【策~有馬VS龍造寺】龍造寺隆信「展」の巻3

1562年(1563年説有り)、ついに有馬と龍造寺が激突した。
3月中旬に布陣し、そのまま双方睨みあうまま6月も半ばになった。

松浦家世伝(本伝・道可公伝)によると1563年(永禄6)まで横辺田は有馬領だったらしいんです。
横辺田の百姓たちは有馬の本拠地・日野江(島原半島)が遠くて○役を納めるのがシンドイ(´・д・`)
(○の部分は意味不明・何かの雑役か納税らしい)
で、1563年【6月】に、百姓たちは有馬から龍造寺に寝返った,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
しかも百姓らは有馬からの報復に備え、城(砦クラスか?)まで作って武装化してたそうな(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

「有馬VS龍造寺」には1562年説と1563年説があるので、有馬が布陣してたエリア横辺田の百姓衆の動きが興味深いですな( ゚Д゚)y─┛~~
前年の戦の余波で百姓衆が有馬から龍造寺に租税先を変えちゃったのか。
はたまた、1563年の百姓衆の動きが戦端を開いたのか、本伝の記述だけだとどっちともとれるな~^^;

(以下、緑太文字は北肥戦誌より抜粋)
そんな中、有馬に所縁のある馬渡俊光という者が、隆信に対して忠を為さんと、
一族の野田右近允と密談し、有馬へ「隆信を討つから兵を出してくれ」と使いを出した。


リサーチ記事でも触れたけどおさらい^^b
馬渡(もうたい)氏は1533年に後藤純明に攻撃されて、当主(馬渡甲斐守俊明入道笑岩)が討死し、一族バラバラになったんです。
嫡流サイド(戦死した笑岩の子供)は有馬側で御家再興し、須古城主・平井経治と共に六角川防衛ラインの守りにあたってます。

庶流・・戦死した笑岩の叔父の息子たちが龍造寺胤久・胤栄と村中龍造寺に仕えてました。
ここでポイントなのは、策を講じた俊光ってのが「次男」ってとこなんです。
おそらく、この一戦を出世のチャンスと思ったんじゃないでしょうか^^

有馬勢はこれを策と知らず、島原彌七郎に人数を与えて船で砥川まで差遣させた。
この兵船が柳津留に入ると、馬渡俊光は牛尾山に合図の火を上げる。


地図・今回は挫折 il||li _| ̄|○ il||l

これに東から鴨打・徳島数百人、西から野田・乙成勢が出陣、兵船を取り囲み、雨の降る如くに矢を射掛けた。
謀られたと気付いた有馬勢は船を漕ぎ戻そうとするも叶わず、船底に隠れたり、干潟に飛び込んだりと為す術無かった。
佐嘉の地下人らはこれに手を叩き、声を上げて、雄叫びながら武槍で突いて回ると有馬勢数百人が討たれた。
島原は攻撃を払いながら牛津江の大戸ヶ里まで船で逃れながら鴨打勢と戦ったが、有馬勢40余人が討たれた。
但し鴨打勢も50余人が討ち死にした。


>牛津江の大戸ヶ里

んと・・・あ、ここ、ここ⇒佐賀県小城市牛津町勝字大戸ケ里・・・|ぐぅぐる|_ ̄)じぃー
ゴシゴシ(-_\)(/_-)三( ゚Д゚) ス、スゲー! ガチでクリークだらけだ(爆
干拓もされてるみたいだな~~こりゃ、戦国期とは河川蛇行も変化してるっぽいな。
そもそも六角川と牛津川は現代のように合流してなくて、戦国期は河口が別々の河川なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

現代だと佐賀バイパスや道路で分断されて河川から300m弱離れてるんですが、戦国期は船で行けたみたいですね。
もしくは河川逆流現象で浸水してたかな?
牛津江も逆流現象を解消するための排水機場が作られてるので、往時の雰囲気(自然・景観)はないと思います。

これを隆信へ注進すると、隆信は大いに喜び馬渡へ100町を与え、馬渡信光と改名させた。
また鴨打ちへは小城の右原80町を加増し、徳島らにも其々恩賞を与えた。


100町安堵~~120町となってる記録もあります^^/

>馬渡信光と改名させた

おお!隆信の信の字、偏諱を受けたんだ^^オメデトーーー

物事は最初が肝心。
この龍造寺側の勝利で一気に局面が変化するのだが、それは・またの話 by^-^sio
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【布陣~有馬VS龍造寺2】龍造寺隆信「展」の巻

1562年北肥戦誌曰く(以下、緑太文字は北肥戦誌からの引用)
豊後の大友義鎮は少弐再興の為に資元の三男・政興を立てんと図った。
大友は政興を筑後へ呼び寄せた上で、上松浦の波多 鎮(親)、その実父である高来の有馬越前入道仙巌(晴純)へ少弐再興を相談する。


西肥前リサーチで紹介したが、西肥前のキーとなる動きが「松浦党宗家と分家・平戸の争い」だった。
もともとは有馬が介入したのが先なんだけど、松浦宗家(もしくは有馬)が少弐氏にも援軍を頼んだらしい。

当時の少弐当主は「(少弐を再興し五州太守として太宰府でブイブイ言わせてた頃の)少弐政資」でした。
少弐政資は貿易港・博多も抑えて、朝鮮交易でガッポリ稼いでたそうです。
てことで、有馬ら松浦宗家サイド武将は「少弐政資の軍役に応じる」という形になり「少弐被官」という経歴がつくことになる。

松浦政(宗家)は少弐政資の孫娘(高経娘)を正室に迎えてまして、
二人の間に産まれた松浦親(少弐政資から見て曾孫)は、波多興の娘を正室に迎えてました(1518年)

波多興の息子・盛(さこう)の正室が有馬晴純の娘(or孫)真芳で、二人に子がないまま盛が死亡した為、
有馬晴純の息子を養子に迎えた。それが波多鎮(=後の親)です。

ちなみに少弐と大友の同盟関係ですが、両家は婚姻による縁戚関係でした。
少弐政資の嫡男・高経と大友政親(16代目当主、宗麟の曽祖父の兄)の娘が結婚してます。
(ただし二人の間には男子がないまま、少弐氏が大内に敗れて高経が自害する)
で、政資の生き残った息子・少弐資元の正室が大友親治(18代目当主、宗麟の曽祖父)の娘が・・以下略。

てことで過去の被官歴と縁戚関係を芋づる式に辿ると、大友や有馬や波多に「少弐再興の為に働く由縁」が無い訳じゃなく、
介入する為の大義名分は立ってます^^/

家紋・少弐(縁戚の縁戚は、みな縁戚だぁ~広げよう少弐再興の和♪)

