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龍造寺家文書98_少弐政資官途吹挙状(折紙)

龍造寺文書は鎌倉初期からあるのですが、古文書ビギナーには時代背景などが判らず、ちと今は手におえない^^;
戦国時代の文書は第六軸からです。
えっと・・・解釈は正確じゃないと思いますが、自分の研究用に記録として残します。




右衛門大夫所望事、挙京都可申之状如件、

延徳元年
 十二月卅日      少弐(政資の花押)

龍造寺次郎殿


形式:折紙

官途、職務や地位とか官位。
吹挙、現代では使われてないですが推挙の事です。
延徳、元年は1489年。改元は8月21日。
卅は、漢数字で30。江戸期以前は旧暦だから31日はないので、月末になります。
龍造寺次郎というのは、龍造寺康家の事のようです^^;

本文意訳:右衛門大夫を所望の事、京都へ挙げ申す可き之状(のじょう)、件(くだん)の如し

内容
えっと読み方は怪しいけど、まず前段階として龍造寺次郎(康家)は、少弐政資に対して「右衛門大夫」が欲しいとお願いしてたようです。
で、その願い(=所望)に対し、少弐政資が京都へ推挙しといたからね~って返事してるんです^^

こういう実力者(当時)からの官位斡旋って拒否されることは滅多にないんで、要求は通ったんじゃないでしょうか^^
ちなみに北肥戦誌には、この推挙に関する記載はありません。

時代背景
没落、復活を繰り返してた少弐氏ですが、この文書の頃は一時的中興してて少弐政資は「五州太守」と呼ばれてた頃です。
肥前千葉氏は、少弐政資の介入で家督を乗っ取られており、少弐氏の西千葉と大内氏バックアップの東千葉氏に分裂しちゃってます。

考察(妄想・爆)
もしかしてですが、北肥戦誌では官位推挙の件をあえてスルーしたかも。
というのも自分は「龍造寺氏が何時から少弐被官になったのか?」って判断に凄い迷ったんです。

つまり龍造寺は、元々が肥前千葉氏被官じゃないですか。
だから「少弐---肥前千葉---龍造寺」という流れから、「少弐---龍造寺」という流れになった境目の特定に迷った。
この通りの凝り性ですから、主従関係の境目を知りたくて、それ「だけ」の為に肥前千葉氏の歴史からリサーチしたんです^^

龍造寺文書によると龍造寺氏は南北朝争乱期に、少弐や今川、一色などから軍勢催促や感状など貰ってるので、既に一定の勢力基盤はあったようです。
ただ、少弐の方が没落しちゃうんで、復活し肥前に拠点を置いてからの主従関係が、どうなったか調べないとダメでしょ?

官途(官位)を推挙してもらってるって事は、龍造寺は肥前千葉氏を通じてでなく、直接に少弐被官だったという事。
この文書は、戦国期に入ってからの龍造寺が、累代の少弐被官だった証左になります。
あ~~~~~~~~~やっと一次史料で確認できて超スッキリした!♪ヽ(*´∀`)ノ

自分が迷うって事は、九州治乱記(北肥戦誌)しか読んでない人たち全てが迷うってことです。
(それ以前に、そこまで調べる自分みたいな凝り性は、滅多にいないだろうけど^^;)

北肥戦誌を読んで感じる事は「少弐と龍造寺の被官関係が明瞭でなく、曖昧?ぼかした表現になっている」です。
龍造寺氏が偏諱を受けてるのは、千葉氏、大内氏、大友氏で、少弐氏からは偏諱を受けてません。
だから諱からでは、主従関係を辿れない。

さらに北肥戦誌には、少弐の居城だった与賀城(現:龍泰寺)に関する記述がないんです。
北肥戦誌から入った自分が、与賀城の存在を知ったのは、かなり後です^^;
出陣の催促が少弐から直なのか、千葉氏を通じて千葉氏配下で従軍したのか、北肥戦誌ではサッパリワカラン。

で、はっきりと少弐から領地を与えられた~って書いてるのが「田手畷で龍造寺勢が活躍した時」のみ。
「龍造寺(と鍋島様)の活躍」で「少弐氏が大内勢に勝った」アピールです( ̄ω ̄A;アセアセ

少弐が大内に対抗し存続してるのは、龍造寺のお蔭。
その龍造寺を滅ぼそうとした少弐(と家臣・馬場)が悪!
そういう方向に話を持って行くためには「少弐から受けた御恩」を、詳しく書くと不味い・・・と言う想像です。

忠孝の江戸期では、龍造寺が少弐(主君)を亡ぼした事ってアンマリ宣揚できることじゃない^^;
主君に問題あるなら1にも2にも3・4もなくて5に諫言で、謀反はダメなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

鍋島史観の九州治乱記(北肥戦誌)は、典拠になる文書をあげるなどマメに調べてます。
てことは鍋島氏にとって都合の悪い解釈になりそうなデータは、編纂時に取捨選択してるんじゃないでしょうか。

とはいえ、それを証明するのは難しいです。
九州治乱記の草稿や下書きが発見されて、違いを比べて取捨選択の証明が出来ない限り、どこまで行ってもシオの妄想^^
なかなか難儀なものですな( ゚Д゚)y─┛~~
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【1486・文明18~南九州限定・戦国年表】

4月9日、伊東祐邑(祐堯の子、尹祐から見て叔父、日知屋城主)、大友との内通を疑われ、野村右衛門左に暗殺される
 ※辞世「露はおき 萩はまたぬる朝かな」

・「祐邑の呪い」
 暗殺以後、日知屋城下では「夜な夜な白馬に乗った祐邑公が現れる」という噂が立ち、人々は眠れず疫病まで流行った。
 伊東氏でも、うなされて死ぬ者が出て「祟り」と畏れられた。
 
 つまるところ、祐邑は領民に慕われてたんですよ・・・( ̄ko ̄)
 日向市細島の鉾島神社では、厄年の男性が的を射て厄払いし、祐邑公の霊を慰める「的祈念祭(旧暦1月15日)」が伝わってます^-^

・伊東氏当主・尹祐、祐邑暗殺を企てた野村一族11人に切腹を命じる。

5月17・18日、洪水発生~豊後・筑後・肥後の人民牛馬が数多死ぬ

・島津忠昌、隈之城に陣して東郷を討つ

・肝付兼国、この年に大崎から隅州溝辺を領す。

12月?日、豊州家・島津忠廉~地頭だった帖佐から、飫肥福島へ入る



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大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

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 武家家伝
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 天下統一期年譜
 ※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「龍造寺文書」「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)」
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
 監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m
 

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【1486・文明18~北九州限定・戦国年表】

・千葉胤治(肥前千葉13代目&西千葉2代目)生まれる
 ※12代目・千葉胤資の子とあるが、生母は正室だった尼日光でない可能性が高く、あるいは横岳氏からの養子かもです

・千葉胤将(千葉胤紹の四男)が蜂起し、国府を夜襲する。
・千葉胤朝(肥前千葉11代目)が、胤将側との戦いで討死する
 ※千葉胤朝には男子がおらず、肥前千葉氏断絶のピンチΣ(´Д`;)

・千葉胤将、少弐政資が討伐に来るという噂を聞いて逐電し、歴史からフェイドアウトする

12月3日、千葉胤資(少弐政資の実弟)、千葉胤朝娘(後の尼日光)と結婚し、肥前千葉氏12代目当主となる



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【後篇・水俣城返還交渉】相良史・相良義陽---17

相良史出典元:八代日記、南藤曼綿録、ほか

1560年?月?日~相良義陽の元へ火縄銃が献上された
ちなみに同年の5月19日が「桶狭間の戦い」で御存知・勝者は織田信長(=^・ω・^=)v ブイ

さて、前年の内乱のドサクサに水俣城を菱刈家に奪われてしまった相良家。
相良と菱刈のヤバイ空気に困ったのが、すぐ側の天草諸島の国人たちだ。
そこで(自分たちが巻き添えになるのを回避するため)水俣城返還交渉で一肌脱いだ。
時期は、織田信長が桶狭間してたころと同じ、5月のことです。

地図・天草関連
(天草地方の地図~すぐ側に水俣城あります・島津の領地も近いから、相良と菱刈がケンカしてたら困るんです~)

天草の主な国衆は、五人衆(上津浦氏・志岐氏・天草氏・栖本氏・大矢野氏)です。
1560年5月10日~最初に上津浦氏からの使僧が、次に志岐氏の使僧が八代の義陽を訪問(おそらく意思確認
同年5月24日~人吉から八代へ報告「菱刈が水俣内の12屋敷と交換なら水俣城を返す」と返事あり
「12屋敷?なんじゃらほい」って感じだが、現在でも屋敷という地名があるので、領地なんだろうなぁ^^

6月18日~志岐氏の使僧が細かい報告のために相良家を訪問
7月2日~八代奉行の東左京進が水俣城・受け取りに出向く

どうも流れを見てると志岐氏が交渉仲介のメインだったっぽいんだが、
いざ返還当日になると~~~

7月3日~水俣城返還の仲介するよ~と、天草尚種が出て来て船を出し城受け取りに協力した
難しい交渉時にはいなかったのに、城受け取りという目立つ時に 天草氏参上!
このあたりの細かい経緯は不明^^;
とにかく水俣城は、無事に相良氏支配下に戻った。

家紋・相良
相良家紋ロゴ

さらにこの年、名和家との和睦も成立した。
名和氏も1559年内乱時のドサクサに、たびたび八代に出兵してました( ̄ko ̄)

1560年4月8日~国人の合志氏+城氏(菊池三家老の一つ)が、相良と名和の和睦のため使僧を出す
この時代、仲介人無しで交渉することは殆ど無いです。
で、使いは都会なら公家もいるけど、地方なら僧が多い(寺院は軍事緩衝地帯です)
もちろん武将が直に派遣されることもある^^bケースバイケース

