龍造寺家文書120_小代親伝書状(切紙)

貴礼令拝見候、仍蒲池鎮並事、連々就悪行顕然、今度輙御成敗候、千秋万歳候、彼殘黨於佐良塩村楯籠候之處、筑州衆申談、即時討果候、被聞召付、態被仰下候、外聞之至忝候、弥可抽忠貞覚悟候、不可有緩疎候、猶石田内記助方可有御達候、可得御意候、恐々謹言

(天正九年)
六月十二日            親傳(花押)

龍造寺殿
   参貴報

(奥上書)
「                   小代伊勢守
龍造寺殿                  親傳
    参貴報                  」



原文
読み下し(てるつもり)
超意訳(*´pq`)クスッ
※文節、段落に関しては、読み下しの段階で判断しています。
※句読点は佐賀県史料集成原文ママ。

貴礼令拝見候、
貴礼令 拝見し候
御礼と令、拝見しました~

仍蒲池鎮並事、連々就悪行顕然、
仍(よっ)て蒲池鎮並の事、連々たる悪行顕然(けんぜん)に就(つ)き
蒲池鎮並の事ですが、数々の悪行が明らかでしたので、

今度輙御成敗候、千秋万歳候、
今度(このたび)輙(たやすく)御成敗候、千秋万歳(せんしゅうばんざい)候
今回 容易に成敗されたとの事、幾久しく寿ぎます♪ヽ(*´∀`)ノ

彼殘黨於佐良塩村楯籠候之處
彼(か)の残党 佐良塩村に於(お)いて楯(たて)籠もり候の処、
蒲池の残党が佐良塩村で立て籠もった時、

筑州衆申談、即時討果候、被聞召付、
筑後衆が申し談じて、即時討ち果たし候、聞こえ召しられに付き
筑後衆が申し入れて、ただちに撃滅しましたって話が、お耳に届いたと、

態被仰下候、外聞之至忝候、
態々仰せ下らせ候、外聞の至り忝(かたじけな)く候
わざわざ仰せいただきましたが、外(隆信)にまで聞こえたのは恐れ多い事と思っております( ̄ω ̄A;アセアセ

弥可抽忠貞覚悟候、不可有緩疎候、
弥(いよいよ)忠貞(ちゅうてい)抽(ちゅう)す可(べ)く覚悟し候、緩疎(かん_そ)有る不可(べからず)候
ますます忠義と貞節を出すぞって覚悟でいます!(`・ω・´)キリッ
緩(ゆる)みや疎(おろそ)かも無しです!(`・ω・´)キリッ


猶石田内記助方可有御達候、可得御意候、恐々謹言
なお石田内記助方 お達し有る可(べ)く候、御意を得る可(べ)く候、恐々謹言
なお石田内記助から報せがあるとのこと、御意に叶うようにします。恐々謹言


精魂使い果たしたんで、分析などは次回~~il||li _| ̄|○ il||l
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基礎2【封式---ふうしき】古文書学入門(改)

え~~、なかなか佐藤先生の著作本文に入れない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
てか、書状本文の様式説明にすら入ってない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

基礎編2、古文書には封があります。
手紙そのものを巻き巻きする場合と、包み紙を用いる場合とがあります。

【包み紙使用バージョン】
※手紙を包む紙の呼称---封紙,懸紙(かけがみ)

折封(おりふう)
本紙と併行に包んで上下端部を後ろに単純に折ってこれにこよりをかける
時代劇で皆さんが見かける封で、圧倒的に多いのがこの方法なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

捻封(ひねりふう)
この上下端部を三角形にひねって折り込み,これにこよりをかける

※糊封は江戸中期以降からなのでパス

【包み紙を使用しないバージョン】
切封墨引(きりふうすみびき)
封を切ったって意味じゃないです。
まず書状を書きます__φ(.. ) メモメモ
で書き終わった書状の右端に切れ目入れる・・・↓みたいに

古文書_封1

あ、切れ目を入れるだけで、書状から切り離すわけじゃないです
で、折りたたんだ状態の書状を、さきほど切れ目を入れた右切れ端をヒモ代わりに使って巻くんです ↓

古文書_封2

重ね具合を出すのに色別にしたけど判るかしらん^^;
ギチギチに縛るわけじゃなくて、一巻きだけなのね


で、その上から宛名と隣に縦ラインを入れます。
この縦ラインを墨を引くので「墨引」と呼ぶわけです。

で、拡大すると↓

古文書_封3
ちなみにハッキリ判るように赤にしただけで、本来は墨だから黒です^^

で、届いた書状を開いた裏側が↓

古文書_封4

書状を開いた時に、巻いてたヒモの上に書かれていた部分の文字が、欠けるわけです^-^
 って、しまった!
上の例だと、ヒモを巻いてた部分で、欠けてなきゃならない文字は「と」じゃなくて「お」「り」だΣ(´Д`;) はぅっ

画像ミスはビギナーですので御容赦を~~(><;)キャー

ゲフゴホ・・・一般的に多いのは、「切封墨引」です^-^
あとは必要に応じて・・・何か出てきたら考えます( ̄ω ̄A;アセアセ

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【喜入肝付氏__肝付三郎五郎兼三】

兼寛養子。実は伊集院幸侃(忠棟)の三男なり。

文禄4年、加治木・溝辺・三台堂を召し上げ、薩州喜入ならびに阿辺郡のうち宮清を下される。
同年10月26日、加治木より喜入へ罷り移り候。
慶長2年、兼三、300余人召し連れ、高麗へ罷り渡り、加徳島御陣に罷り在り候。
同年5月、兼三、幼稚にて帰朝仰せ付かり、家老・前田久右衛門盛張が軍代官勤め候。
慶長4年、父・幸侃の隠謀露見し伏誅ゆえに、兼三、肝付家を去り阿多に移り、後に誅され候。

