剛忠(家兼)2【少弐政資】

少弐氏が肥前に亡命し龍造寺を頼ったのは、龍造寺が剛忠(家兼)の祖父・家氏の頃からで、少弐は教頼の代だった。

では龍造寺・・・ひいては肥前全体に大きな影響力を持った少弐当主は?
というと、少弐教頼の息子・政資になる。

父の14代目教頼が大内に敗れて戦死(1468年・応仁2年)したため、
息子の政資は、11代目宗貞国(47歳)に保護されて対馬に亡命していた。

その対馬の11代目・宗貞国が室町将軍・足利義政から御教書(公式文書)を貰い、少弐の御家再興に成功する。
大宰府を安堵された少弐政資は「五州太守様(筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬)」と仰がれた。

が、少弐の御家再興に成功した少弐政資は、ちょっと勘違いしはじめた。
北肥戦誌によると
少弐政資は筑前・宗像家代々の宝物「金の猫」の話を耳にすると、無体にも宗像に対し「献上せよ」と要求した。
宗像氏は泣く泣く先祖代々から伝わるニャンコ像を少弐に献上した。
(どんな猫だったんだろう。。。。)
すっかり天狗になった少弐政資は宗像に対し「もう一匹あるはず。出し惜しみせずに寄越せ」
理不尽な要求にブチ切れた宗像は、いかにも神社の大宮司らしい切れ方をした^^;
宗像は神前で小指を噛みきり、流れる己の血で少弐を呪詛する歌を社殿の扉に書き付け死んだ。
家紋・少弐 ロン様作成:少弐家紋ロゴ

驕り高ぶる少弐政資は、さらにやらかした。
少弐は青山城主・留守左衛門大夫を微罪で所領没収してしまう。

だが青山は宗像と違い呪詛なんて回りくどい事はしなかった。
直球、ドストレートに青山は大内政弘に少弐の非道を訴えた。
大内にすれば邪魔な少弐を潰すチャンス~即効で室町将軍・足利義政に訴え出た。

文明14(1482)年春、少弐政資は足利義政の勘気を蒙り大宰府から肥前へと移る事になった。
この年の4月3日に少弐政資は河上社へ社領を安堵している「河上神社文書169」ので4月には肥前入りしてたことになります。
そして肥前に亡命した時、少弐政資は父と同じく与賀館に入ったんです。
少弐政資は与賀館と城へと改修し、与賀神社を城の鬼門の鎮護にと利用した。
藤龍家譜では「龍造寺家氏を頼り、家氏が与賀館を城に改修した」とあるそうだが、年代からいって少弐教頼の亡命の時と混同していると思う。
何しろ与賀城と龍造寺の村中(佐賀)城と水ケ江城は超近所(歩いて行ける距離)なので、城の改修には当然合力してるだろうし、被官として出仕してただろう。

同年秋、大内への意趣返し?少弐は大内サイドの渋川萬寿丸の綾部城(肥前神埼郡)を攻撃して落とす。

怒った大内は再び公儀(室町幕府)へ申し立て。
大内からの申し立てにより、自分の勘気を無視されメンツを潰されたと知った将軍・義政が切れた。
足利義政【御教書】公布⇒近隣の御家人よ!(少弐に攻撃された)渋川に合力せよ(`・ω・´)キリッ

ヤバイと思っても後の祭り、将軍の公式発表という大義名分のお蔭で少弐の四海は敵だらけ。
少弐政資は、自業自得で肥前からも逃亡する羽目になるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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剛忠(家兼)1【時代は室町、5男坊】

龍造寺のルーツは別にして「龍造寺中興の祖」と呼ばれているのが、龍造寺康家、その息子・剛忠(家兼)です。
特に剛忠(家兼)は善政を布き、それを懐かしむ人々から【剛忠さんの時代】と呼ばれていたそうだ。

自分は旧肥前記事などで剛忠(家兼)は本音を見せないと書いたのだが、
正確に言うと本音が判らないというのが正しい。

剛忠(家兼)に関することは江戸期の二次史料(北肥戦誌や歴代鎮西志)にはあっても、一次史料が残っていない。
そのため【剛忠(家兼)が何をしたかは書いていても】【なぜ行ったか理由(本心)が判らない】んです。
ですから剛忠(家兼)の行動原理に関しては100%推測になります。

道産子の自分が佐賀県の史実上の人物をアレコレ想像するのは僭越かもしれないが、
肥前中世史を心から愛するゆえと笑って許して欲しい。

龍造寺は少弐氏の被官として鎌倉の御代から仕えていた。
やがて南北朝時代より台頭した肥前千葉氏にも被官として仕えるようになる。
(主君が二人いるのは主君同士の立場(地位)が違えば無問題)

龍造寺が、大宰府の名門少弐氏と格別の接点を持つようになるのは、室町後期の宝徳2(1450)年。
北肥戦誌によると少弐教頼が龍造寺家氏を頼り、龍造寺のご近所・与賀館に入った。
ただし歴代鎮西志だと文安4(1447)、歴代鎮西要略だと文安5(1448)

つまるところ例によって、この間、少弐は大内に敗れて旗色が悪くなったので肥前に亡命してたんです。
室町後期から戦国初期にかけて、少弐は亡命するときは佐賀郡は与賀を拠点にしていた。

剛忠(家兼)が生まれたのは、少弐教頼が与賀館に入った4年後。
享徳3(1454)年。龍造寺家氏の孫にして、龍造寺康家の5男として生を受ける。

剛忠(家兼)が生まれた頃は、肥前千葉氏が「肥前国主」と尊崇されるほどの全盛期だった。
一方の少弐教頼は筑前に戻ったかと思えば、次は松浦郡へと亡命してます「by佐賀市史」( ̄ko ̄)

で、剛忠(家兼)が元服した年とか、結婚した年とかは全然わからん(;´・ω・)
しいて言うなら家兼の家は、祖父の家氏からかな~~~~~~と想像する程度。

で、何も判らないが、文明11(1479)年に剛忠(家兼)の嫡男・家純が生まれています。
29歳で嫡男誕生・・・ちょっと遅いかな(;´・ω・)
それ以前に、剛忠(家兼)が何処に住していたかも判らんっす( ̄ω ̄A;アセアセ

父・龍造寺康家は、延徳3(1491)年に槇村に水ケ江館を造った。
で康家が隠居したのは永正2(1505)年、別館(水ケ江茶屋)を作る。
水ケ江館を相続し分家した時、剛忠(家兼)は既に40を越えていた。

剛忠(家兼)の人生は、宗家である村中龍造寺を支える役割を運命づけられていたとも言える。
それが剛忠(家兼)自身の武勇で違う方向に舵を切ることになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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真田丸_籠城24日目【別離】

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/

尚、管理人本人の「大坂の陣」に関する知識は、司馬遼太郎作「城塞」だけです(爆



まず初めにエアコンつきました(=^・ω・^=)v ブイ
てか取り付けるのに壁に穴をあけるのね~~~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮
えっと排水?排気?の排出?用らしい。
テレビのCMだと、そんなんないからビックリした道産子です( ゚д゚)ポカーン

さて本題。
今日は色々と駆け足でした。
松姉とダーリンが経緯すっ飛ばして再会ラブラブしてました。

利休があれよあれよと切腹。
祟りの噂まで。
利休の切腹には、もうちょい時間かけるかと思ってたから予想が外れちゃったぃ。

秀次のラブコールに きりさんどう断るんだろう。
信繁に見せつけるために秀次に愛想するから、期待させちゃって~小悪魔め(・A・)イクナイ!!

