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【1494・明応3年】北九州限定・戦国年表

1月、少弐政資、千葉胤資(西千葉初代で政資の実弟)、龍造寺康家、高木家重らを率いて下松浦を攻める。
 ※波多氏、鶴田氏、相知氏、有浦ら(上松浦衆)は戦う前に従属

・留守永恒の青山城が一日で落城

・少弐勢、原田興種の高祖(たかす)城を攻撃

4月4日、平戸弘貞の平戸城が少弐政資に降伏

・有馬貴純、少弐政資より平戸攻めを賞され、藤津・白石・長島の荘を与えられる(歴代鎮西誌)

・大内義興、父の死で家督を継ぐ

8月18日、宗貞国が死亡

・大内義興、淡路島に下向(亡命)していた足利義材(よしき)に申し出「少弐退治」の上位賜る

足利義材(`・ω・´)キリッ
「少弐氏は勘気の身であるのに公儀を軽んじ私に弓箭を為す意味を心得ていない。
急ぎ吉木御所へ言上し、少弐一族をことごとく誅殺すべし」

※足利義材~銀閣寺の義政の甥っこです^^/
※御教書か御内書のドッチだったっけ・・・il||li _| ̄|○ il||lダメジャン

・深堀貴時、有馬貴純から藤津郡白石長島荘の名代職を命じられる

12月3日、有馬貴純が死亡(有馬世譜)


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※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】

 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
 監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

【読み下し中】---「龍造寺文書」「鶴田家文書」「横岳文書」ほか肥前データ

  肥前関連一次史料は別の提供者様の御厚意で頂きました。
  この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

シオ
逆さまになる理由が相変わらず判ってません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

こんな感じで研究してるのと、プライベートがバタバタしてて、更新にバラつきありますが宜しくお願いしますm(__)m
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【1494明応3年】南九州限定・戦国年表

・島津善久(伊作島津氏)、馬飼いの下男に殺される。享年27歳

・島津友久(島津分家・相州氏初代)死亡



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 大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

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【少年城主・大河平隆次】大河平氏---4

北原氏から大河平の地を拝領し、八代姓から大河平姓に改めた大河平隆屋。
北原の家督が伊東義祐に乗っ取られ、家中が激しく揺れる中、彼は島津義弘に拝謁し「領地安堵」を受ける。
おそらくは一族の精神的支柱であったであろう隆屋。
それが1562年2月13日、大河平越前守隆屋、卒去(法名「源宅宗潤居士」)。享年73
隆屋に先立ち嫡男の隆充が亡くなってるので(1559年・53歳没)、家督は嫡孫である隆利(大河平氏2代目)が継いだ。

系図・大河平氏

同年(月日不明)、大河平城を、伊東義祐の叔父の伊東杢右衛門が兵450をもって攻撃。

戦の経緯は前回紹介済なんで割愛。
隆利は伊東勢の攻撃を防ぎきり見事、城を守り通した~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

島津義弘は、この隆利の働きに鍋・灰塚・榎田の地、計2,000石を与えた。

と、いう所までが前回までの話。

鍋は判らなかったけど、灰塚と榎田は現代でも地名が残ってます。
で・・・・これが、やっぱり元々は北原エリアなんです。
何で島津義弘が北原領と大河平氏に安堵しちゃうわけ?って思わず突っ込みたくなる^^;

北郷・島津・相良の三氏による支援で御家再興した北原氏だったが、
「領地安堵」という主君の特権事項を失っては、もはや名ばかり当主としか・・・(-ω-;)ウーン

このあたり、御家再興した(してもらった)北原兼親の権限が、何処まで三氏(島津・相良・北郷)から委ねられてたのか判然としていない。
でもって三氏・・・とは言っても現実の主導権は、伊東とガッツリ交戦状態の島津にあった・・・ということなのだろう。

で、この鍋・灰塚・榎木(合計2000石)は、肥後球磨郡よりの土地でして、相良勢が落とした馬関田城に近い・・・
(つまり「えびのIC」に近い)
大河平館からだと西に5kmも離れてる土地なんです ヽ(。_゜)ノ へっ?
当然、大河平館から新たな領地を見通すことは不可能で、いわゆる「飛び地」で維持管理が・・・^^:

始め、真幸院の東と西の国境を大河平氏に託したのかと深読みしたら、
監修様「あの・・・それじゃ大河平氏には負担過重・・・」
シオ「あ・・・すいません~また推考が爆走しました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!」
てことで、ほんとに恩賞としての土地だったみたいです^^;

家紋・島津 島津十字

その後、島津義弘は「伊東に備えて要害に城を築くように」と隆利に指示した。
そこで、隆利は大河平城の西方に今城を築き、自家の手勢と島津からの派兵300人と共に入る。
が、
永禄6年(1563年)1月28日、大河平仲太左衛門隆利も、28歳という若さで病没!ぇえ!(゚ロ゚屮)屮
てことで、上に出した系図に注目~~~~~~~~~~
不幸なことに隆利には子供がおらず、次弟・隆豊も既に戦死。残る男子は末っ子・隆次。

1563年1月、末弟・大河平九郎隆次、兄の死により大河平氏当主3代目となる。この時、若干14歳!

若年が城主で大丈夫?
大丈夫(=^・ω・^=)v ブイ
隆次クンにはベテランの叔父上たちと、伊東兵を自力で撃退した実績のある大河平勢がついてます(`・ω・´)キリッ
名誉ある最前線の城主として、臆することなく励んだと思いますよ♪(*´ー`)ウフフ

この間に相良氏が島津を裏切り、1563年5月14日、伊東・相良勢が大明司塁を落とします。
大明司塁は、えびの市大明司にあった山城というより砦に近い小城です。
ヤバいのは大明司塁の規模ではなく、その位置。
飯野城から2kmくらいしか離れてません。
伊東義祐は着々と魔の手?を伸ばしてきてました。

ところがです。
大河平氏の主君・北原兼親と若年城将・大河平隆次(14歳)が不仲になるんですヽ(。_゜)ノ へっ?
北原兼親は生没年不詳なので、隆次クンとの年齢差も不明です。
ただ流石に隆次より年下ってことはない・・・と思うけど・・・(-ω-;)ウーン

不仲の原因も不明でして、書くほどの事でないくらい些細だったのかもです。
が、ここから先が些細でなくなる。

主の北原兼親は島津義弘へ
「飯野城(北原兼親在城)と今城(大河平隆次が城主)は余り遠くないため、
(伊東が攻撃してきても)すぐさま今城を救援できます。」
「ですから今城配備の島津兵は撤収しても大丈夫です」

と進言したため主従二人の不仲を知らない島津義弘は「なるほど。それもそうか」と今城への派遣兵を撤収してしまう。

1564年5月29日、島津勢が引き上げた事を知った伊東義祐による、今城攻撃が始まるのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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【前篇・裏切りの波紋】相良義陽---24

島津・北郷・相良の三氏相互支援。
日向・都城を領する島津分家の北郷(ほんごう)にとっては、今回の宗家の意向に不満はない。
伊東が巨大になるのは、島津全体&北郷自身の脅威だからだ。

一方、相良義陽のメリットは?
と言うとハッキリしてるわけじゃないけど、島津は「真幸・飯野・大明神の格護
を相良側に要請してたそうです。

格護(かくご)・・・聞きなれない言葉だと思いますが、意味としては≪大切にしまっておくこと。保管≫でして、
これが「歴史民俗用語としての解釈」になると、
薩摩藩の田畑を占有または保持するの意になる。

真幸と飯野と大明神って、もう島津領でしたっけ?ヽ(。_゜)ノ
と言う突っ込みは別にして、これが城代的な意味合いだとすると、
相良側には領地(真幸と飯野と大明神)を家臣に下賜する権限はないが、
その領地(真幸と飯野と大明神)からの収益は相良氏のもの
となるので悪い話ではないです。

ですが、それだと相良家臣・・・特に動員されたと思われる人吉衆にとっては不満だったでしょう。
大きい華やかな武功がないため、彼らへの恩賞や加増も特になかったんじゃないでしょうか。
この時、相良義陽は二十歳そこそこの若さで、武功に逸る家臣らの気勢を抑えるのは容易ではなかったと思います。

