【薩州家_島津義虎までの その11】

あちこちのカテゴリや記事で何度か書いてますが、室町時代は緩やかな支配関係でした。
国衆であれ、分家であれ、実力さえあれば地元の守護職の被官になるだけでなく、室町将軍家の御家人になる・・・つまり両属が可能だったんです。
ですから、薩州家当主の拝謁を許した室町将軍家も、薩州家を島津宗家の分家で守護職の被官であると同時に、一つの独立した勢力とみなしていました。

1563年(永禄6)~義虎(27歳)は上洛し足利義輝公に拝謁し、諱のうち「義」の偏諱(※へんき=一文字拝領)を受ける川* ̄д ̄*川ポッ 

すいません~~便宜上(一番好きな名前)義虎で呼称を統一してましたが、実は薩州家6代目はチョコチョコ改名してるんです^^;
将軍家から偏諱前は島津の通字が入った陽久でしたが、義の字を拝領して義俊に改名し、最終的に義虎に改名します。
つまり、この時から義虎は足利義輝の被官になったわけです^-^

亡き父・実久も同じく足利義輝に拝謁しているので、6代目として踏襲したのかもだし、
(薩州家の)分家・家臣・国衆に対する総領ステータスとしての意味合いなどなど、理由は色々混ざってると思います。
義虎が上洛したのは一度だけで、その後に将軍家と交流あったかは判りませんが、記録としてはなさそうです。

宗家の座を巡っての争いや、そこまでじゃないけど政治的対立などで島津宗家と対峙してきた薩州家は、
ゴタゴタの都度に宗家と縁組を結んでるいるので凄い血族婚になり、
結果として平成現代の島津宗家にも改易されて滅んだ薩州家の血脈が流れているんです^-^

家系図・薩州家
それにしても、これだけ血族婚が数代続いたら、遺伝子学的にアレなはずなんですが、
どうゆう作用か島津はDNA良いとこどりに成功しまして、見事な戦闘民族シーマンズが完成しちゃいました(@@;)
実は戦国ニュータイプだったりして,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

で、前回紹介した宗家から義虎に嫁いだ御平ですが、嫁いだ時期は不明です。
ただ御平の生年月日(天文20年8月22日)とハッキリしているのと、嫡男誕生が永禄9年なので、結婚は永禄6~7年くらいじゃないかな~と推測^^

というのも、永禄5(1562)年に相良義陽が島津を裏切り 日向・伊東義祐に寝返るという事態が発生しているから。
1565年(永禄8)3月20日~島津義虎は長島領主・天草越前守を攻め殺し、長島を押領しています。

裏切った相良氏に打撃を与えるために、もっとも効果があるのが財源である明との交易ルートを脅かすこと。
具体的には相良氏配下である天草地方に侵攻することです。(←交易ルート必須の制海権がヤバくなる)
天草地方の一つである長島は、薩州家本領の出水とは目と鼻の先でして、平成現代は国道389号線で陸路で移動できるくらい近いんです。

義虎の長島押領が島津宗家からの指示なのか薩州家の独断なのか、ハッキリと判る文書は残っていません。
が、宗家から姫が嫁いでいるのを鑑みると、島津宗家が無関係とは考えづらいです。

少なくとも御平が嫁いだのは、相良義陽の裏切りという不測の事態が起きた為に、
相良エリアと隣接している薩州家との関係を、より一層強化する必要が生じたからじゃないでしょうか。

自分は薩州家と伊作で島津宗家が、本当に和睦したのは御平が嫁いだ時なのだと感じています。
年は15歳も離れていましたが、二人は仲睦まじかったようで、義虎の6人いた息子は全て御平が生母。
出産ペースも16歳、19歳、21歳、25歳、29歳、31歳と凄いハイペースです(@@)
床上げ早々からハッスル・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

ゲフゴホ、・・・乳母がいるとはいえ良く身体が持ったなぁ ( ̄ω ̄A;アセアセ
この出産ハイペースは、御平が実家である島津宗家と薩州家の融和に尽力した結果かと・・・^^;

薩州家の歴史に長々と御付き合いありがとうございました。
この後の薩州家の歴史はカテゴリ「島津薩州家編」に譲り、相良と絡むあたりまで追い付いたところで、
次回から相良義陽・本編に戻りたいと思うのだが、それは・またの話 by^-^sio
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【薩州家_島津義虎までの その10】

カテゴリ薩州家1~15話までのうち、なんとか5話縮めて義虎まで来たです ( ̄ω ̄A;アセアセ

●義虎の正室・御平
 四兄弟の長兄・島津義久(後の16代目宗家当主)の長女。
 1551年(天文20)年8月22日生まれで、夫・義虎より15歳年下です。
 晩年に隅州上井ノ平に住んでいたので「御平/おひら」と呼ばれたので、それ以前に彼女が何と呼ばれていたかは解りません。


家系図・薩州家
島津実久が実叔母(祖父の次女五女)と結婚したのは何度か書いてます。
で、伊作・日新斎(=忠良)が実久正室の姉・御東を正室にしてるので、
宗家15代目・貴久と薩州家6代目・義虎は、母系で辿ると従兄弟の関係になります。
父系だと貴久は、義虎の祖父の姉の子だから・・・大叔父?ヽ(。_゜)ノ?

複雑なんでガン見してもピンと来ないかもですが、実久以外にも実の叔母と結婚した人物がいます。
それが島津貴久の嫡男・義久です^^;

えっと~日新斎が嫡孫の器量を見込んで、側室との間にこさえた四女を嫁がせたんです( ̄ω ̄A;アセアセ
薩州家と言い、なんなんでしょうね~~島津じゃ出来が良い孫に娘を嫁がせる交配神話でもあるんだろうか^^;
で、その実叔母・甥のカップリングで生まれたのが御平で、実叔母が産んだのは娘のみで数年後(永禄2.11.18)に亡くなってます。

つまり島津義虎は従兄の孫と結婚したわけです^^;
御平が嫡男を産むのは15歳くらいなので、義虎は三十路まで正室がいなかったことになります。
戦国時代には珍しく晩婚ですが、なんで正室がいなかったのかは判りません。

