大河平氏_12【今城合戦---5・総攻撃】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m


出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平氏』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平氏』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
 傍証として合戦日付だけでなく、その他内容も上記三点は根幹部分において相違はありません。

≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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地図・今城

伊東勢は川(地図・川内川)を渡って大挙して城下へ迫った。
が、大河平勢が伊東勢の頭上めがけて松の大木や岩石を綱を切って落とした為、忽ちにして谷底へ折り重なって落ちた。
川は伊東勢の血の朱に染まった。
やがて攻めあぐねた伊東側は、坂の下方面へと引き始めた。


しかし、大河平勢で軽挙なる者が退散する伊東勢へ向け矢を放った。
それが屏風岩に当たってポテっと落ちた。
「ん?ヽ(。_。)、」
伊東勢の者がそれを拾ってみれば、なんと的矢(まとや)であった。


解説しよう(`・ω・´)キリッ
的矢(まとや)とは、文字通り「的に当てるための矢」でして戦闘用ではありません
神事や祭事などに使う為の矢なんです。これに手を出すということは・・・察してください・゜・(つД`。)・゜


話続く・・
伊東勢は城兵の矢玉が尽きたのを悟り撤兵を止める。
しかし今城が攻め難いことには変わりません。
そこで今城南西の上の原から永野方面へ迂回して兵を進め 、
そこにある永野城を攻撃すると城主の永野仲左衛門を捉え、案内させた。


ちなみに渓谷の関係上、ぐるっと迂回しているんですが、
地形無視で地図上のみで俯瞰すると今城の川向いの西にあったりするwww


城主・永野は
「今城は北のみ攻めやすい間道であり、他の三方は何れも要害で如何なる方法でも落とす事は叶わない。
しかし北方は第一・第二・第三と三つ堀はあるが陸続きなので、茅を刈って(堀を)埋めれば突進できる」と述べた。


永野仲左衛門は元々この地の豪族です。
永野が伊東勢を案内したとするのは『飯野古事記』が出典。
それによると、伊東に一味したために永野に住まうことが憚られ、その後は三ツ山(後の小林)に住んだとしている。


但し、『大河平休兵衛隆賢 聞書』には、伊東勢との戦いの際に永野仲左衛門は家来十名と共に討ち死にしたとある。

一方、『本藩人物誌』には、長野(永野?)仲左衛門という義弘と共に飯野入りした家臣があり、
この人物は大口城攻めで大敗した際に死去したとされている。


ウィキペディア(出典・えびの市史上巻)だと、永野城を落として捕えた城兵から、今城の情報を聞き出したとなってます。
なんか、どの説でも共通してるのは「伊東にやられて落城した」って事なんで、
基本として酷い目にあってる永野城なのでした^^;

地形を利用した天然の要害だった今城の、唯一の攻略ルートが伊東勢にバレた!!
今城の命運が風前の灯となったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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龍造寺家文書_45・少弐貞頼書状

ちょっと?遡ってます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

緑文字---本文
※-------読み下し(たつもり)
★-------超意訳(爆



一日江上七郎方之御状、委細一見候了、
※一日 江七郎の御状、委細一見候おわんぬ
★一日に江上七郎の御状、詳しいことは一通り見終わったよ~

随而今度刻、一家合不儀之式、無是非候之慮、
※したがって今度、一家儀の式合わず、是非無く慮り候
★降参~~意味がワカラン~~

御分之事、無他事被致忠節候之条、神妙候(~繰り返し~)、
※御分別の事、他事なく忠節致られ候の条、神妙候、神妙候
★御分別の事や余念なく忠節を致すこと、感心、感心 (^ -)---☆Wink

巨細之趣、七郎可申候、恐々謹言
※巨細(こさい)の趣、七郎申し可(べ)く候、恐々謹言(結語につき見たまんま)
★大小こまごましたことは、(江上)七郎へ伝えておきます、恐々謹言^-^

十二月廿一日        (少弐)貞頼(花押)
※12月21日、書状には年度入れないの元号不明 
※少弐貞頼(1372-1404)南北朝時代~室町前期の少弐当主    

龍造寺六郎殿
※龍造寺康秀のことらしい
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結論から言うと、少弐貞頼は龍造寺を頼りになる被官として、大事にしてたようです^^

宛名に殿って漢字で書くのは、敬意を払ってる証なんです^-^

ちなみに少弐貞頼さんは、戦死自害率が高い少弐氏の中で珍しく病死です。

が、30代という若さでの死亡だったので、このあと若年当主で大変なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

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大河平氏_11【今城合戦---4・公称130人】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
 傍証として合戦日付だけでなく、その他内容も上記三点は根幹部分において相違はありません。

≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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ふと思ったが130人という数そのものが、大河平氏側からの自己申告かもしれない。

一般に公開されていない大河平氏の家譜だが、
家臣の家譜って編纂すると主家に献上する事があるんです。
(佐賀藩の場合は戦功書を定期的に提出させてた)
となると数字を盛る子孫補正が入る事は、大いに有りえます。

ただ、あんまり荒唐無稽な数字だと、いくらなんでも主家である島津もモヤモヤしちゃうでしょう。
だから、実際より少し多くて、かつ不自然でない数字。
もし後から盛ったのがバレても、事実誤認程度すむ丸っきりウソとは言えない数字・・・

それは島津の援軍が撤兵する前に、
常番として今城に詰めてた人数じゃないでしょうか?

上記参照史料には、島津の援兵300人が、どういう風に配置されていたか記載されていません。
今城は大河平城より規模が小さいので、300人全員が収容可能か怪しいです。

(-ω-;)ウーン(-ω-;)ウーン(-ω-;)ウーン と悩んでいたら、
監修様から助け舟(*´ー`)つ「居住地・大河平屋敷で、今城と大河平城の分かれて守備してたパターン」どぞ~

おお!さすが!リアリティーある推測!
戦国時代の山城って、イザって時の詰城で、通常は麓で館を構えて起居してたんです。

地図・今城

(大河平勢?人+島津援兵300)÷3(今城・大河平城・大河平屋敷)=今城常番兵100~150人(推定)
てことで計算上ですが、本藩人物志に記載された130人に近い数字が出ます。

古文書学上での話なんですが、こういう常勤の番兵の時って勤務日報みたいな記録をするんです。
で、勤めが無事終わった者には「証判」が渡されます。
それは鎌倉も室町も戦国も江戸も変わりません。
武士が奉公した証明ですから、書式は時代によって変化しても必ず出すんです。
ただ、城が破却されちゃうと、そういった文書類もシュレッダーなんで残らないだけ(´・д・`)

