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考察2★中世後期における国人領主と地方寺社ー肥前千葉氏と「公権」の構造ー宮島敬一著

河上社と肥前千葉氏に注目する人なら、絶対に浮かぶ疑問があります

肥前千葉氏が西と東に分裂した時に、河上社大宮司職はドッチだったの?です


これはシオレベルでは、何としても判らなかったんです。
手持ちの北肥戦誌データ、各種WEBサイトでも、そこまで踏み込んだものは無かった。
これはもう完全に研究者の論文待ちの世界。(宮島先生の別稿って発表済かな?)

で、二次史料、三次史料に垣間見える部分から、無理矢理に推測するに・・・
河上社大宮司職は東千葉氏だったんじゃなかろうか・・・です。

肥前千葉氏嫡家は西千葉氏なんですが、東千葉初代・興常に敗れちゃって、本城である牛頭山城を東千葉氏に奪われちゃってるからです。
または大宮司職は空位。
河上社のトップである座主が、東にも西にも「いい顔」してた可能性も否定できない^^;

んで河上社が有してた国衙(こくが=政庁)機能ですが、おそらく戦国まっさかりでは機能不全状態だったと思います。
何度も戦火にあって、社殿も壊されちゃてるのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

自分が国衙(政庁)が機能不全と推論した根拠は、蓮華院住持・増純の存在です
蓮華院住持・増純・・・後に実相院座主となって実相院を中興させた実力者
その増純は、肥前千葉氏宿老・円城寺氏の一族です。
円城寺家では徳善院と蓮華院と二つの寺院へ、一族から住持を歴代輩出してました。
ちなみに龍造寺四天王・円城寺信胤は、この円城寺庶流なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

んで、増純は河上社の荒廃を嘆いて、復興運動を始めてます。
考察1で話したように、河上社の維持経費は本来は公共事業みたいなもんだから、それが機能してたら雨漏りすら放置なって有り得ない話なんです。

増純さんの苦労バナは記事にしてるんで割愛、機能復活は龍造寺隆信が安堵状を発給するようになった以降でしょう。
当然、河上社の支配機構ネットワークは龍造寺のモノ。
龍造寺の家臣となった西千葉氏当主・胤連が、河上社大宮司になってるのだけは確認とれました。
(参照:大和町史、元出典:実相寺文書)

んで、またまた個人的推測なんですが、機能も建物もボロボロだった河上社は、山内豪族頭領だった神代勝利公の保護下にあった・・・ぽいんです

人物・くましろん~神代勝利公イメージ画像

これは北肥戦誌と三瀬村史をガン見して比較して出した推論で、一次史料による考証は素人なんで勘弁^^;

まず最盛期の神代勝利公エリアには、河上社(大和町)がスッポリ入ってます。
龍造寺隆信VS神代勝利公の川上合戦では、動員の段階で神代勢が不利でしたが、河上社は神代本陣に神域を提供してます(もしくは勝手に使っててもノンクレーム)
神代勝利公が亡命先から山内に復活した際にも、河上社の社人が逸早く差し入れしてます。

まぁ、ここまでは推論にするには弱すぎる根拠ですが、
自分が判断の決定的な決め手にしたのは河上社の西門寄進(1573年)です
出典は上記の(参照:大和町史、元出典:実相寺文書)

寄進の棟木(写)によると、
座 主:省略
大宮司:千葉胤連
願 主:蓮華院住持増純
大檀那:龍造寺政家、神代長良


神代長良は、神代勝利公の嫡男です。
大檀那ってことは今で言う所のスポンサーで、お金は龍造寺家と神代家が出しましたよ~って事です。
この頃の神代家は、まだ佐賀藩親類になる前。
長年敵対してたから和睦の証とかにしても、神代家が河上社に何らかの所縁があるからの寄進のはずです。

自分は、神代勝利公・長良公親子は、タイミングと諸要因が上手く行ってれば「戦国大名」になれる可能性を秘めてたと推測してました。

その推測の中の一つが三瀬村史(ベースは神代家伝記)には書かれていない「神代家と河上社の所縁」です。
神代家は筑後国一宮・高良大社に仕えてた武家でしたし、当時の人間ですから河上社の国衙機能に気付いてないはずありません。

てかシオの推測が事実なら、神代家側では絶対に記録として残せません^^;
何か企んでたっぽく解釈されたらアウトですもん^^;




ということで、シオが自分の推論の正否を確かめるためには、
一次史料というアルプスかエベレスト級の、高ぁ~いハードルが聳え立ってます(´;ω;`)ウッ
何しろ道産子ですから、入手事態が困難です(´;ω;`)ウッ
あっても専門書なんで高額・・・il||li _| ̄|○ il||l

いや・・・それ以前に問題なのは、古文書の読解力ゼロってところです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
どんな高額専門書をゲッツしたところで、今のシオには宝の持ち腐れになりかねません。
下手すりゃ解釈ミスって、あらぬ方向に迷っちゃいます。

そういう訳で、シオはもっともっと研鑚して、基礎知識の底上げしなきゃなんです。
てことで今回入手した古文書学入門書で精進します(-人-)☆彡
以上、感想と考察と決意?でした^-^
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考察1★中世後期における国人領主と地方寺社ー肥前千葉氏と「公権」の構造ー宮島敬一著

で、論文を読んだ上での自分の推論・考察です。

渋川氏が探題職として影が薄く、最終的に没落滅亡しちゃうのは、少弐VS大内に巻き込まれたのが一番の理由だと思います。

更に、探題なのに小城郡・佐嘉郡に食い込めなかったのは、やっぱり河上社が保持する支配機構を肥前千葉氏に握られてたのが、大きく影響してたと思います。

というのも、河上社の権威の根拠は肥前国一宮というだけでなく、国衙(こくが=政庁)機能を有していたからです
従って河上社の造営・補修・神事の全ては、現代でいう所の県指定公共事情(入札なし指名業者)。
(政教分離的発言は不可、そういう時代なんです)

九州探題だった今川了俊は、河上社の持つ国衙機能を通じて肥前国人衆に領地安堵して、領国支配してました。
今川了俊ら駿河衆帰国後に、河上社・大宮司として、それらを引き継いだのが肥前千葉氏です。

河上社・大宮司として、河上社の国衙(政庁)役人だった肥前国人衆は、そのまま肥前千葉氏家臣団へと組み入れられました。
(宮島先生の論文では代表例として於母氏、安徳氏、鎰尼氏に触れてます^-^)


さて肥前には河上社の他に、「もう一つの肥前国一宮」がありました
それが神埼荘(現:みやき町)にあった千栗(ちりく)八幡宮です

とうぜん河上社と千栗八幡宮は不仲です。
「どっちが真正・肥前国一宮か」って事で元和年間と寛永年間に訴訟沙汰になってます。

で、結論が・・・シオレベルじゃサッパリ判りません~~~~~il||li _| ̄|○ il||l
今回読んだ宮島先生の論文でも千栗八幡宮には触れてない^^;

具体的な事が全く判んなかったので、記事に盛り込みようがなくって、肥前千葉氏編でも龍造寺編でも全力でスルーしました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

ただ千栗八幡宮も、龍造寺や鍋島などに大事に保護されてるんです。
龍造寺と平戸・松浦氏と交わした起請文には「当国鎮守千栗八幡菩薩」と書かれてるくらい。(出典「龍造寺家文書」)
それだけに河上社と千栗八幡宮と、どっちの立ち位置が上だったのか~てのがサッパリ(@@)

で、判んないながらもボヤンと推測できる部分だけで言いますと、
河上社の支配構造ネットワークと、千栗八幡宮の支配ネットワークでの、対立があったみたいなんです
と、言いますのも千栗八幡宮は、宇佐八幡宮・別宮だからです

どちらも古くからある神社ですから、信仰の対象として人々から尊崇を集めていたのは言うまでもありません。
ですが領地とか権利関係の支配が絡んでくるとなると、信仰心とは別義でござる(`・ω・´)キリッ

河上社大宮司・肥前千葉氏を主君として仰いだ肥前国人衆は、
宇佐八幡宮からの支配を嫌い、水神信仰からくる土着の神と国衙(政庁)機能を支持した人々です。

神埼荘を本拠地とする渋川氏が勢力をつけるということは、同じく神埼荘にある宇佐八幡系・千栗八幡宮の影響力が広がるということになります。
河上社大宮司である肥前千葉氏が、探題・渋川氏と一線引くのは当然の事です。


オタ記事に付きあわせて、本当にすいません。
でも記事にしとかないと、自分でも整理つかないんです(-人-)スイマセン

ぶっちゃけ、自分でも此処まで詳しくなるつもりは無かったんです^^;
肥前戦国史(だけ)やるつもりで始めたのに、今じゃ中世史まで片足突っ込んでます^^;
でもって地形の変遷から歴史をリサーチすることにも片足(右か左かは知らんがな)突っ込んでます^^;

九州郷土史を調べる事は完全にライフワークになってます。
もはや趣味のレベルじゃないと、そろそろ(やっと?)自覚・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

で、河上社と肥前千葉氏に注目する人なら、絶対に浮かぶ疑問があります。
肥前千葉氏が西と東に分裂した時に、河上社大宮司職はドッチだったの?
てことなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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感想3★中世後期における国人領主と地方寺社ー肥前千葉氏と「公権」の構造ー宮島敬一著

基礎知識1)よく私たちが言う「神主」という職業はありません。正式には「神職」です
基礎知識2)「神職」の中に「宮司(ぐうじ)」があります。更に細かく階級あるけど省略^^
基礎知識3)寺社仏閣のトップを「座主(ざす)」と呼びます(宗派によっては違う呼称あり
基礎知識4)明治以前まで、日本では神仏習合(神道と仏教がマゼマゼ~

それでは上記・基礎編を踏まえた上で・・・

江戸期に権勢を誇った河上実相院の座主と肥前国一の宮河上社の座主は、兼務でした
従って、河上社の研究には、実相院文書チェックが必要で、逆に実相院の研究には河上文書チェックが必要になります。
もちろん宮島先生の論文には、参照文献として実相院文書があります。

で、個人的見解なんだけど、河上社の支配構造ネットワークには実相院も絡むんじゃないかな~と思うんです。
宮島先生の論文は河上社と千葉氏の関係のみに焦点を絞ってるんで、実相院に関しては安堵状関連にしか触れてないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

地味トリビア)徳川家康の正室・築山殿(今川義元姪)は、稀代の名将と謳われた今川了俊系譜の姫君でした^^b

家系図・肥前千葉系図・決定

さて鎌倉時代地頭だった肥前千葉氏は、国人衆たちに訴訟問題があると、当事者と共に政所に出向き裁定を仰いでいました。
南北朝争乱~室町期に入ると、鎌倉時代の体制は崩れるので、地頭の権能はアボン~~

ですが肥前千葉氏は河上社の大宮司職に就く事で、再び肥前国人衆との濃い繋がりが出来ます。
何故なら、一番偉いのは座主(基礎知識3)でも、実際に神事や祭事に関する実務を担い国人衆と遣り取りするのは大宮司だからです。
「大宮司」の地位がキーになるというのは、そういう事です。

