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真田丸_篭城8日目「調略」

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実に拘る方はスルーしてください^^/




先週の再放送見タァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
一行感想:きりさんにムカついた

今週も濃かった~~~~~~~~
濃すぎて何処から感想書いていいのか判らない~~~~~:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ

北条氏政の汁ネタを、あんな風に美化?カッコ良くしたのは初めて見た( *´艸`)

結局、全ては真田昌幸の掌中の中・・・・・・・・・・カッコいい・・・・:・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・

上杉景勝が今日も渋くて、直江がムカつく小賢しさだったわ~

北条氏直、可愛い感じがするのにクッソ生意気よネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

春日さまが Σ( ̄ ̄ ̄Д ̄ ̄ ̄lll) ガビーン

イケメン率が高いキャラだったのに、勿体無い←おぃ

武家がもつ一所懸命の思いを利用された調略・・・これに揺れない武家はないだろう。

昌幸の口から出た言葉は真になり、春日は調略されたから裏切りは嘘じゃない。

北条からの起請文(うらに例の模様文字あったから、あれは書状じゃなくて起請文)も絵空事じゃない。

でも、信尹の嘘で春日は殺された・・・心のボタンが掛け違うように仕組んだ調略・・・((((;゚Д゚))))ガクブル

「ワシのようになるな」かぁ・・・汚れ役を引き受ける者の背中が悲しい ・・(゜-Å) ホロリ

てか、佐助・・・おまいさんは普通に登場できんのか?:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ

家康が慌てる姿がコミカル~
それにしても北条も家康も、場面転換して出るときは食事シーンなのね:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ

来週は、どうなるのかなぁ~
結局、せっかく買った専門書を読んでないので、先を全く知らない管理人でした~ワハハ~♪ヽ(*´∀`)ノ
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田尻家文書16_大友義長知行預ヶ状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

(折封上書)
 「田尻中務大輔殿        義長」
異筆(表記不可のため略)
筑後国之内所々坪付別紙在之事、預置候、可有知行候、恐々謹言、
(異筆・永正五年)
 十一月三日       義長(花押)
   田尻中務大輔殿

筑後国の所々(坪付別紙これ在り)事、預かり置き候、知行有る可(べ)く候、恐々謹言

定型文なので意訳は省略で語句解説
・永正五年=1508年
・田尻中務大輔=田尻種久
・坪付(つぼつけ)=大名が家臣に与えた知行目録


別紙にある坪付にあった領地
田尻  12町
梅津  66町
竹井  33町
波江   6町
岩津  27町

預け状には後から書き加えた年度があましたが、元は月日のみでした。
大友義長の袖判のある坪付の方に年度があるので、年度批准確定です^-^

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河上神社文書172_千葉興常禁制

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

      禁制
肥前国鎮守河上社之事、既自在古、京都  御制札爲明白上者、殊當手軍勢甲乙仁等、不可致濫妨狼藉、若於違反之輩者、可處罪科条如件、
  明応六年丁巳三月廿七日     平興常(花押)
※丁巳(ひのとみ、ていし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの54番目

肥前国鎮守河上社の事、既に古より自在、京都御制札明白に爲す上は、殊当手軍勢甲乙仁等、濫妨狼藉致すべからず、若し違反の輩に於いては、罪科処すべくの条(じょう)件(くだん)の如し

超意訳すると、
河上社において、千葉の軍勢だけでなく誰であろうと乱暴狼藉しちゃ駄目です(`・ω・´)キリッ
違反した人はお仕置きするんだからね!(`・ω・´)キリッ


※甲乙仁等とは「誰と限らず全ての人」のことを指します。
この言葉は「禁制」など「制札」に出ることが多い言い回しで、全国的な表現だったみたい。

明応6年にパパ胤盛が正月23日、河上社に武運長久の祈願してました。(河上神社文書208)
で、同年3月27日に息子・興常が禁制を出すという事は、この2ヶ月の間に世代交代があったようです。
もしかするとパパンが死去したのかも(。-`ω-)ンー

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【公式(くしき)文書_四・移(い)】古文書学入門(改)

参照:佐藤進一著「新版 古文書学入門」

符が上の役所から下の役所へ出す文書に対し
「移・い」は上下関係のない役所同士で交す文書です。
例えば「摂津国」と「大和国」、「民部省」と「大蔵省」といった感じです。

奈良時代の実例でいくと、上下関係が曖昧な部署・役所同士で便宜上用いられた文書のようです。

平安時代になると「移」の文書様式は、用いられなくなります。
(少なくなる理由については「木簡研究7」にあるそうです)




今回は実例が少ない分、説明も短かった^^;
こうして勉強していると、律令時代の役所って今の地方自治体なみに文書類がシッカリしてたんですね。

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【7-3_肥前今川の終活】通史①肥前千葉氏

文正2年(1467)1月17日「応仁の乱」始まる。
(応仁への改元は3月15日)

中央政界の混乱は、そのまま地方への混乱に反映する。
戦国の黎明の始まりと共に、肥前今川家の終焉も始まった。

同年6月、今川胤秋は再度のリベンジのために九州探題・渋川氏に援軍を乞い、佐賀郡領民も味方につけた。
準備を整えたのであろうか。
同年6月20日、今川勢が千葉氏小城境の民家に放火。
だが結果は思うようにならなかった。

6月21日、今川胤秋は弟・胤弘と共に千葉勢に敗れて戦死する
日にちには諸説あり、小城町史では6月20日。佐賀市史では6月18日になっている。
渋川の援軍は、所詮、他所事と本気で戦うつもりがなかったのだろう。
今川胤秋が戦死すると、散り散りに逃げてしまった。

当主が若年といえども、全盛期の千葉氏の勢いに陰りはなかった。
10代目当主・千葉教胤17歳は、今川領全てを手に入れ、千葉氏の権勢は更に増す。
一方の今川家。当主と、その弟が戦死し所領も奪われ一族が散り散りとなり瓦解した。

家系図・肥前千葉系図・決定
(※ピンク枠が今川家カンタン系譜ですよおぉーo(* ̄○ ̄)ゝーーーーーーっ!)

