fc2ブログ

感想②--『竜造寺家臣団の構成とその特質(天正八年の着到帳の分析を中心として)_藤野保』

龍造寺の天正八年着到状史料は、一次史料ではなく全て二次史料です。

A・五箇国配分帳
B・五ヶ国御領地之節配分帳
C・天正八年肥筑豊太守竜造寺山城守藤原隆信公御一家并御家中旗下之侍付与
(C長ぇぇっ)

Aが嘉永七年の写本(・・・ペリー来航の翌年・・・ほぼ幕末っすね)
Bが元禄十年の写本を更に文政七年に写本

原本である一次史料については論文中で触れてないので、何年に写本しました~という事実しか判ってないのかな?
そのあたり自分が原典未確認なので判りません。
いずれにしてもA、B、共に単独の書冊なんだそうです。

Cは多久家関連史料を収録・編纂した「肥陽旧章録」にあるんだけど、内容的にBに近いそうです。
藤野先生はCはBを書写したもので、そこに新たにC独自の考証を加えたものとされています。
__φ(。。) ふむふむ・・・てことで、BとCは同系色文字にして、更にBを太文字にしませぅ

AとBCの違い
①Aは隆信ー政家を中心に記載順位が整然と家系ごとになってる
②①のことからAには他家に養子に入った家種・家信が一門としてカウントされているが、BCだと別項にカウントしている
③BCにはあるが、Aには宗金斎以下5名が抜けている
④龍造寺家親の石高(A-500町、BC-5000町)

①~③の違いから龍造寺一門の人数が、A=29名、BC=27名
①~④の近いから龍造寺一門の総知行が、A=8919町、BC=10470弱(BCで5町差異あり)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・与賀龍造寺一門の一部がAにカウントされないんだ!( ゚д゚)

その他の違いとして、
Aが二代目も記載(○○の父)している
Cが三代目を記載
藤井先生によると、それぞれの人物の諱・官職から後世の書き込みなのが明らかなんだそうです。

んで、Bのみが戦国当時の通称で書かれていることから、Bが最も原型に近い史料と結論されています。
てことでBを中心に検証へと論文は進む__φ(.. ) メモメモ
スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

感想①--『竜造寺家臣団の構成とその特質(天正八年の着到帳の分析を中心として)_藤野保』

まず前提として古文書学における武家様文書の中の上申文書の中の着到状の知識が必須になります^^;
シオさん先に勉強しといて良かったですね~過去記事_着到状
(てか、でないと理解できないんで論文を読むのを先延ばししてたwww)

で、自分は論文を読んで初めて自分が長いこと勘違いしてたことに気づいた。
実は佐賀藩では分限帳を着到帳と呼んでたんです( ゚д゚)ンマッ!!

参考:ウィキペディアより「分限帳」
江戸時代に大名家家臣の名や禄高、地位、役職などを記した帳面。別称に侍帳、家中帳、給所帳。


当然ながら武家成立から中世・戦国期に及ぶ「着到状」の本義とは意味合いが違ってるわけですil||li _| ̄|○ il||l
佐賀藩が分限帳で着到の言葉を使ったのは・・・まぁ「イザ!鎌倉」てな気分かと思われます・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
主君(藩)の一旦火急・有事に馳せ参じるメンツって感じなノリというか、葉隠的クールな表現というか・・・
藤野先生は「主従制の伝統的観念に由来するものであろう」と書かれています(←史学者の簡潔明瞭な表現は素晴らしい)

んで、ここんとこを勘違いしてたというか、江戸期の使用用語に引きずられて、
天正八年(戦国時代)の配分帳を江戸期の分限帳と同じ感覚で捉えるという、大ボケしてましたぁぁ
判る人には爆笑もんのボケボケですわ~もはや自分で笑って誤魔化すしかありませんな,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ! 
いや、違和感はあったんだけど、ビギナーなんで何が変なのか論文読むまで判んなかったんです^^;

ちなみに初めは一枚一枚別紙だった着到状ですが、
戦国期に入ると帳面(台帳)になり「着到帳」と呼ばれます。
ですが、便宜上として書式は変化していても意味合いとしては、戦国期までは着到状と同義と捉えてOK^^/
てか「そう捉えて分析するのが第一の重要事項(`・ω・´)キリッ」と藤野先生も申されておりますm(__)m

でことで、戦国期真っ盛りの天正八年、龍造寺の着到帳には三種類の史料が存在するのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大河2014_裏小説【黒田家の陰謀_8・最終回】

熊本県玉名郡玉東町に宇都宮神社がある。
祭神は三つ。
・春日皇大神(武甕槌命,経津主命,天児屋根命,比売神)
・南北朝時代に活躍した肥後宇都宮氏の最後の当主
・黒田家の刺客により非業の死を遂げた、城井朝房(きのい ともふさ)

尊敬する黒田官兵衛の頼みで、城井朝房が殺されるのを「見て見ぬふりした」加藤清正だったが、
余りに悲惨な現場(焼き殺された)に、祟りを恐れ朝房の鎮魂のために、朽ちていた「宇都宮神社」を再建し、朝房を祭神としたのです。

一方、黒田長政ですが城井鎮房(きのい しげふさ・朝房の父)を殺した時の刀・兼光を、
「城井兼光(刀は福岡の美術館で現存)」と呼び、己の武勇を誇った・・
と、ありますが、ほんとのところは「魔除けの守り刀」だったりして(*´pq`)

というのも、城井家を騙し討ちして以来、長政の夢枕に毎夜、城井鎮房の亡霊が現れたからです。
城井にトドメを刺したのは後藤又兵衛で、作戦立案は父の黒田官兵衛なのですが、
なぜか亡霊は吉兵衛長政クンのとこに出たそうな,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

とにかく亡霊を鎮めるために黒田家では中津城内に「城井神社」を建立したのです。
その「城井神社」ですが、関ヶ原の論功で中津から福岡に引っ越すときに、神社も福岡城内に移してます。
黒田家では、秀吉の手前、仕方無いとはいえ余程後味の悪い出来事だったのでしょう。
ちなみに官兵衛が息子・長政に家督を譲ったのは、城井抹殺の翌年でした^-^

家紋・黒田(黒田家紋ロゴ)

さて、話を大河の裏主役の竜子(城井朝房の妻&秋月種実の長女)に戻しましょう。
舅である城井鎮房の配慮で、城井谷を脱出した彼女は兄嫁の実家でもある筑前の霊場・英彦山(ひこざん)で匿われ、無事男子を出産しました。
その後、母子ともども竜子の実家である秋月家(日向・高鍋3万石)の保護を受けたのです。
黒田家の追手が届かなかったのは、小大名とはいえ歴とした武家の保護下にあったからでしょう。

そして城井一族抹殺から11年後の慶長4年(1599年)のことです。。。。

「母は、じきに旅立ちます」
「母上、、、わたくしは御供できぬのですか?」

末房(幼名が解らなかったので諱の方で)が、心細げに訴えた。
「なりませぬ!そなたには城井家の御家再興という重大な使命があります。それに母は相良家に嫁ぐのです。連れ子を同行させることは出来ません」

竜子は心を鬼にして厳しい口調でハッキリと伝えた。

「そなたが、こうして無事にいるのは、秋月家の保護があったればこそです。その恩に報いねばなりません。」
「大恩ある秋月の兄上(秋月種長)から、秋月のために相良に嫁いでくれと頼まれて、これに応えなければ人ではありません。」
「そなたが無事、元服を迎えるまでは秋月の世話になるのですから、兄上によくよく頼んでまいりましょう」
「城井の御家再興については、下野の本家・宇都宮家が動いて下さってます。元服の暁には関東へ出向き、宇都宮家を頼るのですよ」
「宇都宮の本家の皆さんには頭を低くして、分家の分際を超えてはなりませぬよ、何事につけ御本家を立てるのを忘れてはなりません」

そして竜子は文箱を取り出し、末房に渡すと言った。

「この文箱には城井谷の旧家臣と交わした文が入ってます。今後は、そなたが預かり折々に文を交わし互いの消息を知らせるのですよ。」
「一人前になったら、城井谷に行って、そなたの成人した男姿を家臣たちに見せるのです。」
「病は気から・・と言います。不用心して風邪ど引くような不心得があってはなりませぬよ」

「・・・・っ」言葉を続けようとして竜子は思わず涙が零れた。
(いけない、わたくしが気弱になっては、残される末房が不安になってしまう)

涙を呑みこむと、竜子は再び口を開いた。
「最後に重要なことを言い渡します。そなたの父と祖父・一族を卑怯にも騙し討ちした黒田家への報復は、ゆめゆめ考えてはなりませぬ。そのこと、この場で母と約束するのです」

末房は目を大きく開き驚きの表情を浮かべた。
「母上、なぜですか?一族の仇を討ってこその御家再興ではありませぬか?」

(こういう気かんきなところは、わたくしの子供の頃に似てる・・)
「そなたが、黒田家の仇討を公儀(この場合は豊臣政権)に訴えたらどうなると思いですか?」

竜子が尋ねると末房は訳が解らないといった表情を浮かべた。
「そうなれば、黒田家は全力でそなたを潰しにかかるでしょう。」
「そなた一人だけで事は治まらず、宇都宮の本家、秋月家、そなたが産まれるまで匿ってくれた英彦山の座主さま・・たくさんの人に御迷惑が及びます」
「恩を仇で返すことになっては申し訳が立ちません。仇討のことは考えず、一筋に御家再興のみを目指すのです。さすれば道は必ず開けます」

「わかりました!約束します。御家再興のみ考えます・・・さすれば・・・きっと大丈夫ですね!」
末房は竜子の口クセ「きっと大丈夫です」をいつの間に覚えて真似するようになっていた。

(まぁ・・・この子ったら・・・)
そばで控えていた侍女たちが、末房の健気な返事に袖を抑えて泣いていた。

慶長4年(1599)6月8日、秋月竜子は相良頼房(後の人吉藩初代藩主)へと再嫁した。
でもって翌年の12月13日に嫡男・頼寛(よりひろ)を産んでいる。
没年は1634年1月31日、享年63歳・・・波乱の生涯でした(-人-)☆彡

********史実への道************
実は相良頼房に嫁いだ竜子は、同じ秋月種実の娘でも別人説がある。
出典は『高鍋藩史話』
『種実には八人の娘があり、
長女タツは初め宇都宮弥三郎(城井朝房)に嫁し不縁となり、入江主水に嫁して一子”斉宮”を生んだ。
次女は僧に嫁し、墓は京都法園寺にある。
三女は加藤清正の臣 加藤右馬允に嫁し、
四女は馬ヶ岳城主・長野三郎左衛門に嫁し、種長の養子となった種貞を産んだ。
五女は平戸の松浦家に、六女は人吉の相良家に、七女マツは板浪清左衛門長常に、八女クフは秋月蔵人直正に嫁した。この内、末の二人は薄命の終りであった』。

では、これで決まりかというと六女の名前が不明&秋月家の系図は一部不明な点がありで特定できない^^;
それと長女・タツが生んだとされる入江斎宮は正保元年に出奔(理由不明)し、系譜上で辿れなくなってて調べきれない^^;
そのため通説通り竜子が再婚した事にしました^-^
****************************************

城井家の御家再興は結果から言えば不発に終わった。
一時は順調でして、分家と仲良し御本家・宇都宮家の城井氏御家再興運動が実を結び、徳川家康の息子・結城秀康が働きかけてくれたのだ。

末房は徳川家康に拝謁することに成功し、「朝末」という名前を貰い、
「大坂の陣」の働きで御家再興(つまり直参旗本に取り立てる)しよう~という手形を貰った。
朝末は、旧城井家臣とともに出陣~~ところが直前に病となって倒れ、無念のうちに亡くなってしまう。il||li _| ̄|○ il||l

だが天は城井家を見捨てなかった。
死んだ朝末には春房(一時期は秋月の通字を入れて種房だった)という男子がいて、
やっぱり本家の宇都宮家が面倒を見た結果、春房の子・信高の代で越前松平家藩士として家名存続に成功明治まで続く。

越前松平家でも亡き結城秀康が請け負ってただけに、城井家の不運に同情し「何とかしてやりたい」との配慮が働いたようだ。
とはいえ秀康死後、派閥争いでグダグダになってた越前松平家で、微禄でも城井家が藩士として召し抱えられたのは奇跡に近いだろう。
ちなみに、このころには城井は宇都宮姓に復姓してたらしいので、大河も丸っきり間違いではないとも言える^^;

黒田家の城井抹殺に関しては長いこと温めてたネタで「いつかやりたい話」の一つでした。
ほんとは福岡藩初代藩主編でやりたかったけど「九州の関ヶ原」を描く過程で盛り込むことが出来ず、下書きストックだけしてて温存してました^^

で、ちょうど大河で城井一族が登場したので、便乗した次第です。
ホントは、ちゃんとした歴史記事で郷土史紹介すべきだったかもですが、
本業で史料購入してる都合で、お財布的に他地域の史料入手が出来なかったんで、ゆるく小説ってスタイルにしました。
長編かつ素人の趣味にお付き合いありがとうございました。m(__)m

大河の放送に合わせて猛スピードで更新してたので、また歴史記事のほうはマイペースに戻しますので、宜しくお願い致します^-^

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

相良義陽_32【後編_諱は義陽・官位は修理大夫】

≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
------------------------------------------------------------------------
出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。

なお、島津氏の女性については、相互リンクしているサイト戦国島津の女達を参照しております。
※サイト管理人は在野で島津氏の女性史の(一門全般を網羅)研究されている方です。
※データスペックは歴史家の某作家が自身のブログで島津女性を記事にする際に参照するほどです。
------------------------------------------------------------------------
≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
------------------------------------------------------------------------
1564年、相良義陽の修理大夫任官と偏諱(義の一文字拝領)にクレーマー出現!

