りて御礼申し上げますm(__)m

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【河川から見た水ヶ江城・中篇】

また構想拡大,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

水ヶ江城、村中城、与賀城。
この三城に最も近い河川は八田江川です。

基本として佐賀県の河川は、有明海の満干潮によって逆流現象があり、周囲は浸水被害が必ず起きます。
むろん現在では河川工事によって改善されてます^^b

河川工事前の八田江川の逆流現象による浸水被害は、八田橋まで及んでいたそうです。
水ヶ江城・本館があった乾亨院(佐賀市中の館町7-11)から6~800mほどしか離れてません。
ちなみに乾亨院も剛忠(家兼)所縁の開基^^/

戦国時代の海岸線は今より内陸に引っ込んでるので、浸水被害も八田橋より更に北に及んでた可能性があります。
とうぜん周囲には逆流現象対策として、逃げ水用のクリークがあったはずです。
江戸期以前なら未だ人工的なものでなく、元からあった自然クリークを利用してたんじゃないでしょうか。

「満干潮時による浸水被害が必ずある土地」そこは地盤が軟らかく宅地に不向きな泥土です。
干拓が進んだ江戸期においても八田江川流域では、泥土を取り除く作業が定期的にありました。
従って八田江川から一定の距離を置かないと築城が困難だったんです。

もう一つ大事なのは与賀神社(与賀庄鎮守宮)の存在です。
まず前提として理屈抜きで「城と神社」は、建築物としてSETと考えて下さい。

賃貸物件で言うなら、風呂はなくとも居間とキッチンが必ずあるようなもので、切り離せません。
大きな城になると城内に神社があるくらいなんです^-^
城の側に神社があるんじゃない。神社の側に城があるんだ。(by踊るアレ風)って感じで^^
与賀神社のように権威ある神社があれば、その神社近くに城や館が集中します。

更に一つ。
浸水被害があるのを判ってて、ギリ傍に築城する理由。
実は八田江川の八田橋付近に「津=港」があったそうなんです( ゚д゚)ンマッ!!

いや~これは盲点でした。現在、地名として残ってないため気づかなかったです。
起点(河川港・河口港)近くには城がある~~というシオ持論にも合致します(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
龍造寺は自前の船があったんじゃないか~というシオ推論の傍証にもなります(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

1478年~1482年にかけて、少弐氏を一時的再興した少弐政資が、河川港・今宿と河口港・今津、相応津を開港します。
今津と相応津は本庄江川の河口(戦国当時)港です。
今宿が佐賀江川と八田江川の分岐点にあり、八田江川の八田橋より数百メートル上流になります。

中でも今宿という土地に着眼して河川港を作るとは、流石は少弐氏(`・ω・´)キリッ
二つの河川の分岐点たる土地は、河川港としては最高の立地なんです。
名門武家・武藤少弐氏として、長年に亘り蓄積された知識スペックの高さを感じます。

では今宿が出来たら、龍造寺は物資流通ライフラインは今宿に依存したのでしょうか?
それは有り得ない!
少弐支配下の今宿に物資流通を依存したら、龍造寺は少弐に逆らえない。
龍造寺が自立した勢力になるためには、自前の津(ライフライン)が絶対に必要です。
ましてや八田江川流域は鍋島様本貫地付近でもあるんです。何も残ってないはずない。

八田橋付近の津・・・津・・・地名が変化した?どうやって探す?
今宿じゃない・・・宿・・・・・・宿場町!( ゚д゚)ハッ
廃れたんじゃなく江戸期も繁華なら宿場町になってるはず。
八田「津」じゃない!八田「宿」でアレコレ検索・・・・・キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

「さがの文化・お宝帳」より「八田宿~(佐嘉)城下より犬井道・早津江へ行く街道に面して(以下略」
やっぱり江戸期もライフラインとして機能してる。八田橋まで貨物船が来て物資を陸揚げしてました。
街道に面してた土地が八田宿として栄えたんです。

がっ、~ダメだ!平成ぐ~ぐる犬井道は、戦国時代だと有明海にザブンil||li _| ̄|○ il||l
地名じゃ辿れない~~~~建築物!
最低でも江戸初期からあって、大事にされてて、簡単に引っ越ししない・・・神社だ!
八田宿にあった神社・・・・八坂神社・・ダメ!名称がメジャーすぎて大量HITする。
こっち!粟嶋(あわじま)神社・・・佐賀市北川副町大字新郷・・・キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ~八田橋とも400m弱しか離れてない。ここだ!

