(3)-1御教書---古文書学のススメ

佐藤先生・・・難しすぎです・゜・(つД`q。)・゜・
ビギナーなんで説明にはウィキペディアの力を借りまつ・・・φ(.. )コピペコピペ

御教書(みぎょうしょ、みきょうしょ)
《源頼朝は下文・下知状・御教書を発給文書の三本柱として武家様文書の基礎を作った》

だそうです。

先生の古文書学入門によると、
《御教書は幕府の意思を伝えるための文書》

なのです。
何となくイメージは出来ましたか?(^-^)
は~い。イメージ「だけ」なら・・・il||li _| ̄|○ il||l

御教書は、下文(くだしふみ)・下知状が、権利の付与または認定(安堵)を目的とするのとは全く違う機能を持ちます。

簡便な凡例が出せなくて端折ったんですが、下知状から相続関係の和与状、裁判関係の裁許状が派生してます。

で、それらの書状に直接OKサインを書き込む外題(げだい)安堵という形態も派生した訳です^^b

つまり下文や下知状が、永続的効力を持つのに対し、御教書の効力は限時的。

発給者(幕府)の意思が相手に伝達されれば、文書本来の機能はなくなります。

( ̄ko ̄)<貰った皆さんは、大事に残しますけどね・・

【室町幕府の御教書】---執事or管領が将軍の意を奉じて出す文書
  そう・・・将軍が直接出してる直状じゃないんです(←けっこう忘れがち)
  将軍がプライベートに出す直状は( ̄ko ̄)<御内緒・・・
  遊ぶなタワケ!バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!
  ゲフゴホ・・・御内書(ごないしょ)と呼ばれ、御教書に準ずる文書とされてます。
  

御教書の形式としては執事or管領が日(月日)下に署(官名)判(花押)を書いてます。
将軍の意を奉じて出すので「将軍家御教書」と呼びます。

う~ん、凡例出したいけど漢字が難しいのばかりで、ちとシンドイ^^;

で、古文書学上の様式名として・・・
関東管領が関東公方の意を奉じで出した御教書⇒⇒⇒鎌倉府御教書
 はぁ・・・九州ばっかだから、関東公方も関東管領も関東八屋形も未だに覚えてない( ̄ω ̄A;アセアセ

九州探題が将軍の意を奉じて出した御教書⇒⇒⇒九州探題御教書
 関東管領より九州探題の方がカッコ良くね? ウキウキ(0 ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワク
 すいません・・・根拠なしの依怙贔屓です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

難しいけど楽しいです。
学生時代は古文も漢文も大嫌いだったんです(*´・д・)(・д・`*)ネー
進学を諦めた事で「もう人生で関わる事がないんだ」と半ばヤケクソだったので・・・
それが今では・・・不思議なものですね^^
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【1490・延徳2年~南九州限定・戦国年表】

・上村頼興(上村氏16代目_相良晴広の父)生まれる

・大河平越前守隆屋、生まれる




≪南九州シオ的エントリー:肥後・豊後・日向・薩摩・大隅≫
大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
 さがの歴史・文化お宝帳
 戦国島津女系図(相互リンク)http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/
 しいまんづ雑記旧録
 千葉一族HP
 武家家伝
 城郭放浪記
 天下統一期年譜
 ※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)」
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
 監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

【読み下し中】「龍造寺文書」「鶴田氏文書」「横岳家文書」ほか肥前データ
  ※こちらは研究支援者様より頂きました。この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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【1490・延徳2年~北九州限定・戦国年表】

・鍋島清久(直茂の祖父)生まれる

・秋月種時14代目(秋月種実の祖父)生まれる

・少弐政資_西肥前、東肥前を制圧する⇒筑後へ進軍
 ※大友政親が合力
 ※渋川刀禰丸は筑後・犬塚城から追い出される



≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・肥前・筑後≫

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 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

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【後篇・須古城攻略1回目’(ダッシュ)?】龍造寺隆信「展」の巻14

くどいようですが、有馬VS龍造寺には、1562年説と1563年説があります。

どちらの年にも激突があった・・かも、しれません。
逆に一つの出来事が二つに分散されて記録されたかもです。

少なくとも須古城攻略に関しては、一つの出来事が複数に分散されて記録されているような節があります。
北肥戦誌における須古城攻略1回目は、有馬との戦いに連動して1562年です。

ほら、、、以前に記事にしたアレ・・・
( ̄ko ̄)<鍋島の殿がケッつまずいてピンチになったところを、仲間に助けられたエピソードがある戦いです。

ところが須古城があった白石町では1563年になってます。
須古城攻略についての要旨は殆ど同じなのに、年度が違うんです(_´Д`)アイーン
そのためか1563年の北肥戦誌には攻略1回目’(ダッシュ)と、思われる記述が残りました。

北肥戦誌曰く
永禄6年8月13日、肥前国塚崎の城主《後藤貴明》が、須古の《平井経治》を討つべく軍兵を率いて取り掛かる。
貴明の先手である中野一門は樺島・蘆原へと討ち入る。


どうも、これが白石町史に残る「龍造寺の須古城攻略1回目」に相当するらしいんです。
もちろん、これはあくまでもシオ考察(^ -)---☆Wink

というのは、1562年北肥戦誌によると「有馬VS龍造寺」で有馬を破った龍造寺勢は、
塚崎の後藤貴明エリアの近くまで進軍しプレッシャーかけたんです。
これに屈した後藤は龍造寺を和議を結び、龍造寺の須古城攻略1回目に先陣として従軍しました。

後藤貴明が須古城攻めしたと北肥戦誌が記録してるのが1563年8月。
一月のズレはあるものの「一つの出来事が分散されて記録された」と自分が感じた由縁です。

有馬方、須古城主・平井経治は、城将として超一流の勇将でした。
何しろ肥前の覇者・龍造寺隆信が、須古攻略に足掛け12年の歳月を費やしたほどです。


人物・今度こそ平井経治 平井経治イメージ画像^^/

北肥戦誌より
これに、平井一味の輩である白石左近大夫・馬渡兵庫助・林田左馬助以下は討ち出て散々に戦う。
これに後藤の将らは利を失い、中野重明・その子である大和守・嫡孫の三郎・同じく新七郎・中野忠明・舎弟の蓮成・同じく弟の東何某ら以上七名が樺島にて一所に討たれ、敗れて引き退く。
そのときに武雄兵部大輔も討ち死にした。


須古城攻略が失敗し龍造寺勢が敗退する・・・と言う事は、当然、先陣だった後藤貴明勢も負け戦な訳で^^;

続いての記述が
平井方の野田掃部允は、武雄右馬大夫が放った矢に当たり死に、そのほか白石弥三郎・馬渡左馬允も討たれた。
また、有馬の侍である南肥後守・筑後介兄弟は、双方和融の談合のために須古に来てこの陣中にあったのであるが、
已む無く平井方として戦い、兄は傷を被り、弟は討ち死にした。


話が、ややこしくなるのは、1564年に須古城攻略2回目があることです。
どの話が1回目攻略で、どの武将が戦死したのが2回目攻略なのか、判別するのは多分・・・無理^^;

それが出来てたら須古城攻略1回目の「1562年説or1563年説」にだって決着ついてます。
ただハッキリしているのは、塚崎の後藤貴明が龍造寺勢先陣として戦ったのは「須古城攻略1回目だ」って事です。

南肥後守と筑後介・・・何やら出来過ぎ~~兄弟の呼称,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
これが史実か否かはさておき、有馬氏が後藤と平井の戦いを望まないのは確かです。
後藤(エリア~現:武雄市)が龍造寺サイドになったら、地理的に白石町の須古城が挟み撃ちされるからです。

須古城が攻略されたら、有馬は杵島郡における有馬エリアを完全に失ってしまいます。
ここは譲れない重要な防衛ラインなんです。

一方の後藤貴明・・・有馬の実子・大村純忠が送り込まれ、貴明実家である大村氏の家督を乗っ取られた恨み骨髄の過去有り。
(ちなみに恨み辛みは現在進行形で増幅中)

その過去は過去として、一回目攻略で平井経治の実力と須古城の要害に、後藤はドン引きした。Σ(´Д`;)ひぃ!
このまま龍造寺の先陣として酷使されたら、後藤勢の消耗はトンデモナイ事になる。(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
(須古城だけじゃなく、有馬との戦いにも狩り出されるのは目に見えてます)

後藤「べ・・・別に有馬と組むわけじゃないんだからね!!」
と、一回目攻略の後にアッサリと龍造寺との和睦をスルーして、平井と和睦しちゃったんです^^;

後年に龍造寺隆信が後藤氏の家督を乗っ取った遠因は、このあたりにあると思います。
西と東の最前線である後藤エリアは重要な拠点だけに、寝返り過去のある後藤貴明&後藤氏を無傷で据え置く事が不安だったんじゃないでしょうか。
かといって後藤クラスの国衆を本貫地から移動させるとなると、代替地選びやら何やらで龍造寺家中も後藤家中も揉めます。
家督乗っ取りが一番手っ取り早い(=^・ω・^=)v ブイ。

人物・龍造寺隆信 龍造寺隆信イメージ画像

話戻って、てことで「龍造寺の1564年2回目須古城攻略」に後藤勢は従軍してません。
従って「北肥戦誌における、1563年に後藤貴明が須古城を攻めた」という記述は、
「須古城攻略1回目の中の出来事」と類推されます。

記事にしてる自分も、1562年と1563年の各種記録を見比べ見比べしてるんで、頭の中がグルグルです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

引き続き北肥戦誌より
同年(1563年)12月28日、高来の《有馬義純》は伊佐早(=諫早)の《西郷純堯》を征伐するため伊佐早表に参じ梅津にて戦う。
この戦いで、有馬勢の安徳直治の手の者、安徳九郎右衛門・安徳新五郎・安徳興三右衛門・安徳三郎兵衛・安徳太郎次郎・石橋助次郎・中間の弥六が討ち死にした。


この北肥戦誌で1563年カウントダウン時期に有馬が諫早を・・・
って言うのが、諫早の記録(江戸期二次史料)だと1563年6月なの!!

ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.なんで記録が半年もズレてんだよ!!
諫早側の記録が史実なら、有馬VS龍造寺は1562年説が有利になります。

ていうのは有馬が龍造寺と戦う為に出陣し布陣したのは6月だからです。
最盛期の有馬なら1万くらいは楽勝で動員できますが、それを分散したら有馬本人が丸裸になるから、現実的に同時軍行動はないでしょう。
諫早攻略が1563年6月なら1562年が・・・と簡単にいかない。
と言うのも、有馬が龍造寺と戦うキッカケである「大友氏肝いり~少弐氏御家再興運動」が1563年だから。

えっとなると、有馬と戦ったのは白石町史の1563年説で、有馬が諫早攻撃した下りだとの北肥戦誌の1563年12月説?ヽ(。_゜)ノ へっ?
更に悩ましいのは鶴田家文書で龍造寺隆信が軍勢の催促してるのが、1566年閏8月・・il||li _| ̄|○ il||l
このパズルを紐解くのは、ほぼ絶望的です( ̄ω ̄A;アセアセ

何故なら一番ヒントになりそうな諫早の西郷氏・・・
それが後年、豊臣秀吉に改易され、退去時に自家の文書類(一次史料)を全て破却したからです・゜・(PД`q。)・゜・ナンテコッタ

WEBから拾えるデータは全てチェックしました。手持ちの一次史料も真っ先に見た。
西肥前武将のリサーチは3ヶ月費やして、松浦(党)とか、松浦(地方)とか、松浦(平戸と本家)とか、現時点で可能な範囲は片っ端から調べた~~~~~~~~~~~~でも何処の地方も武家も何がしかデータが欠落してるんです!!
・゜・(PД`q。)・゜・(←号泣)
ちなみに諫早の西郷ドンは、1563年の6月か12月かは判らんけど、とにかく有馬勢を撃退しましたとさ(=^・ω・^=)v ブイ

1562年と1563年の悩ましい記録ループを後目に、
歴史の中の龍造寺隆信は新たなステージへと運命を切り開くのだが、それは・またの話 by^-^sio

脳みそが限界(爆)なんで肥前はココで小休止~歴史記事は相良史・相良義陽編に集中します~

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《私年号》が古文書ビギナーには引っかけ問題にしか見えない件

まずはじめに、ウィキペディアより抜粋

紀年法として元号を用いた東アジアにおいて、安定した統治能力を確立した王朝が定めた元号(公年号)以外の年号を指す。

主として当時の王朝に対する反乱勢力や批判勢力によって使用されたものが多く、使用期間は概して短い。

(以下略)




先日の龍造寺文書で千葉興常が龍造寺へ出した安堵状ですが、

元々は永亀弐年と書かれてました。

でもIME日本語にない文字表記だったんで、似た年号だった文亀年間~と、安易に飛びついたわけです。


で、次の龍造寺文書を読み下してて、年号をアレコレ確認してたら ( ゚д゚)アレ?ツジツマ変?

となって アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ 佐賀県データベースを再確認したら。。。。。

誤記じゃなくて、私年号で書かれてた事が判明 
文亀2年(シオ解釈)ではなく、永亀弐年(私年号)⇒⇒⇒大永7年デス・・・il||li _| ̄|○ il||l

文亀年間と大永年間じゃ、20年くらい年度がズレるげな! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

東千葉の興常さんが、あえて私年号を使った意図は不明・・・


というか古文書ビギナーのシオの実力では、未だ考察しきれません( ̄ω ̄A;アセアセ

てことで、最初の読み下しで特定できなかった龍造寺当主は、年度推定から胤久になります。


先日の記事を再編集しました・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

けど、最後の考察に変化なし。

なぜなら文亀年間も大永年間も、どっちの年度も西千葉当主は肥前から政治亡命してたから(爆

それで状況が似てるんで、余計に間違ったんだよ~~~~~~~~トホホ


今後は摩訶不思議漢字年号が出てたら、私年号もチェックしなきゃなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

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千葉胤勝名字状---龍造寺文書 第六軸・103

   實名

     胤久

永正拾一年三月十五日    (千葉)平胤勝(花押)
 龍造寺新次郎殿


 

永正11年~1514年です^-^

千葉胤勝は何度か歴史記事にも龍造寺文書にも出てます(`・ω・´)キリッ


にも関わらず、未だに確認しないと西か東か、ド忘れします,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

えっとググっと検索~~肥前千葉氏十五代。西千葉氏四代目・・・だった。


名字状については、横岳家文書で紹介したので割愛。

龍造寺新次郎クンは、千葉胤勝から偏諱を受けたんだよ~~

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【悲劇の姫】相良史・相良義陽---20

島津4兄弟の長兄・16代当主義久の子供は三姉妹でした。
男子がいないために家督相続で揉め(秀吉の介入で更に拗れた)、
薩摩藩2代目藩主・島津家18代光久(義久の曾孫の子)まで尾を引いたことは「薩摩初代藩主編」で触れた。

では島津4兄弟の父・貴久は?

というと、これまた極端で子供は4兄弟ぽっきり。側室も一人だけ(末弟・家久の生母)と淡白?。
まぁ、そのぶん貴久パパンである日新斎ジーさんが、せっせと孕ませ産ませてるから、問題はない。
日新斎の男子は器量にハズレ無し~元就ジーさん級のDNAですな ( ゚Д゚)y─┛~~

当主に子供が少ないのだから、政略結婚は当然~~~~~~~のなずなんだが、
意外や意外。
4兄弟の中で政略結婚をしているのは、長兄・義久と次男・義弘だけなんです( ̄ko ̄)

末弟の家久の正室は樺山家から~重臣とはいえ家来筋。
3男の歳久の正室の実家は詳しく分からないが、やっぱ家来筋で家格もかなり低い。

これはやはり同じ兄弟であっても、

嫡男&万が一のスペア次男>>>>>越えられない壁>>>>>3男以下

と差があるということなのだろう。
いくら政略結婚させたくとも、家格の高い他家の姫様が、3男・4男に嫁ぐのは考えにくい。

逆に嫁ぐ方で言えば、庶子だろうが養女だろうが関係無く「あくまでも実家の格と実力が物を言う」世界だ。

家紋・島津


長兄・義久の結婚は2度。
初婚は日新斎ジーさんの強い希望で、ジーさんの末娘(義久から見てガチの実叔母)と結婚した。

この最初の妻の記録は恐ろしく少なく、謎の女性といっていいが、
とにかく二人の間に長女・御平を儲けると、実叔母妻は間もなく身罷る(永禄2年11月18日)

義久が再婚したのが種子島家の姫様。(こっちも従妹だから血族婚^^)
政略結婚だが夫婦仲は良好だったらしく、義久は側室を置いていない。
で、種子島の姫様は、次女・国姫&末娘・亀寿を生んだ後に死亡する。

真面目・冗談も云いそうにない超堅物・義久は、どうも子作り止めたっぽい~
正室死亡後も、再婚もしなけりゃ、側室も置かず~~まぁ病弱だったからかもしれない。

で、代わって・・・というには時期が違うが、義弘の結婚が、今回記事のメイン(=^・ω・^=)v ブイ

島津義弘の妻・・・・・といえば「島津編」で微笑ましいラブレター(朝鮮の役の頃)を紹介したが、
実は、それは3度目の正直で、念願かなって迎えた愛しのハニー園田女・実窓夫人のことだ。

最初の妻は前回出た分家の北郷(ほんごう)氏からで9代目当主の姪を妻にした。
戦国時代の分家は何処も宗家の言うことなんて大人しく聞かない。

半独立状態で独自の勢力として行動してるから、義弘の初婚は立派な政略結婚。
で、一度目の妻とは離縁。
そして島津義弘の2度目の妻が「相良義陽の妹・亀徳姫様」です
人気武将・島津義弘が、実は過去に相良義陽の妹と政略結婚してた事を知る人は、かなりの島津通。

家紋・相良
相良家紋ロゴ


亀徳姫は庶子、従って義陽の異母妹にあたる。
つまり例の同年・同月・同日生まれの義陽の庶弟の妹ですが、亀徳姫が何年生まれか記録がありません。

それだけでなく島津義弘に嫁いだ年月日も記録が残ってないんです
(だからこそ、亀徳姫を知ってる人は、マニアックってこと^^b)

亀徳姫は記録が少ないために、さまざまな伝承・伝説が数パターンある。
義弘と離縁になったのが、南藤蔓綿録(相良側二次史料)によると永禄11(1568年)。
鹿児島県・加治木町に残る伝説だと「結婚4年目で離縁」とあるので、嫁いだのは1564年?

だが、その頃だと島津と相良の雲行きは既に怪しいので、
「三氏(島津・相良・北郷が)相互に(日向の北原を)支援(しよう)」を結んだ1562年頃が妥当な線だろう。

亀徳姫は、肥後・球磨地方から嫁いだので、島津家中から球磨御前⇒隈(くま)御前と呼ばれた。
随行した相良家臣は田代筑前。


****これは加治木に残る伝説で、恐らく(90%以上の確立で)史実とは異なります。****

加治木には隈媛神社という、隈御前(亀徳姫)を祀った神社がある。
神社によると、嫁いで4年後に離縁となった隈姫(亀徳)は、人吉へ帰らず加治木に残り復縁を願い続けた。

が、聞き入れられず、絶望し川に身を投げた。義弘は哀れに思いここに神社を建てたとなっている。
隈姫の化粧水なんかあって、洗うと美人になるらしい~恋愛成就のパワースポットとかなんとか~

****もう一つは、もっと可哀想で、****

離縁後、よくわからないが隈御前は実家の相良へ戻れず、
帖佐の辺川と言う所に屋敷と堪忍扶持を与えられ「辺川殿」といわれていた。

そのうち辺川殿が島津情報を相良へリークしてるという噂がたち、
怒った義弘が辺川殿一行を騙して屋敷から連れ出し、山中に放置して餓死させた。

わけがわからず餓死した辺川殿が、島津に祟るようになったので隈媛神社を建立した。

****一方、実家である相良家に残る記録では、もっと悲惨でして( ̄ω ̄A;アセアセ ****

島津義弘と離縁後、実家に戻った亀徳姫は再婚するのだが、夫が謀反を起こしたとして殺され、
更に再婚後に儲けた男子は14~15で夭折。

亀徳姫は、当時全ての実権を握っていた相良家老に粗略にされ、貧しい生活の中で餓死した。

当主で兄の義陽が死に、義陽の生母・内城も死に、
家老には遠慮する人物がおらず、妾腹の出戻り姫を邪慳にしたらしい。

家老は人吉藩2万石のうち、8千石を領していて、藩主ですら逆らう術がなかったのだ。
もちろんその後、家老に対する不満が爆発して「御家騒動勃発」したのは言うまでもない。