東国御家人だった肥前千葉氏は河上社の大宮司になることで、完全に肥前へ土着することに成功しました^-^
シオが肥前に本腰入れて土着したのは五代目胤泰からだ~と繰り返し記事に書いてたのは、その為です。

一方、九州探題・今川了俊(兄)と肥前守護・今川仲秋(弟)は、駿河衆。
大内氏の支配も嫌がった肥前国人衆です。
他国者である今川兄弟から、肥前国一の宮・河上社の支配構造ネットワークを握られ、それを通じて支配される事に、モヤモヤしてたようです。

今川了俊・仲秋兄弟が駿河に帰還したことで、
大宮司とはいえ探題でも守護でもない肥前千葉氏が河上社の支配構造ネットワークを手にする事に肥前国衆からのクレームがないのは、
それが他国人から国衆へと、河上社の支配構造ネットワークを取り戻す事になるからです。

ただし、この時点では完全じゃない。
駿河衆は全員が帰還した訳でなく、肥前に土着した肥前今川家がいるからです。
肥前今川家は系図にあるように、5代目胤泰の孫・国秋が祖になり、肥前千葉氏の保護下にありました。

了俊と仲秋の系譜を引き継ぐ肥前今川家がある限り、河上社の支配構造ネットワークを全て引き継いだ事にはならない。
でも頼られてる以上は保護しなきゃならないのが、力ある領主の辛い所。

その力ある肥前千葉氏が最初の分裂ピンチを迎えたのが、7代目胤鎮の時。
大内氏が胤紹を担ぎ出し、家督を簒奪したんです。
西国のドンにぬかりはない。
胤紹は大内氏のバックアップで室町幕府から当主として公式に認められ8代目としてカウントされます。

既に記事にしてるので、経過すっとばして、とにかく胤鎮がリベンジで挙兵。
その7代目胤鎮VS8代目胤紹で、今川国治が胤紹サイドでした

まいがぁあああああああああ!!今川国治ネタを肥前千葉氏編に盛り込むの忘れてたぁぁ~
ちゃんとリサーチしてたんですぅううう
グーグルで今川国治を検索すると、シオの過去リサーチ記事がTOPに出てる件~(´;ω;`)ウッ

うぅっ、せっかく下調べしてたのに~~~自分のバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバk@★♪グギグ
宮島先生の論文を読むまで完全に忘れてたでつ ・゜・(つД`q。)・゜・
萌えと興奮と、ぐやじざで~、論文を初めて読んだ当日は2時間しか眠れんかった~~~
(こういう事があったんで、感想記事を書かなきゃと思った次第でして・・)

ゲホグホゴホ・・・スン(鼻水かみかみ)・・・この胤鎮リベンジ合戦で、今川国治は戦死し肥前今川家は一気に衰退。
千葉胤鎮は、河上社の支配構造ネットワークを完全掌握(=^・ω・^=)v ブイ
肥前千葉氏最盛期の当主となり、肥前国人衆から「肥前国主様m(__)m」と仰がれたのでした。
ちなみに肥前今川家が持永家として、肥前千葉家臣の列に入るのは11代目胤朝の代です^-^

前回書いた探題領・佐嘉郡の与賀と川副ですが、肥前今川領でした。
今川衰退と共に肥前千葉氏がゲット。
そこへ少弐氏が居座ったあげくに、一部(川副千町)を龍造寺剛忠(家兼)に与えたという流れ^^b

さて、論文の感想はここまでで、次は論文を読んだ上でシオ推測なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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感想2★中世後期における国人領主と地方寺社ー肥前千葉氏と「公権」の構造ー宮島敬一著

自分は歴史記事を書くためのリサーチは、年代をガンガン遡ります。
因果関係のキーとなる≪始まり≫を、どの時点にするか自分なりに推論を構築するためです。

それで経験的に感じた事は「戦国史を真に理解するには、中世史(室町期)の知識が必要になる」です。
さらに中世を真に理解するには、ほんとう~~は、鎌倉期の知識がいるわけで、キリねーよ!(涙目)
で、素人の脳みそではパンクするので、最低限として室町期で、何とか踏みとどまるわけです。
(でも一応、関連武家の鎌倉期はザックリとチェック入れます)
(ちなみに武雄の後藤は平安後期までマーキングが必要だった(´;ω;`)ウッ←声にならない)

さて、感想続く・・・内容に関してはシオ流に超意訳してます(爆




河上社が気になる気になる・・・だってだって♪だってだって♪「肥前国一の宮」なんだもん♪

古(いにしえ)より日本国において、一年の計は神事に始まり神事に終わる
権威ある神社の神事においては、敵も味方もなくHKB(肥前・国衆・ベスト)メンバーが勢ぞろい~
室町期、有馬も龍造寺も河上社の神事の為なら、ご一緒に~レッツ流鏑馬(`・ω・´)キリッ

てことで、権威ある神社の支配構造ネットワークを、そっくり頂いちゃった方が、
「近隣の領地に侵攻して切り取る」てな地道な労力を使うより、遥かに大きく勢力を広げる事が可能になる。
それほど神社(仏閣も含む)というのは、武家から領民、全ての生活に密着してたんです。

自分が肥前戦国史の記事で、肥前千葉氏が川上社の大宮司だった~~って事に注目して書いてたのは、
河上社の支配構造ネットワークが、肥前千葉氏の手中にあった事を意味してたからなんです。
素人の自分では、だろうな~って推測しか出来なかったのを、宮島先生は史料を元に検証されてるわけです。^^

注目しなければならいないのは、千葉氏の安堵したのが「当知行」だと言う点です。
本来の知行(領地)安堵は、所有の証となる証文を持つ者に安堵されるべき・・・なのですが、
まぁ時代が下れば色々と乱れて来るのが世の常・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

過去の所有権ガン無視、今現在、知行(領地)に居座り・・ゲホゴホ
・・今現在の「占有者」に安堵される領地が「当知行」です。

経緯はともかく、本来の所有者がいたはずの土地を「いま占有してるんだから、お前のもので良いよ~」
と安堵してもらえるのだから、肥前千葉氏から安堵されは側にとって「御恩」であり、
「御恩」を受けた者は肥前千葉氏の被官(家臣)となる訳です。

で、ここで思い出さなければならないのは、肥前千葉氏は探題でも守護でもないって事です。
「知行」だろうが「当知行」だろうが、「安堵状」を発行する資格を有するのは、探題職か守護職なんです。

さらに言うと、河上社の神事や建物の造営・補修に関する事の命令権者も、探題職であり守護職なんです。
そこが、その辺の神社と一の宮と呼ばれる神社の差。
だから大宮司の地位をゲットしただけでは、河上社の支配構造ネットワーク全てをゲッツまでは出来ない。

肥前千葉氏は、命令権者だった九州探題・今川了俊と、その弟で肥前守護職だった今川仲秋が、肥前を離れ駿河へと帰還した時に、河上社に関する権能を引き継いだんです。
だから河上社・社領に関わる小城郡・佐嘉郡が、そのまま肥前千葉エリアへと染まっていったわけです。

で、またまた忘れちゃ(・A・)イクナイ!!
というのが九州探題職&肥前守護職は、今川了俊の後任に抜擢された渋川氏だって事なんです。

ところがですよ・・・肥前においては

肥前千葉氏>>>>>>>>超えられない壁>>>>>>>>九州探題で肥前守護の渋川氏

だったみたい^^;
渋川氏は最盛期の当主・教直ですら、活動範囲が三根郡・杵島郡・神埼郡のみ。
教直パパの満直にいたっては書状しかなくて、安堵状を発行したことがないんですって。。( ̄ko ̄)

ふ・・・腹筋が地味に揺れる・・・
陰が薄いとは思ってたけど・・・安堵状を一度も出した事ない探題職って、力なさすぎ(爆

もともと渋川氏では「探題職&守護職」には実力不足と危惧されてたんですが、
ここまで影が薄くなった一番の要因は、少弐VS大内の巻き添え食った事です。

宮島先生の論文で初めて知った事なんですが、
少弐氏が一時、本拠地としてた佐嘉郡の与賀と川副は、室町期は探題領だったんですって( ゚д゚)ンマッ!!

てことは、何かい?
少弐資元は、探題領だった土地(川副千町)を、龍造寺家兼ジーちゃんに与えちゃった事になるってか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

もっとも鎌倉時代だと与賀郷は少弐氏が地頭だったわけで、
少弐にしてみれば大内の庇護?保護を受けてる渋川氏を、九州探題&肥前守護とは毛筋ほども認めてなかったのだろう。

話戻って、肥前千葉氏が「河上社に関する権能を引き継いだ」のは、一足飛びにゲットしたのではなく、
完全に掌握するには数代要した。
でキーになのが、100年ほどしか歴史がないのでコア扱いの肥前今川家なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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感想【「肥前一宮」千栗八幡宮の歴史的変遷~太田順三】

肥前国には本来一つしかないはずの一宮が二つある。
與止日女神社(河上社)と千栗八幡宮の二つだ。
一宮争いをしていた両神社だが、未だ結論が出ていないのであろう。
全国一宮一覧では、シッカリ両方載ってます( ̄ω ̄A;アセアセ

論文は専門的な話やココ**論文参照ねってのが、チョコチョコあって参照論文未読のシオはポカーン。
(もっとも更に戦国から離れた専門的な論文になるので、読んでも判らない可能性大)
ま、とりあえず千栗八幡宮が川上社に圧倒された経緯は大体つかめたので、忘れない内に感想アップします^^




千栗八幡宮は創立は別にして鎌倉中期には、宇佐八幡宮の九州五所・別宮の一つだったことが「旧記雑録前編(島津史料)」に記載されているそうです。
で、平安期から鎌倉中期にかけて千栗八幡宮が「肥前国一宮」として存在してたことが窺える文書があるとのこと。

ところが1309年に宇佐宮と弥勒寺が大火により悉く灰塵に帰した事から、宇佐八幡宮の衰微が始まる。
で、その余波で宇佐八幡別宮だった千栗八幡宮も衰退。
代わって河上社が肥前国一宮の神号を唱え台頭し始めた。
・・・・って、それじゃ自称・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

一宮争いで決着がつかない理由で一番大きいのは、千栗八幡宮側に中世(室町~戦国まで)の文書がゴッソリないことです
ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
一番、肝心な時代がぁぁぁぁ!
あ、別段陰謀じゃないです。何度も戦火にあって焼失=消失したんです。 (゜-Å) ホロリ
戦火にあってるのは河上社も同じで、やっぱり中世の文書量が前後と比較するとガクンと減ってます。

そうだ、基本的な事なんだけど現代人はピンと来ないので書いときますね。
明治以前は神仏習合ですので、神社には別院としての寺院がセットで付随してました。
カードで言えば表が神社で、引っくり返すと寺院。だから座主が両方を兼務するのは普通^^b
河上社の別院が実相院。
千栗八幡宮の別院が妙覚院。
おそらく往時の千栗妙覚院では、河上実相院の「如法経会」に匹敵する仏事が盛大に催されてたはず・・
と論文に書いてるけど、シオもそう思うな~だってでないと不自然なんだもん^^