ということで、戦死した今川胤秋の嫡男・義秋が再々リベンジ(`・ω・´)キリッ
勢力回復を狙って旧臣を集めて挙兵。
が、またも肥前千葉氏の前に敗れ、肥前今川氏の嫡流は断絶したil||li _| ̄|○ il||l

肥前千葉氏は肥前今川を滅亡させるつもり・・・では無かったようだ。
そもそも武家にとっては「家名を残す」ことが存在理由の全てと言っても大袈裟ではない。
それを完全に断ってしまうのは、寝覚めも悪い、外聞も悪い、因果応報あるかもよ。
色んな要素が混ざっているのだろうが、とにかく完全に根絶やしにするって基本しないんです。

後年ですが、龍造寺も少弐氏の血統を根絶やしにはしていません。
(少弐一族が沖田畷で戦死したのは、もはや不可抗力^^;)

ましてや、肥前千葉氏と肥前今川が縁戚になったときは、肥前今川の方が千葉氏の上位者。
誰も口にしなくとも「主殺しの汚名」を囁かれる可能性を、極力排除するのが外交的にベターな大人の態度。

肥前千葉氏は、今川義秋の叔父にあたる今川秋秀を召し出し肥前今川の名跡を継がせた。
つまり戦死した胤秋・胤弘の他に、もう一人弟がいたんだろう。
千葉氏の偏諱を受けていないということは、弟は弟でも嫡兄弟ではなく生母違い庶子だったのかも。

以降、ずっと肥前千葉家臣となり、肥前今川の名跡を継い秋秀の子・秋景が、名字を今川から「持永」に改めた。
改姓を千葉から言い出したのか、今川自身が申し出たのか、そこまでは調べ切れなかったです。
ただ、家臣になったとはいえ今川家は「名門の末裔」で「元・肥前守護職」で「元・肥前千葉の上位者」だった家柄。
今さら担ぎ出す者はいないにしても、千葉家臣となりきるために今川の姓を遠慮したんじゃないでしょうか。

「持永」秋景の孫にあたる盛秀、茂成が勇将で、戦国の荒波の中で持永の家を保った。
持永家は肥前千葉が衰退すると龍造寺へ、龍造寺が衰退すると鍋島家に仕え近世へと続く。

さて、時系列に話を戻そう。
この肥前今川が没落し、応仁の乱の始まった年に、対馬の宗氏が朝鮮と歳遣船を約定した。
つまり貿易・交易のための使節船を毎年出しますよーーーって約束^^b
ここからもたらす膨大な利益が、少弐氏を中興させるのだが、それは またの話^-^

テーマ : 歴史
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【7-2_肥前今川の遺恨】通史①肥前千葉氏

寛正6(1465)年、肥前で今川家と千葉家が争うなかで、少弐・大内・大友にも変化があった。

まず同年9月3日、大内教弘が死去
同年9月23日、嫡男・政弘が19歳の若さで家督を継いだ。
ちなみに応仁の乱は、1年4ヵ月後に始まる。

大内教弘が死去したことで、筑前守護職が空席になった。
(家督を継いだ政弘は未だ若い)
同年9月10日、少弐教頼が室町幕府より筑前守護職に補任される。(佐賀市史)
あいしゃるりたーん~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
色々あって(やらかして)追討されてたんですが、壮齢の大内当主死去という事態のお陰で復活(。-_-。)vブイッ♪

一方、大友家文書によると、この年に大友親繁が筑後守護職になったとある。
実は、この方・・・四男( ̄ko ̄)
家督を継いだ時期や、改名した時期など肝心の部分が不明なんですが、とにかく以降の大友家当主の座は、この大友親繁の系統が独占します。

翌年の2月28日、文正へ改元

鹿島市史によると、藤津の大村氏が肥前千葉への備えとして有尾城を築城したとあります。

大内・今川・千葉胤朝のタッグという不安要素はあったものの、肥前千葉氏の西肥前攻略の意欲は衰えていなかったようです。
タッグ組んでた大内当主が亡くなって若年当主だしネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

で、この文正元年(1466)に「河上の戦い=今川VS千葉」が起きます。
史料の記述が簡素でイマイチ要領得ないんだが、要するに決着はついてないらしい。
肥前今川家では、ますます肥前千葉への遺恨を深め、縁戚だった両家の関係は更に拗れることとなった。( ̄ω ̄A;アセアセ

えっと系図、系図~これがないと自分も判らんのよ~アタフタ ヘ( ̄□ ̄;)ノ ヽ(; ̄□ ̄)ヘ アタフタ

家系図・肥前千葉系図・決定

まずピンクな今川系譜を辿りますね。
で、話が遡る。(ゴメン)
肥前今川氏の本拠地は小城郡中郷にある牟田城で、小城の肥前千葉の同じエリア内にいた。
両家が縁戚(肥前千葉の娘が今川仲秋に嫁いだ)に成った時、今川仲秋は肥前守護職で肥前千葉にとっては願ってもない良縁だっただろう。
関係が微妙になるのは、今川了俊が九州探題職を解任され、弟・仲秋と一族を連れて駿河に帰ってしまったから。
残ったのが「肥前今川家」となる。

縁戚として両家は協力関係だったのだが、不穏になるのは少弐が絡んでる。
応永11(1404)少弐貞頼が肥前千葉に介入しようとして戦になった。
それが同年4月12日、佐賀郡「川上の戦い」
この戦いで肥前⑥千葉胤基、渋川満頼(今川了俊後任・九州探題)、今川国秋、三家連合軍が少弐勢を撃退した。
・・したまでは良かったが、ここで今川国秋が戦死してしまう。
おそらく肥前千葉と肥前今川の力関係が変化するのは、名門今川家の血を引いた国秋の戦死からだろう。

さらに今川家にとって不運だったのは、縁戚と同じ小城エリアであるがゆえに肥前千葉の内紛に巻き込まれた事。

7代目千葉胤鎮(兄)と8代目千葉胤紹(弟)が家督を巡って争ったときに、肥前今川は8代目弟派だったのね。
ほら、8代目弟のバックにはドン・大内と足利義教(あちこちの内紛に口出しした室町将軍)がいたから。
で、そのときの今川当主が戦死した国秋の子・今川国治。
胤鎮・胤紹兄弟からみて従兄弟の息子(従兄弟甥?)にあたります。

一時は胤紹が8代目になったんだけど、兄・胤鎮がリベンジして胤紹は討たれた。
で、そのときに今川国治も討死したの。
復帰した胤鎮は肥前今川領の佐嘉・杵島の両郡を押領しちゃった。( ◢д◣)ショボンな今川

系図では省略したけど今川国治には嫡男がいて、この息子も父と一緒に戦死した。
てな流れで衰微した今川家だったんだが、生き残った弟が肥前千葉から偏諱を受け今川胤秋となり、与賀・川副両郡の地頭として復活した。
という系図を見ながらでないと脳に浸透しない経緯があったんです。

この時点・・・・肥前千葉から偏諱を受けた時に、今川家は千葉家と対等の協力関係ではなく、上位者と被官の関係になったと言える。

今川胤秋から見て、胤鎮⑦⇒元胤⑨⇒教胤⑩という系譜は【父(国治)と兄の仇の系譜】
千葉胤朝から見て、胤鎮⑦⇒元胤⑨⇒教胤⑩という系譜は【父(胤紹)と兄(政胤)の仇の系譜】
双方、父と兄を殺された者同士のタッグで、二人の背後にいるのが西国のドン・大内氏。


今川胤秋にしてみれば、いったん戦になり千葉との関係が拗れると、色々と過去のアレコレ思い出しちゃう訳ですよ!
例えば、肥前千葉に敗北したために、膝を屈し被官関係になった悔しさとかとか。
何せ肥前千葉氏は【肥前国主】と言われた全盛期ブイブイな頃だからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
もう、ここまできたら修復は、まず無理ですな( ゚Д゚)y─┛~~

翌、応仁元年、ついに応仁の乱が始まる
中央政界の混乱は地方に波及し、たちまち乱れた。
今川家と千葉家の争いも更に激しくなるのだが、それは またの話^-^

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【7-1_肥前今川VS肥前千葉】通史①肥前千葉氏

データの整理ついたところで再開します。

室町後期の寛正5(1464)年10月29日、肥前千葉氏9代目・元胤が28歳の若さで急死した。
そのため14歳の弟・教胤が兄の死で家督を継いだ。
この時の執権が中村越前守胤頼で、謀反を起こした中村胤宣の息子にあたると思う。
とにかく中村一族は肥前千葉氏にとって必要なコネクションを持ってたようです。
(詳しいことは判っていません)

寛正6(1465)年5月24日「越州の乱」が起きる
これには千葉氏の家督争いが絡んでいました。

家系図・肥前千葉系図・決定

緑枠で囲んでいる胤朝が関係しています。
彼は8代目・胤紹の次男で、父・胤紹と兄・政胤を、新当主となった教胤の父・胤鎮に殺されているんです。
もともと胤紹が一時期ですが当主になったのも大内のバックアップの事でしたので、胤朝も大内に通じたんです。

自分も系図をチラ見しながら記事を書いているんですが、
肥前千葉氏の縁戚に肥前今川家(ピンク枠系譜)がありました。
で、この時期の当主が[今川胤秋]。
大内に通じた胤朝は、この今川胤秋と更に九州探題・渋川教直ともタッグを組みました。

今川胤秋が肥前千葉氏を討つという風聞がたったとも言われてますが、そこはハッキリしてません。
とにかく危機感を募らせた肥前千葉氏執権・中村胤頼が、今川の城を三日間攻撃したんです。
これが寛正6(1465)年5月20日のことで、今川家は守り抜きました。

同年の5月24日、今川サイドのリベンジが「越州の乱」と呼ばれています。
中村胤頼が越前守だから越州ね^^/
今川胤秋の兵が城を出て、中村胤頼の陣を攻撃したんですが、決着がつかないまま日没となり双方撤退しました。
これは後に和睦しました。

というのも、この年の肥前は災害ラッシュでして、だから戦どころじゃなくなったんじゃないかと推測してました。

同年6月18日、この日より雨が一滴も降らなくなりました。
   7月29日、大風が激しく吹き、大潮となって田畑に浸水被害。
このときは、肥前の南海より三里(約12km)内陸まで船で往還するほどだったそうです。

えっと、有明海の満干潮の関係で、基本佐賀の河川周囲は浸水するのが平常運転というか、いつもの景色。
佐賀県で残っている平城跡で「要害」と言われる城は、この浸水時を想定した構造になってたからなんですね。
(干潮で水が引くと湿地帯に早替わり)

そこを敢えて記述するってことは、とんでもない水災害だってこと。
難しい理屈抜きでズバリ言うと、海岸から長崎自動車道あたりまで浸水してた。
現代・佐賀市の主要部分は、すっぽり水没してたことになります。

浸水してるところに有明海の満干潮もあっただろうし、元通りに水が引くまで一ヶ月以上はかかったんじゃないかなぁ^^;

で、水が引いて「ほっと」したところに止め。
同年9月13日、西の空に大星が流れ、東の空に至って迅雷のような音を発する。
隕石かな?見た人々はパニックになったそうな(==;)

肥前に不穏な空気が漂うなかで、大内、少弐、大友にも動きがあったのだが、それは またの話^-^


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【文明5(1473)年】南九州限定年表

・相良長泰(11代目の孫)産まれる

肝属兼久(14代目)生まれる

・桜島大噴火

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【文明5(1473)年】 北九州限定年表

・龍造寺豊前守胤家~肥前千葉氏11代目当主・胤朝から偏諱を受ける
(家弘から胤家へ改名)
(家督を継いだのは、この頃であろうか?)

・大友政親29歳、16代目、父の隠居で家督を譲られる

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相良家文書533_毛利元就同輝元連著状

ブラザーズの次は祖父と孫SET行ってみる

(折封ウハ(上)書)
(封部分省略)
於豊筑、豊州及び干戈付而、近日我等事罷下候、連々承候、此時於預御入魂者、可申合候、委細小早川吉川申入候、恐々謹言
  (永禄十二年カ)六月七日      輝元(花押)
                          元就(花押)
                相良殿  御宿所

省略した封の差出人は毛利同右馬頭輝元で右馬頭が元就を指すようです。
輝元との連著なのは、隆元が既に死去しているから・・・・たぶん。
年度細くは編纂の方の付記で、元々の書状には年度が入っていません。
内容から推定したようです。

ちなみに元就ジーちゃん強気です

豊前・筑前に於いて、豊州と干戈及びに付きては、近日我等罷り下り候事、連々承り候、此時於いて御入魂(昵懇)預りは、申し可(べ)く申し合せ候、委細小早川吉川申し入れ候、恐々謹言

本文超意訳
豊前と筑前で豊後と戦やってます(。-_-。)vブイッ♪
(相良は)近日我等(毛利へ)来るとの事、諸々承りました。
この時期を於いて、昵懇(じっこん)な間柄になると、話は小早川吉川に伝えてます。恐々謹言なぅ


どうもストレートに言うと[被官になりなさいね^-^]と言ってるようです(@@)
隆元死去後の元就じーちゃん、対大友に関し未だこの時期は余裕かまして強気だったみたい。
両川の鼻息フガーから察せられます。
ていうのも、大友が尼子や大内輝弘を支援した反撃が始まるのは、この後からなんですよ( ̄ko ̄)

大友に勝って博多の利権ウマーの未来予想図が、元就ジーちゃん脳内にあったのは間違いないでしょう。
実際、このあたりまでは毛利の方が優勢でした。
でも圧倒的勝利・・・には至っておらず、相良にしても毛利と適当に距離をとってたんじゃないでしょうか。

にしても、相良に毛利の元へ来いとは、昵懇だなんて言ってるけど、要するに「毛利の被官になれ」ってことでしょう。
大友に勝つのが規定路線のつもりでいたからこそ、宗麟が尼子を動かしたことにビックリ仰天したんだろうなぁ。
全盛期の宗麟の外交感覚は流石キングオブ九州です。
また慎重に行動して様子見してた相良の判断もグッジョブ(。-_-。)vブイッ♪

ちょっと毛利への見方が変わってしまったっす( ̄ω ̄A;アセアセ

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相良家文書532_吉川元春小早川隆景連著状

両川から手紙が来るなんて萌えるわ~・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・ウフフ

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
漢字だらけ~~゜ ゜( ∀ )ぅ!?って方は意訳の赤文字部分のみ読んでくださいませ~

(折封ウハ(上)書)
(封部分省略)
去年者、豊前表渡海付而申入候處、御懇報、畏悦之至候、其以後可企飛脚之處、依通路不輙、申後、心外候、仍去四月十六日、至立花取懸候之處、豊州衆爲後巻取出之条、及数度防戦、得大利、敵数百人討捕候、依之、立花要害之儀、去月三日落去候、然間、至豊後陣差寄、令対陣候、此表不抜足様可討留覚悟候、御国之儀、屋形可被達御本意事、不可過此節候歟、於御同意者、急度御行肝要候、猶使僧相含口上之条、不能詳候、恐々謹言
(永禄十二年)六月五日     (小早川)隆景(花押)
                 (吉川)  元春(花押)
          相良殿  御宿所

前言撤回!当主でもない毛利兄弟から上から目線の書状を貰う謂れは無い!!ヾ(*`Д´)ノケシカラン!!
宛名(相良)が日付より下だし、様じゃなくて殿じゃん!(様の方が丁寧)
「御宿所」ってあるから、毛利兄弟から出した書状です。
でも御宿所って、ちーと軽い普通の言い方なんだよ~(ノД`)・゜・。


ちなみに横書きだから判りづらいですが、差出人が複数の場合、左側の人物が上位者。
この場合も、次男の吉川が三男の小早川より上位です。


去る年は、豊前表渡海付き而(しこう)して申し入れ候(そうろう)處(ところ)、
御懇報、畏悦の至り候、其れ以って後(のち)飛脚企する可(べ)きの處(ところ)、通路依り輙(たやすから)不(ず)、申され後、心外候、
仍って去る四月十六日、立花に至り取り懸り候の處(ところ)、
豊州衆 後巻(うしろまき=後詰)取り出し爲すの条、防戦数度に及び、大利を得て、敵数百人討ち捕え候、
これ依り、立花要害の儀、去る月三日落去(らっきょ)候、
然る間、豊後至る陣差し寄り、対陣令(せ)しむ候、此の表 不抜足様(よう)討ち留める可(べ)く覚悟候、
御国の儀、屋形御本意の事、達せら可(べ)く、此の節過ぎ可(べ)からず候歟(そうろうか)、
御同意於いては、急度(きっと)御行肝要候、猶(なお)使僧 相含む口上の条 詳しく能わず候、恐々謹言、

要するに意訳~
豊前に毛利が渡海した時、こっちから言うべきでしたが、逆に丁寧な報せありがとうございます^-^ニコニコ
ほんじゃ、これから飛脚たてて遣り取りしましょ~ってすべきなのに「道が悪いから」って言い訳するって何ソレ!ヒドイ!

(いろいろ中略)
立花城はコッチが押さえてるんだからね!(`・ω・´)キリッ
その間に豊後も攻めちゃうんだからね!!(`・ω・´)キリッ
そちらの国については屋形の本意を報せるけど、これにケリついてからになるっぽい。
同意することが超大事なんだから、そこんとこ使僧に含めてるから、ここでは詳しくしないわ。恐々謹言なぅ


なんか鼻息荒いなぁ~すっごい強気な毛利次男と三男。
もう大友に勝ったような言い方してるけど、まだ完全決着してないですよ~( *´艸`)

毛利側では、大友サイドの相良を取り込もうとした(らしい)けど、相良からは通常の社交辞令しかもらえなくてカリカリしてるようです。
大友からは[じきに決着つく!こっちの思い通りになるから(`・ω・´)キリッ]と言われ、
毛利からは[勝ったのはコッチ!だから相良からコッチに挨拶すべきなの(`・ω・´)キリッ」と言われ、
全盛期の相良はモテ期ですな( ゚Д゚)y─┛~~

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河上神社文書208_千葉胤盛安堵状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

肥前国鎮守河上社座主職住吉神領、神野三十餘町、中河拾弐町、平尾弐十町、其外国中社領、増与律師當知行分、所不可有相違之也、
右、天下泰平、殊當家繁昌、武運長久之被抽祈祷之状如件、
 明応六年正月廿三日            
                    平(千葉)胤盛(花押)
 河上山唯真坊律師

肥前国鎮守河上社座主職并(あわ)せて住吉神領、神野30餘(余)町、中河12町、平尾20町、其外国中社領、律師へ与う當(当)知行分、所(ところ)相違有る可(べ)から不(ず)之(これ)也(なり)、
右、天下泰平、殊當家繁昌、武運長久の抽(ぬき)んでられて祈祷(きとう)之(の)状 件(くだん)の如し、 


ぶっちゃけ意訳
領地安堵するから、うち(千葉)の天下泰平・繁盛・武運長久に[格別な祈祷]よろしくね(^ -)---☆Wink

千葉胤盛の河上神社に残る文書は、これが最後になります。
ここから先は息子・興常の文書になってるので、おそらく明応6年初頭に東千葉氏の祖・胤盛は亡くなったのでしょう。

そろそろ史料が追いついてきたので、肥前千葉氏編の準備に入りま~す( *´艸`)

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真田丸_篭城6日目

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実に拘る方はスルーしてください^^/



まさかの松さま訃報 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

・゜・(PД`q。)・゜・好きだったのに~~ダーリン、ほんとに役に立ってないけど可哀想だったなぁ。

実は生きてる・・・って話だったり~~と思ってたらホントにそうだった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
まさかの記憶喪失という黄金のベタ設定が早くも登場しました~~~~~♪ヽ(*´∀`)ノ

この夫婦がスレ違ったり、再会したりで、話が最終回まで引っ張るのかな?・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)
三谷脚本は先が読めないですな ( ゚Д゚)y─┛~~

きりさん・・・美人のツンデレは絵になるけど、本人は総合的に損してる( ̄ω ̄A;アセアセ
いや、意中の人がツンデレ萌えならいいけど、今のところ信繁はソッチ趣味ない設定じゃん。
優しい梅ちゃん好きーーーが、大人になったら変わるのか、ツンデレ可愛くないを貫くのかドッチかな。

梅ちゃんみたいなキャラも、心配は心配だ。
往年の大映ドラマパターンだと、好きでもない相手に嫁いで嫁イビリされたり、病(結核トレンド)で早死にしそうなキャラなんだもん。

それはそうと。
最近、信繁が十代に見えて来たから不思議~演技の魔力だな。
そういう所作や相手役との関係性とか演出効果も大きいけど、信繁、可愛い~~川* ̄д ̄*川ポッ 

鬼武蔵(森長可)と信繁が遭遇する設定は戦国マニアへのサービスシーンだろう。
史実のはずないのに、ちょっと乗せられてワクテカしてしまった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

家康と本多忠勝と正信と阿茶局が、徳川劇場みたいで面白かった~~
忠勝がスッカリ戦バカ設定っぽいけど、三河武士代表みたいな感じ、それはそれで嫌いじゃないな。
井伊直政役が誰になるかなぁ~楽しみ(*´pq`)クスッ

昌幸が(ドラマで)遂に覚醒しました。
大バクチ、楽しみな次回の真田〇ワールド~~

田尻家文書14_大友親匡(ちかまさorちかただ=義長)書下

年度が特定できないのは、逆に自分が混乱するので飛ばします( ̄ω ̄A;アセアセ

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

(折封上書)
 「田尻又三郎殿        親匡」
(異筆)
「文亀二年十二月十一日 親種」
御領地之事、御安堵、任判形之旨、知行不可有相違候、有若子細地候者、入国之時、以糺明、可申合之状如件、
 文亀弐年十二月十一日     親匡(花押)
    田尻又三郎殿



丁寧な文書は読んでて気持ちいいですね( *´艸`)

御領地の事、安堵、判形(はんぎょう)に之(これ)任す旨、知行相違有る可(べ)から不(ず)候、若し仔細有る地候者(そうらわば)、入国の時、糾明以(も)って、申し合わせ可(べ)くの状 件(くだん)の如し、
※之---読みは「これ」「の」と二通り、読みの区別は不自然ないように前後の文脈で判断します。
※者---読みは「人物の者」と助詞(てにをは)の「は」と二通り。読みの区別は(以下同文)
※判形(はんぎょう)---書き判(この場合は安堵状を指します)
※如件(くだんの_ごとし)書き止め文言の決め台詞

上記踏まえて超意訳すると
領地のことですが、安堵状の通り知行を認めます。
もし疑問がある土地があれば、入国の時にちゃんととします(。-_-。)vブイッ♪


書下=かきくだし
この文書様式最大の特徴は、上位者自らのALL直筆である点です。
安堵状の他に、更に直筆文書を出しているので、大友家では田尻氏を丁重に扱っています。
御領地、御安堵と全体に丁寧だし、宛名の敬称も漢字で「殿」ですしネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

田尻又三郎は田尻治種のことです。
文亀2年は1502年。
前年の1501年に大友氏は筑後に出兵しているので、筑後・田尻氏に細やかな配慮をしていたのでしょう。

大蔵系氏族に対して個人的萌えしてるので、大友が気を遣ってるのが嬉しい ・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

平安の東北武士(いっきに後編)

参照文献:城館と中世史料_斎藤慎一編
論   考:平安中期における城館の機能と性格 吉田歓


論考では金沢柵の研究として岡陽一郎氏の研究を紹介している。
岡氏によると「奥州後三年記」から金沢柵の特徴を指摘してるそうな。
1_周囲より高い場所にある
2_周囲が崖
3_出入り口に木戸がある
4_櫓などの攻撃用施設がある
5_内部に建物や池がある

以上の指摘から金沢柵は周囲が崖のようになっていて攻めづらい立地条件を備えていた。
防戦の方法は
遠方の敵には矢を射かけ、近くには石弓を使って死者をたくさん出したという。

さすがの八幡太郎義家も金沢柵を攻めあぐね、包囲して兵糧攻めに切り替えた。
このあたり戦略転換の発想は戦国期と変わらない。

結果、金沢柵の清原側は「食物ことごとく尽きて」という状態にまで追い込まれ、城・・・金沢柵は落ちた。
で、ここからの清原側の動きなのだが・・・・逃げた^^;
清原武衡は城中の池に飛び込んで身を隠した。
清原家衡は「げす(?)」に変装して逃亡を図ったが途中で見つかって討ち取られる。

戦国期の武将に比べちゃいけない。
城を命がけで守ろうという発想自体がないんです。
敗者となった武家の究極の目的である「生き延びる」ことが優先した行動をとる。
ちょっと室町~戦国期の国衆の動きと似てます。

八幡太郎義家は降伏した者が助命されること自体は認めていた。
しかし義家定義の降人とは、戦場を脱出して後に罪を悔いて人の手にかからず出頭したものを指すとした。
その定義に合致するものは助命するが、池に隠れて捉えられた清原武衡は合致せずとして斬首した。

この八幡太郎のマイルールが同時代で普遍性があったか自分には判らない^^;
が、城を死守せず降伏する平安武士を見ると、全くの独善ではないように思う。

平安期では守らず放棄する柵と、防戦を試みる柵とが分かれて、戦略らしきものがあったようです。
それは立地条件により柵(城)の防御能力に差があるからで、防戦に緩急をつけた城チョイスをしてたことが窺える。
つまり、それだけ軍事的性格が強まっていたんです。

ただし防戦の見込みがないと、あっさり放棄している。
防御能力を高めたといっても軍事的拠点としては限界があった。

そういう意味では平安期の城郭は、居住空間としての機能が大きい館だった。
ただ、結果として捨てたとはいえ[篭城戦]という戦闘形態が出たことは、後の中世に推移していくなかで大きな変化だったと言えよう。


テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

平安の東北武士(たぶん中編)

参照文献:城館と中世史料_斎藤慎一編
論   考:平安中期における城館の機能と性格 吉田歓


戦国期と平安期と城の防御スキルを比較したら、戦戦で日進月歩の戦国期が優れているのは当然だ。
が、防御力の多寡は別にして、平安期には地形や自然を利用した城造りがなされていた。

前九年の役の安倍氏の柵(城)は大別すると2パターンあったらしい。

A)平常時レベルの防御能力はあるものの、さほど堅固でない柵
B)攻め寄せにくい自然地形を利用し、Aより防御能力が高い柵

前九年の役の安倍氏も柵を死守することなく、最後は脱出し逃亡している。
平安時代の居館は、あくまでも生活の場であり経営拠点であった。
支配(経営)拠点であっても、柵そのものは死守すべきものではない。
さらに防御能力の低さは居住者自身が知っている。
そのため、戦国期のような玉砕という発想はハナからなく、ヤバイとなったら脱出⇒降伏という流れになる。

そんな平安期でも難攻不落と評された柵がある。
それが金沢柵だ。

前九年の役の後、勝者として山北三郡に加え奥六郡も手に入れた清原氏。
清原氏というと時事ネタみたいだが、たまたま苗字が同じだけで受け狙いではない^^;
その清原氏の内部争いから「後三年の役」が起きる
大丈夫だとは思うが念のために言うと、
読みは「ごさんねんの えき」で「あとさんねんの やく」ではない(`・ω・´)キリッ


指導者・指揮官&交戦勢力が
源義家+藤原清衡VS 清原家衡+清原武衡
この戦いに勝利することによって、清原氏に代わって藤原氏が奥州の覇者となる。

源義家が奥州と関わったのは、そもそも亡き父が鎮守府将軍として安倍氏と戦っていた。
脳みそが追いつかないので色々端折るが、八幡太郎義家も鎮守府将軍を継ぎ、官位も正四位下、出羽守、下野守、陸奥守と奥州方面。
通常、国司(**守)というと、御本人は都で雅ライフをエンジョイするんだが、八幡太郎義家は鎮守府将軍として現地入りした。

逆を言うと八幡太郎がいたから、戦の規模が大きくなったと言えなくも無い^^;
朝廷では「後三年の役」に命令書である官符を発給しておらず、「後三年の役」は私戦扱いで恩賞が出ていない。
(※当時は官符なしで戦をすることは違法行為だった)
(※[符・ふ]については古文書学入門で書いたように、上の役所から下の役所へ下す文書^^b)
官符が出なかったことは陰謀説とか色々出てて、自分の脳内では処理しきれないのでパス(。-`ω-)←へたれ

とにかく上記二つの勢力が激突し死闘したのが金沢柵だった。
金沢柵(城)については、擬定地とされる跡の発掘調査が進んでいるらしい。
調査内容は書いてなかったが論考内の参照文献によると、調査報告書は横手市教育委員会から発行されてるそうな。

清原氏は初めは沼柵に籠り八幡太郎義家軍を撃退したのだが「これ(沼柵)にまさるところなり」
として、金沢柵に入った。

論考では金沢柵の形態に触れているのだが、それは またの話^-^

テーマ : 歴史
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平安の東北武士(前編)

参照文献:城館と中世史料_斎藤慎一編
論   考:平安中期における城館の機能と性格 吉田歓


えっと、古文書学の方が律令時代に触れているので、
参照文献は、時代下って平安期の東北武士について触れようと思う。
論考では将門の乱から触れているんだけど、ちょっと自分の脳みそがメモリ不足なんで「後三年の役」からです。




参照文献全体としては、史料(一次&二次)において城郭が何と呼ばれていたかって事が大きなテーマです。
史料と実際の発掘調査を検証するのは、現在個々の研究に委ねられている部分が大きい。
そんな中、近年の城郭関連で研究が最も進んでいるのは東北です。
史料との検証も、いずれ追いつくことと思います。

実は山城に関しては、中国地方から九州にかけて先に古代山城がありました。
時代が下るとともに古代山城は廃れ、我々が現在認識している「山城」が姿を現すのは室町初期からです。
理由はカンタン。戦が増えたから。^^b

南九州においても、室町中期から城郭用語が史料に確認され始めます。
室町中期から戦国期にかけて、南九州では城郭を「かこひ(かこい)」と呼称していました。
語彙としては「囲(かこ)い」から来ているらしいんですが、
相良氏の一次史料:八代日記では「かこひ」と仮名表記。
島津氏の一次史料:上井日記では「栫(かこい)」と漢字表記。

拵(こしらえ)とは手偏と木偏の違いしかないので、前後の文脈に注意しないと混同しやすい。
更に紛らわしいのは「栫(かこい)」が江戸期以降は一部地名表記で残ったということだ。
だから江戸期二次史料も前後の文脈に(以下略)

さて本題の平安期の東北だが、史料では城のことを柵と表記していました。
例えば金沢柵=金沢城です。
意図としては南九州の「囲い」に通じるものがある感じを受けます。

で、ここからビックリというか意外だったのが、
平安期の武士には【城を枕に玉砕する】という、発想自体がないことです。
負ければ普通に降伏します。

つまるところ鎌倉以降の武士と平安期の武士は別物。
中世の範囲が広い(鎌倉から室町後期(戦国含む)まで)ことに、ぶつくさ文句(勉強する範囲が~~)を言ってた管理人だったが、
意識の変革において、やはり鎌倉期は中世の黎明だったのだと感じた。

そうなると平清盛と源頼朝の戦いは、二つの時代の代表者の争い(。-`ω-)ンー?
って、専門外の自分が無い知識を捻ってもサッパリ判りません:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ

とにかく降伏した平安武士は、助命される可能性があるから降伏するわけです。
もちろん禍根を残さないためや、罪が許されないものであれば処断されるという、『武家の怖さ』と背中合わせの降伏です。

その怖さを承知で助命にかけて降伏するのは、平安武士の柵(城)に対する意識の違いから来ているのだが、それは またの話^-^

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【公式(くしき)文書_三・符(ふ)】古文書学入門(改)

参照:佐藤進一著「新版 古文書学入門」
符・・・って言われると、実はホラーか陰陽師っぽいイメージしかかった管理人です(。-_-。)

公式文書における符は直接上下関係のある役所間に交される文書で、
上の役所から下の役所へと下す文書です。

役所TOPは太政官です^^/
符の特徴は、通常の官庁文書は日付が先で署名が後ですが符は逆だそうです。

官庁文書には必ず官印が捺されていたんですが、大きさ・印文・材質に細かい規定がありました。
最大は「帝の印」(内印)
次が「太政官印」(外印)
他各省庁、各国印、郡印と色々イパーイ種類があった。

で使用するときは全て朱印で、黒印はありませんでした。^^b
で、公式文書における官印は、その文書が間違いない確実ですよって証明するためのもの
だから後世の武家様文書における花押の代わりとしての朱印・黒印と意図は全く違います。
現代の契約書などにおされる実印や、ビジネス文書に押される認印の方に近いです。

えっと~律令制で神祇官(じんぎかん)という官庁がありました。
朝廷の祭祀 (さいし) をつかさどり、諸国の官社を総轄し、太政官と並ぶ最高官庁とされていました。

「大化の改新」の理念として「政治(太政官)と祭祀(神祇官)」の二本立てで国造りしたいという理想ワールドがあったようです。
このあたり自分は全く門外漢ですので、参照文献の孫引きです( ̄ω ̄A;アセアセ

が、現実は理想通りではなく太政官と神祇官は上下関係だったようです。
太政官から神祇官へと符が出されています。


え~と、神祇官を引っ張り出したのは、単に参照文献で紹介してたから・・・だけでなく、古代日本は祭政一致だったからです。
いま現在において、最後の祭政一致だった帝は「建武の親政」で教科書に紹介される後醍醐天皇です。

はい。武家の時代が始まってますよね。
武家の現実的な欲求と、旧に復そうとする後醍醐天皇とが噛み合わず「建武の親政」はアボーン失敗し、
紆余曲折して室町幕府という武家政権が誕生します。

神社と公家
神社と武家
神仏習合における神社と仏教

これらは互いに深い関係があり、素人の産毛が多少太くなった程度の自分では、まだまだまだまだ理解不足(。-`ω-)ンー
てことで、せめてせめて「言葉に慣れる」と言うか、「本来の意味を知って」おかないとヤバイわけです(; ・`д・´)
言葉が判ると、そこを突破口にして検索して更に深い部分も調べられる。
それで、予備知識が ちーーーっとはある古文書学を通じて律令時代から勉強しなおしてました^^;

算数と一緒です。九九を覚えないと割り算も掛け算も分数も挫折しちゃうでしょ。
歴史も積み重ね。
ちょっとずつ、ちょっとずつですが、自分も知識の底上げに精進します。^^;

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【文明4(1472)年】南九州限定年表

現在の所、データなし



≪南九州シオ的エントリー:肥後・豊後・日向・薩摩・大隅≫
大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
さがの歴史・文化お宝帳
戦国島津女系図
しいまんづ雑記旧録
千葉一族HP
武家家伝
城郭放浪記
天下統一期年譜
※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
伊東関連「日向記」
相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
肥前関連「北肥戦誌」
筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

テーマ : 歴史
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【文明4(1472)年】北九州限定年表

9月24日、少弐政尚(後の政資)~杠(ゆずりは)氏に対し、知行安堵状を発行
(出典:杠家文書)

※杠氏は、肥前国山内26豪族の一人



≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・肥前・筑後≫

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
さがの歴史・文化お宝帳
戦国島津女系図
しいまんづ雑記旧録
千葉一族HP
武家家伝
城郭放浪記
天下統一期年譜
※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
伊東関連「日向記」
相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
肥前関連「北肥戦誌」
筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

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真田丸_篭城5日目_窮地

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実に拘る方はスルーしてください^^/



真田家の奥に奉公することになって嬉しそうね、きりさん・・・・【大河】_ ̄)じぃーぃっ
言っておくけど、わたしは梅さん派よ・・・【大河】_ ̄)じぃーぃっ

テンション高い「神君、伊賀越え」だったなぁ( *´艸`)
龍馬を演じた時にも感じてたけど、内野さんのユーモラスな雰囲気は演出じゃなくて彼本来の持ち味のような印象です。
どの役を演じてても、どこかユーモラス^^ どんな暗いムードも吹き飛びそう。

服部半蔵、面白かった~~
結局、肝心なところは全力で押し通す作戦でした:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ
一家に一人、本多忠勝がいれば、絶対その家の主君は死なない気がする(。-_-。)vブイッ♪

穴山さん、家康と一緒だったら死なずに済んだかもだけど・・・(。-`ω-)ンー
伊賀越えのピンチは回避できても、其の後の複雑な政局で判断ミスしそうなイメージ。
なまじ武田関係者だけに難しいわよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

鬼武蔵(森長可)が出ないかな~と期待したけど、
よく考えたら森の預かりは川中島4郡だから、真田の小県郡と直接の関係はないんだった・・・ポリポリ(6 ̄・ ̄)

真田昌幸が凄い良かった ・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・
初めに明智からの使者を捕らえ、情報を自分だけのものにしたのが、凄い昌幸らしさを感じました。
迷いから覚めたら即画策・・・真田昌幸だなぁ( *´艸`)
要所・要所で信幸の生真面目な部分を出してるのも好感もてます。

今日は見所ありすぎで、書ききれない気分ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

遠藤さん演じる寡黙な上杉景勝もステキ・・・大人の男の渋い色気よネー(*´ 艸`)(´艸 `*)ネー
景勝がカッコ良く出てくれれば、直江はどうでもい・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
三谷さんだから、直江に「これはしたり」とか言わせたりして:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ

昌幸が良すぎて主役の信繁が霞んでるけど、前半は寧ろ このままのペースで行って欲しいな。
ぶっちゃけて言うと、主役だって言う理由だけで、アチコチに顔を出す場面を無理やり作るのにはウンザリしてた。
身内の中で活躍するのなら、年齢にしては・・・でも極端に不自然じゃないもの。

そういう点、三谷さんは場面の切り替えや見せ場の作り方が手馴れてる。
時代劇は幾つも扱ってて、安心して視聴できる数少ない脚本家だ。

本能寺の変で端を発した「天正壬午(てんしょうじんご)の乱」の開演だ。

近年研究が進んだ「天正壬午の乱」は、マニアの注目するところ。
来週も目が話せない真田○

相良家文書530_田北宗印書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

漢字だらけ~~゜ ゜( ∀ )ぅ!?って方は意訳の赤文字部分のみ読んでくださいませ~

(折封ウハ(上)書)
「              田北兵庫入道
相良殿 
      貴報             宗印」
「- ーー」(端裏切封)
當年之御祝儀并御進発之儀、以御使僧被仰遣候、尤珍重候、先々薩州御干戈未明御隙之由、驚存候、弥無御油断御才覚、可目出候、以貴礼承候趣、具令披露候、祝着之段、被用直書候、遠方之条、幾日罷過候共、爰元御取合不可存疎略候、將亦此表之事、豊前肥前其外所々属御案中、諸勢當時吉川小早川対陣候、於于今者、両川落去不可有程候、爰御存知候、旁委細此御僧可有御達候、恐々謹言、
(永禄十二年)
      五月十四日          宗印(花押)
      相良殿 貴報




当年の御祝儀併せて御進発の儀、御使僧(しそう)を以って仰せ遣わされ候、尤も珍重候
当年の御祝儀と御進発(宗麟の出陣)に、使僧を派遣したことは尤も大切な事です。( ̄ー ̄(_ _( ̄ー ̄(_ _ うんうん

先々薩州との干戈未明御隙の由、驚き存じ候、
先だって薩摩との戦は未明も閑(ひま)なようで驚きました(@@)

弥(いよいよ)御油断無く御才覚、目出(めで)可(べ)く候、
いよいよ油断なく、工夫されて、褒めてます

貴礼を以って承り候趣、具披露令(せ)しむ候、祝着の段、直書用いられ候、
貴方から承った事について、こちらも披露し祝着として直書(宗麟の書状)を用いました。

遠方の条、幾日罷り過ぎ候共、爰元(ここもと)御取合存じ疎略べからず候、
遠方のため幾日かかっても この所の取り合いを疎かにすることはありません。

將亦(はたまた)此の表の事、豊前肥前其の外(ほか)所々属御案中(あんちゅう)、

さて、こっちの方ですけど、豊前肥前とかとか、こっちの思い通りです(。-_-。)vブイッ♪


諸勢當時(当時)吉川小早川対陣候、于今(いまに)於(お)いて者(は)、両川(りょうせん)落去(らっきょ)程有る可(べ)から不(ず)候、
吉川小早川・両川との対陣は程なく決着がつくでしょう。( *´ー`)ノ

爰(ここ)御存知候、旁(かたがた)委細(いさい)此の御僧へ御達し有る可(べ)く候、恐々謹言、
ここ御存知ですよね(^ -)---☆Wink 詳しい話は使いの僧に伝えます。恐々謹言なぅ




えっと~まず、田北兵庫入道宗印=田北鑑栄が、どういう人物かワカランかった・・・il||li _| ̄|○ il||l
加判衆(かばんしゅう=老臣)か城督(じょうとく=守護代クラス)級の重臣だと思うけど(´・ω・`)

あと、ちょっと気になったのは、宗麟の事に触れてるのに他の重臣のように闕字(けつじ)をしてないところ
(※闕字=貴人への礼として一文字スペースをあけること)
冒頭の「貴報」は相良へ礼を払う表現
宛名も日付と同じ位置ですから、相良に対し丁重・・・・・・
     なんだけど、どうも文章が上から目線な表現をしてるんだよなぁ。
書いた人物の【身分のせい】なのか、【性格】なのか、【そういうパターンの書状】なのか・・・ワカランil||li _| ̄|○ il||l

マニア萌えとして『吉川と小早川を【両川】と表現した文書』を、自分が初めて見たってとこです・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・きゃ

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

(参考)田尻家文書10_大友義長知行預ヶ状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

(折封上書)
 「田尻中務少輔殿     義長」
筑後国山門郡之内大塚拾弐町、預置候、可有知行候、恐々謹言、
  四月十七日     義長(花押)
    田尻中務少輔殿
     (切封)
      「(墨引)」


定型文なので特に意訳なし
預け・・・つまり安堵状なんだけど年月日なし。
通常だと、このあとに老臣から奉書がきて、事務執行されるのね。
でも奉書がないから、この安堵状が実行されたのかは判らない。

義長からだから永正年間くらいかな~とは推測できるけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
これも柳川市史年表に盛り込まれて無いので、参考に載せるだけにします~

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

205_千葉胤朝安堵状&206_千葉胤盛安堵状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

205_千葉胤朝安堵状
肥前国佐賀郡之内山田三十町之事、
右、任先例之旨、知行不可有相違之状如件、
文明拾弐年六月拾九日
                  胤朝(花押)

河上山
  後座主宰相公殿

206_千葉胤盛安堵状
肥前国佐賀郡之内山田三十町之叓
右、任先例之旨、御知行不可有相違之状如件、
文明拾弐年六月拾九日
                  胤盛(花押)

河上山
  後座主宰相公殿

共通意訳
肥前国佐賀郡の内 山田30町の事
右、先例通りに知行する事に相違ありません
文明12年6月19日
河上山 後座主宰相殿


同日に同じ土地を同じ人物宛に安堵された二つの書状。
クイズ
一ヶ所だけ二つの書状で相違点がありま~~す
さて、それは何処でしょうか?^^/










正解者しても何もあげられないボンビーノ管理人:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ
冗談はさておき、家督争いから勢力争いになった兄(胤朝)弟(胤盛)。
どうも、この文明12年頃に和睦してたようです。

で、一時劣勢だった兄・胤朝が盛り返してた傍証となるのが、この二つの書状です。
兄・胤朝が【知行】と書いているのに対し、
弟・胤盛は【御知行】と敬語を使っているんです。
おそらく、この時期の河上社大宮司は弟・胤盛ではなく、兄・胤朝だったんじゃないでしょうか。

東千葉の祖となった弟・千葉胤盛。
兄弟の争いは大内と少弐の争いへとスライドしていきます(`・ω・´)キリッ

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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