亀徳姫の不幸は、島津と相良との不和から始まった。
異母とはいえ、妹を犠牲にしてまで義陽は何をしたかったのか・・・それは・またの話 by^-^sio

次回「同盟と結婚はセットな件」

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千葉興常書状~龍造寺文書---第六軸・102

其方之儀無心元存(候)慮、
 ※其の方儀 心元無く慮り存じ候
走なと被成覚悟之由候旨、最以肝要候、且者為當家、
 ※走りなど覚悟の旨成される由候、当家の為は且(まさ)に、最も肝要以(も)って候、
且者同名為衆中被存候、忝候、
 ※衆中は且(まさ)に同じ名為す存じられ候、忝(かたじけな)く候、
弥家兼親子ニ被打任候者、
 ※いよいよ(龍造寺)家兼親子に打ち任され候、
入魂不可有餘儀候、
 ※入魂(じゅこん=昵懇) 余儀有る可(べ)から不(ず)候
猶用(口)上候間、先略筆候、恐々謹言
 ※猶(なほ)用口上候間、先ず略筆候、恐々謹言
(享禄四年)
壬五月廿日       (千葉)興常(花押)

 龍造寺民部太輔殿

( )内編纂による補足
 ※ シオ読み下しガン( ゜д゜)ガレ



語句解説

當家-----当家です^^

衆中-----しゅちゅう。大勢の人々。

打任-----打ち任す~ゆだねるの意。

略筆-----りゃくひつ。要点以外を省略して書くこと

壬-----みずのえ。陰陽道で言う十干の9番目。
  壬を含む干支(えと)は六種類(壬申、壬午、壬辰、壬寅、壬子、壬戌)・・・
  って、あり?壬申なら享禄5年なんだけど・・・
  佐賀県歴史データベースだと、これは閏5月の事だとかで、閏月の方から年度を特定したようです。

超意訳

(胤久の事を)心許なく思ってたけど、走り(出陣とか奉公)など覚悟の気持ち、当家にとってソレが一番大事ね。
大勢の者が、当家の名と同じくすること、嬉しい~(*´pq`)ウフフ
今後も龍造寺家兼に委ねて・・・川* ̄д ̄*川ポッ 
昵懇(じっこん・親しい)に他の事はないのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
用の口上は後で~まず簡単に書いたから~恐々謹言(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪

ちと顔文字入れ過ぎか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

前回の文書や、私年号でもブツブツ言ってましたが、
この享禄4年の段階では、西千葉当主は肥前から亡命してて不在でした。

肥前千葉氏・嫡家は西千葉氏なんですが、いないものは仕方ないじゃん。
って事で、龍造寺も東千葉氏に対し「イザって時はうちもやります(`・ω・´)キリッ」
てな感じの覚悟を示したか何かしたらしい。
(走り=軍事行動だから)

肥前の複雑な政情において、是是非非だった龍造寺氏の国人領主時代の文書です。
千葉興常から「打ち任す(この場合は委ねて)」と御指名されたのがコチラ↓

人物・剛忠小
分家筆頭~龍造寺家兼イメージ画像~
肥前の熊と畏れられた龍造寺隆信の曽祖父です。

当主である龍造寺胤久は傀儡で、実権は家兼にあったと言われてました。
興常が「家兼親子に委ねよ」と書いてあるくらいだから、他家からも家兼が実権を握っているのは周知の事だったのでしょう。

うふふふふふふ・・・いい感じに材料揃ってきたでつ(*´pq`)クスッ

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(2)下知状---古文書学のススメ

下知状は下文(くだしふみ)から派生した命令形式の武家様文書です。

~~様式上の特徴~~
1)充所(宛先)
---文書の最初か文中に含まれ日付の後に来ることは絶対にない

2)差出書
---奉者の署判は必ず日付と別行になる

3)書止文言(文章の結語)
---下知如件⇒⇒下知(げち)件(くだん)の如(ごと)し
---どれほど長文であっても、文章の最後が上記の言葉で締めくくられていれば「下知状」です(-人-)☆彡

~~用 途~~
・永続的効力が期待されるものに用いる
 ※例:制札、禁制、訴状の判決、など
  (特に訴訟の判決は、残存する文書は下知状が大半を占める)

ただし、安堵に関する文書は下文(くだしふみ)形式。
先日アップした龍造寺文書の「千葉興常安堵状」は、下文の中の一つで「奥上署判下文」にあたります。


えっと凡例は・・・
・・・・・・・・・^-^
・・・・・・・・・・・・・・^-^;;


明日頑張ります・・・・il||li _| ̄|○ il||l

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龍造寺家文書101_千葉興常安堵状

肥前国小城郡内光武分拾八町、
 ※肥前国小城郡の内、光武分18町

并佐嘉郡内下嘉世[瀬]百町、同有重拾弐町、法成寺拾六町、
 ※并(あわ)せて佐嘉郡内、下嘉瀬100町、同有重12町、法成寺16町

永田左馬允下地領知之事、
 ※永田左馬允(ながた さまじょう)地領知の事、下す

右守先例之旨、知行不可有相違之状如件、
 ※右、先例之(これ)を守る旨、領知相違あるべからずの状、件の如し
  
  永亀弐年正月十六日
          (千葉)平興常(花押)


龍造寺民部太[大]輔殿

( )内は編纂者による補足
[ ]内はシオ補足
※シオ読み下し部分~ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!

語句解説
町(ちょう)
-----単位です。
   目安として★10町=1反(約991.74㎡・・・概算で300坪)

光武分
-----小城市内で特定不可。ただし「光武姓」があるので、そういう地名が過去にあったと思われる。

下嘉瀬
-----佐賀市嘉瀬町・・・のどこか(爆

有重
-----佐賀市嘉瀬町中原有重・・・本庄江川流域になります。

法成寺
-----ここも特定不可。

永田左馬允(ながた さまじょう)
----人物特定不可。龍造寺家臣と思われる。

永亀弐年=大永7年
-----これ、私年号です・・・il||li _| ̄|○ il||l
   wikiより~主として当時の王朝に対する反乱勢力や批判勢力によって使用されたものが多く(略
   千葉興常がコッチを使った理由は不明ですが、西千葉と対抗してたことと関係してるかもです


千葉興常
-----東千葉氏初代。大内義興から偏諱と加冠を受ける。

龍造寺民部大輔
----大永7年(1527年)なら、龍造寺胤久になります。

考 察

まず安堵された土地のトータル~100+12+16+18=146町⇒14.6反
14.6反×ザックリ300坪=4380坪

これじゃ広さの感覚が、さっぱりワカラン,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
まず新築住宅の平均坪数が~40坪なのね。
てことは龍造寺さんが安堵された土地は、新築住宅が約110件分のスペース・・・ゴシゴシ(-_\)(/_-)三( ゚Д゚) ス、スゲー!ー

皆さん、御自分の地元の住宅密集街イメージしてみそ・・・
新築が110件分の広さったら、××市○○町★丁目のイメージだと「★丁目」部分くらいの広さなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー。


まず、龍造寺は河川流域に河口へ向かって勢力を広げてたってのがシオ持論なの。
で、注目なのは有重・・・ここ、少弐政資がテコ入れして開港した河川港・今津の、すぐ傍なんです( ゚д゚)ンマッ!!

主家・少弐氏が衰退したのよ良い事に「河川港・今津」をゲッツしたのは、龍造寺剛忠(家兼)では?
って言うのもシオ推測なんだが、この段階で既に今津の近くまで勢力を広げてたようです。

ちなみに鍋島氏所縁の徳善院も近い・・・
だから鍋島氏は龍造寺が勢力を広げていく様子をジッと観察してたことになりますね(*´pq`)クスッ

1524年に西千葉の胤勝が大内に内通してたと馬場頼周にo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と晴気城を追い出されます。
大永7年・・・1527年の時点で、未だ西千葉当主は肥前へ戻ってません。

亡命中、龍造寺が何処に所属してたのが明確じゃなかったんですが、
自分の年度推測が間違って無ければ、主家である少弐の敵・大内サイドの東千葉氏の被官だった事になります。

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【1489・長享3年&延徳元年~南九州限定・戦国年表】

2月17日、島津忠治(13代目、忠昌12代目の長男)生まれる(別説:1月27日生まれ)
  ※生母は大友政親の娘で天真夫人

8月21日、延徳へ改元

・日田親胤(大友政親の異母弟)が謀反
・大友親治(後の18代目大友当主)が謀反鎮圧
・謀反がキッカケで和解してた親子(政親と義右)相克が再燃する

・天草地方・志岐重遠が志岐氏の家督を継ぐ



≪南九州シオ的エントリー:肥後・豊後・日向・薩摩・大隅≫
大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
 さがの歴史・文化お宝帳
 戦国島津女系図(相互リンク)http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/
 しいまんづ雑記旧録
 千葉一族HP
 武家家伝
 城郭放浪記
 天下統一期年譜
 ※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)」
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
 監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

【新たに入手~現在読み下しちゅぅ】

「龍造寺文書」「鶴田氏文書」

※こちらは研究支援者様より頂きました。厚く御礼申し上げますm(__)m

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【1489・長享3年&延徳元年~北九州限定・戦国年表】

1月23日、少弐政資VS渋川刀禰丸(肥前養父の城山で激突)
・渋川方へ千葉興常(大内義興が後ろ盾、在小城郡赤目城)が加勢
・渋川敗北---筑後・犬塚城へ逃亡する

8月21日、延徳へ改元

12月30日、龍造寺康家~少弐政資より「右衛門大夫」の推挙してもらう(by龍造寺文書)



≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・肥前・筑後≫

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
 さがの歴史・文化お宝帳
 戦国島津女系図(相互リンク)http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/
 しいまんづ雑記旧録
 千葉一族HP
 武家家伝
 城郭放浪記
 天下統一期年譜
※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
 監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

【新たに入手】---「龍造寺文書」「鶴田家文書」ほか肥前データ
新史料は別の提供者様の御厚意で頂きました。
この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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【前篇・須古城攻略1回目’(ダッシュ?)】龍造寺隆信「展」の巻13

まず初めに念頭に入れておかなければならないのが、室町期の君臣関係は江戸期と違い緩やかな支配関係だったという事です。
それが崩れてカオスになるのが戦国時代なので、裏切ったり降伏したり、寝返ったり臣従したりを、不毛のループで繰り返します。

では完全にフリーダムかと言うと・・・ノンノンノン~緩やかと言えど主君はいます。
偏諱に元服時の加冠に官途推挙に権利&領地関係の安堵などなど・・・
それらを執行・保障する上位権力者は常に存在します。

九州における最上位権力が、九州探題にして6か国守護・・・大友義鎮(宗麟)です。
国衆ヒャッハーな肥後国も、遣りたい放題クマー(隆信の異名は肥前の熊)な肥前国も、基本として大友氏支配下にあり、
大友義鎮及び大友氏が存在する限り「自由」はありえません。

家紋・大友 大友家紋ロゴ

国衆が自立する方法は只一つ・・・自分が戦国大名化すればイイじゃん♪(・∀・)ピコーン★!
なんですが、これが容易な事じゃない。(ここでは戦国大名の定義は度外視)

まず武家による初の統一政権が鎌倉幕府でして、そこで任じられて九州を支配していたのが「九州三人衆」です。
専門外なんで超ザックリした知識しかないんですが、

少弐氏・・・支配ゾーン通称・三前(豊前・筑前・肥前+対馬・壱岐)
大友氏・・・支配ゾーン通称・三後(豊後・筑後・肥後)
島津氏・・・支配ゾーン通称・三奥(薩摩・大隅・日向)

後ろより奥って、どんだけ田舎扱いなんですか島津さん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
(※京都に近い順に、前、後、奥デス・・・( ̄ω ̄A;アセアセ)

大内との累代に亘る覇権争いで衰退した少弐氏でさえ、御家再興運動は1560年代まであったくらいなので、
ぶっちぎり全盛期・キングオブ九州を倒す事など、国衆クラスでは・・・(-ω-;)ウーン
同じ鎌倉三人衆で、明治維新の原動力になるほど底力ある島津氏だからこそ、大友を倒せたとも言えます。

従って「龍造寺が戦国大名になった」のは、「原則的には大友氏が耳川の合戦で島津に敗れてから」です。
では龍造寺が「誰からも支配を受けたくない・自立したい!・・と考えるようになった」のは、何時だと思いますか?

自分は主家である少弐氏を破り、大友氏の意向で少弐氏御家再興に動いた有馬勢を破り、更に往時、少弐氏居城だった与賀城を破却して龍泰寺を建立した・・・
即ち、1562年~1563年の間だと考察してます。

人物・龍造寺隆信 龍造寺隆信イメージ画像

堀本一繁氏の論文「龍造寺氏の二頭政治と代替わり」によると、隆信は1562年から花押を変えているそうです。
隆信隠居時にも、1562年からの花押を併用しつつも、花押を新たにしているそうです。
ということは、1562年に花押を改めた事も何か心情的な変化があったからでしょう。

有馬勢を破ってからの隆信は、西肥前の国衆に対し、己が「上位者」として臨んでいます。
これは文書等を受ける国衆の側も、龍造寺を上位者として認識し始めたからです。
相手が鼻もひっかけないのに上位者然と振る舞ったら、ただの「痛い人」,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

もちろん西肥前の国衆も「本心では龍造寺なんて(´・д・`)ヤダ」ですよ。
それまでの柵や縁戚関係とか、西肥前には西肥前の事情ってもんがありますから。
でも台頭なんて生易しい表現では収まらない龍造寺の勢いに、どうしたって振り回されます。

葛藤と軋轢と抵抗の中で、諸記録は迷走・・・つまり年代が特定できなかったり、○年説だの★年説だのが氾濫する。
天下分け目の関ヶ原を乗り越えられなかったり、豊臣秀吉の改易ラッシュの巻き添えになったり、というだけではありません。
キリシタン大名(有馬・大村・大友)らによる寺社仏閣クラッシュで、西肥前の一次史料は消失したのが相当あると思います。
諫早の西郷氏(←島津の西郷サァ&会津の西郷頼母と同族ネ)のように、滅亡時に文書を全部破却したとこもあるのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー


という背景で、有馬VS龍造寺には1562年説と1563年説があり、

それに連動して須古城攻略には、
・1回目-----------1562年・出典:北肥戦誌
・1回目’(ダッシュ)----1563年・出典:白石町史&北肥戦誌(ただし双方で内容に相違あり)

と二つの1回目があるのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
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【三氏相互支援】相良史・相良義陽---19

久々~さがらん更新です^^/
出典:八代日記・南藤曼綿録~~今回は「判り易さ補完」の為、ちょっぴり小説風アレンジ(*´pq`)クスッ

北原家の家臣に白坂下総介という者がいた。
白坂の父は1542年の北郷(ほんごう・島津の分家)との戦で戦死している。
その後、祟りをなしたとして科長(しなが)神社の末社・荒人神社として祀られた(都城市上水流町)

一方では後年の話(江戸初期)になるが、白坂の亡父は五穀豊穣の祭神(外達大明神)として祀られ(都城市高崎町・外達(げだつ)神社)、今日でも毎年6月に奉納舞が行われている(高崎町・谷川俵踊り)。
これらを鑑みるに北原家中において白坂家は、それなりに筋目の家だったのであろう。

1560年に北原氏13代目当主が死んだ後に、伊東義祐の横槍で北原家の家督は乗っ取られ、
(13代目の未亡人が伊東義祐の次女・伊東は自分の意のままになる北原庶流と再婚させて家督を継がせた)
伊東は北原当主候補と反対派家臣を殺し、北原領は1562年頃には、伊東の勝手次第となってしまう。

白坂下総介
「伊東の専横を断じたくとも、反対派の同士たちは全て伊東に殺されてしまった・゜・(PД`q。)・゜・」
「家督を傍流(150年以上も前に別れた庶流なんぞ主君と仰げるか・怒)に奪われ、もはや北原家は無いも同然(´;ω;`)ウッ
「かといって御家再興といっても、当主候補も伊東に殺されたゆえ、当主となるべき方が誰も・・・・」
「・・・(北原家系図を脳内再生中)・・・(ノ´▽`)ノオオオオッ♪一人いるではないか!!」

系図・北原


話は74年前の1488年に遡る。

かつて北原家8代目当主には4人の息子がいた。
長男・次男が死亡し、次男には茂兼という男子がいて血統的順番であれば、茂兼が当主になるべきだったのだが、
まだ当時は幼少だったので、8代目の3男が9代目当主となり、
と、まぁ「ここまでは穏便な流れ」。

「流れが不穏」になるのは9代目当主が、1485年(文明17)「第二次飫肥の役」で戦死してからだ。

「第二次飫肥の役」は(伊東+北原)連合軍VS島津軍の争いで、
島津軍が伊東軍本陣を攻撃し、伊東+北原側の大敗北となって9代目北原当主も戦死した。

幼少だった茂兼も若年ながら成長したので、いったんは家督を継いだ。
ところが3年後の1488年(長亨2)~家系図でいうと8代目の4男・・・つまり茂兼の叔父・兼珍が家督を奪い10代目当主となってしまう。

いったん家督を継いだはずの茂兼が10代目にカウントされてないのは、
おそらく兼珍の血統から11代・12代・13代と系譜が続いたからだろう。
思えば家督簒奪の兼珍の系統が、今度は伊東義祐に家督を乗っ取られるのだから「因果応報」かもしれない。

それはさておき72年前の茂兼クン~~~
叔父・兼珍を当主とするのが不服で(当然)、母方の実家である相良家へ亡命したんです。

本来なら10代目のはずだった茂兼クンは、リベンジするチャンスが無いまま肥後で没し、
そこで男子を儲けて、その男子も死んで、孫の代となり名は兼親という男子が相良家へ寄宿していた。
(三代に亘る政治亡命というか、孫の代となると単なる居候?)

白坂下総介
「ワシとしたことが迂闊であった、思えば兼親様こそが本来の当主ではないか♪ヽ(*´∀`)ノ」
「だが、相良家と北原家は、かつて北原が相良領に侵攻した件(16代義滋の時)や、相良から亡命してきた謀反人を匿った事もあって、関係良好とは言えない」
「いきなり相良家へ打診して《兼親様を利用されて》《伊東家が相良家が変わるだけ》となっては元も子も無い」
「よし!ここは慎重に《まず相良家と友好関係にある島津家》に打診しよう!島津がいれば相良だけの自由にはならず、北原家の家督を伊東から取り戻せるに違いない」

家紋・島津(島津家紋ロゴ)

この時代、いきなり相手のトップに押し掛けるような非礼は(普通は)しない。
まず相手の家中で、しかるべき地位の人物に話を通じ、証人&仲介してもらいます^-^

白坂は島津家の重臣・樺山氏に「北原家の事情と兼親様への助力」を訴えた。

島津家にとっても伊東家の勢力拡大に危機感を感じていたところだ。
北原を支援することによって「伊東への抑え」になるし、島津と相良が監視し合えば「相良の日向への勢力拡大も防げる」。
重臣・樺山は、すぐさま主君・島津貴久に白坂の件を言上した。

貴久は「承知と、白坂に伝えよ。樺山、相良への手配りを致せ、それと北郷(ほんごう)にも北原支援に助力を依頼せよ」

樺山「は・・北郷と北原は長年係争しておりましたが、承知しますでしょうか?」

貴久「北原領内・周辺地域の事情は、北原の敵であった北郷が最も詳しい。
   それに北郷にとっても伊東が巨大になりすぎるのが脅威のはずだ。
   いずれにせよ伊東軍と交戦するとなれば北郷の助力が必要になる。
   なれば初めから声をかけて、誇り高い北郷の顔を立ててやれば、納得するであろう。」

樺山「畏まりました。伊東は年々力を着けており猶予はごさいません。ただちに動きます。m(_ _)m」


相良義陽にとっても、伊東が突出して大きくなるのは喜ばしいことではない。

この話に乗った。

こうして相良家・北郷家・島津家による北原家への三氏相互支援が決定した
次回「悲劇の姫様」~さて姫様のデータ集めだ~それは・またの話 by^-^sio

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~後篇~四・龍造寺隆信書状---鶴田家文書(嫡流家)

大 意
取り急ぎ申し上げます。有馬衆が一両日中に藤津に至り着陣するとのこと、到来するとの知らせです。

我々は、この方面へ、一同の者が心を一つにして、来る二十日より、横辺田の地への着陣を覚悟すべきです。

そうであるので、その地へ、一同の者に仰せになって相談し、陣に加わるべき事であり、(それは)賞(め)ずるべきことです。

行軍の事については、重ねて、陣所より申し入れるようにします。
(万事にわたって、そなたの※※※の部分推測)お心がけは、本当に恐れ入ることです。

なお、後からもう一度、手紙を送付することを予定しています。諸(もろもろ)が吉でありますように、恐々謹言。

考察・・・ガン( ゜д゜)ガレ自分~

(永禄九年)閏8月16日付けの文書・・・
例によって例の如く、北肥戦誌に記載なし(`・ω・´)キリッ ←←もはやヤケクソ

年度に関しては旧暦から弾きだした閏月からの換算と思うので、ほぼ動かないと思います。
永禄9年といえば1566年の事でして「有馬VS龍造寺」で、龍造寺が勝利を収めてから3年(or4年)経過してます。
ですが西肥前のデータが少ないために、この鶴田家文書・四だけでは詳細が判りません。

嫡流家に鶴田越前守前(すすむ)=庶流の当主宛ての文書があるのは、
おそらく鶴田前が宗家鶴田氏に「こんなん、来てます」って提出したからでしょう。
で、文書から推測される問題提起はザックリ三つ

謎1)鶴田氏が龍造寺の命令通りに横辺田に出陣したのか?
謎2)隆信は出陣してたの?
謎3)戦があったとして、勝ったのどっち?ネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

鶴田氏文書を補完する一次or二次史料が、今の所見つけ出せないので三つの謎は謎のままです( ̄ω ̄A;アセアセ
本来であれば、書状を受けた鶴田庶流家の文書で確認すれば解決するはずなんです。
でもって鶴田庶流家の文書も入手出来ました~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

が、開けてビックリ・・・鶴田家文書(庶流家)は、その殆どが年度不明なんです~~~
ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
てことで、先に嫡流家と龍造寺文書の分析してからでないと、鶴田庶流の文書を読んでも理解できない(´;ω;`)ウッ

あと今回の龍造寺から鶴田前に宛てた下文(くだしふみ=上位者から下位への文書形式)ですが、
どうも鶴田庶流は、龍造寺の被官になってたようなんです。

こちらは庶流家の文書で確認したんですが、記録に残ってるのは前(すすむ)本人ではなく、前の嫡男・賢です。
文書の日付は永禄6年(1563年)8月7日。
鶴田賢は龍造寺隆信に刑部大輔の官途推挙を受けてました(結果は不明)

龍造寺勢は有馬勢を破り、北方町や福母などに軍勢を進め武雄・後藤に圧力かけてた前後になります。
(北肥戦誌では有馬を破ったのは1562年説)

上松浦の盟主・波多氏の家督を巡って、鶴田直(宗家当主で前の兄)が謀殺されたのが1564年。
波多氏では家督を巡る諍いで家臣・日高が離反し、波多鎮が亡命する羽目になってグダグダ状態。
殺された鶴田直の後を、鶴田兄弟の実弟・勝が継いで因幡守となり、それを兄で勇将で庶流当主の鶴田前が支えてました。

文書は西肥前を勢力を伸ばし始めた龍造寺からの圧迫を受けた中で、兄弟力を合わせて難局を乗り切ろうとした両鶴田の気息を感じさせます。
嫡流家に残る鶴田前(庶流当主)が受け取った文書は「写」ではなく原本です。
鶴田氏の宗家と庶流の間には「直道」と呼ばれた連絡ルートがあったのですが、相当に密に遣り取りしてたんでしょうね(^ -)---☆Wink

判ったような判らないような考察で申し訳ありません。
研究が進めば、自分の中で何がしかの答えを見出すかもですが、それは・またの話 by^-^sio

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~前篇~四・龍造寺隆信書状---鶴田家文書(嫡流家)

自分が松浦党の中で一番好きなのが、上松浦の鶴田氏です^-^
古文書は全部で75通で、戦国時代は4通目から。
しかも永禄年間からですので、それ以前の鶴田家(嫡流)の古文書は僅か三通しか残ってません。

西肥前のデータが少なくてリサーチに難儀しましたが、
鶴田家のように、そもそも現存する一次史料が少ないんでしょうネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
では戦国時代から行きます(`・ω・´)キリッ

ううううううううう(´;ω;`)ウッ
レ点も一、二もない、文節だけは句読点があるけど、読み下しの順番があってるか超不安(´;ω;`)ウッ
慣れるしかないのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー



龍造寺隆信書状

急度申候、有馬衆、一両日中、至藤津着陣之由、到来候條、
※きっと申し候。有馬衆、一両日中に藤津に至り着陣の由、到来し候條、

我等事、此表衆以同意、来廿日ヨリ、横辺田表エ可致着陣之覚悟候、
※我ら事、この表へ、衆、同意をもって、来(きた)る二十日より、横辺田表(おもて)へ着陣の覚悟を致すべく候。

左も候者、其表衆被仰談、可有御乗陣事、可目出候、
※さも候(さうらへ)ば、その表へ、衆に仰せ談じられ、御乗陣あるべきの事、目出(めづ)べき候
(候に付随した「者」は、人ではなく接続助詞でして、この文字は「ば」と読みます)

行等之儀ハ、重畳、従陣所、可申入候、萬□□□御心懸、可畏入候、
※行(こう)らの儀は重畳(ちょうでふ)、陣所より申し入るべく候。萬(よろづ)に□□□、御心懸(おんこころが)け、畏れ入るべく候。

猶期後音之時候、諸吉、恐々謹言
猶(なお)後音(こういん)を期(ご)し候、諸吉、恐々謹言

(永禄九年)
閏八ノ十六     隆信(花押)
(奥上書)
「            龍山
 田越殿まいる   隆信」


語句解説
藤津
-------現代の藤津郡と戦国当時の藤津郡は範囲が違い、鹿島市あたりまでが藤津郡でした。
    龍造寺勢が侵攻してくるのは、主に鹿島市側です。

横辺田
------長崎県じゃないよ。杵島郡大町~昔は横辺田って呼ばれてて江戸期には代官所ありました^-^

諸吉、恐々謹言
------諸吉は吉祥句かな?後は結語です^-^

龍山
------龍造寺山城守を略して龍山=龍造寺隆信のことです

田越殿まいる
------鶴田越前守前のことです「まいる」は、「○○さんへ」って事。

閏八ノ十六
------旧暦なんで閏の年ではなく、月になります。閏月は毎年変化します。
    逆を言うと閏月が何月だったかをヒントにして(専門家は)年号を特定します^-^。

(奥上書)
・・・?
( )内は文書形式のはずだけど聞いた事ないな・・・

奥・・上書?・・・いや奥上か?
日付の次に署名と花押・・・・・・・( ゚д゚)ハッ!!
奥上署判・・・これ下文(くだしふみ)だ!
上位者が下位の者へ送る時の命令文書形式。

いっけん丁寧そうだけど、龍造寺隆信は、鶴田前(つるた すすむ)に対して上位者として振る舞ってるんだ。
ぅにょれ、龍造寺・・・(._+ )☆\(-.-メ)チガウ!

てことで古文書において、文書形式を理解することは、すっごい大事なんですよ~
長文になったので、意訳と考察・・・それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家文書100_千葉胤繁書状

古文書入門書を読み始めたばかりのクセに、同時進行で一次史料を読むと言う大胆な?試みです。
間違ってたら、後からコッソリ修正してるかもよ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!



肴給候、賞翫候、毎事勲功之通、悦入候、
仍就祇園社役、自大草野弥六左衛門尉所申候慮、承知之由申来候、是又快悦候、恐々謹言

?年六月六日                 (千葉)胤繁(花押)

(捻封上書)
「(墨引)龍造寺右衛門大夫(康家)殿    胤繁」




語句解説
★千葉胤繁
---(千葉介)1493年~1511年~肥前千葉氏14代目&西千葉氏3代目

★祇園社
---現在の須賀神社(小城市小城町)検索して画像見てみそ、階段の仰角にクラクラするよ!

