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【1451~1455年】 北九州限定・室町(抜粋)年表

享徳元年&宝徳4(1452)年
3月~6月、大地震発生~子供が多数死ぬ
7月25日、享徳へ改元(徳政あり)
・2年前に炎上した内裏が、この年に新造オープン^^/
(1444年閏6月に幕府が諸国へ経費を賦課してました)

享徳3(1454)年
・龍造寺家兼(剛忠)が龍造寺家第六子・五男として生まれる
3月、渋川教直、少弐教頼と巨勢町(佐賀市)にて戦う(北方町史)

康正元年&享徳4(1455)
6月25日、千葉胤鎮(肥前千葉7代目)56歳で死亡『北肥戦誌』
『佐賀市史は9月24日』『要略は9月25日』
・千葉元胤、18歳が9代目当主となる(執権:岩部常楽)
7月25日、康正へ改元
・大地震と落雷で多数死亡、人心乱れる『北肥戦誌』
・都では蘇我入鹿の屍が和泉から入落すると噂が出る『北肥戦誌』
・少弐教頼、筑前より松浦郡へ逃げる『佐賀市史』
・渋江公代、「牛島と和与しても中村へ背かず」と中村氏へ起請文を出す(北方町史)

<1452年~1455年にかけて、千葉胤鎮「肥前国主様」と尊崇を受ける>
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<北九州エントリ---肥後、筑後、肥前、筑前、豊前、豊後>

室町年表は戦国期を理解するのに、自分が抑えておきたいな~と感じたもののみ抜粋してます。
基本として、色んなサイトを参照してますが、自分自身で確認出来た出典元は『』内で表記してます^-^
自分では未確認だけど、参照元において出典元が明記されていたデータは( )内に表記です^-^
なお、年月日は全て旧暦対応です^^/

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真田丸_篭城2日目・決断

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実に拘る方はスルーしてください^^/



お・・・おやがだざまぁ~~~~(ノД`)・゜・。
本気で目から汁が・・・・

温水・小山田の小ズルイ演技が、いい味出してる( *´艸`)

真田家臣「御屋形さまは、何故、殿(真田)を信じて下さらなかったのか」
それが真田安房守の安定キャラ・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

やっぱ三谷脚本は、緊張感のなかに盛り込むコメディが絶妙。
母上のキャラが(・∀・)イイ!
いまのところ、信行にーちゃんが(`・ω・´)キリッ、っと総領息子らしさ満点なんで嬉しい ・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・
あと地理オンチだから、画像で説明が判りやすい

温水・小山田は史実通りに殺されたか・・・乱世よのぉ(。-`ω-)ンー
信忠は、イケメンを使うかと思ったけど「フツメン?」というか、御曹司っぽいかな?
武田攻めで滝川のほうが出たか・・・・修羅な森武蔵は出るかなぁ ウキウキ(*´ 艸`)(´艸 `*)ワクワク

織田家って調略を盛んに使ったくせに、裏切り者は生理的に嫌い(信用しない)というメンドクサイ家なのよね。
いや、そう思うのは誰だって同じなんだけど、織田家は小山田みたいにガチでポイ捨てヤっちゃうからさ~
織田に与するにしても、
     裏切るタイミングと身の処し方が凄い難しい家。

少なくとも周りから、そう思われて「毛利のほうが」とか「武田のほうが」とかとかで、違う意味で織田の信用度が低い^^;

そんな中で「織田につく(`・ω・´)キリッ」と決断した真田パパ
って、紙縒りで作った籤で綱引きしないで下さい:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ

さぁ!真田の複雑な動きが始まるよ!!
三谷脚本で、どう料理されるか楽しみ~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

筑後田尻氏_2・肥後の錯乱と筑後

参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」

永正に改元する直前に肥後守護職で最後の嫡流当主である菊池能運が28歳という若さで死亡します。
この後の家督を巡るスッタモンダを「肥後の錯乱」と呼びます。
大友義長は、この肥後の錯乱を通じて「肥・筑対治の儀」と称し、筑後計略の一環にしました。

まず、能運の遺言により玉名郡・菊池肥前家より政隆が当主に迎えられた。

・・・のだが、菊池家臣が・・・ネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
永正2年、庶流当主に不満の家臣が阿蘇大宮司家から阿蘇惟長を当主に迎えようと画策する。
(庶流がダメで他家ならOKな感覚は不明^^;)
とにかく、これで菊池家内部は政隆派と惟長派に分裂してしまった。

永正3、9月に惟長支援で大友義長が軍勢を送ると、
菊池政隆は山本郡・内空閑(うちこが)城で挙兵するのだが、阿蘇小国で敗れる。
この年の12月に惟長は、阿蘇家から菊池当主・武経(たけつね)となった。

永正4、3月になると大友義長は筑後・妙見城の星野重泰(反大友国衆)を攻撃する。
(結果として星野氏は負けました)

一方、敗れた元菊池当主・武経はというと、肥後と筑後を転々とし葦北から島原へと逃亡しました。
(なんか後年の菊池義宗の逃亡ルートと似てる^^;)
で、永正5に筑後に侵入し再起を図った。