1545年、島津貴久が三州守護となった時、義虎は数え10歳でした。
ウィキペディアには、父・実久は薩摩国の守護職の座を巡り、伊作家の島津忠良・貴久親子と対立したが、義虎は逆に従う姿勢をみせていた。
と書いてますが、えっと十代の少年が逆らうも何もないわけで^^;
家長である父・実久が和睦したんで、そのままの路線を引き継ぎ従ってたものと思います。

ただ肝心なのは和睦であって降伏じゃないって点です。
ですから薩州家は伊作側に人質を出したわけでもなく、領地や城も割譲してないので勢力キープ(=^・ω・^=)v ブイ
ウィキペディアに「臣従した」って書いてるけれど、それは我々が認識している感覚においての臣従ではないわけです。
簡単に言うと三州守護職である宗家の意向に大筋では従うが、自家の利益保持・面子・義理ごとがあれば、そっち優先で独自に動からね!って感じです^^/

そういう状況ですので、天文22(1553)年閏1月、実久は宗家の頭越しに上洛して、将軍・義輝公に拝褐してます。
ちなみに銘菓・八ツ橋は戦国時代には未だありません^^/
帰国の途中で発病し同年7月7日に出水に帰ったのですが、22日に亡くなりました。享年42の若さ。
義虎は数え18で家督を継ぎます。

御平と結婚するまでの宗家と島津義虎の関係が、どんな感じか本音の部分では判りません。
ただ義虎は東郷氏と揉めてガチンコ長期敵対関係に突入してるので、宗家に敵対はしてないものの、単独で動いてるような節はあります。
島津氏№2の勢力である薩州家は、将軍家と独自のルートがあったようです。
父に続いて義虎も、宗家と関係なく将軍家に拝謁しているのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【薩州家_島津義虎までの その9】

やばぃ・・・相良に中々戻れない・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
  ザックリ駆け足予備解説につきブログ内カテゴリ・島津薩州氏編全18話参照です。


守護職に復帰した島津宗家14代目・勝久(元・忠勝)は、今風に言う所のダメンズだったそうです。
薩州家と伊作家(相州家含む)と、島津分家二大勢力が争うのを後目に、遊興に耽り佞臣を侍らせた。

享禄2(1529)年には、分家、庶家、国衆たちが伊作の日新斎(=忠良)と和解するよう進言したのだが、勝久は聞く耳持たずだったそうです。
天文3(1534)年、宗家の家老、家臣たちは勝久が諫言を受け入れないので、ついに思い余って勝久の佞臣をヤッちまいました( ゚д゚)ンマッ!!
天文4(1535)年4月3日、ビビっていったん逃げた勝久ですが、舞い戻ると自分の寵臣(=佞臣)を殺した島津家老を、追いつめて自害させてしまう。
さらに家老の城まで攻撃しまして、、、家老の未亡人が城兵らと頑張って防いだそうです( ̄ko ̄)

このグダグダな状況に、ついに島津家臣が宗家当主で主君である勝久を見限り、薩州家の実久に与した。
天文4(1534)年9月末~10月にかけて、薩州家・島津実久(数え23)は、宗家当主である勝久を追い出す!
ここまでの島津当主は『総領五家(総州家(=室町期に滅ぶ)、奥州家、薩州家、伊作家、相州家(=伊作が吸収)』のうち、奥州家でした。
追い出され逃亡した勝久は、自業自得で二度と薩摩の地に戻ることが出来ず、奥州家から宗家当主が出る事は二度とありませんでした。

鹿児島に入った実久は、諸氏に自分を「御屋形」様と呼ばせようとしたんですが、御膝元で吉田衆の謀反が起きたので止む無く出水に戻ります。
(ちなみに「屋形」号とは国主(=守護職)に対する呼称でして、これも勝手に自称は出来ず室町幕府の承認いります)
で、鹿児島には島津貴久(5月生まれだから23歳かな?)が入ります。^^;

天文5(1536)年5月1日、伊作と薩州家の抗争の真っ最中に、薩州家6代目となる義虎クン誕生ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

で、自分がIFバナで黒幕じゃね?と想像してた薩州家3代目・重久が、同年9月15日に73歳で亡くなってます。
法名が天倫才賢だから切れ者だったんだろうな~孫で曾孫の顔は見れたようですね(-人-)☆彡

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ちょっと気になるのが、重久死去直後から薩州家サイドの城が次々と伊作の日新斎(=忠良)に攻略され始める事です。
それと今まで割愛してたんですが、マンモス氏族な島津なので分家の そのまた分家ってのがあるんです。
で、薩州家の分家は全てが5代目当主である実久に従ったわけではなく、伊作サイドについた分家もありました。
自分の重久黒幕説をIFバナしてたのも、こうした時系列の流れや、薩州家が一つにまとまりきれてない現状があったからでした。
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天文6(1537)年12月?日~実久(26歳)は自ら薩摩守護職にならん、とするが新納氏の反対にあい断念。
この12月の間も伊作・日新斎(=忠良)は、ガンガンと城攻略して伊作エリアを広げてるんで実久の方に焦りがあったかもです。
天文8(1538)年閏6月、伊作側は市来(現・日置市)を制圧し、同年に実久弟の城が落ちます。
1538(天文8)年(閏6月か?)~ついに実久は日新斎と和睦し出水へと退いた
って、系図に実久の弟っていないじゃんΣ(´Д`;) あれ?
このへん伝承がオカシクなってるかも~~~

薩州家・実久と伊作・日新斎(=忠良)が和睦した月日も、本藩人物誌では年度のみで月日不明になってます。
ただ市来が伊作に制圧されたことが、心理的にil||li _| ̄|○ il||l モウ ダメダ・・・となり、和睦に傾いたようです。
1545年(天文14)3月18日、島津貴久(数え32)正式に三国守護となる
え~~と、この年に島津分家の豊州家が(やっと)貴久を当主と仰ぎ従うことを誓います^^;

なんというか、戦国時代の分家って宗家の家臣じゃないんです。
だから伊作と和睦した薩州家も、従っているだけで家臣になったわけじゃないんです。
勝者として新宗家となった伊作・島津氏が当主権を確立するには、江戸初期・薩摩藩初代藩主の時代まで待たねばならないのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【薩州家_島津義虎までの その八】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
  ザックリ駆け足予備解説につきブログ内カテゴリ・島津薩州氏編全18話参照です。