本藩人物志の130人の言いだしっぺが誰かは判りませんが、
(残ってる可能性はゼロ%に近いけど)今城の常勤人数の記録を参照したか、
もしくは今城と同程度の規模で常勤人数を参考にしたなら、数字を盛りつつ実態に近い数字になる(*´ー`)ニヤニヤ
まぁ130人の話は、もういいです。どっちみち何が根拠かなんて辿れないし(´・д・`)IFバナにしかならん

もっと気になるのは
参照史料には、島津の援兵300人が、どういう風に配置されていたか記載されてない事
初めに感じたのは「この300人の滞在費用・・ぶっちゃけ糧秣は何処が負担したのだろう?」です。
島津ってことはないでしょう。今城だけに支援したら他の城将からクレームが出そう。
それに大河平氏は島津義弘から2000石の加増を受けたばかりなんで、此の上更に糧秣を・・・とは言いづらい(´・д・`)

江戸時代の軍役として1万石で300人なんですが、地域や時代によってもマチマチで一概には言えません。
概算の目安と比較しても大河平氏のみで、島津援兵の糧秣を負担するのは財政破たんするレベル。
今城合戦は5月29日・・・・作物の収穫前です。
撤兵した島津兵300の食糧は、おそらく領民の備蓄食料を絞り出して捻出してたでしょう。
大河平勢が各々一食分減らして、島津勢に融通するような事態まで陥ってたかも。
更に狭い地域に壮健な男子が300人も増えたんです・・・風紀の問題が・・・・ゴニョゴニョ

本来であれば、そういった実情に対し、大河平氏の元々の主君である北原兼親が配慮すべき立場です。
が、大河平に対し何か支援物資を送ったのかどうか等は、記録にありません。

些細な事で不仲になったという北原兼親と大河平隆次ですが、
根底には島津援兵への糧秣問題があったんじゃないでしょうか。

だって、耕作地が少ない大河平じゃ、領民をどれほど絞ったところで知れてるわけで、
イキナリ300人分の糧秣調達は絶対無理なんです・゜・(PД`q。)・゜・

飯野城に入って思いもかけず当主となった北原兼親に、飯野の財を惜しむ気持ちが、僅かでもあったとしたら?
それに伊東が来襲する時の為に、飯野城だって備蓄しておきたい。
となると、北原兼親が援軍撤兵を島津義弘に言上した真意は・・・って事になるが、さすがに想像がすぎるので自粛。

いずれにせよ島津の援兵300人に細かく触れると、いろいろドロドロした実情に筆が及びかねないので、
主君が見る機会があるかもしれない、「家譜には記載できない部分」になるわけです。
そして、くどいようだが、敵も味方も主君も家臣も一次史料なしだから、真実は永遠に闇の中(´・д・`)

さぁ~分析もIFも終わり!話を戻すぞ~~

今城を囲んだ伊東勢。
伊東義祐は使僧を二度送って降伏勧告をしたんですが、
城主で当主の大河平隆次15歳は二度とも拒絶(`・ω・´)キリッ


怒った伊東義祐は全軍に総攻撃を命じたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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大河平氏_10【今城合戦---3・籠城の実動員】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
 傍証として合戦日付だけでなく、その他内容も上記三点は根幹部分において相違はありません。

≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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さて、『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は、根幹部分で相違はない・・

という書き方をしてるって事は、細かい部分では違いがあると言う事です(*´pq`)
それが前回書いた伊東勢の動員の人数。
物語り大河史のみ伊東勢1000名としているんですが、今城の籠城人数も他は130人なのに、
物語り大河史の方だけ108名になってます。


いきなりですが分析モードに入ります(`・ω・´)キリッ

自分は、この108名が籠城したホントの実動人数だと推測してました。
理由は単純。
物語り大河史では、少年城主・隆次と共に今城で玉砕討死した城兵の名前を列記しているからです。
元出典であろう大河平氏の家譜にも討死氏名が記載されているのか、
それとも著者が菩提寺の過去帳&墓石からアナログコピペ(書写)したのか、
家譜が非公開なので、確認はできません。

いずれにせよ戦没者氏名まで確認している『物語り大河平史』の方が、
今城籠城の実動員数として90%以上の精度があると思います。
(残り10%は、カウントミスあるかもだから^^)

というのも大河平では今城で玉砕した英霊に対し、継続して何らかの慰霊をしているはずだからです。
つまり今風セレモニー調で言うと今城戦没者慰霊祭
日本習俗風だと大河平氏及び一族による法要です。

月命日・祥月命日・お盆
墓参や法要をするのは、ごくごく当たり前のこと。
ましてや主家を筆頭に家臣一同の命日が一緒なんです。
主家・大河平氏の歴代当主がガチで法要の喪主代表ですな ( ゚Д゚)y─┛~~

討死という究極の忠義に対し、主家の方は慰霊・鎮魂という真心を尽くす責務があります。
大事な法要のさいに戦没者氏名が漏れるような事があっては一大事です。
当主代替わりか、33回忌とか50回忌とか大きな節目には、戦没者氏名のチェックはしてたんじゃないでしょうか。
実際、佐賀藩では戦没者調査を江戸期に行ってました。
調査は推測だから置いといて、
少なくとも古くなって破損してきた過去帳を新たにするときなどは、二重三重の確認作業をしたでしょう。

日本人は死者を悼む・・・ということに対し、非常に真摯です。
現代でも太平洋戦争における遺骨調査のニュースが、たまに出るでしょう?
それと同じで、当然のことなのです。

子孫がおられる以上、戦没者氏名は現在進行形の個人情報です。
ですから、家譜や菩提寺などの情報は、今後も一般には公開されることはないでしょう。
自分も部外者が踏み込んでは(・A・)イクナイ!!と思う。

対外的には籠城側は130人。それでいいんです。(´・д・`)。。。
いや、真面目な話。
いやいや、感傷的になってるからじゃなくて。ガチで公称130人だってば。

130人の元ネタって本藩人物志・・・大河平氏の主家である島津側データだから。
主君側で130人って言ってくれてるんだから、130人なんです。

過去帳から拾ったとか墓石調査で分かったとか、そこは島津側に言う必要ない大河平限定内輪の話。
万が一、130人より少ない数が島津側に漏れて、筆頭家老や殿さまの逆鱗地雷を踏んだりして、
「あ、そーなんだ、いままで隠してたんだ。ふーん。じゃ、130-108=22人分、大河平の本領減らすから」
なんてことになったら(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
だから108名って数は江戸期はトップシークレットだったんじゃないかな。

法要の人数と、島津側で掌握してる人数が違ってる事に気づいたとしても、
少なくとも江戸期において、違うと進言できる勇敢?大胆な大河平当主はいないでしょう。
だから、過去も未来も今城籠城人数は、公称130人(`・ω・´)キリッ

さて、実働人数の次は公称130人の根拠なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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大河平氏_9【今城合戦---2・伊東勢の動員】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m


出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平氏』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平氏』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
 傍証として合戦日付だけでなく、その他内容も上記三点は根幹部分において相違はありません。

≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。



そうえば、大河平氏に夢中でスッコーーンと忘れた敵側の伊東氏や主君である北原兼親の方。
こっちは完全に史料なしです。
だからこそ「一次史料が見当たらない」なんです。


北原氏はユルユル~と地盤沈下の如く没落して、歴史からフェイドアウトしたので北原氏側の文献って何?って状態^^;
伊東氏はジェットコースターもビックリ急降下の色々重なり・大・没・落( ̄ko ̄)
所領全てを失い、持てるだけの什宝を携え、一族郎党引き連れて豊後へ落ち延び、果ては四国まで亡命するという悲惨な状況。
(伊東家は義祐の三男・祐兵が奇跡の復活で飫肥藩として明治まで存続します)
更にトドメとして、大友氏の天正年間・日向侵攻の際に「理想のキリシタン国造するぉ(`・ω・´)キリッ」
と、神社仏閣破却しまくったんで、日向は一次史料が壊滅四散してるんです^^;
だから、これ以上のものは、ドラえもんじゃないんで出てこないと思ってください^^;


今城を囲んだ伊東勢の兵力も不明なんですが、
『物語り 大河平氏』のみ伊東勢1000名となってますが、根拠は不明です。


さて、ここからは分析IFバナすよおおおおおおぉーo(* ̄○ ̄)ゝーーーー!
孫子の兵法によると、攻撃側は籠城側の10倍の兵力が必要だと言われています。
今城の籠城人数は130人
単純に10倍で1300・・・1000だと足りないな~ってなるんですが、
実は「物語り大河平史」では籠城側を108人としているので、
それだと10倍で1000はセオリー通りということになります。

実際に1000だったのか、
判らないながら家譜編纂時に「孫子の兵法」を参照して1000としたのか微妙なところです。

1562年月日不明で、伊東義祐の叔父の伊東杢右衛門が兵450をもって大河平城を攻撃し、
大河平勢によってo( ̄Д ̄θ★ケリッ! 撃退されています。

で、この報告を受けた島津義弘が軍功として2000石を加増すると共に、
もっと堅固な城を作りなさいね (* ̄ ▽ ̄)ノ と命じたので、大河平氏が築城したが今城です。


となると、この史料が??になるんですが、
監修様の話だと「どうも城攻めじゃなく、攻撃したのは屋敷の方じゃないか」って話なんです。
伊東勢が陣をしいたのが「屋敷前」って記述になってるそうです。
攻撃時間も夜半から行動しているので、夜襲を仕掛けて撃退されたんじゃないかと言うお話でした。

実際、山あり谷あり川ありの大河平側の地形で、攻撃が何とか可能なのって屋敷側になります。
夜襲=奇襲で城攻めでなく屋敷攻めなら、むしろ450は気づかれるギリギリの人数でしょう。
今城は大河平屋敷近くに築城されているので、「もっと堅固な城を・・・」って島津義弘の命令とも矛盾していません。

従って、『物語り 大河平氏』における伊東勢1000という数字の根拠は不明であるもの、
奇襲ではなく包囲する意図なら、大河平城(屋敷)攻めの兵力450を下回る事はない・・・
という推測が成り立ちます。

つまるところ、シオは敵と味方の動員兵力を検証したいけど、伊東側データがなくて出来ないよーーーー
という状態なわけなんです(´・д・`)トホホ

大元でメインのデータが、大河平氏の家譜(非公開につき未確認)なんだから検証いるの?
って思われるかもですが、全ての史料を一度は疑う、分析するってのがシオ流でして、
さらに記事にしないと脳内整理ができないというオバカなんで、IFバナだだ漏れしてますm(__)m

全て疑う・・・・ですから、今城のような小城攻撃に御大・伊東義祐自ら出陣した・・・って事も実は疑った(爆

人物・伊東義祐橘朝臣幸麿さま提供:伊東義祐イメージ画像

ただ、これを検証しようとなると「当時の伊東義祐が自らの出陣が可能な状況だったか?」
を調べるところから始めなければならない。
ところが、冒頭にあげたように「日向は一次史料が壊滅四散」という状態なんで、検証は不可能。
二次史料においても伊東サイドには今城合戦の詳細記述はないので、
やっぱ参照史料と参照文献の見たまんまを前提とするしかないのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

という結論を出す(諦める)ために、論証不可でも、あえて分析をするわけです。
さて、攻撃側兵力の根拠はデータないので検証無理ポ、って決断したところで、
次は籠城側兵力の分析なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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6_軍忠状_上申文書---古文書学のススメ

参照文献:古文書学入門・佐藤進一著

軍忠状とは、
武士が従軍し戦闘に参加した時、
その状況や・自身&郎党の負傷、戦死などを上申する文書です。

従って、着到状と同じく提出した文書に、証判をもらう事が目的とする。
でもって、恩賞とか領地安堵の申請する時に根拠とするわけです。

一回の戦闘で提出する場合と
複数回の戦闘をまとめて提出する場合とありケースバイケース。
いずれにせよ戦闘日時と軍忠状の提出日時は近接します。

南北朝の争乱で戦がふえてくると、一回ごとに出してられなくなる^^;
戦闘状況の大きな節目ごとに出すようになり、そうなると戦闘日記状態になってきます。

証判をするのは主君ではなく、その戦闘集団の指揮者です。
だから軍忠状は、当時の戦闘組織や命令系統を知る手掛かりになります。

応仁の乱以降になると、
「いつ何の合戦に参加したか」よりも「戦闘結果の報告に重点がおかれる」ようになります。
つまり、
戦闘結果としての分捕(ぶんどり)や味方の損害報告などで、戦果をアピールするのがメインになる。

さて古文書学入門、武家様文書基礎コースは、これにて修了です^-^
後は個々の古文書の様式で必要だと感じたものがあれば紹介します^-^

それでは みなさま ごきげんよう♪ヽ(*´∀`)ノ

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5_着到状_上申文書---古文書学のススメ

着到状(ちゃくとうじょう)とは
地元の御家人・・・つまり国衆が、幕府や上位権力の催促(出陣命令)を受けて応じ、
あるいは自発的に、いち早く馳せ参じた事を記して提出する文書。


上位者に提出するんで古文書学では上申文書のくくりなります。
これはナントカ番などの、常勤では提出しません。
常勤を無事に果たした場合は、勤務完了証明書的な文書が上位者から交付される。

従って着到状は、臨時の大事に際して出すというのが特徴です。

えっと文書提出の流れを細かく書くと __φ(.. ) メモメモ
1_馳せ参じた国衆が着到状を担当部署に提出
2_受付担当者が着到帳に馳せ参じた国衆の姓名を__φ(.. ) カキカキ名簿登載
3_担当者から着到状が上位者へ提出
4_上位者が着到状に確認した証として証判する。書き方⇒「承了 花押」
5_証判した後に着到状が提出者に返却される⇒国衆厳重保管(`・ω・´)キリッ

