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相良義陽_54【粛清_中編】

≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
≪記事内ルール≫
年号⇒⇒⇒旧暦対応
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分
他の色文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
イメージ・花

相良義陽に殺された叔父・上村頼孝には息子がいて、諱を長陸(ながみち)という。
父・頼孝は相良義陽の討手に殺害されるが、長陸は幼少であった為に許されたそうです。
(頼孝の嫡男・頼辰は連座で処断されてます)


・・・|ウィキペディア|・ ̄)じぃー・・・・『幼少』の二文字が気になる・・・・

長陸は成人すると義陽の勧めで、島津義弘と離縁し出戻っていた義陽の異母妹・亀徳と結婚しました。

父・上村頼孝が殺された永禄10(1567)年4月1日の時点で『幼少』だった長陸。
かたや、既に他家に嫁いで出戻っていた(と思われる・正確な年度不明)亀徳姫。

このカップルは、共に生年不明なので正確な年齢差も不明なのですが、上記の状況だと絶対に亀徳姫が年上姉さん女房^^;
下手するとMAX推定で10歳くらい、亀徳姫が年長だったかも・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

あぁ~~~何と言いますか・・・その~~~
これは想像なんですけど、義陽なりに離縁で傷心・亀徳姫の幸せを願ったんじゃないかな~と。


この結婚は、罪人(過去の謀反の罪で殺された)となった上村氏の復活がSETです。
ですから、亀徳姫が年相応に容色が衰えても、子供が出来なかったとしても、彼女が粗略にされたり側室を置かれたりする事は絶対ないんです。
ということで、上村長陸に姉さん女房への拒否権はありません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
実際の夫婦仲は知りようもないですが、二人の間に鶴松丸(早世)、鶴満(那須重康室)が生まれています。

亀徳姫と結婚した上村頼孝は、奥野地頭にも任じられた。
奥野って何処かな~~と思いまして、上村氏が亀徳姫との婚儀で準一門として復活したって事を踏まえて・・・・
球磨郡多良木町奥野・・・と推測してました。
そこだったら、上村氏の本貫地があった球磨郡あさぎり町とは1~2kmほどしか離れてないので、謀反歴のある家が復活する地としては悪くない待遇です^-^
(謀反歴ある家が父祖伝来の本貫地完全復活は、有り得ないので)

が・・・上村長陸は何か不満があったらしい ( ̄ω ̄A;アセアセ
義陽の弟である相良頼貞が義陽の死後、その後継に立たんとした際に随身したり、
義陽の後を継いだ相良頼房が、朝鮮の役に伴い渡海して留守の際に謀反を企てるなどした。
慶長年間、その企てを知った者たちにより、原城の柳江院門の前で討ち取られた。法名は「正澤蓮貞」。


随身のところは、ともかくとして。
謀反の企ての方は、ホントに企んだのか、ちと判りません。
上村一族の往時の勢力復活を恐れた勢力による陰謀・・・と思ったりしないでもない^^;

なんで、そう勘ぐるかって言うと、亀徳姫です。
『南藤蔓綿録』によると、夫・長陸死後に尼となり原城の下原に住んだが、相良家家老である犬童頼兄に粗略に扱われ、貧しい生活を送った挙句、元和年間に餓死したとある。法名「西津良意」。
先代の主君の妹姫に対する処遇とは思えません^^;

おそらく、相良宗家と上村氏の確執が解消されることなく引きずった結果が、亀徳姫の晩年の不幸にまで及んでしまったのだと思います。
そのため亀徳姫の記録も少なく、生年不明は女子では珍しくないけど、島津義弘に嫁いだ時期も離縁した時期すら記録がないという異例の状態になりました。

ちなみに亀徳姫は死後、祟りをなしたそうで(そりゃそうだ)犬童頼安の息子・相良頼章(母は島津家久三女)が草むらの中から墓を探し出し供養塔を建てたそうです(南藤蔓綿録)

さて、時計の針を巻き巻き~~義陽には、もう一人謀反歴のある叔父がいるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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相良義陽_53【粛清_前編】

≪はじめに≫
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永禄9(1566)年、この年に島津15代当主・貴久が、嫡男の義久に家督を譲っている。
いよいよ次世代である四兄弟時代到来だ^^

薩州家の長島押領でグダグダになった天草地方の国人たちだが、その中で上津浦氏と栖本氏が講和した。
薩州家(島津家分家筆頭)が、内部で内輪もめしたため、長島以外に食い込む事が出来なかったのだろう。

また、かつて相良氏が追放した長島氏が薩州家の庇護を受けていた・・・という名分で動いたので、それ以上は押すのは現状好ましくないという薩州家側の判断が働いたのかもです。
というのは、薩州家領内で飢饉と疫病が発生していたから、人心不安定で軍行動を控えたかもです( ̄ω ̄A;アセアセ
(鹿児島神社庁HP・若宮神社の由緒参照ですが、飢饉・疫病の被害状況や終息時期などは不明)

薩州家側の理由はともかく、天草での騒動が沈静化して、義陽は胸を撫で下ろしたに違いない。
そして義陽ですが、名和家の豊福城を取り戻した事で、気持ちが一段落したのでしょうか。

翌・永禄10(1567)年4月1日~水俣城の上村頼孝が相良義陽の命令で殺された。
上村頼孝は義陽の実の叔父だが、実祖父・上村頼興の死後、謀反を起こし失敗すると日向の北原家へ逃亡していた。
それが、球磨地方最大の内乱「獺野原(うそのばる)の戦い」で許されて帰参し、水俣城へ入っていました。

実は、豊福城が名和氏に奪われた、、、そもそものキッカケは叔父の謀反のゴタゴタのドサクサだったんです。
義陽は、自分に対し謀反を起こした叔父を、本心から許してはいなかったのでしょう。

というより、島津宗家と敵対関係になった以上、島津分家筆頭・薩州家との最前線である水俣城に、謀反歴のある叔父を置くのが不安だったのかもしれません。

叔父を匿った北原は没落した。
誰に遠慮も無い。

人物・相良義陽 橘朝臣幸麿さま作画・相良義陽画像

相良義陽より、蓑田信濃、高橋駿河らが、上村頼孝誅殺の為に差し向けられました。

それに対し深水源八郎という者が深水長智(奉行職)へ
「頼孝への仕打ちとしてこちらの侍が一人も死なない事は礼儀に反すると」申し立て、自ら相果てる役となった。

上村頼孝は対峙した深水源八郎に対して礼を述べると、御霊となって源八郎の子孫を守ろうと述べたそうだ。

二人は互いに槍を合わせ、頼孝は源八郎を突き殺すと自ら切腹して果てた。享年51。法名は「本山蓮光」

これだけでは解らないと思うが、義陽が差し向けたのは八代衆で、深水源八郎は球磨衆なんです。
そして深水源八郎が行くのを許可したのは、奉行の深水長智で、義陽ではありません。
(後で報告はしたと思うけど)

上村の本貫地・上村城は球磨郡で(現あさぎり町)です。
義陽は討手を選ぶにあたり、球磨郡に縁故のない八代衆を選んだのですが、それでは一方的にすぎるだろうと・・・
で、「相討ちで果てる役」として球磨衆で、自分の同族の中から選んだのは、深水の温情だと思います。
あるいは、祟りとか恨みの連鎖を、ここで終わらせようとの配慮だったのかもしれません。

奇しくも、この年は名君と謳われた義陽の父・晴広の13回忌にあたる年でした。
命日の8月6日・・・この日、深水長智のみが剃髪し法体となっているのだが、それは・またの話 by^-^sio

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田尻家文書2_大友親宗知行預ケ状

1は鎌倉期・蒙古襲来関連なんでパスさせて下さい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

原文
読み下し(てるつもり)
超意訳

(包紙上書)
「田尻左衛門大夫殿        親宗」
(異筆)
「文明十六年三月廿四日加領百町     左衛門大夫田尻恒種」

(以下本文)
山門郡之内上小河拾弐町事、預進之候、可有領知候、恐々謹言
山門郡の内、上小河十二町事、これ預進(よしん)候、領知有る可(べ)く候、恐々謹言

文明十六年正月十一日       親宗(花押)
田尻左衛門大夫(恒種)殿




ん~~~定型文だから超意訳しようがないっす^^/

《預進之候、可有領知候、恐々謹言》
この部分は大友家の領地・知行関係における「書止め定型文」だったみたいです。
『可有領知候』の部分が多少変化してます。
預ケ・・・とありますが、実質は領知充行のようで、息子の代でも相続を許されてます。

包紙も大友親宗が宛名を書いてて、丁寧ですね~さすが名門!
異筆のほうは、誰が書いたか判りません。

山門郡は筑後・・・現在の福岡県・山門郡瀬高町上小川。


で・・・肝心の大友親宗ですが・・・・大友家の当主じゃないみたいです( ̄ω ̄A;アセアセ
推測ですが可能性のある人物としては、筑後詰郡代の田原親宗。
(田原氏は大友氏の分家で、最大の勢力)
筑後詰郡代・・・つまり守護代に相当する地位なので、大友当主以外で安堵を与える人物として一番自然です。
ただ花押とか確認できないんで、自分のレベルでは推測どまりです( ̄ω ̄A;アセアセ



筑後も大友も専門外なんですが、肥前と絡みが多いんで頑張ります(`・ω・´)キリッ

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相良義陽_52【哀戦士・・・米良】

ちとブランクあいたので、軽めにウィキペディア参照(引用は緑文字部分)
赤文字がIFバナ・推測なのは何時もと一緒ね(^ -)---☆Wink
それとウィキペディアに元出典の記載がなくアレコレ確認がとれず~
てことで、記事にした以上の事は判らないので、予め御了承下さいm(__)m

最盛期を迎えた伊東氏の失墜・・・一つ目の要因は家中・領民から慕われていた伊東義益の死でした。
二つ目の要因は「木崎原の戦い」で島津義弘に伊東氏が敗れたことです。

木崎原の戦いについては、相良氏が絡んでるので後日たっぷりと・・・(*´ー`)フフフフ・・
で、大河平編でも書いたけど、この時に島津義弘を見事撃退o( ̄Д ̄θ★ケリッ!
ってした知勇兼備の勇将にして小林城主の米良筑後守重方が討死します ・゜・(つД`q。)・゜・ヒーン←米良一族萌え

その首は、義弘による首実検の後、米良家の菩提寺である一麟寺に送り届けられた。
その首級の弔われた墓は「米良筑後守の墓」として小林市指定・史跡に、首が送り届けられた時の首桶は小林市指定・有形文化財になっている。


写真_米良墓(米良一族の墓・・・(-人-)☆彡合掌)

で、前にも強調文字で書いた米良筑後守重方の弟・米良美濃守矩重が遺領を相続し地頭となりました。
が、息子・義益の死去以来、政(まつりごと)に情熱を失い周囲をイエスマンで固めてた三位入道(伊東義祐)と領地に絡んでトラブルになります。

人間、お金が絡むと人が変わると良く言われるが、武家は領地が絡むと人が変わる(と思う)

伊東氏に遺恨を抱いた米良美濃守矩重は、天正4年(1576年)に島津氏へと寝返ってしまう。
8月23日には高原城が落城し、そのため「VS島津対策用」だった米良の小林城・須木城、&高原城がオセロのように島津エリアにひっくり返る。
これが、直接の引き金となり「伊東崩れ」が始まった。

伊東方の城が一つ、また一つと攻略されていったが、三位入道周辺の佞臣は自分の保身のために島津の領内侵攻を三位入道に伝えなかったそうだ。
伊東氏も「伊東崩れ」でド派手に没落するんで、当然一次史料四散~~~
江戸期編纂資料に頼るしかないんで、伝承が何処まで史実に近いか確認しようがない状態です^^;

裸の王様・三位入道こと伊東義祐は従者を撒いて「ブラリ一人旅」したりと勝手気ままに過ごしつつ、何だかんだと娘に看取られ堺で亡くなります。
伊東氏の御家再興に成功したのは、伊東義祐三男の祐兵 川* ̄д ̄*川ポッ 

祐兵が飫肥で復活したと知った米良矩重は、島津家を無断で出奔、祐兵の前にまかり出てこれまでの非を謝罪し切腹を申し出るが、罪を許されて再び伊東氏の家臣となる。
関ヶ原直前に祐兵が亡くなり、伊東祐慶の代になると、清武の地頭に任じられたが、程なく病死したそうです。

実は没年不詳なんですが、最低でも慶長7年(1602)以降です。
というのは清武は慶長7年までは稲津重政が清武城主だったから^^
てことで懐かしの過去記事ほい(*´∀`)ノドン「稲津の乱」前編後編
米良一族といい、稲津といい。。。いま読み返しても萌え泣ける (゜-Å) ホロリ

何度か書いてるが、須木米良氏は肥後菊池氏の末裔と言われ、日向伊東氏の怨霊を払う神社の大宮司職をつとめる家系
で伊東氏の信頼も厚かったので、その特別な家系である米良氏が島津に寝返ったので「伊東崩れ」が始まったわけです。