一時的にギクシャクした菱刈と違い、長年争ってた名和との交渉は難航したようだ。

5か月後の9月13日~合志氏から名和へ使僧が派遣される
9月16日~名和から八代の相良へ和平の使僧が派遣された

はっきりとした記録が乏しいのだが、この時に和睦が整ったらしく、その後・数年間は名和と相良の間で戦の記録が無い。

9月23日~ほっとしたのも束の間・肥前の有馬氏(ほらキリシタン大名で、沖田畷の戦いで出てくる有馬さん)が、天草五人衆の上津浦に圧力をかける
この頃の有馬氏は全盛期で、龍造寺との戦いに敗れるのは、1562年(or1563年)の事です。

やぁ~~もう~~ほんとにほんとに記録が少ないが(涙目)相良家では上津浦に援軍出したみたい^^;
だがヒョウタンから駒・禍転じて福となす~~~

11月?日~有馬からの圧力が契機になったのか、長年係争してた天草地方の上津浦氏と栖本氏が講和した。
あっちも講和・こっちも和睦と和平ラッシュ~~~

人物・相良義陽 相良義陽イメージ画像

11月28日~和やかな空気の中、延期になってた相良義陽17歳と千代菊姫18歳がハッピー・ウェディング~
あぁ・・・この晴れ姿を亡きグランパ・上村頼興に見せたかった~ (゜-Å) ホロリ

千代菊姫は16代義滋の末娘で、系譜上は義陽の義理伯母にあたる。
義陽の父・晴広は名君だったが養子だった。

しかも義陽生母も、いずこの名族姫という訳でなく家臣筋の家柄。
義陽の代になってから謀反が起きたのも、単に若年というだけでなく、血統的に嫡流ではない為に軽んじる雰囲気があったかもしれない。
義陽の相良家中における政治的基盤を強固にするために、16代当主の血を引く姫君を正妻にする必要があったのだ。

肥後が穏やかだった時は殆どないが、大きな圧力が無かったという点で、多少は波が凪ぐ時期だった。
なぜなら肥後守護職の大友宗麟が、毛利家とガチンコになり、肥後どころじゃなくなったからです^^;
この数年間の間に、義陽は自分の命運を決める「決断」をするのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【少弐再興運動・政興編】龍造寺隆信「展」の巻11

永禄6年(1563年)
4月1日、空は闇の様な曇天となり、雷電夥しく、拳大の雹が降り、人馬が数多殺された。
同月2日、九重の塔が炎上する。


天変地異があるときに人心が乱れるのか。
人心が乱れてるから、天変地異があるのか。
答えは「天」のみぞしる。

九重の塔・惜しい!現存してたら国宝^^

6月22日、隆信は少弐政興を退治する為に弟・信周・納富但馬守・福地長門守らを従い東肥前に出馬、まずは馬場鑑周の在所である三根郡の中野城を攻撃する。

三根郡の中野城って探せなかった(´・д・`)
馬場鑑周は、例の龍造寺抹殺を画策した熱血「少弐命」家臣・馬場頼周の孫です。

有馬VS龍造寺が1562年説と1563年説があるのは、元々のキッカケが大友義鎮バックアップの少弐再興にあるからです。
で、有馬と龍造寺が布陣の為に動いたのが1562年(北肥戦誌)6月で、
少弐政興討伐に絡んで龍造寺が動いたのも1563年6月と、年は違えど月が一緒でブッチャケ紛らわしい(-ω-;)ウーン
どっちかって特定するのは、難しいのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

だが、馬場家臣の手田・川波・薬王寺らが城戸を防ぎ、激しい抵抗を見せた為に、寄せ手は沢山の戦死者が出た。

合戦も半ばとなった頃、福地長門守が城中に入り鑑周と対面、和平の談合に及ぶと、鑑周は弟の馬場周鎮を人質に出して軍門に降った。
これにより、同じ郡内の少弐方である宗 尚夏、横岳頼続、防所尾張守も龍造寺家に降る。


続いて隆信は、横岳鎮貞の西島の城を攻めた。
だが、容易く落ちそうになかった為、降人となった馬場鑑周と横岳頼続を鎮貞の城の抑えとし、
6月下旬に佐嘉へ帰陣した。


少弐政興の、この後の細かい動向は判りませんが、結果だけだと一命を許され出家したそうです。
降伏したのは1565年説もあり、その8年後も龍造寺勢が少弐政興を攻撃って記録があるそうで、ハッキリしてません。

ただ、この1563年時点で少弐氏の御家再興は物理的に無理・・・という状態になります。
一門として少弐を支え続けた馬場氏が降伏、西島城の横岳鎮貞だけが頑張ってる状態では、さすがの少弐も復活の目は無い。

ちなみに西島城の横岳鎮貞は、諱に大友義鎮の「鎮」がある事から判るように、大友配下となって龍造寺への抵抗を続けます。

人物・龍造寺隆信 龍造寺隆信イメージ画像

少弐氏再興の動きに一区切りついたところで、龍造寺隆信は更なる布石を打ちました。

1563年、龍造寺氏の安泰の為として、龍造寺の菩提寺「龍泰寺」を建立
場所は、佐賀市赤松町2-4 ・・・そう、かつて少弐氏の居城だった与賀城跡です。
少弐氏は(また)大内氏に敗れ(また)衰退し、佐嘉郡は与賀城から、神埼郡へと拠点を移しました。
(で、龍造寺に敗れて、今日に至る)
衰退するまで居館だった与賀城がどうなってしまったのか、北肥戦誌には記載されてなくてシオレベルでは不明です。

地図で検索すると佐賀城からの近さに驚かれると思います。
かつて主君だった城跡に、あえて菩提寺を建立したのは、隆信にとって重要な事だったからでしょう。

これは政治的な意味と呪術的な意味と、両方あると思います。
戦国時代は勝ったり負けたり、降伏したり寝返ったりの繰り返しでして、相手を本当の意味で滅亡させるまでトコトンやるって、実際は少ないんです。

でも稀に「どうしてもヤラなきゃならい場合や相手がいる」のも事実です。
単に相手の一族を根絶やしにする・・・これは下の下策でして、数パターンの複合的手法を用います。

1・接収した城は廃城するか、完全リフォームで痕跡を残さない
2・敵が尊崇してた神社を取り込み、自らの鎮守にする。
3・敵の祭祀を破壊する(例:徳川家が豊国廟を破壊したパターン)
4・生き残った庶流を家臣団に取り組む(肥前千葉氏が今川(持永氏)家を家臣化したパターン)
5・直系に近い男子は出家(隆信は少弐冬尚の兄弟を殺さず、出家させてますよね^-^)

3の相手の祭祀を破壊するでは、敵の墓所に築城しちゃったヘビーな例が関東にあるそうです^^;
で、龍造寺隆信が使ってるのは、1、2、5です。

五州太守と称えられた少弐氏栄華の名残である与賀城の上に、自分の菩提寺を建てる事は「少弐氏の時代が終わった」アピールになる。
で、与賀城の北の鎮護だった与賀神社は、そのまま龍泰寺・・・すなわち龍造寺の北の鎮護にスライド。
相手の鎮守をマイ鎮守化するのは、少弐氏という存在を呪術的に封印する事にもなります。

与賀神社とは、それほど重要でした。
与賀神社は元々、肥前国一宮・川上社の下社でして、与賀郷(佐嘉郡)の崇廟として崇められてました。
更に与賀郷だけでなく、佐嘉郡全体の領民・周辺豪族・武家の尊崇を集めてまして、従って「与賀神社を支配下に治めてる者=佐嘉郡の支配者」なんです。


龍造寺隆信は与賀城跡に龍泰寺を建立することで、佐嘉郡の新たな支配者が誰であるかを示したのだ。
ちなみに佐賀藩主・鍋島氏も、与賀神社を佐賀城の鎮守、産土(うぶすな)神社として尊崇し、様々寄進してます。
つまり、鎮守宮・与賀神社を大事にすることが「支配の系譜を引き継いだ者の証」だったんです。
ね!神社・寺院・武家の支配構造&関係って、超面白いでしょ(^ -)---☆Wink

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

堀本一繁の論文では、大友氏が島津に敗れ(耳川の合戦)衰退してからが、龍造寺の戦国大名化認定としてます。

確かに、そうなんですよ・・・だって大友は、九州探題という上位権力なんですから( ̄ω ̄A;アセアセ
ただ、それだとハードル高過ぎね?って言うのが自分の正直な実感なんです^^;

じゃ、今山合戦が境目?ってなると、
龍造寺が勝ったのは局地戦のみで「大友の龍造寺包囲網」を破ったわけじゃないんで、それも何か違う(-ω-;)ウーン
てことで、結論を出すには色々悩ましく、やっぱ一次史料による検証待ちだな~と思う。

ただ「龍造寺が主家(少弐)に対して下克上した」時期は、この1563年で確定でイイんじゃない?
というのがシオ持論です。
龍造寺は佐嘉郡における、少弐氏の痕跡を消したんです。
少弐の北の鎮護だった与賀神社は、龍造寺の鎮護を担います。
これ以上はない完璧な下克上・・・あぁ隆信の手腕に惚れ惚れ (人´∀`).☆.。.:*・

逆を言うと、ここまでやったからには引き返せない。
龍造寺隆信は、キングオブ九州・大友氏肝入りの「少弐氏再興」をガチで阻んだのだ。
龍造寺の本格的台頭は、肥前戦国史を大きく変えようとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【1485・文明17~南九州限定・戦国年表】

・5代目伊東祐堯(77歳)、清武城にて病没
 高齢だったのだが「飫肥の役」に出陣する気満々で清武城に入ってた^^;
・伊東祐国が家督を継ぐ

5月2日、阿蘇惟忠が死去~相良氏が侵攻する

第二次飫肥の役
====伊東+北原VS島津~~~伊東の本陣を島津氏が突いて、伊東氏が大敗北するの巻====
6月21日、北原立兼9代目戦死⇒⇒甥の茂兼が継ぐ
  同日、伊東祐国35歳戦死⇒⇒伊東尹祐18歳が継ぐ
・新納是久が戦死
・島津久逸が敗れて伊作へ帰る(是久娘・美女常盤も従う)

