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渋谷氏_7【東郷氏・後編】

渋谷・東郷氏にとって、島津氏分家筆頭の薩州家は《薩摩に事あるとき》に『東郷の領土を窺う・危険な隣人』でした。

そんな伏線があった薩州家と東郷氏が本格ガチンコになるのが天文16(1547)年のこと。
薩州家は6代目・義虎の代。
東郷氏は15代重治の頃と言われています。

で、原因はワンコ ▼・×・▼彡
犬追物の説明を全部すると長くなっちゃうんで ほいドン (*´∀`)ノウィキペディア・犬追物
で、名門・名族のステータスたる伝統競技に使用されるワンワン▼・×・▼彡から諍いが起きたんです。

犬を的にして弓で射ることから、動物愛護の観点で現代では再現不可と言われていますが、犬を殺すわけじゃないんです。
専用の殺傷力のない矢じりを使用してます^-^
(ただしスピードはあるんで、当たり所が不味いと★彡になる場合あり^^;)
使用されるワンコは薩摩国・御当地産であるSatsuma Dog
ちなみに上野の銅像・西郷ドンが連れているワンコも薩摩犬です ( ̄ko ̄)

中型犬ですが、もともとが猪狩に使う狩猟犬のため非常に戦闘意欲旺盛でフットワークも軽やかで敏捷です。
訓練された薩摩犬150頭が決まったサークルの中に放され、俊敏に動き回る彼らを揺れる馬上で射るので、相当の弓術の持ち主でないと騎手は務まりません ( ̄ω ̄A;アセアセ
しかも、ただ当てりゃ良いってもんじゃなくて、ワンコのボデーの決まったポイントにHITさせないと、得点にカウントされないという難易度の高さ ( ゚д゚)ンマッ!!

てことで出場する騎手も名誉がかかっているが、使用される ▼・×・▼彡 薩摩犬も栄えある競技に向けて手塩にかけて訓育されます。
ちなみに薩摩犬は、獲物や敵に対しては獰猛ですが、心を許した主には温和で従順という犬好きには堪らない「萌え要素」があります。川* ̄д ̄*川ポッ(←ワンコもヌコも飼った経験がある管理人)

で、肝心の原因ですが、
東郷側の家臣が、薩州家6代義虎の家臣・湯田兵庫成重の秘蔵の犬を盗み出し、それを取り返しに来た成重に殺害される事件が発生したんです。
※この「秘蔵の犬」というのが、犬追物用にと大事に訓育してた自慢のワンコだったそうな^^;

犬追物って非常に経費がかかりまして、財布的に可能な将軍や守護職とか錚々たる家柄の方々主催なんですね。
国衆である東郷氏は主催側でなく、射手・・・つまり出場選手として選抜された方です。
選ばれるって事は武人として誉れ目出度いことで、それだけ東郷氏は代々武芸に秀でていたようです。
盗んだワンコも武技を磨くための練習用だったんじゃないかな~と( ̄ω ̄A;アセアセ

これがキッカケで抗争状態になった薩州家と東郷氏の争いは20年にも及びました。
で年度不明ですが、薩州家と抗争中に東郷氏は代替わりします。

15代目・重治に男子がおらず、菱刈氏から養子を迎えます。
それが菱刈重州の三男・重尚(別名・重綱)です。
そして16代目となった東郷重尚は、菱刈氏の上位者である相良氏から妻を迎えるんです。


薩州家と菱刈氏と相良氏と東郷氏の相関関係が繋がったところで、再び話を相良義陽編に戻しましょう。
それは・またの話 by^-^sio
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渋谷氏_6【東郷氏・前編】

渋谷一族、ラストを飾るのは、一族で一番最後に島津宗家に降伏した東郷氏です。
日露戦争、日本海海戦・連合艦隊司令官の東郷平八郎は、こちらの子孫って話ですが、専門外なので詳細は知らんです^^;

この東郷氏は6代目が子だくさんで男子が十人くらいいたんです。
で、昔にしては珍しく子弟が健やかに育ち、この6代目から派生した庶家が多く把握しきれん^^;

元々は相模で~~は渋谷ファミリアと同じなんで割愛。
島津配下として落ち着くのは室町中期で、島津氏奥州家のドン久豊が島津宗家を総領家として掌握するのと推移が同時進行になります。

つまり「総領家の座」を巡って大バトルになった島津の内訌に巻き込まれてたわけです^^;
敵になったり味方になったりと渡り歩き、何とか「勝ち組」に乗り換え成功し渋谷一族は領地維持しました。
(この時に脱落するのが渋谷鶴田氏)

キナ臭くなるのが戦国初期でして、当主が壮齢で死亡し庶子で僧侶だった忠昌が当主になってからです。
但し、文明8年(1476年)1月、薩州家の国久が忠昌に謀反した時には、渋谷一族は守護方・・・島津宗家に従ってます。

てことで、ここらあたりまでは守護と被官の筋目はキープできてたみたいです。
ちなみに東郷氏2代目(重理)が、薩州家・国久の娘を室に迎えているんですが、文明年間の何時頃かは判りませんでした^^;

本格的にグダグダになるのは・・・室町期と同様に島津氏の内訌が引き金でした。
伊東氏に対抗するために日向の守りに入ってた新納氏と伊作島津氏が、仲間割れの大ゲンカしちゃいまして・・・
この時に当主で守護職の忠昌は、日向の守りを優先し、新納氏の意見の方を尊重したんです。
ブチ切れした伊作島津が日向に寝返り、それによって誘発したのが、第一次と二次と続いた「飫肥の役」でした。

忠昌もピンチで大変でしたが、この内訌というには余りにも規模のデカい争いに、薩摩国衆である渋谷一族も巻き込まれます。
(この時に脱落したのが渋谷高城(たき)氏で、同族の祁答院(けどういん)氏に吸収されます)
伊東氏との争いは島津氏の勝利に終わり、敵側に内通した伊作島津も討伐されて ショボーン..._φ(・ω・` )と伊作に引っ込み静かになった。

が、一度開いたパンドラの箱(国衆たちの旺盛な自立心)というのは、元鞘(もとさや)に戻ることはありません。
文明17(1485)年、渋谷一族VS島津宗家・文明の大合戦が起こる。
これって「キチンとした鎮圧」って形がとれてないように感じます( ̄ω ̄A;アセアセ
で、サイト武家家伝によると、薩州家の嫡男・重久(後の3代目)が高城水引に侵略し高城氏をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
更に東郷庶家・白浜氏の守る湯田城を落としてるそうです。

(-ω-;)ウーン・・・ホントに何時ごろ国久娘と東郷氏が結婚したんだろう~
政治状況が二転三転しすぎてサッパリ判らん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

薩州家の国久が死亡するのが明応7年(1498年)で、家督を巡る騒動が起きて伊作と羽州の島津分家が巻き込まれてます。
その時に縁戚だった(はず?)東郷氏が、どのような動きをしたかは記録が残っていません。

思うように国内統治が出来ず絶望して忠昌が自害するのが永正5(1508)年。
縁戚関係だった薩州家と東郷氏が対立するのは国久の死後なんですが、重久が侵攻するなど潜在的なモヤモヤはあった事になります。
というのは薩州家・重久が侵攻した温田(出水市)も高城水引(川内市)は、思いっきり東郷エリアだからです。

永正元年(1504)東郷重朗(14代)は島津忠治に忠節を尽くし、高城水引を拝領します。
水引には13代目・重信の弟が入り、東郷流高城氏初代となります。
(正式拝領の前か後かは不明)

薩州家と東郷氏の潜在的なモヤモヤは国境や領地に関するものだけに、根っこは深いです。
薩州家にすれば「先に高城をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!したのはウチだから、高城郡水引村(現:川内市)はウチのもんだ~」
東郷氏にすれが「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.守護職から拝領した領地だ!後先もあるか!所有権はコッチが優先じゃぁ~」

通常であれば「守護職の御墨付」で領地問題にはケリがつくんです。
が、時代は戦国で、ここは薩摩だ^^;
島津宗家の当主が自害だ病だとコロコロ変わるために求心力が落ちまくってました。

「総領&守護職の座」を巡って、元々の当主・島津勝久と薩州家・実久と伊作の島津日新斎・貴久親子の三つ巴~
で、最終的に「薩州家・実久VS伊作・島津日新斎・貴久」になる流れで、東郷氏では大きな動きはありません。
(派手に動いてたのが祁答院と、伊作サイドの入来院)

薩州家と東郷氏が本格的なガチンコに突入するのは、全く別のキッカケからだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家文書_116_城親賢書状(断簡・折紙)

【断簡_だん‐かん】きれぎれになって残っている文書・書簡



原文
※読み下し(てるつもり)
★超意訳

為當国中一着、近々可為御出張之段、
※當(当)国中へ一着の為、近々 御出張之段 為(な)す可(べ)く
★当国に着手するんで、近いうちに出張を為さるとの事

以ケ条預御入魂候、乍案中
※ケ(箇)条を以(もっ)て預け御入魂候、案中乍(ながら)
★幾つかアイデアを預けようと考え、思案中なんです~

連々之首尾悉顯然候之条、自他之覚畏存知候、
※連々(れんれん)たる首尾 悉(ことごと)く 顕然(けんねん)候之(の)条 自他畏れ覚え存知候
★これまでの首尾は 全て明らかになり 自分も皆も畏れを感じてます

愚意之旨銘々至御使僧遂細達候、
※愚意の旨 銘銘 御使僧へ細に遂げ達し至し候 伯耆顕孝の存分の儀
★愚意(ぐい)=自分の考えは 銘々(めいめい)=それぞれ 使僧に仔細を伝えるように連絡しました。

伯州(伯耆顕孝)存分之儀、
※伯耆顕孝の存分の儀
(後闕、第118号文書ニ続クモノノ如シ)




城親賢あてって事は、着手する国って肥後のことかしらん~
となると、隆信の肥後侵攻の時期・・・天正9年か?
伯耆顕孝・・・宇土名和氏6代名和顕孝です。伯耆守(ほうきのかみ)なので伯州と呼称されてました。


文書は、ここで切れちゃったみたいです。
で続きは龍造寺家文書118号に続くようです。

ぶっちゃけ、これだけじゃサッパリ判らん il||li _| ̄|○ il||l
研究は戦国初期なので今は無理~~前後の状況は後日再リサーチします(´・д・`)

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渋谷氏_5【祁答院(けどういん)後編】

現代風に言うと「自己ちゅうで下半身のモラルが底辺」とこきおろされた祁答院良重。
記述は「本藩人物誌」なのだが、実は「本編」ではなく「国賊伝」の方に祁答院は記載されいます。

偉大な島津氏中興の祖・伊作の日新斎と宗主・貴久親子に初めから最後まで抵抗し続けていたので、
祁答院良重と戦死した嫡男は「カテゴリ・国賊伝」の殿堂入りしちゃってるんです^^;
しかも「島津側の記録」しか残っていないので、祁答院良重の人品・人柄に対する酷評は「脚色」の可能性があることを念頭に入れておく必要があります^^;

では引き続き「本藩人物誌・国賊伝/祁答院良重」より抜粋
永禄九年丙寅 正月十五日良重夫人ノ為ニ殺セラル
永禄9年とは1566年のこと・・・
まだ正月気分も抜けぬ15日に、祁答院良重は正室である虎姫に刺殺されたんです。( ゚д゚)ンマッ!!

虎姫というのが、前回紹介した薩州家・島津実久の次女です。
これには「入来院氏が虎姫を唆した説(サイト武家家伝で紹介してた)」があるらしいんですが、
出典元がハッキリしてないだけでなく、自分は「それ(ヾノ・∀・) ナイナイ」派です。

渋谷ファミリアと薩州家と島津宗家の縁戚関係は入り組んでいるので、接触する親戚・知人ルートはあるでしょう。
が、入り組んでるだけに「計画が漏れるリスク」も高く、「漏れた場合に入来院がヤバい立場になるリスク」も高い。
祁答院町史と入来院町史がWEB非公開なんで「何か他の要因があった」が判らないんで、いまわかる範囲だと可能性は低いとしか言いようがない(´・д・`)

「鹿児島県史」によると「虎姫は嫉妬して亭主をやっちまったんだ~」といった内容の事が書かれています。
嫉妬の動機とは「本藩人物誌」に記載された「良重の荒淫」でしょう。

この刺殺事件の根底には、良重と虎姫の夫婦関係の破綻があると思います。
良重が側室を迎えていたなら、本心はともかく表面上、虎姫は嫉妬する必要はないのです。
他家から政略結婚で迎えた側室ならば別ですが、基本として側室は女奉公人であり正室の宰領下にあるからです。
それが手当たり次第に女たちに手をつけられては、正室としての虎姫の対面もヘッタクレもない状態。

が、ちょっと待て・・・冒頭の脚色の可能性を思い出せ(・∀・)
更に更に「夫婦関係の根底にあるのは相続問題だったんじゃないか」なんです。

嫡男が戦死したあと良重は次男(養子説アリ)を後継者にするでもなく、『嫡子の椅子』は空席のままだったみたいなんです。
これは良重自身が「子作りハッスル」を諦めてなかったからじゃないでしょうか?
散弾銃のごとくバラまいてHITしたら側室に・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
いずれにせよ「分家筆頭で守護代の家柄で薩州守の次女」である虎姫には、蔑ろにされ続けるのは耐え難い屈辱だったはずです。

で、前回挙げた文節が続く。
良重生平放逸荒婬ニシテ畋遊ヲコノム
この熟語は「畋遊・てんゆう」と読みます。
畋(てん)とは「狩り」を意味してまして、良重は狩猟・・・ハンティングぅ~が趣味だったんですね^-^
問題は、この後に続く文節です( ̄ko ̄)
去年ノ冬ヨリ上宮山ニ狩猟シテ是日城ニ帰ル
去年の冬から狩猟し続け?( ゚д゚)ンマッ!!
一族の当主ともあろうものが、大事な年末年始の行事をスッポカシですって?( ゚д゚)ンマッ!!

夫人 島津実久カ女ナリ 平日其所行ヲ諌レトモ用ヒス
虎姫は常日頃(夫の)其の所行(しょぎょう=行動)を諌れとも(夫は)用いず。

於是此夜酒ヲススメ酔伏タルヲ夫人手自良重ヲ刺殺ス
是に於いて、此の(帰城した)夜 酒をすすめ(良重が)酔い伏したるを夫人自ら良重を刺殺す。

虎姫は、よほど思いつめていたのでしょう。いかに正室とはいえ当主を殺してただすむはずがないからです。

此時良重カ小姓村尾亀三 後に源左衛門重侯トイフ 左右ニ直宿ス
即屏風ヲ以夫人ヲ押ヘマタ刺殺ス

小姓といっても時代劇で太刀持ちしてる坊やじゃないです(´・д・`)
宿直するってことは、ボデーガード兼務っす(´・д・`)
ちなみに当時17歳だった村尾クンは、祁答院を出て島津義弘公に仕え華麗なる戦歴を残る勇者となりました^^

村尾クン17歳は、咄嗟に屏風をo( ̄Д ̄θ★ケリッ! っと蹴倒して虎姫を押さえこみ、そのままズブリと殺ったようです( ̄ω ̄A;アセアセ
犯行の凶器である刀を持ったままの虎姫が尋常な状態でなかったのか、もしくは村尾クンが主筋の奥方を直接に切り殺すのを遠慮しての屏風越しと推察してます。
ココニ至テ祁答院氏滅フ 祁答院ノ所領悉ク入来院重嗣ノ有トナル
跡継ぎを指名しないまま祁答院良重が没したために、祁答院氏は没落しました。
次男の他に三男もいたので兄弟で家督を争ったのかもしれません。
結局、祁答院氏の家長3名の申し出により祁答院領は、入来院重嗣が領有することになったんです。

祁答院は滅び、入来院も後に島津宗家に降伏します。でもって残るのは東郷なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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渋谷氏_4【祁答院(けどういん)中編】

