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【相良義陽65_起請文(後編)】

東郷の一族代表起請文に対し、義陽は返事として自分も起請を交したようです。
相良家文書523_相良頼房(義陽)起請文案(御返事まて候)
渋谷一族へ送った起請文の案です。
起請文案の日付が永禄11年4月4日・・・なので、東郷からの起請は それ以前。

それ以前・・・なのだけれど、3月28日の曾木城攻撃で島津に撃退された前なのか、後なのかは判りません。
面白いのは義陽の起請文案で
自嶋津殿何条御懇望之儀候共、信用申間敷候、
嶋津殿より どんな懇望(こんもう)・・誘いがあっても信用しない=応じない

義陽の本心だったのか、これだけでは判らないけれど、義陽の島津外交がブレまくってたのは確かです。
個人的な意見としては、義陽自身のメンヘラ的なブレというよりは、家臣の意見が統一できず その場その場で動いた結果のような印象を受けてました。
家紋・相良

菱刈史によると、同年5月 島津貴久が相良義陽に対し、山野を譲渡するのを条件に菱刈の加勢を止める旨の約定と交わしたとあります。
大口で山野というと伊佐市大口山野で、現代でもドストレートな地名です^^
山野は島津貴久が薩州家義虎に与えていた領地だったと菱刈史にありました。
島津は相良のOKを貰った事で早速に大口攻めをしたのですが、相良は速攻で菱刈支援の球磨勢を堂崎に出して菱刈隆秋を援けたそうな。
堂崎は伊佐市大口堂崎で川内川支流である羽月川周辺ね^^。

というか、そもそも大口には相良兵が在番しているので、大口に関しては相良と菱刈は運命共同体状態だったんじゃないでしょうか。
そういう状態で、相良のみを一本釣りするのは、かなり離れ業の外交テクになります。
相良側にも記録が見つからず、正直(-ω-;)ウーン?な記述の菱刈史です。
あぁ~山野を譲渡って話は何処かで見た気がするんだが、思い出せん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

永禄12年の大口攻めと混同されてるのかな?
菱刈史の記述が数行だけなのもあって、信憑性の判断するのが難しい^^;

それと島津側の記録(本藩人物史、諸県興亡など)によると、同年8月に日向の伊東と相良が組んで、島津義弘公を挟撃して撃つという作戦がありました。
これは相良の大河平ナミが軍事情報を事前リークしたために、伊東&相良の作戦は失敗に終わってます。
(カテゴリ:日向_大河平氏「御家再興編」を参照ください^^)

渋谷一族、菱刈氏と島津へ抵抗を続ける勢力を支援し、意気盛んな状況に見えますが、菱刈は奪われた(退避の為に捨てた)城を一つも奪い返せてはいません。
それに小勢でチャレンジした島津義弘公を破ったけど、義弘公は討ちとれなかった。
新納忠元が小勢で参詣した時も、結構洒落にならない負傷はさせたけど、討ち取れず市山城も落とせなかった。
日向における伊東勢も、真幸院飯野の島津義弘公を討ち取れず捗々しくありません。

状況は徐々に徐々に島津氏へと傾きつつあったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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【相良義陽65_起請文(前編)】

はぁ~い^^御無沙汰!
相良家文書が、本編の年代に追い付い分から、ボチボチと順次再開します^^
(出典:菱刈史、本藩人物誌)

島津の菱刈退治、初手は一気呵成に七城抜いて菱刈は一族郎党共に領地を捨てて逃げる・・・
と絶好調だった。
ところが菱刈勢が逃げた先というのは、相良氏が城番常駐している大口城。

菱刈勢は、大口城を拠点に相良の支援を受けて島津への抵抗を止めない。
島津義弘公が攻めるも手痛い敗北を喫する。
こなってくると後詰(相良の援兵)があり、ジモティ菱刈の方が優勢になってしまい、島津は不毛な菱刈モグラたたき状態に^^;
形勢を逆転すべく島津貴久は親指武蔵の異名をとる新納忠元を市山城へと投入した。
永禄11年(1568年)2月28日における菱刈&相良勢との闘いで、新納は数カ所負傷するも見事勝利を治める。
(カテゴリ日向&大隅_新納氏参照^^/)
人物・新納忠元 橘朝臣幸麿さま作画_晩年の新納忠元イメージ画像

だが、相良の後ろ盾がある菱刈は基本強気で、島津へのリベンジ・抵抗を止めない^^;
同年の3月23日、菱刈勢は曾木城を攻めた。
(さすがに新納が城番の市山城を攻めるのは、自分らの損害も大きいから懲りたみたい^^;)

曽木城-----伊佐市大口曽木
城番-------宮原筑前守景種、佐多常陸介久政(※城番の出典元は菱刈史)

菱刈史では宮原と佐多の両名を城番としているんですが、
ウィキペディア(大元は本藩人物誌)の方だと佐多常陸介久政は違う城の番手で、あくまで佐多は援兵になってます。
ちなみに佐多氏は島津の庶家の一つで知覧城で知られてます。
佐多久政は日新斎の孫・・・つまり貴久公姪が正室^^/

この曾木城も元々は菱刈の城でして、島津が大軍で菱刈討伐した時に菱刈が捨てた城の一つです。
従って曾木城周囲の地形も、城の防備や弱点も菱刈は知り尽くしてます。

以下「菱刈史」より引用((  )内はシオ補足+相変わらず句読点がないんで、こっちで振ります^^;)
三月廿三日(菱刈)隆秋、大軍を率いて之(曾木城)を囲んだ時に相良(は)、市来(入来)院、祁答院、東郷氏等、兵を遣わして之(菱刈)を援けた。

まず菱刈史で市来院とあるのは入来院の誤記でしょう。渋谷一族ですから^^;
永禄11年、渋谷一族は相良氏へ起請文を出していました。
それが相良家文書522_東郷重綱起請文です。

一従前々相良渋谷御入魂之儀、弥々以猶不可有疎遠事、
一今度依御弓箭出来、別而一同申合事、
一自他方之間、雖有如何様之凶徒野心、任誓紙、不可有相違事、
一渋谷中一味同心之上、面々雖不及起請文、爲後日之、支證文申合事、
一一同申談之上、於嶋津殿少(何かサイン)不可隋幕下事、


赤文字部分だけ意訳
一 今度の(島津との)戦においては、別して一同が申し合わせ(盟約)する事
一 一同申し談(盟約)の上、嶋津殿の幕下に従うべからず事、

東郷の出した起請文は、起請には珍しく年度のみで月日の記載がありません。
これは東郷が一族を代表して起請したからのようです。
(※一族個別には起請しないけど、後日の証に證文はとると起請本文にある)
で、おそらくですが起請したのは4月より前に推定されるので、まさしく起請した盟約通りに渋谷一族は、相良と共に菱刈へ援兵を出していたのです。

この東郷重綱は、どうも菱刈家から入った養子のようなんです。
(ハッキリ断定できる史料が不足の為、推測です^^;)
で、この東郷重綱は、どうも相良氏から正室(16代目の娘)を迎えているようなんです。
(国衆としての渋谷一族が没落した為に、断定できるだけの史料が不足してます^^;)

とまぁ、起請をして一族縁戚勢揃いで攻撃した曾木城なのだが、結果として島津勢が守りきり落とすことが出来なかったヽ(。_゜)ノ アレ?

渋谷一族代表・東郷重綱の起請に対し、相良義陽が回答をしたらしいのだが、それは・またの話 by^-^sio

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基礎3【堅紙・折紙・切紙】古文書学入門(改)

早口言葉ではない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

まず文書には【りょうし・料紙】と呼ばれる紙を使います。
早い話、いまでいうところの和紙です^^b
「和紙としての料紙」については基礎1で、簡単説明と贈答用の場合の説明をしました。

今回は【書状の形式】の方で、料紙の使用方法には大別して3パターンあります。

堅紙(たてがみ)~正式な書状
あ「けんし」と読みだと現代の筆記用紙になるんで、検索するとき気を付けてね^^

サイズはA4より、ちょっと大きく、横長にして使います。
右から左へと縦書きに__φ(.. ) カキカキ 記していくのは、今も同じですね^^

折紙~略式の書状
鶴や兜を折るためじゃありません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

これは、堅紙(たてがみ)を半分に折って使う事から、呼ばれました。
1)まず料紙(堅紙サイズ)の用意~
折紙1

2)半分こ~
折紙2

3)書くときは折り目を下にして書きます。
折紙3

半分にしてるから、書くスペースも半分ですよね?
だからビッチリで書ききれなくなったら、裏返して残り半分に続きを書きます。

4)表も裏も、折り目を下にして書いているので、折紙を開くと文書同士が折り目を中心に上下に向かい合う形になります。
折紙4
時間あれば図を参照に自分でも試してみてね(^ -)---☆Wink