文明の大合戦(カオスです)
・東郷重理と島津忠昌が、山田で戦う
・島津忠昌が蘭牟田城を攻略
・祁答院が大村城を攻略⇒大村は祁答院重慶の所領となる
・島津薩州家3代目重久が、高城水引に侵略⇒東郷氏が守り通す
・けど、東郷氏の湯田城が落ちる



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【1485・文明17~北九州限定・戦国年表】

4月13日、龍造寺康家、肥前津町に禁制を出す

・千布村(佐賀市金立町大字千布)の住吉大明神の社を、神代宗元が再興する
 ※北肥戦誌では、神代勝利公となってますが、年代からいって勝利公の父・宗元と推測



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【水俣城返還交渉・前編】相良氏、相良義陽---16

さて、ひさびさなので軽くおさらいです^-^

相良家で恋に目がくらんだ不心得家臣が引き起こした内乱(獺野原(うそのばる)の戦い)が起きた1559年。
この年は豊後の大友義鎮(後の宗麟)が豊前・筑前の守護職になり、引き続き九州探題に任命され、大友家は全盛期を迎える。

この時期に内乱してた相良が無事だったのは、短期間で終息したのもあるが、キングオブ義鎮の関心が筑前・豊前に集中していたからです。
1559年は、秋月種実が本城である古処山城を大友から奪還し復活。
さらに筑紫惟門がハチャけて博多に侵攻~筑紫に呼応した秋月種実が古処山城で籠城してました。

大友義鎮の財政源である商都・博多は見る影もなく一面の焼野原~~~~~~~
この時の戦火で一時期、博多の領民・商人は大島に避難してたそうですから、ガチで酷かったようです^^;

これに怒った大友義鎮は筑前制圧にマジになった。
何より腹立たしいのは秋月も筑紫も毛利元就のバックアップ受けてる事だ。

この数年前にも大友は毛利元就に対して「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.筑前に介入するんじゃねぇ!(超意訳」
と手紙書いてるが、元就ジーちゃんはガン無視、大友軍の攻撃を受けた筑前の国人達に対し保護を与えてる。

1559年の時、大友義鎮は博多復興を優先し、降伏してきた秋月も筑紫も許して我慢した。
ところが翌年の1560年に「毛利の支援受けた宗像氏貞(筑前国人)が」「大友が支援した宗像当主(氏貞の従兄弟)を」討ち果たし、宗像領をゲッツする。

大友「宗像ァ~~~~怒・怒・怒・~~~毛利ていどの家格でウチと張り合うってのか!!」

つまるところ筑前・豊前の覇権を巡って国人たちが代理戦争をしていたわけだが、
ブチ切れた大友は1561年に毛利元就と直接対決(門司城合戦)し、そのまま泥沼の10年戦争に突入しちゃう。

10年戦争といっても、戦しっぱなしだったわけじゃなく「和睦する」「しない」「和議で結婚?家格がアワネ」とグダグダな10年です^^;
中国地方の新たな覇者・毛利氏と交戦状態が継続したままだったのが、大友義鎮の足枷となった。

この間に龍造寺・島津・伊東の台頭を許してしまうことになり、肥後も(大友から見て)エアポケットな状態となる。
たかが国人、されど国人・・・歴史は現場で動いてるんだ!(織田祐二クン風で♪)

人物・大友宗麟
(ワシ全盛期だったのに、どこで選択を間違えたんだろう~(by宗麟)

さて、肥後に話を戻そう。

1559年の11月7日~阿蘇家当主・惟豊が死去し、息子の惟将(これまさ)が家督を継ぐ。
主君のためなら我が子を処断する苛烈忠義の甲斐宗運は粉骨砕身、新当主にお仕えします^-^

1560年?月~代替わりがチャンスと惟将の従兄弟・惟前が肥後小国へ侵攻する。
これには少し説明がいるだろう(てか、かなり前に説明してるけどブランクありすぎなので)。

阿蘇家の当主は、もともと惟前のダディ惟長で、1559年に亡くなった惟豊の兄です。
阿蘇惟長は「肥後守護職になりたいなぁ (人´∀`).☆.。.:*・」と能力以上の地位を欲し、
縁戚の大友の支援を受けて、肥後守護職の家柄である菊池家の当主となった。

その際に阿蘇家の家督を弟に譲っちゃったの^^b
でも菊池家臣は「大友の傀儡じゃん、ふーん」と惟長を軽く見て心底から従わない。

「思ってたのと違う~つまんない~お家(阿蘇)に帰るの ((((((((((っ´▽`)っ」と勝手に帰った我侭な阿蘇惟長。
だが家督は弟・惟豊に譲ってる。

兄・惟長「ね~実家に帰ったから家督返して」
弟・惟豊「~~~~~~~怒・ざけんな!」

とまぁ、こういう経緯で兄弟で争うことになり、甲斐家は弟・惟豊サイドについたんです^^
菊池家の家督もグダグダになり、結局は大友家に乗っ取られ、ついには名門菊池家は滅亡します。

惟長・惟前親子は島津の支援で一度は阿蘇の家督を奪い返したけど、そんな横車がまかり通るはずもなく、
間もなく惟豊・甲斐家ラインに敗れて八代に亡命しました。

相良家の対応は?というと、阿蘇家の家督争いに介入~これには名和家も絡むが説明すると長くなるので省略^^
とにかく、兄・惟長を支援して、惟長の息子・惟前に16代相良義滋の娘が嫁いでいます。
だがら阿蘇惟前は相良義陽の縁戚で、義理の叔父にあたります。


家紋・相良
(相良家紋ロゴ)

1560年に義理叔父・惟前がリベンジ侵攻した時に、相良家が援軍したかまでは解りませんでした。
ですが相良家では16代が死に、17代が死んで、すでに18代義陽の代で、
相良が支援した惟長も、相良が敵対した惟豊も、共に鬼籍に入り代替わりし、
更に今の阿蘇家には頼もしき守護神・甲斐氏がガッチリ・ガードしてて、もはや惟前が返り咲くような時勢では無い。

惟前はリベンジならず撃破され、生死も定かでは無く歴史からフェイドアウトします。
惟前に嫁いだ義陽の叔母(義理)が、相良家に戻れたかもネット検索では解りませんでした。

しめっぽい話はやめ~~この年(1560年)5月19日~桶狭間で織田信長が今川義元を討ち取る!
同年の5月、前年に菱刈家に奪われた水俣城の返還交渉が始まった
水俣城の返還交渉には天草の国人たちが活躍しました^^

菱刈家と相良家は二重三重に婚姻関係を結んだ、戦国としては珍しく半世紀に及んで固い同盟関係だったのだが、
義陽の父・晴広が40代の若さで病死してから風向きが変わった。

義陽の後見役だったグランパ上村頼興が死ぬと、上村の三人の息子(義陽の実叔父)が謀反を起こすのだが、
その謀反に菱刈一族の者が加担してたんです。

その菱刈一族の者は謀反鎮圧時に討死しましたが、それでケリがつくはずもなく、以来、同盟関係はギクシャクし、
1559年の5月(恋に目がくらんだバカ家臣が重臣を煽ってるころ)に、菱刈が水俣城を相良から奪ってしまいました。



困ったのは相良家もだけど、天草地方の国人たちもです。
だって水俣城は天草諸島のすぐそばだもん。
彼らは相良家と友好関係で、相良家が行う明との交易からも何らかの恩恵があったと思われます。

菱刈と相良が敵対してたままじゃ、どんなトバッチリが来るか解らない。
さらに1559年の内乱の時に、かつて謀反した叔父たちが義陽に許されて帰国してるではありませんか。
(仕方無いだろ~兵力不足だし、ほっとくと日向の北原に利用されるからだよ!by義陽)
内乱は鎮圧・恋に目がくらんだ(略)+入れ知恵した僧侶は1560年に処刑され、戦後処理は終わりました。

天草ふぁいぶ(5人衆)の国人たち「この流れなら菱刈と相良の和睦交渉はイケる!」と行動を始めた。
義陽にとっても、内乱後の相良家中の沈滞ムード【リアル喪中】を払拭する朗報~まさに「渡りに舟」。

次回「水俣城返還交渉・後編」それは・またの話 by^-^sio
(相良史は毎週日曜日の更新です(^ -)---☆Wink)

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【感想4)鍋島史観】野口朋隆「先祖の戦功を巡る「御家」内の動向について」より

えっと、論文の内容を紹介しつつ、自分の感想を交えて話を進めてましたが、ここから先はシオの呟きメイン。

話は九州治乱記に戻るんですが、編纂を命じた5代目・宗茂公(※鍋島ですよ~)は、
「この書は文庫所蔵!書写禁止!秘書とする(`・ω・´)キリッ」と命じています。

文庫に納まった書物は、おそらく現代の図書館所蔵・郷土資料のように持ち出し禁止&閲覧制限かかったはずです。
もしかしたら、感想3で紹介した「什物方御役」の者しか、直接見られなかったかも。
(論文には、そこまで書いてなかった^^;)

そうすると偽書や改竄は防止できます。
が、非公開にしちゃったら、庶子から藩主になった宗茂公の政治的課題「鍋島氏の正当性をアピールする」という目的が、果たせません。

実は「北肥戦誌(九州治乱記)」は編纂者である馬渡俊継本人による写本が、出回ってたそうなんです^^;
書写本は表題が違ってて、表紙だけ見たら「北肥戦誌(九州治乱記)」とは判らないようになってます。