このあたり想像するより方法がないんですが、どうも米良矩重は過去の寝返りを悔恨し、許してくれた伊東氏へ特別な思いがあったらしい。
死に臨み米良矩重は嫡男・勘之助に対し、伊東祐慶が亡くなったら殉死するようにと遺言したんです。
ちなみに伊東祐慶は寛永13(1636)年4月4日没。
米良矩重・・・本当は自分が殉死したかったのだと思います・・・でも先に死ぬんで出来ない。
だから嫡男に主の死出の供を託した・・・・・
おそらく常日頃から覚悟を言い聞かせてたんじゃないでしょうか。
「うちは同じ伊東家臣でも他家とは事情が違う!(`・ω・´)キリッ」←てな感じで。

米良矩重の嫡男・勘之助は、父の遺言に従い主君・伊東祐慶が亡くなると殉死を遂げた。

・゜・(PД`q。)・゜・・゜・(PД`q。)・゜・ 米良さん・・・この親子は・・・
伊東祐慶の跡継ぎに仕えるって選択肢はないんですか・・・・゜・(PД`q。)・゜・・゜・(PД`q。)・゜・
米良勘之助の墓は、日南市楠原の日南市指定文化財「伊東家累代廟所」に今も残る。

さぁ、時計の針を永禄9(1566)年に戻そう。
相良義陽は、伊東氏没落の歴史を知るよしもなく、島津との闘いへと進ん行くのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_51【三位入道の耳は馬の耳_前編・・・かな?】

≪はじめに≫
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実は・・・ワタクシ、伊東氏では祐兵(すけたけ)萌えです♪川* ̄д ̄*川ポッ 
祐兵は初代飫肥藩主にして伊東義祐の三男です。
以下の内容は軽るめにウィキペディア参照なり~

日向の覇者(暫定)となった伊東義祐には三人の息子がいました。
嫡男・歓虎丸は、天文18年(1549年)に数え10歳で病死します。
悲嘆に暮れた伊東義祐は出家し「三位入道」と称しました。
(※官位が従三位だったから)
地図・日向茶色のグリグリ●印は霧島山

勢い盛んな三位入道(伊東義祐)は、次第に奢侈と京風文化に溺れるようになり、本拠である佐土原(現宮崎県宮崎市佐土原町)は「九州の小京都」とまで呼ばれた。
実のところ、伊東氏のバブル生活を支えた資金の出所って明瞭にはなってません。
相良の場合は具体的な数字の記録はないものの、明と交易し八代に貿易港があったことは判ってます。
でも伊東氏の場合は、ハッキリしてないんです^^;

伊東義祐の傲慢・奢侈な生活は、家臣も眉を顰め領内でも袖を引き合い藁っていたのだが、それでも内部統制はとれてました。
それは家督を継いだ二男・伊東義益の存在があったからです。
伊東義益は、永禄3年(1560年)に家督相続し都於郡城主となって義祐の後見を受けて、伊東氏全盛期への覇道を支えました。
次男は、智勇に優れた人物で、その上温厚な性格であったために、父以上に家臣団・民衆から慕われたそうです。

三位入道さまが贅沢してても、現在は二頭政治で将来的には伊東家の全てを掌握するであろう次男・義益がいたので、領内はバランスがとれてたんです。
永禄12(1569)年7月11日、全日向期待の星・伊東義祐の嫡男・義益(よします)が病のため亡くなる
真幸院も飫肥も手に入れ、あとの目障りは飯野(真幸院の一部)で踏ん張り続ける島津義弘だけ。
(・・・もちろん、だけじゃないんだけど、長くなるんで割愛)
絶頂期を迎えた瞬間に、ジェットコースターの如く失墜の兆しとなったのが、この義益の死でした。

人物・伊東義祐
愛息(嫡男)の死で出家したほどの三位入道=伊東義祐です・・・
彼の精神(こころ)は二度目の不幸に耐えられなかった・・・

もともと歓虎丸の死後、出家するほど禅宗にハマってたのだが、息子の死で増々のめりこむようになった。
諫言する家臣は遠ざけ、周囲をイエスマンで固めて「裸の王様」になる。
同年8月20日、義益の死で政(まつりごと)への情熱を失い傷心の伊東義祐は『VS島津義弘公』用の桶平城を撤収してしまう。

一方、親である三位入道と違うベクトルで悲嘆に暮れたのが、伊東義益の領民たちです。
城中のすべての者が剃髪して菩提を弔うという異例の葬儀が行われた。
家臣も領民も暗澹たる心地だっただろう・・・傷心のあまり・・とはいえ、三位入道の暴走を止めるものがいなくなったのだ。
(※三男・祐兵は飫肥城に入ってました)

想定外の事でミリタリーバランスが崩れ、伊東からの圧力が減った分、島津が息を吹き返す。
島津義弘に伊東勢が大敗北する「木崎原の戦い」は、次男・義益の死から三年後の元亀3年(1572年)5月なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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感想「柳川の歴史_4・近世大名 立花家」

久々に読後感想^^/
正月休み利用して一気読み~

著者
中野等氏(柳川市史編集委員会副委員長・九州大学教授)
穴井綾香氏(柳川市史調査研究員・九州大学大学院比較文化研究院特別研究者)

てことで、柳川市が市史の通史を作ろう(`・ω・´)キリッ という一環で平成24年に発刊されました。
「読みやすい」ものを目指してますが、著書を見れば判るように真面目な本です^^/

だから千熊丸クンが毬栗グリグリされた痛い話とか、
江戸浪々時代の浮世離れした坊ちゃんネタとか「逸話系」を期待しちゃダメ(´・д・`)
通史という性格上、大津城とか朝鮮の役とか八院合戦とか、
個々の戦闘における踏む込んだネタ・・・「戦記系」も期待しちゃダメ(´・д・`)

一次史料の比較検証、二次史料からの引用、IFバナも最小限。
他地域・他家史料との比較などなど・・・・素晴らしい!!!