人物・相良義陽相良義陽画像

カテゴリ・大河平氏でも触れたが、伊東の魔の手から逃れた北原旧臣の多くは、島津を頼ったらしい。

だって島津には日向に領地(といっても分家の豊州家と北郷の領地)があり、
特に飫肥城(豊州家)を巡って、長いこと伊東と島津が激突していた。
つまり敵(伊東)の敵(島津)は味方ってことです^^b

相良に寄宿してた北原兼親を擁立するアイデアを出した北原旧臣・白坂下総介も、
「島津家老の樺山氏に再就職していた」という記述があるそうです。

従って北原家の御家再興によって戻ってきた北原旧臣たちは、純然たる北原家臣に戻ったわけではない。
一度、島津家臣として随臣し、形の上で北原家臣として出向してるだけだったんです。

北原兼親が飯野に入った際、樺山幸久(島津家老)の勧めるままに(てか逆らえない)
栗野という土地を島津に割譲したという記述があるそうだ。

北原家当主は「伊東の傀儡当主・超庶流・馬関田氏」から「島津傀儡の北原兼親」にスライドしだだけともいえる。
(血統的には島津傀儡の北原兼親の方が遥かに正当性がある)
北原家の完全没落への推移を見ても、兼親が島津の傀儡当主であることに、
兼親自身もナンダカナーとモヤモヤだったろうし、
北原家中でも不満というか、兼親を軽んじる空気があったのでは無かろうか。

伊東もヤバイが、今度は島津に北原が乗っ取られる~(_´Д`)アイーン
危機感を覚えた北原兼親の叔父・北原左衛門尉が伊東へ内通した!

家紋・相良相良家紋ロゴ

1563年3月18日~伊東家からの使者が相良家(球磨・人吉の方)を来訪
10日ほど滞在~この間に伊東と相良の盟約の話を詰めたらしい、使者は3月27日に帰国
相良氏では、八代と人吉を分割統治しており、義陽は双方を定期的に移動していた。
4月27日に人吉から八代へ移動し、5月1日に義陽を訪ねて島津と北原からの使僧が八代へ訪問している。
もちろん義陽は伊東との裏盟約のことは、おくびにも出さず何食わぬ応対をしたことだろう。

5月14日~伊東+相良の連合軍が島津家の大明司塁を攻め落とす
島津にとっては「寝耳に水」の相良裏切り!!

ぶっちゃけ義陽にとっては日向・真幸院への出兵より、幼君当主で揺れる名和の領地の方が欲しい。
早く日向のグダグダから手を引きたかったことだろう。

義陽の面白いというか、どこか伸びやかな育ちの良さを感じるとことは、
この裏切りで島津との友好関係まで完全破綻する・・・とまで考えていなかったようなのだ。

1564年~義陽は言い訳の使者・東出羽を島津家に送るのだが、その東出羽が島津家で何かやらかしたらしい。
(というより、言い逃れできるような事態ではない)
1564年2月11日~島津と相良の友好関係は破綻し、島津軍が相良の大口城攻撃を開始する
若年で家督を継ぎ大事に育てられた相良義陽と、
幾多の修羅場を潜り抜けて来た伊作島津氏の日新斎や貴久・そして4兄弟たちとの差が、ここで出てしまったのだろう。

島津家は相良義陽へ打撃を与えるため、明との交易で必要な要衝地・天草地方へ介入する。
天草へ攻撃を仕掛けるのは、かつては宗家の敵として日新斎と貴久を手こずらせ、
世代交代した現在は頼もしい味方となった島津氏分家筆頭・島津薩州家当主・島津義虎だ!

島津義虎~~好き好き好き好き~~(*´艸`)激萌!

だんだんと追い詰められて行く相良義陽は、かつては敵対していた阿蘇家と家老・甲斐氏との接触を始めるのだが、
それは・またの話 by^-^sio 

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千葉胤勝安堵状---龍造寺文書_第六軸_106

肥前国佐賀郡之内与賀庄千町六郷之事、
 ※肥前国佐賀郡の内、与賀庄千町六郷の事、
任先例之旨、知行不可有相違之状件、
 ※先例之(これ)を任(ま)く旨、知行相違有る可(べ)から不(ず)之(この)状、件の如し、

享禄三年
 七月拾五日           (千葉)胤勝(花押)
  龍造寺民部大輔殿





与賀庄が・・・・アンドゥトロア~~~ヽ(*´0`)ノ ←現実逃避ちゅぅ

もう、誰から、何時、何処を、誰が、安堵されたって、驚かなくってよ~~~ヾ(  ̄▽)ゞキョホホホホホ ←ヤケクソ

あ~あ、もっと早く・・・せめて佐賀市史添付年表PDFをWEBチェックしてたら、過去記事に盛り込めたんだけどな~

自分の論文テーマ動機って、記事で書けなかった部分のシャウトだったりする^^;

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(5)印判状---古文書学のススメ(肥前国の場合)

つまり時代小説とか戦国ものにチョコチョコ登場する「朱印状」「黒印状」の事です^-^

簡単に言うと「花押の変わりに印章を捺した文書」です。
これは鎌倉じゃなく室町時代に始まって、戦国期に急速に広まり江戸時代に及ぶ。

花押の変わり・・・つまり対等の礼をとる必要のある文書では通常用いません
当主が幼少で「ソレガち未だ花押が描けまちぇん・゜・(つД`q。)クスンクスン」という時や、
手が負傷したとか病気などで花押を書くのが困難な場合に印章(印判)で代用するわけです。
また厚礼を要しない同文の文書を大量発給する場合などにも使用します。

印判で最も有名なのは、織田信長の「天下布武」ですね(^ -)---☆Wink
印肉の色は朱と黒。(例外もある)
「朱」色を使うから「朱印状」
「黒」色を使うから「黒印状」


佐藤先生曰く「印章の使用は東国に圧倒的に多く、西国に少ない」
てことで鈴木敦子先生の論文「肥前国における戦国期の印章使用」です。

龍造寺隆信~印章2種類~~印判状9通
龍造寺政家~印章3種類~~印判状7通
鍋島直茂~~印章3種類~~印判状21通

この少なさは「本来なら花押すべきところを、簡略な印章(印判)で済ませちゃってゴメンね(´・д・`)」
って相手に対して粗略スマソって事から来てるようです。

龍造寺隆信も印判を使用するときは、相手が実弟であっても
「ちょっとワシも年だからさ~花押書くのシンドイから印判にした~そこんとこ承知してちょ(超意訳)」と追記してます。

で、鈴木先生のまとめ
 ①印判状使用そのものが一般化していない
 ②印章の使用は、やむを得ない場合に使用する(特に親しい間柄において)
   ※冒頭にあげたように、戦国大名間の外交上の文書では用いません(`・ω・´)キリッ
 ③公的文書でも使用は例外だが、短期間で多数の文書を必要とするときは使用した
 ④黒と朱の使い分け
   ※黒印~~家臣など目下の者に対する場合(薄礼)
   ※朱印~~寺社など相手に尊崇の念を表す場合(厚礼)

この使い分けは肥前のみではなく、全国的なものです。
が、織田信長は黒も朱もゴチャ混ぜにして使ってました。
相手への礼を配慮しない(=イコール)自分の権勢を示す意味もあったと思われます。

おっと、あと一つ。
 ⑤印判状でも賢紙に印章のみを押す形式は、目下の物への礼状に用いる(自己の権威化)

論文によると鍋島直茂の公的文書における印章使用は、自己の権力確立後からだそうで、
それまでは使っててもプライベートだけだったとか。

ですが、印判が簡略・・相手への礼を失するという認識があるにも関わらず、東北では使用例が多い理由・・・
或いは東北で多いのに西国で使用が少ない理由は、論文の典拠からは見えてきません。

鈴木先生も「印判状の点数が少なくて、ちょっと無理(´・д・`)」と言われてます。
印判状研究には、漢字に起こした出版物ではなく、古文書の原典そのものからアプローチしなければならないので、
かなりマニアック・・・ゲフゴホ・・・専門的な知識を要するので、なかなかディープな世界です^^;

実は、論文自体は一か月以上前に読んでたんですが、古文書学入門書を読む前だったので、ぶっちゃけ理解しきれてなかったです^^;
今回、入門書で勉強してから再読して「なるほどな~」と思った次第 ( ̄ω ̄A;アセアセ