論文は典拠の出せない(あっても導き出すのが無理な)推測は、まず書かないです(書いても、ちょぴり)
ここはブログなんで推測だらけです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

で、オタの想像なんですが「馬渡が北肥戦誌を書写し流出させたのは、宗茂公の意向じゃないかな~」です^^
本物は文庫所蔵で管理を徹底することにより権威づけし、写本を流布させる事によって「鍋島史観」を普及させるんです。

そこで注目するのが前回書いた「戦功改め」です。
佐賀藩の複雑さは旧主・龍造寺一門が、老中や藩中枢の要職を務め門閥化してたことです。
その為、旧主である龍造寺氏をディスる(貶める)訳にいきませんし、逆に褒めすぎてもダメ。
かといって現主家に媚び媚びにする内容にすると、龍造寺時代の戦功と辻褄が合わなくなるΣ(´Д`;)あれ?
予定調和の戦功書を提出するには、鍋島史観に基づく「九州治乱記(北肥戦誌)」を参照すれば、一番無難です。

官制の書物である「九州治乱記(北肥戦誌)」は「鍋島史観を普及させる」という目的が、初めから奥底に潜んでると思います。
だからこそ「事実を淡々と書いて」「年代推定の根拠として収集した古文書をあげている」んです。
改竄疑惑があるような某大名家のようなシロモノじゃ、支配者側に何がしかの意図があるとバレバレで、信じてもらえないから意味なくなる^^;

読んだ人に「これは本物」と思わせるには、あえて徹底して調べて典拠データを載せることです。
詳しければ詳しいほど、載せたデータに実は取捨選択があるとか、主家に都合良い歴史解釈が混在してることに気づかれにくく、繰り返し使う事により何時の間にか脳内に刷り込まれます。

肥前戦国史の研究においても然り、北肥戦誌の存在が大きすぎたんじゃないでしょうか。
北肥戦誌が詳しければ詳しいほど、北肥戦誌に満足してしまい、人はソレ以上は調べません。
北肥戦誌にデータがなければ、江戸期編纂だから元史料が入手できなかったんだな(*´ー`)と、善意に解釈します。
つまり北肥戦誌に書かれた史実と、一次史料の比較検証を敢えてしようという空気が熟成されない。

藩士たちは、九州治乱記の書写本から自分の先祖をφ(.. ) メモメモ抜書きしたり、
戦功や記録管理の「什物方」は、出典に九州治乱記(北肥戦誌)を使う・・・

鍋島史観が潜む編纂書物が、出典元として100年以上の長きにわたり使われ続けたんです。
「はじめに北肥戦誌ありき」の意識は、簡単には抜けません。
九州治乱記の書写本から派生した三次・四次史料が氾濫すれば、否応なしに「肥前でマトモな史料は北肥戦誌だけ」という状態になる。

自分は道産子なので、北肥戦誌の予備知識ゼロだから、しょぱなから検索かけまくってました。
あと肥前戦国史をやる前の基礎データとして、筑前戦国史もリサーチしてました。
だから読む進むにつれ、北肥戦誌は何らかの意図でデータの取捨選択してるんじゃないか?って感じました。

素人の自分が感じるくらいだから、他のプロ研究者だって気づいてたと思います。
ただ、佐賀県の大学には国文学とか史学専攻ってコースがなくて、若手研究者の育成という点で他県より遅れをとってしまってます。
本業を別に持つ研究者がバラバラに研究してる現状では、北肥戦誌に踏み込んだ研究も直ぐには進まないでしょう。

江戸期編纂物である「北肥戦誌」は一次史料による検証がなされていない(&終わってない)、未開の原野なんです
北肥戦誌を再検証する動きは既に始まってます。
一次史料との比較検証で、これまでの通説は徐々に変化するでしょう。

かといって北肥戦誌がダメって事にはなりませんよ。
官制軍記物だから「鍋島史観が混在してるんや~」という事を踏まえて読めば良いだけです^-^

北肥戦誌に書かれた内容を確認するには、もう自分で肥前戦国史を研究するしかないっす(`・ω・´)キリッ
てことで某研究会に入会する決意をしたキッカケ(の一つ)となった論文感想でした^^;

本格的に研究しはじめるとブログの方も、連載スピードが落ちると思います。
とはいえ気楽なブログは自分にとってモチベーションの源ですので、無理のないペースで続けたいと思います。

道産子素人が、何処まで研究出来るか判りませんが、精進しますので何卒宜しくお願いしますm(__)m

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【3)戦功改】

藩主が編纂する一方で、家臣も先祖の勲功を記した戦功書を書いている。

野口先生は2パターンに大別している。
 ①子孫に残すために置文式
 ②命令によって差し出すのが目的の書上式
  
で、論文で取り上げてるのは②のパターン^^b
②にある命令というので最も多いのが、戦功改めにおける戦功書の提出です。

佐賀藩で行われた戦功改めは10回・・他に系図改めが2回。
(他藩が、どれくらいの頻度で行ってたかは、論文に書いてないし、シオもワカラン)

提出する藩士にとっては、先祖に対する儒教的「孝」の発想だけでなく、従来の知行の継続という側面を持つ。
つまり「我が家はコレコレ【御家】に尽しました(`・ω・´)キリッ」「現在の知行・御役は、それによって得た至当なものです(`・ω・´)キリッ」とアピールするわけです。

戦功改めにおける【御家】とは、当然、鍋島氏のことです。
これはシオの想像ですが、旧主一門を家臣に抱える佐賀藩では、戦功改めによる戦功書提出を繰り替えす事により、
藩士たちに『御家=鍋島氏』という意識の刷り込みを行ってたんじゃないでしょうか。

戦功改めのタイミングですが論文によると、龍造寺隆信・鍋島直茂・勝茂・島原の乱追善供養、
上記いずれかの年回忌前後に行ってるそうです。

2代目藩主・光茂公は、龍造寺隆信100年忌に戦功改めを実施してます。
この時、一部(または全部?)の家臣に対し「隆信に関する戦功ではなく、鍋島直茂に関する書き上げ」を命じています。

つまり「隆信時代の合戦における戦功」を、「直茂公との関わり合いを中心に書いて」るんです(@@)
・・・・・・・・・すっごい書きづらそう~~~~~~~~~~~~~~~~~

まさに佐賀藩内部の複雑さがモロに出てるけど、この「書き方」は定着せず、他は普通に書いてるそうです^^;
いずれにしても「戦功書における藩主の先祖と家臣の先祖の戦功・武功はセット」でした。


で、17世紀後半以降には大身家臣でも、自分の家臣に提出させた古文書・感状に基づき家譜や軍記物を編纂するようになります。
村田(龍造寺)「藤龍家譜」、諫早家「西郷記」、神代家「神代家伝記」などです。

シオが神代勝利公を記事にする上で、主な出典にしてるのが「三瀬村史」ですが、その三瀬村史のベースが「神代家伝記」です^-^
戦功改め効果なのか、神代家伝記では前後の脈絡なく突然「直茂公が○○と勝利公を褒めてたよ!」なんて記述が飛び出します^^;

さて官制軍記物「九州治乱記(北肥戦誌)」を編纂させた5代目藩主・宗茂公は、戦死者供養のために戦死者を特定する為の調査もしてます。
龍造寺時代・鍋島時代通じて、ぶっちぎりの戦死者が出た・・・といえば「沖田畷の戦い」と「島原の乱」です。

え?関ヶ原直後の「柳川の戦い(鍋島VS立花)」の戦死者数?^-^
?分の一の立花勢に散々ヤラレタ黒歴は掘り起してはなりませぬ(`・ω・´)キリッ
(鍋島さまも苦労が耐えないな・・・)

とにかく主家にとって、忠義・名誉の戦死を遂げた家臣らを弔う事は超大事。
家臣にとって「主家が我が家の勲功を認めてくれてる証」の一つだからです。
で、宗茂公は戦死者特定調査の為に、寺社に対しても調査してます。
(なんか昭和の大戦後でも似たような事してたような・・・?)

戦功改めや、戦死者とその子孫確定調査は、宗茂公以降も継続して行われてて、
論文によると18世紀中に「什物方」という専門部署が設けられたそうです。

「什物方」の活動範囲は広く、ありとあらゆる歴史史料や記録類の収集と管理だけに留まらず、
小道具類の管理、能の装束・道具類の管理までしてたそうです。

それだけでなく他家から史料問い合わせにまで「什物方」が対応と提供をしてます。
また、江戸生まれの江戸育ちの若君が、殿様として初のお国入りするにあたり「御家の歴史に関する書物」で、
何を事前に読むべきか適宜な書物を用意し提出します。

「什物方」は、調査段階で様々な史料からデータ集めしてるんですが、その史料出典の一つとして北肥戦誌(九州治乱記)が既に使われてます。
北肥戦誌は、出典元として使用される事、営々200年という重厚な歴史を持つのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【2)鍋島の鍋島による鍋島のための官制軍記物】

別名「北肥戦誌」。本姓・・・じゃなかった正式名「九州治乱記」。
「治乱記」と名付けたのは編纂を命じた佐賀藩・5代目藩主、鍋島宗茂です。

2代目藩主、光茂の15番目の庶子という出自から世嗣となり藩主となり、財政改革を進めた。
時は名君と謳われた8代目将軍・吉宗の治世であり、鍋島宗茂と同じく庶子から藩主・・更に将軍に上り詰めた徳川吉宗の経歴が、鍋島宗茂と何となく被る^^

旧主・龍造寺一門を大身家臣として抱える佐賀藩。
本来なら宗茂の味方であるはずの親類三家(小城、蓮池、鹿島)ですら、宗茂の出自を軽んじ宗茂の藩政掌握を困難なものにしていた。
5代目・宗茂は彼らを抑える為、鍋島嫡家の相続者として自身の正当性をアピールすることは、絶対に必要な政治課題でした。
九州治乱記(北肥戦誌)の編纂は、そのような背景の中で編纂された。