それよか秀次が既に関白になるつもりでいるのが、ちょっと心配(-ω-;)ウーン

そういえば秀吉の母・大政所は殆ど出てこないけど、来週あたり死ぬのかな?
来週が瓜売(仮装パーティ)ってことは確実に朝鮮の陣に突入する。

信繁は馬廻りのままで肥前名護屋に来るのかしらん(*´pq`)ウフフ
ま、どうせホントに佐賀県にロケに来ることはないんだろうけどさ(´・д・`)

悲しみを見せない茶々が泣き崩れるシーンは、さすがに気の毒だった・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

豊臣秀長が死に、豊臣家は華やかに斜陽していく、信繁目線で どう描かれるのか来週も楽しみ真田○!(・∀・)





お知らせ・・・私事とブログ記事

私事は大したことじゃないんです。
ただ道産子人生で初体験なんです。

アパートに・・・エアコンがつくんです( ̄ko ̄)
大家が、このたび変わりまして、壊れて撤去してたエアコンを新しく付け替えてくれることになったの。
だから費用は大家負担。
その代わり、ついてみなけりゃ何処のメーカーかわからん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

銀行や喫茶店やデパートや公共施設以外の【自分の住んでる場所】にエアコンがつくなんて生まれて初めてなんで浮かれてます。
北海道は札幌・道央(旭川とか富良野)とかは暑いんだけど、それ以外は内地に比べたら涼しい^^;
だから新築でない限りエアコンなんてつけずに扇風機(扇子・団扇も駆使)で凌ぐ。

ちゃんと使いこなせるか心配だ(-ω-;)ウーン
掃除も大変そうなイメージしかない(-ω-;)ウーン
ま、ついてみれば判りますな( ゚Д゚)y─┛~~


で、ブログの方なんですが、いま肥前記事の再編集をやってます^^;
過去記事を書いたあとに判ったことがあまりにも多く、過去記事の微修正でどうにかなるレベルじゃなかったので^^;
ただ過去記事は非公開にしないで、そのまま残します^-^

過去の未熟な自分が未熟なりに必死で考察した思い出の記事なので、旧記事として残すことにしました。
再編集に関しては随分悩みました。
悩む中、行ったのが今年GWの佐賀県旅行でした。

憧れ続けた与賀神社を見た時の感動は、いまでもハッキリと覚えてます。
そして、与賀神社の楼門を見ながら【やはり自分の研究に忠実でありたい】と思いました。

全編ではなく、手をつけずに微修正でそのまま使う部分もあるので、重複する記事はあると思いますが読んで下さる方がいらしたら幸甚です。
憧憬する肥前の歴史を、真摯に記事へと昇華したいと思います。

終_葉隠の系譜

八戸宗晹の誤算は、龍造寺剛忠(家兼)が90を超えた高齢でリベンジに成功した事。
八戸宗晹の不運は、跡を継いだ義弟(妻の弟)隆信が歴史に名を残す英雄だった事だ。

地図・八戸エリア2

弘治4年元旦にリベンジを果たし旧領に復活した神代勝利。
この動きに龍造寺家では、八戸宗暘が大友勢を城へ入れて背くのではないかとの風聞が立った。

三瀬村誌によると、情報は鍋島信昌(後の直茂)家臣と佐嘉郡新庄の伊東兵部からもたらされたものだったらしい。
佐嘉郡新庄は現在の佐賀市鍋島町大字森田にあり、ガチ八戸宗晹エリア内。
伊東兵部とは地元豪族だろう。地元情報ということで信頼性は高いかな?

知らせを受けた龍造寺隆信は 同日 八戸城へ兵を差し向けた。
北肥戦誌にある同日というのは、弘治四年の元旦の事で、神代勝利のリベンジと同時期だったらしい。
(ちなみに同じ元旦でも三瀬村誌では弘治3年になってます)
夜中から未明にかけて神代が山内に復活し、同日知らせを受けて、速攻で八戸城を攻撃。

多少日付がずれていても正月三が日以内なのは確かで、隆信の早すぎる動きは前々から八戸宗暘を看視してたからだと思う。
八戸城攻撃メンバーは三瀬村誌によると、隆信の弟・信周、一族の家就、納富、福地、石井の兵4700。

この人数を正月に集めた?神代の動きを受けて同日に?ヽ(。_゜)ノ へっ?
たまたま同じタイミングになっただけで、前々から八戸城攻撃準備してたんじゃないかな~アヤシイ・・・|壁|_ ̄)じぃー

それはさておき元旦で油断してた八戸城では、突然の攻撃に仰天!( Д )  ゚  ゚
おそらく新年の振る舞い御屠蘇で寛いでいただろう八戸城兵たち。
すっかり動転し防戦はおろか、城内を意味なく右往左往~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

そこへ鍋島信昌が城の風上に回って陣屋を破壊、城内の森に火をかけ焼き立てた。
城内に火の手が上がったのを見て八戸城兵は完全に狼狽し、交戦どころでなくなってしまった。
八戸宗暘は何とか城を落ち延び、神代勝利を頼った。

系図~高木・於保・龍造寺の関連系譜

八戸宗暘は妻(隆信の姉or妹)との間に二女一男を儲けていた。
妻子は宗暘退去の際に逃げ遅れ、龍造寺家に囚われの身となり佐嘉へと護送された。

裏切りに厳しい肥前の熊さん「(# ゚Д゚)・;'.怨敵の子であるから、男子は殺すべし!!!」と言った。
そこへ隆信の嫡母・慶誾尼が憐み、隆信を諭して押しとどめた。

八戸宗暘の妻と隆信は同母姉弟だったかもですね^^
そうなると八戸の男子は、慶誾尼にとって実孫ですもん。そりゃ助けたいでしょう。

於保の家督ですが、八戸との確執で胤宗系から本来の嫡流である鎮宗系に戻ったんじゃないでしょうか。
鎮宗系於保氏は、龍造寺家臣となり、その後は鍋島家に仕え佐賀藩士となります。

一方、八戸宗暘の息子は八戸姓を名乗る事を許されず「山本姓」に改姓しました。
それが系図にある山本宗春で、これまた子孫が佐賀藩士として残りました。
この山本宗春の孫が葉隠の口述者・山本常朝です

江戸期に鎮宗系於保氏と胤宗系山本(於保で八戸)氏とが、交流あったのか、互いにスルーなのか、他県人の自分には窺い知る事は出来ませんでした。
だから於保・八戸・龍造寺の複雑な関係が、山本常朝の心理に陰を落としていたかは判りません。
ただ常朝の生い立ち自体が複雑ではあります。
なにせ常朝は実父が70の時に儲けた子で、常朝は年上の甥っ子に養育されたんです^^;