北川副町大字新郷周辺が、江戸時代の八田宿にして、戦国初期龍造寺の台頭を支えた津(港)ライフラインです。
盛り上がったところで、火曜日は記事更新休みDAYなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【河川から見た水ヶ江城・前篇】

流れをぶった切り~~ちょっと西肥前続きで脳疲労~~
鍋島の殿がおられる東肥前が猛烈に恋しくなりました(爆

先日、ブログ友様とコメントの遣り取りの中で水ヶ江城の話になりました。
地理が苦手なシオです。初期連載時は地形リサーチを後回ししてた~ヤベー( ̄ω ̄A;アセアセ
せっかくヒントを頂いたので、サボってた水ヶ江城について(忘れない内に)記事にします^^




現在は水ヶ江は地名になってますが、築城前は槇村と呼ばれていました。
ブロ友様提供の二次史料『戦国大名閨閥事典』によると
「康家は延徳3年(1491)頃、槇村に別館を造り水ヶ江館と称し、
永正2年(1505)には新館を加え、末子家兼と共にこの地に隠居して、龍造寺中興の基礎をつくった。」

剛忠(家兼)パパン・康家は生没年が不明な為、剛忠(家兼)が水ヶ江を遺産として継承した正確な年度は不明です。
どうやら家和(康家次男)相続時だけでなく、1505年までは存命だったみたい。
剛忠(家兼)の長命・子沢山は、パパン康家DNA譲りの生命力ですね(^ -)---☆Wink

館だった水ヶ江を城へとビフォーアフターしたのが、剛忠(家兼)です。
西館の二館と中館・東館・本館の五館に分かれ、本館位置は現在の乾亨院(佐賀市中の館町7-11)。


まずゴメンナサイ・゜・(PД`q。)・゜・
水ヶ江城周辺の地形を調べるのをサボってたんで城周囲は「単なる平坦な地」だと勘違いしてました(´;ω;`)ウッ
今後は重々気を付けますm(__)m

再びブロ友様提供、『史伝 鍋島直茂 「葉隠」の名将』(中西豪著 )より抜粋
前略 「水」は竜の連想、「江」は方言の「え」、家の謂(い)いであり、
水ガ江とは「竜の家」ほどの意味を持たせたものである。


なるほど~と思いました。
確か中西先生は地元の郷土史研究されてる方ですので、方言解釈は異論のないところだと思います。
龍造寺家は史料の中で、簡略に「龍家」と書かれてる事が結構あります。
それと掛けてるのもありそうだな~と^^

に対してブロ友様は、「水路の入り江の城~クリークを意識して付けられた呼称じゃないでしょうか」
と御意見を頂き、そういえば・・・と地形・河川調べたらブロ友様ビンゴです。

水ヶ江城もクリークを利用して築城された城でした。

龍造寺の村中城、水ヶ江城、少弐氏の与賀城。
半径数百m以内に3つの城が集中したのは何故なのか?
それは自分の中で長い間の宿題でした。

保留にしたまま先へ先へと進んでたのですが、ちょっと答えらしきものが見えて来たので、
リサーチ期間の今のうちにまとめておきたいと思います。

結論から言うと、村中城、水ヶ江城、与賀城も、築城は地形的にココでなければならなかったのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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【長崎市の長崎氏・終幕】西肥前強化月間・リサーチ4武家目

系図・長崎氏専用簡略版

南蛮貿易への関心がイマイチだった(らしい?)龍造寺隆信ですが、そもそも大村純忠が先回りして権利関係を線引きし明確にした為に、長崎に手が出せなかったのもあるようです。
キリシタンは爆発的な勢いで信者を増やしていたので、下手にゴリ押しすれば一揆になりかねません。
その為に深入りするのを諦めたか、後からの宿題として保留にしたんじゃないでしょうか。

「是が最善」と大村が決断したイエズス会への寄進は、結果として宣教師追放へと繋がりました。
新たな天下人となった豊臣秀吉は、清貧を旨とする宣教師たちの姿は布教のポーズで、実は領土的野心があるのではないか?と疑念を抱いたんです。
ポルトガル交易が布教とセットだったのも印象を悪くしたでしょう。
秀吉は宣教師を危険分子と判断しました。

秀吉は江戸幕府と違い、個々のキリシタン達の信仰心に対しては比較的寛大だったようです。
宣教師追放後も、領内にいるキリシタンを見て見ぬフリをする大名は少なくありませんでした。

家紋・豊臣 豊臣家紋ロゴ

てことで、秀吉の豊臣政権時代~江戸初期へと時代が飛びます。
貿易港である長崎は、公領(幕府の直轄地)となりました。
で、当時の代官の献言で長崎は内町と外町に区分けされ、外町側の長崎純景は領地没収 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
外町側は大村領に換地されちゃったんです(´;ω;`)ウッ

これは時代の流れとして仕方ない面があります。( ̄ω ̄A;アセアセ
長崎のように利権が集中する土地で、鎌倉以来という地生えの領主を、そのまま置いてはおけません。
九鬼さんが海から離されたように、長崎氏も長崎の地に留まるのを許されなかったのでしょう。