★大草野弥六左衛門尉
---嬉野市に大草野の地名が残ってるので、その地の国衆と思われる

★捻封(ひねりふう)
---Σ(´Д`;)はぅ!これまだ勉強してないしwww
簡略な封式で、堅紙を奥から巻き上げた後に上部だけを捻ります。
包紙は使用しません。

★上書
---捻封に上書・・・つまり宛名と差出人の名前を書いた。

★墨引
---言葉で説明できない~今でも封書の裏に〆ってやるでしょう。
  あれの本格バージョンで、他の誰かが開封したら印がズレちゃうから覗いたのバレるのね^^
  ここが詳しいです⇒墨引のやり方

★龍造寺右衛門大夫(康家)
---少弐政資に推挙してもらった官位ゲットしたんですね康家さん(*´ー`)フフフ

書状の年号は不明ですが、康家が推挙してもらった報告受けたのが、延徳元年1489年12月30日。
だから書状を貰ったのは、1490年以降の胤繁没年である1511年までの間です。
ただし、1497年に少弐政資が大内に敗れて自害し、巻き添えで西千葉氏も亡命し肥前に戻ったのが1504年だから、その間は除外されます。

本文読み下し
肴(さかな)給わり候、賞翫(しょうがん)し候、ことごとの勲功の通り、悦び入り候、
よって祇園社役につき、大草野弥六左衛門尉自(よ)り 、申し候所(ところ)を慮(おもんぱか)り、
之(これ)承知の由(よし)申し来りて候、これまた快悦に候、恐々謹言

超意訳
プレゼント(中身?肴だから食料品?)頂きました。
賞翫=賞味つまり、美味しく頂いてます!(*´pq`)クスッ
つねづねの勲功、悦んでますよ~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

大草野弥六左衛門尉より 、(私=千葉胤繁が)申し伝えたことを配慮して、(そなた=龍造寺右衛門大夫が)之(祇園社役)を承知してくれるって、これもまた嬉しい!恐々謹言


考察的な?
語句解説の生没年にあるように、千葉胤繁は二十歳前に亡くなってる(多分だけど戦死)ので、意訳は若い人っぽく(爆
家督を継いだのが亡命から肥前に戻ってからで12歳だか13歳。
相続後しばらくは養母である尼日光(肥前千葉11代目胤朝娘)が後見してた・・・らしい(史料ないので推測)
だから、この書状は1504年以降で、かつ自分の意思で書状を出すなら、若い晩年に近い年代じゃないだろうか。

で、肥前千葉氏の本城である牛頭山城は、1497年少弐没落時のゴタゴタで東千葉氏初代・興常に奪われちゃった。
(千葉興常は、少弐氏累代のライバルにして西国のドン・大内氏の後見を受けてます)
本拠地を奪われた嫡家・西千葉氏は、牛頭山城の数百m近所・晴気城に構え、東千葉氏と敵対してました。
(牛頭山城の西に晴気城があることから、西千葉氏と呼ばれた)

牛頭山城に入った東の千葉興常は、大内の後ろ盾で自分が千葉氏総領の如く振るまったそうですが、
両家は神事に関しては敵対しないで、それなりにバランスとれてたのかもなんです。
(川上社の安堵関係が両家の連著)

そういう背景があるところで、神事の役目について大草野を通じて千葉胤繁から申し入れがあり、
それを龍造寺康家が承知しました~と、西千葉の胤繁へ、進物を届けつつ返事したらしい。
それに対しての千葉胤繁の返信(進物への御礼含む)です。

肥前千葉氏が西と東に分裂したせいで、周辺の国衆は気遣いが大変だったんだろうな~( ̄ω ̄A;アセアセ

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ハ)政所下文---(1)下文---古文書学のススメ

武家様文書の形式です。
鎌倉初期の成り立ちから順番に行ってます^^;

おさらい
1)下文~くだしふみ~
 ウィキペディアより
 上意下達を目的として平安時代中期以後に、
 上位の機関(官司とは限らない)から下位の機関もしくは個人にあてて出された命令文書のこと

イ)奥上署判下文
 頼朝さんは、初め(政所が出来る前ね)日付の次の行の上部に「前右兵衛源朝臣(花押)」と著判して下文を出してたそうです

ロ)袖判下文
 文書の右部分(袖)に花押を書き、差出書(人)を書かない下文
 文書そのものは、右筆が書き頼朝は花押のみ署します。
 従って(イ)の奥上署判下文より、更に上から目線・・・上位者が発給する文書形式です。



ハ)政所(まんどころ)下文(くだしふみ)
 えっと、今回は頑張って凡例と訳(自己流)も入力します φ(.. )PCカタカタカタ

前右大将家政所下  左兵衛尉惟宗忠久
差出書:前右大将(頼朝の事)政所下(くだ)す
受取人:左兵衛惟宗忠久(島津氏初代にして頼朝の隠し子・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ) 
 
可早為大隅・薩摩両国家人奉行人、致沙汰条条事
大隅・薩摩両国の家人奉行人(守護職の前身)条条の事、沙汰致す、早く為(な)す可(べ)し
超意訳:守護職の職権事項はコレコレだから、ちゃっちゃとやってね!

一 可令催勤内裏大番事
右催彼国家人等、可令勤仕矣

一 内裏(朝廷)の大番勤めを命ずる
惟宗の家人らに、勤仕(ごんし=役目)を命ずるを催(うなが)す←つまり催促してるwww

※矣~漢文における置き字で、訓読の場合はスルーしてOK

一 可令停止売買人事
右件条可禁遏之由、宣下稠畳、而邊境之輩、違犯之由有其聞早可停止、若有違背之輩者、可慮重科矣

一 人身売買を禁ずる
禁遏 (キンアツ=やめなさいね)です(`・ω・´)キリッ
この命令は朝廷から度々出てます(宣下稠畳=せんげちょうじょう)
あ~~なんか守られてないから、違反してる輩には重い罰を考慮するように・・・かな?
(だんだんALL超意訳になってるwww)
とにかく朝廷の出した人身売買への禁令に対して配慮してるんですね( ̄ω ̄A;アセアセ

一 可令停止殺害己下狼藉事
右殺害狼藉禁制殊甚、宣守護国中、可令停止矣

一 殺害や狼藉の事は停めるよう命ずる
殺害や狼藉(暴行など)禁じているのに殊(こと)甚(はなは)だしい←つまり全く守られてない
ちゃんと守るように国中に命じなさい・・って事だと思う

以前条々所仰如件、抑忠久寄事於左右、不可冤凌無咎之輩、而又家人等誇優恕之餘、不可對捍奉行人之下知、惣不慮事出来之時、各可致勤節矣、以下
もう超意訳で逃げよう・゜・(つД`q。)・゜・
えっと前(さき)の条々(じょうじょう=命令)を(島津)忠久の左右(さゆう=つまり家臣たち)に於いても伝え、
冤凌(えんりょう=無実・冤罪)の者に咎を与える事がないようにね←かなり怪しいです・゜・(つД`q。)・゜・
助けて佐藤先生!

佐藤先生の有り難い意訳(-人-)☆彡:非合法な事をやっても幕府が目をつむってるのを良い事に、島津惟宗の命令に反抗するような事があってはダメですよ^-^

以下(もって、くだす)==これだけは確実な訳,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

建久八年十二月三日  案主清原

令大蔵丞藤原(花押) 知家事中原
別富前因幡守中原朝臣
散位藤原朝臣(花押)


ぜーはーぜーはー(;´Д`)ぜーはー・・・島津家文書だから頑張ってみたけど、やっぱ細かく読み下すのはビギナーにはキツイ。

で、最後に署名と花押してるのは、政所の役人たちです。
これは摂関家政所下文と同じ形式なんですが、これに御家人筆頭・千葉常胤からクレームが出たの。

千葉常胤「儀式があったって、肝心の花押が政所の家司のみでは後々の証に備え難い!上様(頼朝公)の袖判(ロのパターン)希望ヌ!(# ゚Д゚)・;'.」by吾妻鏡

てことで歴代の鎌倉将軍はロ)の袖判で下文を出し、
官位が三位になってから「政所下文」を出すというスタイルをとりましたとさ
(※朝廷から迎えた宮将軍は、初めから「将軍家政所下文」です)




まとめ~~下文(くだしふみ)は様々な特権・訴訟関連など恒久的効力が期待される事項において、広範囲で使用されていました。

ですが、下知状が発生すると多くの事項は下知状で発行されるようになります。
佐藤先生の下文に関する説明は更に続くのですが、とりあえずシオの脳みそがパンク寸前ですので、今日はこれにて御免(爆

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【1488・長享2~南九州限定・戦国年表】

2月、北原兼珍(茂兼の叔父)が、北原氏の家督を奪い10代目となる
 ※嫡子・茂兼は、母方の実家・相良氏を頼り亡命する

系図にすると、こんな感じ↓

系図・北原

逆さまだけどね,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
有料にすれば容量は無問題なのだが・・(-ω-;)ウーム



≪南九州シオ的エントリー:肥後・豊後・日向・薩摩・大隅≫
大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
 さがの歴史・文化お宝帳
 戦国島津女系図(相互リンク)http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/
 しいまんづ雑記旧録
 千葉一族HP
 武家家伝
 城郭放浪記
 天下統一期年譜
 ※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「龍造寺文書」「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)」
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
 監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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【1488・長享2~北九州限定・戦国年表】

いまのところデータない(´・д・`)




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 城郭放浪記
 天下統一期年譜
※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。



【主な史料出典元】
 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「龍造寺文書」「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

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【隣の不幸は蜜の味】相良史・相良義陽---18

自分の脳内・義陽は、もしかしたら皆さんのイメージとは、かなり違うかもしれません^^

相良義陽の最期は「九州武将列伝」的な本には、たいてい紹介されているので、
歴史関連の小説・雑誌を読んでる人には、割と知られています。

でも、その発端となった諍いの根っこというか始まりのキッカケが、日向の北原氏にある・・・
という事は殆ど知られていません。

日向の肥沃な穀倉地帯・真幸院・・・ここを本貫地にしているのが北原氏・最盛期の動員兵力は一万余!

北原氏のライバルが北郷(ほんごう)氏で島津の分家です。
初めは北原氏が優勢でした。
というのも北郷の宗家・島津は内輪もめが続き、日向まで手が回らなかった^^;

もっとも北郷の方も独立の気風が強く、宗家が介入しすぎるのを喜ばなかった。

なぜなら北郷の領地は島津家からの分知ではなく、
南北朝の戦いの功績により自力でゲットした領地だったので、プライドが高かったからです。
そんな北郷が宗家・島津に対し、家臣化するのは「九州の役」以降になる。


さて日向といえば伊東VS島津の「飫肥の役」ですが、実は伊東軍は単独ではく、北原との連合軍でした。
余力のあった北原は、相良領を窺い、時には侵攻(16代義滋の時)してきた。
おまけに相良で問題を起こす連中は、揃いも揃って北原領へ逃亡する。厄介なお隣さんです。


そんな北原に陰りが出始めたのは、島津家の内輪もめが治まり「日新斎(父)貴久(息子)中興の祖コンビ」で固まった頃。
国人たちが鬩ぎ合うことにより保たれていたミリタリーバランスが崩れ、北原への圧迫が強くなってくる。

北原の(同盟+縁戚)の伊東はあてにならない。
伊東義祐は飫肥城攻略に夢中で、北原になんか構ってられなかったからです。

1560年~北原没落へ決定的なことが起きた・・13代目当主が男子の無いまま死亡!