出典:本藩人物志
************************************************

シオ補足
本藩人物志に幼稚とあるのは、おそらく元服前だったのではないかと思われる。
肝付兼寛には実弟がいたにも関わらず、伊集院が筆頭家老の権勢でもって己の三男を肝付家の養子に捻じ込んだのだろう。
兼三が去った後は、肝付兼寛弟が家督を継いでいます。

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黒田家~関ヶ原後の筑前チョイス(推考の記録として)

自分は、如水は天下を狙っていない説派なので、筑前チョイスの推測も、その流れに絡みます。

まず、欲しいところを、と聞かれ、
大坂に近い近畿エリアを上げたら、家康は喜ばない。

家康が喜び、かつ黒田家にとっても得になる土地、、、それが筑前チョイスの一番の理由だと推測してます。

中津18万石から、いきなり天下を狙うには、偶発、偶然に頼り過ぎる。
ギリギリ、、、関ヶ原が1日でケリがついた時点でスッパリ切り替えです。

が西軍残党狩があるから、上手く立ち回り百万石を狙いたい( ̄ー ̄)

百万、、意図としては、沢山たくさん。
関ヶ原前まで毛利も上杉も百万石大名。
将来、天下に働きかける自己資本金としては、百万石か相当の財力基盤が欲しいところ。
筑前50万石は、その可能性がある土地です。

筑前における政庁、大宰府と
国際貿易商都、博多は、
九州という土地にとり、それほど大きな影響を持つ土地でした。

大宰府は菅原道真には不満でも、
九州における政所で数百年の老舗です。
西国のドン大内も、キング九州な大友も
皆欲しがり、制覇して大宰府から号令をかける。

そして国際貿易商都、博多。
ここをゲットする事で得る利益は計り知れない。
交易ルートにノウハウを居抜きで、そっくり拝領とは、さすがクロカン。(;・∀・)

では、逆に何故に家康が筑前を黒田に与えたか、、、です。

一番の理由は、当時の家康が豊臣政権の五大老だったからと思う。
博多も大宰府の価値も家康は知ってたはずです。
貿易立国として秀吉が財を為すのをオンタイムで見ているんですから。

そもそも国際貿易商都の博多は、本来なら時の権力者が直轄地とすべき類いの土地なんです。
だからこそ、このままでは豊臣家が潤うだけ。

黒田家が拝領する事により、商都博多の利益が豊臣家の蔵へ入るのが止まる。
そして、一大名の支配下にする事で大宰府が九州の政所だった歴史的役割を終わらせられる。

完全な中央政権を作るには、九州に鎌倉や室町のように中央政権とは別に公儀権を持つ組織を与えては駄目なんです。

貿易商都としては、家康には既に博多ではなく長崎を中心にする構想があったんじゃないでしょうか。
南蛮貿易のネックは、キリシタン布教とセットなのと、キリシタン大名と宣教師が個々に繋がりあること。
こっちを先に何とかする方が急ぐ。

あと、中国は明が末期で政情不安定で、先の予測が難しい。
下手すると博多は明交易ルート全滅で、商都としての価値が下落するかもしれない。

家康自身の政権構想。
豊臣家の九州における財源を断ち、ひいては豊臣の影響力を削ぐ。

筑前、、、いえ、博多と大宰府を黒田家に与えるプラマイに頭を廻らせ、
結果、筑前を与えた家康。

おそらく彼には、自分の作りたい政権と、作りたい日本の原形が出来ていたんだろう。
とにかく政治家としてのスケールが、今の政治家とは比較にならない(;・∀・)


逆に『本貫地(播磨)に戻らなかった理由』
播磨や隣の摂津じゃ家康が嫌がる。
家康は黒田家を警戒し続けていたって言う事と繋がるんです。

摂津は大坂の喉元のような位置で、関ヶ原当時は豊臣家の直轄領。
家康は五大老筆頭として戦後処理を行い、豊臣家の直轄地もドサクサ紛れに削ってます。

あんな油断ならない黒田親子を、彼らの元々の地元で豊臣家直轄地の隣に入れて力を付けさせてどうするの^^;
摂津や播磨は豊臣家を看視させるために徳川譜代&準譜代で囲い込まないとです。

国替えを強要する側の最大の狙いは権威の剥奪

だからこそ地元から引きはがす。
これは家康の基本スタンダード。
守護職の家柄・・なんて名家が関ヶ原で東軍で武功があれば、『恩賞』と称して本貫地から離てします。
京極家、小笠原家、、、旧守護職家は全て本貫地から移動です。

福島正則も尾張でしたが、戦後の恩賞で地縁がない広島へ移動です。
もちろん敗れた西軍側をホームワークには残さない。
が、勝った東軍側の武将も恩賞として領地を与えてるけど、ホームには残さない。

家康が最も恐れているのは、大河の直江でも黒田でもない「父祖伝来の地生えの大名」です。
中身として『地生えの国衆クラス』は、秀吉の豊臣政権が太閤検地などの施策で解体しているから『残る旧勢力解体作業は国単位』になります。
だから「地生えの大名」を少しでも減らしたいのが本音。

従って黒田家がとるべき『徳川への忠義』『恭順の証』を見せる最大の行為は、
「本貫地以外の土地を欲する」ことです。


『謎解き説教』みたいなものです。
「なぜ怒ったか判るか?言ってみなさい」と尋ねられて、
間違ったら「違う!全然判ってなーい」と怒られ、
正解しても「判ってなら何故やらかしたゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」と、どっちでも怒られる。

家康の「欲しいところを言っていいよ^-^ニコニコ」は、黒田家の心底を見る罠みたいなものです。
「本貫地に戻りたいの(人´∀`).☆.。.:*・」と直球ストレートに云えば、家康は「空気嫁」と不機嫌になり将来の改易リストに__黒田家φ(.. ) メモメモ
「筑前を」と云えば「本貫地以外で旧領とも違い中央からの遠国チョイスで大正解」
だけど「こいつワシの戦後処理方針を見抜いてやがる」と、油断しちゃダメリストに黒田が入り、実際警戒されてる^^;

でも同じ黒リストでも「改易リスト」より「警戒されるリスト」のほうが、遥かにマシでしょう。
だから筑前チョイスは、家康の出した問いに対する答えとして『政治的に大正解』なんです。

旧領のままで領地倍増といえば加藤清正です。
でも清正死後に改易になってます。

家康は本音の部分では島津を本貫地から離したかったはずです。
が、ちょっと難しい。
だって島津は「島津の総意で西軍に味方したんじゃない」からです。
「参加した義弘も本戦には参加してない、その場にいて(派手に)退却した」だけ。

何より島津を移動させようものなら、本国で無傷の薩摩隼人が何をしてかすか判らない。
でもって黒田・清正のコンビ中心で島津征伐をさせ成功しちゃった場合、彼らの武功が大きすぎて家康のバランス感覚を超えるものになる。

家康という政治家は「費用対効果を急ぐあまり拙速な無理をしない」タイプ。
常に家康の内在しているバランス感覚でもって、少しずつ思う通りにと積み重ねる長距離ランナー・ロングブレスタイプ。
三匹の子豚で言うなら、煉瓦の御家を作った末弟豚さんです♪
積み重ねだから、周囲が気づくころには堅牢なものになってる。

とまぁ、黒田家の筑前チョイスは、表に出ない家康との政治的な駆け引きの賜物だと思う訳です^^
家康の機嫌を思えば摂津には戻れにゃい。
新しく入るなら何処でも苦労は同じだが、それでも九州の方が播磨の次に判ってる土地で、中津より博多がある筑前が(・∀・)イイ!
商都としての都市再開発は、博多商人に任せりゃ黒田家はローコストだし。

余力がなくて史料等をちゃんと検証しないままですいません。
オタの推測に長々と御付き合いありがとうございましたm(__)m

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【伊作DE新納(にいろ)】

父を本家との戦で失い嫁ぎ先に従ったら、今度は夫と舅も失った。
かくして新納家庶流の姫だった美女・常盤は、完全に伊作家の人間となり細腕繁盛記よろしく伊作家を切り盛りをする。
美貌もさることながら、相当頭の切れる女傑だったのは想像に難くない。

そんな彼女の悩みは、我が子で伊作の大事な跡取りである菊三郎(=忠良の幼名)の養育だった。
子供は親の思い通りにならないとは言うが、菊三郎少年は思い通りにならなさすぎた。

とにかくクソガキ・・・ゲフゴホグホ
もとい、寺の柱に縛り付けられて折檻されるほど、元気な菊三郎少年の養育を任されたのが新納忠澄。
新納忠澄は、常盤からみて実の甥です。

新納是久には常盤の他に男子(つまり常盤の兄弟)がいまして、その息子の一人が忠澄なんです。
第二次飫肥役のあと、飫肥には島津分家の豊州家が入り、新納本家は元鞘で志布志に戻りました。
常盤の兄弟は、志布志に留まり新納本家の家臣として仕えていたんです。

おそらく・・・なんですが、志布志城の姫だった常盤から見れば、実家(是久系)が本家の家臣格に落ちた事に対し、忸怩(じくじ)たる想いがあったのでしょう(´・д・`)
実家の再興もあって、実甥の一人を伊作へ呼び寄せたわけです。

後の島津忠良の活躍を鑑みると、新納忠澄の養育は成功したようですな ( ゚Д゚)y─┛~~
で、この常盤の実甥・新納忠澄の孫こそ・・・
親指武蔵・・・ではなくて新納旅庵(にいろ りょあん)です^^/

同じ新納姓でも、旅庵は幼少期から三十代まで僧侶だったので、知名度が低いかも。
関ヶ原の合戦の後、徳川家康との間で折衝にあたった事で知られています。

常盤が呼び寄せた実甥・新納忠澄には兄(嫡男)がいて、それが新納忠祐。
新納忠祐は身軽に志布志を離れらない立場でした。
というのは、新納本家から正室を迎えてたから。

あぁ~なんだか段々ややこしくなってきた~~~つまり同族婚なんで島津アルアルのプチカオス系譜なのね^^;
常盤の実甥・新納忠祐の妻は新納本家6代目の娘で、常盤の従妹を妻にしてたんです。
新納忠祐から見ると妻は従姉叔母になります。
新納本家と分家は、敵味方で戦った過去があるので、一族融和のための婚姻だと思います。

あぁクラクラした・・・島津家臣として高名な新納氏を、これまで本格的に出してなかったのは、
日向戦後史も絡んで結構複雑でカテゴリが別に必要になる分量になるからなんです。

薩州家VS伊作家のころ、是久系当主は忠祐の子・祐久の代で、やっぱり新納本家に仕えてました。
で前回記事にしたように、薩州家サイドの島津分家たち+肝付連合にフルボッコにあって新納本家は一家離散で没落します。
新納祐久は嫡男を伴い田布施(たぶせ・南さつま市)へと逃れました。

で、島津忠良の養育係・新納忠澄の伝手で伊作家に仕えます。
その時に新納祐久が伴っていた嫡男こそ、親指武蔵の異名を持つ新納忠元、その人です
人物・新納忠元 晩年の新納忠元イメージ画像

新納忠元が初めて忠良にお目見えしたのは、天文(1538年)で13歳だったそうです。
以降、伊作島津、ひいては島津宗家の貴久、義久、義弘と仕えます。
ということで、新納忠元トリビア?は、新納本家6代目の曾孫ってことです^^/
で、前述した新納旅庵とは又従兄弟の関係になります^^b

ちなみに新納本家も、後に島津家臣として江戸期に続きます。
で、新納忠元が大隅~~~ってイメージになるのは、猛将・新納忠元の大口城攻略からが契機となるのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回からは菱刈史出典『大隅DE新納』(^ -)---☆Wink





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【本家没落_日向DE新納(にいろ)】

ひぃーん・゜・(PД`q。)・゜・編集中の記事消しちゃったぁぁ~やり直しでつ(´;ω;`)ウッ

日向在住の島津分家リスト
・飫肥(日南市)の豊州家
・都城の北郷氏
そして志布志の新納氏本家
(※志布志が鹿児島県に編入されたのは明治後です)

この分家三氏が協力して伊東氏に対抗していたら、日向戦国史の歴史は違っただろうし、そうなると猛将・島津義弘公の日向における戦歴も違ったかもしれない。
島津久逸とも不仲だった新納氏だが、どういう訳か北郷氏と豊州家とも不仲だった。
北郷氏に至っては、新納氏が伊東との戦でピンチになった為の救援依頼を無視し、それで新納氏が伊東に敗北したこともある。

ここまで来ると伊東が共通の敵だから分家同士で力を合わせ・・・などは到底無理。
豊州家・北郷家(プラスα国衆・北原氏)が連携して伊東氏に対抗しているのに対し、新納氏は彼らに与することなく己の領土拡大に専念しリア充。
新納氏の日向での活動が知名度低いのは、他の分家と違い単独行動だったのもあると思います。
とにかく新納氏本家の最盛期は、志布志の他に財部、大崎、末吉まで広がってました。
(ちなみに財部は北郷エリアの都城と目と鼻の先^^;)

日向における島津分家の対立の構図は、そのまま「薩州家VS伊作家」の宗家の座を巡る抗争に持ち越されました。
伊作側が薩州家側の城を攻略し始めた事に対し、薩州家・島津実久は日向における諸氏を味方につけて対抗しようとしたんです。
天文6(1537)年12月、実久(26歳)は自ら薩摩守護職にならん、とするが新納氏の反対にあい断念。
時の新納氏本家当主は新納忠勝。
彼が大嫌いな豊州家と北郷家が薩州家サイドだったので、反対したのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
そのため、天文7年(1538年)、薩州家・実久押しメン連合な島津忠朝(豊州家)・北郷忠相・肝付兼続らにフルボッコ攻撃を受ける
さすがの新納本家も、これには抗しきれず伊作の忠良・貴久親子へ援軍を依頼したのだが間に合わず(´・д・`)
城が次々と落とされた為、ついには新納本家降伏・・・(´・д・`)ショボーン
新納忠勝と次男は、忠勝が嫌っていた飫肥の豊州家を頼る羽目になる(´・д・`)ダブルショボーン
ちなみに長男は伊東の佐土原に亡命で新納氏本家は一家離散となった(´・д・`)トリプルショボーン
新納氏本家の領地は、北郷と豊州家で分捕りな件~~

実のところ、実久派が日向で新納を攻略してる間に、伊作の忠良と貴久は薩州家の喉元目指して攻略続行中だった。
新納の要請を受けて伊作の忠良が兵を日向に割いたら、実久の狙い通り?思う壺?だったかも。
このあたり伊作側の新納救援が本当に間に合わなかったのか、薩州家エリア攻略を優先して新納を後回しにしたのか、細かい時系列が判らないので何とも言えないところだ。
もっともシオが伊作・忠良なら、実久側の陽動にも似た動きには乗らず、気の毒だが新納の日向戦線は切り捨てる。

没落した新納本家に代わって、歴史の表舞台に出るのが新納家庶流。
それには伊作島津に嫁ぎ、忠良の生母となった美女・常盤が大きく関わっている。
なぜなら忠良に仕えた新納氏庶流は、常盤の実甥の系統。
そもそも彼らを忠良に介したのは常盤だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【日向DE新納(にいろ)分家編】

いままでの前中後編は新納氏本家のことなのです(←おぃ)

新納氏5代目・忠続には兄弟がいました。
長禄2年(1458年)に新納忠続が飫肥に入ったので、新納氏の領地である志布志市志布志町志布志の志布志市役所志布志支所・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!
もとい、志布志城には忠続の弟・是久が入ったんです。

文明6年(1474年)、伊作家の島津久逸が島津宗家の命で櫛間(串間)へ入城すると、結びつきを強めるため新納是久は久逸の嫡子・善久を養子とし、娘・常盤の婿に迎えた。
実は宗家10代目・立久が同年の4月に亡くなってるんですが、伊作の久逸が串間に入ったのが、立久の命か忠昌の命か特定はできなかったです。
もっとも文明6年だと、忠昌は数え12歳ですから命じたのがどちらであっても、忠昌本人の意思は介在してないでしょう。

新納是久の娘にして美女・常盤が島津善久と結婚したのは1474年以降ということになりますが、正確な年度は不明です。
ただし文明17(1485)年より前には嫁いでいたと思われます。

文明17(1485)年に「第二次飫肥役」が起きて、宗家・島津忠昌は伊東氏に寝返ってた島津久逸を攻撃します。
(久逸ってば、新納忠続と揉めたあげくに逆切れして伊東と組んでたの^^;)
此の時に島津久逸の縁戚だった新納是久は、兄が当主の新納本家ではなく島津久逸側へついたんです。
でもって島津宗家の軍勢に敗れて戦死(-人-)☆彡、島津久逸も敗北する


戦後処理として領地移動~~~ アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
敗者・島津久逸---日向・串間は没収、元々の領地である伊作へ引っ込む
勝者・新納忠続---久逸側に走った弟・是久戦死で空いた元の領地でもある志布志へ戻る
飫肥には新納氏に代わって同じく島津分家である豊州家が入った。

新納是久の戦死で実家を失った娘・常盤は、夫の実家である伊作へと移住した。
で、伊作の地で長女・次女・長男を産む。
この常盤の産んだ長男が島津氏中興の祖と言われる島津忠良(後の日新斎)です。

島津忠良(日新斎)の話は一先ず置いて、マニアックなんで実は常盤の次女の嫁ぎ先に萌え'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`
常盤の次女は、薩州家の分家(大田氏)に嫁いでいるんです。
「薩州家VS伊作」の時に、この常盤の次女も嫁ぎ先が嫁ぎ先になんで巻き込まれるんですけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
常盤次女が嫁いだ薩州家分家(大田家)の、そのまた分家から関ヶ原の戦いで大坂を脱出する亀寿(初代薩摩藩主夫人で常盤の玄孫)の身代わりとなった侍女が出るんだと思うと感慨深い(==)

すいません。自分一人だけで萌え浸ってました( ̄ω ̄A;アセアセ
で、伊作に移住した常盤ですが、次は夫を失い(下男に殺される)、更に舅である島津久逸(戦死)までも失います。
まだ年少の忠良では当主の任は務まらず、未亡人となった常盤が伊作島津を采配することになりました。

ちなみに戦国期では夫を失った妻って、割と再婚してます。
それだけ当時は政略結婚が多かったのでしょう。
でもって、子供が幼く常盤のように実質的に切り盛りしなきゃ~って場合も未亡人だからと出家しません^-^

常盤は島津分家である相州家の運久と再婚し、伊作家は島津氏総領五氏の中でも有力家として飛躍していくのです。
そして宗家の座を巡る争い・・・薩州家VS伊作(相州家含む)の中で日向・志布志にいた新納本家の運命も激しく翻弄されるのですが、それは・またの話 by^-^sio

次の記事タイトルをどうしよう・・・・il||li _| ̄|○ il||l

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【日向DE新納(にいろ)・後編】

日向史は詳しくないので、ファ~っとウィキペディアとか武家家伝参照です^^

日向・伊東氏は島津氏の内訌の隙間を縫って、巧みに勢力拡大していきます。
その大きな契機となるのが「第一飫肥役」です
ちなみに飫肥を巡る島津と伊東の攻防カウントは、シーズン9まであるらしい__φ(.. ) メモメモ
自分が把握してるのはシーズン1と2と最後に伊東が飫肥をゲッツしたシーズン9(第九飫肥役)っす(・∀・)

で、「第一次飫肥の役」は島津内部の仲間割れがキッカケで始まった。
てことで使い回しの日向地図↓

地図・日向
毎度のことだが、描いた後から「○○も入れておけば良かったーーー」と騒ぐ計画性のない管理人です(爆

勢力拡大を始めた伊東氏への押さえとして、
飫肥に新納氏、串間に伊作島津氏が入ります。

串間は飫肥より南の大隅国沿いで、地図に入りきらんかった^^;
長禄2年(1458年)、時の島津当主・10代目、立久の要請で、島津氏の分家がテコ入れされたわけです。

なのに、新納氏と伊作島津が不仲になるΣ(´Д`;)はぅっ
これは串間にいる伊作島津が勢力を得るのを、飫肥の新納氏が危惧したからとされています。
新納氏5代目・忠続は、宗家11代目・忠昌(立久死去で代替わり)に伊作の島津久逸を伊作へ戻すようにと頼み、忠昌はコレをOKしちゃいます。

ちなみに新納忠続と伊作島津・久逸は義兄弟の関係です。
島津久逸は島津宗家9代目・忠国の三男。
新納忠続は忠国の娘が正室。
義兄弟ってことで、いろいろ張り合ってたかもだなぁ

ちなみのちなみに島津氏9代目・忠国本人は新納氏3代目の娘を室に迎えてます。
何やらカオスな系譜ですが、忠国の子供の生母が判らないので、同族婚とはいえ濃度がどのくらいかまでは不明^^;

ここでポイントになるのは宮崎市に、伊東氏の本拠地・佐土原(さどわら)があるってことでして。
伊東が御近所の飫肥に固執したのは、貿易港に適した油津湊(=油津港)があったからだそうです。
で、飫肥で硫黄が産出してたそうで・・・こっちはガッツリ利益あるほどの産出量だったか疑問なんですけど。
ただ永享6(1434)年に室町幕府が硫黄の海外輸出を制限する禁令を出しているので、むしろ密貿易としての魅力があったかも。
というわけで伊東氏からみて、飫肥は押さえておかなければならない土地なんです。

だから宗家・島津忠昌も飫肥にいる新納の方の意見を優先した。
これに怒った久逸が敵である伊東氏に寝返り、伊東氏と連合して飫肥城を攻撃!
戦国初期、文明16(1484)年、これが「第一次飫肥役」です。
で、翌年の文明17(1485)年がシーズン2な「第二次飫肥役」

此の時、日本史に大きく貢献した女性が父の戦死で、複雑な御家事情となるのだが、それは・またの話 by^-^sio
前中後でも終わらんかった・・・il||li _| ̄|○ il||l

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【日向DE新納(にいろ)中編】

日向で活躍した代表的な島津氏分家・・・主に四氏で新納、樺山、北郷、豊州家


北郷(ほんごう)氏・・・後の都城島津氏。
エリア~現在の宮崎県都城市
ここ説明すると一話で終わらなくなるから詳細パス,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

樺山(かばやま)氏
日向国三股院は庄内の樺山(現・宮崎県北諸県郡三股町)がスタート
8代目は伊作の島津忠良次女と縁組し、貴久、義久の治世に貢献しています。
大永年間に日向から大隅へ国替えしてますが、戦国初期の段階では同じ都城にある野々美谷城。
ちなみに8代目の娘(=家久から見て従妹)が四兄弟末弟・島津家久の正室です 川* ̄д ̄*川ポッ 

新納(にいろ)氏
新納院⇒志布志⇒串間
でもって、更に伊東対策として飫肥に入る

豊州家
新納氏の後に飫肥に入るんだが、ここも長くなるから詳細パス(爆

・・・地図なかったっけ・・・米良筑後守の時のを使いまわすか(←おぃ)
地図・日向

目安として茶色でグリグリーーって印してるのが霧島山^^/
宮崎市ってあるのが、伊東氏の本拠地・佐土原のあったとこ
飫肥(日南市)が、島津立久の要請で新納氏が入ったとこ

小林市で真幸院の中で頑張ってるのが島津義弘公(いまの説明段階では未だだけどね)
北郷さんの都城市は小林市より南に位置した大隅国寄りです。
串間市は都城市の更に南なんで、この地図に入りきれてない・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
志布志湾に面してる海沿いの市です。
てことで串間の西側にある志布志も地図に入りきれてない件・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

で、伊東対策の更なる布石で串間の方に入ったのが、伊作島津氏で当主は島津久逸

さて、大雑把な位置関係がボヤんと説明できたかな~
これ以上は地理音痴のシオには無理なんで御勘弁を^^;

島津が薩摩国衆の謀反や内訌で弱体化したのを良い事に、勢力拡大を始めた伊東氏。
上昇志向・あくなき野心・・・まさに戦国武家な伊東氏には日向国守護職が島津氏だという大義は通用しないらしい。
日向史の戦国は伊東家の台頭によって始まったのではないかと思うのだが、それは・またの話 by^-^sio

やっぱ前後編じゃ無理だったか・・il||li _| ̄|○ il||l
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【日向DE新納(にいろ)前編】

新シリーズは新納(にいろ)氏から (=^・ω・^=)v ブイ
本稿前の予備なので、簡単にウィキペディアや武家家伝を参照__φ(.. ) メモメモ

国別カテゴリで扱いに迷って日向&大隅になったのには、当然ながら訳がある^^;
あんまり知られてないと思うが、新納氏のスタート本貫地は日向国だったんです。

これも知名度低いと思うが、江戸期に島津家臣となった新納氏は、元々は島津氏の分家でした。
島津は分家も島津姓が多いし、各分家とも揃いも揃って強烈なので、本家と別姓を名乗った分家の、分家としての認知度が低い^^;

新納氏と同時期に分家したのが、樺山氏と北郷(ほんごう)氏でして、この三氏は戦国期まで日向国をホームエリアとしていました。

ついでだ。
もうちょい詳しく行きますか。
新納氏や他が分家したのは島津氏4代目・忠宗の息子たちからです。

パパ島津氏4代目・忠宗---嫡男が5代目・貞久
他息子たちから、和泉氏、佐多氏、新納氏、北郷氏、樺山氏、石坂氏


んー、さすがに和泉氏と石坂氏は引出しゼロなんで、教えてもらった~
和泉氏---応永年間に滅び、庶流が垂水島津家臣
石坂氏---北郷氏(都城島津氏)の家臣になったらしい
佐多氏は知覧城の方で知ってたけど、事歴は調べてないっす(・∀・)

それはさておき、本題の新納氏に戻ります__φ(.. ) メモメモ
新納氏は、日向児湯郡新納院の地頭に任じられ、高城に入り「新納氏」を称したことから始まった。
ちなみに「新納院・高城」は、天正年間に大友氏と島津氏が激突した「耳川の戦い」の舞台となった場所です。

新納を名乗ったけれど、新納院での期間は短かった・・・
南北朝争乱の絡みで失っちゃったんです・・・( ̄ko ̄)

で新納氏2代目になり、志布志(しぶし)城に入ります。
志布志って聞いたことないですか?珍名スポットとして必ず名前があがる・・・
【志布志市志布志町志布志の志布志市役所志布志支所】の志布志です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

この志布志って現在は鹿児島県なんですが、宮崎県と隣接してるせいか日向(宮崎県)志布志って書いてるサイトもあります。
教えて頂いた話ですと『三国名勝図会』では、「日向国 諸県郡 志布志郷」になってるらしいので、志布志は明治以降から鹿児島県に編入になったみたいです^^;

なかなか戦国に入らなくてすいません。
地名にインパクトありすぎて、つい検索しては「ボーーー」っと見入ってしまってます( ̄ω ̄A;アセアセ

で、新納氏5代目・忠続の代になり、志布志から隣の串間に入ります。
これは時の島津氏10代目・立久の命令によるもので、台頭し勢力を拡大してきた伊東氏の備えとしての移動でした。

加熱していく島津氏の戦国は、伊東氏との日向の覇権を巡る争いとなっていきます。
日向をホームエリアとしていた島津分家三氏、樺山氏、北郷氏、新納氏は、否応なしに渦中へと巻き込まれていくのだが、それは・またの話 by^-^sio

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筑後田尻氏_プロローグ

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日本最大の氏族が千葉氏なら、九州最大の氏族が大蔵氏。
九州の関ヶ原を調べる為に九州戦国史に足を踏み入れた自分が、どっぷり九州郷土史にハマった契機になったのが「大蔵系氏族」でした。
だからブログ初期の頃の初代藩主編シリーズは、クロカン絡みと大蔵系氏族絡みなんです^^;
大蔵系氏族を調べてるうちに、戦国末期に彼らと縁戚関係になった肥後相良氏に魅了され、本業である肥前史とは別に肥後相良氏を紹介するのをライフワークにしております。

ということで、大蔵系氏族の一つである筑後田尻氏は、肥前史の補完データと言う意味合いもあり、前々から調べたい武家リストに入ってました。
ちなみに千葉氏系武家は通字に胤の文字があることで知られていますが、
大蔵系武家は通字に種の文字があるのが特徴です^-^

で、自分で調べるべく田尻家文書にチャレンジ中なんですが、どうも大蔵系氏族は自分の萌えキュンキュンが先行してしまい、冷静な状態になれないので「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」の、お力を借りしたいと思います(*´pq`)
※参照部分は蒲池氏同様、緑文字です
田尻氏の歴史が本格的に研究されるようになったのは比較的新しく昭和に入ってからのこと。
昭和38年に「佐賀県史料集成 七巻」として「田尻家文書」が翻刻公判されたこが契機でした。
それまでは二次史料である江戸期編纂史料しかなかったんです。
出版により田尻氏のみならず、筑後史研究が飛躍的に進み、ひいては九州戦国史の研究が一段と進んだのです。

なぜなら筑後という土地は、地理的に肥前や肥後の勢力が介入する土地でして、必然的に筑後の動静が九州政治史に大きな関わりを持つからです。
個人的には、典型的な事例になるのが「勢場ヶ原の戦い」だと思ってます。

まぁそれは自分の研究が追い付いてないので、いまは先ず田尻家の出自から__φ(.. ) メモメモ
田尻氏は福岡県南部にある「みやま市高田町田尻」を、その名字の地とする家です。
冒頭にあげたように先祖は大蔵氏。
大蔵春実より数えて八代目の孫にあたる種成に三人の男子がおりました。


長男種直を祖とするのが原田氏 '`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`
次男種雄を祖とするのが秋月氏 '`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`
三男実種を祖とするのが田尻氏 '`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`

大蔵氏は大宰府長官でして最盛期(古代末期)の所領は、筑前・筑後・豊前・肥前・薩摩など広範囲に及んでました。
平安末期には原田氏祖である種直が大宰少弐で、大河「平清盛」に一回だけ登場してます 川* ̄д ̄*川ポッ 
(清盛は大宰大弐だったので原田氏からみて上司なのだ)
既に萌えすぎて興奮で鼻血が出そうです( ̄ω ̄A;アセアセ

田尻氏の先祖が、なぜ筑後国三池郡(当時は三毛郡)と関係を持つようになったのか、また何時頃からなのかは判っていません。

田尻氏が史料で確認できるのは、田尻家文書の第一号である「関東下知状(弘安9・1286)」からです。
蒙古襲来絡みです( ̄ko ̄)

が、鎌倉期の田尻氏の活動は「弘安の役」の参加以外は史料がないため、土着から鎌倉期までの実像は謎のベールに包まれております。
ふっ・・・(*´ー`)トオイメ
自分が調べたい武家は、どこもかしこも謎のベールやケープや羽衣だらけですな( ゚Д゚)y─┛~~
てことで、いきなり南北朝まで飛ぶのだが、それは・またの話 by^-^sio

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筑後蒲池氏_プロローグ

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肥前を調べるに当たり要リサーチなのが、少弐氏の本貫地である筑前。
更に、もう一つが筑後です。
筑後は龍造寺隆信が登場した肥前のように一国を統一する、いわゆる「英雄」は出ませんでした。
代わりに筑後十五城と呼称された有力国衆がいました。

筑後守護職は他国人である豊後大友氏。
筑後国衆は大友氏の支配を嫌い、たびたび謀反を起こし大友氏を悩ませましたが、大友氏の力の前に屈し、その支配体制にガッツリ組み込まれます。

筑後には大友から配された守護代がおり、大友直参衆がいました。
(「高一揆衆」または「一揆合衆」、別名で「二四頭」あるいは「三三頭」)
てことで、筑後史は物凄く複雑です^^;

資料を読んでたんですが、ぶっちゃけ読んだだけじゃサッパリ判らん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
てことで資料の要点を自分なりにまとめて記録したいと思いますので、宜しくお願い致しますm(__)m

***************************************

参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」
※参照部分は緑文字部分にて表記します


蒲池氏は二つに分かれるのですが、柳川城の下蒲池家は龍造寺に滅ぼされたために伝来の文書は失われました。
今日「蒲池文書」と呼ばれて残ったのは、山下城の上蒲池氏の子孫が所持していたものだそうです。

滅びた家ってノンクレームだからアレコレ書きやすい。
だから柳川の蒲池に関して記した「書物だけ」は数多いわけです^^;
下蒲池氏に関する参考文献というのが、江戸時代に成立した「蒲池物語」と「宇都宮蒲池系図」をもとに記述されています。

「宇都宮蒲池系図」は「筑後将士軍談全五十六巻」の中にあります。
筆者は久留米藩の学者だった矢野一貞。
彼は筑後各地を綿密に調べ、岩戸山古墳と磐井の研究には欠くことのできない基礎文献とも言われています。
城跡の現地取材も豆で171の城を書いてて、筑後史の研究に大いに貢献してるのですが、宇都宮蒲池系図は・・・^^;
だって、筑後蒲池氏は宇都宮からの系譜じゃないからして、前提そのものが崩れてるんです( ̄ω ̄A;アセアセ
矢野一貞は幕末期の学者なので、おそらく混同するような底本が当時あったんでしょう。

たぶん柳川の蒲池氏を知ってる人の間で知名度があるのは「蒲池物語」の方だと思います。
蒲池物語は享保7(1722)に著され、作者は蒲池豊庵(かまちほうあん)。
蒲池宗寿(蒲池鎮並娘と大友家臣との子)の子孫で・・・ズバリ言うと庶流。

蒲池豊庵は先祖の事を記すに当たり史料がない部分は、当時流行してた「通俗史書」「軍記物」を参考にしたそうな( ゚д゚)ンマッ!!

そのため蒲池物語の記述は史実と合わない点が散見される
ガチョ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!←蒲池物語をあてにしてた
ということで、蒲池氏の史料としては上記二つは使えない・・・il||li _| ̄|○ il||l←蒲池物語(意訳)をダウンロードしてた

一方、上蒲池さんですが江戸期は黒田家や細川家に仕えて生き残ってて、子孫の一人が松田聖子なわけだが。
こちらが残した蒲池家譜が他の比べると精度が高い^^
ということで、参照文献では上蒲池氏の蒲池家譜と同家に伝わる古文書、他の史料などを併用して編纂されました。

そのため一般に流布されている蒲池氏とは、かなり違い、
情報量の多さから来る既存知識の書き換え更新作業が、管理人脳内のみでやろうとしたらパンク状態でお手上げ。
時間はかかるけど、記事という形にして頭に入れていきたいと思います^^
ちなみに同様の理由で田尻氏もやります~~それは・またの話 by^-^sio

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田尻家文書6_大友親治継目安堵状

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原文
読み下し(てるつもり)
※文節、段落に関しては、読み下しの段階で判断しています。句読点は佐賀県史料集成原文ママ。

親父中務少輔種久一跡之事、任相続之旨、領掌不可有相違候、恐々謹言
親父 中務少輔種久 一跡之(の)事、相続之(の)旨(むね)任(まか)す、領掌(りょうしょう)相違有る可(べ)から不(ず)候、恐々謹言

 九月廿四日    親治(花押)
   田尻又三郎(治種)殿
      (切封)「(墨引)」

********************************************

大友親治---大友氏18代目当主
家督を継いだのが明応5年ですが、大内に相続に関して干渉された為に完全に掌握したのが明応7年。
てことで、年欠ながら明応5(1496)以降の文書と推測できます__φ(.. ) メモメモ
領掌---了承、OKってことです。
この場合の安堵は、文中にあるように「領掌=了承」の意の方です。
相続における具体的な中身・・つまり権利関係や偏諱などではないので年欠なんです。
年度よりも【上位者から相続の了解もらった~~~】って事の方が重要なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

~~いちおう・・・超意訳~~
パパの跡を継ぐって話、オッケーだよ~~恐々謹言なぅ by大友親治

ってことで・・・気になるのが「親父」の二文字・・・|PC|_ ̄)じぃー
これって、古文書的にも「おやじ」と読み下すのだろうか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
「おや ちち」かなぁ~
こういう普遍的な言葉の方が、逆に読みが判んないんだよなぁ~(-ω-;)ウーン
とりあえず意味を汲むって事では、読みが判んなくても無問題なんで良しとします^^;

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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