●肝付弾正忠兼盛 :袈裟寿丸、三郎五郎

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天文2年生まれ。兼演嫡子。母は廻兵部少輔の女。貴久公御家老。貴久公の御妹聟なり。

天文23年、蒲生・渋谷らまた叛くに於いて、兼盛、異心なしの旨の誓紙を進上仕り候。
8月、祁答院・入来院・蒲生・渋谷らの凶徒、加治木を攻む。北原もまた渋谷に加勢致し候。
同29日、兼盛、網掛川に於いて合戦致し、凶徒4人を討ち取り、清水・宮内・姫木・長浜の後詰来りて、
9月10日、また合戦。大隅衆また後詰として着船候。
同13日、貴久公御父子、後詰の為に平松へ御着陣。凶徒ら驚きて加治木を引き退き候。

弘治元年3月8日、兼盛、溝辺・加治木・日当山・長浜の衆を召し連れ、帖佐の山田へ押入り、伏兵を以って凶徒23人を討ち取る。加治木の 卒将・徳永与一左衛門、安田杢之丞、歩卒2人の他、溝辺・長浜の歩卒ら戦死。
同4月2日の夜、凶徒、利を失い、帖佐新城ならびに山田城を捨て祁答院に退く。これらの賞として、貴久公より西別府・有川を下され候。

永禄4年5月、肝付省釣、廻城を攻め取り、義久公御発向し、兼盛罷り立って手負い。

同6年、飯野御危急のとき、籠城致した軍労に付き、義久公より御書発給さる。

同9年、三山城攻めの御供をし軍労。

同10年、菱刈御退治軍功。

同11年、忠平公、馬越城より大口を御攻めのとき、力戦仕り候。
同年2月28日、島津忠長同道にて、馬越より市山へ差し越し、新納忠元同心にて、小苗代薬師へ参詣致す処、大口城より敵打ち出て忠元難儀に及び{後述}後殿なり。

同12年、忠元・兼盛ら大口城を取り囲み、敵遂に利を失い降参致し求摩へ退散。その為、義久公より御感状ならび曽於郡のうち上三台堂を下され候。

元亀2年、肝付・伊地知・禰寝の御退治に兼盛、罷り立ち候。

天正4年、高原城攻めにも御供仕り候。

同5年、日州御発向に御供仕り軍労。

同6年8月11日卒す。享年46。殉死・二宮肥後守の他は、切り指すると云う。


出典:本藩人物志(島津関連の編纂史料)
第七大改訂年表にデータ収蔵完了(`・ω・´)キリッ
どこまで整理したか判らなくなるので、自分の記録用にUPです^^;
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大河平氏_6【当家代々の忠義は鎖鍮(さやく)の如く!】

さて、今城は川の右岸の岩石の切り立ったガケの上にあり、南と西は渓谷、東は川が堀となり、その上はガケと急斜面でした。
北側は狭い道路が永野原に連なっているが、ここに三箇所の城壕を設え敵の侵入を阻んだ。
更に川の岸に大手門を設え、これを偽装して城壁には松の大木をはじめ岩石を積み上げ、敵の攻撃に備えた。
城兵は大河平自前の130に加え、義弘派遣の300人。

地図・今城
主君である北原兼親がいる飯野城は、地形無視の直線距離で2kmほど東です^^

んで、兼親の言上により島津義弘は派遣兵を撤収してしまう。(_´Д`)アイーン

伊東義祐はこれを聞き及び、永禄7年(1564年)5月29日暁に1,000騎余で今城へ押し寄せる。
伊東勢はまず三方深淵に囲まれた要害に陣を布き、”大河平城”へ物見を出したが城には一兵も無かった。
既に大河平側では老幼婦 女子は山神平の岩山の中に隔して、今城を固めていたからです。

おそらく伊東義祐は当主が代替わりしたばかりで、しかも未だ15歳と知って舐めてたんじゃないでしょうか。
まず使僧を遣わし降伏を促した。

伊東義祐
「良禽は木を選び智者は明者を求む。
今、汝は土地の大小勢の強弱を案して、速やかに我に服せば数城を連ねて武名を輝かし永く栄華を子孫に遺さん、
若し命に違わば孤城を細粉せん事眼前にあり、汝それを熟慮せよ。(* ̄ー ̄*)ニヤリ


人物・伊東義祐 黒い伊東義祐イメージ画像
(髷を結ってないのは、既に頭を剃って入道してたから^^)