既に純忠は鬼籍に入り、純景にとっては義兄にあたる大村喜前の代でした。
義弟を気の毒に思った大村喜前は700石を割いて(大村藩は2万8千石)「縁戚の誼です~うちへ来ませんか?(´・д・`)」と申し出た。
長崎純景は、苦労は一緒だったのに交易に関してはイイとこ取りした亡き舅・大村純忠に対し、相当モヤモヤしてたらしい( ̄ω ̄A;アセアセ

実弟だけを大村藩に残し、自分は700石の話をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
放浪後に筑後の田中吉政に仕えたのだが、田中家は男子が絶えて呆気なく断絶。
やむなく大村へ戻り、100石で大村家に仕える身となった。・゜・(つД`。)・゜・
実は長崎純景には子供がおらず、実弟・重方が家督を継ぎ、系譜は大村家臣として残った。

最初に誘われた時に大村へ行けば、藩主準親類格だったかもなのに~~とか言っちゃ(´・д・`)ダメ
南蛮交易という、虹の煌きを見てしまった長崎純景にしてみれば、何もかもが・・・(´;ω;`)ウッ

天然の良港・・シオ風に言うと起点に位置していた長崎は、その利権が余りにも大きすぎました。
その大きさは、文物・知識が商人や有識者らの手によって天下に遍く伝わるもので、一国人領主の手に負えるものではなかったんです。

器にあらざる・・・と言ってしまうには、あまりにもやるせなく、そのくせ何もかもが既に済んだ事で誰を恨む事も出来ない。
長崎純景晩年の長崎は、おそらく開発が更に進み町割りが変化しゆく真っ最中だったはずです。
(江戸初期に6ヶ町は10ヶ町に増えてます)
変化しゆく長崎の様子を、大村で純景がどんな気持ちで聞いていたのだろうかと思うと、こちらまで切なくなってきます(´;ω;`)ウッ
現在の長崎市には長崎氏関連の史跡は少なく、地名や宣教師たちの足跡から微かに覗き見るばかりです。

さて、次は長崎と長崎氏を何度も攻撃した深堀氏なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【長崎市の長崎氏・参】西肥前強化期間・リサーチ4武家目

系図・長崎氏専用簡略版

龍造寺からの圧迫に大村純忠は一つの決断をした。
それは貿易港・長崎そのものをイエズス会に寄進すること

・・・う~ん、やっぱり理解できないなぁ。
大村純忠が「寄付する」と、何故決断できたのか?独断?合意?(誰と?)
6ヶ町の権利関係・所有権が、どうなってたかサッパリ判らんちん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

イエズス会は知行地の寄進を受けるのを禁じられてたそうです。
その為、申し出を受けた宣教師は一年間(も)悩んだそうですが、
保護者である大村本人が「うち龍造寺に降伏するんです!先の保証が出来ない件~」という緊急事態。

1580年、イエズス会宣教師ヴァリニャーノは、貿易港・長崎の寄進を受けた
余談だが、日本における煙草の栽培は、長崎純景の桜馬場城下に住んでいた宣教師たちが、庭に苗を植えた事から広まった~という話があります。
タバコは戦国当時は「薬」という認定だったのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

てことで桜馬場城下にいた宣教師たちが、1kmちょっち離れた6ヶ町に引っ越したのか?
となると、やっぱり判らないシオなのだ( ̄ω ̄A;アセアセ
後に長崎は内町と外町に区割りされたので、宣教師ら外国人居留エリアが内町だった・・・かも?(汗
長崎とキリシタンの歴史が濃すぎて、ニワカ知識では深いところまでは調べきれません(´;ω;`)ウッ

というのも宣教師ヴァリニャーノが複雑な事をしたんです( ̄ω ̄A;アセアセ
知行地は受け取れない、でも緊急事態って事で、相談した結果の折衷案~~~~

イエズス会:長崎の支配権と徴税権、貿易船からは碇泊料
大村家:長崎の司法権は大村家の役人が担当、貿易船からの貿易税は大村純忠の取り分


人物・大村純忠 大村純忠イメージ画像

大村純忠が「長崎をイエズス会に寄進した」というのは、この時の事を指します。
先ほど、内町・外町の話をチラっとしました。
長崎を本貫地とする長崎純景の領地は、この外町側です。
つまり、外町側の長崎純景は貿易港・長崎の利権に関し、何の恩恵も無かったという事です

これは誰が見ても釈然としない~~~~~モヤモヤします。
舅である大村純忠は、宣教師たちの危難を救う大檀那として感謝され、さらに利権の一部も手にした。
婿である長崎純景は、長崎が本貫地の国人であるにも関わらず、貿易港長崎の繁栄を指を咥えて眺めるだけなんです!!

無論、この利権の配分には相手があることなので、大村だけの意向ではないでしょう。
清貧に徹する宣教師は、過度な報酬を得るのを修行の妨げと思ってたはずですから。
長崎純景も状況として、止むを得ないのは理屈・理性では判ってたのだと思います。

でもモヤモヤするんです!
この時のシコリが、後年の長崎純景の運命を決めるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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