それがキングオブ大友のドン・フランシスコ宗麟です^^

人物・大友宗麟

一昔前は「義」の文字拝領に対するクレーム・・・と言われてましたが、
近年では「ホントに切れたのは修理大夫任官の方」とされています。

これはシオも、そーだろな~って感じてます^-^
これは前編で挙げた参照史料「細川藤孝から来た室町将軍家よりの官途状」に「義御字之事 任先例」とハッキリ明記されてるからです。
先例というのは、16代目当主・相良義滋が足利義晴から義の一文字拝領の事です。

先例があれば文句のつけようがありませんから、これにクレームするはずありませんよね^^b
大友宗麟からのクレームは実力者のパワハラではく、そもそも義陽の修理大夫任官が異例だったからです。
えっと、まず修理大夫を分解すると修理職(部署名)の大夫(部署のTOP)って事です。
でもって武家官位には、特に規定なしの「通常官途」と家格や先例などで任官を受ける「上位官途」があります。

部署のTOPである大夫の地位は、この上位官途に属してます。
家格の目安となる律令制における官位では、従四位下の家柄でないと任官されない地位なんです。

これまでの相良家は従五位下で、義陽の代で「従四位下&修理大夫」デヴュー(=^・ω・^=)v ブイ
ちなみに義陽以降の相良当主は再び元の従五位下に戻ってるので、全盛期の相良氏が先例の壁を突破するだけの実力(財力)を保持してたって事なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

ほら前編で相良義陽が相場の3倍強の御礼してたじゃないですか( ̄ko ̄)
先例の壁を突破するわけだから、御礼は弾まないとなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

では本来の従四位下&修理大夫の御家柄と言いますと・・・・・・
皆さん察しはつきますよね~はい、クレーム捻じ込んだ大友家で~す^^/

フンフンフン♪宗麟のパパ義鑑は従四位上、修理大夫♪
フンフンフン♪宗麟のジィジ義長は従四位下、修理大夫♪

でも宗麟が更に上の「正四位下、左衛門督」に任官されてたんで、どうも修理大夫BOX席が空いてた?みたいな?
大友「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.相良程度の家格でウチと肩を並べる~てかっ!!(怒」
御怒り御尤もですm(__)m

南藤曼綿録によると、宗麟からの猛烈抗議に将軍・足利義輝は アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
「あぅ~大友の怒りは解るけど、もう手続きしちゃったから今回は我慢してぇ(超意訳)」と言い訳したそうな^^;

実はなんですが、島津氏も「代々、修理大夫」なんです。
おっかしーな~大夫BOX席は一つしかないはずなのに~~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
官位も島津は従五位下だったりで、どんなカラクリ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
このあたり戦国期に入ると、家格と官位の釣りあいが訳わかんなくなってます( ̄ω ̄A;アセアセ

んで、島津も義陽の任官にクレームしたって話があるんですが、そのような記録は相良側にはありません^-^

とにかく義陽は、クレームが出たので「義陽」の名乗りまでも使用を遠慮したようです。
でもメゲない義陽は、尊崇する朝廷や幕府にセッセと献金を続けてました。
田舎の貴公子が都に憧れる気分もあるが、それよりも肥後の国人たちへ自分の権威をアピールする意味合いの方が大きかったのではないかと思います。

さて次はシオが大好きな島津薩州家の登場なのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

相良義陽_31【前編_諱は義陽・官位は修理大夫】

ブログ村 戦国時代参加です^^/
≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
------------------------------------------------------------------------
≪出典元≫
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。

なお、島津氏の女性については、相互リンクしているサイト戦国島津の女達を参照しております。
※サイト管理人は在野で島津氏の女性史の(一門全般を網羅)研究されている方です。
※データスペックは歴史家の某作家が自身のブログで島津女性を記事にする際に参照するほどです。
------------------------------------------------------------------------
≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
------------------------------------------------------------------------
さて、もりだくさんな1564年は続く__φ(.. ) メモメモ
同時進行で色々あるんで、紹介するのは年月日が前後してます^^/
1564年2月~細川藤孝から相良義陽へ官途状が発給される
官途状とは室町将軍の大盤振る舞いで「官位や受領名の私称を許す」というものです。

発給された書状の中に「義御字之事 任先例 被加御袖判 御拝領候」とあります。
シオ読み下しφ(.. ) 
「義の御字の事、先例に任す①
御袖判加(くわ)被(ら)れ、御拝領候②」

さぁ~古文書学の時間ですよぉーo(* ̄○ ̄)ゝーーーー!
まず短い文章ですが二つの内容が盛り込まれています^-^
(ちなみに細川藤孝が取次した室町将軍は足利義輝)

①に関する解説
義の御字とは、室町将軍・足利義輝の諱にある義の通字のことです。
通字は先祖代々受け継ぎ諱の中に入れる文字なので、名前の文字でも「輝」を拝領(偏諱)されるより「義」を拝領される方が格(グレード)が上です。
偏諱(一文字拝領)には本来であれば名字状(参考:横岳家文書)が発給されるものなんです。
もらったけど現存してないのか、官途状に「先例あるからOK」とあるので名字状は省略したかの、どっちかでしょう。

②に関する解説
「御袖判」とあるのは将軍・足利義輝が何らかの文書に花押をφ(.. )カキカキとサインINしたって事です。
①において「先例に任す」とあるので、偏諱とは別の件で、かつ書状そのものが官途状であるという事から、
義輝が袖判したのは「室町殿袖判口宣案」の事と思われます。

口宣案(くぜんあん)室町殿袖判口宣案は、カテゴリ古文書学入門で解説した通りです__φ(.. )

室町時代は公家様文書である口宣案に袖判することで、任官手続きを完了させちゃう官途抜け道コースを作ってたんです。
とうぜん、こんな抜け道は江戸期にはありません(口宣案という文書形式自体は続きます)

最後に「御拝領候」とあるでしょ?
超意訳すると「官位を称してもOKだっぴょ~ん♪」って感じ^^/

「修理大夫」の任官日は不明ですが、「義」を拝領したのは1564年9月13日だと言われています。
(と監修様から教えて頂いたので、名字状の日付が永禄七年九月十三日だったって事になると思う)

義輝に仲介したのは細川藤孝で、八代に欲説下向し下賜する役を担ったのは上野輝秀とあります。
(上野輝秀・・・輝の偏諱を受けてるので足利義輝の家臣と思いますが詳細は判りませんでした)

翌年1565年3月に義陽は室町幕府へ御礼の進物を送ってて、内容は以下の通りです。
1)将軍義輝→国光作の太刀・黄金100両
2)慶寿院(義輝の生母)→黄金10両
3)小侍従(義輝の側室)→黄金5両
4)細川藤孝→黄金10両・太刀馬代黄金3両
(太刀馬代は必要経費か?)
宮中へ進物を贈ったかは解りません。本来なら贈る慣例のはずですが、記録としては無さそうです。

室町殿袖判口宣案の解説にも書いたけど、当時の礼金って斡旋する官位によって決まってまして__φ(.. )
この場合の相場が30両だったそうで、100両は三倍以上と破格の金額( ゚д゚)ンマッ!!
これについては長くなるんで後編でお話したいと思います

でもって問題発生~この任官と偏諱(名前の拝領)にクレーマー出現!それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大河2014_裏小説【黒田家の陰謀_7・惨劇】

1588年4月20日・・・黒田家の誘いに応じて中津に着いた城井鎮房(きのい しげふさ)は、家臣を合元寺に置いて、わずかな供回りで中津城へと向かった。

中津城は当時まだ未完成だったので、城下は城普請の活気に溢れていたことだろう。
待機を命じられた家臣たちは供を申し出たが、既に覚悟していた城井鎮房は断ったのだった。

黒田官兵衛の嫡男・吉兵衛長政の元へ側室として(実態は人質)上がった娘・鶴姫に会わせようと言う触れこみだったが、
広間に通されると案の定、鶴姫はおらず、潜んでいた黒田兵に取り囲まれて襲撃を受けた。
城井は実は怪力・豪傑として有名を馳せており、さしもの黒田兵も中々仕留めることが出来ず手こずった。

文字通り黒田兵を千切っては投げ~という感じで奮戦したのだが、
供の家臣が一人・また一人と討たれ、多数で取り囲んでの攻撃に、流石の城井も体力の限界が近づいてきた。
息切れがしてきたところを見計らい、黒田吉兵衛長政が名刀・兼光で斬りかかり、城井の体勢が崩れたところを、後藤又兵衛基次が槍で仕留めた。

城井家の当主、城井鎮房・・・黒田家に騙し討ちにあい殺される・・・享年53歳
主君の帰りを待っていた城井家臣にも、黒田兵が差し向けされて、たちまち合元寺の境内は闘争の場となった。
必死の抵抗を試みた城井家臣だったが、完全武装の黒田兵に次々と討たれ、全員殺されたのだ。

合元寺の壁には、城井兵の返り血がベッタリとこびり付いた。
不思議なことに、その血はふき取り壁を何度塗り直しても浮かび上がって消えなかったのだと言う。
寺では仕方なく壁一面を真っ赤に塗ったそうだ。
現存する合元寺の壁は今でも真っ赤・・・赤すぎて怖いので画像貼るの止めました^^;;

実は合元寺で城井家臣が待機してたのは縁故があったからです。
住職が城井鎮房の息子だったの・・・( ̄ko ̄)チイサナコエデ
だから「赤い壁」にしたのは、住職であった城井家・次男の黒田に対する「ささやかな抗議」だったのかもです。
城井鎮房の娘・鶴姫も捉えられ、広津河原で侍女とともに磔にされて殺された。

*********史実への道********************
★裏フィクションでは側室って扱いにした鶴姫ですが、城井サイドの伝承だと正室として嫁ぐ事になってるんで、
既に正室(糸姫)も一女もいる長政相手だと、完全に結婚詐欺です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
伝承が、あんまり設定に無理があるんで無難に側室ってことにしました^^;
*********史実への道・2********************
鶴姫の最期は豊前における伝承でして黒田側の記録と違います。
自分は内容未確認ですが、黒田家譜によると鶴姫は城井谷に戻ると尼となって一族の菩提を弔い生涯を終えたことになってます。
城井一族の悲劇に関しては、御家再興運動の一環で江戸期に盛んに宣伝活動をしてたらしく、講談本で書かれていくうちに話が盛られていったようなんです。
城井姓を宇都宮姓と書いているのも江戸期講談(=現代における時代小説)です。
近年では鶴姫の最期は黒田家側の記述が妥当でないかという見方も出ているそうです。
**************************************************
人物・黒田如水(今回はダーク役な黒田官兵衛)

4月24日・・・肥後の一揆・残党狩りのために従軍していた城井の嫡男・朝房(ともふさ)にも悲劇が待っていた。

家臣壱「若殿!煙が・・・火事です!」
朝房「なに?火元はどこじゃ?すぐに消火にあたるのだ!」

家臣弐「それが火元は宿坊の中ではございません!煙は外から入って来ます!」
朝房「?どういうことだ?外が火事なのか?誰ぞ、様子を見て参れ」

家臣弐「若殿!出入り口が全て外から閂(かんぬき)が掛かっております!外へ出られません!!」
朝房「???いったいどうしたことじゃ」

その間にも煙は宿坊の中に入ってくる。
「ゲホ・ゴホ」息苦しくなってきた朝房と家臣たちは、煙を避けて台所の土間へと集まった。
家臣の一人が煙で涙が止まらないを堪えて、格子を開けて外を覗き見た。