つまり鍋島の鍋島による鍋島のため~~~「官制の軍記物」です。
九州治乱記(北肥戦誌)の特徴として「年代推定の根拠として収集した古文書をあげていること」です。

自分も読んでて感じますが、軍記物にありがちな誇張した表現は少なく、事実を淡々と書いてて軍記物っぽくないです^^
とはいえ、たまに「首だけで動いた魔法使い」とか「木の葉隠れの術を会得してる」とかって武将が出るのは御愛敬(*´pq`)クスッ

論文の著者・野口氏によると、こうした実証的姿勢が全てにおいて貫かれている訳でなく、
葉隠に載ってる逸話と九州治乱記をリンクさせてるように「鍋島氏にとって都合が良い歴史認識が混在している」そうです。
それは読んでて何となく感じてたでつ (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
ちなみに葉隠と九州治乱記は成立年度は同時期なんですって ( ̄ko ̄)

とにかく「九州治乱記(北肥戦誌)」は佐賀藩において鍋島氏の歴史に関する基礎的史料となっており、
歴史考証に「九州治乱記」そのものが使われてます。

でもって、それは平成現代でも続いており、シオが肥前戦国史を紹介する上でのベースにもなってます。
えっと・・・つまり北肥戦誌ベースから派生した3次、4次史料が氾濫してて、北肥戦誌より精度が高い史料を一般では入手するのは困難なんです。

自分は北肥戦誌を鵜呑みにせず、必ず裏付けをとります。
これは誰かに言われたわけじゃなく、単に自分の性格(凝り性)からです^^;
地名・地理・地形、登場する武将たち・・・とにかく気になったもの自分の戦国アンテナに引っかかったものは、片っ端から検索かけます^^;

で、調べた事はマイデータに__φ(.. ) メモメモするんですが、忘れないように(忘れても大丈夫なように)調べた事は全て記事にもします。
それで肥前戦国史連載が、ものすごい長さになってしまいました^^;

とはいえ素人なんで、本当の意味で裏付け(一次史料による再検証)がとれる訳じゃないです。
が、とにかく出来る範囲で自分なりに調べます。

そうすると「おお!北肥戦誌と同じだ~」ってWEBデータが見つかりホクホクしてると、そのWEBサイトの出典が北肥戦誌なだけだったりする^^;
北肥戦誌は肥前の歴史研究において、それほど比重が高い書物だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【1)君の名(氏)は?】野口朋隆「先祖の戦功をめぐる「御家」内の動向について」より

監修様へ・・・この間メールした論文の事です。すいません^^;著者も表題も勘違いしてた(←おぃ)



北肥戦誌、北肥戦誌と連呼してる管理人ですが、実は北肥戦誌は別名でして、正式名は「九州治乱記」なんです^^b
(既にブログ内で定着してから北肥戦誌が別名なのを知った)
編纂を命じ、治乱記と命名したのは佐賀藩5代目藩主・鍋島宗茂。
どっかで聞いた諱ですが、5代目藩主の「宗」は暴れん坊将軍・8代目吉宗からの偏諱です。

5代目宗茂公は2代目藩主・光茂公の庶子でして、それも15番目の子( ゚д゚)ンマッ!!
ちなみに末っ子じゃなくて、更に下に弟(複数)がいるんでつよ・・・( ̄ko ̄)

本来なら藩主になど到底無理な出自で、いったん神代家を継ぎます。
(ネタバレだけど山内の神代氏は、最終的に鍋島氏親類で生き残る)
ところが3代目も4代目も子宝に恵まれず、弟の吉宗公が藩主になった^^

旧主である龍造寺一門を家臣団として抱える特殊事情の佐賀藩です。
龍造寺一門は、庶子(しかも15番目)の宗茂公の出自を軽んじ、宗茂公の推し進める藩政改革の足枷になってたらしい。
九州治乱記編纂は、そんな時代背景の中で完成します。
編纂の目的は「鍋島氏の関する歴史の虚実を糺す(`・ω・´)キリッ」です

家紋・鍋島 鍋島家紋ロゴ

で、少弐元盛の話です。
長くなるんで御家再興バナで割愛した部分なんですが、

北肥戦誌曰く・・・
然るに朝誉法印(元盛の出家後の法名と僧階)に幼少より付き従う家人三人があった。
その中の一人は今泉朝覚(←朝廷に働きかけた人)、ならびに窪・平原である。

法印はこの三人の従者を召して申すのは、
「我は往日は一度少弐の名跡を継ぎ、汝らを股肱として生前の恩を報じようと思ったが、ついに本懐を遂げず仏門へと入り忍従の法衣を纏った。
誠に前業の感ずるところ悔いるべきにあらず。君臣、三世の宿縁あって主従の契りを結ぶと聞く。
然るに汝ら、今まで我に付き従い撫育せい忠心の程、思えば海よりも深く山よりも高い。
だが今となっては付き添っても詮無きことである。三人共に急ぎ禄を求め、どこぞの主にでも仕えよ」と述べた。

そして、名残も今は是までと、家に伝わる懐刀と名筆の八代集を今泉に与え、
また少弐の文書と錦の旗一流・太刀一振とを窪と平原に下賜した。
三人とも言葉もなく、むせび泣きながら退出した。


感動的な泣ける話です・・・ (゜-Å) ホロリ
が、野口氏論文によると、この部分は鍋島氏出自(藤原氏)アピールと繋がってるそうなんです。

出自といえば、葉隠にあるオタに間では割と知られてる・・・
初代藩主・勝茂公が、幕臣・太田資宗から先祖を尋ねられて咄嗟に
「えっと・・・(ピコーン)少弐っす(・∀・)」って答えちゃった逸話があります。

論文によると、上記にあげた「九州治乱記」の少弐元盛の記述と、葉隠の「先祖は少弐」発言とはリンクしてるそうな。
というのも少弐氏の本姓は源平藤橘で言う所の藤原姓。
で、5代目宗茂公の頃になると「先祖は藤原姓少弐氏」説が、佐賀藩内でも疑問視されてたそうなんです。

当然ですよね・・御当地国人領主からスタートしてる鍋島氏を、少弐氏に繋げる方が無理ゲーな話( ̄ω ̄A;アセアセ
で、そのアピールの補完として盛り込まれたのが、九州治乱記の少弐元盛の話。

というのも(自分で自分の首を絞めた)勝茂公は、出自が藤原であることを証明する必要に迫られてしまい、
「少弐所縁の品!!!おぃ家臣で誰か持ってる奴いねーのか!!アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ」
となって白羽の矢が立ったのが上記・三名の従者のうち平原さん。
勝茂公は平原から、少弐元盛より下賜された品々を召し上げ・・・ゲフゴホ・・・もとい譲り受けたそうです。

えっと・・・これって少弐所縁の品が旧少弐家臣から勝茂公に渡った流れの傍証になるけど、
先祖が藤原の証明とは、また別のような気が・・・・(._+ )☆\(-.-メ)チガウ!!

いえいえ、そういう系譜の話とは別にして、
葉隠とリンクさせた九州治乱記(北肥戦誌)の記述部分には、鍋島氏が少弐氏を引く継ぐ存在であるとする主張が潜んでいるのだ~~~
という内容が論文で展開されてる。( ゚д゚)ンマッ!!

佐賀藩の内部事情が複雑なのは、旧主一門を家臣(しかも大身)で抱えてるという単純な問題ではないんです。
これについて葉隠の著者:山本常朝は、
「龍家一門は、他家とは違い知行等は各々が自らの槍先にて得たものなので、上(鍋島氏)よりの御恩は無いのだ(原文プチ意訳)」
と評しています。

佐賀藩主となった鍋島氏は、その誕生の経緯から、旧主龍造寺家と一門に対して常に優位性を保ち続けなければならない。という重い命題を抱えていました。

その重圧の中で藩政改革を進めたのが、庶子でありながら藩主となった5代目鍋島宗茂。
彼が編纂させた九州治乱記(=北肥戦誌)は官制の軍記物として、後世に大きな影響を与えたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【少弐再興運動・元盛編】龍造寺隆信「展」の巻10

1562年の北肥戦誌では、この後に【神代勝利公「道」の巻】で紹介した西川伊予守の裏切り工作の話に続き、
神代勝利公と龍造寺の和睦で終わる。

有馬VS龍造寺が1562年の事であれば、神代勝利公が有馬に勝利した龍造寺と和睦したのは理解できる。
龍造寺にとっても、西肥前攻略の為には神代&山内勢と戦ってるヒマはない。
ただ西肥前側の記録(白石町史・大町町史・松浦家世伝など)から類推する1563年説も捨てがたい。

とにかく大物同士の激突の年代が確定してないせいか、この前後における各方面の出来事に関する年代も、記録によってバラバラになっている。
多久文書に収められてる兵站に関する文書に至っては、年月日が全く記入してない(涙目)
佐賀市史でも1562年なのか、1563年なのか明言を避けており、おそらく年月日が明示された新たな文書でも出ない限り今後も結論は出ないだろう。




で、大友氏が少弐再興の為に担ぎ出したのが少弐冬尚の弟・政興なのだが、実は政興の下に更に弟がいた。
諱は元盛で1561年(永禄4)の時で27歳だったそうだ。

元盛で御家再興を目指したのが、少弐譜代の家臣・今泉朝覚。
朝覚の苦労バナ詳細は、北肥戦誌にあるのだがコアすぎ&長いので割愛^^;

とにかく朝覚は出家し公卿を通じて朝廷に働きかけた。
これはこれで方向性としては的外れではない。
綸言(天子の言葉)となれば、とりあえず話は聞いてもらえる( ̄ω ̄A;アセアセ
うまく同情をひけば、訪問先で「逗留&旅費」も用立ててくれ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

