不死鳥の寺③・・・秀吉の政権補完計画

つねまる様ブログより三井寺関連記事
父・大友皇子の菩提を弔った三井寺。比叡山延暦寺との抗争
三井寺のクラッシュ&ビルド。秀吉の尻拭い
三井寺で大内文化を堪能。一切経蔵。
重文はもう充分。三井寺の唐院と観音堂まで

なお、記事内で使用している画像は、つねまる様より許可を得たものだけをお借りしたものです。
画像の著作権・肖像権は、つねまる様に帰属しておりますので、無断転載・二次配布は固く厳禁とさせて頂きます。
何卒、御理解いただけますよう宜しくお願いいたします。





秀吉の新大仏殿が完成した年に、道澄は照高院を開基して、それまでの職から隠居モード。
日本の場合、隠居のほうが儀礼典礼公式行事から開放されて動きやすいって言うのが、上皇院の院政からありました。
三井寺クラッシュ⇒道澄預かりは、まさに道澄が「身軽」になってからのこと。

更に秀吉は新大仏殿の仏教行事に、道澄を重職につけています。
(重職の内容がワカンナカッタよーんil||li _| ̄|○ il||l)

参照5・秀吉研究の最前線_第3部_秀吉の宗教・文化政策の実像
にて紹介しましたが、秀吉は新大仏殿行事に因み【一切経(全ての経典)】を奉納しています。
奉納したのは「宋版」である
「宋版」でなければならない理由があり、それは先例という歴史的正当性があった。
先例とは鎌倉の北条泰時で、泰時を先例とした足利尊氏


逆を言うと「天下人、あるいは政権を担う人物の奉納する一切経は【宋版】という認識があった」ことになります。

三井寺_一切経蔵(重文)慶長7年(1602年)毛利輝元により山口より移築
つねまる様より拝借画像/三井寺_一切経蔵(重文)
後に慶長7年(1602年)毛利輝元により山口より移築されたものです。
ちなみに収めされた一切経は高麗版で宋版ではないらしい(実物未確認なんで伝聞^^;)
でもでも、過去に宋版を奉納した面々(北条泰時、足利尊氏、豊臣秀吉)を思うと、関が原以降の毛利が宋版を納める度胸はないと思う^^;

実はクラッシュされた三井寺には、足利尊氏が奉納した【宋版一切経】が保管されていたんです( ゚д゚)ンマッ!!
クラッシュのうち本尊関係は道澄が預かりましたが、「足利尊氏が奉納した宋版一切経」がどうなったか判りませんでした。
でも、あれば毛利輝元が改めて寄進・奉納する必要はないはずなので・・・おそらく・・・(。-`ω-)ンー

ちなみに秀吉自身は中尊寺にある「宋版・一切経」を没収というか接収というか、奉納しちゃってるから中尊寺には戻ってないっぽい。
平泉の世界遺産には、「一切経が納められていた経蔵」が指定されてます。

天下人である秀吉は、過去の先例には倣うけど、奉納する以上は過去に奉納済の一切経を再利用するわけにいかない。
大仏殿は おニューですもんネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

鎌倉期はいざしらず、室町幕府が奉納した一切経が残ってちゃ不味いじゃないですか。
足利義昭を京都から追放キーーック☆ヽ(#゚Д゚)ノ┌┛Σ(ノ´Д`)ノしたのは織田信長だけど、
鞆(とも)で未練たらしくお手紙外交してた義昭を諦めさせたのは秀吉ですもん。

あれほど暴れた比叡山延暦寺が赦されたのに、三井寺がクラッシュされたのは足利尊氏の一切経があったからじゃないか?
少なくとも理由の一つで、焼失しないまでも道澄に預けて世間に出さないのが目的だったのではないか?

秀吉が三井寺の闕所を解いたのは慶長3(1598)年。秀吉の死の前日。
秀吉は死後に神に成る予定だったので、後生の触りを恐れたのかもしれません。

秀吉の死後、真っ先に再建されたのが↓
三井寺_金堂(国宝)
つねまる様より拝借画像/三井寺_金堂(国宝)

再建したのは、ねね様・・・北政所です「亭主の後生のため、内助の功だぎゃ~~」
ねね様。。。自腹だったんですか?( ̄ko ̄)オシエテ

さて、三井寺クラッシュの背景が何となく見えたような気がしてきたろことで、
新大仏殿という秀吉主催の国家規模の仏教行事には、更に目的があったと思うのだが、それは またの話
スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

不死鳥の寺②・・・秀吉の政権補完計画

つねまる様ブログより三井寺関連記事
父・大友皇子の菩提を弔った三井寺。比叡山延暦寺との抗争
三井寺のクラッシュ&ビルド。秀吉の尻拭い
三井寺で大内文化を堪能。一切経蔵。
重文はもう充分。三井寺の唐院と観音堂まで

なお、記事内で使用している画像は、つねまる様より許可を得たものだけをお借りしたものです。
画像の著作権・肖像権は、つねまる様に帰属しておりますので、無断転載・二次配布は固く厳禁とさせて頂きます。
何卒、御理解いただけますよう宜しくお願いいたします。




ここまで来ると法難になるんじゃないかしら^^;
文禄4年(1595)年11月、秀吉は突如として、三井寺に「闕所(けっしょ)」の命を下す。

闕所には二つの意味があります。
一、罰を受けて没収された主不在の土地や城のこと
一、罪を犯した罰として領地・城などを没収すること


三井寺の場合は青色にした後者のほう。
堂塔は破壊され、三井寺金堂が延暦寺に移築されて西塔釈迦堂にビフォーアフター( ゚д゚)ンマッ!!

秀吉が三井寺をヾ(*`Д´)ノケシカラン!!と怒った理由はコレという決め手がなく、よくわからないのが実情。
当時は文禄の役があり、天下人となった秀吉が暴君化してたと言われている時期。

もっとも、秀吉が英雄の晩年にありがちな自己肥大化評価も、江戸期に前政権批判補正がかかってる可能性もゼロではないのが悩ましい^^;
自分は、秀吉が暴君化による狂気的な気まぐれで三井寺を破却したのではない、と推測してます。
「三井寺の破却は秀吉の宗教政策の一環である」というのがシオ推論。

理由として、
堂塔(どうとう=つまり住居と修行や仏事のための建物)は破壊されたものの、金堂は元本家(みたいな)延暦寺に移築されることで、形を変えて残していること。
没収した寺領を他のものに与えていない。

他のもの・・・たとえば安国寺恵瓊とか・・・ね。
この三井寺への仕打ちは、あくまでも【一時的な措置】で秀吉自身は三井寺そのものを完全に潰すつもりはなかったように思う。

一時的な証拠に、三井寺関わる尊像の全て&三井寺の僧侶達も咎めなしで、道澄(1544~1608)に託されてます。

道澄(どうちょう)は、かつて聖護院門主として三井寺の長吏職(=TOP)を勤めた人。
三井寺だけでなく、熊野三山検校、大僧正、准三后を歴任したVIP僧。
※熊野三山検校---熊野三山を統括した名誉職的な宗教管理者。
※大僧正(だいそうじょう)---僧の最高位
※准三后(じゅさんごう)---朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇・待遇を与えられた者、その称号

家紋・豊臣
(この家紋ロゴの肖像権・著作権は作成者のロン様です)

秀吉は、この道澄を重用していました。
(※ちなみに家康が重用していたのは、関白二条昭実の猶子にして、日蓮宗の江戸・池上本門寺貫主に招請された日惺(にっせい))
(※宗派のTOPは各宗教で呼称が違い、法華・日蓮宗は貫主(かんず)、三井寺なら長吏(ちょうり))

なぜなら道澄は摂関家である近衛家の御曹司。
秀吉が関白になるために猶子となった近衛前久の実弟。
兄・前久だけでなく、実弟の道澄も政治外交力に秀でた能力の持ち主でした。
兄の公家関係からくる人脈と弟の僧侶・仏教界からくる人脈・・・あぅ~CMじゃないけどダブルなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

三井寺関連のHPですと、秀吉クラッシャーされた三井寺再建は「道澄の尽力が大きい」という記述が大半を占めますが、
そもそも道澄の管轄下に三井寺を入れることこそが秀吉の目的だったんじゃないでしょうか。

南北朝のころは幕府(後醍醐天皇)軍を撃破し、信長に焼き討ちされるほどの勢力(=軍事力)を持っていたた延暦寺山門衆。
その延暦寺山門衆は、天正12(1584)年に秀吉から焼失した伽藍復興を許可され、軍事力を手放し完全に秀吉支配下となります。
残るは延暦寺から分派した三井寺・寺門衆です。
再び延暦寺と揉めることのないように、寺門衆から「も」牙を折り爪を切って首に鈴をつける処置が必要です。
それと予防接種に♀ワンコは避妊、♂ワンコは去s・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)アボガドバナナ!

延暦寺と三井寺の処置へのタイムログは、まぁ元気すぎるほうと そうでないほうの違いと言えばソレまでなんですが、
三井寺クラッシュは、秀吉の新大仏殿建立が大体完成した年なんです。

そして、三井寺には秀吉の国家的仏教行事に関する「あるモノ」があったのだが、それは またの話^-^

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

不死鳥の寺①・・・秀吉の政権補完計画

秀吉よ~神話になぁれぇ~~~♪(* ̄O ̄)β~♪^♪
あのアニメと原作は途中で挫折しましたil||li _| ̄|○ il||lワケワカンネ

また秀吉の宗教政策バナです:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ
先日、ブログ友・つねまる様の記事で三井寺関連のものがあったんです。
父・大友皇子の菩提を弔った三井寺。比叡山延暦寺との抗争
三井寺のクラッシュ&ビルド。秀吉の尻拭い
三井寺で大内文化を堪能。一切経蔵。
重文はもう充分。三井寺の唐院と観音堂まで

上記、四つの記事。
で、読んでて「あ~~~~~~~~~~宗教政策バナでコッチを忘れた!」となった^^;

実は、つねまる様のところにも、我侭言って「濃縮原液」な推考コメントやっちまったんですが、
(つねまる様~図々しくも場所(コメ欄)を借りたのに、許してくれてありがとうございます(ノД`)・゜・。)
脳内スパークしたのを、一気に書き込んだので後から読み返すと、未だ書き忘れがあったという・・・il||li _| ̄|○ il||l
さすがに、これ以上は御迷惑(KY)なので、つねまる様記事リンクの了解を得て、改めて記事にさせて頂きました。

なお、記事内で使用している画像は、つねまる様より許可を得たものだけをお借りたものです。
著作権・肖像権は、つねまる様に帰属しておりますので、無断転載・二次配布は固く厳禁とさせて頂きます。
何卒、御理解いただけますよう宜しくお願いいたします。


ではでは~マニアのシャウトですが、ゆっくりお付き合い頂ければ幸甚の至り、宜しくお願いいたします。



三井(みい)寺・・・正式名は園城寺(おんじょうじ)。
滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山で山号を「長等山(ながらさん)」と称する。
別名:不死鳥の寺
Order of the Phoenix temple
・・・・書いてはみたもののグーグル様にお尋ねしただけで、本人は英語が判ってません(爆

なぜ不死鳥かというと「歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたから」だそうです。
大雑把にくくると「比叡山延暦寺によるファイヤー」「秀吉による寺領とかとかボッシュート」です。

えっと、延暦寺と揉める前は、三井寺(=園城寺)は延暦寺別院でした。
それが慈覚大師門流と円珍門流・・・つまり弟子同士が対立しちゃって天台宗は分裂しました。
延暦寺が山門、三井寺が寺門(※注:ダチョウのリーダーとは無関係だからね、ね!)と呼ばれます。

延暦寺と三井寺は、源平の時も、南北朝の時も、敵味方に分かれ揉める揉める^^;
対立が激化した最大の理由は戒壇(かいだん)問題でした。

戒壇・・・おそらく聞きなれない言葉だと思うので、判りやすさ重視&便宜上としてシオ流に解説しちゃいますね^^b

戒壇とは、僧侶デヴューをするための儀式(受戒)のことです。
武家風に言うなら僧侶の元服。
受戒してないと僧侶の世界でどうなるかって言うと、
1・単なるスキンヘッドのオッサン扱い
2・ブラックジャックみたいな無資格医者と同じ、無戒だから正規の僧侶としては認められない
・・・ってところかな。

ただし鎌倉時代の新宗教時代になると、ユルくなります。
末法思想が出始め、末法無戒(こまけーことは、いいんだよ)を主張する宗派が出ます。
特に顕著なのが法華宗冨士門流の「受持即持戒/じゅじそくじかい」
つまり信仰すれば在家でも僧侶と同様に受戒したのと同じだから、妻帯肉食しても破戒じゃないよ~って意味。
ですから法華宗冨士門流系宗派では、僧侶ではなく信者になることをもって「御受戒を受ける(授かる)」と呼んでいます^-^

もっとカンタンに言うと、キリスト教の洗礼は、信者になるための儀式。
仏教の受戒は、僧侶になるための儀式。
全く別物です。
専門的な話はさておき、僧侶になる受戒の儀式も、時代が下ると末法思想の影響でユルユルしちゃうわけです。^^;

で、戒壇には違う意味もあり、受戒をする建物(戒壇院・戒壇寺院)を指すことがあります。
本来の受戒(僧侶デヴュー)儀式は、各宗派で建立された戒壇院で行うものなのです。
その厳粛な儀式を行うのは、一宗のトップか、若しくは定められた有資格者のみ!(`・ω・´)キリッ

さて、ここで思い出してください。
分裂した天台宗の三井寺は「延暦寺の【元】別院」・・・
・・・・・そう、天台宗の戒壇院は、元別院で分派した三井寺にはなく、延暦寺にしかなかったんです。
三井寺_ぷりけつ Σ( ̄ ̄ ̄Д ̄ ̄ ̄lll) ガビーン
ショックを受けてる「三井寺のぷりっけつ」ちゃんの正体は( ̄ko ̄)<つねまる様ブログでね

ちなみに戒壇建立には「帝の許可」が必要です。
それほど権威がある「もの」なのです。

三井寺では、何とかコッチにも戒壇を~~~~と必死に運動するんですが、
元本家(みたいなもん)である延暦寺が「コッチにあるんじゃ、三井寺にいらんわ!!ヾ(*`Д´)ノケシカラン!!」
揉めに揉めて「ふぁいあーーーーーーーーーー」
そのあとがモヤモヤな大人の事情っぽい雰囲気でヨクワカラン(。-`ω-)ンー

とにかく三井寺では再建優先で戒壇どころじゃなくなったらしく、、、
今現在も無いところを見ると、なにやら立ち消えになった・・・ような?^^;

というか、戒壇問題が再燃する前に三井寺には新たなる受難が襲来します。
それが、天下人となった豊臣秀吉なのだが、それは、またの話^-^

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

メンタルの話(続編)職場の理解を得て勤務続行なぅ~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

シオの職場は建築・内装業界。
歴史もので一間とか建築物の単位が即㎡やmとかに換算(現代仕様サイズ)できるのは職場で鍛えられたから^^;

シオ職場は業界では珍しく事務員・職員が季節労働者やパートでなく【正社員】・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・
北海道・寒冷地独特の燃料手当てもある(内地が本社の大手とか昨今の不景気でと出ない場合あり)
ボーナスも少ないながら夏冬出るし、利益さえあれば社員に還元して決算手当てを出してくれるところ。
シオやバイトが急遽現場に入るときは、会社の経費で昼食まで出してくれる「超ホワイト会社」
退職金制度はないかわりに、社保完備。

給料そのものは内地の基準から見たら底辺枠になるんだろうけど、ボーナスあるから車も生活も維持できてます。
そのかわり仕事に対しては凄く厳しいです。(当たり前の事を言われているだけどね^^;)
あと少数精鋭なので、有休があっても実質使うのは難しい状況です(納期に間に合わなくなる)

ちろん病気や怪我に無理しろって意味じゃない。
でも持病・通院加療がありとなると、隠れて通院するのが難しい(。-`ω-)ンー
診察は勤務時間外予約が出来るけど、検査予約が・・・il||li _| ̄|○ il||l

このホワイト職場を辞めたくない~~(ノД`)・゜・。
と凄く葛藤したんだけど、やはり検査日で早退する日があるとなると、早退理由をフト聞かれた時にウソの上塗りで切り抜け続ける自信がないil||li _| ̄|○ il||l

まず病気を会長に伝えると

続きを読む

参照8・秀吉研究の最前線_第3部_秀吉の宗教・文化政策の実像

=== (後編)秀吉は、なぜキリスト教を「禁止」したのか 清水有子 ===
家紋・豊臣(ロン様作成:豊臣家紋ロゴ)

参照文献によると、秀吉の追放令の後、匿ってくれてた九州のキリシタン大名領で密かに布教を再開していたそうです。

イエズス会巡察師・ヴァリニャーノが来日(宣教師の日本残留許可願)した。
天正19(1591)7月25日「異国往復書簡集」収蔵の秀吉の外交文書によると
え~~~前略で中略で結論が『宣教は禁止!!(`・ω・´)キリッ』
『ただし同時に貿易は許す!(; ・`д・´)』
てことで人質名目で宣教師10名の長崎滞在を認めた。

貿易するなら布教しろ!ヾ(*`Д´)ノ
てなもんで、貿易のためにはイエズス会の介在を完全にゼロにはできず、
結果、秀吉の追放令(実質は禁教令)は骨抜きにされたんです( ̄ω ̄A;アセアセ

とはいえ、禁教令そのものは廃止になったわけじゃないから、制令としては現役続投なぅ~な訳^^b
慶長元年(1596)10月17日、スペインのサン・フェリペ号が土佐へ漂着すると、秀吉は積荷をボッシューとした。
12月19日には、宣教師・キリシタン含めて26名を長崎で処刑している。

慶長2(1597)7月27日「ルソン総督宛返書(「異国往復書簡集」収蔵)」
秀吉「本朝は神道をもって主となし伴天連が異国法を説くことは、国政を害するゆえ堅くこれを禁じ厳しく制している」

秀吉は宣教師たちが布教を再会していたのを禁令違反として処断したことを公式に回答した。
つまり追放令は空文ではなく、法として効力をもっていると内外に示していたんです。

秀吉は死後神となり、秀吉版祭政一致(祭祀⇒秀吉、政治⇒豊臣政権)を目指していた。
地上の権威よりゼウスを上とするキリシタンは絶対に認められない。

秀吉の法を家康は継承しました。
慶長7(1602)国内宣教を禁止。
同18(1613)12月「伴天連追放令」発布
秀吉の伴天連追放令は、江戸幕府の禁教令の原型の感があります。

家紋_徳川(ロン様作成:徳川家紋ロゴ)

参照文献では、山本博文氏の言葉を引用し【「江戸幕府が禁教令のために貿易体制を変更し鎖国体制をつくりあげた」と指摘している】と述べています。

この「貿易体制を変更」を更にKwsk・・・もとい詳しく言うと、奉書船制度を指します。
寛永8年(1631)に、奉書船制度が始まり、
寛永10年に(1633)には、奉書船以外の渡航が禁じられ、これが第一次鎖国令です。


奉書(ほうしょ)・・・古文書学入門で出た言葉ですが覚えて頂けてますでしょうか?(; ・`д・´)
今風に言うと業務執行のための公式文書で、これが発給されないと事務・庶務・手続き全般が執行されません。

前段階として朱印船があるわけです。
天下御免の「権現様の朱印がある朱印状」・・・これを外国船が所持している限り、彼らの入国は拒めない。
(船内にいるキリシタンも入国してしまう)
そこで幕府は、武家様文書の古式に則り、朱印状のほかに奉書も添付しないと駄目だじょーとすることで、外国勢力が入ってくるのを幕府のコントロール下にしたんです。

朱印or黒印が押された印判状には、武家様文書の慣習で効力発生の時期である年月日が記載されていません。
効力が発生するのは「奉書が書かれたの年月日から」です。

ちなみに朱印は権現様だけでなく、モンキーマジックな秀吉の朱印でも認められます。
朱印状そのものの権威キープのため、秀吉の朱印だから駄目っていう制限は出来ないんです。

布教と貿易と侵略フルコンポSETのスペインを排除するには、天下御免スペックの朱印状の効力を実質無効化する外交の離れ業が必要です。
朱印状を貰った外国勢力は「ヒャッホーイ♪ヽ(*´∀`)ノ」と喜ぶが、実際は待てど暮らせど奉書が来ないので「履行されない空証文」
武家の文書様式を知らなければ「朱印状さえあれば何時でも履行されると錯覚した」でしょうから時間稼ぎできます。
江戸幕府は戦をすることなくスペインを退けた・・・まさに神対応です!!(・∀・)グッジョブ

奉書の署名花押する責任者は、事務官レベルの奉行衆ではなく、閣僚クラスの老中。
宗教統制といい、奉書船制度から鎖国への流れといい、江戸幕府が260年続いたのは伊達じゃないのだ ・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・

あり?秀吉の最前線から飛び出しちまったい:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ
さて、次はニッポン♪チャチャチャ (/\) チャチャチャ \(`∀´)/ ハッ!

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

メンタルの話・・・・( ◢д◣)ショボン

先日、どうも色々思わしくないので、観念してメンタルクリニックへGOしました・・・( ◢д◣)ショボン

尿検査・・・・・失敗したんで次回持ち越し
血液検査・・・結果待ち
脳波検査・・・希望時間が混んでるから予約待ち

脳の断層写真⇒⇒診断結果⇒⇒統合失調症圏うつ状態&て●かん(脳波異常)

て●かんは身体が痙攣するものだけじゃなくて、脳波異常も含まれるそうなんです。
ただ、脳波検査が予約待ちなので、程度は不明(´;ω;`)ウッ

で、統合失調症って言っても『圏(ゾーン)』だから、発症はしてません。
でもウツ状態になってるから、お薬を処方してもらって、現在週一で通院なぅ。

実は、ここ1~2年シオは異常行動(←超オブラート包んだ医者の言葉)がありました。
・衣服を着たまま就寝。寒いから。翌朝に下着も衣服も着替えてるから変と思ってなかった。
・寝る前に洗顔しない。お肌には良くないが翌朝洗うから(以下略
・お風呂に入らない(週一のみ)毎朝、髪は洗って身体も専用ので拭いてたから臭くないので(以下略
・洗濯をしない(以前は毎日してたのが週一)
・自分の部屋の掃除をしない(以前は毎日してたのが・・・・★><;)
自分的には【人には言えないけど水道光熱費の節約術】と密かにドヤ顔
が、医者に「その方向は節約ちゃうねん」とオブラートに包みつつ指摘された。

ほかには
・常に頭が痛くてボーっとしてる
・熟睡できない
・判断力が衰えているため色々重なると優先順位が判らなくなりパニクって、仕事でミス
・本を読むのが凄く遅くなった(メガネの度はあってます)
・人と会いたくない(友人と会って話したのは、今年一年で2度だけ)
・鍵をかけたか何度も確認してしまう(←不安行動って事らしい)
過食で1年半くらいで15kg体重増加il||li _| ̄|○ il||l
・毎日つけてた家計簿をつけなくなった
・携帯(スマホ)を手放せず、常にWEBサイトをダラダラ見てる(←特に調べものではない)



はじめは流行のスマホ依存かと思ったんです。
でもスマホ依存の前から、ほかの行動はしてた・・・よな?・・(。-`ω-)ンー

変だと思い始めたキッカケは、仕事で同じような事で判断ミスが重なるようになったことと、
同時に【中世史の研究(佐賀も相良も)完全にストップ】しちゃったことです!Σ( ̄ ̄ ̄Д ̄ ̄ ̄lll) ガビーン

先生には「シオさんは疲れ知らずです。」と言われた。
∠( ゚д゚)/ 「へ?」体力・根性なしのヘタレっすよ
先生:普通の人は疲れたと感じたら休みます
先生:でもシオさんは【疲れを自覚できない】ために限界を超え、結果ウツになってるんです。
( ゚д゚)ンマッ!!

更に先生曰く「シオさんは、人に凄く気を使う人です」
∠( ゚д゚)/ 「へ?」図々しいタイプのはずですが?
先生:人に気を使い、相手に合わせようとする余り「自分」を亡くして失くしてます
エェエェエェエェエェエェエェエェエェエェエ(゚Д゚ノ)ノエェエェエェエェエェエェエェエライコッチャ

先生の問診によるオブラートに包まれた認定『異常行動』は、実は父上が亡くなってから始まってるんです・・・(´;ω;`)ウッ
4年介護を経た父の死による喪失感が原因なのか、
今の職場がストレスなのか、
幼少期からのトラウマ(母上は放置と過干渉を交互に気分で繰り返すプチ毒親)か、
全部の複合要因なのか、ゆっくり時間をかけて治療するしかないとのこと。

とりあえず、服用してる薬が体調にあうのか、過食も、スマホ依存も、激減しました。
依存が減ったからか、あれほどあった頭に霞がかかった状態が、今は凄くスッキリしてます。
頭痛だけは未だ少し残ってるじょ(; ・`д・´)

とにかく統合失調症自体は発症していないので、治療を継続していれば日常生活(勤務も)可能らしいのでホッとしてます。
たぶん長期になると思うので医療補助(3割を1割負担)を受けつつ、ゆっくり病状と付き合っていきたいと思います。

ブログや研究への意欲も復活しつつあるので、無理のないペースで継続します^^
とりあえず今は気晴らし兼ねて、専門よりチト後の時代を「読書の秋」してました^^

そういえば先生には「シオ的節約術=それ節約ちゃう異常行動や」は、父の死以降からなんです」って、未だ言ってないんだよなぁ~~
次の問診では言わないと(; ・`д・´)

父上・・・情けない長女でゴメン(´;ω;`)ウッ
でも必ず立ち直るから見守っててね (ノД`)・゜・。


統合失調症の発症前に自分自身で変調に気づいたのが、せめてもの救いです。
治療はキチンと受けますので、皆様に御迷惑かけるような事は特別ないとは思いますが、
体調によっては更新・訪問が不定期に成る事が増えると思いますので、何卒どうか御理解のほど宜しくお願い申し上げますm(__)m

参照7・秀吉研究の最前線_第3部_秀吉の宗教・文化政策の実像

まだ、この他に茶の湯とか出自と清洲会議があるの(´・д・`)

=== (中編)秀吉は、なぜキリスト教を「禁止」したのか 清水有子 ===

家紋・豊臣 豊臣家紋ロゴ


赦さんとサルが怒った、6月19日は、伴天連追放記念日

サラダ記念日風にこじつけると日付は覚えられるが、天正15年を忘れそうだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

で、秀吉が規制(18日令)から禁制(19日令)へと方針転換の理由です。

伴天連側が18日の規制に対し反発し従わなかったのが一つ。
キリシタン大名である高山右近が秀吉の棄教の命令に従わなかったと。
などがあり、キリシタンの統制が難しいことを悟ったからなのが大きかったようです。
(それまでの秀吉は、博多を拠点にしてコントロールしようとしてた)

で、秀吉がキリシタンをどの程度に危険視していたかと言うと、

まず秀吉は自らを日本国主と呼び日本の国益である国内の牛馬と民を南蛮勢力が侵食していると問題視いていた。
※参照文献には詳しく書いてないんですが、南蛮商人は『日本の男女を海外に商品として売買』してたんです。
(傭兵とは違いガチの人●売買です)
※でもって貴重な労働力である牛を食用で売られるのも困る
更に外国と連携するキリシタン宗門が、一向宗以上に日本国内で階級を超えて結集し拡大し、ついには日本を征服するんじゃなかと危惧していた。
※宣教師は「南蛮貿易したいなら布教させろ」だから、トラブルの元になる

それプラス、秀吉のキリシタンに対する保護⇒規制⇒禁制への態度豹変は、先日自分が脳内整理&前フリで考察してた祭政一致が解っていれば不思議じゃないんです。

秀吉は追放令の前年4月から京都の新大仏建立を計画してて、神仏を介した秀吉バージョン Ver祭政一致を目指していました。
つまりは、こう⇒≪祭祀:豊国大明神≫=イコール≪政治:豊臣政権≫です。
この形は家康Ver『祭(東照神君)政(江戸幕府)一致』へと受け継がれます。

とにかく信長も秀吉も家康も、某漫画のライト君のように「自分が新世界(政権)の神になる」(`・ω・´)キリッ」を最終目的にしてたんです。
「本来の意味としての祭政一致」は「帝が政治を直接執る(親政)」の状態を指すのですが、
①信長~秀吉の流れで、帝は政治から離れた人畜無害の祭祀を祀る大元締めとしての存在のみに昇華。
②家康&江戸幕府によって、帝を含む公家社会が更に政治とは無関係になるように制限(公家法度)してました。

日本古来の習俗にならい、己を神とする祭政一致を目指していた秀吉にとって、キリシタンは日本の国益を損なう危険で邪魔な存在だったんです。

ところが、各地の領主がキリシタンを匿ったりとか、だんだんザル法になってきた^^;
文献によると禁教に対して宣教に励んだ結果、追放令前より信者数は2割減程度しか影響してなかった^^;

では、その後はって言うと、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

参照6・秀吉研究の最前線_第3部_秀吉の宗教・文化政策の実像

===(前編)秀吉は、なぜキリスト教を「禁止」したのか 清水有子 ===

「読書の秋」が終わってなくてすいません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

家紋・豊臣 ロン様作成_豊臣家紋ロゴ

まず「伴天連追放令」は二つあります。
天正15年(1587)6月18日【覚(おぼえ)】
・国内外で伊勢神宮にのみ、数点の写本が残る法令
・「覚」は全部で11ヶ条
(1~3条&6~9条)
給人(きゅうにん=領主)が領内におけるキリシタンへの改宗を強制しているが、それを禁じる
(4・5条)
高禄武士のキリシタン入信は許可制とする
(10条)
「大唐・南蛮・高麗」への人身売買禁止
(11条)
食牛馬売買禁止

領主が改宗を強制しているのは貿易がらみか本人の信仰心からかは、ケースバイケースになると思います。
いずれにせよ、領主や高禄武士が領民を強制改宗させ続けていれば、キリシタンは本願寺を超える勢力になる。
秀吉は本願寺門徒より伴天連門徒をつくることのほうが危険だと認識してました。

天正15年(1587)6月19日付法令
・松浦家ほか各地に写本あり
(第一条要旨)
日本は「神国」であり、キリスト教は「邪法」であるとする
(第二条要旨)
邪法の理由としてキリシタンの寺社破壊問題
(第三条要旨)
伴天連の国外追放を命じる
(第四・五条要旨)
ポルトガル貿易については、商売の事は別の事なので続けるように命じる

ちなみに秀吉は前年までは、キリシタンを保護するスタンスで「宣教保護状」を出してました。
それを受けて、イエズス会は各地の大名領主から「布教許可証」を貰ってたんです。

研究者の間で見解が分かれているのは、これらの法令を禁教令と看做すか否か、って事だそうです。

渡辺世祐氏説---秀吉の意図は禁教ではなく制限である
山本博文氏説---発令対象別であると指摘
(18日令が伊勢神宮の求めに応じて出した「禁制」、19日令が宣教師宛への命令)

いやいや、これは禁教令だよ~んと解釈する研究者もいるそうな__φ(.. ) メモメモ

とにかく18日令⇒19日令へのニュアンス激変は、
秀吉がキリシタンに対し「許可(規制・統制)」から「禁教」へと方針転換したことを表す。


更に18日令&19日令は、内容から鑑み国内外に周知・表明したんだ、というが研究者たちの共通認識なんだそうです。

では、なじぇに急に方針転換したのか~~長くなるんで続きます^^;

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

ゆるふわ考察⑥~宗教と政治

いわゆる一つの「文化の日」SP連載ですな ( ゚Д゚)y─┛~~

社寺領土知令は1871年(明治4年)と1875年(明治8年)の2回出された。
繰り返すが、この上知令は明治政府がビンボーだったせいで、仏教弾圧の意図はない。
というのも没収された御朱印地には神社領も含んでいるから。

が、神仏分離令&廃仏毀釈運動でガタガタになってた仏教界が受けたダメージの方が、神社より大きかったのではないだろうか。
そんな中で僧侶の妻帯OKが出る。

高僧だろうが学識豊かだろうが名僧だろうが、神社に奉仕していた僧侶は神仏分離令で強制還俗。
寺院に残った僧侶も寺領没収で、たちまち生活困窮者となった。
妻帯した僧侶は、望んで破戒僧になったわけでない。一部の堕落僧を除くと生活していくために妻帯したのだ。

仏教界でも「(僧侶の妻帯は)時の流れに身を任せ~~(´;ω;`)ウッ」という対応をするしかなかった。
明治初期における波乱万丈の中で、全ての生活困窮寺院を救うだけの余裕がある金満宗派など、あろうはずがない。

ここからは完全に想像なんですけどね・・・( ̄ko ̄)
上知令が2回だけで済んだのって、やっぱ外聞が悪いとかクレームがあったんじゃないかと想像してるわけです。

だってさ。領地没収される寺社の中には、やんごとなき宮家から門跡が出る古刹もあるんだよ。
※門跡(もんせき、もんぜき)---皇族・貴族が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。
寺領没収による困窮寺院では、墓地の手入れもできかねるわけで・・・・・

維新政府に仕える高官本人の田舎のパパンママンの墓とか、旧藩時代の御主君の先祖伝来の墓地も荒れちゃうじゃん?
保護してた幕府や藩がなくなった上に経済的に締め上げくらえば、あっという間に荒れ放題でしょ。
各宗派・各寺院が過去の人脈フル稼働で頑張ったんじゃないかな~~と想像してるわけです。

ここから先は、殆ど調べてないんで自分も国家神道というのが、何だったのか判ってない。
ぶっちゃけ、延喜式やら江戸期以前の社格と明治以降の社格がゴチャ混ぜで、シオレベルじゃ何が何だかヽ(。▽゜)ノ アヒャヒャ~~?
とにかく戦後、GHQによって国家神道は解体され、祭政は分離された。
と、同時に日本古来の習俗も「信教の自由」の名の元に、伝承が途切れようとしている。

いままさに日本の宗教史は、フォースインパクトの真っ最中なのだ。
文字通り神も仏もない混沌の時代の果てに、日本人という民族が行く就く先が何処になるのか、いま現代を生きている我々には見当もつかない。

日本の歴史を愛する者として、願わくば日本古来の習俗や伝統は残して欲しいと思わずにいられない。
民族の伝統習俗というのは、その民族の活力を生み出す原点であり、宗教・宗派というカテゴリを超越したものなのだから。



長文連載に御付き合い下さりありがとうございます。
まだまだ不勉強ですが、今現在の自分の知識で出来る範囲の考察ですので、不完全な点は御容赦下さいm(__)m

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

ゆるふわ考察⑤~宗教と政治

古来日本においては【祭祀を祀る事=政(まつりごと)】で《祭政一致》だった。
「祭=祖霊を祀る」「政=まつりごと」^^b
※「祭政一致」の体制の下では、政治的指導者=イコール宗教的指導者。

で、宗教史の流れを簡単にまとめると大きく三つに分類できる。
☆ファーストインパクト~仏教と合体!神仏習合さ!
☆セカンドインパクト~~寺請制度だ!神仏は習合のままだけとね!
☆サードインパクトが明治維新。幕府の宗教政策によって保護されてきた仏教界に廃仏毀釈という使徒が襲来する。

悪乗りはさておき、祭政一致というのは未分化な社会や古代国家に多く見られる政治形態です。
だから生まれたばかりの明治新政府が、日本伝統の習俗に倣い「祭政一致」を目指した事は強ち的ハズレではない。
だが社会が複雑化し様々な利害が絡むようになると、古代のままの祭政一致では時代の変化に対応しきれない。

飛鳥時代、国家鎮護のツールとして仏教を導入したのとは逆に、
明治新政府は王政復古・祭政一致のために【徳川幕府の宗教政策という不純物】を除けようとした。


初めは神仏分離だった・・・
実は神仏分離自体は地域限定で江戸時代もあった。
岡山藩や水戸藩、淀藩、会津藩等の儒教が興隆した藩を中心で、出雲大社でも17世紀に神仏分離が行われている。
明治政府は「王政復古」を旗印に、神道国教化の為に日本古来の姿である「祭政一致」に戻すべく、まずは習合状態の神仏を分離する【神仏分離令・1868年】を発した。
 ●神社に奉仕していた僧侶には還俗
 ●神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁止


明治政府には仏教界を弾圧する意図はなかったのだが、結果として行き過ぎた神仏分離が廃仏毀釈運動へと波及した。
寺宝は二束三文で売り飛ばされ、石仏や地蔵の顔や頭部は破壊さたり削られたりした。
廃寺になったり神塔を破壊されたりと、タイフーンが二つも三つも襲来したかのような凄まじさ。

生き残るために寺号を捨てて、神号・・・つまり神社になった元寺院もある。
鹿児島県で島津歳久を祭神とする平松神社は、その典型例でして元々は曹洞宗の心岳寺でした。
吹き荒れた廃仏毀釈運動の為に、神仏習合時代の記録は非常に調べづらくなってます。

各神社HP、各寺院HP。
それぞれ歴史コーナーはあれど江戸期以前に、どの寺院が習合してた別当寺なのかデータ公開してるところは殆どありません。
だから自分も、肥前国総鎮守にして一宮である川上社の別当寺が実相院であることを突き止めるまで、実は半年以上かかった^^;
(現在の呼称が与土日女神社で、記録上の呼称が河上社や川上社で、これらが同じ神社だって気づくのにも苦労を・・・)

・・・・・・・・てか、これって歴史好きの佐賀ブロガーに聞けば一発だったんじゃね?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

でも地元の人には当たり前すぎて、他県人がピンと来ない事が不思議だから、なかなか話が噛み合わない部分はあるんだよなぁ ( ̄ω ̄A;アセアセ

更に明治政府は神道国教化の一環として、
「僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべきこと(明治5)」と太政官布告。
それまで僧尼令(757年)に定められた僧侶の肉食妻帯の禁を解いた。

この僧侶も結婚していいよ~~~~
の前に明治政府は明治4年1月、社寺領土知令を発した。
御朱印や黒印によって保障されていた社寺領は、現在の境内地を除いて、ことごとく返上すべし!
さらに御朱印境内地も必要部分を除いて没収!


くりかえすが明治政府は神道国教化を目指してはいたけど、仏教弾圧までは考えていない。
が、あらゆる施策を実行する上に置いて、初期明治政府はあまりにもボンビー過ぎた。・゜・(PД`q。)・゜・

この社領を上知令(あげちくれぃ~じゃなくて「あげちれい」ね^^b)は、施行段階では仏教界への経済DVとなったのは言うまでもないのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

ゆるふわ考察④:宗教と政治~秀吉の神武分離(後編)

日本古来の祭政一致の歴史は後醍醐天皇で終わった。
だが南北朝の争乱は、在来の領主が衰微する一方で各地方の国人領主を活性化させ、神社系武家が勃興する。

神社系武家(仮称)とは、当主(または総領家一族)が神社の神職を兼務している武家のことで、いわば「地方版祭政一致」です。
その土地の歴史とともにある氏神と一体化した武家の権威と在地豪族への影響力は絶大で、上位者である守護職でもウッカリ蔑ろにできない勢力でした。

豊臣秀吉が《神様と武家を分離した》というのは、あくまでも自分の持論ですが論証するには未だ未だ史料検証不足^^;
というのも秀吉は「神武分離」に関しては、キリシタンへの制令のような制令を特に出してないからです。

その多くは「反抗的な国人領主への仕置き」などに包括されている為、各地方における神社系武家への仕置きがどうなったか細かくリサーチしなきゃならない^^;
少なくとも自分が専門にしている九州において、秀吉は「土地の氏神」と「一体化している武家」を引きはがす意図が明瞭にあったと思われる処置・態度をしています。

前編であげた例で行くと
・宗像神社~宗像氏
九州征伐で戦功あった一族家臣など個人への加増で、宗像氏は嗣子がいないということで所領没収。
家紋・宗像(ロン様作成_宗像氏家紋ロゴ)


・英彦山(九州における山伏の総本山)
山伏の総本山ですが神仏習合だった時代だから僧兵がいました。
最盛期の僧兵は数千名で、筑前秋月氏と婚姻による軍事同盟の関係だった。
キリシタンだった大友氏の焼き討ちの方が有名だけど、秀吉からも攻撃を受けて降伏し武装解除することによって生き残る。
その混乱の為か、英彦山座主の系図と婚姻関係だった秋月氏系図とは、関係関連性が繋がらずカオスになってます(-ω-;)ウーン
家紋・秋月 (ロン様作成_英彦山と同盟してた秋月氏家紋ロゴ) 

・阿蘇神社~阿蘇氏
島津領内で起きた梅北一揆に加担した咎で僅か12歳の少年当主が斬首され、嫡流断絶。
ちなみに一揆当時は11歳・・・子供だよ・・・どう加担するんだと・・・il||li _| ̄|○ il||l
実弟が残り武家でなく阿蘇神宮宮司家として存続、現在まで続く阿蘇氏は生き残った実弟子孫です^-^
家紋・阿蘇 (ロン様作成_阿蘇氏家紋ロゴ)

・高千穂神社~三田井氏
高橋元種と所領問題でトラブルとなり滅ぼされる。
そのトラブルというのが秀吉発給の宛行状で、三田井氏の所領が宙ぶらりんになってしまったから。
通説では高橋元種の讒言により「三田井氏逆心」を信じた秀吉が「三田井征伐」を命じた。
このあたり秀吉が一方的で三田井の言い分を確認することなく、高橋寄りの裁定を下したことになる。
家紋・高橋 (ロン様作成_三田井氏を滅ぼした高橋氏家紋ロゴ)

・川上社(与土日女神社)~肥前千葉氏
大宮司職だったのは千葉胤連までだったらしく、以降の当主は佐賀藩鍋島氏に仕えた。
家紋・肥前千葉 (ロン様作成_肥前千葉氏家紋ロゴ)

阿蘇氏、宗像氏、三田井氏など、武家としての歴史と氏神との関係性が混然一体の如く古くから土着している家は、武家としての命脈を完全に断たれています。
一方で、肥前千葉氏のように神社との繋がりが後出しジャンケンタイプは、神社と離れ家臣団に入る事で武家として残っています。
また本願寺のように、英彦山も武装解除・武家としての軍事力を手放す事で残りました。

秀吉は闇雲に宗教弾圧や国人領主を排除したわけでなく、その土地・氏神との繋がりの濃さなどを基準にし、仕置きの線引きをしてる事が窺えます。

家康&江戸幕府が、意図したか又は結果としての事象かは別にしても、
【神が先で仏が後だった神仏習合を、徳川家康&江戸幕府が、仏が先で神が後の神仏習合にひっくり返している】
という状況になったのは、豊臣秀吉が「氏神」と「氏神と一体化した武家」を前段階で切り離しているからこそです。

豊臣秀吉は、
地方に勢力を持つ武家から氏神・神社という権威を失くし、
神社からは武家として保持していた「地上の権力」を失わせました。

つまり神様は祭祀として祀られる(だけ)の人畜無害な存在へと昇華させたのです。


徳川家康は
神仏習合している仏教の方を統治支配ネットワークに組み込んだ。

仏教界を支配下におくことで民衆を掌握し、仏教と習合している神社側も幕府にとって危険にならないようコントロールしてたんです。

信長から受け継いだ、秀吉が地均しした後に、
家康が、数十年かけて祭政一致(帝が直接政治する)に戻る事がないように手を尽くして築き上げた江戸幕府の宗教政策。

まさに芸術品とも言える完璧に近い宗教統制を、
明治政府は自分たちのスローガンである王政復古に合わせて祭政一致に戻そうとしたのです。

草場の影で秀吉と家康が悶絶してますな ( ゚Д゚)y─┛~~
仏教界にとり予想もしてなかった法難?がやってくるのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

ゆるふわ考察③:宗教と政治~秀吉の神武分離(前編)

話の時間軸を戻します。
明治新政府は王政復古のもとで、祭政一致を目指してました。
(※結果として大日本帝国は議会政治になるので、祭政一致ではなくなる。)

要約すると「日本史における祭政一致」とは「帝が直接政治を行う=親政(しんせい)」の状態を指します。
初期明治政府が「目指せ祭政一致」だったということは、江戸時代は祭政一致ではないという事です。

2015年現在において、最後の祭政一致してた帝は後醍醐天皇^^b
後醍醐天皇の「建武の新政」は武家の賛同を得られず、北朝の帝を奉じた足利尊氏による武家政権(室町幕府)が誕生します。
ここまでいいですかぁぁぁーo(* ̄○ ̄)ゝーーーーー
室町幕府誕生で、中央政界は祭祀と政治が分離~~帝は政治から離れましたよ~~~

が、当然ながら後醍醐天皇(南朝)も抵抗したんで、日本各地で争乱となりグダグダとやってた訳です。
この南北朝争乱の余燼(よじん)は、慣習としての祭政一致を地方に残したんです。

慣習としての祭政一致・・・それは各地に蟠踞(ばんきょ)する国人領主における神社系武家の勃興(ぼっこう)です。
(※蟠踞(ばんきょ)しっかりと根を張って動かないこと)
(※勃興(ぼっこう)急に勢力を得て盛んになること)

神社系というのは史学素人の自分が勝手に呼んでる括りでして、他の学術的呼称があったらゴメンナサイ^^;
つまり神社の社人が武士団化とか当主が神社の神職を兼務しているなど、いわば【地方版祭政一致】です^-^

神社系に限らず各地方の国人領主が元気イッパイになる背景には、彼等が家臣ではなく被官(ひかん)という緩やかな支配関係だったことに遠因があります。
また遠国であればあるほど、守護職は在地しておらず京都の館にいたりしてたから、だんだんフリーダム戦国化^^;
(在地してても守護代や郡代がいるので、守護職本人は首都である館から殆ど動かない)

で、自分が扱っている九州での祭政一致例は下記の通り(他の地方は判らない^^;)
・宗像神社~宗像氏
・英彦山(九州における山伏の総本山)
・阿蘇神社~阿蘇氏
・高千穂神社~三田井氏
・川上社(与土日女神社)~肥前千葉氏
(※戦国末期まで残ってたもののみ、途中で没落したのは除外)

特に一番顕著な例は、川上社大宮司職にして、小城を支配していた肥前千葉氏です。
千葉県下総を本来の本貫地とする肥前千葉氏は、元寇のために鎌倉期に千葉県から佐賀県へと赴任し、室町期で本格的に土着します。
生粋の肥前っ子でもなく、守護職でもない(※小城地頭だった)肥前千葉氏は、
領地支配を強固にするため、肥前国総鎮守にして肥前国一宮である川上社の大宮司になったんです。

川上社の権威を背景に肥前千葉氏は勢力拡大して、最盛期には肥前国主とまで尊崇されました。

さて「地方版祭政一致」というのが何となくイメージしていただけたところで、秀吉の天下統一事業が本格化するのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

ゆるふわ考察②:古代から現代~宗教と歴史~知識の引き出し整理なぅ

これは史料的な検証してないので、それでカテゴリも「ブログあれこれ」にしてます。
前フリの
【神が先で仏が後だった神仏習合を、徳川家康&江戸幕府が、仏が先で神が後の神仏習合にひっくり返している】
と自分が感じるようになったのは割と最近のことで、肥前中世史の研究を始めてからなんです。

川上社と別当寺である実相院。
日本古来の習俗に倣うのなら、表は川上社で裏が実相院でなければならない。

現に南北朝時代の今川了俊は川上社を支配ネットワークに利用したし、
室町時代の肥前千葉氏は、川上社の大宮司職をゲットしてた。
ところが、どうも江戸時代になると川上社より実相院の方が隆盛だったようなんです。
なぜ表裏ひっくり返ったんだろう・・・|?・謎・疑問・?|・ ̄)じぃーじぃーーー・・・が、きっかけだった。

初めは肥前のみの現象かと思ったんですけど、明治の廃仏毀釈運動の詳細を別サイトで見ているうちに
【神が先で仏が後だった神仏習合を、徳川家康&江戸幕府が、仏が先で神が後の神仏習合にひっくり返している】という考察に至った。

順を追って話そう。
具体的な中身は未だ定説・通説が確定していないのだが、
とにかく織田信長も豊臣秀吉も、帝を超える神になろうとして失敗?挫折した。

そもそも神を否定するほどの大革命は、日本の習俗上においてアンビリバボー。
日本民族の氏族・血族ルーツたる帝を否定すれば、彼等自身の氏族(存在理由)も否定することになるから、そこは否定できないんです。
え~~と、つまり信長も秀吉も「俺は新世界(新政権)の神になる(`・ω・´)キリッ」ですな( ゚Д゚)y─┛~~

で、徳川家康は「ワシは東照神君だぎゃ~」なんだが、過去二人の失敗も知ってる。
氏族ルーツとして帝を超えられない以上、神としての家康も帝を超える事は絶対無い。
ていうか、そもそも日本における統治権は潜在的に帝が有しており、時の権力者は帝から政治を執る事を委託されたに過ぎない。
(帝が直接政治を行う事を親政と呼び、親政する帝を「治天(ちてん)の君」と呼びます^-^)
これは平成の現代も同じだよ~~ん♪ヽ(*´∀`)ノ

政権をひっくり返そうとする者が、常に帝を奪い担ぎ出そうとするのは【日本の統治権を帝が有している】からです。
帝という存在は、導火線の先に火がついたままの地雷のようなもの。
為政者にとって、それが自分らを何時か脅かすと判っていても処理できない尊貴な存在。

で、無理をしない家康&江戸幕府は、神仏習合してる仏の方。
仏教側を支配機構に組み込む事で、習合してる神社側の権威を抑えようとした
・・・じゃないかな~って考察です^^/

寺請制度により全ての領民は、何がしかの寺院に所属します。
文字通り「揺りかごから墓場まで」、あらゆる階層の日本人が寺と関わりを持つことになったんです。
神社側に特別な規制をかけずとも、時の流れが【仏教が表で神社が裏の神仏習合】へと変質させていきます。

或いは神仏習合の内情変質は、家康や幕府が意図したものでなく、260年に亘る江戸幕府支配からくる副産物だったのかもしれません。
同時に江戸幕府は宗教界に布教と宗論を禁じました。
仏教側を支配しやすくするために、宗教界を活性・活発化させる行為(=布教)に規制をかけたんです。

ん~~布教と言うとニュアンスが違うかな?(近世史料は調べてない^^;)
改宗を禁じたが正解かも。寺請制度で所属寺院が先祖代々固定しちゃうからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
昔の法論・宗論対決は厳格でして、敗れた側は相手側の宗派に改宗するってルールだったんですわ。

もっとも宗論対決は全面禁止ではなく、寺社奉行のOKと立ち合いがあれば出来ました。
でも、そこは、ほら。お上ですから。簡単には許可は出さない。
教義に厳格な法華宗はメゲずに申請して了解もらい、宗論・破折にハッスルしておりました(*´m`)

で、【祭祀を祀る事=政(まつりごと)】の話です。
ファーストインパクト~仏教と合体!神仏習合さ!
セカンドインパクト~~寺請制度だ!神仏は習合のままだけとね!

そしてサードインパクトが明治維新・・・幕府によって保護されてきた仏教界に廃仏毀釈という使徒が襲来する
逃げちゃダメだ・・・逃げちゃダメだ・・・逃げちゃおっかなぁ~~③に続く(`・ω・´)キリッ

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

ゆるふわ考察:古代から現代~宗教と歴史①~知識の引き出し整理なぅ

文化の香り高く・・・なるか判らんけど、
今、読んでる「秀吉研究の最前線」が、ちょうど宗教関係の項なので色々と脳内知識・和箪笥が刺激されてます。
ちなみにフロイスの日本史は読むの挫折してます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

中世史を専攻してる今は、地理の変遷と郷土史を絡める地政学っぽい方向性。
で、中世史(もち九州さ!)の前は宗教史にハマってた^^;
正確に言うと宗教と政治の関わり合いって感じ。

宗教史の中では、特に法華宗に注目してた。
日本の仏教の中では、珍しく原理主義で教義に厳格な宗教だからです。
教義は非信者には非公開!(`・ω・´)キリッ
しったかぶりな浅い知識で教義を論ずることは謗法(ほうぼう)(`・ω・´)キリッ

※謗法(ほうぼう)---誹謗正法(ひぼうしょうぼう)の略で、仏法に背く事(『法華文句記』巻6)

ちなみに謗法を侵すと成仏できない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ドキドキ(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

話は飛ぶが、自分は神道は宗教の括りとは違うと思ってる。
てか、そんな型にはめるようなカテゴリに入れたくない・・・個人的な感情と言うか気持ち問題がチト混ざってる^^;
そもそも祖霊を祀ることは、習俗だと思う。
※習俗(しゅうぞく)---ある時代・社会のならわし。習慣や風俗。
民族・氏族・血族全てのルーツであり原点で、祀る空間(磐や社とかとか)そのものが神霊であり言霊である。
自然への畏敬・畏怖で悦び祝うもの。本来とてもとても純粋でピュアなものなの・・・。(人´∀`).☆.。.:*・
神名そのものが真名だから、濫りに口にしたりするのは(・A・)イクナイ!!
(※但し、お仕えする人々や研究や勉強の為に真摯に取り組む分には(・∀・)イイ!・・・はず^^;)

古来日本では、祭祀を祀る事と政(まつりごと)は一つのものだった。(祭政一致)
祭祀を祀る社を造り外護することが、権力者の証でありステータスだったんです。
九州探題・今川了俊が川上社の国衙(こくが=公領)に目をつけたのは、日本古来からの習俗に倣ったもの。
川上社の国衙に租税を納めさせることで、自分が上位者であることをアピールしたんです^^b

てことで、
日本の政治史を理解するには【祭祀を祀る事=政(まつりごと)】からスタートしているという予備知識が重要なポイントになる。
これが判ってないと、各時代・各権力者の宗教政策が単なる年表的な経緯を理解するのみで止まってしまいます。

学校で習うように、仏教は神道よりあとから渡来したもので、日本の習俗と見事に融合し日本独自の宗教となった。
元々の渡来系仏教は哲学的要素が強く難解で、それが日本で土着する際に判りやすくマイルドになったとも言える。
これが歴史的に言うところの【神仏習合】。
神社には付随する寺院(別当寺)があり、神社TOPと別当寺TOPの役職は兼務でした。
肥前で言うと川上社と別当寺である実相院の宗主は兼務だったんです^-^

ここで大事なことは、神仏(しんぶつ)と表現するように、神が先で仏が後だってことです。
カードでいうなら表が神で裏が仏です。
この神が先で仏が後だった神仏習合
徳川家康&江戸幕府が、仏が先で神が後の神仏習合にひっくり返している
・・・というのがシオ考察なんですわ。

あぁ~~やっぱ古代から現代までだと長いっす~②に続く(`・ω・´)キリッ

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
497位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
80位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR