田尻家文書21_大友親安(義鑑)知行預ケ状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
漢字だらけ~~゜ ゜( ∀ )ぅ!?って方は意訳・赤文字部分のみ読んでくださいませ~


(包紙上書)
 「田尻右京亮殿        親安」
(異筆)「永正十五年三月八日加領 遠江守はるたね」
去年十一月、朽網兵庫頭、黒木筑後守、河崎刑部大輔以下之族、以同意、當国忩劇之砌、為忠賞、上妻群之内、薬丸拾弐町之事、預置候、可有知行候、恐々謹言、
 三月六日      親安(花押)
  田尻右京亮殿

去年十一月、朽網兵庫頭、黒木筑後守、河崎刑部大輔以下の賊、同意を以て、當(当)国忩劇(そうげき)の砌(みぎり)、
忠為すを賞し、上妻群の内、薬丸12町の事、預け置き候、知行有るべく候、恐々謹言、

去年の11月、朽網親満、黒木、河崎以下の連中が組んで筑後がアタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタした時、
頑張ってくれた事を賞して、上妻群薬丸12町を預け置きますので、知行するように^-^


永正14年11月に朽網親満の謀反に加担した黒木、河崎、が蜂起しました。
その時に大友サイドで活動した田尻氏への恩賞です。
年度がないのに特定できたのは、上妻郡代あての大友家臣の業務執行のための奉書が発行されているから。
奉書によって権利の効力が発生するので年月日は必ず記入されています。
異筆に書かれた年月日は奉書の発行年月日です^-^
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河上神社文書176_筑紫満門願文

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

奉立願
  河上宮
 造営遷宮二カ條之事
歸明頂礼、當社大明神者、尋本地、十一面大士修羅道爲守護、今者異国成罰爲軍神、爰垂跡、故、歸依仁者、衆怨退散、渇仰族者、勝得千里之外者也、然則、今度東西讎敵之摧滅事、有何疑哉、仍立願之趣、大概如斯耳
 明応七年九月吉日        (筑紫)満門(花押)

・・・・・・・・・ムズカシイ(´;ω;`)ウッ

意訳でゴメン!(><)
筑紫満門が河上社の造営と遷宮の二つをするので、(-人-)☆彡オネガイします~
十一面大士・・・異国征伐の軍神へ帰依しますので、衆怨(しゅうえん)=人々の恨みが退散する。
我々は渇仰(かつごう)=深く慕っておりますので、勝ちを得る之(これ)千里の外(ほか)なり。
然(しか)れば則(すなわち)、今度の東西の敵を滅する事は疑いようのないことです。
仍(よ)って願い立てます。大概斯(く)の如(ごと)し


ちょっと怪しい意訳ですが、言いたいことは「造営と遷宮」するから筑紫を守ってね!って願い事です( ̄ω ̄A;アセアセ

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真田丸_籠城12日目

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実に拘る方はスルーしてください^^/


今宵も堪能しました 川* ̄д ̄*川ポッ 
きりさんと信繁のシーンは脳内から消しました(←梅さん派)

梅さんは良い嫁なのです^^
うろうろしてる薫ママが面白かった。

小牧・長久手が一行ナレとは、真田目線大河に徹してて逆に分かり易いです。
視点が外れたりブレたりで、何がしたいのかわからない昨今の大河には食傷気味だったので^^;

それにしても大河で鉄火起請(の寸前まで)を見るとは思わなかった。
あぁいうのはタイムスクープハンターでしか見れないかと・・・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
熱した鉄を乗せる紙は当然、熊野誓紙です^^/
騒動の〆は景勝の大岡裁きで、鉄板な流れでした (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

それにしても直江は主役の時より脇役の方が、倍やな奴で清々しいですわ(オホホ)
天○人の時は何だか無理に良い人してたみたいで、イメージと違ってモニョモニョしてたので、今の直江が(・∀・)イイ!

上杉景勝・・・・惚れそうです 川* ̄д ̄*川ポッ 
単なる「ええかっこしぃ」と見せかけ?実は直江の手綱を掴んでるところは流石だと思いませんか?
あぁ殺陣シーンも馬上姿も渋くていいわ~~川* ̄д ̄*川ポッーーー
人質と沼田の二段構えで試される真田も信用がなさすぎですけど,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

上杉からの起請文げっちゅ、おめでとうございますゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
ちゃんと熊野誓紙を使う時代考証に萌えまくってます~~~

いよいよ第一次上田合戦・・・'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`
・・・・・・・・・・・・・・・・上田合戦の後って信繁は上杉の人質じゃなくなってたような・・・・

来週が楽しみ~真田○!

【公家様文書_プロローグ】古文書学入門(改)

参照:佐藤進一著「新版 古文書学入門」

律令制度は奈良時代が頂点で、平安時代に入ると破綻しはじめます。

律令官制移行に設置された新官制(令外官・りょうげのかん)の新設で大きな改変を迎えます。

それは「蔵人所」「検非違使庁」です。

朝廷政治の中心は太政官から蔵人所に移りました。

「蔵人所」「検非違使庁」の地位強化に伴い、新様式の文書が生まれ効力も大きくなっていきます。

平安朝政治の展開と共に発生・発達した文書を公家様文書と呼びます。




やはりプロローグから入らないと気分が出ませんな ( ゚Д゚)y─┛~~
(※実は飛ばすと脳に浸透しないからwww)