薩州家で伊作島津と壮絶な宗家争奪戦を繰り広げた5代目・実久には4人の娘がいました。

三女は巽(たつみ)氏、四女は小川氏に嫁いだのですが、詳細不明の武将に嫁いだので割愛^^;
で、次女・虎姫が祁答院(けどういん)13代目・良重に嫁いでいるんです。
子に長男重経(田中と号した)、次男重種(養子とも)、三男重加と、娘が一人(←ここWIKIから)
子供たちの生母の記録はないのですが、祁答院良重に側室がいた記録もないので、おそらく・・ですが実久次女・虎姫が生母と思われます。

ちなみにウィキペディアでは実久ではなく、何故か息子である義虎の娘(←出典元不明)になってます^^;
ですが本藩人物誌ではハッキリ実久次女と明記されてますので、それを典拠に進めますね^-^
※義虎娘説ですと色々と不自然でつぉ・・( ̄ko ̄)

虎姫が祁答院家に嫁いだ時期は不明です。
嫡男の生年が天文7(1538)年で、実久が伊作島津氏に降伏したのが同年なので、伊作島津との攻勢の最中で縁組された政略結婚と思われます。
養子説のある次男は詳細不明。
娘は天文10(1541)年に生まれ同23(1554)年に若死にしてます。

虎姫の女として母としての不幸は、娘が数え14という、戦国なら花の盛りを迎える年頃に失ったことです。
更なる衝撃として嫡男が戦死します。
しかも娘と同じ天文23年です。

前回話した島津兄弟が初陣デヴューの「岩剣城の戦い」に於いて帖佐高樋で、嫡男が戦死(天文23年10月2日)するんです。
気の毒すぎて「お悔みの言葉も思いつかない」(´;ω;`)ウッ

もし・・・・ですが、虎姫が精神(こころ)のバランスを崩したとしたら、この時の衝撃から立ち直れなかったから他ならないでしょう。
虎姫の夫である祁答院13代目・良重は、優れた武将でした。
良重「人ト為リ驍勇(ぎょうゆう)ニシテ能強弓ヲ引ク」(出典:本藩人物誌)
※良重は、驍勇(ぎょうゆう)ニシテ(=強く勇ましい)、強弓を能(よ)く引く人為(な)り

その一方で、色々と問題があった人物のようです。
良重生平放逸荒婬ニシテ畋遊ヲコノム
※良重、生来 放逸荒淫にして、畋遊を好む
(放逸・ほういつ~勝手気まま・・自己ちゅう)
(荒淫・こういん~情欲にふける・・・手当たり次第に浮気し放題 ( ゚д゚)ンマッ!!)

ものごとには限度というものがあり、一族の当主ともなれば節度も求められます。
武将として有能だから、全てが許されると思ったら大間違い。
一番身近で見聞きする妻・虎姫としては、やりきれない思いが募り憤懣がMAXになるのは無理からぬことだったのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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渋谷氏_3【祁答院(けどういん)前編】

なかなか義陽に戻れない~( ̄ω ̄A;アセアセ

自分が祁答院(けどういん)を始めて知ったのは、島津四兄弟の三男・歳久公がキッカケでした。
歳久公は官位である左衛門督の唐名である「金吾」殿と、通称されることが多かったのですが、
元亀年間から祁答院を領した事により「祁答院」殿とも呼ばれていたのです。

歳久公・・・祁答院殿・・・・カッコイイ~川* ̄д ̄*川ポッ 
と刷り込まれた萌えバカです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

宗家(=伊作)島津氏が薩摩国を(再)統一するにあたり、障害となったのが渋谷一族でした。
「東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏」のうち、室町中期に没落したのが鶴田氏
渋谷四氏と総称された「東郷氏、祁答院氏、入来院氏、高城氏」のうち、戦国初期に没落したのが高城氏
ちなみに「高城」は「たき」と読みます^^/(←調べるまでシランカッタ人)
高城氏を攻撃したのは薩州家2代目・国久です。
敗れた高城氏は同族の祁答院を頼り、以後、祁答院家老として続きます。

戦国初期の文明14(1482)年、東郷重理(12代)・祁答院重慶(10代)・入来院重豊・菱刈道秀・北原立兼らが島津氏討伐を謀ります。
(※このころの入来院氏は、島津宗家に逆らってた^^;)

で、そのグダグダのまま、文明17(1485)年、渋谷一族VS島津氏の『文明の大合戦』が起きます。
高城氏が島津国久に敗れて滅ぶのは、この時なわけです^^/

領国統治がままならず、悲観絶望し宗家当主・忠昌が自害するのが永正5(1508)年。
入来院氏が島津宗家に帰順するのは、永正7(1510)年に隈之城を与えられた頃くらいかと思います。

で、入来院に書いたように島津勝久・薩州家・伊作家の三つ巴の中で、入来院は娘を嫁がせた伊作サイド。
薩州家・実久に o( ̄Д ̄θ★ケリッ! と追い出された島津勝久は祁答院に逃げ込んだ^^;
勝久なりに何とか復権しようとしたらしいんですが、もはや人心を失ってしまってて無理で、最終的にママン実家である豊後・大友家へと亡命した訳です。

祁答院と東郷は、宗家争奪戦で勝者となった島津貴久・日新斎に帰服せず、抵抗を続けます。
渋谷ファミリアが厄介なのは、大隅の国衆と抵抗タッグを組むことです。(その中に菱刈も入ってる^^)

で、この抵抗タッグに雪窓夫人死去から島津貴久と不協和音になった入来院重朝が参戦。
【渋谷ファミリア】ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!【大隅国衆】

転機となったのが、天文23(1554)年「岩剣城の戦い」で島津貴久が勝利を治めた時。
ちなみに島津四兄弟のうち「義久・義弘・歳久」が初陣デヴュー(*´pq`)
日本戦史上で初めて鉄砲が使われた城として有名です^-^

普通、名門の子弟の初陣となると「必ず勝てるような局面」を御膳立てしてから出馬を促すものなのです。
が、兄弟たちの初陣デヴューは、
祖父である日新斎が「兄弟のうち誰か死なないと落とせない(それくらい激戦になる)」と言わしめるほど過酷なものでした。

弘治3(1557)年には大隅国衆・蒲生氏を破ったことで、大隅国のほうが一先ず何とかゴールが見えてきます。
んが!
それでも薩摩の祁答院と東郷は帰順を拒み、更に抵抗を続けます( ̄ω ̄A;アセアセ

そんな祁答院氏ですが、実は薩州家と縁戚関係でして不和から「衝撃的な事件」が起きるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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渋谷氏_2【入来院(いりきいん)】

いんいんいん~~川* ̄д ̄*川ポッ 
リサーチが追い付いてない俄か知識ですので、さら~っと行きます^^

まずはコチラ~はいドン (*´∀`)ノ 薩州家と渋谷エリアイメージ
赤文字で書いてる部分が渋谷一族です^^
渋谷ファミリアにも触れるつもりだったから、ちゃんと見分けできるようにしといたのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

薩州家シリーズで触れたドン久豊(奥州家)と総州家との争い(室町中期の話)
この時も渋谷ファミリアは同族で敵味方で、くんずほぐれつ~~ちと覚えきれません(@@)
結論から言うと「東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏」のうち、鶴田氏が没落するのはこの時なんです。
(敗者の総州家に味方してたから)
没落した鶴田氏は、菱刈氏の元へ逃げたそうですが、その後はシオでは辿りきれませんでした。

んで、脳に浸透してない部分をスッ飛ばして入来院(いりきいん)氏です。

戦国中期にさしかかるころ、薩摩は三派閥に分裂しました。
・宗家==周りを振り回して自分はイイとこどりしたい復権した島津勝久
・薩州家==守護代の家柄、分家筆頭の若き当主・島津実久
・伊作家==相州家を吸収しパワーアップ、日新斎と貴久の親子鷹~

で、薩州家・実久が 遊興に耽って家臣に見限られた勝久を追い出す o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

