【公家様文書_2官宣旨(かんせんじ)】古文書学入門(改)

はじめに・・・この古文書学は理屈・・・もとい学術的な学問としての解説です。
何か(実技編)を期待した方にとっては「知りたいのは、この方向じゃない」かも、しれないことを予め御了承下さい。
参照:佐藤進一著「新版 古文書学入門」


宣旨の発布方法で更に別ルートがありました。



内侍(ないじ)---ここで内侍宣(ないじせん)=文書で伝える⇒女房奉書が派生

職事(しきじ=蔵人頭)---ここで口宣(くぜん)=口頭で伝える⇒口宣案が派生

上卿(政務担当公家・大臣)

内容によって外記局or内記局or弁官

ここから弁官の部下・書記に渡さず、弁官が署名して発布する様式がありました。

この様式を官宣旨(かんせんじ)と呼びます。
書き方が「左(または右)弁官下(くだす)」で始まるので「弁官(べんかんの)下文(くだしふみ)」とも呼ばれていました。

これまでの律令制のもとでは対象によって「符」だの「牒」のと文書をわけたり手続きも煩瑣でしたが、
一律に下文ですませるという簡便さがありました。
そのため次第に官宣旨が広く用いられるようになります。

官宣旨という様式は、「某下す某」と誰が誰に出すか端的に表すという点で、公式令(くしきれい)の規定以外の新様式文書です。
この官宣旨の様式は各所で広く用いられ一般に下文(くだしふみ)と呼ばれました。

例えば
・蔵人所下文
・検非違使下文
・院(上皇)下文
・女院庁下文
などで、さらには公家の家政処理にも用いられました。

摂政・関白はじめ公卿らは、各自家政機関である政所(まんどころ)から下文を出しました。
政所は平安後期になると三位(さんみ)以上の公卿が特権として設けることを許されるようになります。
この公家政所下文の流れを組むのが、鎌倉武士の下文です。

要約すると
宣旨⇒官宣旨(帝の下文)⇒各所(上皇・女院・蔵人所・検非違使庁)下文⇒公家政所下文
という流れで派生し、そこから武家様文書の下文となります^-^
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とても楽しい夢だった、それは佐賀へ・・・

行く夢ではなく、
佐賀行きの準備をしている夢なんですよ~~

もう遠足前日の幼稚園児かってノリです。ワハハ

夢の中の自分は、バックの中に衣類・デジカメ・・・・あれは持つ、これは現地で?
とかとか、バックから出したり入れたりしてて、夢の中なのにニッコニッコで頬が緩みっぱなし。

目が覚めた後も、細かい内容は忘れてたけど「あぁ(準備が)凄い楽しいなぁ」って気分はシッカリ残ってた。
お陰で曜日の感覚が狂っちゃって、仕事中に間違えそうになるのを必死で堪えました(;'∀')

復興には まだまだ及ばないにしても、新幹線が運行開始したニュースにホッとしました。
佐賀には大きな余震もないようなので予定通りGW出発します。
2泊3日の強行軍っす(=^・ω・^=)v ブイ
(月末、月初が忙しいので前後の休みがとれんのです^^;)

佐賀県の週間天気予報だと5月3日は雨予報( ゚д゚)ンマッ!!
なんとか晴れてくれるといいなぁ~写真いぱーい撮りたい~~(´・д・`)

えっと・・・気温は・・・・25℃・・・・・・・・・・こっちの真夏気温!!!( ゚д゚)ンマッ!!

し・・・湿度も北海道よりアレだよね!アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
は・・・半袖、夏服だ・・・シオだけ?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ! 
地元の人は、どんな服装なんだろう???ヽ(。_゜)ノ ???
いやジモティはジモティ、シオはシオの体感季節感で準備すべ。

何せ、こっちより10℃以上も暑いからなぁ
生理用食塩水を持参するか・・・2本・・・3本は多いかしらん。

不慣れな土地を歩き回るから、ガチで脱水症状予防しないと・・・塩飴もだなぁ 
それと黄砂と名前忘れたナントカ対策にマスクもだな。
どっちも北海道には、ちょっとしか影響ないから道産子は耐性が少ないんですわ^^;

あ!日焼けどめクリームもいるかも。
いや、ハワイに行くじゃないんだから考えすぎ~~~

寒暖差があるだけで、同じ日本国内なんだから~~ネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

あ~~~余計な心配しすぎて肝心なものを忘れそうな悪寒・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
なんといっても海(海峡?)を二つ超えるからして、珍道中は確実・・・・と思って用心して丁度良い感じ?
無事に佐賀へ行って、無事に北海道へ戻れますように~(-人-)☆彡オネガイ

【文明9(1477)年】南九州限定年表

・薩州家島津国久・乗久が、宗家島津忠昌へ帰順する

6月27日、島津季久(豊州家初代)死亡

11月20日、応仁の乱が終息する

≪南九州シオ的エントリー:肥後(相良関連)・豊後・日向・薩摩・大隅≫
大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

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【文明9(1477)年】北九州限定年表

2月15日、大内義隆産まれる

家紋・大内

・千葉氏、平井氏を須古に配し、有馬・大村に備える(江北町史)

・大友政親、足利義政より豊後・筑後守護職に任命される(1462説あり)

・朝鮮修好便来る
 壱岐、佐志、志佐、宗氏ら12氏と修好を約す(松浦市史)

10月7日、千葉胤盛、河上社宝殿に「大宮司千葉介平胤盛」の名で棟札を納める(千葉氏HP)