家臣参「若殿!宿坊の周囲には兵がビッシリと取り囲んでおります。これは何者かの襲撃です!」
朝房「夜陰に忍んで火を掛けるとは、肥後の一揆衆の残党の仕業か?」

家臣弐「火は隣の加藤主計頭(かずえのかみ=清正のこと)も気づいているはず、おっつけ助けが参りましょう!」
家臣参「若殿!これは一揆衆ではありません!旗指物はありませんが騎馬武者の甲冑に見覚えが・・・吾らを取り囲んでいるのは黒田家の兵です!!」
朝房「~~~~~~~~さては黒田ぁぁぁ!謀りおったなぁ~~!!」

朝房は土間を駆け降り格子を開けた。煙が格子の合間から、どっと入ってくる。
煙を吸い込まぬように夜着の袖で鼻と口を防ぎながら、外へと向かい叫んだ。
朝房「(# ゚Д゚)・;'.和議を結ぶとウソをつき、武士にあるまじき卑怯な騙し討ち!これが黒田の陣法か!」
黒田家の兵士たちは無言のままだった。運良く抜け出す城井兵がいたら撃とうと鉄砲を構えている。

そのころ加藤家の宿坊でも、隣の宿坊から火の手があがり騒ぎになっていた。
加藤家臣「殿!城井の宿坊が火事です!こちらに類焼する危険もありますゆえ、鎮火の加勢に参りましょう!」

主計頭清正「捨て置け!こちらに火の粉が飛ばぬようにだけ注意するのだ」
加藤家臣「は?」
主計頭清正「我らは何も見なかった、聞かなかった、城井の宿坊は我らの加勢の甲斐無く焼け落ちるのだ・・・よいな!」

加藤家臣「・・・畏まりましたm(_ _)m」
清正の家臣も何事か起きているのを察し、主の言葉に従った。

(これが官兵衛殿よりの依頼なのだ・・・致し方ない・・・( ̄^ ̄;))
清正は苦い薬を嚥下するような、込み上げてくる複雑な心中にフタをするのに、一晩苦悩する羽目になった。

「ゴォォォ・・・バキバキ・・・」火が炎となって建物を駆け巡る音とともに、宿坊の何処かが崩れた轟音がした。
朝房「・・・・もはや、これまで・・煙に巻かれて見苦しい死に様を晒すくらいなら腹を切る!」
  「皆の者!これが今生の別れじゃ、この上は共々に魂魄となって城井谷へ帰ろうぞ!」
城井家臣「応!!」「若殿!御供仕る!」

朝房は家臣たちの返事に「うむ」と答えると、短刀でもって一気に腹を一文字に切った。
(父上・・母上・・・無念でござる・・・竜子、そなたの元へ無事に帰ることは叶わなんだ・・・無事に腹の子を産んでくれ・・・!!)
やがて劫火が宿坊を押し包み、轟音とともに建物が崩れ落ちた。

夜が明けて、怖いもの見たさで現場を見に行った加藤主計頭清正は、余りの凄惨さに息を呑んだ。
人肉の焼けた時に発する独特の臭気が充満し、息をするもの気持ちが悪い。

直接に手を下してないとはいえ、黒田の片棒を担ぎ、事態を傍観して朝房を見殺しにしたことに変わりは無い。
後難の祟りを恐れた加藤主計頭は朝房を祀り、その御霊を鎮めるための神社を建立したのだった。
(※現存:宇都宮神社、正確に言うと再建です)
********************************************
若いころの加藤清正は、あまりにも負けず嫌いが嵩じるあまり、後年の慎重さ思慮深さには欠けていた。
天才軍師と謳われた黒田官兵衛が、若い加藤清正の行動を操ることなど簡単なことだっただろう。
清正が我々が知ってる名将になるのは「朝鮮の役」での苦難を経て、更には「関ヶ原の戦い」で人の心の裏表を、イヤというほど経験してからだと思う。
********************************************

城井一族と城井の分家・野仲家が、黒田家によって滅亡したことを知り、豊前・中津の国人たちは全ての抵抗を諦め、黒田の軍門に従った。
城井谷の領民は「良き殿様」だった城井家を懐かしみ、黒田家に心から懐くことは無かった。

それもそのはず・・・新領主が黒田家になってから税率が、倍増したから。
これは黒田家が意地悪や見せしめに城井から搾取するために重税になったのではなく、豊前黒田領全体の話です。

1・太閤検地により土地の計測方法が変化して税率が増えた
2・秀吉の築城趣味(聚楽第・伏見・大坂etc~)と、遊び(北野大茶会や醍醐の花見など)のため相応の諸役に応じるため税率増えた
3・朝鮮の役の出兵のために・・以下略
4・豊臣政権は首都・大坂、政都・伏見のため大名屋敷が二ついるため維持管理のため(涙目の以下略

但し正確な増税比率などは、自分が知識不足なんで判らなかった^^;
ですが太閤検地そのものが、無税だった隠し田などを正確に把握する意図もあるので、程度の差はあれど必然的に税率は上がります。

絢爛豪華な桃山文化の主役・豊臣政権のために各大名の財政は破綻寸前で、民力を休ませるなど到底出来ません。
黒田家も自分たちの本城・中津城の築城さえ半ばでストップしたままだったほどです

だから黒田官兵衛はケチで倹約して、貯め込んだ金で「大名貸し(つまり大名相手に金融業です)」して財テクに励んだのです。
・・・え?・・・貯めた金で中津城を完成できなかったの?・・ですか?
いかにビンボのドン底であっても「いざ出陣!」のための軍資金に手を付けないのは武家の心得です!(`・ω・´)キリッ

でも城井谷の領民には黒田家の台所事情なんて解りませんし、黒田家にとっても財政状態は社外秘です。

城井谷の母親たちが、幼子に聞かせる御伽話のなかで「良い殿様」とは城井家のことを指すし、
近代まで酒席や祝い事で、黒田武士の心意気を唄った「黒田節」を唄うことは無かったそうです。

鎌倉から数百年続いた城井家の嫡流は滅亡しました・・・・
あ、いえ一筋の光明が残っています。
英彦山に逃れて密かに出産した朝房の妻・竜子が、見事・男子を出産したのです!それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大河2014_裏小説【黒田家の陰謀_6・死への招待】

********史実への道*************************
城井の降伏の取次をしたのは、実際は援軍に入った吉川広家だったそうです。
城井は僧形となり号は宗永。
吉川家文書に遣り取りの書状が残っているそうですが内容が確認できなかったのと、
大河裏フィクションなんで伝承通りで行きます^^/
***************************************

外交僧で秀吉の取次の一人だった安国寺恵瓊。
彼には交渉の成功報酬として、大名たちから多額の礼金が支払われた。

表の帳簿に出ない収入でもって、恵瓊は沢山の茶道具を買ったり、幾つもの寺院を改築・修繕・移築などを行っている。
おそらく黒田家からも恵瓊には、相応の礼金が支払われたことだろう。

「城井家との和睦」が公用(秀吉の命令)か、はたまた私用(黒田家個人の依頼)だったのか、
当事者(恵瓊)が死に、黒田家の記録も沈黙している以上、真実は闇の中である。

援軍だった吉川軍には攻撃を手加減させて、和睦の交渉は高名な安国寺恵瓊。
城井家を油断させるために、稀代の軍師・黒田官兵衛の仕掛けた巧妙な罠を、
いったい誰が見抜けるだろう・・・

城井家では、自分たちの要求(本領安堵)が通ったと信じて疑わなかった。
和睦の条件に従い、籠城に詰めていた兵士・地侍たちを、それぞれの村に帰し、
当主・城井鎮房(きのい しげふさ)の愛娘・鶴姫(13or16歳)を、官兵衛の嫡男・吉兵衛(黒田長政のこと)へ側室として輿入れさせた。

さらに喜ばしいことに、城井家の嫡男・朝房(ともふさ)の妻・竜子(秋月種実の長女)が懐妊した。
あとは、もう一つの和睦の条件「嫡男・朝房が肥後一揆・残党鎮圧に出陣すること」を果たすだけだ。
鎌倉幕府・守護職の家柄・・名族・城井家の行く末は安泰のはずだった・・・・。

1588年2月9日~足利義昭(出家して昌山道久)が将軍職を朝廷に返上・これにより室町幕府は正式に幕を閉じた
同年3月10日~黒田官兵衛による「城井家抹殺計画」が始動する

人物・黒田如水
(幸麿さん作画・今回はダークな役の黒田官兵衛)

3月上旬・城井家の嫡男・朝房が兵を引き連れて肥後へ出陣した。
到着した先の肥後では、黒田官兵衛に因果を含まれた加藤清正が待っている。
加藤清正は、この時から「(外聞が悪くて)人には言えない黒歴史」を黒田官兵衛と共有してしまう。

同年・4月8日~黒田官兵衛は城井家の分家・野仲鎮兼(のなか しげかね)を攻撃し滅亡させる
野仲家は竜子の弟・高橋元種と過去に同盟関係にあり、九州征伐の前哨戦でも豊前で抵抗を続けた。

だが黒田・吉川・小早川の攻撃により各個撃破され、已む無く降伏したものの不満が残り、本家・城井の謀反に加担していたのだ。
本家と分家で強力タッグを組んでいたのが、和睦で兵を撤退し完全に油断していたので、ひとたまりも無かった。

そして城井家では「分家の野仲家滅亡」の知らせを聞いて、初めて黒田家に騙されたことに気づいた。
再び謀反を起こそうにも、肝心の兵力は嫡男・朝房が引き連れて肥後へ出陣してしまい、留守兵しかいない。
しかも「和睦の条件」だったので、愛娘・鶴姫は黒田家の中津城内にいる!

朝房を肥後一揆の残党狩りに連れ出したのは、父・鎮房と引き離し城井谷の兵力を分散させるため!
鶴姫を黒田吉兵衛の側室にしたのは、和平のためでなく城井が抵抗できないように人質として盾にするため!
領地安堵もウソ!恵瓊の交渉も城井を油断させる為、その場限りの言葉で何もかもがウソだった!


そして黒田家から「ご息女の鶴姫は健やかに過ごしておいでです。久しぶりに親子で語らっては如何です?ぜひ中津城へ遊びに来て下さい^-^ニッコリ・・・と、招待の文が来た
家臣たちは「これは罠です!行けば黒田の者に殺されます」と必死で止めたが、
城井鎮房は「もはや逃れようも無いことならば、逃げ隠れせず招待に応じよう」と行くことを決意したのだった。

***********************************************

「義父上さま!いま何と仰せになられました?!」竜子は己が耳を疑い舅・城井鎮房に問い返した。
「明後日・・・ワシは黒田の正体で中津城へ参る・・・そなたは離縁するゆえ、実家の秋月に帰るのだ。」
舅の言葉は、竜子には余りにも無体・無常に響いた。

「義父上さま!城井の一大事に、わたくしだけが城井谷から出されるなど余りにも情けなきお言葉。」
「わたくしに何か至らぬことがあれば何なりと申し付け下さい!」
「どうか、ここで殿(竜子の夫・朝房のこと)の帰りを待つことをお許し下さい!!」
竜子の懇願は尤もなことだったが、こればかりは許すわけには行かない。

「竜子殿・・・・・・・・・・・・・息子のことは諦めてくれ・・・」
「何もかもが罠だった以上、あれが生きて戻ることは無い・・・」
「おそらくワシも中津で死ぬ・・・であれば、そなたの体内にいる赤子が城井嫡流の血を引く最後の子になるやもしれぬ」
「嫁としての務めを全うしたいと願うなら、城を出て何としても生き延びて子を産んでくれ」

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!」竜子は声も無く涙を堪えるので精一杯だった。
舅で当主である城井鎮房の言葉は絶対だ。
嫁の立場で逆らうことなど許されない。
たとえ、それが悲しい知らせであっても「城井谷で待ちたい」という竜子の願いは叶うことは無いのだ。

「わかりました・・・秋月の実家に身を寄せます・・・ですが離縁ではなく城井の嫁として必ずや嫡男を産んでみせます!」
さすがの城井鎮房も、竜子の揺るぎ無い決意に「嫁の分際で・・・」と叱責することは憚られた。
とにかく、この気丈な嫁を逃がして腹の赤子を黒田家の追手から守らなくてはならないのだ。

竜子は慌ただしく身支度を整え、嫁入りの時に実家の秋月から付けられた家臣・深見に伴われて城井谷を出た。
しばらくして街道の分かれ道まで行くと竜子は「その道ではなく右へ行くのです」と輿の中から深見に命じた。

「?姫様、財部(秋月の領地・現在の宮崎県高鍋市)なれば、こっちですが?」
「日向(宮崎県のこと)へは行きません。筑前(福岡県)へ行くのです」

「筑前!豊前の隣ではございませぬか!秋月の旧領とはいえ豊前から近すぎて黒田家に見つかってしまいます!」
「良いのです。筑前に入ったら英彦山へ行きます。義姉上(竜子の兄嫁)の実家で、かつて父と盟約を交わした間柄。必ず匿ってくれます」

「それはそうでしょうが、英彦山は霊場とはいえ往時のような武力は失っております。黒田の手の者から守り切れるか・・・」深見が不安を口にすると、
「忘れたのですか?今の筑前は小早川家支配・英彦山も管理下にあります。」
「だから黒田家が英彦山に、直接わたくしの身柄を引き渡せと、要求することは出来ません。」
「まず小早川家に引き渡しの了解を得なければならないのですよ。」
「こたびの城井の対する仕様を関白殿下が領解していたとしても、城井に手こずって罠を仕掛けて滅ぼそうとしている・・・などと他家に知られたくないはずです」
「日向への道中は遠すぎて、逆に黒田家の追手に阻まれたら逃げようがありません。英彦山の方が安全です。」

深見は、竜子の言葉に「なるほど」と思うと同時に(さすがは大殿の血を引く姫君だ)と、舌を巻いた。
「さぁ、判ったのなら筑前へ行くのです。多少輿が揺れても構いません。急いで!」

生きなければ・・・何としても生きなければ・・・そして無事に赤子を産んで見せる。
産まれる赤子が滅びゆく城井家の明日への希みになるのだ・・・!
(わたくしは秋月の娘だ・・・決して最後まで生きることを諦めたりはしない・・・!)

竜子が無事、逃げたのを確認すると城井鎮房は、中津城へと出発したのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

研究_与賀龍造寺_2・少弐政資

本記事では与賀城と関わる部分のみとする

★与賀城入り---文明14年(1482)

★一次史料----なし

★佐賀市史(中世(二)4少弐政資と佐賀、531頁)より
『藤龍家譜』によると、龍造寺家氏は城西の小津東郷のかつて政資(政尚)の父教頼が住んだ地に居館を置いた。
これを与賀館(よかのたち)又は与賀城と称した。(中略)
なお『藤龍家譜』によると与賀社大明神・前名塚原大明神(与賀町・与賀神社)を鬼門の鎮守としたのである。
あたかも政資入城の夜盗賊が侵入したが龍造寺家氏は藤折長門守と共に警衛し抽賞されている


元出典・藤龍家譜は一般公開されていない為、原典未確認
与賀城を置いたのは龍造寺家氏とあるが、教頼が与賀に入った年(1448年)から34年経過していることから、
家氏ではなく息子の康家ではないだろうか。
混同される理由の一つとして、代々隠岐守を継承してた事があげられる。

「抽賞されている」の部分だが、龍造寺家文書に少弐政資官途吹挙状があり、発行年度が延徳元年(1489年)と年代的に近く該当性が高い。
なおこの文書で官途吹挙されているのは、龍造寺康家であることから政資を迎い入れた龍造寺当主は隠岐守康家と思われる。

★北肥戦誌(九州治乱記)巻之七(156頁)より
斯(か)かりし程に少弐、又御勘気を蒙りて大宰府と出で、肥前国へ赴き、亡父教頼の居られし與賀の庄の奮地を點(てん)じ、己が居城とせらる。文明十四年春の頃なり。


北肥戦誌だと龍造寺の事には触れられてはおらず、政資本人が己の居城とした事になっている。
時期も春となっているが、佐賀市史によると1482年4月3日に川上与止日女社に領地を寄進していることから、
4月初旬には肥前入りしてたと思われる・・・と言った記述がみられる。

★歴代鎮西志
文明10年に少弐氏没落と記述の後、数年は少弐に関する記述なし。
また文明14年に肥前入りした時の記述内容も俄かに信じがたく、佐賀市史においても一切参照していない。

佐賀市史では藤龍家譜の記述に紙数を割いている。
とはいえ、与賀城(館)を少弐氏が築城したのか、龍造寺が築城したのか、いずれにせよ全て二次史料が出典の為、断定的な記述をするには未だ熟考を要すると思う。

個人的には、少弐氏が肥前国佐賀郡与賀庄に入った事自体、少弐氏が彼の地に由縁があったのではないかと推測しているのだが、現在のところ論証しうる文献は見当たらない。
これは与賀庄が「いつ龍造寺の所領となったか」という事に関わってくるため、典拠となる文書が見つからない限りは踏み込んだ記述は単なる推測だけになるので避けたいと思う。
(佐賀市史年表の方に建武2年(1335年)12月19日大友氏時と足利義詮に与賀を安堵されたとある。)
(ただし年表には元出典の記述がないため、自分自身は確認にするには至っていない。)

少弐政資は1497年に大内に敗れて自害し少弐は再び没落する。
次に与賀城に入るのが龍造寺胤家なのだが、そのあいだ与賀城の状況は不明

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大河2014_裏小説【黒田家の陰謀_5・和睦の条件】

豊臣秀吉も嫌いだが、自分は安国寺恵瓊も嫌いだ。
俗世を捨てた僧侶でありながら、俗世の権力に関わり続けた男・・・

政治オンチの毛利輝元を、利用するなんて恵瓊が悪・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
すいません~~~毛利&吉川ヒイキが嵩じて恵瓊嫌いになっただけです(/▽*\)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「追撃しないとは合点がゆきませぬ。何か秘策でもあるのですか?」
吉川次郎五郎(後の広家~この時期は、まだ官位についてない)は黒田官兵衛に尋ねた。

豊臣秀吉の命令で、吉川軍が黒田軍の援軍として豊前入りしたのが、1587年の11月のことだ。
豊前の国人領主・城井鎮房(きのい・しげふさ)が謀反を起こした翌月です。

鬼吉川の異名をとった吉川元春が前年に病死し、嫡男も相次いで病死したため、急きょ三男だった吉川次郎五郎が家督を継いだ。
「武勇」という点では、父の盛名に引き換え地味な次郎五郎だが、決して侮れるレベルではない。

最初、城井軍の地元ならではのゲリラ戦に手を焼き、緒戦では大敗北した黒田軍。
だが吉川軍の助勢により劣勢を挽回しつつあり、この日も形勢不利と見た城井軍が撤退しはじめたので、
さらに戦果を得ようと追撃に行こうとした吉川次郎五郎を、黒田官兵衛がストップをかけたのだ。
尊敬する軍師の言葉に従った吉川次郎五郎だったが、やはり納得できず官兵衛に質問したのです。

人物・黒田如水(黒田官兵衛~幸麿さん作画^^b)

「秘策などござらぬ」「は?」官兵衛の返答に吉川次郎五郎は混乱した。
「次郎五郎殿、他ならぬ貴殿だから打ち明け、御頼みしたい。」官兵衛は、そう言うと頭を下げた。
「?!い、いったいどうされたのです?頭を上げてくだされ。頼みとは何でござる?」吉川次郎五郎は訳が判らない。

「貴方が活躍すると、わが息子・吉兵衛(長政のことです)の失態が更に目立ち、関白殿下の不興を買いましょう。どうか、これ以上の攻撃は適当なところで抑えて頂けないか?」

黒田官兵衛は「秀吉の軍師」として活躍しただけに、当の秀吉や徳川家康にも警戒されていたが、
一個人としては面倒見の良い男だった。

家督を継いだばかりで戸惑っていた吉川次郎五郎に、領国経営のイ・ロ・ハ、を伝授したのは黒田官兵衛だったんです。
もちろん当時は政治的な意図はなく、純粋に親切心からだった。
感謝と同時に黒田官兵衛の知謀に感嘆した吉川次郎五郎は、官兵衛に頼み込んで義兄弟の杯を交わしていた。
(衆道関係では無い)

援軍に来た武将に対し「手柄を立てるな」など、余人には頼めない。
自分を師父のごとく尊敬している吉川次郎五郎だから言える。
(そのために関白殿下に援軍の人選で吉川を指定したのだ)(-人-)☆彡~~タノムタノム

果たして吉川次郎五郎「我ら義兄弟の間柄で水臭い。そのような仔細であれば最初から言ってくだされ。吉兵衛(黒田長政のこと)殿に良きように計らいます^-^」と快諾。
「とはいえ、このままでは戦が長引き、やはり殿下の不興を買いはしませぬか?」と、吉川次郎五郎は尤もな疑問を官兵衛にぶつけた。

「その気遣いなれば大丈夫です。折を見て城井とは矢止め(停戦)とし、和議を結びましょう」
吉川次郎五郎は、官兵衛の庭へ散歩でも行くような軽々とした返事に、
(やはり、この方の知謀は底知れない)と、ますます尊敬の念を強めた。

安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)の生年月日は解らない。
詳細の経歴は省くが、元々は毛利家の外交僧(僧侶だけど外交官として使者・調停・仲裁役などをする)だった。
それが織田家臣時代での中国攻めがキッカケで、豊臣秀吉の知遇を得て引き立てられ、
今では毛利家だけでなく、秀吉の命令で四国や九州へと活躍の場を広げていたのである。

僧侶にしておくには惜しいほど、精悍な面構えで頭が大きく、何やら人格的な迫力オーラがある人物だった。
恵瓊が豊前入りした正確な月日は不明だが、援軍が11月なので、その後の12月ごろではないだろうか。

「では、和議の条件は城井家の本領安堵を約すことと引き換えに、兵を引き上げることと、盟約の証として城井家の姫君・鶴姫を吉兵衛(官兵衛嫡男・黒田長政のこと)殿へ輿入れすること・・・ですな」
恵瓊は黒々とした瞳を向けて官兵衛を見つめた。

「・・・吉兵衛殿は・・・確か異国の教えで「戒を授かった」と記憶してましたが・・」
僧侶の恵瓊はキリシタンの「受洗」という言葉を知らないのか、使いたくなかったのか、
仏教風に「戒を授かった(僧侶が出家するときに行う儀式)」という回りくどい言い回しをした。

黒田官兵衛の嫡男・吉兵衛長政は16歳で既に結婚(蜂須賀小六の娘)しているからです。
キリシタンの教えでは側室を持つことは許されないはずなのだ。

「は・・息子は、まだ若いですからな。ここだけの話、、、嫁は女腹なのか娘を産んだだけで未だ男子が授かっておらず・・・」
「蜂須賀家の姫君というだけでなく、嫁入りの時に関白殿下の養女という鳴り物入りで来ましたので、側室を設けるのを遠慮しておりました。」
と、いかにも黒田の内情を話すそぶりで語ると、恵瓊は好奇心が満たされたのか「それは難儀なことでしたな・・・」とだけ答えた。

だが恵瓊は、再び口を開くと「とはいえ、この条件は城井には随分と寛大でござるなぁ」と小首を傾げた。
他に裏でもあるのではないか?という探るような恵瓊の目線に、
(この○○坊主が・・・あれこれ詮索せずに、関白の命令通りに動けば良いのだ)と、官兵衛はイラ立つ心を抑えた。

城井軍は予想以上に強く、謀反の鎮圧は容易では無い。
非常手段をとる決意はしたものの、あまりにも外聞が悪いので出来ることなら世間に知られぬようにしたいのだ。
(そのためには、この詮索好きで智慧誇りの坊主を上手く利用せねばならぬ)

「いかにも、恵瓊殿の言われる通りでござる。関白殿下の許可は頂いたものの、これでは他の国人衆へ示しがつきませぬ」
「そこで、この条件に更にワシの案を追加したいのです」
「ほぉ・・どのような?」恵瓊は面白くなってきた・・・と、言わんばかしりに瞳を輝かせた。

「城井家の嫡男・朝房(ともふさ)殿に肥後の一揆鎮圧のために働いて頂くこと・・・を付け加えたい」
「なるほど・・・ 肥後の一揆も関白殿下の仕置きに不満ある者の仕業・・・その鎮圧に同じ動機で謀反を起こした城井を働かせることで、関白殿下への忠義を押し計ろう、というのでござるな」
「さて、その追加条件の扱いは、どのように?」と恵瓊は情景を想像したのか、ペロリと舌なめずりした。

「それはもう、恵瓊殿に全て一任いたす」と官兵衛が言うと、恵瓊は喜色を浮かべた。
(他人を操り動かすことに快感を覚えるのであろうか・・・この僧侶の智慧が恵瓊本人の身を滅ぼすのではないか・・)

ふと思った官兵衛だが、すぐに打ち消した。
いまは城井を倒すことだけ考えなければならない。
関白殿下の方針は、逆らう国人たちを全て潰すことなのだ。気の毒だが城井家との共存は不可能なのだ。

1587年12月3日~奥州へ惣無事令が発布された。
そして関白・豊臣秀吉は朝廷へ「肥後一揆鎮圧」を言上した。

実際には残党は活動を続けて完全鎮圧にはいたっていないが、
豊臣政権の威信に傷つくのを恐れた秀吉が、「鎮圧報告」を「してしまった」のだ。
黒田家は、ますます城井家に手こずっていることを世間に知られるわけには行かなくなった。
外部に漏れたら「秀吉の権威」に傷がつき、黒田へどのような処分が下るか解らない。