自分が面白いな~~~と思うのは、伊作島津と入来院氏が同盟関係だったことです。
11代目・入来院重聡の娘を「是非、当家に輿入れを(-人-)☆彡オネガイ!」と強く要望したのは、伊作の日新斎だったそうです。
入来院重聡は「三つに分裂した島津氏」のなかで伊作サイドにつき、その覇業を支え続けました。

入来院重聡の娘・・雪窓夫人。
夫である貴久とは仲睦まじかったようで、義久・義弘・歳久を伊作城で生んでます。
渋谷ファミリアの血脈が、島津DNAに組み込まれていると思うと感慨深い・・・(==)
庶子である四兄弟末弟・家久は、雪窓夫人が没してから誕生してるので、彼女の生存中は貴久は側室を設けてなかったようです。

長男の義久は嫡母である雪窓夫人を敬慕していたようで、彼女の三十回忌に義弘・歳久との連名で菩提寺である雪窓院を建立してます。
さらに後年、秀吉に降伏する際にも他の島津所縁の寺をスルーし、雪窓院で剃髪したそうです。
(参照:サイト「戦国島津の女たち」)

歴史上高名な島津四兄弟のうち、三人も生んだ功労者・雪窓夫人ですが、
入来院氏と伊作島津のパイプ役としても重要な役割をはたしていたらしく、彼女が生存中は入来院との関係は非常に良好でした。
不協和音は雪窓夫人が没した天文13(1544)年から起きます。
当主は雪窓夫人の兄・重朝でしたが、同じ渋谷ファミリアで敵側の東郷氏・祁答院氏に与して叛乱するという噂が立ちます。
重朝は貴久へ弁明したが聞き入れられず、出仕停止を言い渡された上に、翌年の8月に城を召し上げられてしまった。
これを恨んだ重朝は貴久に反旗を翻します。

このあたり・・・・夫人が没して俄かの謀反の噂・・・ってのが、どうも陰謀臭いような気が・・・ (-ω-;)ウーン
伊作島津と入来院は同盟関係でした。
が、島津貴久が宗家当主、三州守護となった以上は、これまでのような同盟関係ではなく、被官として関係性を質的変化させなければなりません。
それは例えば薩州家が勝った場合でも同じです。宗家争奪戦において国衆と同盟の縁組してましたから。
この関係性の質的変化は、屈服させた敵側より「昨日までの味方であった同盟関係」の方が、むしろ難しいんです。

菱刈と相良は、同盟関係から被官関係へと質的変化に成功しました。
が、島津の複雑な情勢では、単純にはいきません。
入来院との軋轢は、島津貴久が宗家争奪戦の勝者となった瞬間から、いつかは起きる必然のようなものです。

壮絶な同族内の争いの勝利のあと、
島津貴久の眼前にあったのは「当主権を確立するまでの死山血河の茨の道」。

島津の内部統制が最終的に落ち着くのは江戸初期、貴久の孫の代になるまでかかりました^^;

入来院が降伏したのは、重朝の息子で13代目・重嗣の代でして、
降伏を受け入れた宗家も、当主は貴久ではなく義久に代替わりしてます。
関係性の質的変化に失敗すると、かつての同盟相手は《今まで支えてきたのに酷い!》って、
「糟糠の妻」気分だから余計に拗れて長引くのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

まぁ薩摩・大隅の国衆はエネルギーが有り余ってる分、ガス抜きが大変でして主に拗れます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
簡単ですが、入来院はこれくらいで、次・萌える祁答院(けどういん)~~'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`
それは・またの話 by^-^sio

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ねむい~

エンジンきれたんで、今日はブレイク♪ヽ(*´∀`)ノ旦~~~~

手書き年表1冊目

手書き年表1冊目~~まだ戦国初期なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

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渋谷氏_1【渋谷ファミリア♪】

もとい、渋谷四氏です(´・д・`)

今まで記事にしてたのは、薩州家と菱刈と相良の複雑な相関関係の・・・実はベース部分なのです。
さらに上級(コア郷土史)コースに入るにあたり、何から話そう~(-ω-;)ウーン(-ω-;)ウーン
と悩み、やっぱ、ここらあたりで渋谷一族を登場させておかねば・・・φ(.. ) と思った次第。

渋谷一族のベースデータは、既に監修様から頂いてたんですが、自分のリサーチが追い付かず未だ理解しきれていません。
だからザックリとした話になりますが、どうしても現在これ以上の時間捻出は無理なので、そこは御了承下さい。

渋谷氏はスタートは相模国。
で長男が本貫地・相模国渋谷荘を相続し、残りの弟たちが薩摩国にあった領地を、それぞれ相続し薩摩へと移住しました。

薩摩渋谷氏===薩摩東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏。
このうち戦国期まで生き残った「東郷、祁答院、入来院、高城氏」を渋谷四氏と総称しています。

で、何で渋谷一族が薩州家と菱刈と相良に絡んでくるかというと、はいドン (*´∀`)ノ 薩州家エリアイメージ

薩州家は渋谷四氏のうち、東郷・祁答院(けどういん)・入来院(いりきいん)と領地が隣接してるんです。
てか、宗家エリアと薩州家エリアの間に渋谷ファミリアが挟まってる^^;

薩州家誕生から始まる宗家との確執に、御近所国衆・渋谷一族が巻き込まれないはずがありません。
ちなみに渋谷一族は同族として婚姻関係だったりはしてますが、いわゆる宗家と分家としての統一性はありません。
ぶっちゃけ渋谷四氏は個々に動き回ってるんで、現在のシオキャパでは扱いきれません(´;ω;`)ウッ

ちなみのちなみに・・・国衆オタクなんで渋谷一族のファンです^^
それで何時か本腰いれようと、早々にデータだけは貰ってたんです(*´pq`)
何が好きって~~祁答院ですよ。入来院ですよ。
いんいんいん~ネーミングがカッコ良くね?川* ̄д ̄*川ポッ 
(※東郷氏は別の理由で好きだけどネタバレになるんで今は内緒)

で・・・・今まで内緒というか、登場させる余力がなかったというか~~
島津貴久の継室は入来院氏から迎えてまして・・・
(初めの妻は結婚後、ほどなく死別)
高名な島津四兄弟のうち、義久・義弘・歳久の生母は入来院から嫁いできた姫様なのです^-^

貴久の婚姻時期は不明ですが、長男の義久が天文2(1533)年2月生まれなので、その前です。
てことは宗家・島津勝久が伊作島津を裏切り守護職に復帰した頃で、伊作島津氏が苦境にたってた事です。

このことから判るように、渋谷四氏のうち入来院氏は伊作島津の味方をし、日新斎と貴久親子を支え続けてきました。
(※入来院は元々から弱体化してた島津宗家を支えていた国衆でした)
貴久継室が死去するのは、天文13(1544)年8月15日なんですが、その後から入来院との関係が怪しくなるんです。

いんいんいん~~渋谷ファミリア♪萌えバナは続く・・・それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_43【相良と菱刈と薩州家と その11】

≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
------------------------------------------------------------------------
≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記
※何処までが確認がとれたデータか、孫引きデータなのかは、極力明記します( ̄ω ̄A;アセアセ
------------------------------------------------------------------------
えっと~義陽編なのに年代が遡ったままですいません^^;
あとから判明したデータが多数あり、パパン晴広編に収録できんかったのです(´・д・`)

伊作島津の反撃で、じわりじわりと薩州家側が不利になってきたころ、
天文7(1538)年4月13日、薩州家・島津実久は佐敷の仮屋に来訪し、相良義滋と会見している

この会見時に、薩州家・実久側から相良に対して起請文が提出されたのだが、肝心の中身が伝わってない^^;
で、察するに、どうも天草地方に関する事・・・っぽい感じなんです。

球磨郡誌によると、薩州家は実久の代で天草諸氏とトラブってたようなんです。
(郡誌では、トラブルの詳細は書かれてなかったです)
郡誌の元出典は江戸期の求麻外史らしいので、記述を鵜呑みには出来ないんですが、相良氏が天草地方に本格介入するのが実久死後なんです ( ̄ko ̄)

