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真田丸_篭城4日目_挑戦

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実に拘る方はスルーしてください^^/



踵(かかと)と寂しさと潤いと・・・・詩人ですな( ゚Д゚)y─┛~~
てかS○ⅡのCMっぽい気も・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

木村さん演じる姉・まつの性格が好きだなぁ^^
姫様らしい我侭ぶりなんだけど、嫌味に感じないのは木村さんの雰囲気もあると思う。

台詞が時代劇って言うより、現代ちっくだとか、気にシナーーーーーーい。ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノワハハハ
面白ければ良いのじゃ(オホホ)

ドラマの流れは『腹の探り合い』で忙しい回だった アタフタ ヘ( ̄□ ̄;)ノ ヽ(; ̄□ ̄)ヘ アタフタ
織田信忠も初めは優男に見えたけど、今回見てると悪く無いわ( *´艸`)
あ・・・でも信忠さんも、もうすぐ・・・・・(゜-Å) ホロリ

明智光秀のキャストに衝撃 ゜ ゜( ∀ )ぅ!?
大抜擢ということで俳優じゃない作家さんですって( ̄ko ̄)
てか、全然シラン^^;
「世界ふしぎ発見」にも出てるらしいが不定期出演とか、自分が見たときに出てた事がなかったなぁ

でもってロングブーツ信長にも軽くインパクト感じたです( *´艸`)
欄干にガンガンぶつけられて、折檻されながら陶酔してるよなマゾっ気風な光秀の表情は、あえてキモく演出したそうな^^;

すぐ本能寺の変だから展開早い~~
でも大坂の陣を後半メインにするなら、このくらいのテンポでないと間に合わないか。

信繁は主役だから、本能寺の巻き添えで死ぬことはないから安心だけど、まつ姉や潜入旦那は全然知らない~
無事に逃げて真田の領地に戻れるだろうか・・・(; ・`д・´)

来週も目が離せない真田○~~みんなで広げよう真田○の輪・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)古い!
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【文明3(1471)年】南九州限定年表

9月12日、桜島大噴火(北側・文明溶岩流出、死者多数)

10月2日、大彗星出る(長さ1町ほど)

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【文明3(1471)年】北九州限定年表

・大村純伊、家督を継ぐ(武雄市史_大村家系)

・宗貞国、少弐への不満から勝手に対馬へ帰国「多久市史833頁」

7月19日、今川義秋(胤秋の子)が一揆を企て佐賀植木で討死(肥前今川嫡流断絶)
・胤秋の弟・秀秋が肥前千葉氏に召し出され「持永」と改名し仕える

10月2日、大彗星(長さ1町ほど)出る

・麻疹が大流行し多数死亡する

12月26日、大内教幸43歳~亡命先の豊前・馬ケ岳城で自害

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テーマ : 歴史
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筑後田尻氏_4・菊池義宗の反逆

参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」

最後の肥後守護職・菊池義武は幾度か改名してます。

菊法師丸(幼名)→大友重治→重宗→菊池義宗→義武→道誾(法号)
別名もたくさん~十郎(通称)重治、重宗、義宗、義武、義綱、義国、武宗
この中で自分が一番好きな諱は「義宗」・・・って、マニアックですいませんil||li _| ̄|○ il||l

永正15年8月に大友義長が亡くなりますが、生前に嫡子・親安(義鑑)へ残したと思われる「覚書」があります。
(正式名:大友義長条々)

第二に筑後星野氏に対する警戒
第三に肥後政策、特に阿蘇惟長への対策を強調している

『もし阿蘇惟長が肥後を競望すれば、筑後も意のままにならなくなると述べている』そうです。
※競望(けい ぼう )一つのものを望んで他人と競うこと。

つまり義長の脳内では肥後計略と筑後支配の安定化がSETだった。
※自分個人としては、この発想はなかったので頭の中を切り替え中です^^;

で、亡き義長の後を継いだ親安(義鑑)は、弟の菊法師丸に菊池家の跡を継がせました。

継ぐといっても菊池家には菊池武包(菊池分家詫摩氏出身)という当主がいたんだけど、
これまた菊池の家臣たちと折り合いが・・・・で肥前に出奔なぅだった^^;
元々、菊法師丸が成長するまでの繋ぎとして大友が介入して当主にしたんで、そこら辺が菊池家臣と折り合いダメだった部分なのかな~~~~~~~~って自分の感想^^b

参照文献によると、大友では肥後を分国化することも考慮してたらしい。
そんなこんなで送り込まれた菊法師丸クンだった。

当時の肥後では前(菊池武包)の前(阿蘇惟長)の前当主・菊池政隆の残党が蜂起してて、元服して大友重治となった菊法師丸は、この残党鎮圧を名目に肥後入りする。
で、正式に菊池当主となり、まず菊池義国と名乗った(永正17年3月)

ところが菊池義国で義宗は、実家である大友の肥後介入を拒み自分の独立を主張し続け、ついには謀反まで起こす。
具体的な義宗の構想は今となっては不明なんだが、筑後も欲しかったっぽい。
肥後菊池氏は筑後守護職だった時期があったからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

ということで、肥後・菊池義宗の2度の謀反に、筑後が巻き添えを食うのだが、それは またの話^-^

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【文明2年(1470)年】北九州限定年表

2月、大内教幸(のりゆき・政弘の叔父)が周防で謀反~留守居・陶弘護に敗れ逃亡

・有馬貴純が串山を攻撃~大村家純は敗れ上松浦草野へ逃亡するが、程なく死亡
(※上松浦草野は蒲津大草野の可能性あり)

10月19日、岩部常楽が挙兵、少弐政資が加勢
※妙法院に出家していた千葉胤紹四男(胤将)を還俗させ大将にする

11月14日、中村胤明が討死
同日、千葉胤将勢が国府へ侵入し牛頭山城下を焼き払う

11月28日、少弐政資、千葉胤将へ宗貞国以下1000騎加勢し牛頭山城を攻撃
※宗貞国は大雪のため敗れ、城側が守り抜く

12月?日(上記より約20日後)、足利義政より和睦の使僧派遣、双方撤退する

12月13日、土一揆合戦おきる
・岩部+少弐は撤収のために陣屋に火をかけ府中を引き払う
・城下領民は経過を知らないために「敵が敗北した」と勘違いして攻撃(土一揆合戦)
・不意をつかれた岩部ら400余人が討死
・少弐勢は大宰府へ引き上げ、胤将は金立へ逃亡

・対馬宗氏は「千葉へ不介入」を主張し、少弐からフェイドアウトしはじめる
(※対馬の兵士が少弐の要請で派兵されるのを嫌がった)



≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・肥前・筑後≫

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
佐賀県人名データベース
さがの歴史・文化お宝帳
戦国島津女系図
しいまんづ雑記旧録
千葉一族HP
武家家伝
城郭放浪記
天下統一期年譜

【主な史料出典元】
島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
伊東関連「日向記」
相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」「相良家文書」「菱刈史」
筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」「筑前国風土記拾遺」
肥前関連
『佐賀県史料集成1巻(川上神社文書、実相院文書)』『佐賀県史料集成28巻(筑紫家文書他)』
『佐賀県史料集成29巻(戦功書等)』『佐賀県史料集成30巻(成松家文書他』
「龍造寺家文書」「鍋島家文書」「横岳家文書」「鶴田家文書」「深堀家文書」「武雄鍋島家文書」「後藤家文書」

「大村記」「松浦家世伝」
「北肥戦誌」「歴代鎮西志」「歴代鎮西要略」「隆信公年譜」
「佐賀市史、県史」「武雄市史」「多久市史(第一巻)(人物編)」「三瀬村誌」 「背振村史」
千葉氏研究プロジェクト『中世小城の歴史・文化と肥前千葉氏』

筑後関連「田尻家文書」「柳川市史(通史2、通史4)」

自分で所蔵しているのが青文字部分です。
それ以外に関しては監修様やブログ友様の御厚意で提供を受けておりますので、自分では原典未確認です。
また史料入手に関して、自力で入手困難なものはサポートを受けました。
ご協力頂いた皆様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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【文明2年(1470)】南九州限定年表

1月14日、9代目島津忠国が死亡
島津立久(10代目)家督を継ぐ


史料が増えたために更新が遅れてました^^;
隆信公御年譜、三瀬村誌は近日入手予定です・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・
残る難関は藤龍家譜(`・ω・´)キリッ

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筑後田尻氏_3・朽網親満の乱

参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」

蒲池氏の史料が少ないらしく、次章で年代が飛んでいるので、先に田尻氏の方を進めます。
真面目記事ばかりですいません。
でも戦国初期ファンなので、書いてる本人は萌えてます ・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・

★朽網親満の乱
大友義長は永正12年頃に家督を親安(=義鑑=宗麟パパ)に譲ったとみられている。
翌年永正13年8月に朽網親満が家督を継いだ親安に対して謀反を起こした。

肥後守護職・菊池政隆討伐で手柄を立てた朽網親満だったが、親安(義鑑)を廃して大友一族で出家していた大聖院宗心に家督を継がせようとした。
(系図的な説明はパス!←ぉぃ)

筑後で朽網親満の謀反に呼応し挙兵したのが黒木筑後守・河崎刑部大輔など。
この乱で田尻治種は大友親安(義鑑)に味方し功績により永正15年3月に領地安堵を受けている。

が・・・ここでトラブルが・・・^^;

田尻氏が安堵された土地は「うちのもんじゃヾ(*`Д´)ノケシカラン!!by筑紫氏」とクレームが出た。
で、大友の奉行から「確認の上、クレーム通りなら代替地を与えます( ̄■ ̄A;アセアセ」と返事している。
(この流れは田尻家文書にあります)

てか、龍造寺の時も安堵したはずの土地が実際は足りないとかあったし、大友が大雑把というより本国から離れてるがゆえの齟齬や勘違いがあるんだろうと思う。

で、このときの蒲池氏だが、どうも謀反した朽網親満サイドだったようです。
ただ具体的に何か行動したって訳でもないみたい。(共謀してるって話の段階)
細かい部分は蒲池氏側の記録がないようなので不明。
ですが、田尻氏と蒲池氏が別行動をしていたのは間違いなさそうです。

次回、自分が結構気に入ってる【最後の肥後守護職・菊池義宗】が歴史の舞台に登場します( *´艸`)

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【文明元年(応仁3/1469)】南九州限定年表

4月28日、文明に改元

・相良長毎(ながつね)13代目(16代目義滋の父)生まれる

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【文明元年(応仁3・1469)年】北九州限定年表

4月、大友親繁、幕府の命で豊前に攻め入り大内勢を戦う
4月28日、文明に改元

5月、少弐政資、大内勢を破り大宰府を奪回『歴代鎮西志』(or7月)
・橘氏、伊万里氏、武雄氏、藤津大村氏が自衛の為、攻守同盟を結ぶ

・少弐政資、筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬の五州太守と仰がれる
※対馬に亡命していたが、宗貞国が足利義政より御教書をもらい少弐御家再興を果たし、少弐政資は大宰府を安堵される
※少弐新体制~執権:宗盛見、宗貞房

・渋川教直~朝鮮と歳遣船を約す

6月15日、千葉教胤が藤津・大村家親を攻撃するために浜松へ着陣
・祇園会に千葉勢が乱入し儀式を妨げる
・すると俄かに晴天曇り暗闇になると、雷鳴&暴風雨となった
・千葉勢「神罰?神雷?Σ(´Д`;)」とパニックになり、慌てて船で帰陣しようとしたが暴風雨で全て水没
・千葉教胤、以下家臣100余人が全員水死する

・千葉胤朝(8代目次男)千葉家11代目当主となる
※亡き教胤に子供がおらず千葉家嫡流断絶のピンチとなった
※悲観した千葉一族が入道しメンタル諸行無常で諸国行脚に出てしまい、たちどろこに千葉氏衰退
※困った千葉家中が庶流より胤朝(大内義隆の紐付)を当主に迎えた
※千葉氏新体制~執権:岩部常楽、中村胤明

7月、応仁の乱・東軍、大友親繁勢が肥前東部に侵攻「佐賀市史」

7月、岩部常楽が佐嘉府中(大和町)に赴いている間に、中村胤明が千葉胤朝に岩部を讒言する
・千葉胤朝は、この讒言を信じて岩部常楽を殺そうとする
・岩部は神文を書いて主君に申し開きをするのだが、胤朝は信じなかった
・(困&怒)岩部は、大宰府長官・少弐政資に訴え出る
・少弐政資が千葉胤朝を宥めて、両者は一時的に和解した

9月9日、千葉胤朝~家臣・仁戸田近江守を大将に、府中の岩部へ兵を差し向ける
・この年、岩部に年貢を免除された百姓・山伏ら一万人が、恩返しにと岩部へ合力
・岩部勢の多さにビックリ仁戸田は、一戦も及ばず国府(牛頭山城下)へ逃げ帰る

・岩部常楽~再び大宰府へ訴える

・中村胤明~岩部に合力した百姓らを懐柔したため、岩部は追放された

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大友ワード_城督(じょうとく)後編

参照文献:城館と中世史料_斎藤慎一編
 論  考:大名領国における公的城郭の形成と展開
       ----城督を手がかりに----馬部隆弘

城督には城衆がいる。(配下の国衆でもある)

城衆にとって、戦陣を共にする城督は「自分の軍功」を大名に取り次いでもらう存在です。
そのために戦時下において、城衆(国衆)は城督の指示を仰ぎます。

つまり本来なら大名の被官であるべき国衆が、城督との繋がりの方が強くなってしまうんです。

さらに問題となるのは扶持米(ふちまい)。
元々は城の糧米ですが、褒美として扶持として与えることがあります。
もちろん与えるのは大名です。
が、現実に城から米を出して渡すのは城督です。
ですから、城督は本来大名から預かっただけの城の財産を私物化する危険性を孕んでいました。

城督は在城生活(赴任生活)を送るに当たり、引越しですから自分の所有物や自分の家臣も連れていきます。
それが元からの家臣と「なぁなぁ」になって不正が生じたり、
逆にキチンと線引きしたら対立して派閥化したりで、本貫地から離れた支城だけに大名の目が届かない(。-`ω-)ンー

また城督は普請などの役(租税)も徴収しました。
城の維持管理と預けられた地域の境目維持に必要だからです。
だから大友の城督が謀反を起こすと、アチコチに飛び火してカオスになる。
大友内部では、城督を置く危険性に苦慮しながら、替えるまでに至りませんでした。

一方、毛利のほうでは城督の支配領域単位ではなく、前線で適宜範囲を決めて賦課できる体制にシフトしていったので、固定した城督という制度が不要になっていきます。




以上、参照文献のなかの城督に関する部分を掻い摘んで、まとめてみました。

城督というのが大友固有のワードではなく、大内・毛利でも使われていたこと。
むしろ大内が城督という言葉を創出したことなど、目からウロコでした。

大内や毛利では「城主・城将」のニュアンスで使ってた城督という呼称が、
大友の城督では郡代クラスの権限を与えられていたということ。

なるほどなぁと感じました。
意味を知って読むのと、そうでないのとでは、やはり大きく違うと思います。

毛利は大内の後継だっただけに、柔軟に変化できたけど、
大友は自分で自分の手術ができないように、危険性を孕んだ城督という制度を改革することは出来ませんでした。
生き残る家と、そうでない家の差というのは、こういうところにも出るのかもしれません^-^

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大友ワード_城督(じょうとく)前編

参照文献:城館と中世史料_斎藤慎一編
 論  考:大名領国における公的城郭の形成と展開
       ----城督を手がかりに----馬部隆弘

まだ同じ本です。
で島津から離れて違う論考の話です。

まず読み方ですが「城徳」と当て字がある用例があるそうで、「じょうとく」で間違いなさそうです。
大友氏で城督というと、立花道雪、高橋紹雲、田原親賢が知られています。

大友氏における城督=任地における大友公権の施行者

城督という言葉は同時代の史料用語としてある言葉なのだそうです。
従って各地の在城している重臣は、「方分(守護代みたいなもの)」ではなく城督と呼ぶのが相応しいとする。

で、ここから自分が面白いな~と思ったのは、
城督という言葉は大内氏にもあり、使い始めは大友ではなく大内が先だったそうです。

ただし、大内氏では領国の行政権は守護代・郡代が掌握していたため、大友における城督ほど大きな権限は与えてなかったらしい。
また城督という言葉は、重臣だけでなく敵側城将にも使ってたとか。

まとめると城督という言葉は大内発祥で、大内から大友に電波・・・じゃない伝播した言葉だった。
大内と大友は敵対したり和睦したりが幾度かあったので、其の時に言葉のやりとりから伝播したんじゃなかろーか~って話なんです。

大内における城督とは、あくまでも大内氏から城を預かった城将の意味で使っていたらしい。
大内・大友・毛利の領国では「城主」という言葉は殆ど使われていないそうで、それに該当する言葉が城督だった。
だから城の本来の城主はあくまで大名。

大内における城督の初見は文明10(1478)年。
大友で敵将を城督と呼んだのが弘治3(1557)年。
大友が自分の家臣を城督と読んだのが永禄3(1560)年と、意外と遅い( ゚д゚)ンマッ!!

で、城督の一番の特徴は、本貫地を離れて派遣されているということ。
大内にとって城将(城主)的意味だった城督だが、軍事的緊張下においては城の維持管理を担う領域の設定が必要になってきたんじゃないかと書かれています。
というのは、大内領(筑前)の郡代が城督を兼務してたからです。

大内のいわば後継者となった毛利氏も城督を踏襲していました。
が、元々の大内ワードであった在している城将や敵将に使う用語に戻り、大友のような領国支配の意味合いで使うのは僅かになり、戦国以降は全くなくなります。

次は城督の問題点なり~(*´∀`)ノ

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【応仁2(1468)年】南九州限定年表

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2月15日相良長続(11代目当主)が死亡

島津運久(相州家2代目)が生まれる

伊東尹祐(ただすけ)(13代目当主)(伊東義祐の父)が生まれる

・桜島大噴火(被害記録なし)

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【応仁2(1468)年】北九州限定年表

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渋川万寿丸(教直の子)が生まれる

・宗貞国47歳、兄の死で対馬宗氏11代目となる

12月6日、宗像氏弘(66代目)、大宰府・有智山城を攻め少弐教頼を破る
少弐教頼(14代目)大内勢に敗れ筑前の高祖城において自刃
・息子、政資が家督を継ぐ

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【1_公式(くしき)文書_勅旨(ちょくし)】古文書学入門(改)

参照:佐藤進一著「新版 古文書学入門」

一言で済ますと「(これも)天皇の命令=勅命を下達する文書」です。

詔書は臨時の大事(即位や改元)に際して発せられる様式。
勅旨は尋常の小事に用いられる様式。

勅旨には帝が記入する「御画日・ぎょかくじつ」「御画可・ぎょかくか」がなく簡素な手続きだったそうです。

勅旨(ちょくし)は勅書(ちょくしょ)とも言います。
高僧に大師号や国師号などを贈る時に勅書が出されるようになりました。
中世以降は中務省がスルーされ、日付を帝が記入する「御画日・ぎょかくじつ」になる。
時に勅書は全文を帝が書かれる事もありました。

こちらの文章は漢文体です。




今回、自分の勘違い発見してしまった( ◢д◣)ショボン
実は勅旨と勅使をゴチャゴチャに覚えてたんです・・・il||li _| ̄|○ il||l

勅書は幕末もののドラマで「帝から勅書が~」って台詞に出るから、何となく雰囲気でイメージしてたんです。
全文直筆とは限らないのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
やはりちゃんと確認するって大事ですね。( ̄ω ̄A;アセアセ

前回の古文書学入門では急いでいたので「武家様文書」しか学ばなかったんですが、
今回は真面目にコツコツ(と言いながら端折ったり逃げ腰ありだけど)勉強して、基礎知識をあげていきたいと思います^^

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【1_公式(くしき)文書_詔書(しょうしょ)】古文書学入門(改)

参照:佐藤進一著「新版 古文書学入門」

一言で済ますと「天皇の命令=勅命を下達する文書」です。

詔(みことのり)は臨時の大事に際して発せられる様式。
それには5種類あり、様式ごとに書き出し文言が決まってました。
文言の方は・・・・・・・・・・パス!(`・ω・´)キリッ
とりあえず内容のみで・・・(=人=)☆彡ゴメン!

・大事な事を外国の使臣に宣する場合
・次に大事なことを(以下同文)
・朝廷の大事を宣する場合(立后、立太子など)
・中事を宣する場合(右大臣以上の任命など)
・小事を宣する場合(5位以上の任官など)

発布を直接担当(原案作成&調整)するのが中務省。
施行は太政官です。

①中務省の出す原案に帝が日付の一字を記入(御画日・ぎょかくじつ)します。
②①は中務省預かりで、別に一通書写します。
③②に中務省・太政官の各公卿全員の署名をもらい、これが成案。
④③の成案に帝が「可」の一字を記入(御画可・ぎょかくか)します。
⑤太政官から地方官庁へ通達されて施行

この流れは、ものすごーーーーっく端折りました^^
凄い煩雑で印もいるし、公卿全員の意見が一致してなきゃだしで、大変すぎて詔書は「即位」「改元」などに儀礼としてしか用いられなくなります。
儀礼だから全員一致もへったくれもなく、全員OKサインするに決まってる予定調和です。^^/

で、古来の伝統に則り、詔書は独特の和文体で書かれており「宣命(せんみょう)書き」と呼ばれていました。
ところが中国風漢文がブームになり、それが主流になってくると「宣命(せんみょう)書き」は伊勢神宮以下の神社への通達に限定されます。

佐藤先生は和文体と漢文両方の凡例を紹介してくださっているんですが、ちょっと目が滑りました゜ ゜( ∀ )ぅ!?
武家の変体漢文より難しい~~~~~~~ヒー(ノД`)・゜・。
とりあえず大文字部分だけ覚えておけば、いっかなぁ~~と、もはや逃げ腰モード(; ・`д・´)

超超端折って、超超カンタンに説明してるので、この記事が詔書の全てではありません。
少しでも興味を持たれた方は、和文体と中国風漢文に撃沈したシオの屍を越えて頑張ってください~♪ヽ(*´∀`)ノ

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【応仁元年(文正2/1467)】南九州限定年表

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1月17日、応仁の乱始まる
≪九州関連東軍≫
大内教幸(庶子)、島津立久(奥州家で宗家)、菊池重朝、大友親繁(15代目)、大友政親(16代目)、少弐教頼(14代目)、少弐政資(15代目)、宗貞国
≪九州関連西軍≫
大内政弘、島津季久(豊州家初代)
※島津立久は名目だけで、出兵要請には応じず

3月5日、応仁へ改元

島津善久(伊作島津9代目)生まれる

・相良為続が家督を継いで12代目となる
(父は病、兄は病弱、次兄も夭折で、三男ながら当主になった)
----------------------------------------------------------------------------------------
<南九州エントリ---肥後(球磨、八代、、天草地方)、日向、大隅、薩摩>
※大きな出来事は北九州・南九州で記述が被る場合あり
※年月日は旧暦対応

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島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
伊東関連「日向記」
相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」「筑前国風土記拾遺」
肥前関連「北肥戦誌」「歴代鎮西志」「佐賀市史、県史」「武雄市史」「三瀬村史」
「龍造寺家文書」「横岳家文書」「鶴田家文書」「深堀家文書」「鍋島家文書」
筑後関連「田尻家文書」「柳川市史(通史2、通史4)」

自分で所蔵しているのが青文字部分です。
それ以外に関しては御厚意で提供を受けております。
また史料入手に関して、自力で入手困難なものはサポートを受けました。
ご協力頂いた皆様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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1月17日、応仁の乱始まる
≪九州関連東軍≫
大内教幸(庶子)、島津立久(奥州家で宗家)、菊池重朝、大友親繁(15代目)、大友政親(16代目)、少弐教頼(14代目)、少弐政資(15代目)、宗貞国
≪九州関連西軍≫
大内政弘、島津季久(豊州家初代)
※島津立久は名目だけで、出兵要請には応じず

3月5日、応仁へ改元

6月、今川胤秋~九州探題・渋川に援軍を乞い、佐賀郡領民も味方につける
6月20日、今川勢~千葉氏小城境の民家を放火
6月21日、今川胤秋が討死
(※小城町史は6/20、佐賀市史は6/18)
今川の援軍だった渋川兵も散り散りに逃げた

・千葉教胤17歳(肥前千葉10代目)、今川領を全てゲッツし肥前千葉氏の権勢が高まる

・宗貞秀(義盛)~朝鮮と歳遣船を約す

8月1日、後藤胤明、杵島郡福母村の田地を武雄社に寄進する

----------------------------------------------------------------------------------------
<北九州エントリ---肥後、筑後、肥前、筑前、豊前、豊後>

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城郭放浪記
天下統一期年譜

【主な史料出典元】
島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
伊東関連「日向記」
相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」「筑前国風土記拾遺」
肥前関連「北肥戦誌」「歴代鎮西志」「佐賀市史、県史」「武雄市史」「三瀬村史」
「龍造寺家文書」「横岳文書」「鶴田家文書」「深堀家文書」「鍋島家文書」
筑後関連「田尻家文書」「柳川市史(通史2、通史4)」

自分で所蔵しているのが青文字部分です。
それ以外に関しては監修様の御厚意で提供を受けております。
また史料入手に関して、自力で入手困難なものはサポートを受けました。
ご協力頂いた皆様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

真田丸_篭城3日目_策略

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実に拘る方はスルーしてください^^/


女が二人♪おっとこが一人♪

今のところ長澤まさみが不利っぽい( *´m`)
いま一番、不安なのは長澤まさみが出た大河に(自分が)良いイメージがないってところ
あ、長澤まさみさん自体は好きな女優ですよ^^
「都市伝説の女」とか面白かったっす(。-_-。)v
まぁ、とにかく三谷脚本だから大丈夫だろう。

なんか源次郎が紐でアレコレ工夫してたけど、あれは真田紐への伏線なんだろうか(。-`ω-)ンー

「天●人」や「シエ」の時で懲りたんで、大河は歴史の流れや時代考証とかとか一切予習しないことにしてます。
単純に時代劇ドラマの延長として見てるので、歴史考証的なネタには期待しないでね(^ -)---☆Wink

つーことで、信幸にーちゃんが結婚してたことにビックリ゜ ゜( ∀ )ぅ!?
昌幸パパンの弟・・・・っていたんですね

すいませーーん。
だって調べてから視聴すると、絶対イライラするからやなんだもん(´・ω・`)

昌幸パパンの動きに振り回される信幸にーちゃん。
なんか、今後も、パパンや弟に振り回される人生設定になりそうな予感。
(実際に、それに近いイメージだし)

このあと真田はどうなるんだったかしらん~
点地人で覚えているのは石田三成のヘアスタイルだけなんで忘れちゃった。:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ

織田⇒上杉⇒徳川⇒秀吉・・・だったかな?
途中で北条が入るか?
織田⇒上杉⇒北条⇒徳川⇒上杉⇒秀吉だったっけ?
あかん、元々が複雑だからマジで忘れたわ。

本多平八郎が戦脳筋なキャラなのが、微妙に藤岡さん本人に被ってる:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ
家康も(・∀・)イイ!
家臣との掛け合いは楽しめそうです♪ヽ(*´∀`)ノ

てことで、今回は新キャラ登場の回で消化したようなので、次回の魔王登場を楽しみにしてます( *´艸`)

【文正元年(寛正7年・1466)】南九州限定・室町(抜粋)年表

2月28日、文正(ぶんしょう)へ改元

・島津立久と伊東祐国が和解

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<南九州エントリ---肥後(球磨、八代、、天草地方)、日向、大隅、薩摩>

室町年表は戦国期を理解するのに、自分が抑えておきたいな~と感じたもののみ抜粋してます。
基本として、色んなサイトを参照してますが、自分自身で確認出来た出典元は『』内で表記してます^-^
自分では未確認だけど、参照元において出典元が明記されていたデータは( )内に表記です^-^
なお、年月日は全て旧暦対応です^^/
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テーマ : 歴史
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【文正元年(寛正7年・1466)】北九州限定・室町(抜粋)年表

2月28日、文正(ぶんしょう)へ改元

・肥前今川VS肥前千葉「河上の戦い」双方、遺恨深まる

・藤津大村氏、肥前千葉への備えとして有尾城を築城(鹿島市史)

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<北九州エントリ---肥後、筑後、肥前、筑前、豊前、豊後>

室町年表は戦国期を理解するのに、自分が抑えておきたいな~と感じたもののみ抜粋してます。
基本として、色んなサイトを参照してますが、自分自身で確認出来た出典元は『』内で表記してます^-^
自分では未確認だけど、参照元において出典元が明記されていたデータは( )内に表記です^-^
なお、年月日は全て旧暦対応です^^/
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相良家文書528&529_大友宗麟書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

さすがにキングOF九州からの書状(手紙)は日付より相良の宛名が下ですわ( *´艸`)
書状なので年度はありませんが、内容から永禄十二年として編纂の方で推定してます。
結論を先に知りたい方は赤文字部分まで飛んで下さい。

(折封ウハ(上)書)
「 相良殿 御報         宗麟」
「- ーー」(端裏切封)
就発足示預候、殊太刀一腰袷面二端送給候、御丁寧之儀、祝着候、猶吉弘左近大夫(鑑理)可申候、恐々謹言、
(永禄十二年)
   五月十四日        宗麟(花押)
     相良殿


発足に就いて預かり示し候、ことに太刀一腰併せて生地二反送り給い候、御丁寧の儀、祝着候、なお吉弘鑑理に申し可(べ)く候恐々謹言(以下日付等略)

(封部分同じ)
追而、
就発足、懇示給候、喜悦候、方々属案中候之条、可御安心候、然者、日州薩州堺目鉾楯之儀、堅固之覚悟簡要候、將亦、其国衆之事、當時在陳(陣)之条、雖無申迄候、弥毎事可被忝御心事、可爲祝着候、猶年寄共可申候、恐々謹言

(日付・宛名・差出人同じ)

追伸
発足に就いて、懇ろに示し給い候、喜悦候、方々案中(あんちゅう)属候の条、御安心可(べ)く候、
しかれば、日州薩州(日向・薩摩)堺目(国境)鉾楯の儀、堅固の覚悟が簡要(かんよう)候、
はたまた、その国衆の事、当時在陣の条、雖(いえど)も無く迄申し候、いよいよ毎事(まいじ)御心事忝(かたじけ)ら可(べ)く、祝着為す可(べ)く候、
なお年寄(としより=老臣)共申し可(べ)く候、恐々謹言


えっと・・・まずホントニ言いたい事は追伸の方
一通目は相良が宗麟出陣祝いに出した贈答品への礼状です。

同日に出した二通目追伸は、まず、
自分の出陣に対して色々と心遣いして頂いて嬉しいです~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
毛利との戦についてですが、案中(あんちゅう)・・・思い通りに進んでるから安心してね(^ -)---☆Wink
それと日向と薩摩の国境での戦いですが、堅い覚悟が簡要(肝要)かんよう・・・重要です(`・ω・´)キリッ
その国衆(菱刈か?)の事、在陣している事は 雖(いえど)も無く・・・こちらが申す迄もない事です。( ゚Д゚)y─┛~~
いよいよ、毎事(まいじ)=いつも(相良の)御心については 忝い・祝着=感謝してます^-^
なお年寄(としより=老臣)たちに伝えておきます、恐々謹言



ここからは想像ですので、違う解釈をする方もいるかもしれない事を予め御了承くださいませ。
相良義陽が欲しかったのは、大隅国大口の領有について島津とガチンコになった事に対する宗麟のOK返事だと思います。

そもそも国境問題に対し、九州探題職である大友宗麟は調停する裁量権があります。
だから、宗麟も老臣も「大丈夫」「思い通り」を連呼して、キングオブ九州の権威に揺るぎないことをアピールしているんです。
ただ、ちょーーーーっと毛利との戦で、ちぃーっとばかし相良の為には今すぐ動けないだけ( *´m`)クフフ

宗麟にとって優先順位は【北九州の覇権>>>超えられない壁>>>相良&菱刈】
ではありますが、ちゃんと筋を通してくれてる相良に、そんなこと言えない^^;
吉弘や宗麟が覚悟とか肝要とか言ってるけど、要するに相良に一任したって事です。
大口領有に関する正当性は相良にある・・・と言っているに等しい。

IFですが
大友が没落せずにキングがキングのままでいてくれたら(島津を退ければ)大口領有について、そのまま相良に認められたのではないでしょうか。
その後の歴史の流れを考えると、相良の動きは興味深いです。

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【寛正6(1465)年】 南九州限定・室町(抜粋)年表

年表を一年ごとにすると「何もない年」が出てきます^^;
ちなみに応仁の乱まで、あと一年です ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

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<南九州エントリ---肥後(球磨、八代、、天草地方)、日向、大隅、薩摩>

室町年表は戦国期を理解するのに、自分が抑えておきたいな~と感じたもののみ抜粋してます。
基本として、色んなサイトを参照してますが、自分自身で確認出来た出典元は『』内で表記してます^-^
自分では未確認だけど、参照元において出典元が明記されていたデータは( )内に表記です^-^
なお、年月日は全て旧暦対応です^^/

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【寛正6(1465)年】 北九州限定・室町(抜粋)年表

・今川仲秋が「(縁戚で親しい)千葉教胤を討とうとしている」と噂が立つ
(今川胤秋~千葉氏5代目胤泰の孫の孫&今川仲秋の曾孫)
(大内と渋川教直と千葉胤朝が仕組んだ風聞)

5月20日、千葉執権・中村胤頼~噂を信じて今川の城(持永城?)を三日間攻撃~今川方守り抜く

5月24日、今川胤秋~中村胤頼の陣へ攻撃(越州の乱)日没になって両軍退く、後に和睦
            

6月18日、この日より雨が一滴も降らなくなる
7月29日、大風激しく吹き、大潮となって田畑浸水
被害:肥前の南海より三里(約12km)内陸まで浸水し船で往還するほど
9月13日、西の空に大星が流れ、東の空に至って迅雷の様な音を発する。
視た者はパニックになったそうな。
 

==== ここまで出典は『北肥戦誌』 ====
9月3日、大内教弘(46歳)興居島(瀬戸内海)で死去
9月10日、室町幕府により少弐教頼が筑前守護職に補される。『佐賀市史』
9月23日、大内政弘~父の死で家督相続

・大友家臣・阿南惟久~星野氏妙見城を攻撃、星野は守りきり阿南と和睦する
・室町幕府、大友親繁を筑後守護職とする(大友文書)
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<北九州エントリ---肥後、筑後、肥前、筑前、豊前、豊後>

室町年表は戦国期を理解するのに、自分が抑えておきたいな~と感じたもののみ抜粋してます。
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(参考)田尻家文書9_大友政親判物

判物(はんもつ)
室町時代から江戸時代にかけて出された武家様文書の一つ。
上位者(特に将軍・大名(守護・戦国・藩主))が発給した文書のうち、差出人の花押が付されたものを指す。

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

(折封上書)
「田尻遠江守殿     政親
(異筆)
「明応八年ノ加領、治種」
筑後国三池郡山門郡之内所々参百陸町之事、坪付別紙有之領知不可有相違候、恐々謹言

明応八年
 十二月十三日          政親(花押)
 田尻遠江守殿

領地安堵の定型文なので特記するような意訳はないです。
ただ、日付と宛名の位置が同じなので、田尻氏に対して丁寧というか敬意を払った文書です。
なんてったって守護職のホンマモンの花押つきですもん
他はテンプレート代筆だったとしても【花押だけは本人直筆】だから、判物はステータスなんです。

この年の4月に大友親治から偏諱を受けて、治種と名乗ってました。
大友親治は政親の弟で、兄の死後に家督を継いでいます。
死んだ人物には安堵できないので、この年度が間違ってるかもなんです。
その為か、柳川の市史の田尻家年表には、この文書は収録されていません。

自分も参考として載せたけど、年表(明応8年)には入れないことにします

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【1461~1464年】 南九州限定・室町(抜粋)年表

寛正3(1462)年
・【入来院】10代目渋谷重豊~島津立久より火同、永利、山田をあてがわれ「入来院」姓を名乗る

寛正4(1463)年
(推定)薩州家3代目・重久生まれる
5月21日、島津忠昌(11代目)、10代目・立久の庶長子生まれる
(5月3日説有り、生母は家臣格の梶原弘純娘)

寛正5(1464)年
6月15日【祁答院】⑨徳重、没

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<南九州エントリ---肥後(球磨、八代、、天草地方)、日向、大隅、薩摩>

室町年表は戦国期を理解するのに、自分が抑えておきたいな~と感じたもののみ抜粋してます。
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【1461~1464年】北九州限定・室町(抜粋)年表

寛正2(1461)年
大友親治(18代目&16代目の弟)生まれる

寛正元年(1460)~寛正3(1462)年にかけて、飢饉のため数万人死亡(岩巌寺過去帳)

寛正3(1462)年
・太陽が3つ並んで出現『北肥戦誌』
・室町幕府、大友政親と菊池為邦を、それぞれ筑後半国の守護職とする(大友文書)
11月24日、千葉元胤、牛頭山城下で犬追物を開催

千葉元胤は猿楽を好み、舞台を造って京から観世大夫を招いたほどだった。
ちなみに8代目胤鎮から9代目元胤の頃が、肥前千葉氏の最大版図。
居城の牛頭山城を国府(首都)と称し、従来の国府を「府中」と呼ばせて区別するほどの勢威を誇る。
更には、対馬・宗氏を通じて、李氏朝鮮とも交易を行う。
「北肥戦誌曰く:千葉氏全盛時とぞ見えし」


寛正4(1463)年
1月1日、太陽が三つ出現
1月6日、太陽が東西に三つ出現
3月、疫病で地下人が多数死亡し、諸国の国人が浮足立つ『天変地異の出典は北肥戦誌』


寛正5(1464)年
10月29日、千葉元胤(肥前千葉氏9代目当主)28歳の若さで急死
・千葉教胤14歳、兄の急死により家督を継ぐ
(執権:中村越前守胤頼)
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<北九州エントリ---肥後、筑後、肥前、筑前、豊前、豊後>

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【1456~1460年】南九州限定・室町(抜粋)年表

康正2(1456)年
8月26日【入来院】重長没(妻は島津氏)

長禄元年&康正3(1457)年
9月12日、伊東祐堯が土持氏を攻め降伏させる。
・財部、高城、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門の城が伊東方に割譲される。
9月28日、長禄へ改元
・相良長続、謀反し井野木田山に籠城した橋本某を討つ

長禄2(1458)年
伊作島津氏7代目・犬安丸が7歳で死亡。
・島津久逸が伊作氏の家督を継ぐ。
・新納忠続、飫肥に入る
・『薩摩一同ニテ薩州家ヲ屋形ニト被申合候』「相良家文書231」

長禄3(1459)年
島津用久(薩州家初代)59歳、死亡
・島津忠国~国政を立久に委ね、加世田に隠居
【祁答院】9代目渋谷徳重の娘らが、川内川で溺死
・蒲生氏、立久の命で蒲生より喜入へ入る
7月3日、島津出羽守有久(久豊4男)日州三俣院小山で戦死

寛正元年&長禄4(1460)年
10月、相良長続~菊池為邦より「先例通り芦北郡を格護するよう」との半紙を賜る
12月21日、寛正へ改元
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<南九州エントリ---肥後(球磨、八代、、天草地方)、日向、大隅、薩摩>

室町年表は戦国期を理解するのに、自分が抑えておきたいな~と感じたもののみ抜粋してます。
基本として、色んなサイトを参照してますが、自分自身で確認出来た出典元は『』内で表記してます^-^
自分では未確認だけど、参照元において出典元が明記されていたデータは( )内に表記です^-^
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【1456~1460年】北九州限定・室町(抜粋)年表

康正2(1456)年
・悪い星(彗星ではないらしい)現れる
5月、洪水で田畑が浸水被害、その他凶事多し


長禄元年&康正3(1457)年
1月29日、太陽が二つに割れる(幻日現象)
9月28日、長禄へ改元

長禄2(1458)年
3月、100日間の大雨により洪水発生
6月2日、前年に続き太陽が二つに割れる(幻日現象)
8月24日、台風により田畑被害
10月、台風被害で九州から五畿七道にかけて飢饉が発生し、路上に死体が並ぶ惨状となる


長禄3(1459)年
・千葉元胤、使いを朝鮮に遣わす「多久市史第一巻831頁」
大友義右(17代目)生まれる

寛正元年&長禄4(1460)年
・室町幕府~肥前松浦氏に勘合符を与える
12月21日、寛正へ改元
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<北九州エントリ---肥後、筑後、肥前、筑前、豊前、豊後>

室町年表は戦国期を理解するのに、自分が抑えておきたいな~と感じたもののみ抜粋してます。
基本として、色んなサイトを参照してますが、自分自身で確認出来た出典元は『』内で表記してます^-^
自分では未確認だけど、参照元において出典元が明記されていたデータは( )内に表記です^-^
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204_千葉胤盛書下

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

※手っ取り早く内容を知りたい方は、赤文字の意訳まで飛んでください^^/

就神野仏性料田事、兵部少輔、背成敗、致違乱候之通、申談候之處、被閣之上者、於末代、不可高木名字候、仍為後日状如件、
 文明八年丙申二月三日
                 平(千葉)胤盛(花押)
  河上山座主御坊


神野仏性料田事に就いて、兵部少輔、成敗に背き、違乱(いらん)致し候之通り、申し談候の処に、被閣の上は末代に於いて「高木」の名字不可候、仍(よ)って後日為す状件(くだん)の如し
(以下略)


神野の河上社の料田(りょうでん=社領)で、兵部少輔が掟に背いて秩序を乱したとのこと。
この上は兵部少輔には末代まで「高木」姓を名乗ることを禁じる。後日実行します(`・ω・´)キリッ


えっと まず千葉胤盛は系図で言うと~~アタフタ ヘ( ̄□ ̄;)ノ ヽ(; ̄□ ̄)ヘ アタフタ
家系図・肥前千葉系図・決定

で、東千葉初代の父(=東千葉の祖)でして、兄である千葉胤朝と家督を争っていました。
近年、研究が進み千葉胤盛は胤朝と対立関係(一時は和睦?)のまま河上社の大宮司の地位をゲットしてたらしいと考えられています。

その証拠として挙げられているのが、この文書です。
根拠として
1)河上社の社領で乱暴した者を処断している事
2)かつて大宮司職にあった高木一族の者に対し「高木」姓を禁じるという罰を決定している事


更に言うと河上山で座主という地位は、御坊のTOPを指します。
その宛名を日付より下の位置に書いているという事は、千葉胤盛が上位者だからです。

これらの事から、この文明8年2月3日の時点で、千葉胤盛が河上社大宮司の地位にいたと考えられます。

つまり、過去の考え方が完全に ひっくり返ります。

東千葉氏初代・興常は大内の後ろ盾で千葉家の家督を狙ったのではなく、
父・千葉胤盛が大宮司(=千葉家当主)であった事から、むしろ千葉氏家督相続の有資格者。

少弐政資の方が千葉氏家督を狙い【横槍して介入した方】です。

ウィキペディアでは千葉胤盛の没年を文明10年10月27日としてますが、これも過去の古い研究データ。
其の後も存命してたことが河上神社文書で判明してます。
千葉胤盛は、千葉氏に介入しようとする少弐政資に抵抗していたものと思われます^-^




河上神社文書は年代別に収蔵されてないんで、探して拾わなきゃならんのよ~
間違って年代の順番が前後しちゃったけど、自分が判ってるから、まぁ良いことにします・・・ポリポリ(6 ̄・ ̄)

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【1451~1455年】南九州限定・室町(抜粋)年表

宝徳3(1451)年
3月7日、相良長続~謀反した赤池地頭・斉木但馬守を討滅する

享徳元年&宝徳4年(1452)
7月25日、享徳へ改元(徳政あり)
・2年前に炎上した内裏が、この年に新造オープン^^/
(1444年閏6月に幕府が諸国へ経費を賦課してました)

康正元年&享徳4年(1455)
7月25日、康正へ改元

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<南九州エントリ---肥後(球磨、八代、、天草地方)、日向、大隅、薩摩>

室町年表は戦国期を理解するのに、自分が抑えておきたいな~と感じたもののみ抜粋してます。
基本として、色んなサイトを参照してますが、自分自身で確認出来た出典元は『』内で表記してます^-^
自分では未確認だけど、参照元において出典元が明記されていたデータは( )内に表記です^-^
なお、年月日は全て旧暦対応です^^/

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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