11月2日、応仁の乱が終息

≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・筑後・肥前・肥後≫

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番外編【鎌倉以来】石井党【頼れる味方】通史①肥前千葉氏

さて、続いて龍造寺・・・そして鍋島の覇業を支えた、とある一門を紹介したい。

その名も「石井一門」または「石井党」

何で書庫が肥前千葉氏かというと、そもそも石井氏は千葉氏に仕えていたからです。
それも肥前ではなく、関東は下総の頃から仕えた譜代家臣(=^・ω・^=)v ブイ

鎌倉中期、石井氏は下総国猿島郡石井郷に居を定めた事から「石井姓」を名乗った。

てことで再び登場の「イザコザ鎌倉~千葉氏系図」↓
系図・千葉氏(鎌倉用)

何度みてもクラクラするなぁ~鏡写し諱,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

石井氏が仕えたのは「肥前千葉」の・・・えっと宗胤⇒胤貞親子の方。

肥前千葉氏は「奪われた総領の座」を奪還するため、下総千葉と度々交戦している。
石井氏は、その肥前千葉の下総における領地「千田庄」の警固を任されていた。

肥前千葉にとって「千田庄領地」は、千葉家嫡流の証。
肥前千葉総領のみが継承する「特別な領地」で、その警護を任されていのだから石井氏は、相当の信任を受けていたようだ。
だが下総千葉氏からの圧迫が強くなり、遂に石井氏は支えきれなくなり敗れて当主が自刃した。

以前記事にしているが、肥前千葉氏は5代目胤泰の時に「総領・千田千葉氏」「庶流・肥前千葉氏」に分かれている。
ちょうど南北朝争乱の時で、離れた領地をキープするのがキツくなって分家したんです。

千田庄の警固役ということは、厳密にいうと石井氏は千田千葉氏に仕えていたのだろう。
千田千葉氏は戦には勝ったが、処世上手の下総千葉氏は「北朝に総領家は下総千葉」とチャッカリ承認されたんです ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
千田千葉は頑張ったけど、下総千葉の勢いに押され戦国時代になると完全に配下状態でした ショボーン..._φ(・ω・` )

千田千葉氏は、いずれ滅ぶか下総千葉に吸収されるであろう。
そんな歴史の流れの中で石井家は「下総千葉に仕えるのを潔良しとしない道」をとった。
父が戦死し残った嫡男は肥前千葉氏を頼り、はるばる九州へと下向~7代目胤鎮に仕えた

てことで「室町~戦国初期の肥前千葉系図」頑張って作ってて良かった (人´∀`).☆.。.:*・

家系図・肥前千葉系図・決定

で、7代目胤鎮の代に家督争いが起きて、大内のバックアップ受けた胤紹が家督簒奪8代目となる。
で、石井氏は胤鎮から、あっさり胤紹に鞍替えした ヽ(。_゜)ノ へっ?

ち・・・忠義のイメージが・・・アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

何しろ下総から肥前に引っ越して10数年たったかどうかって時期なんで、
中国地方のドン大内がバックの胤紹に靡くしか処世出来なかったんでしょう( ̄ω ̄A;アセアセ

その後、胤鎮はリベンジに成功し当主に復活すると、石井氏も胤鎮に降伏。
胤鎮は石井氏を受け入れ帰参を許した。
(最盛期を作り上げるだけの器があるなぁ)

途中経過すっとばして、肥前千葉が西と東に別れるのは・・・解ってるよね。覚えてるよね(願!!
ゴホゲホ・・・とにかく石井氏は東千葉(嫡流家)の方に仕えた。

んで、その流れで竜造寺&鍋島との関わりが深くなるんです。
ちなみに石井氏の領地・飯盛村と鍋島氏の本庄村は、お隣さんです^^b

さて、戦国時代の当主、石井忠義には5人の男子がいた

石井嫡男家/石井和泉守家(家祖:石井忠清)
石井二男家/石井石見守家(家祖:石井忠繁)
石井三男家/石井三河守家(家祖:石井義昌)
石井四男家/石井駿河守家(家祖:石井忠本)
石井五男家/石井尾張守家(家祖:石井兼清)

兄弟喧嘩・家督争いが多い戦国時代で、この「石井党or石井一門」は非常に結束が固く、それは明治に佐賀藩が無くなるまで続いた。

龍造寺隆信が当主になるときに、大いに尽力したのが石井五男・兼清^-^
江上・八院合戦編の鍋島軍で活躍した鍋島茂里、茂賢兄弟は、石井二男家の出です^-^
さらに鍋島直茂の夫人となる彦鶴姫は、嫡男家の姫君 川* ̄д ̄*川ポッ 

熱烈な恋愛結婚と言われる直茂と彦鶴姫。
ほのぼのエピソードは葉隠に残っており、二人が仲睦まじいのは事実だっただろう。
だが直茂にとり、彦鶴姫の背景にある「石井党」の力が魅力だったのは否めない。

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彦鶴姫「ホントは父や叔父たちの力が欲しいだけなんでしょ~
信生「いや違う!あっ助力は欲しいけど、じゃなくて、初めて会ったときは石井家の姫君だなんて知らなかったよ~
彦鶴姫「ほんと?ほんとに?」
信生「だって台所で働いてたから、家中の誰かの娘かと・・・」
彦鶴姫「イヤン 川* ̄д ̄*川ポッ」

