深堀家文書45_豊臣秀吉朱印状

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え~例によって専門外の鎌倉や、ちと関係あるけど調べるのがシンドイ室町はパスでwww
で、年欠文書のせいか、時系列に関係なく先にこれが出てきました^^;

原文
読み下し(てるつもり)
超意訳
※文節に関しては、読み下しの段階で判断しています。句読点は原文ママ。

太刀一腰、并段子拾端到来、悦思食候、
太刀一腰、併せて段子(どんす)拾端(反)到来、悦び思い食(しく)候

其方之儀、諸事肥前侍従次第相談、不可有油断候、
其の方の儀、諸事(しょじ)肥前侍従 次第相談 、油断有る可(べ)から不(ず)候、

猶増田豊田両人可申候、
猶(なお)増田(ました)豊田 両人申し可(べ)く候、

十一月十一日   (豊臣秀吉朱印)
       深堀中務少輔とのへ

********************************************************** 
段子(どんす)---練り絹で織った,厚地でつやのある紋織物
ほら、花嫁の唄で『金襴どんすの帯締めな~がら、花嫁御料は何故泣くの~』ってあるでしょ^^
歌詞の中にある「どんす」がコレで、献上したのは原反(製品化してない生地)です^^/
肥前侍従---龍造寺政家
増田-------たぶんだけど五奉行の増田長束、豊田は自分レベル(豊臣政権絡みの政治史は専門外)じゃ特定無理^^;
深堀中務少輔---深堀純賢
**********************************************************

深堀が献上した品への礼状とプチ連絡も兼ねているようです。
超意訳
(頂いた)太刀一腰(刀)と高級絹織物の原反10本、悦んでます ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
その方(深堀)の事は、諸事・しょじ・・・何事も、肥前侍従(龍造寺政家)に相談次第(しだい)ですので、油断しないように(`・ω・´)キリッ
なお、増田と豊田の両人に言っときます~(^ -)---☆Wink

ウィンクは余計でしたな・・・、そこまで愛想を振りまいてませんぞ!( ゚Д゚)y─┛~~
礼を言いつつ、シメるとこはシメてる印象を受けます。

あと、宛名ですが、日付の次行である名前が日付より下がった位置になってます。
つまり『奥「上書」』ではないんです。
敬称も『殿』ではなく「との」で平仮名で、秀吉が深堀を目下として扱ってるのがハッキリしてます。

深堀純賢は、龍造寺隆信が沖田畷の戦いで討たれた後も、島津に靡くことなく龍造寺サイドでいることに徹しました。
島津の勢力が北上しはじめた中で、ブレずにいるのは中々出来る事ではありません。

で、安閑としてられないはずの深堀が、島津に降伏しないと決断した理由が、自分には判らなかったんです。
この朱印状の内容からだと「深堀のことは龍造寺と相談」ってあるから「秀吉から龍造寺押しプッシュがあった」ってことかな?
年欠なので、断定はできないですけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
この短い文章だけでは、当時の複雑な政治情勢の中から年代を特定するのは、ちと無理^^;
とにかくフラフラしなかったのが功を奏し、鍋島藩家老として家を残し本貫地も無事に守ることが出来ました。
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テーマ : 歴史
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良いか悪いかは別にして・・・史料多読方式

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自分は「一冊の書物に集中して読む」ってしません^^;
手先は器用なわけじゃないし、頭も格別良いわけじゃないので、これは自分が「飽きっぽい」からでしょう(爆

常に数冊を同時進行で読んでます。
一冊を読み終わると、また違う本を増やす・・・・常に4~5冊を読んでます。
1小節、数ページずつ、毎日少しずつ複数冊を齧り読み?です。

だから一冊を読み終わるのに凄い時間かかります^^;
で、読んでで気になるところは必ず付箋します。
同時進行でザックリ通読したあとに、気になるところを再読するわけです。

特に史料関係は同時進行で読んでると、バラバラだったパーツが頭の中で繋がることがあります
その時のビビビ~~~って来る瞬間が面白いんです。川* ̄д ̄*川ポッ 

ただし、一つ欠点が・・・・
「ぐぁあああああああ!この本を読んでから記事にすれば良かったぁぁ」が、あることです(爆

自分でも判ってるんだけど「一冊だけ読む」ってのが、どうしても出来なくて・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
リアルの自分は「おっとりして」見られるんですが、実は性格は「せっかち」だからだと思います^^;
早くはないけど、何をするにも同時進行なんです^^;
(逆に同時進行でなければ早く終わったかも・・・という場合も当然ある・爆)

だから一次史料の読み下しも龍造寺家文書や田尻家文書と、常に複数同時進行なわけです^^;
(いま深堀家文書にも手を出し始めてますwww)

北肥戦誌と歴代鎮西志も同時進行で読み進めてます。
だから、なかなか戦国初期から脱出できない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

多読の自分的長所は「①取りこぼしがない」ことです。
明応なら明応、永正なら永正と、同時代の多種多様なデータを片っ端から拾うので、新たな史料が発見されない限りは徹底して『調べ尽くし済マーク』っす。
多読の自分的長所は「②最低でも3回は読み返してる」です。
一度目の齧り読み(付箋をつけまくり)
二度目の通読
三度目の記事にするときや手書きデータ時などの再読
多読のわりに、一冊一冊は、繰り返し読んでます。

てことで現在同時進行なのが
イメージ・多読
蔦屋で買った山城100名城
柳川市史
深堀の歴史
武雄市史

イメージ・北肥戦誌 北肥戦誌(メガネっこです♪)
イメージ・歴代鎮西志 歴代鎮西志

画像の扱いが下手なのも相変わらずです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

くらいかな^^/
佐賀市史は、いま中断~~

って、いま同時進行は何気に6冊だった(´Д`;)←ふだん「今日は何冊齧った~」とか数えない人 
ちょっとエンジン切れたんで、閑話休題でした(*´pq`)クスッ

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田尻家文書5_本庄繁栄書状

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年欠文書か~書状は文意の読み取りや分析が手ごわいんだよな~ ( ̄ω ̄A;アセアセ
つらつら眺めるに、どうも相続か安堵関連の訴状?に対する返信みたい。
本庄伊賀守繁栄は大友家臣~専門外だから詳しくないが重臣クラスっぽい。
(明応03)1494年01月13日、『大日本古文書 家わけ 相良家文書』でも名前があります。

つーか、大友が筑後へ検使を派遣するってことは、土地トラブルや!!Σ(´Д`;)はぅ
********************************************************** 
原文
読み下し(てるつもり)
超意訳
※文節に関しては、読み下しの段階で判断しています。句読点は原文ママ。

(折封上書)
「               本庄伊賀守
 田尻中務少輔殿   御返報        繁栄」


御同名左衛門尉方年少給所證跡之事
御同名左衛門尉年少方 給所(きゅうしょ)證跡(しょうあと)の事、

御尋候之處、被進候、可然候、委細上覧候、諸老披見候、
お尋ね候の処、進ぜ被(ら)れ候、然(しか)る可(べ)く候、委細(いさい)上覧(じょうらん)候、諸老 披見(ひけん)候、

