相良義陽_37【相良と菱刈と薩州家と その5】
≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。
なお、島津氏の女性については、相互リンクしているサイト戦国島津の女達を参照しております。
※サイト管理人は在野で島津氏の女性史の(一門全般を網羅)研究されている方です。
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≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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大隅国人・菱刈氏と薩摩国守護代の家柄にして島津氏分家筆頭・薩州家の縁戚関係は・・
って、またまた年度不明~~~
薩州家3代目・重久長女~菱刈相模守重福に嫁ぐ、二人の間に生まれるのが14代目重州
重福も重州も生没年不明なので特定しづらい~~~(_´Д`)アイーン
ヒントは重久が成久って諱だったころなの~(人´∀`).☆.。.:*・
って、そんな時期が判ったら、完全に年度不明のはずないだろ!!!(# ゚Д゚)・;'.
記録の激少ない重久だが幸いにして没年は判ってるんで逆算推定で、生年は寛正4年(1463)の室町後期。
寛正の次が応仁の乱の応仁でつ・・・ ( ̄ko ̄)
2代目・国久が亡くなった明応7年(1498)7月29日だと、重久は推定で35か36歳・・・
(薩州家当主の没年は鹿児島県史・別巻・諸氏系図より)
二十歳くらいで長女が生まれていれば15か16で、嫁いでても不自然じゃない・・・
が、記録が少なすぎて長女だってのは判ってるが、生母も判らんし生没年不明^^;
2代目国久死去で御家騒動が起きた、後なのか前なのかが~~~どっちも状況的にアルアルでサッパリ判らん!!!
御家騒動の後っぽいような?気はする?んだが、ワカランものを推測しても、あらぬ方向に迷走するだけなんでパス。
「北伊佐史」によると明応8年(1499)島津忠昌は、菱刈&相良対策のために、羽州家の島津忠明を大口城へ入れたそうだ。
羽州家って島津の分家です^-^
羽州守だから羽州家^-^
ちなみに薩州家は、薩州守だから薩州家なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
島津忠明は大口城主になってから「大口殿」と呼ばれたそうだが、別段ビッグマウスって事ではないらしい^^;
また年度不明だが、さすがに明応8年(1499)より後だろう~~
菱刈重時の次女・土用松~島津忠明(後の大島氏祖)と結婚
えっと~菱刈重時って、14代目重州の祖父にあたります__φ(.. ) メモメモ
で、菱刈重時は何気に娘が多くて、盛んに政略結婚してたんです。
長女・土用犬~~阿蘇惟永(人物特定不可)に嫁ぐ
次女・土用松~~大口城主・島津忠明嫁ぐ
三女・土用毘沙~相良長皎に嫁ぐ
四女・土用満~~比志島某に嫁ぐ
土用・・・・娘は全員、夏生まれなんだろうか~(-ω-;)ウーン
で、冒頭にあげたように、嫡男・重福には薩州家・重久の長女が嫁いでいるわけです。
「北伊佐史」は大正期に発刊された三次史料なので「菱刈&相良対策のために」って部分が、編者の推測なのか典拠となるデータがあるかは不明です。
上記の娘の嫁ぎ先は、「戦国島津の女達」からのデータで、元出典は「藤原姓菱刈氏系図」や「本藩人物誌」などバラバラです。
ちなみに「戦国島津の女達」管理人は、島津女系譜専門の在野研究者です^^/
島津氏の子女だけでなく、島津一族に嫁いできた他家の姫様も網羅してます^^/
てことで菱刈四姉妹も、島津側データだけでなく、菱刈文書なども調べた上で「年度不明」と記載されてます。
なにせ地元県出身の某郷土史家が参照するくらいのスペックですから、島津が絡む縁戚関係においては、このサイトで判らなければ、もう他の史料は出て来ないと思ってよいです ( ̄ω ̄A;アセアセ
(※だから相互リンクOKのメールもらったときは超嬉しかった (人´∀`).☆.。.:*・)
IFもし「北伊佐史」の編者が、菱刈の複雑な縁戚関係を掌握していたのなら、菱刈&相良対策という解釈は妥当だったと言えます。
約30年後・・・重時の息子、重福の代になって、大口城は相良・菱刈連合軍の攻撃を受けるのだが、それは・またの話 by^-^sio
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。
なお、島津氏の女性については、相互リンクしているサイト戦国島津の女達を参照しております。
※サイト管理人は在野で島津氏の女性史の(一門全般を網羅)研究されている方です。
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≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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大隅国人・菱刈氏と薩摩国守護代の家柄にして島津氏分家筆頭・薩州家の縁戚関係は・・
って、またまた年度不明~~~
薩州家3代目・重久長女~菱刈相模守重福に嫁ぐ、二人の間に生まれるのが14代目重州
重福も重州も生没年不明なので特定しづらい~~~(_´Д`)アイーン
ヒントは重久が成久って諱だったころなの~(人´∀`).☆.。.:*・
って、そんな時期が判ったら、完全に年度不明のはずないだろ!!!(# ゚Д゚)・;'.
記録の激少ない重久だが幸いにして没年は判ってるんで逆算推定で、生年は寛正4年(1463)の室町後期。
寛正の次が応仁の乱の応仁でつ・・・ ( ̄ko ̄)
2代目・国久が亡くなった明応7年(1498)7月29日だと、重久は推定で35か36歳・・・
(薩州家当主の没年は鹿児島県史・別巻・諸氏系図より)
二十歳くらいで長女が生まれていれば15か16で、嫁いでても不自然じゃない・・・
が、記録が少なすぎて長女だってのは判ってるが、生母も判らんし生没年不明^^;
2代目国久死去で御家騒動が起きた、後なのか前なのかが~~~どっちも状況的にアルアルでサッパリ判らん!!!
御家騒動の後っぽいような?気はする?んだが、ワカランものを推測しても、あらぬ方向に迷走するだけなんでパス。
「北伊佐史」によると明応8年(1499)島津忠昌は、菱刈&相良対策のために、羽州家の島津忠明を大口城へ入れたそうだ。
羽州家って島津の分家です^-^
羽州守だから羽州家^-^
ちなみに薩州家は、薩州守だから薩州家なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
島津忠明は大口城主になってから「大口殿」と呼ばれたそうだが、別段ビッグマウスって事ではないらしい^^;
また年度不明だが、さすがに明応8年(1499)より後だろう~~
菱刈重時の次女・土用松~島津忠明(後の大島氏祖)と結婚
えっと~菱刈重時って、14代目重州の祖父にあたります__φ(.. ) メモメモ
で、菱刈重時は何気に娘が多くて、盛んに政略結婚してたんです。
長女・土用犬~~阿蘇惟永(人物特定不可)に嫁ぐ
次女・土用松~~大口城主・島津忠明嫁ぐ
三女・土用毘沙~相良長皎に嫁ぐ
四女・土用満~~比志島某に嫁ぐ
土用・・・・娘は全員、夏生まれなんだろうか~(-ω-;)ウーン
で、冒頭にあげたように、嫡男・重福には薩州家・重久の長女が嫁いでいるわけです。
「北伊佐史」は大正期に発刊された三次史料なので「菱刈&相良対策のために」って部分が、編者の推測なのか典拠となるデータがあるかは不明です。
上記の娘の嫁ぎ先は、「戦国島津の女達」からのデータで、元出典は「藤原姓菱刈氏系図」や「本藩人物誌」などバラバラです。
ちなみに「戦国島津の女達」管理人は、島津女系譜専門の在野研究者です^^/
島津氏の子女だけでなく、島津一族に嫁いできた他家の姫様も網羅してます^^/
てことで菱刈四姉妹も、島津側データだけでなく、菱刈文書なども調べた上で「年度不明」と記載されてます。
なにせ地元県出身の某郷土史家が参照するくらいのスペックですから、島津が絡む縁戚関係においては、このサイトで判らなければ、もう他の史料は出て来ないと思ってよいです ( ̄ω ̄A;アセアセ
(※だから相互リンクOKのメールもらったときは超嬉しかった (人´∀`).☆.。.:*・)
IFもし「北伊佐史」の編者が、菱刈の複雑な縁戚関係を掌握していたのなら、菱刈&相良対策という解釈は妥当だったと言えます。
約30年後・・・重時の息子、重福の代になって、大口城は相良・菱刈連合軍の攻撃を受けるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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