が、大河平隆次はこれを拒絶する。
「賊め、無情にも敢えて人の国境を犯す、
我ら豈(あに)利を負って不徳の人に従わんや。汝速やかに去れ。
我が家は代々忠義を執りて国門の鎖鍮(さやく)たり、
事己に今日に至る唯弓箭の間に相見えんのみ、
焉んぞ(いずくんぞ)降慮となって恥を軍門に曝さんや(橋口嵐山氏の『諸県興亡』バージョン)」


|返答|・ ̄)じぃー ・・・・・・
隆次の返答の意味が判らず・・・(._+ )☆\(-.-メ) オイオイ
もとい
少年当主の拒絶に対し、伊東義祐は再び使者を送った。

隆次クン(超意訳バージョン)
「賊め! 無情にも敢えて人の国境を侵すような“利を追う不徳の人”に、どうして我らが従わねばならぬのであろう。
汝(伊東義祐)速やかに去れ!
当家代々の忠義を執るは国門の鎖鍮(さやく)の如し!
このようになった上は唯々弓矢にて御相手するのみ。
どうして降伏などして恥を軍門に晒せるだろうか!(`・ω・´)キリッ」


あくまでも個人的な感想なんだけど、この堂々たる拒絶の口上は誰かの仕込みじゃなくて、隆次自身の言葉だと思う。
末っ子とはいえ現代の15歳より、戦国時代で武士である隆次の方が遥かにシッカリしてるだろう。

その上に隆次は、詳細不明とはいえ15歳ながら「ささいな事」で主君と不仲になったという経歴の持ち主だ^^;
おそらく口も達者で、自分の意志や意見をハッキリ・キッチリ・ガッツリと言っちゃう子だったんじゃないかしらん^^;

ちなみに聞きなれない鎖鍮(さやく)という言葉。
これは(さやく)と、本来は読めない漢字です。
しいて読むなら「さちゅう」で、漢字のままの意味だと真鍮(しんちゅう=黄銅)の鎖になる。
まぁ、隆次のセリフの流れなら、言いたいことは「国境は死守する!大河平方面より先へは行かさない!」って事だろう。

「○門のサヤク」って言い方のルーツとして考えられる例として示唆されたのが、漢文からのモジリ。
宋史、冠準伝で「北門鎖鑰、非準不可」という漢文があり、それを転用して「国門の鎖鑰」としたのではないかって事。
だがそれでは漢字が違う。漢文で使っている「鑰(やく)」は、鎖ではなく鍵という意味なんです。
で、そこでシオが思ったのは「国門の鎖鑰」を、
更に「真鍮の鎖」にかけて「○門の鎖鍮(さやく)」と二重にモジッタんじゃなかろうか。

他にあるのが旧日本海軍の文書中に「鎖鍮」(ただし振り仮名なし)とあり、
さらに他に禁酒法に関する演説の中に「(米国の)西門の鎖鍮」と使ってる用例がある。
米国の場合は原文の英語が載ってないので、翻訳した人が「鎖鍮」という言葉をチョイスしたのだろう。

年代も場所も違うところで、ポツポツ使用例があるということは、
「鎖鍮」という言葉は、印刷段階の誤植や著者の橋口氏の書き間違いではなく、
最初に使い始めた「誰か」がいたということじゃなかろうか。

ということは、この言葉から著作に記載されていない、元出典が辿れるんじゃね?(・∀・)アヒャ
と思ったが、漢字(造語?)一つくらいのヒントじゃ辿れんわァ!!!(# ゚Д゚)・;'.!

史料提供して下さる監修様は、この大河平氏関連は現地に赴いて取材されてるんですが、
橋口氏が何を出典とされていたのか、現地でも判らなかったんです。

御子孫が出版された方もあるんですが、そちらは現代風に平易な文章で書かれている上に、
こちらも元出典の記載がなくて、結局辿りきれず現地取材で調べて頂いた範囲で記事にしました。

さて、アレコレ悩む管理人と違い、賊だの不徳の人だのと若僧に言われたい放題だった御本人の伊東義祐。
年甲斐もなくブチ切れたらしく「激怒して」今城の総攻撃を開始したのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家文書_109_大友氏老臣連著書状