ラブラブ逢引き中に、、、てな会話でもしてたんですかな~~( ゚Д゚)y─┛~~

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真田丸_籠城16日目【表裏】

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/




稲姫、初登場~~キリっとした美人・吉田羊さん。
好きな女優だから嬉しいな^^
信幸ニーちゃんが尻に敷かれる未来予想図しか浮かばない初登場シーンでした。

てか本多忠勝は親バカキャラだったのか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

信繁の運命も二転三転を通り越して、もはや流転ですな ( ゚Д゚)y─┛~~
馬廻衆って、もっと緊張感ある部署だと思ってたんだが・・・・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)
上司(平野)のキャラのせいか、えらく緩い。

でもないか~違う意味で命の危険があるみたいだし(-ω-;)ウーム
茶々は完全に魔性の女キャラ・・・かな?
複雑な生い立ちだから、彼女なりの自衛手段かもしれないけど傍迷惑だ。

長宗我部が臣従して九州征伐が始まる話が出てるってことは、天正14年(1586)の頃か。
龍造寺や相良の名前が出て、ちょっと嬉しかったりする 川* ̄д ̄*川ポッ
(人質予定の話だけど^^;)

きりさんは相変わらずチョロチョロと信繁の人生に絡むんだなぁ~
邪魔くさぃ・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

羽柴秀長が渋いわ~(人´∀`).☆.。.:*・
利休は絶好調に三枝さんが一癖も二癖もありそうな御茶頭(ごさどう)様を演じてます。
石田三成と、どう絡むのか楽しみだな(*´pq`)

大谷の娘と信繁の結婚はいつになるんだろう。
夏くらいには関ケ原まで行かないと、メインの大坂の陣に時間とれなくなるなぁ
ま、そのあたりは三谷脚本だから緩急メリハリ巧くやるだろう・・・・たぶん^^

しかし秀吉は真田の表裏云々を言える立場かと・・・・ブツブツ(-ω-#)
政治の世界は表裏だらけなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
いよいよ真田の大ピンチ~~次も目が離せない真田○!

相良家文書546_大友宗麟書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
漢字だらけ~~゜ ゜( ∀ )ぅ!?って方は意訳の赤文字部分のみ読んでくださいませ~
○コノ文書、端に切封ノ紐ノミヲ存セリ

龍造寺山城守(隆信)事、先年依詫言深重、令赦免候處、毎々一雅意之企、殊今度松浦表錯乱已来、逆心顕然之条、誅伐無余儀存、爲肥筑検使、成大寺(豪栄)森越前(宗智)入道差遣候、就中、至有馬表一行申催候間、此節別而可被忝御心事、可爲連々申談首尾候、猶年寄共可申候、恐々謹言、
  (永禄十三年カ)三月廿七日       宗麟(花押)
             相良殿 

龍造寺山城守(隆信)事、先年深重(しんちょう)な詫言依(よ)り、赦免令(せ)しむ候處、
龍造寺隆信の事ですが、先年 深い詫びがあったので許してやったのに、

毎々一雅意(我意)の企み、殊今度は松浦表錯乱(さくらん)已来(いらい)、逆心顕然(けんねん)の条、誅伐(ちゅうばつ)余儀無く存じ、
またまた企み、今度は松浦表の錯乱以来であり、大友に歯向かう心がハッキリしました。
これは誅伐(罪ある者を攻め討つ)以外ないでしょう(`・ω・´)キリッ

肥筑(ひちく)検使(けんし)を爲(な)す、成大寺(豪栄)森越前(宗智)入道を差し遣わし候、
肥前&筑前の(事実を調べる)検使として成大寺(豪栄)森越前(宗智)入道の二名を派遣します。

就中(なかんづく)、有馬表至り一行(いっこう)申催し候間、此節御心事別而(べっして)忝ら可(べ)く、連々(つらつら)首尾申談爲す可(べ)候、猶(なお)年寄共申し可(べ)く候、恐々謹言、
特に有馬表に着いて申し入れしてる間への御心はとりわけ忝く、細々とした首尾は申し談じます。
なお老臣にも申しておきます。恐々謹言。


宗麟がせっせと相良に北九州情勢を知らせてくれるので助かります,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
北九州が不穏なままだと宗麟の威信に関わるからっていうのもあるんでしょう。(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

で、龍造寺誅伐前に事実関係を調査する検使を二名派遣しました。
これが大友が守護職であり九州探題である所以(ゆえん)で、さっさと討伐すりゃーいいのに正規の手順は律儀に守るんですわ ・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)

龍造寺は大友の力には神妙にしてるけど、大友という権威に服しているわけでなく、そのあたり太々しいというか図太いというか。
検使が来たからってビビったり動くのをやめるような、可愛らしさがないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

で、その検使が有馬表にいる間に相良が何か心遣いをしたようです。
それもあって書状を出したみたい。
詳細はあとで知らせますって言ってるし。

てことは有馬⇔相良間の海洋ルートは未だ機能してたってことかな?・・・|相良家文書|・ ̄)じぃー
ちょっと年表整理が未だ天文年間してるから、前後の事情は調べなおさないとわからんです。

島津とヤバいことになってる相良にとって、大友との友好関係は外交上必要な事。
逆もまた然り。
このマメなやりとりに、相良が大友に気を使い、大友も相良に気配りしているのが覗えます。

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田尻家文書24&25_大友親安(義鑑)官途受領書出&継目安堵状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

(折封上書)
 「田尻右京亮殿        親敦(=義鑑)」
(異筆)「十一月一日、遠江守治種ニ任ス」
遠江守所望之由、承候、可存知候、恐々謹言
 十一月一日          親敦(花押)
   田尻右京進殿