さて伏線をタップリ張ったところで、肥前中世史②剛忠(家兼)さんの時代を始めたいと思います^^
それは・またの話 by^-^sio

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4_葉隠の系譜

八戸(於保)氏の最盛期を作った人物が、八戸(やえ)宗晹。
下野守。東肥前十九将の一人。生年不明。
八戸宗晹の妻は剛忠(家兼)の曾孫・・・龍造寺隆信の姉(妹説あり)だった。

系図~高木・於保・龍造寺の関連系譜
(八戸宗晹の漢字が間違ってる・・・il||li _| ̄|○ il||l)

於保氏が、いつから八戸氏を称したのか、正確な年代は特定出来なかった。
てか、そもそも宗晹は次男であり、於保当主じゃなかったはずです。

これまた推測なんですが、
剛忠(家兼)は自分の娘の孫(剛忠(家兼)から見て曾孫)である宗晹の器量を見込んで、これまた自分の曾孫にあたる隆信の姉を娶せて、於保から独立させて別家を立てたんじゃないでしょうか。

曾孫夫婦って事は、親同士が従兄弟だからして、ハトコのカップリングになるのか?(-ω-;)ウーン
島津並みの同族・血族婚です( ̄ω ̄A;アセアセ

この推測でいくと、八戸宗晹が八戸姓を称した時期は、結婚した時or八戸城に入った時orどっちも同時、の三択。
年代が曖昧な最大の理由は、八戸(やえ)城の築城年代、もしくは八戸宗晹が八戸城に入った時期が不明だからです( ̄ω ̄A;アセアセ
ちなみに八戸城で検索するのは御勧めしない。佐賀市と入れても検索結果が・・(以下略)

地図・八戸エリア2
(うねってる水色線は嘉瀬川~^^/)

八戸城の場所は、現在の龍雲寺(佐賀市八戸1丁目6-35)です。
佐嘉(村中)城&水ケ江城から1kmちょっとの近さ。
於保城(現在の於保天満宮で嘉瀬川リバーサイドカントリークラブの近所)とは3km弱の位置。
於保と龍造寺が連携を組むための「仲立ち」として程よい場所にあります。

剛忠(家兼)は、於保御家再興の後見し、本来なら嫡流でない次男(胤宗~宗晹の祖父)系統に於保家督を継がせ、さらに次男の宗晹自身に曾孫を娶せ八戸城を継がせたんです。
当然、八戸宗晹を自分の一族としてカウントしてただろうし、龍造寺配下とさえ思ってただろうし、それが態度に出ちゃってたかもです。( ̄ω ̄A;アセアセ

過度な恩というのは、相手の器量次第では毒になります。
普通に一般家庭で考えても、婿入りした訳でもない・自分から頼んでもいないにも関わらず、嫁実家都合で、嫁実家から援助され、家庭に口も手も出されるのを喜んだり、プライドが傷つかない旦那はいないでしょう。

少弐と龍造寺が手切れになった時。。。八戸宗晹は少弐サイドにつきました。
八戸宗晹は嫁実家・水ケ江龍造寺から、いえ剛忠(家兼)から離れ、自立したかったんだと思います

さらに重要なのが八戸エリアの位置。
仮に龍造寺に与した場合、八戸宗晹エリアが、VS少弐、ひいてはVS神代の最前線になります。
ここで思い起こすのが、龍造寺勢に編成されてた(らしい)於保氏が三代に亘り次々戦死し、滅亡しかけたという事実(推測)です。
これ以上、龍造寺に便利使いされて、最前線に狩り出され戦死の憂き目は真っ平御免。
自分の利益だけの為に行動したい・・・という欲求が出ても不思議じゃありません。

少弐の陰謀で、90という高齢になって、長男・次男・孫一族を失った剛忠(家兼)。
まさか剛忠(家兼)がリベンジに成功するとは、八戸宗晹は夢にも思わなかったでしょう^^;
復活力という点では龍造寺も少弐とドッコイです。

剛忠(家兼)が死んだ時、八戸宗晹は龍造寺が分裂すると判断したと思います。
少弐の陰謀後、一時期ですが村中と水ケ江は別行動でしたから。
八戸宗晹の最大の誤算は、妻の実弟が「肥前の熊」と異名をとる英雄だったことなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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3_葉隠の系譜

まず一番?重要な事から・・・特にシオ同様に関東以北の方々へ・・・
佐賀県の八戸 は・・・
[はちのへ]ぢゃないよ。「やえ」と読む。
(脳に浸透させるのに難儀しました・・・by道産子)

龍造寺と同じく、高木氏を祖とする於保(おぼ)氏の複雑さは、八戸氏と同じであって、同じでないところにある。
八戸氏のエリアは、サイトによって佐賀市中央部だったり、西部だったりする。
このブレは、本貫地である於保村を、入れるかor入れないか、の差です。

地図・八戸エリア2

実はシオも迷って、初めに描いた八戸エリアには於保を入れてたんです。修正テープ跡が物語る(爆
結論から言うと、八戸宗晹エリアに於保は含みません。
何故なら、於保氏は 龍造寺に従った於保(兄で本来の嫡流)龍造寺に敵対した於保(次男←八戸氏はコッチ) の2系統に分裂したからです。

龍造寺の始まりが龍造寺村の地頭だったように、於保氏も於保村の地頭でした。
現在残る於保天満宮が於保の城跡だと言われています。
嘉瀬川リバーサイドカントリークラブを目印にすると(比較的、地図上では)探しやすいです^^;
あ、書き忘れた・・・地図上のウネウネっとした青い線は嘉瀬川なのネ^^;
少弐か大内か、浮沈の激しい肥前戦国史の狭間で、於保氏は概ね少弐被官だったようです。
で、於保は龍造寺旗下で働いてたっぽい。
むろん於保の方では、龍造寺配下になったつもりないでしょう。
当時の龍造寺は少弐被官の中で上位にいたのと、動員兵力の関係で、龍造寺勢に編成されてたと思います。

戦いの中、於保氏は三代に亘って、当主や嫡男が戦死してしまいます。
これは想像なんですが、龍造寺勢に編成された(と思われる)於保氏は先陣を担ってたんじゃないでしょうか。
でなければ当主や嫡男の戦死率が高すぎます。
一族の多くが戦死した於保氏は、一度没落の憂き目にあう。

当主(or嫡男)戦死で、残る弟・於保胤宗の妻が、剛忠(家兼)の娘という縁から、龍造寺に取り立てられ御家再興を果たします。

系図~高木・於保・龍造寺の関連系譜

このあたり剛忠(家兼)が黒い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
何故なら戦死した兄の鎮宗には、男系がキッチリ続いてるからです。
揉めてないところを見ると、戦死兄・鎮宗の遺児は幼かったのだろう(たぶん、きっとそう・汗)

剛忠(家兼)娘婿・胤宗は、時の龍造寺当主・家和(剛忠(家兼)の次兄)の養子となり、龍造寺の後見で於保当主となった。
於保胤宗の「胤」は龍造寺絡みなら、偏諱の(-人-)☆彡オネガイは龍造寺経由だと思う。
(経由することで於保は龍造寺配下になる)
やはり本来の嫡流である実甥を差し置き当主になるには、偏諱による箔付が必要だったんじゃないだろうか。