やったー~~武家様文書から脱出~~次からは上申文書(=^・ω・^=)v ブイ

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【1493・明応2年】南九州限定・戦国年表

2月~6月、明応の政変

・阿蘇惟長が生まれる

・大友親繁(大友氏15代目)83歳で没する

10月29日、菊池重朝が死亡


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2月~6月、明応の政変

・少弐政資、伊万里と渋川旧臣を討つため上松浦(地方)へ出陣
  ※西千葉初代・千葉胤資、龍造寺康家、高木家益も従軍
   (出典:北肥戦誌、佐賀市史には記載なし)

・千葉胤繁(肥前千葉14代目&西千葉3代目&尼日光養子)が生まれる



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【 新恩 】大河平氏---3

北原氏から大河平の地を拝領し、八代姓から大河平姓に改めた大河平隆屋。
北原の家督が伊東義祐に乗っ取られ、家中が激しく揺れる中、彼は島津義弘に拝謁し「領地安堵」を受ける。

これは隆屋が上手いことやった・・・・・という訳でなく、
反伊東派で伊東義祐兵の粛清から逃れた北原家臣の多くは、伊東氏の敵である島津氏を頼ったらしい。

だが「北原家臣に島津氏が安堵する」のは、元々は「北原氏が家臣に分知した領地」だ。
御家再興と言う美酒と引き換えに、北原氏は名目だけの領主となったとも言える。

1562年2月13日、大河平越前守隆屋、卒去(法名「源宅宗潤居士」)。享年73
隆屋に先立ち息子の隆充が亡くなってるので(1559年・53歳没)、家督は嫡孫である隆利が継いだ。

系図・大河平氏

同年、大河平城を、伊東義祐の叔父の伊東杢右衛門が兵450をもって攻撃。

これが、相良が五城抜き(5月10日)して、北原兼親(御家再興当主)が飯野城に入った・・・
前なのか後なのかが判らない~~~~ンガァァ!

隆屋が島津に従ったのが彼の死がキッカケで伊東にバレたのか、単に戦略的拠点として欲しかったのか、
どっちも有り得るんで何とも言えない^^;

ちなみに嫡孫・・・と言っても隆利は27歳~総領として不足はなし(`・ω・´)キリッ
伊東勢の攻撃を防ぎきり見事、城を守り通した~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

戦の経過ですが、まず伊東義祐は大河平氏を調略しようと叔父の伊東杢右衛門を遣わしたみたい。
しかし大河平隆利(隆屋嫡孫)は、伊東の誘いを拒否。
そこで杢右衛門は、その夜に風雨に紛れて子(ね)の刻(23時~0時59分)より将兵450人を率いて大河平城を急襲した。

大河平城は要害という訳では無く、外構えを破却されるも隆利は城を守り通し、やがて東の空が白む頃には風雨も止んだ。
隆利は意を決し、門を開いて打って出て伊東方を 攻撃!o( ̄Д ̄θ★ケリッ!
辰(たつ)の刻(7時~8時59分)にはこれを壊滅させ、50名を討ち取って伊東杢右衛門&その従者数名を逃散させるに至った。(=^・ω・^=)v ブイ
ちなみに大河平側の戦死者は十余人。(-人-)☆彡・・・黙

家紋・伊東
(リフォーム会社のロゴマークみたいな伊東家紋)

島津義弘は、この隆利の働きに鍋・灰塚・榎田の地、計2,000石を与えた。
亡き隆屋が受けたのは本貫地の領地安堵。
継いだ隆利が軍功により得たのが2000石。

これにより大河平氏は、北原家臣でありながら同時に島津氏より「新恩」を受ける。
彼氏彼女の二股はNGだが、国衆のダブルスタンダードは平常運転なのが戦国時代。
主君より実力のある上位者から安堵を受けるのは、ままあることだ。

ましてや主君(北原氏)と上位者(島津氏)の「共通の敵が伊東義祐」と、利害は一致していたのだ。
幸先良いと思われた勝利の裏で、相良氏が盟約を裏切り伊東に与するとは、
大河平氏が知る由もないのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【起請文】相良義陽---23

さて宮崎県えびの市南部の白鳥山北中腹に白鳥神社がある。

祭神が日本武尊~~つまり軍神、だもんで後年の島津家が熱心に保護してました。
(ちなみに神社のある地域は白鳥の禁漁区^^)

1562年6月21日、白鳥神社に相良家・北郷家・島津家が集い、北原兼親の前で相互助成の起請文を交わした。
島津方代表:伊集院忠倉、北郷方代表:北郷忠徳、相良方代表:深水頼金

弁護士も司法書士も行政書士もいない時代、人々は神前で契約を交わす。
契約不履行すると現代では損害賠償などのペナルティが生じるが、戦国時代のペナルティは戦だ。


だから力が均衡してる同士や、共通の敵がいる時の起請文は比較的守られる。
やばいのは、ミリタリーバランスが崩れた時・・・
相手より自分が有利・・・となるや起請文は紙屑になりかねない。


思い通りになったと思った北原家が、息を吹き返した事に驚いたのが伊東義祐だ。
だが相良・島津・北郷の三氏を相手に渡りあうのは流石にキツすぎる (* ̄* ̄*)むぐぅ~
ところが伊東にとって「救いの手」、北原にとっての「獅子身中の虫」が現れる。

1563年~北原兼親の叔父・北原左衛門尉が伊東義祐に内通した ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

北原左衛門尉(兼親叔父)は伊東と相良を盟約させて、真幸院・飯野から島津を追い出そうと画策した



通説では単なる裏切り者扱いの北原左衛門尉・・・だが、そんなに単純なものだろうか?
三氏相互支援・・・字面だけはカッコいいが、そのままでは北原は三氏からの干渉を受け続け、身動き出来なくなる。

そして島津の表看板は「三州(薩摩・大隅・日向)統一」
島津「べ、べつに諦めた訳じゃないから!
ちと内輪もめして、ちと国人が手ごわくて・ちと分家が言う事聞かないだけだもん(半泣)」

飫肥城が粘り続けているように、一度島津を真幸院に入れたら「北原支援」を口実に、そこから動かなくなるだろう。
島津と伊東のガチ激突になれば、相互支援の恩義で北原は島津の先陣を務めざるを得なくなる。
ついには独立した勢力ではなく、島津に隷属する羽目に陥るかもしれない。
「島津からの助力は真幸院復帰まで、あとはいらない。」と、考えても不自然ではないと思う。

ウィキペディアの簡素な説明では、画策する北原叔父へのメリットが記載されて無い。
あるいは甥の北原兼親に替わって、自分が当主になる野心があったのかもです。

北原左衛門尉は真幸院関連の記録では吉松城主とあるが、
吉松城は現代では鹿児島県湧水町吉松。

ちなみに島津歳久が落とした横川城が、同じく鹿児島県霧島市。
横川城は北原の一族が城主でしたが、伊東派だったため島津の調略を拒んで攻撃されて落城し、城主親子が自害しました。
てことで、戦国時代の「公称:真幸院=北原エリア」は、「えびの市だけ」を指すわけでなく、
鹿児島県側にも食い込んでたんです。

北原左衛門尉(再興当主・兼親の叔父)にすれば、自分の領地が島津に侵食される危機感もあったと思います。

人物・相良義陽 相良義陽イメージ画像

一方、相良義陽は日向への領土的野心は薄かったようだ。
父祖が残した大口城(島津の大隅地方にある城)を三交代制で守備して堅持している所を見ると、
領地拡大なら大隅の方に・・・と考えていたかも?です。

1562年・・・三氏相互支援の前の3月13日・名和行興が死亡、僅か7歳の子供が家督を継ぐ
幼君誕生で名和氏周辺は、俄かにキナ臭くなる。
ミリタリーバランスの崩れは、当事者同士とは限らない、周辺バランスも大きく作用する。


1560年に和睦して以来、穏やかだった名和氏と相良氏。
だが幼君誕生で名和氏が揺れているのを知ると、義陽の野心も燻り始める。

そこに起きたのが、三氏相互支援の話で、翌年に北原叔父の画策で裏切りの誘いの声がかかる。
名和氏のことが無ければ、踏みとどまったかもしれない・・・

だが名和氏から領地を奪うチャンスが見えて来た事が、日向へ深入りする情熱を失わせる。
義陽は神前で誓った起請文を反故にすることになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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千葉興常安堵状---龍造寺文書_第六軸_105