どうも筑後に菊池政隆派国衆がいたらしいのだが、参照文献でも国衆が誰なのか判らないとなってます。

永正6、夏に大友は朽網親満(くたにちかみち)を派遣した。
菊池政隆は玉名郡臼間野(南関町)桜馬場で捕らえられる。
同年の閏8月17日に合志郡安国寺において自害させられた。

この間に田尻種久は大友派として協力したらしく
永正5・11・3日に大友義長から知行地を与えられています。「田尻家文書16・17・18」
(まだ読み下してない~~;><☆)
同日に草野氏と五条氏にも知行が与えられている。




大友義長は筑後における反大友国衆も一掃すべく、菊池政隆討伐を利用したようです。
白状すると相良編では手抜きして菊池政隆のことは飛ばしてたので、完全に盲点でした(。-`ω-)ンー
いまさら相良本編を修正できないので、年表でフォローしますil||li _| ̄|○ il||l

何せ星野氏の妙見城攻略には3年かかっちゃってたんで、肥後と連動してるとは気づかんかった(。-`ω-)ンー
星野氏は、大友が潰さず残した星野氏と大内が支援して残した糸の星野氏と分裂しちゃうので、そっちに気をとられたのもある。

うーん、歴史は全て繋がってる。勉強になりました。

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筑後蒲池氏3_上蒲池氏と下蒲池氏の系譜

参照文献:「柳川の歴史2」

まず上蒲池家「蒲池家譜」より
本拠地:上妻郡・山下城

初代・能久(天文16年2月11日死去)
2代・鑑誠、掃部頭、法名:覚船、母は太宰少弐の娘
3代・鑑廣、志摩守、法名:麟久、母は筑後所司代・豊饒(ぶにょう)永源の娘(天正9年死亡40歳)
4代・鎮連、兵庫頭、法名、覚照、母は柳川の蒲池宗雪の娘

2代目が史料で出てこないので、活動(当主)期間が短かった模様。

下蒲池家、上蒲池の系譜には出てこない。
本拠地:柳川(蒲池)城

初代・重久
2代・鑑盛、宗雪
3代・鎮漣

と、これは仮定の状態

史料の頻出し始める当主
上蒲池---3代・鑑廣
下蒲池---2代・鑑盛、宗雪

この二人の当主時代に筑後・・・ひいては北九州において重要な事が起きたということです。



え~~と、どうも自分が上も下もゴチャゴチャで中々覚えられない。
参照文献とニラメッコして整理してみました。

つまり、この記事はシオ用のカンペである(`・ω・´)キリッ

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●肝付弾正少弼兼武 :鶴寿丸、長三郎。

兼篤の子。慶長6年生まれ。生母は岩切善信入道可春の女。

慶長14年、9歳のとき家督。同年に於いて、家久公の御前にて元服、号を長三郎兼武とし、御刀一腰(祐定)拝領。
また国分加治木へ参上仕り、龍伯公・惟心公へ御目見え仕り候。

同19年冬、大坂御出陣のとき、100余人召し連れ肥後まで罷り立ち候。

同年、河辺・宮村召し上げ、日州真幸吉田のうち西明寺ならびに、津留村のうちに御繰替え下され候。

元和年中、諸士石行四部一(?)召し上げのとき、50石進上仕り候。

寛永2年8月19日卒。享年25。法名:自性了源居士。

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【1446~1450年】南九州限定・室町(抜粋)年表

文安3(1446)年
6月20日、伊東祐堯が宮崎城を攻め落とす

文安4(1447)年
相良為続(12代目、長続三男)が生まれる

文安5(1448)年
2月下旬、多良木頼観・頼仙兄弟~人吉城へ押し寄せ相良堯頼を追放
3月28日、相良堯頼(10代目)16歳、事故により死亡
8月4日、相良長続~多良木へ攻め入り、翌日に多良木兄弟を討滅

・島津忠国~謀叛していた庶兄・用久と和睦
忠国嫡男・立久と用久娘が結婚する)

宝徳元年&文安6(1449)
7月28日、宝徳へ改元

宝徳2(1450)年
・島津忠国、遣明船への参加を室町幕府に認められる
・島津忠国、伊集院を肥後へ追放し領内を安定させる

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<南九州エントリ---肥後(球磨、八代、、天草地方)、日向、大隅、薩摩>

室町年表は戦国期を理解するのに、自分が抑えておきたいな~と感じたもののみ抜粋してます。
基本として、色んなサイトを参照してますが、自分自身で確認出来た出典元は『』内で表記してます^-^
自分では未確認だけど、参照元において出典元が明記されていたデータは( )内に表記です^-^
なお、年月日は全て旧暦対応です^^/

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【1446~1450年】北九州限定・室町(抜粋)年表

文安3(1446)年
8月27日、大内政弘生まれる
・少弐教頼、宗貞国の取り成しで大宰府へ帰還「多久市史第一巻832頁」

文安4(1447)年

文安5(1448)年
1月、少弐教頼+赤松則繁VS大内政弘~大内が勝つ
8月8日、赤松則繁~潜伏先で自害

宝徳元年(文安6/1449)
7月28日、宝徳へ改元
閏10月、大村家徳(9代目、純伊パパ)、渋江、牛島の争論を中村氏を介して仲裁する(橘中村文書)

