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相良家文書492_筑紫良薫秋月文衆連著状(老臣宛編)~ただいま謀反中~

家臣相手の方だと【しおらしい】表現がなりをひそめるため、自分の都合を押し付けているようにも受け取れます。
つまるところ余裕がない筑紫&秋月の謀反コンビです^^/

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
桃文字---管理人からの突っ込み

(折封ウハ(上)書)(斐紙(ひし)、捻封、堅紙
「                     秋月
                      筑紫
東弾正忠殿
蓑田筑後守殿 御宿所             良薫」

「- ーー」(端裏切封)
態用一行候、仍従豊州、豊筑、幷肥前爲御競望、諸勢出張候、先至秋月可被召置之由候、雖然、右三ヶ國衆中堅申談候之条、乍恐、於行者不可有緩候、兼又去廿八日、爲御飛脚、大尋寺存泉被差遣候、書状等無之条、不正儀存候、乍去、此表立柄述口上候き、定可爲帰着候、重畳爲可申談、進彼方候、御屋形様御存知之仁候之条、毎事可被仰聞候、故實憑存候、委細含口上候、恐々謹言、
(弘治三年カ) 六月七日         良薫(花押)
        東弾正忠殿             文衆(花押)
        丸目兵庫頭殿
        簗瀬源左衛門尉殿
        桑原常陸介殿
        宮原筑前守殿
        相良尾張守殿
        蓑田筑後守殿 御宿所


態(わざ)と一行用いて候
文章の書き出しで意訳すると、折り入って手紙を書かせて頂きますって雰囲気かなぁ
つまるところ義陽宛ての「態令啓候」と同じなんです。
で、義陽宛ての「令啓」の部分が相手に敬意を払う表現です^-^
だから当主である義陽より、老臣相手の方が意味は同じだけど軽めの表現をしているわけです^-^
豊州(豊後)豊筑(筑前)幷(ならびに)肥前仍(より)従い御競望(けいぼう)為して、諸勢出張候、
豊後、筑前、肥前より諸勢が競望/ケイボウ・・・我勝ちにと争いを望みやって来ました。
先(さき)に秋月に至り召し置かられ可(べ)くの由候、
先に秋月(朝倉市)に来て召し捕えるためです
雖然(しかりといえども)右の三ヶ國衆中、堅め申し談じて候の条、
ですが、上記三カ国の衆は、和議を申し込んできたりという感じです。
乍恐(おそれながら)、行いに於いては緩み有る可(べ)から不(ず)候、
恐れ多いことですが、(時節柄)行動には気を付けた方がいいです。
兼ね又、さる二十八日飛脚を為し、大尋寺存泉を差遣(さけん)らせ候
それと さる5月28日に飛脚として大尋寺存泉を差し遣わしましたが
書状等無しの条、義正しからずと存じ候
返事がないというのは、武士の義として(・A・)イクナイ!!と思います。
ほぼ同内容でしたが、ここが違ってます。
義陽相手には【返事がないのは、心もとない・・ショボーン..._φ(・ω・` )】としおらしく書いてたのが、
家臣相手だと【武士の義から外れてる】とハッキリ非難してます^^;
乍去(さりながら)、此表(このおもて)立柄(たちがら/状況)口上(こうじょう)述べ候き、定めて帰着為す可く候、
ですので、こちらの現状を述べますから、結論を出してくださいね^^/
申し談じ重畳爲す可く、彼方進(まい)らせ候、
話し合いが満足行くように、彼方がまいります。
義陽宛てには【お取合い可く】と仲介を頼み大友勢の動きなと色々言っていますが、家臣相手には本音を漏らしてません。
御屋形様の御存知の仁(人)候の条、事毎(ことごと)に仰せ聞からせべく候、故実に憑いて存じ候、
彼方・・・使者は御屋形様(大友義鎮)が御存知の人なので、何事につけ仰せを聞くように、故実についても存じてます
なんか家臣相手だと偉そうな文面です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
大友義鎮の知人なら粗略にはしないけど、だからといって言う通りに動かなきゃならない義理はないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
委細口上に含む候、恐々謹言
詳しいことは口上に含めます、恐々謹言なぅ