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【文明7(1475)年】南九州限定年表

8月15日、桜島大噴火
南西部で噴火。南側・文明溶岩流出。

ちなみに翌年に、超ド級の噴火来ます。
念の為、桜島は薩摩島津氏の領土ね^^/

・相良為続と島津国久が同盟
・相良為続、鹿児島へ訪問し犬追物と笠懸で歓待される
10月9日、犬追物手組(参加者:12名)
島津修理亮、渋谷、伊地知、村田、上原、平山、市来、餅原、島津弾正忠、島津源五「相良家文書221」
10月10日、笠懸日記(参加者:10名)
相良為続、島津薩摩入道、島津源五、伊地知、平山、上原、村田、相良七郎、渋谷、島津修理亮「相良家文書222」


≪南九州シオ的エントリー:肥後(相良関連)・豊後・日向・薩摩・大隅≫
大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

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【文明7(1475)年】北九州限定年表

・陶興房(隆房で晴賢の父)産まれる

・渋川政実27歳没
※渋川家全盛期当主・教直の嫡男
 父に先立ち、筑後犬塚で亡くなる

・大村純伊、佐々に忍ぶ、長与大炊介が身代わりになる(長与家系図)


≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・筑後・肥前・肥後≫

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真田丸_籠城11日目

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実に拘る方はスルーしてください^^/

脚本が三谷さんというだけでも安定感あるのに、
時代考証が黒田先生と平山先生・・・・こんなに安心して見れる戦国大河は何年ぶりだろう・゜・(PД`q。)・゜・←嬉し泣き

きりさん、やっぱツンデレは相手がツンデレ好みでないと損な役回りだわね(-ω-;)ウーン

燃やすと良い香りのする南蛮渡来の油って?香油的な何かかな?
もう少しで薫ママを説得できそうだったのに「小細工が多すぎます!!!(# ゚Д゚)・;'.」
って怒ってたけど、薫ママタイプはストレートに言ったら言ったで反対する気がする。
嫁いびりしなきゃいいけど、まぁ梅さんなら大丈夫だろうし、とりババさまが上手く捌いてくれるだろう (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

血で染まる祝言・・・・横溝作品のサブタイトルみたいだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

ところで信繁の妻は四人ってナレがあったけど、一人はきりさんだとして、この先あと二人も出てくるのか^^;
九度山では、どんな家庭争議が起きるやら(*´pq`)

前々から気になっていたんだが・・・・信繁を「日本一のもののふ」と褒めただけの島津忠恒は登場するんだろうか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

とうとう室賀さんが・・・・(´;ω;`)ウッ
なんだかんだと好きなキャラだったから寂しいなぁ
来週からは、あの意地っ張りな態度は見られないのか。
真田の家臣になったら生き残ったかもだけど、あの時点で室賀が真田の家臣になるチョイスはないだろうなぁ(´・д・`)残念

家康の本多正信もWタヌキだから、平八郎忠勝にタヌキ濃度を薄めてほしいわぁ^^

信幸と信繁の兄弟シーンが良かった・・・川* ̄д ̄*川ポッ 
二人が敵味方に分かれるのを知ってるだけに、しんみり・・・ (゜-Å) ホロリ

そろそろ秀吉が出てきてもいいはずなんだが、このペースだと5月くらいになるかも。
中央政治から離れた場所が舞台なのに、全然退屈しない。
主役そっちのけで関ケ原メインにしちゃった某大河とはエライ違い・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

来週も楽しみ~真田○ヽ(*´∀`)ノ

【10-3_千葉氏内紛】通史①肥前千葉氏

文明2(1470)年11月、少弐政資の介入で肥前千葉氏の内紛は激化していった。

12月ころ?室町将軍・銀閣寺の足利義政が和睦の使僧を派遣してきた。
そのため、千葉胤朝と岩部&少弐の双方が撤退することになった。
これで一旦は終わるはずだったのだが想定外の事態になった。

土一揆が発生したんです!!( ゚д゚)ンマッ!!
ネットもテレビも新聞もラヂオも無い時代。
さらに、この時代は下々の庶民に、上層部の動きなんて一々説明なんてしません。
家や田畑を胤将&岩部らに焼き払われた郷民は、とうぜん彼らを恨んでいました。

和議となったので担ぎ出された四男・胤将+岩部+加勢の少弐勢は、撤収のために不要になった陣屋に火をかけ府中を引き払って行く。
ところが経過を知らされていない郷民は「敵が国主様(肥前千葉当主のこと)に敗れて撤退するんだ」と勘違い。

家・田畑を踏み荒らされた恨みを晴らすべく「行くどぉ!!!(# ゚Д゚)・;'.落ち武者狩りだぁぁ」
と手に手に獲物を持って一斉攻撃(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
不意をつかれた岩部ら400余人が討死 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

時に文明2年12月23日~民衆のリベンジは後に「土一揆合戦」と呼ばれた
ビビった少弐勢は即効で大宰府へ引き上げ、亡き岩部が擁立した千葉胤将は金立へと逃亡した。

家紋・肥前千葉

嫡流は途絶え、大内のバックアップで庶流から当主になった胤朝だったのだが、執権同士の確執から内紛になり胤朝の求心力に陰りが出始める。

文明3(1471)年7月19日、今川義秋(胤秋の子)が一揆を企て、佐賀植木で討ち死にする。
今川家の記事で話した今川家嫡流断絶というのは、このときのことです。
で千葉秀秋が召し出され、肥前千葉氏家臣「持永家」として残るんです。