肥前国佐嘉郡尻田分六十町、同郡千数三十町、
 ※肥前国佐賀郡(佐賀市)尻田60町、同郡千数30町、(尻田と千数は佐賀市内での特定不可でした)

并小城郡大寺三十六町、同郡別府百廿町、
 ※并(あわ)せて小城郡(小城市)大寺(三日月町)36町、同郡別府(旧小城郡別府村⇒多久市東多久町)120町、

此内除岩部分廿町、
 ※此の内、岩部分(千葉家臣の岩部氏か?)20町除く、

并佐嘉郡大實四十町、[千]住十二町、諸富十二町之事、
 ※併せて佐賀郡(佐賀市)大實(特定不可)40町、千住(特定不可)12町、諸富(諸富町=旧東川副村)12町の事

右任先例之旨、知行不可有相違之状如件、
 ※右、先例之(これ)を任(ま)く旨、知行相違有る可(べ)から不(ず)之(この)状、件の如し、

  大永四年三月廿八日
 ※大永4年(1524年)3月28日

                   (千葉興常)平(花押)
 ※平は千葉氏の本姓、東千葉氏初代です。

   龍造寺民部大輔殿←龍造寺胤久ネー(*´・д・)(・д・`*)ネー




さぁ~~数学の時間デスYOoぉーo(* ̄○ ̄)ゝーーーー!

まず単位~~町(ちょう)
-----目安として★10町=1反(約991.74㎡・・・概算で300坪)

佐賀郡60町+30町+40町+12町+12町=154町
小城郡36町+120町-岩部20町=136町
【合計~290町⇒29反】

29反×300坪=8700坪

ん?坪だと判り辛い?
8700坪×3.3㎡=28710㎡です(`・ω・´)キリッ


大永7年にも胤久さんは安堵受けてるんですが、それは家臣分で4380坪。
さすがに倍近くの土地を安堵されてる(*´pq`)プププ

家臣のものは主君の勢力エリア(`・ω・´)キリッ
てことで合算~13080坪(43164㎡)

ちなみにバッキンガム宮殿が約1万坪(33000㎡)の敷地面積(他の王族分含まず)

安堵状って読み下しは楽勝だけど、地名の特定に単位計算と違う方向で疲れる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
あ、でも合算しちゃったから、胤久さんが安堵されたのは各郡だと↓

佐賀郡~4380坪⇒14454㎡
小城郡~4080坪⇒14256㎡




はぁ・・・龍造寺文書って年度順じゃないんで、古いのが出てくるたびに再考察なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
自分、ガン( ゜д゜)ガレ

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与賀城の話・・略して「与賀バナ♪」

何が出るかな♪何が出・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

凝り性がゆえに肥前史プチ挫折の管理人・・・(´;ω;`)ウッ
1562年と1563年の記録ループにも、ガチで取り組んだがゆえに脳疲労に拍車・・・il||li _| ̄|○ il||l
研究、頑張りすぎて視力が落ちて、メガネを変える羽目に・・・トホホ

(´;ω;`)ウッの与賀記事が、グーグル検索第5位・・・il||li _| ̄|○ il||l
凝り性・・・ってことは完璧主義気味なわけで、
現在「通説無視で考察爆走した記事全てを書き直したい欲求」と理性が戦ってます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

ほ・・ほんとにやり直したい・・'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'` ←←理性:最低でも1年分だぞヤメレ
やり直すなら、肥前千葉氏編からジックリと・・・'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`←←理性:おぃ2年分かよ!
読み下した古文書も盛り込みたい・・'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`←←理性:今後も出るゾ、我慢しなさい!

あzっざあああああざああああああああああああああ!!!やり直してぇええええええええぇええええええええ
と言う気持ちにフタをするのに必死^^;

道産子という地域ハンデがある自分は、一つの情報を得るのさえ、膨大な時間と労力を要する。
肥前史リサーチを本格的に始めたのは4年前で、与賀城の情報に辿り着くのには、3年かかった。
で、佐賀市史・・実はWEBで公開してます・・・途中から教えてもらって判ってたけど見なかった。

市史って、どこもだけど同じ県内の市史とでさえ、データの整合性をとってないんです。
同じ県内に起きた一つの戦がA市とB市では記述が違うなんてザラにあるし、
一次史料があるのに、なぜか二次史料が典拠だったりと、ヽ(。_゜)ノ へっ?と逆に迷う。
それでブログでは気楽に自由に書きたくて、市史の通説とは距離を置いてました。

それはさておき、ブログと違い史学論文の世界では、通説と違う持論を展開したければ、
典拠となる史料を出さなければならない。
でなければ、ただの妄想か思い込みとして査読の段階で弾かれる。

「査読の理解が不十分で・・」などという発言が、論文の世界で認められる事はない。

自分が困ったのは「与賀城が機能してた時代」が、「論文のテーマとして扱う時代」と、モロ被ってる点(-ω-;)ウーン
だから、もう一度、考察&推考しなおさないと先に進めず、肥前史に関する思考もソコでSTOPしてるという訳です( ̄ω ̄A;アセアセ




佐賀市史では与賀千町を「龍造寺先祖代々の領地(`・ω・´)キリッ」と記述している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鎌倉時代は少弐が与賀の地頭じゃなかったっけ?
まぁソレはいい。
少なくとも室町期以降は龍造寺エリアだったのだろう。

与賀が龍造寺エリアならば、少弐を迎い入れる為に与賀城を龍造寺が造ったという記述には妥当性がある。
困惑するのは、与賀神社にある境内社「少弐神社の由緒書」では、少弐政資が与賀城をビフォーアフターしたとされてることです。
湊を津へとグレードアップし津町へ禁制を出したと由緒にある。

ところが佐賀市史では、津の命名こそ少弐になってるものの、津町への禁制は龍造寺が出した事になってる。

あ、いま思いついた。
「今までの記事は少弐神社の由緒書が典拠だ」と入れればOKじゃん(・∀・)ピコーン★!

良かった・・゜・(つД`q。)・゜・自己完結~~これで記事やりなおししなくて済む(←気持ち的な落としどころ)

ところで、佐賀市史と神社の由緒・・・・どっちが正しいのだろうか・・
佐賀市史の典拠は江戸期二次史料です。
神社の由緒が一次史料典拠なら、与賀城に関する記述は少弐神社に軍配があがる。
(ただし由緒を補完する他史料がないので、100%史実認定は厳しいかも)

実のところ「与賀庄が元から龍造寺エリア」という大元の部分をシオは疑ってます(爆

①与賀が龍造寺エリアの場合⇒没落した少弐を受け入れ支援した忠義の家
(それを滅ぼそうとした少弐って酷い!の意が含まれる)
②与賀が少弐エリアの場合⇒⇒主家が衰退した隙に与賀を侵食した龍造寺がチャッカリしてる

自分は少弐神社由緒に②のパターンを混ぜ込んで考察してました。
「与賀大明神御鎮座記」によると建長2(1250年)の時点では、少弐氏2代目・少弐資能が地頭として少弐神社の鐘を鋳造し寄進してます。
龍造寺が龍造寺村地頭になったのが、文治元年(1185)。
村中城という由来は「龍造寺村の中」の意。

鎌倉時代は少弐が与賀の地頭だった・・・室町初期の動乱のなかで、少弐氏が没落。
一方で台頭したのが龍造寺で、室町後期に名前が出るのが13代目・龍造寺隠岐守家氏。
長生き剛忠(家兼)の祖父なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

13代目は、亡命してきた少弐教頼を受け入れ与賀の館を造って迎い入れた人物。
室町後期~戦国初期に、少弐と所縁が深くなるのは、この13代目・龍造寺家氏からなのよね。
むろん、このころすでに与賀庄は龍造寺エリアだったのだろう。

というのは、龍造寺が与賀庄をゲッツしたのなら、
少弐(鎌倉期与賀地頭)が衰退した室町初期の頃になるはずだからです。

さすがに、そこまで論文に盛り込もうとは思いません^^
考察を重ねた推論なので典拠ゼロですもん^^;

与賀庄を龍造寺がゲットしたのが、いつごろなのか?
それが自分の中で4年前からの疑問だったんですが、
佐賀市史と龍造寺文書から手繰っていくと、室町初期には上手いことやってったって事になるwww

ただ、そうなると少弐政資の功績を記述した少弐神社由緒書と矛盾してくるんだよな~
とはいえ、少弐政資が少弐中興に成功するまで、龍造寺が何らかの寄与してたのは間違いないだろう。




あ~~やっぱ、こうやって記事に書いてくと、推考・考察がまとまるわ~~
あとは、どうやって序論・本論と盛り込んでまとめるかだな~~
詰め込みすぎて「こいつ何が言いたいんだ?」ってならないようにしなきゃだし・・・

通説と(気持ち的に)折り合いつけたので、またジックリ取組みます♪ヽ(*´∀`)ノ
あ、記事再開は論文が落ち着かないと、年代が全然違うんで同時進行無理~~
もうしばらく肥前戦国史記事は、お休みしますので、何卒ご了承くださいm(__)m

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(4)直状(じきじょう)で書下(かきくだし)---古文書学のススメ

えっと・・武家が発給する文書には「奉書形式」と「直状形式」があります__φ(.. ) メモメモ

「奉書形式」
右筆さんが書くんでつ・・主君は書きません。書く部分としては署判くらい。
または主君の意を受けた奉行が発給します。

「直状形式」
主君が自ら書きます。
足利義昭が魔王を倒そうとセッセと書いた「御内書(ごないしょ)」も、
義昭自ら書いてるという点で「直状」に分類されます。

時代劇では書状、書状とサラっとセリフに出てきますが、
どっちも発給者自身が書いてるけど、書状と直状は、ちょっと違うんです。

違うってことを、古文書学入門書読んで初めて知った!Σ(´Д`;) 

「書状」は、要するに普通の手紙です。
書止メ-----○○候、恐々謹言-----って言葉で文を結ぶ。
で、普通の手紙なので年度入れない。月日、、または日付のみ。

・・・・・・・・・そういえば、鶴田家文書(庶流)ほとんど年度不明・・・
ほとんど「書状」だったから年度が入ってないんだ・・・
改めて脱力・・・・il||li _| ̄|○ il||l


「直状」は書状に下知状が加味された下達文書・・つまり命令してるんですね。
書止メ-----○○也、仍状如件とか之状如件-----って言葉で文を結ぶ。
で、直状は年月日入れます。

まぁ、これだけで区別できるとは限らないので、最終的には「内容で判断」になります。
で、直状で命令の下達・権利の付与or認定などする文書は、直状のなかでも『書下』と呼ばれた。


まぁ、直状(主君or上位者直筆)の書下(命令)ですから、基本は上から目線,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
ただ~し!上から目線とはいえ、相手によって厚礼or薄礼を使い分けてます。

書止メが「也」だけで終わるより、「也、状如件」って終わる方が丁寧。
相手への敬語も「某とのへ」って平仮名より、「某殿へ」って漢字で書く方が相手へ敬意を払ってることになるわけです。


そのほか戦で武功があった武者に対し、主君が与える「感状」も直状に分類されます^-^
 主君が家臣の働きを評価・賞するための文書で、その性質からいって主君直筆必須__φ(.. )カキカキ
 一方、家臣にとっては自分に対する能力評価ですから、子々孫々に至るまで大切に保管します。

このように直状とは、永続的効力のある文書形式なのです^^b
佐藤先生は、さまざまな凡例を紹介されてますが、とても入力しきれないので、これにて御免(^ -)---☆Wink

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【1492・延徳4年&明応元年】南九州限定・戦国年表

7月19日、明応へ改元

9月23日、島津忠良が生まれる

・相良長隆(義滋の弟)生まれる

・豊州家2代目・島津忠廉が死亡
 ※忠相が3代目となる。

・肝付兼興が生まれる




≪南九州シオ的エントリー:肥後・豊後・日向・薩摩・大隅≫

 大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
 
 さがの歴史・文化お宝帳
 戦国島津女系図(相互リンク)http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/
 しいまんづ雑記旧録
 千葉一族HP
 武家家伝
 城郭放浪記
 天下統一期年譜
 
※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
 
 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)」
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
  監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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【1492・延徳4年・明応元年】北九州限定・戦国年表

・相神浦、松浦定が死去
 ※松浦丹後守政15歳が当主となる
(本城:大智庵城、エリア:今福、鷹鳥、有田、佐世保、相神浦、黒島)

7月19日、明応へ改元




≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・肥前・筑後≫

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
 
 さがの歴史・文化お宝帳
 戦国島津女系図(相互リンク)http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/
 しいまんづ雑記旧録
 千葉一族HP
 武家家伝
 城郭放浪記
 天下統一期年譜

※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】

 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
 監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m


【読み下し中】---「龍造寺文書」「鶴田家文書」「横岳文書」ほか肥前データ

  新史料は別の提供者様の御厚意で頂きました。
  この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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【領地安堵】大河平氏---2

肥後の菊池氏が大友に対し謀反を起こし敗れた事で、菊池氏庶流だった八代氏も肥後に留まる事が出来ず、亡命。
まず米良山中に潜み、その後に当主である隆屋が66氏を率いて日向真幸院の北原氏を頼った。

北原氏は隆屋に大河平に知行を与え、東の国境警固に当たらせた。
以降、隆屋は姓を八代から大河平(おこびら)に改めたそうだ。

系図・大河平氏

とまぁ、ここまでが1話目の流れ。
大河平氏子孫の史書によると、北原を頼る前に上村氏(相良氏重臣)を頼ったとあるそうだ。
で、上村頼孝(相良義陽の実叔父)の謀反(1557年・弘治3年)に加担し、敗れて日向に亡命~北原を頼り(以下同文)

系図にあるように大河平隆屋には三人の息子がいたのだが、嫡男・隆充の次男・隆豊は上村謀反支援で従軍した戦で戦死したそうです。
経緯はともかくとして、1550年から~1557年の間に大河平の地を拝領したので、北原家臣歴は浅く新参者になる。

で、数年たってソレなりに落ち着いたであろう1559年3月7日に、隆屋の嫡男・隆充が父に先立ち53歳で死亡する。
家督は隆屋の嫡孫・隆利が継いだ。

1559年といえば黒い伊東義祐が北原氏乗っ取りにハッスルしてました。
大河平隆充死去の10日後に、伊東義祐は自分に反抗する北原家臣を「話し合おう」と嘘で呼び出して全員殺してます。

大河平氏が伊東派だったのか、反対派だったか不明だが、隆充死去で喪中だったので外出などは控えてただろうから、
この黒・伊東による粛清騒動に巻き込まれずに済んだ・・・かもです。

問題は、この後。
主だった反対派北原家臣が粛清されてしまったので、新参の大河平としては単独で動きようもなく、なし崩しに伊東に従う羽目になってたかも?

永禄5年(1562年)1月22日、当主候補だった北原兼孝が伊東義祐により殺された。
で、その時に大河平家が兼孝の息子を狗留孫岳で殺したと言う記録があるそうなんです。
うぅ~~大河平ファンとしては信じたくない記述(´;ω;`)ウッ

黒い伊東義祐により北原氏乗っ取りがあった時、生き残った北原家臣の多くは島津氏を頼りました。
「北原の敵⇒伊東の敵⇒島津」敵の敵は味方って事です^^b

息子に先立たれた大河平隆屋も、島津義弘に謁見し大河平領を安堵されてます。
この時点で島津氏当主は、義弘の父・貴久なので安堵するなら義弘じゃなく貴久だろ~と思わないでもないが、
「VS伊東」に関しては、次男・義弘にある程度の権限を与えてたのかな?

とにかく大河平隆屋は、島津から大河平領の安堵を受けつつ、
時節が来るまで表面上では伊東に従う風を装ってた・・・というところでしょうか。

1562年に伊東によって北原当主候補が殺されてから間もない2月13日、大河平隆屋が卒去(享年73)する。
同年5月10日、相良勢が北原再興の為に真幸院へ派兵し、新当主として北原兼親が飯野城に入った。

大河平隆屋が島津に従ったのがバレたのか、単純にチャンスだと思ったのか、
隆屋が病没すると伊東義祐が兵450でもって大河平城を攻撃するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良勢、五つの城を抜く】相良義陽---22

日向、北原氏の本貫地・真幸院(現・宮崎県えびの市)

1560年に北原家は同じく日向の伊東義祐に家督を乗っ取られ、
1562年には、遂に所領まで伊東の思うがままにされてしまう。

伊東義祐ヾ(  ̄▽)ゞニョホホホホホ 我が世の春近し~~
日向統一まで後半歩か一歩前って感じの伊東氏を阻むため、相良・北郷・島津の三銃士が立ちあがった!