一方、城井家の方も肥後一揆が鎮圧されてしまえば、単独で戦うことは出来ない。
九州征伐や肥後一揆での大軍が、城井郡に襲来してくれば本当に滅びてしまう。
城井家は恵瓊の申し出を受けて、黒田家と和睦した。
それが城井家抹殺のためのワナになることなど、むろん知る由もないのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大河2014_裏小説【黒田家の陰謀_4・謀る】

≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
------------------------------------------------------------------------
≪参照データ≫
史料(孫引き)-秋月家譜、高鍋藩史話、南藤曼綿録、
WEBサイト---武家家伝_城井氏、戦国ちょっといい話悪い話まとめ、豊前の伝承あれこれ
------------------------------------------------------------------------
このシリーズは尺や予算と制約のある大河ドラマでは端折られた、様々な逸話と豊前に残る伝承などがベースです。
素人のチラ裏ですので、こんな話にもなるんだ~と大河の裏フィクションをお楽しみ頂ければ幸甚です^-^


室町幕府の支配体制は、緩やかな間接統治だった。

簡単な例で言うと、仮にA国の守護大名・A氏がいたとしよう。
A氏は京都在住で、任官地A国に赴くのは代理である守護代です。
守護代もA国を直接支配しておらず、A国の有力国人Qを通じて国を治めているのです。
有力国人Qは、守護大名A氏の家臣ではなく「被官(ひかん~守護大名に従属する国人のこと)」です。

身分的な拘束力は弱いので、有力国人Qは守護大名Aの裁定に不満であれば、隣国の守護大名Bの被官になることが出来ます。
そんなことをすれば、A国とB国の国境が曖昧になり両国が揉めるけど、
家臣でない国人領主Qには関係の無いことですな ( ゚Д゚)y─┛~~

被官先の選択の自由だけでなく、毛利家のように財布に余裕あれば朝廷に献金して官位だって貰えちゃう。
足利将軍家に献金して、室町幕府の御家人(=直参旗本ね)と守護大名の被官を兼務したってOK(=^・ω・^=)v ブイ
そんな感じなんで、実力者である有力国人Qさん家の蔵を「鑑定団」すれば、足利将軍家から拝領した茶器や刀なんかがあったりします(*´艸`)

戦国時代カオスのころは少ないですが、「貴方だけに忠義を捧げるわヾ( ̄・ ̄*)))チュ♪」っと、
自由な国人領主の地位を捨て、誰かの家臣になることだって選べた。

家紋・豊臣(豊臣家紋ロゴ)

豊臣政権が出来た時、国人領主たちは今までの支配層のように、軍役・諸役さえ果たせば、自分の領地は安泰だと勘違いしていた。
だが秀吉の目指したのは、「室町幕府より強い政権を作るために」「全国に自分が選んだ大名を配置し彼らに領地を直接統治させること」だった。
そのために最も障害となるのが「中間支配層である国人領主」だったんです。

本貫地(先祖発祥・土着の土地)を守る・・・一所懸命という言葉を産んだほど国人領主には何よりも大切なものだった。
だが彼ら国人領主を本貫地から引きはがし、秀吉の選んだ大名の家臣としなければ「秀吉の目指す近世風中央集権」は出来ない。
新たな国造りのために、国人領主たちは麻酔無しで歯を抜くような・・または生きたまま全ての血を入れ替えるような凄まじい苦痛・苦悩にのたうち廻ることになる。

武家として生き残るためには、自由を奪われ生殺与奪の権利を握られた家臣になるしかない。
土地に拘り、そこに留まりたいなら武士を捨て農民になるしかない・・・

二つに一つの選択しかなく、この時の国人領主の苦悩を察することが出来るのは、明治維新で髷を切り大小の刀を捨てるしかなかった最後のサムライたちぐらいだろう。

国人領主たちは、1587年6月13日に発表された九州征伐の後の国分けで、
天下人・豊臣秀吉が自分たちの土地の領有を認める意志が無いことを知った。

同年8月、己の本貫地を守るべく肥後(熊本県)で国人一揆が発生した。
そして・・・同年10月、豊前で城井家が国人一揆を起こした!

鎌倉時代より数百年続いた本貫地が、突然やってきた黒田家のモノになるなんて耐えられない・・・!!
城井郡では代々城井家が殿様・・・誰かの家臣となって頭を下げるなど思いもよらぬこと!
一所懸命の城井兵の士気は高く、地元の強みでゲリラ作戦を展開。

出陣した黒田官兵衛の息子・黒田長政と後藤基次は大敗北を喫した。
どれくらいの負けっぷりかというと、あの後藤が雑兵の的になるのを避けるために、
馬を乗り捨て(騎乗してるのは将官級だから)目立つ陣羽織(将官クラスは品物が良い)を脱ぎ捨て、
思いっ切り敵に背を向けて、ケツまくって戦場を逃げ出したほどなのだ。

命からがら帰還した長政は、余りの大敗北に「責任とって自害する!」とまで騒ぐほど動揺した。
秀吉の軍師として高名だった黒田官兵衛は「正攻法では城井に勝てない」と悟り策を講じた。

家紋・黒田(黒田家紋ロゴ)

「城井と和睦するだと?」秀吉は語気を荒げた。
「はい、肥後に続き豊前まで一揆が起きたとなれば、殿下の御威光に傷がつきます。」
秀吉の逆鱗に触れる前に大急ぎで説明しなければならない。官兵衛は早口でまくしたてた。

「城井一族の一部は人質を差出し恭順しておりますが、残る者らの結束は固く調略を施しても一蹴されます。」
「であれば、いったん和睦し彼奴らが囲みを解いて油断したところを討つしかありません」
「領地安堵をエサにすれば、彼らは応じざるを得ないでしょう」
「つきましては、そのために殿下の臣をお借りすること、お許しいただけないでしょうか?」

「ほう・・・誰を使うつもりだ?」官兵衛の策に興味を抱いた秀吉は、身体を乗り出した。

「一人は援軍として毛利家の吉川次郎五郎(広家のこと)殿です。和睦の話を持ち掛けるにも、こちらが劣勢のままでは、程よい条件を出すことが出来ませぬ」
「なるほど・・・あのカブキ者は、そちに懐いておったの」秀吉は口辺に笑いを浮かべた。

「いま一人は安国寺恵瓊殿・・城井一族との和睦で働いてもらいます」
「恵瓊は、いま肥後だが・・・よかろう。で、恵瓊には官兵衛の真の目的は伝えるのか?」
「いえ、城井家を油断させるためには、恵瓊殿には本気で和睦に動いて頂きますm(_ _)m」
「ふひょひょっ!あやつに下手に全て話すと、余計な智慧を巡らせるよってのぉ」
何か思い出したのか、笑い出した秀吉の機嫌は、先ほどと打って変わり上々だった。

「さらにもう一人、主計頭(かずえのかみ=加藤清正のこと)です。」
「?虎をどうするつもりじゃ?」秀吉は加藤の虎之助を縮めて虎と呼んだ。
「城井家の当主・鎮房と嫡男・朝房の両名は手ごわく、一か所で固まっていると厄介。主計頭殿には嫡男・朝房を頼み、親子を別々の場所で始末します。」
官兵衛が「始末」という言葉を使った時、秀吉の眉宇が微かに動いた。

「主計頭殿は武辺者でござる。我が仕様に諾と言って頂けなかった折には、殿下の御威光をお借りしてよろしいでしょうか?」
ここまで言って官兵衛は大きく息を吐いて、秀吉の言葉を待った。
武辺者の加藤が嫌がる・・・それは戦場で決着をつけず尋常でない手段を用いる、ということだ。
秀吉が承諾すれば、暗黙のうちに城井家の処分方法も承諾したことになる。

「秋月の娘に竜子という見目麗しい姫が城井に嫁いでおる。官兵衛は知っておるか?」
「は・・名前だけは。。。その竜子を殿下の元に連れて参ります」
頭の回転が速い官兵衛は、秀吉が竜子を側室にしたいのかと推量したのだ。

「ちゃちゃちゃ・・」秀吉は口を鳴らしながら首を横に振った。
「もし、竜子が城を枕に自害するというなら、好きにさせよ。逆に城井の城から落ち延びたなら、捉えずに好きな地へ行かせるが良い。」
「生き延びることを選んだ竜子は、黒田にとって喉の奥に刺さる骨のような煩わしさを感じるであろうが、その方が己が無事を噛みしめるというものだ。」
官兵衛は秀吉の意図が解らず返答に困った。

「官兵衛よ・・・駕籠の中の小鳥が大空で生き延びることが出来ると思うか?試してみるのも一興」
「必死に生きる者の運命を自由に弄ぶのは天下人だけが許される喜悦じゃ・・・そちも、その喜びを知りたいか?」

「い・・いえ!拙者の器量では、殿下の境地に至ることなど思いもよりませぬことです」
官兵衛が慌てて返事をすると、秀吉は官兵衛の問いかけに応とも否とも言わず「ふひょひょヾ(  ̄▽)ゞ」と笑いながら上座から奥へと姿を消した。

広間に一人取り残された官兵衛は、秀吉ではなく天下人という存在に言い知れぬ恐怖を感じて慄然とした。
(城井の始末に失敗したら黒田の家が潰される・・・!!)
官兵衛は改めて手段を問わぬ非情の決意を固めたのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

戦国お歳暮御礼~龍造寺家文書_111_大友義鑑書状

時期的には早いが古文書の収蔵順です__φ(.. ) メモメモ

緑文字---原文
※読み下し(てるつもり)
★超意訳または補足




為歳暮之儀、太刀一腰、織筋一端、併鴈送給候、祝着候、
※歳暮の儀の為に、太刀一本、織筋一反、併せて鴈(ガン)送り給い候、祝着候
★お歳暮に、太刀と反物、雁(がん)贈って貰ってアリガト~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

自是一振、表佳例候之趣、猶臼杵三郎右衛門尉可申候、恐々謹言
※是自(よ)り一振、表の佳例候の趣、なお臼杵三郎右衛門尉に申し可(べ)く候、恐々謹言
★お歳暮から(刀を)一本、表の佳例(=吉例)なんだよね。なお臼杵三郎右衛門に伝えときます。恐々謹言なぅ

十二月十五日   (大友)義鑑 (花押)

龍造寺民部大輔殿(龍造寺胤久)



織筋----横筋を太く織り出した絹織物でございますm(__)m
鴈------ガンorかり(現代では漢字は⇒雁)水鳥の総称で狩猟の対象でした。
(生け捕りか狩った後の獲物としてか、一羽なのか複数なのか、この書状のみでは不明です^^;)
臼杵三郎右衛門尉---臼杵鑑続

まぁ、見たまんまお歳暮の御礼です。
書状なんで年度は不明^^

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大河2014_裏小説【黒田家の陰謀_3・一揆勃発】

≪参照データ≫
史料(孫引き)-秋月家譜、高鍋藩史話、南藤曼綿録、
WEBサイト---武家家伝_城井氏、戦国ちょっといい話悪い話まとめ、豊前の伝承あれこれ
------------------------------------------------------------------------
このシリーズは尺や予算と制約のある大河ドラマでは端折られた、様々な逸話と豊前に残る伝承などがベースです。
素人のチラ裏ですので、こんな話にもなるんだ~と大河の裏フィクションをお楽しみ頂ければ幸甚です^-^
------------------------------------------------------------------------
黒田家の汚点は、如水に協力した加藤清正の汚点でもある。
いかに戦国の世とはいえ、武士にあるまじき卑怯な手段をとったことに、
良心が咎めた黒田家&加藤清正は、後日似たような行動をとっている。

城井家を匿ってくれた豊前・小倉6万石の毛利勝信を通じた交渉は、はかばかしくなかった・・。

関白・豊臣秀吉からの回答は以下の通り。

1・恭順の証として累代の家宝の供出・献上
2・豊前・城井郡を出て、四国・今治12万石への移封を承諾すること


家宝を手放すこともだが、鎌倉の御世から支配する城井郡を出るなど、アンビリバボー。
そもそも、それが出来たら、とうに黒田家に人質を出して家臣の地位に甘んじている。
豊臣政権の誕生は「先祖代々住む土地を守りたい」という国人の純粋な願いが叶え難い時代だった。

今治という土地は後に藤堂高虎が大名として入るのだが、
この時期は、まだ誰も入っていなくて豊臣政権の管轄下(蔵入地)にあったのです。

九州征伐で特別な功績があるわけでない城井家に与えるには、大きすぎる封土だが、
そもそも今治が12万石あった?と、言うとかなり怪しい^^;
なにせ長宗我部に与えた土佐一国の公式石高が7万石,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
土佐の実収は19~20万石ってことで、軍役・諸役は、それに応じたものが賦課されています^^;

とまぁこんな感じで超アバウト。
石高と実収が釣り合い、数字が治まるのは江戸期寛永年間(3代将軍のころ)まで待たねばならない。
とはいえ、やはり12万石という数字は大きく、城井家が承諾して引っ越したら、即インネンつけて潰す可能性が高い。

別説で移封先の土地候補として上筑後500町~~てのがある。
上筑後・・というのは筑後国の北部にあたります(京都に近い方を「上」と表現する)。

筑後の南部は九州征伐以後に柳川13万石として立花宗茂が入ります。
でもって立花の与力として、立花宗茂の実弟と縁戚の筑紫家が、それぞれ筑後入り。

九州征伐直後・過渡期の上筑後に「空き地」があったか、やや疑問ですが関白・秀吉にすれば、
城井が豊前・城井郡から出てさえくれれば、後の料理はカンタン~という思いが見え隠れします。

ちなみに1000町で、だいたい1万石でして、500町だと半分の5000石(アバウトです)。
城井郡という一郡を領していた本貫地より大幅減収になるでしょう。
これでは12家ある一族全てを養うことは出来ません。城井家単体の引っ越しが限界です。
ふかした伊予12万石であれ、リアル上筑後500町であれ、とうてい城井家が諾といえる内容ではありませんでした。

秀吉は豊前で最大の国人勢力である城井家の力を警戒していました。
1586年8月・・島津軍の北上により立花城が攻撃された時に、豊前でも高橋元種(秋月次男)が呼応して豊前で謀反を起こしました。

当時の豊前守護職は大友家でしたが、その反乱は忽ち豊前一帯に広がり、大友家では手におえなくなり、
関白秀吉は、黒田如水・吉川元春・小早川隆景・毛利軍兵3000を援軍に派遣したんです。

これらの援軍は、もともとは立花宗茂のための援軍だったのですが、
援軍来着を聞いた島津軍が撤退したので、フリーになった彼らを豊前鎮圧に向かわせたのです。

因みに、この時毛利兵3000を率いていたのは、仁保(旧姓神田)元忠です^^b
彼らが援軍に入ったのは10月のことで、豊前の鎮圧は12月。なんと二か月もかかってる^^;

豊前での国人たちの力を知った秀吉は、九州征伐後の国分けで豊前国を二つに分けた。
それが小倉6万石・毛利勝信と中津12万石の黒田家です。
でもって扱いの難しい城井家の城井郡を黒田家に押し付け託した。

毛利勝信が城井家を匿ったのは、下手に黒田家に協力して藪蛇になるのを恐れたのもあると思う。
入ったばかりの領地で謀反が起きるのは誰だって避けたい^^;

黒田家は1587年6月の国分け発表後、すぐに家臣団を引き連れて豊前・中津入りをし、
翌月7月25日には新領主として「掟書」を発布している。


時間が経てば経つほど、城井家には不利になっていく・・・

小倉でジリジリ焦る城井家に朗報?が舞い込んだ。
1587年8月13日・・肥後で大規模な国人一揆が発生したのである
九州征伐で華麗な陣容を見せた上方兵だ、すぐに鎮圧されるかとも思ったが、
一揆は一気に肥後一帯に広がり、肥後の領主・佐々成政だけでは手におえなくなり、大規模な派遣軍が動員された。

いま城井郡に戻って挙兵すればイケる・・・城井家当主・鎮房(竜子の舅)は決断した

「短い間でしたが、小倉での暮らしは楽しゅうございました」
夫の肩衣に香を焚き染めながら竜子が言った。

小倉の毛利家は引き留めたが、舅の城井鎮房の決意は変わらなかった。
正式に暇乞いの挨拶をする折には、きちんとした正装を整えたいという妻らしい配慮だった。
え?侍女にやらせないのかって?そりゃ新婚ですもの~言うだけ野暮ですよ~ (*´pq`)クスッ

「楽しい?」肩身の狭い仮寓住まいの何処が?と思い、夫の朝房(ともふさ)が問い返した。
「はい、表と奥に離れた城住まいと違い、殿を側近くで拝見できましたもの。市井の夫婦も、このようかと、楽しゅうございました^-^ウフフ」

(何と呑気な・・・)やはり女だ・・・と、言いかけた言葉を朝房は飲み込んだ。
この竜子の伸びやかな明るさに、ともすれば暗くなりがちな気持ちを幾度となく救われたことを思い出したのだ。
(竜子と夫婦の杯を交わして、まだ三月・・・今なら間に合う・・・)

「竜子・・・小倉を出たら、そなたは日向に実家・・」
「まさか実家へ帰れなどと言うおつもりでは、おりますまいな」

無礼を承知で竜子は夫に皆まで云わせず、言葉をかぶせた。
「殿にお尋ねします。此度の城井谷への帰還は、先に絶望し城を枕に討死するためですか?」
「馬鹿を申せ!肥後での一揆は燎原の如く・・・という勢いなのだぞ。関白の仕置きに不満な国人が、それだけおるのだ。城井も立ち上がれば、黒田家も交渉に応じざるを得なくなるはずだ。希みはある!」

「であれば、わたくしを実家に帰す必要など無いはずです。」
「いま、わたくしを実家に帰せば、心無い者どもに「城井は絶望しヤケになっている。勝つ見込みが無い証拠に妻を離縁したぞ」と、いらざる誹謗を受けましょう」
「殿が何というと、行く先が唐天竺であっても何処までも御供します」

顔を上げた竜子は目に一杯の涙を溜めて、それは今にも零れ落ちて頬を伝う寸前だった。

「竜子!・・・ワシが悪かった!そなたも一緒に城井谷に戻ろう、二度と離縁などと心無い仕打ちはせぬゆえ、安心いたせ!」
若い二人の絆は困難に向かって更に強まったが、だからといって、それどうにかなるという明日への保証は無い。
人生に挫折はつきものだ
。問題は、その後を「どう生きるか」なのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大河2014_裏小説【黒田家の陰謀_2・運命の時】

≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
------------------------------------------------------------------------
≪参照データ≫
史料(孫引き)-秋月家譜、高鍋藩史話、南藤曼綿録、
WEBサイト---武家家伝_城井氏、戦国ちょっといい話悪い話まとめ、豊前の伝承あれこれ
------------------------------------------------------------------------
このシリーズは表題にあるように歴史記事ではなく「小説」です 川* ̄д ̄*川ポッ
尺や予算と制約のある大河ドラマでは端折られた、様々な逸話と豊前に残る伝承などがベースです。
素人のチラ裏ですので、こんな話にもなるんだ~と大河の裏フィクションをお楽しみ頂ければ幸甚です^-^


数年前の新春時代劇で「二人の軍師」というドラマがあった。
軍師とは竹中半兵衛と黒田官兵衛のことだ。
時間の制約があるので、後半飛ばすのは仕方無いとして、割と健闘した方だと思う。

だが、その中で放映されなかった「黒田家の黒歴史」がある。
「民のため」と言うストーリーの設定上、割愛せざるを得なかった、黒田ファン痛恨の出来事・・・。

天才軍師・黒田官兵衛の唯一の汚点となる経歴でもあるのだが、
それは城井家に嫁いだ秋月竜子の運命に大きく関わることとなる。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「城井谷(きのいたに)を出る?!それでいずこへ参るのですか?」
竜子は思わず、夫の城井朝房(きのい ともふさ)に問い返した。

「うむ、小倉(同じ豊前国内)の毛利勝信の御好意に甘え、そちらへ仮寓することとなった」
「毛利様・・・父(秋月種実)が降伏した折も仲介の労を取って下さりました。実直な方だ・・・と父も申しておりました。」

毛利(中国の毛利家とは別)と聞いて竜子も少し安堵したが、その先はどうなるのだろうという不安が過った・・・。


1587年5月に島津家が降伏して九州征伐は終わった。
そして同年の6月13日に国分けが発表されたのだが・・・・速攻で揉めた(_´Д`)アイーン ☆

本領を安堵された大名リスト↓
豊後・大友~秀吉に助けを求めた事が、九州征伐の発端となったので保護されて本領安堵(* ̄・ ̄*)Vブイ
肥前・竜造寺&鍋島~鍋島直茂が九州征伐の前から秀吉に接触し好意を得ることに成功したため本領安堵(* ̄・ ̄*)Vブイ
薩摩と大隅・島津~~戦って敗れたものの、その後降伏・恭順したのと、九州征伐を早く終わらせたい秀吉の思惑が合致して日向は召し上げとなったが薩摩・大隅の本貫地は安堵

それ以外の豊前・筑前・筑後・日向・肥後は全て総入れ替え~~~ ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
いわゆる織豊系の大名たちに分配されて、在来の国人たちには寸土の領地も残されてはいなかった。

「関白に謀られたのやもしれぬ・・・島津討伐の軍役を果たしたのに沙汰が無いとは、あまりに無体!」
朝房は悔しさを滲ませて恨み言を口にした。

竜子は、躊躇いつつも
「ですが・・・義父上様(朝房の父で城井家当主の鎮房(しげふさ)のこと)が出陣されておられないので・・・関白殿下は城井の心底を疑っておられるのでは・・・」

新妻の言葉を聞くと朝房も気まずそうな表情になった。
確かに従軍したのは嫡男の朝房だけで、当主の鎮房は「病でござる」と称して城井谷を出なかったのだ。

「中途半端は身を滅ぼす・・・と言いたいのであろうが、父の願いは城井に往時の勢いを取り戻すことなのだ。
誇り高い父が成り上がりの関白に頭を下げる気持ちになれないのは解ってやってくれ」

「それは・・・もちろん。」
竜子は神妙に頷いたのだが、城井の往時というのは実は鎌倉時代のことだった。

現代の我々が「ドラゴンボール」や「ワンピース」を知ってるように、
戦国時代の人間にとって、源平の御世は絵物語に出てくるヒーローでありアイドルでもある。(江戸期も人気は継続)
その伝説の時代に城井家は豊前の守護職だったのだ、その頃に戻したいというのは途方もない夢物語に聞こえてしまう。

(これが嫡流と庶流の違いかもしれない)と竜子は心中思った。

嫡流とは、嫡子(長男または正室の子)が跡目を継いで行くことで、次男以下は何処までも庶流・傍流と呼ばれる。
本来なら、それが正しい流れなのだが戦国時代になって様相が変わる。

下克上の世となると、兄弟・一族で家督争いが起きるようになり、実力で当主になるものが出てくるからだ。
また戦場で当主や嫡男が戦死したために、次男以下が家督を継ぐ・・・という事態が多数発生した。

竜子の実家・秋月家も大友軍との戦で祖父・文種が自害し、嫡男で竜子から見れば叔父にあたる晴種が戦死したために嫡流が途絶えた。
城も領地も全て失った秋月家を再興したのは、次男で竜子の父・種実だ。
秋月家は種実の代から傍流が家督を継いだことになる。


尤も、傍流も嫡流も「スタートに誰を置く」かで変わってくる^^;
城井家は関東の宇都宮家から分かれた「宇都宮の分家」なのだが、
在来地となった豊前の地であれば城井家が頂点であり嫡流となる。
城井谷の領民にとっても「おらが殿様は城井の殿様^-^」それ以外は考えられないというほど懐いている状態だ。

(嫡流の誇りがある上に、家が滅ぶ苦渋を知らない城井家には、秋月のように「生き残ることのみ考える」というのは無理かもしれない・・・)

さらに竜子が嫁いで驚いたのは、城井家と本家の宇都宮家の繋がりの深さだった。
関東と九州と離れているにも関わらず、互いの消息をやりとりしているし、
数代前には宇都宮の当主を豊前・城井家から迎えたことさえある。
舅の城井鎮房は関東・宇都宮家が次第に衰微していくのを、隣の家が火事になったかのように日々、案じていた。

そのような城井家だからこそ、まだ婚約中の竜子の実家を思い「降伏した秋月の助命嘆願」を関白に願い出てくれたのだ。
竜子は、そのことに心から感謝して「城井家の嫁」に徹すべく努めて来た。
そんな妻の健気さを夫の朝房も愛しく思い二人は仲睦まじく、朝房は側室を置かず竜子を大切にしていた。

(城井谷の領地さえ安堵してくれれば、城井は関白に忠義を尽くすに違いない・・・殿下が城井の誠実さを考慮に入れてくれないものか・・・)

このままワシに従えば良いが、逆らうなら討伐せねばならぬ
秋月から城井へ嫁ぐ許しを得る為に対面した折の、関白の厳しい言葉が竜子の脳裏を過る・・・

(交渉の余地は残されているのであろうか・・・関白殿下の古参家臣であられた毛利勝信様を通じて・・・)

黙り込む妻の様子を見て朝房が声をかけた。
「竜子・・・嫁いで、まだ程ないというのに、すぐに転居せねばならぬ・・・そなたには、すまぬと思うが辛抱してくれ」
「辛抱だなんて・・・小倉は弟の元種が若年のころ住んでいたことがございます。縁がある土地ですもの・・・だから、きっと大丈夫ですわ^-^ニコ」
朝房は「また竜子の「訳もなく大丈夫」が出たな」と言ったが、その声には妻の言葉にホッとした明るさがあった。

