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深堀家文書46_豊臣秀吉朱印状

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あぁっ!また謎のアイテムが出てる!!Σ(´▽`;) 
*****************************************
原文
読み下し(てるつもり)

両種二荷并鍮鉐鉢二到来、悦思食候、
両種 二荷(にか)併(あわ)せて鍮鉐(ちょうせき)二鉢到来、悦び思い食(しく)候

委細薬増可申候也、
委細、薬(施薬院全宗)増(増田長盛)申し可(べ)く候也(そうろうなり)

七月廿一日 ←豊臣秀吉朱印

           鍋嶋左馬助(深堀純賢)とのへ
*********************************************

両種・・・何か二種類・・・なんだけど~何と何だよ!!!(# ゚Д゚)・;'.
献上品として定番なものらしく、一荷・両種を献上って感じでポンポンでます。
定番すぎて、何と何かワカねぇえええええええええ
単位からいって和紙や反物や太刀じゃないのだけは、判るけど・・・(-ω-;)ウーン

ニ荷(にか)⇒単位です
まず一荷が天秤棒(てんびんぼう)の両端にかけて、一人で肩に担えるだけの荷物
で、それが×2で二荷、普通は一荷だから深堀さん奮発したっす。

鍮鉐(ちょうせき)・・・真鍮、つまり黄銅のことです。
鍮・・・・|壁|_ ̄)じぃー・・・この漢字を見ると、いろいろ思い出す・・・・ゲフゴホ

薬と増の特定は佐賀県史料集成の編集がやってくれてた~助かった!

で、深堀さんは鍋嶋姓を拝領するんですが、時期はイマイチ曖昧です^^;
でもって、奥の上じゃなくて真ん中あたりに宛名があり敬称も平仮名で「との」で目下への扱いです。
鍋島姓を貰うってことは、深堀は独立した国衆から鍋島配下(後に家臣)へとスライド化しつつあります。
そのため殿下から見たら、深堀は陪臣(家臣の家臣)的位置になるので、扱いが格下なんです。
だから秀吉は花押じゃなくて朱印で済ませてるんです^^;

こんな短い文章なのに、謎ワードで時間くった・・・il||li _| ̄|○ il||l
まだまだ知らない事だらけです ( ̄ω ̄A;アセアセ

え?超意訳?見たまんまなんだけど・・・まぁ恒例なんで
贈り物ありがと-----
詳しいことは薬と増に伝えるね!!


って、ことだけなんです il||li _| ̄|○ il||l
何を伝えたんでしょうなぁ ( ゚Д゚)y─┛~~
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テーマ : 歴史
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秘密メモ♪龍造寺家文書_119_龍造寺隆信覚書

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原文
読み下し(てるつもり)


一 薩摩衆帰宅之事
一 御質人之事
一 網田郡浦之事 付伯耆殿(顕孝)依御當介
         親賢御覚悟之事
一 (甲斐)宗運此方同意之事
一 合志(親為)方之事付
     赤星(統家)方之事

      以上        (龍造寺隆信)(花押)

(天正九年カ)

読み下しようがないでござる・・・il||li _| ̄|○ il||l
ぶっちゃけ、中身の分析の方が重要なんですが、自分のリサーチが天正年間まで追い付いてないので細部が判りません(´・д・`)

とりあえずアップだけして、判り次第再編集しますm(__)m

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基礎1【料紙---りょうし】古文書学入門(改)

え~~先だって迷子になりかけながら佐藤進一先生の「古文書学入門(改訂版)」を購入しましたので、
当ブログでも古文書学入門(改訂)として再スタートしたく存じます。

つまるところ「オバカな管理人が覚えるまで付き合って♪」というこです(*´pq`)
改訂版ですので、前回の如く付け焼刃ではなく基礎からマッタリまいります__φ(.. ) メモメモ
基礎すぎて先生の本にはないので、ウィキペディアやコトバンクから御知恵を拝借しております__φ(.. ) メモメモ

ということで紙の話からです。
文書を書くのに使う紙・・・・つまり和紙ですが、料紙(りょうし)と呼ばれていました^-^
料紙に使う和紙の種類を大別して斐紙(雁皮紙)と総称します。
木簡だった日本の文字文化が文書として残すようになるのは、中国から唐紙が輸入され、やがて国産化し流通するようになってからです。
これが平安期の頃なんだから、ある意味凄い^^;
日本って何でも「輸入すると、すぐ国産化」して「量産体制に入る」のよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
時代が下ると文書も公文書用、写経用、懐紙用、と目的別に種類が増え、和紙文化は襖紙や障子紙へと発達していき、現代では海外の美術工芸品修復に和紙が利用されほどのレベルに至るわけです(=^・ω・^=)v ブイ