だから相良が当時苦境に陥りつつある薩州家の顔を立てて、何がしかの譲歩を承諾したみたいなんです。
あながち的外れじゃない推測だと思います。
というのは後年ですが、実久の嫡男・義虎の代で、義虎は島津宗家に従ってたはずなのに「相良に利するような不可解な行動」をしてるんです。
父の死去まで律儀に約定を守った(と思われる)相良氏に対して、薩州家・義虎が往時の義理を果たしたような印象を受けます。
まぁ、それは後の話になるので、ここでは詳細のネタバレはしないでおきましょう (^ -)---☆Wink

大口城を失った(時期不明)菱刈氏が、再び相良とタッグを組んでゲットしたのが、弘治2年(1556年)の事。
ここで、やっと義陽の代^^/
で、ゲットの経緯は過去記事【大口城~101回目のアプローチ?】相良氏、義陽編6 で既に紹介してるので割愛します^-^

そして、このゲットの時に菱刈氏は享禄3(1530)年のように自分が支配しようとはしませんでした。
相良義陽に大口城を献上することによって、菱刈は相良氏の被官になったんです。
(大口領そのものも、島津側から正式譲渡を受けて、相良エリアとなりました^-^)
(島津宗家=実質・伊作は、未だ国内が不安定だったので、相良と敵対せず友好関係でいる事を選択したんです)

偏諱(へんき=一文字拝領)でもない。
領地安堵でもない。
第三の道・・・変則パターンの被官関係が、相良義陽と菱刈の新たな関係です。

変則パターンだからというか、国衆アルアルだからなのか、菱刈氏は相良オンリーワンという訳じゃなくて、自身の判断で動き回ってます^^;
更に偏諱も受けてないから、文書類で被官関係を証明するのが難しいんですが、明瞭な傍証があるんで ほぼ間違いなしです。

傍証というのが、これまた後年ですが菱刈が島津宗家に敗れた時に、菱刈の一門・家臣クラスが迷うことなく相良へ逃げ込んでるんです。
事前に(-人-)☆彡オネガイなどの打診一切なしで、直行です。
で、相良の方も「迷うことなく菱刈を受け入れ、自家の家臣団に吸収」してます。

下手うった配下が保護を求めてきたら、何を置いても受け入れて庇護する・・・
これは紛れもなく被官関係における上位者が下位者に対して行うことです。

被官関係自体は、この明らかな行動で証明できるんですが、
大元根幹部分・・「菱刈が何故に相良の被官になったのか」が、データ不足で当時の自分では類推出来てませんでした( ̄ω ̄A;アセアセ

んで、新たに入手したデータを元に、いつもの如く遠因探しリサーチで年代をガンガン遡り、
「薩州家シリーズの再チェック投稿11話で下準備」しまして、「本題の相良と菱刈と薩州家シリーズ」を始めた次第です^-^

まず単純に大口に侵攻するってことは、島津宗家と敵対しちゃうってことです。
でも「それだけ」なら、今に始まったことじゃないのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

ここで新たなピンチ要因が加わってたので、菱刈は「特に大口に関して」「相良の保護下に入る道」を選択したんです。
菱刈にとっての新たなピンチ要因というのが薩州家です。
重久死去で縁戚関係といっても縁が薄くなってるのもありますが、
もっと潜在的なトラブル要因を菱刈は抱え込んでおり、相良義陽とも関係してくるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_42【相良と菱刈と薩州家と その10】

≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
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≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記
※何処までが確認がとれたデータか、孫引きデータなのかは、極力明記します( ̄ω ̄A;アセアセ
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えっと~~前回
>菱刈氏が「薩州家VS伊作」に関わりがあったかは不明です。
>薩州家と縁戚関係だけに菱刈が無関係でいられたかは、かなり疑問ではありますが、菱刈側にはデータが残っていません。


と、書いたように「菱刈側にはデータない」です・・・が、
相良側に「それっぽいデータがある」んです。
それも飛びっきりの一次史料「八代日記」に!ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

とはいえ「日記」だけに、前後がなくて唐突に記述が出て来るんで「事情が、いまいち判らん」のですが~( ̄ω ̄A;アセアセ
天文二(1533)年正月十九日 平和泉為請取打立候、中途ニササヘ候、是ハ祁答院ヨリ長唯御渡候
同廿五日 薩州より平和泉知行
二月十日 菱刈より平和泉ニ手形、城つめ
四月廿二日 菱刈ニ和与之後、始使僧御遣し候
六月七日 平和泉ニ一番之人数立候
同廿三日 平和泉ニ二番衆立候
十月三日 長種菱刈ニ 御行候、同五日ニ平和泉・菱刈御渡候、同十一日ニ長種菱刈より御帰候
(出典:八代日記)


読み下しってほど難しい文章じゃないけど、見やすさ重視の超意訳で__φ(.. ) メモメモ

天文2(1533)年1月19日、平和泉の請(う)け取りの為に打立・・出発しました。
途中でササ(酒?)を、是は祁答院(けどういん)より長唯(=相良16代目・義滋)へお渡ししました。
1月25日、薩州家より平和泉を知行
2月10日、菱刈より平和泉に手形を与え城詰とする(←ニュアンス意訳なんでチト怪しいっす)
4月22日、菱刈に和与(わよ=和睦)の後、始(初?)めて遣いの使僧を送りました。
6月七日、平和泉に一番衆が入りました。
6月23日、平和泉に二番衆が入りました。
10月3日、上村長種が菱刈に行きました。
10月5日、平和泉を菱刈に渡し、11日に長種は菱刈より戻りました。

1533年というと、菱刈+相良の連合軍が大口ゲットした三年後のことです。
で、黒幕じゃね?と自分が推測している薩州家・重久(=3代目)が存命の頃。

宗家は、薩州家にのせられた宗家・島津勝久が伊作を裏切り守護職に復帰してた頃。
調子にのった島津勝久は「伊作と和睦すべき」という分家や国衆の申し出をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!してます。
つまり「薩州家VS伊作」で、薩州家が優勢だった時期です。

平和泉というのは地名でして、薩州家は自領の一部を相良へ知行したんです。
くどいようですが、これは出典:八代日記で相良側の一次史料です。
相良側の方で『知行』と書いているということは、相良では薩州家を上位者とみなしているってことで、
上位者から知行を受けたってことは、本来であれば被官関係になったのを意味します。

が、その後の流れが・・・・むむむ~(。_゜)ノ
なので、日記の記述者が薩摩国守護代の家柄である薩州家に対し「敬意を払った書き方」をしてるだけかもです。

あ、薩州家のお使いで相良へ届け物した祁答院って人名っす^^
このころなら祁答院重武が当主か実権握ってたころで、彼は勢力拡大にハッスルした当主なんで、必然的に島津宗家に対し反抗的でした。

で、菱刈と和与(=わよ・和睦)って4月に書かれているんですが、1530年から3年の間で何時の間に揉めてたんですか?ヽ(。_゜)ノ へっ?
で、で、10月に薩州家から知行された平和泉を相良では、菱刈に引き渡しちゃってるんです。Σ(´Д`;)

しつこいけど、この八代日記が書かれた頃は「薩州家の勢いブイブイ」な時期です。
当主・菱刈重州の祖父・薩州家の重久が存命です。
「日記に書かれた知行という言葉」が「額面通りに被官関係を指すならば」
相良の勝手で菱刈に渡すことは出来ません。
日記は簡素ですが「菱刈へ渡すのを薩州家が了承してたはず」です。

ですから日記内にある「和与」というのは「菱刈と相良のみを指すのではない」「島津も絡んでる」という推測が成り立つ
菱刈・相良・島津が絡むトラブルというとズバリ大口城。

ものすごく大胆なIFバナですが、平和泉と引き換えに、菱刈は大口城を島津勝久へ返還したんじゃないでしょうか。
このころの島津勝久と薩州家は表立った軋轢はないころで、勝久の親政に協力するのはアリな頃です。
そうすれば、薩州家は「表向きは宗家の顔を立てつつ」「相良も菱刈も自分のシンパに取り込み出来ます」(*´ー`)ムフフ

