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肥前千葉氏_千葉胤盛データベース

※本業関連なのでデータベースは自分で確認とれたもののみを抽出してます。
(河上神社文書は、専用書庫の方でまとめます)
家系図・肥前千葉系図・決定

千葉胤盛、胤紹の子で東千葉氏興常の父です。
数年前に肥前千葉氏を記事にしたときは、WEBでは此の方の詳細データが入手できなかったんです^^;
河上神社文書入手で、ようやっと裏付けとれるので再リサーチなり~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

歴代鎮西志上巻_682頁、
(明応元年・1469)『千葉胤盛 同姓胤将を攻め落とす。胤資より和平す』
胤資が謎、千葉胤資のことなら未だ生まれてないので少弐政資の誤記かな?

歴代鎮西志上巻_692頁
(明応8年・1499)『千葉別駕(べつが=守護代)胤盛之子新介 大内義興に謁す。諱の字を受け名を「興常」と三郡に知れたり』
これを拾ったのは胤盛を「別駕(べつが=守護代)」でカウントしてるから^^b
但し、この明応8というのは編者の編纂ミス。明応6で既に興常と名乗ってます。

北肥戦誌_162頁
千葉興常の父という紹介のみ。
北肥戦誌には胤盛の記述は殆どなかった。

佐賀市史第1巻_528頁
面倒なので簡略に要点のみ時系列で抜粋
・文安年間、兄の政胤戦死後、同じく兄の胤朝は大内氏を頼っていた
・胤盛はは小城に戻る「文明8、2月3日、川上社へ安堵状出す」
・文明10、10月7日、大内政弘が筑前・秋月種朝を遣わし胤朝に助勢し胤盛攻撃を命じる
・大内では胤朝と胤盛を和睦させようとしていたのだが、牛頭山城退去を胤盛が拒みグダグダしてた。
胤盛は「兄・胤朝より先に死亡(市史では千葉系図を参照)」とされていたので市史も、それに則った記述です。
 が、河上神社文書により明応6(1497)1月までは存命していた事が確認されてます。
 同年3月27日に千葉興常が川上社へ禁制を出しているので、その間に胤盛が死亡したと思われる。

コッチの方が詳しいですな ( ゚Д゚)y─┛~~
う~~~脳に浸透しづらい~繰り返し読むしかにゃいぉ・・・il||li _| ̄|○ il||l
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

もう治ったヽ(。_゜)ノ へっ?

母が骨折して9日目。

本日、2度目のレントゲン撮影したら
「くっついます(`・ω・´)キリッ」
と医者から快癒の御墨付を頂いたそうな。

( ´д`)ぇえぇ~~~~
疑うわけじゃないが、骨って、そんなに簡単にくっつくもんなの?(-ω-;)ウーン

まぁ医者が言うし、折れた時とくっついた時と両方の撮影写真を比べて見せてもらったそうだから間違いないんでしょう。
シルバーウィーク地元ヒッキーで安静にしてもらった甲斐がありました^^/

安心したところで、お彼岸で御供え(※元は頂きもの)したメロンでも食べるわ~(*´pq`)クスッ
明日・・・てか今夜は中秋の名月、お月様が見えますように♪

自分が肥前後藤氏を好きな、とても個人的な萌え理由

お蔭さまで母上は元気です^^
明日、2度目のレントゲン撮影だそうな^^

さて、自分が武将or武家を好きになるには、一定の基準があります。
1)親が有名すぎて普通はしないであろう苦労する羽目になった2代目萌え
吉川広家、徳川秀忠、真田信之、黒田長政、毛利輝元(パパ隆元が家督を継がないまま死去したから)
鍋島勝茂、ダメんズ扱いの今川氏真もストライクゾーンのかなり真ん中あたりにいます 川* ̄д ̄*川ポッ
調べてないけど、たぶん武田勝頼もストライクゾーンに来る予感(*´pq`)プププ
初代藩主編シリーズは、この萌え萌えが動機のメイン^^b