薩州家を抑えるだけの器量がない宗家・忠勝は、困って伊作の島津忠良に国政を委ねた。(大永6年)
状況は違うけど、肥前の龍造寺政家が準一門である鍋島直茂に国政を委ねたのと似てます^^b

鍋島直茂と島津忠良の違いは忠良自身が表に出ないで、嫡男の貴久を宗家当主・忠兼の養子にしたことです。
ここは相良の上村頼興が協力するかわりに、我が子・晴広を当主の養子にしたのと似てます^^b

例に挙げた二つの家の対応をMIXして実行した忠良は、とても賢い人物だと思いませんか?(^ -)---☆Wink

宗家・忠兼は伊作に隠居することになり、正室だった薩州家の姫君を離縁し、実久と義兄弟の関係を解消しています。
離縁され出戻った姫様の、その後は判りません。
が、姉の不縁に激怒した実久は、忠兼の後ろ盾となった伊作・島津忠良とガチンコに突入
ちなみに同じく実家が薩州家の御東は義弟で甥を非難し、迷うことなく夫である伊作・忠良につき従ったそうです。

始めは伊作に有利だった状況が激変するのは翌年、大永7(1527)年のこと。
なんと、こともあろうに伊作に泣きついて国政を委ねた、とうの島津忠兼が薩州家・実久に寝返ったんです。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
薩州家・実久は、うまく伊作・島津日新斎を戦場へ誘い出し、伊作にいる忠兼の説得工作した。

その誘い文句が「守護職に復帰しませんか?^-^」みたいな事だったらしい。
*****IFバナの小部屋*********************************************
ちょっと思うのが、この1527年の段階で実久は、まだ数え16。
前回もIFバナしたが、やはりこれだけの事を実久少年一人で実行できたとは考えづらいのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
いかに薩州家が守護代の家柄であっても、慣例を飛び越えて10代の少年を守護職という権威ある地位に据えるのは難しい。
忠兼を守護職に復帰させたのは、実久の祖父で義父の重久なんじゃないだろうか?(-ω-;)ウーン
武家の子弟が家督を継ぐのは、トラブルなければ二十歳前後が慣例なんです。
だから実久が守護職を継いでも不自然じゃない年齢になるまで、いわば「繋ぎ」として忠兼を復活させたんじゃないかな?
実際、島津貴久(=忠良の嫡男)が正式に三州守護になるまで、守護職は宙ぶらりん~だったようなんです。

いっぽう、日新斎(=忠良)の嫡男・貴久も未だ数え14。
薩州家の対抗馬として忠兼も養子にはしたけれど、コッチも守護職になるのは若すぎ^^;
でもって、忠兼自身も若い。還俗さえすれば、この先男子に恵まれる可能性は十分あるんです。
忠兼が「その気」になるのは、無理ないよな~と思ったりする^^;
******IFバナ終わり*******************************************

この時、忠兼は数え25歳の若さで、目先にブラ下がったニンジンを見たとたん、過去に困ったり頼ったりした記憶が吹き飛び、食いついた。

隠居して出家&隠棲してた島津忠兼は、アッサリ還俗~勝久と諱を改め守護職に復帰。
勝久の行動が「伊作家と薩州家の争いを更に激化させた」ことは、言うまでもないだろう。
そして隠居したり復帰したりと迷走する宗家当主に、国内騒乱となるのだが、それは・またの話~by^-^sio

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【薩州家_島津義虎までの その七】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
  ザックリ駆け足予備解説につきブログ内カテゴリ・島津薩州氏編全18話参照です。


宗家の座を巡って争う島津氏総領五家、うち戦国期まで生き残ったのは「宗家(=奥州家)薩州家伊作家(相州家含む)」の三氏!
そして宗家の椅子は一つだけ!

この三氏は三氏ともに当主の正室が薩州家の姫君で、薩州家を軸に縁戚関係でした。

家系図・薩州家

永正11(1514)年5月5日、島津忠良(=日新斎)と薩州家・御東との間に島津貴久が生まれます。
永正16(1519)年5月12日、相次ぐ兄の死で末っ子三男の忠兼(=勝久)が、島津宗家14代目となりました。

本藩人物誌によると
公(=忠兼のこと)は また君子に非ずして国治まらず、実久は寵臣として権威を募らせ、公が政道を怠るを見て守護職を奪わんと志した為、封地は大いに乱れて背く者多し。


かいつまんで言うと、薩州家5代目・実久は、宗家当主・忠兼の義弟として、次第に権勢を振るうようになったそうなんです。
具体的に言うと、当時まだ実子がいなかった忠兼に対し、自分を養子にしろ~と迫ったそうです。
島津研究によると、どうも実際に宗家の家督を継いでたらしい。
期間は推定で10年。
文書上の体裁も整えてたそうですが、守護職への正式任官はなさそうです。

というのも、守護職になるには室町幕府の承認が必要だからして、そこまではゴリ押しできなかったかと・・・

このあたり、詳細は未だハッキリしてません。
薩州家の記録が改易で四散したのと、「実久=国賊認定」により「実久の当主期間」が、闇から闇へって感じで埋もれてたそうです( ̄ω ̄A;アセアセ
(具体的に、どう葬り去られたかもワカランです~)

さらに、もう一つ重大な疑念があります。
権威を募らせる寵臣・実久が、未だ15~6くらいの少年だと言う事です。
実久の受けた寵愛が、寵童的なアレだったとすれば権勢もありえる・・・ちゃ、ありえる^^;
島津は衆道が盛んだったことで・・・ゲフゴホ

が、「実際に宗家の家督を継いでたらしい」この部分は無理です。
10代の少年が当主然と振る舞うことを、他の分家や諸氏が黙ってるような・・島津は、そんなヤワな氏族じゃありません。

で、可能性のIFバナとして少年・実久をプッシュできるだけの人物として浮かぶのが、実久の祖父である薩州家3代目・重久です。

父である4代目忠興が40歳の若さで亡くなった時、実久は数えで14くらい。
武家子弟の元服って15歳前後なので、元服も未だだったかも。
若年ですから、祖父の重久(いなければ近い親族)が後見するのが武家の慣例です。