これは折紙(おりがみ※鶴ではない)でした。
折紙は堅紙(けんし・A4サイズ横使い)を半分に折って使うことから呼ばれ、略式の文書です。



追而
 ※ついじ・追って=追伸ってことです

御判地之内、不足分弐拾〔文字欠落〕事者、於下筑後之内、可被成御分別之由候、
 ※御判地の内、不足分20〔文字欠落〕事は、下筑後の内に於いて、御分別の由(よし)成る可(べ)く候、

在所柄等之儀申談、取合之儀、弥不可有無沙汰候、〔文字欠落〕上右馬允可被達候、恐々謹言
 ※所柄(ところがら)等の儀を申し談在(あ)り、取合(とりあい)の儀、弥(いよいよ)無沙汰有る可(べ)から不(ず)候、
 ※〔文字欠落〕上 右馬允へ達せらる可(べ)く候、恐々謹言、

(天文5年)八月廿八日       (入田親廉)丹後守(花押)
                     (山下長就)和泉守(花押)
                     (田北親員)大和守(花押)

龍造寺民部太輔殿

(奥上書)
「           田北大和守
            山下和泉守
            入田丹後守

龍造寺民部太輔殿          (入田)親廉 」

※シオ読み下し内の( )はシオ補足、本文内の( )は佐賀県史料集成編纂者による補足
★★★語句とか解説★★★★★★語句とか解説★★★★★★語句とか解説★★★

所柄(ところがら)---現代風なら「土地の重要事項説明」(*´pq`)クスッ
取合(とりあい)---納税の事です^^/

登場人物は重複してるので割愛

★★★感想とかとか★★★★★★感想とかとか★★★★

なんか不足分について言ってきてるwww
書状だから年度の記載がないですが、日付が奉書の二日後(8月28日)だから、同じ天文5年と史料編纂の段階で判断したようです。
奉書でも追而を出すって書いてましたしネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

で、足りなかった20町分は下筑後で御分別(ごふんべつ)・・・つまり我慢してね♪←っと言ってる
下筑後のどこかまでは記載ないけど、80町が福岡県うきは市内だから、飛び地確定^^;
てか、肥前の龍造寺から見たら、うきは市自体が飛び地なのに、さらに20町が飛び地になるんです^^;;

本貫地から離れた領地を何か所も、龍造寺氏で管理するのって大変よネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
てことは、大友家の筑後直参衆に代行してもらうしかない。
そこで、所柄(土地の詳しい説明)や取合(納税)について相談しなきゃならず、
このあたり「申し談」が龍造寺側から在(あ)った・・・て事なんだろう。

判物は7月9日で一か月以上間があるから、「(奉書が届く前に龍造寺から)問い合わせ来ちゃったよ~」って事があっても不思議ではない^^;
んで、無沙汰(ぶさた)がないように右馬允に連絡した~・・・って感じの意味だと思う。

奥上書は日付の次に差出者が署名・花押する文書様式で、上位者から下位者へ出すときの様式です。
まぁ、キング大友の老臣ですから基本として上から目線なのですが、
宛名である龍造寺胤久に対し敬称である「殿(しかも漢字)」を用いているので一定の敬意を払ってます^-^

末尾の「  」は書状を包んでた封に書いてのだと思いますが、ちょっと自信ない^^;
残り20町が何処に決定したのかまでは、文書が残ってないので判りません。
この筑後国内における龍造寺領の、その後も判らないな~筑後関連のデータ見るときに地名に留意します^^;

実は、今回の一連の古文書は堀本一繁氏の「論文:龍造寺氏の戦国大名化と大友肥前支配の消長」で
「肥前国衆への軍事動員の事実と、その服属化を裏付けるもの」として典拠として挙げてる古文書なんです。
ちなみに論文では、20町不足してた事には触れてません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

数か月前に論文を読んだときは「軍事動員の事実」が???だったんだけど、スパンを数年単位にすれば動きがあったっぽい。
天文年間前半の大内VS大友は、北九州全体で軍事活動は凄い活発だったんで、その全体で俯瞰すると「軍事動員の事実」が含まれる・・・かな?
最近、入手した論文で(書いたのは違う人)それらしい事を書いてるんで、いま手持ち年表データと比較検証中です( ̄ω ̄A;アセアセ

自分が古文書の勉強や読み下しを始めて約3カ月^^;
まだ安堵関係の短い文書だけだけど、やっと分析できるレベルまで読み込みできるようになってきた。
その分だけ己の過去の未熟さに気づくわけで・・・(滝汗)・・・ま、仕方ないですよね・・・自分、ガン( ゜д゜)ガレ

