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相良義陽_26【後篇・裏切りの波紋】

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はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。
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≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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えっと・・・ぼちぼちと再開しますφ(.. ) カキカキ
内容的には大河平氏編と被りますが、ブランクあるんで(自分の)おさらいがてら行きま~す♪ヽ(*´∀`)ノ

相良氏と島津氏は、祖父母の代から友好関係でした。
ぶっちゃけ内紛だらけの島津は相良と争ってる余力なんて無かったんです。

伊東氏の真幸院・北原氏家督乗っ取りに対抗し、島津が担ぎ出したのが北原兼親なのは大河平氏編で説明した通りです。
北原兼親は相良家へ亡命してたので、島津から相良へと打診があり、北原支援のための盟約を交わします。
それが永禄5年(1562年)6月21日のことでした。


で、その盟約の証として、相良家の亀徳姫と島津義弘が婚姻した・・・・
したんだが、実は亀徳姫様が島津義弘に嫁いだ時期がハッキリしてないんです。

島津氏と相良氏の友好関係は、相良義陽の裏切りにより破綻したために、亀徳姫は離縁されて出戻ってます。
でもって、その出戻った時期も不明なんです^^;

何というか、江戸期小藩になった相良にとっては、亀徳姫の事は裏切りの顛末と共に黒歴史になったようで、記録が凄い少ないんです( ̄ω ̄A;アセアセ
婚姻期間はMAXの推定で、盟約を交わした1562年から1568年の間。

1568年までという根拠は、島津義弘が熱愛し下級武家の出ながら継室に迎えた宰相殿が1569年に男子を産んでるからです。
ただ1568年は8月に相良と伊東が、義弘不在の飯野城挟撃作戦しようとしてるくらいなんで、
亀徳姫と義弘の夫婦関係も既に破綻してた可能性が高いです。

あ、書き忘れ~~亀徳姫は相良義陽の異母妹です^^/
相良義陽が、自分の身内や子女を使った政略結婚したのは、後にも先にも亀徳姫一人です。
相良義陽の裏切りは、大河平一族のみならず、島津義弘に嫁いだ亀徳姫も巻き込んだ訳です。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

人物・相良義陽 橘朝臣幸麿さま作・相良義陽イメージ画像

義陽が島津を裏切った理由は史料には記録されておらず、真相は不明です。
過去記事ストックではアレコレと推測してるんですが、我ながらグダグダになってるんで書くの止めた(´・д・`)

義陽が裏切りの軍事行動したのは1563年、日向記だと4月14日、八代日記だと5月14日
大河平編で紹介したように、この時点では島津は相良を引き留めようとしてたました。
そのために島津では真幸院のうち、飯野地方を相良に割譲しようとしてます。

ところが義陽が島津へ派遣した使者・東出羽守が、義陽の意向とは違う勝手な発言をして、島津側を激怒させてしまい、
友好関係は完全破綻します。


相良側では追手を放ってトンずらした東出羽守を成敗しているので、
義陽としても島津と完全に手切れになるのは本意じゃなかったのかもしれません。
異母妹の亀徳姫が島津義弘に嫁いでましたからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

使者が勝手な発言しちゃうところを見ると、相良家では外交方針が一本化されてなかったみたいです。
史料的に裏付けとなるバッチリと書いたものがイマイチ不足・・・行間を読み取る作業になるので解釈が難しいっす(-ω-;)ウーン

これは相良家の内部が複雑な二元統治だったことと関連するかもしれません。
相良領のうち、八代は純然たる家臣ではなく国人の連合体でした。
それで相良家の当主は、球磨と八代を往来し二元統治してました。

でもって人吉相良は元々は分家でして、宗家は多良木相良氏だったんです。
南北朝の争乱で、宗家と分家の逆転現象が起きて、後に人吉相良によって多良木相良は滅ぼされます。
多良木衆は相良家臣として吸収されるわけですが、元々は多良木の方が上という感覚が残ってるのか、
人吉と武功を張り合う気概・気風があった・・・・っぽいです( ̄ω ̄A;アセアセ

でもって相良氏全体ですと、島津をヤッチまお~ぜ!って武闘派な主戦派と、現状維持の穏健派がいた・・・ぽい^^;
このあたり、史料的な典拠を出すのが難しい~~~~~~~だって空気だもん!!

さらに言うと、義陽には同年同月同日生まれという異母弟がいたんです。
しかも義陽も異母弟(亀徳姫の同腹兄)も生母は家来筋。
そのため、義陽が正式に嫡男認定されたのは、誕生から数年後の1548年に奉行衆の決定という手順を踏んでます。
義陽の父・晴広も養子だったので、相良当主としては血統が弱い部分を補完するために、
義陽は義理伯母にあたる千代菊を正室にしてます。

1564年で相良義陽は数えで25歳。
当主として若すぎるということはないのですが、上記諸事情が積み重なった事で、義陽が家臣たちをまとめるのは容易ではない状況だったと、推測してました。

この1564年に相良義陽は、阿蘇氏家老の甲斐宗運と接触しはじめるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
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研究_与賀龍造寺_1・与賀城

★位置データ---佐賀県佐賀市赤松町2−4(現:龍泰寺)

★遺構-----標高2~4mの低平地に溝で囲まれた浮島の集合体のような島状地の曲輪で構成されている
(引用:大坪芳典 2011 「戦国大名龍造寺隆信の居城「佐賀龍造寺城」の解明に向けて」『肥前史談叢』 肥前史談叢の会) 
★築城年---文安5年(1448年)

★築城主---龍造寺家氏

★一次史料---なし。データは全て江戸期編纂による二次史料出典。

佐賀市史(520頁)によると、
(龍造寺家氏が)居城の西郷与賀荘の地に与賀城(赤松町・龍泰寺)を築いて少弐教頼を置いた
とある。
この部分に関し直近には出典元の付記がないが、
段落を変えた次の文節に出典「九州治乱記」「歴代鎮西要略」とある。

●歴代鎮西要略---入手不可のため未確認(古書業界では幻状態(´;ω;`)ウッ)

●北肥戦誌(九州治乱記)巻之七(135頁~136頁)
 其頃当国佐賀郡小津郷に龍造寺隠岐守家氏といふ士あり。
 先祖累代少弐恩顧の者なりしかば、教頼、彼等が許へ入り来たり。
 一向に頼まれける間、家氏仔細なく領掌して、
 頓(とみに)我が館の西与賀の庄に要害の地を選び、新城を築き教頼を移し居けり。


●歴代鎮西志---文安五年(1448年)(653頁)
 少弐教頼 肥之与賀に城を築く。
 龍造寺右衛門大輔忠俊、之を迎え接す。
 (※原文はホントに、この二行だけ^^;)
 