名簿登載してもらうのも大事ですが、
一番肝心要は着到状に上位者から証判をもらうことです。
後日、恩賞や安堵を請求する時に、間違いなく従軍してた証として主張の根拠となるからです。
証判をするのは、その時、その軍事集団の、軍事統率者(総大将)です。

これまでのように書式を書いてないのは、
南北朝から室町時代に入ると、戦が増えてイチイチ丁寧にやってられなくなって、
一回の報告の中に、いろいろ混ざっちゃうからです^^;

とにかく着到状は、安堵や恩賞につながるので、被官関係の証となる文書の一つなわけです。
・・・てことで、龍造寺家文書の再チェック決定です・・・il||li _| ̄|○ il||l

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4_起請文_上申文書---古文書学のススメ

えっと、まず起請と起請文って別の意味でした。
起請で江戸期まで続いたのが、火起請と湯起請でして、
儀式・・・えっと手を熱湯に突っ込んだり、焼けた火鉢を掴んだりして神意を問うん(有罪無罪の判定)ですね。
で、その時に起請文をかくために、起請も起請文も混同されたようです。

起請文・・・その古代からの成り立ちを書くとなると、ニュアンスの違いを伝える自信がないので、パスで。
起請文とは、後日の証文として、永続的効果を有するものとして作成されます。
別名として罰文、告文、神判、誓紙(誓詞)と呼ばれました。
書出し⇒敬白 起請文事
内 容⇒①「ある事柄に対し偽りない事を宣誓」
      ②「宣誓内容に偽りあれば神仏の罰を蒙るべきこと」
①の部分を起請文前書、②の部分を神文と言います。

②の神文に宣誓を破った時に神罰を与える神様名が記入されるんですが・・・・
時代がくだるにつれて書かれる神様が増えまして・・・( ̄ko ̄)
佐藤先生曰く「戦国時代には(神様の名前が)極めて多い」だそうです^^;
まぁ、それだけ戦国時代は「起請文したのに裏切ったーーー」って多かったんでしょうな ( ゚Д゚)y─┛~~

列記する神様は、梵天・帝釈・四大天王にはじまり「日本国中大小神祇冥道」と包括的表現した後で、
個別の神名を列挙するのが通例。
で神文結びの神様が、御当地鎮守や一宮を書くわけです。

従って起請文の神文を手掛かりに、当時の地方の信仰を知ることができます。
一宮といえば、肥前の一宮争いですが・・・
戦国当時の起請文ですと、総鎮守が川上社で一宮が千栗八幡宮になってるから、一宮と認識されてたのは千栗八幡宮っぽい^^;
でも総鎮守(氏神)と一宮(守護神)の違いって・・・・微妙~~~シオじゃ説明できない!(@@)

話し戻して、起請文が長文ですと前書は通常の料紙を用い、神文部分は牛王宝印と呼ばれた護符(A4サイズくらい)の裏に認めます。
これは戦国時代の永禄年間頃から一般化してます。

列記する神様数が多くなると、牛王宝印を貼り継ぎ貼り継ぎして__φ(.. ) カキカキ
石田三成、増田が連著して豊臣に背かぬと出した起請文では、三枚使ってるそうです^^;
で貼り継ぎ使用の場合は、書出しと書止めを一枚一枚ごとに書いてます。

で、起請文って誠意を強調するために血判する場合ありまして・・( ̄ko ̄)
初見は1338年なんですが、多数出るのは・・・ザ・戦国時代^^;
特にというか当然というか、血判起請文は武士相互間で取り交わされた場合が圧倒的に多い^^;

血判も初めは花押の下にチョンっと血を塗りつける程度だったのが、徐々にヒートアップ。
花押そのものを己の身血を墨代わりにして認めるのが出始める(島津家文書・米良氏の起請文)
ついには花押だけでなく起請文全文を血で書く凄いのもあるそうな(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

もっとも流石に全文を血でかくのは身体に(・A・)イクナイ!!
墨に血を混ぜて書いてたそうですが・・・・・・・・怖いよ~~゜・(つД`q。)・゜・
大げさになればなるほど、、、起請文が守られてない事への反動なわけでして^^;
起請文は、時期や宣誓の内容などで、書いた当時の政治状況が窺える貴重な史料なのでした^-^

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大河平氏_8【今城合戦---1】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m

大河平氏の記事ですが、非常に呻吟懊悩迷いました( ̄ω ̄A;アセアセ
記事全体の出典は『物語り 大河平史』でして、他に『諸県興亡』と『えびの市史』です。
何でメインに他二つかっていうと、どれも元出典の記載がないので、内容に相違がないか確認するから^^;
で、調べて頂いた結果として、この三つの内容に大きな差異はなしでした。
(※細かい部分で違ったところは、後日の記事内で明記します)

そもそも自分が推測したり類推したりできるのは、その出典が一次史料か二次資料なのか、
いわば「史料の身元が明瞭だから」です。
メイン出典と同時代の史料と比較検証できるからこそ書けるわけでして・・・^^;

今城合戦詳細が判るのは、上記三つだけ、三つとも根幹部分で差異がない・・・・
・・・つまり、いつもみたいに比較検証することで精度を上げる事ができない!Σ(´Д`;) はぅ!

元出典が判らないということは、史料を扱う者にとっては目隠しした状態で道路を歩くようなものです。
三次なのか四次なのか、史料なのか資料なのか、それですらなくアレンジ改変創作してるのか、
参照した「モノ」を、どういうスタンスで扱って良いものか・・・(-ω-;)ウーン
参照データの扱い如何によって、書き方は全て変化します(_´Д`)アイーン

元出典不明である以上、取扱い要注意~
いつも以上に慎重に慎重に・・・
自分の主観や推測を混ぜてニュアンスが違って伝わるような事があってはならない。

論文じゃない趣味だから気楽でいいじゃん~
って感じると思います~~~すいません拘りです( ̄ω ̄A;アセアセ
これは誰かに何か言われたからでなく、自分自身が史料を扱う上での姿勢の問題・・・

シオが大河平氏関係者子孫なら、この悩みはいりません。
「他は知らんが、うちに伝わる由緒はコレなの」って魔法?の言葉が使えるから^^;

たぶん、肥前史の研究を始めた事で、少しずつ史料に対する意識が変化してるんです。
以前のシオなら、大河平のフィールドだもん~いいじゃん!
ってガンガン推測だけで記事にしてますた。

でも、元出典不明状態で記事を起こすとなると、スタンスを決めかね・・・(-ω-;)
すごい書きづらくて、やりづらくて、迷ってしまい、年表風にしようかなーーーー、とか、
もう、いっそシオの感想文にしちゃおっか・・・・・はぁ(-ω-;)