一方、少弐が千葉氏に介入されるたびに駆り出される対馬・宗氏。
多久市史(833頁)によると、宗氏は少弐への不満から勝手に対馬に帰国してしまったそうです。
以後、宗氏は大内に接近するようになり、少弐氏とは距離を置き始めます。

10月2日、大彗星(長さ1町=109m)が出て、さらに麻疹が大流行し多数が死んだ。
そのせいか、戦のほうは動きが止まります。

宗氏を失ったものの盛り返した少弐は、博多を大友と分領した(海東諸国記)
博多の交易から得る富は少弐の勢威を支えていました。

文明4(1472)年には、少弐が杠(ゆずりは)氏に対し知行を安堵しています(杠家文書)

文明5(1473)年、龍造寺豊前守家弘が、千葉胤朝から偏諱を受けて「胤家」と改名。

で、この文明5~文明8年の間、肥前千葉氏の動きがハッキリ判りません。
が、この3年の間に、千葉氏の牛頭山城を胤朝の弟・胤盛が奪っていたようです。

東千葉氏の祖・胤盛が総領として振る舞い始めたのだが、それは またの話

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【10-2_千葉氏内紛】通史①肥前千葉氏

文明1(1469)年、千葉氏嫡流が途絶え残っている男子は現在3人(緑枠の中にいる人物)

家系図・肥前千葉系図・決定

家督を継いだのは次男・胤朝(長男は既に死亡)、パトロンは大内氏
三男・胤盛、パトロンは少弐
四男・現在空気で後から出てくる

胤朝は弟・胤盛をパトロンしてる少弐からの圧力を嫌った。
そのため少弐に助けを求めた岩部を始末する決断をした。


同年9月9日、胤朝は岩部を成敗するために家臣・仁戸田を大将に、岩部のいる佐賀府中へと派兵した。
ところが、この年に岩部に年貢を免除された百姓・山伏ら1万人が恩返しとばかりに岩部へ合力。
なにせ1万ですよ~あまりの加勢の多さに仁戸田はビックリ!一戦もしないで国府(小城)へ逃げ帰った。

岩部は、千葉胤朝が少弐の取り成しを無碍にしたことを(少弐へ)訴えた。
少弐からの介入を防ぎたい千葉胤朝。
岩部を讒言した中村胤明が、岩部に合力した百姓・山伏らを懐柔し岩部常楽を追放した。

明けて文明2年
2月、応仁の乱・東軍だった大内教幸(西軍で大内当主・政弘の叔父)が周防で謀反。
留守居・陶弘護に敗れて逃亡する。

ちなみに応仁の乱で西にも東にもつかず、のらりくらりしてた大村家親は有馬氏にやられてo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
逃亡先で程なく死亡したそうだ。

岩部を追放してケリをつけたつもりの肥前千葉氏にとって悪い知らせが来た。
同年10月19日、少弐政資の加勢で岩部が挙兵する
岩部は空気だった・・もとい妙法院で出家していた四男を還俗させ、胤将と名乗らせ担ぎ出した

同年11月14日、四男・胤将&岩部勢が国府(小城)へ侵入し城下を焼き払う。
混乱の中、中村胤明が討ち死にした。

同11月28日、さらに少弐政資は宗貞国以下1000騎を加勢し牛頭山城を攻撃。
が、この日は生憎の大雪で、宗貞国は地理不案内の土地なのもあり敗れる。

自前の兵力が少ない少弐政資は便利使いできる軍事力として対馬・宗氏に依存していた。
肥前千葉氏の内紛が切っ掛けとなり、宗氏は徐々に少弐が対馬の兵力をアテにするのを不満に思うようになっていくのだが、それは またの話^-^

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【10-1_千葉氏内紛】通史①肥前千葉氏

応仁の乱は千葉氏の命運を変えました。
文明1(1469)年6月15日、千葉氏10代目・教胤が18歳の若さで死亡します。

応仁の乱で西にも東にもつかずに日和見していた藤津・大村家親に業を煮やした室町幕府が、千葉氏に討伐を命じました。
そのため若き当主・教胤が自ら出陣し、浜松へ着陣。
折しも現地では祇園会の神事が行われていたのですが、そこへ千葉勢が乱入し儀式を妨げます。

すると俄かに晴天が曇り暗闇となり雷鳴と共に暴風雨となった。
千葉勢は「儀式を邪魔した祟り?」「神雷?!Σ(´Д`;) 」とパニック~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
慌てて(暴風雨なのに)船で帰陣しようとして水没し、千葉教胤以下、家臣100余人が全員水死した。

当主は18歳。兄の死により家督を継いで数年しか経過しておらず未だ嫡男がいなかった。(゚ロ゚屮)屮ぇえ!
家臣も一緒に水死しちゃってるし、絶望した一族が入道(出家)で諸国行脚とかし始めたりで、千葉氏は人材不足で衰退した。
これじゃアカン!てことで庶流から・・・さらにぶっちゃけると大内氏からバックアップ受けてた胤朝が当主として迎えられた。
父・胤紹と兄・政胤が千葉宗家に家督簒奪者として殺されてから23年後の事でした。

分かり易く系図、系図・・・アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
家系図・肥前千葉系図・決定

はい、緑枠部分注目~~
カウント⑩の教胤が死んで千葉氏の嫡流が断絶します。
ここから先は緑枠系譜になります。

新体制として千葉氏執権に岩部常楽と中村胤明が任じられました。
ここまでで十分波乱ぶくみだったんですが、ここから内紛は始まります。
本来なら新当主の両輪となるべき岩部常楽と中村胤明が揉めちゃうんです。
まぁ、初めに絡んだのは中村なんですけどね・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)

二人が・・・というか中村が岩部の何が気に入らなかったのかは判りませんが、
同年7月、岩部が佐賀府中に赴いている間に、中村が主・胤紹に岩部を讒言した。
千葉胤紹は・・・・・・・・・・・・中村の言葉の方を信じた。
信じて中村胤明を殺そうとした( ゚д゚)ンマッ!!

北肥戦誌には讒言したとしかないので、中村が何を言ったのかは判りません。
驚いた岩部は神文(起請文)を書いて申し開きをするのだが、千葉胤紹は信じなかった。
困り果てた岩部。太宰府の少弐政資に訴えた。
少弐政資の執り成しで胤朝と中村・岩部は和解する。

一時的に表面的に少弐の顔を立てて。
が・・・これで胤紹が本気になった。
千葉家内輪のことに少弐を介入させた岩部を本気で排除する決断をしたのだが、それは またの話^-^

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相良家文書542_足利義昭御内書

小難しいのが続いたので軽めなので^^/

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

(折封ウハ(上)書)  「相良修理大夫とのへ」

今度凶徒等令退治、遂入洛乞、然者、此節柳営申付条、至諸国殿料申遣候、於馳走者、可喜入候、爲其、差下上野紀伊守候、猶藤孝可申候也、
(永禄十二年)九月廿七日  (足利義昭)花押
                相良修理大夫とのへ

将軍の公式レターが御教書
プライベートレターが御内書
プライベートなので基本直筆です。
敬称が「殿」じゃなく「との」なので礼としては軽いです
文末が「也(なり)」だから命令口調ね^^b

≪意訳≫
このたび凶徒らを退治し遂に入洛しました。(=^・ω・^=)v ブイ
てことで、幕府造営を申しつけます(`・ω・´)キリッ
諸国に負担分を申し遣わしました。馳走してくれれば超嬉しいな(*´pq`)
そのため上野紀伊守(=上野豪爲・将軍御供衆)を派遣しました。そう藤孝(細川)にも伝えておきます^-^


このころは未だ信長と揉める前です( ̄ko ̄)
義陽は幕府造営のために献金したらしく、御供衆・上野豪爲とのやりとりが数通ありますが、割愛させて!Σ(´Д`;)ムズカシイ

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相良家文書541_木上宗心書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
漢字だらけ~~゜ ゜( ∀ )ぅ!?って方は意訳の赤文字部分のみ読んでくださいませ~

(折封ウハ(上)書)(封部分省略)
追而、御茶箱百袋拝領、忝畏入候、毎篇御芳情、難盡愚翰候、殊此表御弓箭之様躰、彼方可被申宣候、替儀候者、可申入候、
爲此表御加勢之儀、植田下野守方被差立候、遠路之儀候處、被顯御心底候段、公私御祝着之由、直  被仰出之条、不及口能候、如貴礼、帰国之刻、於人吉、以御面談細碎承候続、至老中度々申述候、其首尾弥顯然仕候間、至拙者満足仕候、爰許相応不存緩之趣、淵底植田下野守方可被申達之条、閣細筆候、恐惶謹言、
(永禄十二年カ)七月十六日           宗心(花押)
      相良殿  参 貴報

※ちょっと調べるのが大変な人からの書状と、年度推定が難しい(=無理)書状はパスしたので間が空いてます^^;
毛利VS大友で相良が大友に援軍を出してた事は、前回の吉弘鎮信の書状にありました。
今回は具体的に「誰が」派遣されたのか名前が記載されています。
う・・・読み下し・・・が・・・頑張る(´;ω;`)ウッ

追而、御茶箱百袋拝領、忝畏入候、毎篇(まいへん)御芳情、難盡愚翰(ぐかん)候、殊此表御弓箭之様躰、彼方可被申宣候、替儀候者、可申入候、
※愚翰(ぐかん)=自分の手紙を相手に対して謙遜して使う言葉
追伸、茶箱100袋頂きました。忝く畏れ入ります。常々のご芳情に書状だけでは尽くし難いです。
特に此の表(筑前・豊前)における戦いの様子は、彼方へ申し述べます。替わって申し入れします。

此の表御加勢の儀為し、植田下野守方差し立てらせ候、遠路の儀候ところ、ご心底顕(あきら)からせ候段、公私御祝着の由(よし)、
今回の加勢に植田下野守を派遣し遠路のところ来て頂き、ご心底は判りました事、祝着なことです^-^

(宗麟が)直(じか)に仰せ出らせ之条、
我が主が直に言われた事ですが

口能(こうのう=斡旋)に及ばず候、貴礼如く、帰国の刻(とき)、人吉に於いて、御面談以て細碎承り候 続けて、老中に至り度々申し述べ候
まず毛利への斡旋には及びません。帰国の時、人吉で面談し詳しくお聞きします。それは何度も老中へ申しております。


其の首尾は弥(いよいよ)顯然(けんぜん)仕り候間、拙者満足の至り仕り候、爰許(ここもと)相応緩やかな趣存ぜず、淵底(えんてい)植田下野守方 申し達しべらせ之条、閣細筆候、恐惶謹言、
其の首尾は増々明らかになっていくでしょう。自分も満足です。この辺りも緩やかな状況(戦況?)です。
淵底(えんてい)・・・深い話は植田下野守へ伝えます。(宗麟の言葉はここまで)閣細筆候、恐惶謹言(書止めの定型文)

ぜーはーぜーはー・・・・よ・・読み下し怪しいけど、意訳としては大体あってると思ふぅ~~( ̄ω ̄A;アセアセ

まず相良が大友へ援軍として派遣した将は植田下野守という人物です。(監修様分かりますか?^^;)
それに関し丁重な礼を述べており、それやこれやで相良の宛名が日付より上という礼をとってます。

で、どうも相良は毛利との仲介を大友へ申し出てたみたい。
相良には毛利からも(上から目線の)手紙が来てたので、仲介できなくはないですから。
ただ、大友宗麟が「それには及ばない」と拒絶してて、あくまでも毛利とは弓矢で決着つけるつもりだったようです。

大友が若林水軍を使って関門海峡を突破し、大内輝弘や尼子への支援を送ったのは同年10月。
おそらく宗麟には、その構想が既にありウィキペディアによると事前偵察は6月から始まってたそうです。
宗麟が植木に伝えた淵底(えんてい)・・・深ぁ~い話っていうのが、その秘密作戦のことだったかも~~~ウキウキ(0 ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワク
相良は宗麟の壮大な作戦を知っていたか、中身は知らなくても大友が毛利へ何か大きな反撃をするのを知っていた可能性がある・・・その傍証となる文書でした'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`

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河上神社文書173_少弐政資願文

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

奉寄進
河上大明神宮神崎庄小崎郷内田地三町之事
  右、俯冀
武運長久、弓箭堅固、而士卒成勇、人民歸復(服)、得勝於一時、退敵於四方、仍願書如件、
 明応六年三月廿八日         大宰少弐政資(花押)


|復刻版|・ ̄)じぃー・・・・短いし真面目にやるか・・・・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)

寄進奉(たてまつ)る
寄進させて頂きます(-人-)☆彡

河上大明神宮神崎庄小崎郷内田地三町之事
河上大明神宮へ神崎庄小崎郷内田の地・三町
  
右、俯冀
右、伏して願わくば(-人-;)オネガイ(-人-:)オネガイ

武運長久、弓箭堅固(きゅうせんけんご)、而(しか)して士卒勇(ゆう)成り、人民歸復(人民帰服)、一時於いて勝ちを得(え)、四方において(敵)退く、仍(よ)って願書(がんしょ)件(くだん)の如し、
武運長久と弓矢堅固で士卒が勇敢で、人民がワシに従って、戦に勝って周囲の敵が退きますよーにーー(-人-)☆彡オネガイ

土地3町(9000坪=2,700㎡)の寄進で願い事が多すぎです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
※参考:東京ドームが46,755㎡

実は少弐政資は、この年の4月19日に自害することになります。
1月から大内勢に攻め込まれ筑前・大宰府から肥前へと落ち延びたところで、
この3月28日は大内勢が攻め込んで来る直前か真っ最中で、超切羽詰まってる時期の祈願でした。

これ河上社の方も受け取ってはみたものの、、、処理に困ったろうなぁ。
もう大内優勢圧勝状態だったから^^;
実は少弐から寄進は貰いっぱなしで、願文スルーだったりして (._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

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真田丸_籠城10日目

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実に拘る方はスルーしてください^^/

今日も国衆萌えが悶える回でした 川* ̄д ̄*川ポッ 
冒頭で室賀さまが怒ってましたが、これが大国の政治なのですよ (*´ー`)
領地割譲は常に国衆の頭越し。
国衆の兵力を動員して戦してるくせに、あんま舐めんな(`・ω・´)キリッ

信之と本多忠勝のシーン面白かった~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
おお!これは伏線と思ったそばから「将来は・・」のナレで即効ネタバレしてました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

実際の史実の流れは知らないんですが、真田の複雑な動きに沼田問題があったのは事実です。
脚本・演出の中に上手く盛り込まれてて、背景を知らない人にも分かり易かったですね^-^

ところで【黒い北条氏政】にハマってます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
あの悪だくみしてますって黒い笑顔が(・∀・)イイ!

徳川劇場、ババさまも特別出演で面白かった^^
内野家康のタヌキっぷりも良かった。

逆に上杉景勝がお人好っぽいキャラになってしまってるけど、真田の策を受け入れる・・・それだけ当時の上杉がピンチだったんでしょう。

佐助の登場は、前転宙返りか敵地で変装してるかの2パターンで固定ですな ( ゚Д゚)y─┛~~
きっと何処に潜入しても大丈夫なように、各地方の方言はバッチリ会得してるのでしょう (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

今回の衝撃ニュース・・・梅さんご懐妊!!
( ゚д゚)ンマッ!!( ゚д゚)ンマッ!!( ゚д゚)ンマッ!!
視聴者は信繁クンを そんな子に育てた覚えはない~~~・゜・(PД`q。)・゜・

これって出来婚よ・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
失礼、昨今は授かり婚と言うそうで・・・

いつの間にヤルことやって・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
きりさん二人の関係がゴニョゴニョって知ってたのかなぁ (゜-Å) ホロリ

後に有名になる上田城築城。
家康は秀吉対策にも頭が痛いと悩む中【徳川の黒い部分担当:本多正信】が何やら動き出したようです。
嫁姑問題も起きそうだし、無事に済むのか二人の祝言。
来週も目が離せない真田○


田尻家文書20_大友親安(義鑑)書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
漢字だらけ~~゜ ゜( ∀ )ぅ!?って方は意訳・赤文字部分のみ読んでくださいませ~

(包紙上書)
 「田尻中務大輔殿        親安」
(端裏切封)「墨引」
朽網兵庫頭并蒲池民部少輔、石泉庵計策状則預披見候、誠喜悦之至候、毎々如此謀略、不可有盡期候、諸事、不被入敵案覚悟、肝要候、必々、追而一段賀可申候、弥方角之時宜、可被忝心之事、憑存候、恐々謹言、
 正月廿五日         親安(花押)
 田尻中務少輔殿

封が大輔で書状の宛名が少輔になってる理由はシオレベルでは判りませんでした^^;
宛名と日付が同じ位置で丁重な扱いになってます。

朽網兵庫頭并(あわ)せて蒲池民部少輔、石泉庵計策状則(じょうそく)預り披見(ひけん)候、
朽網兵庫頭、蒲池民部少輔、石泉庵の計略を読ませて頂きました。

誠に喜悦の至り候、
こんなに嬉しいことはありません~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

毎々此の謀略の如く、盡(尽)期(じんご)有る可(べ)から不(ず)候、
この謀略のように物事に終わりがないものはありません(`・ω・´)キリッ

諸事(しょじ)、敵に入らせ不(ず)覚悟案ずる、肝要(かんよう)候、必々、
常に敵に付け入られないよう覚悟することが大事です(。-_-。)

追而(ついじ)一段と賀す可(べ)く申し候、弥(いよいよ)方角の時宜(じぎ)、心の事忝らせ可く、憑き存じ候、恐々謹言、
追伸、さらに喜ばしい事だと言わせてもらいますね(^ -)---☆Wink
いよいよ方角も丁度良いし、御心の事は本当に感謝してます。恐々謹言なぅ

じゃっかん読み下しが怪しいんですが、意訳としては赤文字のような感じです。
書状なので年度記載がないんですが、朽網親満の謀反のことを記しているのが内容で判ります。
で、この時に蒲池民部少輔が謀反サイドだということを、田尻氏が大友にリークしてるんですね。
それで大友側が当主自ら書状を出すほど田尻氏に感謝してるわけです^-^

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【公式(くしき)文書_六・解(げ)】古文書学入門(改)

解(げ)は「下から上の役所に出す文書」の様式として規定されていました。
実際には運用が拡大され、個人が役所に出す場合も適用され、
やがて諜や辞の機能も果たすようになり、
個人対個人、下位者から上位者・貴人に対しても用いられました。

文書の形式としては宛名は書かない。
差出人も書かず文中で自然に判る様に盛り込むというメンドクサイことしてます^^;

個人の役所あてのものとしては、今日で言うところの「欠勤届」「休暇願」などがあります。
それで段々と役所に出す願・届・訴の類は解(げ)の様式をとります。
そこから更に訴状関係、個人間の金銭貸借、売買、質入なども含まれ、それらの起源となっていきます。

律令時代のもので尤もドストレートに起源になったものは、この解(げ)です。




やったー公式文書終わった~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
次からは公家様文書に入ります(。-_-。)vブイッ♪
脳に浸透するまで、ちょっと間あきます:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ

テーマ : 歴史
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【公式(くしき)文書_五・諜(ちょう)】古文書学入門(改)

「符」の上の役所から下の役所へ出す文書に対応して
下から上の役所に出す文書を三種類規定した。

一つが「解・げ」これは次の六で説明します。
一つが「辞・じ」これは下級官吏が役所に申達する。
一つが「諜・ちょう」で四等官以上の官吏が役所に申達する。
諜は他に僧綱(全国寺院の統括機関)&三綱(各寺院の中枢機関)が役所と文書を交す場合にも用いられた。

が、これはあんまり守られなかったらしい。
諜はサブ機能だった僧綱&三綱の応答に用いられ、そのうち上下関係のハッキリしない役所間に用いられるようになった。

その点、前回記事にした移(い)に似ています。
「移」が平安期に入ると使われなくなるにつれ、「諜・ちょう」は時代が下るにつれ用途が広くなる。

現在残る公式(くしき)令は、養老年間(717年~724年)までに制定された養老令です。
この後に新設された役所は「令外官(りょうげのかん)」と呼ばれました。

たとえば蔵人所、検非違使庁、記録所、武者所など律令制度からはみ出した部署は上下関係がつけられません。
そこで「諜・ちょう」が用いられ、ついで発生した新様式の下文(くだしふみ)と併用されるようになります。




やっと武家様文書に関係する「下文」の言葉が出てきた・・・il||li _| ̄|○ il||l
次ぎの「解・げ」で公式文書から脱出(←?)できる~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

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真田丸_篭城9日目

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実に拘る方はスルーしてください^^/

えっと~信濃情勢に不案内なので今回はチト難しかった(or難しく考えすぎた?)
てゆーか、昌幸パパンの動きが複雑すぎなんだよヾ(*`Д´)ノキーッ
あぁ、信幸にーちゃんの思わず叫ぶ気持ちのほうに共感してしまうil||li _| ̄|○ il||l

信繁クンは未だ春日さまショックを引きづられておいででした・・・
慰め役は、やはり梅さんですな ( ゚Д゚)y─┛~~
きりさん・・・相変わらず空回りしてるil||li _| ̄|○ il||l

でも、ほら、こういうの。なんていうかなぁ。
言いたい放題だった幼馴染に対して急に女を感じるときって、漫画や学園ドラマの定番パターンにあるじゃない?
きりさんとは、そんな感じになりそう。

複雑に動き回る真田をよそに、北条と徳川は和睦しちゃった( ゚д゚)ンマッ!!
既に北条を裏切り済みで梯子を外された真田。
大国の外交に翻弄される国衆・・・テレビの前で萌えまくり悶絶してましたわ~オホホ

真田昌幸って、タイプは違うけど筑前国衆・秋月種実に似てるなぁ。
あ、個人的な萌えなので気にしないで下さい ・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・

来週も面白そうゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

【9_東千葉の祖・胤盛】通史①肥前千葉氏

自分は肥前の戦国は千葉氏の東西分裂からじゃないかな~と思っていました。
このあたり前後の史料を読んで感じた自分の直感なので、特に根拠はありません。
あえて言うなら、東千葉氏の祖・千葉胤盛の活動が文明年間から見られるようになる事です。

千葉胤盛は「兄(胤朝)よりいと早く死去しぬ」とあったのですが、河上神社文書により胤朝以後の1497年まで存命していたことが判明しており、胤盛は「東千葉氏の祖」と呼ばれています。

家系図・肥前千葉系図・決定
7代目・胤鎮と8代目・胤紹による家督争いで、胤紹は嫡男・政胤と共に討たれました。

で、この時点で4男・胤将は出家しまして(後に担ぎ出された)
次男・胤朝、三男・胤盛と息子の興常が、西国のドン大内氏を頼りました。

肥前千葉総領家では、胤鎮の後を継いだ元胤が急死し(寛正5(1464)年10月)僅か14歳の教胤が家督を継ぎます。
以下、千葉氏HP参照した話なんですが、
次男・千葉胤朝は大内政弘の力を借り九州探題・渋川教直と組んで、若年当主・教胤を追い出そうと画策します。
三男・胤盛の動きは不明ですが、この時点では兄弟ともに大内の後ろ盾を得ていたので行動を共にしてたんじゃないかと。

胤朝の計算が狂ったのは、当然【応仁の乱】
恃みとする大内政弘はソッチが忙しい、さらにドンデン返しだったのが少弐政資が華麗に大宰府に復活しちゃったこと∠( ゚д゚)/ 「アレ?」
大内勢は押され気味で「少弐中興の少弐政資」は勢力を拡大する。
どうやら、このあたりから胤朝、胤盛兄弟の政治方針スタンスが別れたらしい。

あくまで大内を頼る千葉胤朝。
今は勢力が上の少弐を頼るべきとする千葉胤盛。

この二人がスタンスを異にした時から、肥前千葉氏の西と東が分裂する兆しとなるのです。
千葉胤盛は千葉氏の内紛が始まりゴタゴタする間隙を縫い、牛頭山城を奪い千葉氏総領として行動していたようです。
それが文明4~文明8のこと。
千葉氏HPでは、少弐から胤朝に対し城を胤盛に渡すように圧力があったんはないかと推測してます。
城を出た胤朝が入るとすれば、晴気城しかないでしょう。

その前に起きた肝心の千葉氏内紛は、最後の嫡流当主・教胤の死から始まるのだが、それは またの話^-^

テーマ : 歴史
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【8_少弐中興・少弐政資】通史①肥前千葉氏

応仁元年~やっと戦国に入った^^

西国のドン・大内氏は応仁の乱西軍、少弐教頼は応仁の乱東軍。
当然ながら両者は激突する。

そんな中、応仁2年に対馬・宗貞国47歳が兄の死によって家督を継いだ。
この宗貞国が朝鮮との交易で得た莫大な利益をもって少弐氏を全面バックアップする。

実のところ、宗氏が少弐に肩入れする理由(本音?)がイマイチ判らなかった。
ちなみに今 大宰府戦国史(吉永正春)って本を読んでいるんだが、そこにも特に触れてなかったなぁ。
しいて想像するなら先例主義の朝鮮と交易するのに「太宰少弐」が必要だったのかも。

同年12月6日、大内サイドの宗像氏弘が大宰府・有智山(うちやま)城を攻め、少弐教頼をキーーック☆ヽ(#゚Д゚)ノ┌┛Σ(ノ´Д`)ノ
有智山城の場所は福岡県太宰府市大字内山で、竈門神社から宝満山一の鳥居に向かう林道沿いに有智山城への入口があります。
だから後世、高橋紹雲や立花宗茂が関わる宝満山城の近くなんです。
築城年代は不明で少弐氏代々の城。
少弐氏の象徴とも言えるべき城でしたが、少弐滅亡と共に改造?され防塁程度の規模になります^^;

城を出た少弐教頼は大内勢に敗れ、筑前・高祖城において自害。
教頼の息子・政資が家督を継ぎます。

家紋・少弐
(ロン様作成・少弐家紋ロゴ)

明けて応仁3年4月、大友親繁が幕命で豊前に攻め入り大内勢と戦っており、応仁の乱は九州にも波及してました。

4月28日・文明に改元
(。-`ω-)ンー、実は自分、文明年間が戦国時代になるのか未だ室町時代なのか迷ってるんです。
(応仁年間は足掛け3年で短かすぎるし)
それで、再編集している年表では暫定的に室町(抜粋)年表のカテゴリに入れてました。

それはさておき「歴代鎮西志」によると同年5月(or7月)に少弐政資が大内勢を破って大宰府を奪回します。
おそらく、この時には対馬宗氏が少弐に援兵してたと思います。
大宰府長官だった少弐氏は自前の兵力って少ないですから。

大宰府に復活した少弐政資は五州(筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬)太守と仰がれる。
朝鮮との交易は少弐自身も行い莫大な財力を得ており、それは少弐権勢回復に大きく影響していた事でしょう。

この前後に宗貞国は足利義政より御教書をもらい、少弐政資は大宰府を安堵されます。
少弐氏執権は宗盛見と宗貞房。

一方、少弐にとって油断できないのは敵対している九州探題職・渋川教直も朝鮮との交易船を約していたことです。
渋川教直は影の薄い九州探題職・渋川家において最盛期の当主。
彼の代が最盛期だったことに、朝鮮との交易は大きく影響していたでしょう。

さて、さきほど応仁の乱が九州へ波及したと書きましたが、ついには肥前千葉氏の家督にも影響を及ぼしたのだが、それは またの話^-^

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【文明6(1474)年】南九州限定年表

4月26日、島津立久(10代目)死亡(or4月1日)
・島津忠昌(立久・庶長子で唯一の男子)が、家督を継ぐ

・新納忠続、日向飫肥城に入る
・新納是久(忠続弟)、兄に代わり志布院(新納氏本拠地)を任される
・島津久逸、日向串間に入る

・常盤(新納是久娘)×島津善久(伊作島津氏)が結婚

・肝属河内守兼忠(忠昌国人)肝属領主・青山城主
・肝属主税助兼光(忠昌御内)救仁郷領主
・肝属大炊助兼恒( 同上 )庄内山田領主

≪南九州シオ的エントリー:肥後・豊後・日向・薩摩・大隅≫
大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

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【文明6(1474)年】北九州限定年表

・千葉胤資(少弐教頼の子)が産まれる。
※後の肥前千葉氏12代目&西千葉氏初代となる人物。
 父の少弐教頼は1468年に敗死しているので、この生年は誤記かもです。

・有馬貴純~大村純伊を攻撃し大村領を併呑
(西郷尚善~有馬サイドで従軍し、武名を轟かす「中岳(大村市)の戦い」)

・西郷尚善~高城(諫早)城を築城(森山町史)
(北側:本明川、南側:湿地帯)

≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・肥前・筑後≫

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相良家文書534_吉弘宗鳳(鎮信)書状

※吉弘鎮信~高橋紹雲の兄、つまり立花宗茂の伯父にあたります。

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
漢字だらけ~~゜ ゜( ∀ )ぅ!?って方は意訳の赤文字部分のみ読んでくださいませ~

(折封ウハ(上)書)(封部分省略)
追而、嶋織物一端、茶箱百袋、被懸御意候、御懇情恐悦至極候、
御礼之趣、具令披閲、本望之至候、然者、今度御人数被差立候、御馳走之次第、尤珍重候、爰元相応之儀、何様不可存疎意候、此表之事、時々刻々御勝利之条、可御心安候、自今者節々可有御到来之条、毎事期来喜、令省略候、恐々謹言、
   (永禄十二年カ)六月十九日       宗鳳(花押)
 相良殿御報 


宛名の相良が日付より上の位置だ!
相良が大友に援軍を出したって~~~( ゚д゚)ンマッ!!


追而(ついじ)、嶋織物一端(反)、茶箱百袋、御意懸かさらせ候、御懇情恐悦至極候、
追伸;嶋織物一反、茶箱100袋、御丁寧なお気持ちありがとうございます。とっても嬉しいです^-^

御礼の趣、披閲(ひえつ)具し令(せ)しむ、本望の至り候、
御礼の書状、じっくり読ませて頂きました。本望なことです。(=人=)

然者(しかれば)、今度(こたび)御人数差立(さしたて)らせ候、御馳走の次第、尤も珍重候、
さて このたびの兵を差し向けて頂いたこと、尤も大事な事です^^b

爰元(ここもと)相応之儀、何様(いかさま)疎意(そい)存じ可(べ)から不(ず)候、
こちらからも、それに相応して(相良を)粗略にすることはありません(`・ω・´)キリッ

此の表の事、時々刻々御勝利の条、御心安可(べ)く候、
毛利との戦ですが、日々こちらの有利、勝利に向かっておりので御安心下さい^-^

自今(じこん)者(は)節々御到来有る可(べ)くの条、毎事期来喜、省略令(せ)しむ候、恐々謹言、
今後は、たびたびいらして下さるとのことですが、都度の御礼や挨拶などは省略させて下さい。恐々謹言なぅ


兵数や細かい時期など不明ですが、大友へ相良が援軍を出していたようで、その御礼書状です。
そのため書状では、相良の宛名を日付の上に書くという、最上に近い礼を用いています。

相良にしてみれば、毛利(超上から目線)と大友(名門らしい丁寧さ)双方から「うちが勝ってるから(`・ω・´)キリッ」と言われ、今後どういいうスタンスにしたら良いのか判断がつきかねたのでしょう。
大きな戦は数度、そのまま数ヶ月対峙のロングラン長丁場でしたからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
援軍することで、情勢の偵察したんじゃないかな~というのが自分の推測^^

大友の方に援軍した理由は、自分の想像だけど、長年の交際&大友が九州探題だからでしょう。
何より、毛利からの書状が無礼すぎて(上位者のような振る舞い)ハッキリとした決着もついてないのに、相良を毛利の被官同然のような態度だったので、まともに相手する気がなくなったのかと・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

相良が どう判断したかまでは不明ですが、吉弘へ今後も行くと言ってたようなので、最終的には大友が勝利すると分析したのかもしれません。

それにしても北九州の戦に、肥後は人吉から援軍を送っていたとは意外でした。
だって相良は菱刈VS島津の戦にも援軍してましたから。
相良にとって永禄12年は、北も南も修羅場だったようです。

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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