論文では薩摩国で起きた一宮争いを参照として紹介してるんだが、さっぱりワカラン,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
で、千栗八幡宮衰微の決定的要因として、肥前国が東大寺造営料国になった事をあげてるけど、
多分、金銭的な圧迫(相応負担)があったって事なんだろうけど、それが千栗八幡宮にとって何がどう大変なのか具体的な事が書いてないので是もイマイチワカラン(-ω-;)ウーン

とにかく河上社を一宮とすべくプッシュしたのは、河上社11代目座主・辮髪だったそうだ。
11代目座主は鎌倉北条得宗家の専制体制確立と元寇という国家の大事に便乗。
「異国征伐の軍神=河上社祭神」であると強調し、一宮にすべく神格を押し上げたわけです。

これには河上社造営のために何としても予算確保したいって気持ちが嵩じての事だったようです。
肥前国が東大寺造営料国になった余波が河上社にも及んで、由緒ある神社には定期的にある造替が伸び伸び後回しにされてたから^^;

中世の文書~川上社激減・千栗八幡宮消失なので、ここから先は論文にないシオ推測です。
上記の経緯だけだと、さも河上社が独断で自称したみたいで、すぐ一宮争いに決着つきそうなものですが、そうは問屋が卸さない。
それは国衙(政庁)機能を有してた河上社が現実に肥前国一宮という待遇を受けてた・・・はずだからです。
河上社の有する国衙機能を利用して肥前を支配するスタイルを完成させたのが、稀代の名将と謳われた九州探題・今川了俊です。
その後継者となったのが河上社の大宮司となった肥前千葉氏。

彼等、肥前国の支配者にとって河上社より権威ある神社仏閣があっては都合が悪いはずで、あくまでも肥前国一宮は河上社でなければならない。
中世の千栗八幡宮は何らかの圧力を受けてたと・・・・思うんだが、それを証明する文書がない件~(_´Д`)アイーン
とにかく、その時代の政治事情によって一宮の変遷があったため、どっちが一宮と一概に決めつけられなくなっちゃってるんです( ̄ω ̄A;アセアセ

>河上実相院の「如法経会」に匹敵する仏事
ですが、論文ではウッスラと窺える話が紹介されてました。
一宮争いで千栗八幡宮側では
「一宮社格の神号論拠を往古より今に至るまで千栗山が肥前国における廻国聖六十六部法華経奉納所であった事実を強調している点である
(「」内、論文よりママ引用)」

廻国聖とは法華経を六十六部書写して決められた霊場(奉納所=寺院)に納めるために行脚する事でして、
もともとは修行僧が行ってたのが民衆にも伝わりました(省略して行脚は6ヶ所も可)。
今じゃ殆ど見かけないですが、持ち物・装束やカンパで旅するスタイルは四国巡礼お遍路さんと、ほぼ同じです。
往時の千栗八幡宮では法華経に因んだ修行僧が集まる一大イベントが定期的にあったんじゃないでしょうか。

論文では(廻国聖が民間信仰として広く伝わったお蔭で)千栗八幡宮は衰亡しつつも民間信仰の聖地として命脈を保持しつづけた事は注目に値いする~という感じで結んでました。




期待してた中世(室町~戦国)部分がなかったのはショックでしたが、こればかりは仕方ないですね。
川上社が「肥前国一宮として台頭する」のと、
肥前千葉氏が肥前に土着し台頭するのは、密接にリンクしてます。

それは千栗八幡宮衰亡の歴史へと繋がることなんです。
千栗八幡宮に中世の文書があれば、探題・今川了俊との関係も含めて、もっと色々見えてくるんだけど~~残念!!

此処まで読んで下さった奇特な方・・・ありがとうございます^^
長くなるんで他の論文感想は、そのうちまたアップします^^
末筆ですが論文提供者様に心より感謝を述べて感想を終わりますm(__)m

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感想1★中世後期における国人領主と地方寺社ー肥前千葉氏と「公権」の構造

ここ最近、自分が密かに悩んでたのは「自分の肥前戦国史知識」が、「どの程度のレベルか判らない」って事でした。
手前味噌ですが、肥前戦国史に関してだけであれば、自分より詳しいブログは見た事はないです。
(肥前千葉から始まって、通史みたいに全部ヤル系がない)

でも、各地域・個々の武家となると、自分より詳しい系HP・ブログは、たくさんあります。
道産子の自分の周囲に「同好の士」があろうはずもなく、今更ながら知識面で「ぽつーーん・ぼっち感」が・・・(´;ω;`)ウッ

もや~ん、としてたところに入手したのがアレコレ論文とか専門書とかとかでした。
で、どうやら自分は、肥前戦国史に関して(のみ)「研究者のガチ論文」を読んでも、内容を理解するのに全く困らない程度のレベルにはあるみたいです(=^・ω・^=)v ブイ

出典元を見れば一次史料か二次史料か見分けがつくし、
神社仏閣なら、主だったところは由緒から住所まで知ってるし、系図は自作するほどなんで当主の名前で年代は大体判ります。
ただ、それが「素人なら凄い事」でも「郷土史研究者なら、当然の基礎知識」になるのか、
やっぱり自分では判らないんですけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

とにかく今は、一次史料を典拠とする論文を読んで「知識欲」が満たされて幸せでつ・・・川* ̄д ̄*川ポッ
で、結論から言うと、すっごい面白かった!ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ~~~感動を忘れない内に感想なぅ



肥前千葉氏は東国御家人として肥前に土着した一族。
探題でもなければ守護でもない。それが「肥前国主様」と仰がれるほどの栄華を誇った。
肥前千葉氏が、いかに支配力を手に入れたかを河上社を通じて論証されてます。

自分でも肥前千葉と河上社の関係がキーになると感じてたので(でも素人なんで論証出来ない^^;)
何というか「自分の考え裏付けでくれて、ありがとう!」な気分です(←図々しくてスイマセン)

文章だけじゃ退屈ですね~よっこらせ~
系図・千葉氏(鎌倉用)
肥前千葉氏、略系図

系図でいうと肥前千葉氏・栄華の土台キーマンは、5代目胤泰になります。
宮島氏の論文は、一次史料が典拠で論を構築されてるので、説明を省かれたのだと思いますが、
肥前千葉氏が本当の意味で肥前に土着したのは、5代目胤泰からです。

それまでは「打倒・下総千葉氏」「返してよ!宗家の座」で、肥前千葉氏は本貫地である下総千田庄と肥前小城を行き来してたんです。
南北朝争乱期に入り、離れた土地の両方を維持するのが大変だったのか、他の要因があったかは不明ですが、とにかく肥前千葉は「肥前土着組」と「本貫地に残る組」に分裂します。
それが「肥前(小城)千葉氏」と「千田庄千葉氏」です。
「打倒・下総千葉氏」は、「千田庄千葉氏」が真正・宗家として引き継ぎました。

2代目胤貞と5代目胤康は異母兄弟なんですが、パパ初代が若い頃からハッスルしたらしく、兄弟は親子ほど年の差があったそうです。
そのため胤康は兄である胤貞に養育されました。
2代目胤貞は、本貫地・千田庄を嫡流として我が子(長男・次男死亡の為、三男)に継がせ、肥前小城は傍系として実弟である胤康が継いだという訳です。

論文を読んで得心したんですが、肥前千葉氏が「河上社大宮司職」をゲットしたのは、この5代目胤康の代(文献に登場する)のようです。
で、肥前千葉氏が「領地宛行状(安堵状)」を発給し始めるのが、5代目胤康の当主期間である応永年間(室町時代)。

くどいようですが肥前千葉氏は探題でも守護でもない。
にもかかわらず、こうした「安堵状」を発給するに至るのは、九州探題・今川了俊の解任がキーになってました。

いま現在、興奮と萌えで'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'` してるのは、
感想を書いてる自分だけだと思うのだが、それは・またの話 by^-^sio 

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【1481・文明13~南九州限定・戦国年表】

いまのところ特に(ry

ちょっと年表の方も頑張って進めます。
(少なくとも週一で更新したい^^;)

全部揃うのに拘ってるとアップまで一生かかる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!




≪南九州シオ的エントリー:肥後・豊後・日向・薩摩・大隅≫
大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
 さがの歴史・文化お宝帳
 戦国島津女系図(相互リンク)http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/
  しいまんづ雑記旧録
 千葉一族HP
 武家家伝
 城郭放浪記
 天下統一期年譜
 ※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)」
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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【1481・文明13~北九州限定・戦国年表】

今のところなし

年代が特定できないものなどは、どっかに参照として盛り込む方向で行きます。



≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・肥前・筑後≫

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【1480・文明12~南九州限定・戦国年表】

・阿蘇惟長(阿蘇氏17代目&菊池氏24代目)が産まれる

・名和顕忠~相良為続娘との婚姻を所望するも、準備中に相良為続娘が卒去する



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大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

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【1480・文明12~北九州限定・戦国年表】

1月15日、酉の刻(夕暮れ時)流星が出て西方に渡る
その長き事敷(数)丈、色赤くして火の如く、その音は水の漲るのに似て虚空に暫く鳴動し、消滅すると忽ち白雲となった。稀代の珍事である。

・大村純伊~渋江、波多、千葉、平井の支援で有馬へリベンジ
(その後、大村と有馬の間で和議成立)



≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・肥前・筑後≫



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【波多氏~陸(おか)の松浦党・後編】西肥前強化期間リサーチ9武家目

宗家に、有馬からの養子に、波多に・・・親(ちかし)多すぎ!!
これだから一文字諱ってやつは・・・・ブツブツ


実弟系譜に男子がありながら、未亡人のゴリ押しで有馬から養子を迎えた事で、波多氏は家中が二分する。
さらに上松浦一族全体が、有馬から養子を迎えた事に猛反発した。

1564年(永禄7)未亡人真芳は、反対派の中心は日高大和守資であろうとして、資を城中で毒殺。
実は松浦サイトによると1556年に平戸・松浦隆信が、波多の岸岳城を表敬訪問してるんです。
更に1559年にも松浦隆信が岸岳城に訪れ51日間滞在し、日高資と喜親子と交友してました。
未亡人真芳は、平戸・松浦が動いた事で日高が何事か企んだと思い、先手を打って日高を殺したんじゃないでしょうか。

案外、波多氏内部を更に揉めさせるのが目的で、平戸・松浦隆信は岸岳城に長期滞在したのかもだな~
松浦党最大の勢力だった波多氏が宗家サイドである限り、平戸は宗家攻撃に踏み切れなかったからです。

さらに未亡人真芳、家中を掌握するため、重臣から人望を集める鶴田直を取り除くことを企てた。
同年、今度は鶴田直を岸岳城に招きその帰途を急襲して殺害する。


くどいようですが、1562年(or1563年)に、有馬が龍造寺に敗れた事が各方面に影響したんです。
以前のように実家の勢力を背景にしづらくなって、未亡人真芳は焦ったのだと思います。

ですが、鶴田氏まで殺ったのは、やりすぎ・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
もしくは禍根を断つために、いっそのこと日高息子・喜も殺るべきでしたな ( ゚Д゚)y─┛~~
(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル・・・重臣の有浦氏は、この状況に耐えきれず岸岳城からトンズラ。
(有浦は未亡人から勘気を蒙り所領没収されたとか^^;)
(没収時期は鶴田殺害前だとか、史料によってゴニョゴニョ~)

一方、毒殺された日高の嫡男・喜は、以前と変わらぬ風情で出仕してたそうです。
で、未亡人真芳が油断した頃に、当主を殺された日高・鶴田がタッグを組んで反撃!
まだ若年だったらしい波多鎮(後の親)は、岸岳城を追放された^^;

人物・波多親2
(色々御苦労な人生の波多鎮(=親)家紋別バージョン)

日高喜は鶴田を上松浦の頭領として祭り上げ、勝手横暴専横の振る舞いをする。
鶴田は閑居してた有浦に「コッチに味方したら、有浦を≪安堵・して・あげる≫」よ~」と誘いをかけた。
頭領面して上から目線で言われた有浦は「わが家と鶴田は本来同格!カチーン★(-ω-#)ビキビキ」となった。
有浦大和守高は「事、ここに至っては下野守鎮(=親)を当主とするのが筋である(`・ω・´)キリッ」と値賀・青山らによびかけ、波多鎮復活運動を開始。

1569年、波多鎮(=親)は龍造寺&有馬の支援を受けて岸岳城に復帰する
武家家伝サイトでは「岸岳城を占拠していた日高喜を壱岐に追い出すことに成功したのである」とあるが、
シオは逆だと思う・・・日高を壱岐に逃がすべきじゃなかった。

1472年に波多氏が壱岐島を支配下に治めた時、初期の壱岐代官は日高一族だったからです。
地の利・人脈・胆力もある日高喜は、たちまちのうちに壱岐島における波多勢力を駆逐し占拠。
交友のあった平戸・松浦隆信配下となる。

波多鎮は、数年後に日高ら残党派と何とか和睦するんですけど、一連の騒動・戦で波多氏の勢力は大きく減退しました。
若年で御家騒動に巻き込まれた波多鎮(=親)には、本当に同情します(´;ω;`)ウッ
散々引っ掻き回した未亡人真芳の没年など、その後はシオレベルでは不明です。
まぁ波多鎮から見れば義母なので、最期まで粗略にはされてないでしょうね。

波多鎮は、岸岳城復帰に尽力してくれた一人である青山采女から妻を迎えていました。
ところが龍造寺隆信からの圧力で悲劇がおきるのですが、これは本編で紹介しますね^^

波多鎮は龍造寺隆信から偏諱を受けて、一時期「信時」と名乗ってて「親(ちかし)」に改名したのは、その後のようです。
従五位下三河守任官は秀吉から推挙された正式なものです(天正16年)。
もちろん波多一族の力を、来たるべき「唐入り」に利用する為だったんですが、波多親はイマイチ理解してなかったっぽい。
龍造寺との時も味方になったり敵対したりとフラフラで、どうも決断力に乏しい性格だったようです。

波多氏は上松浦衆の頭領・・・いわば山内の英雄・神代勝利の海バージョン。
こういう○○衆の頭領って、神代勝利公のように個人的カリスマがあるか、大きな後ろ盾があるかでないと纏めるのは並大抵の事ではありません。
ましては波多親は、他家からの養子なんです。

波多親のブレは、頭領として一族をまとめる事の困難さの表れでしょう。
波多氏の没落で上松浦衆諸氏も離散の憂き目となります。



さて、ほんとの事を言いますと、やりだせばキリがないのがリサーチです^^;
佐世保戦国史や隠岐島などなど多数あり、自分のリサーチは極一部なんです。
が、有馬と大村関連の欠落が多いだけでなく、各武家も不明な点が多いため全体の流れを掴む程度で留める事にしました。

一つ言えるのは、西と東の戦国が大きく交差し始めるのが、現在中断してる佐賀戦国史本編の1562年(or1563年)有馬VS龍造寺だと言う事です。
少弐氏が衰退した事により、東肥前で台頭したのが龍造寺で、西肥前で台頭したのが有馬氏です。
東西決着は「沖田畷の戦い」になるのですが、それは・またの話 by^-^sio




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【波多氏~陸(おか)の松浦党・前篇】西肥前強化期間リサーチ9武家目

西肥前リサーチ一応これでラストぉ~~自分、ガン( ゜д゜)ガレ

まず松浦党(53家)のザックリとした区分け~
・上松浦~佐賀県側
・下松浦~長崎県側(一部佐賀県にまたがる)
(上下の区別基準は、京都に近い方が上、遠い方が下)

で、上松浦で松浦党最大の勢力だったのが、波多氏。
松浦党=水軍のイメージだが、実は波多氏エリアは海に面してない為、港がない。

本城:岸岳城(佐賀県唐津市北波多稗田)
・・・・実は、ここ・・・知る人は知る超心霊スポット・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
遊び半分で遺構を訪問しないようにね!(-人-)☆彡

岸岳城は標高300mの岸岳山頂にある連結式山城。
岸岳は非常に峻厳な山ですが、現代では道路整備されてるので遺構まではスンナリ行けます。
で、日常の居城としは2kmほど離れた波多城を使ってました。

他の港を持つ松浦党が交易で利潤をあげてるのにひきかえ、
エリアが内陸の波多氏は、思うように分け前が手に入らなかった。

1472年(文明4)波多氏は隠岐島を襲って支配下に治め、隠岐島(←え?)を海外交易の拠点として・・・
データ見間違い壱岐島(長崎県)だ!,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
ゲホグホ・・壱岐島を海外交易の拠点として財をなし、上松浦地方の首領と仰がれるまでになる。

波多氏の系図は色々混乱してて、見れば見るほど判らなくなるという状態^^;
とにかく波多氏が最も勢力あったのが、下野守興の代。
1518年、宗家・松浦親は波多興の娘を正室に迎え同盟関係となる。

波多興の跡目は盛(さこう)が継ぎ、盛は後室に有馬晴純の娘(or孫)真芳を迎えていました。
つまり宗家・松浦は、有馬(養子縁組)波多(有馬の姫と婚姻関係)と二重三重に同盟関係を強化して、平戸・松浦に対抗してたんです^^b
この関係に綻びが出るのは波多氏からでした。

1547年(別説有り)実子がないまま波多盛が没した事から御家騒動となる
未亡人真芳押し~実家である有馬晴純の孫藤童丸(後の親)
波多一族~~~~亡き盛の弟・志摩守の息子3人のいずれか

1557年、未亡人強行突破~藤童丸を独断で後継として岸岳城に迎える。

人物・波多親(大人の波多親)

元服した藤童丸は大友義鎮から偏諱を受けて、「波多下野守鎮(しげし)」と称し家督を継いだのだ、それは・またの話 by^-^sio

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【松浦党~上と下と宗家と分家と】西肥前強化期間リサーチまとめ

松浦興信が亡くなった1541年、嫡男・源三郎は12歳で元服も未だだったらしい。
若年すぎるということで相続で家中が揉めて、正式に相続したのは1543年だった。

大内義隆から偏諱を受けて、松浦隆信となる。
龍造寺隆信も大内義隆から偏諱なんで諱が被ったΣ(´Д`;)はぅ
お蔭で隆信と諱だけしか記載されてないデータは、前後で龍造寺か松浦か判断しなきゃならない^^;

人物・松浦隆信松浦隆信イメージ画像

平戸・松浦隆信は、宗家との攻防を繰り返すのだが、宗家のバックアップしてた有馬(有馬から養子・盛を迎えてます)の顔を立てて、1543年に和睦してます。

1550年、南蛮交易を始め鉄砲&大砲購入(明との交易で元々金持ち)交易による莫大な富を得て力を付けました。
宗家押しだった少弐氏は衰退したけど、有馬や波多が宗家と同盟関係で中々トドメを指すところまで行かない。
そこで平戸も味方を増やすために、後藤貴明と養子縁組による同盟を結んだわけです。

局面が変化するのは1562年(or1563年)ネタバレになるが有馬が龍造寺に敗れたからです
さらに宗家押しだった上松浦の波多氏も御家騒動でゴタゴタになり、宗家の味方は身動きとれなくなった。

1563年、平戸・松浦隆信による宗家攻撃が始まる。
1564年に平戸・松浦隆信は嫡男・鎮信と諫早・西郷純尭の娘と縁組し同盟関係となり、更に勢力を広げる。
有馬からの援軍もないなか、宗家は3年間も抵抗を続けた。
有馬は1566年に最盛期当主だった有馬仙巌(晴純)が死亡し、勢力が徐々に衰えてました。
この3年間、宗家と平戸では細かい戦が複数あって、ちょっと辿りきれません^^;
で、龍造寺の隆信が仲裁に入り、宗家と平戸は和睦するのだが・・・実質は宗家が平戸・松浦隆信に降伏したんです。

宗家は平戸から養子・親(ちかし)を迎える事になり・・・シオが涙目になる。
つまりね。

降伏した宗家・松浦親==養子==松浦親(コッチは平戸・松浦隆信の次男)

親(平戸に降伏した養父の方)は困った・・・養子と諱が被るからではない。
有馬から援軍なしだったので、平戸に降伏する話も相談してないわけで・・・
ぶっちゃけると、有馬から迎えてた養子・盛の扱いに困ったんです^^;

やむなく親(平戸に降伏した養父の方)は入道して宗全と号して、完全隠棲する。
有馬からの養子・盛は、唐船城主として有田氏を継がた。
あ、有田の方は殆ど宗家に併呑されてた状態なんで無問題です^^b
平戸・松浦隆信次男、丹後守親が宗家・・いえ相神浦・松浦氏を継ぎ、遂に宗家と分家の地位が逆転する
(元宗家・相神浦松浦氏の当主が世襲する官位名は丹後守^^b)
元・宗家は1でチラっと書いたように、最終的には子孫が幕府旗本として残ります。

1568年、新宗家・松浦隆信嫡男・鎮信(数え二十歳)が家督を継ぐ
人物・松浦鎮信 松浦鎮信イメージ画像

武家の子弟は二十歳前後で家督を譲られる慣習でした。
諱は大友義鎮(宗麟)からの偏諱です。
父・隆信は1599年関ヶ原直前まで長命(死亡時80歳)し、実権を握り続けたそうです。
とはいえ鎮信は無能じゃないです。関ヶ原の難しい政局の舵とりしたのは鎮信ですから^-^

新宗家・平戸松浦は、龍造寺の台頭で配下になるのを余儀なくされますが、龍造寺が沖田畷で敗れたので再び自立。
九州の役、朝鮮の役、関ヶ原を乗り越え平戸藩として明治まで完走します。
さて、まとめ~ラストは松浦党最大の勢力だった波多氏なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【松浦党~上と下と宗家と分家と3】西肥前強化期間リサーチまとめ

