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某講義に参加しました( ̄ω ̄A;アセアセ

地元図書館(=市の事業予算)で開催された古文書解読講座に参加し、今日が一回目でした^^/

面白い・・・といえば面白いんだけど、でもやっぱり睡魔との闘いになった・・・^^;
だって~テキストが苦手な幕末なんだもん~~~il||li _| ̄|○ il||l

自分は現代漢字で印刷された翻刻版で古文書を読み下しているんですが、困るのが「変体仮名」なんです。
いまのところ「変体仮名」の文書を読み下す場面には出くわしてはないものの、でもあるんです^^;
何を、どうすれば理解できるようになるのかヒントにならないかな~と思って専門外の時代だけど申し込んだ次第。

いきなりですが、初回というのに講師(女性)が遅刻しました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
今日は別のイベントが市内であって、交通規制に引っ掛かって遅れたらしい^^;
ま、数分の話なんですけどね(*´pq`)

周りは年配者~二十代くらいの方まで、やっぱ男性の割合が多かったかな^^
で、みんな殆どがMY変体仮名辞典持参ーーーーぇえ!(゚ロ゚屮)屮
いいもん、いいもん、筆記用具はあるもんね(´・*・`;)

どうも前年も同じ講師で古文書講座があったらしい。
で、その時に変体仮名の初歩は講義済みで、今回の参加者は前年参加者が多数いたっぽい。( ゚д゚)シランカッタ
で、今年度はステップアップした実践編ということで、ガチ古文書(コピー)を読もう~の講座でした^^;

どっちかっていうと、自分は前年に参加すべきだったのかも^^;
でも昨年は父の葬儀やら何やらでバタバタしてたから、どのみち受講は難しかったかもだなぁ(´・д・`)

テキスト古文書

こんな感じです。
ええ、もう、暗号ですわ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
翻刻版の偉業に感謝しかないです(-人-)☆彡

で、なぜ睡魔と格闘し、ちと瞼が・・・うとうと・・・ゲフゴホ
意識が遠のいたかというと、脱線が多い講義だったからil||li _| ̄|○ il||l

もちろん古文書を読み下すには、その背景となる時代を知るのは必須なので、脱線といってもホントに脱輪したわけじゃないんです。
ただ二時間近い講義の間に、6割強が時代背景の話で古文書の中身の解説は3~4割もない状態。
数ページあるテキストの内、はじめの1ページの読み下しすら全部出来ずに講義が終わった(´;ω;`)ウッ

時代背景となると幕末~明治の世情になるから、幕末に興味が薄い自分には苦行ですた・゜・(つД`q。)・゜・
もちろん「教科書に、そこまで出ない」って話だから、それはそれで面白いんだけど、自分の目的からは離れるわけで・・
つまるところ頂いたテキストは解説が終わらずに講義が終わったので、前年度未参加の自分は読めないままなのだ(´・д・`)
(内容は複雑じゃないので、前年度講義参加者で勉強を継続してる人なら自力で読めるっぽい)
で、次回は別のテキストになるという・・・なんじゃそりゃ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

もらったテキスト(※専門外の幕末)を独力で勉強するくらいなら、肥前中世史(※本業)古文書の変体仮名を勉強する方が先でしょ~なわけで^^;

でも全く無駄だったわけではなく、筆がはねる感じとか。
変体仮名は、寺子屋の手習いなのだから自分も実際に書いた方が判りやすいとか、参考になる話もありました。
「古文書やるなら!覚えなさい!(`・ω・´)ビシっ」
・・・・・って感じで、マジモードのスイッチ入ると怖い・・・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
会場も他の時代の翻刻版の読み下しのニュアンスを聞ける雰囲気ではないので、そっちは自粛します__φ(.. ) クウキ、ヨミマス

結論から言うと、やっぱ自分で地道に勉強するしかないぞ・・・って話ですな ( ゚Д゚)y─┛~~
でも地元で古文書を学ぼうって人が、こんなにいるとは思わなかったです。
定員割れも欠席者もなし。
みなさん凄い熱心で、いい刺激を受けて楽しかったです^^
2回目の来月は、もうちょっと内容に踏み込んで欲しいなぁ^^;
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