13代目には男子はいないが、娘がいた。
彼は「娘と叔父・兼孝の息子を結婚させて家督を継がせるように」と、遺言した。
「叔父の息子」と「甥の娘」・・・これもやっぱり「叔父と姪」になるんだろうか(-ω-;)ウーン 

ところが肝心の娘が3~4歳で早逝してしまう。
北原の重臣は相談の上、「なら息子ではなく父の方~つまり亡き13代目の叔父・兼孝様を当主にしよう」と決した。
「ちょっと待ったぁ!!」と北原重臣の決定にダメ出ししたのが伊東義祐だ

実は「亡き13代の妻」=(イコール)「伊東義祐の次女・麻生」だった。
伊東義祐は亡き13代目の舅にあたり、その縁戚関係をテコに北原の家督問題に介入した。

系図・北原
容量のせいでマタマタ逆さ・・・il||li _| ̄|○ il||l

伊東義祐の案「13代目の未亡人(ワシの次女^^)と「北原庶流の馬関田」を再婚させて家督を継がせるべし★」

これは根っこに「宗教問題」が横たわっていた。
重臣が当主に押す兼孝はガチ真宗信者だったが、伊東義祐はドップリ禅宗ラブ。
伊東は大和から仏師を呼んで大仏を建立する熱の入れようだったので、真宗信者の兼孝が気に入らなかったんです。

系図・北原(馬関田)
今度は横・・逆さよりマシか・・il||li _| ̄|○ il||l

重臣「馬関田・・まんがた・・って、えええええ6代目頃に別れた庶流の家??
ざっと遡って150年前以上に枝分かれした支族・・・庶流といっても端っこすぎるやん!!
実叔父がいるのに、そんな傍流を主君と仰げるか! o( ̄Д ̄θ★ケリッ! と反対した。

伊東義祐は「まぁまぁ話し合おう」と、都於郡(とのこおり)城へ反対派重臣を呼び寄せ詰問し、
彼らの帰りに待ち伏せして「全員殺した」
さらに飯野城にいた「重臣押し当主候補・兼孝も抹殺」。

邪魔者を始末したところで伊東義祐は、13代目の未亡人(伊東の次女)と馬関田を結婚させ、傀儡当主とした。
1561年10月24日~伊東義祐は北原家の忠義者たち・・・反対派の生き残りを殲滅
1562年~北原領は完全に伊東義祐の意のままになってしまったヾ(  ̄▽)ゞキョホホホホホ

伊東さん・・・あんたはホントの悪や・・・

家紋・伊東 リフォーム会社のロゴマークみたいな伊東家家紋


ちなみに13代の未亡人は元和4年(大坂の陣の後)まで長命しています。
おそらく伊東が没落した後は「大友へ豊後落ち⇒大名復活した祐兵が保護」って感じでしょう。 

とにかく北原家は風前の灯~~~
この状態を嘆いた北原旧臣が、島津家の重臣・樺山さんに助力を請うた。

北原家を軸に政局が動き、相良義陽も深く関わるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【北肥戦誌の大友義鎮評】龍造寺隆信「展」の巻12

1563年、少弐政興の御家再興を支持する者たちを倒したあとなんですが、北肥戦誌では渋江氏の記述になってます。

西肥前リサーチ強化【肥前後藤氏・六~貴明・3】で紹介した部分です。
有馬の謀略で「鉄砲を戦で使用すると神罰あるぉ~」という偽神託を信じて、鉄砲を城外に移した為に城を落とされちゃった残念な渋江さんの話^^;

ちなみに偽神託を信じたのは、信心深い渋江パパ。
最前線で戦う若い息子たちは、この神託変じゃね?と反対したけど、渋江パパに押し切られたのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

ちなみのちなみ・・・北肥戦誌では1563年になってる渋江エピソードですが、御当地である武雄の記録だと1560年なんです~~~(_´Д`)アイーン
とにかく、この少弐政興から始まり有馬VS龍造寺で波及した戦とかとか、西肥前と東肥前で記録が前後する現象が多発し、どれがホントの時期なのか訳が分からない状態です^^;

で、渋江氏ネタの後に、北肥戦誌は突然、大友義鎮の悪口を書き始める
,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
個人的には「言い訳」と思ってます。
なぜなら上位権力・・つまり九州探題&肥前守護職として、紛争の調停を計ろうとする大友氏が「室町体制における正義」だからです。
だから「堺目静謐を侵す咎人=龍造寺隆信」で、本来なら断罪されてしかるべき存在。

まぁ少弐氏も龍造寺の台頭を恐れて龍造寺一族抹殺しようとしてるわけで、現代なら優秀な弁護士立てれば正当防衛で逃げ切れるかもだが、今は戦国。
そのくせ室町幕府は滅んでない。
軍事力・財力を併せ持つ実力の九州探題・大友氏は、上位権力としてキッチリ機能しているんです。

大友の調停に従わない龍造寺が「うちは悪くないわ、だって大友ってばメチャクチャで仕方なかったの~」
と言う世論を導き出す最も手っ取り早い方法は「大友義鎮が暴君だった」と主張する事です。

従って江戸期に書かれた大友義鎮に対する人物評価は、その記録した藩の自己弁護アピールの為に不必要に貶められている・・・と言う前提を念頭に入れつつ読む必要があります。

人物・大友宗麟

てことで、鍋島氏による鍋島氏のための官制軍記物「九州治乱記(北肥戦誌)」の中の大友義鎮に関する記述に、楽しく突っ込み入れましょう(*´pq`)ぷぷぷ

永禄6年のこの頃、豊後の屋形・大友義鎮は国政甚だ暴悪にして、諸人が疎み嘲ること大概であった。
その上、不意に入道し、また南蛮西洋国の耶蘇教に傾倒して仏神を蔑ろにして堂塔を破却した。


大友勢に破壊された~って伝承の寺院仏閣は、九州各地にゴッソリありますが、何処までホントか不明です。
肥前でも「このあたりまで大友勢が来たっけ?」って地域で「大友に燃やされたの」って伝承になってますヽ(。_゜)ノ アレ?
少なくとも本貫地である豊後国内においては、ガチ大量破壊行為はしてません。
もちろん国衆・家臣の反発を恐れたからです・・・( ̄ko ̄)
ただし、侵攻制圧した日向では思う存分にやっちゃってた・・・らしい^^;

その根元を尋ね聞くに、義鎮は近年、専ら女色に溺れ、国中の上下を問わず、若く麗しい女を幾らともなく府内の城中に招き集め、あるときは庭上の花の下に踊りを興行し、あるときは深閨の月の前に酒宴を催し、日夜不行儀に過ぎる有様であった
大友義鎮って、実父・義鑑に疎んじられるほど病弱だったので、こんな不健康な生活連チャンするパワーあったかな~
というのが、まず素朴な疑問^^;

簾中(=正室・奈多夫人)はこのことを大いに嫉み、ある修験者を賺して金銀を与え、夫の義鎮を呪詛するよう密かに頼んだ。
これより義鎮は忽ち乱心し茫然として、ある時、府内の城中を迷い出て、更に行方も知れなくなった。

奉行を初め豊府の侍は大いに驚き、これは何とした事かと諸方を探し回ると、臼杵の丹生島の辺りにて見つけ出す。
これはどうした有様ですかと問えば、
「さればよと紅葉の影に誇らして」と答えたため、これは乱心であると思い、すぐさま丹生島の城へと入れた。


義鎮と奈多夫人の不仲は有名ですが、義鎮子女の生母は殆どが奈多夫人で、しかもハイペースで出産してます。
少なくとも義鎮がキリシタンになる前は、世評にあるほど不仲じゃなかったんじゃないでしょうか。
義鎮の女遊びが噂通りなら、庶子や隠し子がゾロゾロ出てくるはずです。

その後、義鎮は正気に返り、簾中の呪詛を伝え聞くと大いに立腹、所詮は世の中に仏神があるから呪詛もあるのだと、仏神を疎むようになった。
その後、義鎮が34歳のとき、大徳寺の長老に請い、剃髪して法名《三非斎瑞峯宗麟》と号し、家督を嫡子の義統に譲って、自らは臼杵の別邸に居住した。


そんな折、元は禅僧である如露法師・因果居士という二人の南蛮西洋国の邪宗の者が、臼杵の丹生島に現れ上下老若共に邪宗を説き聞かせる。

如露法師・因果居士って誰だろう?
義鎮はザビエルと会ってるし、府内には本物の宣教師が在任して布教してたので、こんな胡散臭い連中いないはず。
このあたりは、禁教となったキリシタンへの偏見というか、悪口も入ってますね^^;

府内六奉行の一人である《田原親賢入道紹忍》はこれに帰依して主の宗麟へも勧めると、
宗麟は元より仏神を疎んでおり、その上、賢しらからは遠く、愚には近い大将であるからすぐさまこの耶蘇教に傾き、偏に泥鳥を尊び仏神を敬わず、これより国中の神社・仏閣を悉く打ち破り、仏像・神体を一つ一つ焼き捨てる浅ましさであった


田原親賢入道紹忍・・・彼がキリシタンに帰依する事だけは絶対にない。
彼は宗麟の正室・奈多夫人の実兄にして、八幡奈多宮(はちまんなだぐう)大宮司の家柄だからです。
単に出自からだけでなく、彼のキリシタン嫌いはガチで、そういう点では奈多夫人と兄である田原は意気投合してたんです。

泥鳥って何だろうヽ(。_゜)ノ へっ?
てか宗麟の事を「賢しらからは遠く、愚には近い大将」って、ボロクソ評価,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

その間、府内の大老奉行らは大いにこれを悔み、中でも《戸次鑑連》は時々諫言したものだが宗麟は許容せず、近習・外様の輩は、大友家の滅亡は近いと眉を顰めぬ者はなかった。