旁為御用、可被差遣検使候、
旁(方々の)為 御用(ごよう)、検使(けんし)差し遣わ被(ら)れ可(べ)く、

委細、其時可被仰出候、先以御使歸申候、
委細(いさい)其(そ)の時 仰せ出(で)被(ら)れ可(べ)く候、先(ま)ず以(もっ)て御使 歸(帰)し申し候、

殊證跡以上五通物、御判之物二、田原方状三通
殊(こと)に證跡(しょうあと)以上 五通物、御判の物 二(枚or通)、田原方状三通

何正文、此御使渡申候、為御意得申候、恐々謹言
何(いず)れも正(証)文、此の御使いに渡し申し候、御意を得る為 申し候、恐々謹言

八月十一日    繁栄(花押)
田尻中務少輔殿 御返報

(切封)「(墨引)」
********************************************************** 
給所(きゅうしょ)---知行のため給付された土地
證跡(しょうあと)---証拠
上覧(じょうらん)---身分の高い人が「何かを」見た事
披見(ひけん)-----手紙や文書を開いてみる事

恒例の超意訳
田尻中務少輔さんへ

同じ名(通称)で若い方の左衛門尉の、知行地の証拠の話なんだけどさ。
問い合わせの件は、偉い人(お屋形様かな?)に伝えたし、他の家老にも見て貰ったから、
つーことで方々・・・田尻家のために検使を派遣することになりました。
委細いさい・・詳しい話は検使に言って~おたくから来た(と思われる)使いは帰すからね。
殊こと・・ほかの證跡・・・つまり証拠の品・五通ね
御判之物・・判物(はんもつ)が二(枚or通)、田原が出した書状三通(なぜか数が小文字)
何れの証文も、おたくから来た(←らしい)使いに渡したから。
(偉い人の)御意(OK)を貰う為に言ってます。恐々謹言(`・ω・´)キリッ


中身の流れだと息子が家督継いだ後・・・年度推定は延徳年間~明応年間あたりでしょう。
で、大友重臣(らしい)本庄繁栄が、証拠を携えて使者を送り込んで来た田尻家に対し、返事の書状を出してるようだ。

『同じ通称の若い方』というのは、おそらく返事を貰った『田尻中務少輔の嫡男』の事と思われます。
息子に与えられるはずだった土地は、どうなったんでしょう~~てな感じで畏れながらと訴え出たみたい^^;

これはやっぱり筑後方分(郡代)だった田原親宗のリップサービスが原因みたい。
判物(はんもの)・・・親宗の花押(直筆サイン)がある文書は貰ってた田尻家文書3と異筆の書き込みあった田尻家文書2が絡んでるんでしょう。
(証拠で判物を二通ってあるから)
年欠な上に奉書もないわで、やっぱ事務手続きがないまま宙ぶらりんだったんだ。
田原親宗が明応3年(1494年)に戦死したそうで、田原家も息子の代になってるんで、事実関係が曖昧になったんだろうな^^;

守護職である大友家では、土地トラブルで当事者間が揉めた時には検使(けんし)を派遣して調停をするんです。
この書状では「派遣する」って話だけで、その結果は記載してないので判りません。
筑後も色々ありますな ( ゚Д゚)y─┛~~

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『日本の山城100名城』を買うのに往復3時間半かかった件

田舎の地方都市なんで、市町村合併のながれは御多聞に漏れず。
以前は○○郡○○町字○○が、地元と合併した。

で、今は同じ市内で旧○○郡○○町字○○に蔦屋・・・キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
市内の書店が軒並み閉店して不便な中、これは嬉しい(・∀・)イイ!
(ネット購入は日数かかるから、お預けワンコ状態が辛い・笑)

戦国史に本腰入れてから気づいたこと・・・戦国真っ盛りの城とは山城なのだ!( ゚д゚)ンマッ!!
※ただし日本有数の満干潮差がある肥前では『浸水することが前提で各郭を独立させた平城』が、平野部に多数見られるのが特徴です^-^

てことで、あちこちの城郭ブログに出没してるんですが、地元に山城絶無なために体感というか実感することが全く出来ず、基礎知識不足で書いてること(城郭用語)が判ってない^^;
著名な方の著名な著作はハイスペックすぎて自分がついていけず、素人向けに緩いのがないかな~
と密かに探していたら、自分の躓きを察して下さったブログ友さまが発刊を教えて下さいました ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

すぐ行きたかったんだけど、ちと天候が・・・アイスバーンが・・・^^;
てことで吹雪いていない視界&天気良好の日を選んで、国道をかっ飛ばしてレッツGO蔦屋!!

が・・・歴史コーナーを目を皿にして探しても無い!! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
田舎の蔦屋だからか?
尋ねたくても店内が広すぎ~~店員が何処にいるか探せない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

もしかして~と思い返してみたら、隣の『旅』コーナーの新刊のとこにあった。
山城訪問って旅かな?いや遠出する人もいるだろうから、旅も伴うっちゃ、伴うかな?

イメージ・山城の本
てことで、やっと買えた~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

おお!これは判りやすいぞ!!縄張り図の味方・・・もとい見方とか、あちこちの呼称とかとか。
あ、九州の城も載ってる~
山城紹介だから、逆に有名なのが無い。
ふふふふふふふふ・・・国衆オタには馴染みの城が並んでるぜ (・∀・)←ハイテンションすぎて壊れかけ

さぁ帰ろうと思って出口に行ったら・・・初めに入った出入り口じゃないとこから出たのが不味かった・・・
左折(帰る方角とは真逆)しか出来ない車線だった Σ(´Д`;) はぅ!

途中でUターンしたかったけど、車の流れが多くて上手く行かない~~~
縄張り争いに負けたニャンコの如く、地元からグングン離れる我が愛車。
いっそ、このまま隣の市に入った方が車の流れに逆らわないから楽かな~~
(ちと遠いからと、ガソリンは満タンにしといたから平気)

ふと「右折じゃなくて、左折して某駅前で更に左折すれば、元来た国道に戻れるじゃん(・∀・)ピコーン★」
発想は間違ってない・・・その通りで国道には戻れる。
ただ自分が慣れない車道の距離感を認識しておらず「とんでもなく遠回りのコース」をチョイスしただけです(大爆

結局、行きは40分なのに、帰りは二時間近くかかっちまった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
途中でコンビニで腹ごしらえして、念のためにスマホで位置確認して・・・
と『市内』を走行中とは思えない状況に、もはや自分でも笑うしかない。
ほんと合併も考えものですわ~国道で1時間、2時間って場所なのに「同じ市内」って不思議な気分^^;

で帰宅して爆睡しました^^
いま萌え萌えで読んでます~(*´pq`)
ブロ友さま~情報の御礼かねて購入の顛末(珍道中?)を記事にしました~

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相良義陽_61【島津咆哮5~親指武蔵、市山城へ入る】

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今回の出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(※記事内緑文字は菱刈史より引用、句読点、振り仮名は管理人補足)


菱刈史では、菱刈隆秋が大口城の守将と書いてますが、大口城は相良と菱刈の両属のような感じでした。
(立場的には戦国大名化した相良氏が菱刈の上位者)
ですから、大口城には相良から派遣された在番衆が常駐してたんです。
八代衆と球磨衆が半年ごとに交代で千名ずつ詰めてます。

永禄10(1567)年11月24日(島津側では出陣した23日)に、島津勢1万五千の本軍が菱刈の馬越城を攻撃。
城主以下、数百名が討たれ、僅か一日で落城します。
翌、25日、島津の気勢に不利を悟った菱刈氏は、八つの支城全てを捨てて、大口城に籠った。

くどいですが、大口には相良の在番衆が詰めてます。
菱刈隆秋は相良に(-人-)☆彡オネガイ~更に三百の援兵を受けた。
結果・・・一カ所に集中した大口の兵力が、八つの城を占拠したがゆえに分散してしまった島津の留守兵を上回ったわけです。

おそらく菱刈隆秋は、大口城から討って出る遊撃部隊だったんじゃないでしょうか。
(城の守りは元から詰めている相良勢がいるんで、自分が留守してても大丈夫♪)

何せ島津が占拠した八つの支城は、元々は菱刈が捨てた城。
城内の井戸の位置から、地理的に弱点となる場所、ジモティしか知らない抜け道、などなど全部知ってます。
たちまち形勢逆転~~
不慣れな城と土地に入った島津勢の方が、逆に不利になってしまった! Σ(´Д`;) はぅ

(同年)12月29日、(島津は)市来、伊集院、田布施、川邉の軍を市山城に入れ、
市来備後守、平田加賀守、伊集院刑部少輔、市山の兵を率い密(ひそか)に大口に入りて其の地理を観察した。
市山城(元・菱刈氏の支城)----伊佐市菱刈市山(正確な位置は不明)

大口の菱刈軍、城を出て之を追い、三将 西原の川涯(崖?)に還り力戦して死し、残兵 潰乱(かいらん)して市山城に遁れ入った。
大口城---伊佐市大口里字上ノ馬場(大口小学校の御近所)

あぁ、地理偵察に行くだけあって、2kmくらいしか離れてないわ。
川は川内川の支流・・・なんだけど支流の呼称が探せなかった^^;
偵察の三将が川を越えてたってことは、大口城から500m圏内に入る近さまで接近してた事になります。
あわよくば威力偵察するつもりだったのかも。

其の後、大口より市山城を侵す事、度々で市山城危うく、貴久公 新納忠元をして市山城を守らしめた。


人物・新納忠元 橘朝臣幸麿さま作画、新納忠元(晩年)イメージ画像

島津家臣のなかで猛将といえば・・・と、指折り数えれば一番目に名前が挙がる新納忠元、この時で数え42歳。
指折り数える一番目の指→→親指
で、その強さに敬意をもって『親指武蔵』の異名で呼ばれていた。
(決して、背が低いからが由来の親指では・・・ゲフ、ゴホ、グホ)

大口という土地に親指武蔵・新納忠元が縁するのは、この「市山城へのテコ入れ」からなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_60【島津咆哮4~菱刈氏、八城を捨てる】

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今回の出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(※記事内緑文字は菱刈史より引用、句読点、振り仮名は管理人補足)


永禄10(1567)年11月23日、島津貴久と義久、合わせて一万五千の本軍が菱刈氏の馬越(まごし)城を囲んだ。
翌11月24日、猛将・島津義弘を先陣に城攻めが始まり、馬越城は城主以下奮戦するも、僅か一日で落城する。

(同年)11月25日、島津氏の軍、大に振るい、本城、湯之尾、曽木、市山、青木、山野、羽月、平泉、
悉く城を捨てて大口城に奔(はし)り、菱刈中務(←菱刈一門)も又、横川(霧島市)を去って、大口に遁(のが)れ、
菱刈大膳亮隆秋を守将として大口城を保ちて居た。


本城-----伊佐市菱刈南浦、本城小学校のあたり(本城って名前の城だったらしい^^;)
湯之尾---伊佐市菱刈川北古川、湯之尾温泉のあたり
曽木-----伊佐市大口曽木
市山-----伊佐市菱刈市山
青木-----伊佐市大口青木
山野-----伊佐市大口山野
羽月-----伊佐市大口下殿
平泉-----伊佐市大口平出水(地名は平出水だけど城の方は平泉)

城の名前=イコール地名だったから見つけやすいかったわ~
お時間あれば、グーグルで検索してみて~当時の菱刈エリアが概ね判ります^^/

横川だけは飛び地でして、10km以上離れた霧島市にありました。
10km強くらいの距離なら、馬越城が落ちたのは翌日くらいには知ってたでしょう。
横川の周囲はグルリと島津エリア~「孤立しちゃ叶わん」と、こちらも城を捨てたわけです^^;

これら菱刈の八城は、25日中のうちに全て捨てられました。
なにしろ馬越城が僅か一日で落ちて城主親子も討たれちゃってます。
とても勝てないというより、城に踏みとどまる戦意自体が挫けちゃったんでしょう^^;
家紋・島津 ロン様作成、島津家紋ロゴ

もしくは、島津の方でも菱刈勢が逃げるに任せたのかもしれません。
菱刈勢が逃げる先は、かつては同盟関係・・・そして戦国大名化とともに菱刈の上位者となった相良氏の懐しかないからです。

菱刈史には書かれていませんが、大口城には相良勢の在番衆がいました。
八代衆と球磨衆が交代で守備してて、つまり実質は相良エリアなわけです。
ただし大口城をゲットした経緯においては、菱刈勢がメインで周囲の地理も菱刈勢が一番熟知してるわけです。
それで、菱刈隆秋(15代目当主の弟)が守将になったのかな~と^^

(同年)11月26日、貴久・義久の両公は、其の旗下の将卒を分かちて、
本城、曽木、湯之尾、市山、を守らせ、
山野、羽月、平泉は薩州家の島津義虎に命じて守らせた。


菱刈隆秋は急を球磨に告げ援けを請うた。
くどいようだが、大口には元々相良の在番衆が詰めてます。
だから兵の増強を(-人-)☆彡オネガイ したんじゃないでしょうか。

相良氏、球磨八代の軍三百余人を遣わして之を援け、島津義虎が守れる山野、平泉を襲った。

くどいですが、球磨衆と八代衆の大口在番は『交代制』で、両者が被ったことはありません。
そのあたり菱刈側の伝承ではゴチャゴチャになってるのでしょう。
この当時の在番が球磨と八代のどちらかまでは判りませんが、増強するなら球磨衆と八代衆のどちらかです。

是より大口の菱刈軍優勢となりて攻勢に転じた。
単純計算です。
八つの城にバラバラだった菱刈勢が大口城に集結し、元からいた相良の大口在番衆(千人くらい)+援兵三百余人。
これにより島津側の各城・留守兵の兵力を上回るのは当然の帰結です。

敵から奪った城は、監督下におくために留守兵を入れます。
そのため、せっかく集中してた兵力が分散するのは避けられません。
常に新しい兵力の補充があれば大丈夫ですが、この時点の島津は未だヤリクリしてる段階なんでチト厳しい^^;

不意をくらって支城の殆どを失う羽目になった菱刈氏だが、今度は反転して攻勢側になった。
元々が自分のところの城です。
地形も地理も弱点も熟知してます。

菱刈氏は八城を捨てるという、いわば「肉を斬らせ」たわけだが、果たして島津の「骨を断つ」ことが出来るのか、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_59【島津咆哮3_攻城】

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今回の出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(※記事内緑文字は菱刈史より引用、句読点、振り仮名は管理人補足)

永禄10(1567)年11月23日、島津貴久と義久合わせて一万五千の本軍が菱刈氏の馬越(まごし)城を囲んだ。

ちと印刷の字が読み取れなかったんだけど(拡大しても無理)、馬越城攻撃に因んだ「アブミ落」と呼ばれる土地があったそうです。
大正時代の郷土資料だから、今より城の遺構も残ってたんだろうな~
翌11月24日、猛将・島津義弘を先陣に城攻めが始まった。

(馬越)城兵矢石を飛ばして是を防いだ
(島津義弘勢)辻大蔵左衛門、有馬軍彌左衛門、久留軍兵衛 先登(せんとう)して壁を越えんとした処(ところ)
(城主・井手籠→)駿河守 門を開きて勇を振るい挑み戦(たたか)うた、


先登(せんとう)は、城攻めの一番乗りって意味です^^/
戦(たたこ)うた・・・・ここ原文は『戦ふた』でして、口語っぽい記述が実に雰囲気抜群 (・∀・)イイ!
あぁ~『日本昔話』のナレーションの人に『菱刈史』朗読してもらったら素敵だろうなぁ (人´∀`).☆.。.:*・

時に井手籠氏 父子三人力戦して (義弘)公軍士三人を斬った
一番乗りしようとした三人が遣られたのかな?

義弘公 逆へ討って城へ入り、新納刑部大輔忠元、伊集院美作守久宣、財部傳内左衛門、東郷兵部少輔、阿多掃部助、宮里右京亮、有馬奉膳兵衛、競い進んで門壁を破り、井手籠父子を誅し、首級数百を得(え)、城(は)陥(落)ちた。
時に義弘公の軍士、村田右衛門も戦死した。

島津側にも死者が出てますが・・・概ね瞬殺ですな ( ゚Д゚)y─┛~~
親指武蔵の新納さんと猛将・義弘公が競い合って攻めて来るなんて怖すぎるよ~~(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
てか、義弘公・・・先陣の将なのに、前線武将たちと一緒になってヒャッハーしてるんですね( ̄ω ̄A;アセアセ
きっと毎回こんな感じなんだろうな~義弘公,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

此時(このとき)球磨・相良氏の援兵来たが、義弘公 田中村花立尾に■へ撃ちて球磨軍敗走した
田中村花立尾・・・さすがに何処で区切るか迷って諦めた il||li _| ̄|○ il||l
こういう普通の文字の羅列は難しいんだよな~~おまけに■は判読不能ですた~トホホ

其夜(そのよ)勝吐氣(かちどき)の禮(れい)を馬越城中に行ふた。
うん、勝吐氣は勝鬨の当て字ですね^^;
いまじゃ単に「えいえいおーー」の掛け声だけに思われてるけど、本来は所作とかがキチンと決まってて、戦勝後に行う武家礼法の一つなんです。

菱刈氏の馬越城・・・・一日で落ちたか・・・・(´・д・`)
他の菱刈氏の城も島津勢によりコテンパンにされるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_58【島津咆哮2_猛将出陣】

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今回の出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」

まさか大正時代の刊行物に句読点がないとは思わんかった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
平仮名が少ない文節だと、変体漢文の読み下しと大して変わらないのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
永禄10(1567)年11月23日、島津による菱刈氏の馬越城攻撃が始まった。

貴久公は清水曽於郡宮内田布施の衆七千余人を率いて陣之尾に
貴久公は清水(現 鹿児島市清水町)・曽於郡・宮内(現 薩摩川内市宮内町 )・田布施(現 南さつま市金峰町)の衆七千余人を率いて陣之尾(現 伊佐市大口篠原陣之尾)に、

ほーーー|ぐーぐるMAP|0 ̄)じぃー けっこうアチコチから兵を引っ張ってるな~
ちなみに貴久公が布陣した『陣之尾』は、馬越城の北側です^^/

義久公は鹿児島谷山加世田阿多山田吉田帖佐の衆八千余人を率いて前目諏訪山に陣し
義久公は鹿児島・谷山(旧 谷山市、現 鹿児島市)・加世田(旧 加世田市、現 南さつま市)・阿多(現 南さつま市金峰町)・山田(現 鹿児島市山田町)・吉田(現 鹿児島市吉田町)・帖佐(現 鹿児島県姶良市)の衆八千余人を率いて、前目諏訪山(現 伊佐市菱刈前目の諏訪山)に陣し

諏訪山の正確な位置がチト判らん~ただ菱刈前目に神社(諏訪神社系)があるんで、そのあたりになると思う。
となると同じ北側だけど、義久公の方が貴久公より馬越城に近い場所に布陣した事になります。
やっぱ家督を譲られたニューリーダーが前面に出ないと~(*´pq`)ウフフ

さて、こっからはシオの方で苦闘点・・・もとい読点と振り仮名入れていきます^^/
喜入季久(きいれ すえひさ)、比志島式部少輔義基(ひしじま しきぶしょうゆ よしもと)等(ら)は湯之尾の軍に當(あた)り
喜入季久・・・島津氏庶流である喜入氏の5代当主
比志島式部少輔義基・・・伊集院忠棟の弟で比志島氏に養子に入った人物
湯之尾の軍・・・支城がありました。住所としては同じ伊佐市菱刈前目ですが、馬越城から1~2km離れてます。

北村、溝邉、踊之衆は横川の軍に當(あた)り
おおっ、これは「本藩人物誌」にない菱刈側の記述だ。
横川・・・横川城は菱刈氏の城なんですが、伊佐市から離れ霧島市。
島津に反抗する前に、菱刈重猛が功により加増された城で、菱刈の一門衆が城主でした。

横川城は馬越城から10km以上離れています。
前年に菱刈が貴久公から加増されてたのは横川(霧島市)と栗野(姶良郡湧水町)でした。
栗野方面は記載がないので状況不明ですが、横川より栗野の方が湯之尾に近く2km位の距離なんで制圧されたんじゃないでしょうか。
いずれにせよ湯之尾を押さえられたら、横川城は馬越城との連携がとれなくなります。

伊集院、市来(いちき)、伊作、高橋、川邉、頴娃(えい)、指宿(いぶすき)の衆は、大口及び球磨、八代の軍に當(あた)り
詳細は菱刈史に書かれてなかったんですが、球磨・・つまり相良では菱刈の緊急事態に援兵を出してたそうです。

義弘公も真幸(まさき=宮崎県えびの市)の軍を率いて般若寺の険路を越えて稲荷山に陣して各部署につかれた。

すごい・・・!てか島津、怖いよ~~~・゜・(つД`q。)・゜・ヒーン
島津側の記録だと菱刈攻撃の兵力は、貴久公と義久公が率いてた本軍1万5千しか記載されてないみたいなんですが、実際は更に多い兵数が動員かかってたようです。
これだけ一気に来られたら、菱刈は対応しきれない。

あ、稲荷山は、伊佐市菱刈前目字稲荷山・・・なんだけど地目が畑な上に耕作不能らしくてグーグルに反映しなかった~
とにかく菱刈前目だから馬越城の目と鼻の先には違いないです。

翌24日、貴久公陣を徳辺(=伊佐市菱刈徳辺)に移し、義弘公を以(もっ)て前軍とし城の乾(いぬい=北西)より攻め登った。
攻撃に入るんで陣替えしたな・・・|菱刈史|_ ̄)じぃー
馬越城攻撃の先陣は、猛将・島津義弘公だ!!!

獅子が咆哮するが如く、全力で菱刈討伐を始めた島津氏・・・それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_57【島津咆哮1_菱刈氏討伐】

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今回の出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」です^^/
出版年度は古いんですが、編者は地元の郷土史家で違う著作「北伊佐史」の方では家臣子孫にインタヴューもしてます。
昔のせいか近年の郷土史と違い出典元記載がないのが惜しい^^;
ザッと読んだ限りでは、菱刈文書や系図を参照してる感じを受けます。

実はコピーは去年に入手済だったんですが、出版年度が古いんで元出典に使ってOKか裏付けとってた(*´pq`)ウフフ
てことで、各種サイトとも見比べてみたんですが、どうやら菱刈氏に関しては新たに発見された史料等はないみたいです。
大口市史がWEB非公開のため差異は未確認ですが「菱刈史」と大きな差はなさそう。
(いまは大口市も伊佐市に合併されちゃったから、旧市史がどうなっているのやら^^;)

ということで、行きます~~~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
***********************************************************

ちょっと違和感なのは「菱刈史(と北伊佐史)」では、相良氏を「獅子身中の虫」と非難してることです。
ただ、室町中期まで遡れば、相良氏と島津氏は縁戚関係なので、まぁ丸っきり間違いでもない^^
なんだか源平藤橘氏姓まで遡ったら、日本国中の武家が縁戚関係になる気がしてきた,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

「菱刈史」では「伊東 相良 菱刈が連合して島津に対抗するので・・・(要約)」とあるが、実は更に薩摩国の渋谷一族も加わってます。
で、伊東が連携してるのは、相良のみです。
こんがらがった毛玉のような状態を崩すため、島津は菱刈をターゲットに選んだ。

いっぺんにアチコチ相手をするのは島津でもハードワークすぎるが、ターゲットを一つにすれば兵力は上回ります。
菱刈に攻撃を集中するのに、やりくりしたと思うんですが、具体的に何をしたかまでは菱刈史では触れてません。
思うに、永禄9年(1566)10月26日の小林城攻めで、重傷を負った島津義弘の回復待ちはしてたんじゃないでしょうか^^;

家紋・島津 ロン様作成、島津家紋ロゴ

永禄10(1567)年11月23日、島津貴久・義久両公は栗野に到り湯之尾を越えて馬越(まごし)城を攻めた。
栗野・・・・・姶良郡湧水町
湯之尾・・・伊佐市菱刈川北
馬越城・・・伊佐市菱刈前目(伊佐市役所菱刈庁舎の北側)

栗野から湯之尾は北西へ約4km
湯之尾から馬越城は、やっぱ北西で1~2km弱
6km近く移動して、更に城攻めか~~まったくもって戦国時代の人はタフですな ( ゚Д゚)y─┛~~

馬越城の城主は、菱刈隆秋家臣で井手籠駿河守。
井手籠は長男・兵部少輔と次男・弥四郎と共に城を守っていたそうです。

以下原文(旧漢字、旧仮名は直してます)
貴久公は清水曽於郡宮内田布施の衆七千余人を率いて陣之尾に義久公は鹿児島谷山加世田阿多山田吉田帖佐の衆八千余人を率いて前目諏訪山に陣し

・・・・・???
句読点がない・・・Σ(´Д`;) はぅ!
明治39年(1906年)に文部省が「句読法案(句読点法案)」出してるのに~~(_´Д`)アイーン

これぞ、まさしく南斗苦闘点・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!

ちとグーグルマップ様とウィキペディア様に、お尋ねしてくるので暫し猶予を!
句読点のない人名&地名の漢字列挙は、この後も続くのだが・・・それは・またの話 by^-^;sio

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田尻家文書4_大友親豊継目安堵状

原文
読み下し(てるつもり)
超意訳

(折封上書)
「田尻中務少輔殿   親豊
(異筆)
「延徳弐年庚戌九月二日継目、恒種ノ嫡子種久」

親父恒種一跡之事、任相続之旨、不可有領掌相違候、恐々謹言
親父恒種跡の事、相続の任(まか)す旨(むね)、領掌(りょうしょう)相違有る可(べ)から不(ず)候、恐々謹言

延徳弐年
九月二日      親豊(花押)
田尻中務少輔殿
(切封)
「(墨引)」


**********************************************************

あ~こりまた見たまんまだな~

本文にある【領掌(りょうしょう)】ですが、承諾すること。了承。を意味します。
超意訳すると「パパ恒種の跡目を種久が継ぐのを了解したよ~」ってことです。
田尻氏は大友氏の被官ですから、家督相続の時にはキチンと報告・了承を得ていたんですね^-^

大友親豊(ちかとよ)は、大友氏17代目当主です。
延徳二年は1490年、この時は数えで32歳かな?
後に足利将軍・義材から偏諱を受けて改名してるんですが、このころは未だ偏諱前でした^-^

筑後関連を調べると、必然的に大友氏の勉強にもなるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

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相良義陽_56【派閥】

≪記事内ルール≫
年月日⇒⇒⇒旧暦対応
青文字⇒⇒一次史料出典
緑文字⇒⇒二次史料や補足となる部分
他の色文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。


イメージ・花
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1567年産まれの武将は、やたら多く「花の67年組」と呼ばれ・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!
冗談ぬきで、義陽からみとだと、次女・千満姫が生まれました(月日は不明)。

1565年に産まれたのが娘だったので、嫡男誕生目指してハッスルしたのでしょう。
結果から言うと、正室との間には娘しか産まれなかった為に、義陽は側室を迎える。

愛情うんぬんは別にしても、出来うるものなら正室との間に嫡男を儲けたかったに違いない。
何故なら義陽の父・晴広は、支族である上村家から入った養子だったからです。

それだけでなく、義陽は生母も家来筋で、生母実家の家格は高くなかったみたいなんです。
ですから義陽は人吉城内ではなく、生母の実家で生まれています。
もしかしたら義陽誕生当時、生母は未だ正室ではなく側室だったかも・・・

というのは、義陽には同年同日生まれの異母弟がいまして、義陽が嫡男と決する時には「老臣会議による決定」という手順を踏んでるんです。
はなから正室から生まれてたなら、生まれた時点で義陽が嫡男のはずですから(´・д・`)

とにかく、生母の家格が低いというのは、武家の当主において地味ながら大きく影響します。
島津当主で統治が思いのままにならず絶望して自害した島津忠昌も、生母が家来筋でした。
生母の家格が低いということは、生母実家が家中でイニシアチブをとれるような政治力絶無・・・という事です。

ですから島津忠昌や相良義陽のように、若年で働き盛りのパパンが死んじゃうと、自身で政治的主導権がとれず物凄い苦労する羽目になります( ̄ω ̄A;アセアセ
どちらも叔父さんや分家が、謀反してるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

義陽の父・晴広は養子ながら名君の誉れ高く、かつ、その偉業を実父である上村頼興が支える(つまり汚れ役の実力者)という幸運に恵まれたが、
上村頼興亡き後の義陽には、強力・剛腕の後ろ盾が無く、このままでは何処までいっても「傍流の当主」で終わってしまう。

亡き16代当主の末娘(系図上では義陽の叔母)を正室にしたのも、
足利義輝から「義」の文字を拝領して「義陽」と改名したのも、
「修理大夫」という国持ち大名クラスの官位を貰ったのも、

全て傍流の当主である義陽の権威付けの為だった(と思われる)のだが、これだけ努力しても家中の統制がとれないのが肥後という国の難しさです。

人物・相良義陽橘朝臣幸麿さまより相良義陽イメージ画像

で、ここらあたり再整理しますと、最盛期の相良氏の支配エリアは球磨郡・水俣郡・八代郡、天草地方。
で、八代は家臣ではなく国衆の連合体でして、他とは性質が異なってました。
そのため、相良氏当主は八代と人吉(球磨郡)を定期的に行き来して二元統治してたんです。

それと関連すると思うんですが、実は八代衆と球磨衆は戦場で轡(くつわ)を並べたことが無く、合同で作戦行動を起こした記述は、豊福奪還の際に派兵した一回のみでした。

大口城の在番も交代で、球磨衆と八代衆のメンツが被ったことが無いとのことです。

国衆と家臣団・・・格別な確執が無かったとしても、そういう組合せでは対抗心がムクムク湧いて、互いに功を張り合うのは必然でしょう。
その中で「島津交戦派(血気盛んな若衆」と「穏健和平派(おそらく重臣クラス」が対立する構図が出た・・かなぁ~という推測^^。

推測:亡き晴広の13回忌で一人だけ剃髪した深水長智が穏健派
義陽が叔父を粛清した時に縁故のない八代衆の討手を出し、深水が球磨衆(おそらく深水の同族)から「討たれ役」を出してます。
こういう政治的なバランス感覚は「穏健派」のものじゃないかな~と^^

推測:交戦派リーダー格が赤池長任・・・・と思う

大口城在番は、もっとも島津との交戦確率が高い部署で、島津と戦になれば武功チャンスも多くなる。
赤池は「用心・堅固に」という命令を無視し、島津を挑発して敗れています(局地戦)
年齢も推定で30半ばで、叱責を受けた丸目の後任でスライド出世したので、身分相応の武功を欲している・・・
好戦的な若衆たちが煽って祭り上げる指揮官としては、うってつけの人材です。

華やかな戦歴記述とは裏腹に、相良関連の記録から突然に姿が消えるため没年不詳の赤池長任。
交戦派だったとすれば、島津に降伏した相良家中で失脚し、表舞台から完全に弾き出された・・と妄想してみた^^

家紋・相良ロン様作成、相良家紋ロゴ

穏健派と交戦派がいた・・・という推測で行くと「義陽の行動の謎」が見えてくる。
ネタバレになるのだが、相良義陽は島津氏と『和睦⇒裏切り』を繰り返し行動に一貫性ゼロ^^;
ちなみに島津と和睦をしながら裏切るのは常に相良氏の方です。

大河ドラマでは島津の扱いは悪役というか咬ませ犬位置というか、(´;ω;`)ウッ
一方的な側面しか出てないのですが、相良に関して言うと義陽のブレブレが大きすぎて、島津にすれば「相良氏は信じられない」のは無理もないわけです(´・д・`)

生母の家格が低い相良義陽には大きな後ろ盾はなく、政治的なイニシアチブを握るのが困難だったのではないでしょうか。
亡き父の実家である上村の叔父たちを粛清したのも、そのあたりと絡んでそうな印象を受けます。
叔父を粛清した永禄10(1567)年で義陽は数え24歳。

若年で当主になったものには必ず後見人がつきます。
親族(祖父とか叔父)が実力者だと、ある意味でパワーバランスがとれるけど、老臣や親族らの政治力がドングリの背比べだと家中の方針が定まらずブレまくる ( ̄ω ̄A;アセアセ

武家の男子が家督を譲られるのは二十歳前後・・・でもパパは現役で「息子が若年」を理由に実権は放しません^^;
大友氏でも義鑑が23くらいになるまで、パパや叔父さんに後見されてました。
何が言いたいかっていうと、二十代前半から半ばが『実権を他の人に握られてた当主』が独り立ちする御年頃♪って事です。
数え24で豊福城も奪還するという実績を掴んだ義陽は、謀反歴のある叔父たちは不要になったんです。

が、結局のところ叔父たちを粛清しても、義陽自身が家中の政治主導権を握れなかったのでしょう。
対島津外交はブレたままで、義陽自身の命運も尽きてしまいます。

さて、義陽の裏切りからパタパタと~ドミノ倒しの最後一枚で飫肥城を失った島津の怒りの矛先は、大口城に向かった。
そして、そのための橋頭保として、相良家と同盟(被官化)していた菱刈家を狙うのだが、それは・またの話 by^-^sio

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田尻家文書3_大友親宗知行預ケ状

原文
読み下し(てるつもり)
超意訳

(折封上書)
「田尻左衛門大夫殿        親宗」
(異筆)
「文明十六年九月廿七日加領四十町     左衛門大夫田尻恒種」


(以下本文)
蒲船津百町之事、今程無足事候之間、少候へとも、為代所、先以、東久米四十町事、預進之候、可有知行候、恐々謹言
蒲船津百町の事、今ほど無足事候の間、少なく候(そうら)へとも、代所の為、先(ま)ず 以(もっ)て、東久米四十町、これ預進(よしん)候、領知有る可(べ)く候、恐々謹言

九月廿七日       親宗(花押)
田尻左衛門大夫殿




蒲船津---柳川市三橋町蒲船津
東久米---特定出来ず(無念・・)
無足(むそく)---知行の料足 (りょうそく) のない意

てことを踏まえて恒例の超意訳~~~
蒲船津百町の事だけど・・・・いま、ちょっと足りない!Σ(´Д`;)はぅ
少ないけど、ひとまず代わりって事で、東久米四十町預けます!!恐々謹言なぅ!!