つまり紙代をケチって・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
ゲフゴホ・・・一枚で使う紙を半分にして使う事から、略式の形式とされてます。

切紙~きりがみ~プライベートや大量発給の文書に使う

これまた堅紙(たてがみ)を、チョキチョキ適当な大きさに切って使う事から呼ばれました。
ですから一口に切紙といっても、その書状によってサイズはバラバラです。
堅紙と、ほぼ同じくらいで「切る必要あるの?」ってものもあれば、
戦国時代になると、普通の堅紙サイズ(A4よりチト大きい)の1/4くらいの小切紙も使われてます。




現存する文書において、年代を特定するヒントとなる一つが、これら文書の形式です。
また「急いでたんだなぁ」とか、「あぁ軽い扱いされてるわ~」などなど武将間の外交関係のヒントにもなるわけです。
内容だけで判断してる訳じゃないのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

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【4_今川了俊と肥前千葉氏】通史①肥前千葉氏

東国御家人だった肥前千葉氏が、肥前で勢力を得た要因の一つは、肥前に守護職が在国してなかったのが大きい。
「亭主元気で留守がいい」ですな ( ゚Д゚)y─┛~~
更に一つ加えるなら、肥前千葉氏が九州探題職・今川了俊の「遺髪」を継いだことだ。

九州は北朝より南朝が優勢だったために、形勢逆転のテコ入れとして稀代の名将と謳われた今川了俊が投入された。
ちなみに徳川家康の正室・築山殿は、この今川了俊の血を引く姫様です^^/

中世史、中世史といっても「範囲が広ぅござんす」なので、どうしても好き嫌い、得手不得手が出てくる^^;
自分も「室町期は好きだけど南北朝期は苦手」なため、今川了俊のことも肥前に絡む部分しか調べてないという手抜きしてます^^;
(もう、年号が2パターンある時点でダメぽ (´;ω;`)ウッ)

で、その今川了俊の拠点の一つ・・・と言われているのが肥前だそうな__φ(.. ) フムフム、メモメモ
佐賀県史料集成1巻(河上神社文書、実相院文書)が入手できなかったんで史料の確認が・・・・
ちょ、マジすか~古書店で在庫みっけ===========
ヽ(*´∀`)ノゎーィ♪'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`ヽ(*´∀`)ノゎーィ♪'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`
ゲフゴホ・・・失礼!取り乱しました。

とにかく今川了俊が川上社の持つ国衙(政庁)機能に目を付け、肥前支配のツールとして組み入れたらしいんです。
了俊は弟の今川仲秋を肥前守護代に任じました。
この今川仲秋が肥前今川氏(後の持永氏)の祖です。

2代目で兄で養父の病死により、初代の次男で2代目兄の養子だった・・・
・・・・・・・・・??・・・・誰だったっけ?(._+ )☆\(-.-メ)シッカリセイ!
すいません。史料入荷(予約)の慶びで、色々吹き飛んでしまった・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

え~家督を継ぎ5代目となった胤泰ですが、下総と肥前を行ったり来たりしてた肥前千葉当主の中で本格的に土着するのは、この胤泰からになります。
それで南北朝の争乱では、どうも初めは南朝だったようです。
2代目兄は下総で戦い北朝でしたが、何と言っても九州は南朝が優勢でしたからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

ただ、このころの肥前千葉氏の記録が少ないのでハッキリしてません。
で、5代目胤泰は途中で南朝から北朝へ席替えします^^/
おそらく今川了俊が九州へ派遣されてからで、胤泰は従軍してたものと推測されています。
とにかく記録が全くない(or見つかってない)ために、胤泰が何時から北朝へチェンジして、どの戦場で従軍してたのか不明なんです。

胤泰が了俊に従軍してたとか、遺髪を継いだとか、推測されているのは、
千葉胤泰の娘が、了俊の弟にして肥前守護代・今川仲秋に嫁ぎ男子を儲けているから。

さらに川上社大宮司職を肥前千葉氏がゲットしたのは、5代目胤泰からなんです。

このままだったら、肥前千葉氏は肥前今川氏の配下(執権とか?)だったのかなぁ~かも?
運命が変化するのは、学生時代(or修学旅行)で「金閣寺とSETで記憶される3代目・足利義満」により、今川了俊が解任されたからです。

つまるところ優秀すぎた今川了俊は「このまま九州で自由にさせておけない・・」と足利義満に警戒されちゃったわけ^^b
この足利義満は「南北朝合一」後に、功績の大きすぎる守護大名などを上手く排除してる節があり、大内義弘の「応永の乱」は義満の陰謀説があります。

了俊とともに、弟の仲秋も駿河へと帰っちゃいます^^;

仲秋の妻だった胤泰娘が駿河へ同行したかは不明ですが、息子が肥前に残ってるところみると、生母である胤泰娘も肥前に残ったんじゃないでしょうか。

叔父さんとお父さんが駿河に帰っちゃった肥前今川家にとって、縁者は肥前千葉家だけです。
仲睦まじく協力関係にあった肥前今川氏と肥前千葉氏。
それが西国大名のドン・大内家の陰謀により両家は敵同士となるのですが、それは・またの話 by^-^sio

※ここで、いったん連載ストップ~
 河上神社文書、実相院文書の史料確認後に再開しますので、宜しくお願いしますm(__)m

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【3_分裂の明暗】通史①肥前千葉氏

縄文よりこのかた、西へ東へとフットワークの軽い日本人。
やがて朝廷や武家社会が成立すると移動の要因に「戦」が加わる。

鎌倉期の東国御家人が九州へ辿り着くには大きく3つの要素がありました。
「平家討伐」「元寇」「南北朝の争乱」です。

下総を本貫地とする千葉氏。
「平家討伐」の功績で肥前小城の地頭職になり、
「元寇と異国警固」で肥前千葉と下総千葉に分裂。
さらに「南北朝の争乱」で肥前千葉が肥前と千田に分裂します。

系図・千葉氏(鎌倉用)

南北朝の争乱期に肥前と下総の領地を一人の当主が二元統治するのが物理的に困難になってきたのだと思います。
(時代背景が脳に浸透してないんで、史料読んでも脳内で繋がらない^^;)

とにかく生年も没年も不明な肥前2代目・胤貞の嫡男は、若くして亡くなったようなんです。
で、次男も亡くなった・・・らしい。
このあたり譲り状と過去帳が???(@@)理解しきれなくて、自分では掌握出来ませんでした^^;
それで、肥前2代目・胤貞の三男が下総国千田庄(ほか八幡庄、神保郷)を受け継ぎ、
親子ほど年の離れた肥前2代目・胤貞の弟が、養子となり肥前千葉を継ぎました。

同時に、宗家総領の座を取り戻したいという、肥前千葉氏の宿願は下総国の千田千葉氏に受け継がれます。
南北朝の争いは、そのまま千葉宗家の座を巡る争いとなり、それは忽ち下総一円に広がりカオスとなる。

・・・どうも、その、なんだ下総千葉家は世渡り上手だったらしい( ̄ω ̄A;アセアセ

戦では千田千葉に降伏した南朝サイド・下総千葉だったのだが、ちゃっかり北朝へ寝返り。
更に下総千葉は室町幕府から安堵を受けて宗家の座をゲッツしちゃうんです。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

千田千葉氏は戦に勝って政治で負けた・・・il||li _| ̄|○ il||l
具体的に「どんな手」を使ったのかは、下総と関東の歴史が複雑すぎて自分レベルじゃリサーチ無理^^;
ただ、折角勝利した直後に肥前千葉2代目・胤貞が病没したのが大きく影響したと思います。

室町期でも宗家の座を取り戻せなかった千田千葉氏は衰退し、戦国期には完全に下総千葉の下風に立たされ・・・。
もう殆ど空気というか、どこに埋没したのか領地がどうなってたのかサッパリ判らないくらい、千田千葉氏は衰退した^^;

風向きが変わるのは秀吉の北条征伐です。
下総千葉は北条が敗れると共に領地没収で浪人となり、一族は散り散りバラバラになる。

一方の千田千葉は徳川家康の関東入府で召し出されたようで。
旗本直参・・・とは行かなかったが、千田千葉は徳川家臣成瀬家に仕え、犬山藩(藩主が成瀬氏)が立藩されると家老となり幕末・明治へと続く。
ただ、千田千葉が犬山藩家老というくだりは、千葉氏一族を綿密に調べたサイトの方からの孫引きですので、自分自身では未確認です。

家紋・肥前千葉 ロン様作成_肥前千葉氏家紋ロゴ

さて、宗家の座を巡る争いの柵から解放された肥前千葉氏は、小城を本拠地として独自の勢力として成長していきます。
肥前千葉氏初代・宗胤が死んだとき、次男の胤泰は2歳ほどだったというが、年齢には諸説あるのでハッキリは判らない。
いずれにせよ幼児~幼少だったのは間違いなく、兄で肥前千葉2代目・胤貞が養育した。
てことで、胤泰も下総育ちということになる。

兄で養父でもあった胤貞の死去により、弟で養子の胤泰が肥前千葉氏を相続し5代目となったたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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相良家文書524_臼杵鑑速書状〔毛利勢渡海なぅ〕

大友家臣、義鑑、義鎮と二代の大友当主に仕え加判衆の要職を務める。
豊前方分、筑前方分、豊後三老の一人。
本業からむんで手抜きしないで行きます(`・ω・´)キリッ
緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
(折封ウハ(上)書)(切紙、捻封)
「           臼杵越中守
相良殿まいる御報    鑑速」

「- ーー」(端裏切封)
誠今年之御吉賀、珍重々々、仍毛利元就以表裏、吉川(元春)小早川(隆景)至此表令渡海候条、不抜足様、爲可被加御誅戮、被成  御進発、既至両人陣所、被詰陣候、必可被成御勝利之条、可御安心候、然者、其境之事、菱刈表干戈之由、其聞候、早速被召鎮、至此表可被忝御心事、御代々御貞心之続尤可目出候、隋而御茶五十袋、羚皮一枚被懸御意候、御芳情無極候、猶御使儈可有演説之条、閣筆候、恐々謹言、
(永禄十二年)五月七日    鑑速(花押)
       相良殿まいる御報

宛名が日付と同じ高さ~丁重です(*´pq`)ウフフ♪
入力は面倒だけど、吉川、小早川の文字に萌えるwww
ん?欠字・・・ってことは『御進発』は義鎮が出陣してるな・・・ |書状|・ ̄)じぃー
なんか菱刈の名前が・・・( ゚д゚)ンマッ!!

誠に今年の御吉賀、珍重、珍重
誠、今年の吉賀、実に めでたいことです^-^
なにを祝ってるのか謎ですわ・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

毛利元就 仍(しきりに)表裏を以(もっ)て、吉川(元春)小早川(隆景)渡海令(せ)しむ此の表へ至り候条、
毛利元就は裏表のある奴で 吉川元春と小早川隆景を渡海させて此方へ至りました。
(※4月に毛利勢の攻撃により筑前・立花城が毛利側に攻略された)

不抜(ふばつ)足る様、御誅戮を加ら爲す可(べ)く、(大友義鎮が)御進発成(な)さられ、
不抜・ふ‐ばつ---意志が強くて動揺しないこと。また、そのさま。(読みは「抜き足」じゃないと思った^^;)
誅戮・ちゅう-りく---罪を犯した者を法に照らして殺すこと。
「被」がやたら入った丁寧な表現+「被成」と「御進発」の間に欠字(=一文字開けて書く)がある事から、
大友義鎮本人が出陣したようです。
不動の意志で制裁を加えるべく(大友義鎮が)進発(しんぱつ=出陣)なされ、

既に両人の陣所に至り、陣を詰めらせ候、
既に吉川、小早川の陣に至り、対峙しております。
(※多々良川から多々良浜にかけての川沿いで、両軍が対陣ちゅう~~)

必ず御勝利成る可(べ)くの条、御安心可(べ)く候、
必ず勝利しますので、御安心下さい(=^・ω・^=)v ブイ

然者(しかれば)、其の境(さかい)の事、菱刈表で干戈(かんか)の由(よし)、其聞候、
※菱刈表(ひしかりおもて)この場合は国衆の菱刈氏ではなく地名で、現在の伊佐市です。
※其聞---聞く・聞いた---孟子の書物に表記使用凡例あり
さて、そちらの国境の事ですが、菱刈表で(島津勢と)戦になったと聞いております。

早速鎮め召され、此の表に至る御心事は忝(かたじけ)なうせらる可(べ)く候、
さっそく鎮圧したとのことで、この方面への御心中は忝い・・・有り難い事ですm(__)m

御代々御貞心が続き尤も目出可(べ)く候、
代々貞節が続くことは特に感心すべき事です^-^

隋而(したがって)御茶五十袋、羚(カモシカ)皮一枚、御意に懸からせ候、御芳情極まり無く候、
それと お茶50袋、カモシカ皮1枚頂き、御芳情に感極まっております。

猶(なお)御使儈(使者)より演説有る可く候の条、閣筆(かくひつ)候、恐々謹言、
なお使者より説明があります。ひとまず書きました。恐々謹言なぅ

ぜーはーぜーはー'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`・・・今回、ニュアンスに手こずった・・
まず、この永禄12年は毛利と大友による多々良浜合戦(数か月に及ぶロングラン対峙戦)があった年でした。
一方で相良氏のほうでも、島津との和睦が破綻し再び交戦状態になった年です。

手紙の内容から総合的に判断するに、相良側から大友へ【島津と交戦状態になり菱刈表で合戦になった報告】をしてたようです。
ちなみに3月で、それは相良側の勝利で終わってます。
(だから「早速、鎮め・・・」と臼杵さん言ってる)
で、相良では手土産(お茶50袋、カモシカ皮1枚)持参だったようで、臼杵さん御礼してます。
それが義鎮出馬への陣中見舞いなのかまでは、この書状内容だけでは不明^^;

関連書状が数通あるので、ゆっくり読んで行きます^^/

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相良家文書523_相良頼房(義陽)起請文案(御返事まて候)

意訳も併記しちゃおっかなぁ~(←手抜きぎみwww)

    起請文
一従前代申談候事、不新候、倍可爲深重事
一 前より申し談(盟約)した事は、変わらずに、一層倍して履行して行きます。

一就今度弓箭、従最前一味同心申合候上者、向後不可有別儀事
一 今度の戦に就いて、最前(さいぜん)より心を一つして盟約しているので、これからも別儀(他の事)があってはならない

一従他方如何躱之中手雖有之、?不可入其案事、
ここパス,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
実久の起請文にもあったけど 『中手』を文中に入れた意訳がわかんない~(_´Д`)アイーン
囲碁用語からみの比喩かなぁ、他から何か(中傷とか?)きても、それスルーするね・・みたいな感じ?

一渋谷三家弥一致可被迎合由承候、案中候、爲此方も、不可有疎放之義事
一 渋谷三家がいよいよ団結し意見を合わせると言うのは必定です。
こちらも疎放(そほう)・・・大雑把なことがないようにします。
渋谷三家・・・東郷、祁答院(けどういん)、入来院(いりきん)

一自嶋津殿何条御懇望之儀候共、信用申間敷候、御同前承候、本悦候、諸篇至三家、無覆蔵可申談事、
嶋津殿より どんな懇望(こんもう)・・誘いがあっても信用しない
って、嶋津は信用しないのか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
前と同じと、承知しました。嬉しい!(*´pq`) 諸篇(しょへん)三家には、腹蔵・・隠し事なく申し談します。
    右之条々、於相違者、右の条件に相違があれば
梵天、帝釈、四大天王、惣而日本國中大小神祇、別者、肥後國鎮守阿蘇大明神、球磨郡内守護市房六所權現、青井大明神、八幡大?、天満屋天神、御部類眷属、神罰冥罰可罷蒙者也、
  仍起請文件、

 永禄十一年卯月四日
            相良修理大夫藤原頼房
   東 郷 殿
   祁答院殿

これは下書きなので頼房(義陽)の花押は未だありません。
義陽の諱は(大友とか、大友とか)・・・に遠慮して使ってない時期です。

宛名のところ・・・条文には渋谷三家となってるのに、東郷と祁答院の二氏だけ。
東郷が後から証文交わします~って、入来院のことなのかも。
このころの祁答院は、二年前に当主・良重が正室(薩州家・実久娘)に殺されるという大事件のために混乱してて、
当主不在・・・祁答院一族(三人)合議で回してたようなので、東郷に祁答院がくっついてる状態だったのでしょう。

渋谷関係の文書は、これだけです。
で、ここから怒涛の北九州関連の書状が、ゴッソリ出てきます( ̄ω ̄A;アセアセ
というのも、毛利と大友がガチンコ突入したからです^^;
後半には龍造寺の名前も出て来るんで、本業がからむから端折らず真面目にやります^^;

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相良家文書522_東郷重綱起請文(一族代表起請文)

  起請文
一従前々相良渋谷御入魂之儀、弥々以猶不可有疎遠事、
一今度依御弓箭出来、別而一同申合事、
一自他方之間、雖有如何様之凶徒野心、任誓紙、不可有相違事、
一渋谷中一味同心之上、面々雖不及起請文、爲後日之、支證文申合事、
一一同申談之上、於嶋津殿少(何かサイン)不可隋幕下事、
  右条々、於有違犯者、
梵天、帝釈、四大天王、日本國中大小神祇、六十余州權實二類、別者、當國鎮守八幡新田宮、興楽寺天満天神、殊者、當家氏神五社大明神、紫尾三所大權現、諏方上下大明神、御部類眷属、神罰冥罰可罷蒙者也、
    仍起請文若斯、
     永禄十一年
                東郷弥次郎平重綱(花押)
      相良殿


・・・・・・・・・|翻刻版|・ ̄)じぃー
・・・・・・・・・・・・・・?、日付のない起請文って珍しいな・・・・年度と花押もあるから無効ではないけど・・・・
義陽が同年の4月4日に返事出したようなので、これはそれよりは前になる(だろう)と思う。
さて、条文だけサクっと意訳しますか(*´pq`)ホホホ

一 今まで通り 相良、渋谷は入魂(=昵懇・じっこん)とし、いよいよもって疎遠になるような事があってはならない
(※東郷は渋谷三氏の一つ。従って起請は東郷家のみではなく渋谷一族を指します。)
一 今度の(島津との)戦においては、別して一同が申し合わせ(盟約)する事
一 渋谷と相良の間で トラブルあっても誓紙と相違があってはならない
(※つまり何をおいても『VS島津のための盟約』が最優先事項ってことです)
一 渋谷一族同心なので、めいめい起請文に及ばずといえども、後日の爲、證文(しょうもん=証)し申し合わせの事、
(超意訳:一族の意見は同じだから、個別には起請文しないけど、後々のために証文は交わします)
一 一同申し談(盟約)の上、嶋津殿の幕下に従うべからず事、
(超意訳:島津には従わない!(# ゚Д゚)・;'.)

・・・って、神様に誓うほど、島津配下になるのが嫌だったのね渋谷一族^^;

なるほどなるほど、日付ない理由が判ったわ~
東郷は渋谷一族を代表して相良に起請文を出したんで、年度だけなんだ。
(だから相良と渋谷って書いてる)
後日の証として出すって言ってる証文の方に、日付か年度 どちらかが入ってたと思われます。

これくらいの長さだと、意訳や読み下しに時間かかんなくなったなぁ(*´∀`)
さがらん文書に鍛えられました~(*´pq`)ウフフ

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相良家文書520_足利義昭御内書〔甲賀和田退去〕

御内書(私文書)将軍の手紙外交が炸裂してますが、それが超ムカつくんでサクっと読み下します
緑文字=翻刻版本文
青文字=読み下し
赤文字=意訳

(折封ウハ(上)書)切紙、折封(斐紙)、包紙(近代のものヵ)
          「相良修理大夫とのへ」
就今度京都不慮之儀、至甲賀和田取退候、
今度の京都不慮の儀に就いて、取退(とりのき)甲賀和田へ至り候、
京都不慮(永禄の変=足利義輝が殺された)ことで、(六角らの看視下を)脱出して甲賀和田へ入りました。
(※矢島館・守山市矢島町に入ったのが10月21日)

就其、近國出勢之段申付、無異儀候間、急度可令入洛覚悟候、
其れに就き、近国出勢申し付けの段、異議無く候間、急度(屹度)入洛(じゅらく)令(せ)しむ可(べ)く覚悟候
それについて、近国へ出兵を申し付けの話、異議はないでしょうから、その間に必ず京都へ入る覚悟です(`・ω・´)キリッ
(援兵出せって事?( ゚д゚)ンマッ!!)

此度被抽忠功者、可爲感悦候、併頼入候、
此の度の抽(ぬき)んでる忠功は、感悦(かんえつ)爲(な)す可(べ)く候、併せて頼み入り候
今回の抽(ぬき)んでる忠義が感動で嬉しいものになるよう、(-人-)☆彡オネガイします。
(まだ返事する前から期待されても・・・・^^;)

爲其差下上野大蔵入道候、猶(細川)藤孝可申候也
其れを爲す上野大蔵入道を差し下し候、猶(なお)(細川)藤孝へ申し可(べ)く候也
其の為に御供衆の上野大蔵入道を行かせます。なお細川藤孝へも伝えます。
(この御内書届けに御供衆が球磨に来ちゃったよ!Σ(´Д`;) はぅ)

(永禄八年)←年欠書状ですが内容上、疑いようのない年度推定^^
        十月廿八日     (足利義昭)(花押)
                 相良修理大夫とのへ

宛名は日付よりした、敬称も「との」で平仮名って、この軽い扱いはどういうこと!?
お願いする立場で上から目線!!
内容だって援兵に異論ないだろうという決めつけ!
恐々謹言とか書き止め文言もない、言いっぱなしの命令口調!

まだ正式に還俗もしてない、無位無官の自称将軍が調子こくんじゃねぇ!!(# ゚Д゚)・;'.
と言ってるのはシオで、別に相良義陽が そう言ったわけじゃないので誤解なきように~オホホホー

義昭の性格が見えるようで、他人事ながらムカムカしますわぁ~~(・A・)イクナイ!!
まぁ、(頼み方が失礼なだけで)次期将軍候補に頼られること自体は、相良家にとって悪い気分じゃないので、書状は大事に保管してたみたいです。
この調子でアチコチに書状出してたんだろうか・・・^^;
はっきり言って応援する気が萎える・・・^^;

永禄八年の義陽は豊福城攻略で、しばらく人吉を離れてたんです。
攻略に成功して人吉に戻ってヤレヤレと思ったら、想定外の客が来たわけで・・・^^;
まぁ、はるばる下向した(らしい)御供衆へストレートに拒否したら角が立つから、なにがしか進物(しんもつ=金品など)贈って適当にお引き取り頂いたんじゃないかしらん~

それにしても自分は未だ無位無官なのに、修理大夫の義陽に対してハナから上から目線なのには驚いたわぁ^^;
思いっきりキャラが立ってるのが面白いっちゃ面白いけど・・・(´・д・`)・・・疲れる人ですわ(爆

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【2_バトル・ザ・GOD】通史①肥前千葉氏

色んな資料や論文を見過ぎて、どれが何処からの参照かゴチャゴチャになってるオバカです(笑
未分化なから参照した文献でハッキリ記憶してるものは緑色文字にします^^;
『鎌倉期~南北朝の肥前千葉氏』は、佐賀の龍造寺や鍋島の補完データなんで、すいません^^;

千葉氏研究プロジェクト『中世小城の歴史・文化と肥前千葉氏』によると、
鎌倉期、肥前国小城の町割りと、下総千葉の町割りは似てるそうなんです。
はるばる肥前に土着した東国御家人の郷愁もあったろうし、
肥前千葉氏こそ千葉氏本宗という意気込みの表れであった事でしょう。

当時の小城郡には宇佐八幡宮の影響が多くあり、関連する領地や在地地頭がいました。
領内統治において、それを嫌った肥前千葉氏は、色々と持ち込むわけです^^b

まず仏教では日蓮宗で、肥前千葉氏関連で小城に建立された寺院は、そのまま肥前千葉氏エリアに推定されます。
もちろん他の宗派寺院も建立してるんですが、建立数としては日蓮系の方が多いんです^^
これは千葉氏が日蓮宗の強力な外護者(げごしゃ=パトロン)だったことに起因しています。
下総千葉氏と肥前千葉氏は、日蓮宗のパトロンとしても張り合ってたんです~( ̄ω ̄A;アセアセ

祗園守(=現、須賀神社)を招聘したのは、肥前千葉氏2代目・胤貞ですが、
祇園祭が今日のような賑やかさになるのは、戦国初期の東千葉氏初代・興常の影響の方が大きかったそうです。
(興常は山口育ちなので、そこで京文化&祗園祭フィーバーを間近で見てたのでは・・・って参照文献に書いてた^^)

で、千葉氏といえば妙見信仰で、もちろん肥前千葉氏は小城に持ち込みました^^/
家紋・肥前千葉 ロン様作成_肥前千葉氏家紋ロゴ

肥前千葉氏は仏教は日蓮宗、神様イデオロギーは妙見信仰の二本立てでもって、小城から宇佐八幡宮の影響を排除しようとしたんです。
具体的なライバルは、肥前国一宮にして宇佐八幡宮別当・千栗(ちりく)八幡宮(`・ω・´)キリッ
布教とエリア拡大がSETなのはキリシタンだけでなく、日本の宗教事情においても基本部分は同じな訳です^^/

具体的に肥前千葉氏が何をしたかは参照文献には触れてないのですが、どうも妙見信仰をもってしても宇佐八幡宮の影響を完全に拭い去ることは出来なかったようです。
結果として戦国~江戸期の藩主や領主が、千栗八幡宮を外護する基本姿勢には変化ないままでした。

それほどの影響力だからこそ、祗園守の招聘もしてた。
宇佐八幡宮の支配ネットワークの歴史に比べれば、どこまで行っても肥前千葉氏は後発組ですからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

ところが思わぬ事で、宇佐八幡宮と肥前国一宮&宇佐八幡宮別当の千栗八幡宮が衰微しはじめます。
論文【肥前一宮「千栗(ちりく)八幡宮の歴史的変遷~太田順三】によると、
1309年に宇佐宮と弥勒寺が大火により悉く灰塵に帰した事から宇佐八幡宮が衰微し、
その余波で別当だった千栗八幡宮の衰退も始まります。
論文では決定的要因として、肥前国が東大寺造営料国になった事をあげてます。
つまり東大寺への寄進が優先されるために、千栗八幡宮の造営や造替が後回しにされ、必然的に権威の失速へと繋がりました。

川上社が肥前国一宮を名乗りはじめるのと、上記の千栗八幡宮衰退とは、ほぼ同年代のようです。
河上社11代目座主・辮髪が、鎌倉北条得宗家の専制体制確立と元寇という国家の大事に便乗。
「異国征伐の軍神=河上社祭神」である!!!(# ゚Д゚)・;'.と強調し、一宮にすべく神格を押し上げた。
これには河上社造営のために何としても予算確保したいって気持ちが嵩じての事だったようです。

肥前千葉氏は宇佐八幡宮・・・ひいては千栗八幡宮の影響を排除するために、
肥前国一宮としてライバルの名乗りをあげた川上社に目をつけた。


川上社は肥前国の民にとって土着の水神(與土日女)を祀る格別な神社でして、
更に特筆すべきは宇佐八幡宮の支配ネットワークとは別種の統治ネットワーク・国衙(政庁)機能を有していたことです。


ただし川上社の持つ国衙機能に初めに注目し利用したのは、肥前千葉氏ではありません。
初めに川上社(現:與止日女神社(よどひめじんじゃ)を肥前支配のネットワークに組み入れたのは、
南北朝争乱において九州探題職に任じられた稀代の名将:今川了俊。


南北朝の争乱こそ、肥前千葉氏が本格的に小城へ土着する契機となったのですが、それは・またの話 by^-^sio

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後藤家文書18_(後藤家書類)大内義隆書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
至筑前上國之由、可然候、本意不可廻踵候、猶隆満宗長可申候也、恐々謹言、
(天文十五年カ)
 三月二日  義隆(花押)
   龍造寺宮内大輔(胤栄)殿


えっと・・・後藤家文書に龍造寺胤栄関連が一つあったのをスッコーーンと忘れてましたの(←おぃ)
後藤家書類とあるように、後藤家が貰った書状ではなく保管してたもののようです。
書状の状態が(折封とか捻封とか)ないので、書状のみのようです。
書写でないのは義隆の花押があることで確認できます。
なんで持ってたか経緯は判りません^^;
それと年度推定はシオではなく、佐賀県史料集成編集のものです。

筑前上国に至(いた)るの由(よし)、然(しか)る可(べ)く候、踵(きびす)を廻(めぐ)らす可からず本意候
上国(じょうこく、じょうごく)---律令国の等級区分の一つ、上から二番目の位の国で延喜式による上国に筑前国があります。
不可廻踵候---「史記」呉起伝より_かかとをめぐらすほどの時間もない=すぐある事態になってしまう。
てことを盛り込んで雰囲気意訳~~
筑前に着いたとの事、しかるべくします。すぐ事態(戦?)になるのは望むところです。

猶、隆満と宗長に申し可く候也、恐々謹言
大内義隆が伝えておくね~といった二人の経歴はウィキペディアからデータ引用^^/
●陶 隆満---没年不詳、
義興・義隆と大内当主に仕える。奉行職として義隆に重用され隆も義隆からの偏諱。
陶一族のため大寧寺の変では陶晴賢に協力するも、後に降伏し毛利家臣となる。
●杉興重(宗長)
山城国愛宕郡代、8人の大内評定衆一人、大内義興より1字を賜う。

天文15(1546)年1月に龍造寺胤栄と西千葉の胤連が、少弐+有馬勢の攻撃を受けました。
いったん敗れ引いたんですが、龍造寺胤栄は大内義隆の助勢を受けて少弐勢を破ってます。
同年の7月25日に大内義隆は胤栄の戦功を賞しています(龍造寺家文書112)
で7月27日に大内義隆は胤栄を肥前代官に任じています(龍造寺家文書113)

どうやら大内の助勢を受けて少弐勢を破った前後に、胤栄は筑前に入ったみたいです。
で、大内の重臣が言付かった義隆からの指示?返事を受けたのでしょう。
大内義隆にとって少弐氏と龍造寺が敵対関係になったことは、大歓迎の事態です。
書状は当然ながら上位者から下位者への形式ですが、名前の位置が月日より一文字分だけ下。官位名も入って敬称は殿の漢字。
と短い文章ながら丁重な扱いをしてます。(*´pq`)

龍造寺胤栄関連の史料は少ないんで、なかなか貴重な文書なのでした^^

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【1_いざ・こざ・鎌倉!】通史①肥前千葉氏

系図・千葉氏(鎌倉用)
諱ループよりクラクラする文字逆転ミラー系図。
これしか無いのに、前に地名つけないと絶対間違う罠のような諱・・・il||li _| ̄|○ il||l

下総千葉氏が何故 肥前千葉氏と分裂したのか。
前回最後に書いたように下総千葉氏が鎌倉へ行った理由は「元寇」です

元が攻めて来る~~~ってことで、鎌倉幕府では九州に領地を持つ御家人に動員をかけました。
下総千葉氏も肥前小城郡総地頭だった関係で、当主の頼胤が九州の地へ赴いたのです。
ところが頼胤は戦で矢に当たり戦死。享年34歳。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

そこで今度は僅か12歳の嫡男・宗胤が九州へ赴くことになったんです。
兄・宗胤が九州へ行く間、留守を預かったのが2歳下の弟・胤宗です。

ちなみに千葉氏の通字(つうじ=代々諱に必ず入れる文字)は「胤(たね)」。
で兄弟の共通する「宗」の文字は、北条時宗から偏諱(へんき=名前の文字を拝領する事)です。
この時期の御家人は、実質の支配者である得宗家(とくそうけ=北条氏)当主から偏諱を受けていたんです。
え~~と、拝領した文字を前か後ろにつけるかで、どっちが嫡子が区別できるんですが時代が下るにつれ何だかカオスになっていく^^;

で、この時なんですが、どうやら兄・宗胤は元服はしたけど正式に家督を継がないまま九州へ行ったみたいなんです。( ̄ω ̄A;アセアセ
代々の当主が名乗る「千葉介」を名乗ってないのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

まさか九州で骨を埋めることになるとは想像してなかったんでしょう( ̄ω ̄A;アセアセ
肥前が気に入って~~~というわけではなく、兄・宗胤は帰りたくとも帰れませんでした。
なぜなら元寇が一段落しても、元の再度の侵攻を警戒した鎌倉幕府により「鎮西御家人は(中略)鎌倉へ参向すべからず」と帰還を認めなかったからです。

更に兄・宗胤は大隅国守護職の要職につき、鎮西での政務におわれます。
で、そのまま肥前の地で30歳の若さで亡くなります。
慣れない地で苦労したのでしょう・・・長命してたら下総へ帰れたかもです。 (゜-Å) ホロリ

家紋・相良 ロン様作成_肥前千葉家紋ロゴ

細かい経緯は解らなかったんですが、鎌倉幕府では兄・宗胤の方を庶流(肥前千葉)とし、弟・胤宗の方を下総宗家として扱ってました。
兄弟それぞれの息子が、それぞれの家督を継ぎましたが、肥前・胤貞は「自分が正当嫡流」という思いがありました。
まぁ、無理のない話です。ショボーン..._φ(・ω・` )

鎌倉へ出仕すると従兄弟で下総・貞胤の下座に着かなければならないのは、愉快な事ではありません。
国土防衛の礎として頑張ったのに、宗家惣領の座から滑り落ちるなんて、こんな理不尽な話はないでしょう。

肥前・胤貞自身は、活動拠点の殆どは下総でした。
亡き父・宗胤の遺領が下総国千田庄にあり、そこを拠点としてます。

足利尊氏の打倒鎌倉~建武の新政になると、肥前・胤貞は新政府に仕え、鎌倉方だった下総・貞胤と交戦しています。
とはいえ南北朝の動乱期に、肥前の領地と下総にある領地、両方統治するのは物理的に無理な話です^^;

肥前千葉の小城領地は宗胤の子・胤泰(胤貞養子)が継ぎ、
(肥前・胤貞の実子(3代目と4代目)が早世したので実弟を養子にした)
肥前千葉の下総領地は胤貞の子・千田氏が継ぎ。両家は分れます。
兄・宗胤系と弟・胤宗系の争いは、そのまま千田家と下総千葉家の争いへと引き継がれるのです。

さて、肥前千葉の初代は肥前で没しましたが、2代~4代までは基本として下総の人。
戦で九州に行くことはあっても、帰る場所は下総なんです。

2代目胤貞も下総へ帰還途中の三河で没してます。
名実ともに「肥前千葉氏」としてのスタートは、5代目胤泰からとなるのですが、それは・またの話 by^-^sio

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プロローグ_通史①肥前千葉氏

肥前の話をしよう。
豊かな水の恵みにより肥沃な土地を約束されながら、
同時に自然の過酷な試練も与えられた國の話を。
イメージ・花

戦国時代がいつから始まるのか、未だ決着がついておらず、
鎌倉時代も室町時代も包括し戦国時代も未分化のまま一括りに「中世」とされている(教科書が自分の頃と変わってなければ^^;)
一応「応仁の乱」から・・・・ということにしているが一律に線引きするには、あまりにも各地方において様々な事象がある。

肥前中世史研究を専門にしている立場から言わせて頂けるなら、
千葉氏が東西に分裂した文明16(1486)年をもって、肥前戦国時代のスタートと考えています。
(※応仁の乱は応仁元年(1467))

千葉氏はサイトによって『肥前千葉氏』と表記されていますが、佐賀県小城市を本拠地とした武家なので『小城(おぎ)千葉氏』とも呼称されている。
個人的に「肥前千葉氏」の方が好きなので、ここでは「肥前千葉氏」としたい。
本拠地・小城は国府(こくふ=首都の意)と呼称され、当主は肥前国主と尊崇を受けるほどの権威・実力を有した肥前千葉氏。
が、その肥前千葉氏は地生え(じばえ=地元っ子)ではなく、姓の千葉から察せられるように日本最大のマンモス氏族・下総千葉氏の一族だった。
守護職でもなく、地生えですらない肥前千葉氏がいかに肥前の覇者へと成長したのか、それが肥前中世史を紐解くキーとなる。

戦国の幕開けが肥前千葉氏の分裂ならば、
中世史の黎明は肥前千葉氏の勃興に始まる。

肥前千葉氏の興りは、鎌倉期が中世に包括されるが如く、鎌倉初期まで遡る。
下総千葉氏は源頼朝に従い平家打倒の奥州合戦などの戦功で陸奥国、九州などに膨大な所領を与えられた。
その中に小城があり、それが後の肥前千葉氏の土台となる。

家紋・肥前千葉 ロン様作成_肥前千葉氏家紋ロゴ

千葉氏研究プロジェクト『中世小城の歴史・文化と肥前千葉氏』にある宮島敬一氏の論説によると、(以下参照部分は緑色文字)
建長七年(1255)の段階で、千葉氏が大番役で在京の時に、小城郡内の訴訟審理が当事者を上洛させて行われていたそうです。
また千葉時胤(千葉氏七代目)が死去した際は、千葉で火葬した後に小城郡平吉保(芦刈町)内阿弥陀堂に遺骨を納めたという記事(千葉氏大系図)があり、
代官支配ながらも千葉氏にとって、肥前国小城は強い関心を持つ領地だったようです。


日蓮宗の強力な外護者=パトロンだった千葉氏は、遠隔地支配の管理にあたり日蓮宗高弟・富木常忍(ときじょうにん)を中核官僚としておき、摂関家所縁の僧侶などを各地に派遣していました。
(それで各地の千葉氏領地には日蓮宗系列の寺院が多いんです^^/)
これらのことは「中山法華経寺所蔵の日蓮遺文紙背」の発見(1966年)&解読&解釈進展により、一気に研究が進みました。
一方で肥前の武士を下総にスカウトもしてまして、千葉氏は『下総ー鎌倉ー京都ー伊賀ー肥前ー大隅」を結ぶ支配ネットワークを確立してたようです。

千葉氏は小城郡惣地頭だけでなく、大隅国守護職だったのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

鎌倉当時の小城郡には宇佐神宮関係の領地が多数あり、これは後年に肥前千葉氏が宇佐神宮系列にして肥前国一宮・千栗八幡宮の影響力を川上社(肥前国総鎮守)をもって排除しようとした事に繋がっていきます。
とにかく宇佐神宮系列の地頭が多い状況のままでは、東国御家人千葉氏が土着支配するのは難しかったと思います。

そんな中、千葉氏が肥前国小城に土着する契機となったのが元寇でした。
これにより下総千葉氏は分裂し、惣領の座を巡る一族相克の始まりとなるのですが、それは・またの話 by^-^sio

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相良家文書517_足利義輝御内書案

  御内書案文(堅紙)
對相良、義字、官途修理大夫事、任先例遣之處、其例有間敷通信上、被思食不審候、雖然、於此儀者、一度被成下候之条、向後可得其意、委細申含(上野)輝廣、差下之候、猶晴光可申候也
(永禄八年)
     三月五日         御判(足利義輝)
          大友左衛門督入道(宗麟)とのへ

                          (細川藤孝)(花押)

すごいな・・・私的な書状とはいえ、宛名の位置が日付の下側で、更に敬称も「との」で平仮名^^;
剣豪将軍が宗麟へ言い訳してたのは話は知ってたけど、まさか、こんな上から目線だったとは^^;
ホントに六か国守護職の宗麟へ、この下書きのマンマで送っちゃったのかが気になるぅ~( ̄ω ̄A;アセアセ
人物・大友宗麟 ←御不審の大友宗麟(笑

相良に對(対)して「義」の字、官途「修理大夫」の事、
相良に対して義の偏諱と修理大夫の任官の事だんだけど

先例に任して遣わすの處(ところ)、其の例はありまじき通信の上、不審に思食(おぼさ)られ候
先例にならい与えられるべきところなのに、その例はないと連絡があり、不審に思われているとの事。
有間敷(ありま_じき)相手へ敬意を払う場合に使う表現で、つまりここまでは(一応)気を使ってます^^b

然(しか)りと雖(いえど)も、此の義に於いては、一度成し下され候の条、
そうだとしても、今回のことについては、もうやっっちゃった事なんだよ!!!(# ゚Д゚)・;'.
ほぼ捨て台詞ですな ( ゚Д゚)y─┛~~

向後(こうご)は其の意を得る可く、委細を上野輝廣に申し含んで、差し下すの候、猶(なお)晴光へ申し可く候也
これからは、そちらの意見を入れますから、詳細は輝廣に伝え、なお晴光にも伝えます(´・д・`)
(文中の人物については、度忘れしちゃって特定できんかった^^;)

おほほほ・・・・剣豪将軍の開き直りの言い訳ですわ♪
大友宗麟へ宛の御内書(私的な書状)の「案(下書)」を細川藤孝(後の幽斎)が相良へ渡してたんですね。
意図としては『宗麟が文句言ってるけど、こんな風に返事するから大丈夫だよ』って事だと思います^^
この下書きのままだったら、余計に怒らせたんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

永禄八年三月五日発給の、細川藤孝による奉書(事務手続き)によって、相良義陽の「義」の偏諱と「修理大夫」の任官が正式に降りました。
相良頼房から相良義陽になったのは、この時からです^-^

宗麟が相良家への偏諱や任官にクレーム出したとか出してないとか、ハッキリ判る史料は見つけられなかったんだけど、
|先例ないのに不審|_ ̄)じぃー、って宗麟が言ってたのが前段階としてあったみたいです^^;
ただ「義」の偏諱のほうは先例があるので、宗麟がホントに不満だったのは「修理大夫」任官の方ではないかとも思う^^;

偏諱と任官にあたり相良家では、将軍家はもとより生母に側室、細川藤孝だけでなく使者として球磨へ下向した櫻本坊という人物にも進物(金品などの贈答品)を贈ってます。
櫻本坊が来たときには義陽は御門(人吉城?)まで出迎えたとあります。(相良家文書512)
ちなみに、将軍使者も佐敷から有馬へと帰路コースしてるんで、やはり有馬と相良の間には、海路による外交上の往来があったのでしょう。

偏諱・任官のお祝いムードが続いていただろう同年5月に剣豪将軍は、松永と三好三人衆の手勢に討たれて亡くなります。
めまぐるしく動く中央情勢の影響が、次に読み下す書状に出てくるのですが、それは・またの話 by^-^sio

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相良家文書506_島津義久起請文&507_島津義久書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
【506_島津義久起請文】
コノ起請文ハ牛王寶印ノ裏ヲ反シテ書セリ
   起請文
一申組代々之辻、弥於向後可爲深重候、自然世上雑説之時者、?實否可相決事、
 若此旨於違犯者、
梵天、帝釈、四大天王、惣者日本六十余州大小神祇、殊者當國鎮守新田八幡大菩薩、開門正一位、大隅正八幡宮、霧嶋六所権現、諏訪大明神、天満天神、部類眷属、神罰冥罰可蒙者也、仍起請文如件、
   永禄五年壬戌拾月二日       (島津)義久(花押)
          相良殿

一申し組は代々の筋(辻)、
申し組み(和睦)は代々からの筋(道理)(`・ω・´)キリッ
弥(いよいよ) 向後(こうご)に於いて深重(しんちょう)爲(な)す可(べ)く候
いよいよ、今後において大事をなす事になります。
自然(じねん)世上(せじょう)雑説の時は、実否(じっぴ)相決(あいけっ)す可(べ)く事
おのずと、世間で様々な話が出た時は、嘘か真かキチンとしましょうね(^ -)---☆Wink
若(も)し此の旨に於いて違反は(以下、誓った神様の名前)仍て起請文 件(くだん)の如し
この内容を破ったら神様から罰を受けます、この通り起請します

さすが三カ国守護の島津氏、起請した神様は当国(薩摩)、大隅、霧島とちゃんと三カ国が書かれています。
さて、連動してる書状も短いんで次も一気に行きます~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
【507_島津義久書状】
(折封ウハ(上)書)(折封、堅紙)
     「相良殿            義久」
 「- ーー」(端裏切封)
度々無別儀申合之由、雖深甚候、依無其證跡、以牛王之裏、企壹行候、此等之趣、於御同前者、可爲本望候、猶老者可申候、恐々謹言、
(永禄五年)十月二日         義久(花押)
       相良殿
度々(たびたび)別義無く申し合わせの由(よし)、深甚(しんじん)雖(いえど)も候
何度もですが、別の事ではないけど申し合わせ(和議)のことですから、大事なことなんです(´・д・`)
其(そ)の證跡(しょうぜき)、牛王の裏以て、企一行候、
読み下し方が・・・依無の部分がチト判らん^^;
意訳としてはその證跡(証拠)に起請文を書きましたです。
これ等の趣き、御同前に於いては、本望為(な)す可(べ)く候、なお老者(ろうさ)が申し可(べ)く候、恐々謹言
これらのことは以前と同じく本望なんです。なお老中より話があります。恐々謹言なぅ。

ちょっと面白かったのが起請文と書状では宛名の位置が違う事です。
雰囲気出そうと頑張ったけど判り辛くてすいません^^
起請文の方の宛名「相良殿」は月日と同じ位置です。神様に誓ってることですから^-^
ですが書状の方だと宛名「相良殿」は、月日より一文字分下げて書いてます。

これは上位者が下位者へ敬意を払って書くパターンの宛名。
永禄年間ですから被官関係云々ではなく、島津氏が守護職の家柄だからなのかなぁ~と推測してました。
というのも大友義鎮(六ヶ国守護職)が相良へ宛てた手紙の宛名も、島津からの書状と同じ位置だったから^^;

書状を読んで感じたのは・・・ズバリ、義久がくどい!です^^;
この年の2月に日向伊東氏に対抗すべく島津・北郷(ほんごう)・相良の三氏で、北原氏を支援する同盟を組んでました。
(北原が伊東に家督を乗っ取られたので、三氏で対抗馬の北原新当主をプッシュしてた)
で島津氏と相良氏の芦北衆が交代で真幸院(北原氏所領:現えびの市)に入り番兵してたんです。

相良は大口城番として八代衆と球磨衆を交代で入れてたので、他へ派兵できるとしたらフリーなのは芦北衆だけです。
大口番という華やかな部署をとられてた芦北衆にとって、手柄をたてるチャンスだったとは思います。
が・・・芦北から宮崎県のえびの市までの移動ですよ?一旦球磨に入るのかな?山越えキッツイわぁ~~^^;
芦北衆の士気も不明ですが、何より地理不案内なアウエーをリカバーするのは厳しい・・・(-ω-;)ウーン
伊東は自分サイドの北原旧臣(ジモティ)を攪乱に使うだろうから、手こずったと思います。

義久のくどさから察するに、島津としては真幸院に領地が隣接してる相良氏の働きに期待する部分が大きかったっぽい。
が、戦況が思うようになってなかったらしい。
それで【起請文&書状】って形で相良氏へプレッシャーというかプッシュしたのかなぁ~と^^;
結果として相良義陽は島津を裏切り伊東氏へ寝返るのですが、当初から島津と相良では歩調が合ってなかったのでしょう。

一方で相良氏は島津に抵抗を続ける大隅国衆・菱刈氏を支援していました。
となると相良内部において「島津を敵視する派閥」と「島津との同盟関係を維持したい派閥」と割れてたのは容易に想像がつきます。
相良義陽が相良家を統率するのは大変だっただろうし、おそらく島津でも相良内部事情は判ってた(大口番に相良兵が入ってるんで)。
それだけに「この和睦に島津は物凄く期待」してたのが見えてくる【義久からの起請&書状セット】なのでした^^

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相良家文書494_島津陽久(義虎)書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
(折封ウハ(上)書)(折封、裏打、堅紙)
※裏打---紙・布・革などの裏にさらに和紙や布などを張って厚く丈夫にすること
 「                  嶋津薩摩守
 相良殿
     御返報               陽久」

「- ーー」(端裏切封)
誠御慶重畳、久木野之輙被任御所存候、此方以大慶此事候、仍太刀一腰織筋二端預候、令祝着候、自是?同一振緞子赤地一端進之候、殊爲禮義、玉圓坊桑原常陸介殿御越候、外聞實畏入候、何様態可申談候、猶両使可被達候之哉、恐々謹言、
(弘治三年)
  八月七日         陽久(花押)
  相良殿
     御返報


裏打ちは意味の通りなんだが、初めから裏打ちされた状態で届いたのかがワカランです^^;
【返報】なので、まず相良側からアクションがあり、それに対する義虎の返書になります^^

義虎の初名は「晴久(足利義晴より偏諱)」で、将軍死去後の諱が陽久(はるひさ?)、義虎名乗るのは7年後。
実は、この陽久って呼び方も好きなんです。川* ̄д ̄*川ポッ 
太陽の陽に、密林の王者・虎、どっちの諱もスター性があると思いませんこと?(←萌えバカ)
薩摩守・・・薩摩守・・・薩摩守・・・薩摩守 島津氏分家筆頭、カッコイイ~(人´∀`).☆.。.:*・
薩州家が薩州家と呼ばれた所以たる受領(ずりょう)名なのです。(*´pq`)
さて、ファンの依怙贔屓は、このくらいにして真面目に行きます(`・ω・´)キリッ

誠に御慶び重畳、
誠に喜ばしいと重ねて申します。
久木野の御所存に輙(たやすく)任され候、此方(こちら)を以(もっ)て大慶とは此の事候、
久木野をお気持ちの通り容易に運ばれた事、これを以て「大慶」とは まさに此のことを言うのでしょう^^/
ふーむ・・・まず相良側で「大慶」って表現を使ってて、それを受けた上での返しっぽいなぁ
仍(よ)って太刀一腰と織筋(おりすじ)二端(反)預り候、祝着令(せ)しむ候、
よって太刀一腰と絹織物を二反を(使者に)預かります。祝着・・・お祝いします。
令(せ)しむ---この表現自体は相手への敬意として盛り込むものなので、意訳では深読みや捻る必要なしです^^
?是(これ)自(よ)り同一振、緞子(どんす)赤地一反 進(まい)らせ候

?より同(太刀)一振り、緞子(どんす)---繻子(しゅす)の絹織物の赤地一反をお届けします。
?部分には何か花押っぽいサインがありました。崩し字の上に印字も小さくて判読できなかったんです^^;
どうも義虎が贈る太刀と反物以外に、「誰か」が同じく太刀と絹織物を一緒に届けて~と言付かったみたいです。
父の実久は既に亡くなってるし、となると可能性として高いのは宗家の貴久かなぁ。
ちなみに島津義久長女・御平は、この時期には義虎に嫁いでます。
殊(こと)に礼儀を為し 玉圓坊 桑原常陸介殿 御越し候、外聞実に畏れ入り候

特に礼儀をもって、玉圓坊と桑原常陸介殿がお越しになり、体面上、実に畏れ入ります。( ̄ω ̄A;アセアセ
玉圓坊って誰?状態ですが、桑原常陸介は南藤曼綿録ですと八代奉行とあるそうです。
八代奉行が、どういった職制・職分かは不明です。
ともあれ相良側では薩州家へ、重臣クラスを使者として派遣したのでしょう。
それで陽久(=義虎)は恐縮してます^^;
何様態と申し談じ可く候、猶 両使い達せられ可く候の哉、恐々謹言
どんな様子か申し談じます。なお使いの両人へ伝えます。恐々謹言なぅ
家紋・相良 ロン様作成、相良家紋ロゴ

えっと~まず弘治3年に当時若年だった義陽の後見の上村頼興(義陽の実祖父)が亡くなります。
で、同年6月に頼興の息子たち・・・義陽を支えるべき立場の実叔父たちが謀反を起こしました。
更に相良氏の被官だった(と思われる)菱刈一門の菱刈重任が、叔父たちの謀反に呼応して、久木野城から湯浦方面へ侵攻します。
それが同年6月15日でして、相良はホントにホントに秋月のヘルプどころじゃないのです(´・д・`)ゴメンネ
ちなみに久木野城は水俣市にありました^^

てことで、7月9日相良側の津奈木・水俣・湯浦勢が菱刈勢に反撃し追い返すo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
7月25日、久木野城が落城&菱刈重任が戦死してます。
一か月以上かかってますが、実は叔父たちに呼応した北原氏(日向・真幸院=宮崎県えびの市)も兵を出してて、相良の領内は西も東も大忙しだったんです アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
(つまり、久木野城は津奈木・水俣・湯浦勢だけで何とかしなきゃならんかった)

ちなみのちなみに・・・この前後2年間ほどで天草地方で騒乱が起きてました 。ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
天草地方は相良が配下にしてたんですが、名君と謳われた先代・晴広が死去した事で政情不安定になってたみたいです。
史料が少なすぎて詳細不明なんですが、相良家文書によると相良氏では島津から軍船を用立ててもらい天草へ軍勢を送ってたようです。
島津家老の伊集院忠朗と書状のやりとりが残ってます。(弘治3・3月)
過去記事では義陽と伊集院忠朗が佐敷で会見した(弘治3・3・15)のは「菱刈からみ?」と書いてたんですが、相良家文書の遣り取りを見てると、寧ろ天草地方の和与(和睦)からみの可能性が高そうなんです。
対応する島津家文書がないかとチャレンジしたけど、島津が専門外なんで、何処にあるか、それとも無いのかすら判らず挫折した^^;

で、6月に叔父たち謀反ですから、相良では天草地方の騒乱も和与する事が出来ずグダグダが続いてたと思われます。
島津の方でも若年当主の為に領内不安定になった|相良家|_ ̄)じぃー と見てる訳です。

そこで相良家では、上村兄弟の謀反に呼応した菱刈重任を討ち果たし久木野城を落としたことを、薩州家の島津陽久(=義虎)へ重臣クラスを派遣して伝えたんです。
おそらく相良側では、陽久から島津宗家へ伝わる事を期待して・・・てか直球ストレートに頼んだのかも。
それで戦勝祝の品が陽久だけでなく【?是自】からも預かったと思います。
てことで「?」部分の崩し字は宗家じゃないかって推測が出てくるわけです^^

若年で、父と祖父を相次いで失い身内に裏切られた弘治年間が終わると、義陽にとって試練の永禄年間が始まります。

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相良家文書491と492~比ぶれば~(*´○`)o¶~~♪

時間かけてアレコレやる理由はズバリ
主君あてと家臣あての文書を比べてみたいというマニアの好奇心です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
で、結局のところ、どうして こんな風にしたかサパーリ☆ワカラン,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
ということで赤文字部分は100%想像、萌えの戯けですので、お時間ある方だけおつきあいください^^

まず文書を入れていた封
義陽宛て、差出人連著:筑紫 秋月文衆 末尾著名花押:文衆、秋月
老臣宛て、差出人連著:秋月、筑紫良薫 末尾著名花押:良薫、文衆

ということで、義陽宛と老臣宛ではメイン著者が別になってます。
これは、やはり謀反の首謀者が秋月文衆(文種)ということなのか?(-ω-;)ウーン
義陽宛を主に認めたのが秋月で、老臣宛は筑紫という分業だったのか?
(ガチ本物の古文書で筆跡を見比べられれば確認できるけど、画像公開してないんで在野の素人では無理^^;)

料紙(←書状を書くのに使う紙のこと)の違い
義陽宛:切紙←略式の場合が多い
老臣宛:堅紙←正式書状サイズ

紙の材質そのものは、どちらも同じで良質紙を使用してます。
大きさを比べると義陽宛が切紙といっても老臣宛の堅紙より高さで1cm長さで6cm弱小さいだけ。
ですから略式というよりは、義陽宛てはジャストサイズになるように、書いた後に余白を削いだのではないか?
ちぐはぐな用紙サイズの謎は、主に書いた人物が違うのなら、書いた人の性格の違いということで理由が付くが、ガチ古文書は画像公開されてないので(以下略)

書状の中身
義陽宛
・相手へ敬意を払う表現あり
・前回の使者への返書がない件へ「やんわり抗議」
・大友への仲介を恃んだり、返事の催促、大友勢の動きを盛り込む、等々ピンチアピールしつつぶっちゃけトーク展開
・今回の使者氏名は記載なし「彼方」とのみ表現

老臣宛
・礼としては簡略な表現
・前回の使者への返書がない件へ「ガチで非難」
・義陽宛てに記したような、ぶっちゃけトークなし
・今回の使者氏名は記載ないが「御屋形(大友義鎮)が知ってる人物」だから「仰せを聞くように」と上から目線

・・・封の差出人、料紙サイズの違い、+こういう内容の差が、義陽宛ては秋月メイン、老臣宛は筑紫メイン、とそれぞれで書いたんじゃなかろうか?と思う部分なんです。
考えてもみてください。
謀反コンビからの書状ですから、相良側では当然「態度を決める」会議をするはずです。
義陽宛てには、しおらしいのに、老臣相手だと弱みを見せずに偉そうと、二通りの態度をしたら相良側は不審に感じないですか?^^;
ただ、どちらの書状にも二人ともに署名&花押してるから、どちらも内容にも目を通しているはずだから、内容の差についてはワザとになります^^;
そのあたり、書き方として古文書的にこういうもんなのか、謀反という緊急時における特殊な事例なのか判りません(><;)

老臣たちの内訳
 人吉衆(球磨奉行)---東弾正忠(長兄)、丸目兵庫頭(頼美)
 人吉or葦北衆---簗瀬源左衛門尉
 八代奉行---桑原常陸介
 八代談合衆---宮原筑前守、蓑田筑後守
 津奈木奉行っぽい---相良(東)尾張守

ということで、弘治3年当時における相良側老臣らのALLキャスト的メンツです^^
球磨奉行として両輪であった東と丸目が、数年後に仲たがいし内乱「獺野原(うそのばる)の戦い」になると思うと感慨深い^^;
正式な書状として他家老臣らに出すのだから、これで正しいといえば正しいのだけど、
逆を言うと筑紫&秋月は、相良老臣と個別な外交ルートは持ってなかったんじゃないだろうか?
これだけ名前が出てくるところを見るに、筑紫&秋月は相良家のことは知識として知ってたのでしょう。
ですが弘治3は若年当主・義陽の祖父で後見人である上村頼興が急死した年。
筑紫&秋月は相良老臣で誰が一番キーになる人物か判断しかねたのではないだろうか?
書状を見た義陽が一番に相談する人物が判らない、それで老臣宛には本音を書くのを控えた・・・とか?ヽ(。▽゜)ノ

おそらく、この二度目の(らしい)書状も使者も相良側ではスルーしたと思います。
というのも弘治3、6月10日に叔父・上村兄弟を討伐すべく軍が豊福へ向かっているからです。
6月7日に書いた書状が人吉に届くころには、相良は遠い北九州のヨソ様の仲介どころじゃありません!!(_´Д`)アイーン
或いは筑紫&秋月の出した使者が、ほんとに大友の知古なら粗略には出来ないんで返事は待ってもらう感じだったかも。

当時の北九州では怒りMAXの大友との仲介をしてくれそうな人物はいません。
毛利の支援で謀反なぅだから、毛利の仲介も期待はできない。
それで相良チョイスだったのかもですが、タイミングが悪すぎです( ̄ω ̄A;アセアセ

相良からの色よい返事を待つうちに大友勢に包囲され、自害まで追い込まれちゃった秋月文衆(文種)が不憫・・(´;ω;`)ウッ
でもって、相変わらず変わり身というか逃げ足が速い筑紫氏,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
筑紫氏タイプは好き嫌いがあると思いますが、名門武家・少弐一門のくせに国人よりも国人らしくて、自分は好きですねぇ(・∀・)ニヤニヤ

ALL趣味の長文に御付き合いありがとうございましたm(__)m

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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