「国替えで日向に入国した父が、よく申しておりましたわ。「秋月の空の蒼さは、この世の何処よりも美しい」と」
竜子が懐かしそうに言うと朝房も「ほう、城井谷も負けてはおらぬぞ、竜子はどちらが良いと思う?」
と揶揄するように訊ねた。

「わたくしは殿と共に住むところなら、どこでも天下一でございますので、一つに絞れませぬ」
新婚の夫妻は束の間・・・他愛のない会話を交わした。

竜子よ・・・そなたは嵐の真っただ中に飛び込む勇気があるか?
竜子は再び関白の言葉を思い起こした。

(あの時、わたくしは「何もせずに諦めたりはしない」「自分は秋月種実の娘だ」と御返事したのだ・・・)
(小倉での首尾がどうなるか、アレコレ考えても仕方ない、わずかな希みがあるなら何処へなりと行くまでだ)

嵐は確実にやってくる・・・運命の時計が時を刻み始めたのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大河2014_裏小説【黒田家の陰謀_1・城井氏】

≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
------------------------------------------------------------------------
出典元:
史料(孫引き)-秋月家譜、高鍋藩史話、南藤曼綿録、
WEBサイト---武家家伝_城井氏、戦国ちょっといい話悪い話まとめ、豊前の伝承あれこれ
------------------------------------------------------------------------
今回のデータは玉石混合で、確認できない部分はシオ・オリジナルで補完してます。
つまり完全に趣味でして、表題にあるように歴史記事ではなく「小説」です 川* ̄д ̄*川ポッ
尺や予算と制約のある大河ドラマでは端折られた、様々な逸話と豊前に残る伝承などがベースです。
でもって更に捻って、城井朝房の正室・竜子の目線で城井一族の悲劇を描きました。
素人のチラ裏ですので、こんな話にもなるんだ~と大河の裏フィクションをお楽しみ頂ければ幸甚です^-^

 

さて今回の物語は、北九州の国人領主・城井(きのい)氏です。
(※大河では「きい」と読んでいますが、自分は「きのい」の呼称が好きなんです)

藤原氏道兼の流れをくむ家柄で、とにかく勢力が大きい。
<<基礎データ>>
一族(11家)⇒山田家・野仲家・佐田家・仲八屋家・如法寺家・如来家・大丸家・深水家・西郷家・奈須家・伝法寺家
勢力範囲⇒宇佐・下毛・筑城・中津・田川~豊前国南部です。
諱につく通字は「房」のようです^^

1185年~城井信房が平家の残党狩りのために九州へ下向したのが歴史の始まりです。
でもって城井家は守護職の御家柄(=^・ω・^=)v ブイ

守護といっても実は鎌倉時代です。Σ( ̄O ̄ノ)ノ古っ!
1195年~豊前国守護職になります。

南北朝時代~最初は南朝側でしたが、足利尊氏が九州でリベンジ開始するとともに北朝側にシフトチェンジ。
1352年~筑後・豊前・下野二郡の守護補佐に任命される。

ところが歴史の大きな流れでは、足利尊氏が室町幕府を開くのですが、
九州での「南北朝の戦い」では、最初は南朝側が優勢だった時期があったために、
城井家は次第に衰微しちゃって、盛り返すことなく戦国時代に突入しちゃうの。

衰微~といっても、国人領主としては大きな勢力(2~3万石くらい)なのですが、
城井家の真の望みは、鎌倉の守護職時代の栄華を取り戻すことだったんです。

ちなみに豊前の守護職は室町時代は中国地方の大内氏、大内が没落してからは大友家です。
城井家が鎌倉時代の栄光を取り戻すのは容易では無いですね。( ̄ω ̄A;アセアセ

肥前で少弐(龍造寺家の主君だった家)がいた時は少弐家の配下。
少弐が没落して大内義隆がガンガン来てる時は大内の配下。
大内が没落して大友宗麟が出てきたら大友の配下・・・・なんだけど大人しくは無い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

大友が悩まされた筑前国衆・秋月種実が「筑前の騒乱(国人領主の大量離反・1567~1568年頃)」を引き起こした時は、
城井家は秋月に呼応して、大友に敵対しているし、(後日、降伏する)
1580年に大友の分家・田原氏が謀反を起こした時は、城井家は謀反側に加担しています。
大友家が没落してからは、島津の配下です。

あ!肝心なことを忘れてた!城井家の御本家は栃木の宇都宮家だ!!
城井家と本家・宇都宮家は、鎌倉時代の少し前に九州と関東に別れたにも関わらず、
とっても仲が良くって、戦国の頃も双方で_φ(.. ) お手紙カキカキ やりとりしてたの。

シオが城井氏が好きな理由の一つです。

筑前の有力国人・秋月種実は、城井家と婚姻による同盟関係を結んでいました。
秋月種実の長女・竜子が城井家に嫁いでいます。
ただ、かなり頑張ったけどネット検索では「竜子が城井家に嫁いだ時期」が解りませんでした。^^;

そして秋月竜子と、彼女の嫁いだ城井家が、黒田長政・如水親子と大きく関わることになるのですが、
それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

室町殿袖判口宣案---古文書学のススメ

今回は佐藤先生を卒業です__φ(.. ) メモメモ
参照:中世武家官位の研究・木下聡氏
・・・・の要旨^^;
論文本文はWEB(無料)では見れんかったのです(残念!)

えっと、室町殿袖判口宣案とは読んで字の如くでして、
前回説明した「口宣案(くぜんあん)」に室町将軍が袖判(花押のサイン)する事です。

「口宣案」という公家様文書の形式は時代によってスタイルを変えつつも江戸期まで続くんですが、
将軍が袖判して完結させるという形態は、室町期のみの現象でした。

なんというか室町時代は官途に関して抜け道が色々あったみたいで(色々部分は要旨には書いてない)
公家や権威ある寺院通じて官途につくこともあったそうです。
室町期は将軍が不在だったり、将軍の推挙だけでは叙任されない官位があったとかで、そうなると裏道が出来るのは自然の流れな訳です( ̄ω ̄A;アセアセ

で(抜け道の一つとして)口宣案に室町将軍が袖判するだけで、武家の叙任が完結しちゃうようになったんです。
これは三代将軍・義満から出始めます。

室町将軍の権威付であると同時に、
将軍家との繋がりを強化したい御家人との双方の思惑が合致したことに由来します。

官途に対する御礼が定着するのは4代目将軍・義持からです。
(「御礼」という慣習そのものが定着したのが、義持の頃からなんだそうな)
その任官の地位によって御礼額も決まってました。

官途に対する朝廷への御礼は、口宣案に袖判した将軍への御礼の副次的なものだったそうで、
御礼対象のメインはあくまでも将軍家です。

ちなみに家格によって相応の者しか官途叙任できないのを「上位官途」
誰でもなれちゃうフリーダム官途叙任を「通常官途」と呼んでました。

要旨から読み取れた大意は、こんな感じです__φ(.. ) メモメモ
趣味記事としてはコレでOKなんだが、この論文かなり面白そうだわ~~~
実は論文自体は出版されてるんで、時間あるとき(←あるんかい・爆)に無料のとこ(図書館)で探してみま~す^^/

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

口宣(くぜん)と口宣言案(くぜんあん)---古文書学のススメ

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代

えっと・・・調べたいのは【室町殿袖判口宣案】なんですが、
その前にベースである【口宣案】から行きます__φ(.. ) メモメモ

口宣案(くぜんあん)のベースは口宣(くぜん)でして、公家様文書の書式です。
てことで、またまた「佐藤進一先生の古文書学入門」のお世話になります__φ(.. ) メモメモ

口宣(くぜん)は大別ジャンルでいうと、公家様文書における宣旨の一つになります。

えっと、宣旨には複雑な手続きがあったんですが、蔵人所が設置されると手続きが簡素化されました。


簡素化された以降の宣旨に至るまでの順序
内侍(帝の側近に侍する女官)
        ↓
勅命を蔵人の職事(しょくじ=蔵人頭)へ伝える
        ↓
職事(蔵人頭)が上卿(じょうけい=当日の政務担当公家or大臣へ伝える
        ↓
上卿は内容によって各部署へ伝えて宣旨発布


というのが流れでして口宣(くぜん)は、赤文字部分に関わります。

この伝えるという行為を「伝宣(でんせん)」と呼ぶのですが、元々は口頭で行うのが原則なんです。
文書に表す場合は、職事の手控え・・・いわば本番前のアンチョコだったわけです^^b
というのも聞いた当日に大臣や担当公卿に会えるとは限らず、日数が経つと細かい点で伝達ミスが出てしまうからなんです。
で、その間違い防止の手控えを「口宣(くぜん)」と呼んでました。

それが後に、上卿へ交付するようになり、一つの効力を持った文書として扱われるようになり、
「口宣案(くぜんあん)」と呼ばれたそうです。

てことで次は「口宣案」から派生した【室町殿袖判口宣案】なのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

相良義陽_30【1564年は端折れない件】

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代

≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
------------------------------------------------------------------------
出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。

なお、島津氏の女性については、相互リンクしているサイト戦国島津の女達を参照しております。
※サイト管理人は在野で島津氏の女性史の(一門全般を網羅)研究されている方です。
※データスペックは歴史家の某作家が自身のブログで島津女性を記事にする際に参照するほどです。
------------------------------------------------------------------------
≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
------------------------------------------------------------------------
1564年という年は、義陽の運命に関わる4つの大きな出来事が、同時進行で交錯している複雑な年です。

1)島津+北郷+相良が支援していた北原家の没落(+今城の落城)
北原だけでは飯野(つまり真幸院)を守れない~ってことで、同年11月7日に島津義弘が飯野城入り。

義弘の御膝元・加治木町の伝承だと、義弘の2度目の正室・熊御前(相良義陽の異母妹・亀徳姫)は、この時身籠っていたという。
不憫に思った義弘が人吉へ返さず加治木に住まわせた・・・というのだ。

最初の正室・北郷氏の姫様が生んだのが「お屋地姫」で、2度目の正室・熊御前が生んだのが「鶴寿丸(10歳前に早逝)」
どちらも3度目の妻・宰相殿が引き取り養育した・・・
無論、そのような記述は相良側にも島津側史料にもなく完全な伝承です。
長女の生母が最初の妻なのはホントだけど宰相殿は養育しなくて生母実家の北郷家で養育されてました。( ̄ko ̄)
ちなみに亀徳姫が熊御前という由来は、球磨(熊)から嫁いだ姫だからだそうな^^;
でも読みから熊の文字をあてるのは褒めてるんだろうか・・・(-ω-;)ウーン

上記参照サイト(元出典:「島津氏正統系図」)によると鶴寿丸の生母は宰相殿で1569年に出産してますので、
亀徳姫はMAXでも1568年には離別され人吉に出戻ってた事になります。
実際の亀徳姫は相良家へ戻った後に再婚しています。

2)義陽が島津から伊東へ寝返ったために、島津との同盟破たん~島津は大口城攻撃を始める

3)宇土名和家の内輪もめに乗じて豊福城攻略を始める

相良だけでなく名和も普段から名代として阿蘇家を立てていたので、義陽は宇土名和家と交戦するにあたり、仁義切った
(具体的には阿蘇氏筆頭家老・甲斐宗運へ軍事協力)
義陽は阿蘇家筆頭家老の甲斐宗運と初会見し、相互不可侵の盟約を結びます。

4)足利将軍家からの偏諱と官位ゲッツです

人物・相良義陽 橘朝臣幸麿さま作画・相良義陽イメージ画像

今まで義陽・義陽と気安く書いてますが、実は1564年までは「義陽」ではなく「頼房」なんです^^;
便宜上、義陽と呼んでた理由は、
1)義陽の呼称が一番知名度があって読む人が判りやすい
2)義陽の次当主も初名が頼房なので、頼房(息子の方)編に入った時にややこしいから^^;
3)自分は相良氏当主のうち、武断派武将・相良頼房(義陽次男・初代人吉藩主)が一番好き(←マニアック)なので、頼房の諱を父といえど他の人物で呼びたくな・・ピーーー以下自粛。

ちなみに本来なら諱呼びするのも時代考証的にはNGなんですが、いちいち解説する煩雑さがシンドイのと趣味の郷土史紹介なんで御勘弁を^^;
あと史料上で諱しか判んなかったり、逆に通称しか判らない武将がいたりするから、厳密にするのって結構難しいのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

さらなる蛇足になるけど、義陽の読み方も特定されてません^^;
可能性として「よし_ひ」と「よし_はる」の二通りなんですが、個人的には「よしひ」って呼び方が(・∀・)好き!