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龍造寺家文書_108_大友氏老臣連著奉書

てことで、判物が実務として執行されました~

筑後国生葉郡之内大石地頭分五拾町、同郡小家之内三拾町(坪付別紙)事、
 ※筑後国好生葉郡の内 大石地頭分50町(旧大石村=福岡県うきは市)
 ※同郡小家(うきは市のどっか)の内30町(坪付別紙)事、

被充行龍造寺民部太輔訖 、任御判之旨、至彼代官、厳重可被打渡、
 ※龍造寺胤久充行(あてがは)れ訖(をはん)ぬ、御判の旨に任せて彼の代官至(いた)す、厳重打ち渡される可(べ)し、

不足分弐拾町之事物、追而可被仰□之由、依執達如件、
 ※不足分20町の事物、〔文字欠落〕追っ而(て)仰せられる可(べ)きの由(よし)、依って執達件(くだん)の如(ごと)し

天文五年八月廿六日       (入田親廉)丹後守(花押)
                     (山下長就)和泉守(花押)
                     (田北親員)大和守(花押)


三原和泉守 殿
豊饒美作入道殿


★★★語句とか解説★★★★★★語句とか解説★★★★★★語句とか解説★★★
・坪付---大名が家臣に与えた知行目録

・被充行(安堵される人物or寺社)訖---定型文、( )内の人物へ領地安堵されたという意味。
・訖---この文字の部分が終わったよ~って意味。
・任御判之旨---安堵関係に使われる定型文
・打渡(うちわたし)---業務や土地の「引き渡し」を昔は、こう呼んだの(^ -)---☆Wink

・依執達如件---読み下しは上記の通り、奉書における書止め定型文
・奉書---現代風に言うと「通達」や「辞令」。
      従って、奉書発行年月日が権利関係の取得年月日です。


☆☆☆何処の誰かは♪☆☆☆知らないけれど♪☆☆☆官位は聞いたこと☆☆☆あるんじゃね?♪☆☆☆
【領地を安堵された人】
龍造寺民部太輔←龍造寺胤久さん

【今回の差出⇒奉書に連著した大友氏老臣(加判衆)三名】
・丹後守⇒入田親廉(にゅうた ちかかど)
・和泉守⇒山下長就(やました ながのり)天文7年の大内氏との交渉に参加。
・大和守⇒田北親員(たぎた ちかかず)田北氏は親員の代から加判衆となる。
 ※大友氏の重臣は加判(かばん)衆と呼ばれていました。
 ※こういった奉書に連著・加判する事が呼称の由来です^-^

【今回の宛名⇒執行のために大友老臣から通達された実務担当者二名】
・三原和泉守---筑後における大友氏直参家臣、通称「高一揆衆」「二四頭」の一人。
          岩屋城で玉砕討死した三原紹忍の父か又は本人(調べきれんかった)
・豊饒(ぶにょう)美作入道(永源)---筑後方分。
                     大友義鑑から偏諱を受けたとも加判衆だったとも色々で詳細不明
                     三潴郡の「踊り念仏」の伝承に登場する方です^-^

★★★感想とかとか★★★★★★感想とかとか★★★★'

調べる事大杉で脳みそ限界・・・`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`
戦国とはいえ大友は専門外なので、これ以上は御容赦~~'ゼーハーゼーハー(;´Д`)フゥ~~

えっと・・・事務手続き未だ完了しません。( ̄ω ̄A;アセアセ
大友義鑑「判物」発給⇒加判衆(老臣)奉書発給⇒【安堵された領地がある筑後国の担当者】←いまココの段階

豊饒(ぶにょう)美作入道(永源)は、筑後方分だったようなんですが、ハッキリ判りません。
ちなみに「方分(ほうぶんorかたわけ)は、大友専門用語でして職能としては守護代のような感じです。
(つまり派遣された任地における最高責任者)

んで、、、、、、
安堵100町ー(大石50町+小家30町)=ちょ、20町足りん!Σ(´Д`;) はぅっ

え~~お屋形(国主)様である大友義鑑が、ふっとっぱら100町安堵___φ(.. ) 花押カキカキ したのはいいけど、
肝心の筑後で空いてる土地が80町しかなかったらしい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
それで足りない20町については
「(大友義鑑が)□(文字欠落)って言ってた!後から(龍造寺へ)連絡するから、手続き始めちゃって!(超意訳)」
と書いてるんです^^;