とはいえ、これ、かなり強引な推測^^;
八代日記は、日記だけに自分が興味あるか関係したことしか書いててくれないし(´・д・`)
菱刈の後に入った島津家臣の西原氏は経歴不明で、いつから大口に入ったか皆目わからんし(´・д・`)
菱刈側じゃ、な~~~~んも記録残ってないし(´・д・`)

伊作島津が反撃開始で、薩州家が形勢不利になったころ・・・相良と薩州家の関係にも変化があったのだが、それは・またの話 by^-^sio
 

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龍造寺家文書_115_大内義隆一字書出(折紙)

折紙---堅紙を半分に折って使うから折紙
※書くときは折り目を下にして書きます。



(大内義隆の⇒)花押

天文十九年七月一日
龍造寺山城守殿(←隆信のこと)




読み下しのほうは、見たまんまなので割愛です^^/

分析・・・というと大げさですが、ちょっと色々と面白いんです。

1)「折紙」という略式の文書形式を使っている。
やっぱ態度が上位者な西国のドンです。
ただ「折紙」という形式で「一字書出(=偏諱)」の文書を発給すること自体は、大内に限らず珍しい形ではなさそう。
(検索したら、画像はないが他でもHITしたので)

2)「山城守」の官途吹挙状と発給年月日が一緒
3)官途吹挙状は敬称なしの呼び捨て、こっちは「殿」と敬称ありで敬意を払っている。


つまり「官途吹挙」の段階では「正式任官する前」なので呼び捨て
「一文字拝領」の段階では「任官した後」と捉えて敬称付にする・・・
敬称の使い分けしてるんです。

えっと現存文書を見ている訳じゃないから、疑い出せばキリがないんですけども~
ですが、佐賀県史料集成の編集や校正でミスとか誤植はないと思います。
戦国時代に限らず武家様文書って「敬称の使い方一つをとっても、上下関係の分析ヒントになる」「それくらい奥が深い」んです^^;

あと、書き方が少弐と大内では違う( ゚д゚)ンマッ!!
少弐資元が横岳資誠に偏諱した時の文書の方だと、

實名(じつみょう)←本姓と諱ってことです。
藤原資誠

これも見たまんまで、名前の方も他の字より大きく書かれています。
一方、大内義隆はプレゼンした「隆」の一文字のみ記入で、字の大きさも他と同じ。

つまり「少弐の書き方の方が大内義隆より丁寧」で、それだけ「相手(と、その家)に気を使ってる」
これが「家運が衰微している名門」と、「最盛期で西国のドンとの違い」なのでしょう。( ̄ω ̄A;アセアセ

史料厨って、わけじゃないんですが、相手への気の使い方が、一次史料で分析すると歴然なんです。
色々関係性が垣間見えるんで面白のよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

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相良義陽_41【相良と菱刈と薩州家と その9】

≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
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≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記
※何処までが確認がとれたデータか、孫引きデータなのかは、極力明記します( ̄ω ̄A;アセアセ
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ちと、大河の余韻がぬけてないんで、本調子じゃないっす^^;

享禄3(1530)年に菱刈氏が相良から支援を受けて(と思われる)大口城をゲットします。
菱刈側・島津側には「菱刈と相良の連合軍」となっていますが、内訌で疲弊&残党退治に忙しかった相良側では記録がないんです。
ですから攻略は菱刈氏主導だったと推測できます。
菱刈主導だったから、落城したあとの大口城は菱刈が入ってたんじゃないでしょうか。

が、20数年の間に「何かあって」菱刈氏は大口城を失います。
経緯不明ですが、相良義陽が当主になったころには、大口城は島津配下の西原氏が城主となっていました。

なんで経緯不明かっていうと、当事者の島津も菱刈も縁戚で御近所の相良も記録が完全に欠落してるからです。
なんで欠落かっていうと想像ですが、「大口どころじゃなかったから」じゃないでしょうか^^;

経緯は不明でも菱刈が大口城を失う理由は明快です。
「何らかの事情」で、菱刈を取り巻くパワーバランスが崩れ、菱刈は大口をキープするに必要な政治的な後ろ盾を失ったのでしょう。

で、まず菱刈と縁戚で同盟関係だった相良ですが、肥後の情勢が不安定で大口城や菱刈どころじゃなかった・・・と思うんです。

肥後で大きな影響力を持つ阿蘇氏が、家督を巡って兄弟で争い、それに相良氏は介入してて兄の方を押しメンにしてました。
それにケリつくまで30年くらいかかってる。
あと肥後守護職・菊池義宗が実家である大友氏に対して謀反してて、相良は菊池側で加担してます。
(ただし深入りはしないで大友から睨まれるのは上手く避けてます)

もっと細かく言うと大友に対する肥後における謀反は、通算5回
1532年、肥後国衆謀反
1534年、この時が肥後守護職・菊池義武の謀反
1550年、菊池義武がリベンジの謀反
1556年、大友家臣・小原鑑元が肥後で謀反
ちなみに阿蘇氏の兄弟仁義・・・もとい兄弟相克は1513年スタートの1543年終息です。

(簡便につき元号略)

肥後が不安定で大友が忙しい事に乗じて、相良氏は着実に戦国大名化へと成長していくわけです。
ただ不穏なだけに、これ以上のトラブルを抱えるのはヤバいので、相良としては島津と敵対するのが得策じゃなくなります。
そのため途中から相良と島津は友好関係になり、
義陽編で度々記述しているように「相良と島津は、義陽が裏切るまでは友好関係」という状態になったわけです。

さらに菱刈にとって外交的に打撃になったのは、薩州家の後ろ盾を事実上失った事だと推測してます。
菱刈が大口城をゲットした頃って、宗家の座を巡って薩州家と伊作家が思いっきり敵対してた真っ最中なんです^^;

ただしゲットした1530年ころは、薩州家が優勢でした。
一度隠居した島津勝久を伊作側から呼び寄せて、薩摩守護職に復活させてたころです。

伊作島津の反撃が本格化するのが1536年・・・この天文5(1536)年9月15日に73歳で薩州家3代目だった島津重久が亡くなってます。
この亡くなった薩州家・重久が菱刈氏14代目・重州の祖父なんです。
菱刈氏が薩州家VS伊作に関わりがあったかは不明です。
薩州家と縁戚関係だけに菱刈が無関係でいられたかは、かなり疑問ではありますが、菱刈側にはデータが残っていません。
ですから、あくまでもIFバナですが・・薩州家に加担してたために、菱刈は大口城を失う羽目になったのかもしれせん。

1538(天文8)年に薩州家・実久は、伊作の島津日新斎と和睦し出水へと退きます。
薩州家と縁戚関係だった菱刈氏が、大口城を失うような大きな政治的要因は、この前後しか考えられません。
ところがですが、ネタバレになるけど「上記IFバナ以外で」「違う類推が出来る一次史料がある」のが悩ましいところなのです^^;

さて、菱刈氏が大口城にリベンジするのは、弘治2年(1556年)の事になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_40【相良と菱刈と薩州家と その8】

≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
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年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記

※何処までが確認がとれたデータか、孫引きデータなのかは、極力明記します( ̄ω ̄A;アセアセ
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大正期発刊の三次資料「北伊佐史」によると、
菱刈重時次女・土用松が大口城主・島津忠明に嫁いだのは、相良と菱刈の離間策だと記載しています。

このあたり、どうも編者の主観が入ってるみたいです^^;
だって、北伊佐史の記述に倣うなら、「相良に嫁いだ三女の婚儀」が「次女の婚儀」より先になっちゃいます。

むろん、妹が先に次々嫁いだ淀殿(茶々)や、姉・千姫より先に3歳で前田家に嫁いだ珠姫の例もあるように、政略結婚は必ずしも上の姫からとは限りません。

ただ、「菱刈系図より」と記してるわりに「北伊佐史」には

年度不明---相良氏16代目・義滋の娘~菱刈重任(14代重州の兄弟)に嫁ぐ
年度不明---菱刈重州(14代当主)の妹~~相良長時(16代義滋の従兄弟)に嫁ぐ


このデータが抜けてるので、どうも「編者が自分の好みでデータの取捨選択してる」ようです。
で、大口城攻略が萌えツボだったらしく、詳しい(*´pq`)

さて、相良氏の内訌が一息ついたのは、享禄2(1529)年の7月
約半年かけて謀反側の城を落としたの^^/

島津忠明妻・土用松の甥にあたる14代目・菱刈重州が動いたのは、同年の9月3日。
忠明の息子・次郎四郎明久が羽月大島という地で鷹狩をしてたところを襲い討ち取った。
この時、明久は16歳だったそうで、北伊佐史では菱刈重州を従兄弟・・・
つまり明久生母を菱刈土用松という解釈で記述してます。

実のところ、文献上では島津次郎四郎明久の生母は不明なんです。
(同じく菱刈系図を参照しているサイト「戦国島津の女達」には記載がない)
伊佐市文化財には大瑞院跡(島津出羽守忠明墓)と菱刈氏歴代の墓があるんで、編者が墓碑を確認して拾ったデータかもです。

北伊佐史によると宮原十郎兵衛という島津家臣が、討ち取られた明久少年の首を奪い返した際に菱刈兵に追い付かれ戦死したとあります。
忠義の家臣の墓は島津出羽守忠明の隣にありとし、編者が記録した大正期までは宮原家子孫は健在で大口に住していたようです。(大正期当主の名前がバッチリ記載してる)

墓碑や墓石は今も昔も基本として個人情報扱いなんで、研究者であっても他県在住者が文献のみで辿り着くのは困難なデータです。
こればっかりは現地取材でしか掘り起こせないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

「北伊佐史」編者は現地における大正期の在野郷土史家でして、他にも通史として「菱刈史」を編纂されています。
「北伊佐史」で端折ったデータは、通史である「菱刈史」には記載するという感じで、使い分けしてるんです。
ですから「北伊佐史」で感じた「編者の主観」というのが、取材した家臣子孫に伝わってた伝承に基づいてる可能性もあります。

享禄3(1530)年の7月27日、相良&菱刈の連合軍が大口城を襲った。
大口城外の諏訪神社祭礼の時に、参拝者にまぎれこんだ敵兵のため城は焼かれ、城主・忠明も自害した。
一族ことごとく戦死したそうですが、その時に菱刈土用松が助け出されたのか、共に自害したかは不明です。
「北伊佐史」によると、鹿児島に急を知らせる為に忠明の弟・播磨守は大口を脱したとあるんですが、弟のその後が書いてなくてワカラン^^;

島津分家・羽州家では、明久16歳を四代目とカウントし、ここで嫡流は断絶するんですが、忠明娘が生んだ男子が島津義久の命で家督と継ぎ「大島家」として家名存続します。
さらに島津貴久は、島津忠明を祭神とし西原八幡神社を建立しています。
天正13年になってから、瑞兆ありとして島津義久が新納忠元に命じて、明久を戦死した羽月大島に若宮神社として祭ったそうです。

くどいようだが、享禄3(1530)は、一息ついたとはいえ相良は内訌で疲弊していたので、菱刈+相良の連合といっても主力は菱刈勢だったはずです。
なぜなら落城したあとの大口城は、菱刈が入ってたから。

ところがです。

20数年後・・・相良義陽の頃には、再び大口城は島津宗家に帰属していたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家文書_114_大内義隆官途吹挙状

原文
※読み下し(てるつもり)
★超意訳

山城守所望事、可令挙敷奏之状如件、
※山城守 所望の事、敷奏(ふそう)挙げ令(せ)しむ可(べく)之(これ)状(じょう)件(くだん)の如(ごと)し
★「山城守」って官位が欲しいって話なんだけどさぁ、朝廷に頼んだからバッチリだよ~ん(=^・ω・^=)v ブイ

天文十九年七月一日    (大内義隆)花押
※天文19年=1550年

龍造寺民部大輔(←隆信のことです)



用語解説^^/
敷奏(ふ-そう)---天子に意見などを申し上げること。

=== 所感 ===
龍造寺隆信の曽祖父である剛忠(家兼)も山城守でした。
隆信は継承するにあたり、自称ではなく正式に推(吹)挙を受けて任官したんですよ~ってことです^^

龍造寺隆信が、これまでの「民部大輔」から「山城守」へ変更した理由。。。
あくまでも推測ですが、
「民部大輔」は宗家・村中龍造寺が代々受け継いでいました。
隆信の嫡男・政家も「民部大輔」です。

ただ、隆信以前の龍造寺当主は少弐系千葉氏から推挙を受けてまして、隆信当時、いわば少弐色のある官位でした。
だから大内被官になるにあたり、水ヶ江系当主の「山城守」をチョイスしたかと・・・
武家官位に関する方面の知識が不足してるので、推測に自信ないっす・・(´;ω;`)ウッ

古文書学的に超ハッキリしてることが一つだけ
大内義隆に、龍造寺隆信は呼び捨てにされてます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
漢字の「殿」はおろか、平仮名の「との」すらない、超上目線の大内氏です。
「民部大輔」がついてるだけマシよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

天文19(1550)年・・・当時、ぶっちぎり最盛期だった西国のドンからみれば、
分家当主から宗家家督を継いだ龍造寺隆信は「肥前の熊」ならぬ「小熊ちゃん」ですもん (*´pq`)クスッ

花押した大内義隆・・・まさか翌年に家臣の謀反(大寧寺の変)で自害する事になるとは、夢にも思わなかっただろうな~
戦国は、ハイティーンの青春より明日が見えない!Σ(´Д`;) 

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相良義陽_39【相良と菱刈と薩州家と その7】

≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、他の歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
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≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒元出典があるもの
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記

※何処までが確認がとれたデータか、孫引きデータなのかは、極力明記します( ̄ω ̄A;アセアセ
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年度不明---薩州家3代目・重久長女~菱刈相模守重福に嫁ぐ、二人の間に生まれるのが14代目重州

年度不明---相良氏16代目・義滋の娘~菱刈重任(14代重州の兄弟)に嫁ぐ
年度不明---菱刈重州(14代当主)の妹~~相良長時(16代義滋の従兄弟)に嫁ぐ
(サイト「戦国島津の女達」より)

薩州家と島津宗家14代目・忠兼(=勝久)の関係は、忠兼が伊作の忠良(=日新斎)を頼り、大永6年(1526年)に伊作から貴久を養子に迎えるまでは、薩州家にとっての「良好」でした。
で、薩州家が伊作に反撃~大永7年(1527年)6月に清水城の島津貴久を急襲、これを追い落として勝久(忠兼から改名)を再び守護へと戻します。

菱刈と相良が縁組によって関係強化するのは、この島津氏の内訌と無縁ではないでしょう。
つまり内訌で守護職の権威が衰える事により、国衆の勝手が通る状況になるから^^b

サイト武家家伝・菱刈氏によると
大永八年(1528)に島津勝久が、菱刈重副に牛屎院(大口領)のうち青木・長尾村を与えたそうです。
「島津氏は相良氏を懐柔して菱刈氏を牽制する策を図り、牛屎院を相良氏に譲渡していたが、相良氏はこれを受取らなかった。(サイト文中より)」
それで、島津宗家では菱刈を懐柔しようと、大口領の一部を与えたそうです。
サイトでは、島津宗家の働きかけでは、相良と菱刈の同盟関係は崩せなかったと締めくくってます

武家家伝の元出典は「三州諸家史・薩州満家院史/菱刈町郷土史/大口市郷土史」とありますが、
どれもネットなどでは公開してないので、この中のどれに記載されたデータなのかはシオ未確認です^^;

それとサイト文中にある「牛屎院を相良氏に譲渡していたが、相良氏はこれを受取らなかった。」がワカラン(@@)
どうも相良側に無いデータのようなんです^^;
少なくとも近代デジタルライブラリで公開している相良側データである「球磨郡誌」や「求麻外史」にはないです。
三次史料「菱刈史」にも「(前略)相良氏はこれを受けとらなかった」の部分は記載がないので、その部分は島津側データが出典なのかもです。

享禄3年(1530)、7月27日、16代・相良長唯と14代・菱刈重州の連合軍が大口城を攻撃する
デジタルライブラリ公開で気付いたのだが、
実はこれ元出典は島津側データ(「本藩人物志」島津忠明&「本藩人物志」菱刈重州)と菱刈側データ(「菱刈文書」菱刈氏系図 重刕、)でして、連合してたはずの相良側に記録が無かった ヽ(。_゜)ノ アリャリャ~
少なくとも相良側データである・・・以下同文~(=^・ω・^=)

江戸期二次史料は自分で所蔵してないので未確認ですが、WEB公開の三次史料「北伊佐史」「菱刈史」が菱刈側データです。
それと傍証として、伊佐市にある「西原八幡神社」の由緒(HP参照)が、相良&菱刈連合軍に触れてます。
(※西原八幡神社を建立したのは島津貴久)

攻撃した側と、された側、、、どっちも「相良と菱刈の連合軍」とあるのに、相良に記録がないのは何故だろう。
実は、この大口城攻略の前後、、、相良氏は内訌の真っ最中だったんです
ですから、この前後の相良側の記録は、内訌に関する記録がメイン。

内訌スタートが、大永4年(1524年)で、残党の処罰やら何やらで完全に治まるのが享禄4年(1531年)。
この間に内訌につけこんだ北原氏が相良エリアを脅かしたり、名和との争いに敗れて豊福城を失ったりと慌ただしい^^;
相良氏が天草地方へ勢力を伸ばし明との交易が始まり、戦国大名化へと飛躍するのは、その後です。

ただ享禄2年(1529年)の段階で一息つける段階になり、相良長唯(=義滋)は味方になってくれた実力者・上村頼興の長男(後の晴広)養子に迎えています。
大口領攻略に絡んだ菱刈との連合は、この一息ついた享禄2年(1529年)7月のことだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_38【相良と菱刈と薩州家と その6】

≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
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≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒ウィキペディアなど三次史料や補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記

※何処までが確認がとれたデータか、孫引きデータなのかは、極力明記します( ̄ω ̄A;アセアセ≪はじめに≫
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大正期に発刊された三次史料「北伊佐史」には、島津宗家が「菱刈&相良対策のために」羽州家の島津忠明を大口城へ入れた。

とあるが、典拠となる史料は記載されていません。
あ、「羽州家当主・忠明が宗家当主・忠昌の命で大口城に入った」の部分は、本藩人物誌にも記載されてます^^/

一般的に、新たに城主を赴かせテコ入れするのは「何らかの脅威に対する備え」です。
島津宗家が「大口をリカバーしなきゃ」って判断した元となった脅威が、薩州家なのか相良なのか菱刈なのか、、、
ホントのところは具体的な一次史料・・たとえば起請文でも残ってない限りは、推測でしかないと自分は思います。

ですが、縁戚関係を鑑みると、なんとな~く、何となくは、見えてくるような気がします^^;
大口城主に嫁いだ菱刈家の姫は次女です。
相良に嫁いだ菱刈家の姫は三女。
(菱刈系図で、そこはハッキリしてます)
生没年不明ですから姉妹の年齢差は不明です。
が、昔であればあるほど結婚は上からが普通ですから、順当に考えるなら大口城主との縁組の方が先だったと思います。

参照:エリアイメージ地図 ←お手数ですがクリックなぅ

イメージにあるように、大口領と菱刈領は隣接しており、どのくらい近いかっていうと平成の大合併で大口と菱刈が伊佐市になるくらいの距離感。

大口城主・島津忠明にしてみれば、周囲の守りを固める目的で菱刈と縁組し同盟関係になったのだと思います。
盟約のための縁組は、事前であれ事後であれ宗家了解の話だったはずです。
典拠となるデータはないですが、似たパターンで島津義弘が飫肥城のテコ入れで豊州家に婿入り養子縁組した例があります。
(※後に義弘が宗家の命で飫肥を離れたので離縁してます)

さらに菱刈重時の三女・土用毘沙が相良長皎に嫁ぐ事によって、大口城主・島津忠明&菱刈氏&相良氏の「三氏盟約」が成立した・・・・じゃないかな~~って推測です( ̄ω ̄A;アセアセ

縁組の年度が不明ですが、縁組で暫く大口城周辺は平穏だった・・はず。
てか、そうなって欲しいから縁組するわけで^^;

で、史料がないので何ともカントモなのだが、「何かあって」このバランスが崩れ始めるんです。
で、その何か~~ですが、状況が錯綜してて特定無理!!Σ(´Д`;) はぅっ

~~~全体の状況として~~~
島津宗家で家老(しかも二人)が謀反起こす←何とか鎮圧
大隅国衆・肝付氏が島津宗家と対抗する勢力として台頭←コッチは鎮圧に失敗
心身ともに疲れ果てた島津忠昌が、永正5(1508)年2月15日に自害。
家督を継いだ息子たちがパタパタと早死にし、
僅か10数年の間に島津宗家当主は忠昌⇒忠治(嫡男)⇒忠隆(次男)⇒忠兼(勝久・三男)と目まぐるしく代替わりします。


この間に、菱刈氏は縁組によって相良との同盟関係を強化してます。
年度不明---相良氏16代目・義滋の娘~菱刈重任(14代重州の兄弟)に嫁ぐ
年度不明---菱刈重州(14代当主)の妹~~相良長時(16代義滋の従兄弟)に嫁ぐ


一方、薩州家では、大永5(1525)10月5日、4代目当主・忠興が40歳という壮齢で死去し、嫡男・実久が数え14歳で家督を継ぐ。
史料がないために断定的な表現が出来ないのがもどかしい
が、当主が少年である以上、後見は健在な祖父で3代目当主であった重久のはずです。

さらに薩州家からは重久の孫娘が宗家14代目当主・忠兼に嫁ぎ、島津宗家の家督を巡る争いが再び惹起。
そんな中で大口城を巡る動きも慌ただしくなるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家文書_113_大内義隆書状(小切紙)

みなさ~ん、古文書の様式における、小切紙って覚えてますかぁぁーo(* ̄○ ̄)ゝーぁぁ?
自分は過去記事にしてるのに、すっかり忘れてました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

小切紙・・・の中の切紙とはプライベートや大量発給の文書に使う
で、切紙の小切紙は、堅紙(たてがみ=正式な書状の紙・約A4サイズ)を、チョキチョキ適当な大きさに切って使うって事なのです^^b

つまるところ略式であり、上位者から下位者へ発給する時に用いられます^-^




原文
※読み下し(てるつもり)
★超意訳

肥前国代官事可申付候、忠節肝要候、猶原田可被申候、恐々謹言
※肥前国代官の事、申し付く可(べ)く候、忠節が肝要候、猶(なほ)原田へ申され可(べ)く候、恐々謹言
★肥前国の代官に任命します~忠節が大事ですよ(`・ω・´)キリッ、なお、原田に言うように、恐々謹言なぅ
(天文十六年)
七月廿七日    (大内)義隆(花押)
龍造寺宮内大輔(胤栄)殿





これまた書状なので年欠文書(月日は書くが年度の記載なし)です。
( )の年度は、佐賀県史料集成に編集段階で明記してたものです。
胤栄の活動期間や、大内側データと比べて割り出したと思います。
年度の違いによって解釈が変化するって、古文書アルアルなんですが、諸情勢から鑑み年度推定はコレで動かないと自分も思います。

北肥戦誌247頁には、大内義隆が天文16年6月に、胤栄を豊前守とし、肥前の守護代として少弐退治を命じた
とあります。
文中の「肥前の守護代として」~~の部分に相当する一次史料がこれになるのでしょう。

同じく北肥戦誌には、龍造寺胤栄が大内義隆より領地安堵を受けた旨が記述されていますが、
そちらは龍造寺家文書の中には残っていません^-^

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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