1450年/宝徳2年
千葉教胤(肥前千葉10代目&7代目胤鎮の子)生まれる
・少弐教頼、大内に追われ龍造寺家氏を頼り、肥前・与賀館へ入る『北肥戦誌』
(歴代鎮西誌は文安4、要略は文安5)

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<北九州エントリ---肥後、筑後、肥前、筑前、豊前、豊後>

室町年表は戦国期を理解するのに、自分が抑えておきたいな~と感じたもののみ抜粋してます。
基本として、色んなサイトを参照してますが、自分自身で確認出来た出典元は『』内で表記してます^-^
自分では未確認だけど、参照元において出典元が明記されていたデータは( )内に表記です^-^
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【参照】高橋典幸氏2(城館と中世史料_斎藤慎一編)

論考:高橋典幸---南北朝・室町期九州の城郭---『山田聖栄自記』より

日記の記述で判ったのが
「清水城に「主殿十二間」「御厩」「雑掌所」などの施設が設けられていたこと」

島津氏久が東福寺城を拡張しようとしたのは(する前に死亡)「主殿作可有」のが理由だったから
つまり、それまでの拠点・東福寺城には、本拠にふさわしい「主殿」がなかった。

氏久の息子・元久の代になると、
「自分に万一あるときは「鹿児島(清水)城蔵」の料足や唐物などを福昌寺に渡すよう」と家臣に命じています。
この書状により清水城には、「島津氏の財産を管理する蔵」が設置されていたのが判ります。

室町な蒲生氏編にも書いたんですが、伊集院頼久が清水城を占拠した時の話。
日記によると「御重書、小十文字之御太刀之御番」を勤めていた家臣が討死していました。

日記にある御重書とは、島津家当主のみに所有が許された「島津家文書」のことです。
「小十文字之御太刀」も島津家始祖が源頼朝から下賜されたといわれる家宝。

これらの日記の記述からみる推移により
「清水(鹿児島)城は島津総領家の拠点城館」としての機能を持っていた事が考えられます。

ちなみに、この占拠事件のときに城から脱出した者たちは、東福寺古城に逃げたそうです。
で、逃げたのは武士だけでなく「地下町之者」がいたことから、
室町中期の清水城に「城下町」が形成されていたことが判ります^-^




なんというか「知ってるつもりだった島津」という感じです。
一次史料から城の機能を導き出すというのは、非常に地道な作業なんですが、
同時にワクワクするだろうなぁ~~萌え・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・ウフフ

自分は未だ、そこまで分析するレベルに達してないので、文献の見かた一つとっても参考になります。^-^

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【1442~1445年】南九州限定・室町(抜粋)年表

嘉吉3(1443)年
6月26日、相良前続(9代目当主)死去
(前続の正室は島津忠国の妹・生円院)

嘉吉4年&文安元年(1444)
2月5日、文安に改元

閏6月、幕府が諸国へ造内裏段銭(禁裏の補修などの経費)を賦課

12月3日、伊東祐堯が曽井氏の曽井城を攻め落とす

文安2(1445)年
9月8日、伊東祐堯が土持氏・縣氏と共に島津サイドの穆佐(むかさ)城を攻め落とす
(土持氏は縣氏が宗家です^^b)
※穆佐(むかさ)城は、これ以降「伊東氏48支城」の一つとなる

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<南九州エントリ---肥後(球磨、八代、、天草地方)、日向、大隅、薩摩>

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【1442~1445年】北九州限定・室町(抜粋)年表

嘉吉2(1442)年
4月、渋川教直、渋江公代に長島荘の惣地頭職を以下を安堵する(武雄市史)

・阿波の杠(ゆずりは)日向守、山内に土着し野坂神社氏子を領民とする「三瀬村誌」

嘉吉3(1443)年
・宗貞盛、朝鮮と嘉吉条約を結ぶ

嘉吉4年&文安元年(1444)
2月5日、文安に改元
閏6月、幕府が諸国へ造内裏段銭(禁裏の補修などの経費)を賦課

大友政親生まれる(室は大内政弘の妹)

・千葉胤鎮が挙兵『佐賀市史』

文安2(1445)年
8月17日、千葉胤紹(肥前千葉8代目)、小城にて胤鎮に討たれる『佐賀市史』
※胤紹の子、胤朝11歳のみは国府(牛頭山城)を脱出
・千葉胤鎮、肥前千葉領(小城郡、杵島郡、佐賀郡一部)に復活

・少弐教頼、筑前守護職に補任(ただし大内氏も権限を維持)

・千葉氏、歳遣船を出す「多久市史一巻831頁」
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<北九州エントリ---肥後、筑後、肥前、筑前、豊前、豊後>

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【1441年】南九州限定・室町(抜粋)年表

嘉吉元(永享13・1441)年
2月17日、嘉吉に改元
2月27日【入来院】⑩重豊が家督を継ぐ(妻:北原氏)

3月13日、島津忠国~日向福島の永徳寺に居た足利義昭(尊宥・義教弟)を、足利義教の命により討伐
※これにより島津忠国(弟)と用久(兄)の争いで、忠国優位となる~~
※討伐メンバーの一人に肝付河内守兼忠

6月24日、室町将軍足利義教が暗殺される(嘉吉の乱)

島津久逸(伊作家8代目)生まれる

(高城)重兼(11代目次男)生まれる

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<南九州エントリ---肥後(球磨、八代、、天草地方)、日向、大隅、薩摩>