これは事務手続きの流れが残ってるって点でも、貴重な史料です。
でも、、、、お屋形さま・・・安堵する時の数字は、なるべくウロ覚えで書かないで下さい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
これは飛び地になりそうな予感 (*´ー`)プププ

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龍造寺家文書_107_大友義鑑判物

お目目養生で暫く(以下略)
久々の古文書読み下しは永久保存文書たる判物でござる(`・ω・´)キリッ



筑後国之内百町分坪付在別紙之事、
 ※筑後国の内100町分(坪付 別紙在(あ)り)の事、

預進之候、可有知行候、恐々謹言、
 ※これ預進(よしん)候、知行有る可(べ)く候、恐々謹言

(天文五?)七月九日           (大友)義鑑(花押)
 ※類推より天文5年=1536年、7月9日   差出=大友義鑑(宗麟のパパン)

龍造寺民部太輔殿 
 ※龍造寺胤久

---語句解説---

坪付---大名が家臣に与えた知行目録

《預進之候、可有知行候、恐々謹言》
この部分は書止めの定型文だったみたいです。
大友義鑑は、この文書以外の判物でも、同様のフレーズを用いてます^-^

★★★感想とかとか★★★★★★感想とかとか★★★★★★感想とかとか★★★

古文書入門で判物の解説したのは、これがあったから^^;

書止めが「~候、恐々謹言」で「月日のみで年号がない」のは、書状の特徴なんですが、
内容が領地安堵に関する事で、かつ知行目録も添付されている事から「判物」に分類されます。

公的性質である安堵状ですので、年度は必須です。
が、この判物には年号がありません。

と、言いますのは「キング大友クラスの大名になると、実務執行のための奉書がセットで伴うからです。
(※奉書=政務や裁判など事務手続き上における伝達文書)
安堵された土地が何処かとか、権利関係は奉書に記載された年月日から有効となります^-^
この判物に年度がなくても、類推できるのは奉書が発行されているからなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

この1536年に少弐資元が大内勢の攻撃を受けて自害します。
龍造寺胤久は、少弐資元自害の直前に大友義鑑の被官になったんです。

これを、どう解釈するか・・・悩ましい・・・(-ω-;)ウーン(-ω-;)ウーン
堀本氏の論文を再読しよ♪

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判物(はんもつ)---古文書学のススメ

お目目養生で暫くサボってたんで久々の投稿です。
今回は簡単にウィキペディア参照^^/

判物(はんもつ)とは、室町時代から江戸時代にかけて出された武家文書の一つです。

用途:家臣に対する所領の給付や安堵、感状
つまり公的性質を持つ文書で、主従関係において重要性・永続性が必要とされる文書に対して用いられた。

特徴:上位の立場にある者(特に将軍・大名(守護・戦国・藩主))が発給した文書のうち、差出人の花押が付されたものを指す。

これに対し、花押でなく印判が付されたものを印判状(朱印状・黒印状)と呼びます。

要するに領地安堵や感状に使うという点で、印判状と判物は用途が同じです。
ただし使う場面において「格差」があるんです。

印判は「本来なら花押なんだけど諸々の事情で簡略な印判にしちゃったから~」てことで略式なんです。
また同じ内容の書面を大量発給するときにも印判状が使われます。
赤と黒の違いは前回説明したんで割愛^^b

判物は戦国大名の命令文書ではもっとも格式が高いものとされた
征夷大将軍が用いた判物は特に御判書と呼ばれており、
江戸期においても10万石以上の大名家の異動(新規加封・当主交替)に対して用いられ、朱印状が用いられるそれ以下の大名との格式の差の証しとされた。
大名家においては家老級の重臣には判物、それ以下の武士には印判状で発給するなど、明確な線引きがありました。

逆を言えば判物をもらうってことは、差出者である守護or戦国大名or将軍家にとって、宛名の人物(武家)が重要な相手だと認識されている証でもあります。

キングオブ九州の大友家から貰ったりなんかしたら、永久保存のステータスなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

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大河平氏_5【擁立当主・北原掃部介兼親】

北原家督乗っ取りを企んだ伊東義祐に対抗するため、島津・北郷(ほんごう)・相良の三氏により擁立された当主・北原兼親。
盟約を結んだ三氏のうち、相良義陽が伊東へ寝返り脱落。
不穏な空気が漂う真幸院(現:えびの市)で、最前線の今城を守る城主が兄の病死によって少年当主・隆次に代替わりする。

その隆次と主君である北原兼親が、ささいな事で不仲になる。
「ささいな事」と伝えられるだけで、実際には何があったかは判らない。
北原兼親は島津義弘へ
「飯野城(北原兼親在城)と今城(大河平隆次が城主)は余り遠くないため、(伊東が攻撃してきても)すぐさま今城を救援できます。ですから今城配備の島津兵は撤収しても大丈夫です」
と、言上し島津兵を引き揚げさせてしまう。

てなとこまで紹介したら、某さまからコメントが・・・「北原兼親が島津義弘へ進言した文書は残っているのですか」
シオ「・・・・・・・・^-^;え? アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ あれれ~」
シオ「監修様ぁぁぁーo(* ̄○ ̄)ゝーーーーー! これって出典なんでしたっけ~~」
   「えびの市史と小林市史と大河平氏末裔の記録だっけ?改まって聞かれると自信ない件~~」
監修さま「市史の方は元出典判りませんが、島津側で出典見つけました↓」

『本藩人物誌』
春三月飯野地頭職北原掃部介兼親ヨリ致言上
趣有之三百余ノ御番兵被召上置候トナリ


原文!Σ(´Д`;) ん~~~~っと、
春三月 飯野地頭職 北原掃部介兼親より言上致す
趣有り この300余の御番兵 召し上げ置かられ候となり・・・かな?

「趣有り」の中身が肝心な部分の気が・・・・・il||li _| ̄|○ il||l
本藩人物誌の巻末参照史料で、更なる元出典として可能性が高いのが黒木播磨覚書
こっちは確認しきれなかったけど、この覚書が島津側の大元出典なら、飯野郷士の記録した一次史料なんで、かなり精度は高くなるそうな。

言上内容こそ書いてないけど、「北原の言上」によって島津が番兵を引き揚げた事実は、島津側の記録にもあったということです。
となると、残る問題は「北原兼親の発言の底意」が何だったか・・・だ。

通説では、健気に戦った14歳の少年当主に同情的で、主君である北原は「家臣へ意趣返しした残念な当主」扱い。
島津兵が引き上げた時に、北原領内では「北原自身が伊東に寝返ったのでは?」と噂されたそうです。
無理もありません。
自分で国境の守りを手薄にするって、あんまり聞かないもん^^;

でも、そもそも戦略的にヤバそうな提案なら、猛将・島津義弘が撤兵にアッサリ首を縦に振らないはずです。
逆に島津義弘が、北原の言上を不自然に思わない場面は、何だと思います?
それは、「北原兼親自身が、伊東兵との合戦で采配を振るい手柄を立てたいと望んだ時」じゃないでしょうか?

系図・北原
ありのままの~~北原系図,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

北原兼親は祖父・茂兼の代に家督争いに敗れて亡命し、相良氏に寄宿した筋金入り?の居候。
平ったくいうと「産まれも育ちも人吉の水で生きてきた」わけです。

従って、当主といっても北原自身の家臣は身辺にいる者くらいのはずで、北原家臣の殆どが、北原兼親と初対面だったことでしょう。
ちょっと雰囲気としては江戸期の嫡男が、当主になって初めて国許入りするのと似てるかも。
北原家臣らが、器量の知らぬ兼親を主君と仰ぐのは、ひとえに彼の後ろ盾が島津氏だからに他なりません。

伊東の陰謀で反対派が粛清された時に、北原家臣の多くは島津氏を頼りました。
大河平氏、家祖の隆屋も島津氏から領地安堵を受けてます。
大河平氏、2代目隆利が伊東勢と戦い撃退した時も、島津義弘から加増を受けてます。

領地安堵も武功に対する加増も、主君である北原兼親の特権事項です。
上位者である島津氏へ、手柄を立てた誉の家臣を紹介するのは、主君である北原兼親が仲立ちする事です。
それが出来なきゃ主君とは言えないぉ。。。(´;ω;`)ウッ

君臣の関係を本来の状態に戻し、飾りでなく実のある主君となるには、北原兼親自身が己の器量をアピールしなければならない。
北原が「自分で、やってみたい!頑張るからやらせて(-人-)☆彡オネガイ!」
となれば(そういう話が好きそう⇒)猛将・島津義弘「良き御覚悟、ガン( ゜д゜)ガレ」となりませんか?