父(有馬)子(波多鎮)は同意し、波多家は松浦党に加え、田代因幡守、馬渡甲斐守らに準備させ、
仙巌は嫡子・有馬義直(義貞)に人数を与えて、大村純忠の士卒と共に多久へ向かい、
多久宗利を味方に付けて龍造寺攻略を企てた。


これに西肥前の者達が与する。
彼杵郡の西郷純堯、矢上幸治ら、下松浦の松浦 親(←宗家当主)、山代 清、伊万里 直ら、
杵島郡の平井経治(←須古城主)を始め、白石・永田・吉田・嬉野(宇禮志野)・原・上瀧が、
高来には安徳・安富・神代(←こうじろ、山内の神代とは別人)・島原・多比良・千々石らが打ち出て、
先陣は3月17日に杵島の横辺田まで攻め来る。


これって、どのくらいの動員だったんだろう。
面子だけだと、かなりの兵力になるな・・
あ、杵島の横辺田は前回紹介した杵島郡大町です^-^

隆信はこれを聞き、急ぎ老臣らを集め評定を行い、一族の他に鍋島信房、鍋島信昌(←若き日の殿♪)を始め、
小河・納富・福地らを横辺田へ差し向け、小城郡の高田村に陣取った。


小城郡高田村は、相当古い呼称だったようで、どうやら小城市三日月町付近だったみたい。
高田村は同じく小城市三日月町長神田と水争いした記録が、長神田側に残ってるそうです。
横辺田とは8km弱離れてるので、けっこう遠いな・・・|ぐーぐる|_ ̄)じぃー

これに千葉胤連も家人を催し、蘆刈の鴨打胤忠、徳島土佐入道道可、徳島長房、徳島信盛を始め、
今川の持永盛秀以下、空閑・粟飯原・桃崎・橋本も龍造寺に加勢の軍を出し、丹坂口へ打ちだした。


丹坂口・・これは丹坂峠の入り口で、小城市小城町だから隆信が布陣した高田村(三日月町)の1km未満という近所^^
どうも地形が土地開発で変遷してるようで、峠らしい跡が見当たらない^^;

目印としては丹坂峠古墳なんだけど、遺構は専門外なんで判りません。
とりあえず古墳を目印に辿ると丹坂口の位置は、小城市小城町栗原です^^
ん~~~これは旧長崎街道沿いじゃなくて、唐津線・・・多久方面になるかも。

これに有馬は横辺田に陣を張ったまま動かず、6月も半ばとなった。

実は最近読んだ北島先生の論文で知ったんですが、横辺田は1563年(永禄6)までは有馬領だったそうなんです。
(出典:松浦世伝---道可伝)
つまりお互いに自分のエリアから出ないで挑発しあってたわけでして^^;

睨みあうまま長陣となった両軍に変化が起きるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【エリア横辺田~有馬VS龍造寺1】龍造寺隆信「展」の巻1

肥前国における西と東の最前線・・・・一番、判り易いのが六角川を目安にする事です。
で、彼らが激突する時に、しばしば史料に登場するのが「横辺田」という地名です。

なんで肥前の皆さん、ここでばっかり戦うのでせうか・・・
今更なんだが、やっぱり気になって【ぐーぐる】__φ(.. ) 検索検索

横辺田という地名は現代では残って無くて、杵島郡大町になります。
で、江戸時代は代官所がありました。
代官所がある場所って、色々便利な要衝地の事が多いです。

(-ω-)ん~~どう要衝地なんだろう・・・
検索しても具体的なものが出なくて、ちょっと苦労しましたがヒントは旧長崎街道でした。

横辺田は旧長崎街道が通ってて、横辺田から半径7km四方に小城市、多久市、白石町、武雄市と通じてます。
集合離散?するには持って来い。

さらに河川から程よく距離があるので、逆流現象による浸水の心配がない。
ちょっと北に行けば山野なので、地形を利用し布陣可。
山野から下がれば平坦な土地で適度に広く、陣を展開するのに丁度(・∀・)イイ!

六角川流域は有明海の満干潮からくる逆流現象で湿地帯や泥土が多く、
足元を気にせず人馬が駆け回れるバトルフィールドは、自ずと限定されます。
それが「エリア横辺田」でした。

1562年(1563年説有り)有馬VS龍造寺隆信の本格的ガチンコが起きるのだが、
その始まりの引き金を引いたのは、キングオブ九州・大友宗麟だった。


人物・大友宗麟

豊後の大友義鎮(宗麟)は、長年同盟関係だった少弐氏再興のために、資元の三男・政興(つまり冬尚の弟)を立てんと図った。

少弐氏が中々滅びないのは、ご本人が子沢山・亡命し慣れてる~というだけでなく、神輿として担ぎ出す勢力が必ずあるからです^^;
自分は九州専門なので他の土地は知らないんですが、九州という地方は守護の権威が失墜するのは早かったと思います。
ただそれはそれで、地域によってバラつきがあるんですけども^^;

更に「守護職はOKだけど、探題職に従うのが(´・д・`)ヤダ」って気持ちも大きい^^;
これはやはり九州が南北朝の争乱を引きづり過ぎたからではないかな~とボヤンと思ってます。

が、失礼ながら遠国(京都から遠いという意味)なので「守護職という権威を敬う気持ち」も色濃く残ってます。
(と言いつつ北肥後だけは完全にフリーダムだったりする,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)
この矛盾する状態が、名門といわれる武家が中々滅びない事の最大の理由だと思います。

それと大友が少弐再興を言うのは、上位権力者である大友の義務というか・・・
とにかく九州探題にして肥前守護職である大友氏は、同じく守護職に連なる名門少弐氏を保護すべき立場なんです。
少弐氏本人が大友に直接噛みついて来ない限りは、バックアップし続けたと思います。

だからこそ少弐という武門の家が持つ「守護職の権威」に対し、最後のトドメを指すまで手を緩めなかった龍造寺隆信は新しい時代の英雄だと感じます。

北肥戦誌曰く
大友は政興を筑後へ呼び寄せた上で、上松浦の波多鎮(後の親)、その実父である高来の有馬越前入道仙巌(晴純)へ少弐再興を相談する。


大友義鎮が有馬にコンタクトをとったのは、肥前で龍造寺に対抗できる勢力というだけではないかもです。
西肥前リサーチ期間に知ったんですが、かつて有馬氏は少弐氏被官(ひかん=家臣)だった過去があるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【鶴田氏~8・分家と本家、最後の明暗】

日在城鶴田明(本家嫡男)は後藤家信に対し、忠誠を誓うと同時に「波多との関係修復復活はない!(`・ω・´)キリッ」と起請文(1578・4・14)しちゃってます^^;

鶴田明は波多に謀殺された直(ただす)ジーちゃの顔も知らないんですけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
当主だけでなく、嫡男の明も起請文することで本家一族の総意であることをアピールしたのかもです。

と、いいますのも。
龍造寺隆信は波多鎮へ自身の養女を嫁がせ縁戚関係になると、上松浦の諸氏に対して波多氏の幕下につくように命じたからです。( ̄ko ̄)

波多に従属するのを頑強に拒む日在城鶴田因幡守勝に対し、隆信は当然立腹。
鶴田本家は助命されたものの、本城である日在城を追われちゃいました ショボーン..._φ(・ω・` )
領地を失った鶴田本家は後藤家信を頼り、正式に後藤家臣となります。

一方、獅子ヶ城の鶴田賢ですが、彼は非常に信仰心厚い温厚な人柄で、父の前と違い波多氏との親睦も復活させてました。
で、龍造寺の命に従い波多氏家臣となります。
兄に同心しないもん~~と飛び出してた賢の弟も、日在城鶴田氏が後藤家臣となったので、獅子ヶ城に戻りました。

これでめでたしめでたし・・・にならない。
波多氏が豊臣秀吉によって改易されちゃったからです・・・il||li _| ̄|○ il||l

波多家臣は四散しちゃって鶴田分家がどうなったか素人では辿れませんでした。
ですが獅子ヶ城鶴田氏の記録である「岩屋家譜」の成立年度は宝暦年間なので、子孫は続いてたようです。



話は飛んで慶長年間。
自分は過去記事で後藤で龍造寺で武雄で鍋島な茂綱が、一時廃嫡ピンチになったことを何度か書いてます。

WEB上で詳細が判らず、てっきり関ヶ原の動員に病で遅参した失敗のせいかと早とちりしてたんですが、
違った( ̄ω ̄A;アセアセ
廃嫡ピンチは「朝鮮の役」での話でした。

父・家信が病になり現地でダウン~公務不可で帰国したために、嫡男である茂綱が代理で朝鮮へと赴いてました。
当時、茂綱は数えで18歳。
家臣たちは未だ若年ゆえ公務は無理じゃね?(*´・д・)(・д・`*)っと家督相続について論議した。

その結果、後藤家臣の主だった30人ほどが連判でもって鍋島忠茂(直茂の次男)を家督にと申し出ようとした。
(てとこを見ると、病中の家信に意向を尋ていない家臣の暴走っぽい)

その時に鶴田善右衛門明が
ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.「茂綱、若年といえど朝鮮御陣を務め、諸国の大名とも知り合っているのに何が不足だぁ!!!」
と、茂綱当主を強く支持して、家督問題に対して衆議を取りまとめた(出典:後藤家戦功記)

慶長3年11月8日付の鶴田文書には茂綱の家督継承が鍋島直茂&勝茂に承認された事が記されており、後藤家戦功記との記述と一致してます。
この時のリーダーシップ・器量をかわれた鶴田善右衛門明は、後藤家の家老として茂綱の執政を支えたそうです^-^




今回の記事に関しては鶴田氏・1で紹介したように、鈴木 敦子著「肥前東松浦地域における国人領主鶴田氏の動向」を参照しました。

お蔭で北肥戦誌にはない、上松浦の動向がかなりクリアになり非常に勉強になりました^^
論文を紹介して下さったブログ友様には、心から御礼申し上げます。

さて西肥前リサーチシリーズはひとまず終了です^^
思わぬ記事数の多さに自分でもビックリ^^;

次からは本編に戻ります~ちとブランクあいちゃったんで、じょじょにエンジンかけていきますので、宜しくお願いします。
ではでは。。。それは・またの話 by^-^sio

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【鶴田氏~7・龍造寺四家、武雄後藤家信系誕生】

1576年(天正4)1月、この段階では獅子ヶ城は、龍造寺長信(隆信実弟)の多久勢と小待で合戦してました。
ちなみに最近読んだ論文で知ったんですが、龍造寺長信の「長」は大内義長からの偏諱でした。シランカッタ
大内義長は大友義鎮の異母弟で大内義隆亡き後に、陶晴賢が擁立した傀儡当主です。
(相変わらず、龍造寺隆信は自分では大内義隆以外からの偏諱を受けないのね^^)

ところが同年3月15日付の後藤貴明が出した起請文によると、
「日在(ひあり)城本家・鶴田氏の相談なしに、獅子ヶ城鶴田氏が龍造寺サイドに寝返ってる事が記されてます。

後藤貴明は鶴田因幡守(本家当主)に対し(寝返った)獅子ヶ城とは別儀・・関係を絶ったと表明してます。

3月の段階では鶴田越前守前は存命してました。
今までの彼の行動では、何事も日在城鶴田本家と連携してたので、相談なしにってのは不自然です。
もしかしたら連絡したくても出来ない・・・直道(連絡用ルート)を龍造寺勢に押さえらたのかも。
直道ったって、秘密の地下道や鍾乳洞って訳でなく、ちょっと?クネクネした山坂峠ある間道だってだけで隠してる訳じゃないからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

獅子ヶ城の龍造寺寝返り(降伏?)が本気だったのか、いつものように帰順したと見せかけてリベンジするつもりだったのか。
同年6月22日に鶴田越前守前が戦死してしまうので、今となっては不明です。

同年12月12日付、龍造寺下総守康房(鍋島直茂実弟)が、日在城鶴田本家当主の弟に起請文を出してます。
要約すると
1)佐賀・武雄の間で和議が行われたら、後藤貴明&晴明(=貴明嫡男)に対し隆信親子は粗略にしないように、下総守兄弟(=鍋島直茂兄弟)が尽力する
2)後藤貴明から人質を出してくれたら、佐嘉から難題を出さないように下総守兄弟(以下同文な件~)

龍造寺では、日在城鶴田氏本家を後藤との交渉パイプとして認識してて、和睦の為に水面下で交渉してたようです。
この段階で和睦交渉がスンナリ進んでいたら、後藤家の歴史が違ってたかもだな~
1577年(天正5)2月に提示された和睦条件は、もう龍造寺による後藤氏家督乗っ取りに近い状態でした。

一方、龍造寺に与した獅子ヶ城鶴田氏ですが、前(すすむ)以降は足並みが乱れまくってます。
前亡き後に分家当主となった鶴田賢に対し弟が「兄とは同心しない(`・ω・´)キリッ」と分裂しちゃんです(天正5・3・14)。
獅子ヶ城の龍造寺帰服時期の出典は「歴代鎮西志」なんですが、鈴木先生は「帰服は前の死後じゃないだろうか」って書かれてます。
兄弟決裂は、一族をガッチリまとめてた前(すすむ)死後の政治的混乱から来た、と解釈するのが自然だからです。

1577年(天正5)4月24日、隆信三男・善次郎家信が後藤貴明の養子に、後藤貴明嫡男・晴明が龍造寺隆信の養子に、
双方の養子縁組が正式に整った。


同年7月2日、後藤氏の家督を継いだ善次郎家信(隆信三男)に対し、日在城(本家)鶴田因幡守勝と嫡男・明が忠誠を誓う
これによって日在城・鶴田本家も、龍造寺の傘下に入った。

この時期の後藤家には、各方面からの起請文が次々と舞い込んでます^^;
武雄後藤氏新当主・家信に対し忠誠を誓う起請文でして、従来の利権を認めてもらう為ですから周辺地侍は必死です。
家信は彼等への返信・起請文___φ(.. )花押カキカキ に追われた事でしょう。

さて、武雄後藤氏が龍造寺一門に組み入れられた事で、鶴田氏の運命も大きく変化するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【鶴田氏~6・勇将・鶴田越前守前、死す!】

後藤貴明の養子・惟明が家督を実力で養父から奪おうと謀反したのが1574年(天正2)6月22日。
城を占拠された貴明は、奪還のために敵対してた龍造寺から援軍を受けました。

惟明は、後藤貴明が平戸・松浦との同盟の証として貰い受けた養子なので、松浦関係者からの援軍は100%無理。
貴明は反有馬だから有馬から援軍してもらうのも絶対(´・д・`)ヤダ
残る援軍のアテは龍造寺だけだったんです。

で、翌月の7月8日には、後藤貴明を両鶴田との間で起請文の交換がありました。
「鶴田越前守殿父子三人之儀、貴明身命之限、差捨申間敷候」
後藤貴明は、今回の件で両鶴田が離反し政治的に孤立するのを恐れてました。
ですが二日後の7月10日には、後藤貴明は龍造寺隆信との和議を余儀なくされます。

当然、松浦道可(隆信)は怒ってました。
松浦道可から鶴田前への手紙に「武雄の取り乱しようはけしからん!」と言ってます。

一方、後藤貴明からも両鶴田氏宛に手紙が送られてます。
「佐賀への同心(和睦のこと)も戦法です~もしウソだったら詰め腹切ります!」
さらに追記で
「両鶴田と私は永久に不滅・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!

「永久に両鶴田と私(後藤貴明)は一体であるから、見届けて欲しい」
「今度なんとか渋江山城守には腹を切らせた」

あちゃ~実は本編で話すつもりで後藤貴明編では敢えて紹介しなかった渋江ネタです。
元々は後藤氏の主筋で今では後藤配下に転落した渋江氏の公師なんですが、どういう訳か惟明謀反に際して惟明に味方してたらしい素振りがあったんです。
また後藤が激しく憎む大村純忠。
彼の助命に関しても渋江公師が仲介してて、後藤貴明はダブルで怒りMAX。

ですが肝心の謀反加担の確証が掴めず、渋江一族の者に詰め腹を切らせる事で怒りの鉾を治めたらしい^^;
ちなみに渋江公師は、これを機に後藤家を離れて龍造寺に直接帰服しました。

上記・後藤から両鶴田への手紙では「鶴田と平戸・松浦との関係は前々通りである事を望む(-人-)☆彡オネガイ」
と書かれており、松浦道可(隆信)との関係修復を鶴田前に頼んでたようです。

鶴田氏は松浦・後藤・波多などが絡む複雑な人間関係とは無縁だったので、後藤貴明・松浦道可の双方にとって本音を言いやすい相手だったみたい。
間に挟まれる方は大変だったと思うけど^^;

北肥戦誌には書かれてないですが、岩屋家譜によると鶴田越前守前が戦死したのは1576年(天正4)6月18日です。
城外に打って出た壮烈な戦死だったと伝えれらてます。 (゜-Å) ホロリ

サイト武家家伝ですと「波多鎮・伊万里治・有田盛らが有馬氏にそそのかされて、隆信に従っていた獅子ケ城を攻撃してきた。」
となってるんですが、岩屋家譜だと「公(鶴田前)は佐賀に背いた」とあり、情報が錯綜してて状況がイミフです^^;

くどいようですが、後藤貴明と平戸・松浦道可との仲介役は、勇将・鶴田前の仁徳あったればこそでした。
龍造寺との和睦が本意でなかった後藤は、1575年に龍造寺と決裂してたんですが、
前(すすむ)が死んだ翌年1577年2月に、後藤は隆信の実子に後藤の家督を継がせるという厳しい条件を含んだ再和睦を受け入れました。

鶴田前の死去に関しては、1576年8月19日に大友宗麟も鶴田氏に対し書状を書いてます。
「父越前守死去之由、無是非候」とあり、前の息子たちへ今後も兄弟で大友に尽して欲しいと書き送ってます。

大友の守護職としての肥前支配における調停機能には、国衆の間でキーパーソン(仲介)役だった鶴田前の存在は必要不可欠でした。
前(すすむ)の戦死は、大友の東松浦地方における支配において、大きな損失だったんです。

そして1576年から、両鶴田と称されるほど同一行動してた鶴田宗家と分家の動きが別々になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【鶴田氏~5・大友へ忠誠】

大友の肥前支配・・・
龍造寺の動きに気を取られると、大友が何もしてないようにしか見えないが、何もしてなかった訳じゃないんです。

堀本一繁氏の論文・・・あれ?どこに置いたっけ?
やべ~神代勝利公に対する解釈部分が気に入らなくて、どっかに突っ込んじゃった アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

あ~あったあった・・・ゲフゴホ、ちょっと横岳氏の話に逸れます。
(少弐一門で、西千葉氏当主は横岳一門から入った養子です^-^)
少弐氏滅亡後、横岳氏は大友氏に属し、1570年11月8日に横岳鎮貞は三根郡矢俣300町&西町200町を安堵されてました。
それを1572年4月に龍造寺隆信が横岳の西島城を攻撃。
(横岳の前に筑紫氏も攻撃してます)
領地を侵された横岳氏は大友氏へ訴状出してまして、大友では紛争解決の為に働きかけてます。
堀本氏の論文によると1572年9月時点で、調停の為に文書の遣り取りしてますが、既に龍造寺では横岳から分捕った米田村100町を配下の姉川さんに与えちゃってました^^;

大友は横岳に対し「堺目静謐之儀」に背く隆信へ「申談じた上」で、それでも「止めない場合には討伐する」と回答してます(参照:同論文、出典:横岳文書)
肥前守護職として大友は紛争解決に対し
「当事者間による解決を促す⇒不首尾⇒大友から紛争調査の検視派遣⇒不首尾⇒ここで討伐軍発動」
と言う手順を踏むのを律儀に貫いてまして、つまり時間がかかるんです。

この間に龍造寺は自由に動き回ってるわけで^^;
調停に従わない龍造寺に対し、大友が軍事権を再発動しなかった理由は・・・う~ん自分も判りません。
この頃は筑前でも大きな謀反なかったんで、その気なら動けたと思います。

とにかく大友義鎮は対話(調停)による解決を模索し、どうしてもダメな最終手段としての軍事権発動という認識だったみたい。(どっかの国連軍みたいだ)
で、横岳が領地を侵されてる状態(現在進行形)は、最終手段を行使する状態と判断されなかったんでしょうか?(横岳涙目)
このあたりが「典型的な守護による領国統治」として、研究者が大友氏をあげる理由なのかもです。

人物・大友宗麟

時間がかかる調停の間に龍造寺はヒャッハー~1573年12月には、鶴田の獅子ヶ城を攻撃したのだった。
大軍に抗しきれず鶴田越前守前は降伏開城。獅子ヶ城には龍造寺から城番が置かれた。

んだけど、鶴田前(すすむ)は早々(4日後だったらしい)に獅子ヶ城を奪還(=^・ω・^=)v ブイ
再び本家である日在(ひあり)城・鶴田因幡守勝(前の実弟)と同一行動に戻ってます。
ちなみに北肥戦誌では鶴田勝の事も思いっ切り鶴山勝になって・・・il||li _| ̄|○ il||lトホホ

この直ぐあとの12月21日に、両鶴田は草野鎮永と起請文を交わしてます。
緊迫した情勢の中での起請文でしたので、草野は血判してます。
・鶴田と草野の間で一致して後藤貴明につくこと
・(龍造寺からの)攻撃に共闘し防戦すること
などが盛り込まれてました。

が、1574年(天正2)1月に草野氏は龍造寺からの攻撃で抗しきれず和議となり、龍造寺隆信の猶子を養子にする事態になる。
同年2月3日、松浦鎮信が両鶴田に宛てた書状によると、
「両鶴田から龍造寺軍侵攻(草野攻撃の事か?)の情報が入ったので(両鶴田に)加勢を出す」と連絡してます。
同書状には「武雄の貴・惟(貴明と惟明)にも連絡したから!」って書いてたそうです。

後藤貴明(養父)と惟明(養子・松浦隆信の実子)の、家督問題から来る対立は燻ってたんですが、
この2月時点では松浦・後藤の連携は生きてて、それを軸とした国人領主間の同盟も未だ生きてたようです。

で、1月に龍造寺に降伏した草野鎮永は本意ではなかったらしく、同年5月に鶴田本家・鶴田因幡守勝と分家・鶴田越前守前に起請文を(別々に)出してます。
1)「豊州(大友家)」に忠誠を尽くす事
2)草野鎮永と鶴田と同盟関係になる事

同じく5月に大友家臣・原田可真と戸次道雪からも両鶴田に対し、起請文が出されてます。
この原田可真というのが、大友が紛争調停のために臨時に派遣した検視役なんです。
草野氏の記録が欠落してるんで推測になるんですが、起請文の流れからいって草野鎮永が大友に「龍造寺の悪行」を訴えたんじゃないでしょうか。

ちなみに起請文だと龍造寺だけでなく、波多鎮と原田鎮種(誰?)も悪行仲間に入ってます^^;
東松浦地方の最前線である両鶴田は、大友の肥前支配にとっても重要視されていたのでしょう。
詳細は不明ですが、肥前守護職として大友の調停機能が発動してたようです。

横岳(と筑紫)に続き草野と鶴田ですから、さすがの大友も重い腰?をあげて・・・
が、事態が急変!!!

翌月6月22日に、養子・後藤惟明が家督を実力で奪うべく、養父・貴明に対して謀反!
後藤貴明は止む無く龍造寺に援軍を恃むという緊急事態発生 Σ(´Д`;) はぅ!

パワーバランスが崩れたと見るや、龍造寺では再び須古城攻略開始!
同年8月、須古城が落ち平井経治は城を落ち延びる。
遂に六角川防衛ラインを突破した龍造寺隆信。

龍造寺の早い動きに大友の調停機能は追いつかない件~~~それは・またの話 by^-^sio

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【鶴田氏~4・近づく最前線】

元亀元年(1570年)今山合戦で何とかピンチを脱した龍造寺のターゲット。
それは大友に与した波多・草野・鶴田ら「三氏への報復」という大義をかざした西肥前侵攻でした。



鶴田氏は上松浦一族の盟主である波多氏と対立。
かつて龍造寺勢を撃退した時のような、連携した軍事行動は望めない。

てか「鶴田宗家当主である兄を謀殺した波多とは【絶対に】与しない!(`・ω・´)キリッby鶴田越前守前&鶴田一族」
というほど関係が拗れてました( ̄ω ̄A;アセアセ
そこで鶴田氏は、反波多の旗頭であり松浦一族実力のドン・松浦道可(平戸松浦の方)と同盟する。

人物・松浦隆信松浦道可(隆信)イメージ画像

平戸松浦氏との同盟が永禄13年(1570年)3月24日。
大友が6万の大軍で龍造寺討伐のために肥前へ侵攻した頃です。
ちなみに大友では必勝を期して、筑後側から有明海の海上封鎖もしてました。

少弐による一族抹殺の時もですが、「龍造寺が、このピンチを生き残るのは無理だろう」と周辺国衆の誰もが思ってた筈です。
ところが意外にも戦線が膠着し長期化、局地戦では夜襲で龍造寺が勝利してしまい、大友と龍造寺は9月末に和睦し10月には陣を引き払っちゃう。ヽ(。_゜)ノ へっ?

もちろん和睦と言っても内実は龍造寺の敗北でして、龍造寺側から人質が出されてます。

ところがです。
龍造寺から大友に出された人質は、すぐ返されてるみたいなんですよ~~~^^;
大友にすれば「大友が勝ったど~」という形式が調ってれば良かったみたいで、そこが大物の大物たるユトリ?

「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.人質は府内(大友氏・豊後国首都)へ差し出せ~常識ダァロ!」
ってキッツーーイ要求された筑前・秋月種実とは、対応がえらく違う^^;

これは、やっぱ大友にとっての優先順位として、肥前という国の価値を重要視してなかったからだと思います^^;
大友にとって本貫地である豊後を別格として、優先順位第一位は博多のある筑前なんです^^;;

誤解があると困るんですが「肥前国は大友が支配してます。」
これは絶対の大前提でして、耳川の合戦で島津に敗れて衰退するまで、きっちり機能してました。

が、その統治方法というのが曲者でして、あくまでも「室町体制の延長における守護職としての調停機関」ってスタンスなんです。
だから、方分(守護代みたいなもん)や、城督(方面軍司令官みたいなもん)が在任地、
または直参衆が配置してたなどの筑前・豊前・筑後より、肥前への支配が緩く感じます。
(肥後は完全フリーダム~肥後守護職の大友は直接統治を諦めて、各国衆による自治になってます)

実際に、守護職と被官は緩やかな支配関係ですから、戦国期カオスになると拘束力は一層弱くなります。
という状況の中で、大友軍が撤収し人質も形だけで龍造寺に返還されたんです。

家紋・大友 九州武将の憧れ~大友家紋ロゴ

「大友へ与した裏切り者」への龍造寺の報復は速攻で始まった( ̄ω ̄A;アセアセ
手始めに東肥前の者たち(詳細は本編にて)が・・・・゜・(つД`q。)・゜・御贔屓のアソコやアレがカナスイ・・・

この間、波多氏はフラフラしてまして、北肥戦誌だと1573年の段階で、龍造寺の求めに応じて援軍を出してる事になってます。
草野・鶴田・・・来る~来る~貞○じゃなくてR氏が・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

で、1573年3月吉日に、元々同盟関係だった日高一族と鶴田氏が再度起請文を交わし関係強化を図ってます。
前回チラ出ししたように、この時も「波多氏に与しない」と念押ししてます。
元々両家ともに波多氏に身内を謀殺されてますが、この頃になると波多氏の帰趨が龍造寺サイドになってるっぽいのも「与しない」に含まれてると思われます。

1573年12月、ついに龍造寺軍が東松浦地方に侵攻!
「岩屋家譜(獅子ヶ城鶴田氏の方)」曰く
「波多氏敢テ敵セズ、其臣八並武蔵守・福井山城守ヲ出シテ、龍家ノ先駆タリ、
 龍家既ニ前(すすむ=鶴田越前守前の事)公ノ大友氏ニ属セラルルヲ憤リ、仍兵ヲ遣テ獅子城ヲ攻ム」


波多氏の援軍が龍造寺軍の先陣&「道案内」な件~ ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
おにょれ波多氏~~獅子ヶ城の攻めに有利な間道をバラしたな~~~(▼A▼怒)
勇将・鶴田前も圧倒的な龍造寺の大軍に抗しきれず和議を結んで城を出た!・゜・(PД`q。)・゜・

ちなみに北肥戦誌では、鶴田前が鶴山前になってるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【鶴田氏~3・波多氏との対立】

兄・直が謀殺されたのを知った弟・鶴田前(すすむ)は、岸岳城を攻めたが要害堅固な岸岳城を落とす事は出来なかった。
が、この時の果敢な攻めにより、鶴田越前守前の武勇は一気に松浦党の知る所となり、御家騒動で衰退した波多氏に代わって頼みとされるようになる。
つまり平戸のドン・松浦隆信が、ダイレクトに鶴田氏に接触するような立ち位置になるんです^-^

鶴田宗家は、直と前の弟・勝が嗣子となって継いだ。
直には息子が二人いたのだが、直は若くして謀殺されてるので、未だ幼かったんでしょう。
鶴田氏の実質的な惣領は鶴田前だったらしく、鶴田勝は前回話した「直道=連絡ルート」を使い、大小何事も優れた兄と相談してたようだ。

1564年(永禄7)暮れに日高喜(このむ)が謀反を起こして岸岳城を奪い、波多未亡人・真芳と有馬から迎えた新当主・波多鎮をo( ̄Д ̄θ★ケリッ! と城から追い出した。
これは喜の父・日高大和守資(もとし)を未亡人・真芳が邪魔ものとして毒殺したからと言われてるんですが、詳細はハッキリしてないそうです(一次史料で検証するまでに至ってない)

未亡人・真芳と波多鎮は草野氏を頼って亡命しました。
で、波多氏リサーチでは武家家伝サイトに紹介された話に準拠したんですが、これ実は真偽ハッキリしてません。

通説だと日高&鶴田が岸岳城を占拠し、やりたい放題して義憤にかられた有浦が有志を集め波多鎮復帰運動した~
って流れになってます。
ただ仁徳を慕われた鶴田前(すすむ)の性格を考えると、弟(鶴田本家当主)勝が暴慢な振る舞いするのを看過するタイプじゃないんだよな~

鈴木先生の論文ですと、波多復帰運動してたと言われる有浦氏の「有浦文書」では、日高と鶴田が岸岳城を占拠してるような記述が見当たらず。
そもそも波多鎮が岸岳城に帰還するのを、日高と鶴田が反対してるような雰囲気もないらしい。

年不詳ですが有馬義純・義貞が連著で有浦に対し書状を送ってます。
ぶっちゃけた内容は「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.波多鎮が岸岳に戻れるように取り成せ!」と圧力かけてるんです。

かつて有浦氏は未亡人・真芳の勘気を蒙り出入り禁止・所領没収されてた時期がありました。
それを獅子ヶ城・鶴田前(もしくは亡き鶴田直)が取り成し従前通りになるように計らったそうです。
ですが、波多と鶴田&日高が対立した時に、有浦は鶴田に味方せず騒動から距離を置きました。
このあたり有浦氏は心中モヤモヤがあったのかな~って推測してます。

鶴田氏から受けた厚意を公式に「御恩」としてしまうと、有浦氏は鶴田氏の下風にたつことになりかねません。
このあたりが同族による連合体の難しさでしょう。
有浦氏が今まで通りの立ち位置をキープするには、波多氏という総領を戴く必要があるんです。

そのあたりの空気を、有馬氏に見抜かれてしまい、書状で圧力かけられた。
それで有浦は波多鎮を迎えるべく働きかけた・・・てのが真相に近い気がします。

この波多氏のゴタゴタに、平戸・松浦隆信が大いなる関心を抱いたのは言うまでもないだろう。

人物・松浦隆信 松浦隆信イメージ画像

1570年(永禄13)3月24日、松浦道可(隆信)・鎮信親子が、鶴田因幡守勝(日在城・鶴田本家)宛に出した起請文がある。
1)後藤貴明に同心し、波多鎮については帰還なくば鶴田勝に今後無沙汰はしない事
2)波多鎮とは今後入魂にはならないと約す


反波多(=反有田)として、平戸・松浦と両鶴田が同盟関係となったんです。

1573年(元亀4)3月吉日、日高喜(このむ)が一族と連著し両鶴田氏宛に起請文を出す
両鶴田と日高間で友好関係を結ぶこと
両鶴田・日高氏、共に波多氏に与しないこと


鈴木先生は、もともと同盟関係だった両家が改めて起請文を出したのは、龍造寺による松浦地方侵攻が現実のものになってきたからと解釈してます。
自分も同感です。
日高喜は花押だけでなく血判もしてます( ̄ω ̄A;アセアセ

龍造寺のターゲットは今山合戦で大友方についた、波多・鶴田・草野の三氏。
波多と鶴田が対立せずに連携してたら、歴史は違ったでしょうか。
龍造寺の侵攻が本格化するにつれ、龍造寺に対抗する勢力間での起請文の数が急に増えだすのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【鶴田氏~2・「両鶴田」誕生】

上松浦最大勢力である波多氏から派生した支族・鶴田氏。
松浦党なんで、もち一文字諱^^b

鎌倉時代、元寇での活躍により佐里・泊・牛牧などの所領を安堵される。
南北朝~室町期の動向はハッキリしておらず、松浦党一族として一緒に行動してたんじゃなかろうか~
と推測されてます。(松浦党そのものは北朝方)

1494年(明応3)、少弐政資が筑前高祖城を攻撃した時に、惣領家波多氏、相知・有浦らと共に、鶴田氏も少弐氏の求めに応じて出陣してたそうです。

記録としてハッキリしだすのが天文年間で、鶴田因幡守伝の代です。
ちなみに鶴田氏宗家が継ぐ官位は因幡守^^b
伝には5人の息子がいました。

で、日在(ひあり)城主・大川野氏に後継者が絶えて、伝の嫡男・直(ただす)が大川野氏姫と婚姻し日在城を継承した。
嫡男を婿養子?かと思いきや、そうではなくて鶴田氏は拠点そのものを日在城に移したんです。
どうやら大川野氏は鶴田氏に乗っ取・・・ゲフゴホ・・・吸収されたみたい^^;

松浦党では、少弐だったり千葉だったり龍造寺だったり、とにかく東肥前の勢力が度々侵攻してくるのを防ぐため、
協議した結果、廃城だった獅子ヶ城を防衛拠点として再構築する事になった。
これが後に「両鶴田」と呼ばれた日在城・鶴田(宗家)と獅子ヶ城・鶴田(分家)誕生の経緯です。

獅子ヶ城を再築城して入ったのは、「仁・智・武」の三徳を兼ね備え、龍造寺の侵攻を度々撃退した勇将・鶴田越前守前(すすむ)
(人´∀`).☆.。.:*・ (人´∀`).☆.。.:*・ (人´∀`).☆.。.:*・
これ依怙贔屓のオーバーな表現でなく、前(すすむ)の仁政を恋しがった領民が、彼の死後に鶴田氏を祀る鶴田神社を建立したほどです。

獅子ヶ城(唐津市厳木町浪瀬)は、標高193mの低い山に築城されてるんですが、周囲が物凄い断崖絶壁。
二の丸周囲なんかは「垂直に切り立った岩」に囲まれてました。( ̄ω ̄A;アセアセ
この天然の要害に龍造寺は剛忠(家兼)の代から、てこずってます。

人物・剛忠小 久々に出たけど負ける話に渋い顔な家兼

例の少弐の龍造寺抹殺計画で、少弐は偽りの有馬討伐(実は裏で有馬と組んでた)を剛忠(家兼)に命じます。
で獅子ヶ城が裏切ってるからと偽情報を流し、龍造寺勢に攻撃させました。
獅子ヶ城は、いったん落ちるけど、即・奪い返され~と、中々落とせないので、龍造寺勢は兵を分散し波多の岸岳城や鶴田の日在城を攻撃しようとします。
で、兵力分散したところを波多に前後を挟み撃ちされて、龍造寺は一族を多数討ち取られました。

とにかく少弐&有馬が「龍造寺の勢力を削ぐための囮城に使おう(・∀・)ピコーン★!」と思いつくほど、獅子ヶ城は要害だったんです~川* ̄д ̄*川ポッ 

ちなみに龍造寺では、獅子ヶ城の「一度は落ちるけど奪い返される」を隆信の代でもやられてます^^;
天然の要害だけに、獅子ヶ城には鶴田一族しか知らない秘密の抜け道があったんじゃないでしょうか。

秘密の道と言えば、鈴木敦子先生の論文によると、宗家鶴田の日在城と分家鶴田の獅子ヶ城には「直道」と呼ばれた連絡ルートがあったそうです。
「鶴田勝書状」には「平山(地名)まで遣い出すなら直道通すね~」てな感じで書かれてて、連絡ルートは日常的に使われてたそうです。

獅子ヶ城と日在城は直線距離で約7km離れてるんですが、この連絡ルートにより宗家と分家は「両鶴田」と称されるほどの緊密かつ一心同体として行動を共にしてました。

その「両鶴田」が盟主&総領家である波多氏と離れ、独自の外交路線を歩むキッカケが、
波多未亡人・真芳による鶴田宗家当主・直(ただす)謀殺だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【鶴田氏~1・松浦(まつら)最前線】

ふんふんふん~♪浮かれてます。

今まで書いてなかったけど、実は松浦党のなかで自分が一番好きなのが鶴田氏なんです 川* ̄д ̄*川ポッ 
動機は例によって単純で「獅子ヶ城」のネーミングセンスが(・∀・)イイ!
そういう意味では草野氏の鬼ヶ城も悪くない・・・ゲフゴホ

とはいえWEB上では鶴田氏のデータが少なくリサーチを断念してたんですが、
伝手で論文~鈴木 敦子著「肥前東松浦地域における国人領主鶴田氏の動向」が入手できたの~(*´pq`)ウフフ
まだ脳に浸透しきってないですが、頑張ってまとめてみます。




さて松浦党が上と下に別れてるのは何度か書きました。
下松浦でブイブイいわせてるのが、交易でガッツリ&宗家を圧倒する実力の平戸・松浦氏。
上松浦で、衰退する松浦宗家を支え、交易でガッツリ~盟主として頭角を現したのが波多氏。

鶴田氏は波多氏から派生した一族で、波多氏重臣です。
ただし単なる家臣ではなく、自立した勢力として単独行動もします。

これは鶴田氏に限らず、国人領主の連合体としては全国どこでもある、ごく一般的な事です。
例えば、神代氏が盟主の山内26豪族で最大勢力である杠(ゆずりは)氏は、単独で少弐氏や肥前千葉氏から領地安堵を受けてます。