んで、何気に「大河平隆次」で検索かけたら・・・
ウィキペディア大河平隆次の参照文献
『えびの市史 上巻』(えびの市郷土史編さん委員会編)
『えびの市史 系図編』(えびの市郷土史編さん委員会編)
『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)


ウイキペディア内の脚注・・・・(今城合戦は) 『本藩人物誌』には5月晦日(30日)とあるが、大河平氏の家譜では5月29日である

(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ!やっぱりあるんだ「大河平氏の家譜」が!
つまり今城合戦の日付を5月29日としている『物語り 大河平史』『諸県興亡』『えびの市史』の、
記載されてない元出典は「大河平氏の家譜」( ゚д゚)!!
監修様が確認できなかったって事は、家譜は一般世間には公開されておらず、
その道の郷土史家とか明確な研究目的以外の閲覧に制限かかってるんだと思います。

てことは一般的な史料編纂の流れとして・・・

一次史料・・・無し(当事者全員討死のため)
二次史料・・・各遺族に伝わった由緒とか口伝とか伝承(推測です)
三次史料・・・二次史料ベースに編纂された大河平氏家譜(ここも推測部分)
四次史料・・・『物語り 大河平史』『諸県興亡』『えびの市史』(二次と三次をベースに編纂)
(※二次、三次と書いたけど、同時進行かもしれません。)
(※各遺族子孫所有の由緒と大河平氏家譜の成立年度が不明のため、ハッキリしないんです)

『物語り 大河平史』『諸県興亡』『えびの市史』、この三つに内容に相違がないってことは、
家譜に対する大きな改変はしてないって事になります。
(ただし表現が違うので、何を読むかで印象は変わるかもです)

家譜という性質上、とうぜん内容は大河平氏寄りスタンス。
他の細かい部分への補足となる二次史料(本藩人物誌など)は監修さまから提供受けてます。

元出典の身元判明~~~よっしゃぁぁぁぁああああああああああああ!
これで書き方とスタンス決まりです!!ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノスッキリ

立ち位置が明瞭になったところで、行きまーーーーーーーーーす(`・ω・´)キリッ
今城合戦・・・それは・またの話 by^-^sio

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IFの杜/家譜か家伝か由緒か伝承?後編

初めに今回の記事は史実ではありません
自分の戦国知識総動員してアレコレ推測を楽しむIF(仮説)世界です^^
想像IFバナですので、この記事からの転載・引用は不可。
歴史に関するIF話が苦手な方はスルー推奨。


今城合戦における討死玉砕で、大河平氏一族嫡流男子と主だった家臣は死に絶えました。
では何故子孫がいるかと言うと、庶流がいたのもありますが、
多大な犠牲と軍功を鑑みた島津氏により、大河平氏の家名存続と旧領安堵が認められたからです。
家督を継いだのが皆越六郎左衛門。
討死した大河平氏当主・隆次の実姉、大河平ナミの夫です。
(←青文字部分は史実^^)
ナミ姫様は皆越家に嫁いでいて大河平から離れてたから、玉砕に巻き込まれずにすんだの^^b

映画や小説ならば、これで大団円のめでたしめでたしで終われるのだが、
現実の歴史は現代まで続くがゆえに大河平の地は複雑なことになる。
そもそも大河平氏自体が肥後は八代から入植したわけで、病死当主でめまぐるしく代替わりしただけでして。
土着から玉砕まで実質の経過期間は20~30年くらいなんです^^;

ですから元から大河平の地にいる民百姓&地元豪族からすれば、
生き残った姫様はともかく、その夫は、完全に赤の他人で余所者です。
主だった家臣が討死してるために、再興・大河平氏のために新当主(大河平ナミの夫)は家臣を引き連れて入ります。

主だった家臣討死といっても遺族はいるから、討死家臣それぞれの家だって残ってたでしょう。
だから「元から大河平に土着していた氏族」「八代から入植時に土着した大河平氏家臣」「再興・大河平氏家臣」
と三つの派閥が出来た事になる。
もちろん主導権は、再興・大河平氏当主家臣になる(主家である島津氏が認めた再興当主が召し連れた家臣ですから)
狭い地域なだけに逆に一つにまとめるのは容易じゃない・・・
だって耕作地が少ないもの・・・知行配分で不満が出ないようにするって凄い大変だったはず。

再び念のため、この記事は全部シオの想像ですよおおおおおおぉーo(* ̄○ ̄)ゝーーーっ!

で、自分は再興・大河平氏は大きく二段階を踏んでると思う。
再興初期段階⇒生き残ったナミ姫様を精神的支柱にして新旧家臣団をまとめる

つまり、武家として主家に仕える奉公の部分は、夫で新当主が受け持つ。
でもって、血族&氏族としての側面は、大河平ナミが総領となる分業制です。

ちなみに後を継ぐべき男子が欠員した為に、女性が総領になるのは戦国アルアルでした。
例として、某ヒストリアでも紹介されて知名度あがった井伊直虎や立花誾千代。
世間の知名度はないと思うがマニアの間で有名な島津亀寿などです。
シオ個人としては、これに肥前千葉氏の姫様・尼日光明胤も入れたいが、史料が見つからず仮説段階(´・*・`)

ワンピースじゃないナミは、姫様といっても大名の深窓の姫君って訳じゃないから、
新旧家臣どころか下手すりゃ領地百姓だってナミ姫様の顔を見知ってたっぽい。
伝承のナミ様も人柄を領民に慕われていたそうな^^

問題はナミの死後・・・・嫡流の血を引く大河平一族の人間がいなくなった後です。
再興第二段階⇒家譜か家伝か由緒の編纂をする
江戸期は家譜ブームだったので、ナミ生前から編纂は始まってたかもしれません。
元出典不明ですので確認しようがないから、想像するしかないけど^^;

墓石の墓碑名と菩提寺過去帳とを照合して系図作成。
家臣に伝わる由緒・伝承を掻き集めて、家譜として編纂する。
家臣にしてみれば主家への貢献度を報告するわけだから真剣にならざるを得ない。

戦功書を繰り返し提出させることで「御家意識を植え付ける」という手法は、
佐賀鍋島家で実際にやってたことです。
とまぁ、我ながらIFバナに力入りすぎ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

狭い土地での玉砕で130人が討死するというのは、人的損耗から立ち直るだけでも大変だったはずです。
単に人が入れば良いというものじゃないので、記録に出ない感情的なドロドロがあっても不思議ではありません。
そういう風にアレコレと思いを巡らせると、何ていうか、どうしても感情移入しちゃう^^;

とはいえ、感情移入しすぎると文章に無理が出てヘンテコ紹介になるから出来ないし^^;
まぁ、ちょっと?だけマニアな萌えを発散させてもらいました。(*´pq`)クスッ
次回こそは今城合戦を紹介します~~それは・またの話 by^-^sio