これは、監修様から色々御教授頂いた話を元にした推測。
「北原兼親がダメ当主でなかった場合」に想定しうる状況です。
論証はできません。何故なら北原側の言い分(言い訳?)を記した資料がないからです。

もっとも、北原言上前の2月から島津は大口城攻撃を始めてるので、兵力が不足気味だったのかも。
北原が自力で守ってくれるほうが助かるって事の方が、撤兵の要因かな?

いずれにせよ、資料なしで論証できなければ通説は覆らない。
北原兼親の「残念な当主」としての評価は、過去も未来も、歴史がある限り刻まれ続けていく。
そして少年当主・大河平隆次にとっての現実は、援軍のないままに壮絶な籠城戦へと突入する。

次回「当家代々の忠義は鎖鍮(さやく)の如く!」それは・またの話 ・゜・(つД`q。)・゜・

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●肝付越前守兼演入道以安 :三郎五郎

越前守兼固の子。子孫は喜入領主・肝付主殿。忠兼公御家老。

家嫡・河内守兼忠の三男・越前守兼光が大崎を領す。
その子・兼固(兼演パパン)は文明18年に大崎より移り、隅州溝辺を領す

大永6年11月、
忠兼公より虎寿丸様へ御家督御譲りの時、忠良公相模守に御成り遊ばせた折、
樺山信久は安芸守に、兼演は越前守に罷り成り候。

大永7年4月、
忠良公、帖佐の内、辺川・加治木・木ノ内・中ノ州を下され候(加治木を攻め取るは、この年とも云う)。

天文3年、
兼演、加治木を攻め取り、溝辺より加治木へ罷り帰り候。

天文6年、
兼演、島津実久の催促に応じ、一旦貴久公へ敵対致し候。

天文18年11月下旬、
北郷忠相・島津忠親へ相付き降参仕り、
12月11日、
兼演父子、清水へ参上仕り御目見え仕り候て、前罪を謝り奉り候。

天文19年、
加治木郷安堵の御判を下され候。

天文21年7月4日卒。享年55。存庭兼祐居士。

{二次史料より:永正16年、勝久の命で伊集院尾張(曽於郡代)を討つ。享禄2年、加治木略取。勝久家老。喜入肝付家祖}



出典:本藩人物志(島津関連の編纂史料)
第七大改訂年表にデータ収蔵完了(`・ω・´)キリッ
どこまで整理したか判らなくなるので、自分の記録用にUPです^^;

現在、新調したメガネと研究用に必携なんで急きょ購入した史料の入荷待ちで足踏み中^^;
眼精疲労からくる頭痛で、休み休みだから思うように行きません(´;ω;`)ウッ
いろいろと本格再開まで、いま暫くお待ちくださいm(__)m

テーマ : 歴史
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相良義陽_25【中篇・裏切りの波紋】

日向制覇のために肥沃な穀倉地帯・真幸院(現・えびの市)は、有力大名たちの標的となった。
その真幸院を領地とした北原家の家督は、伊東家の傀儡当主(馬関田氏)から島津家の傀儡当主(北原兼親)へと目まぐるしく変化する。

はじめ相良義陽は年来の友好関係もあって、島津氏(本家+分家の北郷)と北原兼親支援のために盟約を交わしていた。
もちろん、北原の家督乗っ取りを企んだ伊東義祐に対抗するためです。
ところが義陽は島津との盟約を破り、伊東義祐と組んでしまう。

飫肥城の領有を巡って島津と攻防を繰り返している伊東義祐。
その最終目的は、飫肥城だけじゃなかったっぽい。

人物・伊東義祐
エスパーでもベンジャミンでも食卓でもない、伊東義祐イメージ画像^^/

「伊東の野心」について、傍証というかキナ臭い話がある。

時は1560年(永禄3年)
この年の3月19日には島津義弘、島津忠親の養子として飫肥に入ってるので、伊東と島津とのガチンコは激化進行なぅ。
6月、足利義輝より島津貴久へ伊東と和融すべしとの御内書が届いてました。

ウィキペディア「伊東義祐・飫肥役」によると、豊州家(※)は島津宗家を介して幕府に飫肥役の調停を依頼してたらしい。
(※豊州家は島津分家で飫肥城主)
足利義輝からの和睦命令は伊東の元へも届いてたらしいが、伊東は無視。