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【1441年】北九州限定・室町(抜粋)年表

嘉吉元(永享13・1441)年
2月9日、少弐嘉頼~亡命先で死亡
・少弐教頼~兄・嘉頼の死亡により家督を継ぐ、教の字は足利義教より偏諱
2月17日、嘉吉に改元

6月24日、室町将軍足利義教が暗殺される(嘉吉の乱)
7月、大内持世、将軍暗殺事件で負った怪我が元で死亡
・大内教弘が家督を継ぐ

8月、渋川教直+龍造寺、播磨に打ち入り赤松満祐の木山城を落とす「三瀬村誌90頁」
・暗殺事件の首謀者・赤松則繁が大宰府へ逃亡し、少弐教頼に匿われる
※赤松則繁~少弐の助けで朝鮮へ亡命し、朝鮮から幕府へ苦情が来るほど大暴れする^^;

9月27日、少弐教頼、佐賀郡高木村神野を川上社へ寄進『佐賀市史』

10月、少弐教頼&大友持直&大内教幸(のりゆき・教弘の弟)が大内に対し挙兵
   潜んでいた千葉胤鎮も便乗して挙兵
10月14日、室町幕府、大内教弘に少弐教頼・大友持直などの討伐を命じる

12月27日、小城郡大隈の戦い~胤鎮敗北し東肥前へと逃げる
~~これにより千葉胤紹が正式に肥前千葉当主と認定される~~

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【1_公式(くしき)文書_プロローグ】古文書学入門(改)

自分は肥前中世史を在野で研究してますが、まだまだ素人に毛が生えた程度です。
ズブの素人からスタートしているので、基礎的なものも勉強してます。
ということで、古文書学入門、基礎編を終わりまして、いよいよ本編・古文書の様式に入ります。



参照:佐藤進一著「新版 古文書学入門」

公式様文書とは、公式令に規定された様式の文書
公式令とは、公文書の様式を規定する令
公式令は二種類
大宝年間に制定された「大宝令」
養老年間に制定された「養老令」
今日伝わるのは養老令です。
ただし、両者は細かい差異以外は、概ね同じだったようです。

公式令(養老令)は21種類
分類別だと3種類
第1分類---天皇及びその至親たる皇太子と臣民との文書通交の式
第2分類---太政官を頂点とする律令官庁間の文書通交の式
第3分類---1、2に含まれないもの総て

公式様文書は、摂関政治が始まるとともに廃れたものがあります。
従って、公式様文書で学ぶのは実例や後世の古文書へ影響を与えたもののみとします。

第1分類より、詔書(勅旨も含む)
第2分類より、解(げ)・移(い)・符(ふ)・牒(ちょう) 

計5種類・・・・・・・・
なんだが、5種類全部一気に読むと陰陽師的な呪みたぃ・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)アホ

ということで、次回から中身~~~~~が、ムツカシイ(´;ω;`)ウッ
脳に浸透するまで、日数ください~(*´∀`)ノ

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【1436~1440年】南九州限定・室町(抜粋)年表

永享11(1439)年
島津忠廉(季久の子・豊州家2代目)生まれる

永享12(1440)年
・【入来院】塔之原で樋脇氏が台頭し勢力をふるう

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【1436~1440年】北九州限定・室町(抜粋)年表

永享9(1437)年
・千葉元胤(肥前千葉9代目&7代目胤鎮の次男)生まれる
9月、中村胤宣(肥前千葉家老)が大内持世に内通し謀反起こす
・大内のバックアップで千葉胤紹(6代目胤基の三男)が8代目になる。
・敗れた7代目胤鎮は、僅かな供で落ち延びる

永享10(1438)年
12月29日、室町幕府より千葉胤紹&中村胤宣へ
「大内持世と何でも相談して幕府に忠義を尽くすように」と指示する

永享11(1439)年
1月21日、大内持世、千葉胤紹を郡司に中村公廉(胤宣)を郡代とする
室町幕府より肥前千葉家へ
「7代目胤鎮が混乱の原因なので、必ず探し出し厳密に沙汰しろ」と命令する
6月、室町幕府より肥前千葉家へ「早く胤鎮を探し出せ」と催促する

永享12(1440)年
2月25日、(足利義教の仲介で)大内と少弐が和睦(後鑑)

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【1431~1435年】南九州限定・室町(抜粋)年表

永享4(1432)年
1月11日【祁答院】⑧久重死亡
7月14日、伊東祐安、攻め寄せた島津勢を追い返す(河骨合戦)
・薩摩で国一揆発生、島津忠国、兄・用久を守護代にして処理丸投げし、妻の実家・伊作で隠居。
・島津友久、忠国の庶長子産まれる
11月15日、島津立久、忠国の次男にして嫡男(生母が正室)生まれる

永享5(1433)年
相良堯頼(10代目、9代目・前続の嫡子、生母は島津久豊娘)が生まれる

永享6(1434)年
・室町幕府~硫黄の海外流出を禁止する
3月5日、伊東祐安が諸県庄八代で逝去
9月8日、島津勢が木脇へ出陣
11月30日、伊東祐立(すけはる)、飯田を島津方に渡して和睦
~~島津忠国と伊東祐立(すけはる)が和解し、島津がゴタゴタしてる隙に、伊東家拡大期に入る~~

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【1431~1435年】北九州限定・室町(抜粋)年表

永享3(1431)年
6月28日、大内盛見(もりはる)~筑前深江で戦死
・大内持世~国人たちの支持で家督争いに勝つ

永享4(1432)年
・室町幕府、大友持直を解任し菊池持朝を筑後守護職に任命する「柳川の歴史・2」

永享5(1433)年
・大内持世~室町幕府から大友&少弐の追討令を貰う
9月29日、少弐満貞~筑前・秋月にて討死

永享6(1434)年
・室町幕府~硫黄の海外流出を禁止する
・少弐&大友が、大内に対しリベンジ挙兵
1月20日、渋川満直、少弐家臣・横岳頼房に攻撃され、肥前神埼郡で戦死「歴代鎮西要略」
10月16日、渋川教直、足利義教より偏諱を受け13歳で元服
              右衛門大夫及び九州探題職に任じられ、綾部城に居る「歴代鎮西要略」


永享7(1435)年
千葉胤朝(肥前千葉氏11代目&8代目胤紹の次男)生まれる

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<北九州エントリ---肥後、筑後、肥前、筑前、豊前、豊後>

室町年表は戦国期を理解するのに、自分が抑えておきたいな~と感じたもののみ抜粋してます。
基本として、色んなサイトを参照してますが、自分自身で確認出来た出典元は『』内で表記してます^-^
自分では未確認だけど、参照元において出典元が明記されていたデータは( )内に表記です^-^
なお、年月日は全て旧暦対応です^^/

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真田丸_篭城一日目・船出

キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

やっぱり
大河の華は戦国よぉおぉーo(* ̄○ ̄)ゝ---ーっ!←おぃ

マニアなんで・・・・・実は、天正十年の信濃情勢を書いた本は持ってます( *´m`)ムフー
・「北条家年表」
・「天正壬牛の乱」
読んだのが数年前なんで、内容殆ど忘れてる・・・il||li _| ̄|○ il||l
史料と見比べならがら視聴しようかな~~~~~~~~~~~~~と思ったけど止めた^^
だって無駄にイライラするだけだもんネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
それより、昨年同様にマターリ楽しもうと思ひ( *´m`)マフー

セットは流石、大河よネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
前回の手抜き俄かセットとはエライ違い・・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメレ!

どこから始まるか興味津々だったけど、武田滅亡直前から来たか(・∀・)ニヤニヤ
武田菱~~~シンプルisBESTびゅーてぃー
全体的に華やかさと渋さがあって、ビンボーアピールの去年とはエラ・・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)クドイ!!

勝頼役の平さんはホントに素敵な役者よネー(*´ 艸`)(´艸 `*)ネー
あぁ、好きな俳優なのに出番が短いのが辛いわ~

草刈正雄の昌幸ってピンと来なかったけど、フタを明けたら、( ゚д゚)ンマッ!!( ゚д゚)ンマッ!!
曲者っぽさムンムンじゃないですこと?( *´m`)
九度山の隠居まで楽しめそうだわぁ~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

家族のキャラも個性豊かで、戦国ホームドラマとしても普通に楽しめそう。
あ、家族仲良しは絶対アピールしてくると睨んでます(。-`ω-)ンー
でも謹慎・九度山でも親子妻妾仲良く?同居してたんで、(現代目線の)家族愛アピールされても、たぶんイライラしなさそう。
昌幸妻のキャラも面白いし( *´艸`)プププ

お忍びの御屋形様の背中に惚れた・・・・セクシービームが~~
格好良すぎです ・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・はぅ

やっぱ三谷脚本は上手いなぁ ( *´ー`)←御機嫌♪
時代劇は幕末も戦国も手がけてるし、やっぱ全体として安定してるんで安心して見れる。
信行が大泉洋と聞いて不安だったけど、チャラ男や弄られキャラ設定じゃなさそうで安心した。

上杉・・・渋い♪~~直江役は誰だろう(。-`ω-)ンー
北条!二度汁しちゃだめじゃん:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ

浮かれて「大河」の感想記事始めちゃった~~~~一年間YOROSIKU(。-_-。)vブイッ♪

相良家文書527_吉弘鑑理書状

長文が億劫で
、、ゴホン、忙しくて後回しにしてたんですが、引越しが落ち着いたので、こちらも再開します( *´艸`)
緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

はじめに・・・
漢字だらけで ゜ ゜( ∀ )ぅ!?目が滑るん~~という方は↓にある要約まで飛んで下さい^^b

(折封ウハ(上)書)
「           吉弘左近大夫
 相良殿 御報         鑑理」

「- ーー」(端裏切封)
爲 御進発御祝儀、被成言上候条、最専一存候、仍御懇書并両種被懸御意候、御丁寧之儀、畏存候、然者、御分国諸堺属 御案利候、然處、中国之者共筑前表迄浮出候間、各令対陣、此節不拔足討果、永々被明御隙候様、衆評半候、將亦、菱刈表干戈于今無止事候哉、弥御堅慮肝要相存候、就中、御先代己来毎事御忠意之続、倍無音相違之由、乍案中、専要候、寄々衆仰談、其堺之儀、深重可被成御入魂事、尤可目出候、諸慶期来喜、令省略候、恐々謹言、
(永禄十二年)
  五月十一日     鑑理(花押)
  相良殿 御報



ここまでで力尽きそう・・・il||li _| ̄|○ il||lゼーハーゼーハー
でも入力(or手書き)して漢字の意味を考えながらでないと読み下せないオバカなんで、お付き合いください(><;)

まず宛名が日付と同じ位置なので、大友家老として相良氏に敬意を払っているのが判ります。
文中にも敬語、丁寧語が相良に対して使われており、全体として丁重な書状です。

為(ここ)に(宗麟の)御進発(=出陣)御祝儀を、言上成され候条、最も専一(=第一である)存じ候、
宗麟の出陣に対して御祝儀を言上されたことは、最も第一の事と思います。

仍(よ)って御懇書(ごこんしょ)并(あわ)せて両種御意に懸(か)かられ候、御丁寧の儀、畏(かしこ)まり存じ候、
※御懇書(ごこんしょ)、相手を敬ってその手紙をいう時の言葉
それと(相良から)頂いた手紙と共に気に懸けて頂き、丁寧さには頭が下がりますm(__)m

然者(しかれば)御分国諸堺属(宗麟が)御案利(あんり)候、
※案利(あんり)、思いのままor勝利
それでしたら 御分国の堺のことは、宗麟の思いのままです^-^。

然處(さるところ)、中国の者共(ものども)筑前表迄 浮かれ出候間、各(おのおの)対陣令(せ)しむ、
そういえば、中国の連中が筑前表まで、ヒャッハーばりに浮かれ出てるので、おのおの陣を敷いております。

此の節 足抜からず討ち果たし、永々(えいえい)御隙(おんすき)明らか候様(そうろうさま)、衆評半(なか)ば候、
これらは残らず討ち果たし、それほど手間をとらないでしょうから、話し合い半ばといったところです。

將亦(はたまた)、菱刈表干戈(かんか)于今(いまだに)止む事無く候哉(かな)、弥(いよいよ)御堅慮(けんりょ)肝要(かんよう)相存(あいぞんじ)候、
はたまた菱刈表での戦が未だに止まないという事は、いよいよ賢明な判断が重要になると思います。

就中(なかんずく)、御先代己来(いらい)毎事(まいじ=いつも)御忠意(ちゅうい=誠意、真心)の続き、無音(ぶいん)倍して相違の由(よし)、案中乍(ながら)、専要(せんよう)候、
なかでも先代以来 常に忠の心が続き、今まで以上に報告する事は、当然ながら 大事です。

寄々衆(よりよりしゅう)仰(せ)談、其の堺の儀、深重(しんちょう)御入魂(ごじっこん)成さられ可(べ)く事、尤も目出(めで)可(べ)く候、
寄々衆=この場合は先に連著で書状を出した戸次、臼杵、吉弘を指すと思われる
みなが言うには、其の堺(菱刈表)のことは、重要で集中して取り組むべきことであり、尤も大事にすべきです。

諸慶期来喜、省略令(せ)しむ候、恐々謹言、
季節の挨拶など省略させてください。恐々謹言


丁寧すぎて、意図を読み取るのに時間かかっちまたぜ:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ

要約すると
いろいろ進物やら手紙やら細かい気遣いありがとねーーー
筑前のほうは大丈夫!大友だけで片をつけるぜ、もう楽勝だからさ!(^ -)---☆Wink
(ここは上位者として大見得きる場面です(* ̄・ ̄)b)
菱刈表は戦が続いてるみたいだから、皆とも話したけど、そっちはそっちで大事だからさ。
相良は菱刈表に方に集中して事にあたってくれ~~


って事を、ものすごく丁寧に言ってます・・・・il||li _| ̄|○ il||l疲れた・・・・
丁寧・丁重なのは、相良のほうで礼を尽くしてることと外交上の配慮から^^/
全盛期の相良は、同じく全盛期の大友家老が配慮して書状を出す相手だったのです^-^

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【1426~1430年】南九州限定・室町(抜粋)年表

応永35・正長元年(1428)
4月27日、正長(しょうちょう)へ改元

正長2・永享元年(1429)
9月5日、永享(えいきょう)へ改元

永享2(1430)年
・島津忠国、総州家・久林(ひさもり)を討ち取る
(島津氏族を奥州家が完全統一)

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なお、年月日は旧暦対応です。

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【1426~1430年】北九州限定・室町(抜粋)年表

応永35・正長元年(1428)
4月27日、正長(しょうちょう)へ改元
11月6日、後藤正明⑯~渋川義俊より塚崎庄・長島庄地頭職の下知を受ける
(渋川に命じたのは足利義教)
・渋川義俊~九州探題職を従兄弟・満直に譲る
・渋川満直~大内持世の推挙で九州探題職になる(歴代鎮西要略)
    〃 ~肥前守護職になる

正長2・永享元年(1429)
9月5日、永享(えいきょう)へ改元
・志佐壱岐守重(しげし)、壱岐へ出兵し全島を手中にする(松浦市史)

永享2(1430)年
8月、千葉俊胤(7代目胤鎮の嫡男)12歳で病死

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田尻家文書8_大友親治知行預ヶ状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

(折封上書)
「田尻中務少輔殿     親治
(異筆)
「明応八年四月九日筑前国怡土郡領、遠江守治種」

筑前国怡土郡蔵持之内伍拾町坪付別紙在之事、預置候、可有知行候、恐々謹言、
明応八年
 四月九日         親治(花押)
  田尻中務少輔殿

   (切封)
  「(墨引)」


んーーと、読み下すほどの文章でなく、知行充行状の定型文です。
これまで幾つか見た文書のパターンから行くと、
大友家では領地安堵のことを、「知行を預ける」という表現をするのがテンプレのようです。

筑後田尻氏_2・大友との関係強化でも紹介しましたが、この田尻中務少輔種久の代から大友との関係が強化されます。

で、嫡男・又三郎が偏諱を受けて遠江守治種(はるたね)となります。
それが田尻家文書7_大友親治名字状です。

嫡男の偏諱と同時期に、パパ種久が大友親治から知行安堵を受けていました。
それが今回の文書です。

筑前国の怡土郡蔵持(=糸島市蔵持)に田尻氏の領地があったとはシランカッタ。
50町=5反(300坪×5反)=1500坪/3.3㎡=約455㎡
って数字だとピンと来ないんで、比較するなら御近所のゴルフクラブと同じくらいの敷地面積。
現代でも川沿いに田園風景が広がってるので、豊かな土壌だったのでしょう。

怡土郡の原田氏が全盛期を迎えるのは、後年のこと。
原田氏が台頭してきた頃には、田尻家が蔵持の土地を維持するのは難しくなっていたでしょう。

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【1421~1425年】南九州限定・室町(抜粋)年表

応永29(1422)年
島津久豊~総州家守久を肥後へ追放
・島津久豊~奈良美作守(揖宿・いぶすき城主)に東郷を討たせる

応永30(1423)年
8月16日【入来院】⑨重成、家督を継ぐ(妻、東郷氏)

応永32(1425)年
島津久豊(8代目)51歳没
・島津忠国が家督を継ぎ、日向・大隅・薩摩、三国守護となる

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【1421~1425年】北九州限定・室町(抜粋)年表

1422年(応永29)
対馬宗氏11代目・貞国が生まれる

1423年(応永30)
・渋川義俊(九州探題)~少弐満貞&千葉胤鎮に敗れ、博多を追い出される『北肥戦誌』

1425年(応永32)
10月28日、大内盛見(もりはる)---少弐満貞と戦い、これを破る(福田家文書)

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室町年表は戦国期を理解するのに、自分が抑えておきたいな~と感じたもののみ抜粋してます。
基本として、色んなサイトを参照してますが、自分自身で確認出来た出典元は『』内で表記してます^-^
自分では未確認だけど、参照元において出典元が明記されていたデータは( )内に表記です^-^

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169_少弐政資田地寄進状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

奉寄進  河上大明神宮
肥前国神埼郡笠置郷之内五町、土師郷之内五町、本告郷之内拾町坪付別紙在地事、
右意趣者、憑神弘願威力、勵武運長久歸国安堵精勤者也、仍祈白之状如件、
文明十四年卯月三日        太宰少弐藤原政資(花押)


寄進奉る 河上大明神
肥前国神埼郡笠置郷の内5町、土師(はじ)郷の内5町、本告(もとおり)郷の内10町地の事
(坪付つぼつけ=土地目録、別紙に在り)
右意趣は、憑神の威力に弘願(ぐがん)します。
(弘願(ぐがん)=広大な誓願)
武運長久に励み帰国安堵に精勤(せいきん)者也、仍(よ)って祈るの状、件(くだん)の如し
文明14年4月3日    太宰少弐藤原政資(花押)


え~~意訳として寄進にあたり【一番言いたい事】が、最後の一文です・・・ポリポリ(6 ̄・ ̄)
武運長久に励んで、帰国安堵に頑張ってます!どうか(=人=)☆彡オネガイします

この年に、少弐は肥前に亡命します。
河上社への寄進から、4月3日の時点で肥前入りしてた証拠として上げられる文書です。

この場合、少弐にとっての帰国は筑前・大宰府なんだろうなって感じます。
肥前が歴代少弐当主にとって「仮の宿」扱いなのが、肥前LOVEとしては地味に(#-`ω-)イラっとしますわ。

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【1411~1420年】南九州限定・室町(抜粋)年表

1411年(応永18)
8月6日、島津元久が陣中において病死
島津久豊
※兄の葬儀に乗り込み位牌ゲッツ
※自分が喪主で葬儀を行い8代目となる
※兄・元久の死去後に指名されていた後継者(伊集院)を追放する
・肝付河内守兼忠、久豊に叛する(本藩人物志)
・【入来院】渋谷重頼と嫡子・重長、清色城を奪回する

1413年(応永20)
島津季久(久豊三男・豊州家初代)生まれる
2月上旬、伊集院頼久、島津久豊が菱刈征伐に出陣中に清水城を奪う「本藩人物誌86頁」
12月13日、伊集院頼久、降伏
※蒲生清寛、吉田若狭守の説得で助命される

1415年(応永22)
・【高城氏】高城重雄5代目、弟三郎により敗走し、高城を失う
・【祁答院】⑦重茂、死亡

1416年(応永23)
島津久豊、総州家久世を討つ

1417年(応永24)
・島津久豊、伊集院が降伏した事で後継者問題に決着つく
4月4日相良実長⑧、死亡

1419年(応永26)
【入来院氏】渋谷重長、島津忠朝(総州家守久の弟)を永利城に攻める

1420年(応永27)
1月1日【祁答院】延重(⑦重茂の三男or弟)、死亡
・肝属兼政(次男)、島津久豊の養子となり頴娃(えい)地を治め、頴娃氏初代となる




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【1411~1420年】北九州限定・室町(抜粋)年表

1411年(応永18)
・千葉胤基、杵島郡白石において藤津・大村家有と合戦『北肥戦誌』
大村家有、藤津まで退却するが追撃され討死『北肥戦誌』

1413年(応永18)
・渋谷満頼、京都へ引き上げる「三瀬村誌90頁」

1415年(応永22)
・渋川氏重、後藤英明に塚崎庄の所領安堵する(歴代鎮西要略)
 ※氏重は、渋川義俊の弟、後の渋川加々良氏

1417年(応永24)
10月24日、千葉氏6代目・胤基、死亡(54歳)

1418年(応永25)
・渋川満頼、義俊へ探題職を譲り綾部城へ入る「歴代鎮西要略」
・渋川義俊、下向し勝野尾城に入る「三瀬村誌90頁」

1419年(応永26)
千葉俊胤(7代目・胤鎮の嫡男)生まれる




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筑後蒲池氏2_蒲池氏の分裂

相良家文書の蒲池美作守能久って方が登場するんです( ̄ko ̄)
ん~図書館からコピーした部分は戦国期の永禄年間以降なので、それよりは前の年代です。

作成者:(筑後国衆連著)
三池上総守親盛、溝口薩摩守長資、河崎出羽守鑑繁、蒲池美作守能久、西牟田播磨守親毎
あて先:進上 鹿子木三河守殿←肥後国衆
年 代:1月23日(書状のため年度不明)

この能久が蒲池がニ家に分裂した時の当主とされています。
相良家 申 29(筑後国人西牟田親毎他四名連署書状)か・・・【慶応大学アレコレ検索】・ ̄)じぃーぃっ

で、正月休館明けにさっそく図書館に行ったんですが・・無かったil||li _| ̄|○ il||l
「相良家文書・家わけ5-1、5-2」には収蔵されてませんでした。
「甲29」ってあるから、別分類の復刻版が地元にないor出版自体が未だのどっちかです。( ◢д◣)ショボン

「蒲池物語」では上下蒲池の分裂は、大友親治の命令で上妻郡の押さえのためと説明されています。
よく出回ってるネットで見かけたりするのは、蒲池の勢力を恐れて大友が分けたんだ~とか書いてます。

が、天文3(1534)年における大内の筑後侵攻において、
能久が肥後菊池&大内側
兄重久が大友側
と戦国アルアルの(生き残りのため?)分かれて行動したために、この後から分裂したとも考えられるし、
この段階で既に分裂してたとも考えることができます。

いずれにせよ、大友の命令でニ家に分裂したという確たる典拠(一次史料)はないようです。

「蒲池家譜」は、上蒲池の家譜であるため柳川の蒲池鑑盛(宗雪)との系譜関係は全く判らないそうです。

いずれにせよ
・蒲池能久が、上蒲池家の初代とされていること。
・能久に兄・重久がいて、別々の軍行動をしていること。

の二点から、この兄弟の代で柳川の下蒲池、山下の上蒲池に分裂したのは間違いないようです。
次は、もう少し詳しく系譜を辿る次章へと移りたいと思います^-^

参照文献:「柳川の歴史2」

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【1401~1410年】南九州限定・室町(抜粋)年表

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1401年(応永 8)
・島津用久(久豊庶長子・出水亀ケ城主・薩州家初代)生まれる
・蒲生氏_奥州家元久より軍忠の恩賞として谷山・和田村30町を拝領。「本藩人物誌86頁」
・【祁答院】「第二次鶴田合戦」にて鶴田氏が敗走
・【祁答院】分家大村出羽守(重続?)が鶴田にて戦死



1403年(応永10)
5月2日、島津忠国(久豊嫡子・9代目当主・正室は伊作の島津勝久娘)生まれる
・【入来院】渋谷重頼、島津元久より鹿児島郡武村と揖宿郡成河村を与えられる

1405年(応永12年)
・東郷重元、次男・重世に鳥丸村を譲る
(以降、次男は鳥丸姓を名乗る)

1406年(応永13年)
11月15日【入来院】重長、家督を継ぐ

1409年(応永16年)
・島津元久、薩摩・大隅・日向の守護職となる


南九州エントリ---肥後(球磨、八代、、天草地方)、日向、大隅、薩摩

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なお、改元など大きな出来事は南と北とで記述が被りますので、予めご了承下さいm(__)m

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【1401~1410年】北九州限定・室町(抜粋)年表

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1404年(応永11)

4月12日、佐賀郡「川上の戦い」で千葉サイドの勝利
(6代目千葉胤基+渋川満頼+今川国秋(今川了俊甥&胤基甥)VS10代目少弐貞頼+千葉の家宰)
・渋江氏、探題軍の攻撃により潮見城が落城し降伏する


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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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