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IFの杜/家譜か家伝か由緒か伝承?前編

初めに今回の記事は史実ではありません。
自分の戦国知識総動員してアレコレ推測を楽しむIF(仮説)世界です^^
想像IFバナですので、この記事からの転載・引用は不可
歴史に関するIF話が苦手な方はスルー推奨。

元出典の記載がない大河平氏に関する郷土史の書物「物語り 大河平氏」と「諸県興亡」。
いくらなんでも全くゼロから創作ではないと思う。(アレンジはしてるだろうけど)
というのは現地には、大河平氏子孫が平成現代もお住まいだからです。
(と、なると家臣団子孫も現地在住してる可能性も高い)
だから執筆前段階の取材で何がしかを参照してると想像してた^^

なぜなら、大河平氏に関しては「えびの市史」と「物語り 大河平氏」と「諸県興亡」の内容がほぼ一緒だから。
市史は現段階における通説になるもので、小説じゃない。
従って想像で書くことはない。記載してなくても何がしかの元出典は必ずあります。

で、自分の想像なんですが、元出典を記載しない理由で有り得そうなのって言うと、ズバリ「個人所蔵」
更に想像する元出典所有者が「自分が持ってるって情報公開する許可が出てない」
というのが元出典記載がない理由として、一番妥当な仮説じゃないかな~って^^
特に昨今は個人情報取扱には厳しいので猶更かな~って(´・д・`)

で、ここから更に元出典をIF妄想してみる ムフフなタイム(人´∀`).☆.。.:*・
資料提供して下さる監修様が「一次史料で今城合戦の詳細を見かけたことない」と言われてました。
自分も「探しても出ない、と想像」してた。

ウィキペディアで大河平隆次(今城合戦時の当主)を検索すると判るけど、今城合戦は城側が討死玉砕してるんです。
「当事者全員死亡」で、一次史料があったら執筆者は幽霊です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
ですから、必然的に残る資料は全て二次資料であり、
二次資料を元にした(と想像)だろう「えびの市史」と「物語り 大河平氏」と「諸県興亡」は三次資料か四次資料になります。
それを紹介するシオは五次か六次資料(って言い方になるか?)なのね^^/

二次資料であっても、一次史料に準ずるほと精度が高いのは「当事者から見聞きした話」です^-^
どこの城にも兵士だけでなく、下働きの者たちが必ずいます。
武家じゃないから玉砕メンバーにはカウントされないし、参加もしないで逃げます。
籠城側が「もぅダメぽ・玉砕しかないのねー」となった時、彼ら下働きの者を逃がすだけでなく、
数日後には遺族となるであろう妻子に、形見の品や経緯を書いた手紙などを託します。

玉砕した城なのに、当時のやりとりが残っているのは、そういう裏事情が往々にしてあるからです。
ところが、やっぱり討死した御本人直の口伝とかじゃないから、江戸期に子孫による美化補正が絶対ある^^;
美化補正の例として
九州における玉砕した合戦で最も有名な「岩屋城合戦(島津VS大友家臣・高橋紹運)」。
やはり大河平氏の今城合戦のように、降伏勧告あって城側拒否の戦国ファンの心躍る名場面があるのですが、
実は・・・・その遣り取りが記録されてるのは、籠城側の江戸期編纂二次資料のみでして、
島津側の超ハイスペック高精度・一次史料「上井覚兼日記」にないんですよ・・・il||li _| ̄|○ il||lロマンガ壊レタ音ガスル

だから自分で自分の夢を壊してるけど、今城での「降伏勧告⇒カッコ良く拒否」
何がしかの子孫補正がかかってる可能性は否定できない。
いずれにせよ当事者が全員討死している以上、史実が詳らかになる日は無いわけで、
江戸初期~江戸中期に編纂されたであろう、家譜か家伝か由緒か伝承だけが頼りなのだ。

本文よりIF(想像仮説)の方が長くなるのは、シオのクセなんだが、それは・またの話 by^-^sio


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3_請文(うけぶみ)で注進状で請取状_上申文書---古文書学のススメ

例によって順を追って「請文」から 参照文献:古文書学入門・佐藤進一著__φ(.. ) メモメモ

請文とは
「ある事実を確実に履行したこと」或いは「将来確実に履行すべきことを相手方に伝える」文書です。

つまり「過去の行為に対する報告書」であり
「将来における行為の予約承諾書」になります。
・・・って、著書の説明だと判り辛いな~~~(-ω-;)ウーン

実際、古文書の方も判り辛いんです ( ̄ko ̄)
「請」って文字は、申請とか請求って言葉にあるように、相手へ何かを要求する意味を持ってるじゃないですか。

だから「請文」にも3パターンの異なる種類の文書があったんです。
パターン1・申請や請求など(-人-)☆彡オネガイする件
パターン2・受諾や約諾した「請(受)けた」報告の方
パターン3・物品(貢租など)の受領としての請文

特にパターン1&2に関しては、佐藤先生ですら「一見判断しがたい文書がある(但し平安時代)」そうです(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
時代が下ると「下達文書(命令書)の受領報告書の形を取りながら、陳状する(自分の言い分を添える)」
という複合パターンも出始めます~~(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

このまんまだったなら後世のシオが挫折確実だったんですが、
鎌倉時代に入って武家様文書に導入された「請文」は「下達文書受領報告書」という側面が取り入れられたんです。
要するに武家様文書における請文とは命令に対する復命書です(`・ω・´)キリッ

請文に類似した文書として注進(ちゅうしん)状があります。
請文が命令に対する報告書であれば、
注進状は命令を待たないで行う報告書です。

佐藤先生は著作で「両者の相違は、まだハッキリと判らない」とされていますが、
戦国時代になると軍事的な報告が注進状の多数を占めます。
命令を待たず自発的にする軍事的報告・・・即ち「敵がキタァ━━━━ヽ(´△` ;)ノ━━━━ッ★」って事^^/

パターン3の物品受領としての請文は、受領証としての様式が出来て、「請取状」と呼ばれるようになります。

復命書としての請文は、請申って文言が入っていれば一目瞭然なんですが、
文言入ってない請文も多数あり(涙目)内容で判断するより仕方ないみたいil||li _| ̄|○ il||l
次回は戦国時代で大活躍?「起請文」なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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必殺・紛失状封じ?当知行で安堵もらっちゃえ!

紛失状の記事で補足するの忘れた~
(だって佐藤先生の説明になかった・・・(._+ )☆\(-.-メ)言い訳シナイ!)