「三氏は北原のため、北原は三氏のため (`・ω・´)キリッ」
このばやい、ダルタニアンは、さがらん・義陽になるのだろうか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

人物・相良義陽
モミアゲふぁいと~相良義陽画像

冗談はさておき、伊東の勢力拡大を抑えるために「北原家の御家再興を支援しよう!」
と、島津・相良・北郷の三氏が手を組んだのは事実だ。


三氏が当主にと推戴したのが北原兼親で、74年前・嫡子でありながら家督争いに敗れたために相良に亡命した10代目当主の甥の孫です。

半ば世間から忘れられてた過去の亡霊を棚卸~~~
そんなんでいいの?     

いいんです~~~他の当主候補は既に伊東に殺され、人吉にいた兼親だけが助かったのぉ~~~。゜゜(つ□`。)°゜。

1562年5月~相良軍始動!~馬関田城まで軍勢を抜いて、北原兼親を飯野城へ入れることに成功(=^・ω・^=)v ブイ
飯野とは真幸院の中にある土地の名前で、飯野を抑えられると地理的に真幸院全体の統治に支障が生じる地域です。

で、相良勢は馬関田城まで五つの城を、わずが一日で抜いた事になってます。
無双すぎる・・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
土地勘がないシオは、全くピンと来てなかったので、監修様からレクチャーして頂きました(-人-)☆彡感謝!

まず現在の宮崎県えびの市にあたる真幸院ですが、
どこのサイトを見ても「肥沃な穀倉地帯」というフレーズが、枕詞のようにつきます^^

真幸院の肥沃さを支えていたのが、豊富な水量で北の筑後川に匹敵する「川内川(と支流)」です。
相当に豊かな土地だったらしく、この真幸院だけで45か所も城だの砦だの陣屋跡だのが集中してます。
それだけ分知できるほど物成りが豊富だったんでしょう。( ̄ω ̄A;アセアセ

城跡は河川沿いに集中してるんですが、真幸院の場合は河川沿いにあることに特別な意味はなさそうです。
重要なのは真幸院が肥後街道に通じる要衝地だった事です。
これじゃ周囲が欲しがるはずだ・・( ̄ω ̄A;アセアセ

で、相良勢ですがスタート本陣は人吉の大畑でした。
そこから真幸院に入るとなると、野久首越えコースが妥当だそうです。
判りやすく言うと九州自動車道で人吉から「えびのPA」を目指す感じ^^b

もちろん戦国時代に舗装道路はない・・・山越え峠越えなんでキツイっす(><;)
予測城攻めコース【妙見遺跡(えびのPAあたり)⇒手仕山城⇒徳満城⇒新城⇒馬関田城】

このうち徳満城は城主・北原八郎右衛門尉が、島津・北郷・相良が押し当主・北原兼親に従ってたので、
相良勢に対し抵抗せずに従った可能性が高い。
馬関田城も城主・馬関田右衛門佐が伊東義祐の擁立した北原傀儡当主として三ツ山城に入ってた。

で、で、そもそも馬関田城が「えびのPA」の御近所・・つまり球磨郡寄りなんです。
一方、北原兼親が入った飯野城(亀城公園)って、馬関田城から、かな~~り離れた(直線で5km以上)東にある城なんです。

五つの城が一日で落ちた事。
5km以上離れた東に位置する飯野城に北原兼親が、スンナリ入れた事。

となると、伊東の強引な家督乗っ取りに不満があった者らで、相良勢が入ったら呼応する話が既にあったかも。
もしくは、相良勢を見て早々に降伏したかで、軍事的な抵抗が少なかったんじゃないか~と言う話^^b

さらに島津軍+北郷軍起動!横川城(鹿児島県霧島市)三ツ山城(宮崎県小林市)を落とす!

あぁ~~なんかスッキリ~~ザマミロ・エスパーじゃない伊東~~~(  ̄▽ ̄)ゞオホホホホホ
伊東氏で好きなのは祐兵(すけたけ)だからいいの~~

順調だった北原氏御家再興に暗雲が垂れ込めるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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千葉胤勝官途吹挙状---龍造寺文書_第六軸_104

民部太輔所望之事、可挙京都之状如件、
※民部大輔所望の事、京都へ挙ぐ可(べ)く之の状件(くだん)の如(ごと)し

永正十八年
 正月十一日       (千葉)平胤勝(花押)


龍造寺新次郎殿

※シオ読み下し(=^・ω・^=)v ブイ



さすがにパターン慣れしてきた、楽勝之短文如件ですのよ~ヾ(  ̄▽)ゞニョホホホホ

太輔ってなってるけど大輔で、官位名です。
吹挙(すぃきょ)今風に言うと推薦とか斡旋になります。
つまり官位が希望・欲しい(所望)ってオネダリされて、推薦しといたから~と返事してるわけです。

下文・下知状~領地とか権利関係
吹挙(推挙)状~官位関係
名字状~偏諱の際に贈られる書状

これらは、誰が誰の被官になったのかが明瞭になる大事な文書です^-^
大事だから、皆さん子々孫々へ伝えてるのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

推薦した人:千葉胤勝~西千葉氏4代目
所望した人:龍造寺胤久

・・・1527年に胤久は西の敵である東の千葉興常から安堵を受けてました。
・・・1531年にも胤久は覚悟が嬉しいと東の千葉興常から褒められてます。

・・・永正18年は1521年です。
このころ胤久は西の千葉胤勝の被官だったのさ~

この願いは届いたようで、龍造寺胤久は民部大輔を名乗ってます^-^

龍造寺文書って年度順に並んでるわけじゃないのね・・・il||li _| ̄|○ il||l
やっぱ手作り年表は論文下調べに必要(´;ω;`)ウッ

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(3)2・奉書---古文書学のススメ

奉書(ほうしょ)とは、政務や裁判など事務手続き上における伝達文書の形式です。

最大の特徴である本文終わりの決めセリフ(書止メ文言)は、
「依仰執達如件」あるいは「仍執達如件」です。


意味は定型文ですから丸暗記ネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
「依(よ)って執達(しったつ)仰(おお)せは件(くだん)の如(ごと)し」
「仍(よっ)て執達(しったつ)件(くだん)の如(ごと)し」
と読み下します^-^

「執達」は現代風に言うと「通達」や「辞令」です。

それを踏まえたうえで奉書には三パターンありますが、今は一つだけ実用例が最も多いパターン紹介。
それは諸機関所属の奉行二名が連著して出す奉書です。
(もしくは長官一名・奉行二名の連著)

判りやすい例えだとキングオブ九州・大友家臣の奉行が出す奉書(通達・辞令)は、このパターンになるわけです^^b


さて、ここからは、ちょっと複雑になるよ~
古文書で使われる和紙=料紙に「堅紙・折紙・切紙」の三種類あるのは覚えてるかな?^^/

奉書には堅紙奉書と折紙奉書があります。
一枚(A4よりチト大きいサイズ)の料紙を使う堅紙と、
半分に折って使う折紙とでは、当然、書き方が違ってきます^-^

堅紙奉書---書下年号---官途書(僧侶の場合は「沙弥」)
・書下(かきくだ)し年号---(例:天正十年六月二日)のように年月日を一行で書く
・官途書(かんとがき)---(例:山城守)のように署名する奉行の官職名を書く

一枚の紙で書くからスペースに余裕あるのさ~~
現代人に悩ましいのは官途書です・・・誰が何の官位を何時名乗ってたかチェック必須Σ(´Д`;)ひぃ

折紙奉書---付年号---実名書(僧侶の場合は「法名」)

・付(つけ)年号---年号と月日を二行に分け、年を細字で月日の右ちょい上に書きます。
 ここで注意が必要なのは(天正十)と書くってところで、(天正十年)とは書かないんです。
 決め事っていうか慣習なんで、年を省く理由は佐藤先生も特に明記してません。
・実名書---つまりサインする署名が諱(いみな)ってこと^^