で、天文7年に少弐再興の綸言ゲッツ~~~
朝覚は大喜びで準備して天文9年(1540年)には、あちこちと尋ねて勅書を披露し「少弐再興」を訴えた。

・・・・方向性は合ってるんだが、朝覚は微妙にズレてた。
なぜなら、朝覚が「少弐再興の勅書」を披露した相手と言うのが、大内義隆・渋川尹繁だったからです。
,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
長年、少弐と敵対し「やっと叩き潰した少弐」の御家再興に大内義隆が動くはずもない。
朝覚は、九州の諸将を訪ね歩いたそうなのだが、何せ西国のドン・大内がピクリとも動かないのだ。
他の鎮西武将も大内義隆、右へならへで朝覚の訴えは徒労に終わる il||li _| ̄|○ il||l

ちなみに、この頃の大友は「勢場ヶ原の戦い」で大内勢に本国豊後を脅かされた事に懲りて、
大内と和睦し、表面上では北九州から手を引いてました。

家紋・大内 大内花菱

で、永禄4(1561年)に朝覚は上洛し、再び朝廷へと少弐再興を訴え出た。
この時の綸言(天子の言葉)がふるってる。
伝奏(伝言の使者)より「朝覚上人が度々訴え出たため少弐再興を九州の武家へ勅定したが、
彼の少弐という者は(室町)将軍家に対し度々弓を引き世を乱した者であるから皆が勅命に従わないのである。」

あ~~確かに少弐政資の時に調子に乗ってアレコレやらかして、室町将軍から勘気を蒙って亡命してましたわ~

強いてまたこれ(少弐)を立てんとすれば、勅裁を恨む者が現れ国家の乱れとなる。
故に天意が及ばないのである。。

つまり武家の争いに首を突っ込んで、いらぬ恨みを買いたくないってことですよね。
が、ここで終わると「公家の処世術全開」すぎて角が立ちます。

この上はせめて少弐の末葉そのまま安穏に差し置くようにと、肥前の龍造寺に綸言を下される」

朝覚は元盛の居る肥前川副庄へ下向した。
隔して龍造寺へも右の勅命が下れば隆信はこれを了承し、自ら川副の福満寺へ赴き元盛と対面、懇ろに言葉を添えそのまま元盛をこの寺へ差し置くとした。


福満寺・・・・佐賀市北川副町大字江上江上345・・・へー、北川副ね~~
って、佐賀城から1km前後しか離れてないじゃん!!( ゚д゚)ンマッ!!

さがの歴史・文化お宝帳チェックよ~~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
じぇじぇじぇ!福満寺って、高倉院、亀山上皇、正親町院の勅願所だ!(゚ロ゚屮)屮 おぉっ
川上の実相寺がブイブイ権勢を誇る以前は、福満寺のお経会が隆盛で門前に出店が立つほどだったそうです。
なるほど~~昔っから尊崇受けた朝廷所縁の寺で保護されてたから、隆信も放っておいてたんだ (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
勅命を持って来た朝覚の方が、隆信より上座だったろうな。
自分が滅ぼした冬尚の実弟と対面・・懇ろって、どんな言葉をかけたんだろう・・・
元盛の事歴ってハッキリしてなくて、恐らくは兄・冬尚の龍造寺抹殺計画と無関係だったはず。

で、当時27歳だった元盛には男子が4人いて、どうも4人ともに龍造寺の保護に入ったっぽい。
というのは沖田畷の戦いで、元盛の男子4人は龍造寺配下で出陣してるからです(全員討死したけど・滝汗)

人物・龍造寺隆信

隆信は少弐の血統を絶やそうとしたわけではないんです。
龍造寺は龍造寺なりに、少弐氏を保護してました。
御家再興だけは(´・д・`)ダメ

歴史IFですが、沖田畷で龍造寺隆信が島津に勝利していれば、
龍造寺一門が鍋島家臣になったように、少弐庶流・元盛系譜が龍造寺家臣で残ったと思います。

永禄5年に元盛は高野山で密乗の法水を請けて灌頂職位を得て大納言式部卿法印に任じ、下国してのち朝誉と名を改めて福満寺に住んだ。

今泉朝覚は天正8年正月20日、齢80にして大往生を遂げ、
元盛法印は同14年4月24日、齢52にて福満寺にて遷化した。
沖田畷の戦いは天正12年・・・少弐元盛は隆信より2年長く生きた。
戦死した息子たちの菩提を弔いつつ、自分の人生に何を思ったか・・・我々には知る由もない・・・

少弐旧臣による少弐再興は潰えた。
残るは大友主導で政興による少弐再興なのだが、それは・またの話 by^-^sio


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【咎人の勝者~龍造寺VS有馬9】龍造寺隆信「展」の巻9

鍋島信昌(後の直茂)は退く味方を援けて槍を振るうが、畔(あぜ)に躓き倒れる。
これに、敵が良い敵と見定めて左右から信昌を討たんとするが、小河大炊助、百武志摩守、副島右近允が馳せ付けて信昌を救った。


けっつまづいて転んだ殿は、味方の応援で何とかピンチ脱出です( ̄ω ̄A;アセアセ

龍造寺勢は退却に難儀し、鴨打左馬大夫、副島式部少輔、野辺田左衛門尉の3人は軍勢の中程から返して、追い縋る敵を追い散らす。
このとき殿軍は龍造寺鑑兼・納富但馬守であったが、信昌もこれに加わり敵をどうにか諦めさせた。


だが、近辺の野伏らが落人狩りを目論見、小田に陣を布き、龍造寺勢を待ち構えた。
龍造寺勢はこれを風聞に聞き「今日(1562年7月28日)は日暮れなれば明日に通るべし、或いは別の道を通るべし」と述べるが、
信昌は「野伏如き何程の事も御座いませぬ(`・ω・´)キリッ 只今より私一人で駆け散らして通りますものを」。
と述べると、隆信は尤もと頷き、鍋島が真前に立ち小田村を真一文字に駆け抜ける。
その威に呑まれ、野伏は悉く山中へと退いた。
龍造寺勢は無事に佐嘉へと帰還を果たす。


人物・鍋島直茂 鍋島直茂イメージ画像
殿~大活躍です~(人´∀`).☆.。.:*・

《別説》
隆信は横辺田へ退却した後、後藤貴明と語らい平井との再戦を企図するも、
「大友騎下の者共が隆信の留守を伺っているため、まず帰城あるべし」との佐嘉からの注進を聞き、
梶峰城へ弟・長信を置いて、佐嘉へ帰還したとも云われる。
また、この戦いは永禄6年(1563年)との説もある。


有馬VS龍造寺・・・隆信は有馬勢に勝利し、多久をゲットしたものの、須古城攻略には失敗し佐嘉へと撤退した。
で、ここで「有馬VS龍造寺1」を思い出して欲しい。
有馬が出陣したのは、そもそも大友義鎮から「少弐氏再興の相談」を受けたからです。

少弐再興において「最大の障害」は、龍造寺隆信であることは言うまでもない。
「龍造寺討伐」とまで言われてた訳じゃないが、有馬にすれば少弐再興を大義名分に六角川を越えて小城&佐嘉へ侵攻する絶好のチャンスでした。
有馬最盛期当主・晴純は1552年に義貞へ家督を譲り悠々自適だったのだが、1562年(or1563年)龍造寺に敗れた事により徐々に勢力が衰えはじめる。

少弐冬尚を亡ぼすまで、隆信の主な活動範囲は東肥前(小城・佐嘉・神埼)でした。
ですが肥前守護職である大友義鎮が、調停機関として「少弐再興」に動き始めたことで、東と西の肥前国衆の運命が大きく交差し始める。

肥前守護職にして九州探題・・・キングオブ九州・大友義鎮が望む「当事者間の話し合いによる調停」は、龍造寺が従わない為に常に不首尾に終わる。
だが大友義鎮という上位権力が存在する限り「堺目静謐(領土・国境問題)」を侵す咎人は龍造寺隆信の方なのだ。

主君を亡ぼすという「下克上ハードル」を超えた龍造寺の前に立ちはだかるキング・大友。
大友が望む調停では、龍造寺が失うものが多過ぎて到底従う事はできない。
隆信の戦いは、新たなステージへと展開するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【須古城攻略・1回目~龍造寺VS有馬8】龍造寺隆信「展」の巻8

まず須古城攻略は、白石町史と大町町史とでは記録に違いがあります。
白石町史だと攻略数4回、大町町史だと3回。

何度も書いてますが杵島郡大町は、かつて横辺田と呼ばれ1563年まで有馬領でした。
須古城があったのは杵島郡白石町なので、須古城攻略に関しては北肥戦誌と白石町史ベースで進めたいと思います^-^

で、1回目須古城攻略は、この「有馬VS龍造寺」の激突の一環として行われてます。
ちなみに白石町史(&大町町史)では1563年になっており、有馬VS龍造寺が1562年説と1563年説があるのは、この辺りから来てるかと推察してます。

さて、前回から続く・・・




7月28日、龍造寺勢は前田家定、井元上野介を案内者に、納富信景を先陣として2000騎をもって、高岳城主・平井経治を攻めるべく福母の南大橋口へ押し寄せる。

えっと・・・ます須古城ですが、位置データは佐賀県杵島郡白石町大字堤(須古小学校)。
江戸期の干拓で戦国期とは海岸線が大きく異なります。
まず戦国時代は牛津川と六角川は合流しておらず、河口が別々。
二つの河川合流地にある河川港・住ノ江は、江戸期開港で戦国期は完全に海の底です。

で、そこから干拓の歴史・地名などから類推すると、長崎本線か国道207号線あたりが戦国当時の白石町における海岸線。(土地名に堤とついてるのは全て江戸期以降の干拓によって新たに造成された部分)
従って戦国時代の須古城は、海から2km前後くらいしか離れてませんでした。

更に須古城には2つの支城がありました。
須古城の西へ500mほどの所に、杵島城。
同じく東へ800mほどの所に、男島城。
この3つの城が連携し、軍事的に機能してました。