意訳:遠江守の官位が欲しいとのこと、承知したことをお知らせします。

(包紙上書)
 「田尻又三郎殿        親敦」
(異筆)「永正十八年十一月一日、治種跡式継目補任也、
                        伯耆守親種若キ時分名也、」
親父治種一跡之事、任相続之旨、領掌不可有相違候、恐々謹言、
   十一月一日        親敦(花押)
     田尻又三郎殿

意訳:父・治種の跡を継ぎ領地相続を安堵します。

パパン治種で「遠江守」の武官をもらって、同日にパパンの跡を息子・親種が継ぐことを認められた。
(どっちも短いし)連動している文書なので二つ同時にあげました。

年度の特定は異筆からではなく、相続した領地詳細である「知行坪付」発布されており、それに永正18年とあるからです。
それと永正18年は8月23日に大永に改元されているので正確には大永元年の事になります^-^

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河上神社文書177_千葉胤勝同興常蓮著書下

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

肥前国佐賀郡河上山座主職、并御社領等之事、任先例之旨、可有執務之状如件
天文弐年
 十月十七日       平(千葉)興常(花押)
                  平(千葉)胤勝(花押)
  河上山
   実相院

これは簡単に意訳で__φ(.. ) カキカキ
河上山実相院に座主職と社領を先例通り安堵しますよ~って事です。

実相院というと京都の方が有名ですが、ここ肥前では河上神社の別当寺院のことです。
※別当寺(べっとうじ)とは、神仏習合だった時に、神社を管理するために置かれた寺。
従って、実相院のトップ=河上神社のトップ⇒⇒座主職が兼務だったんです^-^

この年は大内義隆家臣・陶興房が北九州の彼方此方でハッスル攻略してた年です。
で両千葉氏が連署で出してるって事は、和睦してたってことでしょう。
蓮著の場合、左側が上位者です。
この横書きでいうと、下の方に書いたのが上位者 |文書|・ ̄)じぃー
西千葉氏を上位者という位置づけにしてます。

同年に陶勢と少弐勢が神埼郡で合戦してたんです。
勝敗がハッキリ調べきれなかったんですが、
結果として東西千葉氏が和睦し、西の胤勝が上位者になってるのを見るに、少弐側が勝利したんでしょうな( ゚Д゚)y─┛~~ 

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【公家様文書_1宣旨(せんじ)番外編】古文書学入門(改)

はじめに・・・この古文書学は理屈・・・もとい学術的な学問としての解説です。
何か(実技編)を期待した方にとっては「知りたいのは、この方向じゃない」かも、しれないことを予め御了承下さい。



宣旨と同系統の文書として検非違使(けびいし)別当宣(べっとうせん)がある。
(※手っ取り早く、結論を知りたい方は下記の赤文字部分に飛んで下さい)

つまり朝廷の役所として二大柱が蔵人所と検非違使庁なんです。

まず【別当】というのは検非違使庁の長官です。
【別当宣】とは別当(=長官)の命令を被官が承って宣するもの。

簡単に言うと【検非違使庁長官が出す命令】です^^/

別当宣は勅宣(=帝の宣旨)に準ずるものとされていました。
従って、別当宣に従わない事は【違勅・いちょく=帝の命に逆らうこと】と同様の罪とされました。


ちなみに公家様文書は、その4までだけど一つ一つの章が濃い^^;
公式(くしき)文書で習ったことが零れ落ちる予感・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

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【公家様文書_1宣旨(せんじ)】古文書学入門(改)

はじめに・・・この古文書学は理屈・・・もとい学術的な学問としての解説です。
何か(実技編)を期待した方にとっては「知りたいのは、この方向じゃない」かも、しれないことを予め御了承下さい。宣旨は蔵人所が設置されてから発生しました。

その発布の流れは下記のようになります。

内侍(ないじ)
職事(しきじ=蔵人頭)
上卿(政務担当公家・大臣)
内容によって外記局or内記局or弁官
発布

赤文字部分
内侍から蔵人頭に渡される文書は内侍宣(ないじせん)と呼ばれていました。
鎌倉時代以降に出る「女房奉書」は、この内侍宣の流れを組む文書です。
青文字部分
この伝達は口頭だったのですが、間違えたり忘れたりしないように覚書・手控えを用意してました。
この蔵人頭のカンペを口宣(くぜん)と呼びます。
このカンペは後に効力を持った文書となり口宣案(くぜん案)と呼ばれるようになります。
さて緑文字
大臣から弁官に通達された場合の発布方法がありました。
大臣
弁官
所属書記・史(さかん)←ここで草案_φ(.. ) カキカキ
発布
といった感じ^^b
その他に宣旨と同系統の文書があるのですが、それは番外編に続く(=^・ω・^=)v ブイ

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真田丸_籠城15日目

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/

今回は全体的に秀吉を中心に、その周辺の人物紹介のような放映でした。

つい笑ったのは佐助・・・・
あれだけ忍びっぽいキャラだったのに、まだ極めてなかったのか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

幸パパと薫ママは、いい夫婦ですね (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

信幸ニーちゃんが、ちょっと可愛そうだけど・・・・
あの真面目キャラが本多の稲姫と、どんな夫婦になるのか今から楽しみだなぁ(*´pq`)


秀吉の人物像なんて、自分もまとまらないわ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
地方の研究が進むことで秀吉の研究が進み、
秀吉の研究が進むことで地方の研究が進む。
まだまだ謎だらけだな~が、正直な感想。

上杉景勝、グダグダしてたようですが迷うのをやめたようです。
逆に直江は迷いがないキャラですな ( ゚Д゚)y─┛~~

真田が上洛を拒んだままのようだけど、家康の上洛と どっちが先だっけ?
細かい時系列は「北条年表」やウィキペディアを検索すれば判るんだけど、
それじゃつまんないもんネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

大谷と信繁の出会いは石田三成を介してっていうのが、先の伏線として分かり易くて良かった^^
石田三成は、石田なりの筋を通すキャラなんですね。
でも説明されないと「筋の法則性?」が周りに判らないかも。(-ω-;)ウーン

利休・・・茶を通して人を見抜く男・・・やな茶席だな・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
茶席に身分の上下はないはずなのだが、立場上遠慮してるうちに信繁の位置が隅っこギチギチになってるのが面白かった。
だって、現実にありそうじゃない?