2)地名でも諱でも苗字でも本姓でも、とにかく名称・呼称萌え
カッコイイと思う基準は・・・なんだろう?その時のビビビ・インスピレーションですな ( ゚Д゚)y─┛~~
地名だと院がつくのは無条件に萌えるwwww
福岡の八院、宮崎の真幸院、鹿児島の牛屎院、入来院、祁答院とか祁答院とか祁答院とか'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'` カッコヨス
一番初めに好きになった武将は宇喜多秀家で『宇喜多ってカッコ(・∀・)イイ!』ビビビときたから。
黒田如水の九州・関ヶ原を調べようと九州に史的上陸したら・・・・
なんということでしょう~萌える素敵な名称・呼称が一杯!!川* ̄д ̄*川 キャァ 

大蔵系氏族・・・大蔵って響きが色んな意味で素敵!!(* ̄▽ ̄*) 
通字の「種」・・・めっちゃカッコイイ~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
豊後大神氏族・・・大神ってカッコイイ~通字の惟(これ)も(・∀・)イイ!

てな流れで肥前後藤氏の場合は、諱に必ずつく「明」の文字が好きなんです
職明・・・しきあき・・・個人的には「しきあきら」と呼びたい 川* ̄д ̄*川ポッ 
特に「貴明」が好きです 川* ̄д ̄*川ポッ
実は、亡父の名前が「*明(たかあき)」なんです。(読みは同じだけど漢字が違います)
亡父の方の漢字をチョイスするのは少ないと思う。
でも漢字変換に出てくる文字の範囲内だから、自分の周りにいないだけなのかも。
亡父の名前は祖母が今で言うところの『産後ハイ』でつけたが、他の兄弟と関連性がないだけでキラキラネームではない。
(由来をちゃんと聞いてないのだけど、長男じゃない父の命名は制約無しだったらしい)
家督にまつわる後藤貴明の複雑な人生を知って、余計に依怙贔屓してまふ 川* ̄д ̄*川ポッ

武雄(後藤氏の領地)で何となく検索してたら、蔦屋と提携した武雄市図書館の評価がナンダカナーなことになってて、地味に凹んでしまったので己の原点うpしてみる(´;ω;`)ウッ

参照文献_城館と中世史料

相変わらず多読です。
要するにアッチ読んでは半端、コッチ読んでは半端で、つまるところ新しいものに目移りしては飽きっぽいんですな( ゚Д゚)y─┛~~
冗談は置いておいて、読み散らすのとは関係なく、読むのが遅い^^;
で、読んだ部分から参照用の記録として残します^^/



第一部_中世城館の史料論
「戦功覚書」と城郭研究_竹井英文
興味のあるのから先に読んでた_φ(.. ) メモメモ
読んで一番に感じたのは「ここまで書くのに、調べるの大変だっただろうなぁ」です^^;

通史や軍記物と違い、戦功覚書は客観的に書いているので、事実関係を掌握するにはバッチリ。
通史とかだと主家に遠慮して敗北してるのに負けたって書かないように記述したりしてるから、判り辛いのなんのって^^;
だから軍功覚書にある城郭関連を抽出し、実際の発掘した城郭データを照合すると当時の城郭の姿が明瞭になる。
それと地名とか当時の呼称で書かれているので、地理的な変遷も検証できる。
論を簡単にまとめると、そういう感じ^^

戦功覚書には大きく二つに分類されます。
一つは、主家・藩などに提出する上申文書に分類されるもの
もう一つは、子孫に向けて書いたものです。
子孫向けだと誇張が入るかもですが、主家へ提出だと他も出すから矛盾するような事は書けません。
だから江戸期成立であっても戦功覚書は比較的精度が高い史料といえます。

他に主君に出す戦功記録としては軍忠状があります。
これは『提出した文書に、証判をもらう』ので、軍功に対する何よりの証拠になります。
他に功績に対して主君が出す感状とか。
「戦功覚書」が軍忠状や感状を元に書いたものなら、完璧です・・・・が現実問題なにもかも揃ってるのって滅多にない^^;
そもそも戦功覚書もあんまり残ってないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

更にネックになるのは覚書が『大きな戦の記録に集中しちゃう』ってことです。
佐賀藩で言えば「沖田畷」と「島原の乱」です。
諸地方の記録になると、各市町村によってバラバラに収蔵された覚書を拾い出し、該当部分を探さなきゃならないので、凄い地道な作業になる^^;
竹井氏が参照した覚書は、まだ全文が翻刻(ほんこく=現代漢字に起こすこと)されてないのも相当数あるみたい。
だから読み終わった時の初めに感じたのが「大変だったろうなぁ」なんです^^;
参照資料に野口先生の論文(佐賀関連)があったのが個人的に嬉しかった(*´pq`)
末尾に「今後も検討を積み重ねていきたい」とあったので、これからの研究成果を楽しみに待ってます^^/


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参照文献_秀吉研究の最前線(日本史史料研究会編)

第一部 政治権力者としての実像とは
●堀越祐一「五大老・五奉行は、実際に機能していたか」より気になるとこ抽出
五大老、五奉行の成立は慶長三年(1598)七月、または八月上旬成立
文中では小早川隆景がカウントされてないなぁ~自分の知識が古い学説なんだろか(* ̄* ̄*)むぅ
五大老、五奉行の呼称は江戸時代からで、戦国当時は呼ばれていなかった。
当時は五大老は奉行と呼ばれていた
五奉行は年寄または奉行で呼称は固定されていない

石田三成は「家康を奉行」と呼ぶ一方で「自らを年寄」と呼んでいた。
つまり三成は自分たちを豊臣政権の宿老級とし、家康を命を奉じる下位者と位置づけていた。

★五大老の職務_3点
朝鮮からの撤兵遂行、謀反・反乱に対する処置、領地給与
ということは家康が秀吉死後に各大名へ与えた領地は、豊臣政権の奉書の形式だったことになるわけか
★五奉行の職務_豊臣直轄領統括

三成失脚後の慶長四年(1599)閏三月二十一日、家康と毛利輝元が和睦のため起請文を交わす。(毛利家文書)

__φ(.. ) メモメモ
特に呼称に関しては不勉強だったので参考になりました。
慶長年間の一次史料読むときに気を付けようっと(*´pq`)

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母上が肋骨を骨折しました(愚痴ぷー)

正確に言うと圧迫骨折です。
地方新聞に毎週掲載されてる「料理レシピ」とか「花の育て方」とか「お気に記事」を切り抜きするのが趣味な母上。
(切り抜き作業に没頭し終わった後の達成感が好きらしい)
それなら掲載した日にやれば良いのだけど、新聞を溜め込んで一気にやる変なクセがあるんです。
(溜まれば、貯まるほど、終わった後の達成感倍増するんで、あえて溜めてる気配あり)

先週の金曜日のこと。
猫背+変な姿勢のままで黙々と3時間・・・切り抜き作業に集中。

で、作業終わってスッキリ満足~しばらくして母上「ん?脇腹痛い。Why?」となった・・・il||li _| ̄|○ il||l
で、一晩中痛いので土曜日だし連休になるしで診察を受けたら「圧迫骨折なり~」(_´Д`)アイーン

はぁ?
3時間?
何で、そんなに根詰めるほど溜めるわけ?
若人でも、んな悪い姿勢で連続動作を無理してやれば、筋肉痛や筋違いするわ
ちったぁ自分の年、考えろ~~ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.


こんな感じで一通り〆ましたが性格なんで懲りんでしょうな ( ゚Д゚)y─┛~~
何が腹立つって、わざわざ職場に電話してきたことですわ・・・il||li _| ̄|○ il||l
そりゃ、本人にしたら一大事だろうけど、入院でもないし、手術でもないし、発熱もしてない血圧正常、着替えも一人で出来るし、シャワーだけなら今日からでもOK、てか土曜日はシオが作ったシチューの他にプリンとシュークリームとヨモギ餅まで食べてましたね。
それだけ食っても母上は太らない体質なんで、ダイエット中の自分は余計に腹が立つんですけど?

骨折理由が頭にきてるんで、シチューは母上のマイルドクリーミィな味付けに従わず、濃くありなシオ好みですからね!(`・ω・´)キリッ
豚肉だってケチケチしないで何時もの倍量投入して、母上が苦手な脂身も今日はとりませんからね(`・ω・´)オコンプイプイ!
我ながら美味しかった~(人´∀`).☆.。.:*・

ゲフゴホ
そんだけ元気なら、仕事中に電話するほど緊急じゃない気がする自分は冷たいですか?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
てか、自分だけに報せて妹子ちゃんには知らせないってなんじゃそりゃ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
母曰く「だって~~妹子ちゃん携帯は電話しても、なかなか出ないだもん~ブリッ」
(-ω-怒)ピクピクピク~~~~~~~~

まぁ、やっぱりビックリしただろうし、思いがけない怪我に一人で心細くなったのでしょうし、これ以上は直噴火するのは抑えましたわ~
てか、思いがけないのはコッチですわ・・・il||li _| ̄|○ il||l

右側の肋骨が折れてるんで、右手を動かすのを医者に止められてます。
あ、怒りすぎて何本折れてるか聞いてない~(←おぃ)
ハチャけ具合からするに、せいぜい肋骨一本ですな ( ゚Д゚)y─┛~~
(後で聞いたら、やっぱり一本だった)

速攻で骨粗鬆症と骨密度の検査を受けてもらって、気持ち凹みすぎない程度で年相応の自覚させないと・・・il||li _| ̄|○ il||l
(2年前の検査では年齢平均より良い数値だったので、本人が色々と油断してるwww)

うーん~とりあえず鎮痛剤と湿布と固定効果か、痛いとか今は言ってないけど人生初の骨折デヴューでテンション上がってるだけかもなんで、記事に吐き出したら機嫌直して怪我人には優しくします・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
甘えたい?構って欲しそうに、コッチを |壁|_ ̄)チラチラ見ぃー してるしwww

つうことで、しばらく晩御飯作りはシオがメインですわ。
(妹子ちゃんの方が勤務の関係で自分より帰宅が遅いんです)

ぶえーーーーーーーん、連休のお出かけキャンセルだよ~地元ヒッキーだよ~~~~
父上、墓参り中止になってごめんね~~~休みが家族バラバラだから次に行くまで待っててくれ~~
母上に言うと凹むから、ここで吐き出し,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

相良家文書526_戸次鑑連外二名連著状

ネタとして関係あるのか未だ判らないんですが、文中の人物が先々出て来るので読み下してみます。
緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

(折封ウハ(上)書)(形態:切紙、捻封)
           戸次伯耆守
             臼杵越中守
             吉弘左近大夫

相良殿 御報         鑑理」
「- ーー」(端裏切封)
如御礼、慶賀逐日、珍重候、然者、木上宗心進退之儀、被成【欠字】御宥免候儀、可到取合之由承候、各申談、頼房御一通具令披露、
御気色之趣、追而可申入候、宗心事、別而被忝御心候首尾、殊爰元衆多分舊交之儀候間、於相応之儀者、曾而不可存心疎候、猶期来信候、恐々謹言、
(永禄十二年カ)
 五月十日    (吉弘)鑑理(花押)
            (臼杵)鑑速(花押)
            (戸次)鑑連(花押)
 相良殿 御報



欠字あるんで宗麟の動向に触れてます^^
それと更に今回の文書では「段落を変えてます」
ダーーーと区切りも段落も無く書き連ねるのが当時の書き方なんですが、文章の途中で意図的に段落を変える時があります。
それは「欠字」と同じく「貴人に対する礼」としての配慮です。
主君である宗麟の事に触れるため、礼として段落を変えて書いてる訳です^-^
ただ、どういう場面で、欠字、段落変えを使い分けしてるか~ってのは自分のレベルじゃ判らん~~(´Д`)

御礼の如く、慶賀逐日、珍重候、
上手く読み下せなかった~~~とにかく丁重に御礼してる感あります^^;

然者(しかれば)、木上宗心進退の儀、御宥免(ゆうめん)成らせ候儀、取合至る可(べ)くの由(よし)承り候、
さて、木上宗心の進退(しんたい=処分)を、(宗麟に)宥免---罪を許してもらう事について、取合い至るよう承ります。
※取合(とりあわせ)という読みだと年貢総額の意味になるので、前後の流れから本来は建築用語で接合を意味する「とりあい」という方の読みだと判断しました。

各申談(しんだん)、頼房御一通具披露(ひろう)令(せ)しむ、
各(おのおの)申し入れ、頼房(=義陽)の手紙を披露します。
作戦会議っすね^^/
老臣たちが、それぞれ宗麟に働きかけ、タイミングみて義陽の手紙を見せるそうですよ(*´pq`)プププ

御気色(みけしき)の趣き、追而(おって)申し入れ可(べ)く候、
(宗麟の)御気色---御機嫌の様子で、追って申し入れます。
毛利との戦で宗麟がピリピリしてたんだろうなぁ~タイミング難しそうだ・・・・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)

宗心事(そうしん こと)、別而(べっして)御心忝(かたじけ)なうせらる候首尾、
宗心の事、別してお心に添うようする首尾にて、

殊爰元(ここもとほか)衆多(しゅうた)分 舊(旧)交之儀 候間(そうろうあいだ)、
爰元・・ここともと=自分
衆多(しゅうた=あまた)=多数、大勢
候間(そうろうあいだ)=○○ですので←丁寧語
自分のほか大勢が旧交の間柄ですので、

相応の儀に於いては、曾而(かつて)存心(そんしん)疎かべからず候、
それについては、今まで考えを疎かにしてはおりません。

猶期(なお)来信(らいしん)候、恐々謹言、(ラスト2文節、結語の定型文)
また手紙しますね~♪ヽ(*´∀`)ノ恐々謹言なぅ

ふぅ~~大友関連は自分が勉強不足なんで時間かかっるっす ( ̄ω ̄A;アセアセ
豊後の郷土資料まで手が回らん・・・il||li _| ̄|○ il||l

まず初めに木上宗心という人物は大友家臣です。
それが主君である宗麟の怒りに触れて処分待ち状態となってたみたい。
で、相良義陽が処分を取り消し(もしくは減刑)してもらおうと動いている・・・という状況。

義陽が手土産を渡してアプローチしたのが5月初旬らしい(大友老臣からの御礼返書は5月8日)ので、そもそもの目的が木上宗心の処分取成しの方だったんじゃないでしょうか。
大友家臣のために相良が動いてくれてるので、吉弘、臼杵、戸次、の老臣連著で丁重に返事してるわけです。
この取り成しは成功したようで、木上は大友家臣として復活しており、永禄年間の相良家文書に登場します。

で、肝心の相良家が大友家の内輪・・・いわば人事に関わる問題で動いた理由・・・これが判りませんil||li _| ̄|○ il||l
そもそも木上氏は大友譜代ではなく、大友より前から豊後に土着している古族(豊後大神系氏族)の子孫です。
鎌倉期は大友に帰属するのを拒んでいたらしく、大友家臣として木上氏が記録に出始めるのは室町期から。

研究者によると木上宗心は「肥後方分(=守護代)」では?と言われてます。
ただ史料的に肥後方分とハッキリ名言してるものがないので「方分でカウントは早計」としてる研究者もいます。
(ネットで論文要旨を見ただけなので、論文詳細はわかんない^^;)
肥後方分だった小原鑑元謀反の以降、大友では肥後方分を置いていないと過去記事に書いてたんですが、ちょっと違った~(-ω-;)
肥後方分という役職はあったけど、現地に赴任させてなかった・・・が正解(・∀・)

まぁ、なんといいますか、肥後特有の御国事情でして・・・
有力家臣を下手に赴任させると、大友統治に不満を持つ肥後国衆の神輿として担ぎ出される危険度が高いので『任命すれど赴任せず』なんです^^;
前出の研究者が「肥後方分」の典拠として挙げてるのが今回とは別の相良家文書なんです( ̄ko ̄)
相良家が処分取成しの為に動くところを見ると、木上宗心は肥後に関わる職分(取次?)だったってことかなぁ(-ω-;)ウーン
モヤっとした話ですいません^^;

まずは勉強兼ねて、このあとに続く大友関連も読んで行きます(`・ω・´)キリッ

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基礎4【料紙の裏打と続紙】古文書学入門(改)

えっと~料紙(和紙)から脱出できません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
いつになったら書状本文の解説になるのでせうか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

さて、ブログ友さまから「折紙」を博物館で見たことないなぁ~とありまして、もう少し詳しい話を^^b
折紙は料紙(和紙)を半分に折って使うことから、礼として略式とされていますが、書状形態としては珍しいものではありません。
いつの時か忘れたけど某局ヒストリアでも、折紙を使用した書状が映像で紹介されてました^^

ただ、折紙は、折り目が多いだけに経年劣化による損傷が他の書状より多いのは確かです。
そのため原形が変化(=破損)してる場合があります。

書状を原状回復、あるいは補修のために行う作業を「裏打(うらうち)」と呼びます。
これは折紙に限らず、大事な書状(例:起請文、安堵状)が破損したら(or予防)行ってるので、博物館だけでなく江戸の昔からありました。
(ちなみに博物館によっては「裏打」作業のボランティア募集してることもあるようです^^/)
【裏打---紙・布・革などの裏にさらに和紙や布などを張って厚く丈夫にすること。】
でして、掛け軸なんかでも装丁しなおすさいには、必要に応じて裏打作業を施します。

てことで取扱いが慎重にならざるを得ません。
もしくは現在修復中などで内容の解読が終わっていても一般公開されてない場合があります^^;

それと他に原形を損なう理由の大きなものでは「書状を掛け軸仕様にしちゃた~~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ」
・・・が、ある。。il||li _| ̄|○ il||l
昔、流行ったらしいんですよ~~~床の間・茶室インテリアとしての掛け軸需要^^;
戦国期から茶道が普及するとともに、有名な書家の書を掛け軸にしたりとか^^

あと和紙って江戸の昔から漉(す)き直して再利用するから、劣化の激しい折紙なんかはソッチ逝き^^;
大事なものであれば漉(す)き直す前に書写するけど、そこまでシッカリ管理するかは所有してる人の性格次第,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
某奥方のように亭主から貰った書状を障子や襖の下張に使っちゃったりとかネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

さて、料紙については他に「続(継ぎ)紙」があります。
続紙
イメージとしては、こんな感じ^^/

これは文字通り料紙を継ぎ足して使う事で、書状本文が長くて納まりきれない時に行います。
連判状や連著とかで宛名、もしくは差出人が多いとか、どことは言わないが『書状本文が長い』ときなんかに行います。

ん~~料紙・・・書状の形態については、基礎的なものはこのくらいかなぁ^^
他に派生バージョンがあれば、文書の解説の中に盛り込むか、出た時に考えます^^

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54_今川了俊(貞世)書下(下松浦バージョン)

【 】は文字欠落部分です。
欠落部分については同内容と思われる【文書55の草野駿河入道宛】の書下を参照しました。

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

肥【前国河】上社雑掌申、當【宮造営段】別銭事、任平均例、【先度】被仰之處、于今不事行云々、【爲事】實者、太不可然、所詮、爲【平均役】之上者、厳密可被致其沙汰状如件、
 至徳元年八月廿一日       (今川了俊)沙弥(花押)
  下松浦一類中


テンプレにしないで怒り方のニュアンス変えてるのが、余計に怖い^^;
雑掌と段別銭の説明は割愛^^/

肥前国河上社雑掌(ざっしょう)申す、
當【宮】造営段別銭の事、平均例に任し、先度(せんど)仰せられの處(ところ)、今において事行わずウンヌン、
事実爲すは、太然る可(べ)から不(ず)、所詮(しょせん)、平均役爲す之(これ)上者(うえは)、厳密沙汰致ら可く状件の如し!!!(# ゚Д゚)・;'.

河上社雑掌が言うには、社造営のためにバランス配分した負担額を提示したのに今になってもやらないとかとか。
それ有りえないから!!
とにかく相応の負担額は納税してもらう!厳密に命令するからな!!
下松浦の皆さんへ  by了俊


あ~なんか社の雑掌が促しても言う事聞かなかったみたい^^;
ちょっと面白いと思ったのが一類(一族、一門)という宛名で上松浦と下松浦と分けている点です。

至徳元年とは1384年で北朝側で使用していた元号。
南北合一である「明徳の和約・1392年」の8年前でバリバリ争乱真っ最中。
松浦党も一族が南朝北朝と別れて・・・ぶっちゃけ複雑で個々に把握しきれてません。

で松浦党といえば【一揆契諾状】ですが、これは一度ではなく応安6年(1373)から63年間に9回にも及んでいます。
これには今川了俊が介入していました。
松浦党を味方にするために松浦党の一族間で盟約を結ばせたのが一揆契諾状の始まりです。
(今川了俊が九州探題に任命されたのが1370年ころ)

肥前中世史に大きく関わった九州探題職・今川了俊。
租税(川上社造営負担分)を納税させることで従わせようとしたのが窺えますが、社の役人じゃ松浦党が言う事を聞かなかったんですね^^;
松浦党が愚図愚図してたのは、ほんとに負担額が不満だったのか、権威付けの為に了俊から直々の書状が欲しくてゴネたのか、そのあたりの駆け引きは、この文書だけでは判りません。

苦手な南北朝時代も、肥前中世史だと面白いわぁ~~(*´pq`)ウフ

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53_今川了俊(貞世)書下(上松浦バージョン)

【 】は文字欠落部分です。
欠落部分については同内容と思われる【文書55の草野駿河入道宛】の書下を参照しました。

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

肥前国河上社雑掌申、當【宮】造営段別銭事、任平均例、先度被仰之處、不承引云々、爲事實者、太不可然、所詮、爲平均例之上者、不日可被致其沙汰状如件、
 至徳元年八月廿一日       (今川了俊)沙弥(花押)
  上松浦一類中


雑掌
・平安時代以降、国衙 (こくが) で公文書を扱った役人の職名
・中世、本所・領家のもとで荘園に関する訴訟や年貢・公事 (くじ) の徴収などの任にあたった荘官。
段別銭
・本来は個々の事例(造営など)が目的の臨時課税だったのだが、戦国期になるにつれ恒常(通常課税)化する。
租税徴収管理(ひいては領国支配)の一環としてキッチリ徴収されてた^^;

肥前国河上社雑掌(ざっしょう)申す、
當【宮】造営段別銭の事、平均例に任し、先度(せんど)仰せられの處(ところ)、承引(しょういん=承諾)せず、
事実爲すは、太然る可(べ)から不(ず)、所詮(しょせん)、平均例爲す之(これ)上者(うえは)、不日(ふじつ)沙汰致ら可く状件の如し!!!(# ゚Д゚)・;'.

読み下してみたら、お叱りの書下(命令)でしたわ ( ゚д゚)ンマッ!!
河上社雑掌が言うには、社造営のためにバランス配分した負担額を提示したのに承知しないとか。
それ有りえないから!!
とにかく相応の負担額は納税してもらう!近日中に命令するからな!!
上松浦の皆さんへ  by了俊


ち・・手抜きしようと思ったら、ステレオタイプじゃなくて、各々で微妙にニュアンス違うし・・・他も真面目にやります

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相良家文書525_戸次鑑連書状〔毛利勢渡海なぅ・2〕

戦国ファンには知名度抜群・・・なんだろうか?
記事タイトルの名前で立花道雪の事だとピンと来る人は、マニアの部類に入るかも^^;
御本人はゲームなどで一般に知られている「立花姓」は生涯名乗っておらず、実家である戸次姓のままでした。
大友家臣で別名は「雷神」「鬼道雪」。

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

(折封ウハ(上)書)(切紙、捻封、追而書別紙同封)
「           戸次伯耆守
相良殿 御報         鑑連」

「- ーー」(端裏切封)
御音間畏悦之至候、仍諸境爲御閇目、被成【欠字※】御進発、方々属御案中候、殊肥前表凶徒近日加退治、彼國事行候、然處、芸家之者共至筑前目物深取入候之条、諸軍令対陣、万方通用相留、不抜足候、必急度可爲敗北候、將又、日薩就干戈、毎事其境不被得御隙之由候、御方角衆被仰談、弥御忠心不可有御別儀之通承候、最珍重候、猶重畳可令申候間、令省略候、恐々謹言、
(永禄十二年)五月八日     鑑連(花押)
       相良殿 御報 
(別紙)
追而、御茶五十袋幷羚羊皮一牧(枚)被懸御意候、御丁寧之儀、畏入候、恐々

・・・・・はぁ(´・д・`) なんといいますか・・・・
鎌倉以来の名門だからなのか、大友家臣の書状って、どうしてこう小難しい表現が多いんだろう(´;ω;`)ウッ

まず本文中にある【欠字】
これは、文中で一文字分スペースを空けて書くことで、貴人に対する敬意・礼のためにします。
従って文中に大友義鎮の名がなくても、大友家臣書状の中に【欠字】があれば、大友義鎮のことを書いているのです。
【欠字】は公家・武家を問わず一般的な書状マナーでしたので、書状を貰った相良でも義鎮のことだと判ってます^-^

家紋・立花 ロン様作成_立花家紋ロゴ

御音間(音信)畏れ悦びの至り候、
御知らせありがとうございます!!ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
畏れ悦び・・・てことで、相良からのアプローチかなり嬉しかったみたいです^^

諸境(国境)の御閇目(へいもく)爲す仍(よっ)て(大友義鎮が)御進発なさられ、方々が属すは御案中に候
国境の閉目---決着をつける為に(大友義鎮が)進発---出陣されたので、方々が(大友に)属すのは必定でしょう。

殊に肥前表の凶徒は近日退治を加え、彼國(かのくに)事行候、
肥前表の凶徒(=凶悪犯)・・・龍造寺のことかーーーー,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
さすが雷神道雪、容赦ないわぁ~ここまでバッサリ言われると、いっそ清々しいですな ( ゚Д゚)y─┛~~
えっと・・・殊(こと)に龍造寺は近日懲らしめ肥前で事を行いました。
(※肥前戦線は永禄12年1月~4月くらい「毛利勢渡海なぅ」の緊急事態で、龍造寺とは和睦)

然處(しかるところ)、芸家の者共 筑前目物深く至り取入候の条、
ところが毛利家の者どもが筑前に侵攻してきました。

諸軍対陣令(せ)しむ、万方(ばんぽう)通用相留(あいとめ)、不抜(ふばつ)足る候、急度(きっと)必ず敗北を爲(な)す可く候
諸軍は対陣し、各方面の通用はストップ。
不抜---不動の意志でおりますので、きっと必ずや(毛利を)敗北させることでしょう。

將又(はたまた)日薩の干戈(かんか)に就いて、其境毎事(ごとこと)隙を得られずの由候、御方角衆仰せ談じられ
方角(ほうがく)衆---大友語録でして意味としての定義は研究者間において論争中で未だ確定してません。
「合戦地域における特定集団」「ある地域における在地領主群の一括呼称」などなどです。
それと日薩(ひさつ日向&薩摩)における戦についてですが
国境において隙を窺う事ができないと方角衆が話していました。
Who(誰が)の部分を推測するしかないんですが、臼杵氏の書状内容から行くと「(島津が)各国境に中々勢力を広げられずにいる」って戦況レポートを(国衆から)受けたってことかと・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)
冒頭で喜んでるから、相良・大友双方にとって悪い知らせじゃなかったと思うのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

弥御忠心、御別儀有る可(べ)からずの通り承り候 最も珍重候、
ますますの忠義心に別儀(下心とか何か含むところとか)があろうはずもないと自分のハートに受け取りました(`・ω・´)キリッ
最も大事なことだと思います(`・ω・´)キリッ


猶重畳(ちょうじょう)申さ令(せ)しむ可(べ)く候間、省略令(せ)しむ候、恐々謹言、
なお重ねて申しますのは省略させて頂きます。恐々謹言なぅ
(臼杵さんと被るから省略ってことかと・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄))


追而(おって)、御茶五十袋幷(ならびに)羚羊(カモシカ)皮一牧(枚)御意に懸からせ候、御丁寧の儀、畏れ入り候、恐々
追伸、お茶50袋とカモシカの皮一枚を頂き、御丁寧に畏れ入ります、恐々なぅ


別紙に書かれているので区切り線入れました。
これは古文書において【追而書(おってがき)】と呼ばれています。
特徴として書き出し文言が『追而、追申、逐申』などで、必ず別紙に書かれています。
書状本文の内容とは関係のない事柄を書き添える・・・現代でいう追伸です^^/
書き止め文言は「以上」「端書無之」なんだけど、プライベートな書状だと特に決まってないみたいです。

はぁ~~~~~読み下しに三日間~~~
大友関係の文書は未だ自分が不慣れな為に調べる事が多くて時間かかります^^;

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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