最近読んでる「筑前戦国史(吉永正春)」によると、五州太守としてブイブイ言わせてた頃の少弐政資は、
守護代・宗貞国の下に博多代官を配置して、ダイレクトに朝鮮貿易なぅで稼いでたそうだ。(朝鮮側の記録)

1497年(明応6)4月19日、その少弐政資が大内に敗れて自害。
翌1498年、少弐滅亡でチャンス~~山口に亡命してた平戸・松浦弘定が宗家・松浦政を攻め滅ぼす。

ちなみに、平戸・松浦弘定の弘は大内氏からの偏諱です。
一文字諱の松浦一族ですが、偏諱受けると二文字の普通ネームになるみたい^^
逆に言うと、松浦一族で二文字諱の人がいれば、それは誰かから偏諱受けてる事になります。

平戸に滅ぼされた宗家は、正室と嫡男(親・ちかし)が人質にとられる大ピンチ!Σ(´Д`;)はぅっ
前回も話したけど、松浦宗家正室が、亡き少弐政資の孫娘(嫡男・高経娘)でした。
で、今度は宗家のリベンジの番^^b

人質(正室と若君)奪還は家臣の活躍ですが、松浦宗家復活と少弐氏復活はリンクしてます。
1512年に蜂起した松浦宗家と平戸・松浦弘定は、龍造寺阿波守の仲介で和睦します。
蜂起された時、平戸・松浦弘定は、大内氏に同行し京へ上洛してて不在だったんです( ̄ω ̄A;アセアセ
この仲介した龍造寺阿波守が、龍造寺一族の誰にあたるのかが特定出来なかったil||li _| ̄|○ il||l

更に宗家・松浦親(←成長した若君)の実叔父にあたる少弐資元の奔走で、旧領復活に成功します。
それが1531年で、少弐資元が大内勢に勝利した「田手畷の戦い」の翌年の事です。

旧領復活した宗家・松浦親は、更に体制安定の為に少弐資元の息子を養子に迎えました。
一安心と思ってたら、1536年に少弐資元が(また)大内に敗れて自害  ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

宗家が復活してから、わずか5年後~~やべーーアタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
松浦親、今度は有馬晴純から養子を迎えた。それが宗家・松浦盛です。
少弐氏から迎えてた養子・鎮が、どうなったかはシオレベルでは辿れませんでした

平戸松浦では弘定が1515年に没し、源三郎興信が当主でした。
はい諱が二文字ですね^^/
これは大内義興からの偏諱です(=^・ω・^=)v ブイ

平戸・松浦興信は、大内義興亡き後は大内義隆に仕え、朝鮮・明との交易で莫大な利益を得たそうです。
が、金があるからといって家中盤石とはいかなかった。

この源三郎興信は、亡き弘定が男子に恵まれず養子に迎えた甥っ子なんです。
でもって亡き弘定自身も長男でなくて次男でした。
長男(興信パパ)は他家を継いでて、まぁそれでゴタゴタ揉めて、兄弟和解の証として弘定は兄の子である興信を養子にしたって流れがありました。
1491年の宗家VS分家も、元の元は平戸の兄弟確執が始まりの始まりだったんです^^;ヤヤコシイ

そういう不安定要素が根っこにある中での1541年に、平戸・松浦興信が死亡する。
ちなみに松浦興信の法号は「高齢」で(ビックリ)なのだが
それは・またの話 by^-^sio

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【松浦(まつら)党~上と下と本家と分家と2】西肥前強化期間リサーチまとめ

有馬と大村関連のデータが薄いので確証に乏しいのだが、
西肥前戦国史でキーとなるのが、松浦(まつら)氏における宗家と分家の争いのように思う。

実は上松浦と下松浦の区別が未だに曖昧^^;
要するに地域別区分けなんだけど、佐賀県と長崎県にまたがるから何処から何処までを上と下に分けてたのか・・・ヽ(。_゜)ノ ワカランチン
とにかく京都に近い方が上になるんで、とりあえずザックリと佐賀県側が上松浦、長崎県側は下松浦になります。
肝心なのは、宗家と平戸(分家)の争いです。

明との交易で経済力をつけた平戸が、例の「万人恐怖&籤引き(神意で選ばれた)将軍・足利義教」の信任受けて宗家松浦と対等な立ち位置になった事から揉め始めた。
そういや肥前千葉氏が最初に分裂した時も、この足利義教が家督簒奪した弟を公式当主認定してたわ。
無能な将軍も困るが、義教みたいに果断すぎる将軍も、家督に介入された方は結局揉めるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

まぁ、ここまでは家督アルアルなのだが、松浦氏の争いは少弐氏が絡んだので話が大きくなった。
少弐政資の孫娘が、宗家松浦氏に嫁いで縁戚関係だったそうです。
それと平戸松浦は、明との交易絡みで大内サイドでした。

1491年、有馬貴純による平戸松浦攻め
とあるのが一般的な扱いなんですが、
そもそもこれが有馬単独ではなく少弐政資が、千葉氏、龍造寺氏、高木氏を率いて参戦。
有馬貴純は有馬尚純、諫早の西郷尚善、大村純伊の連合軍でした。
詳細データが判らないんですが、介入したのは有馬が先でも、身分からいって総大将は少弐政資だったと思います。

だから・・・1491年、少弐政資と有馬連合軍による平戸松浦攻め・・・が正解,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
とにかくコテンパンにされた平戸松浦は城落ち延びて、筑前に更に山口へ亡命し大内の保護下に入った。
この戦いによる戦功で、有馬氏は少弐政資から領地を安堵されたとか(出典・詳細などは未確認)

有馬貴純は南肥前(島原半島の事らしい)で既に勝ち組だったんですが、西肥前に本格的に勢力拡大したのが、この戦いからだったそうです。
少弐政資が大内に敗れて少弐が没落したので「少弐政資と、連合軍」の部分が歴史的に割愛されました(-人-)☆彡

何しろ松浦党は53氏あったので彼等が宗家と平戸、どちらのサイドだったのかを全て調べるのは無理でした^^;
ただ一つ言えるのは、この1491年の合戦で松浦宗家サイドに馳せ参じた松浦党武家は、
少弐政資の軍役に応じた事にもなるので「大枠で少弐被官」に分類されます。

(自分が把握してる範囲では、宗家サイド~波多氏、鶴田氏です^^;コレダケ・・・)

以前自分は、偏諱(へんき=諱の一文字プレンゼント)はネコのマーキングと同じで、誰が誰の配下か一目瞭然だって言いました。
「軍役に応じる」もそうです。

「少弐政資の軍役に応じた=少弐被官」というマーキングは、数十年・・・いえ文献が残る限り消えません。
そして外交ルートは表面上無くなったように見えても、政治情勢の変化で復活します。

なぜなら少弐氏が「衰退⇒滅亡⇒リベンジ⇒プチ復活⇒また負けた⇒衰退(以下略)」のループを繰り返すからなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【松浦党~上と下と宗家と分家と・1】西肥前強化期間リサーチまとめ

北肥戦誌を見てたら・・・出て来た。

>下松浦・上松浦   

・・・・・・・・・・・・・・・松浦党にも上と下があるのか _| ̄|○ il||li


てことで、リサーチでつ~~~
松浦党は北肥前を中心に活動した大宰府の贄人たちの集合体です。
贄人とは「魚などを獲る人たち」であり、それを「御供物として治める人」でもあります。
彼らはやがて田畑を耕し勢力を広げ武士化して行ったのですが、単体では弱いので互いに結合し「松浦党」となりました。

だから鎌倉以前のことは不明で、その後は「基本は少弐の被官(紆余曲折はある)」
中心となったのが松浦氏なのだが、松浦党として諸氏が個々に動く場合もありで注意が必要。

南北朝では松浦氏は南朝となっている。(ただし親兄弟は北と南に別れて相克する)
室町時代には、松浦党の規約を定めて団結をさらに強化。

上松浦(地域)を中心として「波多・神田・志佐の諸氏からなる上松浦党」
下松浦を中心として「御厨・今戸・志佐・伊万里の諸氏からなる下松浦党」に分かれる。
戦国期を生き残るのが下松浦党所属で、宗家松浦氏の傍系である平戸松浦氏。

****【嫡流】相神浦松浦【江戸期旗本】****

松浦家祖は渡辺綱の曾孫ってことで、諱は武家には少ない一文字でして、
通字は?偏諱の場合は?ってシオにも謎です^^;

子沢山で子孫繁栄~「上松浦党」「下松浦党」も、そもそもが松浦氏から派生した庶家なんです。
「松浦党」は全部で48家or53家とも言われています。
一揆契諾して「党」となるあたりが、いかにも「板戸一枚下が地獄」の海の男らしい^^

分家の平戸松浦家が松浦義(平戸義)の時代に、足利義教の信任を受けて以来、宗家を凌ぐ勢力を保持するようになった。
そのため宗家である相神浦松浦と平戸松浦は激不仲。

戦国期は大智庵城が相神浦松浦の本拠地。
宗家相神浦は少弐氏がバックだったが、えっと色々あって地盤沈下。

平戸は明の商人を呼び寄せ貿易で利潤をあげ、経済的にも宗家を圧倒する。
最終的には力尽きて宗家相神浦は平戸に降り、平戸松浦氏が宗家の座をゲッツ(=^・ω・^=)v ブイ
その後、子孫を徳川家が拾い上げて旗本としたので、本家も武家としては残った。

****【分家】平戸松浦【平戸藩6万石】**************************

北松浦半島を制圧し、宗家を遂に屈服させたのは松浦隆信の代。
龍造寺隆信からの圧迫で一時キツかったが「沖田畷の戦い」で龍造寺が没落したために独立維持。

隆信の子・鎮信も戦国期の舵取りを誤らず、関ヶ原の難しい政局(鎮信は東軍だが、息子が西軍で伊勢攻めに参加)を乗り切る。



記事タイトルを変更して再アップです^^;
過去記事はリサーチ不足な為、推敲が未熟で恥ずかしい~~~~それは・またの話 by^-^sio

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【1479・文明11~南九州限定・戦国年表】

まだ特になし



≪南九州シオ的エントリー:肥後・豊後・日向・薩摩・大隅≫
大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
さがの歴史・文化お宝帳
戦国島津女系図(相互リンク)
しいまんづ雑記旧録
千葉一族HP
武家家伝
城郭放浪記
天下統一期年譜
※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
伊東関連「日向記」
相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)」
筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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【1479・文明11~北九州限定・戦国年表】

・龍造寺家純(家兼の嫡男)が産まれる

・渋川教直(最盛期の当主)58歳で死亡
・渋川万寿丸(数え12歳)、兄が既に死亡してたので家督を継ぐ



≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・肥前・筑後≫

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
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 城郭放浪記
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※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)
  筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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【肥前後藤氏・六~貴明ー6】

1574年・・・養父・貴明41歳、養子・惟明29歳の時に破綻が起きた。

最初のキッカケは、貴明に実子・甫子丸が誕生(1562年)し、貴明が総領が受け継ぐ後藤家伝来の太刀などを我が子に与えてしまった事だった。
実子が産まれ、性別は男子と聞いた瞬間、貴明は養子を貰った事を後悔しただろう。
ふと思いついたが、貴明が打倒・大村純忠に拘ったのは、実子と養子の狭間で懊悩したからかもしれない。