山内勢が26豪族なのに比して、松浦党は53氏と二倍の規模でして、シオが何処から手をつけたら良いのか涙目になったのは御理解いただけるかと思います。


話変わって龍造寺が西肥前を攻略する場合、初めに突破しなければならないのが六角川防衛ライン。
そこは馬渡氏と須古城・平井経治が護ってましたが、その平井経治と同盟してたのが、武雄の後藤貴明です。
その武雄・後藤貴明と同盟してたのが、平戸の松浦隆信でした。

防衛ラインの外交関係を簡単に書くと↓
馬渡氏←(偏諱)←平井経治←(政略結婚)←後藤貴明←(養子縁組)←平戸・松浦隆信

ここで話が複雑になるのは「馬渡~平井までが有馬サイド」で「後藤から平戸松浦が反有馬サイド」な点です。
これに松浦党の宗家と分家(平戸)の争いが絡み、有馬との複雑な縁戚関係により人間関係ドロ沼です^^;
そんな彼等を協力させていたのは、ひとえに「VS龍造寺」という共通項。

で、その龍造寺が六角川防衛ラインを突破し、松浦地方を攻略しようとすれば、最前線となるのが鶴田氏(と草野氏)でした。
平戸の松浦隆信は複雑な縁戚関係とは無関係で、かつ松浦党53氏全体にとって重要拠点の護りを担う鶴田氏に接触。
鶴田氏は平戸・松浦隆信と武雄・後藤貴明との仲介というキーパンソンの役割をしてます。

これは盟主である波多氏の頭越しに、鶴田氏が独自の判断でダイレクトに行ってる外交交渉でした。
波多氏と鶴田氏が揉めたのもあるんですが、それ以上に龍造寺隆信からの圧迫が強くなってたからです。

龍造寺の侵攻を度々防いでいたレオン・・・もとい獅子ヶ城は、実は鶴田分家^^b
鶴田宗家は日在(ひあり)城で、実は侠客元祖・幡随院長兵衛は鶴田宗家・家臣の子だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【1484・文明16~南九州限定・戦国年表】

3月7日、相良為続~名和顕中を追い八代を知行

・第一次飫肥の役
①伊作・島津久逸と新納忠続が不仲になる
 新納が久逸を伊作へ帰そうと当主・島津忠昌に働きかけ、忠昌もこれを了承
②怒った久逸が日向・伊東祐国と連合し、飫肥城を攻撃する
 北郷⇒飫肥城に援軍
 祁答院重度、入来印重豊、菱刈、北原立兼⇒島津久逸&伊東祐国に呼応
 ・北原立兼+伊東祐国⇒飫肥城攻撃
 ・東郷重理+祁答院重度⇒水引城攻撃
③島津忠昌、飫肥城に援軍を派遣するが失敗
 ・東郷重理、島津忠昌、入来印重豊らが山崎牧の峰に布陣し、祁答院重貴(11代目)を攻撃
④豊州家2代目・島津忠廉も反乱⇒菱刈氏重、相良長輔と同盟
 忠昌は、一時清水から伊集院へ避難する
⑤薩州家2代目・島津国久⇒水俣の相良為続を訪問し、一緒に豊州家の忠廉を説得
 豊州家は説得に応じ、恭順を承諾する。
 
※この間、島津忠昌は病身多病で、名医・竹田法印を招いて療養中だったが、
 忠昌「身を愛するの故を持って国の大事を廃せむや」と主張し、ドクターストップを振り切り出陣を決断

・島津忠昌(宗家11代目)(←医者同行)、相州家初代・島津友久と薩州家2代目島津国久を率いて出陣

・大友義右(よしすけ)17代目当主(16代目政親の子)生まれる
 生後すぐに家督を譲られ当主となる
 大友家中は、父・政親派と息子・義右派に分裂し家中揉める




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【1484・文明16~北九州限定・戦国年表】

なかった(´・д・`)



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【1483・文明15~南九州限定・戦国年表】

いまのところない (´・д・`)ゴメンネ



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【1483・文明15~北九州限定・戦国年表】

・有馬晴純、産まれる

5月、後藤職明、渋江公直、伊万里仰、大村胤明~四氏が同盟を組む

・後藤職明、渋江公直、大村胤明~中村公継に藤津郡大草野(嬉野市塩田町大草野)の北部を与える
(※中村氏は渋江氏分家)

・後藤職明娘と渋江公勢が結婚
(二人の間に生まれた男子は長男なのだが、嫡子として扱われてないところをみると、側室だったっぽい)

秋、少弐政資~渋川氏を綾部に襲い敗走させる



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【1482・文明14~南九州限定・戦国年表】

・肝付兼久、父の死により10歳で当主になる
 一族の兼広らが島津と組んで反乱~兼久を追放する
 兼久は新納忠続の協力で復帰
 島津との和解の為、兼久は忠昌の加冠で元服する
 だが、結局は島津と肝付の関係修復出来なかった

・東郷重理(12代目)祁答院重慶(10代目)入来院重豊、菱刈道秀、北原立兼らが、島津討伐を謀る

・菊池能運(21代目)生まれる

・島津忠広(豊州家4代目)生まれる




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【1482・文明14~北九州限定・戦国年表】

春~少弐政資、足利義政の勘気を蒙り、大宰府から肥前へ移る
①少弐政資が宗像氏代々の宝物「金の猫」を所望~宗像、やむなく献上。
 少弐「もう一体あるはず」と催促(そんなものは無い)
 怒った宗像は神前で小指を噛みきり己の血で少弐を呪詛する歌を社殿の扉に書いた。
②少弐政資~青山城主・留守左衛門大夫を微罪で所領没収し追放する。
 留守が大内政弘へ少弐の横暴を訴える⇒大内が足利義政へ言上⇒義政から勘気。

4月3日、少弐政資~川上社領(神埼郡笠置郷)を安堵させる。

5月27日、吉見信頼&陶弘護が喧嘩し、両人とも刺し違えて死亡。
・先祖の地位が、どちらの家が上位かで揉める
・吉見家臣18人が営中に討ち入り即斬死する騒動になる。

・少弐政資~龍造寺を頼り与賀城へ入る。
 与賀神社を鬼門の鎮護に利用。
 今津・相応津・今宿を開港(津町の5か条制令)開拓、開墾の尽力する

秋~少弐政資、渋川萬寿丸(大内サイド)の綾部城を攻撃し落とす
  (渋川は筑前へ亡命する)

・大内政弘が公儀へ申し立てる
・将軍家より御教書「近隣の御家人は渋川へ合力せよ」
・四面楚歌になった少弐政資は肥前からも亡命する。



≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・肥前・筑後≫

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
 さがの歴史・文化お宝帳
 戦国島津女系図(相互リンク)http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/
  しいまんづ雑記旧録
 千葉一族HP
 武家家伝
 城郭放浪記
 天下統一期年譜
※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)
  筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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