さて武家の話です。
上質の料紙(=和紙)は貴重品で、公家に限らず武家社会でも贈答品として喜ばれておりました__φ(.. ) メモメモ
贈答の場合は2パターンあり、一束一本or一束一巻という形式です。
ちょっと管理人の脳みそ容量が・・・(;´Д`)

一束一本の場合
扇一本と杉原紙(壇紙・美濃紙・越前紙・甲斐田紙・修善寺紙)一束(10帖)

一束一巻の場合
は、緞子(小袖・絹布・縮緬・葛布)を一巻
※緞子⇒どんす、製品化前の生地の原反・・・反物(たんもの)です。

で、プレゼンですので日本の伝統的贈答用おリボン・・・水引で結びますキュキュっと~
一束(10帖)って単位ですが、贈る紙の厚さにより変化するそうで480枚か500枚だったそうな^^

武家の台頭とともに和紙の原産地を武家が握ることになるので、上質和紙である杉原紙は武家が独占します。
上位者が下位者に発行する公文書も杉原紙でした。

明治以降、杉原紙は贈答する慣習があった武家社会が無くなったために廃れ、現在流通している和紙の製法は美濃紙です。
杉原紙は伝統工芸、無形文化財として残っています。

日本の紙文化、舐めてました。
これだけなのに、まとめるのに意外と時間かかった・・・il||li _| ̄|○ il||l

ということで、試験じゃないから緑と黒の太文字部分さえ覚えていれば、とりあえず用は足りますぅ~(*´∀`)ノ

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【大隅_蒲生(かもう)氏(前編)】

えっと~肝付氏のデータを見てると、蒲生氏が気になってしゃーないんで、我儘言ってデータを譲って頂きました^^;

これまで、ずっとGAMOUと読んでいたんですが、大隅の蒲生さんの読みはKAMOUだったのをデータで知った^^;
先入観って怖い・・・il||li _| ̄|○ il||l

本藩人物誌より
(黒太文字が意訳・補足・要旨、緑文字は原文ママ)
藤原鎌足から12代目、藤原教清の子・舜清を祖とする。
藤原教清は宇佐八幡の留守職で豊後に下向し大宮司の婿となって一子を儲ける。
それが上総介舜清で号は真光坊。


保安4(1123)大隅ニ下向、垂水(たるみ)ニ居ル。其ノ後、蒲生及ビ吉田ヲ領す。
宇佐八幡宮ヲ蒲生ニ勧請(かんじょう)シ代々蒲生ヲ領ス


ふむふむ・・・φ(.. ) メモメモ
蒲生氏は宇佐八幡系武家か~となると氏神は分祀した【蒲生八幡神社】になるわけだ。

(島津)忠久公御下向、(蒲生)清直ヨリ六代美濃守清寛ハ元久公 久豊公ノ御家老ニテ候。
忠久公というのは島津氏初代のことで、九州へ下向したのは1186年のこと。
その時の当主が蒲生氏3代目清直だったのかな?(@@)
つまり大隅蒲生氏は島津氏より前に大隅の地に土着していたんです。
で、カウントが変なんで判りづらいけど清寛は蒲生氏11代目で、元久公 (←兄)久豊公(←弟)とは島津氏奥州家っす。

ふむふむ・・・蒲生氏は後に島津宗家の座を独占する奥州家の覇業を支えていたわけか・・・
島津目線で蒲生氏が島津の幕下になった・・・
と言えば聞こえは良いが、宗家の座を巡る争いの中において、島津奥州家は先に土着した有力国衆である蒲生氏の力を必要としてたんでしょう。

応永八(1401)年、元久公 山北ニ御出張ノ節 別テ抽 軍忠候に付為、賞谷山和田村三十町被宛行候
なはは~一部判んなくって監修様に教えてもらった~
でもって、やっぱ地名に読点ないし・・・il||li _| ̄|○ il||l
肥前関連だと句読点や文節に迷うことないから、やっぱ島津関連に読みなれてないからなんだろうなぁ^^;

とにかく奥州家の島津元久公が御出張・・出陣したときに【別して抽(ぬき)んでた軍忠】があったらしい。
賞・・・恩賞として谷山と和田と併せて三十町が安堵されたそうな。
ふーむ、、、本貫地の蒲生が姶良(あいら)市で、恩賞で与えられたのが鹿児島市だから10km以上離れてるな・・・。

えっと~本藩人物誌では時系列の流れが途切れてます~
補足で元久公が1411年8月6日に陣中で病没して家督争いになった
応永二十(1413)年十二月上旬 菱刈凶徒為御誅伐 久豊公御発向被成候処 
其の御跡に伊集院頼久 鹿児島の本城(清水城ノ事)に寄り来り候由相聞得


え~っと、久豊公の頃も逆らったんですね菱刈さん^^;
で久豊公が討伐のために本城を留守した間に伊集院頼久が寄り来り
って端折って書くと何やら楽しそうな表現ですが、実は留守を良い事に城を奪っちゃったのさーーーー( ゚д゚)ンマッ!!

伊集院頼久----島津氏一族伊集院氏7代目、妹が亡き元久に嫁いでいたので久豊公から見て義兄弟にあたります。
久豊公と実兄の元久公は不仲だったんですってネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

伊集院頼久は病床の元久公から『家督はソチの息子に~』って遺言を受けたと主張してました。
後継者レースから外れた久豊公は、伊集院から葬儀の真っ最中に亡き元久公の位牌を強奪し自分が葬儀強硬して奥州家当主となったそうです。
さすが、ドン久豊公~キャラが立っておりますな ( ゚Д゚)y─┛~~

(落城の知らせを聞いた⇒)久豊公 御憤りの余り御一騎掛け遊被候処に
ありゃ、よほどブチ切れたのね~大将が一人で飛び出したとな^^;

一話で室町時代まで終わらせたかったけど、本藩人物誌の記述が面白くて楽しく編集してたら一話で収まらんかった(爆
また、時間あるときに続きやります~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

激怒のあまり立場を忘れて飛びだした奥州家ドン・久豊公・・・それは・またの話 by^-^sio

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【喜入肝付氏__肝付弾正忠兼寛 :袈裟寿丸、三郎五郎。加治木弾正という】

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肝付越前守兼演⇒肝付弾正忠兼盛⇒ココ記事の人

永禄元年生まれ。母は忠良日新斎公御女

天正3年、3月16日犬追物射手、三郎五郎、4疋射る。17日にまた射手、5疋射る。4月21日また射手也。
天正6年、大友日州に入り、義久公御発向御供、11月11日敵敗北のとき軍労。
同8年10月15日、肥後矢崎城攻めのとき、敵数多討ち取り候。
同9年5月15日、諸将と組み、肥後室(肥後宝とも)河内を攻め抜く。
同10年8月18日、水俣御陣御供。
同11年9月、肥後八代へ罷り立ち、肥後日比良を攻め抜く。10月、諸将と組んで堅志田を侵す。同11月、花山城を築き各々帰国。
同12年3月、肥前有馬へ罷り渡り 戦功あり。同年6月上洛。9月29日、加治木へ下着(日記より。何の故あって上洛するか可疑)。
同13年8月13日、諸将と組んで肥後阿蘇を破り、同閏8月13日、堅志田城攻め、上井覚兼を先登として内城を攻め落とす。
今夜、覚兼と内城に罷り在り候。上下鎧の袖を片敷き一夜を明かし候なり。
同14年1月13日、諸将と組んで日州高森を攻め落とす。同年7月、諸将と組んで岩屋城を攻め落とす。同年10月、豊後入りの御供於いて諸所にて軍労。
同15年、豊後引陣にて軍労。

同18年3月3日卒。享年33。利翁守益庵主。
兼寛領高 15,084石。城9つ。領地:加治木・溝辺(地頭は家臣・新納三河守久林なり)・踊・日当山・三代堂{三台堂}。

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相良義陽_63【島津咆哮8~飛田瀬・羽作瀬の戦い・後編】

出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(※記事内緑文字は菱刈史より引用、句読点、振り仮名は管理人の方で頑張ります(`・ω・´)キリッ)
赤や他の色文字は管理人の推測です。
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突然ですが皆さん、お住まいの自治体発行の「市政だより」とか「○○県民だより」的なものを読まれてますか?
日常に関わることが書かれているので、必要な部分を読む人は少なくないことと思います。
でも公共事業の記録となると、全部を目を通すって仕事じゃないと中々ないって・・・自分だけ?^^;

とにかく平成現代では地名として残っていない飛田瀬・羽作瀬の位置特定するのに、伊佐市の水道関連の公共事業記録のお世話になりました。
てか、PDFで十数ページの中から飛田と羽作も文字を捜すの結構大変だったりしました~(´Д`;) 
(ただし振り仮名がないので、地名として残ってない現在、読み方だけは判らんかった^^;)
飛田瀬(旧花北村)・羽作瀬(旧下牛村)の位置データは、伊佐市菱刈下手!
※村の名前は菱刈史に記載されていた位置データですが、市町村合併の記録の方からもHITしなかったっす(´Д`;) 

瀬とあるので、当然のごとく川内川支流沿いで、おそらく水天神社周辺かな~と。
時期は不明ですが、この水天神社には義弘公が大口城攻めで戦勝祈願をした伝承が残ってます。
菱刈が陣していた羽月堂崎(現:伊佐市大口堂崎)と菱刈下手の川沿い迄の距離は数百mの近さ。

川内川からは幾つか支流が出てるけど、それのどっちが飛田瀬で、どっちが羽作瀬か特定できんかった^^;
たぶんだけど羽月川沿いの方が、羽作瀬なんじゃなかろうか。(羽繋がりと云う単純な発想です^^;)

う~失敗したな~
今回、グーグル・ストリートビューで平成のスッコーーンと見晴らし全開の景色見ちゃってから、戦場のイメージがフリーズしちゃったんです~~~( ̄ω ̄A;アセアセ


もう考えるのやめて『菱刈史』本文に戻ります(`・ω・´)キリッ
えっと~川上サァが怪我しちゃって、その怪我が元で死亡したんだよ~(´;ω;`)ウッってとこからです。
此(この)戦い(=飛田瀬羽作瀬の戦)義弘公は漸く身を以て脱(の)がれた。
でしょうね^^;
200余人で3000人に挑んで勝ってたら、この戦の知名度が島津ファンの間で高いはずですもんネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

次(つい)で義弘公じゃ自ら殿(しんがり)となりて、下牛村羽作瀬を渡られた時に、菱刈軍急に追い迫り、遠矢下野守、財部傳内、入来筑後守、及び長野仲左衛門等、死力を尽くして防ぎ戦ふた。
先陣で先駆けするだけでなく、殿(しんがり)も務める一軍の将・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

義弘公、軍騎突き入らんとせらるるも菱刈の兵 公を知り、
はぅっ!( Д )  ゚  ゚
殿に義弘公がいるのが、バレた!!
義弘公の兜や甲冑を見覚えている兵がいたんでしょうな ( ゚Д゚)y─┛~~

(菱刈の)三十余人が群がり来って義弘公を包囲せんとしたので、
公、馬を要地に立て忽(たちま)ち数人を射殺された。

要するに義弘公勢は、退却中ばで菱刈勢に追い付かれて、乱戦になったらしい。
それと念のため、この場合の射殺は、銃じゃなく弓の方だと思います^^
とにかく囲い込まれて押し包まれたら、数で上回る菱刈勢に島津側の体力が尽きてしまう。

伊集院右衛門兵衛尉久治、義弘公の軍利無きを聞き、衆を駆け馬を走らせて自ら先登として敵に突き入る。
・・・・なんか、この後に続く記述も凄い恰好良く書いてるんだが、だからといって形勢が有利になったわけじゃないらしい。
義弘公を援けに来た、伊集院久治を援ける為に、馬越の軽卒数十人が駆け付けて伊集院久治を助けたそうです。

って、伊集院を助けるのは良いが、本来の救援目的の義弘公は?ヽ(。_゜)ノ ?

これって・・・島津側は兵力の逐次投入してるんだ。
義弘公を助けようとした為とはいえ、かなりグダグダな戦況だなぁ。

(退却戦の)軍功が最も衆に抜きんでていた・・として名前があげられているのが、有川雅樂助貞真(島津家老・伊勢貞昌の父)と伊東右衛門尉の二名です。

菱刈軍、大いに狼狽して退き、義弘公 曽木城に入った
貴久公、義久公は軍を出し、半途にして【敵の敗れたるを聞き】、軍を返した。
下線と【 】は自分です。
ええ、さっぱり状況が判りませんです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
時間の経過が書かれていないので、島津貴久と義久が出陣したタイミングが判らない。
てか義弘公は不利だって退却して、その最中に乱戦になったのに「敵が敗れた」って表現になるのが謎^^;
貴久と義久本軍の出撃情報をキャッチした菱刈勢が(大いに狼狽して)退却したって言うなら判るけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

とにかく、詳細不明ながら義弘公が敢て少数で挑んでいるために「釣り野伏せ」を仕掛けようとしたって説があるそうです。
考えると、またフリーズするから、これ以上は触れるのやめよう~(-ω-;)

退却戦のさなか、追い付いて来た菱刈勢と交戦した島津勢のうち、先述した長野仲左衛門は戦死したらしい。
菱刈史編者は、羽作瀬の上の丘にある通称、五本松に長野殿墓とある石碑が建っており、それが長野仲左衛門の墓じゃないかと推測を書いている。
伊佐市菱刈下手字五本松・・・地目が田になってるため地図上の住居表示がされておらず、位置は特定できませんでした。
大正期の羽月村長が、墓に香花を手向けていたそうで、それが単に同姓の所縁なのか、長野仲左衛門の子孫だからなのかまでは書かれていませんでした。

相良側史料、求麻外史には豊永大蔵が尾撃(びげき=追い討ち)して、長野仲左衛門を討ったとあるそうです。
って、菱刈史編者が書いてるんで、同じく近代デジタルライブラリで求麻外史を見たんだが、どこに書いてるのか探せなかった^^;

違う話だと、大口城からは城番の赤池長任が、別府、内田らを出撃させて、島津義弘を撃退したってことになってて、負傷した義弘公を逃がすために、島津家老の川上左近将監久朗が身代わりになったともある。
(※菱刈史だと別府と内田は菱刈の武将として記述されています。)
更に違う話だと、義弘公の弟・歳久も救援に駆け付けたとあるが、とにかく島津勢が負けたことには違いない。

思うに、大口(現在の伊佐市)は最終的には島津領となり鹿児島県に編入されているために、地元伝承が負けたはずの島津贔屓になってるらしいのがヒシヒシ伝わりまして、それで「その時、何があったか」って客観的な事実が非常に判り辛いんです^^;

菱刈史では、戦況に直接関係ない、負けてるはずの島津勢を褒める言葉がポンポンでて【敵が敗れた】で記述を〆てます。
退却戦で敵の追撃を逃れるの成功したのは良いとしても、元々仕掛けた戦に勝ったわけじゃないんだから「敵が敗れた」ことにはならないじゃないですか^^;
大口という土地にとって島津氏は、鹿児島県の「うちの殿さま」だから、どうしても【島津が負けた】とストレートに書きづらかったのでしょう。
どっかの大本営発表のように、勝ったのか負けたのか読み取り辛い玉虫色の記述にしてるところが、逆に面白いです(*´pq`)プププ
ということで、いろいろ突っ込みどころがある戦いが終わったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_62【島津咆哮7~飛田瀬・羽田瀬の戦い・中編】

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えっと~リアルが忙しくて落ち着いて考えられないのもあるんだけど、それ以前にスランプ煮詰まりでした(´・д・`)
島津の菱刈退治の局地戦の一つに過ぎないのだから、拘らずに飛ばせば済むんだが(-ω-;)ウーン
つまり義弘公が何で僅か200余人で3000の菱刈勢に挑んだのか、イメージできなくて煮詰まってたんです。

そもそも島津側の記録では、この戦いは大口城攻略の一つとして書かれていました。
だから200余人で城攻め?っと、その時から疑問に感じてはいたんです。

菱刈史によって、城攻めではなく野外決戦だったのが判ったのは良いが、判ったら判ったで新たな謎が増えました。
戦場になった飛田瀬・羽田瀬は、少なくとも平成の現代では遮蔽物の殆どない見晴らしの良い場所なんです。
囲まれたらアウトで殲滅されます。
だから義弘公も形勢不利となったと見るや、すぐ退却戦に切り替えてるんです。
ただし、戦国当時なら川原に葦とかあって、隠れながら近づけたのかもしれません。
それであれば奇襲のために、あえて少数で挑むの「有り」でしょう。
いずれにせよ、兵力差がありすぎるので、やはり囲まれてしまったらヤバい事に変わりはないと思います。

菱刈史には戦いの戦闘開始から終わりまで、時間の経過が書かれていません。

菱刈史によると、実は貴久公と義久公も出陣した・・・とあるので、もしかしたら「釣り野伏せ(囮作戦)」だったかもしれません。
義久公の反対を押し切って出陣した義弘公が突出しすぎて、釣り野伏せが期待したほどの効果を得られなかった・・・というなら有り得ます。
となると、これは致命的・・・とまでは行かないけれど、ちょっと・・・かなり失敗。

江戸期命名:作戦コードネーム《釣り野伏せ》は、囮作戦だけに同じ相手には2度と使えないからです。
島津側の人的損耗(老中:川上左近将監久朗の死亡)を考えると、ちょっとどころじゃない失敗・・・il||li _| ̄|○ il||l

自分が菱刈勢が遊撃部隊と推測してたのは、この戦いで菱刈勢3000が野外に陣していた記述を読んだからです。
繰り返しますが大口城には相良の在番兵が1000名、常時詰めています。
菱刈勢は自身の勢力を削って大口城の首尾に回す必要はない。
丸々「戦力」として、勝手知ったる地元を自由に動き回れるんです。

菱刈の戦意を砕くには「彼らの寄る辺である大口城」を攻略するのが一番手っ取り早い。
ところが大口攻略するには、ジモティワールドをウロウロしてる菱刈の残党(というには、かなり纏まった勢力)が・・・・超邪魔。
菱刈勢を少しでも削らなきゃならない。
でもって、義弘公には日向・真幸院の守りがあるから、あんまり大隅にばかり居続ける事は出来ない。
義弘公に焦りがあったのかもしれません。

飛田瀬、羽田瀬、共に平成の現代では地名として残ってはいません。
瀬とあるので、川は蛇行部分ではなく直線です。
早瀬か荒瀬か・・・いずれにしても、場所によっては川底が見えるくらいの深さだった所もあったでしょう。

雨の日か晴れていたか、天気すら記録されていない戦いの中で、川は両軍の争いで血に染まった。
なんとなく、背景らしきものが見えたところで、それは・またの話 by^-^sio

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相良義陽_62【島津咆哮6~飛田瀬・羽作瀬の戦い・前編】

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え~~っと、ここまでの粗筋~
菱刈討伐のために1万5千の本軍で一気に菱刈エリアを制圧した島津氏でしたが、肝心の菱刈勢は大口城に逃げ込んで、相良氏の保護下に入った。
菱刈は相良から更に援兵300もらって、島津に対し反撃に出始める。
制圧した元菱刈の城・市山城が度々ジモティ菱刈に襲撃を受けるため、島津は親指武蔵の異名をとる猛将:新納忠元を市山城へ配したのだった。

*****************************************

永禄十一(1568)年戊辰正月二十日 大口の菱刈軍三千計(ばか)り、羽月堂崎(現:伊佐市大口堂崎)に陣して居た。
やっぱ菱刈勢は地の利を生かした遊撃部隊じゃないかな~。
3000は結構な数ですから、城を捨てて大口に結集した菱刈勢でしょう。
大口城自体は、元々相良氏が1000名の在番衆(球磨衆と八代衆の交代制)が詰めてたので、菱刈勢は守備のために兵力を残存しておく必要がないんです。

(島津)義弘公、兵二百余人を率いて馬越(まごし)城を出で之を■たれたが義久公之を制せられたが聞き入れられぬ、
■が読み取れなかったんですが、前後の文から察するに義弘公ってば、兵200で3000の菱刈に挑んだらしい^^;
長男の義久が止めたのに言う事を聞かない猛将次男です^^;

菱刈氏の将、別府安芸守、岩崎六郎兵衛、内田傳右衛門、迅速に衆を■ひて挑み戦ふので、義弘公の軍 隊伍整わず、
そりゃそうだ。
3000VS200で、単純にぶつかるなんて無茶すぎる^^;
なんか作戦でもあるのかな~と見てるんだけど、そうでもなさそう ( ̄ω ̄A;アセアセ

且(か)つ其の衆寡の勢いを察し、菱刈軍 勝ちに乗じて急に追い迫った。

なんか・・・展開がヤバくね? アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

義弘公、其の利なきを見て、且つ戦い、且つ退くを、菱刈勢の追撃■怠であった。
ぁう~~、大正時代の旧漢字と印刷の荒さで判読不能文字が・・・ぢぐじょぅ~~
とにかく義弘公は不利と見て(初めから無理だったと思うんだが)退却し始めたみたいです。
いきなり逃げると逆にヤバいんです、兵が恐怖にかられてパニクるから。
だから戦いつつ退くんだけど、どうも菱刈の追撃が緩慢?緩かったらしい。

川上左近将監久朗(かわかみ さこんしょうげん ひさあき)飛田瀬に還して安芸守と戦う
義弘公、弓を取って別府(=安芸守)を射殺さる。


あぁっ!川上久朗~~'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`

久朗、勇を振って自ら数人を斬り、身に十七創を受け馬越に帰り、傷癒えずして二月三日に死んだ。

ぐぁあああああああああああああああああああああ!!!
勿体ねぇえええええええええええ!!!
こ・・・こんな処で死なせちゃうなんて~~~~~~~~il||li _| ̄|○ il||l

川上左近将監久朗・・・若干17歳で島津家老にして谷山地頭に抜擢された知勇兼備の武将、享年32歳の若さで死亡。
彼の墓は島津氏の菩提寺である福昌寺 (鹿児島市)に建てられているのだが、それは・またの話 by^-^sio

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龍造寺家文書_149_城親賢起請文

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原文
読み下し(てるつもり)

○前書ヲ闕クモ、第130号文書ヲ承クルモノ、如シ
 梵天帝釈四大天王、賢窂地神、稲荷、祗蘭賀茂、春日大明神、

梵天帝釈四大天王、堅牢地神(けんろうちしん・大地を司る)、稲荷、祗蘭賀茂(大山祇神社・日本総鎮守)、春日大明神

殊者阿蘇大明神、藤崎八幡大菩薩、松尾大明神、
殊(こと=他)者(は) 阿蘇大明神(肥後国一宮)、藤崎八幡大菩薩(千栗八幡宮=肥前国一宮)、松尾大明神(鎮守)、

天満自在天神、惣而日本国中六十余州大小神祇冥道、神罰冥罰至身上可罷蒙者也、仍起請文如件、
天満自在天神(天神様です)、総而(そうじ)して日本国中六十余州大小の神様、身上(=自分の身)に神罰冥罰至り罷(まか)り蒙(こうむ)る可(べ)く者也、仍(よっ)て起請文 件(くだん)の如(ごと)し 

天正九年辛巳三月十七日           越前守親賢(花押)
龍造寺山城守殿←隆信
龍造寺民部大輔殿←政家

**********************************************************

起請文の何がメンドクサイって、この最後の神様パレードです^^;
原文は段落を分けてないで、ダーーーっと書き連ねてますが、こちらのほうで判りやすいように分けました。

一行目・・・日本全国の神様
二行目・・・それぞれの国の一宮で肥後国一宮は阿蘇神社、肥前国一宮は藤崎八幡=三養基郡にある千栗八幡宮。
で、その後に続く松尾大明神が城本人が大事にしてる御当地鎮守です。

このように起請文は日本国中の神様、起請する側とされる側の国の一宮(国の総鎮守)、起請する本人が大事にしてる御当地鎮守にと誓うわけです。
だから面倒ですが神様パレード(神文部分)を丹念に拾うと、武将が外護してた御当地鎮守が判るんです^^/
てことで自分も何処が武将にとっての御当地鎮守なのかは、必ず確認してます^-^

実は・・・・肥前国では川上社と千栗八幡宮が「一宮争い」してまして・・( ̄ko ̄)
で、江戸期に裁判?争論になったらしいんですが、まぁ結論を出さずに「大人の対応」で落ち着いたらしい^^;

どうも武将たちの起請文を見てると、戦国当時の認識では「千栗八幡宮が肥前国一宮」のようなんです。
ただ時の権力者が自己都合で川上社を一宮に格上げすべくプッシュしてたんで、歴史的にややこしいことに^^;
このあたり神社と武将の関係性は、非常に興味深いところです。

宛名は隆信と息子の政家ですね。
でも条件の中で「隆信に尽くす」とあるので、やはり実権は隆信にあったのでしょう。

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龍造寺家文書_130_某(城親賢カ)起請文(断簡)

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番号は飛びますが 龍造寺家文書_117_木庭教心城統勝連著書状(折紙) の関連です。
(城親賢カ)とあるのは自分じゃなくて佐賀県史料集成で入れてます。
でもって、また途中で文書が切れてるらしい^^;

原文
読み下し(てるつもり)

一薩摩衆帰宅之儀、預御入魂候、得其意候、必不可有緩事
一、薩摩衆帰宅の儀、預け御入魂候、其の意(い) 得(え)候、必ず緩む事 有(あ)る可(べ)から不(ず)候、

一質人可差出之由候、即雖可申付候、俄之儀ニ候之条、以時分可進入事、
一質人 差出す可(べ)く之(これ)由(よし)候、即(すなわち)申し付く可(べ)く雖(いえど)も候、俄(にわ)か之(の)儀ニ候之条、時分(じぶん)以(もっ)て進じ入り可(べ)く候、

一對隆信盡未来際不可有別心事、
隆信に対(對・たい)して未来尽(盡・つ)くす際(さい)して別心(べっしん)有(あ)る可(べ)から不(ず)事、

右条々於有偽者、
右条々に於いて偽(にせ)有(あ)ら者(ば)、
○以下神文ヲ欠クモ、第一四九号文書ニ続クモノ、如シ

**********************************************************
うーん、始めの一行目が状況としてイマイチ・・・読み下す(だけ)なら問題ないんですけど・・・
研究の方が追い付いてないので、ここは現段階においての意訳保留します^^;

二行目~~まず前段階として、どうも隆信がゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.「とっと人質を差し出せ~」と圧力かけてたようです^^;
それを受けて城親賢の返事というか起請したのが二行目になります。
てことで二行目を超意訳すると
人質を出せって話、即ち・・・速攻でって言われたけど、とにかく俄(にわ)か・・・急な事で~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
時分(じぶん)・・・頃合い見てやります~~~(`・ω・´)キリッ


・・・・頃合いって何時だよwwwこいつ舐めてんのか?
と、突っ込みたくなるが、城親賢の方でも人選とか人選とか人選とかで、アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタなのは本音なのでしょう。
これ以上の圧力回避のために起請文の中に盛り込んだんだと思います。(研究が追い付いてないから違ったらゴメン^^;)

三行目は・・・まぁ神文(しんもん・・・起請文)を書くときの定型文みたいなものです。
起請するのに、時と場合によってはダメかも~~なんて正直に書くアホはいません。
てことで三行目を超意訳すると、
未来永劫、浮気なんてないわ、隆信に尽くします (* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪
だから、この手の文節が来たら、その前までが重要案件という事です。

で、右条々(みぎじょうじょう)・・・ここまで書いた事に、
偽(にせ)有らば・・・神様に誓ってるから嘘ついたらハリセンボンなわけです^^
後半が切れてるけど、この書き方は起請の時のスタイルを踏んでます^-^

ちょっと気になるのが『隆信』って限定してることです。
もう政家が家督を継いでるころですから、隆信に限定しちゃうと政家相手にも起請が必要になります。
宛名を連盟にしてても『起請の有効期間は隆信存命中』になる。

もっとも、安堵や相続などの権利関係も当主が代替わりすれば新当主の名で再交付されます。
起請の方も新当主に対し再提出するので、あんま神経質にならなくても良いのかも。

いま深堀とか田尻とか、同時進行で読み下し開始してるので、年代が追い付いてくれば諸情勢が明瞭になってくる・・・はず^^;
PC前で検索討死(寝落ち)しない程度に頑張ります,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

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蔦屋へ行こう!~古文書学入門書・改定版~(*σ´ェ`)σゲッツ

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前回は時間があまりなくて、うろうろ・・・もとい、ゆっくりできなかったのですが、今回はジックリ~~~

で、前回、迷って買うのを見合わせた佐藤進一先生の「古文書学入門」改訂

・・・・・・・中古本(2000円以内)があったんだ・・・・・・
勢いで定価(\3564)で買ってしまった・・・il||li _| ̄|○ il||l

まぁ、いいです。
史料を購入したと思えば格安です(←財布の痛手を脳内補正で、必死に立て直しちゅう)

蔦屋~~~福岡藩の分限帳が売ってた!!!( ゚д゚)ンマッ!!
思わず衝動買いしそうになったが「(時系列的に)専門外」の三文字を思い起こして踏みとどまった^^;

寛政重修諸家譜まで売って・・・・ぇえ!(゚ロ゚屮)屮
と思ったら別巻の索引のみだった・・・危ない危ない ( ̄ω ̄A;アセアセ

とにかく、蔦屋キャパが ゴシゴシ(-_\)(/_-)三( ゚Д゚) ス、スゲー!
地元の図書館にだってないのに~~~~
出版社が潰れてさえなければ、殆ど取り寄せできそう(←但し定価www)
古書で、どうしてもない時は、ここ(蔦屋)に駆け込むのも手かも・・・|壁|_ ̄)じぃー・・・定価になるけど(←まだ言ってる)

佐藤先生の古文書学入門自体は、補訂前の最初のバージョンを持ってるんです。
すごい難しくて「初心者向けじゃない入門書」とまで言われてます^^;

で、古文書の読み下しに必要な基本スペック知識を叩き込むのに、とりあえず「武家様文書」だけはナントカ理解できるレベルまでガン読したんです^^;
で、その後に佐藤先生が補訂を入れた新版は、ハードルが高い旧版に比べると かなり読みやすくなってます。
新版の方は旧版でパスしてた「公式(くしき)様文書」「公家(くげ)様文書」の方も、ゆっくり読んでいきたいと思います(*´pq`)

甲冑や武具・馬具の専門書も欲しいけど、自分の中で「これだ!」ってのがなくて・・・(-ω-;)ウーン
まぁ、本との出会いも御縁ですので、急がないことにします。
自分の知識が増えていけば「何を読むべきか」も見えてきますから^^

研究以外で、自分の目下の楽しみは転寝(うたたね)です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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