紛失状で守護職から証判もらって権利関係を無事に相続する・・・これが正しい姿。
(守護職の証判が出るのは室町時代から)

が、いつの時代にも裏ワザがあるのです・・・・( ̄ko ̄)<

それは「当知行」を安堵してもらうです

ウィキペディアより
当知行(とうちぎょう)とは、実際の権利の証明の有無を問わず、
不動産などの物権や職に伴う得分の権利を現実的に占有・行使可能な状態にあること
(逆は不知行)

公家法では、あくまでも文書上の所有者の権利が優先でした。
が武家法である「御成敗式目」では20年の占有状態が続けば、
本来の所有者でなく現在の所有(or占有)者の権利が認められました。
つまり書類上の権利より実情を優先したわけで、いかにも武家っぽい^^;

室町時代に入ると20年なんて期限は無視で「当知行(占有状態)」での安堵が優先します。

従って

「権利が脅かされた本来の所有者」は、
一刻も早く紛失状を提出して守護職から紛失証判をもらう。
(途中からは守護職自らではなく、該当&現地職制者の証判)
(だって、守護職は任地に常駐してないもん~)

「今現在の占有者」は、
本来の所有者が紛失状を提出する前に現状の占有状態「当知行」で安堵をもらう。

この綱引きというか、駆け引きというか、ぶっちゃけ早い者勝ちです^^;
自分が研究している肥前史ですと、室町期・肥前千葉氏が肥前において勢力を広げる過程において、
「当知行」で安堵して被官(配下の国衆)を増やしてます。

※肥前千葉氏についての参照文献
(中世後期における国人領主と地方寺社ー肥前千葉氏と「公権」の構造ー宮島敬一)

地方の国衆が安堵された土地・・・その多くは公卿などの荘園なわけで、
「当知行」による安堵は、室町期から戦国期にかけての荘園制度の崩壊につながっていきます。

てことで古文書学入門書だけに頼ってはなりません(`・ω・´)キリッ

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2_紛失状_上申文書---古文書学のススメ

紛失状が出るのは平安時代からです。
内容の殆どが土地財産に関する事なので、荘園制が発達した平安時代から現れ始めると言う訳です^^

元々は、地震雷火事盗難~など(不可抗力で)文書を失くしちゃった・゜・(PД`q。)・゜・ヒーン
という場合に作成される紛失状ですが、特殊な事情で作成される場合もあります。

特殊な事情・・・
つまり「特定の人物」のために、土地所有者の意志に反して文書(土地財産の権利書)を奪われたなどの場合です。

そういう場合は
(奪われた)文書は存在するが、その法的効力を否認するために新しく文書を作成します。

不可抗力であれ、特殊事情であれ、権利関係の大事な大事な文書に関わることです。
従って、紛失状は単に失くした事を報告する「だけ」では意味がないわけで、
権利関係を承認する上位者からの新たな承認が伴います。
上位者へ提出するために、紛失状も上申文書のくくりに入るわけです。


紛失状の内容としては、
旧文書紛失の事由を記して、新文書に旧文書と同じ法的効力を付与することの確認を、
え~それぞれ該当する上位者に請願(-人-)☆彡オネガイするという形をとります。

紛失状は上位者の元へ提出され、
上位者は「確認文言」を記入した後に紛失状を提出者へ返します。
紛失状に記入された上位者の確認文言の事を、紛失証判と呼びます。
ということで、紛失証判を見れば、申請者が土地の権利関係を誰(個人もしくは権力)から安堵されていたかが判ります^-^

で、専門外はスッ飛ばして、紛失状に守護職の紛失証判が出るようになるのは、南北朝時代からです。
これは室町時代に入ってから守護職の権限が強化されたからです。
(ウィキペディア守護領国制参照)

紛失状に必要記載項目は・・・φ(.. ) カキカキ
・紛失(火災・盗難・押取等)の事実
・以後その文書と称するものが出現しても(後から見つけた本物であっても)全く無効であること
この二点を明記するのが必須でした。土地の権利関係だから一本化しないとネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

上位者の確認・・・紛失証判の書き方・・・φ(.. ) サラサラカキカキ
今度紛失状其理明白也、依在地加判之
                  姓   判
(紛失状の年月日の後に記載されます)


紛失状も初めは「解・げ」の文書形式でした。
(書出し「姓某謹解申請」・・・書止め「以解」の形。)
時代が下り解・げ文書形式が廃れると共に、紛失状のと書出しも「立申紛失状事」という形に変化します。

次は請取状なんだけど・・・これから読むので間あきます~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ それはまたの話ぃ~~汗
※参照文献「古文書学入門」佐藤進一著

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1_訴陳状(後編)_上申文書---古文書学のススメ

上申文書---古文書学における分類で、下位者(or家臣)から上位者(or上司)へ提出する文書形式
申状---鎌倉時代以降における上申文書全般の呼称
訴陳状---申状の中における訴訟関係文書の呼称

訴陳状の訴は、訴状(原告側)の訴~
書出し---何某謹言上とか、何某謹訴申とか、何某謹申とかなのね~
書止め---言上如件とか、申上如件とか、訴申如件とかなのよ~

訴陳状の陳は、陳状(被告側)の陳~
書出し---何某謹陳申とか、何某謹弁申とか、何某支言上とかなのね~
書止め---陳申如件とか、弁申如件とか、支言上如件とかなのよ~

えっと、鎌倉時代は現代で言うところの一審、二審といった法廷用語がキッチリありまして、
判決に不服なら再審請求も出来たそうです。
シオは鎌倉時代は専門外なので、これらの専門用語の解説はパスさせてね~~(人´∀`)

で、訴陳状の用紙は通例として竪紙を使用します。
(※竪紙---A4サイズくらいの和紙を横長にして使用する)
ところが折紙を使う時もあるそうなんです( ゚д゚)ンマッ!!
(※折紙---竪紙を半分にして使う簡略な様式)

ただ折って使うだけなら構わないんですが、文例では折紙だと日付の記入しないんです (゚ロ゚屮)屮?ぇえぇ?
裁判記録で日付ないって、おかしくね?ヽ(。_゜)ノ ?
てことで折紙の訴陳状の効力や性質に関しては、「古文書学入門でも解らない」って、書いてます。

さて、訴訟で和解したら和与(わよ)状が取り交わされます。
原告、被告、双方の和解条件を記し、それに基づき和解する旨を記した和与状を作成します。
これは原告と被告が、各々で作成したのを相互に交換するパターンと、
初めから同じものを二通作成して、二通ともに原告と被告が連著して各一通づつ保管するパターンとがあります。

ちなみに和与状は、戦における和睦時にも、条件批准合意の証として作成されます。
もし貴方が一次史料または二次資料を見た時に、戦の前後で和与って言葉を見かけたら、
「あぁ、条件折り合い付けて和睦したんだなーー(*´ー`)」と思ってくださいな♪

訴訟関係を超駆け足で説明しちゃってすいません^^;
これ以上、詳しく書いたら自分が鎌倉時代から戻れなくなるんで御容赦~^^;

さて次は、権利関係の大事な文書を失くしちゃった・゜・(PД`q。)・゜・ヒーン
という場合なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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1_訴陳状(前編)_上申文書---古文書学のススメ

上申文書の中で多数を占めるのが( ̄ko ̄)<訴訟関係

てことで参照文献である「古文書学入門」でも重厚に字数を割いて説明されております(涙目

訴訟関連の文書形式で原型にあたるのが、「公家様文書の様式である《解・げ》」でした。
つまり下位者から上位者へと提出するための文書様式だったわけです。
平安時代に入ると《解・げ》という呼称から《解状・げじょうor解文・げぶみ》と変化します。
書式の決め事は
・書出し⇒「何某(差出者)解 申何々事」
・書止め⇒「以解」または「以謹」

解状は「申状・もうしじょう、または申文・もうしぶみ(事柄を申し上げる文書という意味)」と呼ばれていました。
鎌倉時代になると解状・解文という呼称は使われなくなり、申文と言う呼称も使用が限定された場合のみになり、
一般には申状という呼称が残ります。
・書出し⇒「何某(差出者)申何々事」←「解」という言葉が抜ける
・書止め⇒「仍申状如件」

さて、ここまでは単純に「家臣・下位者から上司・支配者へ提出する文書全般の話」です。
黒太文字と赤太文字と青太文字部分以外は、(シオも)忘れてよろしい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
ここから先が本題である訴訟関係の文書形式。
上記、申状の中に、記事表題である「訴陳状」と呼ばれた訴訟関係の文書があったんです。
・訴状
原告(訴人)が、朝廷、幕府、本所などの裁判所に提出する申状のこと
・陳状
被告が提出する弁駁(べんばく=反論)する申状のこと

で、訴状+陳状=訴陳状なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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上申文書---古文書学のススメ

お久しぶりの書庫更新~おべんきょー再開なのね^^

さて、直球で行くと「申し上げる(ための)文書」^^

個人が、政府orその所属官司(←上司)or時の支配者---などに提出する文書の総称です。

例えば
・官位のおねだり請願書
・訴訟文書
・命令に対する報告書
・物品の請取書
・武家が主人の元に馳せ参じた事を証明するための着到状
・武家が戦闘に参加した事を証明してもらうための軍忠状

ちなみに請取と書いているのは書き間違いじゃなくて、
中世以後にみられる古文書に「請取状」ってのがガチである。

意味するところは現代における「受取」と一緒で、まぁ昔はこの漢字を使ってたって事らしいが、
専門(古文書)的な深いところまでは自分が理解不能なのと、本筋(参照文献)から離れるのでパス

この書庫の参照文献---「古文書学入門」佐藤進一著
久しぶりなんで、この文献についても簡単に^^

佐藤進一先生は歴史家で専門は日本中世史。
ウィキペディアによると
「法政大学の通信教育用テキストが話題を呼び、『古文書学入門』として出版された」そうです。

この入門書は、古文書学におけるバイブルといっても良い位置にあります。
シオは勉強しはじめたばっかりで知らないんですが、細かい個々の内容になると、
佐藤先生の出版時(1971年初版)より古文書学研究は進んでいるらしいんです。

一例ですが、前回紹介した「判物(はんもつ)」は、佐藤先生の著作で詳細までは触れていません。
(判物という言葉自体は当然出てます^^/)

ただ古文書学というものを理解する・・・
という大枠の部分では、この書物がベースになるってくらい様々網羅されてます。

様々網羅の様々
---武家文書だけでなく公式(朝廷)文書、公家文書、上申文書、証文類など全て。
様々網羅の網羅
---時代も平安時代から戦国時代にかけての、文書の成立から変遷に至るまで全て。

ぶっちゃけ本音で言うと「全部なんて覚えられんわい!! !(# ゚Д゚)・;'.」です。
武家の鎌倉時代だけでも四苦八苦なのに、公家の平安時代なんてもっと無理~~~・゜・(PД`q。)・゜・ヒーン
ということで、この書庫では(管理人の脳みそが限界なため)必要最低限である「武家様文書」と「上申文書」のみ扱います。

んで(一応)武家様文書は終わりまして、今回から上申文書に入るんですが、
ザックリした説明だけで、一記事の分量になってしまいましたわ~~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

目下のシオは
「ヤバい!某龍造寺家文書のアレやコレを、古文書字的に理解してなかった気がする」
「ヤベーー論文の内容&書き方を、また改訂しないとダメっぽいかも」
という予感がヒシヒシしてならないのだが、それは・またの話 by^-^滝汗なsio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大河平氏_7【出典の話、略してデバナ?】

いまさらなんだけど(手抜きして書いてなかった)大河平氏に関する出典の話

前回大河平氏_6で紹介した「伊東義祐の降伏勧告のセリフ」と、それに対する「隆次の拒否回答」。
この部分だけが『諸県興亡』から。
書庫全体の出典は「物語り 大河平氏」です。

伊東勢VS今城の大河平氏・・・通称・今城合戦に関する記述で、上記二冊に内容に大きな相違はありません。
ただ書き方が今風か昔風かの違いがあるので、ニュアンスも読む人によって受け取り方は違うかもです。

ただ前回の文体から判るように「諸県興亡」のセリフの方が戦国ムード満点なので、記事にするにあたって、
双方の遣り取り部分のみは、「諸県興亡」から引用しました。

これは必ずしも確定した事実ではないのですが、
今城合戦に関しては「えびの市史」「諸県興亡」「物語り 大河平氏」、この三つの元出典は同じじゃなかな~。
ただし、あくまでも未確認です。
と、いうのは上記三つとも、大元の出典が何になるのか記載されてなかったからです^^;

では何故に同じっぽいっす~という印象を受けたか・・というと、
監修様曰く「これまで一次史料で今城合戦の詳細を見かけた事がないから」です。

大河平氏は島津家臣なので「本藩人物志」に登場するんですが、あんまり詳しくないそうです。
なにせ家老でもないし、譜代でもない、小領主ですから^^;

大河平氏の主君・北原兼親の飯野城は、島津義弘が入った事で戦国オタには知られています。
島津義弘が飯野城に入ったのは、今城合戦のあと。
北原兼親の言上を受け入れた義弘は、島津勢を今城から撤収してたので、今城合戦に島津勢は直接関わっていません。
だから決して軽んじてるわけじゃないけど、島津にとっては「直接の関わりないので詳しくない」わけです。

「北原兼親の言上で義弘が今城から撤兵した」という事が、本藩人物志に記載されていたのは(監修様に)確認済みですが、
言上の中身は書いておらず、経緯の詳細は「えびの市史」「諸県興亡」「物語り 大河平氏」に頼るしかないわけです。

まぁ、限られた地域の郷土史というのは、そういうものなのかもしれません。
出典を整理したところで、いよいよ今城合戦なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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