於保当主が龍造寺後見を受けていたので、於保(八戸)エリアの表記がサイトによって佐賀市中央だったり西部だったりするのでしょう。
後に(取り立ててやった)剛忠(家兼)娘婿~弟・胤宗男子系統が、龍造寺に敵対したのだから、皮肉な話ですな( ゚Д゚)y─┛~~

おそらく剛忠(家兼)は、於保(八戸)を取り込む事によって、於保(八戸)エリアを己の影響下に置こうとしたのだろう
剛忠(家兼)は与賀郷、川副郷と河川流域から河口に向かい有明海沿岸にと勢力範囲を広げていました。
これに於保(八戸)エリアが加算されると、佐賀市中央部から嘉瀬川流域にかけてが、龍造寺(実質は剛忠(家兼))エリアになる計算です。

剛忠(家兼)の目論見通りになれば、佐嘉郡主要地域の殆どが龍造寺の影響下に入り、小城郡を領する千葉氏と近いだけの実力を有する事になる。
主君である少弐氏と、その家臣・馬場が、何としてでも剛忠(家兼)を潰そうとしたはずです^^;

慎重な剛忠(家兼)は、あからさまに兵を用いて侵略とかはしません。
高木のように養子縁組したり、於保のように婚姻関係になったりと、時間をかけて影響力を広げています。

逆に剛忠(家兼)が兵を使う時は、西千葉からの要請だったり、少弐への助勢だったりと、必ず何らかの大義名分があるんです。
その大義名分を使って豪族たちを招集し、戦場で信頼関係を築き何時の間にか豪族たちを己の懐に飼い慣らす。
おそらく同時代の人間は剛忠(家兼)を「頼もしき仁者」と、尊敬していたことでしょう。

龍造寺エリアを広げるのに、時間かけて布石のロングパス・・・・
よっぽど自分の寿命に自信が・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

だが剛忠(家兼)の密かな大望は、挫かれた。
八戸(於保)宗晹が、龍造寺から寝返り少弐の陰謀に加担したからなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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2_葉隠の系譜

戦国時代、高木氏は龍造寺氏と養子縁組の関係だった。
系図~高木・於保・龍造寺の関連系譜
(手書きの)ぬくもり系譜,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

右端~□で囲んでる部分です^^/

胤家とは剛忠(家兼)の長兄でして、世が世なら彼の系統が龍造寺嫡流でした。
少弐か大内か、西千葉か東千葉かの狭間で出奔する羽目になり、嫡流から外されちゃった(自ら捨てた)んです^^;
その後、胤家は龍造寺に戻り彼の系譜は続いてますが、彼の系統から当主が出る事はありませんでした。

胤家は他に実子(男子)がいたんですが、高木家から養子を迎えています。
それが龍造寺盛家です。
その盛家の息子・鑑房が高木家の家督を継いでいます。

盛家の孫説もありますが、年代的に実子説の方がシックリ来ます。
「盛家の龍造寺養子入り」「鑑房の高木相続」の時期が、それぞれ不明なので剛忠(家兼)が一枚噛んでたかどうかも不明です。

他家へ養子に出した男子の子供に、実家の家督を継がせる事には二つの理由が考えられます。
1・高木家の男系が絶えたか、適当な男子が一族内にいない
2・龍造寺家との関係強化

この2点。

養子縁組関係で上手く行ってた(であろう)高木と龍造寺の関係が破綻しました。
少弐と龍造寺が対立関係となり、高木は少弐に与したからです
高木鑑房が少弐に与した最大の理由はズバリ「本拠地の位置」だと思う

地図・八戸滅亡前

高木鑑房の本拠地は春日山にある甘南備(かんなび)城。
ちなみに甘南備は(も)サイトによって甘奈備だったり、甘南比だったりで表示がバラバ・・(以下略)

春日山にある城なので、北肥戦誌では春日山城になってますが、春日山城で検索するのは御勧めしません。
「佐賀県 春日山城」で検索かけても、某毘沙門天さま関連が(かなり)上位に出てきます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

この場合、注目するのは少弐配下の神代勝利エリアです。
(佐賀県の)春日山を囲む大和町大字梅野、同大字久池井、同大字尼寺、同大字etc・・・この一帯が神代エリアなんです。
最盛期における神代勝利エリアは、佐賀市中央部の愛敬(島)、大財まで食い込んでおり、高木エリアと龍造寺エリアは神代によって完全に分断されています。

ガチ少弐配下にして龍造寺とガチ敵対関係の神代エリアに、すっぽりと包まれた高木の状況で、同族・養子縁組の誼みを期待するのは酷というものだ。

高木鑑房の実父・盛家は、最期まで養子先である龍造寺の男として生きて、そして死んだ。
龍造寺盛家は、少弐の陰謀で偽の有馬討伐に出陣し戦死している。

生前、親子間での交流が薄かったのか、実の親子で敵対関係になる悲哀のようなものは、高木鑑房からは感じない。
国人領主としての高木氏は、龍造寺隆信に滅ぼされた。
さて、次ぎは於保(おぼ)氏。

於保氏は於保村の地頭で、現在の於保天満宮が於保城跡だと言われている。
実は、この於保村も佐賀市大和町の中にあるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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真田丸_籠城23日目【滅亡】

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/

尚、管理人本人の「大坂の陣」に関する知識は、司馬遼太郎作「城塞」だけです(爆



今日は伏線がチラホラあって面白かった^^

北条氏政のホラーメイクが怖かった(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
目も瞬きを殆どしないから血走ってたよ~~ひぃ!(゚ロ゚屮)屮

松姉ダーリン、小田原落城から無事に抜け出せたんだろうか^^;
上田にヒョッコリ出てきても松姉が思い出すか不安だ^^;
(今まで記憶が戻っても一部だけみたいで旦那の話をしてないから)

北条の滅亡シーンというか、氏政の演技は凄い良かったです。
もう自分の脳内イメージは北条氏政=高嶋弟ですな( ゚Д゚)y─┛~~

直江が「我が主が何か約束してないか心配(´・д・`)」って言うシーンと、
|主君|・ ̄)じぃーっと見上げる直江に対して景勝が「何も約束しとらん」というシーンに思わず吹いた,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

利休が北条相手にも商売してたのは流石というかチャッカリというか、
時系列の順番だと来週あたり利休が死ぬのかな?

