参照5・秀吉研究の最前線_第3部_秀吉の宗教・文化政策の実像

===秀吉は、なぜ京都東山に大仏を造立したのか 生駒哲郎===

中世の「八宗」
奈良時代に誕生した南都六宗(三論・法相・成実・俱舎・華厳・律)
平安時代に誕生した天台宗・真言宗


秀吉による「八宗」
真言宗・天台宗・律宗・五山禅宗・浄土宗・日蓮党(法華衆&日蓮宗)・遊行(時宗)・一向衆(一向宗・浄土真宗)
つまり秀吉によって《国家的仏事における新たな八宗》が形成された^^b
この枠組みは近世に引き継がれたため、日本仏教史における画期的な事だった。

ただし宗教政策の全てオリジナルではなく、秀吉は先例を参考にしている。

足利尊氏は文和3(1354)に一切経の写経事業を行っている
※一切経=仏教の経典全部のことで5千巻以上ある
写経事業の目的は後醍醐天皇供養がメインなんだけど、更に尊氏は自身の母・上杉清子の十三回忌供養の名目を加えている。

で、これは尊氏オリジナルじゃなくて、鎌倉時代の北条泰時(←御成敗式目の人)を参考にしてます。
※生母・北条政子の十三回忌供養で一切経の写経を奉納している

大陸からの経文には宋版、明版、高麗版と年代によって種類があったのだけど、
足利尊氏は北条泰時の先例に倣い「宋版」に拘り写経事業__φ(.. ) メモメモ

ということで秀吉が中尊寺から持ち出した一切経も宋版だった。
新大仏千僧供養も、秀吉生母・大政所の供養が名目だったんです。

新たな八宗にとっては国家的仏事参加=国から色々支援と良い事づくめかというと、そのために揉めた宗がある。
それが法華宗。
もともと法華衆&日蓮宗は原理主義っぽいとこがあるわけで、教義を厳格・厳守すれば大仏千僧供養と合致しない。
それで国家的仏事は超法規的例外とする「受布施派」と、絶対ダメ(・A・)イクナイ!!っていう「不受布施派」とに分裂して揉めまくった。
簡単に言うと、宗祖の信者以外から布施(寄付・寄進)を受けちゃいけないって教義(不受布施義)があるんですわ。
千僧供養に出ると当然、主催者(秀吉)から布施が出る訳で、秀吉は法華信者じゃないもんネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
まぁ何だかんだと千僧供養には勤仕したんで秀吉生前は問題視されなかったけど、秀吉死後に不受布施派の活動復活で動きは徳川家康の関東にまで及んだ。
(※関東には宗祖誕生の下総(千葉県)があるから信徒も多い)

で、家康の御前で大坂討論が行われ、頑として主張を変えなかった不受布施派は対馬へ流罪になった。
教義的な是非は別にして、為政者側にすれば不受布施派みたいなコテコテは統制の邪魔なんですわ・・・ポリポリ(6 ̄・ ̄)
江戸初期には慶長法難によって、不受布施派僧侶は耳鼻を削がれる酷刑を受けてる。
更に「不受布施派寺請禁止令」により実質禁教扱いの弾圧を受けて地下組織化。そのまま時代流れて明治維新。
禁止令は解禁となり、不受布施派は現在も存続してます。

法華宗は肥前千葉氏の絡みで興味あって、ちらっとだけ調べたことあるんですわ。(・∀・)エヘヘ

秀吉に話を戻すと、実は秀吉は八幡大菩薩になりたいと遺言してた。
でも帝から勅許が下りなくてダメで、それて豊国大明神になったというわけ。
当時の認識では《八幡神は源氏の氏神》だったの。
だから関白で豊臣姓の秀吉には八幡神になる許しが出なかった。

秀吉は先例を踏襲しつつ、「新たな八宗」のように秀吉らしさを出そうとした。
最終的な結実が豊国大明神だったけど、それは江戸幕府によって阻まれる。
これも善悪是非賛否は度外視になるけど、自分は江戸幕府の宗教政策は【為政者にとって完璧なもの】だと思ってます。
しかも200年以上の長期間にわたる宗教統制の成功例は、おそらく世界に類例がないだろう。
「信教の自由」が個人の権利として認知されてる現代では、もう出来ないだろうけどね(^ -)---☆Wink
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参照4・秀吉研究の最前線(日本史史料研究会編)【専門書】織豊政権と東国社会

===第2部_誰もが知っている秀吉が命じた政策===
===秀吉が命じた惣無事令とは何だったのか 竹井英文===

現在、秀吉の「惣無事令」に対する再検証が活発化してます。
で、参照4というより竹井氏の著書である「織豊政権と東国社会」を紹介したほうが早いので、過去記事を再編集しました。

父の影響(時代小説ファン)で子供の頃からの歴史好き、10代20代は熱烈な司馬作品ファン。
父と司馬作品を「シオが先に読む~」「司馬歴はワシが先輩、まず親に読ませろ(大人買いしたのはシオ)」などとケンカしたのは懐かしい思い出^^
三十路を過ぎると、ネットで自分なりに調べるようになり、俗にいう司馬史観から卒業。
司馬作品では殆ど描かれない国人領主に興味を持ち、特に九州戦国史にハマって早〇年。

いや、国人・郷土史にハマった時点で既に普通のレキジョ枠からハミ出て。。。ゲホグホゴホ

とにかく、ついに「禁断の領域(専門書を購入する段階)」に入りました(大爆


著者は城郭ブログの管理人・竹さん~著書が「織豊政権と東国社会」サブタイ「惣無事令」論を超えて

竹さんのブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu


竹井英文著 吉川弘文館\9975

教科書にも記載されている「秀吉の惣無事令」を根底から覆す画期的な研究書です(=^・ω・^=)v ブイ

内容は「豊臣政権の法令とされていた「惣無事令」は存在しない」と、従来の通説をヒックリ返し検証されています~


中身を全部バラしたら、本を読まずにここで済ませてしまうとマズイので、シオの読後感想です~~

とにかくメチャクチャ面白くて、さくさく読み進んで1週間かからず読み終わったです^^

東国戦国史に予備知識が薄いシオが読んでワクワクするんだから、詳しい人なら'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ 心臓バクバクかも。

自分としては後に小倉に入る小笠原氏を以前からマークしてたんで、信濃情報が嬉しかった。

それと各地(信濃・沼田など)の詳しい年表も嬉しい!


惣無事令が再検証されれば、必然的に秀吉の九州征伐も再検証になります^^;
戦国初期から永禄年間をウロウロしてる自分の脳みそでは未だ追い付いていないのですが、いずれは自分なりの考えをまとめられたらな~って思ってます^-^

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参照3・秀吉研究の最前線(日本史史料研究会編)

ちなみに自分の知識補充分のメモみたいなもんなので全部は紹介してないです。
詳細内容に興味のある方は読んでみてね^^

===第2部_誰もが知っている秀吉が命じた政策===
===「刀狩」は民衆の武装解除をめざしたのか、荒垣恒明===

山本博文氏の提示によると、刀狩令の原本は現在十三通(写しは含まず)が確認されている。
受給者は、島津義久、立花宗茂、加藤清正、小早川隆景と九州に領地を持つものが多い。
徳川、前田、上杉などの大大名には発給した形跡がない。
(※前田利家のみは領内に出している)
当初は九州限定での発給ではなかったのか。


刀狩りで農民が武装解除されたわけではない。
近世史の塚本学氏によると、江戸期の百姓は領主所有の数倍の鉄砲を所持していた。
ただし武器ではなく、作物を荒らす害獣駆除が目的で、いわば「農具」の延長。

塚本氏の研究を更に研究した藤木氏が、
刀狩は武装解除ではなく、身分規制に要点があったと指摘している
何故なら殺傷力の高い鉄砲は没収の対象外で、刀・脇差が主眼。
方法も「村請」実務は村や百姓に任せていた。

つまり百姓は、武士の保持する「帯刀権」を持たないものと身分付された。
戦国期は武装して自分で自分の村を守っていた百姓の「自力救済」がなくなった。

ん~~暴力に対する意識改革?みたいな感じ。
だから、丸腰でない(鉄砲は所持)にも関わらず、民衆が武器使用を自主的に長期間控えた事に対して評価する考え方がある
(同じく藤木氏、武井氏の武器封印論)

個人的には色文字部分が__φ(.. ) メモメモ
こり以上、難しくなるとついていけない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
参照4に続く

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参照2・秀吉研究の最前線(日本史史料研究会編)

読書の秋ですので、ただいま【知識の一夜城】なぅ

===第2部_誰もが知っている秀吉が命じた政策===
===太閤検地は秀吉の革新的な政策だったのか、鈴木将典===

えっとまず年貢についてなんですが、一昔以上前と近年の研究はスタンスが大きく変化してます。
昔は領主が個々の百姓から搾取する・・・という視点から、現在は「村(郷村)」が注目されています。
というのは年貢は村請で、納税に関しては村が責任を負ってたからなんです。
肥前も同じく村請(^ -)---☆Wink

豊臣政権の太閤検地の基本原則は四つ
1・縦横を一間=6尺3寸(1.9m)※現在の一間は1.82m
2・面積を一反=10畝=300歩=5間×60間
3・京枡を基準とする
4・田畑に上中下の等級をつけ、上田の斗代を一石五斗とする
※斗代=一反あたりの年貢賦課基準値


土地面積の単位は北近江で秀吉が支配する前の中世から用いられていたものです。
てことで、石田三成とか増田長盛とか近江出身家臣が基本的な部分を作ったと推測できます。

実施方法は大別すると3つ
A型、秀吉が蔵入地(直轄地)などに奉行を派遣して行った。
B型、秀吉子飼いの大名が、A型で行った。
C型、秀吉に従属した大名が領地内で独自に行った。


更に細かく分類
A型a、秀吉の直轄地で実施された検地
A型b、佐竹、島津、上杉、里見など大名領国で、豊臣政権奉行が行った検地
太閤検地に括るのはB型まで

C型方式は徳川、前田、毛利などで太閤検地からは除外し、大名独自の検地として評価されている

インフルエンザの型みたい・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

ゲフゴホ、このあと色々事例を紹介してるんだが、とりあずパス(←おぃ)
一方で、豊臣期に実施された検地全体を、広義の太閤検地とする見方もあるそうです。

ぶっちゃけた話、秀吉の太閤検地は実態とは離れており、各地に派遣した「奉行による政治的判断」で決まってます。
もしくは従来の大名領国基準を太閤検地の基準に対比計算したものです。


検地結果で朝鮮の役の軍役や諸役分担分も決定するので、従来のを対比計算してもらうほうが遥かにマシ。
文禄3~4年に行われた島津の検地(実施者:石田三成配下)は、石高を2・7倍増にされた(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
天正19提出「御前帳(指出検地=自己申告)」+出米(でまい=増加)
家臣の領地を圧縮し大名の直轄地を確保させる数字マジックでして、これで島津氏の軍役を増やしてるんです。

梅北一揆が起きるはずですな ( ゚Д゚)y─┛~~

ちなみに仙石秀久は村の自己申告を太閤検地の石高に対比計算ですって( ̄ko ̄)
戸次川で島津に大敗退してる仙石が、赦されるだけじゃなく、以後も何気に優遇されてるのが不思議なんだよなぁ^^;
参照3に続く~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

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基礎5_【案文(あんもん/アナログコピー)】古文書学入門(改)

佐藤進一著「新版 古文書学入門」第二章 古文書の伝来を参照

さて、漸く同じ基礎ながら佐藤先生著書本文を参照する段階に入りました^-^
参照した第二章には基礎1【料紙---りょうし】についても書かれています。
更に、どの武家・公家・寺社関連・個人所有の文書が何処に収蔵されているかが記載されています。
が、さすがに全部は載せられないので、呼称など古文書研究に欠かせない部分のみを紹介します。

正文(しょうもん)---実際に相手方に送られて所期の働きを為した文書の原文
つまり自分が読み下してる古文書の、学問的呼称です^-^

草(そう)、草案、土代(どだい)---正文の下書き^^b
正文が相手に送られるのに対して、下書きである草案は書いた人の手元に残るのが特徴です^-^

案文(あんもん)=アナログコピペ__φ(.. ) 手書き手書き
但し単なる書写ではなく、文書の効力に即して作られた手書きコピー
学問上の参考などで手書きコピーしたものは「写(うつし)」と呼びます。


案文(あんもん/コピー)の種類は以下の通り
A_法令、命令の布達のため
B_訴訟の証拠文書
証拠として提出するために、様々な添付書類がいるのは今も昔も同じ。
多数添付された案文を具書案(ぐしょあん)と呼びます。
C_所領の分割移転のため
所領の一部を譲る場合、権利書の全てを渡すわけに行かないので、権利書の案文(コピー)を作り、分割移転の旨のことわりを記します。
分割移転のことわりは一般に案文の裏に書き、これを「裏を毀(こぼ)つ」と言います。
D_後日の控
重要な文書は正文の紛失に備えて予め案文を作ります。
正文と対照し校正した案文を校正(きょうせい)案文、または正校案文と呼び、正文に準ずる効力が認められました。
E_紛失状の作成
火事、盗難、相続トラブルなどで紛失した場合、新たに案文を作ります。
当然、なくなったものが後から出て混乱しないように、初めの文書は効力無効とします。
(※紛失状については武家様文書でも説明します^^)

土地、権利関係の案文は室町~戦国期にかけて荘園制度が崩壊するとともに、有耶無耶になっちゃいます。
また荘園関連については自分の研究してる年代とは離れちゃうので、あとは記事にはしません。

でも、ちょっとだけ・・・古文書の伝来ってことで・・・( ̄ko ̄)
先日【東寺(とうじ)百合(ひゃくごう)文書】が世界記憶遺産になりました。
これは加賀藩主前田綱紀が東寺の文書を借覧したときに、文書収納のために桐箱百個を作り東寺に寄進したことから始まります。
で、寄進された桐箱に納められた文書を東寺百合文書と呼ぶようになったんです。

え~~~と、佐藤先生の著作を読むまで「東寺(とうじ)百合(ゆり)文書」と勘違い読みしてたのを自爆して、記事を締めとしたいと思います。
ほんと専門バカってダメネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

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地味に怪我した・・・il||li _| ̄|○ il||l

10月の第一日曜日にプールに行って、えっほえっほとダンベル振りながらプール中をウォーキングしてたんです。
(腰に負担かからないようにウォーキングなぅ)
その時に何やら親指に痛みが走り、見ると爪の根元皮膚が避けてプチ出血( ゚д゚)ンマッ!!
大股歩きとかカニ歩きとかやってるうちに、プールの何処か壁?に足を擦ったみたい^^;

大したことないと思ってたら・・・・・・・・・雑菌入って化膿したでござるil||li _| ̄|○ il||l
抗生物質服用&塗り薬で膿っぽいのも止まった・・でも未だ怪我の周りが青紫色してるil||li _| ̄|○ il||l
痛み無し、熱無し、ちょっと足親指が青紫で、ちーっと腫れが残ってる程度なのだけど、まだ完治してないのでプール厳禁(´;ω;`)ウッ
何が辛いって、風呂で湯壺に入れない~シャワーのみってところ^^;
朝晩寒くなってるので、シャワーだけってのは辛い^^;

あ~~早く治んないかな~~~抗生物質も一日3回から朝晩2回に減ってるんで、あと少しの辛抱 (`・ω・´q)ムン!
治ったらプールと温泉が楽しみ (*´pq`)ウフフ


【6_全盛期】通史①肥前千葉氏

以前、史料集めしてた時にザックリ一話でまとめた【肥前千葉氏】がある。
その後、自分の中で肥前千葉の存在が大きくなり、一度連載したのが旧シリーズ^^;

当時は提供してもらった北肥戦誌(意訳抜粋)とWEBで集められるデータのみで記事構成した。
その後、色々と支援受けて一次史料入手し、自分で古書購入しコツコツ編纂資料収拾~
で、現在は肥前中世史を専門に研究中^^;

本腰研究で判ったんだけど、平成に入ってから肥前千葉氏の研究が進んでた( ゚д゚)ンマッ!!
(佐賀大学地域学歴史文化研究センターHP参照)
肥前千葉氏に関する新たな論説も発表され、旧シリーズの加筆では納まらないレベルのデータがぁぁぁぁああああああああああ
ゲフゴホ・・・で、カッコよく言うと【再編纂】、ぶっちゃけると【色々違ってたんで、やり直し】してます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

家系図・肥前千葉系図・決定

さて肥前千葉氏の家督に最初に介入されたのが室町時代、6代将軍・義教の頃。
で、その時の大内当主は大内持世。

大内持世はライバル少弐を滅亡寸前まで追い詰める事には成功したものの、肥前千葉への家督介入には失敗した。
7代目胤鎮は、大内が擁立した8代目胤紹(胤鎮弟)と その嫡子・政胤を殺し、大内の画策によって奪われた家督を取り戻す。
8代目胤紹は、大内のバックアップで室町幕府から正式に当主と認められているため、系譜上8代目とカウントされている。

つまり、この最初の介入で肥前千葉は【嫡流・胤鎮系譜】と【胤紹系譜】の二つに分かれたんです。
胤鎮の追捕を逃れた胤紹次男・胤朝と三男・胤盛が大内の庇護下に入った。

肥前千葉にとってラッキーだったのは、大内持世が「嘉吉の乱」の巻き添えで死亡したことです。
家督のことで大内は混乱し、その間に肥前千葉⑦胤鎮は独自の勢力として力を付けていった。
「国主様」と崇められた⑦胤鎮は1455年に56歳で波乱の生涯を閉じた。

家督を継いだのは次男で18歳の元鎮(嫡男は12歳で早世)だ。
胤鎮に殺された胤紹が幕府の正式承認を受けた8代目なので、元鎮は9代目になる。

肥前千葉の最盛期というと一般的には10代目教胤とあるのが多いが、実際は胤鎮~元鎮が最盛期を迎えた当主のようだ。
このころは天変地異が非常に多く、そのために改元も多い。
北肥戦誌によると、地震、落雷、洪水⇒浸水、台風⇒作物被害で飢饉、太陽が二つに割れて見える幻日現象も発生している。
にも関わらず肥前千葉の台所が裕福だったのは、朝鮮との交易によるものが大きい。

バブル9代目元胤は、牛頭城下で犬追物を開催している。
動物愛護の観点から現代では作法が伝わるのみで開催はされていないが、
鷹狩より犬追物の方がステータスな武家貴族スポーツで、金もかかる( ̄ω ̄A;アセアセ
更に元胤は猿楽を好み、舞台を作って京都から観世太夫を招いた。

元胤は居城の牛頭城下を国府と称し、もともとの国府を府中と呼ばせて区別するほど勢力を誇った。
国府(牛頭城下=小城)の繁栄ぶりは肥前の小京都と呼ばれるに至る。

北肥戦誌曰く「千葉家全盛期とぞ見えし」


この間にも太陽が3つ並んで、しかも二年続けて出現(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
疫病で地下人が多数死亡したため、諸国の国人たちが動揺した。
そんな人心不安定な中、寛正5年(1464)10月29日、9代目千葉元胤が28歳の若さで急死する

元胤は男子がいなかったので、亡き7代目胤鎮の三男・教胤が家督を継いだ。
教胤は未だ14歳。

この状況を大内氏が指を咥えて観ているはずがない。
大内は肥前千葉の縁戚で同盟関係である肥前今川家に目をつけるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【5-3_中興の祖・後編】通史①肥前千葉氏

永享9年(1437)、大内持世に内通した肥前千葉の家老・中村胤宣が、千葉⑦胤鎮の弟・胤紹を奉じて謀反を起こす。
胤紹は大内持世のバックアップで肥前千葉の家督を簒奪し、当主となる。
城を追われた⑦胤鎮は、僅かな供で落ち延びたのだった。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

家系図・肥前千葉系図・決定

翌、永享10年(1438)12月29日、室町幕府は、胤紹と中村胤宣へ通達を出した。
幕府「大内持世と諸事相談し、幕府に忠義を尽くしなさい」
年末に慌ただしいですな( ゚Д゚)y─┛~~

年明け永享11年(1439)1月21日、再び幕府から胤紹へ命令が下る
幕府「千葉家の混乱は⑦胤鎮が原因だから必ず探して厳密に沙汰せよ(`・ω・´)キリッ」
同年6月、再び幕府から「早く⑦胤鎮を探せ!ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」と催促
正当な当主・⑦胤鎮が生きている限り、胤紹は家督簒奪者の誹りを免れる事は出来ない。
⑦胤鎮を始末するために幕府の威光を利用する大内持世。
西国のドンは容赦ない~仕事がシッカリしてます( ̄ω ̄A;アセアセ

一方、大内持世のバックアップで胤紹がウホウホ♪かというと、そうでもなかったらしい。
というのも、大内持世は「少弐を滅亡寸前まで追い込んだ」のだが、言葉通り「寸前」で留めを刺さなかったから。

どういうわけか、大内持世は室町将軍・足利義教を通じて少弐と和睦し、少弐家を存続させたんです(1440年)
少弐と同盟してる対馬・宗氏との関係悪化を恐れたかもです(貿易で困るからかな?)
または単純に少弐ほどの武家名族になると、完全に根絶やしすることに躊躇したのかもしれません。
(日本人同士の戦では、敵を完全抹殺って殆どなくて、嫡男でも助命されたり庶子が残ってたり、家名だけは女系男子に存続させたりする)

結果、肥前千葉の胤紹は、その短い当主期間に「VS少弐」のため大内の先陣に駆り出され、戦に奔走する日々だったらしい。
このまま大内持世無敵状態が続くかと思われたが、天下を揺るがす大事件が起きる。

嘉吉元年(1441)「嘉吉の乱(将軍暗殺事件)が起きる
宴に相伴していた大内持世も巻き添えで重傷⇒⇒怪我が元で死亡!


当主交代がリベンジのチャンス~~少弐⑭教頼、大友⑫持直、大内教幸(庶子)が挙兵。

潜んでいた千葉胤鎮も同調し挙兵・・・・・・・・・・・・・
したんだが負けたでござる  il||li _| ̄|○ il||l 再び逃亡。
胤鎮の敗北⇒逃亡を受けて、室町幕府が正式に胤紹を当主として認定~公式に8代目当主となった。

家紋・肥前千葉
(ロン様作成_肥前千葉家紋ロゴ)

正式に当主となった⑧胤紹の喜びは、長く続かなかった。
文安2年(1445)、逃亡していた胤鎮がリベンジ挙兵!

同年8月17日~⑧胤紹は、兄の胤鎮に殺害される。

⑧胤紹の嫡男・政胤も、胤鎮に殺されたが、次男・胤朝、三男・胤盛は城を脱出した。(四男は僧侶)

胤朝が大内家の庇護下に入ったのは言うまでもない。
で、三男・胤盛も一緒に大内保護下に入ってたみたい(こっちは記録が乏しく推測)

⑦胤鎮は当主に復活し、千葉氏領地(小城郡、杵島郡、佐賀郡一部)を取り戻す。
宝徳2年(1450)、⑦胤鎮は三男・教胤を授かる。

1452年から1455年の間に7代目・千葉胤鎮は「肥前国主」と尊崇された

波乱万丈の人生だった胤鎮は、1455年6月25日に54歳で没するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【5_中興の祖・中編】通史①肥前千葉氏

中興ということは、前提として一度は衰退しなきゃならない。
雲行きが怪しくなるのは7代目・胤鎮の嫡男・俊胤が12歳で病死したことから始まる。
時に永享2年(1430)年8月の事で、12歳という若年で諱があるってことは、元服して間もない時期だったんじゃないだろうか。

父である7代目胤鎮は31歳・・・この時点で亡くなった俊胤以外に男子がいなかった ( ̄ω ̄A;アセアセ
嫡男は残念だが、当主胤鎮は男盛り~次があるさ~と思いきや、その後も男子が授かる気配が無い( ̄ω ̄A;アセアセ( ̄ω ̄A;アセアセ

家系図・肥前千葉系図・決定

( ̄ko ̄)<7代目胤鎮には弟がいたんでつ・・・家系図にある胤紹でつ

胤鎮の弟・胤紹は生年が不明なので、何歳頃だったか解らない。
その胤紹には既に長男・政胤が生まれていた・・・( ̄ω ̄A;アセアセ( ̄ω ̄A;アセアセ( ̄ω ̄A;アセアセ

このまま胤鎮様に男子が生まれなければ、家督は弟君・胤紹様?・・・ヒソヒソ(*´・д・)(・д・`*)マダハヤクネ?

永享7年(1435)、兄で当主の胤鎮に男子がないなか、弟・胤紹のとこにはコウノトリ来々で次男・胤朝が誕生。

このまま胤鎮様に男子(以下略)、胤紹様長男・政胤様を養子に?・・・ヒソヒソ(*´・д・)(・д・`*)家督アルアルナノネ

永享9年(1437)、男子キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
胤鎮38歳にして待望の男子・元胤誕生~


弟・胤紹・・・・il||li _| ̄|○ il||l

赤文字部分は、シオのお遊び想像~~(*´pq`)クスッ
なんだけど、似たような雰囲気があって不思議ではない。
というのも、この次男誕生の年に肥前千葉氏では御家騒動が起きるからです。

肥前千葉家、御家騒動のバックにいたのが、西国のドン・大内氏(=^・ω・^=)v ブイ
時の大内当主は大内持世。

応永の乱(1399年)で一時衰退した大内氏だったのだが、わずか30年弱で再び盛り返すところは流石の底力!
永享5年(1433)には室町幕府から少弐追悼・・・もとい追討令をゲットし、その年の9月29日には少弐満貞が筑前秋月にて討死してます。

家紋・大内
(ロン様作成_大内家紋ロゴ)大内の家紋(大内花菱)はお洒落だなぁ~と思う^^

永享9年(1437)9月、肥前千葉の家老・中村胤宣が大内持世に内通し謀反を起こす。
この中村胤宣は、胤の字があるように千葉氏からの偏諱です。
で、元々の諱が公廉でして、橘姓渋江系中村氏の最盛期当主です。
外様ながら肥前千葉氏に家老として重用された中村胤宣は、分家でありながら本家である渋江氏を凌ぐ勢いだったんです。
(中村の本家・渋江氏は、肥前有馬や肥前後藤氏の勢力拡大とともに衰退していった)
過去記事『渋江家三氏、牛島・中村・中橋の事』中編

中村胤宣が、譜代家臣ゴボウ抜き人事で家老になった理由の詳細は判りません。
どうも肥前千葉氏にとって、中村氏が何らかの利用価値があったからのようです。
想像するなら、西肥前・藤津方面へ勢力拡大するのに、本貫地が近い中村一族のコネクションや情報が欲しかったんじゃないでしょうか。

大内持世に内通した中村胤宣は、肥前千葉⑦胤鎮の弟・胤紹を神輿として担ぎ出した。
肥前千葉氏が下総千葉氏との争い以外の理由で家督分裂する始まりが、この大内持世の介入からだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【5_中興の祖・前編】通史①肥前千葉氏

さて、ネタ仕込みチャージ完了~再開します(`・ω・´)キリッ

時代は南北朝から室町だよん~
家系図・肥前千葉系図・決定
パソで系図を作るあたり、まだ余裕があった過去史料~~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

下総(千葉県)と肥前(佐賀県)を戦のために行ったり来たりしてた肥前千葉当主が、ドッカリ肥前に腰を据えるのは5代目胤泰からです。
川上社大宮司職になったのも胤泰の代から。
ちなみに、胤泰自身は千葉県・下総生まれの下総育ち(^ -)---☆Wink
胤泰の没年は系図や過去帳等で3パターンあり確定してませんが、84歳という長寿だったそうです。

1363年(北朝元号パス)胤泰の嫡男・胤基が誕生。
胤基の青春は南北朝の争乱一色^^;
明徳元年(1390年)に、胤基は父から家督を譲られ6代目となります。
武家の常ですが、息子が家督を継いでも実権は父・胤泰ね^^b

九州探題・今川了俊が南朝討伐に出陣した時は、⑥胤基も従軍~肥前千葉家は小城領を安堵。
この前後には胤基の姉(or妹)は、今川了俊の弟・仲秋と結婚し、肥前千葉と肥前今川家は縁戚となりました。

明徳3年(1392)閏10月、明徳の和約が結ばれ、南朝は実質降伏。
ぶっちゃけた話、南朝側は室町3代将軍・義満の手腕に上手くダマかされ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

南北朝の争いを治めた義満が次にしたのは「功績によって力を付け過ぎた者の排除」です
非情ですが、戦が無くなり不要になった功臣の排除は、政権長期安定には必須。
今川了俊が九州探題を解任されたように、中国地方で義満のターゲットになったのが大内義弘でした。

応永6年(1399)10月13日、大内義弘が挙兵し「応永の乱」が起きる
大内義弘の挙兵動機はイマイチ不明で「義満の挑発に乗った」とも言われています。
同年12月21日に大内義弘は討死し、そのあと義満の期待通りに大内では家督争いが起きて、一時衰退。

大内は内部固めと同時に少弐や大友と筑前を巡るガチンコで忙しく、肥前までは直接には手が回らない状態でした。
大内家が少弐を叩き潰すまでの30数年間=(イコール)肥前が大内の介入を受けなかった期間でもあります。

同年、胤基に次男が誕生しました。
嫡男が早世したので次男が嫡子となる
この胤基次男こそ「肥前千葉家、中興の祖」と言われた7代目・胤鎮、その人です(=^・ω・^=)v ブイ

家紋・肥前千葉 ロン様作成_肥前千葉氏家紋ロゴ

応永11年(1404)4月12日、肥前千葉⑥胤基は、肥前にちょっかい出してきた少弐⑩貞頼を撃退o( ̄Д ̄θ★ケリッ!します。

肥前千葉家臣(名前難しくてパス)が少弐に寝返ったのが発端でして、
千葉胤基は九州探題・渋川満頼と今川国秋(胤基甥)と連合し「佐賀郡川上の戦い」で勝利を治めたんです。

応永24年(1417)10月24日、6代目胤基が54歳で死亡。
大内は静かだし、少弐は撃退したし、肥前千葉家にとり一番平和な時期でした。
ちなみに島津は奥州家と総州家が宗家の座を巡って内輪もめ中~^^;

応永26年(1419)、7代目胤鎮に嫡男・俊胤が生まれる。
7代目となった若き当主胤鎮は、二十歳で嫡男を授かり千葉家の前途は明るいものに見えたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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史料における兄・千葉胤朝、弟・千葉胤盛時系列まとめ(最終稿)

河上神社文書№---兄・胤朝(青色)
河上神社文書№---弟・胤盛(緑色)
★マーク付---佐賀大学地域学歴史文化研究センターHP掲載の肥前千葉氏発給文書目録を一部改変のうえ転載。
○マーク付---サイト「千葉氏HP」参照
上記以外は北肥戦誌、歴代鎮西志、歴代鎮西要略、佐賀市史を参照



文安年間、長兄・政胤戦死後、次兄の胤朝は大内氏を頼っていた

○文明4(1473)年から文明8(1776)年までの間に、胤盛は兄・胤朝から牛頭山城を奪う

文書№204---文明8(1476)2・3、書下、河上山座主御坊宛
就神野仏性料田事、兵部少輔、背成敗、致違乱候之通、申談候之處ニ、被閣之上者、於末代、不可爲高木名字候、仍爲後日状如件、
意訳:兵部少輔が、神野(地名)仏性料田(ぶっしょうりょうでん=公田)の秩序を乱したので、末代まで「高木姓」の使用を禁止する

文明8(1476)2、千葉胤朝、大村家親を藤津郡で破り、大村領を併合する

○文明9(1477)10・7、千葉胤盛、河上社宝殿に「大宮司千葉介平胤盛」の名で棟札を納める

○文明10(1478)9・25、大内政弘、少弐政資を追放し大宰府を占拠
文明10(1478)10・7、千葉胤朝(次男)VS胤盛(三男)
 ※大内政弘~和与(条件:牛頭山城退去)を拒んだ胤盛を、秋月種朝等に攻めさせる。

文書№205-文明12(1480)6・19、胤朝「知行」安堵状、河上山後座主宰将公殿
文書№206-文明12(1480)6・19、胤盛「御知行」安堵状、河上山後座主宰将公殿

※同日に兄弟で同じ人物宛で同じ土地を安堵してます。
※連著ではなく、兄弟別々に安堵状を発給、文面も同じだが表現に相違あり

文明14(1482)少弐政資、肥前、与賀城へ入る
(同年4月3日、河上社へ寄進している)

★文明18(1486)4・5、胤盛書下写(寺領安堵)、河上山実相院

文明18(1486)10・3---兄・千葉胤朝が討死
文明18(1486)12・3---少弐政資が千葉氏の家督に介入、弟・胤資が胤朝娘と婚姻し家督を継ぐ

文明19(1487)---少弐政資、このころ大宰府を奪還し復帰している。

延徳3(1491)千葉胤盛、胤棟(興常)が大内の支援で千葉胤資と合戦し、牛頭山城をゲッツ。

明応元(1492)『千葉胤盛 同姓胤将を攻め落とす。胤資より和平す』(歴代鎮西志)

文書№208---明応6(1497)1・23、胤盛安堵状、河上山唯真坊律師宛
文書№172---明応6(1497)3・27、千葉興常禁制、河上社(興常文書初出)

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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