アカン、萌えモードになると脱線する~~~話の流れを戻すと
1564年2月~細川藤孝から相良義陽(この時は頼房)へ官途状が発給される

官途状とは室町将軍の大盤振る舞いで「官位や受領名の私称を許す」というものです。
てことで、ここで一時STOP~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

ちょっと古文書学知識を仕入れて来ますので、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

相良義陽_29【甲斐氏と会うかい?_後編】

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代

≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
------------------------------------------------------------------------
出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。
------------------------------------------------------------------------
≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
------------------------------------------------------------------------

1564年8月21日、阿蘇氏筆頭家老・甲斐宗運の隈庄城を攻撃に加勢した相良勢。
この時は、相良義陽自身が陣頭指揮を執るべく出陣し高塚城に入っている。


地図・阿蘇関連
すいません^^;隈庄城は地図に載ってないです。
高塚城が地図真ん中に、かろうじて文字だけ登場^^;

高塚城とは、実は古墳を利用して作った城なの(*´艸`)
戦国時代は古墳の上に築城されるのは、さほど珍しくはないです。
(古墳跡と知らずに築城したのか、判ってて立地に選んだのかは不明)

高塚城は「城跡」としては残ってないので検索しても出ません。
現在あるのは城より前にあった「大塚古墳跡」です^^

だからパッと見判りずらいので、古墳と相良の関連を知ってる人は、コアな相良ファンか郷土史家くらいです。

もともと戦国時代も、ちゃんとした築城じゃなかった(人が居住するという意味)みたいで、
豊福城を攻略するたびに「手を入れて入る⇒兵引き揚げ⇒後は放置」をループしてたらしい。

まぁ再利用に備えて最低限の点検・警固はしてるとは思うが、あくまで豊福城攻略時に使用するのが目的の城でした。

甲斐宗運勢+相良勢が攻撃した隈庄城は堅城だったらしく、攻城戦は翌年まで長引いてます。
で、義陽が同年10月4日に豊福城奪還の為に八代衆を動かした・・・
と、いうのが前編までの話^^/

同11月8日~戦の傍ら久具という土地において、相良義陽21歳と阿蘇家筆頭家老・甲斐宗運50歳が初会見
両者は相互不可侵の盟約を交わす
甲斐宗運と相良義陽は、起請文を取り交わし盟約したそうです。
ちなみに正式な起請文の書式はリンク先参照__φ(.. ) メモメモ

巷説言われている“友情”が二人の間にあったかは不明です。史料的には特に残ってません。
何しろ戦国当時であれば「祖父と孫」と言っても不自然では無い年齢差^^;
あったとすれば、いわゆる対等な友情というよりは、義兄弟的な雰囲気じゃないでしょうか。
衆道の契りとk・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!

無理やり友情・厚情に絡めるなら、亡き父・相良晴広が存命であれば甲斐宗運と同世代ではある^^;
相良義陽が甲斐家との盟約に拘ったところや、義陽の最期となった「響野原の戦い」の逸話などから友情云々が言われてるわけですが、
自分個人としては友情云々以前に島津との外交関係が悪化の一途なので、甲斐宗運(の主家・阿蘇氏)との盟約を強化していくしか方法がなかっただけのような気がします。

1563年に島津を裏切った翌年なんで、1564年が色々重なって濃い~~~( ̄ω ̄A;アセアセ
自壊・・・もとい次回「1564年は端折れない件~~」それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

相良義陽_28【甲斐氏と会うかい?_前編】

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代
≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
------------------------------------------------------------------------
出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。
------------------------------------------------------------------------
≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
------------------------------------------------------------------------
持病の腰痛&左膝痛がイマイチで、間が空いちゃってすいません~m(__)m

さて、名和氏の概略を駆け足で記事にしたところで、いつも通りの年代順に話を戻します____φ(.. ) メモメモ
(年表フェチなんで、編年体風が好き♪)

1563年5月14日(日向記だと4月14日)に相良が島津との盟約を裏切り、伊東へ寝返る
同年、5月5日、6月6日の都合二回、島津から相良へ使僧派遣し、相良の引き留め工作(←と思われる)
(※島津は相良へ飯野地方を相良に割譲しようとしてました)
月日不明、相良から派遣した使者・東出羽守が勝手な発言して島津を激怒させ外交関係が完全破綻する
(※東出羽守の発言内容は記載がないので不明)

1564年2月9日、相良の追手がトンずらしてた東出羽守を成敗
が・・・既に手遅れ。島津の怒りは収まらず、
同年2月11日、島津軍による大口城攻撃が始まる
同年2月21日~大口城番の赤池長任(あかいけ ながとう)が、島津に敗退する
(落城ではなく局地戦)

相良家臣・赤池長任~年齢不明&没年不詳。
大口城は城主常在ではなく、城番が半年ごとの交代制で入ってて、この時は赤池が当番でした。


「(島津との関係が悪化してるので)用心堅固に守るように」と命令を受けていたのだが、
赤池は血の気が多いのか、武功を立てたかったのか、島津に野戦を仕掛けることを思いついた。(・∀・)ピコーン★

騎馬武者65騎+雑兵で合わせて兵300で出陣。

筈ヶ尾を放火し挑発、出てきた島津軍と交戦したけど、破れて大口城へ退却したんです( ̄ω ̄A;アセアセ
殿(しんがり)となった長任本人も手傷を負い、先陣だった桑幡、岩崎など沢山の兵が討ち死にした。( ̄ω ̄A;アセアセ

赤池「今は気まずいけど、史実では数年後にリベンジするから平気 (=^・ω・^=)v ブイ」

そして同年の5月30日に日向・今城が伊東軍の攻撃で落城します(城主・大河平隆次以下130人玉砕)
(大河平側の記録では5月29日)
伊東軍から圧迫が強まったので、島津義弘が同年11月7日に真幸院・飯野城入りします。
(領主だった北原兼親は、伊集院神殿村へ左遷)


で、この間の4月8日に、名和氏の幼君(4代目当主)が僅か9歳で死亡。
5月8日に急死した幼君の叔父にあたる名和行直が、政治対立してた名和氏家老を追放し名和氏5代目となる。


相良義陽が行動を起こしたのは、8月21日のことでした。

人物・相良義陽 橘朝臣幸麿さま作画・相良義陽イメージ画像

阿蘇氏筆頭家老・甲斐宗運が隈庄城攻撃した時に、相良が加勢してます。
将(阿蘇氏)を得る(味方にする)には、馬(筆頭家老・甲斐氏)からでつよ・・・( ̄ko ̄)

隈庄城の城主は甲斐守昌で、甲斐宗運とは同族かつ宗運の娘婿だったと言われてます。
隈庄城が阿蘇氏に反旗を翻したってことで、阿蘇氏に苛烈な忠義を捧げる宗運が攻撃したわけです^^;

甲斐宗運の忠義は、少弐の馬場頼周とドッコイなくらい熱く激しくでして、
同族だろうが縁戚だろうが、主家の為なら容赦なしです。
隈庄城側は名和氏の援軍を受けて抵抗を続けたため、攻城は翌年の1565年まで長引いてます。

一方、相良義陽は甲斐氏と軍事提携をしつつ、本来の目的である名和氏攻撃の為に行動開始。
1564年10月4日、義陽は名和氏から豊福城を奪還するため、八代衆を動員する。

相良義陽の命運を決めた『甲斐宗運との出会い』が近づいているのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

相良義陽_27【宇土・名和氏の事】

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
------------------------------------------------------------------------
出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。
------------------------------------------------------------------------
≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
------------------------------------------------------------------------
持病の腰痛&左膝痛がイマイチで、間が空いちゃってすいません~m(__)m

相良氏の長年のライバルだった名和氏。
なんですが、自分自身は本腰入れて調べたことがないので、名和氏の概略については武家家伝_名和氏やウィキペディアなど参照してます。
え~~~~、とですね。それでもって全部やると終わらないんで駆け足で説明~~

1564年4月8日~宇土名和家4代目当主が、9歳で死亡する

もともと名和氏は伯耆国の国人でして、中国地方戦国史に詳しい人には、そっちで知られている。
南北朝の時に活躍(実は南朝)して、恩賞として肥後・八代に領地を貰って、伯耆から八代へ引っ越し(((((((っ´▽`)っヒャッハー
で肥後に下向した名和氏は「八代(古麓城)時代」と「宇土城時代」に分かれます。

八代時代~~城郭群の研究が最近始まったばかりなんで詳細不明&自分の脳みそが追い付かないにつき、、、、
素っ飛ばします~~~~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

とにかく菊池宇土家が滅ぶと、娘婿が空き城になった宇土城に入った。
その娘婿が宇土名和家の初代です(=^・ω・^=)v ブイ

八代が元々のフィールドワークだったから、同じく八代を領する相良家と激突する。
特に豊福城の領有権を巡って、約90年都合9回、獲ったり獲られたりを繰り返したので、
正直に言うと、豊福城が「どの時期」に、相良と名和の「どっちの支配下」か、調べるのは容易なことではない(涙

おまけに「和睦⇒破綻して戦」を何度も繰り返している・・・カンベンシテクダサイ il||li _| ̄|○ il||l
16代相良義滋の頃、名和との和睦の証として名和家の姫様が義陽の父晴広と政略結婚するのだが、同盟破たんで離縁しています。

義陽の代になって1556年に相良家・名和家・阿蘇家の3氏で盟約を交わしています。
で、その頃の豊福城は相良家の支配下でして、義陽の叔父が城主として入ってた。
が、その叔父が謀反して出奔して帰参して、その間に相良家では内乱「獺野原(うそのばる)の戦い」があったりで、
そんなこんなでバタバタしてるうちに、豊福城は再び名和家に獲られちゃったみたい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
(たぶん叔父の謀反直後あたりで、名和との盟約は破綻してるけど、阿蘇の方との盟約は継続していたかは不明)

1560年9月頃~?回目の正直で名和家と相良家が和睦する
名和との関係は、この時期が一番平穏だったみたいで、名和がらみの戦の記述が無い。

地図・阿蘇関連
宇土城と豊福城は地図の左側下より~

1562年3月13日~宇土名和家3代目当主が死去、7歳の男子が家督を継ぐ
さぁ~ここから不穏になります~~~~~~ヾ(  ̄o)ゞオホホホホホ

亡き名和3代目の弟(つまり幼君4代目の叔父)名和行直が名代となるんですが、
名和家・家老も「亡き殿から後見役にと、自分も云われた」と主張し(真偽不明)対立しちゃうんです。


で、冒頭に戻る^^家督を継いで僅か2年~1564年4月8日~宇土名和家4代目当主が9歳で死亡
ん~~~~~~~~まさか暗殺ではないと思うが・・・昔は子供の死亡率高いし^^;

同年5月8日~名和行直は対立してた家老を攻撃し宇土城から追い出すo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
そして自分が宇土城へ入って、宇土名和家5代目当主となる、家督乗っ取りでつ( ̄ko ̄)
追い出された家老は堅志田城へ逃げた~~簡単に言うと阿蘇氏の保護下に入ったんです^-^

この名和家の内輪もめを、長年のライバルだった相良氏が指を咥えて観てる法は無い。
いくら肥沃でも日向・真幸院では、伊東と島津が凌ぎを削ってて、相良だけの思うようにはならない。
同じ肥沃なら内輪もめで揺れてる名和氏の宇土平野の方が狙い目なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

だがここで一つ問題がある。
名和家から追い出された家老が、阿蘇氏の保護下に入ってるって事です。

肥後阿蘇氏・・・肥後国一の宮の大宮司職。
家紋・阿蘇
血統も阿蘇国造流オンリーワン神々の末裔たるぶっちぎりの名族。
豊臣秀吉の九州仕置きの時でさえ、武家としての阿蘇氏は滅ぼしたけど、
阿蘇神社・神官としての血統は残し現在でも子孫が神官を務めているほどです。

戦国期・阿蘇氏の各国衆に対する影響力は相当なものでして、
天正年間における肥後国衆一揆の時も阿蘇氏家老職だった甲斐家が加担したために、更に拡大して鎮圧が大変だった^^;

そういうことですので、相良氏と阿蘇家は戦した時もあるが、基本「阿蘇氏は相良氏の兄貴分」として、
何かの折(名和との盟約とか)には名代として頼んだりと、阿蘇家の面子を立ててたんです。

阿蘇へ仁義切らずに名和を攻撃したら、後々ヤバイかもしれん・・・|人吉|_ ̄)じぃー

1564年8月21日、阿蘇氏筆頭家老・甲斐宗運が隈庄城を攻撃した。
そこに相良勢も出陣~甲斐氏に協力して隈庄城を攻撃する。

名和氏攻撃という目的の前に、相良氏は阿蘇氏を味方につけるべく筆頭家老・甲斐宗運との協力体制作りを始めたのだが、
それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
378位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
83位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR