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相良義陽_37【相良と菱刈と薩州家と その5】

≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。

なお、島津氏の女性については、相互リンクしているサイト戦国島津の女達を参照しております。
※サイト管理人は在野で島津氏の女性史の(一門全般を網羅)研究されている方です。
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≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分

他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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大隅国人・菱刈氏と薩摩国守護代の家柄にして島津氏分家筆頭・薩州家の縁戚関係は・・
って、またまた年度不明~~~
薩州家3代目・重久長女~菱刈相模守重福に嫁ぐ、二人の間に生まれるのが14代目重州
重福も重州も生没年不明なので特定しづらい~~~(_´Д`)アイーン

ヒントは重久が成久って諱だったころなの~(人´∀`).☆.。.:*・
って、そんな時期が判ったら、完全に年度不明のはずないだろ!!!(# ゚Д゚)・;'.

記録の激少ない重久だが幸いにして没年は判ってるんで逆算推定で、生年は寛正4年(1463)の室町後期。
寛正の次が応仁の乱の応仁でつ・・・ ( ̄ko ̄)
2代目・国久が亡くなった明応7年(1498)7月29日だと、重久は推定で35か36歳・・・
(薩州家当主の没年は鹿児島県史・別巻・諸氏系図より)

二十歳くらいで長女が生まれていれば15か16で、嫁いでても不自然じゃない・・・
が、記録が少なすぎて長女だってのは判ってるが、生母も判らんし生没年不明^^;
2代目国久死去で御家騒動が起きた、後なのか前なのかが~~~どっちも状況的にアルアルでサッパリ判らん!!!
御家騒動の後っぽいような?気はする?んだが、ワカランものを推測しても、あらぬ方向に迷走するだけなんでパス。

「北伊佐史」によると明応8年(1499)島津忠昌は、菱刈&相良対策のために、羽州家の島津忠明を大口城へ入れたそうだ。
羽州家って島津の分家です^-^
羽州守だから羽州家^-^
ちなみに薩州家は、薩州守だから薩州家なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
島津忠明は大口城主になってから「大口殿」と呼ばれたそうだが、別段ビッグマウスって事ではないらしい^^;

また年度不明だが、さすがに明応8年(1499)より後だろう~~
菱刈重時の次女・土用松~島津忠明(後の大島氏祖)と結婚
えっと~菱刈重時って、14代目重州の祖父にあたります__φ(.. ) メモメモ
で、菱刈重時は何気に娘が多くて、盛んに政略結婚してたんです。

長女・土用犬~~阿蘇惟永(人物特定不可)に嫁ぐ
次女・土用松~~大口城主・島津忠明嫁ぐ
三女・土用毘沙~相良長皎に嫁ぐ
四女・土用満~~比志島某に嫁ぐ


土用・・・・娘は全員、夏生まれなんだろうか~(-ω-;)ウーン

で、冒頭にあげたように、嫡男・重福には薩州家・重久の長女が嫁いでいるわけです。
「北伊佐史」は大正期に発刊された三次史料なので「菱刈&相良対策のために」って部分が、編者の推測なのか典拠となるデータがあるかは不明です。
上記の娘の嫁ぎ先は、「戦国島津の女達」からのデータで、元出典は「藤原姓菱刈氏系図」や「本藩人物誌」などバラバラです。

ちなみに「戦国島津の女達」管理人は、島津女系譜専門の在野研究者です^^/
島津氏の子女だけでなく、島津一族に嫁いできた他家の姫様も網羅してます^^/
てことで菱刈四姉妹も、島津側データだけでなく、菱刈文書なども調べた上で「年度不明」と記載されてます。
なにせ地元県出身の某郷土史家が参照するくらいのスペックですから、島津が絡む縁戚関係においては、このサイトで判らなければ、もう他の史料は出て来ないと思ってよいです ( ̄ω ̄A;アセアセ
(※だから相互リンクOKのメールもらったときは超嬉しかった (人´∀`).☆.。.:*・)

IFもし「北伊佐史」の編者が、菱刈の複雑な縁戚関係を掌握していたのなら、菱刈&相良対策という解釈は妥当だったと言えます。
約30年後・・・重時の息子、重福の代になって、大口城は相良・菱刈連合軍の攻撃を受けるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

相良義陽_36【相良と菱刈と薩州家と その4】

≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。

なお、島津氏の女性については、相互リンクしているサイト戦国島津の女達を参照しております。
※サイト管理人は在野で島津氏の女性史の(一門全般を網羅)研究されている方です。
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≪記事内ルール≫
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本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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球磨郡誌が近代デジタルライブラリでネット公開されたんで、ウィキペディアの記述が やたら増えてる!Σ(´Д`;) 
シオはシオで、マイペースで行きます__φ(.. ) メモメモ

文明17(1485)年、相良と菱刈を交えて島津家の3家が同盟をしています。
これは「伊佐史」「球磨郡誌」には記載なしで、サイト「武家家伝_菱刈氏」から拾ったデータです。
サイトでは、上記以外の二次史料も複数を参照しているので、シオが見てるデータ以外にあったのでしょう。
サイトでは島津氏としかないので、薩州家なのか宗家なのかハッキリしてません^^;

IFバナの可能性としてなら、島津宗家です。
文明8年(1476年)に島津宗家と菱刈+相良が大口城を巡って揉めてるので、やっと和睦したって流れは有り得ます。
9年はブランクありすぎと思うかもですが、島津は内訌で分家が謀反したりでグダグダだったし。
それに当時は、宗家11代目・忠昌は10代半ばの少年だったんです。

9年後・・成長した忠昌は、三家和睦する文明17(1485)年の前年に、飫肥の役で伊東に寝返るなど宗家に反抗的だった伊作の島津久逸を懲らしめ、更に伊東氏との闘いにも勝利してます。
領内安定のために忠昌も頑張ってて、一息ついた頃で和睦のタイミングとしては不自然じゃないです。
ちなみに和睦時の菱刈当主は特定できんかった(_´Д`)アイーン
相良の方は、当事者だった為続の代が続いてます。

お手数ですが画像保管庫より地図 クリックなぅ
管理人の性格が出てるエリア・イメージを見ると、大口領が見事に相良と菱刈の間にあるのが判ると思います^^

地図・相良関連
ちょっと年代的に、今シリーズより後の時代用地図・美麗な方ですと、こんな感じ(*´pq`)クスッ

こういう国境の土地って、帰属が何処かって事で、揉めるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

パワーバランスが崩れるのは明応7(1498)年、薩州家2代目・国久の死去で御家騒動が起きる
薩州家2代目で(宗家に刃向うほど元気な)実力者だったと思われる国久死亡で、薩州家では家督を巡る争いがあったみたい。
みたい~というのは、史料不足で肝心の騒動の中身詳細が不明だから。

どうも3代目重久と息子で4代目忠興が主導権争いした・・・ような?
でも史料がないんで推測ですから、違うかもしれません(_´Д`)アイーン
とにかく詳細不明ながら薩州家の御家騒動に島津分家の羽州家と伊作家が巻き込まれ、当時の伊作当主が戦死してます。

それだけ薩州家の影響力が大きかったってことなんでしょう。
で、前回ラスト一行に話が繋がるwww
相良氏と縁戚関係だった菱刈は、実は薩州家とも縁戚関係だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
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相良義陽_35【相良と菱刈と薩州家と その3】

≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
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ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。

なお、島津氏の女性については、相互リンクしているサイト戦国島津の女達を参照しております。
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≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
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ウィキペディア(元出典は球磨郡誌)によると揉めたのは文明8(1476)年2月20日の事だった。
薩摩国牛屎院の大口城の将・島津三郎右衛門尉が兵を起して菱刈を襲ったそうです。
※室町期~戦国初期くらいまでは、大口は牛屎院と呼ばれていました。
※平成現代では大口も菱刈も合併し、伊佐市となっています。

島津三郎右衛門尉という人物が島津一門の誰に該当するのか・・・とか。
なぜ菱刈を襲ったのか・・・などなど。
いずれも詳細が判る史料は残ってないようです。
『伊佐史』によると、そもそも島津三郎右衛門尉という武将は、菱刈に備える為に大口城に配されたんじゃないか~
という推測を記述しており、島津宗家は薩州家も絡む菱刈や相良を警戒してた・・・っぽいって話

とにかく菱刈氏は相良為続の舅にあたるという縁から、相良は菱刈支援のために大口城を攻撃しました。
が、落とすことが出来なかったので前年に同盟関係となった薩州家2代目・国久に助っ人依頼。
同年3月27日には日向・北原氏も応援に入った。
で、何やらブランクあいて8月4日に、相良+薩州家+北原の連合軍で島津三郎右衛門と合戦したけど、勝敗が決しなかったそうな。(牛山河原合戦)
で、最終的には9月2日に大口城が落城した。

事態に憂慮した薩州家2代目・国久は豊州家・季久と相談して、相良為続に大口を格護させた。(期間は20年)

ウィキペディアでは国久が相談したのは息子で三男の秀久となっているんですが、これは球磨郡誌か大元の江戸期二次史料の誤記と思われます。
同年に起きる国久と豊州家の謀反は、この大口城を巡る流れと連動しているので、国久が協議するなら相手は息子じゃなくて、実弟で豊州家当主の季久でないと不自然。
これはシオだけの推測ではなく、相良氏を研究している池田こういち氏も著書「肥後相良一族」で豊州家・季久としていますし、『伊佐史』の方も豊州家の季久になってます。

で、注目なのが格護という言葉。
これは歴史民俗用語でして、意味は薩摩・島津氏の領地を占有または保持するって意味なんです。
ということで、そもそも、この大口領を相良為続に任せる権限が薩州家2代目・国久にあったのか?
となると何せ一次史料が不足しすぎで権利関係さっぱりワカランヽ(。_゜)ノ 降参!

どうやら相良為続に大口を与えることに、島津宗家は反対だったようなんです。
当主の忠昌は未だ14歳の少年なので、島津氏家老と国久が対立したってことになると思うんですが、詳しい内情は不明です^^;

島津宗家の反対に怒った薩州家・国久が挙兵、謀反を起こし、薩州家に呼応して豊州家と相州家も挙兵しちゃうわけです。
相州家の謀反が鎮圧されると、豊州家も降伏し、撤兵した薩州家が半独立状態になったのは、薩州家シリーズで記述した通りです^-^

えっと・・・島津氏内部は揉めまくってますが、国久と相良為続の関係は良好だったようで、
薩摩の内乱鎮圧に相良為続が加勢として球磨から大口まで出陣したり(合戦に及んだかまでは不明)
相良為続が名和氏と合戦した時に、薩州家から援軍が出てました。

ちなみに大口領ですが、相良為続の父・長続の時も島津氏から拝領してたそうですが、肥後守護職・菊池氏と揉めて返上した過去があったそうです。
で、相良為続が再び領した訳ですが、肥後守護職・菊池武運の攻撃を受けた時(色々あって揉めた)に、再び相良為続の方から島津氏に返上しています。

こんな感じで大口領&大口城の主は目まぐるしく変化し、カオスすぎて城の来歴伝承と史料による検証が出来てません( ̄ω ̄A;アセアセ
経緯は別にして、薩州家から領地を拝領した相良為続は、薩州家の被官になった事になる訳です。
そして相良為続と縁戚関係だった大隅国衆・菱刈氏も、薩州家と縁戚関係になったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_34【相良と菱刈と薩州家と その2】

≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。

なお、島津氏の女性については、相互リンクしているサイト戦国島津の女達を参照しております。
※サイト管理人は在野で島津氏の女性史の(一門全般を網羅)研究されている方です。
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≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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ちと驚いたのが相良氏9代目当主・前続が、島津宗家から妻を迎えてた事です^^
室町期に島津宗家の座を手中にした奥州家ドン・久豊の娘です。
南北朝争乱の荒波を乗り切り、庶流でありながら宗家(多良木相良)を凌駕した人吉相良氏が、着実に力をつけていたのを感じさせます。
とはいえ、さすがに9代目まで遡ってたらキリないんでパス^^;

後に戦国大名となる人吉の相良氏が飛躍する土台を作るのが、室町期の人物で12代目当主・相良為続です。
久々にウィキペディアを見たら記述が増えててビックラした,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
球磨郡誌が近代デジタルライブラリでネット公開されたんでつ ( ̄ko ̄)
が、これが曲者・・・というのは球磨郡誌発刊は昭和前期なんで、最新研究は盛り込まれてないんです。
てことで、参照しつつ慎重に記事にしたいと思います__φ(.. ) メモメモ

ウィキペディアによると相良為続の妻は菱刈道秀の娘とあり、大隅国衆・菱刈氏との繋がりを窺えるのです・・・
が、菱刈氏系図上で菱刈道秀に該当する人物が誰か特定できないし、相良為続嫡男のウィキペディアだと生母の名が記載されていないので、つまるところ詳しいことは不明です ( ̄ω ̄A;アセアセ

相良為続の頃の薩州家当主は2代目・国久 川* ̄д ̄*川ポッ 
島津宗家当主は国内争乱で心身ともに疲れ果て後に自害する11代目・忠昌です。
父の死で庶子・忠昌は12歳で家督を継いだのですが、国久は忠昌が14歳の時に謀反を起こしています。

で、国久謀反の要因に実は相良為続が関わっていたんです。
薩州家シリーズでは話が複雑になるんで紹介しきれんかったです ( ̄ω ̄A;アセアセ

で、国久が謀反を起こす前年(文明7・1475)に、相良為続と国久は同盟した・・・とウィキペディアにあり。
ウィキの元出典は球磨郡誌で、球磨郡誌の出典は江戸期二次史料のようです。
というのも、文明年間の相良氏には一次史料が残ってないから^^b

で、引き続きウィキペディアによると、( )内はシオ補足
(同年)10月、(相良為続が)鹿児島に赴いて犬追物や笠懸などの催しで歓待された。
とあります。

分析、分析・・φ(.. ) メモメモ
まず、当時の力関係と家格からいって、対等の同盟関係とは考えづらい。
傍証になるのが歓待の内容である笠懸(かさがけ)です。
笠懸(かさがけ)とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を放ち的を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式・様式のことです。
イメージとしては、テレビで紹介される正月とかに神社とかでやる流鏑馬(やぶさめ)みたいな感じね^^b
ウィキより拝借・笠懸画像

内容も似たような感じらしいんですが、笠懸の方が技術的難易度が高く、でもって儀礼上として流鏑馬より略式なんです。
てことで、相良為続は家格相応の歓待を受けたみたいですね。

ちょっと不思議だったのが薩州家・国久と同盟したのに、赴いたのが鹿児島ってウィキペディア(元は球磨郡誌)の記述です。
なんで?出水(薩州家の本拠地)じゃね?ヽ(。_゜)ノ ?と疑問が~~~~

そもそも国久が相良氏と同盟したのが、国久自身の政治的思惑から来たのか、はたまた島津宗家と相談したものなのかが、判らない・・・
そこまで記述された史料というものが、無いんですよ。

同盟の翌年に国久が謀反してるのを鑑みると、国久単独の政治判断のような印象は受けます。
何しろ当時の宗家当主・忠昌は未だ13歳の少年でしたからね。
尤も、国久が、三州守護職の名門・島津氏の勢力を誇るために、あえて鹿児島に招いて歓待したって事もありえます。

というのは、相良氏という家は、守護職という従来の権威に対し、基本として異を立てず従うからです。
自分の家がピンチにならない程度なら、守護職を主君として立てるのが相良氏の表看板であり家風でした。
ただし、これは置文や遺言などでキッチリ明文化されているわけではありません。
記事内ルールにあるように青色文字表記じゃないですからね (^ -)---☆Wink
ですが、要所要所において肥後守護職を「お屋形様」として従った相良氏歴代当主の政治的判断が、根拠&傍証になるかと思います。
従って、武将としてだけでなく優れた教養人でもあった相良為続相手ならば、島津の守護職&名門アピールは効果あったんじゃないかな~と思います^^

でもって、文明8(1476)年・・・島津国久が島津宗家に反旗を翻した、その始まりのキッカケ・・
相良為続と縁戚の菱刈氏が大口城を巡って揉めた事からなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_33【相良と菱刈と島津(宗家&薩州家)と その1】

≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
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ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
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新シリーズから記事内ルール復活します(=^・ω・^=)v ブイ←?
というのは、内容が超コアマニアックなため、他サイトで扱ってるのが激少。
しかも《相良側の視点で》となると、もしかしたらまさかのシオブロだけ?になるかもなんです( ̄ω ̄A;アセアセ
となれば、いかに趣味とはいえ書かれてること全てを鵜呑みにされて、ネット上で仮説やIFバナが独り歩きされちゃ不味い~~
てことで、きちっと記事内ルールに基づき&取扱い慎重に進ませてもらいます^^;
ではでは~本文行きまぁ~~~~~~す~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

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さて、薩州家シリーズで、海よりも深く&山よりも高い島津宗家との因縁があった事は、なんとな~く判って頂けたかな~
ボヤンとでも伝わっていれば嬉しいです 川* ̄д ̄*川ポッ 

で、薩州家に拘ってたのは「6代目・義虎に萌え'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`」というだけでなく、
領地が隣接しているため相良氏の歴史と大きく関わっているからなんです。

実は ( ̄ko ̄)

島津氏分家筆頭にして薩摩国守護代の家柄である実力者・薩州家は、もともとは相良氏にとっての上位者でした。
元々・・・というのは、薩州家が誕生(分家)した室町中期以降から
相良氏が戦国大名化に成功するまでの戦国中期くらいまで
になります。

戦国大名化するにあたり、相良氏は大きくは3つの好条件に恵まれました。(※註~シオ分析っす^^/)

1)室町初期までひきずった南北朝争乱グダグダを、分家と宗家が別々の陣営に属した事により、内訌で揉めつつも結果として乗り切った。

2)肥後守護職である大友氏が、北九州の覇権を巡って大内とガチンコ突入&歴代当主が筑後や肥後国衆の謀反でバタバタしてて相良どころじゃなかった。

3)薩摩・大隅・日向、三州守護職の島津氏が内訌によるグダグダで・・・以下同文。

さて、縮尺テキトー薩州家エリア戦国イメージ地図御面倒ですが御参照下さいませませ^^/

萌えるピンクライン薩州家エリア茶ライン菱刈エリア緑ライン相良エリアが隣接しているのが雰囲気?が判るかな~~~って(汗

いまさらですが念のため~相良氏の本貫地は球磨郡人吉です。
でもって山に囲まれた盆地から海を目指してGOGOウエスト♪ニンニキニキニキ、ニシンガ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

で、水俣郡、葦北郡とエリアを拡大し、地図にチロっと出てる天草地方を支配下におき、
明との交易によりウホウホな最盛期&戦国大名へとホップステップジャンピング~

エリアを広げるにあたっては、隣国との友好関係が必須になるのは至極当然。
シリーズタイトルにある薩州家と菱刈との相関関係は、相良氏が勢力拡大するにあたって必然の事だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家文書_112_大内義隆書状

用紙---切紙・・・儀礼上としては略式で、上位者から下位者への形式です。

緑文字---原文
※読み下し(てるつもり)
★超意訳または補足


去十一日、於諸口遂合戦、
※去る十一日、諸口遂に合戦に於いて
★去る十一日、あちこちで遂に合戦となりました。

敵数輩討[捕]之由注文到来、披見了、感悦此事候、
※敵数(あまた)の輩を討ち捕りの由 注文到来し、披見(ひけん)了(おわ)る、此の事 感悦候
★あまたの敵を討ち捕ったと注文(しるしふみ=報告)が来てたので、読み終わりましたが、このこと嬉しく思います(*´pq`)

毎度戦功無比類候、高名之至候、
※何時も戦功比類なき候、高名の至りに候
★いつも戦功が素晴らしくって(世間へも)名高いことでしょう^^/
基養父表事、切々可相動之由、加下知事候、猶刑部少輔可申候、恐々謹言
※基養父(=基肄養父・きやぶ)表の事、切々たる相動く可(べ)く之(の)由、加えて下知の事候、なお刑部少輔へ申し可く候、恐々謹言
★基養父(佐賀県鳥栖市)表の事で、切々働くとのこと、それに加えて下知(げち・命令)の事など、刑部少輔へ伝えます、恐々謹言

(天文十五年)
七月二十五日    (大内)義隆(花押)
龍造寺宮内大輔(胤栄)殿




書状は月日を記すだけで年度は書きません(年欠文書とも言います)
天文15年というのはシオ補足ではなく、佐賀県史料集成に収蔵された際に編集段階で記載されたものです。
龍造寺胤栄の活動期間、大内義隆の活動期間(花押と照合など)と併せて、北肥戦誌などの二次史料などから類推したものと思われます。

にしても一次史料が残ってたとはシランカッタ(@@)

テーマ : 歴史
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注文到来~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ---古文書学のススメ

って、遊んでる場合ではない。
これまた佐藤進一先生の初心者コースにないので、ウィキペディア参照__φ(.. ) メモメモ

古文書学における『注文(ちゅうもん/しるしぶみ)』は、現代における商業上の用語とは意味が違います。
えっと~古文書における『注文』が動詞化して『注文する』となって商取引に使われてる件~

で、古文書の方だと人名や物品の種類・数量を一つ書き形式で記したもの。です。
って、これだけだと、近代用語との違いがワカラン~~~

主君に依頼を受けて物事を調査する際に控えもしくは明細などの副進文書として作成されるもの。
副進文書・・・・手控えメモっす^^/
メモ・・・覚書きになるから、注進状と違い正式に提出されることを前提にした文書ではありません。
ただし、注文は報告の下書きだからして、注文と注進状は内容が被るわけです。
ですから、取り急ぎの戦場レポだと、注文の状態で主君に提出する場面もあったらしい。
あと注進状のことを注文って呼ぶこともあったそうな^^

戦場メモ・・・てことで注文は合戦が増えた中世・・南北朝争乱から発達し始めた文書です。

種類は四つ
・「交名注文」人名を記した
・「支度注文」調達すべき物資の明細を記した
・「合戦手負注文」合戦時に負傷した者や負傷の状況を記した
・「分捕頸注文」討ち取った敵の首について記した


宜しいですな?
分捕った頸を注文してるんじゃなくて、分捕った頸の数を注(記し)てるんですぞ(`・ω・´)キリッ

注文によって、中世当時の戦傷率や、鉄砲が出始めてからの戦傷率の解明などに役立つのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

島津家久君上京日記_豊前訪問なぅ-5

参照---行橋市史・資料編・中世
出典---旧記雑録後編一より

家久君上京日記とは~ウィキペディアより抜粋
天正3年(1575年)、島津氏の三州平定の神仏の加護を伊勢神宮などに謝するため上洛した。
この時の上洛の顛末は家久自身が『家久君上京日記』という旅日記にまとめている。


家久君は、いえひさぎみ・・・と読みます。
決して、いえひさクンとは読まないように (`・ω・´)キリッ



※原文、参照元では非掲載
青文字⇒読み下し(参照元)
ふつうの文字⇒超意訳(ブログ管理人シオ^^)

一、八日、みの嶋といえるところ一見
(3月)8日、簑島(中津郡)といえるところ一見

一、九日、牛刻ニ伊摩井を打立、
(3月)9日、牛の刻(AM11:00~PM13:00)に伊摩井(今居)を出発

未程にかんたの町を打過、
未(ひつじ・PM13:00~15:00)くらいに、かんた・・・苅田(京都郡)の町を過ぎて、

曽祢といへる村、権童次郎といへるいやしからぬニ一宿
曽祢という村へ入り、権童次郎という方の(・∀・)イイ!感じのとこに一泊

========================================
う~ん、「いやしからぬ」の部分が泊めてくれた権童次郎を指してるのか、宿泊先の雰囲気にかけてるのか微妙~

人物・良い家久
監修様提供、島津家久公イメージ画像

書くの忘れてたが、この旅行の間は家久公一行は山伏コスプレで変装してたんです。
ただ英彦山でVIP待遇受けたり、城井氏の隠居所を見学しているので、一部では島津の御曹司たる身分を明かしてたって事になります。

それで実は、なんですが、筑前の英彦山と豊前の城井氏は潜在的な反大友勢力でした。

英彦山は、大友氏に対し度々反旗を翻した筑前の国人領主・秋月種実と同盟関係。
豊前・城井氏もカテゴリ「豊前・城井氏」で紹介したように秋月と同盟関係でしたし、秋月の動きとは別に、大友の分家が謀反した時に謀反側に加担したりとかとかなどなど、大友に対し反抗的な国衆です。

島津エリアを出た家久公は、大友エリア内における反大友勢力(大友が勢力ある時期は、大人しくしてるだけ)を通過してたわけです^-^

北九州の外交関係を判ってると、そういうものも史料から読み取れるわけでして、
ガチ研究となると研究対象が肥前という限定された地域で、
かつ北と南が絡むのが天正年間であっても、基礎知識として北と南、双方の歴史的経緯を抑えるのが必要になるのです(`・ω・´)キリッ

なんてね(^ -)---☆Wink
単純に応永年間や文明年間や明応年間とかとか室町中期~戦国初期が好きなんです 川* ̄д ̄*川ポッ
萌えすぎて、本業の肥前研究までもが、未だ明応年間前後をウロウロしてますil||li _| ̄|○ il||l 

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

島津家久君上京日記_豊前訪問なぅ-4

参照---行橋市史・資料編・中世
出典---旧記雑録後編一より

家久君上京日記とは~ウィキペディアより抜粋
天正3年(1575年)、島津氏の三州平定の神仏の加護を伊勢神宮などに謝するため上洛した。
この時の上洛の顛末は家久自身が『家久君上京日記』という旅日記にまとめている。


家久君は、いえひさぎみ・・・と読みます。
決して、いえひさクンとは読まないように (`・ω・´)キリッ



※原文、参照元では非掲載
青文字⇒読み下し(参照元)
ふつうの文字⇒超意訳(ブログ管理人シオ^^)

一、七日、紀伊殿といへる人の隠居所を一見、
(三月)七日、紀伊(城井)殿という人の隠居所(館?)を見ました。

それより行ハ、左の方ニ馬のたけとて長野殿の城有、
そこから左の方へ行くと馬岳(京都郡)で、長野殿の城が有ります。

さて伊摩井の町矢野次郎五郎といへる者のところへ一宿、
さて伊摩井(今居=中津郡)の町、矢野次郎五郎という者のところへ一泊、

夜入て辻雅楽助といへる人、す**食籠調候て、
夜になると辻雅楽助(うたのすけ)と言う人が、食籠(じきろう)を調えてくれました。

慶雲といへる禅門同心にて語りに来たり候
慶雲という在俗の僧侶が物語に来てくれました。ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

=================================================

突っ込む訳じゃないが・・・
当時の人って当て字が多くて、聞いた言葉を思いつくままテキトーに漢字ふってる。

それは判るが・・・・
今居を伊摩井って、一文字ごとに漢字チョイスって凄すぎじゃね?
これが戦国薩摩人の一般的な感性なんだろうか・・・そもそも南九州は難読地名が多いしな~(-ω-;)ウーン


>す**食籠調候て、

ここは欠落文字があったんで、ちとテキトー意訳^^;
食籠(じきろう)って言葉自体は《食物をいれる蓋付きの身の深い容器》のことだそうです。
だから、晩御飯(酒の肴?)をゴチになったのではないかと・・・^^

薩摩隼人だからな~家久公も酒が強かっただろうな~
人物・良い家久
監修様提供~島津家久公イメージ画像^^

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

島津家久君上京日記_豊前訪問なぅ-3

参照---行橋市史・資料編・中世
出典---旧記雑録後編一より

家久君上京日記とは~ウィキペディアより抜粋
天正3年(1575年)、島津氏の三州平定の神仏の加護を伊勢神宮などに謝するため上洛した。
この時の上洛の顛末は家久自身が『家久君上京日記』という旅日記にまとめている。


家久君は、いえひさぎみ・・・と読みます。
決して、いえひさクンとは読まないように (`・ω・´)キリッ


※原文、参照元では非掲載
青文字⇒読み下し(参照元)
ふつうの文字⇒超意訳(ブログ管理人シオ^^)

一、六日、政所より太刀一腰、同種々の祝物拝領、
(3月)6日、政所より太刀一振と他色々なお土産を頂きました(*´pq`)クスッ

それより打立候へは、又馬二疋にてほほはしらといえる所迄おくられ候、送の者へ何やらんとせ、
それ(英彦山)より出発し、また馬二頭にて ほほはしら・・帆柱(豊前中津郡)と言う所まで送ってくれました。ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
で、送りの者へ御礼しました。

さて其夜は紀伊のうち墻といえる村に一宿、あるしハ常心といへる禅門
さてその夜・・6日の夜は紀伊(城井)のうち墻(かき?)という村に一泊。
宿の主は常心という禅門・・・在俗の僧侶でした^-^

===============================================

大河ドラマでは豊前・城井氏を宇都宮~宇都宮~と、関東の御本家の名前で呼んでましたが、
戦国時代は土地の呼称でもある城井(きい)姓だったんです。

家久公、「きい」って聞いたけど漢字が判らず(城井って書いて「きい」って土地っ子でないと読めんわ)、
当て字で紀伊と書いたようです^^

人物・良い家久
監修様提供、島津家久公イメージ画像~川* ̄д ̄*川ポッ 

テーマ : 歴史
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島津家久君上京日記_豊前訪問なぅ-2

参照---行橋市史・資料編・中世
出典---旧記雑録後編一より

家久君上京日記とは~ウィキペディアより抜粋
天正3年(1575年)、島津氏の三州平定の神仏の加護を伊勢神宮などに謝するため上洛した。
この時の上洛の顛末は家久自身が『家久君上京日記』という旅日記にまとめている。


家久君は、いえひさぎみ・・・と読みます。
決して、いえひさクンとは読まないように (`・ω・´)キリッ



※原文、参照元では非掲載
青文字⇒読み下し(参照元)
ふつうの文字⇒超意訳(ブログ管理人シオ^^)

一、(三月)五日、山上仕、各々も参候へハ、行者堂ニ嶺入の衆つとめされ候、
3月5日、山(英彦山)へ上がり、各々も参ると、行者堂という嶺入の衆(=山伏たち)が、お勤めしてました^^/

おのおのかひをふきつれ侍るをきき、心も天かけるやうにて帰り、
各々(山伏たち)が、かひ(=法螺(ほら)貝)を吹いているのと聞くと、
躍動感イパーイ♪ヽ(*´∀`)ノ 心も天を駆けるように帰りました。

さて坊中一見し、般若坊といへるに類なきひさくらあり、
さて、坊中(英彦山にある坊) 一見・・・いっけん・・・あちこち見学してると、般若坊と言うところに類(たぐい)なき、ひさくら・・・緋桜がありました (人´∀`).☆.。.:*・

**************************************************

ちなみに参照元には掲載してないけど、2月には薩州家6代目・島津義虎のとこを訪れてます。
義虎は酒宴を開いて家久君を歓待したそうな^^

なんか、ほとんど修学旅行生の旅日記的なノリで、なんだか可愛い 川* ̄д ̄*川ポッ 
変体漢文の読み下しと違って、口語体だから余計に可愛らしく感じちゃうな~川* ̄д ̄*川ポッ 

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

島津家久君上京日記(豊前訪問なぅ)

参照---行橋市史・資料編・中世
出典---旧記雑録後編一より

中書さぁ、なんつー当て字のオンパレードですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
参照元で読み下し済だから楽勝と思いきや~~
こりゃ、意訳に意外と手間取るかも( ̄ω ̄A;アセアセ
ちょびっとずつ行きます__φ(.. ) メモメモ

(三月)
一、四日、彦山より参詣仕ましき覚悟なりしかとも、態使僧馬二疋ささせられ候而、頻りにとありし間、不慮に参詣候、


<<超意訳>>
三月四日
英彦山へ参詣GO(`・ω・´)キリッって決意してたけど(英彦山から)態々(わざわざ)使僧と馬二頭で来られて、
頻(しき)りに・・・ぜひぜひって進めるから、不慮・・・ふりょ、思いがけず参詣したで候(`・ω・´)キリッ

当政所より道迄御酒持参、山臥五六人迎に来たられ候、それより政所へ着、種々の会尺、風呂なとも有、是よりも神物なと候、

当(英彦山の)政所より道(途中)まで山臥(山伏)5、6人が、御酒持参で迎えに来てくれた(*´pq`)
で、政所に着いて、いろいろ会尺(=会釈、えしゃく)・・・挨拶しまして風呂も有り。
是(英彦山)よりも神物(=進物・しんもつ)・・お土産貰いVIP待遇受けました__φ(.. ) カキカキ

この当時は風呂を用意してもてなす・・・って、VIP待遇だったんです^-^
いまみたいにシャワーやサウナが、スーパー銭湯にあるような時代じゃないので、
湯を沸かす以前に水汲み薪割りからスタートですからね(^ -)---☆Wink

家久君上京日記とは~ウィキペディアより抜粋
天正3年(1575年)、島津氏の三州平定の神仏の加護を伊勢神宮などに謝するため上洛した。
この時の上洛の顛末は家久自身が『家久君上京日記』という旅日記にまとめている。


今回アップ分は、その一部です^^
これは研究ではなく、個人的に島津家久ファンなので(*´pq`)クスッ

ちなみに家久君は、いえひさぎみ・・・と読みます。
決して、いえひさクンとは読まないように (`・ω・´)キリッ

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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