後藤貴明は大村純前の実子で、本来なら大村の家督を継ぐはずの所を、有馬家から純忠が養子として押し込まれたからです。
貴明の存在が禍根になるのを危惧した有馬は、貴明の養子先として男子がいない後藤家を斡旋した。

大村純忠を倒し、大村領を取り戻した暁には、大村領を実子・甫子丸に継がせ、後藤家を養子・惟明に継がせる。
これが上手く行けば八方丸く収まるのだが、現実は大村純忠がしぶとくて死んでくれない^^;
そうこうしてる内に、養子・惟明の方が待ちきれなくなった。
サイトによっては、実父である平戸・松浦隆信が唆したともある。

6月22日、惟明が塚崎城の二の丸にて謀叛の意志を皆に伝えるが、貴明に露見したため、そのまま二の丸で籠城となった。
後藤家は真っ二つに割れ、貴明は当主でありながら塚崎城を退去する羽目になる。
このピンチに後藤貴明は、止む無く龍造寺隆信へ助力を求め、それによって惟明に勝利した。

降伏した惟明は養子縁組を解消され、実家である平戸・松浦家へと返された。
松浦家でも処遇に困ったのだろう、惟明は平戸に住む事は出来ず日宇(佐世保市)で隠棲し生涯を終えた。
ただ幽閉とかでなく、平戸・松浦の一族として出陣もしてるので、日宇で幽閉とかいう訳ではなさそうです^-^

この件で和睦した龍造寺と後藤だったが、速攻で破たんした( ̄ω ̄A;アセアセ
後藤貴明には以前に和睦しておきながら、態度を翻し須古城の平井と同盟を組むと言う前科があるので、龍造寺が後藤の心底を疑ったんです。
だって後藤自身が、龍造寺の為に積極的にハッスルするアピールしてないんだもん^^;
後藤にしてみれば、助けてもらったから同盟したけど、配下になったつもりは無いからでしょう。
この2度目の和睦後に、後藤が龍造寺配下になる決断し赤心を見せていれば、もしかしたら違う運命だったかもしれない。

3年後の1577年2月に再和睦するんですが・・・・(後藤的に)条件が悪くなりました(´;ω;`)ウッ
それは、貴明の実子・晴明を龍造寺隆信に養子に出す代わりに、
隆信の三男である家信を貴明の娘・槌市と結婚させ貴明の養子とするというものでした。

この時の龍造寺は須古城に手こずってた頃の龍造寺ではありません。
てか、その須古城は今では隆信の隠居城・・・後藤貴明は出された条件を呑むしかなかった。

結局、後藤貴明は亡き父・大村純前と同じく、我が子に家督を継がせる事が出来ませんでした。
大村が後藤家に、有馬が龍造寺になっただけです。
晩年の貴明は光明寺(北方町)に隠棲したそうですが、その複雑な胸中は計り知る事は到底無理でしょう。

余談になりますが、後藤家の正史に「藤山考略」があります。
最近読んだ宮島先生の論文によると、この藤山考略に黒髪神社で紹介した大蛇退治が盛り込まれたのは、
後藤氏が武雄を支配する正当性アピールの為だと論じています。

「藤山考略」の成立年度は不明ですが、江戸初期と思われます。
龍造寺隆信の孫にあたる茂綱の頃、後藤家臣の一部に「茂綱さま(※自分らの主君)を廃し、鍋島家から当主を迎えるべきじゃね?」って動きがあったそうです。
あ~~~なるほどね~後藤家臣が不安にかられた気持ち判るわ~(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

というのも茂綱は病気で「関ヶ原の戦い」動員時に遅参するという、大失態をやらかしてるからでつ ( ̄ko ̄)
その後、西軍残党掃討戦である「江上・八院合戦」において先陣(第二陣)で、獅子奮迅頑張って名誉回復するんですが、
それでも後藤家臣(一部)にすれば不安で「御家存続の為に・・」って思ったんでしょうね。
茂綱サイドでは大慌てで「藤山考略」を編纂させ、後藤氏正当性アピールして家中統一を計ったと思われます。

思えば後藤氏嫡流は職明(しきあき)までで、純明は系譜としては女系。
初めは(有馬から斡旋された)大村、次は龍造寺と、時の実力者に養子を捻じ込まれてきた後藤氏には、
表面に出せなかった「言い分」があったはずで、それが最も凝縮しているのが「実子を当主に出来なかった貴明」の存在だと思うのです。

貴明寺(武雄町大字永島)には、後藤貴明の木像があります。
貴明の死後5年後に造られたもので、生前の姿を模していると言われています。
とても意思が強うそうな鋭い眼光を宿しています。
造らせたのは貴明の実子・晴明(龍造寺家均)で、亡き父の姿を思い描きながら彫師に指示したのでしょう。
物言わぬ木像は今も凛と佇んでいます。

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【肥前後藤氏・六~貴明ー5】

龍造寺の台頭と同時期に生まれた後藤貴明は不運だったのかもしれない。
とにかく有馬だ龍造寺だと、邪魔が入るので大村純忠攻めに集中する事が出来ず、貴明は忙しい人生を送る事になり、
それをまとめてるシオも、脳みそが汗だくになってます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!



1563年、大村純忠の受洗を嫌った大村家臣の寝返りで、打倒・純忠に向けて畳み掛けるチャンスだった後藤貴明の行動に「待った」がかかる。

ほぼ同時期に龍造寺勢が北方方面に迫ってきたからです。
大村純忠に集中してた後藤にとっては「まさかの緊急事態」で、まったり善後策を講じてる暇がない。
てか、このチャンスを逃したくない~~「龍造寺とは和睦!」←これが7月の話。

同年8月、龍造寺勢の肥前須古城攻めが始まり、同盟関係から後藤も龍造寺勢の先鋒で参加⇒で、敗退。
後藤貴明にすれば、こんな事で将兵を失うことがバカバカしかっただろう。
肥前須古城が容易に落ちる城ではないのを、実際に攻撃して理解すると方針をガラリと転換。

後藤貴明は須古城・平井氏と和睦、証として平井の娘を貴明の養子・惟明の室に迎えた。
ハッピーウェディングはピンク色文字(*´pq`)
嫡男・晴明クンが生まれた為に、(気持ちの中で)余してた養子の使い道見っけ~(・∀・)
須古城主・平井経治が有馬サイドの城で武将なのは、百も万も承知の上(`・ω・´)キリッ

人物・平井経治リサイズ (須古城主・平井経治)

龍造寺が六角川防衛ラインを突破するには、肥前須古城を軍事的に制圧することが必須なのだ。
逆を言えば、肥前須古城に頑張ってもらう事によって、龍造寺勢を足止め出来る。

翌1564年2月、再び龍造寺が須古城を攻撃するが、後藤・平井の連合で戦い、これは勝敗つかずで終わる

同年3月、貴明は平戸松浦氏や諫早西郷氏と呼応して大村方の彼杵城を攻め落とす

同年8月、有馬・大村の連合軍が彼杵城奪還に動くが、後藤勢が撃退o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

有明海側の鹿島方面からは有馬軍が塩田に迫り、更に渋江の潮見城へと迫る
潮見城を守ってた渋江公師Σ(´Д`;)はぅっ 
急ぎ後藤貴明に急報し援軍を派遣してもらう。
前回落城の汚名挽回・・じゃないか、名誉挽回とばかりに後藤勢と共に奮戦し、有馬勢を見事打ち破った(=^・ω・^=)v ブイ

1566年(永禄9)7月、貴明は大村に出陣し大村純忠を攻めるてるけど、これも失敗。
が~~純忠がしぶとい!!
なんか西郷とか深堀とか長崎とかリサーチしてるせいか、シオまで大村純忠にイライラ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

1570年の今山合戦では、一般常識チョイスで大友側についた後藤だが、想定外の龍造寺勝利で再び肥前戦国史が灰神楽が舞ったようになる。

さらに1572年(元亀3)7月には、平戸松浦氏&諫早の西郷氏と呼応して、大村純忠の三城を兵1500を率いて包囲したのだが、またも大村が防ぎ切る。
(大村純忠の武運って強いんだか弱いんだか・・勝てないけど負けない^^;)

で、龍造寺と後藤なんですが、まだ他データと擦り合わせてないんですが、ウィキペディアによると、1571年、1572年、1574年と、ちょこちょこ交戦してたそうです。
このまま敵対関係が続くかと思いきや、後藤貴明の運命を大きく変える事態が発生したのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【肥前後藤氏・六~貴明ー4~】

ひ~~~
松浦と波多と渋江と後藤の点在するデータを時系列に組み直すので、脳みそ沸騰しそう!!
データ見落としあったので貴明ー2、3を一部書き換えました~~(_´Д`)アイーン



有馬が敗れた龍造寺との戦いは、1562年説と1563年説の二説あります。
後藤貴明が打倒・大村純忠に向けて動いたのが1563年なので、1563年だったのかもしれません。
(てか、これだけ大物同士の激突で年代が二説ある肥前って・・・( ̄ω ̄A;アセアセ)

とにかく直接のキッカケは大村純忠の受洗でした。
受洗の動機は「南蛮との交易」とか「勢力拡大してきた龍造寺へ対抗する為」とか、色々あるようです。
とはいえ傾倒ぶりは大友宗麟とイイ勝負で、こういう場合に迷惑を蒙るのは家臣なのも一緒。

大友純忠・・・じゃなかった(爆)大村純忠は、熱心なあまり領内の神社仏閣を破壊し、家臣へも改宗を迫ったそうです。
この手の話は、どこまで信憑性があるのか、判断しようがないので困る^^;
でも神社仏閣が破壊されたなら、大村関連データが乏しく大村藩史を検証しようがないのも頷けます。
何といっても神社仏閣は一次史料の宝庫ですから。
で「家臣へ改修を迫った」も全くの中傷デマではないかもです。

何故なら、純忠の受洗に反感を覚えた大村家臣が、大挙して武雄・後藤貴明に寝返ったからです。
後藤貴明は大村家臣の寝返りで、大村領であった北部波佐見、川棚、彼杵を労せずしてゲッツ(=^・ω・^=)v ブイ
いずれも東彼杵郡の土地で、後藤が手にしたのは総面積のザックリ1/4くらいでしょうか。
波佐見の北部というと、武雄市に近い方ってことでしょう。
いやそれよりも川棚町と彼杵町です。
そこは大村湾に面した土地・・・後藤貴明は大村エリア内の港を手に入れたんです!ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
佐世保湾の奥にある南蛮交易港・横瀬浦を狙える位置に足場を確保。

1563年7月、後藤は大村家臣にクーデターを起こさせ、自らも出陣して大村氏の平定を試みるがコッチは敗退^^;
針尾島に兵を出して佐志方城を攻め落とし、かつ、佐世保、日宇、早岐、針尾島の四ヶ村もゲッツ

ちなみに、この針尾島の南端に、現在のハウステンボスがあるんでつ( ̄ko ̄)

同年7月27日、後藤に寝返った横瀬浦奉行・針尾伊賀守とともに貿易港・横瀬浦を焼き討ちし、港として使えなくしちゃいました

この勢いで憎い大村純忠の首を~~~~~~~~と行きたいところに「待った」がかかる。
龍造寺の肥前須古城攻略が始まったからなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【肥前後藤氏・六~貴明ー3~】

1560年8月、有馬勢3千が潮見城を攻撃。
渋江勢は数百人だったが、鉄砲を駆使して良く防戦していた。

そんな最中、潮見明神が不思議な神託を出した。
城内にある鉄砲で人を殺すことは当域の穢れであり、急ぎ鉄砲を城外に運び出せ、敵がくれば神力をもって退治する
と戦の真っ最中に、時代の流れに逆らう保守的な神託に、
若い世代の公重?(。_゜)?と公師?(。_゜)?

いや、いかに累代大事にしてる明神の神託でも、これは従えないとクレームを入れると、
父の公親が「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.明神さまの神託にクレームとは何事かぁ」と息子たちを叱った。
パパ公親は「本貫地の長島に戻れたのは、これひとえに(後藤の力だなんて認めない)明神さまの御庇護の賜物!(-人-)☆彡」
「御神託に従え!それ運ぶのじゃ」と鉄砲を城外に運び出してしまった。(出典:橘家渋江由来記)

これが有馬の謀略だった・・・
累代の庇護者であっても支配力が衰えちゃうと、巫女さんも敵に買収されちゃうのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
巫女の神託は真っ赤な偽物だったんです。

同年9月21日、謀略に公親が引っかかったのを知るや否や、有馬は潮見城攻撃開始。
有馬勢の猛攻撃で鉄砲のない渋江は押され、公重が討死。城は落城する。
急報を受けた後藤貴明が出陣し直ちに奪い返したが、渋江親子は貴明の怒りを恐れて出奔してしまったとさ^^;

同年12月、後藤貴明は肥前須古城(有馬サイド)を攻撃して失敗
打倒・大村純忠の為には、大村のバックにいる有馬とも敵対する事になります。
後藤勢も肥前須古城周囲の湿地帯に苦戦したかな?

1561年(永禄4)、塩田(嬉野市塩田町)の塩吹城を攻め、領主・原直景(有馬サイド)を降伏させる
1562年(永禄5)4月、手が回らなかったのか、後藤は公師を帰参させ潮見城を守らせた。
偽神託に引っかかったのはパパ公親で、息子の公師は反対してたからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
城は元々の持ち主に守らせるのが一番。住民感情も害さずにすみます(^ -)---☆Wink

同じく1562年(永禄5)後藤貴明に長男・晴明が産まれる
ほらネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

これだけでも揉めそうなところへトドメ。
1563年(永禄6)平戸の松浦隆信が、宗家である相神浦松浦氏を攻撃開始
人物・松浦隆信(平戸・松浦隆信イメージ画像)

平戸松浦の宗家攻撃開始が、こんなに早いとは貴明(養父)も惟明(養子)も思わなかっただろう。
これには複数の要因が重なってます。
1)1562年(or1563年)龍造寺VS有馬の激突で、有馬が負けちゃった事⇒すぐ他方面への軍行動不可。
2)松浦党の波多氏が家督を巡る御家騒動で、宗家と平戸の対立どころじゃなくりフォロー不可。
3)長年、宗家・相神浦松浦を支えていた少弐氏が、龍造寺によって滅ぼされた。


松浦関連データを集めてて、少弐が松浦党では「宗家押し(少弐氏から嫁を迎えて縁戚関係)」だったのを、最近になって知りました^^;
その為、平戸松浦氏は少弐政資から討伐されたり(平戸は一時、筑前⇒山口に亡命)、
少弐資元の奔走で、平戸松浦は(しぶしぶ)宗家と和睦したりしてたんです。

こうした要因が重なり、平戸松浦が宗家を攻撃しても、宗家を援ける為に直ぐ動ける勢力がいなくなりました。
宗家は数年間抵抗を続けますが、他から邪魔がなければ、平戸松浦だけで充分。
平戸松浦には、改まって後藤の力を借りる必要がなくなり、貴明嫡男誕生もあいまって、惟明の後藤家における立場が弱まってしまう。

皮肉にも貴明は、実父である大村純前と同じような状況を招いてしまった。
我が子・晴明に自分と同じ思いをさせてなるものか・・・!
次第に後藤貴明と養子・惟明の関係が、ギクシャクし始める。

この間(1562年~1563年)、貴明は豊後のキング・大友宗麟に秘かに書簡を送り、翌年、同盟を結んでいる。
活発に動く後藤貴明の目的は、打倒・大村純忠であり、大村の家督を乗っ取った打倒・有馬だった。
それが実行に移されたのが、1563年だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【肥前後藤氏・六~貴明ー2】

1560年、後藤貴明は正室が早世し子供がいないことから、平戸・松浦隆信の次男・惟明を養子に迎えた。
(*´∀`)はてさて・・・面妖な。
貴明は未だ27歳の若さで、他家から養子を迎えるのは早すぎる。

ウィキペディア「後藤惟明」によると、
「(松浦)隆信が宗家の相神浦松浦氏と対立する中で後藤氏の支援を求めた政略的事情が、養子になった理由」とある。

(*´∀`)腑に落ちないな~支援を求められた方が、若くして養子を貰うって不自然じゃないこと?

松浦隆信次男・惟明は1545年産まれで、数え16歳。
未だ数え27歳の貴明が引き取るには、育ち過ぎてる。

松浦隆信の理由は、その通りで裏も表もないだろう。
後藤貴明の方でも松浦隆信の力が必要だったので、養子を貰い受けたに違いない。

松浦隆信は、すっかり関係が拗れた宗家を倒す為。
後藤貴明は、大村純忠を倒し、大村領を「取り戻す」為。

後藤貴明は有馬から横槍がなければ大村の家督を継ぐはずだった立場。
だから貴明にすれば単なる領土欲ではなく、有馬の介入で「奪われた全て」を「取り戻す」戦いなんです。
気持ちは理解できないでもないが、この微妙な養子縁組は後に禍根となって、貴明に皮肉な運命をもたらすこととなる。

人物・松浦隆信 松浦隆信イメージ画像
ちなみに隆信の「隆」は、大内義隆からの偏諱です^^/

さらに後藤貴明は他にも手を打っている。
1559年、ウロウロ・・・もとい亡命してた渋江公重と公師の兄弟を呼び寄せ、潮見城を守らせ有馬氏への備えとした。
別々に亡命してた兄弟の父・公親(貴明の亡き養父・純明の実弟)も潮見城に入ってるが、
コッチは兄弟が父を招いたのか、後藤貴明が公親も呼んだのか、その辺は判らなかったです^^;

かつての主と被官の立場が逆転したが、それも時の流れ無常の世の中。
肥前の複雑な政情で、自力で領地回復など到底おぼつかない。
「本城に戻れたのは、全て(後藤のお蔭じゃなくて)潮見明神の御利益(-人-)☆彡」
と、未だ46歳の若さなのに公親は、妙に信心深くなってたらしい。

1560年、ある意味、現実逃避気味の渋江公親に対し、有馬の謀略が仕掛けられたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【肥前後藤氏・六~貴明・1】西肥前強化期間リサーチ8武家目

日本初のキリシタン大名・大村純忠の人生に大きく影を落としたのが、後藤氏19代目貴明の存在だった。
個人的には、大村純忠がキリシタンに傾倒した大きな要因になったのではないか?とさえ感じてます。

18代目後藤純明は子宝に恵まれず、有馬氏縁戚の大村氏から養子を迎えたのが貴明でした。
後藤家に問題はない。揉めたのは貴明の実家・大村家の方です。

後藤貴明の実父・大村純前のウィキペディアだと、
純前は男子がなかったために有馬氏より純忠(有馬晴純・次男)を養子に迎えたが、
その後側室との間に実子の又八郎(=貴明)が誕生した( )内はシオ補足


・・・・あれ?ヽ(。_゜)ノ ??
大村純忠、生年月日:1533年
後藤貴明、生年月日:1534年3月
一歳しか違わないじゃん。昭和の早生まれ区分けだと、学校は同学年だぞ。
ちなみに大村純忠が跡継ぎ候補として有馬から大村へと養子に入ったのが、1538年(天文7)。
つまり大村家では、庶子とはいえ又八郎(=貴明)という実子がありながら、有馬から跡継ぎを迎えたんです。

これは・・・何処から見たって「有馬による大村の家督乗っ取り」( ̄ω ̄A;アセアセ
ちなみに養子に入った純忠ですが、さすがに赤の他人じゃありません。
有馬晴純の妻・・・純忠の生母は大村純伊(貴明・祖父)なので、貴明から見て大村純忠は従兄にあたります。

人物・有馬仙巌(晴純)
(企み中?有馬晴純イメージ画像)

有馬晴純の斡旋で、大村純前の実子・又八郎(貴明)がo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と後藤家に養子に出されたのが1545年。
ということは7年間、大村家において純忠と貴明は同じ館で起居してたかもです。

同居と言っても現代と違い、さすがに廓は違うはずで日常は別々でしょう。
でも重陽とか新年とか武家における諸行事では顔を合わせてるはずで、
となると又八郎の席順は実子でありながら、養子で従兄・純忠の下座。

又八郎、数え12歳。戦国の12歳は現代の12歳より遥かにシッカリしてます。
貴明の行動原理を見るに、実子でありながら家督を継げない事への屈辱に日々歯噛みしてたと思われます。
禍根になるのは明らかで、有馬晴純が又八郎の養子先を斡旋したのは当然の事でしょう。

大村家は江戸期に文書類を相当改竄してるんじゃないか・・・って疑惑があります( ̄ω ̄A;アセアセ
佐賀側ともデータに整合性がとれず矛盾があって、それで自分もお手上げで大村単独でのリサーチを諦めました。
で大村側の記録だと、大村純伊が渋江氏の助勢で有馬から旧領を奪回したことになってます。

これが既に真偽を疑われてます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
だって~伊勢詣でバッタリ出あい渋江公勢が大村純伊に同情して助勢を約束って、話が出来過ぎてる。
ただ丸っきり出鱈目じゃなく、華々しく勝利し旧領復活したって形ではない・・・というだけ。

実子がいながら、有馬氏からの養子と受け入れた事といい、大村氏は有馬と対等の同盟関係ではなく服属に近い状況だったんじゃないでしょうか。
数え12歳なら実家の苦しい状況は、100%じゃないにしても空気は理解出来ます。
大村家存続のために有馬の力は必要だったとなると、有馬を敵視することは我慢しなければならない。

養子に出された又八郎(=貴明)の、やり場のない恨みと怒りは、大村へ養子に入った従兄・大村純忠へと集中した。

実父・大村純前が純忠へ家督を譲ったのは、1550年で翌年1551年に亡くなった。
又八郎は後藤家へ行く前に、一度でも父に尋ねたのだろうか?
「本心では、我が子である自分に家督を継がせたかったんですよね?」
「勝童丸(純忠)より、自分の方が当主の器ですよね?」
聞いても後悔、聞かなくても後悔するだろう、永遠の問い。
貴明の純忠に対する憎しみは、現実に純忠が大村の家督を継いだ事で、いっそう増したに違いない。