しかし、きりさんはウザキャラを通り越して無礼キャラだなぁ。
主筋にあたる信繁に、対等の言葉遣いするし。
主筋の前で膝を崩して座る武家の子女を時代劇で見たのは初めてかも(爆

でも何でもかんでも現代目線にしちゃうんじゃなくて、一人のキャラだけに現代目線や態度をさせるのはスッキリしてて(・∀・)イイ!
本気かポーズか、真田を懲らしめようとする秀吉。
裏が表か表が裏か。
そんな駆け引きの中で真田が、どう動くのか来週も楽しみ真田○

【文明8(1476)年】南九州限定年表

2月、北原氏と相良氏が抗争
(島津国久と季久は相良に与するよう主張したが、島津当主・忠昌が拒否)
2月、島津宗家と相良&菱刈が揉める

8月22日、9月9日、9月11日、9月15日、豊州家・島津季久から相良へ書状「相良家文書」

9月12日、桜島大噴火~海中2里余り埋まる。死者多数。沖小島と鳥島が出来る。

9月?日、相良為続~島津国久(薩州家)・季久(豊州家)の内意を以って牛屎院を格護(以後20年)

・薩州家島津国久・乗久が挙兵~大隅・国分領へ侵入。忠昌が救援に来たので撤退する。

・豊州家島津季久、相州家島津智久が同時期に謀反。
(豊州家は帖佐(ちょうさ)で挙兵、島津当主・忠昌は一時、伊集院に避難)

・相州家が鎮圧されると豊州家も降伏。薩州家は出水で半独立状態となる。

≪南九州シオ的エントリー:肥後(相良関連)・豊後・日向・薩摩・大隅≫
大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります。

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【文明8(1476)年】北九州限定年表

2月3日、千葉胤盛、河上山座主へ兵部少輔が料田を乱したので「高木姓」の使用を末代まで禁止する「川上神社文書204」
(1473~1476年の間に、胤盛は胤朝から牛頭山城を奪う)

2月?日、千葉胤朝、大村日向守家親を藤津郡で破り、大村領を併合
2月?日、大村日向守家親、有尾城から内田城へ入る「歴代鎮西志」

・(平戸)松浦豊久(22歳)、佐々(北松浦郡)を併合する(松浦家世伝)

・大友政親、父・親繁より家督を譲られる

≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・筑後・肥前・肥後≫

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真田丸_籠城14日目

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/

前回が濃縮すぎて、今回はボーーーっと見てるうちに終わった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
最後の紀行・・・細かい話だが、ここは大坂城と表記して欲しかったですな ( ゚Д゚)y─┛~~

前回きりさん、後妻(狙い)宣言?してたみたいだけど早速ギブアップしたようで・・・(*´pq`)ぷぷぷ
だいたい、きりさんって乳母ってキャラじゃないわよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
赤ん坊より本人の方が我がまま・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

あ~あ、あんなに泣かせて、ひきつけ起こすじゃない(・A・)イクナイ!!
作兵衛さんに託されて、信繁も視聴者も安心しました。( ̄ω ̄A;アセアセ

愚痴ってる信幸ニーちゃん・・・・ママンの膝と妻の膝の区別がつかないとは、実はマザコ・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
心なしかメイクなのか、本日の年齢不詳病弱妻は顔色が良かったです(・∀・)イイ!

顔色が優れないのは梅さんロス信繁と上杉景勝です。
二人とも「頭では判ってるけど、心がついてこれない症候群」重症のようです( ̄ω ̄A;アセアセ

北条だけは態度明快で清々しく黒かった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

今日は稲姫が出るかと思ったけど、よく考えたら時系列的には家康の上洛が先だよな・・・
地震を気合で止める男・・・本多忠勝(`・ω・´)キリッ

石川数正が真田叔父の工作で寝返ったって新解釈だわ~~
酒飲んでグダ巻いてるけど、気にしなーい!
数正さんの親族は徳川に仕えてるから!(=^・ω・^=)v ブイ
10万石は息子の代でアボンになるのは、ここだけの話・・・( ̄ko ̄)

偉そうな態度では直江に負けない、石田三成。
今回の話では、二人が特に親しくなる素振り(シーン)はなかったな~
山本さんのファンのせいかしらん?直江より洗練されて見えるわ~(*´pq`)

あぁ、なんか?大坂に向かう信繁にくっついてきた人がいたけど、誰でしたっけ?
なんか凄いウザかったけど ・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)

さんざん話を引っ張られたけど、秀吉との対面は次回持ち越しですね (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
次回はどんな事になるやら真田○!