戸次鑑連(べっき あきつら)、後の柳川藩立花氏の藩祖です^-^
大友義鎮に問題がなかったのか?というと暴君説が出る素地はありました。

家紋・大友 鎮西武将の憧れ~大友家紋ロゴ

前出の田原親賢入道紹忍を大友義鎮は周囲の反感を押し切り、スピード出世させてるんです。
一時期は田原が大友家中最大の所領を保持してたほど。

情実人事・依怙贔屓と、とられかねない田原の権限集中に対し、戸次鑑連は何度も諫言してたそうですが、義鎮は聞く耳持たずでした。
これには大友義鎮の性格もありますが、何よりも大友家の内部事情も複雑に絡んでるので、ここでは説明しきれません^^

名門・大友氏・・・・その最盛期当主である大友義鎮(宗麟)の治世は、同時に大友家内部の矛盾や軋轢がMAXになった時でもありました。
累代蓄積されてた不満や矛盾なので、ニントモカントモ・・・むしろ宗麟は頑張った方じゃないかな~と思います^^;
更に豊臣政権への接触タイミングなど、少なくとも大友義鎮(宗麟)は、外交センスに関しては超一級品だと自分は評価してます。

北肥戦誌に大友へのボロクソ評価が紛れ込むという事は、この時期から明らかに龍造寺が自立した勢力として歩み始めた事を意味するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺文書99_千葉某安堵状

 肥前国佐嘉郡川副下庄袋之内瑞應寺壷所之事
右守先例之旨、領知不可有相違之状如件、

  永正弐年三月拾六日
         平(花押)
         龍造寺隠岐入道殿



瑞應寺、開基となったのは龍造寺家氏(剛忠(家兼)の祖父)で寺号は、家氏の法号。
 壷所、ワカラン,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!寺領だと思う。
  平、肥前千葉氏の本姓。
隠岐入道、隠岐守は龍造寺氏当主の事で家氏も隠岐守でしたが、年代から言って家氏ではなく次代の康家の事だと思われる。

本文意訳(のつもり)
肥前国佐嘉郡川副下庄袋の内、瑞應寺壷所の事
右、先例之(これ)を守る旨、領知相違あるべからずの状、件の如し

内 容
えっと、龍造寺の瑞應寺壷所の領地は先例だから、これまで通りだよ~と千葉誰かさんが安堵してます。

時代背景
少弐氏を中興した少弐政資が、大内に敗れて1497年に自害してます。
で巻き添えで西千葉氏と龍造寺胤家が肥前から亡命してました。
1504年に、少弐氏は資元を当主として再び御家再興し、西千葉氏も龍造寺胤家も亡命先から肥前に戻ってます。
この安堵状の永正2年は、少弐復活の翌年、1505年の事です。
ちなみに、この安堵に関しても北肥戦誌に記述なし。

考 察
まず前提として戦国時代は主君を複数持つダブルスタンダードOKな時代です。
そもそも室町時代の主従関係が、緩やかな支配関係でして、江戸期の時代劇イメージの主従関係とは雰囲気かなり違います。
各地の国衆は、実力(財力・軍事力)さえあれば、守護職の被官(ひかん=家臣)でありながら、幕府御家人になる事もOKだったんです。
その緩い室町主従関係が崩れるのが戦国時代ですから、裏切ったり降伏したりが激しくなるはずです^^;

で、龍造寺氏は~というと、少弐氏被官であると同時に西千葉氏被官でした。
が、時代背景にあるように少弐氏が敗れ西千葉も肥前から亡命しちゃったΣ(´Д`;)はぅ

でもって、少弐&西千葉が肥前に復活するまでの7年間・・・
どうも敵であった東千葉氏(大内が後ろ盾)の被官になってたみたいなんです。
みたい・・・ていうのは、例によって北肥戦誌ではモヤっとした書き方しかしてないから。

北肥戦誌曰く
文亀2年(1502) 1月16日、千葉興常の吹挙(推挙)により、龍造寺家和が将軍・義尹へ御礼を遂げた。
家和は龍造寺康家の子で父の家督を継いでいたが、今回軍忠あって加増され、大身となった為の御礼であった


この文が前後の脈絡なく唐突に出ます。
千葉興常とは東千葉氏初代でして、彼から推挙を受けるという事は、即ち龍造寺が東千葉被官だったという事です。
唐突なんで「今回軍忠」とあるけど、どんな武功で誰と戦ったかは不明。

さらに龍造寺では家督の逆転現象がおきてました。

家系図・龍造寺系図①

龍造寺の家督は長男である胤家が継いでたんです。
ですが少弐氏と西千葉が敗れた為に、巻き添えで龍造寺胤家も筑前に亡命する羽目になってしまいました。
この間の事情は不明でして、龍造寺文書にも相続に関する文書はありません。

で、隠居してた康家の後見で次男・家和が龍造寺の家督を継ぎ、以降は家和系統から当主が出て、胤家系統から当主が出る事はありませんでした。
胤家を当主としてカウントするか、しないか、サイトによってバラバラですが、自分個人としては当主になったけど「悔い返し(いったん譲った相続をキャンセル)に遭ったと考えてます。
東千葉氏被官になるってことは、龍造寺は少弐を裏切ってた事になるんですが、何せ少弐も西千葉も政治的に失脚してた期間の話だから、道義的にはギリセーフです。

1504年に少弐と西千葉が復活すると、龍造寺も元の少弐と西千葉の被官に戻ってます。
安堵状が1505年だから、順当に考えると西千葉当主から安堵状になるはずなんですが、イマイチ怪しいwww
復活したと言っても、少弐資元は当時未だ無位無官で政治的に不安定だったからです。
で、更に特定出来ない理由が「寺社関係からの安堵だと西千葉だけとは限らない」って点です。

敵対する東と西の千葉氏ですが、肥前国一宮川上社に関する安堵状だと、両当主連著なんです(出典:川上文書)
てことは寺社関係だと西も東も関係なく「呉越!( °ロ°)乂(°ロ° )同舟!」だったかもなわけで、、、
プロが千葉氏の誰か特定できず某としたように、自分にも千葉氏関係者の誰なのかワカラン(-ω-;)ウーン

あと差出者が、本姓の次に花押のみって、珍しいような・・(-ω-;)ウーン

ところで、今回の文書で判ったのは、龍造寺は歴代当主が開基となって寺院を創建してるって事です

12代目家氏:瑞應寺~佐賀市本庄町大字本庄173
13代目康家:宝琳院~佐賀市鬼丸町12−30
水ケ江初代家兼:乾亨院~佐賀市中の館町7-11
龍造寺隆信:龍泰寺~佐賀市赤松町2-4

うふふ・・・地図で検索して見ると面白いですよ~
全部佐賀城の周辺なの~まるで龍造寺ニャンコがスリスリマーキングしてるみたい(*´pq`)クスッ
寺院建立は実力ある当主でないと出来ません(寄進したり保護したりするから)
逆を言うと、寺院建立してる時期は、龍造寺の勢力が増してる時と言えます(^ -)---☆Wink

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ジャンル : 学問・文化・芸術

ロ)袖判下文---(1)下文---古文書学のススメ

武家様文書の形式です。
鎌倉初期の成り立ちから順番に行ってます^^;

おさらい
1)下文~くだしふみ~
 ウィキペディアより
 上意下達を目的として平安時代中期以後に、
 上位の機関(官司とは限らない)から下位の機関もしくは個人にあてて出された命令文書のこと

イ)奥上署判下文
 頼朝さんは、初め(政所が出来る前ね)日付の次の行の上部に「前右兵衛源朝臣(花押)」と著判して下文を出してたそうです




ロ)袖判下文
 文書の右部分(袖)に花押を書き、差出書(人)を書かない下文

これも鎌倉初期のものが現存してまして、要するに未だ政所が開かれてない時の書状です。
文書そのものは、右筆が書き頼朝は花押のみ署します。
従って(イ)の奥上署判下文より、更に上から目線・・・上位者が発給する文書形式です。
実際に袖判下文を発給する前に、頼朝は朝敵を免ぜられて任官してるそうです。

ちなみに現存してる文書というのが、御重物・・・すなわち現在国宝指定されている「島津家文書」の一つです。
惟宗(島津)忠久が地頭職に任じられてます。

佐藤進一著「古文書学入門」には、現存文書の写真が添付されてます。
ほ・・・ほんまもんだ・・・'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`
こ・・こりが島津氏歴代当主の証として、現代まで受け継がれた文書の一つ・・・'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`

ちなみに惟宗(島津)忠久さんには、頼朝の隠し子って噂が・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ




入門書を読んだからといって、変体漢文や変体仮名が急に読めるようになる訳じゃないけど、
文書形式に慣れれば、読解力がアップするのは確かです。
ていうか、ベースの基礎知識だから、これが頭に入ってないと話にならない。

初めはチンプンカンプンだったけど、文書(現存写真)と解説を見比べながら繰り返しガン見してたら、何となく何とな~く頭に入ってきました。

まだちとウロ覚えなんで、もうちょっと袖判下文とニラメッコします^^

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【1487・文明19~南九州限定・戦国年表】

3月1日、相良為続~竹崎安清親子三人を討って、豊福を知行。

6月13日、相良長泰(15歳)、父の頼泰が、相良長毎(後の相良13代目)に殺される
 ※父の頼泰が、息子の長泰に相良の家督と継がせようと謀った為

7月20日、長享へ改元

・大友氏~政親(父)派と義右(息子)派が和解



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大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
 さがの歴史・文化お宝帳
 戦国島津女系図(相互リンク)http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/
 しいまんづ雑記旧録
 千葉一族HP
 武家家伝
 城郭放浪記
 天下統一期年譜
 ※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「龍造寺文書」「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)」
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
 監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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【1487・文明19&長享元年~北九州限定・戦国年表】

7月20日、長享へ改元

12月10日、渋川萬寿丸(25歳)筑前亀尾城で、家臣・足助森戸に殺される

・少弐政資(何時の間にか大宰府復帰)、亀尾城を落とす
・ 〃  綾部城を攻撃
 ※渋川刀禰丸(家臣に殺された萬寿丸の弟)が幼少の為、城兵らは筑後へ亡命する



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出典元に「龍造寺文書」が増えました~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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