ちなみに須古城は別名・高城~♪ヽ(*´∀`)ノ
北肥戦誌にある高岳城って、須古城のことなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

人物・今度こそ平井経治
(龍造寺勢を何度も撃退してるのに、ゲーム内評価だと全数値オール55と低い須古城主・平井経治)

平井経治は当代無双の勇将で、佐嘉勢来襲を聞き出陣、
一族の川津経忠、平井刑部大輔を始め、本田純秀、本田純親、白石純通、湯河・川崎・永池・村田らが大橋口にて出向き、互いに弓・鉄砲を打ち掛ける。


やがて両陣太刀打ちとなって干戈交えるが、龍造寺勢が打ち負けて引き退いた。
平井勢は勝ちに乗り追い縋る。


鍋島信昌(後の直茂)は退く味方を援けて槍を振るうが、畔(あぜ)に躓き倒れる。

Σ(´Д`;)はぅっ!殿のピンチ~~
須古城って丘陵に築城された平城ですが、実は地味に攻めづらい城なんです。
というのも、六角川流域の土壌は別名・ドタ土と呼ばれる泥土でして、平成現代でも宅地には不向き。
でもって六角川も半端なく蛇行してるので、満干潮で発生する河川逆流現象による周辺の浸水は平常運転。

須古城が六角川~有明海・防衛ラインの城でありながら、海岸(戦国当時)と六角川から一定の距離を置いて築城されてるのは、それら地理的要因がある為です。
須古城は、その地理的要因を巧みに利用して築城された要害の城です。
城の搦手周囲にある百町牟田と呼ばれた土地は、ものすごい湿地帯で踏み入れば膝まで没し、普通に歩く事すらままならい土地でした。

(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ 兜首~~~~~~!!!
転んだ殿を平井勢が狙う!それは・またの話 by^-^sio

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【進入!有馬エリア~龍造寺VS有馬7】龍造寺隆信「展」の巻7

鍋島信昌(後の直茂)は堤尾山に備えを固めて陣を布いた。
えっと・・・さがのお宝文化帳HPによると、江北町佐留志にあった山らしい。
どうも土地開発で削られちゃったらしく、堤尾山らしい山が探せなかった^^;

更に隆信は返す刀で、急ぎ長尾口を塞ぎに掛かる。
これは、逃げ帰って来る大村・多久勢を逃走させない為である。


逃げ場を塞がれた敵(有馬)勢は、山林へと散り散り逃げ惑って行った。
その中に居た案内者・長尾村の倉富米満、波佐間村の田中掃部助は留まって討ち死にした。


多久は有馬エリアだったので、地元の豪族は道案内として出陣してたんですね。
長尾村は町村合併で多久市多久町南多久町に編入されてます。
波佐間は×間違い
羽佐間が○正解~こっちも町村合併で東多久町大字別府羽佐間に編入。

ちなみに1562年の北肥戦誌で別府と出てたら、大分県の別府じゃなくて多久市東多久町の別府な件^^/
同じ肥前国内だからなのか、町村クラスだと他地域と名称が被ってる地域が意外と多いのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

隆信は多久城へ入り兵馬を休める。
有馬の敗残兵は杵島の横辺田へ退却、楠久津に籠って、須古の平井経治と塚崎・武雄の後藤貴明へ加勢を請うた。


くどいようだが、杵島郡は有馬エリア。
横辺田はガチ有馬領で、地元の百姓は1563年まで有馬へ租税を納めていた。

隆信が多久の城を落として以後、龍造寺家に降参する者が相次ぐ。
一方、梶峰城を失った多久宗利は直に須古へ出向いて、平井経治を頼った。


7月26日、隆信は後藤貴明へ使いを出し、
「これより多久より横辺田へ陣を移し、有馬の残党を残らず討ち果たす心算である。
このとき我らと敵対しないで頂きたい。
もしまた有馬へ加勢されるならば、御辺と一戦に及ぶのみである(`・ω・´)キリッ」

と申し送る。
隆信はその返答を待たず杵島へ陣替えした。
貴明はいまだ返答をしなかった。


後藤貴明「・・・・・・・・(ノーコメント)」
これは、もう返答のしようもなかっただろう( ̄ω ̄A;アセアセ
有馬からは援軍要請、龍造寺からは脅しかけられ・・・

てか、そもそも後藤貴明からすれば、有馬に恨みはあっても援軍する謂れがない。
でもでも龍造寺が~~~~~~~

「有馬VS龍造寺」・・・それは、後藤貴明の人生後半における苦衷・苦悩が始まった年だった・・・
いっそのこと強い方・勝った方に、さっさと鞍替えできる程度の小勢力なら悩まずにすみます。
塚崎・武雄の後藤クラスとなると、大物のどっちからもアテにされたり狙われたりで、進退が凄い難しい(-ω-;)ウーン

然る処に隆信の後方より有馬・大村の残兵が、鬨を上げて切り掛かった。
隆信は元来より機微万化の大将であり、これにも全く動じず、先備を即座に後方へ繰り出して有馬勢に対した。
敵は所詮敗残兵であり、再び打ち負けて敗走した。


いつも思うんですが、隆信は「ヽ(。_゜)ノ へっ?」とか「はぅっ!( Д )  ゚  ゚」てな感じの顔文字とは無縁。
とにかく、どんな事態でもビックリとか驚愕とか、動揺するって事が殆どないです。
たぶん、きっと、、、少弐の裏切りで父や一族が討たれた時に、一生分のビックリの感情を出し切ってしまったのでしょう・・・ (゜-Å) ホロリ

隆信が北方という場所へ陣を移す。

あ~馬渡エリアの北方町っすね(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
ちょっと不思議に感じてる事なんですが・・・・
この有馬VS龍造寺で白石町の須古城・平井経治が出陣してるのに、同じ有馬サイドで北方町の馬渡氏(本家)が北肥戦誌に出て来てないんです。
馬渡氏の庶流は龍造寺配下でして、有馬に計略しかけて初戦における龍造寺勢勝利に貢献してます。
これに絡んで何かあったのか・・・単純に後詰だったのか・・・北肥戦誌だけでは馬渡本家の動きは判りません。

後藤貴明は猪熊半助を使者に、隆信勝利の祝儀を述べさせると、隆信は北方の陣を払い横辺田へ引き、福母山に陣を布いた。

どうやら隆信が北方町に陣を布いたのは、ノーコメント後藤への脅しだったみたいですね。
北方町も塚崎も同じ武雄市内だから、後藤の本貫地の目と鼻の先まで隆信は陣を進めてたんです。
これ以上は知らんぷりは出来ない~~と、後藤貴明が使者に祝儀の口上を述べさせ、龍造寺に敵対するつもりがないのをアピールすると、それに満足して龍造寺は即移動。

隆信が次に移動した福母は、北方よりも横辺田(杵島郡大町=当時、有馬領)に近いです。
有馬エリア内を転々と移動する龍造寺隆信。

山内の神代勝利公との戦いの時といい、沖田畷の時といい、敵エリアにガンガン入る「肥前の熊」さんなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【反撃の有馬~龍造寺VS有馬6】龍造寺隆信「展」の巻6

1562年(1563年説有り)3月から対陣。
6月に龍造寺配下・馬渡信光の計略にハメられ、初戦で有馬が敗退。
旗色を見た国衆が、龍造寺へと靡き始める。
このまま引き下がる有馬じゃないよ~~イザ!龍造寺へ反撃だ(=^・ω・^=)v ブイ

7月25日、有馬勢が、由利岳から小城を捕るべく丹坂(へと攻め入った。

由利岳~場所特定不可・両子(ふたご)山の北側辺りらしい
丹坂~~小城市小城町栗原(土地開発前は峠でした)

これに今川の持永盛秀、持永長門守、持永清兵衛、栗原甚助、大曲彦三郎、岡の大塚盛家、板屋九郎太郎、
平井の粟飯原宮内少輔、粟飯原新七郎、鳥巣大蔵允、
西郷の空閑刑部左衛門、江頭主計允、津野の橋本兵部少輔、橋本左近允、橋本右近允 他、近辺の豪族らが集まり、
江頭筑後守を先陣にして丹坂口を守る為、東西の郷へ陣を布く。


細かくですいません~~全員、龍造寺サイドの国衆です( ̄ω ̄A;アセアセ

また、丹坂の北・姫御前塚を峯村の千葉家旧臣・峯 吉家、その弟・峯民部少輔、峯甚左衛門、峯次郎兵衛ら主従83人で固め、西の谷を越えて右原境に陣を布いた。


姫御前塚の姫御前とは、阿蘇惟直の妻の事です^-^
夫である阿蘇惟直は南北朝の争乱で足利尊氏に従ってたのが敗れて自害しました。(詳細略)
で、奥方の姫御前は夫の慰霊のために阿蘇から小城までやって来たところ、追手の千葉氏に探索され自害したそうです。
(民話伝承だから細かい政治情勢とは差異があるかも^^;)

姫御前を世話していたのが峯一族で、自害した姫の亡きがらを瓢塚に祀ったそうです。
峯(峰)部落では現在でも桜の咲くころにおにぎりや小豆を供え、「姫御前さん祭り」をしているそうな。

姫御前の髪は黒く美しかったといわれていた。
「瓢塚の水滴を髪につけると髪が黒くなる」と言い伝えられ、若い娘や婦人たちは競って水滴をつけるという風習もあった。

また、姫御前は瓢塚の中でお産をされたとも言い、峰部落に行く谷の所を「赤子谷」という。
そのへんでは赤ちゃんの泣き声が聞こえてくるとも伝えている。
(出典:小城町の民話)

峯村そのものは、丹坂と同じく小城市小城町栗原の一部だったらしい(町村合併で正確な位置特定不可)。
峯一族は有馬勢と龍造寺勢が激突した丹坂のガチ御当地豪族です^^/