重久が黒幕なら、いろいろな矛盾に説明がつきます。
一番の根底は、宗家14代目・忠兼に嫁がせた重久孫娘(=実久姉)が、男子を授かることが出来なかった・・・・が、あると思います。

孫である実久に自分の娘を嫁がせたのも、宗家当主・忠兼に実久を養子へと捻じ込むのも、
薩州家3代目・重久に宗家乗っ取りの野心があったからじゃないだろうか。

では本藩人物誌が間違いか・・・と言うと丸っきり違うわけじゃない。
伊作・島津忠良と薩州家・島津実久の対立構図を見ていると、初期段階(実久が少年)では重久主導だったのが、
途中から実久主導に変化してるような節がありそうなんです。

赤文字・可能性のIFバナからの話は、全てシオ推測です。
でもって、これは論証できません~~~薩州家の中でも更に3代目・重久の記録が物凄く少ないからです!!


推測はさておき、宗家14代目・忠兼(=勝久)に、薩州家を抑える政治力がなかったことが、
薩摩・島津氏の歴史を複雑にするのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【薩州家_島津義虎までの その六】

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えっと~義虎のパパ・実久が出てきたところで宗家11代目・忠昌に戻る^^;

相続早々に桜島が大噴火(海底隆起で島が出来ちゃうレベル)し、
分家が謀反したり裏切ったり、日向・伊東氏の飫肥侵攻(一次と二次)と息つく間もない忠昌の治世。

伊東勢に勝利し、謀反した分家が世代交代と、ホッとしたのも束の間で、次は島津家老二人が謀反なぅ。(←鎮圧してます)
とどめに大隅の国衆・肝付兼久が謀反を起こし、この鎮圧に忠昌は失敗します  ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

頑張って頑張って頑張って・・・ついに忠昌は心の底から疲れ切ってしまったのでしょう。
永正5(1508)年2月15日・・・宗家11代目島津忠昌・・・突如として自殺。享年46歳
死に臨み忠昌は、西行法師の歌を吟じた。
”願はくは 花のもとにて春死なむ 其きさらぎの 望月のころ”
旧暦の2月は現代の3月・・・忠昌は桜を見ることが出来たでしょうか・・・涙ドバーッ(┬┬_┬┬)

忠昌には正室との間に三人の息子がいました。
忠治、忠隆、忠兼・・・うち忠治、忠隆が相次いで亡くなり、庶家を継いでいた三男・忠兼が、まさかの宗家相続。
時に永正16(1519)年
で、忠兼の宗家相続前か後か時期不明ですが、薩州家の姫(4代目の娘)を正室に迎えています。

ということで、再整理~~~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
①永正7(1510)年、伊作の島津忠良(後の日新斎)と薩州家三代目・重久の長女・御東が結婚
②宗家14代目当主・忠兼と薩州家4代目忠興の娘が結婚
③薩州家4代目忠興の嫡男・実久と薩州家3代目・重久の次女五女が結婚
三人揃って、正室は薩州家の姫!

つまり、縁戚関係は↓になる
伊作・島津忠良>>義兄>>薩州家・島津実久
宗家14代目・忠兼>>義兄>>薩州家・島津実久宗家14代目・忠兼

えっと・・・忠良は宗家・忠兼の義伯父になる・・・かな?( ̄ω ̄A;アセアセ

これを系図にすると↓になる
家系図・薩州家
茶枠=薩州家、緑枠=宗家(奥州家)、紫枠(伊作家)


え~~~、これに更にシリーズ初めに説明した総領五家の縁戚関係がMIXします。
総領五家(総州家(室町期に滅亡)・奥州家(現宗家)薩州家相州家・伊作家)のうち、
相州家と伊作家が一つに統合されたんです。

これは伊作家の魅惑の未亡人・美女・常盤が、相州家当主・運久と再婚したからです。
常盤に惚れ込んだ運久は、常盤を正室に迎えるために今までの正室を焼き殺すというDQNぶり。
プロポーズを断ったら何されるか・・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

美貌だけでなく聡明だった常盤は再婚の条件として
「我が子・忠良に相州家の家督ちょーだい(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪」
(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)コクコク (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン 言う事聞くから再婚して!(-人-)☆

で、この時の再婚の条件を相州家・島津運久は口約束でなくホントに実行した。
永正9(1512)年、薩州家5代目・島津実久が生まれた年に、伊作の島津忠良は相州家の家督を継ぐ。
てことで歴史の篩にかけられた島津氏総領五家のうち、残ったのは宗家(奥州家)薩州家伊作家(相州家込)の三家なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【薩州家_島津義虎までの その五】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。

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第二次飫肥の役は文明17(1485)年に起きます。
前回、記録が錯綜するほど混乱したと書きましたが、記録が錯綜したのは大乱たっただけでなく、第二次が翌年だったのも一因があるように思います。

第二次の時は島津側が勝利しました。
それも敵側主力である、伊東氏と北原氏の当主が討死という大勝利(=^・ω・^=)v ブイ
島津勢が敵側本陣を奇襲したのが成功したのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

んで、味方同士の大ゲンカで逆切れして伊東側に寝返ってた島津の分家・・・
伊作の島津久逸ですが、彼もまた敗れて降伏し、領地である伊作に大人しく?引っ込みました^^

延徳4(1492)年9月23日~伊作で島津忠良が生まれます。
生母は魅惑の美女・常盤~久逸からみて忠良は孫にあたります^-^
同年?月?日~豊州2代目が死亡。
明応3(1494)年~相州家初代が死亡。

宗家当主・忠昌に対し過去に反旗を翻した分家当主たちが、相次いで亡くなり分家当主は世代交代したわけです^-^

明応8(1499)年~薩州家2代目・国久(59歳)が、戦国世紀末を前に死亡(´;ω;`)ウッ
とたんに薩州家では家督を巡り御家騒動になった・・・らしい!!