分析は別記事にします^^/
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

相良家文書491_筑紫良薫秋月文衆連著状~ただいま謀反中~

まずはじめに
長文記事はシンドイという方の為の超意訳
(謀反中なので)大友勢がぁぁぁ~~~
この前に うちらの出した使者をスルーって酷くね?心が折れそうなんだけどぉ~~
なんとか仲介してくれませんかね?
あと、大友が日田に陣を移すから、そっちも油断しない方がイイと思うよ~~


って感じですが、いざ参らん本文の旅路へ!(`・ω・´)キリッ
緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
桃文字---管理人からの突っ込み

(折封ウハ(上)書)(斐紙(ひし)、捻封、切紙)
「                     秋月
                      筑紫
相良殿
  御宿所                   文衆」

「- ーー」(端裏切封)
態令啓候、仍従豊州、豊筑、并肥前爲御競望、諸勢出張候、先々至秋月可被召置之由候、雖然、右三ヶ國衆中、或以神戴申談、或合縁申組、不浅一意之覚悟候之条、乍恐、於行者不可有緩候、此刻御本家御再興専一存候、然處、前廿八爲御飛脚、大尋寺存泉被差遣候、不預御書状候之条、無御心元候、乍去、此表立柄述口上候き、定可爲帰着候、以其趣致言上候、可然之様御取合可畏入候、重而蒙仰子細等、至両人可示給候、爲御心得候、豊州衆既至日田軍陳(陣)易候、近日如此表出張之由候、御行等被差寄肝要候、不可有御油断候、猶彼方可有演説候、恐々謹言
(弘治三年カ)六月七日         文衆(花押)
相良殿 御宿所              良薫(花押)


入力するだけで疲れた・・・il||li _| ̄|○ il||l
さて、読み下し行くじょ!(`・ω・´)キリッ
家紋・秋月 ロン様作成_秋月家紋ロゴ
態(わざ)と啓(けい)令(せ)しむ候
書状の書き出しにおける慣用文らしく読み下し方がイマイチ判らないです^^;
意訳としては⇒折り入ってご連絡します。って感じです^^b
豊州(豊後)豊筑(筑前)幷(ならびに)肥前仍(より)従い御競望(けいぼう)為して、諸勢出張候、
豊後、筑前、肥前より諸勢が競望/ケイボウ・・・我勝ちにと争いを望みやって来ました。
管理人註:先に毛利に寝返り謀反を起こしたのは秋月と筑紫コンビです^^;
先々秋月に至り召し置かられ可(べ)くの由候、
先々(せんせん)秋月(朝倉市)に来て召し捕えるためです。
管理人註:謀反起こしたのは5月ね^^b
雖然(しかりといえども)右の三ヶ國衆中、或いは神戴を申し談、或は合縁を申し組み、一意の覚悟が浅からず候の条、
ですが、上記三カ国の衆は、和議を申し込んできたりと、覚悟がイマイチなんです。
神戴が判らなかったので前後の雰囲気で意訳^^;
ちなみに大友勢から和議云々の話が出てたっていうのは、自分の調べた範囲では無かったっすよ(・∀・)ニヤニヤ
乍恐(おそれながら)、行いに於いては緩み有る可(べ)から不(ず)候、
恐れ多いことですが、(時節柄)行動には気を付けた方がいいです。
お前が言うか。(爆)
此刻(このとき)は御本家御再興に専一存じ候、
こういう時なんで御家再興に励みます(`・ω・´)キリッ
然處(さるところ)、前(5月?)廿八(28日)飛脚を為し、大尋寺存泉を差遣(さけん)らせ候
さる5月28日に飛脚として大尋寺存泉を差し遣わしましたが、
謀反起こして程無い時期に相良へ使者を出してたのか( ゚д゚)ンマッ!!
御書状を預からず候の条、御心元無く候、
そちらからの返事は預かってないって・・・・(´;ω;`)ブワッ
乍去(さりながら)、此表(このおもて)立柄(たちがら/状況)口上(こうじょう)述べ候き、定めて帰着為す可く候、
ですので、こちらの現状を述べますから、結論を出してくださいね^^/
前回返事なしだったのは情報不足だったからだ、と切り替えたポジティブキングな秋月&筑紫
其の趣(おもむき)以(もっ)て言上致し候、然(しか)る可(べ)くの様で御取合可く畏入り候、
そういう事情で話すんですけど、(大友との間を)取合い・・仲介して頂けないかなぁ~って(-人-)☆彡オネガイ!!
ここ、多分、一番言いたかった部分,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

重而(かさねて)仔細(しさい)等 仰(おお)せ蒙(もう)し、両人(秋月&筑紫)に至り示し給う可(べ)く候、御心得為す候、
かさねてですが、細かい事情を言いますので、我ら二人にご教示下さい~心得にしますからっ(><:)
だんだん余裕がなくなって必死な文面に・・・^^;
豊州(大友)衆 既に軍陣を易く日田に至り候、近日に此表へ出張する如く之由候、
豊後・大友勢は既に陣を日田に移しました。近日中にコチラへ出張してくると思います。
御行等 差し寄らせ肝要候、御油断有るべからず候、猶 彼方から演説有るべく候、恐々謹言
使いとか人数とか用意しとくのが大事です。油断しないでくださいね!←お前らが言うな状態www
えっと彼方から説明ありますからっ!!恐々謹言なぅ
使者の名前が書いてないけど決まってなかったのか咄嗟に出てこなかったのか、とにかく慌ててる感じです^^;

九州の方なら判ると思うけど、日田は豊後と筑後の国境の土地。
そこから秋月(朝倉市)まで、たぶん当時でも二日かかんない^^;
生え抜きの大友本軍精鋭なんで、行軍スピードはもっと早いかも^^;;
ちなみに日田へ入ったのは戸次鑑連(=雷神・道雪)、臼杵鑑速、吉岡長増、田北鑑生という豪華ラインナップ(=^・ω・^=)v ブイ
秋月&筑紫は、ピンチもピンチ、大ピンチが目の前って時期の書状です。

家紋・相良 ロン様作成_相良家紋ロゴ

北肥戦誌によると秋月の古処山城が落城したのは、相良へ書状出した翌月の7月13日です^^/
秋月&筑紫の黄金謀反コンビが、相良に大友への仲介を頼んでたとは知らなかったです。
読み下しててニヤニヤしちゃったぁ~すっごい面白かった!!!
ちなみに弘治年間なので、秋月文衆とは秋月文種。筑紫良薫は特定できなかったけど惟門か一門の誰かです。

手紙の翌月に落城するところを見ると、この書状も相良側は全力でスルーしたようで・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
秋月文種は自害し、息子の黒法師(=種実)が毛利元就の庇護を受け、そして種実の打倒大友ストーリーが始まる事になります。
大蔵系氏族ファンであり、相良ファンの自分としては、夢のコラボ文書なのでした~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

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相良家文書406_小槻伊治書状

趣味の相良・・・だったのだけど、意外に肥前や北九州関連文書が多かった^^;
図書館へ返却する都合もあるので、急ピッチで行きます(`・ω・´)キリッ

内容としては「相良家文書404_有馬晴純書状」と連動してます。
では、いざ!(`・ω・´)キリッ
緑文字---原文(翻刻版)ママ

(折封ウハ(上)書)形態:切紙
「                     官
相良宮内大輔殿
  御宿所                伊治」

「- ーー」(端裏切封)
返々、有間殿馳走、不及是非候、以後便、能々一礼被仰候て可給候、
今日従藤津発足申候、使儈帰参、目出候、近比御残多計候、必小者一人ニテ以下國可申述候、千々萬々申談候共、可爲同前候、返々旅中事、御懇之故、有間殿馳走候、可御心安候、目出以後信可令申候、恐々謹言、
    (天文十四年)十弐月廿二日        伊治
   相良宮内大輔殿
         御宿所