純忠が存在するのが許せない。
純忠への憎しみで、息するのも苦しい。
髪の毛の一筋全て、大村から純忠の痕跡を消し去りたい。


後藤貴明の純忠に対する憎悪の激しさは、後藤家の外交方針にも影を落とす。
純忠にとって不幸だったのは、後藤貴明が器量優れた人物だったことだ。
その為、大村家臣の中でも貴明当主を諦めきれない「貴明派」がいて、純忠の一挙手一投足を批判的な目で見てた事です。

「大村家の家督」は純忠にとって地獄の業火だった。
文字通り、針のムシロ。
この広い世界で、臓腑を引き裂きたいと思うほど自分を憎む者がいる・・・
純忠の精神は「実家・有馬の勢力拡大の為(`・ω・´)キリッ」と開き直れるほどタフじゃなかったらしい。
1563年、大村純忠はキリシタンの受洗を受ける
純忠の受洗が、後藤貴明と大村純忠の対立を決定づけたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【肥前後藤氏・五~純明(すみあき)後篇】

1530年(享禄3)有馬晴純の武雄攻略が始まる
有馬晴純は塚崎城を攻め住吉城に迫った。
史料では黒髪城ってなってるみたいなんですが、住吉城(黒髪山の麓)の事です^-^

純明は、勝利を黒髪山に祈願(-人-)☆彡
三間坂(山内町大字三間坂)の白水原に陣取っていた有馬軍を奇襲して勝利した。
このとき、戦勝を祝って足軽達が踊ったのが今も続く武雄の郷土芸能「荒踊り」だそうです^^

その後、純明と有馬晴純は和睦し、純明は有馬晴純の妹と結婚し、両者は義兄弟の間となった。
武雄の後藤が有馬と同盟関係になったことで、有馬勢の軍行動が頭一つ抜け出た状態へと飛躍します。

1530年・・・田手畷の戦いで活躍した龍造寺家兼勢が、その武勇を肥前国に轟かせた年でした。
ここから、西と東の肥前戦国史が大きく交差し始める。

天文4年(1535年)、純明は有馬晴純を助け龍造寺家兼と藤津郡で戦い勝利する
はぅっΣ(´Д`;)これ、北肥戦誌に記載ない西肥前サイドのデータだ!
多分、でまかせじゃないと思う・・・龍造寺って剛忠(家兼)の代では藤津郡での戦で勝った事がないんです。
この頃の龍造寺は、アゥエーで単独で勝てるほどの力は、残念ながら未だありません( ̄ω ̄A;アセアセ

1540年(天文9)千葉喜胤が杵島郡に進出してきたため、純明は有馬軍に加わって千葉軍に勝利する(byウィキペディア)
北肥戦誌記述:有馬義貞が小城の千葉氏を攻め、杵島郡以西を奪った
北肥戦誌は千葉氏としか記載してないので、千葉の西か東か判断しかねてました。
が、千葉喜胤ならば東千葉氏の方です。
いずれにせよ有馬氏は、六角川流域までエリアを広げました。

1542年(天文11)渋江公勢の三男・公親(後藤純明の実弟)が長島庄の旧領を回復すべく、岸岳城・波多隠岐守と平戸城・松浦肥前守と共に攻め入る
後藤純明は防戦するも失敗し、住吉城に退却する。

渋江公親は長島庄を回復し日皷岳城に復活(=^・ω・^=)v ブイ
前回書洩らしたが、公親クンのママンは隠岐の波多氏出身で、公親クンは波多氏の保護下に入ってました。
パパ公勢が毒殺された時に13歳だった公親クンは、数え29歳の青年に成長してます。

ちなみに後藤純明は実父が毒殺された時に剃髪し月湖浄圓と名乗り、冥福を祈ってました。
それと純明の頃から後藤氏は本城を塚崎から住吉城に替えてたっぽい?みたい?です。
住吉~塚崎~って行ったり来たりしてるんで、どっちが本城なんだか区別が~~(_´Д`)アイーン

その僅か3ヵ月後、純明は日鼓岳城を攻略し、公親をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
ピンチが去った後藤純明は、居館を住吉城から塚崎城へ戻したそうで、やっぱメインは本貫地・塚崎城か?(@@)
渋江公親は龍造寺家兼を頼って佐嘉へ。
何時の間にかこさえた公親の息子・公師と公重は、肥後へとそれぞれ亡命しました。

1544年~1545年にかけて、少弐家臣・馬場頼周の龍造寺抹殺計画が始動!
有馬と縁戚・同盟関係だった後藤純明も、この陰謀に協力してたそうです。
純明が協力に応じたのは、有馬との同盟関係だけでなく、旧主で実弟の渋江公親が龍造寺を頼って亡命してたのが大きな理由だと思います。

さて養父で実祖父の後藤職明も男子に恵まれなかったのですが、どういう訳か純明も子宝に恵まれなかった。
そこで有馬の縁戚で準一門ある大村氏から養子を迎えたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【肥前後藤氏・五~純明(すみあき)中篇~】

後藤氏は渋江氏との絡みが多いため、他のリサーチより長くなってます^^;



橘姓渋江氏、最盛期当主・公勢には、後藤家の家督を継いだ長男・純明の他に二人の男子がいた。

次男・公政
三男・公親

で、共に日鼓岳城で暮らしてて、家族団らん・・・のはずが不穏な空気に・・( ̄ω ̄A;アセアセ
というのも公勢は跡継ぎに三男の公親を指名するという、揉めそうな決定してたからです。

決定時、三男・公親は元服も未だの少年。
三男の生母の身分が高かったのだか、よほど公勢の寵愛を受けてたかは不明ですが、当然次男サイドは不満で一杯。
特に熱心だったのが次男・公政の乳母で、「次男若君を当主にする為」と公親毒殺を画策した。

1527年(大永7)三月のある日、公勢は公政・公親と鞠遊びに興じ(蹴鞠の練習かな?)、年若い公親が飲み水を所望した。
チャンスとばかりに次男乳母が素早く毒を注ぎいれた水を用意し、差し出した。
ところがココでトンデモナイ計算ミス発生!!

次男乳母が差し出した毒入り水を、当主である公勢が受けとり飲んで、更に次男の公政に進めてしまい、次男は毒入り水の残りを飲み干してしまった。
次男乳母 アッ━━(゚ロ゚;)━━!!って、思った時には既に手遅れ。
公勢も乳母の大事な大事な次男若君も儚くなった(-人-)☆彡ドンダケ強イ、毒盛ッタンダ・・・

次男乳母がどうなったかは不明です。
即死するほどなら、毒を混入したのはバレバレだろうから、次男乳母は最初から自分の死は覚悟の上だったはずです。
己の乳を含ませた次男若君の死で錯乱自害か、毒混入画策が発覚して殺されたかのいずれかでしょう。

とにかく助かったのは、長幼の列を守って大人しく水を飲むのを我慢してた三男・公親クン13歳だけ。
「所望したのはワシじゃ、ワシが飲む~」ってせがむような行儀悪い子だったら、次男乳母の思惑通りだったのにネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
混乱の中、渋江家当主となった公親だが、13歳では自身で統治が出来るはずもない。
そこに付け込んだのが、実兄である後藤純明。
後藤純明は渋江氏攻略を開始し、長島庄をゲッツ(=^・ω・^=)v ブイ

喜びも束の間。
1530年(享禄3)有馬晴純の武雄攻略が始まる
有馬勢は、後藤の本城である塚崎城(武雄市役所の側)を攻略。
さらに住吉城(黒髪山の麓)にまで迫ったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【肥前後藤氏・五~純明(すみあき)前篇~】西肥前強化期間リサーチ7武家目

突然ですが、橘姓渋江氏は渋江公勢の代が最盛期だそうですよ~
って、他人事っぽい書き方になるのは、一度衰微してた渋江氏が勢力拡大した経緯が不明だからなんです。

『橘家渋江由来記』によれば、公勢は武威を振るい、上松浦の波多興信、杵島郡塚崎の後藤職明、藤津の原越後守、白石の白石道勝、多久氏、平井氏ら、近隣の諸領主は人質を出して公勢に属していたとある。
(参照サイト:武家家伝_渋江氏より)


根拠となる文書が乏しいのだが、うっすらと勢力の大きさを辿れる傍証がないわけではない。
渋江氏は公勢の代で本城を潮見城から日鼓岳城に移してます。

日鼓岳城、位置データ:武雄市若木町大字本部
え~っと城の遺構は絶望的な状態でして、かろうじて城跡の標識が残ってる程度^^;
日鼓岳という地名は残ってなくて、現代の八幡岳になります。

ここで注目なのはモチ住所ね(^ -)---☆Wink
日鼓岳城があった若木町大字本部は、馬渡(もうたい)氏の川古より2km強ほど北。
渋江氏本貫地である長島庄からだと10km弱ほど北に位置してます。

本城を長島から若木町の日鼓岳城に移したって事は、その分だけ渋江勢力エリアが広がったってた事になります。
日鼓岳・・・現在の八幡岳は眺望最高の夜景スポット。
武雄市、唐津市、佐賀市を見渡せる山頂の光景は、まさに最盛期の渋江氏本城に相応しい場所です。

>近隣の諸領主は人質を出して公勢に属していたとある
ここも注目。
ということは、後藤職明の娘は人質を兼ねた側室だった可能性が高い。
そうなると、いろいろ得心・符号します。

渋江家から養子に入って後藤の家督を継いだ純明(職明の外孫)は、実は公勢の長男( ゚д゚)ンマッ!!
純明が渋江を出て後藤の家督を継ぐ・・・
それ即ち純明は渋江家の長男であっても嫡子ではなく、生母(後藤職明娘)が渋江公勢の側室だったって事です。

当然、力関係は「渋江公勢>>>>>>超えられない壁>>>>後藤氏」なのね。
15代目英明から塚崎と長島の地頭職を兼務してた後藤氏ですが、何といっても長島庄は渋江氏の本貫地。
渋江が勢力を取戻し&室町幕府が衰退した戦国初期、ともなれば後藤氏の地頭職の権威を振りかざすのは無理だったと思う^^;

1504年(永正元年)、渋江公勢は軍勢を催し没落してた大村純伊に助勢を約束。
1508年(永正4)渋江は軍勢を動員し、大村は有馬からの領地奪回に成功する

とあるのだが、これが大村サイドの記録なので真偽が怪しい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
だって伊勢詣で大村純伊と渋江公勢が偶然出会い、大村の境遇に渋江が同情してウンヌンって、話が出来過ぎよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

とにかく渋江公勢は近隣の国人に動員をかけられるほどの勢力を誇っていたらしい。
ちょっとした戦国大名に近い状態だったのだが、最盛期と没落は常にカードの裏表・・・
悲劇が起きるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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