【11-4_千葉氏東西の黎明】通史①肥前千葉氏

筑前では大内勢に後れをとった少弐政資だが、肥前での威光は衰えていなかったようです。

文明17(1485)10月20日、仁比山社(佐賀・神埼郡)の社領を安堵する「佐賀市史」
同年12月3日、光浄寺(佐賀・三養基郡みやき町)の寺領を安堵する「佐賀市史」

といった感じで、神社仏閣の領地安堵は上位者の証明(=^・ω・^=)v ブイ
これらの資料により、少弐が肥前千葉氏に介入するだけの力があったことが覗えます。

翌文明18(1486)4月15日、弟・千葉胤盛が河上実相院に佐賀郡神野などの土地を安堵「佐賀市史・年表」
このころの千葉胤朝・胤盛兄弟は協力関係だったみたいです。

家系図・肥前千葉系図・決定
胤盛嫡男・胤棟(のちの興常)が胤朝と養子関係でしたからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

同年、5月17・18日に洪水発生。
豊後・筑後・肥後の人民牛馬が多数死ぬ。


そして洪水が治まったであろう時期に騒動が起きた・・・
同年10月、行方不明だった弟・胤将が蜂起
国府(小城市)を夜襲し、千葉胤朝が討ち死にしてしまう。

謀反張本人の千葉胤将は、少弐政資が討伐に来るという噂を聞くとトンズラ・・・失礼、逐電し再び行方不明となり二度と史料に出てくることはなくなる。

このあたり、少々勘ぐりたくなる。
勘ぐり1)討伐の噂を流したのが少弐本人じゃないか?
勘ぐり2)千葉胤将を唆したのは少弐本人じゃないか?

とはいえ、これはあくまで想像の域を出ず、史料的には何も根拠のない話なので引き出しに仕舞って・・・っと。

とにもかくにも胤朝が戦死したので、千葉氏総領は胤盛の嫡男にして胤朝の養子である胤棟がなるべきで、それで千葉氏の兄弟同士過去に揉めたのは水に流れるはずだった。

が、少弐政資が肥前千葉氏の家督に介入する。
同年12月3日、少弐政資実弟・胤資と戦死した胤朝の娘と結婚し千葉氏を立てる。
千葉肥前守胤資、肥前千葉庶流にして西千葉氏の誕生の瞬間です。

千葉氏総領家は千葉胤盛と胤棟(=興常)の系譜。(`・ω・´)キリッ
その証に親子ともに、千葉家総領の名乗りである「千葉介」を名乗っています。
これは少弐政資による、肥前千葉氏の家督乗っ取り、併呑(へいどん)なのです!

少弐に反発した胤盛、胤棟親子は、大内氏を頼るため一時的に肥前を離れたのだが、それは またの話^-^




肥前千葉氏が東西に分かれたことをもって、肥前千葉氏篇を終了したいと思います。
次回よりは肥前通史②剛忠(家兼)さんの時代篇とします^-^
千葉氏嫡流の解釈が真逆になったのと過去記事の間違いなどもあり、こちらも新たに書き直しとなりますが、引き続きお付き合い頂ければ幸甚です。
何卒、宜しくお願い申し上げますm(__)m

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【11-3_千葉氏東西の黎明】通史①肥前千葉氏

小城市郷土史研究が進み、かつて嫡流は西千葉と言われていたのが、東千葉氏という解釈が出て、自分自身も史料入手で確認。
ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
とても過去記事の補足でどうにか出来る状況ではないので、全部やりなおす羽目になってる凝り性バカです。

そんな中で、この方・・・・少弐政資は平常運転。「没落⇒復活⇒また没落」と安定の少弐クオリティ(-人-)☆彡
文明14(1482)年春、少弐政資は足利義政の勘気を蒙り、大宰府から肥前へと移る。
少弐を中興させた政資は暴慢な振る舞いをしてゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.されたのだが、
それを将軍家にチクったのは大内です( ̄ko ̄)

同年4月13日、少弐政資が神埼郡の川上社領を安堵している「川上神社文書」ので、4月の時点で肥前入りしてたと言われてます。
北肥戦誌によると佐賀与賀に城を構え、ここに拠るとあり、かつて少弐教頼が亡命のために住んだ与賀の館を利用しました。
さらに与賀神社を鬼門の鎮護としています。

(藤龍家譜)では龍造寺家氏を頼り、家氏が館を改修したとあるようなんですが、年代的に家氏が匿ったのは教頼の方で、政資を匿ったのは龍造寺康家(剛忠(家兼)パパン)だと思います。

同年10月、少弐政資は邪魔な渋川万寿丸の綾部城を攻撃し落とす。
渋川氏は筑前へ亡命しました。
九州の政庁・太宰府の長官である少弐氏は、九州探題である渋川氏と長年対立していました。
渋川単独では九州統治が進まず、室町幕府が大内に渋川を助力するように命じます。
この大義名分の下で大内氏は九州へ介入するようになったという前提あり。

少弐にとって肥前・神埼郡にいる渋川をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!することは、肥前で羽を伸ばすためにも必要なことだったんです。
怒った大内政弘が公儀へ申し立て、将軍家が御教書(=公式文書)を発布。
「近隣の御家人は渋川へ合力せよ(`・ω・´)キリッ」
この将軍家の言葉により、少弐は肥前からも亡命する羽目に・・・・トホホ

文明15(1483)少弐氏は筑前へ進出し大内勢と戦う「佐賀市史」
同年秋・少弐氏は再び綾部城を襲い渋川氏を敗走させる

室町幕府(怒!)
同年10月25日、室町幕府は渋川万寿丸に大内と共に少弐政資を討つよう命じる
歴代鎮西要略によると、文明16(1484)に大内政弘が陶弘仲をして少弐勢を筑前で撃つとあります。

徐々に旗色が悪くなる中で、まだまだ粘る少弐氏なのだが それは またの話^-^

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【11-2_千葉氏東西の黎明】通史①肥前千葉氏

文明9年、応仁の乱が終息し、大内が再び九州にチョッカイ出し始める。

文明10(1478)年9月、正任記によると大内政弘が豊前・筑前に侵攻、少弐政資を破り、これらを領有した。
同じく9月に肥後・菊池重朝が筑後へ討ち入り、国人を斬り従え自領とする。
肥後・菊池氏に抵抗し、星野氏は大友へ属した。

大内の侵攻を受けた少弐は、肥前には(まだ)逃げてなかったようです。

同年10月7日、佐賀市史によると大内政弘は秋月種朝等を使い、千葉胤盛を攻めさせた。
これは千葉胤盛が大内政弘からの和議条件を拒んだからです。
だって条件が牛頭山城から退去して、兄・胤朝に明け渡せって内容だったんだもんネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

で、大宰府を追い出された少弐らは、対馬に逃げてた。
同年10月12日、同じく正任記によると大内政弘は、宗貞国に対馬に入った少弐残党を討たせた。
かつて少弐政資を匿いバックアップしていた宗貞国だったが、肥前千葉氏のために対馬の兵を便利使いされることに怒って少弐から大内にシフトチェンジしてました。
筑後は菊池氏が侵攻してるし、けっこう四面楚歌ちっくな少弐政資^^;

で、少弐を大宰府から追い出した大内政弘は、博多に入りました。
同年10月23日に渋川万寿丸が博多にいる大内政弘を訪ねてます(正任記)

・・・・・文明3年の段階で、博多は少弐と大友が分領してました(海東諸国紀)
7年後の文明10年で大内が博多に入ったということは、少なくとも少弐領有の博多領は大内に接収されたのでしょう。

少弐の勢力が衰えるということは、少弐のバックアップを受けていた千葉胤盛にとってもピンチです。
頑張れ少弐!千葉胤盛のために負けないでくれたまえ!(`・ω・´)キリッ

てことで少弐粘ります。
文明11(1479)年閏9月15日、少弐政資が大宰府天満宮別当・大鳥居氏に肥前神埼荘石動村の地を安堵する(大鳥居文書)
同年11月19日、少弐政資が筑紫満門の領地を安堵する「筑紫家文書64」
家紋・少弐 ロン様作成:少弐家紋ロゴ

経緯不明ですが、少弐が大宰府天満宮別当に領地安堵するっていうことは、大宰府に返り咲いてるってことです。
大内と和睦したのかもしれません。

で、どうやら千葉胤朝(兄)と千葉胤盛(弟)も和睦し、兄が当主&河上社大宮司に復活したみたい。
文明12(1480)6月19日「河上神社文書」によると、同じ日に兄弟それぞれで河上社領を安堵しています。
が・・・文書の表現のニュアンスが兄弟で違うんです ( ̄ko ̄)
兄のほうがサラっと「知行安堵」と書いてて、弟の方が「御知行安堵」としています。
つまり兄の方が上位者なんです。

ここで思い出さなきゃならないのが、弟・胤盛の嫡男で東千葉氏初代の興常が、胤朝と養子関係だということです。
千葉興常が、いつ胤朝への養子になったかは不明ですが、両者が和睦する条件だとしたら不自然じゃありません。
胤朝には男子がいませんでしたから。

とにかく胤朝の養子である千葉興常に肥前千葉氏の家宝が譲られているので、
肥前千葉氏嫡流は西千葉ではなく東千葉氏だというのが最近の見解なんです。

一方、大宰府に復活した少弐の栄華も長くは続かなかったのだが、それは またの話^-^

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真田丸_籠城13日目【決戦】

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/



本日もカルピスを原液で飲んでいるような濃縮した放送でした 川* ̄д ̄*川ポッ 
本多忠勝が何故ワシが留守なんだ!!!(# ゚Д゚)・;'.~~と怒ってたけど、
確かに徳川四天王で一番戦上手の彼だったら、真田の作戦に引っかからなかっただろうなぁ。

とにかく本多忠勝という武将は、実戦の最前線における戦場勘が半端じゃいスペック。
何しろ戦地見回りの時にウ○コを踏んだだけで(人糞と判断した上に形状・臭いで)敵が近くにいると察知する、人感センサーみたいな男だから・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)
いえ鳥居は鳥居で良い武将ですよ~伏見城でアレする人ですしね (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

同じ城で同じ敵に二度敗れたことで、「家康は城攻めが苦手」のレッテルが貼られますが、別段下手という根拠はないです。
本当に下手なら大坂城は落とせない。
そもそも城攻めは力攻めするのは最後の最後(か、初戦で打撃を与えるため)で、工作して裏切り者を出し内部から崩すのがベストのやり方なんです。
ちなみに城攻めは城兵の3倍が定石なので、この上田攻めの徳川勢7000は定石より多く配しています。

そのぶん、油断したってのはあるかなぁ~秀吉を破って乗ってるときだしネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
まぁ、地元で地形を知り尽くしている上にゲリラ戦(奇策)を得意とする真田に大軍で攻めかかったら、
徳川なんぞ格好の餌食ですわ~( ゚∀゚)フハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

ところで、きりさん・・・・あなた真田の六連銭を知らないって、それでも真田家臣の娘(の設定)ですか^^;
武家が二つ以上の家紋を持つのは普通ですよ。ふ・つ・う。
衣類や持ち物に付けるのは定紋(じょうもん)、戦場で旗につける紋は別の紋。
ちなみに徳川の伝令用の旗に付けられる紋は「五」の文字ね(^ -)---☆Wink

それにしても・・・作戦会議で(つきたて?)餅を使う必要があっただろうか|大河|・ ̄)じぃー

今回は梅さんが死ぬ伏線だかけ。どこの場面かとハラハラさせて、
「お、これは真田が勝ったから無事か」と思わせて、やっぱり亡くなりました~~と切ないラストでございました(-人-)☆彡
信繁の青春の終わりとともに、散った梅の華・・・あぁ 切ない(゜-Å) ホロリ

きりさんが「この子は あたしが育てる」って「乳母?宣言」してましたが、逆に故人の心残りになるんじゃないかと・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
来週は信幸兄ぃと忠勝の娘・稲姫との縁談が出るっぽい。
病弱な兄妻はどうなるんだ?
来週も目が離せない真田○

【11-1_千葉氏東西の黎明】通史①肥前千葉氏

文明4年~7年にかけて千葉氏の記録がガクっと減る。
家系図・肥前千葉系図・決定

系図をもとに整理すると文明年間における肥前千葉氏は緑枠系譜
長男:政胤は既に死亡
次男:胤朝が当主(後ろ盾:大内氏)
三男:胤盛、胤朝と争う(後ろ盾:少弐氏)
四男:胤将、謀反で担ぎ出されて現在行方不明の空気

てことで当主の椅子とりゲームは次男:胤朝と三男:胤盛の争いとなり、これがそのまま西千葉氏と東千葉氏となっていく。

対馬・宗氏が便利使いされることへの不満から少弐氏から離れて大内寄りになってしまったのだが、
博多から得る交易の利益は、少弐氏の勢威を支えていた。

文明4年9月24日には、少弐氏が杠(ゆずりは)氏に対して知行安堵状を発布している。
少弐・・・元気です(=^・ω・^=)v ブイ

文明5年に龍造寺家嫡男:豊前守家弘が、千葉胤朝から偏諱を受けて「家弘⇒胤家」を改名する。
のちに龍造寺胤家が西千葉氏に肩入れしたのは、ここらあたりに遠因があったかもです。

文明6年には西肥前の動きが活発。
・有馬貴純が大村領を併合
・西郷尚善が伊左早(諫早)を統一し、高土(諫早)城を築城する。(森山町史)

文明7年には有馬に領地をとられた大村純伊が、家臣を身代わりに潜伏したそうな^^;

で、この4年間の間に兄で当主の千葉胤朝と弟の胤盛の地位が逆転したらしい
考えられる直接の原因としては少弐氏からの圧力で、胤朝が牛頭山城から追い出された。

文明8(1476)2月3日、河上神社文書によると千葉胤盛が、神社の社領で乱暴した高木の者に「高木姓」の使用を禁止している。
元河上神社大宮司の系譜だった高木氏の一族を罰するということは、胤盛が実質の当主として振る舞っていたのであろうし、
おそらく河上神社の大宮司も胤朝から胤盛に移っていたのではないだろうか。

追い出された胤朝は、たぶん御近所の晴気城に移ったと思われる。
地図・晴気と牛頭
こんくらい近所で目と鼻の先レベルですな ( ゚Д゚)y─┛~~

歴代鎮西志によると追い出された胤朝は、同年2月に藤津郡で大村日向守家親を破っているので、藤津へ勢力を広げることによって盛り返そうとしてたみたい。
てか大村は有馬からも千葉からも、やられてばっかり,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

文明9年、千葉氏は平井氏を須古に配置し、有馬・大村への備えとした(江北町史)
後に有馬へ寝返る須古・平井が、須古の歴史に登場する瞬間です(-・-)

同年10月、千葉胤盛は河上社の宝殿へ「大宮司千葉介平胤盛」の名で棟札を納める(千葉氏HP)
この棟札によると兄・胤朝を凌ぎ、弟・胤盛が当主で大宮司だったことが明瞭です。
「千葉介」は千葉氏当主が名乗るものですし|HP|・ ̄)じぃー

戦国時代で、このままで終わるはずがない。
千葉胤盛にとって微妙なことに、この文明9年に「応仁の乱」が終息しちゃうんです。
「応仁の乱」が終わるということは、ドン大内氏に余力復活するということ。

大内VS少弐、即ち、兄・胤朝VS弟・胤盛の争いが始まるのだが、それは またの話^-^

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相良家文書543_(また)木上宗心(からの)書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
漢字だらけ~~゜ ゜( ∀ )ぅ!?って方は意訳の赤文字部分のみ読んでくださいませ~

(折封ウハ(上)書)(封部分省略)
追而、中紙五束拝領、毎便如此之儀、忝次第候、萬々重畳可得貴意候、
今度東式部少輔方爲御番代参陣、尤目出候、於爰許相応不存緩疎之趣、彼御方御存知之前候、就中、小城表聊入目之折節、別而御馳走之段、御真実顕然之由、公私御沙汰条、珍重候、仍此表之事、龍造寺詫言深重候、未一着之儀無之候、将又天草嶋中之儀、無事之御調儀候歟、尤肝要存候、此節彼郡衆中不馳走之由、内々老中被存事候、猶東式部少輔方可被申達候、可得貴意候、恐惶謹言、
(永禄十二年カ)
   十月十六日        宗心(花押)
 相良殿参 貴報

入力だけで精魂使い果たしそうです・・・il||li _| ̄|○ il||l
えっと、相良が大友に援軍したのは一度だけではなかったようです。
あと龍造寺が何かやらかしたらしい^^;天草でも何かあったな・・・|相良家文書|・ ̄)じぃー
ちなみに文末の「恐惶謹言」は「恐々謹言」より相手に敬意を払う時に使う表現です。
相良の宛名の位置も日付より上になってます^-^
じっくり行きますわ~~

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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