 現代人にはコッチの方が判りやすいかもだが、九州関連だと悩ましい事態発生。
 奉行が大友家臣だと偏諱ラッシュで「何処かで見たぞデジャヴュ諱」が量産されてるから判断が超難しい!
 あ~~苦労しそうな予感^^;

ちなみに料紙の使い方としては折紙が略式の使い方ですから、
折紙奉書の方も略式で、正式なのは竪紙奉書になります^-^

まぁ、難しい話はスッ飛ばして「仍執達如件」って言葉があれば奉書(通達文書)です^^
今日も脳みそが一杯です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

テーマ : 歴史
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【1491・延徳3年~南九州限定・戦国年表】

・相良義滋(16代目)生まれる
 ※長毎(13代目)の庶長子で、14代目の庶兄で、15代目の甥になります^^;




≪南九州シオ的エントリー:肥後・豊後・日向・薩摩・大隅≫

 大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
 
 さがの歴史・文化お宝帳
 戦国島津女系図(相互リンク)http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/
 しいまんづ雑記旧録
 千葉一族HP
 武家家伝
 城郭放浪記
 天下統一期年譜
 
※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
 
 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)」
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
  監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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【1491・延徳3年~北九州限定・戦国年表】

気を取り直して復活( ̄ω ̄A;アセアセ

・少弐資元(16代目、政資の子、高経の弟)生まれる

・千葉興常~牛頭山城をゲッツ
 ※大内の支援で千葉胤資に勝利する
 ※敗れた千葉胤資は晴気城に入り、以降「西千葉」と称される

・龍造寺康家~このころ、槇村に水ケ江城を造る

10月、少弐政資(西千葉、龍造寺、高木が従軍)と有馬貴純(西郷尚善、大村純伊が従軍)→→平戸松浦を攻撃

・西郷尚善、尾和谷城(下大渡野町)を築城
 ※大渡野に落から開に水路を引く
 ※山下淵に井堰と水門を造り、田井原に水路を引く




≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・肥前・筑後≫

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
 
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※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】

 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
 肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
 監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m


【読み下し中】---「龍造寺文書」「鶴田家文書」「横岳文書」ほか肥前データ

  新史料は別の提供者様の御厚意で頂きました。
  この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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プチ挫折・・・あぁ、与賀城や、与賀城よ・・・(´;ω;`)ウッ

連休中に論文にとっかかろ~
その前に佐賀市史と県史を確認確認と、まずは市史を楽しく読み進んでたんです(*´ー`)フンフンフン~~♪

そしたら、与賀城の記述の下りまできたら、思考がストップ。

今の今まで、少弐氏が築城してたと思ってた与賀城(現:龍泰寺)・・・
それが龍造寺家氏が、少弐教頼を迎い入れる為に用意した館、と佐賀市史に記述されたんです。

ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! ×MAX100倍α的な?

Q・なぜ、佐賀城から数百mの場所に少弐が築城したのか不思議でした。
A佐賀市史・龍造寺が少弐のために築城・・元から龍造寺の城ですよ^-^

Q・少弐が衰退して佐賀郡から神埼郡に移転した後の与賀城は?
A佐賀市史・龍造寺の城ですから、龍造寺一門が城主ですよ^-^

佐賀市史(それが何か?)
・゜・(PД`q。)・゜・  ・゜・(PД`q。)・゜・  ・゜・(つД`q。)・゜・ もはや号泣・・・
与賀城に関する自分の考察は根底・根幹から崩れますた・・(茫然)

佐賀市史の出典は、藤龍家譜で江戸期二次史料なんですが、そもそも与賀城に関する一次史料が絶無に近い状態なので、与賀城の考察は佐賀市史が通説です。

とにかく大元が違ったので、新たに脳内整理するのにプチパニック(@@)
過去記事の方は、すでに相当の字数を割いているので、加筆でどうにか修正できる状態じゃありません。・゜・(PД`q。)・゜・
かといって、今更二年分の過去記事すべてを書き直すこともできない ・゜・(PД`q。)・゜・  ・゜・(PД`q。)・゜・

あぁ・・・いっそ全て記事をやりなおし・・・(._+ )☆\(-.-メ)オチツケ
亜ぁ…書庫うぉずべて非公開に・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメナサイネ
ちょっと、ショック過ぎて、いまは冷静な思考力を失ってます(´;ω;`)ウッ

こんなのは序の口・・・古文書を読み下していけば、後から判った~が今後も出るのは必至。
一々動揺しないでタフにならねば。。。と頭ではわかってるんです。
でも気持ちと、資料整理がおいつかない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

新たに収集した年表を入れて、再考察しないとなんで、肥前史がプチ挫折状態です。
今は年表の手直しに追われてます アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

論文のテーマは変化なしですが、序論・本論と考えてた内容を一部変えないとならないので、
色々頓挫してます ( ̄ω ̄A;アセアセ
正直、かなり動揺してまして、龍造寺隆信歴史記事再開も目途が立たない状況です。
とりあえず年表修正を進めていくなかで整理したいと思います。

動揺しすぎて佐賀市史が脳に浸透してないので、またシオ的衝撃部分から読み直さねば・・・
あ!
佐賀市史で[間違い]スッ≡( ̄ー『+』ゝハッケン

肥前千葉氏初代・宗胤は、千葉県の千葉本家嫡男なのに、佐賀市史では次男って間違ってる。
自分も間違った私年号・永亀を、佐賀市史でも文亀年間と解読間違いしてる~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

細かい間違い探しして、溜飲下げる未練がましい自分・・・il||li _| ̄|○ il||l
小城のデータを調べれば、一発なのにな~
佐賀市史も他市町村とデータ連携してないのね・・・|佐賀市史|_ ̄)じぃー

それはそれ、これはこれ、与賀城の佐賀市史通説は動かないのだ・・・il||li _| ̄|○ il||l

また佐賀市史&県史から衝撃受けて愚痴・・もとい訂正記事が入るかもだが、ガン( ゜д゜)ガレ

それは・またの話 by(T^T)sio

テーマ : 歴史
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大河平氏_1【日向国衆】

さて、相良と島津がきな臭くなってきた事で、運命が大きく変わった武家がある。

それが日向国衆の大河平(おこびら)氏だ。
「おこびら」と一発で読めた人は地元民か相当の歴オタのどっちか^^
大河清盛が放映中は検索するのに不便で不便で(苦笑

国衆と書いたが地生えではなく、元々は肥後八代出身。
それも肥後守護職だった菊池氏の流れを汲む家柄( ゚д゚)ンマッ!!

系図・大河平氏

平安時代末期の武将、菊池氏6代目当主・菊池隆直が祖になる。
名門・菊池氏の末裔であることは、大河平氏の誇りだったことだろう。
祖先の諱・隆直の「隆」が、大河平氏代々の通字(つうじ・諱の中に必ず入れる文字)でした。

直接の祖は菊池隆直の三男・隆俊で、八代に住んでたことから「八代姓」を名乗っていた。
以後、宗家である菊池に従っていたのだが、9代すっとばした次の次・・隆屋の頃に一大変化が起きた。

宗家である菊池氏が大友氏に敗れたんです
ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

どうもこれが、名門菊池氏最後の当主・菊池義武が、大友義鎮に対し謀反した時のことらしい。
菊池義武は元々が大友義鎮の実叔父で、大友氏が肥後菊池氏の家督乗っ取りの為に送り込まれた傀儡当主だったんです。

それに不満だった(と思われる)菊池義武が謀反を起こしたが、
自立心旺盛で「難治」と言わしめたほどパワフルな肥後国衆が、
豊後人である菊池義武に従わず謀反は成就しなかった。

菊池義武と妻子は相良氏を頼って亡命し、後に義武と嫡男は大友家によって誅殺される。
菊池義武次男が相良家臣として残りました。

で、八代氏も肥後に留まることができず日向に亡命、米良山中に潜んだ。
ちなみに肥前人が亡命するのが筑後or筑前なら、
肥後人が亡命するのが日向なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

何せ神話の高千穂がある日向山中は、現代でもリアル秘境チックな自然いっぱい^^/
近隣には平家の落ち武者伝説とか、とにかく隠れ住むにはもってこい^^
この時に八代氏の一部は、そのまま米良に土着したそうです。