「らしい」としか言えないのは、戦国末期に滅んだ薩州家の記録が少なくて詳細が不明だから^^;
こういう諍いって急に始まるものじゃないから、おそらく国久生前から内輪で揉めてたはずです。
が、記録がないんで、どんな経緯があったのかは判ってません( ̄ω ̄A;アセアセ
ウィキペディアでは「(島津の)分家を巻き込む騒動」とあります。


で、巻き込まれた島津分家というのが羽州家と伊作の島津久逸です。
詳細は不明ながらも、結果と縁戚関係からシオ推測しますと・・・
どうも薩州家3代目・重久と息子で4代目の忠興が、家督か実権かは判らないが親子で争ったみたい。
で、勝ったのが息子(亡き2代目国久からみて孫)忠興~~(=^・ω・^=)v ブイ

勝ったのがハッキリしてるのは、島津忠興が伊作・島津久逸との合戦で勝利しているから
宗家を裏切ったり、分家の御家騒動に首を突っ込んだりと、はた迷惑な島津久逸59歳は、この時に戦死します。

で、こういうのって尾を引くじゃないですか。
で伊作との和解?と薩州家親子の和解?かな~って感じで婚姻関係になってるんです。

生没年からの類推でいくと・・・
まず、伊作の島津忠良(後の日新斎)と薩州家三代目・重久の娘が結婚
次に薩州家4代目忠興の嫡男・実久と薩州家3代目・重久の娘が結婚

それぞれの婚姻時期は不明ですが、国久死亡が1499年で忠興嫡男・実久が生まれるのが1512年。
実久が嫁とりできるくらいの年齢となると、国久死亡から20年以上、重久~忠興の親子間はギクシャクしてたんでしょう。

で1492年生まれの島津忠良(義兄)と1512年生まれの島津実久(義弟)との年齢差を考えると、
忠良に嫁いだ姉と実久に嫁いだ妹は、20歳以上年齢差があると思います。
ちなみに薩州家3代目・重久は、天文5(1536)年9月15日に亡くなって(享年73)まして、大永5(1525)年に40歳で死んだ息子・忠興(4代目)より長命してます。(出典:鹿児島県史. 別巻・諸氏系図より)

ん~~~となると実久クンは13歳の時にパパ忠興が死んだのか。
てことは、実久と重久娘との結婚は、忠興死後に決まったかもです。

さぁ~ここまで読んでて気づいた人はいるかな?
そうです。
薩州家5代目・島津実久は、実の叔母(父・忠興の異母妹)と結婚し、
その二人の間に生まれたのが島津義虎なんです。

次回~カオス系図が登場~~それは・またの話 by^-^sio

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ジャンル : 学問・文化・芸術

【薩州家_島津義虎までの その四】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
  ザックリ駆け足予備解説につきブログ内カテゴリ・島津薩州氏編参照です。


自分はドン久豊以降の島津氏奥州家(宗家)当主では、忠昌が一番好きです。
頑張って頑張って、ついに力尽きた悲運の当主だと思います  (゜-Å) ホロリ

文明8(1476)年、薩州家2代目・国久が島津宗家11代目・忠昌に叛旗を翻し挙兵!
これに豊州家初代・季久と相州家初代・友久が呼応した。


えっと~忠昌から見る親戚関係におきかえると・・・
父の従兄弟(薩州家2代目)が謀反して、それに伯父(相州家初代)と祖父の弟(豊州家初代)が便乗しましたとさ♪

挙兵した薩州家2代目・国久は、大隅国分城に侵攻したんですが、忠昌が援軍に駆け付けると撤退しました。
宗家当主といっても若年です。
忠昌の年齢(数え14)と経歴(元々僧侶、父の死去で還俗し相続)から推測するに、これが初陣っぽい。

薩州家の国久が謀反したのは、宗家と政治的に対立したからなんですが、
数え14歳の忠昌と個人的でも政治的でも遺恨があるとは・・・ちょっと想像しづらい。
だから宗家宿老の方針に対立したんじゃないかな~~と、。
それなのに少年当主・忠昌が出陣してきたんで、本意じゃなくて撤退したのかな~~と。
想像ですよ。想像♪

他の分家も挙兵したため、忠昌は一時は伊集院に避難したんですが、相州家が鎮圧されると豊州家も降伏。
が、薩州家2代目国久は兵は引きあげたけど降伏もしない半独立状態になります。
この戦国初期の時点で、宗家には薩州家を武力で押さえつけるだけの力がなかったのでしょう。
もう他人と思って割り切るしか・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

日向飫肥城を巡って伊東氏とガチンコに突入するのは、忠昌の代から始まります。
もともと若年が当主になった~~ヒャホーイ♪ヽ(*´∀`)ノチャンス到来っとばかりに伊東氏がムズムズしはじめまして、
それに対応するために家臣で島津支流の新納(にいろ)氏と伊作の久逸(忠昌の叔父)が、日向へ派遣されてたんです。

ところが伊作・島津久逸と新納が味方同士で大ゲンカ!!Σ(´Д`;)マジかよ
色々重なって怒りのあまり伊作・島津久逸は日向・伊東氏に寝返る! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
文明16(1484)年「第一次飫肥の役」は、伊東祐国と島津久逸の連合軍による飫肥城攻撃で始まる
これに呼応し国衆である祁答院氏、入来院氏、菱刈氏、北原氏が蜂起したので、たちまち大乱。
結果として飫肥城は新納が守りきるんだけど、実は一度落城してるとか、してないとか、記録が錯綜するほど混乱したらしい。 
というのも、亡き父の従兄弟である豊州家2代目・忠廉までが忠昌に叛旗を翻したから (゚ロ゚屮)屮 えぇっ!