相良家文書333_島津実久起請文

本業は肥前なんだけど、相良家文書は図書館に返却しなきゃならないんで先にやります(←何となく言い訳www)
相良は趣味なんで、肥前のように全ては読み下ししません~
自分の「萌え」がチョイスの基準(`・ω・´)キリッ

「起請文」(包紙ウハ(上)書)

御慶千勝不易々々、抑於佐敷遂対談、始中終之儀御入魂之趣、本望候、既替一通申承候上者、雖世上中手候、不入他之案、永代一意ニ可申合候小事モ不審、?ニ無腹蔵可申顯候、此旨於相違者、
箱崎八幡大菩薩挊振大明神、春日大明神、諏訪上下大明神、天満大自在天神、摩利支尊天照覧、聊不可有違變候、恐々謹言


天文八年
十月廿六日          (島津)実久(花押)

ぐあぁぁぁ~~大日本古文書(大正時代の翻刻版)旧漢字が手ごわい~~~(_´Д`)アイーン

御慶千勝不易々々、←いきなりパス,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
なんかの慣用句っぽいけど、類例が探せなかったil||li _| ̄|○ il||l
そもそも佐敷に於ける対談遂に
※八代日記によると佐敷での会見は天文7(1538)年4月13日
始中終の儀 御入魂(=昵懇じっこん)の趣き本望に候
始中終---「初めも善く、中ほども善く、終わりも善く」(もともとは釈迦の説法が由来)
てことで、会見が実久にとって満足な結果だったのですね(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
既に替え一通申し承り候上は、世間が中手候と雖(いえど)も他の案は入らず
他に書状があったらしい・・・・
中手がワカラン,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
囲碁用語からの比喩か、季節の秋か・・・(-ω-;)ウーン
永代一意に申し合わせ候、小事も不審あらば腹蔵なく顕かに申し可く候
ちょっと?部分があったので、雰囲気で意訳^^
此の旨に於いて相違(あいたが)えば、
箱崎八幡大菩薩(筥崎八幡宮)、挊振大明神、春日大明神、諏訪上下大明神、天満大自在天神、摩利支尊天照覧、
神様パレードのほうは薩州家が何処を氏神にしてたかって事なんだが、特定できんかった(-ω-;)
聊(いささ)かも違変(いへん)有る可(べ)かららず候、恐々謹言
違変---約束・契約などを破ること


これは、島津の薩州家が、相良氏を仲介として天草氏と和睦した時に交わした起請文です。
前年の佐敷での相良と実久の会見で、和睦案が出てた感じですね |起請文|・ ̄)じぃー

天草氏と薩州家が揉めた原因には触れてないので詳細は不明です。
が天文年間の薩州家は、伊作島津氏と「宗家の座」を巡ってバトルモード真っ最中。
他と揉める余力がなかったと思うので、相良の仲介で和睦できたことは薩州家・実久にとって本望だったでしょう^^

超意訳は一部読み下しのニュアンスに自信ないのでパス( ̄ω ̄A;アセアセ

さて、次は関連文書だ~ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!

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【新納忠元_来た(菱刈)来る(相良)勝った(親指武蔵)_市山の合戦その六_】

出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(以下、緑太文字は原文、ただし( )内と句読点や段落はシオ補足)

※菱刈史以外を参照した時は別色文字で表記します。

『南藤蔓綿録』では大口城より大勢がまかり出て、東藤左衛門・上村弥五郎・的場自休その他数十人で追い掛かって市山城の本丸まで忠元を追い込んだとあります。

菱刈史に話を戻すと
・・・四面を囲み、球磨の士・東藤左衛門、愛甲助三郎、佐牟田守念等、先登に進み壁を越えんとした。
市山城側の鎌田壱岐守、税所右衛門兵衛、四元太兵衛、之を斬殺し門を開いて出撃つた。

ふむ・・・人物名で共通しているのが、相良側家臣の東藤左衛門だな・・・|菱刈史&他データ|・ ̄)じぃー
東藤左衛門は、岡本頼春(ウィキペディア)の次男で、相良義陽の祖父・上村一族の縁戚になります。
相良側のほうでも東藤左衛門が討死したとあるので、二次史料同士とはいえ記述が一致してるから、東戦死は確定ですね。

で、続いて市山の城兵も突き出でて戦ひ勢いを得て、菱刈軍■き破れ大口に退いた。
(■部分は、印刷の字が潰れて判読不可^^;)
なるほど~~親指武蔵を討ち取る、せっかくのチャンスを活かせなかったわけか^^;

再び『南藤蔓綿録』によると、上記の「追い込んだ」・・・の記述に続き、
後に相良が島津に従属した際に犬童頼兄が忠元にこのときのことを聞くと、忠元は小耳の根にある傷を見せ、本丸で的場自休と槍を合わせたときの傷だと述べ、頼兄は大いに笑った・・・
という内容で終わってました。
なんか笑って話を換えたか、その場を誤魔化した感じで、それ以上は深く触れてないんです。

島津きっての猛将として名高い新納忠元が、小勢で城外に出てて首尾よく手傷も負わせて、
こんな好条件は滅多になかったのに、逃げられた上に反撃されて・・・
結果として菱刈&相良の大敗だった。それで相良側二次史料がモヤっとした書き方になっちゃったみたい。

市山の城兵北くるを追ひ首級数多(あまた)得て勝った。(=^・ω・^=)v ブイ
「北くるを追い」って何ですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
来たくる・・・かな?^^;
忠元、此の日、傷を蒙(こうむ)る事、六ヶ所然も痛を忍びて諸軍を指揮したので
貴久公、長谷織部佐を市山に遣はし、忠元が功を賞された。

本藩人物誌によると負傷は頭と腹で六ヶ所だったとかで、
頭の傷の内一つが、南藤曼綿録にある小耳の根なわけね (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)フムフム
・・・ってリンパ腺の周辺じゃん~~~すっごい痛そう^^;

のちに新納忠元は「我ながらこの時は随分と働いた」と述べた・・・確かに。さすが猛将です。

人物・新納忠元

この永禄11年(1568年)2月28日における合戦は島津家臣・新納側の勝利に終わった。
だがノンビリする間もなく翌月に、再び菱刈からの攻撃が曾木(伊佐市大口曽木)で展開する。
「戦士に休息なし」ですな( ゚Д゚)y─┛~~

島津の菱刈討伐が膠着した一番の原因は、菱刈勢が相良から支援を受けているからです。
菱刈討伐が始まった永禄10(1567)年~11年にかけて、一次史料である相良家文書は二通しかありません。
残っている江戸期二次史料だけでは、当時の相良義陽が何を考えていたかサッパリ判らない^^;

相良ファンとしての個人的な推測は、義陽自身は島津とのガチ戦を望んでいなかったように感じます。
永禄12年に島津と相良の和睦バナが出るのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
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【新納忠元_市山城包囲_市山の合戦その五_】

出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(以下、緑太文字は原文、ただし( )内と句読点や段落はシオ補足)

※菱刈史以外を参照した時は別色文字で表記します。

新納忠元の背後から進み寄って左脇を刺したのは、菱刈史では相良家臣・竹添丹後守となっています。
編者の有川国千賀は相良側史料として求麻外史と南藤曼綿録を参照していたようで、
求麻外史には的場後藤右衛門 忠元と槍を接して之を刺すとあり
と( )で補足を入れていました。

この市山の合戦は、永禄11年(1568年)2月28日として話を進めているんですが、
永禄10年(1567年)4月9日説(ウィキペディア赤池長任を参照)もあるそうで、島津側と相良側では人物名など細かい部分に相違があります。
まぁ、史料アルアルですな ( ゚Д゚)y─┛~~

相良と島津、いずれにしても「忠元が負傷した」って記述は共通です^-^
主君・忠元を小苗代薬師堂から引っ張り出した家臣・久保勝八。
彼は負傷した忠元を助け【忠元の刀を抜いて】丹後守を退けた。

なんで忠元の刀を?と不思議だったが、その答えは本藩人物誌にあった。
本藩人物誌によると、忠元が左の片腹を槍で突かれた際に、久保筑前(通称が勝八)が忠元を坂の下に引き下ろした。
その際に自分の槍を手放しちゃった
とかで、それで咄嗟に忠元の刀を借りたんでしょう。

とにかく忠元の従兵・川畑藤七兵衛、春成外記らも駆け付け、負傷した忠元を回収。
だが、忠元には ゆっくり休んでいるヒマはなかった。
菱刈勢の方でも、市山城番・新納忠元が小勢で城外にいる事に気づいたらしく、それを狙って軍勢が増して来たんですΣ(´Д`;)はぅ

忠元は負傷しつつも指揮をとり、時に戦い、時に退くなど時間を稼いでいたら、市山城兵が忠元ピンチの連絡を受けて馳せ寄った。
これで漸く忠元は急を脱し、市山城へ入ることが出来たのだった。

たぶん、この話のことだと思うけど
菱刈史でも南藤曼綿録でも、新納が詠んだという和歌も出てないし、雰囲気がかなり違う^^;
大口を巡る争いは何度もあったので、伝承されてるうちに混ざっちゃったのか、2ちゃんスレに投稿した人が端折ったかのどっちかです。

とにかく忠元が市山城に戻っただけじゃ話が終わらなかった。
勢いの増した菱刈勢は、そのまま市山城の四面を囲んだ。


誰が大将だったのかとか、どのくらいの兵数で囲んだのかとかとか、全く書いてません^^;
ただ大口城には元から相良の在番兵が詰めていたし、菱刈側は他の支城を捨てて大口に集結しているので、
新納の市山城単体の兵力より「菱刈+相良連合勢」の方が兵数としては優勢だったはず。

島津本軍の攻撃で八城を失い、
この2月28日の戦いで、将を鉄砲で撃ち取られていても、
菱刈の士気が衰えず、強気な姿勢を崩さないのは、大口在番の相良から援兵が来るからです。
ちなみに、この時の相良側・大口城在番は赤池 長任(あかいけ ながとう)
相良における島津交戦派の旗頭ではないか~と思われる人物。

いくら菱刈の残党をモグラ叩きしても、彼らを支援する相良をどうにかしない限り、島津は大口を完全に掌握することは出来ないのだ。
相良からの援兵を得て、市山城を囲んだ菱刈勢。
負傷した新納忠元のピンチは続くのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
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【新納忠元_主君の余裕は家臣の大変?_市山の合戦その四_】

出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(以下、緑太文字は原文、ただし( )内と句読点や段落はシオ補足)


永禄11(1568)年2月28日、大口の地理偵察をしていた市山城兵が見つかり、大口城から出た菱刈兵&相良兵と小苗代原にて交戦!
ちなみに交戦は、市山の城番である島津家臣・新納忠元が、小苗代薬師堂で参詣中の間に起きてました。

猛将にして教養人の新納忠元は興を催したらしく、堂の壁間(=壁面)に「牡丹花下睡猫心在飛蝶」と書き始めた。
鎌倉時代からある由緒ある薬師堂の壁に落書き・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

小苗代原という地名は現在残ってないようなんですが、小苗代薬師堂が伊佐市菱刈市山なので、その周辺(菱刈花北)のようです。
新納の家臣・久保勝八が、地理偵察部隊が交戦中&だんだん薬師堂の方にも敵兵が近づいて来てますぅ~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
と、主に急を告げたのだが、忠元自若(じじゃく)として尚年月日を書き畢るので
落書きした年月日まで書いてたようです^^;
【自若(じじゃく)---落ち着いていて,物事に驚いたり慌てたりしないさま】
さすが猛将、驚かない。
人物・新納忠元 晩年の新納忠元イメージ画像

勝八頻(しき)りに呼ぶも忠元動く様子がないから
家臣の久保勝八が、何度も声をかけても忠元は壁に__φ(.. ) カキカキする方に熱中。
久保勝八・・・・・・(-ω-怒)ブチッ★
(勝八が)急に忠元が手を執(と)りて牽(ひ)き出した。
頭に来たのか焦ったのか、新納家臣・久保が薬師堂から新納を引っ張り出した。
コッチコイ!( ̄- ̄ )o―――――∞C
故に其題字の末字体(てい)をなして居なかったといふ
全部書き終わる前に、引っ張り出されたので最後の文字が~~~~~、って感じで流れちゃったそうです(爆
小苗代薬師堂は江戸期(明和年間)に焼失してるので、残念ながら新納の書いた壁も現存していません。
残っていたら、逸話の臨場感いっぱいだっただろうに,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

新納家臣・久保が必死だったのは、ほんとに敵が目と鼻の先まで来てたからだった。
薬師堂から出てきた新納の背後から、相良兵が襲ってきて新納の左脇を刺した!(゚ロ゚屮)屮
余裕かましすぎて不意を突かれた猛将だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【新納忠元_面高真蓮坊鉄砲?_市山の合戦その参_】

出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(以下、緑太文字は原文、ただし( )内と句読点や段落はシオ補足)


永禄11(1568)年2月28日、市山城にて大口攻略のための打ち合わせの後、二人(壱を参照)を見送った新納忠元は、
小苗代薬師堂に詣でて「牡丹花下睡猫心在飛蝶」と壁間に題して居た。
よく判らんけど、猛将にして教養人の新納忠元なんで何か和歌でも苦吟してたのかな?
「題して居た」・・・は、この後の話の流れを見るに、つまり壁に(たぶん堂守には無許可で)バッチリ墨で書いちゃってたのです^^
ここらあたりに何もないと、空間的に寂しいとかでも思ったのかしらネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

とにかく城主が外出して落書き参詣してる間に戦が起きてた^^;
是より先・・・と菱刈史にあるけど時間にして、どのくらい前になるのか。

とにかく新納忠元の市山城兵が大口で地理偵察してたそうな。
市山から島津側の偵察が来るのは、これが初めてではないので大口の方でも常に警戒を怠っていなかったのだろう。

大口城から菱刈の将・牧野次郎左衛門と相良の将・竹添丹後守が出陣し、市山からの偵察兵を追った。
見つかった新納旗下の市山兵は撤退したのだが、小苗代原で追いつかれたらしく此処で合戦となる。

小苗代原( ゚д゚)ンマッ!!
合戦になった場所って、忠元さんが詣でている小苗代薬師堂の側じゃありませんこと( ゚д゚)ンマッ!!

新納側の偵察兵の中に鎌田尾張守政年がいた。

いたっけ?( ゚д゚)
この時期に新納配下で市山城にいたか検索したけど判んなかった^^;
でも前年の菱刈攻撃から始まり大口攻めで活躍した武将なんで、いても不思議じゃない知ってる人は知ってる鎌田さんでした^^

とにかく鎌田が菱刈の将・牧野と交戦。
面高真蓮坊鉄砲を以て牧野を射殺

面高真蓮坊鉄砲とは(`・ω・´)キリッ 
面高真蓮坊という者が鉄砲でもって牧野を撃ち取ったんです(*´pq`)
原文ママだと句読点ないから「謎の兵器」みたいだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

面高頼俊(おもだか_よりとし)----代々山伏の家系で通称が真蓮坊。
数々の功績のなかで、この牧野を撃ち捕ったのも その内の一つ。
山伏ということで、使者としてアチコチ派遣されることも多かったようです。

菱刈の将を撃ち取ったことでヤッタ~と思ったのも束の間。
激した菱刈兵は、益々猛り攻めて寄った。

そうなると新納忠元が参詣している小苗代薬師堂も安閑としていられない。
忠元の家臣・久保勝八が敵が攻めてくるのを知らせたのだが、忠元は全く動こうとしない。
いや正確に言うと新納の手元は動いてる。
家臣の注進にも関わらず、新納は相変わらず壁に落書きちゅうだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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