家紋・大内 ロン様作成_大内家紋ロゴ

小槻伊治(おづきのこれはる)
書状404で「官務」と呼ばれていたのは、彼の宮中における職名です。
「小槻」というのは「本姓(源平藤橘みたいなもん)」で、普段の名字は「大宮」。
ウィキペディアも大宮伊治になってます(お蔭で探すのに手間取ったil||li _| ̄|○ il||l)
「官務」というのは、一言で言うと「宮中の庶務を取り扱うのが仕事」
ということで、その職務の性質上、武家官位任官の口利きコネを持つ人物です ( ̄ko ̄)
さらに特筆する点は、小槻(大宮)伊治の娘が大内義隆の側室だったことで、娘は義隆の嫡男・義尊を生んでいます。
伊治は娘の縁で山口へ下向してたんですが、それが「大寧寺の変」の遠因ともなり彼も義尊も陶晴賢に殺されます。

家紋・相良 ロン様作成_相良家紋ロゴ

それはさておき、相良義滋、晴広が任官と足利将軍家から「義」の偏諱を受ける際に、西国のドン・大内義隆の力を借りました。
禁裏(朝廷)への貢物や任官の際の装束などなど先例ノウハウ・レクチャーの為に、球磨(内容から類推)へ下向し指南したのが小槻伊治だったようです。
相良家にとっては、どれほど手厚く持て成しても「過ぎる」という事はない、大事な大事な客。

なにせ大内義隆の元へ帰還した後は、宮中に働きかけて奉書(庶務手続き)してもらわなきゃならないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
それで無事に送り届けるために、天文年間最盛期である有馬氏にボデーガード&接待(-人-)☆彡オネガイしたのでしょう。

で、この書状は小槻伊治から相良への礼状です^-^
【返々旅中事、御懇之故、有間殿馳走候、可御心安候】
道中は懇ろで、これは有馬からの馳走(奔走)です。御安心下さいね(^ -)---☆Wink
快適な旅だったようで何よりですが・・・馳走してくれた人の名前が当て字ってのが、いかにも時代ですねぇ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
宮中で庶務を担う人ですら、私的な書状では確認しないで当て字で済ませちゃうのが、面白いです^^

藤津を出発します~って挨拶で、特に重要な内容ではないので読み下しや意訳は割愛します。
え?中身が重要じゃないなら何故やるか、ですか?^-^
大内義隆に絡んで小槻伊治を紹介したかったのと、
有馬のガードで藤津に一旦入ったってことは「八代の湊」からの船便っぽいなぁ~と感じたから。
天文年間に「有馬⇔相良」間で廻船があった傍証にもなるかな?と思って記録として残しておきたかったのです^^
オタクの拘りですいません^^;

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相良家文書405_有馬晴純書状『廻船荷物』

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---超意訳
前回書き忘れたんですが、有馬から相良への文書は前回は折封。
今回は折封って書いてるけど実際は捻封。
料紙は前回今回共に切紙。
これも宛名に「御報」とあるので、相良からの書状に対する返信です。

(折封ウハ(上)書)
「                     有馬
相良殿
  御報                    晴純」
「- ーー」(端裏切封)
就御領内廻船荷物儀、示給旨候、當時嶋原左衛門大夫爲多久番在城候、其謂帰宅之刻相尋、従是可令啓候、委細猶大福寺可被相達候、恐々謹言、
    四月七日        晴純(花押)
   相良殿 
      御報


御領内の廻船荷物の儀に就いて、示し給う旨候、
領内の廻船荷物について指示ありましたが、
当時島原左衛門大夫 多久番在城の為候、 
そのころは島原左衛門大夫(担当?)が多久城番なんです。
其の謂れ帰宅の刻(とき)相(あい)尋(たず)ね、是従(よ)り啓(けい)令(せ)しむ可(べ)く候、
戻ってくるのは何時かとのお尋ねですが、是よりやらせます。( ̄ω ̄A;アセアセ
啓=相手への敬意としての文字
委細猶(なお)大福寺相達せられ可(べ)く候、恐々謹言、
詳しいことは大福寺から連絡します~恐々謹言なぅ

読む下しと意訳はサクサクでした(=^・ω・^=)v ブイ
いろいろと非常に興味深い書状ですので、ゆっくり分析したいと思います(*´pq`)

まず、結論から言うと最盛期の有馬って ゴシゴシ(-_\)(/_-)三( ゚Д゚) ス、スゲー!
多久に城番がいたということは、最盛期の有馬は多久を完全制圧してたってことです。
で、それを島原氏が勤めてたそうで、人的交流フットワークも活発だったみたい。
島原氏は有馬配下の国衆でしたが、ぶっちゃけ左衛門大夫だけじゃ島原一門の誰なのか特定できん(苦笑)

とにかく有馬が多久をゲッツするとなれば、少弐資元の自害後になるはずだから天文4(1535)年以降になります。
でMAXのほうとなると、多久氏自体は未だ滅ぶわけじゃないので、有馬の多久支配は天文年間の内の数年間といった感じです。
年度推定は肥前側データを吟味しないと、今の段階では これ以上は何とも言えないです( ̄ω ̄A;アセアセ
家紋・相良
(ロン様作成_相良家紋ロゴ)

で、更に今回初めて知ったのが「相良⇔有馬」間で廻船(物資貨物船便)があったことです。
廻船ですから、この文書の時限定ではなく定期的にあったのではないでしょうか。
そうなると有馬と相良は、互いの家紋を掲げた船に対し海賊行為をしないという相互不可侵の約定を交わしてたはずです。
海の盟約関係・・・それが戦国大名化した相良と最盛期の有馬氏の関係だったのかも~妄想モード(人´∀`).☆.。.:*・

推測はさておき、この廻船荷物が相良氏にとって
・明との交易船で、有馬エリア(島原半島のどっか)に一時寄港したのか
・大内氏か室町幕府への献上の品で、有馬エリアに(以下略)
相良の出した荷物への指示・・・詳細を知ってるのは大福寺さん限定です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

荷受け(運上関係?)担当が島原左衛門大夫で、彼が不在の為に諸事滞ってたみたい。
それで相良が「どうなってんだ ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」と催促したみたい^^;
有馬晴純が「これから やらせます~~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ」と返事してるwww
天草地方を支配する相良氏は、有馬にとっても『エリア内の海の安全』のために粗略に出来ない相手だったのでしょう。

ちょっと推測が多くはなってしまったけど、当時の外交関係が覗ける興味深い文書です^-^

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相良家文書404_有馬晴純書状~龍造寺は思い通りになるはずって未来予想図?

今回からは有馬氏~本業の肥前と関連するものです(=^・ω・^=)v ブイ

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---超意訳
(折封ウハ(上)書)
「                     有馬
相良殿
  御報                    晴純」

「- ーー」(端裏切封)
芳礼令披見候、仍官務殿就帰路之儀、此堺驚(警)固等之事、被仰越候、随分致馳走候、其趣御使儈御存知之前候之条、不及口能候、次龍造寺一類蜂起候之間、近々至小城表一手遣為可取成、令出張候、案利不可有程候、心事猶期来喜、令省略候、恐々謹言
    (天文十四年)十弐月廿二日        晴純(花押)
   相良殿 
      御報


芳礼披見せしめ候、仍(よっ)て官務殿帰路の儀に就いて、此の堺警固等の事、仰せ越られ候、随分馳走致し候、

御礼(の手紙)見ましたよ~
官務殿の帰りなんですが、国境まで警固って話があったんで、随分馳走・・・随分奔走しちゃいました(^ -)---☆Wink
官務殿=小槻(大宮)伊治(おずき これはる)---この後の文書の登場するので、その時に改めて説明します。
芳礼=芳の文字は相手への敬意ですので訓読には含みません。
其の趣は前の御使儈御存知の候の条、口能に及ばず候
そのあたりの事は前の御使者が御存知のことなので、口能(こうのう=斡旋)には及びません^-^
************************************
ここまでは簡単だった~(*´pq`)ウフフ
段落としては、ここで一区切りになります。
古文書というか昔の文章って改行しないから、内容で判断するしかないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

相良氏を訪問してた【官務殿】が無事に帰れるように、有馬氏に警固を頼んだようです。
有馬ってことは、陸路ではなく海路を使ったんじゃないかな。
このあとの文書に出るんですが、帰りコースで藤津を通過してます。
官務殿の説明は違う文書でしますので、ここでは割愛します。
************************************
次 龍造寺一類(一門)蜂起候の間、近々小城表に至り一手遣わし取成し為す可(べ)く出張せしむ候、案利(あんり)程有る可(べ)から不(ず)候、
次、龍造寺一門が蜂起した話ですが、近いうちに小城表へ兵を遣わし取成しに出張する予定です。
まぁ、思い通りになるでしょう。

心事 喜び来る猶期 、省略せしむ候、恐々謹言
これから新年を迎えるんですが、御挨拶は省略します~恐々謹言なぅ
************************************
おにょれ有馬め~~~(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
人物・有馬仙巌(晴純)
(久々登場、有馬晴純イメージ画像)

天草地方にチョッカイ出しかけてた有馬氏が、その後に関心を失った(らしい)理由は史料が残ってないので憶測するしかありません。
天文年間の有馬の動きとしては、南下ではなく小城⇒佐賀を目指して肥前を東進してるんです。
最盛期だった有馬氏は島原半島~六角川流域までが勢力エリアで、更に小城&佐賀郡を窺う勢いでした。

有馬にとって美味しい状況になったのが、少弐氏が龍造寺の台頭を恐れて潰しにかかったことです。
そのために少弐氏は有馬と手を組み、小城、佐賀へと有馬軍を招き入れてしまいます。
もっとも少弐にすれば、有馬だって本来は少弐の被官でしたので「手を組む」って感覚じゃないのかも^^;
一門を騙し討ちされた龍造寺剛忠(家兼)は、再起のために蜂起し城を奪還し少弐らを追い出しました o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

ちょっと天文13年か天文14年か年度推定に迷ったんですが、
「龍造寺蜂起」とあるので翻刻版にある通り天文14年なんだと思います。

キリシタン(史料の宝庫・神社仏閣破却)で龍造寺の台頭で一度没落し、江戸期は本貫地から離れたのもあって、有馬氏に関する中世・戦国期の一次史料は潰滅状態。
他家に残る一時史料で足跡を辿るしかない状況です。
にしても天文年間の有馬氏と相良氏が交流してたのは、今回初めて知りました( ゚д゚)ンマッ!!

どうやら有馬晴純は再度、小城郡(佐賀県小城市)へ出兵するつもりだったようです。
表向きの名文としては「(少弐と龍造寺の)取成し」だったようで^^
有馬の脳内構想では「案利(あんり)=勝利or思い通り」になる予定だったみたいですが、結果として出兵してません。

それも有馬側史料がないので憶測になるんですが、少弐が敵となった龍造寺(村中宗家)が大内義隆の被官になったのが影響したんじゃないかな~と^^
とにかく、この文書は天文年間の有馬晴純の心底がチラ見できる、肥前にとって貴重な一次史料なのです^-^

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相良家文書337_天草尚種書状

333、336、と今回の文書は連動しているので、年欠ですが同じく天文年間のものと推定されます。
本業は肥前ですが図書館に返却する都合上(以下略
緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---超意訳

「- ーー」(端裏切封)
実久之一通、加披見、返進之候、
如御礼、厥己後者無音、心外候、曾非粗略之至候、仍薩州此方就和睦之儀、預御使儈候、祝着候、愚意之趣、先日以観音寺令申候、于今同前之覚悟候、可然於御調達者、可爲本望候、次有馬晴純被申旨候条、上津浦方申合候、爲御存知令啓候、其面無異儀之由承候、専一候、心緒連々可申談候、委細猶松源寺可有演説候、恐々謹言
    十一月廿九日   (天草)尚種(花押)
   相良殿  御報


実久の一通、披見を加え、返進(信)の候
実久からの書状を見て返信しました__φ(.. ) メモメモ
御礼の如く、厥(その)己(以)後は無音、心外候
御礼の後は音沙汰がないですって( ゚д゚)ンマッ!! そんなん思いもしなかったよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
粗略の至り曾(かつ)て非ず候、仍(よ)って薩州とコチラの和睦の儀について、御使仲買(ちゅうかい)預かり候、祝着候
失礼した事なんて今までないっすよ(*´m`)
ですから薩州家との和睦について仲介頂き、お祝い申し上げます(^-^)

愚意の趣き、先日 観音寺を以て申さしめ候
当方の考えについては、先日、観音寺を通じて伝えました。
于今(いまに)同前(どうぜん)の覚悟候、然る可(べ)く御調達に於いて為す可(べ)くは本望に候、
今までと同様の覚悟でいますし、御調達をすることは本望です(`・ω・´)
**************************************
ここまでで文書の内容としては一区切りになります。
宛名に御報とあるので、これは相良からの書状に対する天草からの返信です。
で冒頭に「実久の一通を見た」とあるので、相良では実久からの書状も同封してたようです。

で、実久からの手紙の趣旨は、内容から鑑みるに「たぶん天草へのクレーム」^^;
自分への挨拶がないから無礼とかなんとか相良に文句いったっぽい^^;
実久から見れば「薩州家の家格の方が天草より遥かに上!(`・ω・´)キリッ」って思いがあるので、
天草から何がしか薩州家へアプローチすべき(と実久は思ってる)なのに「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.音沙汰ねーぞ!」と。
直接天草に言うと角が立つから和睦の仲介した相良へ書状出したって感じだなぁ |文書|・ ̄)じぃー

で、相良からの書状と、同封されてた実久から書状に対し天草が
え~~~そんなつもりないですぅ(ブリッコ)~~~と、すっとぼけてる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
天草にすれば「実久の下位になるつもりない」ので、和睦後は知らんぷりしてたんでしょうねぇ(・∀・)ニヤニヤ
で、相良に対し、これまで通りの覚悟で頑張りますって、相良の方を薩州家より立ててます。

というのは、天草氏が天草地方において主導権を握るのに、相良の力を必要としてたからでしょう。
以下、読み下しの続きです^^/
**************************************
次 有馬晴純より申されし旨候条、
次に有馬晴純から言われた件なんですが、
上津浦方より申合せ候、御存知為さしめ候
上津浦方より話合いがあり、御存知の通りとなりました
啓---この場合は相手に対する敬意としての文字で訓読に含みません^^;
其面に異儀無くの由(よし)承り候、専一(せんいつ)に候、心緒(しんちょ)連々は申し談ず可(べ)く候、
内容に異議はないので受けました。専一にします。自分の気持ち色々は申し入れします。
専一---他の事を考えずに,ただ一つの事柄に心を注ぐこと。
尚、委細は松源寺から演説が有る可(べ)候、恐々謹言
なお、詳細は松源寺から話が有るでしょう。恐々謹言なぅ

上津浦というのは天草地方の国衆で、天文年間に天草氏と揉めてたんです。
そこに兵を入れて介入し、天草地方の上位者となったのが戦国相良氏でした。


詳細は不明なのですが、どうも同時期の天草地方に有馬晴純もチョッカイ出してたみたいです。
文書336にも松源寺の名があるので、連動してるのが判ります。
和睦において双方を使者として往還してたのでしょう。

つまり事と次第によっては有馬が天草地方の上位者になる可能性もゼロじゃなかったって事です。
ところが、天草地方において勢力のある天草氏が、薩州家・島津実久との和議において相良氏の助力を得ていた。
超近所な薩州家からの軍事的脅威に対抗するには、天草に近く&薩州家とエリアが隣接してる相良が一番頼りになる。
そのため天草氏は上位者を相良と定めたんじゃないでしょうか。

これが契機になったのか、天文年間において有馬氏と相良氏は書状のやりとり外交をしています。
ただし有馬の天草地方への介入は諦めた(或いは関心を失った?)らしく、この後の「有馬~相良」間の書状で天草地方に関する記述はなくなります。

333、336、と今回の三通の文書は、天文年間において相良氏が天草地方を支配下に治めていく経緯が、ぼんやりと見えてくる史料なのです(*´pq`)

さぁ~って、次は有馬と相良と龍造寺だ!ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!

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相良家文書336_某重通書状

本業は肥前ですが図書館に返却する都合上(以下略
緑文字---原文ママ
青文字---読み下し
赤文字---超意訳

「- ーー」(端裏切封)
預御芳礼候、甚祝着候、仍従(有馬)晴純、以潮音寺、被仰渡候趣、細々示預候、御取置御賴敷存候、此前林田方善宥被懸御意、申談候篇目、聊爲此方無相違之儀候、爰元可預御分別事、可爲本望候、乍恐、御代々辻候条、或方御調達、萬端奉賴候、委細枩源寺可有御達候、恐々謹言、

          霜月廿七日   重通(花押)
(※宛先は相良殿御報)

御芳礼を預かり候、甚(はなは)だ祝着に候、
御礼を預かり(*´pq`)ウフフ、(今回は)超才×〒"┝ ~_〆(・_・。)カキカキッ
仍(よっ)て従って(有馬)晴純には、潮音寺を以(もっ)て、仰せ渡らせ候の趣き、細々(こまごま)示し預かり候、
てゆうことで有馬晴純には、潮音寺へ言われた内容詳細を預けました^^/
潮音寺---特定不可、口上の使者になった人物を指してるようです。
御取置(処置)について頼もしく存知候、
処置の件、流石っすね!頼もしい~(人´∀`).☆.。.:*・
此前(このまえ)林田方善宥 御意(ぎょい)に懸られ篇目(へんもく)申談(しんだん)候
この前、林田方善宥がお心の内を篇目(箇条書きの文書)にして申し入れてきました_φ(.. ) メモメモ
林田方善宥---人物名らしいが特定不可でした^^;
聊(いささ)かも為す此方(こちら)は相違の儀無く候、
こちらには異論など全くありません。
爰(ここ)において御分別の事 元より預かる可(べ)く 為す可(べ)くは本望候
ここにおいて(和議について)お考えのことは元より預かるつもりでいましたし、それは自分にとっても本望です(`・ω・´)キリッ
恐れながら、代々の辻(筋)に候条。或方は調達、万端(ばんたん)頼み奉じ候、
恐れながら代々の筋と思います。調達の方ですが色々お願いします。
委細は松源寺へお達し有る可(べ)く候、恐々謹言
細かいことは松源寺に宜しく~~恐々謹言なぅ


あぁ~憑かれた疲れた。
翻刻版でも出版した時代や、その家わけ家わけで書状の雰囲気(時代背景も)違うから時間かかる~( ̄ω ̄A;アセアセ

宛先は相良殿御報なので、相良側(重臣か当主本人)からの書状に対する返信です。
重通も某とあるように何者なのか判っていません。
相良が天草地方における上位者になるのは天文年間ですので、この書状も恐らくは天文年間だと思われます。

さて、次は天草氏の書状だ~ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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