この状態を憂いて動いたのが、半独立状態で超然としていた薩州家2代目・国久です
国久~~~カッコイイので大文字なのです (人´∀`).☆.。.:*・オジサマ素敵♪
国久は水俣の相良為続(12代目)を訪ね、二人で豊州家を説き伏せて宗家当主・忠昌に帰順させることに成功します。

この飫肥の役の頃、忠昌は22歳の若者に成長していました^-^
が、心労からか病身多病でして、京都から名医・竹田法印昭慶を招いて療養中でした。
そんな状況で忠昌は大乱鎮圧のために、名医のドクターストップを振り切り、出陣しています。
忠昌は「身を愛するの故をもって、国の大事を廃せむや!」
と医者のドクターストップを退けています(出典:島津歴代略記)


薩州家・国久が、忠昌の状況や島津当主としての覚悟を何処まで知っていたかは、判りません。
ただ、薩州家ファンの妄想としては、
知った上で忠昌を当主として認めて、豊州家の帰順説得に動いたんだ~と萌える夢を見たいところです 川* ̄д ̄*川ポッ

つまるところ、忠昌と国久に萌えなんですな( ゚Д゚)y─┛~~
島津の混乱は、まだまだまだまだ続くのだが、それは・またの話 by^-^sio 

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【薩州家_島津義虎までの その参】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
  ザックリ駆け足予備解説につきウィキペディアやサイト武家家伝参照です。


カテゴリ薩州家編全18話をどこまで圧縮できるか、自分との闘いなシリーズです(爆

島津氏(奥州家)11代目当主・島津忠昌
ウィキペディアには『若年(12歳で継いだ)であったため島津氏内部で内乱が発生し、「国中騒乱」といわれるほどの事態となる』
と簡素に書かれているが、内乱が発生したのは若年だけが理由ではないと自分は推測してます。

忠昌が若年だからではなく、忠昌を後見するシッカリした人物が不在だったからだと思います。
祖父(9代目・忠国)と父(10代目・立久)が亡くなった以上、頼るのは生母の父・・外祖父が穏当な流れなのですが、
側室(茂山夫人)だった生母の父は島津家臣でした。

やはりウィキペディアに忠昌生母は『茂山夫人(梶原弘純の娘)』とあるんですが、梶原弘純は島津史料である『本藩人物誌』に載ってないんです。
別の二次史料ですと忠昌外祖父・梶原弘純は、義経と不仲で有名な梶原景時の三男の子孫ということで、1545年加世田城の合戦で戦死となっているそうですヽ(。_゜)ノ
えっと・・・1508年に46歳で死んだ忠昌より長生きで戦死って、人間の寿命を超えてるような・・・ゲフゴホ
とにかく島津家臣という事以外は来歴不明で、『本藩人物誌』にも載ってないとなると少なくとも門閥とか名族の出ではなさそうです。

庶子だった忠昌は家督を継ぐ前は僧侶だったので、そもそも島津当主となるための教育を受けていません。
ですから子弟教育の過程で、当然いるべき乳兄弟や遊び相手(将来の幹部候補)もおらず島津家中の人間関係の中では孤立してたと思います。
また島津宗家宿老といえど、実力者揃いの分家当主を家臣の立場でコントロールするのは・・
まぁ、無理だったから「国中騒乱」になったんでしょうね。

正室には大友政親の娘・天真夫人を迎えてます。
大友は島津家中の内紛に、ちょっかい出してたようなので、その和睦で政略結婚したのか?
政治背景が乏しい忠昌の立場を補完するためだったのか?
両方の意味だったのか?
駆け足で齧っただけの自分レベルでは判断できませんです。

ただ大友家も家中を真っ二つに割った親子で争う壮絶御家騒動でグダグダになり、立ち直るのに時間かかります。
それで縁戚として極端に深入り介入されるのは、回避できました( ̄ω ̄A;アセアセ

さらに不運だったのは忠昌が相続して間もない時期に天変地異が相次いだことです。
その天変地異とは、桜島の文明大噴火です。

まず忠昌クン相続前から桜島の噴火が始まってます。
文明2(1470)年1月20日に9代目忠国が死亡
文明3(1471)年9月12日~桜島大噴火(『北側文明溶岩流出』死者多数)
文明5(1473)年?月?日~桜島噴火
文明6(1474)年4月26日に10代目立久が死亡
文明7(1475)年8月15日~桜島南西部で噴火(『南側文明溶岩流出』死者多数)
文明8(1476)年9月12日~桜島南西部で大噴火で死者多数。
海中が二里余り埋まり、沖小島と烏島が形成される。


ほぼ隔年で噴火している上に、合間に宗家当主が二人死亡で次の当主が若年。
とどめで地形が変わるレベルの大噴火で、国内の人心が不安定にならないはずがない。

この地形変化した大噴火の年に薩州家二代目・国久が忠昌に叛旗を翻し挙兵!
薩州家の謀反に豊州家初代・季久と相州家初代・友久が呼応する。

それぞれの細かい挙兵時期は不明です。
この時 忠昌は数え14歳。
年齢からいって11代目・島津忠昌の初陣は、叔父たちとの闘いだったと思われるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【薩州家_島津義虎までの その弐】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
  ザックリ駆け足予備解説につきウィキペディアやサイト武家家伝参照です。


え~島津の数ある分家の中で、自分が一番好きなのが薩州家です~川* ̄д ̄*川ポッ
既に過去にカテゴリ作ってドップリ記事にしているんですが、好きなんで何度でも書いちゃうです(爆

宗家の地位を巡って争う島津氏の総領五家「総州家奥州家相州家・伊作家・薩州家
元々の宗家だった総州家は、奥州家に敗れ室町期に滅亡したので、家督を巡る争いは残りの四家となりました。
新たに宗家となった奥州家から赤色文字の三氏が派生します。

赤色文字・三氏のうち宗家と匹敵する実力を保持していたのが薩州家です。
てことで萌えるピンク色文字 川* ̄д ̄*川ポッ 

判りやすく言うと、宗家という器に入っている中身が
室町中期~戦国中期まで奥州家
戦国中期~戦国末期以降、伊作家
であるのに対し、宗家と拮抗し争うのは、常に薩州家なのです。

島津宗家が薩摩国守護職であるのに対し、薩州家は薩摩国守護代の家柄。
薩州家の本貫地である出水(鹿児島県出水市)は、鎌倉期に薩摩国守護所があったという、実に由緒ある土地でございます(-人-)☆彡

宿命の家・・・薩州家は、その誕生も特殊でした。
初代である島津用久は、宗家(=奥州家)当主・忠国の長兄だったんです。
兄が宗家当主になることが出来なかったのは生母が側室・・・庶子だったから。

で、、、御家騒動にありがちなんですが、
庶長子である用久の器量は実弟(嫡出子)で当主である忠国を上回ってたんです( ̄ω ̄A;アセアセ
何せ忠国が手こずった薩摩国人一揆を、用久が鎮圧しちゃったくらいですから( ̄ω ̄A;アセアセ
(そのあいだ忠国は処置を兄貴に丸投げして妻実家に退避しちゃってた)

そのため忠国の方が「兄貴は宗家の家督を狙ってるに違いない!!」と疑心暗鬼になり兄と激しく争います。
時に室町将軍は六代目義教なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
忠国は苛烈なことで「万人恐怖」を言われた足利義教を味方につけることに成功し、兄との争いに勝った(=^・ω・^=)v ブイ

用久は宗家から離れ分家・薩州家初代となります。
兄弟和睦の証として忠国の嫡男・立久に、用久の娘が嫁ぎました^-^

が。。。どうも忠国は終生兄に心を許さず油断できない男と警戒し続けていたようです。
まぁ優れた兄への嫉妬もあるんでしょうな ( ゚Д゚)y─┛~~

忠国は嫡男・立久が成人し孫が生まれても頑として家督を譲らず、死ぬ(1470年)まで現役席にしがみ続けた。
といっても丸っきりの頑固ジジーなわけでなく、嫡男・立久は当主としての実務には携わってたそうです。

が、嫡男・立久が実質当主として活動を始めるのは、忠国の兄にしてライバルであった用久が死んだ年(1459年)からでして、、、、
総州家を破って覇者となった偉大な父・久豊と、庶子でなければ当主の器であっただろう優れた兄・・・家庭の事情が複雑で庶民シオには窺い知れないイロイロあったかと・・・(´・д・`)

という波乱の幕開けだったのに、忠国は更に複雑にしちゃいました。
え~~~言いづらいけどちと家族計画に失敗したんですぅ ( ̄ko ̄)

わずか数カ月の差で庶長子(友久)と嫡男(立久)が生まれちゃったんです( ̄ω ̄A;アセアセ
忠国ってば~自分もソレで苦労したのに、子供たちまで同じ状況にしちゃった!Σ(´Д`;)はぅ
長男の友久は、立久と同い年でありながら庶子であるがために家督が継げず、分家して赤色文字の相州家初代となります。

忠国が死ぬまで家督を譲らなかったのも、子供たちのこともあるかもしれませんが、これは忠国本人だけしか判らない胸中の事でしてナントモカントモ・・・(´・д・`)

立久の代で応仁の乱が始まり戦国乱世に突入するわけだが、立久の代は分家と上手く行ってたようで、応仁の乱にも分家と協力して対応してました。

問題は立久の次。

立久が庶子・忠昌を残して43歳という働き盛りで死去した。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
更に不味いことに側室だった忠昌の生母は分家とかじゃなくガチ家来筋で、ほんとに身分が低かったらしい。
そのため父である立久も家督相続候補としては想定外で、あらかじめ忠昌を出家させてたんです。

立久死去により忠昌は急きょ還俗・・・時に数え12歳!!!( Д )  ゚  ゚
庶子で僧侶あがりの若年当主・忠昌クンは、
島津一族として自分より遥かに毛並が良い分家の叔父様たち
に囲まれる事になったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【薩州家_島津義虎までの壱】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
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薩州家を知るのは、肥後戦国史オタか島津オタぐらいだろう。
なぜなら薩州家は、島津宗家に逆らうだけでなく、豊臣秀吉の逆鱗に触れ取り潰された為に、
島津宗家から黒歴史扱いとなり、戦国期の光彩を二度と取り戻す事が出来なかったからだ。

江戸期編纂二次史料・本藩人物誌においても、本編ではなく「国賊伝」(宗家に刃向った国衆や家臣・一族などが入っています)の方に記載されている。
秀吉に改易された薩州家の史料は極めて少なく、島津関連における他家史料等に記載されている部分から拾うしかない状態でして、まとまった家譜のようなものはありません。


だが「島津に暗君無し」の名君伝説を彩る、江戸期から今に至る島津当主に、
その薩州家の血脈が流れているのを知る人は少ない。




これは、あくまでも個人的な見解なのだが、
戦国島津氏を物凄く簡単に説明すると、
戦国初期から中期⇒⇒宗家の地位を巡る椅子取りゲーム
戦国中期から江戸初期⇒⇒宗家の君主権確立まで苦労バナ

と思うんです^^/
で、宗家の地位を巡る椅子取りゲームで頭角を現すのが総領五家「総州家奥州家相州家・伊作家・薩州家

初めに(室町期)宗家の椅子を奪い合ったのが総州家と奥州家。
(※元々の宗家は総州家)
で、勝利を治めたのが奥州家でして、総州家は滅ぼされ総領五家から脱落します。
てことで文字をグレー色にしませぅ__φ(.. ) ペタペタ

室町幕府も旧宗家が滅んでしまっては手のうちようがなかったらしく、新宗家=奥州家を認めました。
奥州家は平成現代まで続く島津氏DNAの頂点となります__φ(.. ) カキカキ宗家は青色にゃ

で、宗家(奥州家)ドン・久豊の息子や孫から分家が派生します。
**************************************
忠国(陸奥守)~宗家(奥州家)家督を継いで9代目当主・正室は伊作島津勝久娘
用久(薩摩守)~薩州家初代⇒7代目で豊臣秀吉によって改易
季久(豊後守)~豊州家初代
有久(出羽守)~羽州家初代⇒後に嫡流が絶えて大島島津家として存続
豊久(伯耆守)~伯州家初代⇒2代目が出奔し豊州家3代目の家臣となるので断絶

相州家は久豊の孫(忠国の子)が初代。
伊作家も久豊の孫(忠国の子)が継ぐ。
**************************************

おーい大丈夫~?~~ついてこれてるかぁぁぁーo(* ̄○ ̄)ゝーーーーぃぃぃ
総領五家のうち、三家が新宗家(奥州家)から派生してるわけなんです。
(伊作島津のみは以前からあるが、直系が絶えて久豊の孫が継いだ)

で、戦国初期から中期にかけて、再び宗家の椅子を巡り一族内の相克があり、
10年に及ぶ争いの末に勝利を治めたのが伊作家。

この伊作家当主・日新斎の孫が、高名な島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)です。
戦国後期からは宗家の座は伊作家が、
江戸初期からは島津四兄弟のうち次男・義弘の系譜が宗家当主の座を独占するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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感想④--『竜造寺家臣団の構成とその特質(天正八年の着到帳の分析を中心として)_藤野保』

龍造寺一門を除く上層部家臣団の構成においては、外様家臣が優位を占めていた。

龍造寺隆信は東肥前平定の段階で有力領主を上層家臣団に編入。
同時に彼らの被官衆を大量に中層家臣団に組み入れることによって、勢力を飛躍的に拡大した。


てことで論文添付の一覧表を見て意外と成程~なところ。
龍造寺一門は別格として、次の上位が江上・田尻・後藤なのは、まぁ想定内。
特に江上と後藤は、龍造寺が一族送り込んで家督を頂いてるから^^/

で、その次に馬場氏一族5名が来てるのが、ちょっとビックリ。
馬場氏TOPが龍造寺抹殺を目論んで討たれた馬場頼周の孫・馬場鑑周の700町。
鍋島直茂の530町より多かった。

こういうところって、豊臣秀吉が、かつての敵をガンガン取り込んだのと似てます。
いちいち敵を擦り潰してたんじゃ時間がかかるし、敵側領民の恨みを買って統治に手間がかかるから。

<執政体制の変化>
天文22---(固定)小川信安・納富道周+(譜代)江副久吉・福地信重+(与賀)家親
天正8年・・・・隆信隠居
新執政----(固定)小川信俊・納富家理+(外様新参)土肥信安+(水ヶ江)信周(村中)家就


小川と納富は世代交代しても宿老として固定。
譜代が抜けて外様新参の土肥を入れてバランスをとる。

一方で江上・神代・後藤(塚崎)などの新参の有力領主が入っていないということ。
シオ推測、おそらく隆信は権限が彼等に集中するの恐れたと思う。
なぜなら江上衆、神代衆、塚崎衆は地域別の衆構成で、まんま龍造寺軍団における主力戦闘部隊だからです。
政治と軍事で権限(功績)を分散するのは、どの世界でも誰に教わるでもなくやってる普通のバランス感覚だから。

隆信の弟・須古の信周が宿老になるのは、隆信隠居後の新体制になってから
龍造寺一門のうち胤家系の諸氏の多くは須古に移り、
代わって水ヶ江龍造寺家の執政参加が実現する。


与賀の家親が死ぬのは天正3年なので、家親が抜けた宿老は空いたままだった可能性が高い。
(家親の嫡男が継いだという記録がない)
おそらく龍造寺隆信は、自分の実家である水ヶ江を執政中枢に入れるタイミングを計ってたのだろう。




この論文の初出は1978年なので、今山合戦への評価は最新研究では変化してると思うので、ここでの詳細は省きました。

それ以外の本旨である配分帳に対する分析は素晴らしく、とてもとても勉強になりました。
論文の構成力、簡潔かつ要点をはずさない表現力。
添付されたデータに対する緻密なリサーチ。

まるで鍛えられたアスリートの無駄のない筋肉を見ているようで美しい(←?)
幾度も幾度も読み返し堪能したです~~(人´∀`).☆.。.:*・
藤野先生ありがとうございました。今後の研究に生かしますm(__)m

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感想③--『竜造寺家臣団の構成とその特質(天正八年の着到帳の分析を中心として)_藤野保』

五ヶ国御領地之節配分帳(隆信公幕下着到)---元禄十年の写本を更に文政七年に写本

原本は天正八年ですが現存していません。
藤井先生は、冒頭の史料を原本に最も近いと論証されています。

その上で中身の検証ですが、。。。φ(.. ) メモメモ

龍造寺一門27名のうち、与賀龍造寺(胤家系)村中龍造寺(家和系)が主たる構成を占め、
水ヶ江龍造寺(家兼系)は6名しかいなかったそうです。

水ヶ江龍造寺系が有力な地位を占めるのは、元亀元年の今山合戦において大友勢に勝利してからと藤野先生は書かれています。

史料タイトルの( )内にある幕下着到という言葉ですが、二つの意味が込められています。
幕下=被官
ここで大事なのは、あくまでも配下であって江戸期のような家臣ではないという点です。
だから沖田畷で隆信公が討ち取られると「幕下」・・・特に肥前国以外の幕下は速攻で寝返ります^^;

着到=馳せ参じましたぁぁ
戦国時代に馳せ参じるのは家臣だけも幕下(被官)だけでもない。
敵側だったのが寝返ったり、日和見だったのがやってきたり、色々です^^
つまり着到の事実だけをもって、被官とは限らないということです。

まぁ、これは拘り戦国オタなら大前提として頭にいれておかなきゃならない事です。
(ちょっと江戸期の用語に惑わされてウッカリ勘違いしてた誰かさんがいましたけどwww)
ところが冒頭の史料は、幕下(被官)か、着到(馳せ参じた武将)か、片方の事柄だけで幕下着到ひとくくりでカウントしているby藤野先生論文超要旨んです。
現存してない原本(一次史料)に元からあったのか、江戸期の「盛り(願望?)」で付け加えられたのか、見比べることが出来ない以上は断定はできません。
でも少なくとも肥前国衆以外のデータは鵜呑みにできない~~と言う事です^^;

なるほど~~それで秋月種実や相良義陽までカウントされてたのか(@@)
秋月は何かの戦で龍造寺に援軍出してたような・・・島津の方だったかな?(-ω-;)ウーン
相良は龍造寺に起請文だしてたからカウントされたって事かな?(-ω-;)ウーン

一番ぶっ飛ぶのは立花道雪と宗茂(当時は統虎)まで「幕下着到」にカウントされてることです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
幕末期に写本された五箇国配分帳の方になると、岩屋城で大友への忠義に殉じて玉砕討死した高橋紹運まで入ってます
( ´д`)ぇえぇ~~~~
そういえば、主家である大友氏没落で一時的に龍造寺と棲み分けしてたことがあったような~ヽ(。_゜)ノ

ここんとこ自分が与賀龍造寺の関係で、明応年間だの永正年間だのばかり調べてるんで、天正年間の政治状況がパッと出てこない^^;
論文は更なる細かい分析にはいり、シオの脳みそのリミッターを振り切りつつあるのだが、それは・またの話 by^-^;sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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