今まで見た市史の中で過去最高スペック!! (人´∀`).☆.。.:*・
自分が理想とする郷土史のスタイルなんですぅ~~(人´∀`).☆.。.:*・

てことで細かい知行配分とかの話になると、そこまで柳川に詳しくないんで自分も置いてけぼりくらいます(爆
ただ幾つか ( Д )  ゚  ゚ 目からウロコというか、面白いな~と感じた事を少々。

まず筑前・立花城って城郭群だったそうな・・・ここもか!il||li _| ̄|○ il||l
雷神・道雪が入ったのが西立花城で、当然ながら主城ね^^/

で豊後から引っ越す時に雷神さまが伴ったのは、実家である戸次の家臣じゃなかったんですって( ゚д゚)ンマッ!!
戸次家臣団のうち次男とか三男(=直参じゃない)、家臣から引き抜く場合は、系譜上で嫡流家を避けて庶流家からと実家への気配りが見えるそうな。

一番驚いたのは・・・千熊丸クンが養子入りしたのは、高橋家と雷神さまが同盟(軍事的連携)するにあたっての人質の意味合いがあった・・・という点です。

千熊丸クンが立花城に入った時に、実家から連れた家臣が少なかったのも、そういう事らしい。
婿養子候補として・・・って言うのは書いてなかったので、跡継ぎ云々を書いた一次史料がないって事です( ガチョ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!)
とにかく大友家は家臣の造反が多かったので、そういう配慮がなされても不思議じゃないのは確か。
で、城督である雷神様が筑前の頭(トップ)になるから、人質を出すのが高橋家側になるのも筋は通ってます。

とにもかくにも一次史料に基づきキッチリ学術的に検証してるんで、跡継ぎと見込んで云々は後世の編纂・軍記物発信ってことなんですぅ~~~~
ぐぁああああああああああああああああああ!!!
この本を読んでからカテゴリ「柳川藩初代藩主編シリーズ」を記事にしたかったよ~~~(_´Д`)アイーン

話は飛んで1600年~~日向で庄内の乱ウィキペディアが起きます。
で、鎮西無双は日向に出陣する気マンマンだったそうな^^;
もちろん鎮圧側支援ですよ~( ̄ko ̄)

ただ家康が戦闘が拡大するのを好まず、何とか和議で治めるのを希望してたんで、宗茂公の出陣は実現しなかったのだとか。
で、朝鮮の役で親しくなってた島津忠恒に宗茂公が励ましの書状を送ってるんです。
現存してて画像写真が添付してたんだけど、面白かったのが堅紙じゃなくて折紙だったことです。

儀礼上略式なのは、宗茂公が当主で忠恒が部屋住み(=家督を継いでない)だからなのかな??
添付写真が小さくて宛名が見えんげな!Σ(´Д`;)
全文を掲載してくれれば、もうちょいニュアンスとか読み下しできるんだけどな~(・A・)残念

あと関ヶ原あとの島津征伐で東軍に帰順した宗茂公が先陣を務めるんですけど、
このときも軍功よりも島津を説得する方を、家康側は期待してたそうです。

とにかく軍記物から発信の逸話は一切入れることなく、一次史料に基づく通史なんで色々勉強になりました。
史料の解釈は、違う解釈する研究者もいらっしゃるかもですが、とにかく現時点における立花氏の通史として最新です。
巻末付録に年表がついてるんですが、この本のスペックならデータとして安心して参照できます ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

古文書を読み下せば読み下すほど、自分の基礎知識不足を痛感するんで、頑張ります(=^・ω・^=)v ブイ

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相良義陽_50【日向鳴動2_覇者(暫定)決す】

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青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記
イメージ・花
島津義弘公は帷幕の中で床几に腰掛ける殿さまタイプではなく、
自ら刀を振るって戦陣を切り開く猛将タイプです。
従って、先鋒とか先陣とかとか、最前線に一軍の大将がウロウロしてるわけです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
敵も大将とまで気づいてなくとも、兜首だから狙う訳でして結果、義弘公は何度か戦闘中に負傷してます^^;
激戦で義弘公が無傷の時は、家臣の誰かが身代わりに・・・(._+ )☆\(-.-メ)ダマリナサイ

永禄9(1566)年10月26日、伊東の小林城攻略に失敗~敗北した島津勢と負傷兵リスト入りした義弘公。
激戦だったので敗れた島津だけでなく、伊東側も損耗が相当激しかったらしい。
永禄10(1567)年初春に、両軍は一時休戦しています。

ただし休戦は真幸院(えびの市)の方だけでだったらしく、飫肥城では交戦状態が続行してました。
個人的には永禄9年9月にあった霧島山・御鉢の噴火が影響したんじゃないかな~~と推測してました。

んっと~~~文章で説明するより、ここは地図の出番ですな( ゚Д゚)y─┛~~
地図・日向今回はズル?してフリーソフトの日本地図ダウンロード加工(*´pq`)
見やすさ優先の文字サイズなんで、位置関係は若干違うかも~~御当地の方、御勘弁くださいm(__)m

茶色でグリグリ~っと●してるのが霧島山。
で、前回書いたように真幸院と小林が霧島山の半径20kmちょい圏内に対して、飫肥は多分だけど安全圏なの。
ちなみに飫肥は現在の日南市~日南海岸の日南市です^^/

永禄11年(1568)1月12日、伊東義祐が自ら二万の兵を率いて出陣、島津忠親(豊州家)の拠る飫肥城を囲む。
ここから飫肥城は5か月に及ぶ篭城戦突入!

兵糧攻めにあった豊州家は踏ん張り続けたんですが、いかんせん島津宗家の救援が及ばない。(援軍は撃退された)

ここに至り、遂に島津宗家は飫肥城を放棄する断腸の決断をする。
でないと、豊州家や飫肥城兵が飢え死にしちゃう~~(_´Д`)アイーン

島津に最終決断をさせたのが小林城主・米良筑後守重方です!!
米良筑後守重方は伊東側代表として、島津方代表の北郷忠顕と戦後交渉を行い、
島津軍の撤退と飫肥領の割譲を実現させ『知勇兼備の将』と謳われました 川* ̄д ̄*川ポッ 

島津と争ってた念願の飫肥をゲッツした伊東義祐は、相良義陽と共に島津義弘の飯野城挟撃作戦を企んだのです。
が、大河平氏編で紹介したように大河平ナミが軍事情報をリークしたために計画は失敗しました^-^
猛将・島津義弘公が踏ん張り続ける真幸院・飯野方面だけは思うようにならない~~~が、
永禄12(1569)年から、伊東義祐 自らが真幸院に対し、領地宛行状の発給を始める。

東の飫肥領は伊東の支配下。
西の真幸院における公儀権確立。
これらの状況から、日向国の殆どは伊東義祐の手中になったと言える。


絶頂期を迎えた日向・伊東氏、、、ここまでなら島津から伊東へと乗り換えた相良義陽の判断は正しかったのだ。
だが、絶頂期の瞬間から伊東家崩壊の序曲が奏でられ始める。
主家崩壊・・・伊東家において輝かしい功績をたてた米良一族にも、悲痛な運命が待ち受けているのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_49【日向鳴動・1_小林城攻防戦】

≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
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年号は旧暦対応です
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分

他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記
イメージ・花

郷土史の神様からお告げが・・・
(`・ω・´)「もう皆さん、薩摩はお腹いっぱいですよ・・・
      先に日向・大河平編で書いた伏線を回収しなさい(`・ω・´)メッ」


相良義陽の運命の歯車を動かしたのは・・・やはり島津を裏切り、日向・伊東氏と組んだことだろう。
義陽が薩州家から天草地方・長島を押領された一方で、宿題だった豊福城攻略成功と、
すったもんだの永禄8(1565)年・・・・

その翌年、永禄9(1566)年9月に日向・霧島山が噴火
平成になって、新燃岳(霧島山中央部)が噴火したのは記憶に新しいところだが、
永禄9(1566)年の噴火は御鉢の方で、霧島詣での一向宗信者死亡している。
(※御鉢は霧島山の高千穂峰に付随する側火山で新燃岳の約2km東南)
真幸院(現えびの市)からだと20km弱東南、風向きもあるから火山灰が何処まで飛ぶか判らないけど、確実に火山性地震は発生してたはず^^;
ちなみに新燃岳が噴火した時の画像です^^/
写真_新燃岳

真幸院より更に霧島山に近いのが小林市です。(御鉢は小林市から見て西南10~15km)
同年10月26日、噴火翌月で人心が不安定な中、島津軍が伊東氏の小林城を攻撃する
(小林城位置データ:小林市真方下之馬場(城山公園))

小林城は、島津の飯野城に対抗するために築城された城で、実は未だ完成してなかった。
島津軍は築城途中の小林城を、兵2万余を動員して攻撃。
長兄・義久は大手口、次男・義弘は水ノ手口、三男・歳久は窪谷口のある南方から攻めた。
ちなみに歳久公が攻めた方向は、こんな感じ↓
写真_小林城
こんな感じでシラス土壌の壁があって、この真上が本丸~~
左に行くと本丸に通じる土の階段があるんだけど、戦国当時からあったかは不明~~

籠城戦は凄まじい激戦となり、小林城の内堀と外堀が死体で埋まったそうだ。
残すは本丸だけとなり、ひぃぃぃ(@@)となりかけの大ピンチになるも、城主とその弟が奮戦。

その小林城の城主というのが、大河平氏の籠城玉砕後に今城を預かった米良筑後守重方です 川* ̄д ̄*川ポッ
大事萌え♪なので繰り返します小林城主・米良筑後守重方 ですよ 川* ̄д ̄*川ポッ 
ほら~~、大河平編12「今城_落城」で「名前だけしか載せないのは勿体ない武将」って言ったじゃん~~

肥後守護職、菊池氏の末裔です (人´∀`).☆.。.:*・
高千穂の米良さんの同族です '`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`
元々は日向伊東氏の怨霊を払う神社の大宮司職をつとめる家系で、高千穂の米良氏と同じく神社系武家^-^

てことで主君の伊東義祐から信頼されてる家系でして、それもあり小林城を作るよう命じられ、かつその城主にも任命された。
ちなみに、その前は須木城主でして、主君から両城の城主を兼任するように言われた。
それだけスペックが高く『知勇兼備の将と謳われた』武将です。

ちなみのちなみに米良筑後守重方と共に奮戦した弟は米良美濃守矩重(のりしげ)です。
萌え大事なので繰り返します小林城主・弟は米良美濃守矩重 ですぞ(`・ω・´)キリッ

兄で城主の米良筑後守重方が、兼任してた須木城は小林城から地形無視だと5kmくらいの距離なんですが、峠越えあるんでアップダウンきっつぅ~~( ̄ω ̄A;アセアセ
残すは本丸のみとなった米良兄弟だが、須木城からの援軍・・・間ニアッタ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

稲荷山に須木城からの援軍が布陣し、小林城兵と共に島津軍を挟撃。
一転、島津側の敗退となり島津四兄弟の次男・義弘は重症負ったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_48【薩州家・島津義虎の相良エリア・長島侵攻_後編】

≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
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相良義陽の豊福城攻略が、薩州家・島津義虎の長島押領と何処まで連動しているのか、詳らかになる史料はない。
時系列の流れだけで言うと、相良義陽は「制海権のキーとなる天草氏のピンチ」よりも「豊福城攻略」を優先させたことになる。
豊福城は父・晴広が攻略に成功してたのを、義陽の代で失ったので何としても取り戻したかった・・・らしい。
(※義陽の動きを見てると、そうじゃないかな~って印象を受けるんです)

とはいえ天草地方の混乱を黙って見てるだけ・・・というのも不自然。
なので、上津浦氏・大矢野氏(同じ天草国衆)が天草支援に回ったのは、相良氏からの指示じゃないか・・・と言う推論が出てくる。
が、残念ながら天草地方は(も)史料が非常に乏しいので、この間の情勢が判るような書簡などは残っていません(-ω-;)ウーン

永禄8(1565)年、初めに変化が起きたのは【別の局面】でした。
6月6日、阿蘇の家老・甲斐宗運が攻撃してた隈庄城が落城
この攻城戦に援軍していた相良氏の負担が軽減~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
6月13日~名和氏に奪われていた豊福城を遂に攻略成功
名和氏と歴代に亘り、獲ったり獲られたりを繰り返していた豊福城を制したのは相良義陽だ!(=^・ω・^=)v ブイ
人物・相良義陽(もみあげが立派な相良義陽イメージ画像)

さらに、もう一つ・・・・相良氏にとってラッキーな事態急変が起きます。
薩州家で内輪もめ!
同年7月8日、島津義虎が叔父・忠兼を殺す!
義虎の命令で長島を攻略した叔父・忠兼だったんですが、その華やかな軍功を妬む者があり、義虎に讒言したんです。
義虎の方でも、叔父・忠兼の功績が大きすぎちゃって疑心暗鬼になり、讒訴を信じて忠兼を謀殺しました。

それ以来・・・無実で死んだ叔父・忠兼の  ヘ(ー▲ーヘ)(ノー△ー)ノヘ(ー▲ーヘ)(ノー△ー)ノ祟りじゃぁ~~
出水の領内で疫病と飢饉がフルコンポ。
やがて叔父が無実だったのが判明した。
後悔した義虎は叔父の鎮魂のために若宮神社を建立したそうです。

この義虎の叔父・忠兼ですが、鹿児島県史・別巻、諸氏系譜_島津薩州家には記載されていません。
それで血縁関係の方は確認とれていません。
祟りうんぬんは鹿児島神社庁HPに記載されていた若宮神社の由来参照ですが、讒訴の内容とか肝心の詳細は伝承されてないようです^^;

天草地方のグダグダが、もっと長引けば相良にとって大きな打撃になったはずなのだが、
薩州家の領内・人心が落ち着かず、せっかくの戦果を長島以上に拡大することが出来なかった。

とはいえ、薩州家が島津宗家に帰順した以上、それに対する備えを怠ることは出来ないわけで、
相良義陽にとっては神経がイラつくことには違いない。

そんな中で豊福城攻略に成功した義陽は7月21日に球磨・人吉へ凱旋帰還。
長女・虎満も誕生し、父となった。
天草地方が収まり、豊福も攻略成功した事で、義陽の中で気持ちの変化が起きたのだろうか。
かつて謀反し降伏恭順した叔父たちの粛清を始めるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_47【薩州家・島津義虎の相良エリア・長島侵攻_中編】

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永禄8(1565)年、薩州家・島津義虎の長島侵攻が、島津宗家との連携プレイなのかは、前後が詳らかになるような書状がないため不明です。
個人的には、事前に長島へ兵を入れる旨は__φ(.. ) カキカキ通信してると思ってます^^/
だって出水衆を派兵してる時に祁答院や東郷が動いたら不味いでしょ?
タイミングを打ち合わせしといたほうが、不測の事態があったときに安心よネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

タイミングといえば、実は永禄8年に相良義陽は、豊福城攻略のために高塚城(八代郡氷川町高塚)におり、人吉を離れてました。
義陽が本貫地を離れてる時に出兵っていうのは、やっぱ島津宗家と相談済な気が・・・
まぁIFバナは何処まで行ってもIFなんで、置いといて★

長島のことは薩州家にとり、先代の実久パパからの宿題でもありました。
八代日記によると、天文7(1538)年4月13日に島津実久と相良義滋(16代目・義陽の義祖父)が会見してるんですね。
球磨郡誌によると、このころ実久は天草衆とトラブってたそうなんです(トラブル内容は不明)
会見時に薩州家から相良氏に起請文が提出されてるんですが、どうも天草に関連してた・・・ような?
ちなみにウィキペディアでは、実久パパの生母は相良氏ってなってるんだが、系図上の誰になるか不明(==;)

とにかく相良氏は「薩州家と何事か約定を交わし」【実久の生存中は長島(天草地方)へは手出ししてない】んです。
相良氏の長島侵攻は実久死去の翌年、天文23(1554)年です。

そうそう、長島の位置ですけど・・・お手数ですがコチラをクリックなぅ
薩州家エリアの目と鼻の先ですのよ~ヾ(  ̄▽)ゞオホホホホホ
ちなみ平成の現代では国道389号線開通で陸送可になるくらい近い(距離として500m弱くらい?)

で、天文23(1554)年に義陽の父・晴広が長島の長島鎮真をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!として相良エリアに組み込んだ。
(ちなみに名前に鎮の文字がある国衆は大友配下の目印なんですが、大友は家督相続後のゴタゴタで天草どころじゃないって頃)
で追い出された長島さんは、目の前の薩州家を頼って庇護を受けてたんです。

なんというかドミノみたいな話なんですが、義陽が島津を裏切らずに友好関係が継続していれば、宗家に帰順してた薩州家も長島には手出ししずらかったでしょう。
義陽が島津宗家と敵対関係になったことは、薩州家にとって長島に食い込む大チャンス到来なんです。
結果を知ってるんで、義陽が島津を裏切らなかったらな~~~と思っちゃうんですが、
相良氏にしてみればボーーーっとしてた訳じゃなく、菱刈を通じて薩摩国衆・渋谷ファミリアと通じてたんで、牽制することはしてたんですよね。
これは依怙贔屓でなく薩州家が島津宗家に帰順した波及効果が大きかったと感じます。
発端▲・×・▲彡は、何であれ結果として、渋谷一族のうち東郷は薩州家が相手を引き受けたようなもんなんで、アチコチ敵だらけだった島津宗家は息がつけるから。

本筋に戻して永禄8(1565)年3月24日、島津忠兼(義虎の叔父)が義虎の命令で長島・堂崎城を攻撃!
長島氏を追い出した後の堂崎城は、相良氏に帰順してた天草氏一族を城主に配置してました。
その堂崎城が薩州家に奪われ、堂崎城主も討死。
この堂崎城攻撃には、薩州家の出水衆だけでなく、天草国衆(栖本氏・志岐氏)が与力しました。

そう・・・相良氏による天草地方支配が崩されたんです!! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
後年になりますが天草国衆・志岐氏は肥前島原の有馬配下になり、有馬晴純の養子を迎い入れます。
で、有馬が肥前のクマーに押されて衰微すると、志岐氏(有馬からの養子)は義虎の娘と縁組して島津配下になってます^-^
同年?月?日、この流れに肥前有馬が便乗~よってたかって相良配下の天草氏を攻撃!!!
同じ天草国人、上津浦氏・大矢野氏は、天草氏支援に回る アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

天草地方を失ったら、制海権も失うので、明との交易に支障が出る~~~Σ(´Д`;)ヒィっ 
長島は薩州家に押領されグダグダな状況に、高塚城にいた相良義陽は人吉へ戻れなくなったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_46【薩州家・島津義虎の相良エリア・長島侵攻_前編】

≪はじめに≫
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※何処までが確認がとれたデータか、孫引きデータなのかは、極力明記します( ̄ω ̄A;アセアセ
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「今までは、このための前振りかよ」とか「義虎萌えなのは判ったから!タイトルがくどい」とか言っちゃ・・・
ダメよ~ダメダメ♪ 川* ̄д ̄*川ポッ 

これだけアチコチのカテゴリで書いてるのに、記事に盛り込むのを忘れてのが(まだ)有った( ゚д゚)ンマッ!!

島津義虎は生涯で二度、足利将軍家から偏諱(へんき=一文字拝領)を受けています。
一度目の偏諱を受けたのが足利義晴(剣豪将軍のパパ)で、その時の名乗りが義虎の初名(はつな)です。
初名は文字通り初めての諱ですので、元服と共に名乗ります。
年代はハッキリしてませんが、足利義晴が天文19(1550)年5月に亡くなってるので、その前・・・
なんだけど、この将軍様が度々都落ちしてるんで義虎の偏諱時期が特定できません^^;
武家男子の元服だからして、義虎が13歳~15歳の間でしょう。

当然ながら島津宗家(=中身は伊作島津氏)に逆らい降伏した父・島津実久が存命というか現役。
足利将軍家からの偏諱は、パパ実久が京都中央政界にコネクションがあり、様々手配したのでしょう。
偏諱には御礼がつきもの(相場があったらしい)で、将軍本人は無論のこと取次した方々にも金品付け届けを用意しなければなりません。
てことで、島津宗家に帰順以降も将軍家からダイレクトに偏諱を受けるだけの、隠然たる勢力を薩州家は保持してた事にまります。

それと薩州家が足利将軍家から偏諱を受けたのは義虎の代だけでして、薩州家が義虎の代で最盛期を迎えたことの証左でもあります^-^
更にいうと、室町期~戦国期(豊臣政権誕生前)にかけて、数ある島津氏分家の中で直接に足利将軍家から偏諱を受けたのは義虎ただ一人でして、全盛期の薩州家が島津宗家に匹敵する勢力があったことを窺わせます。'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`い・・萌えすぎて、息切れが・・ゲフゴホッ
この大物すぎる分家・薩州家との関係強化のために、島津義久の長女・御平が義虎の元へ嫁ぎます^-^
ちなみに年齢差15歳~初々しい10代花盛りの新妻に義虎がウホっ・・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!

2度目の偏諱が永禄6(1563)年、27歳の時~上洛して足利義輝に拝謁&偏諱を受けて「義」の文字を拝領し、「義俊」⇒「義虎」へと改名します。(偏諱を受けた意図は不明)
義虎の嫡男誕生は永禄8(1565)年なので、島津宗家との縁組は偏諱後っぽい。

くどいようだが薩摩国衆・渋谷一族は東郷氏とは、交戦状態です。▲・×・▲彡
実は・・・弘治3(1557)年、東郷重治と阿久根大川で戦い島津義虎側が敗れてます^^;
渋谷ファミリア♪は、宗家に帰順した今となっては薩州家と島津宗家、双方にとって共通の敵となったんです。

で、同時進行で永禄6(1563)年の相良義陽の裏切りで、永禄7(1564)年から島津氏と相良氏は交戦状態に突入。
四方八方に敵がいる島津宗家は手が回らない~~~~ヒーーアタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
えっと~~~日向は次男の義弘~~ガン( ゜д゜)ガレ

島津義虎の天草地方・長島侵攻は、そんな混沌とした政情の永禄8(1565)年に起きたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家文書_117_木庭教心城統勝連著書状(折紙)

原文
※読み下し(てるつもり)
★超意訳

肥後国中之様躰、以ケ条(城)親賢被仰遣候、
肥後国中の様躰(ようたい) ヶ条を以(もっ)て城親賢へ仰せ遣わらせ候、
肥後国中の有様 仰せ・・言われた数ヶ条を城親賢へ伝えました

兼日之覚悟無緩疎之趣、
兼ねての日の覚悟 緩疎(かん_そ)無き趣き
兼ねてよりの覚悟は 緩(ゆる)み疎(おろ)そかな事はありません

既飜寶印裏■淺被申入候、
既に法印の裏を翻し 浅から不(ず)申し入られ候
既に起請文を書いて申し入れました。

於様躰者、彼御使僧可有演説候、可得御意候、恐々謹言
様躰(ようたい)に於いて者(は)、彼(か)の使僧が演説有る可(べ)く候、御意を得る可(べ)く候、恐々謹言
(肥後国の)様子・有様については、かの使僧から話があることでしょう。御意・・・お心に叶うようにします。恐々謹言


(天正九年カ)三月十七日            
                       城主計助統勝(花押)
                木庭隠岐入道教心(花押)


(奥上書)
「(龍造寺)隆信公
            貴報」


  

貴報(き_ほう)
お知らせって事なんですが「貴」をつけることで相手を敬ってるんです。
現代のビジネス用語でも「貴社」って貴をつけてるのと同じです^-^
飜寶印裏(寶(宝)印の裏を翻(ひるがえ)し)
定型文で「起請文を書くこと」を指します。
牛王宝印(ごおうほういん)と版刻(はんこく)された料紙の裏を使って書くことから、そういう言い回しをするようになったんです^-^
既・・とるので、もう書いてますよ~ってことです(^ -)---☆Wink


歴代鎮西志・下巻・216頁に、上記両名が「龍造寺へ神文(起請文)を提出した」という事が書かれています。
後半に出てくる龍造寺家文書で、城親賢が同日に起請文を提出しているので、歴代鎮西志の記述はソレを指していると思われます。

で、連盟で隆信宛に書状を出した城主計助統勝と木庭隠岐入道教心は、熊本県玉名市(旧玉名郡天水町)所縁の武将です。
両名に関しては別に記事にします^-^

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相良義陽_45【相良と菱刈と薩州家と 終幕】

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弘治2年(1556年)7月、16代目・東郷重尚(重綱)より、相良氏へ婚姻の申し出があり、相良家では了承しました。
球磨郡誌によると、相良義陽と東郷重尚(重綱)な大口城で会見したとあるんですが~~
他の史料で見たことないんで確信ない・・・^^;
だって未だ養父で15代目の東郷重治が健在だもんネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
まぁ、東郷サイドからのアプローチは、菱刈氏が大口城をゲットして相良氏に大口を献上した後って事なんだと思います^^;

で、肝心の結婚が数年後になりました。
多分・・・なんですが相良家が「それどころじゃない」+「東郷重尚(重綱)の実家である菱刈と相良の関係が悪化」したからだと思います。

それが弘治3年(1557年)に起きた叔父の謀反です。過去記事7話目8話目9話目10話目
ついでに言うと同時進行で球磨地方最大の内乱である「獺野原(うそのばる)の戦い」もある
(過去記事12話目13話目14話目15話目
んで、更に合間に「凶星、ほうき星デタァ━━━━ヽ(´Д` ;)ノ━━━━ッ★」ってことで、義陽自身の婚儀も延期してます。

うん、こりゃ、東郷との婚儀が延期も同じ理由ですな ( ゚Д゚)y─┛~~
で、叔父である上村三兄弟の謀反に菱刈重任が加担してたんです。
菱刈重任は、弘治2年(1556年)の大口城ゲットの際にメインで貢献した武将で、16代目・相良義滋娘・千代鶴を妻に迎えていました。

入来院の時に書いたけど、敵よりも昨日までの同盟関係の方が被官化は難しいんです。
大口を相良に献上し幕下に入った菱刈氏。
うまく行ったかのように見えたけれど、菱刈内部では被官化に不服な勢力があったのでしょう。

少なくとも功労者で相良氏16代目当主の姫様が正室の菱刈重任は、若年が当主の相良氏にとって自分は準一門くらいの感覚で、被官になるとは思ってなさそう^^;
ほんと~に、大隅国も薩摩国も国衆の扱いが厄介ですわ~~~ヽ(*´Д`)ノ
謀反は鎮圧され菱刈重任も戦死するんですが、拗れた菱刈との関係が戻らず菱刈氏により水俣城が奪われてしまう(1559年)
ちょっと、このあたり『島津宗家VS渋谷一族(東郷含む)+大隅国衆(菱刈含む)』との闘いが、どこまで相良領を侵した菱刈の動きと連動しているのか判りかねます( ̄ω ̄A;アセアセ

永禄3(1560)年、水俣城は天草衆の仲介で菱刈氏から相良氏の元へ返還され、同年の11月28日に延期になってた義陽の婚儀が行われます。
東郷重尚(重綱)と義陽の先々代・義滋の娘が婚儀をするとしたら、準備もあるし義陽の婚儀の後じゃないでしょうか^^

東郷氏は既に薩州家・島津義虎と交戦状態にあり、島津宗家に匹敵する戦国大名の後ろ盾を必要としてました。
それは菱刈も同じです。
だんだんと島津宗家に押されてて、宗家に抵抗しつつ大口領を菱刈単独で維持するのは難しかったのでしょう。

始まりは島津との盟約を破った相良義陽の裏切りなのですが、相良と菱刈と薩州家と・・・根底には複雑な背景を抱えていたんです。
更には薩摩国衆・渋谷一族も含み事態は『島津宗家VS相良義陽』と大きく動き始めます。
相良と菱刈と薩州家とシリーズ完~本編に戻ります~それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_44【相良と菱刈と薩州家と その12】

≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
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その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記
※何処までが確認がとれたデータか、孫引きデータなのかは、極力明記します( ̄ω ̄A;アセアセ
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シリーズ11の最後で「重久死去で縁戚関係といっても縁が薄くなってる」と書いたけど、薩州家も同じことを思ったらしい。
新たに薩州家から姫君が菱刈氏へ嫁いでいます。

祁答院氏に嫁いだ虎姫の姉姫で、島津実久の長女です。
嫁いだ相手は菱刈氏15代目の重猛なんですが、、、年度が・・・これまた不明^^;
ちなみに重猛の父で14代目・重州は、島津実久からみて従兄弟にあたります。

自分が重久死去に伴う関係強化のテコ入れと思うのは、重久死去時点で実久が数え25歳なので、長女が誕生してたしても推定で10歳に満たない幼さだからです。
実久長女が嫡男・重広を生むのは逆算推定で永禄5(1562)なのですが、彼女の生没年は不明です。

嫡男誕生は目出度い・・・・が、菱刈氏にとって薩州家との縁組は既に政治的なメリットは無くなってました。
理由は簡単で、薩州家が島津宗家(=伊作)に降伏帰順したからです。

大隅国衆である蒲生氏を倒し(弘治2・1556年)、西大隅を手中にした島津宗家・貴久ですが、菱刈氏は帰順を拒み尚も抵抗を続けていました。
菱刈氏の抵抗を可能にしたものこそ、相良氏との被官関係です。
ちなみに相良義陽が島津との盟約を裏切り、日向・伊東と組んだのが永禄6年(1563年)で、この間も菱刈氏は島津氏に対し抵抗を続けています。

日向での相良義陽の裏切りがなくとも、相良氏の被官である菱刈氏が島津氏に対し抵抗し続けているので、いずれは大口領の領有問題で相良と島津が対立したでしょう。

本来であれば菱刈氏と薩州家の縁戚関係が、外交ルートとして機能しているべきなのですが、シリーズ11末尾に記したように薩州家との間に潜在的なトラブル要因が起きてしまい「万が一の交渉ルート」として使えなくなったんです( ̄ω ̄A;アセアセ

その潜在的なトラブル・・・・というのが、▲・×・▲彡ワンコが原因で交戦状態になった薩州家と東郷氏です。
東郷家では男子がおらず、菱刈氏から養子を迎えていました。
薩州家6代目・義虎と揉めたのは先代なのですが、対立は東郷氏16代目・重尚(別名、重綱で菱刈重州三男)まで持ち越されました。

渋谷氏編で紹介したように、東郷エリアを薩州家は|湯田に高城|_ ̄)じぃー 窺ってたことがあり、東郷としては心を許せる状態じゃありません。
いま抵抗を止めて島津宗家に帰順したら、宗家の姫君(御平)を正室に迎えている薩州家・義虎に、東郷エリア領有に関する便宜を図りかねない。
(実際、降伏後の東郷エリアは薩州家に付与された)

東郷重尚(重綱)は同じく島津氏に抵抗を続けている実家・菱刈・・・ひいては その上位者である相良家との関係強化を思い立った。
弘治2年(1556年)7月、16代目・東郷重尚(重綱)より、相良氏へ婚姻の申し出あったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家文書_118_城親賢書状(断道・折紙)

原文
※読み下し(てるつもり)
★超意訳

前回の切れた部分が・・・伯州(伯耆顕孝)存分之儀、
※(伯州(伯耆顕孝)存分の儀)
★(伯州(伯耆顕孝)の事ですが)

(前闕、第116号文書ヲ受クルモノノ如シ)
直被申入候之間、不及口能候、
※直(じか)に申し入れ被(ら)れ候之(の)間、口能(こうのう=斡旋)及ば不(ず)候、
★直接に申し入れられている間は、斡旋するのは難しいです。

旁態以一人申展候之条、閣重筆候、恐々謹言
※旁(かたわら)で 態(わざと)一人以て申し展(ひら)く候の条、重閣筆候、恐々謹言
★こちらで1名を立てて、申し展(ひら)きします。閣重筆候、恐々謹言



(天正九年カ)三月十七日        越前守 親賢(花押)

龍造寺殿
      御報
←お知らせ

閣重筆候----閣筆(かく_ひつ)は筆を終える事を意味するので、「恐々謹言」同様に「書止文言」の定型文節と判断しました。




[態以------恐々謹言]で終わる定型文があったのを見っけ~~
どうやら、この書状は定型文をアレンジしてるみたいです ( ̄ω ̄A;アセアセ

で、この書状は城親賢が「龍造寺殿」宛に出した書状です。
「殿」の敬称はついているものの、官位や通称名を記載していないので、龍造寺一門の誰を指しているのか判りません。
ですが、正式な書状である「堅紙」ではなく、儀礼上で略式になる「折紙」を用いてるので相手は龍造寺隆信本人ではないと推察できます

年欠書状ですが、肥後の状況と城親賢の死亡時期を鑑みて、史料集成編集で付記が入ってました。

なにやら緊迫してそうだなぁ |肥後|_ ̄)じぃー
前後の政治状況は、ゆっくり調べよう♪

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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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