が、当主の隆屋は一族郎党66家を率いて米良を離れ、日向は北原氏を頼った。
で、大河平郷(宮崎県えびの市大字大河平)に入ると、姓を八代から大河平に改めたそうです。

時は戦国・・・平和は長く続かなかった。
大河平氏の主君である北原氏の家督を狙って伊東氏が動きだしたからなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【同盟と結婚はセットな件】相良義陽---21

人気武将・島津義弘が相良義陽の妹(亀徳姫)と政略結婚してた事を知る人は、かなりの島津通・・・と前回書いたが、

島津義弘が豊州(ほうしゅう)家へ、養子に出されていた事を知る人は、もっと少ない~
と思う。(普通の武将ファンは、そこまで遡らない^^;)

時期は1560年で、日向の北原家では13代目がポックリ死んで、キナ臭くなってくる年。

豊州家は島津の分家で「第二次飫肥の役(島津VS伊東・1485年)」から飫肥城への守りとして入った。
(理由は長くなるんで省きます~~((((((((((っ´▽`)っ)

豊州家歴代当主の悩みは「ズバリ伊東家からの外圧」

島津宗家や同じ分家の北郷(ほんごう)も、何度か援軍を出して、かろうじて維持してきた。

そして、この豊州家と北郷が一時期(=イコール)だったことがある
4代目豊州家当主の養子が死亡したため、北郷家9代目当主が家督を長子に譲り、自らが豊州家へ養子に入って、5代目当主(島津忠親)となったからです
いくら同じ分家同士とはいえ、現役当主自らが養子に入るのは尋常ではなく、伊東家からの圧迫が年々激しさを増していたことが窺える。

そして1560年~~飫肥城を伊東の魔の手(?)から守るテコ入れとして、
武勇優れた義弘が豊州家へ養子に入った。


でもって養子に入るにあたって、
島津忠親(元・9代目北原当主&今・豊州家現役5代目)の姪と結婚したんです(←つまり婿養子)

この時点で{島津家・北郷家・豊州家のトリプル同盟}「飫肥城を守る会」が成立したことになります^-^


人物・伊東義祐
(日向制覇を目論む伊東義祐)


その間にも伊東は着々と勢力を伸ばし、日向・北原家が乗っ取られた(1562年)
(肥前戦国史で言うと、龍造寺と有馬が激突してる頃)

てことで今度は{相良・島津・北郷の三氏相互支援}「北原を援ける会」の話が持ち上がる。

同盟のために亀徳姫との縁組が出て、
さぁ困った~御相手となる該当者がいない~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

江戸期・人吉2万石クラスの相良なら、相手は島津の「分家が釣り合い」というものなのだが、
戦国期・八代、球磨、芦北を領し、天草諸島へも支配力が及び、
明との交易でバブリー戦国大名・相良氏とあっては、
亀徳姫のダーリンは宗家の男子・・・ズバリ嫡男がベストカップリング。

ところが嫡男の義久は既婚で、相手は種子島家からの姫君。
種子島といえば火縄銃だが、それだけでなく独自に琉球と交易ルートを持ち、
屋久杉の伐採権益を持ち、その屋久島の領有権を巡って肝属氏と争い、
同じく肝属を敵とする島津と同盟関係にあるのだ。
(同盟の証として義久と姫君が結婚^^b)

堅物の義久は性格的に離縁を承知するタイプではないが、
それ以前に種子島家を怒らせることなど到底出来ない。(離縁不可な件)

ちなみに後年、種子島さんは「九州の役」以前に、島津へ臣従し家臣の列に連なります。
「朝鮮の役」にも従軍し、メッチャ揺れる船上で当主自らが火縄銃をブッ放して明船を撃退、
島津義弘のピンチを救った豪快な逸話の持ち主です^-^

家紋・島津(島津家紋ロゴ)

相良家の方も、義陽には未だ子供がおらず、適齢期の姫君が亀徳姫しかいなかったのだろう。
まさか島津相手に~家臣の娘をチョイスして養女にして・・・という訳にはいかない^^;

島津は島津で相良相手に~3男、末弟、従兄弟、甥・・・という訳にはいかない^^;
そこで白羽の矢が当たったのが島津義弘だ。
病弱な義久に万が一~~の時のスペア次男~~~武勇は折り紙付~(=^・ω・^=)v ブイ

島津忠親(現役豊州家当主&元9代目北原氏)も「三氏相互支援」の究極の目的である「伊東の勢力を削ぐ」
そのために「養子縁組解消+姫君(姪)の離縁」という不幸を呑んだのだろう。
ちなみに離縁された北郷の姫君は、同じ一族に再嫁している(出戻り姫によくあるパターン)

1562年~「肝属氏からの圧迫が強くなったから」という(おそらく表向きの)理由で、
島津義弘は豊州家と養子縁組解消し妻とも離縁~実家へ戻り同盟のため亀徳姫と再婚する。


単に援軍・派遣のためなら養子縁組を解消したり、まして妻まで離縁する必要は無いだろう。
相良との同盟を優先したからに他ならない・・・と、推測してます。

「三氏相互支援」が成功し、北原が伊東への抑えの一翼を担うことが出来たなら、
必然的に飫肥城への圧力も軽減されるはずだった。

だが、現実は島津の思惑から外れた・・・
なぜなら相良義陽が島津を裏切るからだ!

飫肥城への圧力は変わらないどころか、ますます強くなり猛将・義弘が抜けた穴も大きく、
豊州家単独では飫肥城を支えきれなくなり、
ついに島津宗家も飫肥城を手放す断腸の決意をすることになる。

島津が飫肥城を手放すのは「三氏相互支援」1562年から5年後の1567年の事だ。
島津忠親は飫肥城を出ると、実家・北郷の故地である都城で没している。


島津は手痛い裏切りをした相良義陽に対し「人として信を置かなくなった」
そのために前回語ったように、亀徳姫が離縁される。

特に慎重で用心深い16代当主島津義久は、相良義陽の本意を、義陽の最後の最期まで疑った。
結局のところ、「三氏相互支援」における相良義陽の行動が、
回り回って彼自身の命運を縮めることになるのだが、それは・またの話 by^-^sio 

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少弐資元名字状---横岳家文書・七

実は少弐教頼からの文書が六番目なんですが・・・
ほぼ全文が変体仮名なんで、七番目からにします(←おぃ)
でも、この先で変体仮名が出たら逃れられないから、ちゃんと覚えとかないとだな^^;




    實名
 ※じつみょう=実名~~本姓と諱(いみな)

      藤原資誠
 ※本姓=藤原氏、諱=資誠
永正三年八月七日       大宰少弐資元(花押)
 ※永正三年=1506年
     横岳彦四朗殿
 ※よこだけ すけまさ・1521年(大永元年)~ 1570年(元亀元年)



あ~いつも、こんな短いと楽勝なんだけどな~

名字状(みょうじじょう)とは、ぶっちゃけて言うと偏諱を受けた時に貰う書状です^^b
主君の諱の一文字を拝領するので、別名を「一字書出(いちじかきだし)」とも呼びます^-^

自分が歴史記事では簡単に「偏諱受けた~」って書いていますが、
正式には上記「名字状」が偏諱を受けた相手に渡されてる訳です。

この名字状があるから、誰それさんは何年何月何日に偏諱を受けたって判るの^^
偏諱を受ける状況は様々ですが、こういった名門武家一門の子弟ですと元服時か家督相続時が多いです。

あと文字の大きさが違うのは、シオが「お気に武将だから依怙贔屓」してるんじゃなくて、
実際に大きく書いてるんです。(文字サイズは見た目の雰囲気でチョイス)
だって大事な諱を拝領した証ですもん^^/

さて、ジーと読んで下さった方、お気づきですね。
名字状が1506年だと、ご本人生まれてないじゃん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

これは誤記じゃなくて、横岳資誠の生年には異説があって、生年が確定してないんです^^;
(ウィキペディアでは(一応)1521年になってるだけ)
「横岳家文書」において横岳資誠が登場するのは、この名字状から。
ですから資誠の生年を補完する他の一次史料が新たに見つからない限り、生年特定は出来ません。

こればっかりは仕方ないのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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