忍城で石田三成が幸パパに「戦の何たるかを教えて頂きたい」のシーン。
どっちもカッコよかった(*´pq`)
後年、関ケ原の戦いで真田と石田三成は頻繁に文のやりとりをします。
相手は幸パパだったり信之ニーちゃんだったり。
何でシオが知ってるかっていうと、信之ニーちゃんは石田三成からの密書を徳川の世になっても、密かに保管してて、
それが昭和かな?発見されてるから^^b(専門外だから内容は知らないですが関ケ原関連です)

だから信繁関連以外で、幸パパと信之ニーちゃんが三成と親しくなる伏線が必要なんですよ。
今回バッチリ!(=^・ω・^=)v ブイ
これが関ケ原にどう関連づけるか楽しみ(*´m`)

伊達政宗と真田信繁のシーンも良かった(人´∀`).☆.。.:*・
あぁ、ますます楽しみ真田○ (・∀・)

1_「葉隠」の系譜

さて葉隠の系譜を紐解く前に、まず龍造寺のルーツを御説明したいと思います。

さて、龍造寺のルーツには諸説あるそうなのですが、一番有力なのが肥前高木氏。
肥前高木氏からは複数の分流が出ており、本記事と直接関連あるのが(高木氏以外で)「龍造寺氏」「於保氏」です。

家紋・竜造寺 ロン様作成:龍造寺家紋ロゴ

で、ここで家紋に注目^^/
ルーツである高木氏と龍造寺は同じ家紋を使用してたんです。

ちなみに肥前高木から派生した同族は全て日足家紋でして、区別としては御日様の後光のような足?の本数が違います。(デザインも若干違う)
だから同族かどうか、互いに家紋を見れば一目瞭然^-^

よくある「総領の座」争いですが、高木氏と龍造寺が、そういう方向で諍いした形跡は見受けられません。
ただ肥前高木氏が衰退していくなかで、龍造寺の方で(高木に代わって自分が)総領家意識があったかも?
って印象をシオは感じましたが、そのあたりは微妙です。剛忠(家兼)は本音を見せないタイプなんで^^

肥前高木氏は鎌倉時代に勢力を誇り、官位は太宰大弐・・・これはホントか不明^^;
官位はともかく、前回紹介した「肥前国一宮・川上社(現:與止日女神社)」の大宮司でした( ゚д゚)ンマッ!!

それが九州ではよくある南北朝時代に衰退。
代わって台頭するのがシオが大好き「肥前千葉氏」川* ̄д ̄*川ポッ 

家紋・肥前千葉 ロン様作成:肥前千葉氏家紋ロゴ

それまでの肥前千葉氏は下総・千田庄(本貫地)と肥前・小城郡を行ったり来たりしてたんです。
イザ鎌倉・元寇のため嫡男でありながら九州へ強制移住させられた肥前千葉氏。
弟が継いだ千葉氏総領の座を諦めきれず、肥前千葉当主は頑張って千葉県と佐賀県を往来。
してたんですが、さすがに南北朝動乱期に二つの領地支配が物理的に難しくなった^^;
そこで千田千葉氏(本家)と肥前千葉氏(分家)に別れ、肥前千葉氏は小城郡に土着した。

もともとが勢力ある一族なので、肥前小城に本腰入れたら、たちまち肥前高木氏を圧倒。
「肥前国一宮・川上社」の大宮司職も、肥前千葉氏にとってかわられます。
肥前千葉が東西に分裂してから、大宮司職がどうなったかまでは辿りきれませんでしたが、
総領家は東千葉氏ですので東千葉氏が大宮司として行動したり、東西両家が和睦し蓮著で川上社に文書を発給してます。
ちなみに元亀4年の西門寄進時の大宮司が千葉胤連(鍋島殿を一時養子にしてた西千葉氏)です^-^

実は肥前千葉氏が「肥前国一宮・川上社」の大宮司だった事をシオが知ったのは割と遅く2013年7月^^;
というのも参照先サイトによって「與止日女神社」が「川上社」だったり「河上社」だったりと表記がバラバラでして。
そのため「川上社」で「河上社」が「與止日女神社」と同じ神社の事を指し、かつ「肥前国一宮」だって気づいたのが、3年前なんです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

佐賀県の方はどうでしょう?、
川上社はともかく河上社が與止日女神社と同じって、すぐピンと来ますか?(道産子涙目)
土地勘の無いシオは読んでいても関連性に全く気付かず、地道に地名検索と各国人勢力エリアをコツコツと照合してたら、[神社とデータ]スッ≡( ̄ー『+』ゝハッケンしたんです。

愚痴はさておき、肥前国主とまで尊崇された肥前千葉氏が、「肥前国一宮・川上社の大宮司」というのは、頷ける話(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
祇園社を招聘しただけじゃ、東国御家人系氏族が勢力地盤を築けないよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

肥前高木氏は在地領主クラスまで衰退、家は東高木と西高木に分裂し、肥前千葉氏の被官として偏諱を受ける立場に・・・ (゜-Å) ホロリ
それは・またの話 by^-^sio

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田尻家文書49_大友義鑑書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

(包紙捻封上書)
「田尻伯耆守殿     義鑑」
    (端裏切封)
      「(墨引)」
就近年覚悟之要害水手相損候、至領内高(鷹)尾、可被取移之由候、肝要候、為直城、倍堅固之才覚専要之段、猶入田丹後守可申候、恐々謹言、
(天文十九年カ)
  九月三日     義鑑(花押)
     田尻伯耆守(親種)殿

近年に就いて覚悟の要害水の手相損じ候、領内高(鷹)尾に至り、移り取らせ可くの由(よし)候、肝要候、直ぐ城を為し、倍して堅固の才覚を専ら要すの段、猶(なお)入田丹後守へ申しべく候、恐々謹言、

これは前段階として田尻親種が本城を鷹尾へ移したいと、大友へ希望を出し許可を求めていたようです。
このように筑後は完全に大友の支配下にあり、家督相続やお引越しにもイチイチお伺いを立てて了解を得ていたんですね。

超意訳すると:鷹尾に引っ越すなら直ぐ城を作り、今までより工夫を凝らした堅固な城にしなさい、家臣にも言っとくからね

ということで大友家臣の築城に関する奉書(許可手続き)が出てます。
そのあたりは煩瑣になるので手抜きします^^/

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後編_河川から見た水ケ江城

国人領主が被官から自立した勢力に成長(戦国大名化)するには、「津(港)」が必要というのは、あくまでも肥前の場合です。
例えば甲斐国のような山国では適用しないと思います。

肥前における物資流通で河川を使った舟便は欠かせません。
何故なら、満干潮による河川逆流現象で浸水被害が必ずあるため「安定した陸の輸送」が困難だったからです。
逆を言うと肥前において一定の勢力がある国人領主は、物資流通の要である河川港か河口港を何らか形で保持してたんじゃないでしょうか。

龍造寺初期台頭時代は、位置的に八田江川流域にあった八田橋の津を利用してたと推測出来ます。
剛忠(家兼)の代で勢力拡大し、少弐氏が開港した今宿・今津・相応津は龍造寺が支配下に治めた・・・と思う。
思う~~になるのは、剛忠(家兼)が兵馬を用いず政略結婚などで「周囲の豪族を手なずける」という長いスパンをかけたからです。

人物・剛忠小 剛忠(家兼)イメージ画像

剛忠(家兼)という人物は、とても強かで、凄く慎重で、相当に用心深い。
自分の調べた範囲ですが、剛忠(家兼)の方から大内氏に接触した事はないでしょう。
(和睦の仲介を「大内の方から」頼まれた事はある)
でも少弐の資産だった今宿・今津・相応津(周辺領地含む)を支配下に治める行為は、龍造寺が「主君に対する重大な裏切り」を働いた証になります。

剛忠(家兼)も、それを判ってるから少弐に気付かれないように、ゆっくり、じんわりと勢力を広げてた。
勢力拡大の分岐点は、鍋島様の赤熊武者が活躍し龍造寺の武勇を肥前中に轟かせた「田手畷の戦い」ではないでしょうか。

相応津・今津を支配したのは、肥前石井氏が龍造寺家臣になった頃(田手畷合戦以降)になると思います。
剛忠(家兼)は肥前石井氏に海岸警固を命じてます。
当然、警固対象には河口港である今津と相応津が含まれます。
何故なら肥前石井氏の飯盛城は、今津と相応津の中間地点に位置してるからです。

今宿が龍造寺勢力圏に入ったのは、シオ推測では1536年の少弐資元自害以降。
この時に蓮池城の肥前小田氏が「御父上(資元)が自害になったのは、龍造寺が裏切ったから」と、少弐冬尚に讒言してるからです。

佐賀江川流域が勢力圏だった肥前小田氏にとっても、今宿は喉から手が出るほど欲しかった河川港だったはず。
ショートカット工事前の佐賀江川は、物凄く蛇行してて浸水被害も広範囲。
戦国期は大きな津を作るほどの治水土木技術が未だ追いついてません。
治水の神と称えられた成富茂安ですら「佐賀江川の蛇行には手をつけるな」と遺言してたほどです^^;
(手をつけて失敗したら元に戻せない)

従って肥前小田氏は、佐賀江川と八田江川の分岐点である河川港・今宿に、物資流通ライフラインを依存してたでしょう。
今宿には商人たちが移り住み後世の繁栄を予測させる商業圏が育ちつつありました。
運上金とかの利権が絡んできまつよね・・・( ̄ko ̄)
肥前小田氏と龍造寺は、今宿の支配を巡るライバルだったのではないか?というのが自分の推測。

その肥前小田が龍造寺を讒言するって事は、今宿が龍造寺勢力圏に入って、経済的に肥前小田を脅かす危機が高まったからじゃないでしょうか。
少弐資元自害で少弐がゴタゴタ混乱してる頃なら、龍造寺が今宿をゲットする絶好のチャンスですよね(^ -)---☆Wink

神埼に拠点を移した少弐氏は佐嘉郡に目が行き届かなくなり、龍造寺の勢力拡大に対する認識が遅れたと思います。
気づいていても大内へ対抗する為には「龍造寺の武勇」が必要で、切り捨てる事が出来ませんでした。
ジレンマの果てに我慢の限界に達し、馬場頼周立案「龍造寺抹殺計画」が遂行されます。

家紋・少弐 ロン様作成:少弐家紋ロゴ

剛忠(家兼)がリフォームした水ヶ江城は、クリークを利用しており5つあった館(曲輪)は、それぞれ独立してたそうです。
その為、5館全部を合わせた広さは30町(約3.3km)という広大さでした。( ゚д゚)ンマッ!!
無数にあるクリーク。広大な場所にある独立した各館。
火縄銃・大砲のない時代なら充分に「攻めづらい城」です。

少弐氏が剛忠(家兼)を裏切り水ヶ江城を囲んだ時に、万単位の兵力を揃えたのは、後世になったからの数の盛りじゃないでしょう。
この広さなら、そのくらい要ります~本館だけ囲むって都合良くいかないですもん~( ̄ω ̄A;アセアセ
それを思うと、少弐が有馬と組んだのも、万単位の軍勢が必要だったからだったのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

地形と城って密接な関係があるんですが、肥前は独特です。
パッと見は無防備そうに見える平城でも、戦国当時は城周囲がクリークや湿地帯で守られてて、敵が簡単に攻略できないように工夫されてるんです。

これは干拓・灌漑・護岸工事が終わった平成現代の地図からでは、イメージ出来ません。
戦国時代の海岸線・河川蛇行・逆流現象浸水被害の範囲・クリークの有無が予備知識として必要になります。
もちろん周辺にある山の標高とかも必要なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
地理嫌いだったので初めは大変でしたが、今は楽しく地形を調べてます^^

末筆ですが、ブロ友様へ~水ヶ江城をリサーチするヒントをありがとうございました。
この場を借りて御礼申し上げますm(__)m

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中編_河川から見た水ケ江城

水ヶ江城、村中城、与賀城。
この三城に最も近い河川は八田江川です。

基本として佐賀県の河川は、有明海の満干潮によって逆流現象があり、周囲は浸水被害が必ず起きます。
むろん現在では河川工事によって改善されてます^^b

河川工事前の八田江川の逆流現象による浸水被害は、八田橋まで及んでいたそうです。
水ヶ江城・本館があった乾亨院(佐賀市中の館町7-11)から6~800mほどしか離れてません。
ちなみに乾亨院も剛忠(家兼)所縁の開基^^/

戦国時代の海岸線は今より内陸に引っ込んでるので、浸水被害も八田橋より更に北に及んでた可能性があります。
とうぜん周囲には逆流現象対策として、逃げ水用のクリークがあったはずです。
江戸期以前なら未だ人工的なものでなく、元からあった自然クリークを利用してたんじゃないでしょうか。

「満干潮時による浸水被害が必ずある土地」そこは地盤が軟らかく宅地に不向きな泥土です。
干拓が進んだ江戸期においても八田江川流域では、泥土を取り除く作業が定期的にありました。
従って八田江川から一定の距離を置かないと築城が困難だったんです。

もう一つ大事なのは与賀神社(与賀庄鎮守宮)の存在です。
与賀神社2

まず前提として理屈抜きで「城と神社」は、建築物としてSETと考えて下さい。
賃貸物件で言うなら、風呂はなくとも居間とキッチンが必ずあるようなもので、切り離せません。
大きな城になると城内に神社があるくらいなんです^-^
城の側に神社があるんじゃない。神社の側に城があるんだ。(by踊るアレ風)って感じで^^
与賀神社のように権威ある神社があれば、その神社近くに城や館が集中します。

更に一つ。
浸水被害があるのを判ってて、ギリ傍に築城する理由。
実は八田江川の八田橋付近に「津=港」があったそうなんです( ゚д゚)ンマッ!!

現在、地名として残ってないため気づかなかったです。
起点(河川港・河口港)近くには城がある~~というシオ持論にも合致します(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
龍造寺は自前の船があったんじゃないか~というシオ推論の傍証にもなります(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

1478年~1482年にかけて、少弐氏を一時的再興した少弐政資が、河川港・今宿と河口港・今津、相応津を開港します。
今津と相応津は本庄江川の河口(戦国当時)港です。
今宿が佐賀江川と八田江川の分岐点にあり、八田江川の八田橋より数百メートル上流になります。

二つの河川の分岐点たる土地は、河川港としては最高の立地。
では今宿が出来たら、龍造寺は物資流通ライフラインは今宿に依存したのでしょうか?
それは有り得ない!
少弐支配下の今宿に物資流通を依存したら、龍造寺は少弐に逆らえない。
龍造寺が自立した勢力になるためには、自前の津(ライフライン)が絶対に必要です。
ましてや八田江川流域は鍋島様本貫地付近でもあるんです。何も残ってないはずない。

八田橋付近の津・・・津・・・地名が変化した?どうやって探す?
今宿じゃない・・・宿・・・・・・宿場町!( ゚д゚)ハッ
廃れたんじゃなく江戸期も繁華なら宿場町になってるはず。
八田「津」じゃない!八田「宿」でアレコレ検索・・・・・キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
「さがの文化・お宝帳」より「八田宿~(佐嘉)城下より犬井道・早津江へ行く街道に面して(以下略」
やっぱり江戸期もライフラインとして機能してる。八田橋まで貨物船が来て物資を陸揚げしてました。
街道に面してた土地が八田宿として栄えたんです。

あ~~ダメだ!平成現代の犬井道は、戦国時代だと有明海にザブンil||li _| ̄|○ il||l
地名じゃ辿れない~~~~建築物!
最低でも江戸初期からあって、大事にされてて、簡単に引っ越ししない・・・神社だ!

八田宿にあった神社・・・・八坂神社・・ダメ!名称がメジャーすぎて大量HITする。
こっち!粟嶋(あわじま)神社・・・佐賀市北川副町大字新郷・・・キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ~八田橋とも400m弱しか離れてない。ここだ!

北川副町大字新郷周辺が、江戸時代の八田宿にして、戦国初期龍造寺の台頭を支えた津(港)ライフラインではないか・・・
というのがシオ推測なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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前編_河川から見た水ケ江城

現在、水ヶ江は地名になってますが、築城前は槇村と呼ばれていました。

【戦国大名閨閥事典(ブロ友様提供資料)】によると、
「康家は延徳3年(1491)頃、槇村に別館を造り水ヶ江館と称し、
永正2年(1505)には新館を加え、末子家兼と共にこの地に隠居して、龍造寺中興の基礎をつくった。」


剛忠(家兼)パパン・康家は生没年が不明な為、剛忠(家兼)が水ヶ江を遺産として継承した正確な年度は不明です。
どうやら家和(康家次男)家督相続時だけでなく、1505年までは存命だったみたい。
剛忠(家兼)の長命・子沢山は、パパン康家DNA譲りの生命力ですね(^ -)---☆Wink

佐賀市史によると上記にある永正2(1505)に隠居したとあります。
その時に作った隠居館が「水ケ江茶屋」です。

ですから家兼が水ケ江城を譲り受けたのは「父が隠居した時」と推定するのが穏当でしょう。

館だった水ヶ江を城へとビフォーアフターしたのが、剛忠(家兼)です。
西館の二館と中館・東館・本館の五館に分かれ、本館位置は現在の乾亨院(佐賀市中の館町7-11)
乾亨院・・・日程に余裕があれば行きたかった (゜-Å) ホロリ

『史伝 鍋島直茂 「葉隠」の名将』(中西豪著 )より抜粋(ブロ友様提供)
前略 「水」は竜の連想、「江」は方言の「え」、家の謂(い)いであり、
水ガ江とは「竜の家」ほどの意味を持たせたものである。


なるほど~と思いました。
確か中西先生は地元の郷土史研究されてる方ですので、方言解釈は異論のないところだと思います。
龍造寺家は史料の中で、簡略に「龍家」と書かれてる事が結構あります。
それと掛けてるのもありそうだな~と^^

水ヶ江城の特徴は肥前独特のクリークを利用して築城された城であるという点です。
クリーク(ウィキペディアより抜粋)
水域が陸地に入り込んでいる地形(入り江)。または 水を流すための人工的な構造物(水路)。

肥前の場合は自然のままのクリークと人工的に造ったクリークとの混合です。

龍造寺の村中城、水ヶ江城、少弐氏の与賀城。
半径数百m以内に3つの城が集中したのは何故なのか?
それは自分の中で長い間の宿題でした。

結論から言うと、村中城、水ヶ江城、与賀城も、築城は地形的にココでなければならなかったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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真田丸_籠城22日目【攻略】

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/

尚、管理人本人の「大坂の陣」に関する知識は、司馬遼太郎作「城塞」だけです(爆



最後に出てきた人って誰だっけ?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

秀吉と家康のツーショットの前に、家康と信繁のツーショットがあったとは(*´m`)
てか、みんな手を洗わないでバッチィ(・A・)イクナイ!!

小田原の方向を見る茶々の複雑な表情・・・これも大阪の陣の伏線かな?
久しぶりに会った上杉景勝と信繁、なんか懐かしい^^

信繁は馬廻り衆のままで小田原まで来ました、いっそそのまま肥前名護屋までいらっしゃぁ~い♪(by三枝風)
伊達政宗の死装束もありましたね^^
でも誰が演じてるのか判んなかった(;´・ω・)

予定が狂いお腹をゴロゴロさせてるのが石田三成なら、
あてにしてた伊達まで秀吉に従い、化粧をパタパタしてるのが北条氏政。
氏政の化粧が出るたびに濃くなって、なんか幽鬼じみてきてる(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

あ、武将の化粧自体は不思議ではなく、いわゆる名門であればあるほど伝統的にあります。
(もとは公家の化粧から)
決して某局のバ○殿ではないのです。

氏直が「パパンが降伏に反対してるの・・・(´・д・`)逆らえない」
というのもファザコンではないのです。

そもそも武家では息子が二十歳くらいになると家督を譲って、それまでの当主は身軽な隠居になるんです。
でも実権は手放さない。
だから息子が本当に実権を握れるのはパパが死んでからになります。

今風に言うと「当主=社長」「隠居=会長」みたいな感じ。
親子仲良く将来の世代交代を見越した二頭政治になる場合もあれば、家中が当主派と隠居派に割れることもあり、拗らせると親子間で熾烈な実権争いになることも。

北条も当主・氏直=降伏、隠居・氏政=降伏(´・д・`)ヤダ、に内部が分裂してしまいます。
氏政の説得役として白羽の矢が刺さっちまったのが信繁ヽ(。_゜)ノ
このあたりは完全に創作だろうけど、伏線が上手いから創作にしても面白いですね^^

で、最後に出た人って誰か判る人います?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
もしかして、信繁の姉の松の旦那?・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)

次回、いよいよ北条が・・・来週も見よう!真田○ (・∀・)

地図から見た肥前石井氏

石井家が正式に龍造寺配下になった時期は調べきれませんでした。
ウィキペディアだと「田手畷の戦い(1530年)」に鍋島氏と共に龍造寺に加勢した事になってます。

石井氏は元々は下総千葉氏家臣で、はるばる肥前千葉氏に仕えた譜代みたいなものです。
肥前千葉氏が東西に分かれた時は、総領家である東千葉初代興常に仕えていたようです。

石井家が龍造寺配下にったのは、石井家5男・兼清の強力なアピールがあったとされています。
龍造寺家兼は、石井家が配下になったのを非常に喜んだそうです。
そして石井家の総意をまとめるキッカケになった石井家5男に、自分の文字・兼を偏諱し「兼清」と名乗らせました。

龍造寺家兼が「ひゃっほーい♪ヽ(*´∀`)ノ」した事には、当然理由があります。
このカテゴリ壱で説明した佐賀県独特の「地名スライド現象」を覚えておいででしょうか?
現代に残る地名が、干拓埋立により戦国時代は位置が違うという、罠?のような現象です。

平成の現代、本庄町鹿子にある石井氏の飯盛(いさがい)城は、場所は同じなのに戦国時代の地名だと与賀郷なんです。

東肥前ぬくもり戦国地図

しかも手書き地図にあるように、干拓造成前は海の側(やや内陸)でした。
龍造寺配下になった石井氏は、水ケ江城の出城(支城?)として海岸警備を担当したそうです。

この「海岸警備」というのが曲者です。
ネタだから秘密・・・ではなくて、スペースの関係で描ききれなかった亡き少弐政資が開港した港。
そのうちの今津と相応津が、実は飯盛城の御近所~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

飯盛城を起点にすると、1km北西にあるのが今津で、1km南西に位置するのが相応津。

海岸警備とは、綺麗に言っただけに過ぎません。
少弐氏蔵入地(直轄地)だった与賀郷の今津と相応津は、石井家が味方になる事によって、龍造寺支配下の湊になったのではないでしょうか。

今宿(川副郷)今津・相応津(与賀郷)が、少弐直轄領だという文献的根拠はシオレベルでは探しきれず、あくまで推測です。
が、湊を造る主な目的は、利便性だけでなく、交易による収入と運上金(関税)です。
湊や、そこから派生した商都は、時の支配者が必ず真っ先に押さえるので、シオ推測は外れてないと思います。

少弐が肥前国で勢い盛んだった頃、財政基盤の一部だったであろう湊。
その財は、少弐の胃袋に入る前に、喉元を龍造寺に抑えられた。


自分の見るところ、龍造寺家兼は慎重な人物です。
だから少弐エリアに、ダイレクトにちょっかい出すような下手はしないと思います。
その代わり、拝領した川副千町を足掛かりに周辺豪族を手なずけ始めてたんでしょう。

大内と戦う事に夢中だった少弐は、佐賀郡の豪族たちが龍造寺に靡き始めてる事に、すぐは気づかなかったんじゃないでしょうか。
亡き少弐政資が定めた「津町(港?)の制令」も、少弐のほうで権益保護を維持するのが難しくなってたはず。
佐賀郡の豪族たちは、どっちにしろ少弐へ与力してくれてるので、パッと見だと区別つきません。
ですが、少弐が佐賀郡豪族を動かすのに、いつの間にやら龍造寺を介さなければ出来なくなってきて、やっと悟ったと思います。

佐賀において龍造寺が台頭するということは、必然的に龍造寺が主君である少弐エリアを侵すということです。
龍造寺のした事は、被官の分際で主君の領地を霞め取ろうとする行為で、少弐としては断じて許し難い 。
看過できない重要な裏切り行為で、下克上の一種とみなされる動きでしょう。
少弐(主君)と龍造寺(被官)の関係が破綻するのは、時間の問題でした。

家紋・少弐
(ロン様作成:少弐家紋ロゴ)

飯盛城跡、現在は石井家菩提寺となった常照院です。
ちなみに鍋島直茂公が正室・彦鶴姫の元へ通った時に、ロミオよろしく超えた豪は残ってません(残念!

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田尻家文書45_大友義鑑名字状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

(折封上書)
「田尻又三郎殿     義鑑」
(端裏切封)
       「墨引」
(付箋)
「十一月七日、此の又三郎ハ鑑種若時之名也」
  親種跡式継目      鑑種」
    =====本文ここから=====

名字之事承候、以別紙、認進之候、恐々謹言、
   十一月七日     義鑑(花押)
      田尻又三郎殿

(異筆)
「天文十六年」


名字の事、承り候、別紙をもって、認(したた)め進(まい)らせ候、恐々謹言

つまるところ風でない田尻の又三郎殿は、大友義鑑から偏諱(へんき=一文字拝領)を受けたんです^^/

天文十六年とあるのは、この年に田尻親子は大友の首都・府内へ参府伺候してて、その記録に鑑種と書かれているからです。

別紙が「田尻家文書46の大友義鑑名字書出」
同日にパパ親種から息子・鑑種への相続安堵で「田尻家文書47の大友義鑑継目安堵状」
全部を紹介するのは煩雑になるので、この文書だけ紹介します^-^

テーマ : 歴史
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真田丸_籠城21日目【裁定】

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/

尚、管理人本人の「大坂の陣」に関する知識は、司馬遼太郎作「城塞」だけです(爆



面白かった~~

今日は起請文(熊野誓紙)が出てマニアには嬉しい回。
起請文は年月日が大事(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

そういや三河時代の徳川の氏神ってどこになるんだろう。
専門外だから調べようがないや・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)

戦を避けるために頑張る外交僧・板部岡・・・・なんかいい人に見えてきた。
てか、この人は北条征伐の後も生き残るから何かの伏線かもしれん(-ω-)ウーム

きりさん、あなた秀次と信繁にあからさまに差をつけてるけど、大丈夫?
信繁にヤキモチ焼かせる作戦なら、あなた元々意地っ張りだから信繁に気づいてもらえないかもよ( ̄ko ̄)

本多正信が覚えてないととぼけてたけど、板部岡に事実でも「そうです」とは絶対言えない。
言えば主君・徳川家康が北条と真田にダブルスタンダードしたのが晒される。
でも正信が真田に有利なように発言する脚本は、信繁主役のドラマですから(*´m`)

結局、名胡桃が真田、沼田は北条で落着・・・
パパ幸、先祖の墓があるだなんて、よくまぁ咄嗟に出るなぁ(*´pq`)ぷぷぷ

名胡桃城が北条に奪われたということで、真田での軍議に突如乱入する本多忠勝。
観てるコッチもビックリした(@@)
舅を追い出すニーちゃんカッコいい 川* ̄д ̄*川ポッ 

てか佐助が京都と信濃の往復が通常5日が4日になり、幸パパからは真田へ戻るのに3日だ2日だ~だのと、
佐助「死ぬかと思った」って言いそうな場面でワロタ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

この時に北条が京都に上洛して秀吉に拝謁してたら・・・いや、それでも手遅れかな~
裁定直後なら未だしも、だいぶ時機を逃しちゃってるし。
秀吉は戦モードにスイッチ入ってるしネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

あくまで関東覇者のプライドを貫く隠居・氏政を演じる高嶋政伸が(・∀・)イイ!
来週はいよいよ北条征伐だ~次回も楽しみ真田○ (・∀・)

田尻家文書31_大友義鑑袖判知行坪付

坪付とは、領地の土地目録のようなものです。

大友義鑑は坪付(土地目録)に袖判(そでばん)することで領地を安堵したんです。

袖判(そでばん)=文書の袖 (右端) に署した花押。日付の下に花押を書いたものよりも,受取人に対し尊大な書式。
大友氏は上から目線だったようですよ( ̄ko ̄)

日付は天文二年卯月(=4月)廿八(=28)日
つまり、この時点での田尻氏の領地は以下の通りです。

★三池郡の内、田尻12町
★山門郡の内、海津66町、竹井33町、浦6町、波江6町
★三池郡の内岩津27町、大塚12町、
★三潴郡の内神埼分5町5段

三池郡(福岡県大牟田市)の田尻がガチ本貫地です。
一番大きい領地は山門郡(福岡県柳川市)
田尻氏の居城・鷹尾城があったのは山門郡です。

地理関係はジモティじゃないのでザックリですいません^^;

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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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