****分析****
これ、田尻家文書2にあった(異筆)と連動してるみたいです。
だから出した人物は筑後詰郡代の田原親宗(←推定)
受け取った人物は田尻恒種(←推定)になるみたい。
年度不明だから、あくまでも推定です。

田尻家文書2の(異筆:文明十六年三月廿四日加領百町)とあるので、
どうも百町あげるって約束してたってことなんでしょう。
ところが肝心の知行が足りず、代替え地としての東久米40町のようです。
100より足りないので「少候へとも」って書いてる訳です。

ところで、この異筆の安堵関係ですが、田尻家文書には収蔵されているけど、柳川市史の年表には含まれていません。
自分が編集(←図々しい前提www)だったとしても、この異筆に絡む部分は入れないと思います。
理由は二つ
 
・異筆が誰の手によるものなのか不明
・書状本文に年度がない

安堵や権利関係は年月日が明瞭でなければ、効力が発生しません。
筑後詰郡代の田原親宗の花押があっても、年度がない以上は効力発生期間が定まっておらず、この段階では単なるリップサービスなんです。

この書状が年欠でなく○○年とあれば、このまま安堵状として認定です。
が実際は、安堵に絡む内容なのに年欠・・・・
という事は、奉行衆による手続きの文書・・・書き止め文言が『依執達如件』で終わる『奉書』が無いという事で、
即ち、異筆に絡む内容に関しては正規の事務手続きが終わってないんです。


名門である大友家は、このあたりの手続きがキッチリしてて、奉書がないのに土地手続きを終わらせるような事(超法規的措置)はしません。
逆に奉書がない理由は不明です。
もしかしたら「まさかの紛失・・・il||li _| ̄|○ il||l」かもです( ̄ω ̄A;アセアセ
とにかく奉書がない以上は、安堵状としてはカウントできないんですよ~って残念な話でした^^

・・・と終わるつもりだったんだが・・・・気になる・・・・

|蒲船津|・ ̄)じぃー・・・・・・・・
津は湊(みなと)のことでしょ・・・更に船って文字がついてる・・・永正年間の時点で停泊地として機能してる?
郷土史オタのセンサーに感あり!(・∀・)ピコーーン☆

てことで再検索したら、なんと弥生時代から集落がある土地だった( ゚д゚)ンマッ!!
戦国時代にも集落の痕跡あり・・・アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
蒲船津城!
龍造寺四天王・百武志摩守の妻・圓久尼が女城主した城って、ここの事だったんだ!(@@)
(戦国初期ばっかり調べてるから、地名で気付かなかった il||li _| ̄|○ il||l)

天正年間で柳川・蒲池氏の支城だった蒲船津城・・・
てことは、やっぱ田尻氏は蒲船津100町を貰い損ねたのね,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
古くから利用されてた津(=湊・みなと)だったみたいだから、田尻氏は欲しかっただろうな~^^;

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(補足)117_木庭教心城統勝連著書状

ようやくデータ整理終わったです ( ̄ω ̄A;アセアセ

城主計助統勝と木庭隠岐入道教心は、熊本県玉名市(旧玉名郡天水町)所縁の武将・・・
という所まで突き止めて、ちょっと自力では確認できず、某氏のご協力を仰いで追加調査してもらいました。

天水町史に上記の人名が記載されてまして、確認してもらったところ出典元が龍造寺家文書だった^^;
町史アルアルですな ( ゚Д゚)y─┛~~

で、某氏様は更に調べて下さり
天水地区は山上三名字(田尻、牛島、内田)という豪族の領地で、
天水地区の中央部分(小天地区)は田尻氏の所領だった模様。

というところまで調査して下さいました (*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ

で、自分のデータと某氏さまのデータを総合した結果として、あくまでも推測ですが、

「木庭氏」というのは、田尻氏か内田氏のどちらかが、
城親賢が隈本城主として入った時に臣従or与力として従属した時に拝領した姓っぽい。

てことで田尻家文書や! アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
肥後田尻氏自体は、筑後田尻氏の庶流と言われてます。
が、系図上で別れたのが何代目からなのかは探せなかった(´・д・`)

で、筑後田尻氏が肥後に領地安堵うけてるかな~
とガーーっと田尻家文書を手繰ってみたが、ザッと見た限りは無さそう。
となると筑後田尻氏と肥後田尻氏は、戦国期の前・・・最低でも南北朝のころ位に分かれて、それぞれに動いてたんじゃないかな~と。
ただ筑後は肥後と連動した動き(特に謀反時)チョイチョイがあるんで、記録上で混同されてる可能性もなきにしもあらず^^;

実は・・・肥後田尻氏って、関東に末裔がおられるんです ( ̄ko ̄)
子孫なら系図とか由緒の伝承あるかもだな~伝手がないから聞けないけど^^;
詳細は個人情報なので、ここで書くのは控えさせてもらいます^^

で、山上三名字のうち牛島氏(天水南部から金峰山南麓あたりが領地)が肥前牛島氏庶流です。
てことで、こりは自分が本業なぅ (`・ω・´)キリッ

とはいえ肥前側からでは辿れず、肥後のほうでみっけ。
肥後文献叢書. 第3巻「新撰事蹟通考」近代デジタルライブラリでWEB公開してました^^
系図に書かれた由来よると牛島氏の祖から38代目の孫・三郎左衛門尉俊政の時に、菊池義武(義宗)の謀反に加担して討死したそうです。
で、俊政の子・彦五郎公俊は(元亀天正の頃)、城親賢隈本城主の時に城に属し、城親賢から「城姓」を拝領したらしい。

牛島彦五郎公俊は、大友義鎮に「三郎左衛門を所望」しており、どうやらパパ俊政と同じ通称を公式に名乗る事をオネダリした強調文ようです。
年度不明・12月12日に義鎮の花押もらってます。
同日に田尻善左衛門が「駿河守」の呼称を義鎮に許されてる。

どうも牛島彦五郎公俊の三郎左衛門&肥後田尻氏の駿河守の名乗り自体は、天文年間・・19年か20年からのようです。
牛島三郎左衛門や田尻駿河守とある書状の中に、小原鑑元(天文年間の肥後方分(=守護代)の名前があるから。
参照:小原鑑元のウィキペディア

てことで、城主計助統勝は、肥前牛島氏の流れを汲む牛島彦五郎公俊の可能性が大です。
某氏様~~お蔭で、かなり判りました。
忙しい中、調べて頂き本当にありがとうございますm(__)m
裏付けとるのに時間がかかって、記事にするのが遅くなって申し訳ありませんでした。
この場を借りて、改めて御礼申し上げます^-^

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極基礎・・・古文書の名称

|壁|_ ̄)コソコソ・・・・

いまさらですが、ド忘れした時に本を探すのが面倒なんで(←ぉい)
恥を忍んで記事にします・・・・|壁|_ ̄)コソコソ

古文書


これは正式な書状である堅紙(かたがみ・今のA4サイズくらい)の時の話です。
昔なんで当然・紙は横使い。
で、文字は縦書きで右から左へと書き進めます__φ(.. ) カキカキ・・・

書状の上部を「天」
同じく下部を「地」と呼びます。
本文を書いてる方が「表」
反対に裏はマンマで「裏」

で、本文の右側の余白部分を「袖」
同じく左側の余白部分を「奥」と呼称します。

本文以外の余白部分に色々やることに意味があるのです。
「袖」にサインするから「袖判」
「奥」の上の方に書くから「奥上書」とか呼ぶわけです。

で、ちょっと上級~~~
鎌倉時代、安堵状は「下文(くだしふみ)※げぶん、じゃないよ~念のため」という形式でした。
中世・・・つまるところ室町期から「外題安堵」に変化します。

それは『下位者の(-人-)☆彡オネガイ申請書』に対し、
『上位者が承認・判決などの文言・署名を申請書の袖に書きつける』ことです。

袖へのサインで文書としての効力が発生するので、『外題安堵』は安堵状そのものを指します。
要するに「簡略・簡素化」したんですな ( ゚Д゚)y─┛~~

ほんとは、もっと初めに説明することだったんですが、独学なんで基礎的な用語を後から知った・・・
なんてことがザラなんで、今頃記事にしてました^^;
内容が過去記事と被ってる部分もありますが、まとめとくと自分が調べる時に楽・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

やっぱ、本当の意味で言葉の意味を理解するって、時間かかりますネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

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相良義陽_55【粛清_後編】

≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
≪記事内ルール≫
年月日⇒⇒⇒旧暦対応
青文字⇒⇒一次史料出典
緑文字⇒⇒二次史料や補足となる部分
他の色文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
イメージ・花

永禄10(1567)年4月13日、
上村頼孝誅殺から12日後、稲富長蔵(上村頼孝の実弟)も義陽の命で殺された。

これで義陽は自身の叔父を全て殺した事になります。

稲富長蔵は、義陽の祖父・上村頼興(=上村兄弟の父)の死後、兄と共に謀反を起こし、上村頼孝と同じく帰参を許されて、八代城に住んでいました。

ちょっと判らないのは、兄が義陽に殺されたのを稲富長蔵が知ってたか?それとも知らなかったのか?です。
稲富側が無防備すぎるので、知らなかったか、それとも知ってて討手が来るのを覚悟してたのか、どっちなのか判らなかったです。

とにかく義陽の命により、稲富長蔵の宿老二人が東源兵衛、東主馬らに殺害され、
長蔵自身も八代奉行の高橋駿河、東尾張らにより殺害された。享年46。法名は「金阿弥陀仏」


稲富は、謀反前は岡本城主で、亡き上村頼興が岡本城主を謀殺して、城と地頭の地位を息子の稲富に与えた。
謀殺された岡本城主は上村を恨み「上村家の断絶」を予言して死んだが、
その呪詛の言葉通りに上村家の男系は絶えることとなった。(家名だけは残った)


家紋・相良 ロン様作成、相良家紋ロゴ

ここから先は私見なので、興味ない方はスルーで。
自分は上村兄弟は、上村一族の勢力が大きくなるのを嫌った「別の勢力」に、陰謀を仕掛けられたんじゃないかと勘繰ってます。
謀反を起こしたのはホントなので、謀反起こすように仕向けられた・・・?
というのも上村兄弟の過去の謀反は、兄弟が実際に行動を起こす前に、噂(三郡雑説)の方が先行してたんです。
(噂があったの出典は八代日記で、噂の中身(三郡雑説)は後世のものですが、現在の処、中身の方は出典不明です)

それだけで勘ぐるのか・・・というわけじゃなくて、
実はネタバレになるんだが、戦国期から江戸初期の相良氏は当主の代替わりのたびに、政変(謀反含む)が起きてるんです。

16・相良義滋(家督争いの末、庶長子ながら当主の座ゲッツ)
17・相良晴広(義滋に協力することを条件に上村頼興が息子を養子に捻じ込んだ)

16代・17代当主の元で権勢を振るったのが上村頼興と一族。
18・相良義陽
上村頼興死後、実叔父である上村三兄弟を誅殺(一人は謀反時に討たれた)
権勢を掴むのが、晴広の13回忌(=兄弟を誅殺した年)に剃髪した深水長智と一族。

19・相良忠房
義陽死後に、義陽の弟・相良頼貞が家督を狙うが成功し難いのを悟り出奔後不明。
20・相良頼房
深水一族をo( ̄Д ̄θ★ケリッ! と蹴散らし、犬童一族が権勢を振るう
この時は石田三成・加藤清正を巻き込み吟味にまで発展した。
21・相良頼寛
相良宗家自体が、権勢を振るった犬童一族を潰した。

揉めまくってますな ( ゚Д゚)y─┛~~
記録では、先の当主で権勢を振るった実力者が「専横」「贅沢」「勝手」「祟られた」とかとか書かれるが、
記録を書いた側(時の権力者)にとって都合の悪いことが書かれることはない。

従って、歴代当主の政変(&謀反)のたびに、ものすご~~くキナ臭い匂いだけは充満してるんだが、
匂いの元が判らないという超歯切れの悪い状態です^^;

穿った見方をすれば、相良宗家が家中掌握のために、あえて家臣同士の主導権争いを見て見ぬふりをしてたんじゃないか・・・(あるいは誘導した)とまで疑える。
とにかく、こういうモヤモヤした状態で代を重ねていますので、
江戸期の人吉相良藩もデカい騒動が四つもありまして、よく幕末まで保ったなぁ~ ( ̄ω ̄A;アセアセ
とにかく史料が沈黙している以上は、このモヤモヤは永遠に晴れることなく、歴史の奥深い底に今後も沈んだままでしょう。

相良義陽は、叔父たちを粛清したことで、漸く家中を掌握できたのかもしれません。
が、絶頂期と失墜は常にカードの裏表です。
島津氏との闘いが、相良義陽を追いつめて行くことに成るのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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