歴代鎮西志では、少弐教頼が与賀城を築城したと記述しており、
北肥戦誌との記述と矛盾する。
(与賀神社にある摂社・少弐神社由来では、与賀城築城に関して少弐教頼築城説を採択している。)

ただし教頼を迎えた人物において、北肥戦誌と歴代鎮西志とでは相違がある。

北肥戦誌===龍造寺隠岐守家氏------------13代目当主(没年不明)
歴代鎮西志==龍造寺右衛門大輔忠俊(康家)--14代目当主(没年1510年)

少弐教頼の没年は応仁2年(1468年)
各年号から類推すると、教頼に接した龍造寺当主は家氏の方が妥当。
従って、記述に矛盾のない北肥戦誌の方を採択。

★城主変遷---少弐教頼⇒少弐政資⇒龍造寺胤家(康家長男)
 城主と城主の間のブランクが長い。
 城主不住の間の与賀城が、どういう状況だったのかは不明。

永正5年(1508年)、与賀城に入って以降、
龍造寺胤家(及び係累)を「与賀龍造寺と称す」

(参照文献:與賀龍造寺記録)

龍造寺に三氏あり。
宗家であり家和系統の村中龍造寺
剛忠(家兼)を祖とする水ヶ江龍造寺
胤家を祖とする与賀龍造寺



現在、研究が進んだのはここまで~~道産子ハンデで丸三年もかかっちゃった^^;
リサーチに目途がついた都度、記録として更新します~φ(.. ) カキカキ

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鍋島氏出自の事

===宇多源氏説===
出典---『鍋島系図・経秀の条』---未確認
出典---『北肥戦誌・永徳年間(1381~84)』---未確認

※年代的に専門外のため、今後においてもリサーチはしない事とする

===藤原姓少弐氏説===
出典---『歴代鎮西志・上巻652頁(文安2年)」
原文---該当部分読み下し
司馬卿(少弐)教頼 対馬より帰る。
或いは松浦に如き或いは小城に如き旧好の者に其の?て、本懐を達せんと相に議たる。
是に於いて鍋島道樹の家に居偶す。
道樹、其の女(道樹の娘)を妾と為すと。
道樹は肥州鍋島の邑(或いは本庄)に於いて宇らり。

鍋島道樹=鍋島経直(つねなお)
大内に敗れて肥前に亡命してきた少弐教頼に、己の娘を妾として差し出した。
教頼と鍋島経直娘との間に生まれたのが鍋島経房(つねふさ・鍋島直茂の曽祖父)とするのが藤原姓少弐説。

考察
歴代鎮西志には、娘を妾に差し出したとこまでで、子供の事には触れていないので、
この他にも藤原姓少弐説の典拠となった史料があると推測される。
また、歴代鎮西志編纂者が何を典拠に記述したのかも不明。
上記の鍋島系図か?|壁|・ ̄)じぃー
また、北肥戦誌には藤原姓少弐説に由来するような記述はなし。

宇多源氏説・藤原姓少弐説の双方に共通しているのは、一次史料がないこと。
従って、明確に論証もできない代わりに、完全に否定することも出来ない。

野口朋隆「先祖の戦功を巡る「御家」内の動向について」によると、
5代目藩主・鍋島宗茂公の頃になると「先祖は藤原姓少弐氏」説が、佐賀藩内でも疑問視されてた。とある。
引き続き同論文によると、
九州治乱記(北肥戦誌)は「葉隠」とリンクさせて記述することによって、
鍋島氏が少弐氏を引き継ぐ存在であるとする主張が潜んでいる。とも論じている。

歴代鎮西志の正確な成立年度は不明で、ザックリ江戸中期。
論文の説に従って類推すると、鍋島氏の出自・藤原姓少弐説が・・・ゴニョゴニョ
藩内で眉唾疑惑な空気を読んで、娘を妾として出したとこまでしか記述しなかった・・・というところか?
他史料との比較検証をしていないので、類推の検証不可。

鍋島氏の出自に関しては、今後も研究テーマにはしない。
だって論証も何も結論の出しようがない無限ループだから^^;
ただ少弐教頼が、ギリ戦国初期の人物の為、肥前に関わる参考データとして一応記録する。

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戦国お中元御礼~龍造寺家文書_110_大友義鑑書状

緑文字---原文
※読み下し(てるつもり)
★超意訳または補足


書音、
※しょいん
★みたまんまです~意味としては、消息or手紙


殊太刀一腰金覆輪 織物一端 茶碗済々給候、喜悦候、
※殊(こと)さら太刀一腰(金覆輪)織物一反(赤地)茶碗済々(さいさい)給わり候 喜悦(きえつ)候(そうろう)
★とくに、太刀一本(金覆輪)織物(赤地)茶碗 とかとかたくさん貰っちゃって 超嬉しい!

【金覆輪】---きん ぷくりん~刀や鞍(くら)などの縁飾りの覆輪に,金または金色の金属を用いたもの


自是一振、表賀礼候之趣、猶入田丹後守可申候、恐々謹言
※是(これ)自(よ)り一振、表賀礼候の趣、なお入田丹後守へ申し可(べ)く候、恐々謹言
★この中の(太刀を)一振、表賀礼にいいかな~って、んと、入田丹後守に話しておくから!恐々謹言なぅ~

【表賀】---ひょうが、臣下から天子に文書を奉って祝いを申し上げること

七月廿六日    (大友)義鑑(花押)

龍造寺民部大輔 殿

※龍造寺胤久宛です
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戦国お中元です(`・ω・´)キリッ
現在は新暦でしが、旧暦は7月15日に中元プレゼンツ~
この書状は、龍造寺から大友への中元に対する礼状です^-^

・・・と思う、、、他の目的で進物したとしても時期的に御中元に絡めるんじゃなかろーか( ̄ω ̄A;アセアセ


くどいようですが、書状は今で言うなら普通の手紙なので日付は書くけど年号は記載しないのね。
だから正確な年代は不明です。
でも1536年7月9日以降~1549年(1550年2月12日が義鑑没年月日)の間・・・と思う。

龍造寺家文書_107_大友義鑑判物で龍造寺胤久が1536年7月9日に領地安堵を受けているので、
流れとしては御礼と中元を兼ねて進物を贈ったんじゃないかな~~という推測。

没年月日だけは鉄板だから、1550年以降ってことはないけど。
まぁ、お中元した年号に関しては、他史料との比較が必要ですので、まだ断定できないですね^^

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レジェンドオブ大河平(おこびら)__基礎資料(年表編・下)