そこで、9月4日(6月2日説あり)、日向の兵乱を鎮めるべく、幕府より政所執事・伊勢貞孝が下向し、伊東家を訪問したそうな。
(ちなみに北条早雲は、この伊勢家の庶流・備中伊勢家です)


伊勢貞孝を前にして、伊東義祐が恭しく出したのが「守護職移譲の御教書(公式文書)」だ。
発行した将軍⇒足利義政~えっと銀閣寺の人です^^b
貰った当主⇒伊東祐堯(すけたか)5代目です^^b
内容~~~日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、渋谷はこれを除く

伊東義祐は、この御教書を根拠に飫肥城攻撃の正当性を訴えたんです。

武家礼法エキスパート⇒伊勢さん、|御教書|・ ̄)じぃー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

伊勢
「これは、あきまへんなぁ。従三位という御身分の方が出して良いものとは違いますやろ」

伊東
「は?何か御不審があれば、お聞かせ願いたい ( ̄0 ̄A 滝汗フキフキ」

伊勢
「ほなら、言います。ここ、ほれ、そこも、東山殿(義政のこと)の頃には使わない書き方どす」
「これ偽書ちゃいますのん?こないなもん仰々しく出すもんやあらへん、
ほかすか燃やすかして忘れるこっちゃ、あては見なかったことにしますよって~
ほな、さいなら~(O ̄∀ ̄)ノ

※会話やりとりはシオ妄想,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

伊東撃沈・・・il||li _| ̄|○ il||l
まぁ「伊東義祐が裏工作の為に作った偽書」と断定されたわけでは無いのですが、
同じ偽書でも、当時の人間が書いたなら「当時の人間が使わない表現」が入るはず無いですからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

で、貰った人の設定が5代目伊東祐堯(すけたか)なのは、
この当主の代で島津の内輪揉めに介入し飫肥城攻撃が始まる、つまりルーツなんです( ̄ko ̄)チイサナコエデ

この際、誰が作ったかは置いといて「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし
と記した文書を持ってたところに伊東義祐の本音が透けて見えます。

つまり伊東義祐は日向を我が物にしたら、薩摩・大隅を狙ってた。
もう一つ傍証。

日向記「伊東方与力衆事」より一部抜粋
一、肝付殿  一、根占殿  一、伊地知殿  一、新納殿  一、本田殿  一、北原殿
右ヲ以上六ヶ所ト云テ数ヶ年伊東方ニ礼儀ヲ伸テ与力ヲ致サルル也

久々超意訳:この6か所、ここ数年伊東方に与力してます

一、入喜院(入来院)殿  一、邪答(祁答院)殿  一、滝(高城)殿  一、東郷殿
右ヲ以上四ヶ所ト云テ此衆モ数ヶ年与力ニテ当家ニ御礼ヲ被申也

超意訳:ここ四カ所も、うち(伊東)の与力なの~(*´pq`)

凄い当て字~祁答院(けどういん)が、蛇答(じゃとう)に、どこのアジア系マフィアですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

一、菱苅殿  一、求麻相良殿  一、嶽ノ米良殿
以上三ヶ所モ同前ナリ、---
以上三カ所も同じ(与力)
此衆ケ様ニアル上ハ弥入道殿権威重クシテ三州の太守ト思食入処モ理ナリ
意訳:この衆、かようにある上は、弥(いよいよ)入道(伊東義祐)殿の権威を重くして、三州(日向・薩摩・大隅)の太守(=国主・守護職)とおぼしめす処も理(ことわり)なり。

超意訳:これだけの与力がいるのだから、伊東義祐が、もっと己の権威を重くして、三州の守護職を欲しいと思うのも無理ないのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

逆を言うと、与力してくれてる皆々様の所領を今すぐ、どうこうするつもりはないって事にもなる。
伊東義祐は、鎌倉以来の名門・三州守護職の家柄である島津氏に、とって代わろうとしたのでしょう。
俗っぽぃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

もっとも伊東義祐の野心は、期待の嫡男の急死で頓挫します。
その後の伊東は「裸の王様+ロバの耳」で遊興三昧・禅三昧になり、一族家臣の離反を招いて島津に滅ぼされる道を辿る。

それは後年の話で、いま現在は島津が押され気味で日向・伊東氏が勢力最盛期。
伊東氏は、その全力でもって島津を日向から排除しようとしてるわけで、肥沃な真幸院を完全に手中に治めようと動いてました。

島津を裏切り伊東と組んだ相良家にも、これじゃないかな~という事情があるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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