有馬勢の一手がこれに対する。
峯一族はこれを防ぐべく奮戦するも、大将の峯吉家は7ヶ所の傷を被り引き退く。
だが、これを見て逆に奮闘、峯甚左衛門は無双の剛の者で、石の狭間から矢を射掛け、有馬勢23人を射殺した。
有馬勢は疲労夥しくなり引き退いた。


おお~姫御前を祀った純朴な峯一族が、有馬勢を o( ̄Д ̄θ★ケリッ!っと撃退です^^

丹坂口では乱戦となり、有馬勢が競り勝ち西郷まで攻め入るが、佐嘉勢と小城勢に打ち負けて潰走していった。
佐嘉・小城勢は余勢を駆って、丹坂峠を越えて右原へと有馬勢を追い詰める。
有馬勢は慌てて川に飛び込み、次々と溺死していった。


右原・・・川の側~~|ぐ~ぐるMAP|_ ̄)じぃー
小城市小城町池上に上右原と下右原があります。どっちの右原かまでは特定不可。
で、この位置関係だと有馬勢が飛び込んだ川とは牛津川です。
牛津川を越えさえすれば、そこは多久・・・有馬エリアでした・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

有馬勢は、安徳直治の勢から安徳直徳、安徳彌左衛門、安徳日向守、安徳兵部左衛門、安徳八郎次郎、安徳太郎左衛門、大窪金右衛門、長野土佐守、長野四郎左衛門、長野三郎左衛門、大塚次郎兵衛、菅太郎兵衛、河口忠兵衛、小瀬八郎左衛門、池副孫三郎ら18名、安富但馬守勢から数十人など、有馬勢から沢山の討ち死にが出た。

「名のある武将+牛津川を越えて有馬エリアに逃げ込もうとした溺死者」ですから、有馬勢から100名単位の戦死者が出たと思います。

隆信は時を置かず、同日の7月25日に多久宗利の下多久の梶峰城を攻める。
このとき宗利は丹坂へ出陣中で留守であり、城はあっさりと落ちた。


六角川防衛ラインを突破する為の重要拠点・・・多久が龍造寺の手に落ちた・・・!
隆信は更に有馬エリアへと食い込んで行くのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【布陣その2~龍造寺VS有馬5】龍造寺隆信「展」の巻5

中でも田代は上松浦の居館を立退いて、佐嘉領である小城の内納所村に移住している。

田代って上松浦党だったん?
山代の誤記かと思ったが、そうでもないらしい・・・|ぐーぐる|_ ̄)じぃー
みっけ!松浦市御厨町田代・・・ここだ!

で、ここを引き払って納所村に腰を据えたんだ・・・凄いなぁ。
本貫地を離れるなんて当時じゃ大変な事だったろうに・・・
有馬と龍造寺の激突の余波が、それだけ大きかったって事ですね。。。(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
北肥戦誌では小城の内ってなってますが、現代の納所村は町村合併で多久市東多久町に入ってます。

その引き払いの際に波多勢と戦い、嫡子・左京亮、田代主殿助、田代彌三郎、田代源五左衛門、田代新左衛門、田代藤次兵衛らが討ち死に、次男・越後守が負傷している。

(´Д`;)うわぁ・・・かなり一族が討たれてるな・・・
「移住している」って記述してるから、生きて無事に龍造寺エリアに入った者がいたんだろうけど。。。

更に、前田家定の手引きで、杵島郡・横辺田の郷士である土井・井元・田中らも龍造寺家に従った。

へ~~~松浦家世伝(うち本伝・道可公伝)にある「百姓おとなの龍造寺への寝返り」って、このことかな?
(ただし道可公伝では永禄6年(1563年)の事になってます)
って、佐留志の前田が手引きしたんかぃ!

一方、馬渡に謀られた有馬勢は大いに立腹し、
7月2日に島原弥助を大将に、安富貞直と安徳直治の家臣、高来・杵島の軍勢が、須古の平井経治の勢と共に砥川村へ攻め込むべく大橋を越えんとしていた。


人物・今度こそ平井経治 須古城主・平井も出陣です^^/

これに佐留志の前田志摩守、別府の相浦河内守、砥川の泉市之介・森田越前守・江口慶林らは急ぎ居宅より出陣し、大橋口で敵勢を防ぐ。

前田勢は進み過ぎて主従18人が討ち死にするが、有馬勢は大橋口を破れず、北側へ進み両子山の北に在る由利岳に陣を構えた。

う~ん、両子山は見つけたけど、由利岳や大橋が判らないな~
とにかく両子山は、多久と小城の間にある(小城の方に近い)山です。
大橋ってあるところを見ると、牛津川に関連してそう^^

ここへ、多久に陣を布いていた大村勢も集まり、近いうちに小城に攻め入らんとしていた。
これらに千葉胤連の家臣らが打ち掛かるが、寡兵の為に打ち負け引き退いた。


ありゃ、千葉胤連勢が負けちゃった ( ̄ω ̄A;アセアセ

隆信はそれを聞き、弟・信周、従弟・鑑兼、鍋島信房、納富信景、その弟の納富治部大輔信純(彦鶴の夫)に人数を与えて丹坂口へ先行させると、自らもそれに続いた。

丹坂口なら判る~小城市小城町栗原だ^^
にしても有馬勢が陣を構えた由利峠がワカランな~そんなに離れてないと思うけど・・・

隆信には鍋島信昌、小河信友、百武兼通が随身する

ついに龍造寺隆信が本陣を動かした・・・!
鍋島信昌・・・後の佐賀藩祖・鍋島直茂は、この時25歳の若さだ。
でもって龍造寺四天王・百武がキタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

最初の布陣から2度目の再布陣。
龍造寺隆信は有馬勢との決戦を決断していたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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107【そうだ!龍造寺にしよう~龍造寺VS有馬4】龍造寺隆信「展」の巻4

1562年(1563年説あり)6月半ば、睨みあう有馬と龍造寺の軍が遂に激突し、まずは初戦で龍造寺が勝利を治めた。
すると有馬サイド(or中立)だった国衆が、龍造寺へと寝返り始める。

これ(龍造寺勢の勝利)に佐留志の前田志摩守、その息子・前田家定も有馬と手切れすべく、有馬の佐留志代官・高場新右衛門を切って、加瀬(嘉瀬?)の館へ居た隆信へその首級を持参した。
隆信はこれに喜悦し、佐留志の新田60町と砥川にある5町を前田に下賜した。


佐留志の前田は(例の首だけで暴れた魔法使い)高木謀殺の時に、龍造寺に加担して協力してました。
が、前田のいる佐留志・・・江北町はガチ六角川流域で、須古城のある白石町の近く。
更に有馬から代官が派遣されてたってことは、佐留志も有馬領だったみたい。

ということで、前田は有馬配下としての立ち位置をキープし続けてたみたいです。
ですが龍造寺勢の勝利を見て、有馬と手切れする決断したってとこでしょうか^^

更に上松浦の鶴田因幡守、鶴田越前守、田代因幡守も大友方である波多鎮と手切れして龍造寺に加担した。

・・・・・・・・・・・???ヽ(。_゜)ノ ????
まず因幡守が二人いるのは気にしないでね(・∀・)
田代氏に関してはコアすぎてデータが見つかりませんでした( ̄ω ̄A;アセアセ

で、この時点で鶴田因幡守だと、後に波多氏未亡人・真芳に殺される直。
鶴田越前守は、この年代なら直の実弟で勇将の前(すすむ)です。
「大友方である波多鎮」って、すごいザックリしたくくりだな~( ̄ω ̄A;アセアセ

北肥戦誌は東肥前(つまり佐賀県)の記述は、多少の差異・誤記は別にして流れとしては大体網羅してます。
が、西肥前(つまり長崎県)に関する記述となると、とたんに質・量ともに落ちます^^;

上松浦や西肥前サイドにあって北肥戦誌にない記述とか、かなりあります。
逆に北肥戦誌(または他関連史料)にあって、西肥前サイドに欠落してる記述もあるわけで^^;
とにかく無いものは無い(`・ω・´)キリッ

史料そのものが戦火などで消失・欠落してるので、どうしようもないんです。(←と、自分に言い聞かせてる・爆)
むしろ北肥戦誌(九州治乱記)は、江戸期編纂の二次史料としては精度が高く、良くまとまってる方です。

人物・波多親2
(悩める波多鎮)

それはさておき、話を戻します。
波多氏で男子がいないまま当主死亡した為、家督で揉めたのは波多氏リサーチで記事にしました。
この「有馬VS龍造寺」の時期は、波多氏未亡人・真芳が実家である有馬氏から養子を貰い受け、強引に波多氏新当主として鎮(しげし)に据えた頃です。

上松浦党全体からも有馬からの養子当主に相当反発されたらしく、元服するにあたって大友義鎮から偏諱を受けました。
それが波多鎮です。
両鶴田(本家兄・分家弟)は、波多一族から当主を迎えるべきと主張し、波多未亡人・真芳と対立してたんです。

とまぁ、対立の経緯は判るんですが・・・・・・・・・・・・
そのために両鶴田が、龍造寺に寝返るか・・・となると別の問題になる。
龍造寺に加担したら、両鶴田は上松浦党全体を裏切る事になるので、政治的に孤立しちゃいます。
この後の両鶴田の動きからみても、ちょっと考えづらいです~~~^^;

個人的に鶴田寝返りは釈然としないんですが、武家家伝のサイトだと局面が動いたキッカケは、田代・鶴田・波多・・・つまり上松浦衆に寝返りが出た為だと書いてるので、何か根拠(出典)があるのかもしれません。

最も北肥戦誌では波多が寝返った事にはなってないです。
この後に波多鎮は、重臣・日高が謀反を起こした為に岸岳城を退去し亡命する羽目になります。
上松浦情勢は混沌としてます。

大物同士の激突に、色々混乱してるようなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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