●永禄3年(1560年 :閏3月)
・3月19日、島津義弘、島津忠親の養子として飫肥に入る。
・6月、足利義輝より島津貴久へ伊東と和融すべしとの内書。
・7月3日、菱刈家より、12屋敷との交換で水俣城を返還される。
・9月4日、日向の兵乱を鎮めるべく、幕府より伊勢貞孝が来訪。
      伊東方は偽の御教書を提示し、飫肥領有を正統化せんと図る(島津の史料では6月2日とも)。
・11月28日、相良義陽、千代菊と婚儀。

●永禄4年(1561年)
・7月頃、大友義鎮が出家し、瑞峰宗麟と号す。
・10月24日:伊東勢(平良兼賢ら)、長善寺の北原勢を攻撃。
・この年、伊東義益が家督継承。

●永禄5年(1562年)
・1月22日、北原兼孝、伊東義祐に殺される
・2月13日、大河平越前守隆屋、卒去(法名「源宅宗潤居士」)。享年73。
・この頃、島津義弘が鹿児島へ戻される(戻ったのは2月との記述)。
・大河平城を、伊東義祐の叔父の伊東杢右衛門が攻撃。隆利守り抜く
・大河平隆利、伊東の攻撃を防いだ軍功により、島津義弘より2000石の加増を受ける。
5月10日、相良勢が北原再興の為に真幸院へ派兵
・5月12日、相良勢が帰城。島津勢も6月3日に討ち入り
・5月18日に、交渉により飫肥が完全に伊東家の領有に帰すも、4ヶ月後に奪い返される。
6月21日、白鳥権現社にて北原兼親を前に、島津方・伊集院忠倉、北郷方・北郷忠徳、相良方・深水頼金が相互扶助を約し神文を交わし合う。
・9月18日:島津忠親、奪われた飫肥城を奪還。

●永禄6年(1563年 :閏12月)
1月28日、大河平仲太左衛門隆利、卒去(法名「玉翁明珠居士」)。享年28
3月27日、相良が裏切り伊東と盟約。
・4月1日、阿蘇山が鳴動、翌日に茶碗に3-4つ入る程の霰が降る。7月17日にも降り、7月21日には球磨側にも降る。
5月14日、伊東・相良勢が大明司塁を落とす(日向記では4月14日)
・5月5日、6月6日、島津より相良へ使僧を派遣し、相良へ飯野の格護を求める
・11月9日、島津日新斎の室(寛庭院)、卒去。
・?月?日、相良義陽より派遣された東出羽守が、勝手な発言(内容不明)して島津側を激怒させる。
(これがトドメとなって島津と相良の友好関係が完全破綻)

●永禄7年(1564年)
・2月9日、出奔した東出羽守を相良の追手が成敗する。
・2月11日、島津勢が大口城攻撃を開始。
・3月、北原兼親が島津義弘に今城の助勢撤兵を提言
5月29日(島津側史料では30日)、伊東勢が大河平氏の今城を攻撃。
隆次の法名「花岩香心居士」。隆堅の法名「蘭貞全芝居士」。隆光の法名「直翁宗禅居士」。

・11月7日、島津義弘、飯野城へ入る。

●永禄11年(1568年)
・1月20日、島津義弘、大口城攻めで敗退。
・?月?日、伊東義祐が飯野城挟撃作戦のために相良へ使者を派遣(『諸県興亡』より)
・上記情報を入手した大河平ナミが伊東と相良の軍事情報を島津義弘へリーク

・8月、飯野城挟撃作戦開始するも、相良勢は大明神城で進軍を阻まれ、伊東勢は田原山に桶平城を築く。
・11月、島津義弘家臣、遠矢良賢と黒木播磨守が桶平城勢を釣り野伏で討ち破る。

・時期不明、島津義弘がナミに感謝し大河平再興を提案する(遠矢良賢を説得役に派遣)
●1568年8月~1572年6月までの間(遠矢良賢の没年より推定)
・ナミ・皆越六郎左衛門が島津義弘が付けた護衛60人と大河平へ入る(出迎え役として遠矢良賢)
・ナミの夫・皆越六郎左衛門、大河平隆俊と改名し大河平再興当主となる。


●天正11年(1583年)
・同年、大河平治部少輔隆商(隆重嫡男)誕生。

●慶長3年(1598年)
・同年、大河平隆重、朝鮮唐島にて敵船に飛び移り戦死。法名「称念浄心居士」。
(『本藩人物誌』では享年35としているが、同時に今城合戦のときに6歳ともしているため、生年に狂いが生じてくる)。

●元和8年(1622年)
5月24日、大河平隆俊(皆越六郎左衛門)、病没。法名「性山清本上座」。

●寛永12年(1635年)
7月22日、大河平隆商、病没。享年53。法名「財室宗貨居士」。

●寛永13年(1636年)
10月27日、ナミ、卒去。享年92。法名「来香妙意大姉」。

参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』『八代日記』
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』

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レジェンドオブ大河平(おこびら)__基礎資料(年表編・上)

●延徳2年(1490年)
・同年、家祖・大河平越前守隆屋誕生。

●永正4年(1507年)
・同年、初代・大河平左近将監隆充(隆屋嫡子)、誕生。

●天文5年(1536年)
・同年、二代目・大河平仲太左衛門隆利(隆充嫡子)、誕生。

●天文11年(1542年)
・8月20日:貴久と肝付以安(兼演:このとき実久方)が戦闘。
・北原兼孝、貴久を助勢するも大敗し、平良尾張守・白坂下総守兼次・渋谷兵庫ら700余が戦死。

●天文12年(1543年)
・1月:北郷忠相、安永・都城の兵を率いて、北原氏に奪われていた山田城を回復、
 5月には白坂下総守の居城となっていた志和地城も回復。

●天文14年(1545年)
大河平ナミ(大河平隆次の姉)誕生。

●天文15年(1546年)
・12月3日、伊東義祐、従三位に叙せられる。以後、三位入道を自称。
伊東義益、誕生。

●天文17年(1548年)
・6月10日、伊東義祐の嫡男・歓虎丸が夭折。
・8月、球磨・葦北・八代三郡の奉行に依り、万満(相良義陽)が後継と決する。

●天文19年(1550年 :閏5月)
・2月12日、大友義鑑が「二階崩れの変」で横死。菊池義武が蜂起。
・同年、三代目・大河平九郎隆次(隆充三男:長男隆利と14歳差)誕生。

●天文20年(1551年)
・6月8日、伊東義祐、大仏殿を建立。12月28日に安置。

●天文23年(1554年)
・11月20日、菊池義武、詰め腹を切らされる。

●弘治3年(1557年)
8月13日、上村兄弟支援の北原500名が襲来、これを大畑にて迎え打ち120余名を討つ。
大河平弥左衛門隆豊(隆充次男:法名「雪窓用盛居士」)はこのとき戦死か(大河平氏はこのときに北原を頼ったとも)。

●弘治4年・永禄元年(1558年:2月28日に改元 :閏6月)
・同年(3~4月頃?)、北原兼守死去。

●永禄2年(1559年)
・1月、大友義鎮、肥前守護職に、6月には豊後・筑後の守護職になる。また11月には九州探題に補任される。
・3月7日:大河平左近将監隆充(隆屋嫡子:法名「一中良竿居士」)、卒去。享年53。
・3月14日、大畑衆が真幸院へ示威行動。
3月17日、伊東義祐、馬関田右衛門佐への北原家督に反対の者を都於郡城にて詰問。
       その帰途を六野ヶ原にて待ち伏せて多人数で取り囲み、北原三河守ほか11人に詰め腹を切らせる。

4月12日、馬関田右衛門佐と伊東義祐の娘・麻生の祝儀

・7月29日、上村頼孝、将兵700人を伴い相良家へ帰参。
・8月16日:獺野原の戦い。(相良氏の内戦)
大河平源太左衛門隆重(隆堅次男)が誕生。

参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』『八代日記』
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』

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レジェンドオブ大河平(おこびら)__基礎資料(人物編)

●大河平家
父祖:大河平越前守隆屋、
初代:大河平左近将監隆充、
弟:大河平孫左衛門隆堅
    隆堅嫡男:大河平孫次郎隆光、
隆堅次男:大河平源太左衛門隆重
二代:大河平仲太左衛門隆利、弟:大河平弥左衛門隆豊、妹:ナミ
弟(三代):大河平九郎隆次

一族家老:八重尾兵部左衛門重視、八重尾後藤左衛門、大河平隼人、佐藤壱岐

系図にすると↓
系図・大河平氏

●皆越家
地頭:皆越安芸守貞学(貞当とも:白髪岳・北麓北越部落は皆越の地頭)、
一族:皆越六郎左衛門---ナミの夫で後の大河平氏四代:隆俊

六郎左衛門と皆越地頭との系譜上の繋がりは不明
ナミが六郎左衛門に嫁いだ時期も不明だが、ナミを嫁にと所望したのは皆越側。

●北原家
北原又八郎兼守(13代)、麻生(兼守室・伊東義祐の娘)
北原民部少輔兼孝(兼守叔父)
北原掃部介兼親(又太郎:再興主君)---1564年領地維持困難により飯野から伊集院神殿村に30町の捨て扶持で左遷
北原左衛門尉(吉松城主:伊東・相良連合を図る)---画策がバレて1564年北原家出奔後不明
北原三河守兼慶(反伊東派:栗野城主。兼孝の叔父(?)。六野原にて粛清される)
北原八郎右衛門尉(反伊東派:徳光城主)
北原伊勢介(横川城主:貴久の調略を無視し島津歳久に攻められて自害)、
北原新介(伊勢介の長男。父と運命を共にする)、
北原又八郎(伊勢介の次男:木崎原で戦死)

◎北原家臣
平野兵部忠義、中城出羽(共に上村兄弟の援軍となるも討ち死に)

馬関田右衛門佐(祖は5代範兼の弟の又九郎。伊東義祐に擁立され未亡人麻生と再婚する)
宮路某(栗野地頭。木崎原戦で伊東方三ツ山衆と して戦死した宮路阿波か?)
橋口刑部(内木場城主?:木崎原戦で伊東方三ツ山衆として戦死)
平良彦十郎兼賢(家老:伊東派。中務少輔。三ツ山地頭)

白坂下総介(家老:高崎住人:反伊東派:樺山家を頼る。後に高原城主)---北原家出奔後不明
白坂佐渡介(反伊東派)---北原家出奔後不明
白坂美濃介兼頼(反伊東派:踊地頭。後に島津家臣となり”白坂昌棟”と改名)
白坂将監篤義(反伊東派:兼頼の弟)
永野仲左衛門(土着の豪族・永野氏当主。今城合戦の際に大河平氏に与して戦死・諸説あり)

参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』

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大河平氏_18【御家再興編・5復活】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
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≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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1568年8月、ナミの情報リークにより相良と伊東のタッグによる、飯野城挟撃作戦が頓挫。
途中で阻まれた相良勢は引き換えし、伊東勢は止む無く桶平城を築き長期戦に備えた。


真幸院エリア内に伊東が築城したことに対する島津側のリベンジは早かった。
同年11月、遠矢良賢は黒木播磨守と共に夜中に本地原の古溝に伏せ、
翌朝にウズラ狩りを装った少勢を桶平城の前に繰り出し城兵を挑発した。
良賢と黒木は、釣られて本地原に誘い込まれた伊東軍を釣り野伏せで散々に打ち破る。


ウズラ狩り・・・ぷりてぃーで萌える 川* ̄д ̄*川ポッ
現代では野生のウズラはレッドゾーン入りして禁猟です。
てか、南九州にウズラが棲息してたことにビックリしたが、冬期間は南下して越冬するそうな。
あんなチッコイ身体で本州から九州まで移動するんだ~(@@)凄っ!
ちなみに戦国時代のウズラ狩りは食用じゃなくて愛玩・・・鳴き声が縁起が良いと武家で飼われてたんです。
ゲフゴホっ・・・ウズラに萌えて脱線した・・・え~と
ナミの情報リークに感謝した島津義弘は、
今城玉砕で滅亡した大河平氏御家再興を思い立つ。


家紋・島津 島津十字イメージ画像

いや、大河平を忘れてたわけじゃないとは思うんですよ。
でも、ネットもテレビも携帯もないんだから、大河平の誰が生き残ってるとかって、大河平側からアプローチしないと情報はワカランでしょう。
大河平は新参の島津家臣で、島津家臣の誰かと縁戚関係って訳じゃないですからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

で、ここで数話前の伏線で恐縮ですが、同じく生き残りで、ナミと隆次の姉弟からみて従弟にあたる隆重(落城時6歳)。
彼の存在を島津側が何時知ったかが、わっかんないのよ~~~
本藩人物志だと大河平隆重は1598年に朝鮮の役で35歳没になってるんです。
没年齢から逆算すると今城落城時点は1歳 ヽ(。_゜)ノ ?
そのくせ落城時は6歳とも書いてる・・・どっちやねん!!!(# ゚Д゚)・;'.

大河平系譜も本藩人物志と、えびの市側とは違ってるんです。
ナミが1568年時点で子宝に恵まれなかったのは前回書きましたが、その後も恵まれず(´・д・`)
で、従弟の隆重を養子に迎えてるんです。
が、本藩人物志では隆重の子・隆商が養子になってて、隆重を大河平当主としてカウントしてないの。
つまるところ島津側も戦国期のバタバタで、大河平隆重の事をイマイチ把握してなかったみたいなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

とにかく、島津義弘はナミの夫・皆越六郎左衛門に大河平の名跡を継がせる事を思い付き、
その説得役として飯野衆・遠矢良賢を派遣したんです。


もしナミの夫が御気楽に妻の利敵行為に気づいてなかったとしたら、
目の前に説得に現れた島津義弘家臣から聞いたことになりますな・・・( ゚Д゚)y─┛~~

で、遠矢良賢が説得に皆越に入った時期も、その時の遣り取りなども記録がなく、
更には決断した皆越六郎左衛門とナミ夫妻が、真幸院・大河平入りした時期も記録がないんです^^;
遠矢良賢は説得役だけでなく、ナミ夫妻の出迎え役も引き受けてました。
(だって知ってる人じゃないと不安で可哀想ダロby義弘)

で、遠矢良賢は1572年5月4日に戦死してるので、ナミ夫妻が入ったのは1568年8月~1572年6月までの間になります。
ナミ夫妻が皆越村を離れるとき、相良側の追手を危惧した島津義弘は60人もの護衛をつけたそうです。
てことはナミがリークしたのは、もうバレてたって事で、一刻を争う状態だったのでしょう。
以前も書いたけど皆越(熊本県球磨郡あさぎり町)から、真幸院(宮崎県えびの市)に入るのは、
白髪岳と国見山かあるから加久藤トンネル出来るまでは難所コースだったんです。

なので女一人(ナミは大河平という他郷出身)の足で、追手(地元有利で間道知り尽くしてる)を躱すのは至難の業。
島津の出迎えと合流するまでは、夫・皆越六郎左衛門の助力がなければ、相良エリア脱出は難しかったと思います。

それと原典未確認な上にサイトからの孫引きなんで自信ないけど、義弘が付けた護衛60人が再興・大河平家臣の中核になったみたいです。
(だって皆越六郎左衛門自身に数十人も家臣がいたら、そもそも島津からの護衛は必要ないでしょ・(*´pq`)プププ)

大河平ツツジ

大河平領に入った隆次の姉ナミは、弟の無念と城兵の鎮魂のためにツツジを植えた。
それが今も保存会が大切に守る「大河平つつじ(別名・血潮つつじ)画像参照」です。
この赤は大河平つつじ独特のもので、他では出ない色なんだそうです。


15歳で玉砕討死した少年当主・隆次の姉ナミ・・・没年は寛永13年(1636年)10月27日で享年92、法名は「来香妙意大姉」
生前のナミは繰り返し大河平氏や今城の事を語っていた
そうで、
「レジェンドOF大河平」その言わば語り部のルーツとなった人物と思われます。

ナミに子供がいなかったのは残念ですが、他家からの養子ではなく男系血縁である従弟が系譜を繋いだ事は、
嫡流が絶える事が多かった戦国期において恵まれていたと思います。

さて、戦国大河平氏の紹介は、これにて終幕とします。
参照したデータを後日、年表としてアップしたいと思います。
ちょっと、間を開けて相良義陽編を再開します。では・・・それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大河平氏_17【御家再興編・4桶平城】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
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≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
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自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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1568年・・・大河平ナミは23歳。
相良家臣・皆越家に嫁いでから、推定で5年以上だがナミは子宝に恵まれなかった。
今城の落城玉砕で実家という後ろ盾を失ったナミに対し、口さがない者は容赦なく「石女」の烙印を押しただろう。

嫁が姑の介護を拒否したり婚家を足蹴にする時・・・それは往々にして婚家が嫁を蔑ろにし続けた結果が招いた場合が多い。
常日頃から大事にされていれば、嫁ぎ先へ明らかに迷惑になる行動は出来ない・・・武家の妻なら猶更だ。

ナミが情報を入手した顛末なんだけど、『諸県興亡』によると(要旨抜粋)
島津家が菱刈家との戦いに突入した際、永禄11年8月に飯野城を挟撃すべく伊東義祐は、相良に密使を派遣した。
その使者が皆越家に泊まりその使命を語った。
それを聞いたナミは腹心の八重尾岩見を遠矢良賢に派遣、その事実を伝えさせ、遠矢は直ちに義弘にこの事を伝えた。

これって立ち聞きした・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
ただ時期については書かれてないです。

いずれにせよナミの軍事情報リークによる利敵行為は、
離縁とか尼寺行きなんて生温いものではなく、土牢へ生涯幽閉か速攻成敗されるレベル。
ナミの夫・皆越六郎左衛門は妻を離縁も成敗もせず、相良や皆越一族の追手から守ったのだろう。
(もっとも「大河平再興当主の座」というニンジンがぶら下がってたけどwww)
(傍証となる史料はネタバレになるんで今は内緒(^ -)---☆Wink)

ちなみに相良側には、ナミの軍事情報リークの顛末などなどは一切記録はない。
だってね~~相良家にしたら恥ずかしい話だもんネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

人物・相良義陽大河平編では悪役な相良義陽イメージ画像^^;

大口城攻略~後半は親指武蔵野異名をとった新納忠元が中心なので、
相良氏まで突っ込んで調べてない普通の?島津ファンなら「大口城=新納忠元」のイメージの方が強いかもです。
ですが、前半の段階では攻略の中心は猛将・島津義弘でした。

1568年1月に大口城を攻略しようとした島津義弘が大敗北しちゃうんです^^;
これだけ書くと「なぁ~んだ」と思うかもですが、大口城では負けてるけど全体の形勢は島津有利に傾き始めてて、
相良義陽は安心できる状況じゃなくなってました。
真幸院が欲しい伊東義祐が、飯野を拠点にしてる島津義弘を煙たく思うのは当然。

島津義弘が菱刈氏(相良配下の大隅国衆)攻略で不在の隙に飯野城を挟み撃ちしようーー
という伊東と相良のタッグは、そんな空気のなかで組まれた。
その作戦が実行に移されたのが1568年8月
既に島津側はナミの情報リークによって準備万端(=^・ω・^=)v ブイ
相良勢は大明神城で進軍を阻まれ、やむなく伊東勢は田原山に桶平城を築く。

伊東軍がエリア内に築城した事に対し島津は速攻でリベンジした。
登場するのが先に挙げた島津義弘家臣にして飯野衆・遠矢良賢(とうやよしかた)なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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大河平氏_16【御家再興編・3島津義弘挟撃作戦】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
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≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
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1564年5月29日、伊東義祐の今城攻撃による玉砕討死で、大河平氏嫡流の姫・ナミは実家を失った。
伊東と組んだ相良家の家臣・皆越家に嫁いでいたので彼女には、戦火が及ぶことがなかったんです。

その相良氏と島津氏・・・元々は祖父母の代から友好関係でした。
その流れで真幸院・北原氏乗っ取りを企む伊東義祐を阻むための盟約を交わしてました。
(※北原兼親が祖母の実家である相良氏へ亡命してた)
ところが1563年に相良義陽が裏切り島津の敵である伊東義祐に寝返ってしまった。

(※相良氏が伊東に寝返った理由については、具体的な記載がないため不明です。)

大河平氏は北原家臣でしたが、北原家が衰退したので島津家から領地安堵を受けてました。
従って、相良家臣に嫁いだ姉・ナミと、兄の病死で大河平の家督を継いだ末弟・隆次は、
相良の裏切りにより敵味方の立場に別れてしまったことになります。

そうなると互いの立場上、大っぴらに連絡を取り合うのもままならないでしょう。

ちなみに皆越(球磨郡あさぎり町)は大河平とは地図上だけだと10kmちょいの近さなんだが、
途中で国見山に白髪岳が聳えてるから相当の難所コースです^^;


ナミが今城落城や一族滅亡の詳細を知ったのは、落城から何日後だったのか、知った時の彼女の反応などは記録になく不明です。
元々はナミを嫁にと所望したのは皆越側からだったのですが、
結婚が家と家とのつながりだったのが現代よりも強く濃かった時代に、
実家の後ろ盾を失ったナミに対し 皆越一族が、どのような態度で臨んだのか・・・(´;ω;`)ウッ

こういう時には決まって「婚家に下女扱いされた不幸説」と「ナミの不幸を労わり慰めた優しい義実家説」の二説あって、
日本人は何故か不幸説が好きです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
もちろんコアな郷土史なので、そんな極端な伝承なんて無いですよ。(ヾノ・∀・) ナイナイ
ただ、この後のナミの行動を見ると、、、、不幸説がチラチラ浮か・・・・(._+ )☆\(-.-メ)IFバナ自粛!

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

話を相良に戻して、
八代日記によると、島津との盟約を裏切った1563年の段階では島津は相良を引き留めようとしてたっぽい。
相良義陽の裏切りは、日向記だと4月14日、八代日記だと5月14日、困ったことに両方とも一次史料^^;
引き続き八代日記より---島津は1563年5月5日、6月6日と、二度ほど使僧を遣わし、飯野方面の格護を求めてた。
(格護=歴史民俗用語で薩摩藩の田地を占有または保持する意味)

つまり島津は相良を引き留めるために、真幸院のうち大明司だけでなく飯野も割譲しようとしてたんです。

(飯野城にいる北原兼親を どうするつもりだったかは不明・爆)
ところが相良義陽側が派遣した使者・東出羽守が、義陽の意向とは違う勝手な発言をして、島津側を激怒させたんです。
これが決定的になり相良と島津との友好関係は破たんしました。

東出羽守が何をくっちゃべったか内容は不明ですが、トンずらした東出羽守を相良側の追手が成敗(1564年2月9日)してるので、相当の大胆発言をやっちまったようです(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
島津の怒りは収まらず、相良への報復として天草地方に介入したり大口城攻略(1564年2月11日)を始めた

(詳細は相良編に戻ったらしますね(^ -)---☆Wink)

で、大口城攻略の中心となったのが、猛将・島津義弘。

一方、伊東義祐です。
真幸院を手に入れるべく、あれこれ画策し、数年がかりで北原にチョッカイ出してました。
1564年に今城を落としたまでは良かった。
が、北原家臣が動揺して次々出奔したために、北原兼親では真幸院を維持できないと、北原は伊集院神殿村に飛ばされた^^;
で、代わって飯野城に入ったのが、猛将・島津義弘。

相良義陽------ちょっと島津義弘が邪魔なんだけど------伊東義祐

1568年、どっちが言いだしっぺかは不明だが、相良と伊東はタッグを組んで島津義弘を挟み撃ちにしようと企んだ。
同年、その企みを嫁ぎ先である皆越家を通じて入手したナミは、島津義弘に情報をリークした。

ナミの情報が相良と伊東の企みを砕き、真幸院を巡る伊東と島津の争いは新たな局面を迎えるのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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大河平氏_15【御家再興編・2リーク】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
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≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
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今城跡は毎年5月29日の夕刻には堀切りに於いて、
剣戟や轡(くつわ)の音が聞こえると言い伝えられている。

(※本藩人物誌では合戦は5月30日)

さて、滅びたと思われた大河平一族でしたが、わずかですが生き残りがいました。

今城で討死した八重尾の末子・与次郎(12歳)は手習いのため狗留孫山寺に修行に行っていたため災疫を免れ、
島津義弘に取り立てられ木浦木(小林市)の旧領を与えられ、北方辺路番の任務についた。名を八重尾重紹とした。

八重尾氏は史料ですと菊池氏庶流となってたんですが、どうも違うみたいです^^;
大河平氏との系譜上におけるつながりは判りませんでした。
ちょっと気になるのが「いつ取り立てられた」なんですが、そこまで突っ込むのは野暮かもしれませんね^^;
ついでに気になるのは「末子」てことは兄は・・・・いえ、なんでもありません(´・`)

系図・大河平氏
同じく討死した大河平隆堅(隆次の叔父)の次子・堅重(6歳)は商人に扮した家人に救いだされた。
6歳にして家とパパンを失っちゃったのか・・・さすが戦国(-ω-;)ウーン
隆重少年は次子・・つまり次男でして、系図にある嫡男兄・隆光も今城で討死です。
系図をみると兄・隆光には子供がいなかったようなので、隆重少年は大事な生き残り。
御家再興の切り札になるかもよ?(*´pq`)クスッ
(隆重少年、その後は別記事にて紹介します^-^)

さらに、いま一人・・・生き残りがいました。
それが少年城主・隆次の姉姫・ナミです。
隆次とナミは4歳違いですので、今城落城時点で彼女は19歳~花の盛り・・川* ̄д ̄*川ポッ 

ナミは球磨郡の皆越家に嫁いでいたので、戦火の巻き添えを逃れることが出来ました。
今城の落城や一族郎党の討死により、ワンピースじゃないナミは実家を失ったんです・゜・(PД`q。)・゜・

え~っと、何度も言ってるが大河平ファンなので、
実はナミ姉さまに関しても「かなり美化された脳内イメージ設定」がありまして・・川* ̄д ̄*川ポッ 
その気になればナミ(だけ)で妄想小話いけちゃう~~萌バナはファン限定で・・(._+ )☆\(-.-メ)自粛!

ナミが嫁いでいた皆越氏は球磨と日向の国境を守る地頭職を代々務めた家柄でして、
全盛期の北原が相良領に侵攻した時も、撃退するために一役買ってるし、
義陽の代で叔父である上村三兄弟が謀反を起こした時に、誘われたが毅然と断る相良配下の国人でした。
(ただし八代日記=一次史料では謀反側に従ったとあり、断ったとするのは南藤蔓綿録=二次史料)


皆越地頭は六郎左衛門ではないので、ナミの夫は皆越家の一門クラスじゃないでしょうか。
とIFバナする根拠なんですが、
大河平氏が八代から真幸院に入るときに、皆越氏に大変世話になったそうなんです。
で、ナミを嫁にと所望したのは皆越側からだったそうな。

世話の具体的な中身はワカランチン~ヽ(。_゜)ノ
推測するなら、大河平が真幸院に行くってとこがポイントになります。

皆越氏は相良と北原の国境の地頭で、北原氏に脅かされた過去から、現地情報を欲しかったのかな~と。
大河平と縁戚関係になれば、主家である北原家の内部事情も多少は漏れ聞こえてくるでしょう。
その逆も然り。
ナミが皆越に嫁げば、皆越の主家である相良の動きも入手できます。
そしてナミは、その危険なスパイ行為をやってのけたんです!

今城落城から4年後の1568年、大河平氏嫡流最後の姫・ナミは、
嫁ぎ先の皆越家から入手した相良氏の軍事情報を島津義弘にリークする

このナミによる軍事情報リークが、大河平氏御家再興の契機となるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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大河平氏_14【御家再興編・1主家崩壊】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
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出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
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緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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援兵8人だが、大河平隆次と些細な事で不仲になったという主君・北原兼親(飯野城主)という可能性がないかな~
とも思ったが、やっぱワカラン(´・д・`)

そうなると北原兼親は
「万が一の時は自分が援軍しますから~と言って島津派遣兵を撤兵させておきながら、
その万が一がきたのに、隆次への意趣返しで援軍送らず今城を見殺しにした残念な主君」
という事になる。

実は、検証前の初見の段階でシオは、そう受け取ったのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
残ってる記録(だけ)を読むと、そういう評価づけになっちゃう^^;
ほんとにそうだったのかな・・・(-ω-;)ウーン

(* ̄○ ̄)ゝ「監修さま~北原が援軍送るのが物理的に無理だった可能性ってないですかぁぁ」
監修様「可能性の話ですけど、相良勢が伊東の囲い番してたなら、飯野城からの援軍は阻まれますね」
「囲い番」って聞きなれない言葉で、検索しても将棋や囲碁しか出てこない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
御当地(南九州?)独特の戦国軍事用語だったみたい^^;
つまり「囲い番」って、城を囲む攻撃側が逆に包囲されて逃げ場がなくなることがないように、支援する軍勢のことなんです。
確かに、それやられたら北原兼親は援軍したくても出来ないです。
今城や周辺の城が落ちたら、飯野城への圧迫がMAXになって、北原はピンチになるんで、不仲がどーのって場合じゃない。
IFバナとしては、物理的に支援できなかった・・・というのが一番自然です。

地図・今城

さて、1564年5月29日に今城(と、永野城)の落城により、北原家臣が動揺した(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
同年?月、後難を恐れた踊城主・白坂佐渡介、高原城主・白坂下総介らは北原家より相次いで出奔する

話変わって、今回の地図は監修様提供なんですが、恒例の「シオ(手書きの)ぬくもり戦国地図がないな~」
と思ってくださる奇特なファン様・・・すいませんm(__)m

真幸院(現・宮崎県えびの市)は、シオのキャパを超えました・・・(´・`)トオイメ。。。
なんと真幸院だけで45も城や陣跡があるんです~~ぇえっ!(゚ロ゚屮)屮

それだけ城や陣や砦があるってことは、それだけ家臣に分知できたってことでして、
「真幸院が肥沃な土地」というのは、決して誇張された国自慢ではないのです。

で、踊城は霧島市牧園町・・の何処にあるか詳細不明^^;
高原城も えびの市内じゃなくて西諸県郡高原町・・・・なんだけど、
高原城は砦一部が壊されて現在の宮崎自動車道があるために、やっぱ城の正確な位置は判んなくなっちゃってます。
「後難を恐れて・・」とあったので、真っ先に高原城の位置を調べたらビンゴ。

高原城は えびの市のチト南東に位置してて、伊東氏エリアである小林市の方が近いんです。
なるほど・・・ビビって出奔するはずですな ( ゚Д゚)y─┛~~
で、高原城の白坂下総介という人物は「北原兼親を当主に擁立しよー(・∀・)ピコーン★」と発案した人物でして、
島津家老である樺山善久に保護を求めて、島津の支援をとりつけたいわばパイプ役だった人物です。
高原城の白坂下総介の「その後」は不明です。
『本藩人物誌』に「出奔シテ守護方ニ参シ樺山善久ニ倚テ降ルトイフ」
とあるので、初めに保護を求めた樺山に仕えたものか、「ト言フ」って事は、ハッキリしてないって事の訳で、
つまりところ「出奔した北原家臣ら、その後は不明です(`・ω・´)キリッ」

北原家中が混乱ガタガタぶりは、島津側に傍証があります。
『本藩人物誌』によると「北原兼親が伊東に寝返るとの風聞が立つ」とあります。
この風聞は「えびの市史にはない」ので、何処まで本当なのかは今となっては判りません。
えっと、やっぱ同年11月に、吉松城の北原左衛門尉(兼親の叔父)が
「秘かに伊東氏と相良氏に通じ飯野から島津氏を追いだそうと画策していた事が露呈したため出奔してる」
んです。
で、前述の風聞~という流れです( ̄ω ̄A;アセアセ

とにかく、北原家臣の寝返り&相次ぐ出奔に、島津当主である貴久は
「北原兼親では真幸院を維持するのは無理」と判断を下し、
同年11月、薩摩の伊集院神殿(こどん)村(現・鹿児島県日置市)に30町の領地を与え移住させる。

最盛期は1万の兵力だった北原氏は、この時から独立した領主でなくなり、島津家臣へと転落します。

同年11月8日、猛将・島津義弘が飯野城に入る
飯野城は、その後23年もの間、島津義弘の居城となり、島津ファンの認識では「飯野=義弘」な件~^^/
なにやら11月が盛りだくさんですが、兼親の移住が義弘の飯野入りの、前なのかor後なのかは不明です。

個人的に北原兼親タンが気の毒だなーーと思うのは、実子がいなかったことです(´・д・`)
で、島津家老だった伊集院氏から、養子を貰いうけたとこまでは、良かったんですが、
その伊集院氏が謀反を起こしまして・・・( ̄ko ̄)<庄内の乱デス

北原養子は謀反側じゃないから残ったけど、謀反の一族の出だから出世コースから外れた?みたいな?
次に北原氏が記録に出た時は「諏訪兼安の付衆中」ってことで、島津直参どころか陪臣にまで転落 Σ(´Д`;) はぅ!
あとは記録から消えて、歴史上からはフェイドアウト・・・
もしかしたら膨大な島津史料の何処かに埋もれてるかもですが、陪臣クラスとなると皆目見当も・・・(´・д・`)ハァ・・

リベンジのチャンスを掴めなかった北原氏と明暗を分けたのが、
今城落城で滅亡したはずの大河平氏なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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大河平氏_13【今城合戦---落城】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m


出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
 傍証として合戦日付だけでなく、その他内容も上記三点は根幹部分において相違はありません。

≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
------------------------------------------------------------------
今城が伊東勢に降伏せずにだ玉砕を選ん理由は、史料的には判らない。
一族会議したとか記録に書いてないから。

個人的に想像するだけなら、大河平ファンなんで山ほど熱く語れるんだが、そこは自粛でwww
一つだけIFバナ言うなら「伊東義祐が人として信を置けない」の一語に尽きるだろう。
当主が死亡したのをチャンスとばかりに、
全く血縁のない当主未亡人の親族が、財産目当てに乗り込み不埒な悪行三昧。
(次期当主候補を殺したりとか、伊東に反抗しようとした家臣を騙し討ちとかとか)
水戸黄門が「もぅいいでしょ」と印籠を出し、桃太郎侍が「ひとぉーつ」と数えだし、暴れる将軍が「三位入道、ワシの顔を忘れたか」(想像し始めたら楽しくなってきたんだがwww)
と、出てくるようなベタベタの家督乗っ取りにドン引かない人はいないだろう^^;

推測だけするなら、これまた大河平ファンなんで山ほど熱く語れるんだが、キリないんで手短にwww
同じ実力者でも、伊東氏と島津氏・・・
どっちが一族の後事を託せるか・・・となると、やっぱ島津なのです。
自分が、そう思う理由を語り出すと、これまた「いくらでも話し続ける事が出来る」ので、
まぁ、ここは軽く飛ばしてくださいな(笑

地図・今城

伊東勢は北の間道ルートより攻撃を開始。
少年当主・大河平隆次は「もはやこれまで(T^T)」
と、叔父の大河平隆堅や同じ菊池氏庶流の八重尾重視らと共に城門を開いて討って出る。
しかし、衆寡敵せず、全員が討死する。


戦死者は「物語り大河平史」によると、
一族6名に家臣94名、援兵8人の計108人とある。

イベントパーティ公式発表では130人・・・(._+ )☆\(-.-メ)出典『本藩人物誌』では130名!
で、「物語り大河平史」は、この戦死者数内訳と共にに戦死者名を列記してるんです。

他と違い「物語り大河平史」だけが、やたら細かい。
もしかして~~ですが、元出典の家譜だけでなく、墓石や菩提寺過去帳とかから、
著者の方が追跡調査した内容を記述してるかもしれません。
あるいは家譜の記述通りで、いわば「大河平側の記録」なのかもです。
このあたり家譜と文献を比較することが出来ないので、何とも言えないです。

それと、内訳で気になる|援兵8人|_ ̄)じぃー
出典より原文引用:
以下は其時援兵として守居、死之士衆
橋口越後坊、春口兵左衛門、二宮兵部左衛門、仝次郎五郎、興松興一兵衛、野添新左衛門、永野仲左衛門、楠田主馬


でもって「どこからの援兵」かも書いてないし・・・il||li _| ̄|○ il||l
てか7番目の永野仲左衛門って、あなた永野城の城主じゃなかったんですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
裏切ったり討死したり今城で玉砕したり、記録上で忙しい人ですな( ゚Д゚)y─┛~~
要潤に特別な方法で潜入してもらってインタヴューして欲しいwww

この援兵に関しても大河平ファンなんでいくらでも熱く妄想・・・以下略
実は妄想が爆走するのを抑えるために、推敲に時間かかったんです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

監修様の追跡リサーチでも援兵8名の事は詳細不明でした。
ただ可能性として想像できるのが菊池庶流・八重尾重視って人物が、そもそも純然たる菊池庶流じゃないっぽいんです。
山之神神社(えびの市となりの小林市)由来によると、八重尾氏が土着したのって寿永3年(1184)鎌倉時代より前で、菊池氏ちゃうねんΣ(´Д`;) うあ゙
八重尾重視が養子か婚姻の関係で、大河平一族にカウントされてるかも。
となると八重尾の家臣は純然たる大河平家臣じゃなくなるから、援兵としてカウントもありえます。
(監修様のIFバナ~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ)

あと永野仲左衛門が同一人物なら、伊東の攻撃で永野城落城後に脱出して、今城に入ったとか?
いずれにせよ一次史料がないので、これ以上の確認は無理で、名前が判ってるだけでも凄い事です^^;
氏名が伝承されるって事は、大河平の人々がキチンと慰霊・供養してた証ですから(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

参照文献より続き
今城の北にある第三の堀は人馬で埋まったと言う。
伊東軍も苦戦しており兵500余人を失うに至っている。
戦は卯の刻(午前五時~七時)に始まり申の刻(夕刻とあるので午後五時前頃か)まで続いた。


残った大河平城士らの妻子 は捕えられ、今城は伊東家臣・米良重方に任された。

家紋・伊東(伊東家・家紋ロゴ)

米良重方・・・須木城城主。三ツ山地頭。全国的な知名度はアレだが知勇兼備の武将。
この数年後だけど、米良が築城途中だった小林城を島津兄弟(義久・義弘・歳久)が攻撃してるんだが、
米良重方は弟と共に奮戦し、猛将・島津義弘を負傷させて撃退したという経歴の持ち主。

(義弘サァ・・・一軍の将なのに、また最前線で斬り合ってたみたいですネ・・(;´ー`))

米良重方は、更に後年の「木崎原の戦い」で伊東勢の殿軍を務めて討死してます。
その首級は島津義弘自らによる首実検後に米良家菩提寺へと返還された。

義弘「良き敵には礼を尽くすでごわす(`・ω・´)キリッ」
首級の弔われた墓は「米良筑後守の墓」として小林市指定・史跡に、
首が送り届けられた時の首桶は小林市指定・有形文化財です。


緑文字部分はウィキペディア参照です。
あ・・・本筋から離れてゴメン。
だって~~~名前だけしか載せないのは勿体ない武将なんだもん~~~ 川* ̄д ̄*川ポッ萌ッ 
伊東義祐・・・やり方はともかく、伊東家も最盛期なんで、伊東家臣も(・∀・)イイ!

一族6名に家臣94名・・・この討死内訳を見ると、
今城による玉砕で大河平氏が滅亡したのがハッキリと判る数字だ。

ここから先は「再興・大河平氏」のための道のりになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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