【新納忠元_ニャンコ睡る?_市山の合戦その弐_】

出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(以下、緑太文字は原文)


さて、永禄11(1568)年2月28日、市山城にて大口攻略のための打ち合わせがあったそうな。
貴久公の命で新納の元へ来た肝付兼盛、島津忠長の忠元二人を小苗代原迄送りて別れ

この小苗代原という地名表記は現在では残ってないようです。
例によって伊佐市の下水道関係の記録ですと伊佐市菱刈花北・・・の一部でした。
市山城のあった伊佐市菱刈市山からみると西の方角です。
(城跡の正確な位置が判らないので、距離感も不明^^;)
凄いなぁ~御近所は忠元公園に忠元神社で、菱刈市山は新納カラーでいっぱい^^;

帰途小苗代薬師堂に詣でて「牡丹花下睡猫心在飛蝶」と壁間に題して居た。
新納さん、二人を送った帰りに薬師堂に参詣したようです。
えっと・・・・牡丹の花の下で・・・・・睡猫・・・気持ち良く寝てそうだwww
これ、もしかしたら『禅林集句 :牡丹花下睡猫児 正宗賛。方語云、心在舞蝶』をアレンジしようとしてたのかも。
(※禅林集句は室町期から編纂が始まった禅に関するアレコレ集めた本・・・らしい^^;ヨクワカラン)
新納忠元は教養人ですからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

この小苗代薬師堂は三国名勝図会に載るほど古くからあり、島津氏も初代から大事にしてた由緒ある堂だったようです。
(※伝教大師一国一寺自作像薬師を祀る)
(三国名勝図会:江戸後期に薩摩藩が編纂した地誌)
明和六年(1769)、乙丑、二月廿一日、此堂火に罹て焼く。
同九年、壬辰、四月、邦君命あり、此堂を建つ


ということで江戸期に一度火災にあって、再建されてました。
そのために新納さんが題したという壁間は残っていません^^;
菱刈史には簡単に「其壁間は往年火災に逢て今無」とだけあります。
江戸期の明和年間が「往年」とは、壮大なロングパスですな ( ゚Д゚)y─┛~~
※日本語として間違いじゃないんだけど、現代と使い方のニュアンス違う感じかな?^^

位置は伊佐市菱刈市山2500で、小苗代薬師堂は現在、松原神社(通称:薬師サマ)となってます。
明治の神仏分離で難を逃れる為に松原神社に改称したんです( ̄ω ̄A;アセアセ
はぁ、神仏分離のせいで呼称が変わったり廃寺になったりで、現代人・・・まして他県人となると調べるのに難儀します(´・д・`)
薩摩藩に神仏分離については、しばやん様の記事が詳しいです^-^

睡る猫・・花札・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
萌えて調べたら、いろいろ芋づる式に出てしまって、結果、長文になってしまうのは自分的に何時ものパターン,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

新納さんが苦吟?してる間に、戦が始まっていたのだが、それは・またの話 by^-^sio
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【新納忠元_市山の合戦その壱】

出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
さて、久々なのでサックリおさらい。
新納氏そのものは日向が本貫地でした。
ところが薩州家VS伊作の抗争に巻き込まれ、日向の新納本家は一家離散没落の憂き目に遭う。
新納本家に仕えていた新納分家は、伊作に嫁いでいた新納分家の姫・常盤関連の伝手を頼り伊作島津に仕えます。
伊作=島津宗家に仕えたのが島津の猛将『親指武蔵』の異名をとった新納忠元です^-^

人物・新納忠元 橘朝臣幸麿さま作画_晩年の新納忠元イメージ画像

大口城=新納忠元と島津ファンに認知されるようになるのは、永禄年間の島津による大口攻略からです。

大口は菱刈&相良と島津の間で領有経緯が複雑で一言では言えず、相良編でもチョイチョイ触れてます。
永禄10(1567)年11月24日、島津による菱刈討伐が開始。
島津の勢いに抗しきれなかった菱刈は、支城を捨てて大口城へと逃げ込みました。
大口城には相良勢が常駐してたので、菱刈&相良の方が逆に優勢となり島津に反撃。
永禄11(1568)年1月20日、飛田瀬・羽作瀬の戦いにおいて島津義弘公が菱刈に敗れたΣ(´Д`;)はぅ

初めの破竹の勢いから一転して、地元有利で自由に動き回る菱刈勢に手こずる島津氏。
つまり、大口城は元から相良の在番兵がいるので、菱刈勢は遊撃部隊としてフリーに動けるんです。
それで島津にとってはモグラ叩きのようなメンドクサイ状況になっちゃった( ̄ω ̄A;アセアセ

そこで市山城へ投入されたのが親指武蔵こと新納忠元(=^・ω・^=)v ブイ
なんですが、島津側・菱刈側どちらの記録でも新納忠元が市山に入った日にちがハッキリしてません。

ただ永禄11(1568)年2月には市山城入りしてたようです。
永禄十一年二月廿八日肝付弾正兼寛(貴久公国老)島津又五郎忠長(貴久公弟尚久子)貴久公の命を奉し市山城に入り新納忠元に面会し大口城攻めを議し忠元二人を小苗代原迄送りて別れ
相変わらず苦闘(句読)点がありませんな ( ゚Д゚)y─┛~~

ふと気づいたが、大正期になると欠字の習慣がなくなってるんだなぁ |菱刈史|・ ̄)じぃー
(欠字:相手への敬意として文脈無視で、貴人の名前の前は一文字空白スペースをあけること)

2月28日に貴久公の命令で上記二名が市山の新納忠元を訪ねたようです。
大口城攻略の作戦会議ですね^^

って、あり?
肝付兼寛は永禄元年生まれですわ。
こりゃ菱刈史の誤記~~~兼寛じゃなくて、その父の兼盛の方です。

島津側の二次史料・本藩人物誌ですと肝付弾正忠兼盛の項で同年2月28日、島津忠長同道にて、馬越より市山へ差し越し、
となっているんで島津側の方が正解でしょう。

馬越は元々は菱刈氏の城でしたが島津側の攻撃で落城し、今では大口攻略の為の拠点化しちゃったんです。
新納が活躍するということは、即ち菱刈一族没落の序章となるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【大隅_蒲生(かもう)氏(室町な後編)】

図書館に~~~~~と思ったけど、謎の仕訳で4冊バラバラに収蔵されてる中から、更に専門外の時代の文書を探すのは、どう考えても挫折確定なんで心を折る作業は止めときます(爆

というのも相良家文書の方には、久豊公と直接絡んでるのが無かったから^^;
趣味のライフワークさがらん’Zの方に無いとなると(ほぼ)ゼロからリサーチになるんで、無理するの止めます^^;

あ、毎度のやつ忘れてた。
出典:本藩人物誌
(黒太文字が意訳・補足・要旨、緑文字は原文ママで( )部分がシオ補足)


同十三日(応永20(1413)年12月の話)御取掛被成候処頼久身命相究リ候ニ付(蒲生)清寛ト吉田若狭守ヨリ御断申上頼久命ヲ御助被成候

|PDF|・ ̄)じぃー・・ん~と、占拠した清水(鹿児島)城から退去(遁走?)した伊集院頼久なんですが、
どうも見つかったか、捕まったか、自首・・もとい降伏したか、したらしいです。
この文章だけだと短すぎるから、詳細は判りません。
久豊公はライバルの伊集院頼久を処断しようとしたらしいんですが、蒲生と吉田が断って逆に伊集院助命の取り成しをしたんですね。

ちなみに伊集院頼久ですがリベンジしようとして再び敗れ、ようやく諦めついたのかキチっと隠居して政界?から去ります^^
久豊公としても、島津氏分家・支流の中で最大の世帯数を誇る伊集院氏を完全に潰すことは出来ず、本貫地の伊集院を安堵するのを和解条件にするしかありませんでした。
一時は島津宗家を凌ぐとさえ言われるほど隆盛を誇った伊集院氏が、島津宗家によって成敗され没落するのは、久豊公の御世から180年以上先のことになります^-^

豊後の某フランシスコ談「宗家より勢力ある分家は裏切るから信じちゃダメ!!」

右両人ノ依忠節被発御運候其子美濃守忠清(欠字=空白スペース)久豊公御家老其子久清其子宣清「刑部少輔」其子充清ナリ代々蒲生ニ居城ナリ

前回の発言撤回。
敬意を払うたんびに欠字(一文字分スペースを空ける)するから、逆に何処で区切るのか判り辛いわ!!!(# ゚Д゚)・;'.
え~っと、簡単意訳で
伊集院助命は蒲生と吉田の忠節からの発言です__φ(.. ) ヨミヨミクダシクダシ
蒲生清寛の子、美濃守忠清は久豊公の家老です__φ(.. ) ヨミヨミクダシクダシ
宣清、充清、と代々蒲生(←本貫地)が居城でした__φ(.. ) ヨミヨミクダシクダシ

従(欠字)立久公長禄三年ニ転蒲生喜入被下候ヘトモ明応四年ニ(欠字)従忠昌公又々蒲生ヲ被下候

時代下って久豊公の孫・立久公に従い長禄三年に蒲生から喜入に入った__φ(.. ) ヨミヨミクダシクダシ
明応四年、忠昌公(立久の子)に従い再び蒲生に戻った__φ(.. ) ヨミヨミクダシクダシ

ふぅん・・・立久公と忠昌公とでは「欠字」の位置に変化をつけて、敬意の払い方に差をつけてるのが面白い。
本藩人物誌著者が「国中騒乱になり自害した忠昌公」に対して含むところがあったのかな。
もしくは書写の段階で意図的に変化をつけたか・・・|PDF|・ ̄)じぃー

本文中にあるカタカタは原文ママです。
本藩人物誌の成立年代は不明なんだけど、こういう変体漢文とカタカナを混ぜる書き方って近代っぽいなぁ
翻刻版編集の時に入れたかな?
ホントにモノホン原文を確認したいとなれば影印本になるけど、そこまでマニアになりたくにゃい^^;

てことでゆるふわ室町編が終わったところで、次は戦国~それは・またの話 by^-^sio

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【大隅_蒲生(かもう)氏(室町な中編)】

さて、南九州は大隅の国衆行くよ~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
出典:本藩人物誌
(黒太文字が意訳・補足・要旨、緑文字は原文ママで( )部分がシオ補足)


まったり室町期の話です。
島津家で大きな分岐点となった島津久豊の宗家相続。
ちなみに『葬儀の真っ最中に亡き兄・元久公の位牌を強奪し、自分が葬儀強硬して奥州家当主となった方』です^^;
その家督争いで久豊公のライバルであったのが、伊集院頼久。
伊集院頼久は、久豊公が菱刈討伐のために出陣でして留守の清水(鹿児島)城をゲッツ(=^・ω・^=)v ブイ

(落城の知らせを聞いた⇒)久豊公御憤リノ余リ御一騎掛ケ遊被候処ニ
と、ブチ切れした久豊公が(大将で当主なのに)一人飛び出した・・・って云うのが前回の話^^b

(蒲生)清寛吉田若狭守申候
此節御一身ノ御働ヲ可被遊時節ニ無御座候由段々申上候ヘハ


蒲生清寛と吉田若狭守がΣ(´Д`;) はぅ!っとなって、久豊公を必死で宥めたみたいです。
「いまは、お一人の働きを遊ばす時じゃないです~~(´・д・`)ヤメテ」

両人(蒲生&吉田)ハ身命ヲ全仕候終ノ功ヲ専ニ可仕旨
両人は身命を全(まっとう)仕(つかまつ)り候、終(つい)ノ功を専(もっぱら)に仕(つまつ)る可(べ)く旨(むね)、

うーむ・・・読むだけならOKなんだが意訳のほうが・・・
とにかく「身命を投げ出す勢い」って感じかな?必死に止めたらしい( ̄ω ̄A;アセアセ

(空白スペース)御意候テ唯御一騎御掛被成候間(蒲生)清寛申上候ハ
この場面って、たぶんだけど久豊公は馬上ってことだよな・・・
蒲生さん、馬の引き綱を掴んだのか、自分も馬上で並走してたのか、御、御、御~と敬語気遣いしまくりなんで細かい場面状況が判らん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

ちなみに久豊公の名前が出たり、その様子を書くたびに「一文字分の空白スペース」を入れてます。
これは「欠字」と言って相手へ敬意を払う場合の書き方なんです。
相手への敬意の表現として、書状も諸記録も一緒です。
ちなみに一文字スペースの場合と、段落を変えて相手の名前を書く場合と、2パターンあります。
自分の手持ち史料では、今のところは「一文字スペース」パターンしか見たことないっす^^
何せ変体漢文には句読点が「ほぼ無い」ので、欠字があると句読点代わりになるんで助かる^^;

さて久豊公一騎掛けしてる間に蒲生清寛が説得(叫んだ?)してます^^
右之趣御疑被遊候事残念至極ニ奉存候由申上嫡子三郎太郎忠清ト御駕ニ奉付僅五六十騎ニテ鹿児島ヘ御進入被遊候伊集院頼久退散仕原良ニ陣ヲ取罷在候間少時諸軍ヲ御待揃被成
ほらね (^ -)---☆Wink
久豊公の敵だった伊集院頼久には「公」って敬称も、欠字(一文字スペース)も無いでしょ~♪ヽ(*´∀`)ノ
って、読みづれぇーんだよ!!!(# ゚Д゚)・;'.

えっと~「右の趣き」・・・・一揆掛けするタイミングじゃないって言った事ですね
って言うのを疑われる(聞いてくれない)のは残念至極⇒超残念(´;ω;`)ウッ

こんなやりとりしてる間に、蒲生清寛の嫡男、三郎太郎忠清と兵5、60騎が追い付いて、その勢いで鹿児島へレッツGO!
伊集院頼久は占拠してた城から退去、久豊公も諸軍を待って陣を整えたそうな(ざっくり手抜き意訳^^;)

島津家文書に久豊公関連があったなぁ。
かといって読み下しても、当時の細かい情勢が判らないから中身を分析できないしなぁ。←未練がましいwww
・・・・時間あれば図書館で閲覧したい~~てことで後編へ続く、それは・またの話 by^-^sio

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筑後田尻氏_1・筑後守護職

えっと~ちゃんと参照してます(爆
時系列順なんで、こっちも筑後守護職ネタになっちゃうんです^^;
ちなみに今更だけど、念のため~守護職は(しゅ_ご_しき)と読みます。

参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」
※引用部分は緑文字部分にて表記します


南北朝の争乱期だが、参照文献によると蒲地氏と同じく田尻氏も当初は南朝方だった「らしい」
(傍証からの類推)
で、稀代の名将・今川了俊が投入され北朝に鞍替えし、その後に足利義満に解任され~の。
筑後守護職は大友なり~の。って流れは蒲池氏と同じで、あんまり足跡がない田尻氏。

蒲地氏1で書いたように、大内盛見を討って足利義教を激怒された大友氏が筑後守護職を解任されて、新たに菊池氏が任命される。
肥後菊池氏の筑後支配は30年ほどなのだが、史料が乏しく領国支配の中身は良く判っていない。
とりあえず守護代には、城(じょう)氏と石貫(いしぬき)氏が任じられた。
さらに家臣や被官(=配下の国衆)などに領地を安堵している事例があるそうです。
田尻家文書には菊池氏からの文書は残ってないんですが、他史料で田尻家が菊池氏から領地安堵を受けてたらしいのが推察できるそうな。

足利将軍が代替わりし、銀閣寺の足利義政が菊池と大友を筑後【半国】守護にしたのが寛正三年(1465)。
菊池氏は実力で残り半国をゲッツしようとして出兵したのが寛正六年(1465)二月。
菊池勢と大友勢は高良山一帯で激突し、菊池側は大将が討死するという大敗北を喫する。
世間は負けた側に冷たい・・・菊池氏の軍行動は非法行為とされ、筑後半国守護職は召し上げとなり、筑後守護職は大友氏が改めて任じられた。

筑後守護職を諦めきれない菊池氏は【半国の権利】を主張して来るので、大友家では足利義政に莫大な金額を献金して対抗。
結果、菊池氏の主張は退けられて、筑後の領国支配から手を引くこととなる。

家紋・大友 ロン様作成_大友家紋ロゴ

大友氏では一門の田原親宗(たはら_ちかむね)を筑後詰郡代に任命しました。
前回書いたように、大友家の職制では郡代と守護代は同等の権限を有するので、田原親宗が実質の守護代です。

田原親宗は在任中に筑後で起きた一揆の討伐をしているそうですが、田尻氏の動きは史料として残っていません。
田尻家文書から察するに、田尻家が大友家被官として関係が成立したのは文明年間のようです。
過去記事_田尻家文書2_大友親宗知行預ケ状
おほほほ~この読み下しの時期は大友親宗と田原親宗が同一人物か判断に迷ってたのよ~~~
○○を先に読んでおけば~~~は、いつものパターンですな ( ゚Д゚)y─┛~~

もっとも、この時に100町足りなかったり、後から検視が派遣されたりで、なんかスマートに行ってないですけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
とにかく戦国初期に入って、大友氏と田尻氏は主君と被官としての繋がりが強くなっていきます。

そうなると蒲池氏と同じく、豊後本国で「何か」あれば筑後田尻氏にも波及するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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筑後蒲池氏_筑後守護職

他の過去記事と重複する部分はあるのだが、筑後守護職は外せない^^;

参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」
※引用部分は緑文字部分にて表記します


参照文献では蒲池氏の出自について色々触れているのだが、管理人がオバカ専門外なので脳に浸透しない^^;
結論からいうと「よく判らない」らしい。
プロローグに書いたように「蒲池物語」は信憑性が低く、さりとて他のとなると文書が少なすぎて明瞭な痕跡がない。
ただ薩摩の旧記雑録の方から、江戸期に島津家臣となった蒲地氏と筑後蒲池氏が同族なのが判明したと書かれています。

鎌倉期~南北朝と記録が殆どない蒲池氏なのだが、どうも当初は南朝だったらしい。
あくまでも傍証からの推論なので参照文献でも「らしい」という控え目が書き方です。
南朝が優勢だった九州へのテコ入れで、名将と謳われた今川了俊が九州探題職として投入され、蒲池氏も北朝方へ鞍替えした(じゃないかな~と参照文献が推測してます)

で、九州において功績が大きすぎる今川了俊の存在を危惧した足利義満によって、了俊は探題職を解かれて駿河へ帰国。
当時、筑後守護職は今川了俊が兼務していたのだが、こちらも解任。
今川了俊に代わって筑後守護職となったのが、鎌倉期に筑後守護職の先例がある大友氏だった。
以来、筑後と大友氏は深い繋がりを持つようになる。

家紋・大友 ロン様作成_大友家紋ロゴ

その大友氏が一時、筑後守護職を外された事がある。
原因は大内氏との対立で大友が勝っちゃったから ( ̄ω ̄A;アセアセ
時の大内氏当主は11代目・盛見(もりはる)

大内盛見は、足利義満とは政治的に対立していたのだが、義満が病死し将軍職が代替わりすると相伴衆として幕政に参加するようになり、特に足利義教に重用された。
で、大内盛見は筑前が幕府の御料所となると筑前の代官に任命された。
このあたりの政治の裏までは調べきれてないのだが、何せ「万人恐怖」「悪御所」と言われたほど苛烈な足利義教がバリバリの頃だから^^;

そうとなると筑前を本貫地とする少弐氏と博多の利権で分け合う大友氏が黙っていられない。
デジャヴュなパターンで大友と少弐が ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!! と「打倒大内タッグ」を組む。
で、戦国期とは違い少弐・大友チームが勝って、大内盛見は討死する。

激怒した足利義教によって、大友氏は筑後守護職を解任され、代わって肥後守護職だった菊池氏が筑後守護職に任命されました。
それが永享四年(1432)のこと。
足利義教が嘉吉の乱で暗殺され、7代目も早世した為に8代目将軍職となったのが、銀閣寺で必ず教科書で紹介される足利義政^-^
寛正三年(1465)、その足利義政が大友氏と菊池氏に、それぞれの筑後半国の守護職に任命するという中途半端なことをした^^;
足利義政らしいというか・・・当然のごとく「半分ってなんじゃそりゃーーー」と、たちまち大友--菊池間で揉めた^^;

筑後に出兵した菊池氏が敗れたために、最終的に元鞘の大友氏が筑後守護職で治まるのだが、
治まらないのが肥後菊池氏だ。
肥後菊池氏は、筑後に関心を持ち続け、筑後国内にも菊池氏に従う者もいたりで、肥後の政治情勢が筑後に波及する状態は戦国期まで続き、結果として筑後は常に政治的に不安定でした。

で、大友氏ですが戦国期に入り筑後国統治に関し決め事をしてます。
「一、当国(豊後)の者、一人二人づつ、筑後在国あるべきの事」
(永正12・1515、大友義長置文、追而書第三条)


で、自分も参照文献で初めて知ったんですが、大友氏の職制として知られた「方分(ほうぶん)」という役職。
これは加判衆(大友用語で他家でいうと家老にあたる)の一部が、分国を一つずつ担当する方式。
(豊後国内においては郡単位)
つまるところ「守護代」みたいなものです。

この方分は戦国期になってから文献に登場し始めるそうで、初めからあった職制じゃなかったようなんです( ゚д゚)ンマッ!!
で、加判衆と方分の兼務のほうも、自分が見てる範囲ですと大友宗麟は兼務を嫌ったような感じを受けます。

それは置いておいて、方分の前は?というと普通に守護代、郡代が派遣されていました。
が、命令系統としては「守護代⇒郡代」ではなく、郡代が守護代と同等の権限を保持してたようです。

なるほど・・・それで郡代が安堵状を発給してたわけか・・・|田尻家文書|・ ̄)じぃー

何故、戦国期になってから「方分」」という職制が創設?されたのか、そのあたりの推移や職制の変遷となると、武家としての大友家が滅んでしまった為に明瞭になっていません。

戦国期と室町~戦国初期あたりで大友の職制が変化してるというのは、ちょっと驚き(@@)
古文書の読み下しの上でも非常に参考になりました。
守護代であれ、郡代であれ、大友家臣が派遣されている以上、豊後本国で「何か」あれば筑後にも波及するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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岩根寺(がんこうじ_福岡県嘉麻市大隈)

号は霊亀山。
大きな岩石が積み重なった間にあることから「岩根寺」と名付けられたそうだ。

天正年間初期に秋月種実によって建立され、武運長久と戦死者の冥福を祈願したと言われている。
この寺には「金の茶釜」が所蔵されていたそうで、秋月種実が将兵の慰労の為に茶を点てていたそうです。

『筑前国続風土記拾遺』巻之26 嘉麻郡 下 大隅村
村の北に在。霊亀山と号す。禅宗洞家下益村麟翁寺の末也。
此寺山根岩石の磊らい々たる間に在。
他所より望見る景色もまたすくれたり。本編に詳なり。


本編とは「貝原益軒の筑前国続風土記」の方。
自分、安さに目がくらんで本編じゃなくて補訂である拾遺の方を買ったもんで^^;

本堂の裏手が益富山になってるので、筑前六端城の一つであった益富城の登山口のとこから参道があるらしい^^;
勝手に画像を引用できないからコッチ⇒参照サイト「お寺巡りの友」

寺は明治初期に一度廃寺になったそうなんです。
その後に、篤志家によって改築されたとか。
件の茶釜は、平成初期は当時の区長が保存してたそうですが、現在の所有者はネット検索では出てこなかったです^^;

家紋・秋月 ロン様作成_秋月家紋ロゴ

最近、筑前史もリサーチが追い付かず御無沙汰なので、不定期ですがプチネタをゆるゆると紹介したいと思います^^/

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深堀家文書375_尚善加冠状

     加冠
           八郎善時

大永三年十二月八日
           尚善(花押)


加冠(かかん)---男子が元服して初めて冠をつけること。
(別名・初冠=ういこうぶり)

八郎善時---深堀善時
尚善-------西郷尚善
大永三年---1523年^^/

現代で加冠セレモニーがある職種というと看護師になるかな^^
で、冠を被せる役目の人を「烏帽子(えぼし)親」と呼びます^-^

元服は現代における成人式で、当然の如く生涯一度っきりの大事な節目です。
これから大人の仲間入りをする少年にとって、誰が烏帽子親になるかは非常に大事。
少しでも良い筋目の武将を~~~と、パパたちは我が子(と自家繁栄)の為に頑張るのです(=^・ω・^=)v ブイ
名字状は残ってないのですが、「善」の一文字も偏諱(へんき)を受けているのが、この加冠状で判ります^-^

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田尻家文書7_大友親治名字状

(折封上書)
「田尻又三郎殿     親治
(異筆)
「明応八年四月十日、此又三郎ハ遠江守はるたね前之名也、」
(端裏切封)
「(墨引)」
名字之事承候、以別紙、認進之候、恐々謹言
 四月十日         親治(花押)
  田尻又三郎殿


ん~~~これも複雑なものじゃないので意訳っていうより、むしろ語句解説のほうかな?

よく歴史ものの記事や小説とかで「主君から偏諱(へんき)を受けた」って書かれているでしょう?
偏諱とは、主君の諱(いみな)の一文字を拝領することで、別名で「一字拝領」「一字御免」「一字書出」とか言われます。

では具体的に、どんな書状ですか?というと記事タイトルのような「名字状」を発給します

偏諱した主君---大友親治(おおとも ちかはる・宗麟の曽祖父)
拝領した国衆---田尻又三郎が偏諱を受けて治種となった。

興味深いのは異筆の方で「はるたね」と平仮名で書いている事です。
この異筆(補足?)で「治種」を、「はるたね」と読んでいた事が判ります^-^

切封と墨引は古文書学入門で紹介したので割愛^-^
一応、読み下し~
異筆部分
明応8(1499)年4月10日、この又三郎は遠江守はるたね 前(さき)の名なり
本文
名字の事 承(うけたまわ)り候、別紙を以(もっ)て、認(したた)め進之候、恐々謹言
【進之候】も書止文言の定型文ですので、このまんまです。
ただ、礼としては「進之候」が一番薄礼。
宛名も敬称は「殿」って漢字だから、いっけん丁重そうですが、日付より宛名が下になっているのは薄礼なんです。

別紙に認め・・・というのは偏諱によって新たに名乗る諱【治種】と書いた紙を書きますよ~ってことです。
でも添付されてない処を見ると、残ってないみたいですね (*´p`)ホエ~

どうも田尻家で家督相続があったようで、このあとも安堵関係とか色々出てきます^-^

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相良家文書302_菊池重治安堵状寫(写)

(端裏ウハ(上)書)
「相良殿             重治」
肥後国八代郡并益城郡豊福二百四十町之事、任親父近江守長毎相続之旨、領掌不可有相違之状如件、
  六月十二日      藤原重治
   相良太郎(長祗)殿


肥後国八代郡併せて益城(ましき)郡豊福240町の事、
親父(おやちち)近江守長毎 相続に任(まか)すの旨(むね)、領掌(=了承)相違有る可(べ)から不(ず)の状 件(くだん)の如(ごと)し


じーーーーー|翻刻版|・ ̄)じぃーーーーーーーーーーーーー

読み下しだけするつもりだったけど・・・・
まず表題の安堵状の次にある文字は「写」で、どうやら原本が残ってないようです。
写だから重治の花押がない。(あったら偽造だwww)
菊池氏の本姓は藤原だから藤原でいいっちゃいいんだけどさ。

どうも菊池重治で残ってる書状や感状は書写ばかりのようで・・( ̄ω ̄A;アセアセ
花押のある原本では相良以外の文書で加冠状が残ってて、そっちは大永四年になってます。
ちなみに加冠状には「藤原」とは書いてないんだよな・・・
池田こういち氏は著作で大永三年と年度推定してるみたい。
べ・・別にっ!日向某家のような事を疑っている訳じゃ・・・ゲフゴホグフ

問題は奉書がないってことです・・・
安堵状が年欠である以上は、奉書がないと執行されません。
このままでは義治(=肥後守護職・菊池義武)のリップサービス。
従って、この安堵状写しだけを以て、相良氏が豊福の権利を主張するのは出来ない訳じゃないけど弱い^^;

大永3年(だと自分も思う)として、菊池義武は数え19の若さ。
彼個人で何かを決定することは、させてもらえなかっただろうから、大友家の意向が働いてるのかも。

となると、あえて奉書を発給せず、年欠の安堵状だけ先行させて一時しのぎしたかもだなぁ。
安堵状(ほか権利関係の文書)と奉書をワザと分離し、政治情勢に合わせて権利執行をコントロールするテクニカル方式です。

相良家文書、どっから読み下ししようかな~とチラチラ見てたら、これが面白かったので^^
萌える戦国初期にしようか迷ったんだけど、それだと調べ直すことが多すぎるからパス(←おぃ)
ぼちぼち行きます~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

衝撃!地元に相良家文書があった~~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

なんという灯台もと暗し( ゚д゚)ンマッ!!

先日、龍造寺家文書に北肥後国衆の小代(しょうだい)氏が登場しまして。
あれこれ調べていたら「小代文書」が熊本県史料_中世篇_第一巻に収蔵されているのが判りまして。
恙なく保護期間満了につき、近代デジタルライブラリ・提携図書館にて閲覧可能でして。

で連休初日に早速コピーしにレッツゴー~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
龍造寺家文書に対応する書状は残ってなかったけど、龍造寺隆信や政家やら鍋島さまからの安堵状などがあったんでコピーしてきましたの (*´pq`)ウフフ

ついでに鹿子木文書の龍造寺からみもコピーしてきちゃった 川* ̄д ̄*川ポッ 

そこで閲覧制限タイムである2時間を使い切ったので、図書館内の喫茶店でランチして出直し~
ついでなんで「相良家文書」もコピーしましょ~と再度の閲覧。

実は「相良家文書」って熊本県でも人吉市でも所蔵してないんです。
閲覧時間の関係で飛ばし読みなんだけど、昭和?大正期?の相良家当主が保存に困って手放したんです。
当時の郷土史家の「恨み節」によると「慶大(慶応義塾?)が買い取った!奪われた!!」って書いてるんで、なんか大人の裏事情があったっぽい。
(当時の相良家が財政難だったのかな?^^;)

とにかく「持ち去られる」前に、せめてヒルム(=フィルム)で残そうと相良当主の了解を得て準備してたそうな。
でも、やんぬるかなで撮影前日に大学側が引き取っちゃって撮影できなかったそうなんです。
郷土史家が地元で何とか保管を~収蔵を~~と綿々と恨み節を綴っているのが涙ぐましい  (゜-Å) ホロリ

で、その後の経緯は閲覧時間がなくて読んでないけど、とにかく「東大帝国大学・大日本古文書家わけ五の一と二」の二冊に「相良家文書」は収蔵されています^^/

さてライブラリの方でコピーしてもらおうと番号を__φ(.. ) メモメモして提出したらば・・・
館員「あの・・・大日本古文書は当館で所蔵してて貸出可書籍なんですけど、借りますか?」
ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

地元の図書館に大日本古文書があるとは(@▽@)シランカッタ
いままで、わざわざ近代デジタルライブラリで閲覧してた,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

てことで勿論借りました(=^・ω・^=)v ブイ
相良家文書を借りるのは自分くらいなものだろうから、期間延長を繰り替えせば、実質私物化・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

百合文書も気になるんだけど、専門外になるんでやめとく^^;
御機嫌な記事でした 川* ̄д ̄*川ポッ 

推考---龍造寺家文書120_小代親伝書状(切紙)

龍造寺隆信が勢力拡大するのは喜ばしいが、自分の引き出しゼロの国衆がガンガン出始めるので、必然的に「補足」だの「推測」だのが(自分が)必要になる。^^;
手持ち史料がないので、概略などは各種サイトの参照です__φ(.. ) メモメモ
じっくりやると数話になるんで、いきなり戦国に飛びます。

北肥後の国衆・小代(しょうだい)氏。
佐賀県史料集成第三十巻_成松家文書11
天正八年肥筑豊太守龍造寺山城守藤原隆信公御一家并(ならびに)家中幕下之侍付写、
千町、小代、(←該当部分のみ抜粋)

・・・てことで天正8(1580)年の段階で最盛期版図の千町だった小代氏。
その最盛期で当主だったのが、表題の書状を認めた小代伊勢守親傳です。
一般的には親忠の諱の方で知られています。

エリアは玉名市長洲町~荒尾市にかけてで筑後まで食い込んでたらしい、海岸沿いの国衆。
史料的な裏付けがとれないので推測ですが、有明海沿岸がエリアで菊池川も近い有力国衆となれば、自前の水軍があったんじゃないでしょうか。
筑後の三池鎮実の娘と小代親傳は結婚してて、その関係から筑後方面にも動員されていたようです。

肥後の国衆としての小代氏は、肥後守護職である菊池氏に従属していました。
様相が変わるのは戦国に入ってからで、北肥後の国衆は菊池氏に対し反抗的になります。
一つには大友氏による菊池氏家督への干渉が始まったのもあるでしょう。
誰が菊池当主になっても気に入らないのが北肥後国衆,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

そんな小代氏が大友氏に感謝されるほどの忠義者になったのが、菊池義武の謀反からです。
菊池義武の謀反に対し、小代氏が加担せず大友に与したのは・・・
あくまでも想像なんですが南肥後で戦国大名化しつつあった相良氏が菊池義武を支援したからじゃないかなぁ~です。

相良氏自体は、菊池義武の謀反支援に対し熱心ではなく、それにかこつけて名和氏から豊福城を奪還する方に熱中してました。
菊池義武謀反当時、相良氏は天草と国衆を配下にしてて八代海の制海権を握ってました。
八代の制海権と天草国衆を配下にするということは、有明海へも出られるということです。

明との交易の方が利益が大きいので、相良氏が有明海に関心を持つ可能性自体は低いでしょう。
有明に入る前に島原に有馬がいるしネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
宇土名和氏というワンクッションがあるので、相良氏が緑川を超える可能性は低いものの、
南肥後の勢力が北上してくるのが愉快であろうはずがなく、ましてや海からなら何時でも攻められるとなると・・・(´・д・`)ダメヨ~ダメダメ

ちょっと自信ないのは長洲町史を見てないから^^;
玉名市、荒尾市、南関町にまたがる山、小岱山には二つ城がありました。(正確に言うと3つ)
小代氏の筒ヶ嶽城
大野氏の日嶽城での別名「鶴城」と「亀城」。
日嶽城=鶴城の方が本丸。玉名市岱明町開田字小代。
日嶽城=亀城の方が二の丸。熊本県玉名市岱明町開田。

住所が違うことからも判るように、大野氏の日嶽城の本丸(鶴城)と二の丸(亀城)は、それぞれ独立した城です。
二の丸な亀城の方が古城に手を入れたものだったそうな。

霊峰に二つの国衆が城を置く・・・当然、両者は宿命のライバル。
菊池義武の謀反で大野氏は菊池サイドでしたの・・・( ̄ko ̄)
小代氏が菊池義武謀反に与しなかった理由としては、大野氏が菊池謀反に与した事の方が重要だったかも^^;

とにかく小代氏は、菊池義武の謀反、さらに小原鑑元の謀反と、大友氏側として奮戦し大友氏から忠節・軍功に対する恩賞として加増(三百三十町余)を受けているそうです。
小代氏が宿敵・大野氏を破るのは別の話になるので、ここからは【龍造寺家文書120_小代親伝書状】の話。

イメージ・花


佐賀市史によると、小代親傳が肥後に侵攻した龍造寺に降伏したのは、天正7(1579)春のこと。
(※前年に大友氏が耳川で島津氏に大敗してます)


そして筑後・蒲池氏を佐賀において殺したのが、天正9(1581)5月29日。
この時の柳川城攻めにおいて、小代伊勢守親傳も出陣していました。


書状の形式に倣い年欠ですが日付は六月十二日
蒲池氏を成敗した祝賀を述べていることから、蒲池成敗の同年と推定されます。

輙御成敗
(たやすく_ごせいばい)というのは、佐賀で誘殺したことを指しているのでしょう。

殘黨於佐良塩村楯籠候
(蒲池の残党が佐良塩村で立て籠もった時)・・・佐留垣城、塩塚城といった蒲池氏支城を落とした時の話です。

冒頭に貴礼とあるので、働きに対し隆信から褒められた小代伊勢守親傳。
お褒め内容に残党退治の話など織り交ぜられていたようで^^
蒲池と縁戚関係にある田尻に討伐を命じるという、あまり後味の良い戦でなかったのは、小代も承知していたのでしょう。

態被仰下候、外聞之至忝候、
(わざわざ仰せいただきましたが、外(隆信)にまで聞こえたのは恐れ多い事と思っております)
と、気を使うというか、謙虚というか、隆信の機嫌をとるような?ちょっと微妙な言い回しだと思いませんか?^^

やはり冒頭にとあるので、何か達し(令)もあったようで、
達し(令)の内容については石田内記助を通じてあるんだ・・・ってことを事前に隆信が報せたらしい。


参貴報
(貴(=隆信のこと・相手への敬称)報(しら)せ参(まい)る)・・・ドストレートに「報告します」です。
つまり、隆信からの書状を読んだ~~って報告と、今後もガン( ゜д゜)バルって、自身の豊富を添えてる訳です。

武家のやりとりって、けっこう面倒~~~
ラインの「既読」と同じですね(*´pq`)プププ
読みっぱなしで、相手から返信なしはモヤモヤするでしょう?(^ -)---☆Wink

隆信は蒲池退治直後で配下国衆の動静にピリピリしてたはずなので、小代は急いで返信したはずです。
だから「切紙」という簡略な方法をチョイスしたんじゃないでしょうか。

肥後関連の龍造寺家文書は、まだ始まったばかりですので、新たにデータが増えたら加筆します^-^

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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